初代多遅麻国造 天日槍(あめのひぼこ)

初代多遅麻国造 天日槍(あめのひぼこ)

天日槍伝説

『日本書紀』では、以下のように記している。

日本書紀垂仁天皇三年の条

《垂仁天皇三年(甲午前二七)三月》三年春三月。新羅王子日槍来帰焉。将来物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。并七物。則蔵于但馬国。常為神物也。〈 一云。初日槍。乗艇泊于播磨国。在於完粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主与倭直祖長尾市於播磨。而問日槍曰。汝也誰人。且何国人也。日槍対曰。僕新羅国主之子也。然聞日本国有聖皇。則以己国授弟知古而化帰之。仍貢献物葉細珠。足高珠。鵜鹿鹿赤石珠。出石刀子。出石槍。日鏡。熊神籬。胆狭浅大刀。并八物。仍詔日槍曰。播磨国宍粟邑。淡路嶋出浅邑。是二邑。汝任意居之。時ヒボコ啓之曰。臣将住処。若垂天恩。聴臣情願地者。臣親歴視諸国。則合于臣心欲被給。乃聴之。於是。日槍自菟道河泝之。北入近江国吾名邑、而暫住。復更自近江。経若狭国、西到但馬国、則定住処也。是以近江国鏡谷陶人。則日槍之従人也。故ヒボコ娶但馬国出嶋人。太耳女。麻多烏。生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。清彦生田道間守也。 〉

垂仁天皇3年(紀元前31年)春3月、新羅の王の子であるヒボコが謁見してきた。
持参してきた物は羽太(はふと)の玉を一つ、足高(あしたか)の玉を一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉を一つ、出石(いずし)の小刀を一つ、出石の桙(ほこ)を一つ、日鏡(ひかがみ)を一つ、熊の神籬(ひもろぎ)[*1]を一揃え、胆狭浅(いささ)の太刀合わせて八種類[*2]であった。

一説によると、ヒボコは船に泊まっていたが播磨国宍粟邑にいた。ヒボコの噂を聞いた天皇は、三輪君の祖先にあたる大友主と、倭直(やまとのあたい)の祖先にあたる長尾市(ながおち)を遣わした。初めは、播磨国宍粟邑と淡路の出浅邑を与えようとしたが、大友主が「お前は誰か。何処から来たのか。」と訪ねると、ヒボコは「私は新羅の王の子で天日槍と申します。「この国に聖王がおられると聞いて自分の国を弟の知古(ちこ)に譲ってやって来ました。」

天皇はこれを受けて言った。「播磨国穴栗村(しそうむら)[*3]か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)[*4]に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡り、北に入り、近江国の吾名邑、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。近江国の鏡邑(かがみむら)の谷の陶人(すえひと)は、ヒボコに従った。

但馬国の出嶋(イズシ・出石)[*5]の人、太耳の娘で麻多烏(またお)を娶り、但馬諸助(もろすく)をもうけた。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。また清彦は田道間守(たじまもり)を生んだという。

阿加流比売神(アカルヒメノカミ)

阿加流比売神は、『古事記』では、以下のように記しています。

古事記 「昔、新羅の阿具奴摩、阿具沼(アグヌマ:大韓民国慶州市)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。

ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、ヒボコと出会った。天日槍は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。」

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国である倭国(日本)に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾(ヒメコソ)神社[*6]に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見(マエツミ)と結婚した。

『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述があります。
応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島(ヒメジマ)」と名附けた。
『日本書紀』では、アメノヒボコの渡来前に意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が渡来し、この説話の前半部分、阿加流比売神が日本に渡りそれを追いかける部分の主人公。都怒我阿羅斯等は3年後に帰国したとされています。

[註]

*1 神籬(ひもろぎ)とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものです。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬です。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないでしょうか。
*2 八種類 『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にヒボコとともに祀られている。いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とヒボコの信仰が結びついたものと考えられるという。
「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールのことです。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いもの。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、ヒボコ神は海とも関係が深いといわれている。
*3 穴栗邑…兵庫県宍粟市
*4 出浅邑 (いでさのむら) 「ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て…剣でこれをかき回して宿った。」とあるので、淡路島南部 鳴門の渦潮付近か?
*5 出嶋(イズシマ)…兵庫県豊岡市出石。イズシマから訛ってイズシになったのかも知れない。
*6 比売碁曾(ヒメコソ)神社 大阪市東成区にある式内名神大社「摂津国東生郡 比売許曽神社の論社の一つ。(もうひとつは高津宮摂社・比売古曽神社)下照比売命を主祭神とし、速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命を配祀する。ただし、江戸時代の天明年間までは、牛頭天王を主祭神とする牛頭天王社であった。

但馬国の成立

丹波国から但馬国、丹後国が分国した記録は、7世紀、丹波国より8郡を分割して成立したとする説もあるが確証はない。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。しかし、国名がみえる最も古い記録が天武天皇4年(675年)であって、その頃誕生したかどうかではない。

『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)は天日槍命についてくわしい。
第六代孝安天皇の61年春2月、天日槍を以って、多遅摩国造と為す。
これが但馬国8郡全8巻中、県主の上に多遅摩国造が置かれた最初の記録となる。初代の多遅摩国造が天日槍である。第六代孝安天皇の実年は、BC392-291とすると、紀元前300年頃に但馬国が丹波国から分国されたことになるので、675年より約千年前である。

自ブログに「天日槍(あめのひぼこ)の謎」として載せています。

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あめのひぼこ 9 越前国一宮 気比神宮

越前国一宮 気比神宮

朝廷は北陸への通路の玄関口である敦賀の気比神宮を重んじるようになります。また、北部九州が朝廷の領域に組み込まれるようになったことで、出雲と北九州との交易もとだえました。
そして、出雲の首長には、大和の文化を一方的に受け入れる道しか残されていませんでした。
大和朝廷の勢力は、丹波を組み入れたことによって朝鮮半島にも伸び、出雲と新羅との直接交渉の機会は滅多になくなりました。出雲は大和朝廷支配下の一地方豪族になっていきました。四世紀半ばから、出雲の勢力は急速に衰えたのです。そして、『記紀』に、大国主命が活躍する神話の大部分を削り、皇室(王家)の支配を正当化する大国主命の国譲りの物語だけを詳しく伝えたのです。

1.気比神宮(けひじんぐう)


重文(旧国宝)大鳥居

福井県敦賀市曙町11-68

式内社(名神大)七座 越前国一宮、旧社格は官幣大社・別表神社

主祭神 伊奢沙別命(イザサワケノミコト・気比大神)
祭神 仲哀天皇(帯中津彦命)
神功皇后(息長帯姫命)
日本武尊
応神天皇(誉田別命)
玉妃(たまひめ)命

武内宿禰命 広い道路が大鳥居までまっすぐに伸びています。
本来は食物の神を祀る神社であったと思われるが、鎮座地前を都と北陸諸国を結ぶ北陸官道が通り、また敦賀が古来有数の津であったため、海陸交通の要衝を扼する神として崇敬された。特に朝廷は、日本海を通じた敦賀と大陸との交流から、大陸外交に関する祈願の対象として重視し、承和6年(839年)遣唐使帰還に際して当宮に安全を祈願したり(『続日本後紀』)、弘安4年(1281年)弘安の役に際して奉幣を行うなどの例がある。なお、『日本書紀』において、神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から穴門国へ向かったと記述するのも、当宮の鎮座と三韓征伐を前提としたものである。

大鳥居は、高さ三十六尺柱門二十四尺、木造両部型本朱漆、寛永年間旧神領地佐度国鳥居ケ原から伐採奉納した榁樹で、正保二年建立した。明治三十四年国宝に指定され、現在は国の重要文化財である。正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である。

  

当宮が史上に姿を現すのは『日本書紀』神功皇后摂政13年条の、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝せしめた記事であるが、かなり古くから鎮座していたのは確かであり、『気比宮社記』によれば、神代よりの鎮座で、当宮に行幸した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したという。「新羅神社」と呼ばれてはいないが、 『記紀』に記載の最古の新羅系渡来人「天日槍」の伝承がある神社である。 敦賀市曙町の「気比の松原」の近くにある延喜式の式内社である。 伊奢沙別命(イザサワケノミコト)の名義は不明ですが、気比(ケヒ)大神あるいはミケツ神とも呼ばれ、古くから航海の神、農業の神として北陸・敦賀地方の人々に信仰されてきた神様です。
垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・ 天日槍(あめのひぼこ)を 伊奢(いざ)さわけのみこと沙別命として祭った」といわれている。


本宮

本殿は、主祭神に仲哀天皇・神功皇后を合祀する本宮と、周囲の四社之宮(ししゃのみや)からなる。四社之宮と呼ばれる4社は本宮の東に東殿宮(日本武尊)、東北に総社宮(応神天皇)、西北に平殿宮(玉妃命)、西に西殿宮(武内宿禰命)と並んでいる。

車祈祷所と奥が四社之宮

伊奢沙別命の名義は不明であるが、「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。なお、「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えるが、西郷信綱は、この「魚(な)」と「名(な)」を交換したという説話全体が、「けひ(kefi)」という語の発生を、交換を意味する「かへ(kafe)」という語に求める1つの起源説話であろうとする。

その霊威のほどは、大和(奈良県)の龍田神社や広瀬神社の風神と並び称せられました。古代には朝廷から厚く崇拝され、日本の神々のなかでも重要な位置を占めたケヒ神宮には、新羅遠征のあと神功皇后が参拝したという伝承があり、歴史的には遣唐使の盛んな時代に、遣唐船の航海の無事を祈願して、しばしば朝廷が幣帛(ヘイハク)を奉じた記録も残っています。
昭和五十七年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念氣比の社造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。


社務所

「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、食物神です。『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。


式内社 角鹿神社

境内には式内社「角鹿(つぬが)神社」、児宮(このみや)、大神下前神社がある。
角鹿神社の祭神は、都怒我阿羅斯等命(天保10年(1839年)に松尾大神を合祀)。なお、『大日本史』や『神祇志料』、大正4年の『敦賀郡誌』は、都怒我阿羅斯等命を非として、『国造本紀』に載せる角鹿国造の祖先、建功狭日(たけいささひ)命を充てている。


拝殿

『気比宮社記』によれば、崇神天皇の御代に都怒我阿羅斯等命が、この地に到来して朝廷に貢ぎ物をしたのを賞せられて「角鹿国の政所」とされたので、後世これを崇めて祠を建てたという。この神社の祭祀は祭神の後裔とされる角鹿姓神職が預かる定めで、江戸時代以降明治初年までは島家が担当した。明治10年、摂社 の筆頭に定められた。
流造銅板葺。嘉永4年(1851年)の改築にかかるもので、当宮における昭和の戦災を免れた唯一の建物である。


児宮(このみや)

児宮(このみや) – 伊弉册尊を祀る。江戸時代以来、子育て・小児の守護神として信仰されている


大神下前(おおみわしもさき)神社
末社、祭神大己貴命、武内社、

氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。


本宮の西側に神明両社と九社之宮が鎮座します。

  • 天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)神社-天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)大神。気比大神の第七王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある
  • 天伊弉奈姫(あめのいさなひめ)神社-天比女若御子(あめひめのわかみこ)神。気比大神の第六王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある。縁結びの神とされる
  • 天利劔神社-「あめのとつるぎじんじゃ」と読む。『延喜式神名帳』に小社として記載する。
    祭神 – 天利劔(あめのとつるぎ)大神。気比大神の第五王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある
  • 剣神社 – 気比大神の第一王子、姫太神尊を祀る。敦賀市莇生野(あぞの)にあり、気比神宮の西方鎮守の社とされる式内論社劔神社を勧請したものという
  • 金神社 – 同第二王子で、素盞嗚尊を祀る。社伝に金剛峯寺山王院本殿に祀られる気比明神は、弘仁7年(816年)に参詣した空海が、この神社の神鏡を鎮守神として遷したものという
  • 林神社 – 同第三王子の林山姫神を祀る。社伝に日吉大社の末社気比社は、弘仁7年に参詣した最澄が、この神社の神鏡を勧請したものという
  • 鏡神社 – 天鏡尊を祀る。祭神は気比大神の第四王子とされるが、行啓した神功皇后が奉納した宝鏡を祀ったものともされる
  • 擬領(おおみやつこ)神社 – 稚武彦命を祀る。稚武彦命は、『国造本紀』によると吉備臣の祖で、角鹿国造の祖先建功狭日命の祖父である。
  • 神明両社 祭神、天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)。外宮は慶長17年(1612年)に、内宮は元和元年(1615年)に勧請された。


猿田彦神社

末社、祭神猿田彦大神、氣比大神の案内をされる神といふので表参道北側にある。一般に庚申様と唱へて信仰が篤い。


芭蕉の碑

式内社 氣比(ケヒ)神社(豊岡市気比字宮代)

豊岡市気比字宮代
御祭神 「五十狹沙別命」 配祀 「神功皇后」
和銅二年(709)の創祀

(2008.10.13)

敦賀にある氣比神宮と同様に、
伊奢沙別命(大気比日子命・五十狹沙別命)を主祭神とし、神功皇后を配祀する神社。気比神宮では伊奢沙別命は気比大神とし、『気比宮社記』においても「保食神」(うけもちのかみ)と称されている。一般には女神とされる。

一説には、神功皇后が敦賀から穴門(長門)へ向う途中、若狭、加佐、與佐、竹野の海を経て、
この地から円山川を遡り、粟鹿大神、夜夫大神、伊豆志大神、小田井縣大神を詣でた後
一時、この地で兵食を備へたという。

ある夜、越前筍飯の宮に坐す五十狹沙別大神が神功皇后に託宣して曰く

「船を以って海を渡らば須く住吉大神を御船に祀るべし」

神功皇后は住吉三神を船に祀り御食を五十狹沙別大神に奉って、
この地を気比浦と称するようになったという。
当社から北へ少しの気比川の畔に、銅鐸出土地の史跡があり銅鐸4個が見つかっています。気比(港)には、気比國があったかも知れない。ここから山を越えると丹後に抜ける道だ。 丹後王国とも関係があったのかも。神社の創建と関係があるのでしょうか。気比から丹後へ抜ける途中に畑上があります。畑上は秦神でしょうか?

2.ケヒ大神とホムタワケ命の名替え

「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命(ほむたわけのみこと)に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えます。仲哀天皇の皇太子となったホムタワケ命(応神天皇)は、武内宿禰(たけうちのすくね)を随行して敦賀国の気比大神に参拝し、禊ぎをするために仮宮を立てて滞在しました。そのとき、イザサワケ命が夢の中に現れて、「私の名を太子の名と交換しよう」と告げました。その言葉に従うと答えると、神は「明日の朝、浜辺に出ると名前を交換した印の贈り物があるだろう」と告げました。
翌朝海辺に行ってみると、そこにはイルカが打ち上げられていました。それでホムタワケ命は「神が御食の魚をくださった」といって、神の名を御食津(ミケツ)神と呼んだといいます。
このとき名前を交換して、ケヒ大神がイザサワケ命に、皇太子がホムタワケ命となったという説もあると、応神の条には記されています。

3.名前を交換した謎

三韓出兵は、『日本書紀』に記述が残る、神功皇后が行ったとされる新羅出兵で、三韓時代であるから三韓出兵といいます。その帰り道に、応神天皇は神功皇后の命令で越前の敦賀を訪問したのです。当時の天皇の名前は伊奢沙別命(イザホワケ・イザサワケ)といい、夢の中で気比(ケヒ)神と出会います。気比神は「自分の名前と交換しよう」といいます。応神は喜び、「ぜひ交換してください」といって受け入れ、応神は元の名イザホワケからホムタワケに、気比神はホムタワケからイザホワケになりました。翌朝に目が覚めた応神が海に走っていくと、海岸線いっぱいに打ち上げられたイルカがいました。名前を交換した御祝いにと、神が御子にプレゼントしたのだ。「神は私に御魚(ミケ)の魚を下さった」と感激しました。

この言い伝えには2つの謎があるといいます。第一に、名前を交換したことは何を意味するのだろうか。神話学の解釈によれば、古代では、名は霊位の籠もる実体と考えられました。このことから、名の交換は支配や服属などを意味します。要するに地方の長である気比神がヤマト王権の応神天皇に服属したことを表しているというのです。プレゼントされたイルカは、気比神から応神への服属の意を表す貢ぎ物ということになります。越前がヤマト王権に屈した歴史を背景にしているとみるものです。

二つ目の謎は、なぜ息長帯姫命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)は越前に誉田別命(ホムタワケノミコト=応神天皇)を派遣したのかです。
越前というと、地元の出身で応神から5世代も離れている子孫でありながら、ヤマト王権の大王として迎えられた継体天皇がいます。神功皇后が命じて応神にお参りさせたことは、継体天皇が越前の出身だったことに関連するのではないか。5世代も離れているのだから、およそ応神の時代から百年以上も後の話しなのに、『日本書紀』ではわざわざ「応神の5世孫」とうたっています。継体が越から大和の大王を迎えられたという史実が、この名前の交換神話になったとみてもおかしくありません。

これらは、越前がヤマト王権に服属したのではなく、ヤマト王権が越前から大王をくださいと三顧の礼で迎えに行き、越前側がそれを受け入れたことなります。ここに気比神、神宮皇后、応神天皇が深く絡み合っている様相がみえてきます。
気比神宮は、海上交通の神として有名です。遣唐使の海上の安全もここで祈願されています。気比神官は国家から格別の庇護(ヒゴ)を受け、平安時代には従正一位勲一等という最高位を授けられました。全国の数ある一の宮のなかでも一番の好待遇です。破格の扱いを受けたのは、当時、外国との外交関係が緊張しており、場合によっては戦争になってもおかしくないという一触即発の状況だったことにも関連したのでしょう。アジアの表玄関に位置する気比神宮は、アジア諸国の外圧から日本を守る守護神としての役割を期待されていたのです。

引用:「最新日本古代史」-恵美嘉樹

4.敦賀(つるが)とツヌガアラシトの渡来

敦賀は、古代からの郡名で、越前国の南西端に位置し、敦賀湾をU字形に囲む地域で、おおむね現在の敦賀市の区域です。古くは丹生(ニフ)郡の南部(現在の南条郡を含む)を含む地域であったとされます。『和名抄』は、「都留我(つるが)」と訓じます。古代に漂着した任那の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)にちなむ「角鹿(つぬが)」の転、敦賀半島を角(つの)に見立てたことによる、「ツ(津)・ヌ(助詞ノの転)・ガ(処)」の意、「ツル(ツラの転。砂州の連なったところ)」の意などの説があります。

『今庄の歴史探訪』によると「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・弁韓(任那)人等の多く此地に渡来し、敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、信露貴神社亦共一に属す」とあります。また、敦賀付近には新羅(しらぎ)の宛字と思われる土地名や神社名が多く、例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦神社・白城神社・白鬚神社などがある。

当地方は応神天皇や継体天皇とのつながりが強い地方であり、いわゆる古代三王朝の内、二王朝、即ち応神王朝(応神―武烈)・継体王朝(継体―現在)が、越前・若狭地方と関係している。両王朝共に新羅・加羅等と係わりが深かったであろう。

継体天皇は近江で生まれたが、越前で育っており、越前・若狭・近江などを含んだ地域は一つの文化圏といえる。この時代、敦賀と大和の間を結ぶ重要な交通路である琵琶湖西岸には三尾氏、東岸には息長氏が勢力をもっていた。

敦賀はもともと角鹿(ツンガ)と呼ばれていましたが、その地名の由来は都怒我阿羅斯等の渡来によるのだという説があるそうです。この渡来伝承は『日本書紀』に書かれ、その簡単な内容は以下の通りです。

「その昔、額に角がある人が船に乗って越前国笥飯浦(敦賀)に着いた。話を聞くと日本に聖皇(崇神天皇)がいると聞き、加羅国(朝鮮半島南部に存在した国)から仕えるために来たとのこと。だが、天皇は崩御したばかりで、次の垂仁天皇に仕え、3年が過ぎて故郷へ帰ることになった。そのときに崇神天皇(名は御間城入彦五十瓊殖尊)の名を貰い、国名(任那)とした。」
という話です。この伝説に登場する都怒我阿羅斯等は実在したかどうかは分かりませんが、この話は朝鮮半島から数多くの渡来人がやって来ていたことを示すもので、敦賀に朝鮮と関係のある神社が多いことと合わせ、当時の頻繁な交流を物語っています。治世2年、任那(ミマナ)から来ていた蘇那曷叱智(ソナカシチ)が帰国したいと申し出てきました。先帝の時代に来訪して、まだ帰国していなかったそうです。天皇は彼を厚くもてなし、赤絹10匹をもたせて任那の王に送りました。ところが新羅人(シラギジン)が途中でこれを奪ってしまいました。両国の争いはこの時始まったというものです。

5.武内宿禰(たけうちのすくね)

景行天皇14年(84年)? – 仁徳天皇55年(367年)4月?)成務天皇と同年同日の生まれという。 景行天皇の時に北陸・東国を視察し、蝦夷の征討を進言。成務天皇3年(133年)に大臣となる。神功皇后の朝鮮出兵を決定づけ、忍熊皇子らの反乱鎮圧にも功があった。 応神天皇の時、渡来人を率いて韓人池を造る。また、甘美内宿禰から謀反の讒言を受けたが、探湯(くかたち)[*1]を行って濡れ衣を晴らした。仁徳天皇50年(362年)が『書紀』に現われる最後。

『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。紀・巨勢・平群・葛城・蘇我などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。また、建内宿禰とも表記される。

『公卿補任』『水鏡』は同55年(367年)、『帝王編年記』所引一書は同78年(390年)に没したといい、年齢についても280歳・295歳・306歳・312歳・360歳などの諸説がある。

『因幡国風土記』には、360歳のときに因幡国に下降し、そこで双履を残して行方知れずとなったとの記述があり、双履が残されていたとされる鳥取県鳥取市国府町には武内宿禰を祀る宇倍神社がある。他に、福井県敦賀市の気比神宮など多くの神社に祀られている。 久留米市の高良大社には、高良玉垂神として祀られている。先祖孝元天皇の曾孫(『古事記』には孫)、父は屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)、『古事記』は比古布都押之信命とする
母は木国造(紀伊国造)の女・影媛兄弟異母弟に甘美内宿禰(うましうちのすくね)

  • 羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね) – 波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部臣の祖
  • 巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね) – 巨勢臣、雀部臣、軽部臣の祖
  • 蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね) – 蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣の祖
  • 平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね) – 平群臣、佐和良臣、馬御織連の祖
  • 紀角宿禰(きのつぬのすくね) – 紀臣、都奴臣、坂本臣の祖
  • 久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
  • 怒能伊呂比売(ののいろひめ)
  • 葛城襲津彦(かずらきのそつびこ) – 玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣の祖
  • 若子宿禰(わくごのすくね) – 江野財臣の祖

    6.越(こし)の国

    日本書紀には一つの地域として越(こし)、(越洲(こしのしま)、高志(こし)、古志(こし)とも呼ばれた)が書かれています。ここでは越国と題していますが、そのころは国家の形態を成していたとは必ずしも言えないようです。

    古くから交易や交流などはあったものの、ヤマト王権の勢力はまだ及ばない日本海側の地域であり、越前・敦賀の氣比神宮から船出し日本海を北上して、能登・羽咋の気多大社を経て、さらに越後・弥彦神社がある弥彦山を右手に見るまでを一つの地域として「越」と呼んでいました。

    『日本書紀』によれば、658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに「粛慎」を平らげました。一方の安定した西端と比較し、北端は蝦夷との戦いの辺境でした。粛慎は本来満州東部に住むツングース系民族を指しますが、『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明です。
    ちなみに中国の越(えつ、紀元前600年頃 – 紀元前334年)という国がありました。春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国で、首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の諸民族とは異質な、百越に属する民族を主体に建設されたいわれる。南下した越族がベトナムの祖となったとされています。

    まったく想像ですが、九州北部から出雲を中心としたスサノヲ一族とヤマタノオロチで登場する古志は、別の一族だったと思われます。

    6.若狭彦神社

    若狭彦神社(わかさひこじんじゃ)は、福井県小浜市にある神社である。上社・下社の二社からなり、上社を若狭彦神社、下社を若狭姫神社(わかさひめじんじゃ)という。式内社、若狭国一宮で、旧社格は国幣中社。郡名から遠敷明神ともいう。


    福井県小浜市龍前28-7
    式内社(名神大)・若狭国一宮・国幣中社・別表神社主祭神 彦火火出見尊(山幸彦)創建 和銅7年(714年)本殿の様式 三間社流造


    若狭最古の神社。

    社伝では、二神は遠敷郡下根来村白石の里に示現したといい、その姿は唐人のようであったという。和銅7年(714年)9月10日に両神が示現した白石の里に上社・若狭彦神社が創建された。翌霊亀元年(715年)9月10日に現在地に遷座した。白石の前鎮座地には、若狭彦神社境外社の白石神社がある。


    狭彦神社は畳・敷物業の神ともされ、現在はインテリア関係者の信仰も集める。


    神門前の夫婦杉

7.若狭姫神社

福井県小浜市遠敷65-41
祭神 豊玉姫命

  

下社・若狭姫神社は、養老5年(721年)2月10日に上社より分祀して創建された。延喜式神名帳では「若狭比古神社二座」と書かれており、名神大社に列している。上社が若狭国一宮、下社が二宮とされた。元々は上社が祭祀の中心であったが、室町時代ごろから下社に移った。現在もほとんどの祭事は下社・若狭姫神社で行われており、神職も下社にのみ常駐している。
中世には社家の牟久氏が京の官人や有力御家人と結びつき、広大な社領を有した。

若狭姫神社は安産・育児に霊験があるとされ、境内には子種石と呼ばれる陰陽石や、乳神様とよばれる大銀杏などがある。

  
巨大な千年杉

7.若狭神宮寺と鵜の瀬お水送り

  

当地の伝承では、ある年、奈良市の東大寺二月堂の修二会で神名帳を読んで全国の神を招いたが、遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまった。そのお詫びとして、遠敷明神は二月堂の本尊である十一面観音にお供えの閼伽水を送ると約束したという。白石から下った所にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、二月堂の若狭井に通じているとされている。旧暦2月には、鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われる。その水を受けとる祭事が二月堂の「お水取り」である。ただし、今日では、元は当社の神宮寺であった若狭神宮寺が主体となって行われている。

[*1]…探湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。

たじまる あめのひぼこ 8

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

1.歴史の勝者 神功(じんぐう)皇后

神功皇后は、仲哀天皇の妃。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。 父は開化天皇玄孫・彦坐王の4世孫、息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日槍(矛)裔・葛城高額比売命(かずらきのたかぬかひめ)。子が誉田別尊(ほむたわけのみこと)・応神天皇。日本書紀などによれば、仲哀天皇の急死(200年)により201年から269年まで政事を執りおこないました。また、『日本書紀』の「神功皇后紀」において、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しているため、江戸時代までは、卑弥呼イコール神功皇后だと考えられていました。

ところで、「神功皇后伝説」は、すべては仲哀天皇と神功皇后の九州熊襲征伐から始まっています。
仲哀天皇八年春正月、一行は、筑紫(北部九州)にわたった。秋九月、熊襲征伐のとき、神がいいました。
「なぜ熊襲のような不毛の地を兵を挙げて打つ必要があるのか、海の向こうに宝の国がある。まばゆいばかりの金銀財宝がその国にある。これを新羅国という。もし私をしっかりと祀るなら、戦わずしてその国を服従させることが出来るであろう。また、そうすれば、熊襲もなびいてくるであろう」

しかし、仲哀天皇は高い丘に登り、見てみるとどこにも国には見えません。そこで神に口答えしてしまいました。
「海ばかりで国はありません。どなたか知りませんが、私を欺こうとしているのではありませんか。私が皇祖や諸処の天皇、神々を祀りましたが、まだ漏れた神がいるとでもいうのでしょうか」

すると神は、神功皇后に向かって、
「天津水陰のごとく見えるあの国を、何故ないといって私をなじるのか、信じないのなら、あの国を得ることは出来ないであろう。ただし、今皇后ははらんでいる。その子(応神)がかの国を得ることになるだろう」
仲哀天皇はこの神の言葉を無視し、ついに熊襲を攻めてしまいます。結果、惨敗し、九月の春、天皇は突然病の床に就き、翌日亡くなられました。

神功皇后と同行していた武内宿禰は、天皇の喪を秘密にしました。密かにご遺体を穴門の豊浦宮に移しました。
祟る神の存在を知った神功皇后は、新羅征討を決心されました。自ら神主となり、武内宿禰に琴を弾かせて神を呼び出させました。伊勢国の神を筆頭に、事代主神、住吉三神ということでした。そこでこれらの神々を篤く祀り、熊襲に兵を差し向けると、あっけなく投降してきたといいます。

ここから、神功皇后の山門(やまと)攻めがはじまります。
山門県(福岡県山門郡)の土蜘蛛・田油津媛(たぶらつひめ)を討ち取ると、行軍の矛先を北に向け、新羅征討を始めました。新羅は戦わずして降伏して朝貢を誓い、高句麗、百済も朝貢を約したといいます(三韓征伐)。
四世紀後半から五世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと日本書紀にみえ、磐井の乱(527年)として扱っている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が重くのしかかって反乱となったと考えられる。

2.応神天皇(おうじんてんのう)

応神天皇(おうじんてんのう)は、実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われる(崇神天皇を実在する最古の天皇とする説もある)。古事記の干支崩年に従えば、4世紀後半となる。『記・紀』に記された系譜記事からすると、応神は当時の王統の有力者を合成して作られたものと考えるのが妥当であるとする説がある。父は先帝仲哀天皇で、母は神功皇后こと息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とされるが、異説も多い。第二子は大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命・仁徳天皇)。仁徳天皇の妃:日向髪長媛(ひむかのかみながひめ。諸県君牛諸井の女)の子に、大草香皇子(おおくさかのみこ、大日下王・波多毘能大郎子(ハタビノオホイラツコ))、草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ、橘姫皇女・若日下部命)雄略天皇の皇后。としているが養子説あり。

では、『日本書紀』』には、応神天皇の生涯が、どのように記されているのでしょう。
400年4月4日、景行天皇は、五百野皇女を伊勢に使わし、九州王朝の代々の王・天照大御神を祀らせました。
6月3日、武内宿禰を遣わし、北陸および東方諸国の地形や百姓の消息を視察させました。ヤマト王権は垂仁天皇亡き後の統治において、北陸王権や東方(尾張)王権との連携を図る必要がありました。
402年、景行天皇は日本武尊を派遣して熊襲を討たせることにしました。おそらく九州王朝からの招請があって派遣したのでしょう。
405年、尾張王権の東部境が不穏で、その乱を平定するために東夷を征伐に向かいます。日本武尊は伊勢神宮で草薙の剣を授けられてのち、駿河の焼津で戦いのあと、尾張に帰還して、尾張氏の娘・ミヤヅヒメを娶りました。
間もなく、近江の息吹山での係争に巻き込まれ、無理を重ね病気のなってしまいます。一旦尾張に帰還したものの、伊勢の能褒野にて亡くなりました。
409年、日本武尊の子である仲哀天皇(景行天皇の孫)が即位。日本武尊の御陵に白鳥を飼いたいと詔し、越国が白鳥4羽を贈り、友好な関係が保たれています。
410年1月気長足姫命(神宮皇后)を皇后に立てられましたが、これより先にいとこの大中姫を娶り二人の皇子が生まれていました。
大和での政治はすべて景行天皇が行い、仲哀天皇は九州王朝から命ぜられ、朝鮮半島安定に一翼を担わされます。

2.八幡神

応神天皇を祭神としている八幡神は日本独自で信仰される神である。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも言う。八幡神を祀る八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)の数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位である。祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるという。

八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられる。農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察しています。宇佐八幡宮の社伝『八幡宇佐宮御託宣集』などでは、欽明天皇32年(571年)1月1日に「誉田天皇広幡八幡麿」(誉田天皇は応神天皇の国風諡号)と称して八幡神が表れたとしており、ここから八幡神は応神天皇であるということになっている。

現在では、応神天皇を主神として、神功皇后、比売神を合わせて八幡神(八幡三神)ともしている。神功皇后は応神天皇の母親であり、親子神(母子神)信仰に基づくものだといわれる。
比売神は八幡神の妃神と説明されることも多いが、その出自はよく分かっていない。
また、応神天皇が八幡神であるとされていることから皇室の祖神ともされ、皇室から分かれた源氏も八幡神を氏神とした。源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮としました。また、石清水(いわしみず)八幡宮(京都府八幡市)、筥崎(はこざき)宮(福岡県福岡市東区) などが有名です。

3.「三王朝交替説」

応神天皇の父の仲哀天皇から清寧天皇まで、天皇の陵墓も大和から大阪平野(河内)に造られるようになりました。昭和29年(1954年)、「三王朝交替説」を唱える水野祐氏は、第十代崇神天皇と第十一代垂仁天皇には「イリ」の名があります。景行天皇から仲哀天皇まで続く王の名には、「オオタラシ」のように「タラシ」の名が、さらに第十五代応神天皇からつづく王の名には、「ホムダワケ」のように、「ワケ」の名が付いています。

このことから、「イリ王朝」「ワケ王朝」の入れ替わりがあったのだろうと推理したのです。

崇神から推古に至る天皇がそれぞれ血統の異なる「古・中・新」の3王朝が交替していたのではないかとする説を立てました。これは皇統の万世一系という概念を覆す可能性のある繊細かつ大胆な仮説であり、古事記で没した年の干支が記載されている天皇は、神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち、半数に満たない15代であることに注目し、その他の18代は実在しなかった(創作された架空の天皇である)可能性を指摘しました。そして、15代応神天皇を軸とする天皇系譜を新たに作成して考察を展開しました。

いずれにせよ、応神天皇の時代、畿内の王権に何がしらの変化があったであろうことは想像に難くありません。「イリ王朝」を崇神王朝(三輪王朝)、「ワケ王朝」を応神王朝(河内王朝)、継体王朝(近江王朝)としています。

なお、このころには、前方後円墳が巨大化しました。河内の古市墳群にある誉田御廟山古墳(伝応神陵)や和泉の百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨大な前方後円墳が現存することや、15代応神は難波の大隅宮に、16代仁徳は難波の高津宮に、18代反正は丹比(大阪府松原市)柴垣に、それぞれ大阪平野の河内や和泉に都が設置されていることなどから、王朝が交替したかどうかは別として、応神天皇からの時代に、王朝が河内に移動したのは、王朝自らの直轄統治権が大和から河内湾に広がると、河内湾に港を築き、水軍を養い、瀬戸内海の制海権を握っていたことは確かです。また、たびたび宋へ遣使を行い、朝鮮半島への外征も行うなど航海術に関しても優れたものを持ち、アジアへとつながる海洋国家であったことがわかります。

崇神天皇の和風諡号(しごう)は「御間城入彦五十瓊殖天皇」(ミマキイリヒコ)、次の垂仁天皇の和風諡号は「活目入彦五十狭茅尊」(イクメイリヒコ)で、共にいずれもイリの付くところから、入彦の文字が「入ってきた男」の意味で、崇神、垂仁は邪馬台国が拡張ないしは分散し、ヤマトへ進出してきたのではないかという説があります。となると、「三王朝交替説」は、推測の域ではあるものの、日本語として素直にとらえれば、ミマキ(御間城)とは最初のヤマト王権だったことが有力な纒向遺跡(まきむくいせき)へ、他所から入城した初めての帝であるという意味だと考えられます。また、「別(ワケ)」はそのヤマト所在地から河内に分かれたという意味ではないかと想像します。「タラシ」は不明ですが「垂らす」あるいは「」、ヤマトに留まった時期を意味するのではないでしょうか。垂仁はヤマトに定住した初めての天皇という意味ではないか。景行天皇が稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)仲哀天皇が帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)(古事記)、成務天皇が稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)

  • 「イリ」第10代崇神天皇・第11代垂仁天皇
  • 「タラシ」第12代景行天皇・第13代成務天皇・第14代仲哀天皇
  • 「ワケ」第15代応神天皇・第17代履中天皇第16代仁徳天皇については、実在の人物かどうかについては諸説ある。『日本書紀』では次の第17代履中天皇は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、第18代反正天皇は多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)となっているが、なぜか仁徳天皇については大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・聖帝とあって、「ワケ」とは記していない。

4.倭の五王

五世紀の五人の王、いわゆる「倭の五王」の時代、その陵墓は河内(大阪府)に築造され、その規模は古墳時代を通じて最大となりました。当時五世紀中ごろ、中国では江南に宋と華北に北魏が対立していて、国土を二分する南北朝時代が到来します。この宋に対して、倭の五王が、計十回ほど使者を送ったということは、ほとんどの歴史書に記されています。

『宋書』『梁書』の中に、「讃・珍・済・興・武」としてその名を残す倭の五王とは、当時の大和朝廷の歴代天皇に他ならないのですが、それがどの天皇に相当するかは諸説あるようです。

依然として朝鮮半島の鉄製産に依存していた倭国の王は、東晋の413年から宋の全期間にかけて、南朝への朝貢を行いました。当時の大陸の情勢はどうであったのでしょうか。

まず、高句麗が北魏と結びます。そこで、その脅威に対抗するために、同盟関係にあった日本と百済が宋に接近しました。高句麗と北魏は陸続きで、いずれの同盟関係が実効性に勝り、強力かは自明です。日本と百済は海に隔てられていて、物理的に連携しづらいことはいうまでもないにも関わらず、対抗するためには、それを承知の上で、北魏と相対する宋に働きかけて、自分たちの同盟に取り込む以外、おそらく他にすべがなかったのでしょう。宋もまた、倭や百済との交流を、対北魏政策の一環として捉えていたに違いありません。

倭の五王の上奏文は、懸命にへりくだって書いているのも、宋の後ろ盾を得たいがためのひとつの政治手段であり、そこに大和朝廷の明確な意図が見られます。一人目の讃が「倭讃」と「倭」姓を称したことは、倭国の王が姓を持った時期があったことを示すものです。また、二人目の珍が倭隋等13人に将軍号の叙正を、続く三人目の済が臣下23人に「軍郡」号の叙正を、それぞれ求めていることは、当時の倭国の王が宗から与えられた称号によって、地方豪族も含む国内の支配者層を秩序付けていたことをうかがわせています。

五人目の「武」は、鉄剣・鉄刀銘文(稲荷山古墳鉄剣銘文 獲加多支鹵大王と江田船山古墳の鉄剣の銘文獲□□□鹵大王)の王名が雄略天王に比定され、和風諡号(『日本書紀』大泊瀬幼武命、『古事記』大長谷若建命・大長谷王)とも共通する実名の一部「タケル」に当てた漢字であることが明らかであるとする説から、他の王もそうであるとして、「讃」を応神天皇の実名ホムタワケの「ホム」から、「珍」を反正天皇の実名ミヅハワケの「ミヅ」から、「済」を允恭天皇の実名ヲアサヅマワクゴノスクネの「ツ」から、「興」を安康天皇の実名アナホの「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ている、という説もある。

しかしながらいずれも決め手となるようなものはなく、倭の五王の正体については今のところ不確定である。記紀の伝える雄略(天皇)であったと推定されますが、讃・珍・済・興が最初に叙正されたのが安東大将軍であったのに対し、使持節都督・七国の諸軍事・安東大将軍・倭王に一度に叙正され、より高い地位に引き上げられたことになります。これは、百済(くだら)及び宗王朝の衰微によるものと思われます。新羅(しらぎ)や伽耶(かや)諸国に対する軍事支配権を中国の皇帝から認められたことは、倭国の支配者の記憶に深く刻印され、後世にまで大きな影響を及ぼしたはずです。以後一世紀余り、中国への遣使を行わず、柵封体制から離脱しました。隋が中国を統一するまで、倭国は朝鮮諸国の制度を継受しながら、独自の国政を形成していったのです。

一方、「倭の五王」の遣使の記録が『古事記』『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権のヤマト大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないとする説もある。5世紀中葉以降のヤマト政権は、各地域社会から出身の大・中・小首長達を宮廷に出仕させ、王権が直接掌握し、倭社会を統治していたことが考えられる。

使いを遣わして貢物を献じた目的として、中国大陸の文明・文化を摂取すると共に、南朝の威光を借りることによって、当時の日本列島中西部の他の諸勢力、朝鮮半島諸国との政治外交を進めるものがあったと考えられる。

5.「治天下大王」の支配

5世紀後半までに大王・治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号が成立し、この称号は飛鳥浄御原令の編纂が始まった680年代まで用いられたと考えられています。

大和言葉では「きみ」がこの概念に相当するものとされ、「王」の字訓となった。5世紀半ばに在位した雄略天皇(おおはつせわかたけるのみこと)は、大王(おおきみ)、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号を用いていたと推測されています。五世紀末の倭王武の時代のヤマト政権の支配観念を表す史料として、熊本県江田船山古墳出土太刀銘、および埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘の記載があります。
五世紀中葉の築造とされる千葉県稲荷台1号古墳から出土した鉄剣の銘を見てみると、ここには「王賜(おうし)」というように、単に「王」という称号が見え、いまだ五世紀中葉までの時点では「大王」号(のちの天皇号)が成立していなかった事を示しています。

江田船山古墳出土太刀の刀背に刻まれた銘文に「治天下」と記されています。当時、中国帝国に倣って周辺の民族をも支配する小帝国の形成を目指した倭国の支配者は、自らの支配が及ぶ地域の極界と主張する東と西、つまり毛人・衆夷と、海北、つまり朝鮮半島諸国の内側を「天下」と称したと考えられます。天下というものをこのように考える概念は、倭国独自のものであり、後世に日本独自の「天皇」号が成立する素地が、既にここに表れているとも考えられるのです。そして、この時期にはワカタケル大王(=武・雄略)の下、姓(かばね)の制や人制など、大化前の倭国の国制の基幹となった諸制度が創始されました。『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武が雄略天皇に比定されます。周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、朝廷としての組織は未熟でしたが、『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、古代の人々が雄略朝を歴史的な画期として捉えていたとみることもできます。また、稲荷山古墳出土鉄剣の銘にも「大王」号が記されており、朝鮮半島においては、新羅を支配下に置き、百済と抗争を続ける高句麗の王が、四世紀末に「大王」号を称しており、同じように百済への軍事支配権を主張していた倭国の王も、この頃「大王」を称し始め、高句麗と対峙する「天下」の支配者としての地位を主張したものと思われます。

五世紀に大王家の外戚となっていた葛城氏から稲目の代に分立した襲我氏は、東漢氏(ヤマトノアヤシ)などの渡来系氏族を配下に置くことによって、王権の実務や財政を管掌しました。稲目は大臣(オホマツキミ)として王権の政治を統轄する一方、娘の堅塩姫(キタシヒメ)と小姉君(オアネノキミ)を欽明の妃(キサキ)とし、用明、崇峻・推古をはじめとする多くの王子女の外戚となることによって、その権力を強めました。

そうしたワカタケル王(雄略天皇)の努力に関わらず五世紀後半から6世紀前半にかけて王統が数回断絶し、中国王朝との通交も途絶しました。五世紀後半の475年、高句麗の南下によって百済は南方へ移動しましたが、この事件は百済と友好関係にあったヤマト王権(倭国)にも経済的・政治的な影響を与えました。ヤマト王権は百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済基盤・政治基盤を築いていましたが、半島における百済勢力の後退によりヤマト王権が保持していた半島南部の基盤が弱体化し、このことが鉄資源の輸入減少をもたらしました。そのためヤマト(倭国)内の農業開発が停滞し、ヤマト王権とその傘下の豪族達の経済力・政治力が後退したと考えられており、6世紀前半までのヤマト王統の混乱はこの経済力・政治力の後退に起因するとされます。

-出典: 『日本の古代』放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信

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たじまる あめのひぼこ 7

天日槍は伽耶(カヤ)の人

1.天日槍は新羅の王子ではない

垂仁天皇在位は、三世紀後半から四世紀にかけてと思われています。
垂仁天皇の記述については日本海周辺に関わる者が多く、任那人が来訪して垂仁天皇に仕えたという逸話が残っています。朝鮮半島と越(こし)国(福井県)の重要性が増したためと考えられています。歴史家の考証によると、『日本書紀』の編年は半年を1年とする「二中暦」だといわれています。しかも天皇の系譜をオーバーにするためにかなり遡ってつけられているので、垂仁天皇は、実際は紀元332年(推定)に即位したのだろうといいます。垂仁天皇3年(紀元前27年)3月、新羅王子の天日槍(あめのひほこ・以下ヒボコ)が神宝を奉じて来朝」と記していますが、垂仁天皇99年(紀元361年)に崩御されたとあります。

朝鮮半島北部は高句麗、西部は百済、東部(慶尚道)に紀元356年、新羅国が興り、935年まで存在していました。ただ、377年、前秦への朝貢の際に、新羅という国号を初めて使用しましが、402年までは鶏林の国号が使用されました。
ヒボコが新羅かやってきたのは362年のことですが、一説にはそれより以前の4世紀初頭の頃と考えられています。いずれにしても、そのころ新羅という国号はありません。朝鮮半島南部は大駕洛国があり、新羅が大駕洛国を吸収したのが532年ですが、伽耶はそのまま残り、のちに任那(みまな)となるまで伽耶は存在していました。

天日槍はおそらく伝説上の人物ですが、一人をさすのではなく出石に定住した鉄の国・渡来系の伽耶(または任那)の人々でないとおかしいのです。第十一代垂仁天皇は、四世紀初めで、実在性の高い最初の天皇であるとされます。この頃から記紀には日本海周辺に関わるものが多くなります。その時代は朝鮮半島とそこに面した越(福井県)や丹波の重要性が増したためだと考えられます。

(『日本書紀』(720年)編纂時代は、百済、新羅、高麗(高句麗)の三国を三韓と呼んでいた)。
任那は伽耶諸国の中の大伽耶・安羅・多羅など(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多いです。伽耶(カヤ)、あるいは加羅(カラ)とも呼ばれます。これは大駕洛という国の名前が伝わる際にその音を取って、新羅では伽耶、百済や中国では加羅と表記されていたためだと言われ、日本では南部の金官郡だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していました。562年に新羅の圧力により滅亡しました。
伽耶の古墳と出土遺物

伽耶諸国の竪穴式石郭や横穴式石室を主流とする古墳からは、洗練された曲線美をもつ土器をはじめ、おびただしい数の副葬品が出土しており、当時の栄華を今日に伝えている。とりわけ注目されるのは、刀剣などの武具や馬具、装身具とともに、多数の鉄製品が副葬されていた。遺体が安置された石室の底部には、大量の鉄てい延が敷き詰められていることがあるが、伽耶の国々は、この豊富な鉄を近隣の諸国に供給し、独自の勢力基盤を有していたことが伺える。一方、新羅の古墳は、木郭を組み、棺と副葬品を収めて、その周囲に石を積み上げ、さらに土を盛り上げた構造になっていた。これを積石木郭墳といい、4世紀から6世紀ごろまでさかんに造営された。金冠や華麗な金銀の装飾品、ガラス製品、馬具、土器などが埋葬されていた。高句麗も石をピラミッド状に積み上げた積石塚と、石室を土で覆った石室封土墳がある。

ヒボコは天日槍という神名から天孫あるいは、天津神とされている。天津神は蕃の神(となりのかみ・外国の神)であり、国津神・地祇神とは日本にあった土着神です。

しかし、おそらくこうした性格は、天(あま)は海(あま)で、天孫族というよりも、もともと海人族(漁民)の信仰していた海、もしくは風の神と、ヒボコ神(武神)の信仰が結びついたものでしょう。こうした性格は福井県敦賀市の気比神社のツヌガアラシトと似ており、ホムタワケ(応神帝)とイササワケ(伊奢沙別大神)が名前を易(か)えたとされる伝えと共通のものであり、『日本書紀』においてはヒボコ神がその地に立ち寄ったとされる記述もあることから、この二神は同一神ではないかといわれています。

2.加耶の古墳と出土遺物

伽耶諸国の竪穴式石郭や横穴式石室を主流とする古墳からは、洗練された曲線美をもつ土器をはじめ、おびただしい数の副葬品が出土しており、当時の栄華を今日に伝えている。とりわけ注目されるのは、刀剣などの武具や馬具、装身具とともに、多数の鉄製品が副葬されていた。遺体が安置された石室の底部には、大量の鉄延が敷き詰められていることがあるが、伽耶の国々は、この豊富な鉄を近隣の諸国に供給し、独自の勢力基盤を有していたことが伺える。

一方、新羅の古墳は、木郭を組み、棺と副葬品を収めて、その周囲に石を積み上げ、さらに土を盛り上げた構造になっていた。これを積石木郭墳といい、4世紀から6世紀ごろまでさかんに造営された。金冠や華麗な金銀の装飾品、ガラス製品、馬具、土器などが埋葬されていた。高句麗も石をピラミッド状に積み上げた積石塚と、石室を土で覆った石室封土墳がある。新羅から鉄は産出しない。竪穴式石郭や横穴式石室はない。

まったくの『記紀』や風土記は創作かというと、そうは思えないのが出石や丹後に残る地名や遺跡の多さです。

  • 豊岡市加陽(カヤ)と大師山(だいしやま)古墳群と近くには出石町安良
    新羅にはつくられない金官伽耶国に共通する竪穴系横口式石室という特殊な石室。竪穴系のものと横穴系のものとがある。
  • 丹後加悦町(与謝野町)と古墳群、加悦町明石(アケシ)・出石(イズシ)の韻が共通する?
    入江から入った地理が似ている。
  • 敦賀気比神宮の伽耶王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と天日槍(アメノヒボコ)は同一視されている。
    円山川河口にも気比神社がある。祭神は気比神宮と同じで敦賀から遷宮されたと伝わる。
    も気比神社の付近に飯谷と書いてハンダニ。畑上は秦(ハタ)?。韓国(からくに)神社など。
  • 日本海流は、半島南部を出ると自然に若狭湾にたどり着く(現在でも海岸にはハングル文字のゴミが多く漂着する)
  • 伊福部神社は出石町鍛冶屋(カジヤ)にあり、伊福とはふいごのことで、伊福部とは鍛冶職人に関係する。鍛冶屋は砂鉄がとれたらしい。
  • 出石入佐山古墳から砂鉄が納めれていた。
  • いずれにせよ、この頃の日本列島は、倭国・国家というべきものではなくクニが連立していたから、朝鮮半島と日本海沿岸は比較的自由であった。
    加耶のなかで大国であった大加耶では、独特の形態をもつ一二弦の琴がつくられていましたが、于勒は加耶琴の名手として知られ、于勒は新羅に亡命して加耶琴を新羅に伝えました。今日、朝鮮の代表的な楽器の一つに加耶琴がありますが、彼の亡命と新羅における活動に求めることができます。

    3.新羅の呼称に隠れた伽耶諸国

    日本列島が弥生時代と呼ばれるころ、百済(クダラ)の南には、三韓時代に弁韓(のちの任那)とよばれた地域があり、百済や新羅の台頭のはざまで、小国が分立するという状況が続いていました。朝鮮半島東南(釜山近辺)の洛東江両岸には小国が散在し、この地域は、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅とも表記されました。

    朝鮮半島中部から南部にかけての地域には農耕を主たる生業とする漢族が居住していました。遼東半島を支配した公孫氏政権は、この漢族の成長に対功するため楽浪郡との間に帯方郡を設けました。漢族の地は、三世紀ごろには70を越える小国があったと伝えられ、言語や習俗によって、馬韓(のちの百済)50余国、辰韓(のちの新羅)12国、弁韓(のちの任那)12国に分かれていました。これらを三韓とよびます。中国の魏の楽浪郡と帯方郡は、三韓諸国の首長をはじめとする千以上にのぼる者たちに印章や衣服を与えていました。魏は諸小国の首長たちを懐柔しつつ、朝鮮半島南部の弁韓地方で豊かに産出された鉄の確保にかかわっていたとみられています。

    • 高句麗(吉林省・両江道)
    • 楽浪郡(平安北道・平安南道・黄海北道。ただし、黄海南道を含むとする説もある。)
    • 帯方郡(黄海南道。ただし、京畿道とする説もある。)
    • 北沃沮(咸鏡北道)
    • 東沃沮(咸鏡南道)
    • シ歳(ワイ)(江原道)
    • 馬韓(京畿道・忠清北道・忠清南道・全羅北道・全羅南道。ただし、京畿道・忠清北道・忠清南道を含まないとする説もある。)
    • 辰韓(慶尚北道・慶尚南道)
    • 弁韓(全羅南道・慶尚南道。ただし、全羅南道を含まないとする説もある。)
    • 州胡(済州特別自治道)
      早くから鉄の生産や海上交易で栄え、これらのなかから、金官加耶(金海)、安羅(やすら・アンラ=咸安(かんあん[ハマン]))、大加耶(高霊[コリョン])といった国々が頭角を現し、しだいに国家統合の動きもみせはじめました。

      こうした加耶諸国の独自の国家統合の動きがあったものの、百済や新羅の侵攻は激しさを増し、これに対して日本列島の倭国との連携をしのぐという抵抗もありましたが、532年には金官加耶が、やがて安羅も新羅に降伏しました。最後まで抵抗し続けた大加耶も562年に新羅に滅ぼされました。任那(ミマナ)とは伽耶諸国の任那加羅(金官加耶・駕洛国)の勢力範囲を指す和名です。高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結び、倭国によって軍事を主とする外交機関(後に「任那日本府」と呼ばれた)が設置されていたとする説もあります。伽耶連盟の盟主となったとされる金官伽耶・大伽耶(伴跛)だけではなく、阿羅伽耶(安羅)(慶尚南道咸安郡)、古寧伽耶(慶尚北道尚州市咸昌)、星山伽耶(慶尚北道星州郡)、小伽耶(慶尚南道固城郡)などは六伽耶・五伽耶とまとめて呼ばれることがありました。

      ところで、これらの地域からは前方後円墳が発見されており、日本の墓制との関連で注目されています。このことからも弥生時代は、日本列島・朝鮮半島・中国東北部を環日本海という漢族のひとつの文化圏と考えるべきで、倭国も朝鮮半島も中国冊封国家とされた時代です。国家というよりも、クニという小集団の連合体であり、早くから鉄の生産や海上交易で栄えていた三韓時代の弁韓(のちの任那)沿岸の任那伽耶の氏族が日本海に定住し始めたといった方が正しいでしょう。

      それに、飛鳥時代にヤマト王権が漢字を取り入れて、倭国と深い関係にあったのは、百済という国であって、新羅、あるいは高句麗という国との交流の気配は『古事記』『日本書紀』には記されていません。どこまでも百済との交流です。

      日本書紀や播磨風土記に登場する、天日槍(あめのひぼこ)は新羅の王となっています。紀元後100年ぐらいの出来事だとされています。天日槍が創作の人物であるとしても、当時の朝鮮半島は、半島南部も小規模なクニはあったでしょうが、新羅や百済・加耶といった国はまだ存在していませんし、また、記紀が製作された8世紀はじめには、すでに新羅によって朝鮮半島は統一されていますから、数百年も経って、かつての国名で記す必要はないし、高句麗・百済・加耶といった国は忘れ去られてしまっているはずです。したがって、その当時は正しくは伽耶または任那からの渡来人であったはずですが、新羅と見なして記述したのではないかと思います。

      日本列島では青銅器と鉄器の伝来はほぼ同時期とされていますが、青銅は、紀元前3世紀頃、稲や鉄とともに九州に伝わり、紀元前1世紀頃、日本でも生産が始まったといわれています。紀元前3世紀頃に渡来したのは徐福が有力だとみます。ちなみに鉄の列島での生産(製鉄)は5世紀頃だとされているので、2世紀(111年)に渡来したと思われる天日槍(あめのひぼこ)は、いずれにしても鉄製造集団ではなく、青銅製造集団、つまり銅剣・銅矛・銅鐸を担った出雲の物部族=大己貴命(オオナムチノミコト)、すなわち、オオクニヌシ(大国主)の時代でなければおかしいのです。天日槍(あめのひぼこ)の時代は、銅鐸が現れ消えていく、弥生時代中期(紀元前1世紀)から後期(1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで)と重なるからです。

      4.伽耶と天皇家の秘密

      スクナヒコナ(小彦名神)は宮中で韓の神(からのかみ)と呼ばれているから、『日本書紀』を記した朝廷の役人は、スクナヒコナが「韓」は加羅、伽耶からやって来たことは知っていたはず。それにもかかわらず、地名を用いず、“常世の国”という架空の国からやって来たとするのはそれなりの理由があったからでしょう。その理由は、“韓、カラ、カヤ”が日本に多大な影響を及ぼしたことを神功皇后の新羅征伐にあるように、朝廷が抹殺したかったからでしょう。

      『播磨国風土記』がヒボコの出身地を「韓(加羅)」と伝えているのにもかかわらず、『日本書紀』は新羅としていることも、事情は同様です。

      ヒボコはツヌガアラシトと同一人物であるとする説があり、伽耶からやって来たのに、新羅として事実をねじ曲げようとしたのは、伽耶をめぐる朝廷の複雑な思いと、歴史の真相が隠されていたためだったのです。
      また、『古事記』や『日本書紀』が記された当時(八世紀初頭)には、新羅が統一をなし、百済や伽耶諸国は滅亡しています。すでに六百年も過去にさかのぼってまで、すでになくなっている国名の百済や伽耶の人などと記しても誰もわからないからだったとも考えられます。

      ここでの問題は、スクナヒコナがツヌガアラシト同様、伽耶出身の鬼とみなされたことは確かであり、同一人物であった可能性が高いことで、一人の人物が三体に分けられてしまったとすれば、彼らが鬼も王国出雲へ接近していたことが、八世紀の朝廷にとって不愉快な史実であったと想像できる点です。

      まず第一は、紀元節(建国祭)の起源となった祭りに、“園神の祭り”と“韓神の祭り”があって、祭神が園神(国の神)=大物主神と、韓神(伽耶出身の神)=オオナムチとスクナヒコナである点です。

      そして第二に、『出雲の国造の神賀詞(かむよごと)』のなかで、出雲を代表する四柱の神の一つに、カヤナルミなる名が登場していることです。カヤナルミは伽耶の姫の意味であり、下照姫の別名で、この女神の存在を正史『日本書紀』がまったく無視しているところにも、出雲と伽耶がヤマト建国に大きな役割を果たしていたことを、かえって暗示しているといえるでしょう。

      この女神が伽耶と密接に関係していることは確かなようですが、だからといって、出雲全体が「伽耶」そのものだったかといえば逆です。伽耶の姫というのはあだ名であって、夫が「伽耶」だったからだと言われています。夫はオオナムチ(大己貴神)です。大己貴神と大物主神は同一の神とされていますが、これは全くの誤解であるとしています。それは上記のように、オオナムチは韓の神(伽耶)の神であり、大物主神は国の神=出雲出身の土着の神だからです。

      ヤマト朝廷誕生の裏側に隠されたもう一つの鬼・伽耶。本来、天皇家に近い存在であったはずのこの王国は、なぜ出雲に接近し、しかも八世紀『日本書紀』のなかで祟る鬼とみなされてゆくのでしょうか。
      それは、“ヤマト”が東西日本(倭国)の融合であると同時に、この合併劇に伽耶も大きく絡んでいたことは疑いようがなく、三つの勢力が同盟関係に入り、その後の政局の動きのなかに、伽耶が鬼と目されてゆくほんとうの理由が隠されていたと考えられます。
      その政局のうねりのなかに、物部、蘇我、伽耶という鬼の一族たちの共通点が秘められていたのです。

      5.ヒボコと神功皇后はコンビを組んでいた?

      神功皇后は時代考証やルートから、限りなく邪馬台国のトヨ(壱与)に近い人物とされており、この女傑が邪馬台国やヤマト建国の秘密を握っている疑いが強いのです。

      また、ヒボコは太陽神の名を与えられているように、『日本書紀』も『風土記』も、この人物を神話として扱っています。歴史時代の人物であるにもかかわらず、神扱いされているのは、『日本書紀』がよく使う歴史改ざん・隠滅の手口だとしています。さらに神功皇后の子の応神は、北部九州で生まれ、東征しています。この行動とルートが、まさに初代神武天皇の東征の動きと神功皇后・トヨ(壱与)・ヒボコにそっくりなところに問題があります。

      そうなってくると、ヒボコがヤマト建国に深く絡んでいた疑いがあります。そして、ここでヤマトが但馬(出石)を介して朝鮮半島とつながり、大量に鉄を入手してしまえば、北部九州、出雲、吉備のそれまでの戦略は根本から崩れ去る。彼らは慌ててヤマトの地を目指して猪突したのではないでしょうか。これが纒向(まきむく)誕生のきっかけではないか。

      それにしても、なぜヒボコは、日本列島を目指してやって来たのかといえば、それは燃料、つまり木を求めたからでしょう。中国大陸や朝鮮半島では、早くから金属冶金文化が発展していて、森林破壊が進んでいました。そのため「製鉄のための燃料の枯渇」が起きていました。何しろ鉄を作るためには、山の森ひとつ、すぐになくなるほどの木材を消費するのです。

      その点、降水量の多い日本列島は当時、森林資源に恵まれていたのだろうし、このことは神話のなかでスサノヲが「日本には浮宝(木材)」が豊富だと語っていることからも分かります。ヒボコの目的も、「燃料の確保」だったはずです。

      奈良県田原本町の唐古池(唐古・鍵遺跡)の弥生後期初頭の溝から、渇鉄鉱の中にヒスイの勾玉(マガタマ)を入れた「巨大な鳴石」が見つかっています。
      三世紀の出石(いずし・豊岡)で砂鉄製鉄という産業革命が起きたことで、鉄の国産化、ヤマトの勃興が同時進行していたのではないか。豊岡平野はすでに縄文時代に書いたように、かつては湿地帯でした。出雲から海岸づたいに東へ進むと突如ぽっかりと子宮のような入江湖が現れます。湿地帯と鉄のつながりは渇鉄鉱です。水草の根や粘土質の土のまわりには、渇鉄鉱の結晶がこびりつきます。やがて根は腐り、粘土は乾いて中が空洞となり、振るとカラカラ鳴るようになります。このため鳴石とも呼びます。根に付着した渇鉄鉱は別名「鐸(さなぎ)」で、まさに形状は、虫のさなぎに似ているし、銅鐸のようにも見えます。

      弥生時代後期の山陰地方の四隅突出型墳丘墓の広がりと鉄器の流通、そして「孤立するヤマト」を重ねてみると、豊岡から敦賀、ヤマトにかけての一帯が、「九州や出雲と対立していた地域」だったのです。このような西日本諸国の「ヤマト」封じ込めに対し、丹波が出石を中心にヤマト連合が、有効な対抗手段を確立していいたのがヤマト勃興のカラクリであり、豊岡(出石)の砂鉄と唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)の渇鉄鉱が、これを証明しているように思えます。

      神功皇后は、「ヒスイの国・越」から九州に向かい、「ヒスイの女神」と接点を持っていきますが、この女人を後押ししたのが「鉄の王」ヒボコや武内宿禰であり、唐古・鍵遺跡の「鳴子」が、ものの見事に、三世紀のヤマトの発展を予言していたように思えてならない、としています。

      6.天日槍伝説の考察

      『古事記』の阿加流比売神の出生譚は、女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという卵生神話の一種であり、類似した説話が朝鮮に多く伝わっているそうです。例えば高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)や新羅の始祖赫居世、伽耶諸国のひとつ金官国の始祖首露王の出生譚などがそうです。

      • 『古事記』では新羅王の子であるヒボコ(アメノヒボコ)の妻となっている。この話は『日本書紀』のツヌガアラシト来日説話とそっくりなのである。そのことについては、のちほど気比神宮でくわしく述べますが、時代的に新羅という名称は、1、2世紀の時代、存在していないので、伽耶(カヤ)の王子と解すべきでないかと思います。

        ヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もあります。また、秦氏ではないかという説もあります。

      • 『日本書紀』では意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)が追いかける童女(名の記述はない)のエピソードと同一です。
        「記紀」で国や夫や女の名は異なっていますが、両者の説話の内容は大変似通っているそうです。

      7.神となったヒボコは倭人?

      ヒボコは伽耶に渡った倭人であるとする説です。日本書紀によると、ヒボコはひとりの童女アカルビメを追って日本にやってくるのですが、その童女はヒボコに「私は親の国に帰る」と叫びます。しかし、ヒボコが同じ韓(加羅)の国の人であるなら、わざわざ同国の人があえてヒボコに親の国という必要はないはずです。これはヒボコの先祖の国が日本列島にあったことを暗示しています。

      すなわち、朝鮮半島には鉄鉱石があふれていたが、燃料がなかった。一方日本列島には、鉄鉱石はなかったが、燃料の木はふんだんにあった(日本の砂鉄製鉄はその後の話)。両者の利害を共有すれば、「環日本海鉄コンビナート地帯」が完成するわけで、その橋渡し役をしたのが外国からやって来た脱解王であり、ヒボコであったのでしょう。
      また、彼らの活躍があったからこそ、西日本全体が一つにまとまるという方向性ができたのだろうし、彼らの活躍が大きすぎたがゆえに、ヒボコに「日本的な神の名」を与えられる一方で、無理矢理亀に乗せられ、浦島太郎に化けさせられ、歴史から正体を抹殺されたのでしょう。

      • ヒボコは人物であるにも関わらず神扱いされている。
      • 神功皇后はヤマト建国前後に活躍し、これにヒボコが絡んでいた。遠征ルートがよく似ている。
      • 鉄の国・伽耶から来日したヒボコは但馬に拠点を設け、ヤマトに鉄を「密輸」することで、富を獲得することに成功したので、特別に神扱いされた。
      • 当時の交通手段は陸路が整備されていないので海路や水路であり、円山川あるいは由良川から加古川のルートは、日本で最も低い分水嶺であり、ヤマト(大和)は最短の但馬(出石)を介して朝鮮半島とつながり、大量に鉄を入手してしまえば、北部九州、出雲、吉備のそれまでの戦略は根本から崩れ去る。
      • 倭国連合(北部九州、出雲、吉備)は慌ててヤマト王権の地を目指して突進した。
      • これが纒向(まきむく)誕生のきっかけだ。
        としています。

        8.朝鮮半島の建国神話

        建国神話の類似性

        『魏書』高句麗伝に、「扶余[*1]の王子が迫害を受けて故国を追われ、南下して高句麗を建国した」と知りされており、百済の神話は、高句麗の建国神話を前提にして、高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)の王子二人が高句麗の地を離れ、南のソウル地方にやってきて、弟の温示乍が百済を建国したとされます。実際に百済は、自らの出自を、高句麗とともに扶余族であることを対中国外交で主張しており、538年には、国号を南扶余としています。

        一方、扶余には、北方のタクリ国の王子が、迫害を受けて故国を逃れ、大河の南に扶余を建国したという建国神話が伝わっています。一部に地名などに若干の差異はあるものの、その構造は同一であり、高句麗の建国神話は扶余の神話と酷似している。しかも、このような建国神話の類似性は、百済まで及び、百済の神話は、高句麗の建国神話を前提にして、高句麗始祖の王子二人が高句麗の地を離れ、南のソウル地方にやって来て、弟の温そが百済を建国したことになっています。

        こうした建国神話の類似性ないし連鎖性に注目して、高句麗族は扶余族を出自とし、さらに百済の王族もまた、扶余出自の高句麗族の系譜を引くという説は古くから唱えられてきました。実際に、百済は自らの出自を、高句麗とともに扶余族であることを対中国外交で主張しており、538年には、国号を南扶余としています。

        しかし、自国の王統系譜を正当化する論理として、王の出自を外部に求めたり、共通の集団に求めたりすることが古今東西の王権神話にみられることで、類似性と民族的系譜関係とは直接に結びつくものではありませんが、互いに扶余との系譜を強く意識しながら、対立を先鋭化させていた点は注目されます。

        伽耶の建国神話

        『カラク国記』には、現在の金海にあった金官国には、天から六つの卵が降りてきて、そこから生まれた六人の童子の一人が金官国の始祖となり、残りの五人が五伽耶の王となった。また、『釈利貞伝』には、大伽耶国には、天神と伽耶山神から生まれた兄弟が、大伽耶と金官の始祖になったとされています。

        両国が加耶諸国のなかでも有力国であったことがうかがえます。

        新羅の建国神話

        『三国史記』[*2]が伝える新羅の建国神話に、初代王とされる朴赫居世(カッキョセイ)は、卵から生まれたという。第四代の王となった昔脱解は、外国で卵から生まれ、箱船で漂流していたところ、新羅の東海岸に漂着し、やがて成長して第二代の王の娘婿となり、即位した。金姓をもった最初の王である十三代味雛(ミスウ)王の始祖・閼智(アッチ)は、金の箱のなかに入って天から鶏林に降り立ったと伝えられている。

        これらの神話に見られる三姓の始祖たちのモチーフは、始祖は内部の人ではなく、天から降り立ったり、卵から生まれ外国よりやって来たりしたというように、外部から訪れたことで一致しています。また、それぞれの始祖は、神話のなかで姓の由来が語られていて、最初から姓をもっていたことになっています。しかし、新羅において姓の使用が確認されるのは六世紀半ば以降になってからであり、これらの神話は史実とは結びつかない。いずれにしても、三つの集団があって、それぞれが王を交立したといった可能性があり、おのおのの始祖神話をもっていたと理解できます。こうした神話は、新羅の国家形成と王権が複雑な様相をもっていた反映とみなせます。

        これらの神話に見られる三姓の始祖たちのモチーフは、始祖は内部の人ではなく、天から降り立ったり、卵から生まれ外国よりやって来たりしたというように、外部から訪れたことで一致しています。それは「天孫降臨」と似ている。

        また、それぞれの始祖は、神話のなかで姓の由来が語られていて、最初から姓をもっていたことになっています。しかし、新羅において姓の使用が確認されるのは六世紀半ば以降になってからであり、これらの神話は史実とは結びつかない。いずれにしても、三つの集団があって、それぞれが王を交立したといった可能性があり、おのおのの始祖神話をもっていたと理解できます。こうした神話は、新羅の国家形成と王権が複雑な様相をもっていた反映とみなせます。


        [*1]扶余 紀元前三世紀、東夷諸国のなかでも最も早期に国家形成をとげた。五世紀に高句麗に降伏して滅びた。
        [*2]『三国史記』 1145年に高麗で編纂された新羅・高句麗・百済の史書。朝鮮における現存最古の体系的な史書。

        -出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
        -出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

たじまる あめのひぼこ 6

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

天日槍の足取り

天日槍ゆかりの神社

『日本書紀』によれば、船に乗って播磨国にとどまって宍粟邑(しそうのむら)にいた。天皇から「播磨国穴栗邑(しそうむら)か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは菟道河(うぢがは)=宇治川を遡り、近江国の吾名邑(あなのむら)、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。近江国の鏡邑(かがみむら)の谷の陶人(すえひと)は、ヒボコに従った。

  • 伊都国
  • 近江国 近江蒲生 鏡山神社「天日槍命」滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289
  • 近江国 近江栗太 安羅神社「天日槍命」滋賀県草津市穴村町
  • 越前国 敦賀   氣比神宮「伊奢沙別命」敦賀市曙町11-68
  • 若狭国 若狭大飯 静志神社「天日槍命 今は少彦名命」福井県大飯郡大飯町父 子46静志1
  • 但馬国 但馬城崎 気比神社「五十狹沙別命」兵庫県豊岡市気比字宮代286
  • 但馬国 但馬出石 出石神社伊豆志坐神社 「出石八前大神、天日槍命」兵庫県豊岡市出石町宮内字芝池

名前に神の字がついた三人の天皇と一人の皇后がいる。神武・崇神・応神と神功皇后である。もちろん神武天皇はずっと後になってつけられた名前であり、カムヤマトイワレビコが正しい。実在する初代天皇は、崇神天皇ではないかとする説がある。さて、すでに触れたので最後の応神天皇である。

もともと古来の自然神なども、神は原則として天変地異をもたらす恐ろしい存在なのであってこれを必至に敬い恐縮し、祀りあげることによって、どうにか平穏な日々がもたらされるという発想である。そうであるならば、四人の「神」の名をもつ人びとに用心しなければならない。彼らは、立派な業績を残した方々というよりも、国中を震え上がらせた恐ろしい人びとではなかったか。

その証拠に、神功皇后は平安時代になっても「祟る恐ろしい女神」と考えられていたようだし、神武天皇は、まさに祟る恐怖を振りまくことで、ヤマト入りを成功させている。崇神はまさに祟る神と書くとおり恐れられ、応神天皇も、喪船に乗せられ、「御子は亡くなられた」とデマを流すことで、敵に恐怖心を植え付け、ヤマトの入ることができたのである。

そうなると、なぜ初代王の二人に神の名が付けられ、また、第十五代応神天皇やその母の神功皇后をも神扱いした(鬼扱いでもある)意味も考え直さなければならない。

神功皇后とそっくりなアメノヒボコの足跡

『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』 著者: 関裕二氏には、

アメノヒボコから神功皇后につながる系譜は、『古事記』が書き留めたもので、『日本書紀』無視しているのだが、ここにも『日本書紀』の作為が働いていたと思われる。『古事記』と『日本書紀』は、ともに八世紀に記されているが、二つは似て非なる文書である。

どちらも天武天皇が編纂のきっかけを作ったとされるが、どうもそうでないらしい。また『日本書紀』が百済を『古事記』が新羅を重視しているところには、大きな問題が隠されている。『日本書紀』が八世紀の朝廷の思惑を代弁しているとするならば、『古事記』は必ずしもそうとはいえない。いやむしろ、『日本書紀』の記述に反している点が少なくない。

谷川健一氏『日本の神々』の「天日槍とその妻」の中で、朝鮮からの渡来人の中で、記紀に最も取り上げられているのは天日槍(天日矛)であろう。(以下アメノヒボコ)は『日本書紀』の記述によって、ツヌガアラシトと同一人物と目される。

『筑前国風土記』逸文に「高麗の国の意呂山(オロサン)に、天より降りしヒボコの苗裔(すえ)、五十跡手(イトテ)是なり」とある。意呂山は朝鮮の蔚山(ウルサン)にある。意呂とは泉のこと意味するという。五十跡手は、『日本書紀』によれば、「伊都県主の祖」となっている。このようにアメノヒボコの苗裔と称するものが、伊都国にいたという伝承は、アメノヒボコの上陸地が糸島半島であったことを物語る。

ツヌガアラシトはそれから日本海へ出て出雲から敦賀へと移動している。アメノヒボコは瀬戸内海を東遷したように思えるが、日本海から播磨の南部へ移動したという説もあって、その足跡を明瞭に辿ることは難しいが、天にヒボコの妻の足取りは、ややはっきりしている。

『古事記』にはアメノヒボコの妻が夫といさかいしたあと日本に逃げてきて、のちには難波に留まり、比売碁曾(ヒメコソ)神社の阿加流比売神(アカルヒメ)になったことを伝えている。『日本書紀』には、ツヌガアラシトの妻となっており、同じように日本にやってきてからは、難波の比売碁曾神社の神となり、また豊前国国前郡(大分県国東郡)の比売語曾神社の神ともなって二か所に祀られている、と記されている。

福岡県糸島郡の前原町高祖(タカス)に高祖神社がある。もとは高磯(タカソ)神社と呼ばれ、ヒボコの妻を祀るとされていた。また大分県の姫島に比売語曾神祠(神のやしろ、ほこら)がある。先の『日本書紀』の記述に見える神社である。(中略)

一方、アメノヒボコは『播磨国風土記』には、葦原志挙乎命(葦原志許乎命・アシワラシコヲノミコト)または伊和大神との間に激烈な闘争を繰り広げる。そのあと『日本書紀』によれば、アメノヒボコは宇治川をさかのぼって、北の方の近江国の吾名邑(アナムラ)に入って、しばらく留まった。また近江から若狭国を経由して但馬国に至り、住居を定めた。近江国の鏡村の谷の陶器作りは、アメノヒボコの従者である、となっている。

この記事に見られる吾名邑は、蒲生郡の苗村(ナムラ)にある長寸(ナムラ)神社の付近だとする考えを『地名辞書』はとっている。苗村の西は鏡山に接している。その鏡山の東のふもとの鏡谷はヒボコの従者たちが住んでいたところとされている。鏡山の地はもと須恵村、つまり陶人の居住地を暗示する村の大字でもあった。そうしてこの近くの野洲市野洲町の小篠原から、二度にわたって大量の銅鐸の出土が見られたことは有名である。
ヒボコは『日本書紀』垂仁天皇三年の条によると、但馬国の出石に留まり、そこの豪族の娘である葛木出石姫を娶って子孫を増やしたとある。ヒボコは、まず糸島半島に上陸し、そこから日本列島を東に移動し、但馬が終着点となった。

『魏志東夷伝』の中の辰韓の条には、「国は鉄を出す。韓、濊(ワイ – 古代の中国東北部及び朝鮮における民族の1つ)、倭はみな欲しいままにこれを取る。諸々の市買はみな鉄をもらう。中国で銭を用いるが如し」とある。辰韓(のち新羅)に劣らず金海地方(弁韓・伽耶)も有名な砂鉄の産地であった。
しかし天日槍という名は多くの人が指摘するように、中国や朝鮮名にふさわしくない日本名である。『日本書紀』に次の記事がある。

「石凝姥(いしこりどめ)を以て冶工(たくみ)として、天香具山の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿(まなか)の皮を全(うつはぎ)に剥ぎて、天羽鞴(あまのはぶき・ふいご)に作る。此を用いて造り奉る神は、是即ち紀伊国にまします日前(ひのくま)神なり。」

これをみると、日矛というのは、日前神社の鏡と同じく銅製のものであったことが推測される。『古語拾遺』には鐸(たく)をつけた矛という表現があるが、大和の穴師の兵主神社には、日矛または鈴をつけた矛が御神体として祀られている。こうしたことから、天日槍(天日矛)も、金属製の祭器を人格化したものにすぎないと思われる。たしかにその事跡をたどるとき、播磨でも、近江、若狭、但馬でも金属に関連があることがうかがえる。

たとえば、ヒボコが近江国でしばらく住んだという吾名邑に比定される阿那郷は、のちに息長(おきなが)村と呼ばれ、息長一族の本拠であった。ヒボコの従者たちが住んだという鏡谷の近くの御上神社は、天之御影命を祀るが、それは天目一箇命と同神であるとし、日本の鍛冶の祖神と称せられる。この天之御影命の娘は、息長水依比売(おきながみずよりひめ)であるから、息長氏とも関係があることは疑えない、(中略)

天日槍の名は太陽神の信仰とも関係があるに違いない。太陽神の妻である阿加流比売という神号を奉られたのも、太陽との関係があるからだろう。阿加流比売を下照姫と異名同神とする説がある。「照」の字がつくことから巫女とみなしても差し支えなく、日矛の妻の阿加流比売も巫女と見ても良い。(中略)

ヒボコの妻は糸島半島から姫島に移動する前に、福岡県田川郡の香春(かわら)に足を留めた。そこに新羅の神が宿った、と『豊前国風土記』逸文に見える。香春の北に採銅所という地名があり、古くから銅山で知られている。また香春の近くに「赤」という集落もある。『地名辞書』によると、赤に鎮座する八幡の縁起に、上古この峰の頂上が振動して鳴りとどろき、赤光を放ち、神霊が現れた。よって「明流の神岳」と称し、その里を赤村といったという。これはもちろん付会に過ぎない。むしろ「阿加流比売」とのつながりを韓ガルのが自然である。

天日槍(天日矛)は、もともと太陽神を祀る金属製の祭器であり、その矛をもって跳躍し、神がかる「明る姫」と称する巫女がいたのであろう。こうしてみると天日槍とその妻の物語は、太陽神の巫女の話であると共に、また朝鮮半島から渡来した青銅や鉄の生産技術に長じた一群の人びとの物語でもあったと考えられるのである、と記している。

そして問題は、『日本書紀』が大切な氏族の系譜をときどき書き漏らしていること、その一方で、『古事記』がその隙間を埋めるかのように、記録していることだ。『日本書紀』は蘇我氏の祖の名を語っていないし、神功皇后の母方の祖も、漏らしてしまい、『古事記』がこれを補っている。

このような両書の関係は偶然ではなく、『日本書紀』はわざと蘇我氏と神功皇后の系譜を黙殺してしまったとしか思えない。

その証拠に、神功皇后とアメノヒボコは、多くの接点を持っている。たとえば、三品彰英氏は、アメノヒボコと神功皇后(オキナガタラシヒメ)の伝説地を地図上につないで、地理的分布が驚くほどよく似ていると指摘している。似ているのではなく、両者はまるで手を携えて行動をしていたようにピッタリと重なっている。

『古事記』に従えば、神功皇后とアメノヒボコの系譜上のつながりは、系図を見れば分かるように、かなりかけ離れていたことになる。その二人が、なぜここまで重なってくるというのだろう。どうにも不可解な謎ではあるまいか。

もうひとつ奇妙なことがある。それは『古事記』のアメノヒボコ記事は、応神天皇の段に載せられている。これがどうにもよく分からない。

応神天皇は神功皇后の息子であり、その応神天皇の知政を述べるくだりで、「又昔、新羅の国主の子有りき。名は天之日矛と謂ひき」と、アメノヒボコを紹介していたことになる。これはとても不自然だ。また、「昔」とはいつのことなのか、『古事記』の記事を読む限り、はっきりとしないのも問題が残る。
さらのもうひとつ、アメノヒボコが「神話」の時代だったと、『古事記』は証言している。それが、アメノヒボコ来日後の次のような話からくみ取ることができる。

アメノヒボコが招来した八つの神宝を、伊豆志の八前の大神と呼び祀った。その伊豆志の八前の大神には娘がいて、その名をイズシヲトメノカミといった。多くの神々(八十神)がこの女神と結婚したいと思ったが、皆かなわなかった。いろいろないきさつがあったのち、弟は乙女と結ばれ子供が生まれた。だが兄は、呪いにあって衰弱するのだが、ここでは省略する。

ここで指摘しておきたいのは、この話の出だしが、どこか因幡の白兎を連想させることだ。出雲の大国主や多くの神々が、因幡のタガミヒメを娶ろうとしたが、途中で白兎をいじめた兄たちは得ることができず、白兎を助けた大国主が八上比売と結ばれたという、あの話だ。舞台背景となった但馬は、因幡のとなりで山陰道の隣国であり、海でつながっている。

なぜ『古事記』は、ヒボコの話を神功皇后のあとにもってきて、しかも、ヒボコの話のあとに、「神話」を語ったのだろう。すべて順番が逆になっている。

はたして何かしらの意図があったからなのだろうか。なぜヤマト朝廷の実在の初代王・崇神天皇の出現の直前に、神功皇后の名(『古事記』では息長帯比売命)を無理矢理こじ入れてしまったのだろう。ここにも何か秘密めいたものを感じてしまう。

『古事記』によれば、神功皇后の母方の祖は来日した新羅皇子・アメノヒボコの末裔にあたるのだが、『日本書紀』はこの系譜をまったく無視している。なぜこの系譜を掲げなかったかというと、アメノヒボコこそが、ヤマト建国の真相を知っていたからである。

『日本書紀』によれば、ヒボコは崇神天皇を慕ってやって来たというが、『播磨国風土記』は、「天日槍、韓国より渡り来て、…」として、新羅としていない。『古事記』702年より『風土記』編纂713年からで後だ。すでに新羅は成立後なので、あえて韓国と書いている。もちろん風土記は地方官がその土地の伝承を集めたものであるから、編纂年の事柄ではない。韓は弁韓・辰韓でもあり、彼らの祖地・中国の漢であり、カラ(伽耶)でもありうる。私は別に書いたが、伽耶だという説がもっとも強いと思っている。ヒボコが神話の時代に日本にやってきたと証言している。ここにいう神話時代とは、「ヤマト建国の直前」ということであろう。

三品彰英氏が指摘しているように、アメノヒボコト神功皇后の活躍したルートはほぼ重なっていて、また、ヒボコが追いかけ回したというヒメコソ(比売語曾)は、「ヒミコ」のことではないかとする説があるが、「ヒミコ」は「日の巫女」(ヒノミコ) なのであって、これは職掌であり、神の神託を下した神功皇后も、まさに「ヒミコ(比売語曾)」とそっくりなのだ。

そうなってくると、アメノヒボコと準宮皇后とのコンビこそが、ヤマト建国に大いに関わっていて、この事実を抹殺するために『日本書紀』はいろいろな小細工をくり返したのではないかという疑念につながっていくのである。というのも、「天日槍(天日矛)」を直訳すれば、「太陽神であるとともに金属の神」とうことになる。

アメノヒボコとヒメコソ(ヒミコ=太陽神の巫女)がセットだったのは、アメノヒボコが太陽神だったからである。そして、問題は、ヒボコが金属冶金技術を日本にもたらしたからこそ、「天日槍」という神の名で称えられた、ということであろう。そしてそれがヤマト建国の直前で、しかも『日本書紀』のいうように、アメノヒボコが最終的にとどまった地が但馬の出石であったというところがポイントである。

但馬の知られざる地の利がひとつだけある。それは、船に鉄を積んで若狭のあたりを東に向かい、敦賀に陸揚げしたのち、峠を一つ越えれば琵琶湖に出られることだ。琵琶湖から再び船に乗り換え、大津から宇治川を一気に下れば、ヤマトへの裏道が続いていることである。ひょっとして、アメノヒボコは、鉄欠乏症に悩むヤマトを救済すべく、但馬に拠点を造り、鉄を密かにヤマトの送り込んでいたのではなかったか。

(神功皇后のルートが、「播磨国風土記」でヒボコがさまよったルートと逆にすると似ているし、近江は息長氏の拠点でありヒボコや穴師ゆかりの神社や兵主神社が多い。

出石は古くは「伊都志・伊豆志」と記していた。どうも糸島半島にあったとされる伊都国との関わりがあるのではいかと思っていた。

また、神功皇后は、『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高媛(かずらきのたかぬかひめ)、彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。

彦坐王は開化天皇の第三皇子、第三妃に日矛の流れを汲む近江の息長水依比売がいる。彼女との間に生まれたのが、四道将軍・丹波道主王命である。妻は、丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)。 子は日葉酢媛命(垂仁天皇皇后)、渟葉田瓊入媛(同妃)、真砥野媛(同妃)、薊瓊入媛(同妃)、竹野媛、朝廷別王(三川穂別の祖)。

丹後や但馬にに巨大な前方後円墳が造られたのは、この辺りではないだろうか。

第11代垂仁天皇の御代に新羅国皇子・天日槍が謁見したと記してあり、神功皇后は第14代の仲哀天皇の妃となる。

垂仁天皇の第一皇子が、成人しても言葉を発することができなかった誉津別命である。鵠(くぐい、今の白鳥)を出雲で捕らえて話すことが出来たので、出雲大社を造営したといわれている。

近江国と天日槍

「万葉集を携えて」近江国の吾名邑さんによると、

近江国 近江蒲生 鏡山神社「天日槍命」
滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289

御祭神 「天日槍」 神社由緒には、 「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とある。この辺りを「吾名邑」とし、「鏡邑の谷の陶人」の地とする条件はかなり揃っている。

近江国 近江栗太 安羅神社「天日槍命」滋賀県草津市穴村町
滋賀県草津市穴村町
御祭神 「天日槍」

神社由緒記には、 「日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する」とあり、祭神は「天日槍命」とする。 「近江国の吾名邑」は、ここ「穴村」に比定する。天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類を留め、後それらの人々が彼を祖神としてその恩徳を慕うて神として社を創建した。この安羅神社である。「安羅」という社名は、韓国慶尚南道の地名に同種の安羅・阿羅があり、天日槍を尊崇するとともに、故郷の地名に執着して社名にしたものと思われる。

滋賀県草津市には穴村町という地名が残り、「安羅神社」がある。

越前国 敦賀   氣比神宮「伊奢沙別命」摂社 角鹿神社「ツヌガアラシト=ヒボコ」敦賀市曙町11-68
若狭国 若狭大飯 静志神社「天日槍命 今は少彦名命」福井県大飯郡大飯町父 子46静志1
但馬国 但馬城崎 気比神社「五十狹沙別命」兵庫県豊岡市気比字宮代286
但馬国 但馬出石 出石神社伊豆志坐神社「出石八前大神、天日槍命」兵庫県豊岡市出石町宮内字芝池
滋賀県竜王町には「苗村神社(ナムラ)」が鎮座する。鏡山の東麓にある。吾名邑(アナムラ)という地名が苗村になったという。(景山春樹氏)鏡山の麓にあり、鏡邑に隣接していることからも、ここが吾名邑という。

米原市の旧近江町は旧坂田郡にあり、(市町村合併で、本当に説明がしにくい)、この辺りは「坂田郡阿那郷」と呼ばれていた。阿那郷が後に息長郷になった。(息長郷は神功皇后の関連地名である。) この阿那郷が「吾名邑」であるという。(金達寿「日本の中の朝鮮文化」からの引用。坂田郡史に書かれてあるらしい)。 米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立つ。

米原市の旧近江町は旧坂田郡にあり、(市町村合併で、本当に説明がしにくい)、この辺りは「坂田郡阿那郷」と呼ばれていた。阿那郷が後に息長郷になった。(息長郷は神功皇后の関連地名である。) この阿那郷が「吾名邑」であるという。(金達寿「日本の中の朝鮮文化」からの引用。坂田郡史に書かれてあるらしい)。 米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立つ。

伊弉諾神社  米原市菅江(旧山東町)   この神社にはつぎのような口伝がある。

古老の伝に、村の南西大谷山の中腹に、百人窟という洞穴があり、息長族系の人々が住んでいた。阿那郷と呼ばれる渡来人の遺跡と思われる。これらの人々は須恵器を作って、集団生活が始まったという。この地は古代の窯業跡とも云われる。

息長氏(おきながうじ)は古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。 『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。天皇家との関わりを語る説話が多い。姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公・坂田公・酒人公などがある。

息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、生没年不詳)は、2世紀頃の日本の皇族。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王の王子。母は丹波之遠津臣の女・高材比売。神功皇后の父王として知られる。気長宿禰王とも。 王は河俣稲依毘売との間に大多牟坂王、天之日矛の後裔・葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)を儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡される。

王は少毘古名命・応神天皇と並び滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。

天日槍は近江国の吾名邑(あなのむら・滋賀県草津市)にいたとされるので、息長宿禰王とひ孫の葛城之高額比売も同族は親戚かもしれない。

西野凡夫氏『新説日本古代史』の中で、通説では息長氏の本貫地が北近江であると考えられているが、それは間違っている。本貫地は大阪である。継体天皇を息長氏と切り離したのは、天皇家を大和豪族とは超越した存在として位置づけるための造作である、としている。

「万葉集を携えて」近江国の吾名邑さんによると、
1.竜王町説

滋賀県竜王町には「苗村神社(ナムラ)」が鎮座する。鏡山の東麓にある。吾名邑(アナムラ)という地名が苗村になったという。(景山春樹氏)鏡山の麓にあり、鏡邑に隣接していることからも、ここが吾名邑という。

鏡山神社

滋賀県竜王町鏡
御祭神 「天日槍」
神社由緒には、
「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とある。この辺りを「吾名邑」とし、「鏡邑の谷の陶人」の地とする条件はかなり揃っている。

2.草津市穴村説

滋賀県草津市には穴村町という地名が残り、「安羅神社」がある。

安羅(ヤスラ)神社
滋賀県草津市穴村町
御祭神 「天日槍」

神社由緒記には、
「日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する」とあり、祭神は「天日槍命」とする。
「近江国の吾名邑」は、ここ「穴村」に比定する。天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類を留め、後それらの人々が彼を祖神としてその恩徳を慕うて神として社を創建した。この安羅神社である。「安羅」という社名は、韓国慶尚南道の地名に同種の安羅・阿羅があり、天日槍を尊崇するとともに、故郷の地名に執着して社名にしたものと思われる。

兵庫県豊岡市出石町袴狭(はかざ)の近くに安良(ヤスラ)、穴見郷という地名がある。
3.米原市(旧近江町)説

米原市の旧近江町は旧坂田郡にあり、(市町村合併で、本当に説明がしにくい)、この辺りは「坂田郡阿那郷」と呼ばれていた。阿那郷が後に息長郷になった。(息長郷は神功皇后の関連地名である。)
この阿那郷が「吾名邑」であるという。(金達寿「日本の中の朝鮮文化」からの引用。坂田郡史に書かれてあるらしい)。
米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立つ。
伊弉諾神社  米原市菅江(旧山東町)

この神社にはつぎのような口伝がある。

古老の伝に、村の南西大谷山の中腹に、百人窟という洞穴があり、息長族系の人々が住んでいた。阿那郷と呼ばれる渡来人の遺跡と思われる。これらの人々は須恵器を作って、集団生活が始まったという。この地は古代の窯業跡とも云われる。

息長氏(おきながうじ)は古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。
『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。天皇家との関わりを語る説話が多い。姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公・坂田公・酒人公などがある。

息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、生没年不詳)は、2世紀頃の日本の皇族。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王の王子。母は丹波之遠津臣の女・高材比売。神功皇后の父王として知られる。気長宿禰王とも。
王は河俣稲依毘売との間に大多牟坂王、天之日矛の後裔・葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)を儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡される。

王は少毘古名命・応神天皇と並び滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。
天日槍は近江国の吾名邑(あなのむら・滋賀県草津市)にいたとされるので、息長宿禰王とひ孫の葛城之高額比売も同族は親戚かもしれなし。

須可麻(すかま)神社

福井県三方郡美浜町菅浜

式内社
御祭神 「世永大明神(菅竈由良度美姫)」「麻気大明神」

『古事記』によると、菅竈由良度美姫は天日矛神の子孫であり、
神功皇后の祖母、応神天皇の曾祖母にあたる姫。
敦賀地方は、天日矛一族の渡来気化地とする説があり、
その子孫を祀った神社と考えられている。

たじまる あめのひぼこ 5

天日槍ゆかりの神社

  1. 諸杉(もろすぎ)神社
  2. 比遲(ヒジ)神社
  3. 日出神社
  4. 須義(すぎ)神社

天日槍(アメノヒボコ)ゆかりの神社は、いずれも式内社で、出石神社と御出石神社を囲むように旧出石郡に集中している。

  • 諸杉神社 天日槍の子・多遅摩母呂須玖(タヂマモロスク)/出石町内町
  • 比遅神社/多遅摩斐泥(タヂマヒネ) 但東町口藤
  • 中嶋神社 曾孫が、菓子の神とされる多遅摩毛理、田道間守(タヂマモリ)/豊岡市三宅
  • 日出神社 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)/但東町畑山、清日子(スガヒコ)であり、
  • 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)の娘が菅竃由良度美(スガカマノユラトミ)/須義神社/出石町荒木
    一節には清日子(スガヒコ)の娘とあります。

私は、この天日槍(アメノヒボコ)ゆかりの神社を調べて、これは後々の伝承に過ぎないのだと断言できる。『国司文書但馬神社系譜伝』によれば次の神社は天日槍とはまったく無関係である。

比遲(ヒジ)神社 本来の祭神は味散君
佐伎都比古阿流知命神社は、平安期までは養父郡浅間郷坂本に鎮座しており、
祭神 佐伎津彦命・阿流知命 (浅間郷開拓の祖神)

諸杉(もろすぎ)神社

兵庫県豊岡市出石町内町28
式内社 旧県社
御祭神 多遲摩母呂須玖神(たぢまもろすく)
『国司文書但馬神社系譜伝』は天諸杉命 亦の名 多遲摩母呂須玖、但馬諸助
アメノヒボコ(天日槍)命の嫡子とある。

豊岡市出石総合支所駐車場の前の出石城の東に隣接する古社ですが、私もはじめて訪ねました。この辺りは出石観光の中心にあたります。日本書紀に「但馬諸助」とある神で、
「母呂須玖」が社名の「諸杉」と転訛したようです。


木の鳥居が古さを物語る。


拝殿

創祀年代は不詳。当初は小坂村水上(むながい)に祀られていたが、天正二年(1574)、但馬国守護山名氏が居城を
此隅山(小盗山)から出石有子山に移すにあたり現在地に遷座したという。


本殿

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比遲(ヒジ)神社


兵庫県豊岡市但東町口藤字山姥547
式内社 旧村社
御祭神 多遲摩比泥(たじまひじ)神

多遲摩比泥神は天日槍の孫であり多遅摩毛理の祖父神。
多遅摩比泥とも、多遅摩斐泥とも書かれる。『国司文書但馬神社系譜伝』には、ご祭神 味散君(みさのきみ)。
人皇五十代柏原天皇の延暦三年夏六月、葛井宿祢比遲は出石主帳となり、これを祀る。
味散君、百済国都慕王十世孫・塩君の子なり。葛井宿祢の祖。

日出(ひので)神社


豊岡市但東町畑山329式内社 旧村社

御祭神 多遅摩比多訶神(たぢまひたか)祭神は、ヒボコの四世孫・多遅摩比多訶神。多遅摩比那良岐の子、田道間守命の弟。社号の日出、鎮座地が日殿村で、この祭神名から取られたものでしょうか。

日出神社は但馬神話で出石を中心とする但馬地方を治めたヒボコの四世「多遅摩比多訶」を祭神とします。神社の創立は明らかでないが、延喜式に但馬国出石郡の小社と記された式内社であります。現本殿の建立は、建築の様式技法から考察して室町時代末期の16世紀初頭と考えられ、その後、宝永元年(1704)、享保11年(1726)、明治21年(1888)に修理したことが棟札によって知られます。解体修理は昭和48年10月に着手し、翌昭和49年11月に工事を完了しています。構造様式は旧規を踏襲し、後世改変された箇所は資料にもとづいて復旧し、覆屋も撤去して当初の姿に修復された。

本殿は室町時代末期の様式技法をよく伝えているとして、昭和38年に兵庫県指定文化財となり、昭和45年6月に国指定の重要文化財となった。国の文化財保護審議会において「日出神社本殿は庇部分に後世の改造部分が多いが、手挟、蟇股など細部は当初材を残し、兵庫県における室町時代末期の三間社流造本殿の一例として保存すべきものと考える」と評価されています。

 

須義(すぎ)神社


兵庫県豊岡市出石町荒木字竹ヶ原273-1
但馬國出石郡 シ頁義神社 式内社 旧郷社
御祭神 由良度美神(ゆらとみのかみ) 配祀 誉田別

神社伝によると、応神天皇四十年の創祀。
『国司文書但馬神社系譜伝』には、須義芳男命(亦の名は荒木帯刀部命)
一説に、神功皇后が熊襲征討のため
出石神社に戦勝祈願をした時。山の中腹の高い場所に祀ったのもその権力を誇示するためだろうか。


鳥居を過ぎると長い石段が迫る。

式内社・須義神社に比定されている古社で、『三代実録』に、貞観十年十二月二十一日に
正六位上から従五位下に昇進した「菅神」が当社。
吉野朝時代、当社付近を菅庄と称し、八幡宮領となり、八幡神を併せ祀ったという。菅川のそば、菅谷の菅庄に鎮座する神社で、以前は、菅八幡宮と称し、
荒木の八幡さんと呼ばれている神社。かつての京街道沿いにあり、かつて但馬征伐で秀長率いる豊臣軍が浅間峠を越えて出石城攻めに行軍した道です。


拝殿

『神名帳考證』には、多遲摩母呂須玖神(たぢまもろすくのかみ)とある。多遲摩母呂須玖神は天日槍神の子。
菅竈由良度美神は、その多遲摩母呂須玖神の妹、あるいは娘、あるいは四世孫清日子の娘で神功皇后の外祖母と考えられる神らしい。


本殿


石段を登ると境内は以外と広かった。

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あめのひぼこ 4 お菓子の神様-中嶋神社

お菓子の神様-中嶋神社

目 次
  1. お菓子の神様-中嶋神社
  2. お酒の神様-酒垂神社(さかだれじんじゃ)

お菓子の神様-中嶋神社


朱塗りの大鳥居

【国指定重要文化財】

祭神:主祭神:田道間守命(たじまもりのみこと・多遅麻毛理命) 配祀:天湯河棚神(あまのゆかわたなのかみ)
住所:兵庫県豊岡市三宅1

「菓祖・菓子の神」として製菓業者の崇敬を受け、日本各地に分社がある。

中嶋神社の祭神田道間守は、古事記では、多遅麻毛理(タヂマモリ)、日本書紀では田道間守(タヂマモリ)は、ヒボコの曾孫、多遅摩比那良岐の子。
式内社 旧社格は県社
二間流造(ながれづくり)で、室町時代の典型的な神社建築を伝えています。


中の鳥居

御祭神の田道間守は、韓国、昔の新羅の皇子で、我が国に渡来して帰化し、但馬の国を賜り、これを開発したアメノヒボコ(天之日矛、天日槍)命(アメノヒボコ)の五世の子孫で、日本神話で垂仁天皇の命により常世の国(現在の韓国済州島と言われている)から当時の菓子としては最高のものとして珍重された「非時(ときじく)の香の木の実」(橘…みかんの一種)を、長い歳月をかけ、艱難辛苦の末持ち帰ったところ、垂仁天皇はすでにお亡くなりになり、命は悲嘆の余り、その御陵に非時香菓を献げた上、殉死された。 ときの景行天皇は、命の忠誠心を哀れみ、御陵(山辺道上陵:奈良県天理市渋谷町の渋谷向山古墳(前方後円墳・全長300m)に比定)の池の中に墓を造らせた。田道間守の墳墓が垂仁天皇陵をめぐる池の島にあったことからその名がついました。

また、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから養蚕の神ともされます。


拝殿

田道間守命が異界に果物や薬草を求めに行く話は、人物を代えて世界各地に伝わるもので、この説話は中国の神仙譚の影響を受けていると考えられています。例えば秦の徐福が蓬莱に不老不死の薬を求めに行く話があります。徐福伝説として各地に伝わっています。全国でも珍しいお菓子の神様として、「菓祖・菓子の神」として製菓業者の崇敬を受け、日本各地に分社があります。中嶋神社の分霊が太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都市)など全国に祀られており、菓子業者の信仰を集めている。現在も全国の菓子製造業者などの崇拝を受け広く親しまれいます。

佐賀県伊万里市には、常世の国から帰国したタヂマモリが上陸した地であるという伝承があり、伊万里神社にはタヂマモリを祀る中嶋神社がある。和歌山県海南市の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は、タヂマモリが持ち帰った橘の木がはじめて移植された地と伝えられています。


本殿

天湯河棚神は中古に合祀された安美神社の祭神であります。天湯河棚神(天湯河板挙命)は鳥取造の祖であります。一説には、日本書紀に記される、垂仁天皇の命により天湯河板挙命が鵠を捕えた和那美之水門の近くに天湯河棚神を祀ったものであるといわれています。 創建は非常に古く、国司文書によれば、約千三百年前の推古天皇(在位593~628)の御代、田道間守の七世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守を祀ったのに始まる。「中嶋」という社名は、田道間守の墓が垂仁天皇の御陵の池の中に島のように浮んでいるからという。

中古、安美郷内の4社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し「五社大明神」とも称されたが、後に安美神社(天湯河棚神)以外は分離した。


摂社 安美神社

現在の朱塗りの本殿は、応永年間の火災の後、約六百年前の室町中期、正長元年(1428年)に但馬の領主 山名氏により建立されたもので、室町中期の特色をよく示しているものとして重要文化財に指定されて国指定重要文化財に指定されました。 推古天皇の御代になって、七代目の命の孫に当たる、この地三宅に住む「吉士中嶋(キチシナカジマ)の君がこの神社を創立し、命を祭られたと伝えられます。

毎年四月の第三日曜日を「橘菓祭(菓子祭)が行われ、全国より菓子業者の参拝もあり、招福、家業発展を祈願して盛大に行われます。(神社御由緒などより)

地名の三宅について

屯倉(みやけ)とは古墳時代に設けられた土地や人民の支配制度の一つで、大和政権が直接支配した土地のことを指す。「屯倉」は『日本書紀』の表記。『古事記』・『風土記』・木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記されます。
大化の改新で廃止されました。

豊岡市三宅という地名から大和政権が直接支配した土地だったとことが濃厚です。但馬・丹後には養父市関宮町にも三宅、京丹後市丹後町三宅があります。
旧神美村三宅は、森尾古墳群があり、ヤマト朝廷以前から栄えていた豪族がいたのでしょうか。朝廷の支配下にして直轄領にしたということは重要な場所であったに違いないのでしょう。

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[註]
  • [*1]…この「社伝」は、のち奥丹後震災で焼失した。
  • [*2]…「宝物」の数は、[古事記』では「八種」、『日本書紀』では「七種」とされている。
  • [*3]…「ひもろぎ」 ヒモロキとも。神の宿る神聖な場所。玉垣で囲ったりした。


兵庫県豊岡市法花寺
祭神:酒弥豆男命、酒弥豆女命

【国指定重要文化財】創祀年代は不詳。境内案内によると、白鳳三年(675)の夏、
当地方を治めていた郡司・物部韓国連久々比命が
贄田の酒所を定め、酒解子神・大解子神・子解子神の酒造神を祀って
醸酒し、これを祖神に供えて五穀豊穣を祈願した。
その斎殿が、当社の発祥であるという。

祭神は、杜氏の祖神、酒造司の守護神である
酒美津男命と酒美津女命。

別名、大倉大明神とも大蔵大明神とも記され、拝殿扁額にも「酒垂神社」と並んで「大蔵大明神」の名が掲げられている。

酒弥豆男命と酒弥豆女命という酒の神をまつる酒垂神社。本殿は2本の柱で一間をつくる一間社流造の構造で、国の重要文化財に指定されている。現在は保護のために上屋で覆われている。永享10年(1438)に斧始め、嘉吉元年(1441)に立柱、文安元年(1444)に遷宮、体裁を完備したのが、宝徳元年(1449)で、前後11年をかけて建てられた建物。

お菓子の神様・中嶋神社やコウノトリの神社・久々比神社と同じ大工の手によってつくられていて、ここはお酒の神様。記録によると大伴久清という宮大工によって建てられており、細部にわたってすぐれた意匠が凝らされています。 大伴久清という大工の苗字・大伴は、今も三江地区に分布している大伴姓と関係があるかも知れません。江戸時代に入って修理を担当した藤原勘右衛門は、明らかに下宮の人でした。その修理技術は優秀で、原型を損なうことなく修復してあります。

こけらぶきの本殿は、鮮やかな朱塗りが修理の跡を物語りますが、すっぽりと覆い家の中に収まり、この囲いがあったからこそ、本殿も数百年の風雪に耐えてきたのかと変に納得させられました。 参道の左右に、狛犬のかわりに垣に囲まれて「甕石」があります。「鶴石」「亀石」といいます。古来は磐座だったものかも知れない。

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たじまる あめのひぼこ 3 気多に落ちた黒葛

塗り替えられた気多の歴史

旧気多郡 「日高町史」

拙者が生まれた旧日高町は、古くはほぼ気多(ケタ)郡全域だった。その後周辺の城崎郡と美含郡との合併で城崎郡となる。平成に豊岡市と周辺の香住町を除く城崎郡・出石郡が合併し豊岡市となる。もうすでに市町村合併によって気多郡も城崎郡も消滅したが、ところで、気多ってどういう意味なんだろう?というのがそもそも郷土の歴史を知りたいきっかけだった。

播磨風土記でも天日槍と伊和大神との争いに気多郡が登場する。

1.気多という地名

日本に初めて伝わった文字が漢字であり、気多という地名は、漢字にはない訓読みを表すために、万葉仮名という漢字をヨミガナに充てたものが、もちにカタカナやひらがなに発展する。つまり、漢字が伝わる以前から“ケタ”という地名はおそらく口頭ではあったのであって、気多という漢字にあまりこだわる意味はないかも知れない。

万葉仮名として日本語の訓読みに使用された漢字は一種類ではなく数種類ある。「ケ」では発音で“e”(エ段甲類)と“ae”(エ段乙類)の発音があった。「気」はそのエ段乙類に分類されるので当時のケタの発音は、カとケの中間の“k-ae ta”だったようだ。カタカナの「ケ」は「気」を崩したカナ、「タ」は「多」を崩してできたカタカナなので、万葉仮名の漢字としてそれぞれ最もポピュラーな漢字である。

奈良時代初期の和銅6年(713年)に、「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ)という勅令が発せられている。(「好字令」という)これには2字とは記されていないが、この頃から一斉に地名が2字化したことがわかっている。により、ケタにも漢字が充てられた。地名のほとんどやその住む土地の名から派生した苗字が漢字2文字なのはこの名残りである。

したがって、漢字が伝わる弥生時代以前からケタという地名はあっただろうし、「和妙抄」の中でも例えばタヂマは多遅麻など、地名や人名を表すのに様々な漢字が使用されていることからも、漢字の意味にばかりこだわるというのは、そもそも漢字以前に「ケタ」はあり、漢字はあとからなので狭い解釈だと思えるが、カタカナのもとになったことでも分かる通り、最も一般的な気と多が用いられたことになる。好字を当てたという意味で掘り下げてみると、本来の漢字の意味は、気多の「気」とは、正字は「氣」で、中国思想および中医学(漢方医学)の用語でもある。目に見えないが作用をおこし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素ともなるものをさす。本来は、中国哲学の意味だが、日本では「元気」などの生命力、勢いの意味と、気分・意思の用法と、場の状況・雰囲気の意味の用法など、総じて精神面に関する用法が主であり、「病は気から」の「気」は、日本ではよく、「元気」「気分」などの意味に誤解されているそうである。

『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡故事記には、第1代神武天皇の頃はケタは佐々前県で、人皇8代孝元天皇32年、櫛磐竜命をもって佐々前県主と為す。
当県の西北に気吹戸主命の釜あり。常に物の気を噴く。故にその地を名づけて、気立原という。その釜は神鍋山という。
よって、佐々前県を改めて気立県という。

これは、「ケタツ・ケダツ」と読みのではなく、最初から「ケタ、またはケタッ」だと思う。

縄文人と同じルーツを持つとされる南方系で、ニュージーランドの先住民族マオリ族のマオリ語の 「ケ・タ」、KE-TA(ke=different,strange;ta=dash,lay)、「変わった(地形の)場所がある(地域)」 の転訛と解しておられる。
あながち、ハワイなどの地名をみても、日本語に近い発音であるし、なるほどと思った。
旧石器から縄文にここへやってきた先住民が、噴火口のぽっかり開いた神鍋山(かんなべやま)などの火山群を見つけ、びっくりし「ケ・タ」と呼んだのではないか、と冗談ともいえない想像もできる。

但馬で最も古く人が住み着いた形跡が残る新温泉町畑ヶ平遺跡、鉢伏山家野遺跡(養父市別宮字家野)、そして神鍋遺跡、この中国山地でつながる標高の高いエリアは、無理やり漢字を充てはめたかのような難解な地名が多い。神鍋周辺でも、名色ナシキ万場マンバ万却マンゴウ稲葉イナンバなど、まず一発で読めない。

「気多」という地名があるのは、意外に多く、遠江国(静岡県西部)山香郡気多郷、丹後国(京都府北部)加佐郡に気多保、因幡国(鳥取県東部)にもかつて気多郡があった。

明治29年(1896)、鳥取県の旧気多郡は高草郡と合併して、気高郡となった(現在は鳥取市)。伝説で有名な因幡の白兎は、この高草郡に関係がある説話で、「この島より気多の崎という所まで、鰐(ワニ=サメのこと)を集めよ」といい、兎が隠岐から戻る話です。気多の島という名は、『出雲風土記』の出雲郡の条にも出てきます。奇しくもわが兵庫県気多郡も城崎郡と合併し明治23年(1890)に消滅しています(現在は豊岡市)。気多神社にある「鰐口(わにぐち)」も因幡白兎に関係あるのでしょうか。

気多神社は、石川県羽咋市に能登国一宮、旧国幣大社で、同じ「大己貴命(オオナムチノニコト)」を祭神とする気多大社など北陸にたくさんあります。気多大社の社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされます。崇神天皇のときに社殿が造営されました。奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っています。グーグル検索してみると、字名で、岐阜県飛騨市古川町上気多(飛騨国)、福島県河沼郡会津坂下町気多宮字宮ノ内(上野国)がありました。それぞれ気多若宮神社、坂下町は地名の通り気多神社(宮)で神社があります。

大己貴命と大国主(オオクニヌシ)は同一神で、全国の出雲神社で祀られています。

また、三重県に多気郡多気町丹生があります。関係が全くないとも思えないのが、丹生(にゅう)です。日高町には祢布(にょう)があり、日高町で最初に発掘調査が行われた場所で、古く縄文期から人が住んでいたところです。また、第二次但馬国府が置かれた場所だと確定されています。

人名では、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、気多君の名が出ています。

「気多の名前が分布しているのは、出雲、因幡、但馬、能登と太平洋側の遠江の五ヶ所に限られる。但馬の気多神社も、祭神は出雲国と濃い関係にある大己貴命(おおなむちのみこと)だというから、気多という名を負う気多氏は、出雲の国から起こって、その一族の播居地に、気多という名前を残していたとも考えられはしないだろうか。」

と日高町史は記しています。

さて、前出の『播磨風土記』では「アメノヒボコ(天日槍)とアシハラシコオ(葦原志許乎命・大己貴神の別称)との争いで、葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう。

ヒボコは出石を選び、アシハラシコオは気多を選んだ。それは鉄の産地争いではないかともいわれている。

たじまる あめのひぼこ 2

天日槍と伊和大神の国争い

概 要

『播磨国風土記』[*1]には伊和大神(いわのおおかみ)とヒボコとの争いが語られています。結果としては住み分けをしたことになり、ヒボコは但馬の伊都志(出石)の地に落ち着いたことが語られています。 ヒボコは海水を攪きて宿ったとある宇頭の川底とは、「宇須伎津の西の方に紋水の淵あり。」とされ、姫路市網干の魚吹八幡神社(うすき)が遺称地です。

ヒボコと伊和大神の国争い


写真左から銅剣・銅鐸・銅矛複製 荒神谷博物館

ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命(アシハラシノミコト)に土地を求めたが、海上しか許されなかった。
ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。
葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘(いいぼのおか)に上がった。
葦原志挙乎命(アシハラシノミコト)とヒボコが志爾蒿(シニダケ=藤無山)[*6]に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。

その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。

ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を占領した。
神前郡多駝里粳岡は伊和大神とヒボコ命の二柱の神が各々軍を組織して、たがいに戦った。その時大神の軍は集まって稲をついた。その粳が集まって丘とな った。

アメノヒボコは、とおいとおい昔、新羅(しらぎ)という国からわたって来ました。

日本に着いたアメノヒボコは、難波(なにわ=現在の大阪)に入ろうとしましたが、そこにいた神々が、どうしても許してくれません。
そこでアメノヒボコは、住むところをさがして播磨国(はりまのくに)にやって来たのです。
播磨国へやって来たアメノヒボコは、住む場所をさがしましたが、そのころ播磨国にいた伊和大神(いわのおおかみ)という神様は、とつぜん異国の人がやって来たものですから、
「ここはわたしの国ですから、よそへいってください」
と断りました。

ところがアメノヒボコは、剣で海の水をかき回して大きなうずをつくり、そこへ船をならべて一夜を過ごし、立ち去る気配がありません。その勢いに、伊和大神はおどろきました。

「これはぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。はやく土地をおさえてしまおう。」

大神は、大急ぎで川をさかのぼって行きました。そのとちゅう、ある丘の上で食事をしたのですが、あわてていたので、ごはん粒をたくさんこぼしてしまいました。そこで、その丘を粒丘(いいぼのおか)と呼ぶようになったのが、現在の揖保(いぼ)という地名のはじまりです。

一方のアメノヒボコも、大神と同じように川をさかのぼって行きました。
二人は、現在の宍粟市(しそうし)あたりで山や谷を取り合ったので、このあたりの谷は、ずいぶん曲がってしまったそうです。さらに二人は神前郡多駝里粳岡(福崎町)のあたりでも、軍勢を出して戦ったといいます。
二人の争いは、なかなか勝負がつきませんでした。
「このままではまわりの者が困るだけだ。」
そこで二人は、こんなふうに話し合いました。
「高い山の上から三本ずつ黒葛(くろかずら)を投げて、落ちた場所をそれぞれがおさめる国にしようじゃないか。」

二人はさっそく、但馬国(たじまのくに)と播磨国の境にある藤無山(ふじなしやま)[*6]という山のてっぺんにのぼりました。そこでおたがいに、三本ずつ黒葛を取りました。それを足に乗せて飛ばすのです。
二人は、黒葛を足の上に乗せると、えいっとばかりに足をふりました。
「さて、黒葛はどこまで飛んだか。」と確かめてみると、
「おう、私のは三本とも出石(いずし)に落ちている。」とアメノヒボコがさけびました。
「わしの黒葛は、ひとつは気多郡(けたぐん)、ひとつは夜夫郡(やぶぐん)に落ちているが、あとのひとつは宍粟郡に落ちた。」
伊和大神がさがしていると、「やあ、あんな所に落ちている。」とアメノヒボコが指さしました。
黒葛は反対側、播磨国の宍粟郡(しそうぐん)に落ちていたのです。
アメノヒボコの黒葛がたくさん但馬に落ちていたので、アメノヒボコは但馬国を、伊和大神は播磨国をおさめることにして、二人は別れてゆきました。
ある本では、二人とも本当は藤のつるがほしかったのですが、一本も見つからなかったので、この山が藤無山と呼ばれるようになったと伝えられています。

その後アメノヒボコは但馬国で、伊和大神は播磨国で、それぞれに国造りをしました。アメノヒボコは、亡くなると神様として祭られました。それが現在の出石神社のはじまりだということです。


  • *6志爾蒿(シニダケ=藤無山・ふじなしやま)宍粟市と養父市の播・但国境にあるある山。標高は1139.2m。若杉峠の東にある、大屋スキー場から尾根筋に登るルートが比較的平易だが、ルートによっては難路も多い、熟達者向きの山であります。尾根筋付近は植林地となっています。[*6]扶余…紀元前三世紀から現在の中国吉林市付近にあった最も早くからあった国家。五世紀末に高句麗に降伏して滅亡。[*7]『三国史記』…高麗の編纂した高句麗・百済・新羅の史書。1145年に成立。朝鮮における現存最古の体系的な史書。
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