但馬の国司(守)

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都が794年に奈良から京都へ遷され、時代は平安時代になります。平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していきました。しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。

国衙(こくが)は、もとは奈良時代に日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画を指す用語でしたが、平安時代頃までに、国司の役所(建物)そのもの(国庁という)を国衙と呼んだり、国司の行政・司法機構を国衙と呼ぶことが一般的となりましました。また、国衙に勤務する官人・役人を「国衙」と呼んだ例も見られます。国衙を中心として営まれた都市域を国府(こくふ)といいましました。古代では「こう」といい、地名として全国に残っているものもあります。

但馬国の国司(但馬守)の記録として残るものは、以下の通りです。

・源経基(みなもとの つねもと、在任:930頃)
平安時代中期の皇族・武将。清和源氏経基流の祖。位階は贈正一位。神号は六孫王大権現。弟に経生、子に満仲・満政・満季・満実・満快・満生・満重・満頼ら。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めましました。

・源頼光(1010年頃 天暦2年(948年)~治安元年7月19日(1021年8月29日)がいます。平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘。清和源氏の三代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれます。但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任しましました。左馬権頭となって正四位下になります。頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にあります。頼光寺

一方で、後世に成立した『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。日高町上郷に頼光寺があります。但馬にいる時の居館だったといわれれています。

・平正盛 在任:1110年頃、正盛が家督を継いだ頃は平家も勢力が小さく、河内源氏に臣従し源義家に仕えていましました。従四位上、検非違使、因幡権守、伊予権守、備前守、右馬権頭、讃岐守、但馬守、丹後守を歴任。平経正は、平安時代末期の武将、歌人。平経盛の長男で、弟に経俊、敦盛があります。平清盛の甥にあたる。官位は正四位下に昇叙し、但馬守、皇太后宮亮、左馬権頭を歴任しましました。

一門の中の俊才として知られ、歌人、また琵琶の名手として名を挙げた。藤原俊成や仁和寺五世門跡覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けましました。
・平忠盛 在任:1130年頃 平安時代末期の武将。伊勢平氏庶流。平清盛の父。大治2年(1127年)従四位下に叙され、備前守となり左馬権頭も兼ねた。さらに、牛や馬の管理を行う院の御厩司となりましました。内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇でしました。美作守-、尾張守-久安2年(1146年)播磨守。諸国の受領を歴任したことに加えて、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄え、平氏政権の礎を築いましました。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』があります。

・平重衡 1182年(権守) 平安時代末期の武将。平清盛の五男。母は平時子。位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称されましました。南都焼討を行って東大寺大仏を焼亡させましました。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送されましました。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首されましました。

応保2年(1162年)6歳で従五位下、長寛元年(1163年)7歳:尾張守(頼盛の後任)、永万2年のち改元して仁安元年(1166年)(10歳):従五位上(中宮・藤原育子御給)、12月30日:左馬頭(宗盛の後任)、仁安3年(1168年)(12歳):正五位下(女御・平滋子御給)、承安元年(1171年)(15歳):従四位上(建春門院御給)、承安2年(1172年)(16歳):中宮亮(中宮・平徳子)、2月17日:正四位下、治承2年(1178年)(22歳):春宮亮(東宮・言仁親王)。左馬頭如元。中宮亮を辞任、治承3年(1179年)(23歳):左近衛権中将、12月14日:左中将を辞任。春宮亮如元、治承4年(1180年)(24歳):蔵人頭、2月21日:新帝(安徳天皇)蔵人頭。春宮亮を辞任、治承5年のち改元して養和元年(1181年)(25歳):左中将に還任。従三位、養和2年のち改元して寿永元年(1182年)(26歳):但馬権守兼任、寿永2年(1183年)(27歳):正三位(建礼門院御給)、8月6日:解官

寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦いで維盛の平氏軍が源義仲に大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされましました。重衡も妻の輔子とともに都落ちしましました。

重衡は勢力の回復を図る中心武将として活躍。同年10月の備中国・水島の合戦で足利義清・海野幸広を、同年11月の室山の戦いで再び行家をそれぞれ撃破して義仲に打撃を与えた。翌寿永3年(1184年)正月、源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した範頼と義経によって滅ぼされましました。この間に平氏は摂津国・福原まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していましました。

しかし、同年2月の一ノ谷の戦いで平氏は範頼・義経に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて梶原景季に捕らえられてしまう。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女たちは入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっています。木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首されましました。享年29。

たじまる 奈良7

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

『日本書紀』

『日本書紀』は国史で、「六国史」の最初に記されました。続日本紀に「日本紀を修す」とあり、「書」の文字はない。「日本紀」が正式名だったと言うのが通説です。

  • 『日本書紀』     720   神代~持統
  • 続日本紀     797   文武~桓武
  • 日本後紀     840   桓武~淳和
  • 続日本後紀    869   仁明
  • 日本文徳天皇実録 879   文徳
  • 日本三代実録   901   清和~光孝書紀の内容は、神代から40代(41代:後述)持統天皇までを30巻にわけ、それぞれの天皇記は『古事記』に比べてかなり多く記述されているのが特徴です。第3巻以降は編年体で記録され、うち9巻を推古から持統天皇までにあてているのも特徴です。これは『古事記』が天皇統治の正当性を主張しているのに対し、『日本書紀』は律令制の必然性を説明していると直木孝次郎氏は指摘しています。確かに『古事記』に比べれば、『日本書紀』の方がその編纂ポリシーに、律令国家の成立史を述べたような政治的な意図が見え隠れしているような気がしないでもありません。『日本書紀』自体には、『古事記』の序のような、その成立に関する説明はありません。『続日本記』養老4年(720)5月21日の記事によると、舎人(とねり)親王が天皇の命令をうけて編纂してきたことが見えるだけです。大がかりな「国史編纂局」が設けられ、大勢が携わって完成したと推測できますが、実際の編纂担当者としては「紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂」の名が同じく続日本紀に見えるだけです。編纂者として名前が確実なのは舎人親王だけと前述したが、藤原不比等が中心的な役割を担っていたとする説や、太安万侶も加わっていたとする見解もあり、いずれにしても多数のスタッフを抱え、長い年月をかけて完成されたことは疑いがありません。しか、ある部分は『古事記』と同歩調で編纂された可能性もあるのではないでしょうか。『古事記』同様、「帝紀」「旧辞」がその根本資料となっていますが、各国造に命じた『風土記』など多くの資料を収集し、その原文を尊重しているのが『日本書紀』における特徴です。諸氏や地方に散逸していた物語や伝承、朝廷の記録、個人の手記や覚え書き、寺院の由緒書き、百済関係の記録、中国の史書など、実に多くの資料が編纂されていますが、たぶんに中国(唐)や新羅の国書を意識した(或いはまねた)ような印象もあり、半島・大陸に対しての優位性を示すのも、編纂目的の一つだったのかもしれません。

    そしてそれは、日本国内の臣下達に対する大和朝廷の権威付けにも使用されたような気がするのです。『古事記』がいわば天武天皇の編纂ポリシーに沿った形でほぼ一つの説で貫かれているのに対して、『日本書紀』は巻数が多く、多くの原資料が付記され、「一書に曰く」と諸説を併記しています。国内資料のみならず、朝鮮資料や漢籍を用い、当時の対外関係記事を掲載しているのも『古事記』にはない特徴です。特に、漢籍が当時の日本に渡ってきて『日本書紀』の編集に使われたので、書紀の編纂者達は、半島・大陸の宮廷人が読めるように、『古事記』のように平易な文字・漢語・表現を使わず、もっぱら漢文調の文体で『日本書紀』を仕上げたのだとされています。『日本書紀』では、天照大神の子孫が葦原中国(地上の国)を治めるべきだと主張し、何人かの神々を送り、出雲国の王、大国主命に国譲りを迫り、遂に大国主命は大きな宮殿(出雲大社)を建てる事を条件に、天照大神の子孫に国を譲ったとされています。しかし現実には、ヤマトの王であった天皇家の祖先が、近隣の諸国を滅ぼすか併呑しながら日本を統一したと思われるのですが、『日本書紀』の編者は、その事実を隠蔽し、大国主命が天照大神の子孫にこの国を託したからこそ、天皇家のみがこの国を治めるという正当性があるということを、事実として後世に残そうとしたようです。そして、天皇家に滅ぼされた国王たちをすべて大国主命と呼び、彼らの逸話をまとめたのが出雲神話ではないかと言われています。
    このように『記紀』は、どちらも天皇の命令をうけて7世紀末から8世紀の初期に作られた歴史書であるとともに、内容はともに神代から始められているために、推古天皇までが重複しているのです。

    『日本書紀』

    2.『日本書紀』の意図は独立国家『日本』宣言

    では、なぜわずか8年の間隔で、同じ時代をとりあげる歴史書を2種類も編纂したのでしょう。また同じ時代をとりあげつつ内容には違いがあるのはなぜでしょうか。『古事記』が「記」で『日本書紀』が「紀」であることの字の持つ意味の違い、『古事記』の文体が「音訓交用」と「訓録」で『日本書紀』が漢文であるという文体の違い。2種類の歴史書がわずかの間に作られた背景はいったい何なのでしょう。
    なぜ、『日本書紀』が中心になっていったのでしょうか。

    この時代は、国号を倭国から日本国へ、君主号を大王から天皇へと変更し、中国をモデルにした律令制定も行われて、中央集権的国家体制を急ピッチで整備していました。歴史書編纂が活発に行われた背景には、このような社会の情勢が大きく変化しつつある時代に歴史書に期待されていた機能があり、『古事記』は、天皇や関係者に見せるためのいわば内部的な本で、『日本書紀』は外国、特に中国を意識して作られた国史(正史)です。こうして見ると『古事記』は『日本書紀』を作るための雛型本であったと思われています。『古事記』は成立直後からほぼ歴史の表面から姿を隠し、一方『日本書紀』は成立直後から官人に読まれ、平安時代に入っても官人の教養として重要な意味を持ったことは注目すべきです。
    対して、『日本書紀』を作った最大の目的は、対中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立なのです。

    古来権力者が残した記録には自らの正当性を主張している点が多く、都合の悪いことは覆い隠す、というのは常套手段です。ストーリーに一貫性がなく、書記に書かれている事を全て真実だと思いこむのも問題ですが、まるっきり嘘八百を書き連ねている訳でもありません。

    まるっきり天皇が都合良く創作して書かせたのであれば、わざわざ恥になるような記録まで詳細に書かせる意図が分かりませんし、『日本書紀』は「一曰く」として諸説も併記され、客観的に書かれています。したがって、少なくともその頃には中国王朝・朝鮮王朝のような、独裁的な絶対君主の王権ではなくて、すでに合議的(連合的)な政権を形成していたのではないでしょうか。
    記紀が史実に基づかないとしても国家のあり方の真実を伝えようとしたものであるならば、そのすべてを記紀編纂者の作為として片づけるには、それなりの根拠がなくてはなりません。

    大和に本拠を構える大和朝廷が、正史を編纂するにあたり、なぜわざわざ国家を統一する力が、九州に天孫が降臨した物語や出雲の伝説を記録したのだろう。それは単に編纂者の作為ではなく、ヤマト王権の起源が九州にあり、国家統一の動きが九州から起こったという伝説が史実として語り継がれていたからだと考えるのが自然でしょう。九州から大和へ民族移動があり、ヤマト王権の基礎が固まったという伝承は、記紀が編纂された七世紀までに、史実としてすでに伝承されていたと考える方が自然です。記紀には歴代天皇の埋葬に関する記事がありますが、編纂時にはすでに陵墓が存在していたと思われます。もし記紀に虚偽の天皇が記載されていたなら、陵墓も後世に造作されたことになり、わざわざ記紀のためにそんなことをするとは考えられないからです。

    何が真実で何が虚構か、また書紀に書かている裏側に思いをめぐらし、それらを新たな発掘資料に照らし合わせて、体系的に組み上げていく作業を通して、独立国家『日本』を周辺国に宣言した編纂の意図が見えてくるのだろうと思います。
    紫式部は、その漢字の教養のゆえに「日本紀の御局(みつぼね)」と人からいわれたと『紫式部日記』に書いています。『日本書紀』はその成立直後から、官僚の教養・学習の対象となりました(官学)。それに対して『古事記』は、一部の神道家を除いて一般の目には余り触れることがありませんでした。

    『風土記』


    『出雲国風土記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵

    『風土記』は、『日本書紀』が編纂される7年前の713年に、元明天皇が各国の国司に命じて、各国の土壌の良し悪しや特産品、地名の由来となった神話などを報告させたもので、おそらくは『日本書紀』編纂の資料とされた日本初の国勢調査というべきものと思われます。国が定めた正式名称ではなく一般的にそう呼ばれています。
    『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、

    1. 郡郷の名(好字を用いて)
    2. 産物
    3. 土地の肥沃の状態
    4. 地名の起源
    5. 伝えられている旧聞異事

    が挙げられています。

    完全に現存するものはありませんが、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残っています。現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみです。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在します。

    引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之

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たじまる 奈良6

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

日本最古の歴史書.1

1.日本の思想~他者によって描かれた日本

日本の思想とは、日本列島の上に日本語で展開されてきた思想です。原初的な意識を含め思想というなら、その意識のはじまりがどのような様子だったかを探ることは容易なことではありません。無文字文化をさぐる方法はないのです。五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。
わたしたちは史書として、『古事記』をもって最古の思想作品としています。原始の日本のようすは、ようやく八世紀にあらわれた『古事記』『日本書紀』あるいは『万葉集』といったテキストによるしかありません。その成立にはさまざまの説がありますが、日本という自己意識の最古のものの名残という点は異論の余地はないようです。

2.『古事記』と『日本書紀』


『古事記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵『古事記』と『日本書紀』(以下、『記紀』)は、七世紀後半、天武天皇の命によって編纂されました。『古事記』成立の背景は、漢文体で書かれた序文から知ることができます。それによれば、当時、天皇の系譜・事蹟そして神話などを記した『帝紀』(帝皇日継(すめらみことのひつぎ))と『旧辞』(先代旧辞(さきつよのふること))という書物があり、諸氏族の伝承に誤りが多いので正し、これらを稗田阿礼(ひえだのあれ)に二十九年間かけて、誦習(しょうしゅう)(古典などを繰り返して勉強すること)を命じ、たのが『古事記』全三巻です。
その後元明天皇の711年(和銅四年)、太安万侶(おおのやすまろ)が四ヶ月かけて阿礼の誦習していたものを筆録させ、これを完成し、翌712年に献上したことを伝えます。
一方、皇族をはじめ多くの編纂者が、『帝紀』『旧辞』以外にも中国・朝鮮の書なども使い、三十九年かけて編纂したのが、前三十巻と系図一巻から成る大著『日本書紀』です。『古事記』が献上された八年後の720年(養老四年)には『日本書紀』が作られました。『日本書紀』は「一曰く」として、本文のほかに多くの別伝が併記されています。神代は二巻にまとめられ、以降は編年ごとに記事が並べられ、時代が下るほど詳しく書かれています。
大化の改新後のあらたな国家建設と大和朝廷の集権化のなかで、国の歴史を残そうとする試みが繰り返されてきました。その一端として、『日本書紀』620年の推古紀の箇所では、聖徳太子と蘇我馬子が「共に議(はか)りて」天皇記および国記、また臣下の豪族の「本記」を記録したと伝えます。『記紀』はそうした自己認識への継続した努力のなかから生まれたものでした。ではどうして、同じ時代に『記紀』という二つの異なった歴史書が編纂されたのでしょうか。

それは二つの書物の違いから想像できます。『記紀』が編纂された七世紀、天平文化が華開く直前です。すでに日本は外国との交流が盛んで、外交に通用する正史をもつ必要がありました。当時の東アジアにおける共通言語は漢語(中国語)であり、正史たる『日本書紀』は漢語によって綴られました。また『日本書紀』は中国の正史の編纂方法を採用し、公式の記録としての性格が強いことからも、広く海外に向けて書かれたものだと考えられます。
それに対し、日本語の要素を生かして音訓混合の独特な文章で天皇家の歴史を綴ったのが『古事記』です。編纂当時、まだ仮名は成立していなかったため、漢語だけでは日本語の音を伝えることはできませんでした。そのため『古事記』の本文は非常に難解なものになり、後世に『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者・本居宣長ですら、『古事記』を読み解くのに実に三十五年の歳月を費やします。
ところで本居は全四十四巻から成る古事記研究書の『古事記伝』を著し、『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないことを述べ、『古事記』を最上の書と評価しました。

歴史物語の形式をとり、文学的要素の強い『古事記』は、天皇家による統治の由来を周知させ伝承するために記したテキストで、氏族の系譜について『日本書紀』よりも詳しく記されています。当時の日本人の世界観・価値観・宗教観を物語る貴重な資料であり、これがおよそ千三百年前間伝承されてきたことには大きな意義があります。

3.『古事記』

『記紀』はその叙述の仕方に大きな差が見られます。『古事記』は本分が一つの主題で貫かれていますが、『日本書紀』の神代の部分は、筋を持った本文を掲げてはいますが、それにつづき複数の異なる伝承を「一書曰(あるふみにいはく)」として並列して掲げています。そのなかには『古事記』に一致するものもあれば、そうでないものもあります。『記紀』の神話は、その叙述態度・叙述の様相をかなり異にしていることは確かです。

『古事記』は「序」と「上巻」「中巻」「下巻」の三巻からなります。

「序」には古事記編纂の意図とその経緯が上表文の形をとって説明されています。(日本書紀には序は無い)。序の末尾の日付と署名によって和銅5年(712)正月28日に太安万侶が撰進したことがわかりますが、この事は「続日本紀」には記録されていません。(日本書紀は記録されている)。
「上巻」は神代の時代から神武天皇の誕生まで、「中巻」は神武天皇から応神天皇まで、「下巻」は仁徳天皇から推古天皇までの事績が描かれています。この中で、古事記の成立について記録している部分は「序」です。言い換えれば、古事記の成立について書かれたものはこの序文しかありません。

冒頭の「序」は、漢文体で書かれ、変体漢文を屈指した本文とはやや異なった体裁ですが、
「この世のはじめはくらくてはっきりしないが、この教えによって国と島の生成を知り、神が生まれ人をたてた時代を知ることができる」と、神代は遠くなったが、神代になった国土が「大八洲(おほやしまぐに)」として時間的に展開していく様を描いたという次第が述べられます。

「上巻」の神代では、高天原の「天地のはじめ(天地開闢(てんちかいびゃく))」、イザナキ・イザナミ男女二神の神生み国生み、黄泉の国、天の岩戸と天照大御神(あまてらすおおみかみ)、出雲を舞台に追放されたスサノヲと大蛇退治、大国主の国づくり・国譲り・海幸山幸」、それにつづき日向を中心とする天孫の天降り等と続き、さらに神武天皇までの出来事や系譜が描かれています。中巻以降の人代は、神武天皇から推古天皇に至るまでの神話的伝説・歴史あるいは歌謡の大系であり、多層にわたる要素がこめられています。

ここでは天皇の国土統治の始源・由来が語られており、漢文体で書かれ歌謡は一音一字の仮名で記され、古語の表記・発音をあますところなく伝えています。

3.神話は「真実」を語る

世界中にはさまざまな神話があります。キリスト教を例にすると、『旧約聖書』は神が六日間で世界をつくったという「天地創造神話」から書き始められています。これも記紀神話の国生み同様、科学的にはあり得ません。同書の大洪水にまつわる「ノアの箱舟伝説」や、また『新約聖書』の「福音書」には、マリアが処女懐胎してキリストを身ごもるという逸話が紹介されていますが、科学的には人が単独で受胎するはずはありません。
聖書学では『聖書』は史実を記した歴史書ではなく、当時の信仰が記された信仰書であると理解されていますが、「聖書の記述は史実ではない」という主張は欧米社会には存在しないのです。『聖書』の史実性を議論することはまったく無意味であり、読み方としては誤っているのです。記紀神話についても同じで、たとえば「天孫降臨は非科学的であり史実ではない」との主張は、「マリアの処女懐胎は非科学的であり史実ではない」というのと同じだけ愚かな主張なのです。と竹田恒泰氏は『旧皇族が語る天皇の日本史』で述べています。
しかし、一見事実ではないと思われる神話の記述には、事実でなくとも真実が含まれている場合があります。欧米社会では、天地創造神話にもとづき、神が六日で天地を想像し、七日目に休息を取ったとの神話にもとづいて、七日目を日曜日として休日とし、教会でミサが行われます。アメリカでは大統領が就任するときに『聖書』に手を当てて誓いを立てます。『聖書』に書かれたことはすべて、事実性はともかく、「真実」であると見なされます。

4.『日本書紀』と祝日

そして日本も、『古事記』『日本書紀』に書かれたことが「真実」であることを前提に国が形成され、運用されています。記紀と日常の生活のつながりは実感することはありませんが、記紀は現在のわが国のあり方、そして国民生活に絶大なる影響を与えています。
たとえば祝日が挙げられます。いかなる国も建国を祝う日は祝日とされ、国を挙げて盛大な祝賀を行います。わが国の「建国記念日」は2月11日で、戦前まで「紀元節」と呼ばれていました。この日は初代の神武天皇が即位した日であり、記紀の記述を根拠としています。ほかには、11月23日の「勤労感謝の日」は、宮中祭祀のなかでも最も重要な祭祀の一つ、新嘗祭が行われる日です。新嘗祭の起源は『日本書紀』の、天照大御神が天孫に稲穂を授けて降臨させ、その後、稲穂を用いて祭儀を行ったことに由来します。その他にも「天皇誕生日」がそうです。。

4.天地のはじまりの神話

『古事記』は、天智の開闢をもってはじまります。
天地(あめつち)初めて発(ひら)けし(発(おこ)りし)時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき。この冒頭部分を、一神教の聖典『旧約聖書』の冒頭部分におかれた創世記とくらべるだけでも、この多神教的な世界の形成が明らかになります。神は複数性をはらんで生まれること、またこの神たちは、創世記のようにこの宇宙ないし世界を創造したのではなく、世界の生成とともに、「成った」存在として描かれていること、しかも姿をかき消すことで、世界と一体化し、その後の世界の奥に潜む生成力ないし力動性の根源というかたちで描かれていることです。そのことは人の生成にも関わります。人は、『古事記』では、「青人草(あをひとぐさ)」と表現されますが、その起源は必ずしも明確ではなく力動性を秘めた世界の一構成員としてあります。このことは天つ神のいる「高天原」という領域が、ひとつの完結した世界として描かれるのではなく、物語の展開のなかで、あくまでも神と人とが生き織りなす「葦原中国(あしはらなかつくに)」という領域の生成と展開へと物語が収斂していくことと関わっているのでしょう。神世七代の神々の最後に一対の男女神、イザナキ(伊耶那岐命)、イザナミ(伊耶那美命)が生まれる。「葦原中国」は、天つ神による、いまだ不定形の国土を「修理固成(おさめつくりかためなせ)」との命を受けた、この二神聖婚・性的交わりによってできる。命を受け、潮を「かきなし」たとき滴った塩が固まってできたオノゴロシマ(淡路島)に降り立った、この男女二柱の神は、国土・自然は神そのものであると描く。国土の生成の描写は、本州の西の島々、瀬戸内海にその記述は厚く、後の記述でも本州は今日の糸魚川あたりまでであることなどに、当時の地理感覚があらわれています。
この冒頭に展開するイザナキ・イザナミ神話は、人間の生活に資する文化的生の起源話であるとともに、人間の生と死の起源の神話ともなっています。『古事記』にみる限り、国生み・神生み神話の「生む」型と、開闢(かいびゃく)の「成る」型の二重性の解釈は単純ではなく、津田左右吉のいう政治的作為があるとみなすこともできます。

5.高天原の神の降臨

「葦原中国(あしはらなかつくに)」の呼称は、高天原からの命名でした。国生み神話に続く、天つ神の領域の物語は、イザナキの黄泉の国からの帰還を期に生まれた、三柱の尊い御子(三貴子)[*2]のうちアマテラスとスサノヲをめぐって展開します。海原を支配せよとの父イザナキの命に背いたスサノヲは高天原にのぼり、乱暴をはたらく。弟に最初は理解を示した妹もついに怒り、岩屋戸に隠れ世界は闇に支配されす。神々の機知でふたたび世は光が戻りますが、スサノヲは追放されます。追放されたスサノヲは、出雲で大蛇を退治するなどの功績を残し、根の堅州国の支配者となります。

「中巻」は初代神武天皇から15代応神天皇までを扱っています。ここにみる神武東征は「天神御子」の「天降り」とされ、古事記においても史実としてより神話として書かれたもののようにも思えます。上巻の延長のような気もするのだ。古代豪族は、殆どがその祖を天皇家にあるとしたものが多いが、その多くがこの中巻に記された応神天皇までに祖を求めています。仁徳天皇以後のいわゆる皇別氏族は数えるほどです。これはこの時代が、神と人との混じり合った曖昧模糊とした時代だった事を豪族達も看破していた事を物語っています。

自家版帝紀に都合のいい系図を書き入れ、太安万侶へ持参した者もいたかもしれない。古事記は古代豪族の研究にとってもかかせない資料としての価値が高いが、原資料として採用された旧辞は混合玉石だったことを忘れてはなりません。

下巻は16代仁徳天皇から33代推古天皇までを扱っています。仁徳天皇以下、履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻の各天皇、そして33代推古迄の天皇紀です。
それぞれの天皇の事績については、「天皇陵めぐり」のコーナーを参照していただきたいが、その内容はご存じのよ
うに波瀾万丈の恋物語と皇位をめぐる争いの歴史です。大雑把に言えば、下巻時代の始まりが弥生時代を抜けて古
墳時代へ移っていく時代のように思える。倭の五王の時代もここです。

古事記は日本書紀に比べれば、顕宗・仁賢天皇以降の各記には事績が殆ど記されていない。継体天皇記は特にその差が顕著です。それ故、24代仁賢から33代推古天皇までの十代を「欠史十代」と呼ぶ見方もあります

これは古事記編纂者の隠蔽工作なのかそれとも、古墳時代の皇位継承の争いに明け暮れる中で、記録など皆無だった時代背景をそのまま反映しているのでしょうか。或いは、仁徳以後の皇別氏族が少ないことは、時代が新しいので虚史を主張しがたいのかもしれません。中巻が、いわば神人未分化の時代だとすれば、下巻は人代の時代と言えるでしょう。

古事記が推古天皇までで終わっていることについてもさまざまな見解があります。推古の次の舒明天皇は天智・天武の父です。あまりにも身近なため、天武としては稿を改めて詳述する必要を感じ、とりあえず推古で止めたのだろうと言われています。その別稿は日本書紀に結実しているわけです


[*2]…三貴子(みはしらのうずのみこ)とは記紀神話で黄泉の国から帰ってきたイザナギが黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちた三柱の神々のことである。三貴神(さんきし・さんきしん)とも呼ばれる。

  • アマテラス – イザナギの左目から生まれたとされる女神。太陽神。
  • ツクヨミ – イザナギの右目から生まれたとされる男神(女神とする説もある)。夜を統べる月神。
  • スサノオ – イザナギの鼻から生まれたとされる男神。海原の神。
    引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之▲ページTOPへ

たじまる 奈良5

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

但馬国分寺

但馬国分寺

国分寺(こくぶんじ)は、天平13年(西暦741年)、聖武天皇の国分寺建立の詔(みことのり)を受けて、国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ)とともに建立を命じた寺院です。正式名称は

  • 国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
  • 国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)です。
    前者には護国の教典『金光明経』十部が置かれ、封五十戸・僧二十人が配されました。後者には滅罪の教典『法華経』十部が置かれ、水田十町・尼十人が配されたといわれています。まさに仏教の力によって国家の安泰と発展を実現することが祈願されたのです。
    各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれました。多くの場合、国府(国庁)とともにその国の最大の建築物でした。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられました。さらに天皇は二年後の天平十五年、『華厳経』の教主である廬舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像(大仏)を造立することを宣言する詔を発しました。天皇は自らが天下の富を注いでこの事業を完遂するという決意を述べるとともに、多くの人々が結縁のために、たとい「一枝の草、一把の土」でも協力してくれるよう、呼びかけました。大仏が大仏殿と共に一応完成したのは、天平勝宝元年(749)です。それは諸国の資源と民衆の労力と、そして主に渡来人の人々の技術を総動員して遂行された国家的大事業でした。『続日本紀』が記す「人民苦辛」の程度も相当なものだったと推測されます。四年、来日していたインド僧のボーディセーナ(菩提せん那)を導師として、盛大な大仏開眼の法会が行われました。参列した僧侶は一万人に及び、諸外国の舞楽が奉納されたといわれます。それは文字通り国際的な大イベントでした。


礎石

律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れました。ただし、中世以後もかなりの数の国分寺は、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、あるいは後世において再興されるなどして、現在まで維持しているところもあるそうです。また、かつての国分寺近くの寺で国分寺の遺品を保存していることもあります。国分尼寺も同様ですが、寺院が国家的事業から国司、守護など実質統治に代わると、かつての国分寺は復興を受けなかったところが多くなりました。ここ但馬でも国司が中心となって建設が進められました。全国でも伽藍が残っている数少ない国分寺跡として、注目を集めています。


塔跡(画像:但馬国府国分寺館)

昭和48年(1973年)から始まった発掘調査の結果、七重塔、金堂、門、回廊などの建物が見つかり、お寺の範囲がおよそ160m四方もあったことがわかりました。また、全国の国分寺ではじめて、「木簡」(木の板に書かれた文書)が見つかるなど、貴重な発見が相次いでいます。


金堂と回廊がつながる部分(画像:但馬国府国分寺館)

風鐸(ふうたく)屋根の軒に垂らし、風で音を奏でる。

金堂(こんどう)
寺の中心的な建物で、本尊を安置する。東大寺でいうと「大仏殿」にあたる建物です。

回廊(かいろう)
門と金堂をつなぐ廊下。

基壇(きだん)
建物が建つ土壇。壇の周囲に化粧石を積んだり、壇上に石などを敷いたりする。

礎石(そせき)
地盤に据えて柱を立てるための石。


釈迦(仏教の創始者)の舎利(遺骨)を納める。寺のシンボル的な建物。

但馬尼寺


但馬尼寺 豊岡市日高町水上、山本

現在も日高東中学校の前に二個の礎石が残っています。150年位前には、26個の礎石が一定間隔を置いて残っていたといいます。(国分寺から約1km弱北へ。)
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気多郡分寺

日本に仏教が伝来してから百年も経つと、仏教の普及はめざましく、日本のあちこちで造寺が行われ、その時の元号から「白鳳寺院」と呼ばれています。但馬の白鳳寺院は、現在のところ豊岡市三宅の薬琳廃寺のみが知られています。


鹿島神社境内 日高町府中新

鹿島神社境内には、大きな礎石が安置されています。但馬の郡ごとに設置された「郡分寺」ではないかと想定されています。薬琳廃寺の建立に続く時期のものだそうです。郡分寺とはいえ巨額の費用がかかるので、気多郡の在地有力者が、個人的に独力で建立したものではなく、但馬国司の側から、積極的に造営費の援助、助成が行われていたのでしょう。さらに各郷には「郷寺」がつくられはじめます。寺は鎮護国家の道場であると同時に、教育の場として、律令制度を全面的に実施するために、但馬国衙から郡司や郷司に指令が発せられます。

但馬の国司(守)

都が794年に奈良から京都へ遷され、時代は平安時代になります。平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していきました。しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。

国衙(こくが)は、もとは奈良時代に日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画を指す用語でしたが、平安時代頃までに、国司の役所(建物)そのもの(国庁という)を国衙と呼んだり、国司の行政・司法機構を国衙と呼ぶことが一般的となりましました。また、国衙に勤務する官人・役人を「国衙」と呼んだ例も見られます。国衙を中心として営まれた都市域を国府(こくふ)といいましました。古代では「こう」といい、地名として全国に残っているものもあります。
但馬国の国司(但馬守)の記録として残るものは、以下の通りです。

  • 源経基(みなもとの つねもと、在任:930頃)平安時代中期の皇族・武将。清和源氏経基流の祖。位階は贈正一位。神号は六孫王大権現。弟に経生、子に満仲・満政・満季・満実・満快・満生・満重・満頼ら。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めましました。
  • 源頼光(1010年頃 天暦2年(948年)~治安元年7月19日(1021年8月29日)がいます。平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘。清和源氏の三代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれます。但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任しましました。左馬権頭となって正四位下になります。頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にあります。頼光寺
    一方で、後世に成立した『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。日高町上郷に頼光寺があります。但馬にいる時の居館だったといわれれています。
  • 平正盛 在任:1110年頃、正盛が家督を継いだ頃は平家も勢力が小さく、河内源氏に臣従し源義家に仕えていましました。従四位上、検非違使、因幡権守、伊予権守、備前守、右馬権頭、讃岐守、但馬守、丹後守を歴任。平経正は、平安時代末期の武将、歌人。平経盛の長男で、弟に経俊、敦盛があります。平清盛の甥にあたる。官位は正四位下に昇叙し、但馬守、皇太后宮亮、左馬権頭を歴任しましました。
    一門の中の俊才として知られ、歌人、また琵琶の名手として名を挙げた。藤原俊成や仁和寺五世門跡覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けましました。
  • 平忠盛 在任:1130年頃 平安時代末期の武将。伊勢平氏庶流。平清盛の父。大治2年(1127年)従四位下に叙され、備前守となり左馬権頭も兼ねた。さらに、牛や馬の管理を行う院の御厩司となりましました。内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇でしました。美作守-、尾張守-久安2年(1146年)播磨守。諸国の受領を歴任したことに加えて、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄え、平氏政権の礎を築いましました。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』があります。
  • 平重衡 1182年(権守) 平安時代末期の武将。平清盛の五男。母は平時子。位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称されましました。南都焼討を行って東大寺大仏を焼亡させましました。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送されましました。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首されましました。
    応保2年(1162年)6歳で従五位下、長寛元年(1163年)7歳:尾張守(頼盛の後任)、永万2年のち改元して仁安元年(1166年)(10歳):従五位上(中宮・藤原育子御給)、12月30日:左馬頭(宗盛の後任)、仁安3年(1168年)(12歳):正五位下(女御・平滋子御給)、承安元年(1171年)(15歳):従四位上(建春門院御給)、承安2年(1172年)(16歳):中宮亮(中宮・平徳子)、2月17日:正四位下、治承2年(1178年)(22歳):春宮亮(東宮・言仁親王)。左馬頭如元。中宮亮を辞任、治承3年(1179年)(23歳):左近衛権中将、12月14日:左中将を辞任。春宮亮如元、治承4年(1180年)(24歳):蔵人頭、2月21日:新帝(安徳天皇)蔵人頭。春宮亮を辞任、治承5年のち改元して養和元年(1181年)(25歳):左中将に還任。従三位、養和2年のち改元して寿永元年(1182年)(26歳):但馬権守兼任、寿永2年(1183年)(27歳):正三位(建礼門院御給)、8月6日:解官寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦いで維盛の平氏軍が源義仲に大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされましました。重衡も妻の輔子とともに都落ちしましました。重衡は勢力の回復を図る中心武将として活躍。同年10月の備中国・水島の合戦で足利義清・海野幸広を、同年11月の室山の戦いで再び行家をそれぞれ撃破して義仲に打撃を与えた。翌寿永3年(1184年)正月、源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した範頼と義経によって滅ぼされましました。この間に平氏は摂津国・福原まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していましました。しかし、同年2月の一ノ谷の戦いで平氏は範頼・義経に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて梶原景季に捕らえられてしまう。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女たちは入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっています。木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首されましました。享年29。参考:「仏教の思想」国際仏教学大学院大学教授 木村 清孝フリー百科事典 「ウィキペディア」

たじまる 奈良4

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

但馬国(たじま)

1.但馬国(たじま)

但馬国(たじま)とは旧国名で、兵庫県北部に位置し、西は因幡国(鳥取県東部)、東は丹後国、東南部は丹波国(共に京都府)、南部は播磨国(兵庫県)に接しています。兵庫県が日本海と瀬戸内海の両方に面しているというと意外に思われる方がいます。

但馬は最初は丹波国の一部でした。7世紀、「続日本紀」によると天武天皇十三年(六八五)に丹波国より西部の8郡を分割して成立したとありますが確証はありません。さらに、和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれました。但馬国は、延喜式での律令制における地方行政区分の一つで、格は「上国」、「近国」に位置づけられています。『古事記』は「多遅麻」、「多遅摩」、『日本書紀』はすべて「但馬」と記し、『和名抄』は「太知万」と訓じています。この「たちま」は、谷間が訛ったとも、「タチ(台地)・マ(間)」と解する説(後述)があります。実際に低い山間に細い谷が広がる地域だ。もとは丹波(たんば)の一部でした。丹波は古くは但波・田庭・谷端・旦波とも記されていますが、「たんば」とよく似ていることからたんばが訛ったのではないかとも思えます。日本神話に登場する人物で、天日槍(あめのひぼこ)を祭神とする出石神社田道間守(タヂマモリノミコト)を祀るお菓子の神様、中嶋神社には、コウノトリをつかまえた天湯河棚神(天湯河板挙命)も祀られています。タヂマモリは、全国のお菓子の神。古事記では多遅麻毛理、日本書紀では田道間守と表記され、新羅から渡ってきた天日槍(あめのひぼこ)の曾孫であるとされます。また、多遅摩比多詞の娘が神功皇后です。

但馬で育ちつつあった指導者たちは、大和の大王と手を結び、力をつけ、ここに但馬の国を総括する規模の但馬王が誕生しました。但馬王は、大和の王との関係を強めながら次第に力を伸ばしていきました。

2.国府の施設と配置

国府(こくふ)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設が置かれた場所や都市を指し、国衙(こくが)ともいいます。律令制において、国司が政務を執った施設を国庁といい、国庁の周囲は塀などによって方形に区画されていました。国、郡、城柵で政務の中心となる建物をまとめて政庁といい、国庁もしばしば政庁と呼ばれます。国庁とその周りの役所群、都市域を総称して国衙(こくが)、国府といいます。現在は役所群のほうを国衙、都市のほうを国府と分けて用いることもありますが、同時代的には区別はなかったようです。歴史的には国府の方が先行し、8世紀にはもっぱら国府という言葉が用いられ、平安時代後期以降に国衙が一般的になりました。

各国の国庁の規模の差は小さく、方形の区画の中に中庭を囲んで正殿、東脇殿、西脇殿を冂字形に配置し、南に正門を持ちます。外形上もっとも整備された形では、南門から出る南北道と、これと交差する東西道が中心街路をなし、その他の官衙、国司館、その他施設が区画割りして配置されます。しかし多くの場合国庁をとりまく建物群の配置の規律は緩い。国府の内と外を区分する外郭線は、国府が城柵に置かれたような例外を除きありません。

国府に限らず、律令制時代の日本では役所の建物を曹司といい、これらがまとまった一区画を院と呼びました。国司館は、守館、介館など、国司のために用意された公邸です。もともと国司は国庁で政務をとっていましたが、平安時代中期以降、国司館が政務の中心になりました。国府には正倉が付属しますが、奈良時代には徴税実務上郡の重要性が大きく、地方の正倉は大部分郡家にありました。また工房があって、国府勤務の官人の需要に応じ、都に送る調庸物を生産しました。役所や工房で働く人には、国厨(国府厨)から給食が出されました。工房で働いたり様々な雑務を行う労働者が住む竪穴住居群があり、さらに市場もありました。国府の陸上交通のためには駅家が置かれました。水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多かくありました。
741年(天平13年)以降、国ごとに国分寺と国分尼寺が建てられることになりましたが、それ以前から国府機能と密着した付属寺院を持つ国もありました。平安時代にはさらに総社が建てられました。

これらの施設が一箇所に集中して建てられると都市的な景観になりますが、距離を置いて分散する例も多くありました。国府には国司の他、史生、国博士、国医師、徭丁などの職員が勤務しており、小国で数十人、大国では数百人の人数規模でした。全体としての人口は、陸奥国や武蔵国のような多いところで2、3千人に達したと推定されています。
国府は室町時代に完全に消滅し、ほとんどが所在不明となりました。和名類聚抄が国府があった郡を伝えていますが、それ以上に絞り込むのは難しくなっていました。1960年代までの研究では、「国府(こう)」、「国分寺」、「総社」、あるいはそれと似た地名が探索され、他の状況証拠とあわせて様々に位置が推理されました。
1964年に近江国府が発掘されてから、国府跡の遺跡が次々と発掘されるようになって、状況は劇的に変わりました。あわせて郡衙、寺院の遺跡も見つかり、これらと照らし合わせて国府に共通する特徴が浮かび上がってきました。奈良時代から平安時代前半の国府では、方形区画と正殿・脇殿などで構成される政庁が他の施設にはない特徴で、これが国府の中心施設でもあることから、政庁を発見した時点で国府位置確定とみなされます。


但馬国府国分寺館

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但馬国府は、但馬のどこに設置されていたのでしょうか。国府と密接な関係を有していた国分寺。その寺地選定の要件は、「衆の帰集を労するを欲せず」とされているように、交通至便の地が望まれました。国庁内にあった仏舎の発展延長でもあるので、国府から飛び離れた地点に建立されることはまずありませんでした。実際、国府から五町乃至二町位隔たって建設されたものが多いようです。

古くから日高町国分寺区は、但馬国分寺跡だとの伝承を持つ位置が存在し、但馬の他所から移ってきたような大変化も伝承もなく、遺跡も存在しているのは、但馬では他にはありません。

つまり、国分寺と国府は、まず距離的に密着しているのが通例ですし、この国分寺の近くに国府が最初から建設されたと見るのが妥当です。

次ぎに、国分寺という地名は、和妙抄には存在せず、江戸時代には国保村と書かれています。
国府が国保に訛ったとも考えられ、国府を保つ村だから国保村、国分寺があるから後に国分寺になったのだろうか?『兵庫県史』は、「但馬に気多郡団が知られるが、出石軍団は知られないこと、天平九年の『但馬国正税帳』によると、但馬国府から因幡へ伝達するのに気多郡の主帳を使っています。ふつう国府のある郡には軍団が置かれるし、また文書の逓送には、国府に近い郡の役人を使うのが自然」と述べています。したがって、但馬国府は、出石神社が古くから出石郡に鎮座することから、はじめ出石郡に置かれていたのではないかする見解が一部にありますが、上述の発見からも否定する意見が濃いようです。

『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記されています。別の場所から高田郷へ移されたと記しています。移転月日まで判明している資料的な裏付けがある希有な例だといわれています。
では何故、せっかく好地を選定し、多くの農民を駆り立てて建設した古代の政治都市が、惜しげもなく放棄され、新しい地点を求めて移転したのでしょうか?
総じて移転原因と見られるのは洪水のようです。都市計画に当たって広大な平野が選定されても、高水位対策の配慮が足りないとその機能が発揮できません。
第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もありました。

  • 但馬史説
  • 国府村誌説
  • 日置郷説
  • 八丁路説
  • 八丁路南説
  • 国司館移設説

伊智神社なかでも国府説では、明治中期に設定された国府村という行政体の名前から、国府はこの地にあったに違いないとするものです。国府には船所が設置されていたので、おそらくその河流沿いではあるというものです。国府の市場は「こうの市」と記載されています。国府は「こう」ともいいました。また近くに伊智神社が鎮座しており、伊智は市のことで、市場に関係する神社です。また、中世末期、「府中」と呼ばれていた域内には律令制に所縁ありそうな「堀」「土居」などの地名があります。

日置郷説は、かつて上郷は日置郷にあり、惣社の近くに国府があったというものです。ところが、鎌倉時代には惣社気多神社は、下郷に鎮座していることになっているのでつじつまが合いません。
八丁路説は、伊福(鶴岡)に「八丁」という小字があり、太平洋戦争末期まで鶴岡橋の下流左岸に渡し船がありました。八丁とは区間の長さを示す言葉ではなく八条の転化であり、条里地割りの呼称ではないかといいます。

また、『日本後記』は、上記の通り明瞭に第一次国府の移転を宣言してありますが、果たして国府全体が本当に移転したかです。「国衙」「国庁」あるいは「国府」とも言わず、「国治」を移すと表現していることは、やはりそれなりの意味があって、行政機関のあるものを移転したことを示すものではないだろうか、という考察です。いくつかの新庁舎が建設された類のものではないか、だからこそ、旧国府村でも、円山川沿いに、国府と関係するらしい小字名が伝承されてきたのではないかというものです。
いずれにしても第一次国府は、国分寺の近くにあったこと、人々が行き来しやすい至便の地に建設されたことは確かです。参考:『日高町史』

4.祢布ケ森(にょうがもり)の三時代の遺跡

 縄文後期や晩期前半・後半の凸型文土器が出土し、昭和48年、祢布ヶ森東方部を発掘したところ、幅一メートル深さ60センチの溝や土器とともに石器が発見され、この溝を境にして遺跡の性格が実にはっきりと相変わっていることが判明した。また、西側一帯は、
奈良時代から平安初期にわたる遺物が出土しています。この祢布ヶ森三つの文化層の差異が見られる。(中略)

このように、高原の神鍋山麓だけでなく、低平部の稲葉川と円山川との合流点付近の扇状地帯に縄文時代の新しい生活が展開してきています。
-日高町史- 縄文人たちが但馬の地にはじめてやってきた頃、水面は現在よりも高かったとされています。また狩猟や採集生活をおこなっていたことから、最初は高原地帯に居住していて、だんだん平地にも移住していったのではないでしょうか。


門のある塀と大きな建物(画像:但馬国府国分寺館)

祢布ヶ森遺跡

但馬国府は『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。遷された原因やどこから遷したのかについては記述がないため分からありませんが、移転後の所在地については、近年の発掘調査で博物館に隣接する祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡であると考えられるようになりました。

それではなぜ祢布ヶ森遺跡が但馬国府であると考えられるようになったのだろうか?


大きな建物の柱(画像:但馬国府国分寺館)

役所跡と判断する理由

  • 塀で囲まれた中に大きな建物群が規則性を持って配置されていたこと
  • 庶民は使わない高級な食器である青磁や白磁、三彩などが見つかったこと
  • 但馬各郡の役所で作成されたと思われる戸籍や税に関する木簡が見つかったことなどがあげられる。 水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多く、平安時代にはさらに総社気多神社が建てられた。国府という地名は、全国にあるが、国府跡の所在地が判明しているところは数少なく、その意味でも但馬国府・国分寺跡は貴重です。

    国府の規模は大国以外は六町域をとるものが多くありました。上国とされていますが、貢租の額を詳しく分析してみると、中国の実態しかない国だったようです。

    2008年6月21日、中国最古の詩集「詩経(しきょう)」に触れた木簡が国内で初めて出土しました。同時に二百二点の木簡が見つかり、一つの遺跡では県内最多、全国でも二、三番目の数だそうで。810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されています。川岸遺跡(官衙跡)兵庫県豊岡市日高町松岡第1次但馬国府か?(昭和59年)都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

    5.県内最多の木簡(もっかん)出土

    祢布ケ森遺跡では、1986年から16点の木簡がすでに見つかっていました。木簡では、紀年銘をもつものが多く、但馬国府が高田郷に遷された時期に近いものから10世紀末までにもおよび、この遺跡が機能した時期がわかるものです。また、墨書土器でも「但馬」や「国当」は硯(すずり)の存在と合わせて、この遺跡が国府に関係することを示すものと考えられます。

    また、豊岡市教育委員会(出土文化財管理センター、但馬国府・国分寺館)では、2008年6月4月30日から5月13日まで、日高町祢布にある但馬国府・国分寺館のすぐの祢布ヶ森遺跡の発掘調査で中国最古の詩集「詩経(しきょう)」の注釈書の一節が書かれた9世紀前半(平安時代)の木簡が全国で初めて見つかりました。当時、都の学問・教育機関だった「大学寮」の教科書として使われたとされ、しかし、都でも見つかっていない『詩経』の内容を書いた木簡が見つかったことは、あまり普及していなかった『詩経』の注釈書が但馬にあり、それを使って役人が漢詩の勉強をしていたことを物語っています。

    堀状の遺構から木簡203点が見つかりました。203点という木簡の出土数は、県内で最多です。詩経が書かれた木簡は長さ39・5センチ、幅10・9センチ、厚さ0・7センチ。「淒寒風也谷風曰東風」(淒(せい)は寒風なり。谷風は東風という)などと墨書され、詩経にある「淒」や「谷風」の意味を説明する内容で、注釈書「毛詩正義」にあるのとほぼ同文でした。下に「健児長」とあり、国府を警備していた兵士「健児(こんでい)」が字の練習のために書いた可能性があるそうです。

    また、別の木簡には桓武天皇の姪(めい)にあたる「従三位五百井女王(じゅさんみい おいのじょおう)」の名前が記されていました。五百井女王が「従三位」の位だったのは808~812年で、木簡の時期が特定できました。「城埼郡(きのさきぐん・原文のまま)」から茜(あかね)を送った際に付けた付札、「弘仁四年」(西暦813年)の年号を書いたものなどがありました。

    ほぼ同時期の810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されます。

    木簡の書かれた西暦810年ごろは、国内で天皇の勅(ちょく)による漢詩集が編集されていたときで、地方における漢詩の普及を示す資料と言えます。また、若い?官人が九九を間違えている跡、同じ文字を繰り返し練習したものなど、さまざまな内容のものがありました。

    祢布ヶ森遺跡は、今までの発掘調査で延暦23年(804年)に移転をした但馬国府の跡と考えられていました。今回の木簡はそれをさらに裏付けるとともに、国府における役人たちの姿をほうふつさせる大きな発見となりました。
    祢布ヶ森遺跡では、これまでに16点の木簡が出土しているので、今回のものと合わせて219点の木簡が出土したことになります。県内で見つかっている木簡は約870点ありますが、そのうち、豊岡市内で見つかった木簡は、袴狭遺跡(出はかざ石)の76点、但馬国分寺跡(日高)の42点など、約440点。県内の木簡の約半数が、豊岡で出土していることになります。

    しかも、一つの遺跡で出土した木簡数では、下野(しもつけ)国府(栃木県)の約5千5百点に次ぎ、阿波国府(徳島県)の二百五点に並ぶそうです。これらの遺物は当遺跡の性格を明らかにするだけでなく、但馬国の平安時代を考える上で大変貴重な資料です。

    深田遺跡(官衙跡)

    兵庫県豊岡市水上字深田他(兵庫県指定重要有形文化財 平成6年度指定 兵庫県立考古博物館所蔵)は、周辺に国分僧寺、国分尼寺などがあり、延暦23年(804)に気多郡高田郷に移したと『日本書紀』に記されている但馬国府跡推定地の一つと考えられています。

    6.木簡(もっかん)

    木簡(もっかん)とは、古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、細長い木の板です。紙の普及により廃れましたが、荷札には長く用いられていました。

    中国と日本では一行または数行の文を書いた細長い板が多数出土しており、典型的な、狭義の木簡はこれです。これらは当時も木簡と呼ばれていましたが、用途や状況に応じて様々に呼ばれていました。漢代まで木簡と竹簡には冊書を作る用途があり、一、二行しか書けないような細長い規格で作られました。後に長い文書が紙で作られるようになり、木簡の形に対する制約がなくなっても、細長い形はなかなか変わりませんでした。

    木簡の特徴の一つは、削って書き直したり再利用したりすることができるという点にあります。そのため当時の文具には筆、墨、硯に加えて小刀が含まれていました。削り屑に習字した例もあり、それらも上述の広義の木簡に含まれます。遺跡からの木簡出土の始まりは、1901年にハンガリー出身のイギリス人オーレル・スタインが中国の尼雅で50枚、スウェーデンのスウェン・ヘディンが同じく楼蘭で120枚余の晋代の木簡を発見したことです。スタインは、1907年、1913年-16年の、第2次・第3次探検でも、約900枚の漢代の木簡を発見しています(敦煌漢簡)。その後1930年にはエチナ川流域から一挙に1万点以上の大量の木簡が発見されました(居延漢簡)。20世紀前半には西北辺境からの発見が多かりましたが、後半には中国全国で多数見つかるようになりました。中国では竹に文字を書いた竹簡が主流で、単に簡や簡牘といえば竹簡を指します。しかし黄河流域以北では木簡も広く用いられました。紙が普及しない漢代まで、木簡・竹簡は文書の材料として広く用いられていました。木簡と竹簡の相違は、その用途の相違によるものとも考えられています。つまり、各種の証明書や検・檄・符などの単独簡として用いられる簡には木簡が用いられ、それに対して、書物や簿籍などの編綴簡には竹簡が用いられている、という出土状況から、そのように考えられています。日本の木簡としては、正倉院の宝物に付けられていたものが伝わるほか、1928年に柚井遺跡、1930年に払田柵跡で3点ずつが見つかっていました。大量出土は1961年の平城京跡での40点に始まり、以後続々と各地で見つかるようになりました。数的に多いのは1996年の平城京東南隅から1万3千点、1988~1989年の長屋王家木簡・二条大路木簡計11万点、長岡京など都からのものですが、国・郡の地方官衙や寺院など全国から出ています。2002年度末までに総数約31万点が見つかり、数だけなら中国より多いです。

    7.高田郷

    但馬考

    高田(タカダ)郷…和妙抄は「多加多」。夏栗、久斗、祢布、石立、国保(国分寺)、水上

    日置(ヒオキ)郷…和妙抄は「比於岐」。日置、多田谷、伊福(鶴岡)、上郷、中郷

    高生(タコウ)郷…和妙抄は「多加布」。地下、岩中、宵田、江原

    なお、山本、松岡、土居、手辺、府市場、府中新、堀、野々庄、池上、芝、上石(あげし)の十一村が所属不明。

    『日本後記』延暦二十三年(804)に、但馬国府は「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。これが公式に残る最古の記録です。移転後の高田郷は、江戸時代には東組(旗本小出領)と西組(出石藩領)に分けられています。西は久斗(くと)村、東は石立(いしだち)村、国保(国分寺)村までの、かなり広い地域です。祢布(ネフ・にょう)は、古くからの住居跡が発見されている祢布ヶ森遺跡などがあり、第二次但馬国府跡とされます。縄文後期から晩期前半及び後半の土器、さらに町役場移転に伴う発掘調査で、多数の国名を記した木簡などが発見され、さらには、平成20年、詩経が書かれた木簡が多数見つかりました。

    さて、『和妙抄』では但馬八郡の中で、七郡までが、郡名と同名の郷名が記されていますが、気多郡に気多郷はありません。国府の所在地には、行政上の特別処置として郷を設置しなかったものか、あえて気多郡であるから郷名が忘れられてしまったものなのでしょうか。

    ところが、鎌倉時代になると突如として気多郷の名前が出てきます。その気多郷の下郷に惣社の所領が記載してあります。江戸時代の資料によると、総社気多神社は日置荘上郷に鎮座となっています。平安時代中頃の歌集『金葉和歌集』の中には、気多川が出てきます。現在には気多川という名前はありませんから気多神社そばの円山川(まるやまがわ)を指しているのでしょう。

    『但馬国太田文』によると、気多郷域内に常荒流失地が約一割強の十三町歩(1町歩 = 9 917.35537 m2)もあります。気多下郷は、現在の府市場、府中新、堀、野々庄、池上、芝、上石、納屋、上佐野の地域が該当するのではないかといわれています。いずれにしても山陰道から円山川を下って国府に通ったので、国府が円山川に近い地域に設置されたことは間違いありませんが、高田郷に移す以前の第一次国府は、移転した原因が円山川の水害にあったとすれば、わざわざ、さらに低い場所に移すことは考えにくいでしょう。『和妙抄』には以下の地名が記されていませんので、気多郷内は山本、松岡、土居、手辺(府中新?)、国府市場、堀、野々庄、池上、芝、上石とすると、このどこかと考えることはできないでしょうか。しかし、かつては入り江だった地域ですし、円山川の氾濫から影響されにくい場所とすれば限られてきます。手辺が今のどこなのか分からありませんが、堀、野々庄、池上、芝、上石は現在でも海抜0メートル地帯で水害に遭いやすい場所であり、国分寺や尼寺から遠すぎることからまず外したいと思います。とすると、「高田郷に移す」と書かれてあるので高田郷以外の郷のいずれかであることは確かです。となれば隣接する日置郷か高生郷、もしくは気多郷内と想定します。やはり松岡、土居の、深田遺跡か川岸遺跡か、またその包括的領域当たりでしょうか。

    高生(たこう)

    地下、岩中、宵田、江原となっていますが所在地不明。国府平野を高生平野と言っていますが、岩中、宵田あたりから上石あたりまでの広範囲をさすようです。
    国府駅以西は海抜0メートル地帯でかつて円山川に八代川が注ぐ沼地でした。

    「タ・カウイ」、「編んだレースのような(川の流れが縦横に入り組んでいる九頭竜川の河口付近一帯の)土地を・(九頭竜川の洪水が)襲う(地域)」
    竹貫(たかぬき)
    「タクヌイ」、TAKUNUI(wide)、「広い(浦)」
    鷹貫神社[タカヌキ] 鷹野姫命
    兵庫県豊岡市日高町竹貫字梅谷429
    御由緒
    創立年月不詳ですが、天日槍ゆかりの古社。

    祭神「鷹野姫命」は、天日槍ゆかりの神功皇后の御生母。

    延喜式の鷹貫神社と記して小社に列し明治六年十月村社に列せられる。

    祢布(にょう)は丹生・女布か?

    祢布は、ネフと呼ばれやすいですが、ニョウと読みます。日高町の中心部で、役場(日高町総合支所)が移転する際に大規模な遺跡が発見されました。そもそも祢布集落は祢布川が流れる深い谷の裾にあります。下記のように、賣布(メフ)神社、祢布区や但馬国分寺に近い石立に売布(メフ)神社があります。

    • 賣布神社 式内神名小兵庫県豊岡市日高町国分寺字山ノ脇797
    • 賣布神社古社地兵庫県豊岡市日高町祢布(禰布ヶ森遺跡)
    • 賣布神社古社地兵庫県豊岡市日高町国分寺(天神山に小祠)丹生(にゅう)と似た発音の地名です。したがって、古くは朱を生産したり水銀が見つかったのかも知れません。
      すでに丹土(たんと)と丹生(にゅう)で書いていますのでそちらをご覧ください。京丹後市網野町木津女布谷(にょうだに)にも賣布神社(ひめふじんじゃ)があります。
      式内社神名小御祭神:「豐宇賀能咩命(とようかのめのみこと)、素盞嗚命(すさのおのみこと)」御由緒:『竹野郡誌』に次の様に記載されています。垂仁天皇九十年春、田道間守勅を奉じて常世国に渡航し、不老不死の香菓たる橘を得、景行天皇元年無事帰国し、田神山(屋船山)に神籬を設けて礼典を挙げられしより、此の地に奉祀せしを以て創始とする。田道間守を祀る中嶋神社と関係有りです。賣布神社は他にも、京丹後市久美浜町女布初岡にある賣布神社 祭神豐受姫命、大屋媛命、抓津媛命。しかも神社の読みは島根県松江市和多見町に鎮座する式内社と同名です。深い谷。似た地名に丹生、舞鶴市女布(ニョウ)があり、日本の水銀鉱床は中央構造線沿い、当地に関係深いところなら特に紀ノ川・吉野川流域にある。そのずっと北側にも、当地の女布あたりを中心に大きな楕円を描いて但馬から近江・越前を含む範囲、若狭湾岸地域とも呼ばれていますが、そこにも集中分布しているのが以前から知られています。兵庫県宝塚市の売布神社「大布命口羊布命、現在は高比賣神」も有名です。

      大伴家持(オオトモノヤカモチ)

      直接関係ないですが、気多神社がある国に国司として三カ所も大伴家持が赴任しています。単なる偶然だろうかなんて思うが、気になる人物として取り上げました。

      養老2年(718年)頃 – 延暦4年8月28日

たじまる 奈良3

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丹波(たんば)の始まり


画像:北近畿開発促進協議会に神社を加筆しました

丹波(たんば)の始まり


元伊勢籠神社(宮津市大垣)

一の宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ、こもりじんじゃ)

延喜式神名帳には大社7座6社・小社58座58社の計65座64社が記載されています。大社6社は以下の通りで、竹野神社以外は名神大社に列しています。

4.丹後国府移転の理由は?

この時代の国府移転理由として考えられるのは、やはり桓武天皇の即位でしょうか。天応元年(781年)、桓武天皇は即位すると、新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきます。遷都は前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高める目的があったと考えられており、形骸化した律令官職に代わって令外官などが置かれました。また、桓武は王威の発揚のため、当時日本の支配外にあった東北地方(越後国(後の出羽国を含む))の蝦夷征服に傾注し、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征服に活躍しています。そのことから国府が宮津湾の与謝郡から舞鶴湾の加佐郡に移された理由として考えられるのは、平安京からわざわざ遠いながらも、湾が入り組んでおり、防衛上より適している舞鶴湾を蝦夷攻撃や朝鮮半島との最重要軍事基地として重要視したためとも考えられます。軍事上舞鶴湾は朝廷に最短距離かつ日本海側で最も適した湾であることが、すでに認識されていたのでしょう。

丹波とは、延喜式で定めた山陰道の国の一つで、格は上国、近国。

古代丹国は、北ッ海(日本海)を前に朝鮮半島からの日本の表玄関として、古代は奴国(北九州)・文身国(出雲・伯耆・因幡)の出雲から東に水行5千余里(約260km~300km)の地点に大漢国(但馬・丹後・丹波・若狭・越国・近江)の王都があります。おそらく約260km~300kmから推定すると、福井県・滋賀県のいずれかに王都があったと推定されます。具体的に利便性や気比神宮から敦賀近辺と比定するとします。
丹国(にのくに)は、近畿地方北部を治めた、古代日本の勢力圏の一つです。丹州(たんしゅう)とも呼ばれていました。 5世紀ころ四道将軍の遠征により大和朝廷に服属したとされます。

7世紀に丹波国が定められたときの領域は、初期の中心地は、現在の元伊勢籠神社(宮津市大垣)の付近を地盤として、国分寺が置かれていました。現在の丹波(京都府の中部と兵庫県中東部、京都府北部(丹後)、兵庫県北部(但馬)に及んでいました。丹波と但馬の読みが似ていることもこの背景と関係があるのかも知れません。

しかし、律令制度下でヤマト王権の支配下に入れられると、丹国は丹波国・丹後国・但馬国に3分割されました。天武天皇13(684)年?に丹国北西部の朝来(あさこ)、養父、出石、気多、城崎、美含(みぐみ)、二方、七美(しつみ)の8郡を分けて但馬国(たじまこく)を分割、さらに和銅6(713)年に北部の加佐、与謝、丹波、竹野、熊野の5郡を分けて丹後国を分割し、桑田、船井、多紀、氷上、天田、何鹿(いかるが)の6郡を丹波国としました。大和朝廷の弱体化政策により、古代出雲が出雲と伯耆に分断されたと見ると、同様に古丹波国を三分割されたと考える

現在では丹波と丹後をあわせて両丹(りょうたん)、丹波と但馬をあわせて但丹(たんたん)または丹但、丹波・丹後・但馬を三丹と総称することもあります。最近ではJR西日本の特急「北近畿」という名前のようにも呼ばれています。

現在の丹波は大まかに言って三つの盆地、亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う盆地があり、互いの間を低い山地が隔てている地勢です。このため、丹波国は一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化しました。

年号が不明ですが、律令制が布かれ、北西部を『但馬国』、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を『丹後国』として分離し、後世まで長く続く地域が定まりました。但馬を但州、丹波を丹州と書くこともあります。


天橋立 宮津市

地域性として、

  • 亀岡・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津
  • 氷上・福知山・綾部の中丹(奥丹波)は丹後・但馬
  • 篠山・丹波(西丹波)は但馬・摂津・播磨に密接に係わっています。

そのことからも明治の廃藩置県では数回の変更の末、兵庫県と京都府に分割されることになった。方言的には但馬・丹後は山陰のアクセントに似ており、中丹・南丹は関西弁に近いように思う。もちろん明確に分かれているのではなくて地域の距離的によってより濃厚になってくるようです。(私見)

丹波南東部の亀岡盆地は太古は大きな湖であり、風が吹くと美しい丹色の波が立ったところから、このあたりを丹のうみ・丹波と呼ぶようになったとされており、出雲神話で有名な大国主命(オオクニヌシノミコト)が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地を干拓し、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」(ミホツヒメノミコト)の名前にちなみ「保津川・保津峡」と名付けたという伝説が残っています。出雲大神宮(亀岡市千歳町)の祭神となっており、事実、湖だったことを示す地層も明らかになっています。この伝説は、出雲神話をはじめ、但馬の沼地を切り開いたという伝説や網野入り江を切り開いた伝説などとよく似ている(後述)。

これとは異なり、次の説もあります。6世紀ころには「丹波」の名のつく女性が天皇の后となっていることから、古代より丹波の名称はあったようです。

出雲大神宮


京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地
丹波國一宮 旧國幣中社

御祭神 大國主尊 三穗津姫尊 少那姫尊

出雲大神宮(丹波国一之宮)は、島根県の出雲大社に祀られる大国主命が最初に鎮座したのがこの宮であり、奈良時代の和銅年間(708年~714年)に出雲国へ遷座したという。従ってこの宮を元出雲と呼ぶようです。出雲大社の源なら神宮号を自称するのもうなずけます。
祭神は、その大国主命(オオクニヌシノミコト)と后神三穂津姫(ミホツヒメノミコト)ですが、不思議なことに三殿あるうちの左右は、その二柱の夫婦神なのですが、中央に祀られる神が不明なのです。背後の御影山がそもそものご神体とされ、国常立神だという説もありますが、とにかく中央神が明確に伝わっていません。

いずれにしても一之宮を出雲神としていることは、この地に出雲からの移住民が数多く住み着いた証拠であるといえましょう。丹波国は出雲と大和両勢力の接点にあり、ここに国譲りの所以として祀られたのが当宮です。
現在の本殿は足利尊氏造営による三間流造で、国の重要文化財です。

大宝律令で亀山(亀岡市)の地域が丹波国の中心となり、国府・国分寺・国分尼寺・一宮などがすべて亀岡盆地にありました。亀岡盆地北西部の船井郡八木(やぎ)町屋賀(やが)には、国府、国府垣内などの地名が残っています。

丹波国府はまだ発掘されていません。亀岡市千代川町拝田に比定する説と、船井郡八木町屋賀に比定する説があります。木下良氏(元國學院大教授)は拝田にあった国府が、のちに屋賀へ移転したと考え、これが現在の通説になっています。

丹波国分寺は、浄土宗の護国山国分寺として法灯を伝えるが、その山門の前に礎石群が残されています。昭和三年(1928)国指定史跡とされ、金堂跡基壇をはじめ、中門、塔、講堂などの跡が確認されています。

宗神社は、屋賀という集落にある小さな神社です。国府が屋賀へ移転したとされることからも古代の丹波国総社だという説があります。

丹後国(たんご)誕生

和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれました。

古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある(丹後王国論を参照)。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説もある。

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられています。南部の桑田郡(亀岡市)は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

勘注系図[註1]のなかに見える、「丹後風土記残欠」いわゆる「残欠風土記」の問題がある。同書に見える「丹波」という名の由来では、天道日女命らがイサナゴ嶽に降臨した豊宇気大神に五穀と蚕などの種をお願いしたところ、嶽に真名井を堀って水田陸田に潅漑させたので、秋には垂穂が豊かな豊饒の土地となったということで、大神は大いに喜んでこの地を「田庭」といい、天に帰ったという伝承を載せる。これが丹波の語源となったといい、この記事が勘注系図にも同じく見える。「諸国名義考」にも丹波は「田庭なるべし」とあり、古代の丹波郡あたりは実際にも豊かな土地であって、丹波は宮廷の大嘗祭の主基国にしばしば当てられた。しかし、これら「田庭」起源説は、当地の国造一族が豊受大神を奉斎したことからくる説話にすぎない。

また、丹波方面で彦坐王が討ったと崇神記に見える「玖賀耳之御笠(陸耳御笠)」についても、「残欠風土記」に見える。同書の記事では、玖賀耳之御笠の拠った地が丹後の青葉山(舞鶴市と福井県大飯郡高浜町の境界にある山で、若狭富士、標高は六九九M)とされるが、これも疑問が大きい。すなわち、仁徳天皇の宮人「桑田玖賀媛」などから丹波国桑田郡(亀岡市)という説(太田亮博士)があり、この点や山城国乙訓郡には久我の地からいって、丹波路の入口にあたる乙訓郡あたりから丹波国東南部にあたる桑田郡にかけての地域を、大和王権の先兵としての彦坐王の勢力がまず押さえて丹波道主命と称せられたと考えるのが妥当であろう。この地域に居て抵抗した土着勢力が玖賀耳だと畑井弘氏もみている(『天皇と鍛冶王の伝承』など)。

中世には足利氏の一族である一色氏が入封、一時期を除いて室町時代を通じて丹後一国を支配した。ただ、その支配体系は不明です。恐らく、九州探題も務めたことのある一色氏自体は在京し、地元豪族を守護代として支配をしたのであろう。戦国時代が始まる1498年には守護の一色義秀が地元豪族に攻められて自殺していることから、強力な施政はできなかったようにも思われる。それでも一色氏の命脈は戦国期を通じて永らえたが、1579年7月に一色氏が細川幽斎に滅ぼされて以来、細川氏が丹後を支配した。関ヶ原の戦い後、京極高知に、丹後守の称号と丹後一国、十二万三千石の領地が与えられ、国持ち大名京極家の領地となりました。
国府は、和名類聚抄および拾芥抄では、加佐郡。現在の舞鶴市内と思われる。

ただし、易林本の節用集では、与謝郡とある。現在の宮津市府中と推定される。
国分寺は宮津市府中(国指定史跡)とされ、一の宮 元伊勢 籠神社も近いので、二次国府は宮津市府中が有力である。

[註1]「勘注系図」は、江戸期の作成ないし書写ではないかとする見解を先に紹介したが、海部氏系図を天孫本紀の尾張氏系図などの知識を加えて大補充したものであって、平安前期より前の部分は、まったく意味をもたない。それどころか、様々な意味で有害である。それ以降の系図は田雄の孫世代まで及んでいるので、平安前期の範囲に記述はとどまる(全体の系図の詳細も刊本として公開されているが、実物の写真全ては入手しがたい事情にある)。
そもそも、天孫本紀の尾張氏系図の記事には様々な混乱があるのをそのまま引き写し、そこにすら見えない人物をいい加減に多数書き加え、その記事を付けた偽撰系図そのものであり、このような系図まで「附」として国宝指定をするのは、関係者の学究としての見識が疑われる。

だいたい記載内容が支離滅裂のかぎりで、本来の海部氏系図に尾張氏、和珥氏、倭国造氏の系図を勝手に混合させている。倭宿禰(椎根津彦と同人という解釈がなされている)と尾張連の祖・高倉下命(椎根津彦と同じく神武朝の人)との関係さえ、混乱している状況である。同書奥書には、「豊御食炊屋姫(註:推古)天皇御宇に国造海部直止羅宿祢等が丹波国造本記を撰した」という記事があると報告されるが(刊本では確認できない)、この表現には多くの誤りがある。
海部直氏は丹波国造ではないというのが史実なのに、何度も繰り返される重大な誤りが一連の史料の根底にある(これは、籠神社祠官家の主張にすぎない)。いま勘注系図の別名が「丹波国造本記」とされるが、この推古朝までの系図がその当時撰せられたとしたら、現在に伝わる内容のはずではありえないほど杜撰な記事内容なのである。「海部直止羅宿祢」という表記形式そのものがおかしいほか、止羅宿祢なる者は系図のどこに現れるのだろうか。

参考:舞鶴市HP
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たじまる 奈良2

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古代山陰道の国と駅
古代山陰道と但馬・丹波

1.古代山陰道と但馬・丹波

律令制の時代、わが国は五畿七道(ごきしちどう)という地域区分をもち、現在の近畿地方を中心とした国づくりが行われていました。

ここでいう「道」とは、中国で用いられていた行政区分「道」に倣った物であり、朝廷の支配が及ぶ全国を、都(平城京・平安京)周辺を畿内、それ以外の地域をそれぞれ七道に区分していました。

五畿七道には、律令で定められた国(令制国)があり、それぞれの国府は、七道と同じ名前の幹線道路で結ばれていました。幹線道路は大路、中路、小路に区分され、大路は都と大宰府を結ぶ路線、中路は東海道・東山道の本線、小路はそれ以外の道路とされています。

この時代の記録を残す物の一つとして知られているのが、平安時代中期に編纂されほぼ完全な形で伝わっている「延喜式」(えんぎしき:律令の施行細則的位置づけ)で、細かな事柄まで規定され、古代史の研究で重要な文献となっています。そして「延喜式」は、幹線道路の沿道に置かれ、使者に馬や食事、宿泊などを提供した「駅家(うまや)」の一覧が載っている最古の記録なのです。

古代山陰道の国と駅

延喜式によれば、山陰道のルートは畿内の山城国(現在の京都府南?部)から丹波国、但馬国、丹後国、伯耆国、因幡国、出雲国、石見国、隠岐国を通るとされます。現代の道との比較をしてみると、古代の山陰道は、おおよそ国道372号線、国道176号線、国道483号線、国道9号線などのルートを通ったものと考えられています。
古代山陰道の駅は、当然のことながら実在したものではありますが、それが実際にどこにあったのかということについては、地名などをもとに、比定地について研究が進められており、駅によって、諸説がほぼ一致しているものもあれば、説が分かれている場合もありますが、おおよその地域については研究の結果明らかになってきています。

【延喜式による古代山陰道の国と駅】

駅名
丹波国大枝野口小野長柄星角佐治日出花浪
丹後国勾金
但馬国粟鹿郡部養耆山前面治射添春野
因幡国山崎佐尉敷見柏尾
伯耆国笏賀松原清水奈和相見
出雲国野城黒田宍道狭結多杖千酌
石見国波弥託農樟道江東江西伊甘

吉川弘文書刊「完全踏査 古代の道」(木下良監修/武部健一著)を参考に作成

これらのことからもわかるように、古代の道は江戸時代の道とは違い、未だ解明されていない部分も多いとされますが、一方でその研究結果から、古代の道は直線的道路が多く、かつ道幅も広くとられていたと考えられており、非常に計画的に整備された交通路であったといわれています。

■古代の山陰道と近畿豊岡自動車道との関係

古代の山陰道は平成18年7月に供用を開始した近畿豊岡自動車道の一部である春日和田山道路のルートと一致する部分も多く、この道路のパーキングエリアとなっている、山東、青垣などは古代山陰道の駅の比定地などとほぼ一致しているなど、高規格道路と古代道路との連関性は、全国的にも事例が多いとされています。

古代の遺物という観点では、古墳や遺跡などわかりやすい形でみることのできるものがある一方で、実は今私たちの目の前に当たり前のように存在する「みち」は他の古代の遺物と同じように歴史や文化の宝庫でありながら、今もなお長い歴史の現在進行形の中で私たちが利用しその恩恵を受けている地域社会の生きた古代遺産ということを実感します。

 

「みち」がまちをつくり、そして「みち」や「まち」の出来事の蓄積が地域の歴史や文化をつくってきました。現代においても、北近畿豊岡自動車道が春日・和田山間に供用されたことで京阪神からの丹波・但馬地域への観光客も増加しており、新たな「みち」による北近畿文化圏の新たな1ページが開かれるのかも知れません。

古代山陰道の時代の丹波国とは、現在の京都府の亀岡市・園部町、兵庫県篠山市・丹波市にわたるエリアということができます。古代山陰道は京都の羅城門から始まり、この丹波を入り口に本路は但馬へ、支路は丹後を通り再び但馬で本路に合流し、日本海岸にむけて道がつづきます。延喜式による山陰道本路における丹波国の駅は「大枝」「野口」「小野」「長柄」「星角」「佐治」の6つが示されており、その比定地等について見ていきます。

■古代山陰道:丹波国の駅家

畿内の山城国から老の坂峠を越えて丹波国に入り、出発点の羅城門から約13.4キロの距離に最初の駅「大枝駅」(おおえ)があります。現在の京都府亀岡市篠町王子あたりと考えられています。同名の地名が京都府西京区にも残っていることから、もともとは(奈良時代には)山城国にあった駅家が平安時代に丹波国に移されたものと考えられています。

山陰道本路は、亀岡市の東西道路から先は、大筋では近世の篠山街道あるいはそれを踏襲する国道372号のルートに乗るものになりますが、より直線的な篠山街道のルートが近いと考えられています。また、丹波国府を経由するルートが本来の山陰道であるという考え方もあります。

そのルートの先にあるその次の駅家が「野口駅」(のぐち)です。現在の京都府園部町南大谷あたりに存在したと考えられています。十世紀に成立した百科事典「和名抄」に船井郡野口郷の記述があり、現在の薗部町南大谷に旧字名の野口があることから、比定地として有力視されているのです。ここには、地元の郷土史家の方々が立てられた「野口駅跡」の石碑が存在しています。

ここから「天引峠」といわれる峠を越えると同じ丹波でありながら、京都府から兵庫県に入ります。現在の篠山街道(デカンショ街道ともいわれています)に沿って、丹波第3番目の駅「小野駅」(おの)があります。これは現在の兵庫県篠山市小野奥谷あたりと考えられています。近隣には、「史跡延喜式小野駅跡」と記された碑と祠、その横に篠山市による板が立てられています。

「小野駅」から篠山街道を進み、次の駅「長柄駅」(ながら)に向かいます。「長柄駅」の比定地については諸説ありますが、西濱谷遺跡などの発掘などから、篠山市西濱谷にあった可能性が高いとされています。小野駅から篠山市街地の北側の山麓沿いを通ってきたと考えられ、小野駅からは12キロ程度となります。「長柄駅」から先の古代山陰道は本路と支路に分かれます。本路は現在の丹波市を通って但馬地方へ抜ける道であり、支路は篠山から丹後地方に向かい、但馬の出石地方を通って香美町村岡区で本路と合流します。

延喜式山陰道の本路は、「長柄駅」から国道176号線を北に向かいます。直線的な道路が多くなり、古代の道の面影を感じさせる風景がつづきます。

「長柄駅」の比定地から約16.4キロ、丹波市氷上町石生のあたりが「星角駅」(ほしずみ)の比定地とされています。このあたりは旧道の国道 175号線と国道176号線が合流する地点で、標高100メートル未満の太平洋と日本海の分水嶺としても有名で、「水分れ」と呼ばれる地区です。このあたりから延喜式山陰道は、昨年供用が開始された国道483号線(北近畿豊岡自動車道)と平行して走るようになり、駅家もインターチェンジの場所とほぼ同じ配置となってきます。ちなみに星角駅は北近畿豊岡道氷上ICの近くになります。

丹波地区最後の駅は「佐治駅」(さじ)です。北近畿豊岡道の青垣ICの近くであり、丹波市青垣町佐治という地名から比定地には問題がないとされています。北近畿豊岡道の「遠阪トンネル」を抜けると、もうそこは兵庫県朝来市にはいり、「丹波国」から「但馬国」に入ることとなります。

■古代山陰道における丹後・但馬路の分岐について

山陰道丹後支路最初の駅は「日出駅」(ひづ)駅です。その比定地は兵庫県丹波市市島町上竹田段宿とされ、由良川支流の竹田川右岸を北上し、市島町に入ってからは左岸に移って比定地に達します。現在は国道175号線が近くを通っています。

その次は福知山市にあると考えられる「花浪駅」(はななみ)です。日出駅から由良川筋を避け、西回りでいくルートと考えられます。福知山市中心部から西の西明寺・今安付近を通過して府道109号線を北上し、福知山市野花から府道528号線を沿って北上すると「花浪駅」にいたります。具体的な比定地としては京都府福知山市瘤ノ木周辺とされています。

この周辺には「花浪駅跡」とされた地元が建立した石碑もあり、和泉式部の歌にも「はななみ」の言葉が用いられたものがあります。ここから小さな峠を越え、国道426号を通り、丹後支路は丹後国に入ります。
国道426号を加悦町を経て、野田川町に達すると、ここが丹後国唯一の駅家「勾金駅」(まがりかね)の比定地となります。支路と丹後国府への道がクロスするポイントに置かれたと考えられています。この駅家から丹後国府へは10キロ程度で、国府は宮津市中野府中あたりとされ、宮津湾が天の橋立にふさがれた風光明媚な阿蘇海に面しています。
再び「勾金駅」に戻り、支路を進むことにしましょう。府道2号線宮津八鹿線を西に進み、岩屋峠を越えるとそこは但馬国です。ここに山前駅を置く説もありますが、山前駅については諸説あって分からないことが多いので、今回の特集ではふれないこととします。

さらに西に進み、豊岡市出石町中心部まで支路は峠を越えながら直線的に進むと考えられています。出石市街からは、国道482号線を通り、豊岡市日高町に向かいます。豊岡市日高町には但馬国府があったとされ、この周辺の弥布ヶ森遺跡がそれではないかと有力視されています。正倉院文書の中に「高田」駅家という記述があり、延喜式以前、このあたりに「高田」という駅家があったと考えられています。延喜式の時代には、但馬国府がその代替施設として役割を果たした可能性があります。)

丹後・但馬路の最後の駅家は「春野駅」(かすがの)1です。この駅の比定地については諸説あり、特定は難しいとされています。ある説では、国道 482号線の蘇部トンネルを抜けて、香美町村岡に通じるルートにその駅家があったのではないかと考えられています。古代道路のルートを新しい自動車道やバイパスが通る例がよく見られることなどを考えると、可能性のある説とはいえ、近くの道の駅「神鍋高原」があるあたりが好適地とも思われます。
ここをまっすぐ進み、古代山陰道の支路である丹後・但馬路は香美町村岡区で本路と再び合流すると考えられます。
(丹後と但馬を結ぶ支路で山前はどこなのか。射添と春野間は蘇武岳越えという難所ではありますが直線距離が近すぎるので、山前は勾金と春野の間であれば高田あたりであれば勾と春野の中間、出石神社あたりではないか。)

この支路は丹後国府へ行くだけでなく、それから但馬国府を経て山陰道本路へ戻ります。分岐点の考え方にはいくつかあり、比較される路線は、「佐仲峠越え」「瓶割り峠越え」「水分れ街道」の3つが考えられています。
「佐仲峠越え」は「長柄駅」より本路を進み、現在の舞鶴若狭自動車道とクロスするポイントから分かれるルートで、佐仲峠を越えて、丹波市春日町国領に出る道です。

「瓶割り峠越え」のルートは、鐘ヶ坂峠の手前で分岐し、北上して瓶割峠を越え、「佐仲峠越え」と同じく丹波市春日町国領に出ます。福知山市史などはこのルートを採用しています。

「水分れ街道」のルートは丹波国の駅家「星角」から、現在の国道175号線やJR福知山線に沿って進む黒井川沿いのルートです。
それぞれのルートの違いは「佐仲峠越え」がもっとも標高が高いところを通り丹後・但馬路の最初の駅に最も近く、「水分れ街道」は峠を越えない平坦な道路であるが最初の駅までは最も遠くなっています。古代道路は最短のルートをとる場合が多いこと、江戸時代の道しるべも「佐仲峠越え」のルートを丹後への道としていること、高速道路に沿ったみちであることなどを考えると「瓶割り峠越え」のルートの蓋然性が高いと考えられます。

丹波市春日町国領から北上すると舞鶴若狭自動車道の春日ICに到達しますが、この付近に位置する七日市遺跡で南北方向に走る幅約11mの道路遺構が見つかり、位置や方位、幅員などから山陰道丹後支路の可能性が高いとされています。この遺跡では、多数の建物や、木製品・硯・石帯、および「春マ郷長」「大家」「門殿」などと記された墨書土器が出土し、木簡・墨書土器が多数出土した付近の山垣遺跡とともに、この地域を治めた役所の跡と考えられています。

■古代山陰道:但馬国の駅家

但馬国は現在の兵庫県但馬地方とほぼ同じ地域をさします。第2回の中で、とりあげた丹波市青垣町から北近畿豊岡道にある全長4キロ近くある遠坂トンネルを抜けると兵庫県朝来市、但馬地域の入り口となります。

延喜式による山陰道本路における但馬国の駅は「粟鹿」「郡部」「養耆」「射添」「面治」とつづき、その後但馬国から因幡国に入ります。
但馬国の一番最初の駅は、「粟鹿駅」(あわが)です。北近畿豊岡道に沿って進み、次のIC(山東)の近くと考えられています。遺跡地名の粟鹿がありますが、近くの朝来市山東町柴で「駅子」と書かれた木簡が出土し、このあたりが駅家の場所ではなかったかと考えられています。(柴遺跡として知られています。)この近くにある粟鹿神社は延喜式時代のものといわれ、古代の情緒を残した神社として知られています。

ここからのルートは学説がいくつかに分れます。一つは近世山陰道や国道9号の道筋である円山川沿いを進むルート、今ひとつは朝来市和田山町牧田から峠越しに同市同町岡、岡から養父市畑を経て広谷あたりに出たと考えるルートです。古代道路の多くはその経路として、氾濫などの多い河谷沿いを避ける傾向があり、円山川がたびたび氾濫を繰り返したことから後者の川沿いを避けたルートという考え方に基づいて話をすすめていきます。

次の「郡部駅」(こうりべ)は円山川沿いを避けたルートとすると、養父市広谷または岡田辺りがその比定地と考えられます。ただし、このあたりには明確な遺跡等が確認されていません。現在北近畿豊岡自動車の和田山八鹿間の工事が行われ、養父ICの設置が予定されている近くであり、古代山陰道と北近畿豊岡自動車道との関係性をここでも見ることができます。また、丹波の星角駅よりつかずはなれずつづいてきた古代山陰道と北近畿豊岡道の関係はここでおわり、ここから駅路は国道9号に沿って進むことになります。

次の駅は「養耆駅」(やぎ)です。この駅についてはいくつかの説がありますが、養父市八鹿町八木に遺称地名があり、この近くにある中世八木城遺跡の発掘調査で、奈良時代の須恵器や役人の存在を物語る石帯が出土しており、この地を有力な比定地とする考え方が主流といえます。なお、延喜式では「養耆駅」の次に「山前」(やまさき)とよばれる駅が記されていますが、この山前駅は丹後-但馬間の支路に位置する駅である可能性が高いので、今回は本路の駅としてとりあげることは避けることとします。

さて、国道9号をさらに北上すると、途中の香美町村岡区村岡で、丹後・但馬を通った支路と合流し、さらに進むと次の駅「射添駅」(いそう)にいたります。遺跡などは見受けられませんが、香美町村岡区和田のあたりと比定され、湯船川と矢田川の合流地点付近とされています。

但馬最後の駅家は「面治駅」(めじ)です。新温泉町出合付近に比定されており、近くに「面沼神社」があり、「米持」(めじ)の小字名もあることから、この付近を比定地することに大きな異論はないところです。この周辺は湯村温泉の温泉街のすぐ近くです。

三丹地域の古代山陰道の特徴の一つとして、丹波・丹後・但馬をトライアングル状につなぐ支路の存在があります。この支路が本路のどのあたりから出たかということについては、いくつかの説があります。いずれにしても丹波のある地点から分岐し、丹後をとおり、その後但馬国府を通って、但馬の美香町村岡区付近で本路に合流する経路です。
延喜式によれば、この経路における駅は、「日出」「花浪」「勾金」「山前」「春野」とつづき、本路に合流します。

参考:国土交通省近畿地方整備局 近畿幹線道路調査事務所 「みちまち歴史・文化探訪」

5.律令制における地方行政

701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成されました。日本では奈良時代、律令制における地方行政の最下位の単位として、県は郡に改められ、郡の下に(り、さと)が設置されていました。里は五十戸(世帯)で構成されました。その統率者が里長(さとおさ)で郡司の管轄下にあり、末端行政を担いました(現在の区長、自治会長です)。税の取り立て・出挙の管理などを主な職務としており、当地の有力農民から選ばれ、庸・雑徭を免除されました。715年に郡が(ごう、さと)と改められ、郷の下に新たに2~3の里が設定されました。しかしこの里はすぐに廃止されたため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになりました。奈良時代初期に里が郷と改名されたのに伴い、里長は郷長と改称されました。
平安時代中期の辞書である和名抄は、律令制の国・郡・郷の名称を網羅しています。中世・近世には、郷の下には更に小さな単位である村(惣村)が発生して郷村制が形成されていきました。中国において郷(鄕)は秦・漢の時代から存在しており、現在も中国では行政区画として存続しています。
例:但馬国気多郡高田郷

6.律令制における租庸調

租庸調(そようちょう)は、中国及び日本の律令制下での租税制度です。中国の制度を元としているが、日本の国情に合わせて導入されたものです。

律令制を整え発展した唐と連合し,その律令制を受容することで強大化した新羅が,百済・高句麗を滅ぼし,ついには唐をも朝鮮半島から排除して,朝鮮半島の統一的支配を確立するという7世紀の東アジアの激動を背景として,倭(天武天皇による国号制定以後日本)では中央集権的律令国家建設の必要性が生じた。

日本の税体系は,10世紀頃の籍帳支配崩壊に伴う公地公民制の崩壊をうけて,課税が個別的人身賦課方式から土地賦課方式へ転換されるまで,人頭税を財源の中心とするものであった。土地税の租は,課税対象確保のための農民の最低生活の保障の意味で,低率に抑えられていたが,庸調などの人頭税は,財源の中心と位置づけられており,民衆にとっては極めて負担過重なものであったため,税回避のための浮浪や逃亡,偽籍などが頻発した。このことは,口分田の荒廃をもたらし,班田制動揺の一因となりました。

租は、田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%に当たった。原則として9月中旬から11月30日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。しかし、歳入としては極めて不安定であったため、律令施行よりまもなく、これを種籾として百姓に貸し付けた(出挙)利子を主要財源とするようになりました。一部は舂米(臼で搗いて脱穀した米)として、1月から8月30日までの間に、京へ運上された。(年料舂米)

律令以前の初穂儀礼に由来するのではないか、とする説もある。

正丁(21~60歳の男性)・次丁(正丁の障害者と老丁(61歳以上の男性))へ賦課された。元来は、京へ上って労役が課せられるとされていたが(歳役)、その代納物として布・綿・米・塩などを京へ納入したものを庸といった。京や畿内・飛騨国(別項参照)へは賦課されなかった。現代の租税制度になぞらえれば、人頭税の一種といえる。

庸は、衛士や采女の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となりました。

調

正丁・次丁・中男(17~20歳の男性)へ賦課された。繊維製品の納入が基本であり(正調)代わりに地方特産品34品目または貨幣による納入も認められていた。(調雑物)これは中国の制度との大きな違いです。京へ納入され中央政府の主要財源として、官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。京や畿内では軽減、飛騨では免除された。

正調

調の本体であり、繊維製品をもって納入した。正調は大きく分けて絹で納入する調絹(ちょうきぬ)と布で納入する調布(ちょうふ)に分けることが出来る。当時において、絹は天皇などの高貴な身分の人々が用いる最高級品であり、その製品は「布」とは別の物とされていた。従って当時の調布とは、麻をはじめ苧・葛などの絹以外の繊維製品を指していた。

時代によって違うものの、大宝律令・養老律令の規定に基づけば、

  • 調絹は長さ5丈1尺・広さ2尺2寸で1疋(1反)となし、正丁6名分の調とする。
  • 調布は長さ5丈2尺・広さ2尺4寸で1端(1反)となし、正丁2名分の調とする。とされていたが、実際の運用においては、養老年間に改訂が行われ、
  • 調絹は長さ6丈・広さ1尺9寸で1疋(1反)となし、正丁6名分の調とする。
  • 調布は長さ4丈2尺・広さ2尺4寸で1端(1反)となし、正丁1名分の調とする。とする規定が定められて、これを元に徴収が行われていました。▲ページTOPへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

多遅麻国造から国司但馬守へ

多遅麻国造から国司但馬守へ

但馬守たじまのかみ

960年頃 源経基
1010年頃 源頼光
1110年頃 平正盛
平経正
1130年頃 平忠盛
1182年 平重衡(権守)
矢沢頼康 柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主 戸田氏西 美濃大垣藩主 山口弘豊 常陸牛久藩主 浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主 遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主

但馬介たじまのすけ

? 源満頼
1224年 平有親
714(霊亀元)年 安部安麻呂
737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ)  記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。
天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。

聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。
地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

源頼光と頼光寺

頼光寺(らいこうじ) 曹洞宗

但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。 気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

気多神社

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たじまる-平安3

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平安京紫(きょうむらさき)#9d5b8b最初のページ戻る次へ

高麗の建国と文化

目 次

  1. 高麗の建国
  2. 中央行政機構の整備
  3. 郡県制と地方支配
  4. モンゴルの侵略と高麗の滅亡
    高麗が1392年まで統一政権を形成します。のち朝鮮国時代(朝鮮王朝・李氏朝鮮)が 1910年まで続きます。

高麗の建国

朝鮮半島を統一した新羅の勢力が衰えた九世紀末以降、朝鮮半島各地には、「城主」や「将軍」を自称する武装した豪族が多数出現しました。さらに、それらの豪族を糾合して、中部以北に弓裔の後高句麗、西南部に後百済が相次いで成立しました。戦乱が続くなか、頭角を表した王建は、918年に弓裔を倒して高麗を建国し、開京(現開城・ケソン)に都を置きました。さらに935年に新羅を吸収し、翌年には後百済を滅ぼして、後三国を統一しました。
高麗は中国五代王朝との外交を開始し、各王朝からは「高麗国王」に柵封されました。その後も宋・金・元・明との間に柵封関係を結びました。一方日本へも二度使者を派遣しましたが、いずれも日本側から拒否されました。以後、両国の間には民間の交流はみられましたが、正式な国交が開かれることはありませんでした。建国初期の高麗にとって、契丹との関係は大きな問題となりました。高麗は当初、契丹と国交を保ちましたが、926年に契丹が渤海を滅ぼすと警戒心を強め、渤海から数万人にのぼる亡命者を受け入れる一方、まもなく断交に踏み切りました。これに対し、中国進出に力を注いでいた契丹は、高麗が宋に冊封されると徐々に高麗を威圧するようになり、993年、ついに高麗への軍事侵攻を開始しました。契丹の侵攻は三度に及び、1011年には開京が焼き払われる惨禍を被りました。▲ページTOPへ

2.中央行政機構の整備

 契丹の脅威は、高麗に対して国王を頂点とする中央集権的な官僚国家の建設を促しました。主として宋の制度をもとに整備されました。
こうした行政機構を運営する官僚組織は東班(文臣)と西班(武臣)に分かれ、両班(ヤンバン)と総称されました。国政の運営はおもに文臣に委ねられ、彼らの多くは選抜試験である科挙によって登用されました(958~)。武臣は科挙によらず、おもに中央の正規軍である二軍・六兵のなかから抜擢されました。また官僚の官位で九品まであるなかの五品以上の文武高官の場合、子弟の一人については科挙を受験せずとも自動的に官僚に登用される制度もおこなわれました。
両班や軍人、それに末端の行政実務担当者であるしょ吏などには、官職。位階に応じて一定額の土地が国家から支給されました。また、この土地以外にも功績によって土地が支給されました。これは上級官僚の貴族的性格を示すもので、後世まで韓国の身分制度に影響を残します。

3.郡県制と地方支配

 地方に割拠する豪族勢力を統制し、安定した全国支配を実現するために、豪族集団の根拠地である邑(ユウ)を州・府・郡・県などの行政区画に編成し直し、豪族たちを邑の末端行政実務担当者である郷吏とすることで、邑の政治機構である邑司(ユウシ)へと改編しました。また、一部の邑には中央から地方官を派遣して駐在させ、周辺のいくつかの邑をその管轄下において統治させました。こうして、11世紀初めまでに高麗の支配体制に組み入れられていきました。邑になかには多種多様の小行政区画(雑所)が存在しました。
郡県制の施行と並行して、姓氏と本貫(本拠地)の制度も導入されました。10世紀末ごろまでに朴(パク・ぼく)・金(キム)・李(イ)などの中国風の姓氏が各村落単位に設定され、郷司層や一般民は、すべて特定の行政区画を本貫とする姓氏集団として国家から把握されるようになりました。やがてそれは、金海朴氏のように、本貫と姓氏を一体化して一族を表現する概念を生み出す契機となりました。
邑の上位行政区画として、朝鮮半島中部以南には五つの道が置かれ、北部の辺境地帯には東界(トンゲ)と北界(プクケ)の二つの界が設けられました。また、都である開城周辺は京畿という行政区画が設けられました。▲ページTOPへ

4.モンゴルの侵略と高麗の滅亡

 13世紀初めに世界帝国へと急成長したモンゴルは、高麗に対しても1231年から本格的な侵略を開始しました。モンゴル軍の侵略は約30年間にわたって執拗にくり返され、六度に及ぶ大規模な侵攻の結果、国土は荒廃し莫大な人命が失われました。
1259年、モンゴルに降伏しました。元のフビライは高麗を服属させたのち、1274年と81年の二度、日本へも遠征を試みました(元寇)。その過程で、高麗には軍船や食料の調達など重い負担が命じられ、また提供した兵員にも多くの死傷者を出しました。
1368年に明が建国するとすぐに外交関係を結びました。一方、高麗には13世紀末から14世紀初めにかけて元から朱子学がもたらされていましたが、やがてこれを学んだいわゆる新興儒学臣層が政界に進出するようになりました。彼らは親明政策を主張して親元派官僚と対立しましたが、王が臣元派に暗殺されたことで改革は一次挫折を余儀なくされました。
高麗末期には、南からの倭寇、北からの紅巾軍など、外部からの侵略にさらされた時期でした。1388年、親元派を追放した親明儒臣が集まり、内政改革が進められました。1392年、474年にわたって朝鮮半島に君臨した高麗王朝はついに滅亡しました。
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