但馬の神社創建年代

『国司文書 但馬故事記』(以下、但記)記載神社を創立年代順に並べてみた。

年代社名所在地祭神
第1代神武天皇御世大歳神社二方美方郡新温泉町居組主祭神 大年神、配祀神 御年神 若年神(但記 大歳神)
伊曽布いそう神社七美美方郡香美町村岡区味取保食神(但記 伊曽布魂命)
小代おじろ神社美方郡香美町小代区秋岡天照皇大神(但記 牛知御魂命・蒼稲魂命)
〃神武天皇3年8月小田井県神社 城崎 兵庫県豊岡市小田井町国作大己貴命くにつくりおおなむちのみこと(但記 上座 国作大己貴命、中座 天照国照彦天火明命、下座 海童神)
〃6年3月御出石みいずし神社出石兵庫県豊岡市出石町桐野日矛ひぼこ神(但記 国作大巳貴命、御出石櫛甕玉命)
 〃9年10月気立けだつ神社(現 気多けた神社)気多兵庫県豊岡市日高町上郷 国作大己貴命
 〃佐久神社兵庫県豊岡市日高町佐田 佐久津彦命(佐々前県主)
 〃御井みい神社兵庫県豊岡市日高町土居主祭神 御井神、配祀神 菅原道真(但記 御井比咩命)
〃15年8月夜父坐神社(養父やぶ神社)兵庫県養父市養父市場主祭神 倉稲魂命 配祀神 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命

(但記 上座 大巳貴命、中座 蒼稲魂命・少彦名命、下座 丹波道主命・船穂足尼命)

浅間せんげん神社養父兵庫県養父市浅間木花開那姫命(但記 天道姫命)
かづら神社(不明)兵庫県養父市浅間天火明命
御井神社養父市大屋町宮本御井命(但記 御井比咩命)
第4代懿徳いとく天皇佐伎都比古阿流知命さきつひこあるちのみこと神社 養父朝来市和田山町寺内(但記 養父郡坂本花岡山)佐伎都比古命・阿流知命
〃33年6月亀谷宮(久麻神社)城崎兵庫県豊岡市福田味饒田命(小田井県主)
第5代孝昭天皇80年4月与佐伎神社豊岡市下鶴井主祭神 依羅宿禰命、配祀神 保食命(但記 小田井県主 与佐伎命)
第6代孝安天皇67年9月布久比神社豊岡市栃江岩衡別命(但記 小田井県主 布久比命)
第7代孝霊天皇40年9月伊豆志坐神社(出石いずし神社)出石兵庫県豊岡市出石町宮内伊豆志八前大神

天日槍命

〃62年7月耳井神社城崎豊岡市宮井御井神(但記 小田井県主 耳井命)
第8代孝元天皇32年10月諸杉もろすぎ神社〃 内町多遲摩母呂須玖神(但記 天諸杉命、亦の名 多遲摩母呂須玖神、但馬諸助)
 〃56年6月小江おえ神社城崎 兵庫県豊岡市江野豊玉彦命但記 大巳貴命・小田井県主 小江命)
第10代崇神天皇10年9月粟鹿あわが神社朝来朝来市山東町粟鹿日子坐王(但記 彦坐命・息長水依姫命)
赤渕神社朝来市和田山町枚田赤渕足尼命 配祀神 大海龍王神 表来大神(但記 赤渕宿祢命)
鷹貫たかぬき神社気多豊岡市日高町竹貫鷹野姫命(但記 当芸利彦命)
久流比くるい神社城崎豊岡市城崎町来日闇御津羽神(但記 来日足尼命)
〃28年4月美伊神社美含美方郡香美町香住区三川主祭神 美伊毘売命、配祀神 美伊毘彦命(但記 八千矛神、美伊比咩命、美伊県主 武饒穂命)
第11代垂仁天皇11年11月和奈美神社養父養父市八鹿町下網場主祭神 大己貴命、配祀神 天温河板誉命(但記 天湯河板挙命)
第14代仲哀天皇2年須義神社出石兵庫県豊岡市出石町荒木由良度美神(但記 須義芳男命)
気比けい神社城崎豊岡市気比 主祭神 五十狭沙別命、配祀神 神功皇后 仲哀天皇
神功皇后元年5月水谷神社養父養父市奥米地天照皇大神(但記 丹波道主命)
〃8年6月二方ふたかた神社(古社地)二方美方郡新温泉町清富但記 美尼布命
第15代応神天皇元年7月宇留波神社(宇留破神社)養父養父市口米地不詳(但記 養父県主 宇留波命)
第16代仁徳天皇2年3月葦田神社気多豊岡市中郷天麻比止都祢命(但記 天目一箇命)同神
楯縫神社豊岡市鶴岡彦狭知命
井田神社主祭神 倉稲魂命、配祀神 誉田別命 気長足姫命(但記 石凝姥命)
日置神社豊岡市日高町日置天櫛耳命(但記 櫛玉命)
陶谷神社(須谷神社豊岡市日高町藤井句々迺智命(但記 野見宿禰命・武碗根命)
〃6年4月日出神社出石兵庫県豊岡市但東町畑山多遲摩比泥神(但記 日足命)
〃15年4月多他神社七美美方郡香美町小代区忠宮主祭神 素盞鳴尊、配祀神 大田多根子命 埴安命(但記 多他毘古命)
第17代反正天皇2年3月志都美しつみ神社(黒野神社へ合祀)七美板仕野丘(美方郡香美町村岡区村岡)(但記 志津美彦命)
第18代履中天皇海神社(絹巻神社)城崎豊岡市気比字絹巻主祭神 天火明命、配祀神 海部直命 天衣織女命(但記 海部直命。のち上座 海童神、中座 住吉神、下座 海部直命・海部姫命)
第20代安康天皇2年6月志都美神社(黒野神社へ合祀)七美萩山丘(美方郡香美町村岡区村岡)但記 志都美若彦命
第21代雄略天皇2年8月石部いそべ神社出石兵庫県豊岡市出石町下谷奇日方命(但記 石部臣命)
西刀せと神社城崎豊岡市瀬戸西刀宿祢、配祀神 稲背脛命
〃4年9月三野みの神社気多豊岡市日高町野々庄師木津日子命(但記 天湯河板拳命)
神門かんと神社気多豊岡市日高町荒川主祭神 大国主命、配祀神 武夷鳥命 大山咋命(但記 鵜濡渟命)
第22代清寧天皇5年6月桑原神社美含豊岡市竹野町桑野本保食神仁布命(但記 久邇布命)
第25代武烈天皇3年5月多麻良木神社(玉良木たまらぎ神社)気多豊岡市日高町猪爪彦火々出見尊(但記 大荒木命、亦名 玉荒木命、建荒木命)
〃7年5月桃嶋神社(桃島神社)城崎豊岡市城崎町桃島主祭神 大加牟豆美命、配祀神 桃島宿祢命 雨槻天物部命(但記 桃嶋宿祢命・両槻天物部命)
第26代継体天皇11年3月桐野神社出石豊岡市出石町桐野倉稲魂命(但記 鴨県主命)
第29代欽明天皇25年10月物部神社(韓國神社)城崎豊岡市城崎町飯谷物部韓国連命
〃33年3月佐受さうけ神社美含美方郡香美町香住区米地主祭神 佐受主命、配祀神 佐受姫命(但記 佐自努命)
第30代敏達天皇3年7月高阪神社(高坂神社)七美美方郡香美町村岡区高坂高皇産霊尊(但記 彦狭島命)
〃14年5月名草神社養父養父市八鹿町石原主祭神 名草彦命、配祀神 日本武尊 天御中主神 御祖神 高皇産靈神 比売神 神皇産霊神
第31代用明天皇2年4月朝来石部神社(石部いそべ神社)朝来朝来市山東町滝田大己貴命(但記 櫛日方命)
第33代推古天皇15年10月大与比神社養父養父市三宅主祭神 葺不合尊、配祀神 彦火々出見尊 玉依姫命 木花開耶姫命(但記 大与比命)
〃34年10月中嶋神社出石兵庫県豊岡市三宅田道間守命
第34代舒明天皇3年8月山ノ神社(山神社)豊岡市日高町山宮主祭神 句々廼馳命、配祀神 大山祇神 埴山姫神 倉稲魂命 保食神 奥津彦神 奥津姫神 櫛稲田姫神 品陀和気命 速素盞鳴命(但記 五十日帯彦命)
第36代孝徳天皇大化3年3月兵主ひょうず神社朝来朝来市山東町柿坪大己貴神(但記 素盞嗚命・天砺目命)
佐嚢さの神社朝来市佐嚢須佐之男命(但記 道臣命・大伴宿祢)
伊由神社朝来市伊由市場少彦名命(但記 伊由富彦命、亦名 伊福部宿祢命)
足鹿あしか神社朝来市八代道中貴命(但記 伊香色男命)
〃7月黒野神社七美美方郡香美町村岡区村岡主祭神 天御中主命、配祀神 天津彦々瓊々杵尊 志津美下大神(但記 天帯彦国押人命)
大家神社二方美方郡新温泉町二日市大己貴命(但記 彦真倭命)
第40代天武天皇白鳳2年8月椋橋むくばし神社七美美方郡香美町香住区小原伊香色手命(但記 伊香色男命)
〃白鳳3年3月深坂神社城崎 兵庫県豊岡市三坂武身主命(またの名、水先主命・建日方命)
〃白鳳3年5月酒垂さかだれ神社兵庫県豊岡市法花寺酒解子神・大解子神・小解子神
   〃御贄みにえ神社(御食津神社)兵庫県豊岡市三江豊受姫命(但記 保食神)
 〃白鳳3年6月久々比神社城崎 兵庫県豊岡市下宮久々比命(城崎郡司)
重浪しぎなみ神社豊岡市畑上物部韓国連神津主命(但記 城崎郡司 物部韓国連神津主)
佐野神社 兵庫県豊岡市佐野狭野命(小田井県主)
女代めじろ神社 〃豊岡市九日市上町主祭神 天御中主神、配祀神 神産巣日神 高皇産霊神(但記 大売布命)
穴目杵あなめき神社豊岡市大篠岡船帆足尼命(但記 黄沼前県主 穴目杵命)
〃7月刀我石部とがいそべ神社(石部神社)朝来朝来市和田山町宮主祭神 姫蹈咩五十鈴姫命、配祀神 天日方奇日方命 五十鈴姫命(但記 誉屋別命)
〃白鳳12年4月兵主神社城崎豊岡市赤石速須佐之男命
大生部大兵主おおいくべだいひょうず神社(大生部兵主神社)出石豊岡市但東町薬王寺主祭神 武速素盞鳴命、配祀神 武雷命(但記 素盞鳴命、武雷命、斎主命、甘美真手命、天忍日命)
〃10月屋岡神社養父養父市八鹿町八鹿主祭神 天照大日留女命、配祀神 誉田別命(但記 武内宿禰命)
保奈麻神社(春日神社?)養父市八鹿町大江主祭神 彦火瓊々杵命、配祀神 天津児屋根命(但記 紀臣命)
〃白鳳14年8月[木蜀]椒はじかみ神社気多豊岡市竹野町椒咩椒大神(但記 大山守命)
〃9月鷹野神社美含豊岡市竹野町竹野主祭神 武甕槌命、配祀神 天穂日命 天満大自在天神 須佐之男命 建御雷命 伊波比主命 五男三女神(但記 当芸志毘古命・竹野別命)
第41代持統天皇3年7月久刀寸兵主くとすひょうず神社気多豊岡市日高町久斗大国主尊 配祀神 素盞鳴尊(但記 素盞鳴尊
高負たこう神社豊岡市日高町夏栗白山比売命 配祀神 菊々理比売命(但記 大毅矢集連高負命)
ノ神社(戸神社)豊岡市日高町十戸主祭神 大戸比売命 配祀神 奥津彦命 品陀和気命 火結命(但記 田道公)
売布めふ神社豊岡市日高町国分寺大売布命
〃8月桐原神社養父朝来市和田山町室尾主祭神 応神天皇、配祀神 経津主命(但記 経津主命)
更杵さらきね村大兵主神社(更杵神社)朝来市和田山町寺内但記 武速素盞嗚神 武甕槌神 経津主神
第42代文武天皇庚子4年3月伊智神社気多豊岡市日高町府市場神大市姫命(但記 大使主命 商長首宗麿命)
〃10月手谷神社出石豊岡市但東町河本主祭神 埴安神、配祀神 倉稲魂命 大彦命(但記 大彦命)
〃大宝元年9月春木神社(春来神社)七美美方郡新温泉町春来主祭神 天照皇大神、配祀神 少彦名神 伊弉諾命 大己貴神 伊弉冊命(但記 大山守命)
〃慶雲3年7月伊伎佐神社美方郡香美町香住区余部伊弉諾尊(但記 彦坐命 五十狭沙別命 出雲色男命)
いかづち神社気多豊岡市佐野主祭神 大雷神、配祀神 須佐之男命 菅原道真(但記 火雷神、亦名 別雷神)
〃慶雲4年6月法庭のりば神社七美美方郡香美町香住区下浜武甕槌命(但記 大新川命)
第43代元明天皇和銅5年7月倭文しどり・しずり神社朝来市生野町円山天羽槌命(但記 天羽槌雄命)
第44代元正天皇養老3年10月伊久刀神社養父豊岡市日高町赤崎主祭神 瀬織津姫神、配祀神 大直毘神(但記 雷大臣命)
兵主神社豊岡市日高町浅倉大己貴命(但記 
〃養老7年3月盈岡みつおか神社養父朝来市和田山町宮内主祭神 誉田別命、配祀神 息長足姫命 武内宿禰(但記 波多八代宿祢命)
第45代聖武天皇天平2年3月夜伎坐山神社(山神神社)養父市八鹿町八木主祭神 伊弉冊尊、配祀神 忍穂耳尊 瓊々杵之尊 速玉男命 事解男命(但記 五十日足彦命)
杜内もりうち神社養父市森杜内大明神(但記 大確命)
井上神社養父市吉井主祭神 素盞鳴命、配祀神 稲田姫命(但記 麻弖臣命・吉井宿祢命)
〃天平18年12月兵主神社城崎豊岡市山本主祭神 速須佐男命、配祀神 高於加美神(但記 素盞嗚神 武甕槌神)(赤石から遷す)
〃天平19年4月小坂神社出石豊岡市出石町三木

豊岡市出石町森井

小坂神(但記 天火明命)
〃天平59年3月須流神社出石豊岡市但東町赤花主祭神 伊弉諾命、配祀神 伊弉冊尊(但記 慎近王)
第46代孝謙天皇天平勝宝元年6月大炊山代神社(思往おもいやり神社)気多豊岡市日高町中思兼命(但記 天砺目命)
坂蓋神社(坂益さかます神社)養父市大屋町上山正勝山祇命(但記 大彦命)
〃天平宝字2年3月色来いろく神社美含豊岡市竹野町林国狹槌命(但記 大入杵命 亦名 大色来命)
第47代淳仁天皇天平宝字5年8月男坂おさか神社養父養父市大屋町宮垣男坂大神(但記 天火明命)
第49代柏原天皇延暦3年6月比遅ひじ神社出石豊岡市但東町口藤多遲摩比泥神(但記 味散君)
佐々伎神社豊岡市但東町佐々木少彦名命(但記 佐々貴山公)
第52代淳和天皇天長5年4月等餘とよ神社(等余神社)七美美方郡香美町村岡区市原主祭神 豊玉姫命、配祀神 天太玉命 月讀命(但記 等餘日命)
第53代深草天皇承和12年8月小野神社出石豊岡市出石町口小野天押帯日手命(但記 天帯彦国押人命)同神
〃承和16年8月安牟加あむか神社出石豊岡市但東町虫生天穂日神(但記 物部大連十千根命)
第55代文徳天皇仁寿2年7月阿古谷あこや神社(森神社)美含豊岡市竹野町轟主祭神 大山祇命 配祀神 八幡大神(但記 彦湯支命)
第56代陽成天皇3年4月丹生にゅう神社美方郡香美町香住区浦上主祭神 丹生津彦命、配祀神 丹生津姫命 吉備津彦命(但記 建額明命 吉備津彦命 高野姫命)
   

但馬西部の神社と歴史を調べ中

但馬たじまの大川である円山まるやま川流域にある朝来市・養父市・豊岡市に比べて、但馬の西部は、郷土に半世紀生きてきて、知らないことがまだまだ多い。円山川流域以外の地域は、それぞれの川と地形による個々のはじまりと文化がある。なかでも新温泉町と美方郡香美町村岡区・小代区(養父市の鉢伏高原もかつては七美郡)は、山陰と山陽を分ける中国山地の東端にあたる。

現在の新温泉町は、市町村合併で海岸部の浜坂町と山間部の温泉町が合併し新温泉町となった。それは、かつて縄文時代よりももっともっと何万年も前に、朝鮮半島やシナ大陸と比べてももっと古い時代から人は暮らしていたことが分かり始めている。もっと温暖だった。

やがて、日本列島にクニが誕生する過程で、二方国として、但馬国に加えられるまで独立した国だったエリアであり、のち但馬国二方郡となる。とくに冬は豪雪に見舞われる山間地域の旧温泉町と、旧浜坂町の海岸部は日本海のリアス式海岸による漁村で、狭い平地を峠道が結ぶ。東隣の香美町村岡区とともに、雪に閉ざされ、冬は灘や全国に出稼ぎとして酒造りに従事する但馬杜氏のメッカで、年々高齢化や酒造業界の変化により減少しているが、その人数は全国四大杜氏といわれるほど多い。また神戸牛、松阪牛などの高級和牛の素牛、但馬牛の産地である。つまり但馬が誇る二大産業を中心的に担ってきたのが但馬西部の山間地なのである。

さて、クニが誕生し、しばらくの間、因幡・但馬とは別になぜ小さな二方国が存在したのだろうか。ここが知りたいから新温泉町に惹かれるのだ。

二方国(のち二方郡、今の新温泉町)は、但馬の他の旧7郡とは異なる成り立ちの歴史を持っている。全国を統一し地方行政区分にした律令国が誕生したのは、奈良時代の大化の改新(645)または本格的には大宝律令(701)とされているが、日本の古代には、令制国が成立する前に、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。

『国司文書・但馬故事記』には、「人皇1代神武天皇5年8月(推定BC656) 若山咋命の子、穂須田大彦名を以て、布多県国造(のち二方と改める)と為す」とあり、奈良時代より1200年遡る弥生時代には二方国をはじめ但馬には国や県が成立していた。そして村に神社が祀られていたのである。ではなぜ、このエリアだけが因幡と但馬ではなく、小さいのに二方国として独立していたのか。それは、人々の往来を阻む幾つもの山々に囲まれていることがその要因であることは、誰もが頷けることである。

主要国道の国道9号線は、京都市堀川五条で国道1号線から分岐し、山口県下関市までを結ぶ旧山陰道であるが、兵庫県の区間は70.1 kmと最も短いのに最大の交通の難所であったことは、明治に旧山陰道である山陰本線敷設で最後までこの区間が残っていたことでわかる。兵庫県養父市から鳥取県との県境の新温泉町までは、最長の蒲生トンネル・春来トンネル・但馬トンネルなどいくつもの長いトンネルで結ばれている。

国道を通過していると気づかないのが、神社(村社)を捜すと分るのである。国道から谷やかなり高地に入ると、地元に住んでいてもまったく未踏の高地にたくさんの集落があり、田が広がる世界が目に飛び込んでくることに驚くのである。そこはまたかつての旧山陰道であったものもある。車でもくねくねと細い山道で時間が掛かるのに、昔の人々はもちろん獣道のような山谷を歩いて、山林を切り開き、道を作り、田畑を開いて定住していったことに只々敬意を抱くのである。開拓者(パイオニア)といえばアメリカ大陸を想像するかも知れないが、我々のルーツである人々は、但馬の山間部を並々ならぬ苦労をして切り開き、新天地を夢見た偉大なる開拓者だったのだ。

よくそうした集落は平家の落人集落だといい、香美町余部の御崎や竹野町など、丹後半島にも平家の落人伝承が残る。中にはそういた歴史もあったかもしれないが、しかし、例えば但馬の高地や山間集落において、御崎でも平家の落人による以前から切り開かれていたことは、『国司文書・但馬故事記』の年代を見れば崇神天皇10年(推定BC91)に伊岐佐山(香美町香住区余部の伊岐佐神社)が記されており明らかだ。

新温泉町の神社の特徴

数年前に式内社と兵主神社を主に巡ったが、二方郡は式内社が但馬の他の旧7郡と比較して極端に少ない。
気多21、朝来9、養父30、出石23、城崎21、美含12、七美10、二方5(祭神の座数による)『国司文書別記 但馬郷名記抄 解説 吾郷清彦』
式内社では最下位であるが、ところが式外社では52社、式内社との合計57社と、旧8郡の中で最も多く、神社総数では第三位に上っている。これは国府のある気多郡(今の豊岡市日高町)から遠隔であったためと思われる。吾郷氏は「かつて二方郡が但馬国府より僻遠の地に在り、朝廷に対しあまり功献を示さなかったという事由によるものであろうか。これに対し式外社が圧倒的に多い。したがって郡としては、それだけ神社分布の密度が高いわけである」としている。
お隣の旧七美郡は、式内社8、式外社11(合計19)、美含郡式内社10、式外社30(合計40)であり、つまり、新温泉町(二方郡)の合計57社は、但馬で最も神社の数が多い。神社信仰の深い土地柄だったといえるのである。それは二方国の祖が他の7郡が丹後(当時は但馬・丹後も丹波に含まれた)の天火明命にはじまるのに対し、出雲国の素盞鳴尊が開いたとあることからはじまることからも、出雲国国家連合というべき出雲系の最東端のクニであったのだ。

私が神社を巡る目的は、神社そのもの以外の目的があるからである。その神社の由来を調べることで、その地域の歴史を調べたいからである。神社の外見や建築、鳥居、狛犬、拝殿・本殿など今の様式が造られるようになったのは、そもそもそこにある神社のルーツから言えばだいぶ後のことで、今の神社建築は、せいぜい寺社建築が発達した鎌倉期以降の神社の姿なのである。それとして研究するとして、その神社は何のために建てられたのかは、まったく別の意義があり、本題なのだ。神体山や磐など自然神や祖神・国主・郡主などの古墳のそばに祀られた神どころなのであり、各集落の起こりが見えてくるランドマークが神社なのだ。長い但馬トンネル・春来トンネルや人が定住し村が生まれてそこに氏神が祀られる。100年、1000年で物事を見ては間違う。数千年から何万年前の縄文・弥生時代というと、原始的なイメージを持ってしまうが、クニや村が生まれ、神社の原型である神籬、神場は、すでに村に祀られていたのであり、約2600年もの間、何も変わらず現在も守られてきたことが、日本の歴史を語り継いでいるランドマークなのだ。

新温泉町の『国司文書・但馬故事記』記載の神社

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式内社の廃絶と論社

延喜式神名帳に記載されている神社を式内社というが、平安期に作成されたその記載から、江戸期にはすでにその神社が廃絶となったり、その論社であるとする神社が多々ある。

当時、延喜式に記載された各地の神社が指定された経緯は、当時のその土地の歴史を知る上で欠かせない貴重な証であることには変わりない。

中でも厄介なのが、大和国(奈良県)と山城国(今の京都府南部)。ともに平城京・平安京など歴史的に大きな都が置かれた地域ではあるが、幾多の戦乱などにより、かつてそこにあったであろう式内社が廃絶したり、不詳になっている社が多いのも、大和・山城である。

したがって、その土地々々で我が村の神社こそ式内○○であるという神社がある。それを論社という。

廃絶して、旧社地は分かっているが、近隣の神社に遷座されたり、合祀されて残っているケースもあれば、まったくもって、論拠が不明なケースも有るのだ。

疑問が起きるのは、論社がいまその場所にあることがどうかではなく、歴史を知る上では、延喜式が作成された当時には式内社がどこに置かれていたのか?なのである。日本では神社こそ政治(まつりごと)の中心であり、今風にいえば役所であり行政であったのだ。政は、祀り、祭りとも同義で、要するに祭りは政ごとなのだった。単純に考えてみれば、もうアメリカナイズから開放されるべきであるといえる。私もビートルズや西洋かぶれで育った世代だが、だんだん分かってきたのは、日本の伝統文化は世界的に見ても最古の国家で、特筆すべき価値が有ることに気づいたのだ。その地域は当時は村があり、都として重要な場所であり発展していたことは間違いないからだ。論社がいまどこかは意味があるのだろうかと思うのであるが、論社があらわれるにはそれなりにいろいろな理由があるだろうし、すでに分からなくなってしまっているのである。

今日ではITの進化で、Googlemapに式内社を記録し、最短でまわるルートを表示することで気づくこともある。式内社の論社が氾濫する川岸で不自然であったり、他の式内社と近すぎると気づくこともある。

グローバル社会こそ、日本の歴史を見直し、知らなければ日本は世界に発信できないし、戦後なんともったいないことをしてきたんだろう。

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七美郡(旧村岡、美方町)の式内神社

[catlist categorypage=”yes”] 式内社を訪ねることはかつての村々の歴史を知る貴重な手がかりだ。

黒野神社 (式内社 志都美神社)と伊曽布神社を訪ねた。(神社についてはライブラリーhttps://jinja.kojiyama.net/

どちらも旧郷名神社である。志都美は七美郷、伊曽布は射添郷。万葉仮名であり、志都美、伊曽布の漢字自体に意味はないものである。

美方郡(七美郡、二方郡)は中国山地の東端に当たり山陰道最大の山岳地帯で難所だ。また但馬牛の産地で但馬杜氏のメッカである。現在は国道9号が改修され長いトンネルが貫きスピードアップされたが、八鹿を過ぎると鳥取県までに八木谷峠(但馬トンネル)、春来峠(春来トンネル)、蒲生峠(蒲生トンネル)なそ難所多い。但馬に生まれ暮らしていてもあまり知らないだが鳥取へ一週間に一度は行く用事があるので、むしろいま興味が沸いている。

美方郡は現在でも豊岡市や養父市、朝来市よりも学校、医療、仕事や買い物は鳥取市内が多い。

桜井勉著「校補但馬考」によれば、

七美郡

兎束 七美 小代 射添 駅家 以上五郷
延喜式神名帳 七美郡十座、弁小
多他神社 小代神社二座 志都美神社二座
伊曽布神社 等余神社 高坂神社 葛野神社 春木神社
今延喜式を考えるに、八座のみあり。
と書いてあるのであとの二社は明治にはすでに不明。

七美郡も現在の小学校区が旧村ごとに名前を残している。七美郡と二方郡が合併し美方郡に、駅家郷は、養父市関宮町の中心部と中瀬地区の旧郷名。兎束は福岡地区。七美郷は村岡地区。小代は香美町合併で旧美方町が小代区として復活した。

校補但馬考 但馬国の郡・郷 式内神社

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桜井勉 校補但馬考

朝来(あさご)郡

此地ニ朝來山トイウフ名所アリ、取リテ郡ノ名トセリ、俗ニハ、此郡ニイマス栗鹿ノ神、國中ノ一宮ユヘ、諸ノ神タチ、朝コトニ来タリマミエ玉フ、故に、朝來郡ト名ツケシト云ハ、憶説ナラン、スヘテ、郡郷ノ名ハ、其地名ヲ取テ名ツクルヤ、古(故)実ナリ。

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延喜式神名帳 但馬の神社

[catlist categorypage=”yes”] 神社の数は、全国およそ8万8,000社以上に上ると言われ、仏教系寺院よりも数が多く、日本で最も多い文化建造物のひとつとなります。その内、有人神社(神職者が常駐している社)は、2万社程度とも言われておりますが、実態は定かではありません。

文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」に掲載されている各都道府県別の神社の数になり、その数、8万8,585社となりますが、摂社末社を含めれば、20~30万社に上るとも言われ、神社人DBでも、ほぼ登録を終えた東京都(2,309社)や沖縄県(59社)が、それ以上の数に達していることから、約1.3~1.5倍程度のボリュームが実際には見込まれるのではないかと考えています。

ただ、非常に興味深いのが、神社の数の少ない都道府県は、

・和歌山県:熊野神社
・香川県:金刀比羅宮
・三重県:伊勢神宮
・宮崎県:高千穂
・島根県:出雲大社

といった有名な神社が存在する地域に集中しているというのがあります。これは、神社の特性として、勧請システム(他地域に引っ張ってくる)により、信仰エリアの拡大を図っていることから、オリジナルの神社が強いエリアというのは、逆に、他の信仰が入りにくいのではと考えることもできます。それは、神社が多い地域にも同様の事が伺え、新潟県、兵庫県、愛知県、福岡県といった米所として有名な産業地域若しくは、交易の中心地といった文化よりも産業発展が著しい地域の方がその数が多いという傾向を強めております。それは、こうした土地が、人と情報の流動性が激しいことの表れとみることも可能ではないかと考えられるのです。

ただ、これもあくまで指標のひとつに過ぎないので、先ずは、皆さんのご協力の元、神社人でも、こうした神社情報の体系化を進め、究極の日本の文化・歴史マップの完成に臨みたいと思っております。

-「神社人」-

兵庫県は全国でも神社が多い地域で、新潟県に次いで第二位。

神社数(文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」より)

三千社以上は

新潟県 4,933
兵庫県 4,243
愛知県 3,885
福岡県 3,806
岐阜県 3,440
千葉県 3,391
福島県 3,170
静岡県 3,070

の順です。

かつての「延喜式神名帳」の旧国別で、但馬国の式内社数の多さに驚く。

全国には大492座、小2604座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。

 新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

 但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

 大小合わせて131座というのは、例えば

 大和國:286座 大128 小158
 伊勢國:253座 大14 小235
 出雲国:187座 大2 小185
 近江国:155座 大13 小142
※但馬国:131座 大18 小113
 越前國:126座 大8 小118

近隣で比べると、

 丹波国:71座 大5 小66
 丹後國:65座 大7 小58
 若狭国:42座 大3 小14
 因幡國:50座 大1 小49
 播磨国:50座 大7 小43

となっているので遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。

桜井勉 校補但馬考

朝来(あさご)郡

此地ニ朝來山トイウフ名所アリ、取リテ郡ノ名トセリ、俗ニハ、此郡ニイマス栗鹿ノ神、國中ノ一宮ユヘ、諸ノ神タチ、朝コトニ来タリマミエ玉フ、故に、朝來郡ト名ツケシト云ハ、憶説ナラン、スヘテ、郡郷ノ名ハ、其地名ヲ取テ名ツクルヤ、古(故)実ナリ、

倭名類聚抄 郷八
山口 桑市 伊田 賀都(かつ) 東河(とが) 朝来 栗賀(あわが) 磯部
村数七十九
延喜式神名帳曰九座 大一座、小八座
栗賀神社(名神大) 朝来石部(あさごのいそべ) 刀我石部(とがのいそべ) 兵主神社 赤渕 伊由 倭文(しとり) 足鹿 佐嚢(さな)

養父(やぶ)郡

倭名類聚抄 郷十
糸井 石禾(いさわ) 養父 軽部 大屋 三方 遠屋 養耆(やぎ) 浅間 遠佐(おさ)
延喜式神名帳曰三十座 大三座、小二十七座
夜夫坐(やぶにいます)五座(名神大二座、小三座) 宇留波 水谷(名神大) 浅間 屋岡 伊久刀 楯縫 兵主神社 男坂 伊伎都比古阿流知命神社二座 井上(いのへ)二座 手谷 坂盖(さかき) 保奈麻 葛(たづ) 大輿比 桐原 盈岡(みつおか) 更杵村大兵主神社 御井 名草 杜内 和奈美 夜伎村坐山(やきむらにすの)

出石(いずし)郡

倭名類聚抄 郷七
小坂 安美(あみ) 出石 室野 埴野 高橋 資母
村数七十八

延喜式神名帳曰二十三座 大九座、小十四座
伊豆志座神社八座(並名神大) 御出石神社(名神大) 桐野神社 諸杉神社 須流神社 佐々伎神社 日出神社 須義神社 小野神社 手谷神社 中島神社 大生部兵主神社 阿牟加神社 比遅神社 石部神社 小坂神社

気多(けた)郡

倭名類聚抄 郷八
太多 三方 楽前(ささのくま) 高田 日置 高生(たかふ) 狭沼(さの) 賀陽(かや)
村数七十四(佐野含む)

延喜式神名帳曰二十一座 大四座、小十七座
多麻良伎神社 気多神社 葦田神社 三野神社 売布神社 鷹貫神社 久斗寸兵主神社 日置神社 楯縫神社 井田神社 思徃(おもひやり)神社 御井神社 高負神社 佐久神社 神門(かんと)神社 伊智神社 須谷(藤井)神社 山神社(名神大) 戸(と)神社(名神大) 雷(いかづち)神社(名神大) [木蜀]椒(ほそき)神社(名神大)

城崎郡

倭名類聚抄 郷六
新田10 城崎14(佐野含む) 三江 奈佐 田結 餘部

延喜式神名帳曰二十一座、大一座、小二十座
物部神社 久麻神社 穴目杵(あなめき)神社 女代神社 輿佐伎神社 布久比神社 耳井神社 桃島神社 兵主神社 深坂(ふかさか)神社 兵主神社二座 気比神社 久流比神社 重浪(しぎなみ)神社 縣神社 酒垂神社 西刀(にしと)神社 海神社(名神大)

美含(みぐみ)郡

風土記(古老伝)
郷十三、神社五所
倭名類聚抄 郷六 

佐須 竹野(たかの) 香住 美含(みぐみ) 長井 餘部
村数 佐須二十 竹野二十九 香住八 長井十一 餘部二

延喜式神名帳曰十二座 井小
佐受神社 鷹野神社 伊伎佐神社三座
法庭(のりば)神社 美伊神社 椋橋(たらはし)神社
阿故谷神社 桑原神社 色来(いろく)神社 丹生(にふ)神社

二方(ふたがた)郡

倭名類聚抄 郷九 村数五十四
久斗7 二方5 田公(たきみ)7 大庭7 八太(はだ)11 陽口? 刀岐? 熊野? 温泉(ゆ)16

延喜式神名帳曰五座井小
二方神社 大家神社 大歳神社 面沼(めぬ)神社 須加(すか)神社

七美(しつみ)郡

倭名類聚抄 郷五 村数七十三
兎束(うつか)14 七美14 小代20 射添(いそふ)13 駅家12
延喜式神名帳曰十座 井小
多他神社 小代神社二座 志都美神社二座 伊曾布神社 等余(とよ)神社 高坂神社 黒野神社 春木神社

越前(福井県嶺北部)の秦氏系神社

今庄町の新羅神社(2)

越前今庄町の新羅神社については既に本書にて記述したが(本誌九十二.九十六号)、その後訪問を重ねている間に明らかになった事柄を補足したい。

何回も訪れて感じたことは、「今庄町を含むこの地域一帯は古代出雲地方と同様、日本海流に乗って朝鮮半島や大陸から渡来した多くの人々が居住していた。特に新羅系の人々のそれが多かった。従って、今庄町の新羅神社や白髪神社はその人々が祖神廟として祭った社が後世に残ったのではないだろうか」ということである。もしそうだとすれば、神社は”しらぎ神社”と呼ばれて崇拝されてきたのではあるまいか。

越前地方は、近江・北陸地方を含む継体天皇の支持基盤で あった地方であり、応神天皇と係りの深い敦賀、或いは継体天皇と係りのある越前地方は、半島や大陸との往来で渡来文 化が盛えた同一文化圏であった。継体天皇の基盤であった三国湊は今庄から流れ出る日野川の河港に当る。かつては三国湊と福井武生にあった府中を結ぶ舟運が盛んであり、鯖江には白鬼女津(しらきじょのつ)があり、北陸道の要所であった。継体天皇の母・振姫も今庄から木ノ芽峠を越えて近江との往還をしたであろう。そして、この地方は継体天皇を中心とする還日本海文化があった(『今庄の歴史探訪』、『福井県神社誌』ほか)。

(二)新羅神社の由来

『今庄町誌』によれば『新羅神社縁起』として次のように説明している。

「清和天皇の御宇貞観元己卯年(八五九)に智証大師が大唐国から帰朝の途、海上で暴風に遭い船はまさに覆没しようとするので、長い時刻を素盞鳴尊に祈請していると空中から御声があり”智証憂うること勿れ、間もなく風波は鎮靜するであろう”と宣わせ給うのである。智証は不審に思い”斯く宣わせ給うのは、何神なる哉願くば教え給え”と申し上げると、やおら御影を現し”吾こそは往昔のこと、新羅国征服の神なり”と宣わせ給うのである。・・・・・・後世に至り越前国燧山に新羅大明神を建立し、御神体を素盞鳴尊となして奉還することになったのである」

『新羅神社略記』(加藤前宮司夫人よりいただいた)に、『新羅大明神縁起』によれば・・・・・・天安二年(八五八)円珍(智証大師)が高麗国の港より帰国の折、・・・・・・円珍が諸天善神に祈ったところ、一大神の姿が船上に現成し・・・・・・。後貞観元年(八五九)大師帰命観想の際、神勅によって、その大神が大和(日本)より渡った新羅国の守護神(素盞鳴命)なりとのお告を受け、自ら神影を刻んだ。その神像が今日に伝わる当社の御神体である、と説明している。

また一説には、その名から新羅三郎義光の霊を祀るとも言われているとあるが、これは後世に加わったものであろう。
更に原文をみると、

「抑此神明者御垂迹登申志新羅・百済・高麗国の崇廟之大祖に亭盤古之昔より崇敬し奉るに爰。我朝人王五十五代文徳天皇之御宇、・・・・・・円珍僧都入唐す。・・・・・・智証大師に宣旨ありて重禰て加土に求法しほまれを唐土に阿け年を経て高麗国乃湊 より帰船の折ふし・・・・・・」とある。

従って、原文によれば新羅大明神は、新羅・百済・高麗国の祖神を祭る廟であったと記しており、朝鮮半島とつながりが深いことを示している。新羅系の人々ばかりでなく、高麗系や百済系の渡来人も共に祭ったようである。

神社がある今庄町について『福井県南条郡誌』は次のように説明している。地理的には、京畿東山東海三道の諸地と北陸諸国とを連絡する咽喉の要地を占め、北陸の関門たる枢要の地域を成し交通上軍事上極めて重要の所なり。往古は叔羅駅の所在地とも称され、中古庄園の一つとして今庄と称されたものであろうか。また今庄は今城と書かれたという。

更に『福井県南条郡誌』は、白城神社について次のように記載している。白城神社は『古名考』によれば「或云白木浦の社乎、案南条郡今庄町に新羅(しらぎ)明神あり是なるべし。今庄も古く今城と書けり。此白城の誤転する乎。此町の東に川あり日野川と云此即古の叔羅河なり。叔羅は即ちしらきなるべし」

これによれば、今庄町は新羅(しらき)から白城→今城→今庄と変わってきたことになる。白城はしらぎと呼ばれたであろうし、今城はいまきからいまじょうに変わったということになる。今城(いまき)は今来の漢人を連想させる(五世紀後半の雄略天皇の時代)。

結論として、今庄町について『南条郡誌』は「要するに今庄の地は、新羅民族の移住地として開け、次いで駅伝所在の要地となった」とまとめている。

また『南条郡誌』は、信露貴彦神社の項では次のように記載している。信露貴彦神社或は堺村荒井の新羅(しらぎ)神社ならん乎。

『古名考』一説日野川の源夜叉ケ池に古へ新露貴神社あり故に此河の渡所を白鬼女村と云は信露貴彦の訛なりと云へ共然らじ。
夜叉ケ池は古くは尸羅(しら)池といわれていた。

『福井県今庄の歴史探訪』の説明によれば、今庄宿(じゅく)の神々について「三韓・新羅はわが国の弥生・古墳時代に当っており、この頃今庄へも新羅の渡来民があり、この地を開発したであろうことが推測される。新羅(シラキ)の宛字と思われる神社名や土地名が敦賀付近には多い。

例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社・白城(しろき)神社・白鬚(しらひげ)神社などである。今庄宿の新羅(しんら)神社は古くからの産土神で、江戸時代には……〈上の宮〉と称され、白鬚神社は〈下の宮〉と称された」。

いずれにせよ、古代朝鮮の新羅の民が敦賀地方から今庄に入り、日野川上流域を開発したものであろう。新羅神社や白鬚神社は渡来人の奉祀に始まる神々と関係が深いようである。中でも、当地方には秦氏が集住していたと考えられている。足羽郡や三方郡・遠敷郡に多くの秦氏の集団跡が確認されている。

荒井地区の新羅神社は現在でもしらぎ―神社と称されている。足立尚計は『日本の神々』の中で今庄宿の新羅神社をしらぎ神社であると紹介し、園城寺の「新羅善神堂」もしらぎ善神堂と紹介している。

更に『越前国古名考』は今庄の新羅神社を式内社の白城神社であるとしている。朴春日「古代朝鮮と日本の旅」では、「火燧山の嶺山(元は新羅山と呼ばれていたであろう)に新羅神社が鎮座していたが、源義仲が城を築くため臨時に小社を建てて祭神を移した。その後社殿を再建したが、小社の方は白城神社として残り、本社の方は新羅神社の名をそのまま引きついだ」と説明している。

『越前国名磧考』によれば、「当社は、往古燧山の山頂に鎮座していたが、寿永二年(一一八三)に源義仲が是に城郭を築こうとして、傍に小社を建てて遷座した。其の後、越前国を鎮定して社殿を再建し深く崇敬した」と記し、更に「天文年中(一五三二~一五五五)に郷民が協議して当今の社地に神殿を新築して、茲に神璽を遷座して以来、今に至るまで氏神として敬い奉斎している」と記している。
今庄町今庄の白鬚神社の祭神が猿田彦命・大己貴命・少彦名命であることは、当社も新羅系であったことを推測させる。

(三)白鬚(白城)神社

武内宿禰と係りの深い白鬚神社が今庄町合波にある。祭神は武内宿禰尊・天御中主神・宇賀御霊神・鵜葺草葺不合尊(うがやぶきあえず)・熊野大神・豊受大神・大己貴命・猿田彦命・春日大神・秋葉大神・金山彦命・土不合命・八幡大神・清寧天皇・吉若大子。『福井県神社誌』等で当社の由緒を調べてみると、「当社の創立の年月不祥。往昔は白城神社と称し、式内社であったという。口伝によれば、神功皇后が三韓征伐から凱旋の後、皇子(後の応神天皇)を降誕したが、皇子に飲ませる乳が足りなかったので、武内宿禰大臣が神々に祈願したところ、“越の国南端の三尾の郷(日野川の上流にある八飯・宇津尾・橋立・広野の村々)に西向の滝(高さ十二m、幅二m。信露(しろ)滝)がある。その水を乳婦に勧めよ”とのお告げがあり、武内宿禰が尋ね歩いたところ、神託通り西向の滝があり、乳婦に飲ませると神託の通りの功験があった」とある。

武内宿禰という人物は、朝鮮渡来系の豪族の共同の「父」として、朝鮮南部と倭国の大和との接点として設定されている。応神天皇が武内宿禰と共に敦賀の笥飯(けひの)大神を拝んだことなどの説話からすれば、当地方も越前の一地方として大きな一つの文化圏の中にあったと考えられる。これらの渡来系の人々は弁辰の地の倭種であろう(『清張通史』)。

当地方には、高麗系や新羅系の渡来人が混在していたのかも知れない。当地方の神社は信露貴彦・白城・新羅など、社の由緒や呼び名が同一であったことは、古代においてはこれらの地域が同一の生活圏であったことを示すものと考えられる。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)

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丹後(京都府北部)の秦氏系神社 2/2

三井寺HP  連載 > 新羅神社考 > 京都府の新羅神社(2)

京都府の新羅神社(2)

更に、北にある多久神社の北西八百m程の所の矢田の集落の西端に矢田神社がある。この北方、弥栄町との境の山上には太田南古墳群があり、平成二年(一九九〇)から六年にかけての発掘調査で、後漢時代の鏡などが出土している。平成六年の発掘では青龍三年(二三五)の年号入りの青銅鏡が発見された。年号が刻まれた鏡としては日本最古のものである(青龍三年は中国・魏の年号で、邪馬台国の女王卑弥呼が景初三年〈二三九〉に魏に朝貢した際に皇帝から下賜された鏡の可能性が強いといわれている)。

また、竹野郡網野町には銚子山古墳(弥栄町の太田古墳から五~六㎞の距離)がある。全長一九八mの前方後円墳で、日本海側に存在する古墳としては最大のもの(五世紀前半の築造)である。

丹後半島は海人族が住んでいたと思われる。その海人族は九州の豊後(大分)国とつながりが深く、いくつかの共通性が見られる。和歌山県に古代の怡土(いと)国(福岡県)に因む地名が多いのと同様であるが、これは九州にあった国の氏族が、丹後や紀伊地方へ移住した痕跡ではあるまいか。あま、大野、やさか、竹野、矢田、はた、等。

「ひじのまない」については、丹後は「比治の真名井」、豊後では国東半島の近くの速水郡日出(ひじ)町に「真那井(まない)」がある。また、丹後の伊根町の漁師の家と同じ構造の家が、豊後の南、海部(あまべ)郡に見られる。海部氏(海人族)が九州から中部地方に至る間に広く分布していたことの証拠である。なお、海部郡は紀伊や尾張にもあり、阿曇(あずみ)の海人として朝鮮半島や江南の古代海人と関係が深い。

(二)溝谷神社

溝谷神社のある場所は外(との)村といわれ、溝谷の集落から車で約十分ほど。両側は山に囲まれた谷間のようなところの道である。道路の脇にはわずかであるが田んぼが見られる。(中略)

境内地の奥にある七十~八十段の石段を登った最も高い場所に、杉や楠木の林に囲まれた神社の本殿がある。祭神は新羅(しらぎ)大明神(須佐之男命)、奈具大明神(豊宇気能売命)、天照皇大神の三神で、旧溝谷村三部落の氏神である。本殿と拝殿よりなるが、本殿は瓦屋根の覆屋内に保護されている。拝殿は入母屋造、正面は格子戸、側面は板で覆われている。本殿の扉には菊の紋章と桐の紋が彫ってあり、周辺には高欄つきの回縁がついている。古いがりっぱな建物である。(中略)

当神社の創建年代については、当神社の火災により古文書が焼失し往古の由緒は不明であるが、延喜式(九二七年)記載の神社であることや、崇神天皇の時代の四道将軍の派遣と関係があること、新羅牛頭山の素盞鳴命を祭ったということ、四道将軍の子・大矢田ノ宿禰が新羅征伐の帰途、海が荒れて新羅大明神を奉じたこと、神功皇后が新羅よりの帰途、着船したこと、などから考えれば、当社は古代から存在し、かつ新羅系渡来人と深いつながりがあったことが判る。

溝谷神社に掲げてある『溝谷神社由緒記』には次のように記載されている。

「当社は延喜式所載の古社にして、社説によれば、人皇第十代崇神天皇秋十月、将軍丹波道主命、当国へ派遣せられ、土形の里に国府を定め居住あり。或時、神夢の教あり、眞名井ノト(トはウラ又はキタとも云ふ)のヒツキ谷に山岐神(やまのかみ)あり、素盞鳴尊の孫、粟の御子を以って三寶荒神とし斎き奉らば、天下泰平ならんと。道主命、神教に従ひ丹波国眞名井ノトヒツキ山の麓の水口に粟の御子を以て三寶荒神と崇め奉る。其の御粟の御子は水口の下に新宮を建てて斎き奉る。因て、水の流るゝ所を溝谷庄と云ふ。溝谷村、字溝谷を旧名外(との)邑と云ひしは眞名井名ノトと云ふ字を外の字に誤りて云ひしものなりと。その後丹波道主命の子、大矢田ノ宿禰は、成務・仲哀・神功皇后の三朝に仕えて、神功皇后三韓征伐に従ひ、新羅に止まり、鎮守将軍となり、新羅より毎年八十艘の貢を献ず。

其の後帰朝の時、風涛激浪山をなし航海の術無きに苦しみしに、素盞鳴尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば、新羅大明神を奉崇せんと心中に祈願を結びければ、激浪忽ち変じて蒼々たる畳海となりて無恙帰朝しけれぱ、直ちに当社を改築せられ、新羅大明神と崇め奉る。因て今に至るも崇め奉して諸民の崇敬する所なり」

「従って当社の創祀は丹波道主命の勧請によるもので、新羅(しらぎ)将軍大矢田宿禰の改築祭祀されたと伝えられ、今でも航海の神として海辺の崇敬篤く、現在絵馬堂にある模型船は間人漁師の寄進したものである」

溝谷神社の由緒についての記載は、他にも見られる。『竹野郡誌』によれば、各文献の記述を次のように記載している。

溝谷神社村社字ヒツイ鎮座
『延喜式』溝谷(みぞたに)神社
『丹哥府志』溝谷神社は今新羅大明神と称す
『丹哥舊事記』
溝谷神社 溝谷庄外村
祭神 新羅大明神 素盞鳴命
延喜式小社牛頭天皇新羅国より皈朝有けるを祭りし神号なり、勧請の年暦いつよりと言事を知らず

京都府の新羅神社(3)

出石族とか出石人といわれている天日槍族が、但馬から(京丹後市)熊野・竹野地方を含めた地域に拡がって大きな勢力を張っていたものであろうか。

山陰地方に四道将軍の一人、丹波道主命が遣わされたことは、丹後地方が早くから大和朝廷と政治的に密接に結びついていたことが考えられる。大和朝廷の全国統一の過程で、丹後地方をはじめ山陰地方に重点が置かれたことは、逆にこの地方に大和朝廷に対抗するほどの勢力を持った豪族が政治、経済に強大な権力を持って存在していたことを意味し、丹後地方に雄大な前方後円墳が残された所以を示すものである(『弥栄町史』)。

三、その他の新羅(しらぎ)神社について


大宮売(め)神社の古代祭祀の地

当地方を訪ねるに際し、弥栄町の隣町に当る中郡大宮町字周枳(すき)の大宮売(め)神社(周枳の宮―祭神天鈿女(あめのうずめの)命・豊受大神)の宮司・島谷氏に教示を受けた。島谷氏によれば、「丹後には新羅大明神を奉祭していた社はあちこちにあったのではないかと思われます。……当地方の地名や伝承等からみると、古代朝鮮との係りを強く感じざるを得ません。……」。丹後地方は、古代渡来系(特に新羅系)の人々を中心とした文化が栄えた土地であったようである。

島谷氏の話によれば、大宮売神社のある土地の周枳というのは、スキ国=新羅国(※1)の意であり、竹野郡の間人から竹野川沿の中郡大宮町にかけては、弥生時代には竹野川文化圏を形成しており、古代に渡来した人達の文化が栄えた地域であった。いわゆる出石族・出雲族が居住していた。そしてこの一帯にはキのつく地名(内記、周枳)や、荒・新(安羅)などの地名が多い。周枳は又主木・周木にも通じ、古書には主木殿ありといわれている。

当地方からは弥生時代後期の遺跡が多く発見され、大宮売神社でも明治十二年に二の鳥居の下から壷や曲玉・勾玉が発見されたが、これらの品は祭事の跡(三世紀頃)を物語っている。大宮売の神は巫女(シャーマン)であり、曲玉や勾玉は木の枝につけて祈祀の道具とした。大宮は大国の意である。大宮売神社の周囲は濠となっていた。

大宮売神社のある大宮町は竹野川に沿って古くから開拓された地域であり、竹野川の丘陵地帯には多くの古墳が発見されている。大宮売神社には境内とその周辺から弥生時代から中世にかけての複合遺跡があり、大宮売神社遺跡といわれ、神社の周辺には左坂古墳群(九十三基)、外尾古墳群(二十四基)、新戸(しんと)古墳、宮ノ守古墳群、平太郎古墳群などがある。

大宮売神社の祭神は天鈿女命・豊受大神であるが、これは五穀豊穣を願う、いわゆる祖神である。そして当地の式内社は全部豊受神(天女の一人が豊受の神)、大宮女は八神の一座、機織と酒造り(風土記には比治の真奈井、奈具社)の神であり、丹波道主命米の稲作は天女が降り、奈具の社にとどまったことから、稲作民族が定住したことを意味し、これが祖神となった。なお、豊受神は九州から来たという説もある。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)

周枳(すき)というのは白村江(はくすきのえ)の戦いで有名なスキで村のこと、朝鮮語で村とか城のことだそうである。隠岐国に周吉(すき)郡がある。ス・キど分離すれば、ソの村とか国のこととなる。このあたりはスとかソあるいはシと呼んだのだろうと思われる。(丹後の地名)

■周枳井溝

周枳村(現在の大宮町周枳)は、竹野川より土地が高く、谷も浅いため水が少なく、やむを得ず畑にしている農地が多くありました。
「なんとか竹野川の上流から水が引けないものか」と言う農民たちの願いが、時の宮津藩の役人の耳に入り、藩主京極守高の時(1660年代)に竹野川から取水し、谷内から周枳に至る用水路づくりが始められました。
工事は10年の歳月を費やし、寛文11年(1671)完成しました。
周枳の人々はこの用水路のことを「井溝」と呼んで大切にしてきました。
周枳の井溝は、近年コンクリート製の水路として整備され、その大部分は、国道バイパスや府営ほ場整備事業により水路の場所が変わっており、現在は、集落周辺にかつての水路の場所を認めることができます。
集落周辺では、防火用水の水源となったり、「井溝」に洗い場が設けられ、野菜の洗浄などにも利用されています。(京丹後市)

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若狭(福井県嶺南部)の秦氏系神社

[catlist categorypage=”yes”] 気比神社(越前国一宮)

当地には、実在された最初の天皇といわれている応神天皇(四世紀後半)ゆかりの神社がある。

気比(けひ)神宮といわれ、「新羅神社」と呼ばれてはいないが、 『記紀』に記載の最古の新羅系渡来人「天日槍」の伝承がある神社である。敦賀市曙町の「気比の松原」の近くにある延喜式の式内社である。

祭神は伊奢沙別命(いざさわけ)・仲哀天皇 ・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉姫尊・武内宿禰の七神。 境内には式内社「角鹿(つぬが)神社」がある。 『福井県神社誌』によれば、祭神は仲哀天皇・大山祇命・神功皇后・日本武尊・素佐之男尊の五神である。 境内社に神明宮・常宮社・稲荷神社・金比羅社等がある。 垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・ 天日槍(あめのひぼこ)を 伊奢(いざ)さわけのみこと沙別命として祭った」といわれている。

『書紀』によれば、応神天皇は角鹿の笥飯大神と名前を交換し、 大神を去来沙別(いざさわけ)の神とし、 応神は誉田別(ほむだわけ)尊としたとあ る。すると、応神の元の名前は去来沙別であり、天日槍ということになる。 即ち、新羅・加羅系の人であったということになるのである。
気比神宮寺にある「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」の伝承は、 頭に角をもつ神が一族と共に角鹿湊へ渡来、角鹿神社の祭神となったという。 阿羅斯等とは、新羅・加羅では「貴」の敬称であったといわれ、 都怒我阿羅斯等も角鹿へ貴人が相次いだことを意味しているものであろう。 更に、額に角有(お)ひたる人は武人を形象化したものであるという説もある。

祭神である伊奢沙別命は、新羅の王子天日槍であり、 都怒我阿羅斯等でもあると共に、応神天皇もこの一族を神として崇めていたことが知られる。 気比神社の御田植祭や寅神祭は、農耕技術の伝来や海上安全の神を祭ったものである。

敦賀市の気比神社

敦賀市は日本列島のほぼ中央に位置するが、敦賀湾に面した静かな天然の良港として栄えた。 南は近江や畿内に接し、東は鉢伏山、栃の木峠、木の芽峠、大黒山などを境に今庄町に接している。 敦賀の名称は渡来人都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の渡来伝承によるものである。

「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人等の多く此地に渡来し、 敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、 信露貴神社亦共一に属す」(『今庄の歴史探訪』)

また、敦賀付近には新羅(シラギ)の宛字と思われる土地名や神社名が多く、 例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社 ・白城(しらき)神社・白鬚神社などがある(『今庄の歴史探訪』)。

古来敦賀は北陸道や西近江路の入口に位置し、『延喜式』には「越前国……海路。漕二敦賀津一。……至二大津一……。」とある。 従って、越前地方は敦賀を介し近江地方と密接なつながりをもち、日本海の産物を琵琶湖経由で、 畿内の京都や奈良などの都に送っていたことがわかる。
出羽弘明氏(東京リース株式会社・常務取締役)

福井県美浜町菅浜に鎮座する「須可麻(すかま)神社」
敦賀半島の西側にも、新羅系の有名な神社がある。菅浜(すがはま)は、元々は須可麻神社の須可麻であったものが菅窯→菅浜と変わったようである。スカとは古代朝鮮語で「村」を意味するという。
丹後街道から敦賀半島に入り車で十分位。先へ進めば丹生や白木の集落である。敦賀半島の西海岸は若狭湾に面している。
当社は式内社で、祭神は正五位「菅竈由良度美(すがかまゆらどみ)」天之日槍七世の孫、即ち菅竈明神といわれる。
「新羅からの帰化人である由良度美は叔父の比多可と夫婦になって菅浜に住んだとの記録があり、其の子孫になるのが息長帯比売命(後の神功皇后)である。それ以前にも垂仁天皇の三年に新羅の皇子『天之日矛』が菅浜に上陸して矛や小刀、胆狭浅(いささ)の太刀などを日本へもってきた」(『美浜ひろいある記』)といわれている。
社伝によれば式内社の古社といわれ、『若狭国神階記』に「菅竈明神」とある。明治四十一年世永神社、素盞鳴命を祀る広嶺社・志波荒神を祀る塩竈社の三社を合併。金達寿『日本の中の朝鮮文化』には「若狭文化財散歩」の文章が引用されている。「・・・・・・菅浜の南の砂浜は神功皇后の子・応神天皇が太子のとき、こゝの浜でみそぎをされ敦賀へ移られたと伝えられ新羅人が漂流して土着したとも伝える。菅竈が菅浜に転じ、焼窯の神様で須恵器などを造った帰化人の集団が丘陵に住み着いたところでもあるという。・・・・・・」

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