【但馬の歴史】(20) 生野銀山

[catlist categorypage=”yes”] 平安時代初期から、但馬では金銀鉱山の採掘が行われていました。とくに生野銀山は山名氏支配の時代から四天王の太田垣氏が、阿瀬金山などは山名、垣屋氏が経営し、山名氏の衰退と下克上に大きく寄与する財源になっていたのではないかと考察します。養父郡北部を領していた八木氏は、中瀬鉱山・日畑金山などがその領地内にありました。そして各鉱山は豊臣・徳川時代まで最盛期が続き、重要な鉱山として幕府直轄領になりました。

生野銀山の歴史

生野銀山(いくのぎんざん)は兵庫県朝来市(旧生野町)に開かれていた、戦国時代から昭和にかけての日本有数の銀山。

生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられていますが、詳細は不明です。天文11年(1542年)、但馬国守護大名・山名祐豊が銀鉱脈を発見、石見銀山から灰吹法といわれる採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まりました。

このようにして山名氏の時代が約十五年続き、その後弘治二年(1556)家臣である竹田城主太田垣朝延の反逆によって約二十年経営され、天正五年(1577)から慶長三年(1598)までの約十六・七年間、織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、江戸時代にはただちに徳川家康が間宮新左衛門を代官として「銀山奉行」を設置。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び徳川幕府の財源的な存在でした。徳川幕府が滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出しました。宝永2年(1705年)には、「御所務山(ごしょむやま)」という最上級の鉱山に指定されています。

慶安年間(1648年~1652年)頃より銀産出が衰退し、享保元年(1716年)には生野奉行は生野代官と改称しました。江戸中期には銀に換わり、銅や錫の産出が激増しました。

明治元年(1868年)から政府直轄運営となり、鉱山長・朝倉盛明を筆頭として、お雇いフランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエらの助力を得て、先進技術を導入し近代化が進められました。数年後、但馬南部・播磨を生野県として成立。

明治22年(1889年)から皇室財産となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となりました。
昭和48年(1973年)3月22日、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから、閉山し、1200年の歴史に幕を閉じた。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しています。
2007年、日本の地質百選に選定されました。

その間掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しており採掘した鉱石の種類は黄銅鉱・閃亜鉛鉱など70種にも及んでいます。

生野銀山と太田垣氏

戦国末期に至り、ついに太田垣輝延、垣屋・八木・田結庄ら山名の四天王は但馬の有力国人衆とはかって守護山名致豊(いたとよ)に離反し、誠豊(まさとよ)を擁立して但馬の領国経営の実権を握りました。以後、垣谷光成・八木豊信・田結庄是義ら四頭が割拠し但馬を四分割しました。

天正三年(1575)、信長の指令を受けた羽柴秀吉が中国征伐を進めると、太田垣輝延は八木豊信・垣屋豊続を擁立して毛利氏の吉川元春と「芸但和睦」を結び、秀吉に対抗しました。しかし、結局は秀吉によって没落の憂き目となりました。輝延以降の系図は残っていないようです。

生野銀山は、山名氏支配の時代が約十五年の間続いたのですが、弘治二年(1556)、朝来郡を任された家臣である太田垣朝延の反逆によってこの城塞を占領され、銀山の経営を奪われることになって、祐豊は本城である有子山城(出石城)に追われてしまったのです。それ以後朝延は、自分の家臣を代官としてこの城に駐在させて銀山経営にあたり、秀吉の但馬征伐までの永禄・元亀時代の約二十年の間を自分のものとして続けてきました。

生野平城

生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられています。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。

この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれています。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。

この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていました。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。

それからは実権が徳川幕府に移り、滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、鉱政庁として利用されていました、そして明治維新の改革で明治二年(1869)に生野県がおかれた時、その役所としてこれまでの代官所に使用されていた館などがそれにあてられました。
しかし、同四年廃県となった時に、この由緒ある建物は払い下げて売られ、取り壊して何一つなくなり、ただ石垣と外堀だけが昔を偲ぶ城跡として残っていました。しかしながら、史跡を守り文化財を重要視する現代と違った大正時代に、この生野の歴史的価値のある平城を惜しげもなく取り崩し、埋め立てて宅地に造成するなどによって、その存在した事実さえ知らないというのが、この城にまつわる物語であります。

銀の馬車道

「銀の馬車道」は、明治の初め生野と飾磨港の間、約49kmを結ぶ道として新しく作られ、正式には 「生野鉱山寮馬車道」と呼ばれた、当時の高速道路というべき馬車専用道路です。 完成から約130年がたった今では、道の大部分は車が走る国道や県道に変わり、 一部は新幹線姫路駅になっています。 しかしながら、「銀の馬車道」のルートをたどれば、あちらこちらに記念碑などがあり、 往時のおもかげを残しています。

1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コアニエが選んだ技師レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事が始まりました。 道路を水田より60cm高くし、 あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がスムーズに走行できる工事が3年がかりで行われました。 この馬車道により、物資を非常に早く輸送でき、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1まで低減したと言われています。

ジュール・レスカス(JulS. Lescasse)

明治初期に活躍した在日フランス人建築家。明治4(1871)年に来日。官営生野鉱山に勤めたのち、横浜に建築事務所を開設、かたわらパリの建築金物店ブリカール兄弟社の代理店も営んだ。代表作にニコライ邸(1875頃)や西郷従道邸(1885頃)などがある。

ジャン・フランシスク・コワニエ(Jean Francisque Coignet)

(1835年 – 1902年6月18日)は、フランスより招聘された御雇(おやとい)外国人技師のひとりである。兵庫県・生野銀山(生野鉱山)の近代化に尽力した。

コワニエは、フランス・サンテチェンヌの鉱山学校を卒業したのち、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州など世界各地の鉱山を視察し、1867年(慶應3年)より鉱業資源調査のために薩摩藩によって招聘されていた。

明治新政府は官営鉱山体制を確立すべく、1868年(慶應4年)、江戸幕府から受け継いだ産業資産のひとつである但馬国の生野鉱山(現・兵庫県朝来市生野町)の鉱山経営を近代化するため、コワニエは帝国主任鉱山技師として現地に派遣された。鉱山長・朝倉盛明の元、政府直轄となったこの鉱山を再興するため、鉱山学校(鉱山学伝習学校)を開設し新政府の技術者らを鉱山士として指導、近代的鉱山学の手法により当時の欧米先進技術を施し成果を挙げる。

坑口の補強にフランス式組石技術を採用し、鑿(のみ)と鏨(たがね)だけの人力のみに頼っていた採掘作業に火薬発破を導入、運搬作業の効率化を図り機械化を推進、軌道や巻揚機を新設した。また、より金品位の高い鉱石脈に眼をつけ、採掘の対象をそれまでの銅中心から金銀に変更するよう進言した。さらに、製錬した鉱石その他の物資輸送のための搬路整備を提案し、生野~飾磨間に幅員6m・全長50kmの、当時としては最新鋭のマカダム式舗装道路「生野鉱山寮馬車道」として1878年(明治11年)結実する。大阪の造幣寮(現・造幣局)への積出し港である飾磨港(現・姫路港)の改修なども指導し、発掘から積み出しまでの工程を整備した。

着任当初の鉱山の混乱(播但一揆に伴う鉱山支庁焼打ち事件:明治4年)もあり一時離日するが、その後再任し上記事業に本格的に取り組んだ。大蔵卿・大隈重信の官営鉱山抜本的改革についての諮問により、日本滞在中に各地の鉱山調査もあわせて行い、1874年(明治7年)『日本鉱物資源に関する覚書』(Note sur la richesse minerale du Japon)を著した。1877年(明治10年)1月に任を解かれ帰国、1902年、郷里のサンテチェンヌにて67歳で死去。

銀山現地にはコワニエの業績を称え、彼のブロンズ胸像が建つ。当時、生野の鉱山にはフランスから地質家・鉱山技師・冶金技師・坑夫・医師らが呼ばれ、その総数は24名に達したという。

鉱山資料館

現在は、史跡・生野銀山(三菱マテリアル関連会社の株式会社シルバー生野が管理・運営)となっており、のみの跡も生々しい坑道巡りのほか、鉱山資料館は、「和田コレクション」、「石亭標本」、「藤原寅勝コレクション」など常時2,000余点を展示しております。国内産出鉱石標本としては世界的にも貴重な国内最大級の鉱物博物館として知られております。「和田コレクション」は、和田維四郎博士が明治8年から30年間にわたって収集したもので、明治年間に我が国で産出した鉱物の大半を網羅し、最初の完全な日本産鉱物標本として国宝的評価と名声を博しています。和田維四郎の標本の散逸を惜しんだ三菱合資会社の岩崎小彌太社長が、同コレクションを一括して譲り受けました。その後当地に移管され、現在の三菱ミネラルコレクションの主体を成しています。 「和田コレクション(和田維四郎)」、「石亭標本」は、木内石亭が苦労の末に日本全国から集めた2千余点の奇石や鉱物類の標本で、我が国最古の岩石・鉱物コレクションです。

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【但馬の歴史】(9) 山名氏(4) 生野城(古城山=いくのじょう)

足利三代将軍義満の時代、幕府最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいた。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(武士のトップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていた。

応永三十四年(1427)十月、四職のひとりである播磨守護赤松満祐(みつすけ)が、父義則の三十五回忌の法要仏事を赤松家の菩提寺である京都東山龍徳寺で行っていた。その時、将軍義持の使者として、南禅寺の長老が来て一通の書状を手渡した。その文面は赤松満祐の領地播磨国を足利将軍の直轄地として、そこの代官職を分家筋にあたる赤松持貞に代えるという思いがけないものであった。これにはいろいろ原因があるとされるが、つまりは満祐は将軍義持に嫌われており、その間に立って持貞がうまく将軍に取り入っていたことのよるものと伝えられている。

この意外な書状を読んだ満祐は、たとえ父が死んだといっても播磨国は祖父円心以来立派に治めてきた土地であるから、領地を取り上げられることは許してもらいたいとたびたび願ったのですが、ついに聞き入れてもらえなかった。そこで満祐も仕方なくこれに従うことを伝え、その日の仏事を住ませたのち自分の屋敷に帰り、決心して多くの財宝を召使いの者に分けた与え、屋敷には火をかけ焼き払い、夜にまぎれて本国の播磨へ引き上げてしまった。
これを知った将軍義持はたいそう怒って、「播磨一国を取り上げてもまだ備前・美作の二国があるにもかかわらず、このような反抗は許し難い。残る一国も他の赤松家に与え、満祐を討伐せよ。」

ということになって、その命令が山名時熈(ときひろ)と一色義貫(よしつら)に下ったのです。しかし、一色は様子を見るために出発しなかったようだ。

生野城

山名時熈は将軍義持の命に従い、すぐに京都から本国の但馬に帰り、赤松満祐討伐のため、播但の要衝である生野を選び、その北にそびえる標高六百mの山上(古城山)に城を築きました。「銀山旧記」という古文書によりますと、「ここ二十間(約36m)四方の居所を構え、尾崎尾崎に物見をつけ、厳重の要害なり。」と書かれている。これから考えてみますと山上に“館(たて)”といわれるような建物を造り、その尾根続きの要所には見張所も構えていたものと思われます。こうした陣をしいて敵方の様子をうかがっていたわけで、時に応永三十四年(1427)の十一月も末頃のことといわれている。

一方播磨国に引き上げた赤松満祐は、一族を集めて本拠の白旗城に立てこもり、戦いの体制を整えながらも、今一度将軍義持にあてて、「自分の所領地は播磨一国でいいから、先祖から受け継いだ土地として相続させてもらいたい。そしてこの度の軽率な行動は深くお詫びするから許してほしい。」という書状を送ったのですが、将軍義持は承知しなかった。
ところが、翌年に突如持貞と義持側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追い込まれた。満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免された。

今まで将軍義持のお気に入りであった分家筋の赤松持貞がおごりにふけって良よからぬことをしていたことがわかり、将軍義持は大へん怒って持貞に切腹を命じ、それまで憎んでいた満祐に対して心機一転その謀反の罪を許すことになりました。また、管領畠山氏のすすめで、満祐もとりあえず家臣を名代として京都へ送り幕府にあやまり、自分も十二月中ごろに上洛して、謀反の罪を詫びましたので、ことは無事に治まり、満祐は父の後を継ぎ播磨国を治めることができ、とにかく落ち着いたのです。

こうしたことで、生野城砦にいた山名時熈は、かねがね尊敬していた黒川村大明寺の月庵和尚の墓に参って、新しく香華を供えたと伝えられている。山城跡は“御主殿”とも“古城山”とも呼ばれ、その雄大な姿は生野小学校校歌にも取り入れて歌われ、生野銀山発祥の地として郷土史に輝いているのです。

生野平城


生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられている。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。
この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれている。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。
この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていた。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝
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