たじまる 室町-4 但馬の日下部氏族

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
室町薄群青(うすぐんじょう)#5383c3最初のページ戻る次へ

日下部氏族

概要

但馬の古代豪族、日下部(くさかべ)氏から出た氏族。起源にはいくつかの説がある。

  1. 開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)
  2. 孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)

出石神社と並ぶ但馬国の一宮、粟鹿神社の社家は、古代に神部氏が務め、その後日下部系図に見える日下部宿禰であった
八木氏は山名家臣。
越前国を拠点とした朝倉氏はこの出自。応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍に、越前朝倉氏は西軍から細川勝元率いる東軍に属した。

朝倉氏の起源

朝倉氏は、但馬の古族、日下部(くさかべ)氏から出ました。平安時代末期に朝倉宗高?
が但馬国養父郡朝倉に居住し、はじめて朝倉氏を称したといいます。朝倉氏が築いた3つの城(但馬朝倉城跡・但馬朝倉比丘尼城跡・但馬朝倉向山城跡)があります。

越前朝倉氏

数代下って、南北朝時代に広景が、足利方の斯波(シバ)高経の被官となり、越前で戦功を挙げ、越前国坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代となって活躍しています。朝倉氏は広景以後家景の代まで黒丸城を本拠とし、守護代甲斐氏などと争いながら、坂井郡・足羽郡に勢力を伸ばしていきました。甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席。のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになります。

朝倉孝景(英林孝景)が守護代甲斐常治とともに主である斯波義敏と対立し、足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍から細川勝元率いる東軍に属し、越前から甲斐氏を追う。孝景は越前国守護に取り立てられ、一乗谷城に城を構えて戦国大名化に成功しました。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定しました。

義景は京風の文化を一乗谷に移し、足利義昭も一時その庇護受けたほどで、一乗谷文化あるいは朝倉文化の名で山口の大内文化などとともに著名です。

元亀元年、織田信長は朝倉義景を攻めるため兵を越前に進めました。ところが信長の妹お市の方を嫁がせ同盟関係を結んでいたはずの北近江浅井長政が信長に反旗を翻しました。ここにおいて浅井・朝倉は、信長の前に共同の敵として立ち現われることにななりました。この年六月、近江の姉川を挟んでいわゆる姉川の戦いが行われ、義景は一族の景健に兵一万をつけて遣わしましたが敗北してしまいました。

天正元年、信長は、古谷に来ていた義景の浅井援兵を追って越前に侵入し、ついに義景は自害しました。越前に勢力を誇った朝倉氏も、こうして織田信長によって滅ぼされてしまいました。
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太田垣(おおたがき)氏

家紋:木 瓜

(但馬国造日下部氏後裔) *家紋を九枚笹とする説もある。
武家家伝
太田垣氏も、八木氏同様、但馬国造の日下部連の後裔を称する古来からの但馬の名族です。『日下部系図』によると、第37代孝徳天皇-有馬皇子-日下部表米王---建屋太郎光村─石和田光忠─太田垣光保とあって、建屋(たきのや)・石和田・太田垣を同族としています。

『但馬国太田文』には尊勝寺領養父郡建屋荘の下司建屋五郎大夫女子も、同新荘の地頭石和田又太郎光時も、ともに御家人(鎌倉幕府家臣)として見えるから、大田垣氏もこの辺りを本拠とした建屋氏の庶流といえます。

日下部氏の一族である八木・朝倉・奈佐など皆、粟鹿神社を祖神として崇敬し、朝倉氏などはのちに越前に移ってその居城中に越前に粟鹿神社を勧請しています。

山名氏の但馬制圧に協力したことから、朝倉宗家を凌いで強大となり、ついには垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名氏の四天王と呼ばれる隠然たる勢力にまで成長し、丹波・播磨への通路を扼する要衝、朝来郡竹田城を本拠とするに至りました。

延文三年(1358)、祐徳寺に建屋新荘のうち田一段を寄進した太田垣光善、正平十八年(1363)に建屋下司職内の田一段を寄進した実阿(光善の法号かも知れない)などの名がみえ、嘉吉三年(1443)以後竹田城を預かったという太田垣光景、応仁元年(1467)の竹田城主太田垣土佐守、その嫡子新左衛門宗朝、二男新兵衛尉、備前守護代として山名俊豊を擁した太田垣美作入道、その舎弟三河守、同新右衛門大尉、同左京亮らの名が諸書に散見されます。

太田垣氏の台頭

明徳の乱で、但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていきました。いきおい、優秀な人材に対する時熈の期待は高くなりました。

このような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけました。

明徳の乱・応永の乱に活躍して、太田垣氏興隆のもとを築いたのは通泰でした。通泰は太田垣光善の子で、光成の弟と推定される人物です。太田垣氏は明徳の乱に、一族を挙げて山名時熈方に味方して戦りました。乱の過程で通泰が一族を率い活躍したことで、応永七年(1400)、但馬守護代に任ぜられたのでした。このとき、土屋(垣屋)遠江入道も但馬守護代に任ぜられ、二人は管轄地域を分けてその任を遂行したようです。ちなみに、土屋(垣屋)氏は気多郡(今の日高町と旧豊岡市と竹野町の南部分)を管轄し、太田垣通泰は朝来郡と養父郡の南半分を管轄していました。さらに、通泰は翌八年三月、備後守護代にも任ぜられています。

嘉吉元年(1441)、「嘉吉の乱」で赤松氏討伐に功のあった山名氏は播磨守護に補せられ、太田垣誠朝が播磨守護代に任ぜられました。そして備後守護代には一族の者を据え置いたようです。それは美作守宗応でした。宗応は光成系太田垣氏の人物と思われ、いわば太田垣氏の本家筋にあたり、宗応の家は、惣領家となった通泰の子孫が備後へ赴いている間、但馬における太田垣一族の中心となって、その留守を守っていたのでしょう。宗応のあとの備後守護代は、美作守宗収がなっています。

美作守宗収は美作入道と同一人物と考えられ、『翠竹真如集』にみえる法諱を宗収、徳叟と号した人物のようです。若年には山名時熙に可愛がられ、中年には持豊に仕え、晩年には政豊に重用されました。そして、政豊は嫡子俊豊を備後守護に任じたとき、山名俊豊が若年であったため、宗収を守護代に任じて俊豊を補佐させました。宗収はこれに応え、よく山名俊豊を補佐しました。宗収の死後、備後守護代は惣領家から派遣された宗朝の子俊朝が受け継いでいます。

宗収には子宗幸、そして甥に光久がいたと伝えています。また、『日光院文書』にも光朝・時久・氏定・隆定・三河入道浄□・紹悦らの名が見えるが、一般に知られている『太田垣系図』には光朝を除いてその名を欠き、太田垣氏には不明な点が多いようです。
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八木氏

 

三つ盛木瓜/九曜(日下部氏朝倉氏族 右:見聞諸家紋にみえる八木氏の横木瓜紋)
武家家伝 八木氏は、開化天皇の子孫とされる但馬の表米王から数代のち、古族日下部氏から出て養父郡朝倉庄に城を築いた朝倉高清の次男安高(一説に孫)が、但馬国養父郡八木を領して八木氏を称したのが始まりとされています。すなわち、朝倉信高の弟である八木新大夫安高、小佐(養父市八鹿町)次郎太郎、、三郎大夫らが養父郡宿南荘に、それぞれ新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのです。
日下部氏の嫡流は朝倉氏であったようですが、承久の乱において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、朝倉氏の庶流が越前に住み、一乗谷にて守護代に成長しました。但馬では朝倉氏に代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大しました。以後、同地の豪族として成長し、南北朝期には但馬守護山名氏の配下となり国老四家(山名四天王)のひとつと呼ばれました。 見聞諸家紋をみると「横木瓜紋」が日下氏の注記をもって八木氏、太田垣氏の家紋として収録されています。
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八木庄は朝倉庄から数キロ西に位置します。八木城は平安時代末期の康平六年(1063)頃、閉井四郎頼国が源義家から但馬国を与えられ、この地に築城したのが始まりとされています。その後、鎌倉時代初頭の建久五年(1194)に朝倉高清が源頼朝から但馬国を与えられ、八木から東へ約 4.7キロメートル離れた朝倉に城を築きました。やがて、閉井氏と朝倉氏が対立し、朝倉氏が閉井氏を滅ぼします。その後、朝倉高清は第二子の重清を八木城に入れ、八木氏を名乗らせました。以後、八木氏は十五代三百余年にわたって同地に勢力を振るいました。 家系図の壬生本系図によると、宗高の孫、高景の弟、安高が八木に移り、八木氏を名乗りました。安高の弟、信高が浅倉氏を継いでいますが定かではありません。庶家に但馬国では太田垣、養父、小和田、軽部、宿南、奈佐、田公、阿波賀等があり但馬国最大一門となります(壬生本系図)。

信高の三男八木三郎高吉の子に、宿南氏の祖、宿南三郎左衛門能直、寺木七郎高茂、田公八郎右衛門尉高時です。

八木氏は幕府との関係強化につとめ、四代高家は執権北条貞時に、つぎの泰家は北条高時、「元弘の争乱」で幕府が滅亡してのちは将軍足利尊氏に従いました。そして、泰家の子重家は、但馬国守護の山名時氏および時義の重臣として活躍したといいます。しかし、南北朝期から室町時代における八木氏の消息は皆目といっていいほど分からない、というのが実状です。

たとえば、南北朝期、八木荘の隣郷の小佐荘にいた但馬伊達氏の文書のなかにも八木氏は出てきません。ただし、系図だけはしっかりしたものを残しています。同系図は『寛政重修諸家譜』が編集されたとき、八木勘十郎宗直が提出したもので、これには『但馬太田文』に記載されている八木姓の地頭・公文たちの名がすべて載っていて、系譜上の位置も矛盾がないそうです。

八木氏に関する系図以外の史料では、わずかに宗頼・遠秀に関する事蹟がしたためられている「八木遠秀絶筆歌後序」ぐらいです。とはいえ、八木氏は養父郡八木庄に本貫を置き、南北朝初期、山名氏が但馬守護に補せられたのち、その被官となったようです。
●風流の武士 八木宗頼


八木城趾

八木氏の名が史上に現れるのは八木宗頼の代で、室町時代の宝徳(1449)のころから、文明十六年(1484)までの三十五年間です。宗頼は文学も親しむ武人で、毎年正月には漢詩をつくるのを例にしていたといわされています。寛正六年(1465)三月、将軍足利義政臨席の洛北大原野の花見盛会に、主君山名宗全とともに招かれたことが知らされています。また、応仁の乱後に、いわゆる五山僧との間でやりとりされた漢詩に関する史料も残っています。文明十二年(1480)ごろ、主君山名政豊が京都から但馬へ下国したのに従い、同十三年には一時的に但馬守護代となっており、一方、大徳寺の春浦宗熈との交流があったことから、春浦について参禅していたらしい。但馬在国中の宗頼は春浦に詩を寄せ、その詩によると居所に高楼二宇を築造して、宋代の隠者林通にちなむと思われる「月色」「暗香」の字を選んで扁額にしていたことがうかがわされています。このように八木宗頼は、和歌・連歌、そして漢詩のいわゆる和漢に造詣をもった風流の士だったのです。

文明十五年(1483)十二月、山名政豊の軍勢が播磨と但馬の国境真弓峠で、赤松政則の軍を破り南下しました。翌年二月、播磨野口の合戦において、宗頼は北野神像すなわち菅原道真の像を見つけだしました。像を得た宗頼は大いに喜び、相国寺の横川景三に賛辞を求め、子孫に伝えて敬神の範にしようとしたと伝えています。

宗頼の卒去については不明ですが、文明十六年以降、その存在を記す史料が見当たらないこと、のち山名と赤松の争いが激化し、延徳から明応のころ(1489~1500)になると子の豊賀が史料に現れてくる。おそらく、その間の数年のうちに宗頼は亡くなったものと思わされています。

八木氏歴代のなかで、とくに宗頼に史料が多く見られるのは、かれの教養が高く和漢に対する造詣も深く、交流をもつ人々に風流な公家や僧侶がいたからであろう。しかし、かれの作った作品が多かったにもかかわらず、その筆跡が伝わっていないのは残念なことです。

宿南(しゅくなみ)氏

三つ盛木瓜(日下部姓八木氏族)
武家列伝

 

宿南氏の祖という三郎左衛門能直は、八木新大夫安高の孫にあたり、養父郡宿南庄(養父市八鹿町宿南)に宿南三郎左衛門能直(初代?)の長男重直を宿南庄に置いていましたが、康永年間頃(1342-45)、宿南太郎佐衛門信直によって築城し、地頭館を山に移したといわれ、田中神社附近に居館址が残る。宿南城に拠って中世の但馬を生きた。

宿南氏は朝倉氏、八木氏、太田垣氏らと同じく、古代豪族日下部氏の一族です。日下部氏は孝徳天皇の皇子表米親王を祖として朝倉・宿南氏をはじめ八木、太田垣、奈佐、三方、田公の諸氏が分出、一族は但馬地方に繁衍しました。

嫡流は朝倉氏でしたが、承久の乱(1221)において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大しました。すなわち、信高の兄弟である八木新大夫安高、小佐(おざ)次郎太郎、土田(はんだ)三郎大夫らが新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのです。宿南氏の祖という三郎左衛門能直は、新大夫安高の孫にあたり、養父郡宿南庄に館を構えたといいます。いまも宿南野の一角に「土居の内」と呼ばれる字があり、周辺にはかつて地頭館があったことをうかがわせる地名が残っています。
宿南氏は八木一族のなかにあって、ただひとり関東御家人でした。
宿南氏の軌跡

重直の孫知直の代に元弘の変(1321)に遭遇、知直は小佐郷の伊達氏とともに千種忠顕に属して転戦したことが知られます。やがて、鎌倉幕府が滅び建武の新政が成りましたが、足利尊氏の謀叛によって南北朝の動乱時代となりました。知直は宮方に属して、建武二年(1335)新田義貞を大将とする尊氏討伐軍に加わって東下しました。そして、箱根山における足利勢との戦いで、あえなく討死しました。

その後、南北朝の内乱は半世紀にわたって続き、但馬でも両軍の戦いが展開されました。宿南氏は南朝方として行動し、北朝方の討伐戦によって北朝方の手に落ちた宿南庄は、矢野右京亮が地頭に任じられました。所領を失った宿南氏は知直に代わって父の信直が一族を指揮し、やがて北朝方に転じて活躍、失った宿南庄の地頭職を回復しました。

尊氏と弟直義が争った観応の擾乱に際しては尊氏方として行動、観応の擾乱が終熄したあとは、但馬守護となった山名時氏に従ったようです。時氏ははじめ尊氏方でっしたが、その後、直義の子直冬に味方して南朝方に転じました。宿南氏もこれに従ったため、延文元年(1356)、尊氏方の伊達氏の攻撃を受けました。ときの宿南氏の当主は、知直の子実直であったようで、よく伊達勢の攻撃を防戦しています。

その後の南北朝の動乱のなかで、宿南氏がどのように行動したかは、必ずしも明確ではありません。宿南氏系図を見ると、氏実─朝栄─忠実と続き、宿南城に拠ってよく時代を生き抜いたようです。宿南氏の名がふたたび記録にあらわれるのは、応仁の乱において、山名宗全の催促に応じて上洛した山名家臣団のなかにみえる宿南左京です。左京は忠実の嫡男左京亮続弘と思われ、続弘は八木氏から入って宿南氏を継いだ人物とされています。忠実には実子持実がいましたが、一族で山名氏の重臣である八木氏から養子を迎えることで宿南氏の安泰を図ったものでしょう。

ちなみに、宿南氏は八木氏とは代々密接な関係をもっていたことが「八木氏系図」からも伺われます。八木氏の系図のなかに宿南氏の系図が併記されており、しかも、兄弟の少ない八木氏とは対照的に、それぞれの代ごとの兄弟も書き込まれているのです。おそらく、一族の少ない八木氏を支えるかたちで宿南氏が存在し、それゆえに八木氏の系図に同族的扱いとして記されたものと思われます。
但馬征伐と宿南城

田公氏(たきみし)

家紋:木 瓜(日下部氏流)

*日下部氏の代表紋として掲載。
田公氏の紋は不詳。 武家列伝
七美(美方郡東部)村岡・城主。田公氏は但馬国の日下部氏族八木氏から別れた中世豪族で、その出自は、孝徳天皇の皇子表米親王の末裔が田公郷に土着して田公氏を名乗ったものといい、『和名抄』の二方郡田公郷、『但馬太田文』の二方郡田公御厨を本拠とし、田公を称するようになりました。すなわち、太田垣・八木・朝倉の諸氏と同じく日下部一族ということになります。八木系図によると、朝倉高清の長男・安高の三男・高吉の四男に田公氏を名乗った田公八郎右衛門尉高時がいます。美方町氏所収系図によると、朝倉宗高━高清の子に田公四郎高経(たかつね)が現れてきます。山名氏が山陰諸国を制圧した南北朝期にその被官となり、戦国時代、山名誠通のころには因幡守護代となった田公遠江守高時(時高とも)、同次郎左衛門尉清高がみえ、代々、因幡国八上郡日下部城を居城にしたといい、いまも因幡に田公姓があります。

田公氏の系図については異同が多いですが、孝徳天皇の皇子表米親王の子孫で、朝倉高清から出ていることは、諸系図一致しています。とはいえ、田公氏の系図ならびに居住地については疑問が非常に多いといわざるをえないのです。

田公氏は、田公氏の小代における城跡も明確ではないようですし、墓所もそれらしいものが見当たらないようです。ただ、居城である城山城(香美町小代区忠宮)は天正五年(1578)に落城したため、田公氏の歴史が分からなくなったのでしょう。また、七釜(しちかま)城主であった田公氏嫡流も元亀年中頃(1570~72)まで活躍していましたが、その後の動向は不明です。

田公氏の軌跡田公氏の祖といわれる朝倉高清は、承久三年(1221)に没したといい、高清から数えて八代目が綱典とされていますが、居城が落城した天正五年(1577)までの間は、三百五十余年となり、系図に記される世代は二から三人の名前が脱落したものと思われます。
応仁の乱における西軍の総帥山名持豊の命令に従って、京都に集結した山名軍のなかに田公美作守・同能登守らの名が見えています。文明十五年(1483)からの山名政豊の播磨侵攻に田公肥後守豊職が従軍し、垣屋越前守らと播磨蔭木城を守っていましたが、同十七年三月、赤松政則に急襲され垣屋一族多数が討死して城は落城しました。田公肥後守はかろうじて城を脱出して、政豊の拠る坂本城に急を報じましたが、戦いはすでに終わっていて救援することができませんでしました。長享二年(1488)八月、六年間にわたる播磨遠征に疲れた山名政豊は、兵を収めて但馬に撤退しようとしました。田公肥後守父子と政豊の馬廻衆がこれに同調しましたが、垣屋氏以下の諸将は戦闘継続を主張し、政豊は孤立して田公父子と馬廻衆に守られて播磨を脱出しました。政豊の敗戦を問責し、嫡子俊豊擁立を望む諸将の動きに対して、田公父子は政豊を奉じて木崎城(のちの豊岡城)に拠って、最後まで山名政豊を支持しました。
やがて、守護権力は弱体化し、守護職も有名無実化していきました。それでも、政豊は幕府内である程度の力を保持していたようですが、明応八年(1499)に没し、次男致豊、三男誠豊が家督を継承しました。そして、田公氏は勢力を失っていきました。

 

久須部村から流れる川と、秋岡村から流れる湯舟川にはさまれた小高い岡の上にあったのが大谷城です。小代(おろ)城とも呼ばれました。建久年間に朝倉景雲が城を築きました。正応年間に田公清高が親方になり、九代続きましたが天正五年十月、綱豊入道秋庭のときに落城しました。この城主が現在の村岡町内に出城をつくっています。大谷城は、七美(ひつみ)の古城の中心であるといえます。
支城として、村岡区総合庁舎の裏山、観音山に大谷城主田公氏の一族の高堂城がありました。
祖岡村(けびおかむら)に鎌倉時代温泉庄の奈良宗光の弟の正員(まさかず)が築城したと伝えられる祖岡城があります。建久のころ(1190~1198)には養父郡八木氏の一族高茂の城となり、八木氏のあと康永年間(1342~1344)以後は中村氏の城となって、大谷城主田公氏の支城となりました。天正八年(1580)六月十八日、秀吉(実勢部隊は秀長)が因幡(鳥取県)に攻め込んだ時に、この城に休憩し、道案内までしたのですが、天正十年八月十五日夜、入浴しているところを刺され、その後絶えたといわれています。

祖岡城から川に沿って東に三キロほど行ったところ(国道9号線春来峠付近)、長板村に祖岡城の支城、長板城があり、これも田公氏の城です。天正五年(1577)十月、羽柴秀吉の家臣、藤堂孝虎が大谷城を攻めたとき、長板城を捨て大谷城とともに秀吉方に戦いをいどみましたが力つきて敗れ、それ以後廃城となりました。

戦国時代後期、入道して秋庭と称した田公綱典は、天正五年(1577)羽柴秀吉(指揮者は秀長)の第一回但馬侵攻にあたって、本城である城山城、および支城である村岡の城を捨てて、因幡国気多郡宮吉城の同族田公新介高家を頼って逃走しました。その後、山名豊国に従って羽柴軍と戦い、豊国が羽柴軍に降って鳥取城攻囲軍に加わると、それに従軍し、のちに豊国が七美郡を領するようになると、村岡に戻り、豊国に仕えました。以後執事となり、長男の澄典も山名氏に仕えて用人を勤めました。
禅のお坊さんとして有名な沢庵和尚は、綱豊の次男宗彰ですから美方町出身となります。
ところが、出石方面では山名の家老秋庭能登守綱典という者がいました。これは三浦大介義昭の弟義行が相模国高座郡秋庭に住み、地名をとって秋庭を号したといいいます。あわただしい戦国末期の世相のなかで秋庭能登守は出石郡の小坂村大谷に引隠して帰農しています。

いずれにしろ、沢庵宗彭は但馬に生まれたことは間違いないようですが、田公氏の生まれか、平姓秋庭氏の生まれかは異論が多いところです。しかし、沢庵宗彭は平姓秋庭氏の生まれとするのが通説のようです。

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室町-3 垣屋(かきや)氏

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

垣屋(かきや)氏

概要

垣屋氏(かきやうじ)は、桓武平氏の分家であり、のちに山名氏、脇坂氏の家老の家系です。以下では但馬垣屋氏について書きます。

垣屋氏の起源


七 曜 (桓武平氏土屋氏流?)
武家家伝さん
鎌倉時代から室町時代になり、但馬でも守護が大名として国を治める武家社会に移行します。但馬国では山名氏が山名四天王と呼ばれる重鎮たちと治めることとなりました。出石に本拠を構える山名氏と豊岡を治める田結庄(たいのしょう)氏、朝来郡を治める太田垣氏、養父郡を治める八木氏、そして気多・美含郡を治めたのが垣屋氏です。垣屋氏は山名四天王の中で唯一の山名家直参です。

垣屋氏は山名氏同様、但馬生え抜きの武士ではありません。垣屋氏は山名氏の支流ともいわれ、山名時氏(ときうじ)に従って関東から移り住んだ山名氏譜代の家臣といわれてきました。しかし、山名時氏時代に垣屋氏の名前は表われていません。それは、もともと垣屋氏は土屋姓だったからです。「土屋越中前司豊春寿像賛」は、天隠龍沢がしたためたものですが、そのなかで豊春について「人は垣屋と称するが、自らは土屋を号しています。また源氏の山名氏に仕えていますが、本姓は平氏なのだといっている」と記しています。

土屋氏は、相模国大住郡土屋邑を本貫地とする関東の武門の名門の一つ土屋党です。垣屋氏は土屋氏分流のひとつで、時氏の時代は土屋姓を称していたのでしょう。ちなみに関東から山名時氏に従って、但馬に移り住んだ土屋党は垣屋氏だけではありません。『明徳記』によれば、山名満幸の手に属して内野で討死した土屋党が五十三人もいたと記しています。

山名時氏は自らを「初め元弘より以往は、ただ、民百姓の如くにして、上野の山名という所より出侍しかば、渡世の悲しさも、身の程も知りにき」と言っています。つまり足利と縁が生じ五ヶ国の守護に栄進しますが、それ以前は関東の地にあって農作業に明け暮れている身分だったのです。素直に自分の前歴を告白していますが、因幡の垣屋氏に伝来している『垣屋系図』には、垣屋は自分の出自を誇示しようとして、千葉の本流だと称し、系図の上で名族と関係あるらしく見せようとして、つじつまの合わない粉飾をしているといいます。
しかし山名時氏に見えるように小百姓だったかといえば、そうとは言い切れない面もあります。『垣屋系図』によると垣屋家は、典型的な桓武平氏の分家で、千葉氏の分流だということになっています。高望王の7代後にあたる平継遠が上総に移り住んで、「土屋」から「垣屋」と名乗ったことが始まりとされています。山名氏、脇坂氏の家老の家系です。「垣屋」は時代によって「柿屋」とも「垣谷」とも書きますが、約180年の間に世代は十六代を数えます。180年間に十六世代ということは、一世代の平均はわずか十二年ということになるので、系図は無理なこじつけをしているといわれても仕方がありません。

『垣屋系図』以外に、紀伊の垣屋家のものは、先祖を平氏となし、伯耆の人と記しているし、龍野の垣屋氏のものは、本姓は源氏で、山名が但馬守護となって但馬に居着いてから、分流したものだといい、異本が多いようです。
さて、観応の乱と呼ばれる足利一門の内紛が、一応のけりがついたのが1352(観応三)年です。この紛糾の間に、今川頼貞は、但馬から足利直義党を完全に追い落としました。守護となった頼貞は、三方楽々前(ササノクマ)を拠点としていたらしいです。楽々前は既に鎌倉時代には、但馬守護太田氏の守護領として記録に現れ、足利尊氏によって補任された今川頼貞が、安田修理氏義に楽々前南荘の一部を与え地頭職としました。

しかし、やがて但馬は完全に山名時氏のものとなっていきます。安田氏が尊氏党に属していち早く但馬入りをなし、足がかりを得ていたのに対して、おそらく同郷であったと思われる垣屋は、山名時氏に付して但馬にやって来ています。『垣屋系図』によると、その人は垣屋重教で、ます城崎郡奈佐荘亀ヶ崎城主となりました。奈佐岩井荘に養寿院を開基しました。

ところで亀ヶ崎という地名は、現在豊岡市五荘地区の南の山鼻に残っていて、本来は大浜荘の中と考えた方がよい場所です。垣屋重教が山名時氏に従って但馬入りをした時、最初の基地となったのは、この円山川と奈佐川の合流点付近の土地でした。
後になって垣屋続成が安田千松丸に大浜荘半分を与えています。
時氏が死んで、山名時義が家督を継ぎ、出石の此盗山(こぬすみやま)に居城します(山名師義(もろよし)とも)。この代に至って初めて山名氏が但馬を完全掌握します。山名の勢威は急速に伸び、一族の有する所領は山陰をはじめ十一ヶ国を数え、世に六分一殿と称せられほどになります。
垣屋氏は、但馬八木氏と縁戚関係にありました。戦国末期、垣屋信貞は八木豊信の婿養子となり、八木氏の家督を継いでいます。

室町時代前期


楽々前城跡
城主:垣屋弾正~遠江入道(熙忠)・越前守熙知

写真左側斜面。後方は蘇武岳。ここから当方の宵田城まで尾根づたいにつながる。戦後まで楽々前城から宵田城までに隧道で結ばれていたが、関電の道場ダム・岩中発電所建設工事の際に消滅してしまった。康応元年(1389)、山名時義が死に、23歳で子の時熙(ときひろ)が宗家を継ぎました。山名の強大を嫌った足利義満は、一族の時熙、氏幸と満幸との内紛を利用して、山名氏清らを挑発したので、氏清らが明徳二年(1391)の年末、挙兵します(明徳の乱)。義満は直ちに細川、畠山、大内氏らに命じて討伐させました。時熙は、敵方となった同族の山名と区別するために、篠の葉を旗竿の上に付けて戦いました。垣屋弾正(頼忠)は、山名時熙に従って参戦し、ついに討ち死にします。

垣屋弾正は、「合戦の勝敗はともかく、明日の軍に、一番に討ち死にを仕えるべし。後の事は、幸福丸という九歳の子供を引き立てて欲しい」と述べ、弥陀の名号と阿字本来の曼陀羅を錦の袋に入れて死出の装束をなしていました。翌日の晦日の合戦に、時熙主従八騎が取り囲まれて危なく見えたところに、垣屋は、滑良兵庫と共に突入し、身代わりとなって戦死しました。この戦いで敗れ、十一ヶ国を有した山名の所領は分解し、山名は但馬・因幡・伯耆の三ヵ国を残すのみとなりました。この乱を機に、山名宗家は時熙の系に固定し、笹葉の下に「○二」を配した家紋を、宗家を誇示する標識としました。
時熙の分国が但馬一国となったということは、かえって従来以上に緊密に但馬を掌握することになりました。

室町時代後期


鶴ヶ峰 神鍋方面へ車で向かうと目前に目立つ山が別名三方富士
鶴ヶ峰城(亀城)があった。

明徳の乱以来、山名時熈(ときひろ)は垣屋弾正時忠の忠節に感銘し、その子幸福丸(のちの垣屋隆国)を気多郡代に任じました。

宵田城はそれより前に築城されていましたが、郡のほぼ中央にあり最適の地であったと思われます。
日高(高生・たこう)平野の南に突き出た佐田連山の東端にある山城で、北に祢布城(にょうじょう)・国分寺城、北北西に水生(みずのお)城、北西に伊福(ゆう)城、日高・高生田が一面に見渡せ、岩山の急斜面があり、ふもとを流れる円山川の支流稲葉川が自然の堀となって、最高の条件に恵まれていました。稲葉川が東向きから急に南方に向きを変えるところにつくられており、気多郡の要として重要な位置にあります。楽々前城からのなだらかな稜線が続く形から南龍城とも呼ばれました。

幸福丸は播磨守隆国と名を改め、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前(ささのくま)城を築き、自らはここに移り住み、宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主にしました。
本丸の跡は300mの頂上にありましたが、今は荒れ果てていて雑木が生い茂っています。ここから本拠の楽々前(ささのくま)城まで尾根づたいにつながっていたといわれています。

佐田から宵田までに道場の風穴といわれるところがあり、道場の人々は、夏ここを冷蔵庫の代用に使ったといわれています。ところが、昭和30年12月、宵田城近くに岩中発電所工事が進められ、昭和31年12月に完成、道場から水を取り、山の中を水道トンネルにしました。この工事中、城の抜け穴と思われる穴を埋めたところ、この風穴は冷たい風がぴたりと止まったそうです。城の抜け穴を通ってきた冷風だったのではないでしょうか。考古的な価値がさけばれなかった頃ですので、今となっては悔やまれます。

着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなります。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てました。
隆国の子である越前守熙続(長男満成)は三方地区楽々前に、 越中守熙知(次男国重)は平野部に近い宵田城に、駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡竹野轟城を本拠とするようになります。三兄弟のうち、長子熙続、二子熙知はともに主君山名時熙の偏諱(へんき)*1を受けたもので、垣屋氏に対する時熙の信頼がいかに篤かったかを示すものです。

嘉吉の乱の恩賞で山名宗全が播磨守護職を賜ったとき、その代官として播磨守護代に任命されたのは垣屋越前守熙続であった。熙続の名は『但馬大岡寺文書』にもみえる。しかし『校補但馬考』がもっとも整然としているとする『因幡垣屋系図』には越中守豊春も越前守熙続もその名を欠いており、おそらく、この頃の垣屋氏は多くの庶子家を抱える巨大な武士団を構成していたようです。何はともあれ、垣屋が山名の守護代を勤める地位にのし上がっていることは注目しなければなりません。

*1偏諱(へんき)…上位者が下位者に諱(いみな)(本名)を一字与える事を偏諱の下賜と言い、中世以降、公家、武家社会において広く行われた。

隆国寺

垣屋家菩提寺 布金山隆国寺

隆国寺

宗派 曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏隆国寺は、室町時代の開基で、山名の四天王筆頭といわれた垣屋播磨守隆国公の菩提寺と伝わっています。実質開基ともいわれる光成公は、策彦周良和尚から、天正4年(1576)に「悦岩」道号記を授かっています。策彦和尚は遣明使節団の団長もつとめており、中国から持ち帰った牡丹を和尚から道号記とともに贈られたのが、 隆国寺と牡丹の縁の始まりといわれています。元和9年(1623)に金山より現在に移された。

何時、誰の手によって造られたかはっきりしありません。『但馬考』は、楽々前城主播磨守隆国の開基で、初め楽々前の城門にあり、泰孝山隆国寺と号していましたが、楽々前落城の後、寺を阿瀬谷金山に遷し、布金山隆国寺と号したと記しています。『三方村誌稿』も、隆国開基説を採用して、むかし、楽々前城主播磨守隆国、一寺を創立し、安養山西方寺と称していたが、楽々前落城の後、その支族なる、知見村垣谷氏の祖、之を羽尻村の支郷、金山字寺谷に移した。時に鉱山盛時に当り、砂金を産出したので布金山長者峯と号し、開基の名をとって隆国寺と改めたという。これに対して『垣屋系図』は、隆国の子、満成が、宝徳元年(1449)、金山村に隆国寺を建立し、また別に安養山西方寺も開基したとしています。

『日高町史』ではさらにこう記しています。「隆国寺は、垣屋満成が父母のために建てた寺ではないようだし、
それかといって隆国が建てた寺だとも言い切れない面もあります。それと言うのも、垣屋隆国その人の名前が出てくるのは、『垣屋系図』だけであって、隆国の存世を裏付ける資料が、何一つとして見いだせないからだ。とはいえ、実在説も一方でささやかれています。それは『但馬考』の説で、隆国の幼名を幸福丸だと考えていることがそれだ。即ち、死出への戦いに当たって、ただ一つ気にしたのは、九歳になるわが子の幸福丸の将来であったと、『明徳記』は記しています。嘉吉元年(1441)五十八歳で死したとも記載しているから、逆算すれば、父、時忠が死んだ明徳二年(1391)は、丁度九歳ということになるので、但馬考では明徳記に記載する九歳の幸福丸は、この隆国の幼名だと考えるのです。」

阿瀬金銀山

垣屋家が山名四天王の中でも最も栄えたのは、前出の明徳2年(1391年)明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清・山名満幸に属したのに対し、山名時熙方に属したのは垣屋氏だけだったことが発端とされています。その結果、垣屋氏は躍進を遂げることになります。このとき、垣屋家は10万石以上を手にしたとされており、これを垣屋氏の最盛期であると判定されます。垣屋は弾正の子、隆国になって、山名の所領、三方荘の楽々前城主となりますが、恐らく明徳の乱の垣屋弾正の忠死に報いるため、隆国に楽々前の地をあてがったとしたら頷けます。

さて、所領の三方荘阿瀬谷から金や銀が発見されました。その時期については、異説があって一定しませんが、永禄五年(1562)、阿瀬谷のクワザコから銀が産出したといい、金の発見は文禄四年(1595)、川底に光る砂金の輝きを見つけたのが機となったとも伝えています。しかし、それより約二百年前の応永五年(1398)に既に発見されていたとも言われています。この応永五年説が本当だとすると、これは垣屋にとって重大で幸運な事件でした。この地域を領有することになり、幸運にも金銀山を支配下に治めたということで、計り知れない財源を提供することとなりました。

のちに、但馬守護の山名氏や、家臣太田垣氏が、生野銀山の経営に手を染めるのは、記録では、天文十一年(1542)といいますから、それに先立つ130年前に、垣屋は銀山経営に乗り出していたことになります。何はともあれこの鉱山資源を背景にして、垣屋は山名の最高家臣の地位を得るし、金山の地に、布金山隆国寺を移建することができました。生野鉱山が発見されたのは807年(大同2年)と伝えられていますが、詳しい文献資料がなく、正確な時期は不明です。 天文11年(1542)、「銀山旧記」によると、山名祐豊が銀山を支配し生野城を築き盛んに操業したとされています。

駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡椒荘(はじかみのしょう)に竹野轟(とどろき)城を本拠とするようになりました。これは神鍋山を背に北部但馬に対する防衛拠点であると同時に、椒に段金山鉱山、金原鉱山が見つかったことにも関係あるのではないでしょうか。

伊福(ゆう=鶴岡)の大庄屋の書記をしていた赤木一郎右衛門光明が書いた「御代官様歴代記」のなかに、永禄五年(1562)に足利十三代将軍義輝に金を献上したことが記されています。さらに、天文十一年(1542)に生野銀山が、天正元年(1573)に中瀬金山のことが記録されています。したがって、金山の発展に目をつけたのが垣屋弾正満成(みつしげ)だと記録の通りに考えると、百年余りの差がありますが、金がぼつぼつ出ていたので、ここに寺を建立したことも考えられます。この時代には、将軍をはじめ大名、小名がそれぞれ寺院を建てていますが、時代の風潮であったと考えられます。

垣屋氏と山名氏の対立

●嘉吉の乱と山名氏の衰退

山名氏は嘉吉の乱で守護領国となっていた播磨や備前では、応仁の乱を期に回復した赤松政則が占拠している状況にあいました。山名氏と赤松氏はいわば犬猿の仲です。山名政豊は、旧領回復のため、文明15年(1483年)に赤松家の内紛に乗じて播磨に出兵します。当初は真弓峠の戦いで大勝したものの、文明17年(1485年)以降は劣勢となり、長享2年(1488年)には政則に敗れて(坂本の戦い)、播磨における影響力を失うに至りました。

赤松は六千、山名は三万の軍隊を投入していました。圧倒的な大軍にかかわらず、山名が負けたのは、布陣を誤り、垣屋の陣所、森岡城が攻撃を受けている時に、山名政豊は遠く離れた書写坂本城(姫路市)にいて、援軍を出すすべも及ばなかったためです。その後も播磨で山名と赤松との間に一進一退の戦いを展開するが、文明十八年(1486)、英賀の戦いには、山名勢は敗北、垣屋越中守、惣右衛門など数十人が討ち死にしてしまいました。

つまり、前年の戦いに次いで良国のみが一人残されました。先に文明8・9・12年にわたって、隆国の三子が相次いで他界しました。

さらに同年四月、書写坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められました。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていきました。

窮地に陥った政豊は但馬への帰還を願いましたが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めました。さらに嫡男の俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔りました。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となりました。但馬国衆まもとより俊豊を擁する備後国衆らは背を向けました。なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代の垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じていました。備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督として振舞っていたようです。ところが、明応の政変によって将軍足利義材が失脚、義材に従って河内に出陣していた俊豊は窮地に陥りました。ただちに但馬に帰った俊豊でしたが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となっていました。
垣屋続成は明応二年(1493)、山名俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として実質的に山名領国の経営を担うようになります。

永正九年(1512)居城を楽々前城から鶴ケ峰城(日高町観音寺)に移し、ここを垣屋本流の拠点としました。楽々前城よりも標高が高く、山名氏の本城をはじめ四方が見渡せるからでしょう。こうした中、轟城主系の垣屋には戦死者が出なかったのが、せめてもの救いでした。
天正になると、山名氏の衰退とともに、西に毛利氏、東に織田氏が台頭すると、四天王たちは独立色を強め、二派に分かれ抗争を繰り広げ、山名氏の衰退をさらに加速させました。
垣屋続成の子が播磨守光成で、光成は八木・田公・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って主君である山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁立して但馬の領国経営の実権を握ります。以後、垣屋光成・太田垣輝延・八木豊信・田結庄是義等四頭が割拠し但馬を四分割しました。
この後、「野田合戦」が起きます。

参考略系図
				 
	   7代後  |垣屋
平 高望・・平 継遠・・重 教━━━時 忠━━━┓
	       |豊岡市史所蔵『垣屋系図』┃
	    			    ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃	  楽々前城主
┃播磨守  垣屋弾正 筑後守  越前守  越前守
┗隆 国━┳満 成━┳政 忠━┳続 成━┳光 成━┳恒 総
(幸福丸)┃    ┃宗 忠 ┃鶴ヶ峰城主    ┃
	 ┃    ┃    ┗氏 続 ┣信 貞 ┣政 氏
	 ┃    ┃         ┃    ┃
     ┃    ┗豊 成━━豊 知 ┗峰 定 ┗忠 次
     ┃
     ┃宵田城主     ┏某    後楽々前城主
     ┃越中守      ┃     筑後守 隠岐守
     ┣国 重━┳遠 忠━┻良 国━━忠 顕━国 宣━忠 平
     ┃    ┃              峯 信
     ┃    ┗孝 知
     ┃
	 ┃竹野轟城主
	 ┣国 時━┳豊小解━━豊 続━━宗 時━┳豊 実
	 ┃    ┃			     ┃
	 ┗永 喜 ┗豊 経		     ┗兵衛左衛門
	  知見村分


垣屋氏の系図は、『校補但馬考』に「因幡垣屋系図」「紀伊垣屋系図」が収められている。前者は、浦冨の桐山城主垣屋恒総の孫重政が関ヶ原合戦後因幡に帰農し、その子孫が作成したもので、桓武平氏を称している。後者は、同じ垣屋恒総の孫吉綱(光重)が紀州藩に仕え、その子孫が作成したものである。また、轟城主垣屋駿河守家の子孫は、江戸時代に至って龍野藩脇坂家に仕え、駿河守系の系図は「龍野垣屋系図」といわれ、本姓源氏で山名氏の支流としている。

これらのなかで、従来もっとも信頼がおかれ、但馬内の多くの史書に採用されているのが『因幡垣屋系図』である。ところが、この系図も含めて垣屋氏系図全部に共通していることは、第一級古文書史料上にみえる垣屋姓の人物の名前がほとんど見られないことである。これに対し、『校補但馬考』にも採用されていないもうひとつの「紀州垣屋系図」がある。こちらの系図に記されている人名は、文書史料上の名前とよく合致している。この系図は日高町の井垣寿一郎が、和歌山県に照会して入手したもので『但馬志料』に収められた。しかし、古代までさかのぼる系譜でなかったことから『校補但馬考』には採用されなかったといわれる。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

室町-2 守護大名 山名(やまな)氏

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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守護大名 山名(やまな)氏

守護 山名氏垣屋氏太田垣氏八木氏田公氏宿南氏
田結庄氏塩冶氏篠部氏丹生氏長氏下津屋氏磯部氏ほか家臣但馬の鉱山但馬征伐大航海時代と世界経済

概 要

国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する守護大名の時代に入ります。荘園・公領に在住する民衆は、村落を形成し、自立を指向していきました。このような村落を惣村といいます。畿内では惣村の形成が著しく、民衆の団結・自立の傾向が強かったのでう。東北・関東・九州ではより広い荘園・公領単位でのゆるやかな村落が形成され、これを郷村と呼ぶこともあります。これら惣村・郷村は高い自治能力を醸成していき、荘園領主から直接、年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が行われることもありました。守護大名の権限強化と惣村・郷村の自立とによって、荘園は次第に解体への道を進んでいくこととなりました。
目次

  1. 山名氏の起源
  2. 南北朝時代と四職
  3. 六分一殿
  4. 此隅山城
  5. 明徳の乱と山名氏の再起
  6. 応永の乱
  7. 生野城

但馬山名勢力図 クリック拡大

山名氏の起源

二つ引両/桐に笹(清和源氏新田氏流)
■山名氏系図
 山名氏は清和源氏の名門・新田氏の一族とされ、新田氏の祖である新田義重の長男、三郎義範(または太郎とも)が本宗を継承せずに上野国多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)に住して山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称して山名氏の祖(山名氏初代)となったとされます。
義範は『平家物語』にみえる山名次郎範義、『源平盛衰記』に山名太郎義範と記されている人物と同一人であろうとされています。さらに『東鑑』にも山名冠者義範の名が見えます。義範は源平の争乱期にあって源氏方として活躍、「平氏追討源氏受領六人」の一人として伊豆守に任じられました。
源姓山名氏の場合、鎌倉幕府草創期に初代義範が活躍したものの、以後、歴史の表面にはほとんどあらわれてこない。おそらく、里見・大井田・大島氏らの新田一族諸氏とともに新田氏を惣領として仰ぎ、多胡郡の領地経営に汗を流していたのであろう。鎌倉時代には、早くから源頼朝に従いて御家人となります(異説では岩松氏と共に足利一門ともいわれるが、それが間違いとも誤りともされるが、真偽の程は謎のままである)。源氏将軍家が三代で断絶してのちの幕府政治は、執権北条氏が次第に実権を掌握していきました。鎌倉時代中期を過ぎるころになると、北条得宗家の専制政治が行われるようになり、幕府創業に活躍した御家人の多くが滅亡あるいは没落していきました。源氏一門では足利氏が勢力を保つばかりで、山名氏の惣領新田氏は衰退を余儀なくされていきました。山名時氏は「初め元弘より以往は、ただ、民百姓の如くにして、上野の山名という所より出侍しかば、渡世の悲しさも、身の程も知りにき」と言っています。つまり足利と縁が生じ五ヶ国の守護に栄進したが、それ以前は関東の地にあって農作業に明け暮れている身分だったのである。素直に自分の前歴を告白しています。しかし、今川貞世(了俊)の著した『難太平記』によれば、民百姓の暮らしをしていたとされていますが、山名氏は鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は、今川貞世がライバルである山名氏を貶めたものと考えられます。山名氏が大きく飛躍するきっかけとなったのは、元弘・建武の争乱でありました。ときの当主山名政氏と嫡男時氏は惣領新田義貞に従って行動したようです。
元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡、翌建武元年に後醍醐天皇の親政による建武の新政が発足しました。倒幕の功労者である新田義貞が勇躍して上洛すると、時氏ら山名一族もそれに従ったようです。ところが、新政の施策は武士らの反発をかい、一方の倒幕の功労者である足利尊氏に武士の期待が寄せられました。やがて、北条氏残党による中先代の乱が起ると、尊氏は天皇の許しを得ないまま東国に下向、乱を鎮圧すると鎌倉に居坐ってしまいました。天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を発向、尊氏は箱根竹の下において官軍を迎え撃ちました。この戦いにおいて、山名政氏・時氏父子は義貞を離れて尊氏に味方して奮戦、尊氏方の勝利に大きく貢献しました。かくして、山名氏は新政に叛旗を翻した尊氏に従って上洛、尊氏が北畠顕家軍に敗れて九州に奔ると、それに従って尊氏の信頼をかちとりました。九州で再起をはたした尊氏が上洛の軍を起こすと、時氏は一方の将として従軍、湊川の合戦、新田義貞軍との戦いに活躍しました。尊氏が京都を制圧すると後醍醐天皇は吉野に奔って南朝をひらかれ、尊氏は北朝を立てて足利幕府を開きました。(南北朝の対立)。建武四年(1337)、時氏の一連の軍功に対して、尊氏は伯耆守護に補任することで報いました。かくして、時氏は山名氏発展の端緒を掴んだのです。二代将軍足利義詮の時代に切り取った領国の安堵を条件に室町幕府に帰順。時氏は因幡国・伯耆国・丹波国・丹後国・美作国の五カ国の守護となりました。

南北朝時代と四職

 暦応四年(1341)、幕府の重臣で出雲・隠岐両国の守護職塩冶(えんや)高貞が尊氏に謀反を起こし、領国に走るという事件が起りました。時氏は嫡男の師義とともに高貞を追撃すると出雲において高貞を誅しました。その功績によって、時氏は出雲・隠岐、さらに丹後の守護職に補任されました。高貞の謀反は、幕府執事高師直(こうのうじなお)が高貞の妻に想いを寄せたことが原因といわれますが、真相は不明です。その後、出雲・隠岐守護職は高貞と同族である佐々木高氏(道誉)が任じられ、時氏は丹波守護に補任されました。そして、貞和二年(1345)には侍所の頭人(所司)に任じられ、山名氏は赤松・一色・京極氏と並んで四職の一に数えられる幕府重臣へと成り上がりました。

やがて尊氏の弟直義と執事師直の対立から、幕府は直義派と師直=尊氏派とに二分され、観応元年(1350)、観応の擾乱が勃発しました。擾乱は師直の敗北、さらに直義の死によって終息したが、幕府内部の抗争により時代はさらに混乱の度を深めていきました。はじめ時氏は尊氏に味方していましたが、のちに直義派に転じ、直義が謀殺されたときは任国の伯耆に戻っていました。時氏は義詮方の重鎮である出雲守護職佐々木道誉をたのんで尊氏方への復帰を画策しましたが、道誉の態度はすげなく、腹をくくった時氏・師義らは出雲に侵攻すると出雲と隠岐を制圧しました。

山陰地方に大勢力を築いた時氏らは、南朝方と呼応して文和二年(1353)には京に攻め入り、京を支配下におきました。そして、直義の養子である直冬に通じて義詮方と対抗しました。以後、直冬党として幕府と対立を続けましたが、貞治二年(1363)、安芸・備後で直冬が敗れて勢力を失うと、大内氏につづいて幕府に帰順しました。帰順の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、「多くの所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかれけれ」と不満の声が高かったと伝えられています。いずれにしろ、幕府の内訌、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったのです。
時氏には嫡男の師義を頭に多くの男子があり、子供らの代になると山名氏の守護領国はさらに拡大されることになりました。

山名時氏(六分一殿、但馬山名初代)

応安三年(1370)、山名時氏(ときうじ)は師義(もろよし)に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は、但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分け与えました。永和二年(1376)、弟時義も若年より父時氏に従って兄師義らとともに行動、いちはやく上洛を果たして幕府の要職の地位にありました。師義死去のときは伯耆守護でしたが、家督を継いだ時義は但馬守護職にも任じ、さらに、備後・隠岐の守護職も兼帯しました。
山名時氏が没すると山名一族は大きく躍進、

  • 惣領を継いだ長男の師義は丹後国・伯耆国、
  • 次男の義理は紀伊国、
  • 三男の氏冬は因幡国、
  • 四男の氏清は丹波国・山城国・和泉国、
  • 五男の時義は美作国・但馬国・備後国
    の守護となりました。
    師義の子の満幸は新たに播磨国の守護職も得ています。このころの但馬は、古くからの守護太田氏が亡び、幕府から新しい守護も任命されましたが、南北朝の争乱で実権はなく有名無実のありさまでした。古くからの豪族で出石氏や太田氏の支族もありましたが、南北朝に分かれての戦いが但馬でも繰り返され、土地の武士たちも、その時々に応じて実力のある側について左右するありさまでした。
    そのうちにとなりの因幡・伯耆をもつ新しい勢力の山名氏の力が次第に伸び、大きな合戦もないまま、但馬の豪族はこれに従い、完全に山名の支配下に置かれたようです。但馬を手に入れて守護となった時義は、本拠を宮内(豊岡市出石町)において此隅城(このすみじょう)を築きました。但馬の本拠をここに定めたのは、天日槍(あめのひぼこ)の昔から但馬の中心地で、但馬一の宮の出石神社があり、歴史的な中心地だったからだと考えられます。
    時義は父時氏が亡くなったあと、惣領職を継いで山名の宗本家となり、山名一族の勢力も強大になりました。「明徳記」という本には「山名伊予守時義但馬に在国して京都の御成敗にも応ぜず雅意(自分の心)に任せて振る舞い…」とあるほどでした。時義は多く京都に住んでいたようで、守護代を但馬に送っていた記録もあります。時義は風流な戦国の武将だったらしく、此隅城の北の神美村長谷の荒原に咲くカキツバタの美しい眺めが好きで、有名な三河の八橋になぞらえて楽しんだと伝えられますが、病気にかかって若くして亡くなりました。
    そのあとを継いだ時熈(ときひろ)のころには、山名一族の勢力はさらに大きく伸びて、全国六十余州のうち、十一ヶ国の守護をかね世に「六分一殿」と呼ばれました。

応永の乱

 応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、周防国・長門国・石見国の守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こして堺に篭城して滅ぼされた事件です。
室町幕府の将軍は有力守護大名の連合に擁立されており、その権力は弱体なものでした。三代将軍足利義満はその強化を図りました。花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強して将軍権力を強化しました。また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379年)、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させ(康暦の政変)、康応元年(1389年)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下します(土岐康行の乱)。そして、明徳2年(1391年)、11カ国の守護となり『六分の一殿』と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙と氏幸の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させました。さらに、氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込み滅ぼしました。これによって、山名氏は3カ国を残すのみとなってしまいました(明徳の乱)。
山名氏が大きく勢力を後退させたのち、にわかに勢力を伸張したのは大内義弘でした。明徳の乱で義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられました。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになりました。義弘は明徳の乱に氏清勢を撃退する抜群の功を挙げ、和泉・紀伊両国の守護職に任じられ、一躍六ヶ国の守護職を兼帯しました。さらに領内の博多と堺の両港による貿易で富を築くと、その勢力を背景として南北朝統一の根回しを行い、その実現によって得意絶頂を迎えました。義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていきました。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていました。
周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘いました。有力守護大名の弱体化を策する義満は、大内義弘の存在を目障りに思うようになり、両者の間には次第に緊張がみなぎるようになりました。ついに義満打倒を決した義弘は、鎌倉公方足利満兼、美濃の土岐氏、近江の京極氏らと結び、これに旧南朝方諸将も加担しました。さらに、山名氏清の子宮田時清が丹波で呼応しました。かくして、応永六年(1399)、堺に拠った義弘は義満打倒の兵を挙げたのです。乱は幕府軍の勝利に帰し、これにより義満を頂点に戴く幕府体制が確立されました。応永の乱に際して、但馬兵を率いた時熙は丹波に出兵して宮田時清を撃退。さらに堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、時熙は備後守護を与えられました。
垣屋氏は山名氏の上洛に従って西上した土屋一族で、時熙に味方した垣屋弾正は、乱戦のなかであやうく命を落としかけた時熙を助けて壮烈な討死を遂げました。弾正は明徳の乱を引き起こした張本人は時熙であり、世間の目も時熙に辛辣でした。ここは誰かが勇戦して討死、山名氏の名誉回復を図るべしとして、死装束をして合戦に臨んだと伝えられています。果たして、弾正の壮烈な討死によって、時熙はおおいに名誉を回復することができたのでした。この弾正の功によって垣屋氏は、没落した土屋氏に代わって一躍山名氏家中に重きをなすようになりました。一方、応永の乱で活躍した太田垣氏は、乱後、但馬守護代に抜擢されました。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が備後守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられました。こうして、垣屋氏・大田垣氏は山名氏の双璧に台頭、のちに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されることになります。その後、時熙は幕府内における地位を確立するとともに、但馬・因幡・伯耆に加えて、備前・石見・安芸守護職を山名氏一族で有するに至りました。時熙は将軍義満、義持に仕え、山名氏の勢力を回復していったのです。正長元年(1428)、義持が病死したとき、すでに嫡男の義量は亡くなっていたため、つぎの将軍を籤引きで選ぶことになりました。この件にもっとも深く関与したのは三宝院満済と管領畠山満家、そして山名時熙でした。このころになって、山名氏は、その国をもとに伯耆山名・因幡山名・但馬山名の三国に分かれた形をとりますが、その主流はやはり但馬山名でした。この時熈のころ、その帰依を受けた大機禅師により、此隅城下に多くの寺院が創建されました。
神美村長谷の大安寺、倉見の宝勝寺、森尾の盛重寺がそれです。また宮内に宗鏡寺や願成寺が建てられたのもこの頃だと考えられます。そのほか宮内の惣持寺にも篤い信仰を寄せており、時熈の一面がうかがわれます。これらの寺院はその後山名氏の保護の元に栄えますが、山名が亡ぶとともに衰え、現在ではなくなったものもあります。
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此隅山城(このすみやまじょう)

 此隅山城は、兵庫県豊岡市の出石坪井にある山城。のちに別名「子盗城(こぬすみじょう)」と呼ばれましたが、これは不吉な呼び方としてのちに築城した城には有子(こあり)山城と名づけています。国指定史跡。文中年間(1372)ころ、但馬一の宮・出石神社に近い、北西にある独立した丘陵、標高140mの此隅山に山名時義が築城しました。南は気多郡・播磨方面、西方は豊岡・因幡方面、東方は丹後・丹波の三方が見渡せる山頂にあり、主郭は東西10-15m×南北50mで北西側に高さ2mの段差で区画された西郭があり、また南側には高さ3mの切岸で区画された郭が3-4段配置され、この部分が城の中枢と考えられます。大手は南麓から主郭南側に繋がるコースが想定されます。

此隅山城は但馬守護職に補任された時熙が、この頃に築いたと考えられます。以後山名氏の居城となりました。応仁元年(1467年)、応仁の乱が始まると、此隅山城には各国から2万6000騎の西軍の軍勢が集まり、山名宗全は当城から京都へ出陣しました。永禄12年(1569年)、山名祐豊の時、羽柴秀吉に攻められ落城。祐豊は、より高所にある有子山城に居城を移し、城は廃城となりました。
そして時義の築いた此隅城は、規模こそ大きなものではありませんが、その占める意味は山名王国の首都ともいえる地位にあり、応仁の乱などで京都に出陣する時には、その大根拠地となり、宮内を中心にいちど兵力を結集してから隊をつくって出陣したといわれます。
持豊(宗全)が家督を継いで間のない永享八年(1436)、出石神社に奉納した願いの文が神床家に伝わっており「自分が父祖重代の後を継ぎ、親族の首領に立ったが、神明の助けがなければつとまりません。なにぶんお加護をお願いします。」とあり、これは山名宗本家の首領となった持豊(宗全)が但馬の一の宮に祈願したものです。
持豊(宗全)はほとんど京都におりましたが、享徳三年(1454)ごろには但馬に在国しております。これは最大の勢力となった持豊(宗全)に将軍義政が脅威を感じて討伐しようとしたのですが、のちに応仁の乱で対立する細川勝元の計らいで中止されます。そのため将軍から「但馬に在国して上洛すべからず。」と命じられ、本国の但馬に帰って、かわりにこの教豊(のりとよ)を京都に出仕させました。

明徳の乱と山名氏の再起

しかし、「満つれば欠くる」のたとえもある如く、一族が分立したことは内訌の要因になるのでした。さらに、三代将軍足利義満は強大化した山名氏の存在を危惧するようになり、ついにはその勢力削減を考えるようになりました。そのような状況下の康応元年(1389)、惣領の時義が四十四歳の壮年で死去しました。その子の義幸、氏之、義熈、満幸は若年であったため、中継ぎとして弟の時義が惣領となりました。これに対して、長男の氏清とその婿の満幸が不満を示します。こうして、さしもの隆盛を誇った山名氏も、将軍義満の巧みな謀略にのせられて大きく勢力を後退させたのでした。とはいえ、但馬・伯耆・因幡は山名氏の勢力が浸透していた地域であったことは、山名氏にとっては不幸中の幸いでした。 氏清の弟・山名時義が後を継いで山名氏の総領となり、氏清は丹波、和泉を領する守護に命じられましたが、総領になれなかったことに不満を持ち、時義と常に対立していたといいます。
明徳元年(1390年)三月、山名一族で時熈に対立する満幸と叔父の氏清が、時熈を将軍義満にざん訴しました。義満は待っていたとばかりに、時義が生前将軍に対して不遜であり、後を継いだ時熙とその弟の氏幸も不遜な態度が目立つとして、討ち手の大軍を但馬に送り、時熈と氏幸の討伐を命じました。義満が山名氏の勢力削減を狙った策謀であることは明白でしたが、氏清は「一家の者を退治することは当家滅亡の基であるが、上意故随わざるを得ぬ。しかしいずれ二人が嘆願しても許されることはないか?」と確認したうえで出陣しました。
時熙と氏幸は挙兵して戦いますが、氏清が時熙の本拠但馬、満幸が氏幸の本拠伯耆を攻め、翌明徳2年(1391年)に時熙は但馬を逃れ、剃髪して備後に引きこもりました。戦功として氏清には但馬国と山城国、満幸には伯耆国と隠岐国の守護職が新たに与えられました。
ここで勢力を占めた満幸は、勢いに乗って出雲にある京都の仙洞御所領(上皇の領地)を占領しました。なおも山名氏の分裂を策する将軍義満は、許しを乞うた時熙・氏之らを赦免、代わりに今度は氏清・満幸らを挑発しました。義満の不義に怒った氏清は満幸・義理らを誘い、南朝方に通じて大義名分を得ると、明徳二年の暮に京へと進撃しました。これが明徳の乱です。そして元中8年・明徳2年(1391年)、氏清は足利義満の挑発に乗って一族の山名満幸・山名義理とともに挙兵(明徳の乱)、同年12月には京都へ攻め入るも、幕府軍の反攻にあって氏清は戦死、満幸は敗走、義理は出家という結果になりました。この満幸を討つために、備後に引きこもっていた時熈らを許し、幕府軍と協力して討伐に当たらせました。
この乱によって、但馬国衆は山名氏清方と山名時熙方に分かれて相分かれて戦ったことで、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていました。したがって、優秀な人材に対する時熈の期待は大きかったのでした。時熈は奮戦めざましく、満幸軍を破って敗走させました。この戦いで時熈の家来垣屋弾正は、弥陀(みだ)の名号や曼陀羅を袋に入れて首にかけて戦い、時熈が強敵八騎に取り囲まれて危ないところを救い出し、自分は戦死するなどめざましい働きをしました。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、山名時熙の但馬守護職、同じく時義の子・氏幸の因幡守護職のみとなり、因幡山名家と但馬山名氏が対立していたことが窺え、一族は大幅にその勢力を減ずるに至ったのです。この明徳の乱で、氏清は斬られ満幸は敗れ、時熙に但馬国守護として山名の惣領に返り咲きました。氏幸に伯耆国、氏冬に因幡国の守護職がそれぞれ安堵されました。但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、家臣団の人材不足は深刻でした。そのようななかで、頭角をあらわしたのが垣屋氏と太田垣氏で、垣屋氏は土屋氏の庶流、太田垣氏は日下部一族の末流で、山名氏家臣団には大きな逆転現象が起こったのです。この状況にあって急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけたのです。
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生野城(古城山=いくのじょう)

足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。応永三十四年(1427)十月、四職のひとりである赤松満祐(みつすけ)が、父義則の三十五回忌の法要仏事を赤松家の菩提寺である東山龍徳寺で行っておりました。その時、将軍義持の使者として、南禅寺の長老が来て一通の書状を手渡しました。その文面は赤松満祐の領地播磨国を足利将軍の直轄地として、そこの代官職を分家筋にあたる赤松持貞に代えるという思いがけないものであったのです。これにはいろいろ原因があるのですが、つまりは満祐は将軍義持に嫌われており、その間に立って持貞がうまく将軍に取り入っていたことのよるものと伝えられています。

この意外な書状を読んだ満祐は、たとえ父が死んだといっても播磨国は祖父円心以来立派に治めてきた土地であるから、領地を取り上げられることは許してもらいたいと、たびたび願ったのですが、ついに聞き入れてもらえなかったのです。そこで満祐も仕方なくこれに従うことを伝え、その日の仏事を住ませたのち自分の屋敷に帰り、決心して多くの財宝を召使いの者に分けた与え、屋敷には火をかけ焼き払い、夜にまぎれて本国の播磨へ引き上げてしまいました。
これを知った将軍義持はたいそう怒って、「播磨一国を取り上げてもまだ備前・美作の二国があるにもかかわらず、このような反抗は許し難い。残る一国も他の赤松家に与え、満祐を討伐せよ。」
ということになって、その命令が山名時熈(ときひろ)と一色義貫(よしつら)に下ったのです。しかし、一色は様子を見るために出発しなかったようです。

山名時熈は将軍義持の命に従い、すぐに京都から本国の但馬に帰り、赤松満祐討伐のため、播但の要衝である生野を選び、その北にそびえる標高六百mの山上に城を築きました。「銀山旧記」という古文書によりますと、「ここ二十間(約36m)四方の居所を構え、尾崎尾崎に物見をつけ、厳重の要害なり。」と書かれています。これから考えてみますと山上に“館(たて)”といわれるような建物を造り、その尾根続きの要所には見張所も構えていたものと思われます。こうした陣をしいて敵方の様子をうかがっていたわけで、時に応永三十四年(1427)の十一月も末頃のことといわれています。
一方播磨国に引き上げた赤松満佑は、一族を集めて本拠の白旗城に立てこもり、戦いの体制を整えながらも、今一度将軍義持にあてて、「自分の所領地は播磨一国でいいから、先祖から受け継いだ土地として相続させてもらいたい。そしてこの度の軽率な行動は深くお詫びするから許してほしい。」という書状を送ったのですが、将軍義持は承知しませんでした。
ところが、そのころになって、今まで将軍義持のお気に入りであった分家筋の赤松持貞がおごりにふけって良よからぬことをしていたことがわかり、将軍義持は大へん怒って持貞に切腹を命じ、それまで憎んでいた満祐に対して心機一転その謀反の罪を許すことになりました。また、管領畠山氏のすすめで、満祐もとりあえず家臣を名代として京都へ送り幕府にあやまり、自分も十二月中ごろに上洛して、謀反の罪を詫びましたので、ことは無事に治まり、満祐は父の後を継ぎ播磨国を治めることができ、とにかく落ち着いたのです。

こうしたことで、生野城砦にいた山名時熈は、かねがね尊敬していた黒川村大明寺の月庵和尚の墓に参って、新しく香華を供えたと伝えられています。山城跡は“御主殿”とも“古城山”とも呼ばれ、その雄大な姿は生野小学校校歌にも取り入れて歌われ、生野銀山発祥の地として郷土史に輝いているのです。
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝

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室町薄群青(うすぐんじょう)#5383c3最初のページ戻る次へ
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たじまる 室町-1

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

室町時代は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。足利氏が将軍だったことから足利時代とも呼ばれる。
足利尊氏が1336年(建武3年、北朝延元元年)に建武式目を制定し、1338年に征夷大将軍に補任されてから、15代将軍義昭が1573年(元亀4年)に織田信長によって追放されるまでの237年間を指す。
しかし、建武新政期を含む最初の約60年間を南北朝時代、最後の約80年間を戦国時代と区分して、南北朝合一(1392年)から明応の政変(1493年)までの約100年間を狭義の室町時代とする場合も多い。

守護大名

室町幕府が成立すると、国内統治を一層安定させるため、1346年(貞和2)幕府は刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えた。刈田狼藉とは土地の所有を主張するために田の稲を刈り取る実力行使であり、武士間の所領紛争に伴って発生した。使節遵行とは幕府の判決内容を現地で強制執行することである。これらの検断権を獲得したことにより、守護は、国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利の2 つを獲得することとなった。また、当初は現地の有力武士が任じられる事が多かった守護の人選も次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されていきます。

室町中期までに、幕府における守護大名の権能は肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護大名には、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者が出現しました。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や多くの分国を抱える場合などに、守護の代官として国人や直属家臣の中から守護代を置き、さらに守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していきました。

■守護大名 室町時代

領国室町前期中期後期
畿内山城国 やましろ畠山氏京極氏細川氏
大和国 やまと興福寺
河内国 かわち畠山氏
和泉国 いずみ畠山氏細川氏
摂津国 せっつ細川氏赤松氏
山陰道丹波国 たんば仁木氏山名氏細川氏
丹後国 たんご山名氏一色氏武田氏
但馬国 たじま今川氏山名氏
因幡国 いなば山名氏
伯耆国 ほうき山名氏
出雲国 いずも山名氏京極氏
石見国 いわみ山名氏大内氏
隠岐国 おき山名氏京極氏
山陽道播磨国 はりま赤松氏山名氏赤松氏
美作国 みまさか赤松氏山名氏赤松氏
備前国 びぜん赤松氏山名氏赤松氏
備中国 びっちゅう渋川氏細川氏
備後国 びんご細川氏山名氏
安芸国 あき武田氏山名氏
周防国 すおう大内氏
長門国 ながと厚東氏大内氏
南海道紀伊国 きい畠山氏細川氏畠山氏
淡路国 あわじ細川氏
阿波国 あわ細川氏
讃岐国 さぬき細川氏
伊予国 いよ河野氏細川氏河野氏
土佐国 とさ細川氏
西海道豊前国 ぶぜん少弐氏大友氏大内氏
豊後国 ぶんご大友氏
筑前国 ちくぜん少弐氏大内氏
筑後国 ちくご大友氏菊池氏大友氏
肥前国 ひぜん少弐氏渋川氏
肥後国 ひご大友氏阿蘇氏菊池氏
日向国 ひゅうが島津氏
大隅国 おおすみ島津氏
薩摩国 さつま島津氏
壱岐国 いき京極氏
対馬国 つしま宗氏
領国室町前期中期後期
東海道伊賀国 いが仁木氏
伊勢国 いせ土岐氏一色氏北畠氏
志摩国 しま土岐氏一色氏北畠氏
尾張国 おわり土岐氏斯波氏
三河国 みかわ高氏一色氏細川氏
遠江国 とおとうみ今川氏斯波氏今川氏
駿河国 するが今川氏
伊豆国 いず上杉氏
甲斐国 かい武田氏
相模国 さがみ三浦氏上杉氏
武蔵国 むさし高氏上杉氏
安房国 あわ上杉氏
上総国 かずさ上杉氏
下総国 しもうさ千葉氏
常陸国 ひたち佐竹氏
東山道近江国(北) おうみ京極氏
近江国(南)おうみ六角氏
美濃国 みの土岐氏
飛騨国 ひだ京極氏
信濃国 しなの斯波氏小笠原氏
上野国 こうずけ上杉氏
下野国 しもつけ宇都宮氏小山氏
出羽国 でわ
陸奥国 むつ北条氏伊達氏
北陸道若狭国 わかさ斯波氏一色氏武田氏
越前国 えちぜん斯波氏朝倉氏
加賀国 かが斯波氏富樫氏
能登国 のと吉見氏畠山氏
越中国 えっちゅう斯波氏畠山氏
越後国 えちご上杉氏
佐渡国 さど上野氏高氏

※比較的短期間の大名は省略しています。

南北朝時代

内乱の中で、足利尊氏ら武士勢力にとっても、「天皇制は必要」でした。幕府の重職の中には、天皇をないがしろにする行動が見られました。たとえば、美濃国の守護、土岐頼遠は京都で光厳上皇の行列に行き会って、「院のお車であるぞ、下馬せよ」と注意を受けると、「なに、院というか、犬というか、犬ならば射ておけ」と、上皇の牛車を取り囲み、なんと犬追物をするがごとくに矢を放ちました。牛車は転倒したといいますから、まかり間違えば上皇の命に関わる所行でした。

近江国を掌握する京極導誉は、光厳上皇の兄弟で、天台座主を務めた妙法院宮亮性法親王の邸宅に焼き討ちをかけ、重宝を奪い取りました。激怒した比叡山が導誉の処刑を申し入れると、出羽国への流罪が決定しました。しかし、三百騎を率いて京都を出発した導誉は諸処で宴会を催し、適当なところから帰京してきました。あたかも物見遊山です。

将軍の執事、高師直(こうのもろなお)に至っては、「京都には王という一がいらっしゃって、多くの所領を持っている。内裏とか院の御所とかがあって、いちいち馬を下りねばならぬ面倒くささよ。もし王がどうしても必要だという道理があるのなら、木で造るか、金で鋳るかして、生きている院や国王(天皇)はみな流し捨て奉れ」。また配下の武士たちに、「土地が欲しければ貴族様の庄園だろうと、由緒ある寺院の所領だろうと、構うものか。好きなだけ奪い取れ。あとは私が、庄園領主のみなさまに適当にいい繕っておいてやるから」とも指示していました。

しかし、こうした風潮の中で、それでも天皇制は生き延びました。必要とされたのです。それはいうまでもなく、京に居住する天皇・貴族・大寺社を名目的にせよ上位者と仰ぐ、平安時代以来の土地所有の方法であったからです。幕府は「職の体系」を越える理論を用意することができなかったのです。
足利尊氏と直義の兄弟は、一致協力して室町幕府の発展に努めていました。尊氏は将軍として全国の武士を束ね、所領の安堵を行うとともに、軍事活動の指揮を執っていました。直義は鎌倉時代に進展した統治行為を継承し、さらに展開して、行政・司法を司っていました。二人は互いの活動と権限を重ね合わせ、新たな将軍権力を創出したのです。南北朝時代、以後六十年にわたって天皇家が分裂します。争乱といっても両者がまともに戦えたのはわずか一、二年でした。1338(暦応元)年五月、北畠顕家が率いる奥州勢が、和泉国堺で壊滅しました。壊滅は「中央集権はもはや機能しない。地方を重視し、委譲せよ」等、建武新政を痛烈に批判した後に戦死を遂げました。閏七年には越前で新田義貞が敗死しました。これをもって南朝の組織的な抵抗は頓挫します。あとは各地で小規模な局地戦が継続していきます。

新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従いましました。尊氏の世がくると時氏も運気を掴み、守護大名として山陰地方に大勢力を張り、足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。その後の観応の擾乱では、南朝側に与して足利直冬に従いましたが、足利義詮時代には幕府側に帰参しました。

足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏の後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加。南朝(吉野朝廷)との戦いで名和氏掃討を行い、伯耆の守護となります。

その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨の赤松氏とも戦います。幕府では1367年に細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、1363年(貞和2)8月には上洛し、大内氏に続いて室町幕府に帰順します。幕府では、義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世らとともに反頼之派の武将でした。73歳で死去。
山名氏の築城に功績のあった人として山名師義がいます。師義は、氏清の弟、兄弟に義理、氏冬、氏清、時義。観応の擾乱では直義方・南朝方に属した父の時氏に従い、兄弟たちと共に尊氏方・北朝方の赤松氏と争い、中国地方における勢力拡大に務めます。

貞和8年(1363年)に山名一族が北朝に帰順すると、丹後国(京都府)・伯耆国(鳥取県)の守護職を引き継ぎました。幕政においては三管領の細川頼之らと派閥抗争を繰り広げました。1371年に時氏が死去すると惣領となります。
伯耆国に打吹山城(鳥取県倉吉市・伯耆国の守護所)を築き、時氏統治時代の居城田内城(たうちじょう)から移転しています。文中年間(1372~74)出石神社の西側の此隅山(このすみやま)に、此隅山城を築きました。此隅山城は長らく山名氏の本拠でした。
まもなく師義も49歳で死去し、山名一族内紛の一因となります。

大岡山と進美寺

東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、対照的に気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっています事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。
古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

日高町の南東に位置する須留岐山は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもありました。山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)で、進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されている私寺だったのであります。

『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多いのも、但馬国府・国分寺が置かれていたためでしょう。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でしました。
進美寺も同じく天台宗です。山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのでしょう。

大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の流れで、朝来郡で優勢な郷士で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に備後に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。
旧大岡寺庭園は、兵庫県豊岡市にある日本庭園。国指定名勝。発掘調査の結果、室町時代末期に作庭され、江戸時代初期に改修されたことが判明しました。
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進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中しているからであります。
しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代(もくだい)と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。
大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

城にまつわる話し

城史にまつわる話は、あくまでも伝承であって、客観的な資料に裏付けされた史実ばかりではありませんが、意味もなく伝わったわけではなく面白いものです。三開山城(みひらきさんじょう)


三開山 豊岡市駄坂

豊岡盆地中央部東縁の三開山(標高201.6m)にあります。豊岡市街から見ると、六方田んぼの東側に、202mの低いけれど富士山に似たきれいな山が見えます。三開山は、見開山とも書かれたように、眺望の良い立地で、豊岡盆地を制する戦略的位置を占めます。山頂部に二曲輪(くるわ)、尾根にも数曲輪を残ります。

室町時代の初め-南北朝時代(1333~1392)に、後醍醐天皇を中心とする天皇親政派(南軍)と、足利尊氏を中心とする武家政治派(北軍)とが、激しく争って、日本の各地で戦争が絶えなかった時代です。

延元元年(1336)、南軍の楠木正成が湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。

その翌年の延元二年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。

秋田義宗は、進美(しんめいじ)山城(豊岡市日高町)や妙見山城(養父市八鹿町)と連絡を取りながら戦いましたが、あてにしていた因幡や伯耆(いずれも鳥取県)の南軍の応援もなく、小俣来金の激しい攻撃の前にあえなく落城し、義宗は越前に逃れました。

このあと、一時、山名時氏、師義の父子がこの城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の延文三年(1358)に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。

この時の城主はよく分かりませんが、攻めたのは北軍の伊達三郎という武将です。四月から七月にかけて篠岡の里をはじめ、六方田んぼで血みどろの戦いが行われています。七月のある時には、大洪水の六方田んぼに、南軍の数百そうの船が攻め寄せ、追いつめられた北軍は山の中へ逃げ込み、大将の伊達三郎も矢傷を受けるほどの大激戦でした。

しかし、結局、南軍が敗れ、三開山城は落城してしまいました。
一部に野面積みの石垣があり、南北両斜面に18本の堅堀を刻むなど、戦国時代の特徴を表すことから、時代的には1580年(天正8年)、羽柴勢の但馬攻めの時に落城したという地元の伝承を史実として肯定的に見直すこととなった。1337年(建武4年)、新田義貞の子・義宗を迎えて、但馬南朝勢力の拠点化を図ったと伝えるが、史実ではない。頂上には落城時の焦米(こげまい)が出るという。

■気多郡内の城跡

城 主所在地年代備 考
稲葉城大森飛騨守豊岡市日高町稲葉
太田の城山?豊岡市日高町太田
万場の城山豊岡市日高町万場
東河内の城山?豊岡市日高町東河内
来山城豊岡市日高町鶴岡
八代城藤井左京の居城豊岡市日高町八代・谷室町期
奥八代砦豊岡市日高町奥八代字宝城
進美寺山城(掻上城)豊岡市日高町赤崎・日置南北朝期(1333-)但馬南朝方の重要拠点城跡というより大寺院が軍事目的に利用され、戦国末期にも利用された
水生(みずのお)城南北朝:長左衛門尉、戦国期:榊原式部大輔政忠、次いで西村丹後守豊岡市日高町上石・上佐野但馬南朝の拠点 天正8年 秀吉但馬により攻略長楽寺の裏から山頂に至る間に数カ所の平坦地と、長城に伸びる尾根に掘割が数カ所在る。
上郷(かみのごう)城源満仲・源頼光・赤木丹後守豊岡市日高町上郷平安期:天徳年間(957-961)二段の土塁を持ち、ごく一部に石垣が残る。源満仲が但馬国司として赴任してきた時、築城。赤木丹後守は水生城合戦に参加した武士だという。
祢布城高田次郎貞長豊岡市日高町祢布南北朝期山名時氏に滅ぼされ廃城
森山城安田左近将監・紀伊守豊岡市日高町森山応安(1368-)~享禄(-1532)森山と知見境にある低い山(「あかんじゃ」「あかんじょ」とも呼ばれた)に二段の土塁と三カ所の掘割
篠森城足立忠経・足立肥前守豊岡市日高町久田谷1500~元亀三年(1572)久田谷入口の低い山、通称稲葉山
伊福(ゆう)城下津屋伯耆守日高町鶴岡室町時代(康正年間:1455-1457)
楽々前城(佐田城)[*10]山名氏守護代垣屋播磨守隆国日高町佐田室町時代(応永年間:1394-1428)
鶴ヶ峰城(三方富士)垣屋越前守続成の築城:垣屋御三家本城日高町観音寺室町時代(永正9年:1512)
宵田城(南龍城)隠岐守国重・筑後守忠顕:垣屋御三家・分家の城日高町宵田・岩中室町時代(永享2年:1430)

但馬にはこの他多数の城があります。くわしくは但馬の城をどうぞ。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
「日本の中世」放送大学教授 五味文彦、放送大学客員准教授・東京大学大学院準教授 本郷和人、放送大学客員准教授教・慶應義塾大学準教授 中島圭一『日高町史』、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

たじまる 古墳-9

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ヤマト政権の地方官制

1.地方官制のはじまり

姓(カバネ)とは、古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号です。その発祥の経緯は明確ではないようです。ヤマト王権が成熟し、大王家を中心として有力氏族の職掌や立場が次第に確定していく中で、各有力者の職掌や地位を明示するために付与されたと考えられています。

  • 職掌を示す姓(カバネ)としては、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)など
  • 地位・格式・立場を示す姓(カバネ)としては、公(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などがあります。
    その他の姓(カバネ)としては、百済滅亡後に亡命してきた百済王族に与えられた王(こにきし)などがありました。
    姓(カバネ)の中では、臣、連が一番格式が高いとされ、最も有力な者には更に大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓(カバネ)が与えられていました。姓(カバネ)の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置づけられ、その地位は、実質上、無意味化していきました。代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)の姓(カバネ)が与えられました。

    2.地方支配体制の進展

    律令制以前において、体系的な官制は整備されていません。地方の行政組織が全国的規模で動き出したのは、飛鳥時代、第四十代天武朝(673年~686年)においてであったと推定されています。国造は、畿内及びその周辺のヤマト政権の支配が直接及んでいた地域では、六世紀を通じて本格的に整備されました。それまで分国していた地方のクニ(小地域)をまとめて、「国」という行政区域を設定し、それぞれの地方の最も優勢な豪族を国造に拝命し、国造国の支配に当たらせ、ヤマト政権への奉仕を行わせるというものでした。
    一方、同じ頃からヤマト政権は、地方支配の直接的な拠点として、直轄領であるミヤケ(屯倉)を設定していきました。ミヤケの初見は、磐井の乱の後に設定された糟屋屯倉(福岡県)ですが、その後、六世紀前半には北部九州から瀬戸内海沿岸に、そして七世紀初頭にかけて、東国にまで拡大されました。
    ミヤケの基本構成は、宅(ヤケ)すなわち政庁、倉すなわち正倉、田すなわち水田の三つであるとされていますが、その他に、山林、採鉄地、鉱山、塩山、港湾、軍事基地、漁場、牧場、猟場など、一定の地域を占有する多様なものが存在しました。
    但馬にある豊岡市三宅、関宮町三宅、京丹後市丹後町三宅、舞鶴市三宅、亀岡市三宅町という地名もそうしたものであったと思われます。ということは但馬はこの頃、すでにヤマト政権の支配が直接及んでいた地域であったということを示しています。

    3.国造(くにのみやつこ・コクゾウ)

    国造は、律令制が導入される以前のヤマト王権の地方支配形態の一つ(古くは国と県を同列に扱っていたとする説もある)です。訓読みの「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされます。この国がしめす範囲は、律令国が整備される前の行政区分であるためはっきりと判明していません。元来、その地域の豪族が支配していた領域がそのまま国として扱われていたと考えられている。また国造の定員も1人とは限らず、一つの国に複数の国造がいる場合もあったようです。

    ヤマト王権への忠誠度が高い県主とは違い、元々、国主(くにぬし)と言われていた有力な地方の豪族がヤマト王権に服したときに、そのまま国造に任命され、臣・連・君・公・直などの姓が贈られ、かなりの自主性の下にその地方の支配を任されていました。そのため軍事権、裁判権を持つなどその職権の範囲はかなり広かったようです。

    国造には、東国の国造のように部民やミヤケ(屯倉)の管理なども行っていたり、出雲の国造のように神祇を祀り、祭祀により領内を統治することなども行っていたり、紀伊の国造などのように外交に従事したりしたことなどが分かっています。また、筑紫の国造のように北九州を勢力下に入れ、ヤマト政権に反抗する者もいました。しかし、国造の下に県(あがた)があり、かなり整備された国県制があったとする見解もありますが、国造制の実態や中小豪族との関係で不明な点が多く、律令制以前の地方支配の実態は明確になっていません。

    大化の改新以降は世襲制の名誉職、主に祭祀を司るものになり、従来の国造の職務は郡司に置き換えられた。また、国造が治めていた国は整理・統合、あるいは分割されていき、律令国に置き換えられていきました。

    3.県(アガタ)と県(コホリ・コオリ)

    県(アガタ)

    4世紀~6世紀頃?に県を定めたのではないかとされています。

    『古事記』成務段に、「大国小国の国造(くにのみやつこ)を定めたまい、また国々の堺、及び大県(おおあがた)小県(おあがた)の県主(あがたぬし)を定めたまう。」とあり、成務紀4年、『日本書紀』成務紀4年「今より以降国郡に長を立て、県邑(あがた・むら)に首を置かむ。即ち当国の幹了しき者を取りて、其の国郡の首長に任ぜよ。」、5年「国郡に造長を立て、県邑に稲置(いなぎ)[*2]を置く。」「則ち山河を隔(さか)いて国郡を分ち、阡陌(せんぱく)[*3]に随ひて、邑里を定む。」
    つまり、成務紀4年に、「国>郡>県>邑」というはじめての地方行政区分ができました。翌5年に「邑」をさらに里をつくり「国>郡>県>邑>里>稲置」と細分化しました。

    成務天皇は13代の天皇(大王)で、応神(15代)、仁徳(16代)や倭の五王よりも遡る4世紀のことで、時代でいうと古墳時代の前期にあたります。この時代に全国的に国造・県主を配置したとは考えがたく、記事そのものは『日本書紀』の脚色であると考えられています。また成務天皇自体の実在性が疑われています。しかし、この記事が、初期ヤマト政権において、服属させた周辺の豪族を県主として把握し、県主によって支配される領域を県(アガタ)と呼んでいたことを伝えていると考えることはできます。

    [*2] 稲置(いなぎ)…律令制や大化の改新以前の古代の日本にあったとされる地方行政単位、県 (こおり) を治める首長
    [*3] 阡陌(せんぱく)…阡…田の間を南北に通る小道。陌…東西に通ずるあぜ道。

    県(コホリ・コオリ)

    6世紀後半~7世紀中?に、在地首長の支配力に依存した県(アガタ)から、王権が統治する屯倉(みやけ)を拠点として直接的に地方の把握・支配の体系をめざす県(コホリ)を設置しました。

    『日本書紀』安閑天皇二年(535)5月に屯倉の大量設置の記事がみられますが、これらの屯倉の名前の多くが、現存する地名と一致し、その実在を確認できます。また、同年八月の条に、犬養部の設置記事がみられますが、現存する屯倉の地名と犬養という地名との近接例も多いことから、屯倉の守衛に番犬が用いられた(番犬を飼養していたのが犬養氏)ということが明らかになっており、屯倉や犬養部の設置時期も安閑天皇の頃(6世紀前半頃)に始まったと推察されます。

    この屯倉がある程度発達・広域展開した段階で、屯倉を拠点として、直接的に地方を把握・管轄した単位が県(コホリ)であり、のちに律令制における郡(コホリ)へと発展していったと考えられています。
    県(アガタ)と県(コホリ)との違いは、前者が在地首長の支配力に依存し、間接的に地方を把握するものであったのに対し、後者は直接的に地方の把握・支配の体系を作り出そうとしていたところにあるでしょう。

    ※律令制での行政区分:「国>県>郡>邑>里>稲置」

    県主(あがたのぬし)は、律令制が導入される以前のヤマト王権の職種・姓(かばね)の一つです。

    ヤマト王権が直轄する行政区分の一つに県(あがた)があり、県(あがた)は、国の下部に有った行政区分と言われています。ただし、古くは国と県を同列に扱っていたとする説もあり、その地方の豪族が治めていた小国家の範囲であったと考えられています。しかし、その詳細は律令国が整備される前の行政区分であるためはっきりとはしていない部分が多いのです。地方の豪族がそのまま任じられたと言われている国造(くにのみやっこ)とは違い、県主はヤマト王権への忠誠度が高く、ヤマト王権の代権者としてその地方を治めたと考えられています。県主は、西日本に集中し、東日本には少ないものでした。ヤマト王権の支配が確立する時期が遅かった東日本では、ヤマト王権に帰属した豪族達にその支配地域をそのまま治めさせ、ほぼ全権を委任する国造(くにのみやつこ・コクゾウ)としてとらえ、設置されたのに対し、王権の確立が早かった西日本では豪族の支配地域の地域をヤマト王権が掌握する支配体制の整備が早くから行われた為と考えられています。

    天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した八色の姓(やくさのかばね)[*6]の導入や律令制度が導入された後も、姓(かばね)自体は存続していました。ずっと後の近代でも県主が使われている例があり、主要な例に賀茂神社の鴨県主家などがあります。
    -出典: 『日本の古代』放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

たじまる 古墳-8

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古代国家の成立

概 要

6世紀前期に、近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド王(継体天皇)が現れヤマト王統を統一しました。男大迹(オホド)王の治世には北九州の有力豪族である筑紫君磐井が新羅と連携してヤマト王権との軍事衝突を起こした(磐井の乱)がすぐに鎮圧された。しかし、この事件を契機としてヤマト王権による朝鮮半島南部への進出活動が急速に衰えることとなりました。またオホド王の登場以降、東北から南九州に及ぶ地域の統合が急速に進み、政治的な統一がなされたとする見解があります。

1.古代国家の成立

雄略天皇が死んで以来、継体の即位を経てもなお、列島全体は動揺していましたが、その動揺は六世紀後半に、蘇我氏の勢力を背景にした欽明の即位によって、ひとまず収束しました。欽明大王と蘇我稲目の下に結集したヤマト王権の支配者層は、国内における対朝鮮関係の破綻という「非常時」のなかで結集し、新たな段階の権力集中を行います。

2.大漢国

継体天皇の時代は、北陸王権とヤマト王権が融合した時代であると捉えることができます。『梁書』東夷伝には北陸王権の領域を示す大漢国のことが記されています。

その頃、山陰地方は「文身国」により統治され、南部の山陽地方は「吉備国」により統治されていました。文身国の中心王都は出雲です。その出雲から東に水行5千余里(約260km~300km)の地点に「大漢国」の王都があります。おそらく約260km~300kmから推定すると、福井県・滋賀県のいずれかに王都があったと推定されます。具体的に利便性や気比神宮から敦賀近辺と比定するとします。ツヌガアラシトを祀る北陸一の気比神宮のある敦賀は、律令制では越前国ですが、他の越前地域と交通遮断されていること、江戸時代に若狭藩(小浜藩)領であったことから福井県内の地域区分で言う嶺南と一致する。敦賀以北の越前よりも風俗が若狭あるいは近江に近いことが理由とされています。

大漢国の国域は但馬・丹後地方から越後地方にかけての日本海沿岸の大国でした。この頃、丹後地方はヤマト王権の勢力下にありました。継体天皇の出自を辿ると垂仁天皇や応神天皇に至るとされています。これはヤマト王権が近隣の王権と婚姻関係を結んだ結果でもあります。

3.古代日本史上最大の謎 継体天皇

継体天皇は、オホド王と呼ばれていますが、別名として『古事記』に袁本杼命(おおどのみこと)、『日本書紀』に男大迹王(おおどのおおきみ)、彦太尊(ひこふとのみこと)と記しています。継体天皇は、古代日本史上最大の謎といってもいいくらいで、なぜ応神天皇の五世の孫という、皇族としてはぎりぎりの人物が即位できたのかということです。都から遠い北陸の地方貴族です。それに継体の方から望んで王位に就いたわけではないのです。ヤマト側が、ぜひにと頭を下げたのです。ただし、『日本書紀』の言い分は、先帝武烈天皇に子がなかったため、やむを得ない処置だったとしています。

誉田天皇(ほむだのすめらみこと・応神天皇)の五世の孫で、彦主人王の子で、彦主人王が近江国高島郡三尾(滋賀県安曇川町)の振媛の美貌の噂を聞きつけ、使いを遣わし、越前国三国の坂中居に迎え入れて妃にしました。そして継体が生まれましたが、父はすぐになくなってしまいます。振媛は嘆き悲しみ、「こうして故郷から遠く離れて暮らしている。どうして父母に孝養を尽くすことができようか。高向(福井県丸岡町)に帰り、この子をお育てしようと思う」

天皇はこうして高向の地ですくすくと育ち、成人しました。人をこよなく愛し、賢者を敬い、寛容な心を持っていたといいます。
なぜ、継体天皇が大和に連れて行かれることになったのか。『日本書紀』は説明が続きます。

継体五十七歳、もうすでに初老といっていい。平均寿命が今よりも短かったであろうこの時代ならば、もはや正真正銘の老人といってもいいくらいではないでしょうか。この時、ヤマトでは武烈天皇が崩御されていました。武烈には子どもがなかったから、武烈の王統は絶たれてしまったのです。

「継体王をおいて他には、相応しい方はいらっしゃらないでしょう」と同意しました。そこで、正式な使いを三国に差し向けてみました。すると継体は胡床にどかりと座り、陪審を侍らせ、その落ち着いた様は、まるですでに「帝」の様であったといいます。
遣わされた使者は、その様子にいよいよかしこまり、心から忠誠を誓いたいと願いました。しかし、継体は疑いの念を抱き、なかなか首を縦に振りませんでした。

河内馬飼首荒籠(馬の飼育に従事していた一族)が密かに継体に使者を出し、ヤマト朝廷の申し出が本気であることを伝えました。こうして、使者が現れて三夜にして、ようやく継体は腰を上げたのでした。
継体という意味ですが、もちろん後世になって付けられた名前です。

「国体」とは、古代日本でも『出雲国造神賀詞』に「国体」と書いて「クニカタ」と読む言葉があり「国の様子」を意味しています。「神の御子孫たる皇孫が、天地が果てることの無きが如く、統べ治め給う。」という、わが国固有の御神勅に基づく国のあり方を中心的観念としています。明治になって制定された大日本帝国憲法は、主に伊藤博文が海外視察によって影響を受けたドイツ諸邦の憲法を参照して構成されたものです。「国制」即ち、国を治める形、国家意思決定過程の定めを意味する“http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.giferfassung”の語を、当初「国憲」と訳してたことからも明らかなように、自然国家としての連続性を意味する国体の表出が、不文成文の憲法であるという相関関係にあるそうです。
継体という言葉から、国の存亡の危機を遠い血筋から王位に就いたことで、国体を継いだ(救った)天皇という意味であるといえないでしょうか。

4.なぜ継体天皇が求められたのか

『日本書紀』に対し、『古事記』は、第二十四代仁賢天皇から三十三代推古天皇までは天皇の系譜を記しているだけなので、継体についても、「武烈天皇の崩御後、皇位を継承する者がいなかった。そこで品太天皇の五世の孫、近江国から上っていただき、手白髪命(たしらがのみこと・手白香皇女)を娶らせ、天下をお授け申し上げた」、といたって簡潔に記しています。

記紀の違いは、継体天皇の出身地の差にあります。『日本書紀』は北陸といい、『古事記』は、近江としています。大漢国は但馬から北陸、近江にかけての国だったので、北陸、近江が継体のテリトリーであったことは間違いないでしょう。水野祐氏は、「三王朝交替説」を唱えました。水野氏は、記紀の天皇が亡くなられた干支、諡号などにより、万世一系の天皇家というものは幻想に他ならないとし、大化改新以前に、少なくとも三つの王家が入れ替わっていると推理しました。しかもその王家それぞれに、血縁関係はなかったというのです。

その節を受けて、直木孝次郎氏は、三~四世紀、大和盆地にヤマト政権が樹立されたが、これは「王朝」や「朝廷」と呼ぶにふさわしいものではなく、これを「先応神朝」と名づけました。その後難波に応神天皇が都をつくった時点で、ようやく王朝が誕生した、とする考えです。
崇神天皇と垂仁天皇には「イリ」の名があります。景行天皇や仲哀天皇からつづく王の名には、「オオタラシ」のように「タラシ」の名が、さらに応神天皇からつづく王の名には、「ホムダワケ」のように、「ワケ」の名が付いています。

つまり、応神天皇は、「タラシ」の王家の次の「ワケ」の王家に他ならない、といいます。応神が新王朝の始祖にふさわしいのは、継体同様、誕生そのものに謎があり、仲哀天皇の子どもかどうか、あるいは神の子どもであるのか、判然としないことも理由の一つとなっています。これは、応神天皇の周囲に神秘的な話が隠されていることです。こうした神秘性、神話的な伝承を持つ人物こそ始祖王にふさわしい、とするのです。

応神の子の仁徳天皇は「聖天子」であったと記紀は伝えています。即位後「国見」をしてみると、家々から立ち上る煙が少ない様子を見て、国は貧しいのだと実感し、三年間課役を免除したといいます。この善政に感謝し、民衆が「聖帝」と称賛していたといいます。したがって、仁徳天皇も始祖王の資格があるとする直木氏は、応神と仁徳は、実際には同一人物なのではないかします。応神も仁徳も「名前を交換した」という記述が『日本書紀』にあって、それは親子ともども名を交換したということではなく、天皇家の系譜を長く見せかけるために、同一人物を二人に分けたために似たような話が続いたのだ、としています。

直木氏は、水野氏の指摘を継承し、『日本書紀』のいうヤマト朝廷の初代の天皇・神武の伝説は、継体天皇をモデルにして製作されたものと推理しました。

神武は地方(九州)出身であり、継体もまた同様であり、どちらも何度かの遷都を繰り返したのちにヤマトに入ることができましたし、双方とも、崩御ののち、後継者争いが勃発している、などの共通点が存在すると指摘したのです。さらに継体天皇は皇族ではなく、越前や近江周辺の地方豪族にほかならないとして、応神天皇五世の孫というのは「自称」にすぎなかったとします。そして武烈天皇崩御の後にヤマトの混乱につけ込み、河内・山城に進出し、在地勢力とつながり、また、大伴氏らと手を組み、結果、二十年近くにわたるヤマトの動乱期を統一し、新王朝を創始した英雄に他ならない、とするのです。

井上光貞氏も同じような考えで、『日本書紀』の記述のうち、信頼できる記事は五世紀の応神天皇以降のものとし、応神を新王朝の始祖と捉えたのです。応神天皇は『日本書紀』にあるような仲哀天皇と神功皇后の間の子などではなく、九州からヤマト入りし、ヤマトの前王朝に入り婿する形で新王朝を樹立したとすりのです。また、応神から継体に続く系譜が『日本書紀』のなかで欠如していることも、応神と継体の本当の間柄を暗示している、というのです。

-出典: 『日本の古代』放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信

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たじまる 古墳-7

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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丹後国 与謝郡(よさぐん)・加佐郡(かさぐん)

与謝郡(よさぐん)

与謝郡式内大社

籠神社 京都府宮津市
大虫神社 京都府与謝郡与謝野町
小虫神社 京都府与謝郡与謝野町

加佐郡
大川神社 舞鶴市大川

7世紀に丹波国の与射評として設置され、701年の大宝律令(たいほうりつりょう)では評が郡になり、713年に丹後国が設置されると加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡となります。与謝郡には、宮津郷、日置郷、拝師郷、物部郷、山田郷、謁叡郷、神戸郷によって構成されました。地元では「よざ」と発音されることが多いようです。与謝郡は、京都府最北端にある経ヶ岬から舟屋で有名な伊根町、日本三景天橋立、丹後一宮籠(この)神社や国府・国分寺が置かれ、宮津湾に野田川流域に古墳が多く築かれた加悦(かや)までの南北に続く、古くから丹後地方の中心的な地域です

1.野田川の古墳

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加悦谷(かやだに)平野の南部、野田川上流のこの地域は、全長145mを測る丹後三大前方後円墳【国指定史跡】「蛭子山(えびすやま)古墳群」と【国指定史跡】「作山(つくりやま)古墳」、を復元整備した「古墳公園・はにわ資料館」をはじめ、「明石大師山古墳群」や旧加悦町内に存在する古墳数は630基といわれ、8つの古墳グル-プに分けられていますが、そのうちの6グル-プ80%が野田川東岸に位置しています。


蛭子山古墳

蛭子山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長145mの大型前方後円墳で、丹後地方最大の大首長墓です。その蛭子山古墳と谷一つ隔てた作山古墳は5基の中型古墳で構成され、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀から5世紀前半)にかけて築造されたものです。5基の古墳は、その墳形が、円墳、方墳、前方後円墳というように、古墳の代表的な形がそろっています。銚子山古墳、神明山古墳は古墳時代中期(5世紀)。一番大きいのは網野町の銚子山、次が丹後町の神明山。蛭子山は三番めの大きさですが、時期はこれが一番古く4世紀の後半です。

「中国の古墳文化は圧倒的に方形墳が多い。ただし、円墳もある。高句麗の古墳は圧倒的に方墳が多い。円墳は非常に少ない。百済の場合は円墳が非常に多い。方墳は少ない。」-京都大学名誉教授  上田 正昭氏

蛭子山古墳のすぐ隣りに円墳の作山古墳が数基造られているので、本家はそのまま加耶明石を拠点としていたのでしょうが、漢民族である秦の集団のあと、加耶諸国からの渡来人が代わっていった?あるいは同化していき丹後王国といった巨大な勢力をもつ国が誕生したようです。稲作が得意な江南人にとって加悦谷平野はうってつけで手放せないでしょう。太田南古墳と黒部銚子山古墳は前期~中期とされます。網野銚子山と神明山古墳は古墳時代中期であり、ほぼ同時期に造られたのは、加悦谷から竹野川に移り、さらにより大陸や日本海沿岸諸国との交易に便利な丹後半島の海沿いに拠点を移し、丹後国各郡を同族で統治していたのではないでしょうか。戦国時代には、同族や家臣に領地を分け与えるのは普通ですので、江戸時代には京極家が丹後を三藩に分けて統治していた例もあります。

この古墳が集中している背後の山が大江山であり、山麓から稜線を登って行けば「鬼の岩屋」と伝えられる岩窟があります。ここから見下ろせば、それぞれの古墳群が一望のもとにあり、「オニ」退治の伝承を考え、大きな力を持った豪族の存在と重ね合わせると、ヤマト王朝と対峙した!?この地の古代の勢力の大きさが彷彿として浮かんでくるようです。

作山古墳1号墳 2000年10月

蛭子山古墳の北側で「日吉ケ丘・明石墳墓群」が発見されました。国史跡に指定され同町にある墳墓・古墳の指定は4件目で、府内では京都市と並び最多です。弥生中期(紀元前1世紀)に造られた同時期の墳墓としては吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次ぎ2番目に大きい方形貼石墓(はりいしぼ)で、670個以上の管玉が出土しました。しかしこの墳墓は出雲・吉備から北陸にかけて見つかっている特有の四隅突出貼石墓ではなく四隅が突出せず、丹後特有の墓の形であることも独立国家が栄えていたとも考えられています。
明石墳墓群は、弥生後期-古墳前期(2-3世紀)の築造で、同王国を支えた地元の有力者が被葬者とされる丹後特有の台上墓として貴重な遺跡です。


作山古墳2号墳

加悦町教育委員会では「この時代に、すでに強大な権力を持つ王が丹後地方にいた証」と話していました。弥生時代後期後半の岩滝町にある大風呂南墳墓、峰山町の赤坂今井墳墓、古墳時代前期後半の蛭子山古墳などの大型墳墓や古墳に代表される古代丹後王国の首長権力の出現が、弥生時代中期後半までさかのぼり、約500年間の長期にわたる繁栄が見えてきました。日吉ケ丘遺跡は古代丹後王国の謎を紐解く鍵が秘められているともいえます。

加悦町日吉ケ丘墳墓跡の墳墓は、この地域の支配者の墓とみられ、新聞紙には「弥生中期最大級の墳墓、丹後王国のルーツ見えた」という活字の見出しが踊りました。(のちの)丹波地方などにも影響力を持った独立王権「丹後王国」の可能性を示す重要な遺跡とされ、専門家も注目しています。組み合わせ式木棺の跡から我が国最多の真っ赤な朱と緑色凝灰岩製管玉677個以上が出土しています。

付近には弥生時代後期末頃から古墳時代前期中頃(2~4世紀)に造られた総数40基の墳墓群があります。加悦町古墳公園(所在:京都府与謝郡与謝野町明石(あけし)として整備されています。

加悦町古墳公園にほど近い与謝野町温江には、日本海側最古の大型前方後円墳として国の史跡に指定されている白米山(しらげやま)古墳があります。出土した土器から古墳時代前期中葉(4世紀中頃)のころ築造された墓であるとされています。丹後地域独自の王権と支配体制を兼ね備えた丹後王国が野田川を中心に存在したとする説すらあります。

野田川下流域にある与謝郡岩滝町大風呂南墳墓(国重要文化財)は、弥生時代後期(200年ごろ)に丘陵の中腹に築造されたとみられる2基の台状墓からなり、その1号墓からはガラス製の釧(くしろ:腕輪)が見つかり、コバルトブルーに輝く全国で初めての完成品です。西谷3号墓(島根県出雲市)でも同じ材質の巴型勾玉がみつかり、出雲と丹後の交易が有力視されます。また、同時に鉄剣11本(同時代の一つの墓からの出土例としては全国最多)銅釧13個などの副葬品も多数出土し、弥生時代の大型武器の副葬として最大の量であり、当時、手に入れにくいものとされていた鉄製武器を大量に保持していた大きな力を持った権力者、軍事的統率者が埋葬された墓と推定されます。

弥生時代前期の出土品の中に面白い遺物があります。竹野川の河口右岸の砂丘上にある竹野(たかの)遺跡から出土した土笛(陶けん)です。6つの穴が開いた楽器で、尺八あるいはオカリナのような音がするという。この遺物は渡来系集団が弥生文化を島根、鳥取を経て日本海ルートで伝えた証だそうです。野田川が注ぐ天橋立の内海を阿蘇海というが、古代にはもっと加悦谷の奥まで入り込んいて、この付近は港に陸揚げされた西国(中国地方の)や越の国(越前から越後)、あるいは朝鮮半島からの物資を丹波を抜けて畿内へ輸送する交易ルートの要衝ではなかったでしょうか。日本海から大和に通じる最短ルートだからだ。さらに言うならば、カヤ(加悦):伽耶とかシラゲヤマ(白米山):新羅という地名自体が、当時の朝鮮半島との関係を示唆しているようにも思えます。

弥生人はウルトラマン?


与謝野・温江遺跡で人面付き土器京都新聞 2月26日/2009

弥生人の顔を模した人面付き土器(京都府与謝野町)京都府埋蔵文化財調査研究センターは26日、与謝野町温江の温江遺跡で弥生時代前期(紀元前4世紀)の「人面付き土器」が出土したと発表した。人の顔を写実的にかたどり、とさかのような頭は一見、ウルトラマンのよう。同センターは「弥生人の顔や当時の習俗を示す貴重な資料」としている。
土器は、弥生前期の集落を囲む溝跡(幅約2メートル、深さ1・2メートル)から、つぼやかめの破片とともに出土した。顔の長さ、幅ともに7・6センチ。切れ長の目や筋の通った鼻が特徴的で、見る角度によって表情が変わる。後頭部にくしで結ったまげがあり、その上にかんざしのようなものを刺していたと見られる穴もあった。両耳にも耳飾りを通していたような穴が開いており、同センターは「土器には農耕祭祀で使う特別な道具を入れた可能性が高い」と推測している。

土器は3月15日まで、同町立古墳公園はにわ資料館で公開する。(3月13日偶然に公開中で見てきました。)

設楽博己・駒澤大教授(日本考古学)の話

髪型は、先祖の住む世界から米を運び、豊作をもたらす使いの鳥の「とさか」を表現していると思われ、儀式で鳥にふんして踊る人の顔を表しているのではないか。

7.加佐郡(かさぐん)

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1.加佐郡(かさぐん)

旧丹後國加佐郡は、おおむね現在の京都府舞鶴市と京都府福知山市大江町、宮津市由良の範囲です。この地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われています。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれました。古代に国造が分立した時代には、加佐郡は丹国の領土に入っていました。7世紀に丹波国に属する加佐評として建てられ、713年に丹後国が分けられるとこれに属しました。平安時代と室町時代には加佐郡に丹後の国府が置かれていました。古代丹後地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。火(日)の神、「天火明(あめのほあかり)」を先祖神とするこの人びとを、「海部(あまべ)」といい、大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのは、5~6世紀、さらに凡海連(おおしあまのむらじ)として、海に面する古代丹後の郷を統治しはじめたのは、6~7世紀ではないかと考えられます。

この若狭から丹後にかけての古代海部と舞鶴の関係は、『丹後風土記』や、地元の伝説に色濃いことはわかっていたのですが、昭和50年代に入って、古代製塩を中心とする考古学的事実があきらかにされたことと、近年、古代学に脚光をあびて登場した、宮津籠(この)神社の国宝「海部氏系図」が、にわかに、この開係をうかびあがらせました。

丹後、若狭の古代海人(かいじん)たちの国『アマベ王国』発祥の地は、青葉山を中心とする東地域である可能性がつよくなってきたのです。

幻の大地「凡海郷(おおしあま)」

「昔、大穴持(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神がこの地にこられ、小さい島を寄せ集めて、大地をこしらえられた。これを凡海郷という。ところが大宝元年(701)3月、大地震が三日つづき、この郷は、一夜のうちに青い海にもどってしまった。高い山の二つの峯が海上にのこり、常世島(とこよじま)となる。俗には、男島女島(おしまめしま)といい、この島に、天火明(あめのほあかり)神、目子郎女(めこいらつめ)神を祭る。海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)の祖神である。」(『 丹後風土記』より)
この消え去った大地、凡海郷は、10世紀の百科辞典『和名抄(わみょうしょう)』の中に、加佐郡内に実在した郷として名があり、「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年の項に「丹波国大地震三日続く」と記しています。
海部系図は、何をかたるのか

海部系図のはじめの方に記される神々を祀る社として、勘注系図は、倉梯山の天蔵社(あまくらのやしろ)、祖母谷山口社(そぼたにやまぐちのやしろ)、朝来田口社(あせくたのくちやしろ)、その他、多くは東地域の社をあげ、実在した人物の初出である16世大倉岐命(おおくらきのみこと)は小倉の布留神社にまつり、長谷山大墓に葬ると記し、祖神「天火明神」は別名、大弥加宣志楽別(おおみかげしらくわけ)といったと記し、海部の発祥が、古代志楽郷(大浦の内側を含む)と深くかかわることがわかります。また、海部直の弟、凡海連(おおしあまのむらじ)のくだりに、「小橋」「磯嶋」の名があり、小橋の葛島(かつらじま)神社の故地、磯葛島から、昭和60年に、祭祀遺跡としての製塩土器も発見され、凡海連と、小橋、あるいは三浜丸山古墳との関係が、さらに浮びあがってきました。

3.若狭湾(わかさわん)

若狭湾は、福井県から京都府にかけての海岸地形を形成する、日本海に深く入り込んでできた湾です。福井県北部西端の越前岬と京都府北端の経ヶ岬(きょうがみさき)を直線、及び本州の海岸線によって囲んだ海域を指し、2,657 km2の面積を有します。日本海側では珍しい大規模なリアス式海岸が特徴です。

湾内には敦賀湾や美浜湾、小浜湾、舞鶴湾、宮津湾などの支湾があり、観光名所として日本三景の一つ天橋立、日本三大松原の一つ気比の松原があります。その風光明媚な地形は1955年に笙の川以西の全湾岸周辺が若狭湾国定公園の大部分に、また1968年には東岸周辺の一部が越前加賀海岸国定公園の一部に指定されていましたが、2007年8月3日に若狭湾国定公園のうち由良川以西が分離独立し、大江山などを加えて新たに丹後天橋立大江山国定公園となり、3つの国定公園を有することになりました。


経ヶ岬

若狭湾に点在する港は古来より良港でしかも京都にも近いため、鯖(サバ)などの魚介類の水揚げ地(いわゆる鯖街道)とされてきました。日露戦争当時、日本海軍はロシア海軍が本土に上陸する地点は若狭湾であると想定し、京都への侵攻を防ぐため舞鶴に鎮守府を、また舞鶴から高浜町にかけての海岸沿いには砲台を備えた要塞を設置しました。現在の舞鶴

4.舞鶴の古墳

舞鶴の古墳は分布調査の中間発表で、すでに300基をこえますが、この多くの古墳の中で、最大の石室(内璧の長さ9m、玄室巾は2.4m)は、白杉神社境内の、「鬼のやぐら」古墳で、丹後全体でも十指の中には入ると思われます。後背地のない海辺に近いこの古墳は、海部とのかかわりが考えられます。このような海岸部に展開される古墳は、他にも、田井に現存し、土器その他から存在を追認できる所として、瀬崎、佐波賀、野原などがあり、群集墳である三浜丸山古墳とともに海部にかかわるものであると思われ、古代舞鶴の海辺が、海人達の集う場所として賑ったようすがしのばれます。▲ページTOPへ

大川神社(おおかわじんじゃ)

京都府舞鶴市大川神社は、京都府舞鶴市大川にある神社である。社格は式内社(名神大)、府社。
主神 保食神(うけもちのかみ)相殿 句句廼馳神(木神)、軻遇突智神(火神)、埴山姫神(土神)、金山彦神(金神)、罔象水神(水神)大川神社は名神祭に朝廷からあしぎぬ(絹の布)や綿、木綿などを贈られた加佐郡唯一の神社で、老人嶋神社から祭神を移したという伝承をもっています。社伝によれば、「顕宗天皇乙丑年(485年)に宮柱を立て鎮祭、神位は貞観元年(859年)に従五位、同13年(861年)には正五位下に昇進した」とある。延喜式神名帳においては名神大社に列せられ、また六国史所載の神社である。近世に至り、田辺藩主細川氏の保護を受けた。
1872年(明治5年)に郷社、1919年(大正8年)に府社に列せられた。
五穀豊穣、養蚕および病除、安産の守護神として近隣に知られ、北陸や関西地方からの参拝者も多い。

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たじまる 古墳-6

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
古墳カラー:丹色(にいろ)#e45e32最初のページ戻る次へ

丹後国旧中郡(京丹後市大宮町、峰山町)竹野川流域の古墳群

 

概 要

丹後半島最北端の経ヶ岬から西へ、丹後半島の背骨を流れきる丹後最長の竹野(たかの)流域は、丹後四町(大宮町、峰山町、弥栄町、丹後町)を経て、日本海に流れ込む全長28kmにも及ぶ丹後一の長流です。縄文から弥生へ、さらに古墳時代へと数多くの遺跡・古墳を今に残しています。「タニハのクニ」、古丹波(丹後)の文化を生み出した中心であったと考えられています。峰山町丹波は、古代の丹波国(のち丹後国)丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。周辺地域は丹後地方有数の古墳・遺跡の密集地となっています。

竹野川流域の古墳群

丹後町平海岸にある平遺跡(へいいせき)は、縄文時代前期から中期・後期・晩期にわたるものと判明し、深さ約4mにもおよぶ砂丘の包含層から多量の土器や石器が出土しました。 一説では丹波という国名の由来ではないかいわれている峰山町丹波の湧田山(わきたやま)古墳群は、丹波と矢田の字界の丘陵上に立地し、大型前方後円墳を盟主とし、大小の円墳を主体として構成される総数約42基からなる丹後地方屈指の古墳群です。当古墳群は、発掘調査が実施されないため、内容については不明ですが、同志社大学考古学研究会の行った地形測量調査によると、一号墳は、全長100メートルに及ぶ帆立貝式の前方後円墳であることがわかりました。

竹野川流域では、弥栄町の黒部銚子山古墳とともに、丹後町神明山(しんめいやま)古墳に次ぐものであり、丹後の古代豪族の勢力等を知る上で重要です。5世紀の初めころに築造された古墳とされ、ただし、墳形からもう少し古い古墳ではないかという説もあるようです。 むしろ日本海側竹野川流域の地域で栄えていたのが丹波の中心地であったのかも知れません。丹後半島の最東北部に位置する丹後町では、神明山古墳(丹後町宮小字家の上)、産土山古墳、横穴式石室を内部主体とする片山古墳大成古墳群金銅装双龍環頭太刀柄頭が出土した高山古墳群などがあります。大宮町は、丹後大宮のひとつ大宮売(おおみやめ)神社と周辺からは古代弥生時代の頃からの遺跡が多数見つかり、女王墓と確認された大谷古墳、丹後では最大規模の石棚を持つ横穴式石室の新戸古墳、弥生時代からの方形台状墓を持つ小池・帯城の古墳群などが残されています。丹後最大級の円墳であるカジヤ古墳(峰山町大字杉谷小字カジヤ)は、長径約73メートル、短径約55メートル、高さ約9メートルの楕円形の墳丘を持つ円墳でした。昭和47年2月に土木工事に伴って峰山町教育委員会によって発掘調査が行われた結果、竪穴式石室一、木棺直葬三の合計四つの主体部と多くの副葬品が発見されました。副葬品は第一、三、四主体部から検出され、特に第一主体部の副葬品は質量ともに群を抜いており、この古墳を築く上での中心的人物と思われています。副葬品は銅鏡・鉄器類・玉類・石製腕飾類等からなりますが、特に注目されるのは鍬形 石、車輪石、石釧等の石製腕飾類が一括して出土したことは、丹後地方では初めての例です。畿内との交流を深めつつあった古墳時代前期における当地方の有力者の遺品としてその資料的価値はきわめて高い。また京丹後市峰山町赤坂の赤坂今井墳丘墓は、弥生時代後期としては国内最大級の墳墓であり、世界で2例目となる中国の顔料「漢青」(ハンブルー)が含まれたガラス管玉が出土するなど古代中国との交流をうかがわせる内容で、鉄(銅)製武器や工具類、玉類が同時期の他地域の墳墓に比べ非常に多く副葬されていることも注目されます。赤坂今井墳丘墓は、ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計211個を使った豪華な「頭飾り」や垂下式の豪華な「耳飾り」が発見されました。玉類はつながった状態で三連になっており、葬られた人物の頭を取り巻くように並んでうことから、頭を飾る宝冠のようなものと推測されています。このような玉類を使った頭飾りの出土は、国内や中国・朝鮮半島でも例がありません。また、この古墳の被葬者が埋葬された時期は、邪馬台国の卑弥呼の時代と重なります。他にも、両袖式横穴式石室の桃谷古墳(峰山町)、弥栄町では、府内では例をみなかった装飾付水さしと角杯形土器が出土した大耳尾古墳群ニゴレ古墳、さらに1994年、日本最古の魏鏡と一躍全国に名をはせた弥栄町と峰山町にまたがる太田南古墳など、有名・無名を問わず数え切れない多くの古墳が存在しています。

神明山古墳(しんめいやまこふん)

【国指定史跡】 京都府京丹後市丹後町大字宮

古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で墳丘長190メートル。丹後半島を貫く竹野川の河口付近に位置する、網野銚子山古墳に次いで日本海側最大級の丹後三代古墳です。葺き石と丹後型円筒埴輪列をもつ三段築成。丹後一帯を支配した豪族の墓と推測されています。

かつて古墳の北西にあった潟湖・竹野湖のほとりにあり、砂丘で海と隔たっていることが指摘されていました。船と船を漕ぐ人物の埴輪が出土しており、古代の海岸線と平行に築造されていて、葺石を貼っているから海上から眺めると白色に輝いてよく目立ち、港の位置を示す標識にもなっていました。同様に4世紀の後半以降、港との関係で大規模な前方後円墳が現れ、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、その地域最大の古墳も港との関係で出現したといわれています。このようなことから、丹後王国(丹後政権)論が提出されています。

竹野神社(たかのじんじゃ)

京都府京丹後市丹後町宮小字宮谷245

丹後国竹野郡 式内大社。

主 祭 神  天照皇大神

相  殿  竹野媛命 日子坐王命 建豊波豆良和気命

国道178号線から府道75号線を南に下ると、史跡神明山古墳の傍らに鎮座しています。「延喜式」神名帳に記される式内大社に比定される立派な神社です。通称「斎宮(いつきのみや)」。社殿はあったが、
末社斎宮神社本殿は、本殿とは対照的な小振りな一間社流造であるが賑やかな装飾をもつ。中門は神社の門としては珍らしい向唐門(むかいからもん)で、左右に桟敷舎(さじきしゃ)と神輿庫(みこしこ)付属しています。

中門は神社の門としては珍しい向唐門の派手な印象を与える建物で、いずれも京都府登録文化財として指定されています。左右に桟敷舎(さじきしゃ)と神輿庫(みこしこ)を配しています。

鳥居の横には小さな池があり小さな社が建っています。隠野とは、黄泉に通じる国という意味。
竹野媛命は、竹野の里を国府としたとの伝承を持つ丹波の大県主由碁理の娘で、開化天皇の妃となり、比古由牟須美命を生んだと『古事記』に記載されている。竹野神社は竹野媛は年老いて郷里に帰り、天照大神を奉祀したのが創建とされる。斎宮の創祀もその頃と言う。
当社一体の地域は早くから開けた所であった。弥生前期の竹野遺跡をはじめ、神明山古墳、産土山古墳などが知られている。

現在の社殿は享禄一年(1528)の火災で焼けたあと仮普請のままでしたが、文政十三年(1830年)に再建されたものです。
本殿は規模の大きな一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で装飾が抑えられた荘厳な建物であり、斎宮神社本殿は対照的な小振りな一間社流造で賑やかな装飾を有しています。現在の社殿は文政十三年(1830年)に再建されたものです。
本殿は規模の大きな一間社流造で装飾が抑えられた荘厳な建物であり、

摂社斎宮(いつきのみや)神社

斎宮神社には、第三十一代用明天皇の皇子である、麻呂子親王も祀られ、鬼賊退治と丹後七仏薬師の伝承があります。斎宮神社本殿は対照的な小振りな一間社流造で賑やかな装飾を有しています。これらの建物は、間人(たいざ)村や当村の大工により建立されたそうです。

黒部銚子山古墳


京丹後市弥栄町黒部、竹野川右岸の丘陵端部に立地する大型前方後円墳。葺石・円筒埴輪の存在が知られている。規模は全長105m、後円部径70m、高15m、前方部幅50m、高さ11m。二段構成 前方部は東南を向く。墳丘は丘尾を切断して構築され、墳丘斜面にテラスを設ける二段築成で、円筒形の埴輪片が採取されていることから、テラスには円筒埴輪が据えられていたと推定されています。また、斜面には葺き石が施されていたことが伺えます。

墳丘の依存状態はきわめて良好で、非常に整った墳形を呈しています。発掘調査が実施されていないため、内部施設、副葬品については不明ですが、埴輪片から推定すると、築造時期は古墳時代前期末~中期前半と考えられます。大型前方後円墳の典型的な姿をとどめ、塙の特長が畿内で見られるものと酷似しているため、丹後地方の古代豪族の勢力や畿内との関わりを考える上でも貴重な古墳です。

太田南古墳

大田南古墳群は、弥栄町字和田野に所在し、丹後半島を北流する竹野川の中流域左岸、竹野郡弥栄町と中郡峰山町との町境の丘陵上にあります。古墳群は、2号墳とその南側に位置する4号墳、さらにその南に5号墳が位置し、2号墳の東側丘陵裾部に位置する6号墳の計三基の前期古墳を含んでいます。5号墳は、平成6年(1994年)3月に「青龍三年鏡」が出土し、当時は日本最古の魏鏡「卑称呼の鏡」が出土と騒がれました。この鏡は三角縁神獣鏡ではなく、中国にも多く存在する方格規矩四神鏡でした。しかも、青龍三年は西暦235年に当たり、卑弥呼が中国の魏に使者を遣わした西暦239年(238年説も有り)の4年前の年号です。この鏡が丹後に出土したことで、邪馬台国以前に丹波にも強力な支配権を持った豪族が存在し、日本海をはさんで大陸・朝鮮半島と直接に交流していた可能性が十分に考えられるようになりました。また1997年に青龍三年鏡と大きさ、重さのものが大阪府高槻市の安満宮山(あまみややま)古墳で見つかりました。

2号墳は、墳頂部に18メートル×14メートルの平坦面をもつ22メートル×18メートルの方墳と考えられています。主体部は、2.3メートル×0.6メートルの舟底形の木棺で古墳時代前期の古墳です。本出土品のなかで最も注目される遺物は、画文帯環状乳神獣鏡であり、鈕に龍文様を施しています。銅鏡は、白銅質の画文帯環状乳神獣鏡であり、磨滅のため、「吾□□明」「日月□□」「□幽商三」「宜孫口口」など数文字が判読できるのみでした。中国四川省の官営工房で作成された可能性が高いもので、二世紀後半の早い頃に製作されたものと推定されています。
また、近くの弥栄町溝谷には溝谷神社(みぞたに)があります。祭神は「須佐之男命」ですが、別名「新羅大明神」というのが朝鮮半島と交流をほのめましています。

丹後國中郡(丹波郡) 京都府京丹後市大宮町周枳1020式内大社・二座 旧府社 丹後国二宮

主祭神 大宮売神 若宮売神
天照大神に仕え天皇を守護する八神の一柱であり、織物と酒造を司る大宮売神(おおみやめのかみ)、食物・穀物を司る女神である若宮売神(わかみやめのかみ、豊受大神)の二神を祀る。大宮売神は天鈿女命であるともされる。

当宮の創立年代は詳らかではありませんが、境内から出土する多数の遺物により、古代弥生時代の頃、すでに人々の生活があり、稲作民による祭祀、呪術的な力をもつ国の中心の地であったといわれます。

「新抄格勅符抄」によると大同元年(806年)に神封七戸を得たとされ、貞観元年(859年)には従五位上の神階を賜わっている。大宮売神を祀る最も古い神社である。六世紀の頃、大和王朝に統一された大宮売神は、宮中八神の一柱で、造酒司(みきつかさ)にも奉斎されこの神を祀るもっとも古い社で、境内全域は、京都府の古代祭祀史跡に指定されています。

木彫りの御神像(二体、平安初期)や重要文化財指定の春日型石燈籠(二基。鎌倉時代)があります。また、大宮町の名は、社名に由来します。

境内そのものも祭祀遺跡であり、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての土器や勾玉が出土しており府の指定文化財となっている(大宮売神社遺跡)。本殿の裏手は「禁足の杜」となっている。

忠霊社旧本殿は元禄8年(1695年)に建てられたとされ、丹後半島では珍しい隅木入春日造。昭和2年(1927年)の丹後大震災で損壊し、現在は忠霊社としている。
当社から500mほどのところに石明神遺跡(古墳時代後期の横穴式石室跡)がある。境内には石燈籠2基があり、うち1基には「徳治2年3月7日」と刻まれている。鎌倉時代の石造美術品として貴重で国の重要文化財に指定されている。また境内そのものも祭祀遺跡であり、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての土器や勾玉が出土しており府の指定文化財となっている(大宮売神社遺跡)。本殿の裏手は「禁足の杜」となっている。

たじまる 古墳-5

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

丹後国旧竹野郡(福田川・離湖流域)

古墳丹色(にいろ)#e45e32最初のページ戻る次へ

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1.概 要

京丹後市網野町は、旧竹野郡(たかのぐん)で、日本海に注ぐ福田川と鳴き砂の浜で有名な琴引浜などの海水浴場、京都府下で一番広い湖である離湖(はなれこ)があり、古くは離湖と西の池があって福田川が流れ込んで日本海に注いでいたといわれています。丹後ちりめんの生産で知られています。木津温泉は京都府内でももっとも古い温泉で、別名「しらさぎ温泉」とも呼ばれています。奈良時代の僧侶行基が、しらさぎが傷を癒しているのを見て発見したという伝承も残っています。城崎(きのさき)温泉もコウノトリが癒していたのを見て発見された伝承があります。また、日本の文献で最初に柑橘が登場する記紀では、田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされ持ち帰った非時香菓(ときじくのかぐのみ)は、その後田道間花といわれ省略されて「たちばな」となり、橘と書くようになりました。その後橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」になったともいわれています。

2.網野銚子山古墳

写真:京丹後市

日本海沿岸部では最大規模の前方後円墳 網野銚子山古墳

網野町では、網野銚子山古墳があります。日本海に注ぐ二級河川福田川の下流右岸の丘陵にも連なる台地上に築かれています。築造時期は、古墳時代前期末~中期初頭(4世紀末~5世紀初)と推定され、日本海沿岸部の前方後円墳で最大の規模を誇ります。隣りの弥栄町にも黒部銚子山古墳(全長100m) という古墳があり、これと区別するために網野銚子山古墳と呼ばれることが多いです。

この古墳は、崇神天皇の時代、四道将軍の一人としてこの地に遣わされた丹波道主命の墓ともいわれています。しかし、丹波道主命の墓は、弥栄(やさか)町の黒部銚子山古墳にも伝承が残っています。▲ページTOPへ

3.網野神社(あみのじんじゃ)


式内社 旧府社
京都府京丹後市(網野町)網野789
祭神:日子坐王(ひこいますおう・水江日子坐王)、住吉大神、浦嶋子神創建は10世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座されていたものを享徳(きょうとく)元年(1452)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。
現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正11年(1922)に建てられたものです。拝殿は入母屋造(いりもやづくり)の正面千鳥破風(しょうめんちどりはふ)と軒唐破風(のきからはふ)付きで、こちらも大正11年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和2年の丹後大震災の被災により、昭和4年(1929)に再建されました。平成19年(2007年)~平成20年(2008年)、摂内社の蠶織神社(こおりじんじゃ)ともども「平成の大改修」が行われました。


拝殿

国道178号線を網野町に入ると右手(東)になだらかな丘が目に入ってきます。これが日本海側で最大の前方後円墳銚子山古墳です。大きな神社なのに、案内標識が見当たらずしかも町中は道が狭いので一通が多く場所がわかりにくくて苦労した。日吉神社や静神社、嶋子神社の方がわかりやすく、先に訪れる。


社殿は最近改宗されたようで綺麗で立派

(以下境内の説明) 日子坐王は、第九代開化天皇の皇子とされており『古事記』の中つ巻、第十代垂仁天皇の御代に日子坐王は勅命により丹波國(古くは丹後も丹波に含まれていました)に派遣されて土蜘蛛の首領「玖賀耳之御笠」を誅されたとあり、また別の記録にはその後、日子坐王は丹波に留まり、國造りをなされたをなされたとあります。さらに日子坐王は網野神社の他、丹後町の竹野(たかの)神社などに祀られ、網野銚子山古墳の主ではないかと伝えられています。


拝殿と本殿


本殿 千木の先が鋭角なのは男神を表すという。

浦嶋太郎伝説

 

水江浦嶋子神 銚子山古墳の地続きに日下部氏の屋敷がありました。日下部曽却善次(くさかべそきゃくぜんじ)夫婦には子供がなく、子宝に恵まれたいと百日祈願をしていました。満願の夜、夫婦は不思議に同じ夢を見ました。
神から「二人の願いを聞き届けよう。明朝、福島へ来い」とのお告げです。翌朝、出かけると赤子が置かれており、夫婦は「嶋子(しまこ)」と名付け大切に育てました。
釣り好きの若者に成長した嶋子は、澄の江での漁の時は釣った魚を一旦磯の「釣溜(つんだめ)」にビクのまま漬けておいたといいます。

ある日、嶋子は福島で大変美しい娘に出会いました。乙姫様でした。二人は、夫婦の約束をし、小船で竜宮城へ行きました。手厚いもてなしを受け三年の月日が経ちました。
嶋子は故郷が恋しくなり、帰ることになりました。乙姫様が「お別れに手箱を差し上げます。再びお出でくださる気持ちがあるなら、決して中をお開けなさいますな」と美しい玉くしげ(玉手箱)を手渡しました。
嶋子は懐かしい万畳浜へ帰ってきました。ところが、屋敷に着いてみると、雑草が茂って一面の荒野原に……。竜宮城での一年は、人間界の何十年にもなっていたのです。嶋子は悲しみ、途方に暮れました。その時、玉くしげのことを思い出し、これで数百年の昔に戻れるのではと箱の蓋を開けました。すると中から白い煙が立ち上り、嶋子はしわだらけのおじいさんに。驚いた嶋子は思わず自分の頬のしわをちぎって榎に投げつけました。その後、嶋子がどうなったかはわかりません。今日まで伝わる説話や童話で有名な「浦嶋太郎さん」は、この水江浦嶋子神が、そのモデルとなっています。網野には他にも浦嶋子をお祀りした嶋児神社(網野町朝茂川)や六神社(網野町下岡)、嶋子が玉手箱を開けた際にできた顔のしわを悲しみのあまりちぎって投げつけたとされる「しわ榎」(網野銚子山古墳)など、水江浦嶋子神に関わる史蹟や伝承が今日までたくさん残っております。


摂内社の蠶織神社(こおりじんじゃ)境内には摂内社がたくさんあります。

コウノトリ伝説

由緒

『竹野郡誌』では、天湯河板挙命が但馬国から当地の水江に来て白鳥を捕ろうとし、松原村の遠津神に祈誓して水江に網を張ったので、この付近を水江網野と称するようになったという。

現在の網野神社付近はかって墨江(離湖)とよばれ、西に広がっていた浅茂川湖の水が日本海に入る河口でした。

当地には全長200m弱の日本海岸最大の前方後円墳・銚子山古墳があり、旧社地の後方にあたる。網野神社はこの地に居住した者の祀る神社でした。現社地の東南800m。

当町内では網野神社をはじめ、浅茂川・小浜・郷・島・掛津の各区で天湯河板挙を「早尾(はやお)神社」神として祀っています。

網野地名の起源が語られています。「天湯河板挙命(アマノユカワタナノミコト)」(他にも異なる表記法あり)が登場し、網野地名の起源が語られている。その意味でもこの神(人物)は当地にとって重要なキャラクターであり、その名は次のように『日本書紀』に登場する。(但し『古事記』では“山辺(やまのへ)の大(おおたか)”という名で現れる)

「垂仁帝の子誉津別王(ホムツワケノオウ)は物が言えなかったが、ある日大空をとぶ白鳥をみた時『あれは何か』と口を動かした。垂仁帝は鳥取造(トトリノミヤッコ)の先祖である天湯河板挙に白鳥を捕えるよう命じたので、かれは遠く但馬(一説には出雲)まで白鳥を追ってこれを捕えた。」(原文の大意を口語になおした)
但馬・丹波(のち丹後)の伝承では天湯河板挙が白鳥を迫った道筋は、但馬八鹿(ようか)町の網場(なんば)和那美(わなみ)神社、豊岡市森尾 阿牟加(あむか)神社、同下宮(しものみや) 久々比(くぐい)神社を経て網野(松原村)に到り、鳥取(現弥栄町)でこれを捕えたというものです。

4.嶋児神社

京丹後市網野町八丁浜(京都府京丹後市網野町浅茂川明神山382)

浦島太郎は、後世につたえられた名前で、風土記では水江浦嶋子(みずのえのうらしまのこ)となっており、この嶋子を祀る神社が浅茂川の海岸に鎮座する嶋児神社です。近くに鳥居は大変大きく立派なものです。網野町浅茂川の海岸に鎮座します。祠(ほこら)が祀られています。

嶋児神社から左遠方に見える福島は、浦島太郎と乙姫がはじめて出会った場所といわれ、ここには乙姫をまつった福島神社があります。

画像:京丹後市

銚子山古墳の前方部付近にある榎の大木。竜宮から帰った浦島太郎(浦嶋子)が、ここで玉くしげ(玉手箱)を開けて顔じゅうしわだらけになり、悲しみのあまりしわをちぎって投げつけると、樹皮がしわで凹凸になったと伝えられています。【浦嶋神社】

5.静神社

京丹後市網野町磯当地で禅師の娘として生まれたとされる静御前は、父の死後、母とともに京都へ上り白拍子となりました。その後、舞を源義経に見そめられ、側室となりました。しかし義経は兄・頼朝に追われ、子どもも殺されてしまいます。

悲しみにくれ故郷の磯に戻った静御前は、二十余歳の若さでこの世を去りました。義経への愛を貫いた静の気丈さ。それをはぐくんだ故郷・磯には、静御前をまつる静神社が悲恋の面影を残すかのようにひっそりとたたずんでいます。また、周辺には静の庵跡に建つ静御前生誕の地の碑、義経が船を着けたといわれている入艘の浜と沖の飛び岩があります。

磯の善次の娘として生まれた静は6歳で父を亡くし、思い出多い故郷に別れを告げ、母と京都に上りました。巧みな舞と美しさで静は指折りの白拍子に成長。寿永元年(1182年)7月、後白河上皇が京の神泉苑で雨乞いの神事を行った時、召されて舞った直後に大雨となり「日本一」のお誉めにあずかりました。  また堺の住吉神社の舞会で平家追討に来ていた源義経に見初められて側室に。静18歳、義経27歳でした。義経は平家滅亡後、兄頼朝と不仲になり静を連れて吉野山に逃げましたが、途中雪の中で別れ別れとなり、身重の静は捕らわれて鎌倉に送られました。文治2年(1186年)4月8日、鶴岡八幡宮で頼朝をはじめ並みいる武士たちの前であざやかに舞ったのは有名です。“吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな”と義経を慕って歌ったのが頼朝の怒りにふれ、幽閉されました。静は7月に男児を生みましたが子は由比ヶ浜に棄てられました。後に許され、禅尼となった母と懐かしい故郷の磯に帰った静は、生家跡に小さな庵をつくり、義経の無事と愛児の冥福を祈りました。20余歳の秋の暮れ、静は鳴き弱った虫が消えるように夫と愛児の後を追いました。 悲劇の英雄、源義経が愛した静御前を祀る神社で磯地区のはずれにあります。かって義経が磯の惣太という船持ちの豪族にあてた手紙が残っていたという記録もあります。この手紙や多くの遺品は、天明(てんめい)2年(1782年)の大火で神社とともに全て焼失してしまいました。現在の社(やしろ)は、元のところから西へ200m離れた位置に、静御前の木像とともに祀られています。
静御前を訪ねて源義経(みなもとよしつね)が磯にやってきたとき、船を着けた所が入艘の浜だという伝説が残り、500m沖合の海上に点々と浮かぶ黒岩・赤岩・日照岩(ひでりいわ)などが、凪の日は浮島のように、荒天の時には波を切って泳ぐ水鳥のように見え、まちの景勝地として知られています。

子午線塔日本標準時 最北端の塔
静神社に向かう途中、最北に子午線塔が建てられています。東経135度 北緯35度41分
参考:京丹後市観光協会
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6.丹池伝説

昔、大阪の鴻池(こうのいけ)に美しい娘がおりましたが、嫁に行かぬと両親を困らせていました。ある日、丹後に稼ぎたいと言い出したので、娘を立派なかごに乗せてお供をつけ、はるばる丹後まで送らせました。桜尾峠でかごを降ろして一休みしていると、不思議なことに娘は蛇になり「かつた池」と呼ばれる池に入って再び上がって来ませんでした。以後、人々は「蛇の池」と恐れて近づきませんでした。  池の主となった大蛇は時々里に出て農作物を荒らし、村人を悩ませました。ある時、有田集落(網野町加茂川)の三五郎という剛の者が、氏神加茂神社に祈願してこれを退治することになりました。三五郎は裸になると剣をくわえ、池深くに潜って大蛇を探しましたが池の底にヘダラ(ヒサカキ)の大株が沈んでいるだけでした。もしや大蛇の化身ではと斬りつけると、池の水が真っ赤に染まりました。その後、大蛇はあらわれなくなりましたが、池の水がいつまでも赤かったので「あか池」と呼ばれるようになりました。後にこのあか池が丹波の国名の起源となったと伝えられ、丹波を二分して北の一端を丹後と名付けたそうです。

俵野(たわらの)地内の西方、桜尾(さくらお)峠の北麓にあり、三面を山に囲まれた広さ約2haの池。この池は、背面の山地と峠の谷間から流れてきた水が砂丘によって堰き止められてできたものです。昔、難波の長者鴻池(こうのいけ)の娘が、この池に身を投じて大蛇になり、毎日人を困らせるので退治されたが、その時、水が赤くなったので「丹池(あかいけ)」といわれたという伝説も残っています。バス釣りもできますよ。

参考:京丹後市観光協会