【日本神話】4.日向神話3/3 「ウガヤフキアエズの誕生」・「神武東征(東行)」

6.ウガヤフキアエズの誕生

地上の世界に帰ったヤマサチヒコは、海の神様に教えられた通りに、釣針を投げて返しました。お兄さんのウミサチヒコは怒って受け取らず、困ったヤマサチヒコは魔法の瓊(たま)を取りだしました。すると海の波がザブンザブンとやってきてウミサチヒコをおぼれさせました。海におぼれるウミサチヒコは「私が悪かった。これからは何でもいうことを聞くから、どうか助けてください。」とヤマサチヒコに頼みました。ヤマサチヒコはもう一つの魔法の瓊(たま)を取り出しました。すると、波がスーッと引いてウミサチヒコはおぼれずにすみました。

ウミサチヒコが何でもいうことを聞くようになったので、ヤマサチヒコは安心してトヨタマヒメのための部屋造りを始めました。ところが、全部完成しないうちにトヨタマヒメがやってきて「もう産まれそうだ。」といいました。そして「私が赤ちゃんを産むときに、絶対に見たりしないでください。」と頼んで、部屋の中に入って行きました。ヤマサチヒコは、初めは約束通り外で待っていたのですが、だんだん我慢ができなくなって、とうとう部屋の中を覗いてしまいました。すると、なんとそこには赤ちゃんを産んでいる大きな鰐(ふか)がいたのです。ヤマサチヒコに本当の姿を見られたトヨタマヒメはとても悲しんで、産まれたばかりの赤ちゃんを残して海の世界に帰っていってしまいました。ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトと名付けられた赤ちゃんは、トヨタマヒメの妹のタマヨリヒメが育てることになりました。

大きくなったヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトは自分を育ててくれたタマヨリヒメと結婚しました。そして二人には、ヒコイツセノミコト・イナヒノミコト・ミケイリノノミコト・カムヤマトイワレビコという四人の子供ができました。

7.神武東征(東行)

ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメの四人の子供たちはやがて大人になりました。ある日、カムヤマトイワレビコは兄弟と話し合いました。「私たちの祖先は、この日本をより良い国にするためにこの地上に降りてきて頑張ってきた。しかし、この日本には私たちの知らない場所がまだあります。塩土老翁は『東の方角がよい』という。みんなで力を合わせて東の方に行って、この日本全体の中心となるような場所を作り上げよう。」

そうして四人は、海を渡ったり山を越えたりしながら、何年もかかって東の方角を目指しました。長い長い旅の途中では、戦いをしなければならないときもあり、目指していた場所にたどり着いたときにはカムヤマトイワレビコただひとりになっていました。
ようやく目指していた場所にたどりついたカムヤマトイワレビコは、そこでも最後の戦いをしなければなりませんでした。しかし、もう自分を守って一緒に戦ってくれる兄弟はいません。「もう勝てない。」と思ったとき、急に空が真っ黒になり、ピカピカに光る金色の鵄(トビ)が飛んできてカムヤマトイワレビコの弓の先にとまりました。この金色の鵄があんまりにも光るので、敵は眩しくて目を開けることができず戦うことができなくなりました。

こうして最後の戦いに勝ったカムヤマトイワレビコは橿原(奈良)という場所を日本の中心とし、そこで日本で初めての天皇(神武天皇・ジンムテンノウ)となり、より良い日本国のために働きました。

■考察 日向神話と現代

人間は生きていく上で、生と死という重大事をはじめ、人間の存在を問うさまざまな問題をかかえています。

それは古代の人にもわからない、また現代の人にも今もって答えられないものが多い。我々はそのような問題をかかえながら人間の歴史を生きています。
日向神話のなかで、古代のひとびとは疑問に思ったこと、不思議に思ったさまざまなことに答えを出そうとします。いくつかの例をあげてみよう。

(1)人にはなぜ死があるか

生あるものには必ず死があります。なぜ死があるか。これはいまだに古代人も現代人も解きえない問題です。この問題にとりくんだ古代人は、神話のなかで、美醜に迷った神の仕業と考えた。  地上に天降ったニニギノミコトは、クニツ力ミノムスメであるコノハナサクヤヒメを見染めて、結婚をクニツカミの父神に申し込んだ。父神は姉ヒメでシコメ(醜女)ではあるが、永遠に続く生命をもった大地の象徴であるイワナガヒメをもさしだすことを申し出た。ところがニニギノミコトは美しいコノハナサクヤヒメだけを選んだ。コノハナサクヤヒメは、春には花が咲きほこるが、やがてはかなく散って行く限りある生命の象徴であった。

クニツカミの父神は、ニニギノミコトの選択を大変なげいた。ミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれてくる神々や人皇たちは、生あるものは必ず死を迎えるという有限の生命をもってうまれてくることになった。不老長寿の願いは今もって人間の大きな関心事です。

(2)疑心と嫉妬は人の性である

疑心と嫉妬は人間の醜悪な性(さが)です。
ニニギノミコトと結婚したコノハナサクヤヒメは一夜にして身ごもった。ミコトはいくら私がアマツカミであっても一夜をともにしただけで身ごもるとは、自分の子供ではないのではないかと疑念をもった。このことを大変悲しんだヒメは、出口のない産屋に入り、火を放って無事に出産することで身のあかしをたてた。

疑心と嫉妬は人間の世界では絶えることがないが、これに対処する方法も決め手もなく、いつの世にも悩みはつきない。古代の人々は、人間の能力を超えたところにその解決をもとめた。

(3)好奇心と海陸での生活

トヨタマビメはホオリノミコトのミコを生むために、鵜の羽の産屋を作りはじめた。それが終わらないうちにミコが生まれそうになった。そのときヒメはホオリノミコトに「子を生むときは私の身は本国(ワダツミの世界)の姿になるので見ないでください」と頼んだ。

見るなといわれれば、どうしても見たくなる。ふしぎに思って覗いてみると、8丈もある大きな鰐がのたくっていた。トヨタマビメは本姿を見られたことを恥じて海への道をふさいで海宮に帰った。

人間は未知のものに対する大きな好奇心を持っています。見るなといわれれば見たくなる。それに対して自制できない弱さをも持っています。

また人間はどうして海で生活できないか。どうして海と陸の間で往来ができないのか、というのも古代の人々以来の課題です。古代の人々は好奇心に駆られ自制できなかったアマツカミの末孫である人間に、ワダツミノカミが道を閉ざしたからだとした。

霧島神宮 (1995参拝)

鹿児島県霧島市霧島田口2608-5
主祭神:ニニギノミコト天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
コノハナサクヤヒメ(木花咲耶媛尊)
ヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊)
トヨタマヒメ(豊玉媛尊)
ウガヤフキアエズノミコト(??草葺不合尊)
タマヨリヒメ(玉依媛尊)
別表神社

御由緒:欽明天皇の時代、慶胤(けいいん)なる僧侶に命じて高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが始まりとされる。実際の所は高千穂峰に対する山岳信仰から始まった神社であろう。

高千穂神社(たかちほじんじゃ)

宮崎県西臼杵郡高千穂町
主祭神 高千穂皇神 十社大明神
国史見在社論社・旧村社・別表神社
引用:宮崎県 「民話と伝承」

■日本神話

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【日本神話】 第3巻「出雲編」 第2章 因幡の白ウサギ

出雲大社 大国様と白うさぎ像

出雲の国にだいこくさま(大黒様)という神様がいらっしゃいました。その神様はおおぜいの兄弟があり、その中でもいちばん心のやさしい神様でした。
「因幡(いなば)の白ウサギ」で有名な大黒様は、このオオクニヌシ(大国主)ノカミ(大国主神)のことをいいます。

ヤマタノオロチを退治して一躍ヒーローになったスサノオの孫の孫の孫、つまりスサノオから数えて6代目にオオクニヌシ(大国主)が誕生しました。

たくさんの兄弟の末っ子としてオオクニヌシ(大国主)は出雲に生まれ、出雲に育ちましたが、何かにつけてお兄さんたちからいじわるな仕打ちを受けていました。しかし、そんな兄たちのいじめにも負けず、オオクニヌシ(大国主)は心やさしき神として成長していきました。

ある日のこと、オオクニヌシ(大国主)の兄たちは、美しいことで評判のヤカミヒメ(『古事記』では八神上売・八上比売)という美しい姫が いるという噂を聞き、みんなでプロポーズしようと、出雲から因幡(いなば・今の鳥取県東部)の国に向けて出かけました。 オオクニヌシ(大国主)も兄たちの家来のように荷物持ちとして、大きな袋をかついで一番後ろからついて行きました。

兄弟たちが気多の岬(けたのみさき)という海岸を通りかかったときのことです。 全身の皮をむかれて真っ赤になった白ウサギが泣いているではありませんか。

おなじみの「大きな袋を肩にかけ、大黒様が来かかると、そこに因幡(いなば)の白ウサギ、皮をむかれて赤裸」という童謡の場面です。そして、その気多の岬(けたのみさき)が現在の鳥取県白兎海岸(はくととかいがん)だといわれています。

隠岐の島にいた白ウサギは、なんとかして向こう岸に渡りたいと思っていました。 しかし、船もありません。 そこでワニ(シュモクザメとされる)をだまして渡ることを思いついたのです。

海岸にいたワニに、自分の仲間とワニの仲間とどちらが多いか比べてみようと声をかけ、向こう岸までサメを並ばせました。 そして、ワニの数を数えるふりをして背中を渡って行ったのです。あと少しで岸に着くというときになって、白ウサギも油断したのでしょう。 ワニをだましたことをしゃべってしまいました。

さあ、大変!白ウサギは怒ったワニにつかまって、全身の皮をすっかりはがされてしまったのです。

白兎神社前 鳥取市白兎592

兄弟たちはそのうさぎに意地悪をして、海水を浴びて風にあたるとよいと嘘をつきました。

そのうさぎはだまされていることも知らずに、言われるまま海に飛び込み、風当たりのよい丘の上で風に吹かれていました。

そうしていると海水が乾いて傷がもっとひどくヒリヒリ痛みだしました。

前よりも苦しくなって泣いているうさぎのところに、後からついてきただいこくさまが通りかかりました。

それから、私が痛くて泣いていると先ほどここを通られた神様たちが、 私に海に浸かって風で乾かすとよいとおっしゃったのでそうしたら前よ りもっと痛くなったのです。

オオクニヌシ(大国主)(大黒様)はそのうさぎを見てどうして泣いているのかわけを聞きました。 そのうさぎは言いました。

わたしは隠岐の島に住んでいたのですが、一度この国に渡ってみたいと 思って泳がないでわたる方法を考えていました。するとそこにワニがきたので、わたしは彼らを利用しようと考えました。

わたしはワニに自分の仲間とどっちが多いかくらべっこしようと話をも ちかけました。

ワニたちは私の言うとおりに背中を並べはじめて、私は数を数えるふり をしながら、向こうの岸まで渡っていきました。

しかし、もう少しというところで私はうまくだませたことが嬉しくなっ て、つい、だましたことをいってしまいワニを怒らせてしまいました。そのしかえしに私はワニに皮を剥かれてしまったのです。

大黒様はそれを聞いてそのうさぎに言いました。 かわいそうに、すぐに真水で体を洗い、それから蒲(かま)の花を摘ん できて、その上に寝転ぶといいと教えてやりました。

そういわれたうさぎは今度は川に浸かり、集めた蒲の花のうえに、静かに寝転びました。 そうするとうさぎのからだから毛が生えはじめ、すっかり元のしろうさぎに戻りました。

そのあと、ずい分遅れて大黒様は因幡の国につかれましたが、八上比売(やかみひめ)が求められたのは、大黒様でした。

大黒様に言われた通りにした白ウサギは、やがて元に戻り、親切なオオクニヌシ(大国主)に心から感謝しました。

童謡・大黒様の歌の中の「大黒様の言う通り、きれいな水に身を洗い、ガマの穂わたにくるまれば、ウサギは元の白ウサギ」。

白兎神社 鳥取市白兎592

このあと、大国命は出雲にやってきた八上比売(やかみひめ)と結ばれたのでした。

有名な童謡のシーンです。

2009/09/06

引用:出雲大社公式ページ「神々の国 出雲」
社団法人島根県観光連盟・島根県観光振興課

因幡の白うさぎの意味は?

ヤマタノオロチを退治して一躍ヒーローになったスサノオノミコトの孫の孫、つまりスサノオノミコトから数えて6代目にオオクニヌシ(大国主)ノカミが誕生しました。

たくさんの兄弟の末っ子としてオオクニヌシ(大国主)は出雲に生まれ、出雲に育ちましたが、何かにつけてお兄さんたちからいじわるな仕打ちを受けていました。 しかし、そんな兄たちのいじめにも負けず、オオクニヌシ(大国主)は心やさしき神として成長していきました。-隠岐の島にいた白ウサギは、なんとかして向こう岸に渡りたいと思って、海岸にいたサメに、自分の仲間とサメの仲間とどちらが多いか比べてみようと声をかけ、向こう岸までサメを並ばせました。そして、サメの数を数えるふりをして背中を渡って行ったのです。あと少しで岸に着くというときになって、白ウサギも油断したのでしょう。 サメをだましたことをしゃべってしまいサメにつかまって、全身の皮をすっかりはがされてしまいます。

これは、隠岐の島を治めていた白兎に例えられる豪族が、因幡を攻めようとして失敗し、オオクニヌシ(大国主)が助けて隠岐の島を穏やかに平定したのち、プロポーズした兄たちには見向きもせず、オオクニヌシ(大国主)ノカミを夫に選んだ因幡の八上比売(やかみひめ)はウサギが予言したとおりオオクニヌシ(大国主)はヤガミヒメを得ます。これは隠岐の豪族が穏やかに因幡にオオクニヌシ(大国主)と協力せよと伝え、隠岐・因幡を平定したということではないでしょうか。

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【日本神話】4.日向神話2/3 「海幸・山幸」・「海宮遊行」

4.海幸・山幸

火の中から産まれてきた三人の子供のうち、お兄さん(ホノスソリノミコト)は海で釣りをするのが上手だったのでウミサチヒコと呼ばれ、弟(ヒコホホデミノミコト)は山で狩りをするのが上手だったのでヤマサチヒコとよばれました。

ある日二人は「取りかえっこしてみよう。」と話して、ウミサチヒコは山に狩りに行き、ヤマサチヒコは海に釣りに行きました。しかし、二人とも何にも捕まえられませんでした。それに、ヤマサチヒコはお兄さんから借りた釣針を海でなくしてしまって困っていました。

ヤマサチヒコは自分の刀をこわして沢山の釣針を造って「これで許してください。」と一生懸命謝りましたが、お兄さんは「なくなったあの釣針じゃないとだめだ。」と許してくれません。

5.海宮遊行

どんなに探しても釣針を見つけられないヤマサチヒコが困っていると、おじいさん(シオツチノオジ)がやってきて「どうしてそんなに困っているのですか。」と聞きました。ヤマサチヒコがわけを話すと、あっという間に船を造り、「この船で海の世界に行きなさい。」といいました。

ヤマサチヒコはおじいさんの言う通り、その船に乗って海の底深くに潜っていきました。

さて、海の世界に行ったヤマサチヒコは、海神の宮という家の前にある大きな木の上に登っていました。そこは海の世界を守っている神様(ワタツミ・トヨタマヒコ)の家でした。

すると、そこに井戸の水を汲もうとしたトヨタマヒメがやってきました。木の上に人がいるのを見てびっくりしたトヨタマヒメは急いで家に帰って

「井戸に水を汲みに行ったら、そばの木の上に男の人がいました。その人はとても立派なお顔をしていて、きっととても偉い人だと思います。」と両親に話しました。

海の神様が「あなたはどなたですか。」と聞いたので、ヤマサチヒコは「私は天から降りてきた神の子供です。」と答えました。

海の神様は、ヤマサチヒコをとても大切なお客様として、たくさんのご馳走や踊りを披露したりしてもてなしました。それからしばらくしてヤマサチヒコはトヨタマヒメと結婚して、海の神様の家で一緒に暮らしていました。

ヤマサチヒコが海の国に来て三年がたちました。ときどき「はあ」と溜め息を吐くヤマサチヒコをみてトヨタマヒメが「ひょっとしてあなたは自分の家に帰りたいのですか。」と聞くと、ヤマサチヒコは「その通りだ。」と答えました。そこでトヨタマヒメは父親に、ヤマサチヒコは帰りたいといっていると相談をしました。

娘から話を聞いた海の神様は、ヤマサチヒコが探しているお兄さんの釣針をみつけてあげようと、海の世界の全部の魚を集めました。すると魚たちが「鯛が口が痛いと言って来ていません。」というのでその鯛を呼び出して口の中をみるとヤマサチヒコの針が刺さったままになっていました。

そして、この針を海の神様が取ってあげました。
さあ釣針が見つかったので、これでお兄さんに返すことができます。地上の世界に帰ろうとしているヤマサチヒコに向かってトヨタマヒメが言いました。「もうすぐあなたの赤ちゃんが産まれます。赤ちゃんを産むときにはあなたの所に行きますので、家を造って待っていてください。」そして、ヤマサチヒコは、釣針と海の神様からもらった二つの魔法の瓊(たま)をもって、地上の世界に帰っていきました。

引用:宮崎県 「民話と伝承」

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【日本神話】4.日向神話1/3 天孫降臨(てんそんこうりん)

■日向神話の構成

日本神話の中心は古事記・日本書紀にみえる神話です。この2つの書の神話は必ずしも同じではないが、全体としては1つの筋をもっていて、日本国と皇室の創生の物語が中心となっています。その物語の舞台は3つあります。日向と大和、そして出雲です。

出雲の場合は大方が独立した物語で展開します。それに対して、日向と大和の場合は、天・地・海の神の世界から日向へ、日向から大和へと連続した物語として展開します。

このように2つの書は、内容上は、大きくは「神の世界の物語」から「日向での神と人との物語」そして「日向から大和の人」の物語へと展開します。
なかでも注目されるのは、日向を舞台とした「神」の世界から「神と人」の世界として展開し、それは「日向三代神話」とよばれています。

それはアマツカミ(天神)「ニニギノミコト」の御代の
「天孫降臨」
「コノハナノサクヤビメの結婚」
「火の中の出産」
アマツカミ(天神)「ホホデミノミコト」の御代の
「海幸・山幸」
「海宮遊行」
アマツカミ(天神)「ウガヤフキアエズノミコト」の御代の
「ウガヤフキアエズの誕生」
それに神武天皇の
「神武東征(東行)」

以上7つの物語が主たる内容になっています。そしてその物語の展開は、アマツカミ(天神)とその子孫がクニツカミ(地神)のヒメ神と、さらにはワタツミノカミ(海神)のヒメ神と結婚し、人皇であるカムヤマトイワレビコノミコトが誕生するという構成になっています。これは、アマツカミ(天神)によるクニツカミ(地神)とワタツミノカミ(海神)の統合の上に人皇初代が生み出されたという古代の人々の考えが表わされていて、これが日向を舞台としている神話の特色です。

なぜ古代国家のなかでも、都から遠くはなれた僻遠の地にある日向が、これらの物語の舞台になったのであろうか。それは一口でいえば、この物語が創りだされる時代に、日向が朝廷と深いかかわりを持っていて、日向を無視できない事情があり、また物語の展開の上で最もふさわしい土地とみられる要素があったことが考えられる。歴代天皇にかかわる日向の女性が物語のなかにしばしば登場するのもそれらを示唆しているものと思われます。

1.天孫降臨

雲の上のまだずっと高くの神様の国で、この日本を造った神様たちがお話をしていました。アマテラスオオミカミという一番えらい神様が、(自分の孫の)ニニギノミコトという神様にいいました。「この稲の穂と、神の三つの宝の鏡・曲玉・剣をもって地上に降りていきなさい。そして、日本の国(葦原中国)がもっといい国になるように頑張ってきなさい。」

それでニニギノミコトは神様の国を離れて、筑紫の日向の高千穂という場所に降り立ったのです。

2.コノハナノサクヤビメの結婚

高千穂に降り立ったニニギノミコトはその近くに家を建てて住んでいましたが、そこでとても美しい女の人に出会いました。ニニギノミコトは、その美しい姫(コノハナサクヤヒメ)と結婚したいと思い、姫の父親にお願いしました。父親は「姫を嫁に欲しいのなら、姉(イワナガヒメ)の方も一緒にもらってくれ。」といって二人の姫をくれました。ところが、ニニギノミコトは美人ではないお姉さんを「いらない。」と家に返してしまいました。返された姫は大変腹をたてて「神様の子も人の子も、生きているものは必ず死んでしまうようにしてやる。」と呪いをかけました。

3.火の中の出産

さて、ニニギノミコトと結婚したコノハナサクヤヒメのお腹には赤ちゃんができました。しかしニニギノミコトがそのことを喜ばなかったので、コノハナサクヤヒメはとても悲しんで、「この赤ちゃんが本当にあなたの子ならきっと生き残るでしょう。」といって自分の部屋に火をつけてしまいました。  メラメラと燃える火の中で生まれてきたのが、ホノスソリノミコト(ウミサチヒコ)・ヒコホホデミノミコト(ヤマサチヒコ)・ホノアカリノミコトの三人です。
引用:宮崎県 「民話と伝承」

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【日本神話】3.出雲神話5/5 オオクニヌシの国譲り -葦原中国平定-

『古事記』オオクニヌシの国譲り

アマテラスら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけアマテラスの子孫だ」とした。そのため、何人かの神を出雲に使わした。大国主の子である事代主・タケミナカタが天津神に降ると、大国主も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。

アメノオシホミミの派遣

アマテラスは、「葦原中国は私の子のアメノオシホミミが治めるべき国だ」と言い、アメノオシホミミに天降りを命じた。しかし、アメノオシホミミは天の浮橋に立って下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしい状態で、とても手に負えない」と高天原に上ってきて、アマテラスに報告した。

『古事記』では、アマテラスとスサノオとの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男(『日本書紀』の一書では次男)で、物実の持ち主であるアマテラスの子としている。高木神の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間にアメノホアカリとニニギをもうけた。

葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。

名前の「マサカツアカツ(正勝吾勝)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「カチハヤヒ(勝速日)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられる。「オシホ(忍穂)」は多くの稲穂の意で、稲穂の神であることを示す。

『古事記』では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
『日本書紀』では天忍穂耳命、『先代旧事本紀』では正哉吾勝々速日天押穂耳尊
富田八幡宮/勝日神社(島根県安来市)

アメノホヒの派遣

タカミムスヒとアマテラスは天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問うた。オモイカネと八百万の神が相談して「アメノホヒを大国主神の元に派遣するのが良い」という結論になった。タカミムスヒとアマテラスはアメノホヒに大国主の元へ行くよう命じた。しかし、アメノホヒは大国主の家来になってしまい、三年たっても高天原に戻って来なかった。

天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神などと書く。

アマテラスとスサノオが誓約をしたときに、アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。

名前の「ホヒ」を「穂霊」の意味として稲穂の神とする説と、「火日」の意味として太陽神とする説がある。

農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神などとして信仰されており

能義神社(出雲四大神である野城大神と呼ばれる)など
島根県安来市能義町366
式内社 旧県社
天穗日命(アメノホヒノミコト)
大己貴命,事代主命(コトシロヌシノミコト)
誉田別命,息長足姫命,経津主命,國常立命,國狹土命
伊弉冉命,玉依姫命,順徳天皇,神皇魂命,惶根命

アメノワカヒコの派遣

タカムスヒとアマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々とオモヒカネが相談して「アメノワカヒコを遣わすべき」と答えた。そこで、アメノワカヒコに天之麻古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)と与えて葦原中国に遣わした。しかし、アメノワカヒコは大国主の娘であるシタテルヒメと結婚し、自分が葦原中国の王になってやろうと考えて八年たっても高天原に戻らなかった。

アマテラスとタカムスヒがまた八百万の神々に、アメノワカヒコが長く留まって戻ってこないので、いずれの神を使わして理由を訊ねるべきかと問うと、八百万の神々とオモイカネは「雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を遣わすべき」と答えたので、天つ神は、ナキメに、アメノワカヒコに葦原中ッ国に遣わしたのは、其の国の荒ぶる神どもを平定せよと言ったのに、何故八年経ても帰ってこないのかを、聞くように命令した。ナキメは天より下って、アメノワカヒコの家の木にとまり理由を問うと、アメノサグメが「この鳥は鳴き声が不吉だから射殺してしまえ」とアメノワカヒコをそそのかした。アメノワカヒコはタカムスヒから与えられた弓矢でナキメの胸を射抜き、その矢は高天原のタカムスヒの所まで飛んで行った。

タカムスヒはその矢に血が付いていたので、この矢はアメノワカヒコに与えた矢であると諸神に示して、「アメノワカヒコの命に別状無くて、悪い神を射た矢が飛んで来たのなら、この矢はアメノワカヒコに当たるな。もしアメノワカヒコに邪心があるのなら、この矢に当たれ」と言って、矢を下界に投げ返した。矢はアメノワカヒコの胸を射抜き、アメノワカヒコは死んでしまった。ナキメも高天原へ帰ってこなかった。

名前の「ワカヒコ」は若い男の意味である。これが神名ではなく普通名詞だったため、「神」「命」「尊」の尊称が付かないとする説がある。また、天津神に反逆したためであるとする説もある。

アメノワカヒコ(天若日子、天稚彦)

シタテルヒメとの恋に溺れて使命を放棄しその罪によって亡くなるという悲劇的かつ反逆的な神として、民間では人気があった。平安時代の『宇津保物語』、『狭衣物語』などでは天若御子の名で、室町時代の『御伽草子』では天稚彦の名で登場し、いずれも美男子として描かれている。

アメノワカヒコを唆したアメノサグメが「アマノジャク」の元となったとする説があるが、アメノワカヒコの「天若」が「アマノジャク」とも読めることから、天若日子がアマノジャクだとする説もある。

穀物神として安孫子神社(滋賀県愛知郡秦荘町)などに祀られているが、祀る神社は少ない

アメノワカヒコの葬儀

葦原中国を平定するに当たって、遣わされたアメノホヒが3年たっても戻って来ないので、次にアメノワカヒコが遣わされた。しかし、アメノワカヒコは大国主の娘シタテルヒメと結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。そこでアマテラスとタカミムスビは雉の鳴女を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いたアメノサグメが、不吉な鳥だから射殺すようにとアメノワカヒコに進め、アメノワカヒコは遣された時にタカミムスビから与えられた弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で雉を射抜いた。その矢は高天原のタカミムスビの元まで飛んで行った。タカミムスビは「アメノワカヒコに邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とすと、矢は寝所で寝ていたアメノワカヒコの胸に刺さり、アメノワカヒコは死んでしまった。

アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父アマツクニタマや母が聞いて、下界に降りて泣き悲しみ喪屋をつくった。アヂシキタカヒコネが弔いに訪れた時、アヂシキタカヒコネがアメノワカヒコによく似ていたため、アメノワカヒコの父と母が「我が子は死なないで、生きていた」と言って抱きついた。するとアヂシキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。この喪屋が美濃国の喪山である。アヂシキタカヒコネの妹のタカヒメは、歌を詠んだ。

タケミカヅチの派遣

アマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、オモイカネと八百万の神々は、「イツノオハバリか、その子のタケミカヅチを遣わすべき」と答えた。アメノオハバリは「タケミカヅチを遣わすべき」と答えたので、タケミカヅチにアメノトリブネを副えて葦原中国に遣わした。

コトシロヌシの服従

タケミカヅチとアメノトリフネは、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきであるとアマテラス大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。大国主は、自分が答える前に息子の事代主に訊ねるようにと言った。事代主は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れてしまった。

『古事記』では建御雷之男神・建御雷神
『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神など
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)
佐志武神社(さしむじんじゃ)
島根県出雲市湖陵町差海891
式内社 建御雷神、経津主神

日本書紀によれば、「高天原から葦原中国を平定するため、経津主神(ふっつぬしのかみ)と武壅槌神(たけみかずちのかみ)を遣わされた」とあり、この二神が降臨されたのがこの地であったとされています。

タケミナカタの服従

タケミカヅチが「コトシロヌシはああ言ったが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子のタケミナカタにも訊くよう言った。そうしている間にタケミナカタがやって来て、「ここでヒソヒソ話をしているのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」と言ってタケミカヅチの手を掴んだ。すると、タケミカヅチは手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた。逆にタケミカヅチがタケミナカタの手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、タケミナカタは逃げ出した。タケミカヅチはタケミナカタを追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめた。タケミナカタはもう逃げきれないと思い、「この地から出ないし、オオクニヌシやコトシロヌシが言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と言った。

建御名方神(たけみなかたのかみ)

建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神の一柱に数えられている。

出自について記紀神話での記述はないが、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が各地に残る。妻は八坂刀売神とされている。

建御名方神は神(みわ)氏の祖先とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ保科氏など諏訪神党の氏神でもある。

諏訪大社(長野県諏訪市)ほか全国の諏訪神社に祀られている。

[考証]

葦原中国平定の記述は、ヤマト王権による国家統一の過程が元になったものと考えられている。記紀の説話では出雲国が舞台となっているが、他の国でもヤマト王権への何らかの形での「国譲り」が行われたものと思われる。記紀で出雲が国譲りの舞台として書かれているのは、出雲が最後に残った勢力で、出雲の平定により一応の国家統一が達成されたと考えられたためとされている。 葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)は、天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受ける日本神話の説話である。国譲り(くにゆずり)ともいう。

2009/09/06

出雲神話4/5 「オオクニヌシの国づくり」

オオクニヌシの国づくり

大国主が出雲の美保岬にいたとき、海の彼方から天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って、鵝(蛾の誤りとされる)の皮を丸剥ぎに剥いで衣服として、やって来る神がいた。大国主がその小さな神に名を尋ねたが答えなかった。従えている者も皆知らなかった。そこにヒキガエルが現れて、「これは久延毘古(クエビコ)ならきっと知っているでしょう」と言った。久延毘古に尋ねると、「その神は神産巣日神の御子の少名毘古那神である」と答えた。久延毘古は山田のかかしであり、歩くことはできないが、天下のことは何でも知っている神である。

神産巣日神は少名毘古那が自分の子であることを認め、少名毘古那に大国主と一緒になって国づくりをするように言った。大国主と少名毘古那は協力して葦原中国の国づくりを行った。その後、少名毘古那は常世に渡って行った。

大国主は、「これから私一人でどうやって国を作れば良いのだろうか」と言った。その時、海を照らしてやって来る神がいた。その神は、「我は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である。丁重に私を祀れば、国作りに協力しよう」と言った。どう祀ればよいかと問うと、大和国の東の山の上に祀るよう答えた。この神は現在御諸山(三輪山)に鎮座している神(大物主)である。

オオクニヌシの国譲り

高天原(たかまがはら)では、地上の豊かな出雲の国はアマテラスオオミカミの子孫が治めるべきだという相談がなされていました。 そこでアマテラスオオミカミは国譲りの交渉のために、3度も使いを送ったのですが、使いは出雲の住み心地の良さに帰って来なかったりして、なかなか交渉は成立しませんでした。

そこで切り札として、タケミカヅチノカミとアメノトリフネノカミが出雲にやって来ました。 タケミカヅチノカミとアメノトリフネノカミは稲佐の浜に降り立ち、剣を抜いて波頭に逆さまに立て、その上にあぐらをかいてオオクニヌシノカミに国譲りを要求しました。オオクニヌシノカミは自分の息子であるコトシロヌシノカミから考えを聞くように二神に言いました。

タケミカヅチは、再びオオクニヌシのところへ戻って来て言いました。

「そなたの子どものコトシロヌシとタケミナカタは、アマテラスオオミカミのお子さまの命令には逆らわないと答えた。そなたの心はどうだ。」

これに対して、オオクニヌシは、こう答えました。

「わたしの子どもたちがお答えしたとおり、わたしも同じ気持ちです。この葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)は、ご命令どおりに、すべて差し上げます。ただし、わたしの住む場所をアマテラスオオミカミのお子さまが、天の神の「あとつぎ」となってお住まいになられる御殿のように、地面の底深くに石で基礎(きそ)を作り、その上に太い柱を立て、高天原にとどくほどに高く千木(ちぎ)を上げて造っていただければ、わたしは、その暗いところに隠れております。また、わたしの百八十もいる子どもの神たちは、コトシロヌシを先頭にお仕えいたしますので、天の神のお子様に逆らうものはいないでしょう。」

鳥や魚を捕るために美保の碕に出かけていたコトシロヌシノカミは呼び戻され、アマテラスオオミカミの考えに従うと言って、乗ってきた船を踏み傾け、柏手を打って青い柴垣に変えて、その中に隠れてしまいました。

この様子を伝えているのが、美保神社の諸手船神事(もろたぶねしんじ)と青柴垣神事(あおふしがきしんじ)です。

また、もう一人の息子のタケミナカタノカミはタケミカヅチノカミと力くらべで決めようと、タケミカヅチノカミの腕をつかんだところ、たちまち腕はツララに変わり、次いで剣に変わってしまいました。 今度はタケミカヅチノカミがタケミナカタノカミの腕をつかみ、握りつぶしてしまったので、タケミナカタノカミは青くなって、諏訪湖まで逃げてしまいました。

オオクニヌシノカミもアマテラスオオミカミの申し出を受け入れることにしました。 その代わり、自分の住まいをアマテラスオオミカミの子孫と同じように、千木(ちぎ)が大空にそびえるような立派な宮殿を建ててほしいと願い出ました。

そこでアマテラスオオミカミは、オオクニヌシノカミのために多芸志(たぎし)の浜に大宮殿を建てました。
それが出雲大社のはじまりだといわれています。

大国主と出雲神話

高天原を追放されたスサノヲは流浪の果てに、出雲において大蛇を退治し、須賀の宮におさまって妻を求める歌をうたいます。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」

出雲地方の伝承的な歌謡であったこの歌が、『古事記』の中で最初に掲げられた歌です。

『古事記』上巻には、このスサノヲの物語に続いてオオクニヌシ(大国主神)神話が続きます。オオクニヌシの事跡の出雲との関係や出雲大社との関連から、出雲系神話といわれ、また登場する神々を出雲系の神々とよびます。

この部分は、すでにオオクニヌシの支配していたこの国土が、天下ってきた高天原の神の支配に交替するという劇的な構成から、大和朝廷に拮抗ないし対立する出雲での権力の存在を示す物語であるというような歴史的事実と結びつけた見解などさまざまに論じられる物語となっています。上巻特有のごつごつした違和感に満ちた世界が展開すると同時に、他方で人間の「情」のありように通じるもの、たとえば後世なら「仁」や「愛」あるいは「やさしさ」といったことばで本来表現されるべき事柄が描かれてもいます。

オオクニヌシの物語は、前半と後半では趣が異なります。前半は美しい因幡のヤガミヒメを獲得しようと旅立つ兄たちのあとに荷を背負って追うさえない神でした。白ウサギにやさしさを施すとウサギの予言通り姫を得ることになります。しかし、兄弟神の怒りを買い、試練にたたされ死に追いやられます。そのたびに彼は母神やカミムスビや貝の女神たちなどの力で復活しますが、最後には迫害を避けるため、母神の配慮で根の国のスサノヲのもとにおくられます。そこでもスサノヲに試練を与えられますが、恋仲となったスサノヲの娘スセリビメの助けを得て脱出し、スベリビメと手を携え呪術能力を得てこの世に帰還します。迫害した兄弟神たちを退治し、支配者となります。

支配者としてのオオクニヌシは、国作りを単独では行えず、スクナビコナ(小彦名神)という海の向こうから渡ってきた小身の神の協力を得て、支配します。後にスクナビコナは海の向こうに去り、、オオクニヌシは国土の未完であることを嘆きます。

さて、このオオクニヌシは多くの神話的神の重ね絵とされます。事実、物語の展開のなかでその呼称を何度か変えます。『日本書紀』では、人々に「恩頼(みたまのふゆ)」を与えたと簡潔に書かれています。他方『古事記』では、複雑ですが民衆的なレベルでの神、あるいは支配者の理想像という古層をとくによく伝えているといえるでしょう。

しかし、オオクニヌシ神話は国土の完成のあとは一転して、色好みのこの神の女性遍歴と、妻であるスセリビメの嫉妬と、二人の和解の物語となります。

このように、出雲系の神話は、その政治性とは別に、その叙情性において、『風土記』にも登場するオオクニヌシの姿には、民衆に「恩頼(みたまのふゆ)」をほどこした神として、支配ないし支配者によせる集団的な願望のようなものが込められているともいえます。出雲系とくに、オオクニヌシ神話は、その後高天原の神に国の支配を譲るという形で書かれ、天皇の物語のなかで、重要な位置を占めます。政治神話と異なる側面をみせるのが、この神話の後半の愛の遍歴の部分です。そこでは濃厚に歌謡が情の世界と関わり、神の世界から、人間の情の描写へとの橋渡しの意味を持った部分を形成しています。

「大国主」となった「大己貴命」

『出雲国風土記』では、国引き神話のヤツカミズオミツヌこそ、出雲国の名付け神になっている。それは、ヤツカミズオミツヌが、この地を「八雲立つ出雲」と呼んだから、というものであるが、和歌こそ詠んでないものの『古事記』に記されたスサノオのそれと、まったく同じ内容である。

ヤツカミズオミツヌは『古事記』こそ、スサノオの四世孫としているが、案外、スサノオの別名ではなかろうか。

それはスサノオの「出雲」における呼称なのかも知れない。

『古事記』によれば、オオナムチはスサノオから、生大刀、生弓矢、玉飾りのついた琴を奪って逃げ、スサノオは、それを許している。これは、オオナムチを、軍師に命じたことに他ならない。この時スサノオは、50歳にさしかかってしたと思う。オオナムチが軍師になれたのは、スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)が、オオナムチに惚れてしまったという、『古事記』の記述を信用するしかないが、以外にも、本当なのかも知れない。いずれにしても、スサノオの後押しがなければ、不可能な話であろう。

軍師であるからには、スサノオの率いて来た、「物部」の大軍を自由に使ってもいいわけだ。オオナムチは、「越」の八口を討ったと、『出雲国風土記』は記している。この記述が、「越」の高句麗族の最後の時だ。

これにより「出雲」・「越」とも平定され、スサノオは、その後、南朝鮮に渡り、先に述べたとおり、南朝鮮を含めた日本海文化圏を、形成していくのである。

この文化圏は、鉄資源を元手にした通商連合であった。貿易を生業としていたのである。

通商を生業とした、早い話が商売人は、江戸時代の堺衆がそうであったように、何者にも屈しない、強い結束力を備えていたのであるが、一度、メリットが無くなれば簡単に崩壊してしまう。

オオナムチは、スサノオの後押しもあって、最大の貿易相手である「少彦名命」(すくなひこなのみこと、おそらく朝鮮半島の「昔」《すく》姓の一族。以下、スクナヒコナ)と、共同して貿易に携わり、国土経営をしていたのであるが、そのスクナヒコナは、常世の国に行ってしまう。すなわち、死んだのである。

この結果、オオナムチは、スポンサーを失ってしまうこととなった。

オオナムチは、『古事記』によれば様々な地方の女性を妻にしている。
スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)を始め、「因幡」の「八上姫」(やがみひめ)、「越」の「沼川姫」(ぬまかわひめ)、「宗像」の「多紀理姫」(たぎりひめ)、「鳥取」の「鳥取神」(ととりかみ)、「神屋楯姫」(かむやたてひめ)がそうである。

これらの女性出身地からみても、海を通じた交流の様子が窺い知れる。
「神屋楯姫」の出身地は明記されていないが、オオナムチの地元、「意宇国」であろうか。

この頃の、オオナムチの勢力範囲は、「大和」までに拡大していたらしい。

『古事記』には、「出雲」から「大和」(倭国)にオオクニヌシが、出張していく様子が記されている。このことは、「須勢理姫」との歌のやりとりとともに記されているのだが、「須整理姫」が、オオクニヌシに対して「八千矛神」と呼びかけているので、「大和」を勢力範囲にしたのは、スサノオだったのかも知れない。「八千矛神」とは、神社伝承学によれば、スサノオのことであった。

「昔」姓の「少彦名命」が亡くなることにより、スポンサーを失ってしまったオオナムチは、南朝鮮の資金源(鉄資源)を、絶たれてしまう可能性があった。もともと、南朝鮮の鉄資源は、スサノオ族が押さえていたのだが、その後、高句麗族に奪われた。スサノオは、「統一奴国」を成し遂げ、高句麗族を追放することにより、再び南朝鮮の鉄資源を奪取した、と推測している。その地盤をオオナムチが受け継いでいたのであるが、「昔」族は、スサノオ族と同郷であろう。「昔」族もスサノオ族もともに、「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと、以下、タカミムスビ)を、崇める一族であったのである。

【日本神話】3.出雲神話3/5 オオクニヌシ物語 八十神の迫害・ 根の国訪問

八十神の迫害(兄神たちの迫害)
オオクニヌシノカミ(オオナムヂ)の兄弟である八十神(ヤソガミ)たちは因幡のヤガミヒメに求婚するが、ヤカミヒメはプロポーズした兄たちには見向きもせず、オオクニヌシノカミを夫に選びました。
おもしろくない兄たちは、いっそのことオオクニヌシノカミを殺してしまおうと計画を立てたのです。
オオナムヂを伯岐国の手前の山麓につれて来て、オオクニヌシノカミをイノシシ狩りに連れ出し、山の上から追い出した赤イノシシを、下で待ちかまえて捕まえるように命じました。 ところが、その赤イノシシは、兄たちがイノシシに似た大きな石を火で真っ赤に焼いたものだったのです。
素直なオオクニヌシノカミは、言われた通り、山の上から落ちてきた大きな赤イノシシを体で受け止めたため、全身に大やけどをおい、とうとう亡くなってしまったのです。
母神による再生
オクニヌシノカミの母は、息子の死を嘆き悲しみました。
なんとかして生き返らせたいと高天原(たかまがはら)へ上り、オオクニヌシノカミの命を助けてほしいと頼みました。 すぐに貝の神様であるキサガイヒメとウムギヒメがかけつけ、秘薬をつくって、母とともに大やけどをしたオオクニヌシノカミの全身に塗りつけました。 そのおかげでオオクニヌシノカミは息を吹き返し、元気な姿を取り戻したのです。
スサノオノミコトによる試練
オオクニヌシノカミの母は、兄たちの仕打ちからオオクニヌシノカミを守るため、祖先のスサノオノミコトが住む根の国へオオクニヌシノカミを行かせました。 そこでスサノオノミコトはオオクニヌシノカミを鍛えるため、ヘビの部屋やハチとムカデの部屋に寝泊まりさせましたが、スサノオノミコトの娘であるスセリヒメの手助けによって、無事にやり過ごすことができました。
スサノオノミコトはほかにも数々の試練をオオクニヌシノカミに与えましたが、オオクニヌシノカミはそれらをすべてくぐり抜け、より強くなって、スセリヒメと結婚して出雲へ帰り、国づくりを始めたのです。
オオクニヌシノカミは、 ヤカミヒメやスセリヒメだけでなく、何人ものヒメとも結婚し、たくさんの子どもたちをもうけました。
2009/09/06
社団法人島根県観光連盟・島根県観光振興課

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出雲神話3/5 オオクニヌシ物語 八十神の迫害・ 根の国訪問

八十神の迫害(兄神たちの迫害)

オオクニヌシノカミ(オオナムヂ)の兄弟である八十神(ヤソガミ)たちは因幡のヤガミヒメに求婚するが、ヤカミヒメはプロポーズした兄たちには見向きもせず、オオクニヌシノカミを夫に選びました。

おもしろくない兄たちは、いっそのことオオクニヌシノカミを殺してしまおうと計画を立てたのです。

オオナムヂを伯岐国の手前の山麓につれて来て、オオクニヌシノカミをイノシシ狩りに連れ出し、山の上から追い出した赤イノシシを、下で待ちかまえて捕まえるように命じました。 ところが、その赤イノシシは、兄たちがイノシシに似た大きな石を火で真っ赤に焼いたものだったのです。

素直なオオクニヌシノカミは、言われた通り、山の上から落ちてきた大きな赤イノシシを体で受け止めたため、全身に大やけどをおい、とうとう亡くなってしまったのです。

母神による再生

オクニヌシノカミの母は、息子の死を嘆き悲しみました。

なんとかして生き返らせたいと高天原(たかまがはら)へ上り、オオクニヌシノカミの命を助けてほしいと頼みました。 すぐに貝の神様であるキサガイヒメとウムギヒメがかけつけ、秘薬をつくって、母とともに大やけどをしたオオクニヌシノカミの全身に塗りつけました。 そのおかげでオオクニヌシノカミは息を吹き返し、元気な姿を取り戻したのです。

スサノオノミコトによる試練

オオクニヌシノカミの母は、兄たちの仕打ちからオオクニヌシノカミを守るため、祖先のスサノオノミコトが住む根の国へオオクニヌシノカミを行かせました。 そこでスサノオノミコトはオオクニヌシノカミを鍛えるため、ヘビの部屋やハチとムカデの部屋に寝泊まりさせましたが、スサノオノミコトの娘であるスセリヒメの手助けによって、無事にやり過ごすことができました。

スサノオノミコトはほかにも数々の試練をオオクニヌシノカミに与えましたが、オオクニヌシノカミはそれらをすべてくぐり抜け、より強くなって、スセリヒメと結婚して出雲へ帰り、国づくりを始めたのです。

オオクニヌシノカミは、 ヤカミヒメやスセリヒメだけでなく、何人ものヒメとも結婚し、たくさんの子どもたちをもうけました。

2009/09/06
社団法人島根県観光連盟・島根県観光振興課

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【日本神話】 第3巻「出雲編」 第1章 ヤマタノオロチ

乱暴な所業で高天原を追われたスサノオは、鳥髪(とりかみ)といわれる出雲の船通山(せんつうざん)に降り立ちました。

すると上流から箸(はし)が流れて来るではありませんか。川上に人が住んでいるのだろうと、スサノオは川沿いに上っていきました。

そこには、クシナダヒメ(『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫)という美しい娘をはさんでアシナヅチとテナヅチ(『古事記』では足名椎命・手名椎命)という年老いた両親が泣いていたのです。

わけを尋ねると、その両親には8人の娘がいたのですが、毎年ヤマタノオロチ(『古事記』では八俣遠呂智、『日本書紀』では八岐大蛇)に1人ずつ食べられて、いよいよ最後の1人が食べられる時期になったというのです。それでスサノオが、どんどん上っていくと、老夫婦が若い女を中において泣いていました。

「なせ泣いているのです?」
「私たちはもともと8人の娘がおりましたが、毎年恐ろしいオロチがやってきて1人ずつ食べてしまい、今ではこのクシナダヒメだけになりました。今年もそろそろオロチがやって来る頃となりましたので、それが悲しくて泣いているのです」

とアシナヅチは答えました。

「して、そのオロチとはどんなもの?」
「はい、ヤマタノオロチは、目はホオズキのように赤く、からだ一つに八つの頭と八つの尾を持ち、その長さは八つの谷と八つの尾根を越える恐ろしい姿をしている。」というのです。

スサノオはしばらく考えてから言いました。

「よし、私がオロチを退治してあげよう。その代わり、クシナダヒメを私の妻にくださらぬか」 心ひかれた美しいクシナダヒメとの結婚の約束をとりつけ、オロチ退治を決心したのでした。

そこでスサノオは、クシナダヒメを小さな櫛に変えて自分の髪に差しこみました。

アシナヅチとテナヅチに頼んで、垣根で八つの門を作らせ、門ごとに八つの樽に強い酒を用意させました。

「そなたたちはすぐに強い酒を造ってください。そして、オロチの来そうなところへ柵を廻らせ、8つの入り口と8つの柵を作り、くだんの酒を満たした桶を置いておきなさい」

老夫婦は早速準備をしました。

やがてオロチが物凄い地響きを立てながらやってきて、好物の酒をガブガブ飲み、酔いつぶれて眠ってしまいました。

スサノオはここぞと剣を取り出し、今がチャンスと酔っぱらったオロチに向かっていきました。

とうとうスサノオはオロチの息の根を止めたのです。その後オロチをずたずたに切り刻んだところ、尾から立派な剣が出てきました。

スサノオが取り出した剣は、アメノムラクモの剣(天叢雲剣、別名 草薙剣(日本書紀)・草那芸之大刀(古事記))といい、スサノオノは見たことのないこの剣は、自分が持っているより姉のアマテラスにこそふさわしい剣だろうと、アマテラスに献上しました。

この剣は、後に草薙の剣(くさなぎのつるぎ)といわれ、今も伝えられる三種の神器の一つといわれています。

激しい闘いが終わったとき、スサノオは約束どおりクシナダヒメと結婚し、新居の地を探し歩きました。

そして、最適の地を見つけ、
「わが心清々し」
と叫んだので、その地は須賀(すが)と呼ばれるようになりました。

新居が出来あがると、あたりから美しい雲が湧き上がってきました。喜んだスサノオは思わず歌を詠みました。

日本で最初といわれる
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに
八重垣作る その八重垣を」
という和歌を詠み、幸せに暮らしました。

やがて子孫に、オオクニヌシ(大国主)(大国主命)が誕生するのです。

[註]

神楽でおなじみの、あの壮絶な死闘のシーンは、『古事記』にも、『日本書紀』にも書かれていない。だが、名だたる怪獣オロチが、寝込みを襲われて、易やすと殺されることはなかったろう)
スサノオの力強さ、優しさ、そして善神ぶりが、生きいきと描かれています。出雲では、スサノオはオオクニヌシ(大国主)と並んで人気絶大です。

クシナダヒメ…
稲田の神として信仰されており、
廣峯神社(兵庫県姫路市)、
氷川神社(さいたま市大宮区)、
須佐神社(島根県出雲市)、
八重垣神社(島根県松江市)、
須我神社(島根県雲南市)、
八坂神社(京都市東山区)、
櫛田神社(富山県射水市)、
櫛田宮(佐賀県神埼市)
のほか、各地の氷川神社で祀られている。多くの神社では、夫のスサノオや子孫(又は子)の大国主などと共に祀られている。

引用:社団法人島根県観光連盟・島根県観光振興課
ウィキペディア 2009/09/06

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