【丹の国の歴史】(43) 丹波(たんば)国の始まり

画像:北近畿開発促進協議会

丹波(たんば)の始まり

丹波とは、延喜式で定めた山陰道の国の一つで、格は上国、近国。
丹波ははじめ「たには」と呼び、古くは田庭・谷端・旦波とも記していました。『古事記』では旦波、丹波、『日本書紀』では丹波と記され、『和名抄』では 「太迩波(たには)」と訓じられています。
峰山町丹波には、古代は丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。
丹波は、現在の元伊勢籠神社の付近を地盤として、若狭湾岸の一部と、丹波高地を版図としていました。また
また、丹とは谷または水銀を「に」と読んだ、波(は)とは日本海であり、谷間と海の国をさすとも考えられます。
この「たには」は、(1) 主基(すき)田の「田庭」から、
「タニ(谷)・ハ(端)」から
「丹(水銀)」から
「タワ(峠)」の転などの説があります。
古代丹国は、北ッ海(日本海)を前に朝鮮半島からの日本の表玄関として、古代は奴国(北九州)・文身国(出雲・伯耆・因幡)の出雲から東に水行5千余里(約260km~300km)の地点に大漢国(丹国・越国・近江)の王都があります。おそらく約260km~300kmから推定すると、福井県・滋賀県のいずれかに王都があったと推定されます。具体的に利便性や気比神宮から敦賀近辺と比定するとします。
「タニハのクニ」、丹国(にのくに)は、近畿地方北部を治めた、古代日本の勢力圏の一つです。丹州(たんしゅう)とも呼ばれていました。 5世紀ころ四道将軍の遠征により大和朝廷に服属したとされます。
7世紀に丹波国が定められたときの初期の中心地は、現在の元伊勢籠神社(宮津市大垣)の付近を地盤として、国府と国分寺が置かれていました。現在の丹波(京都府の中部と兵庫県中東部、京都府北部(丹後)、兵庫県北部(但馬)に及んでいました。丹波(タンバ)と但馬(タジマ)の読みが似ていることも、この背景と関係があるのかも知れません。
しかし、律令制度下でヤマト王権の支配下に入れられると、丹国は丹波国・丹後国・但馬国に3分割されました。天武天皇13(684)年?に丹国北西部の朝来(あさこ)、養父、出石、気多、城崎、美含(みぐみ)、二方、七美(しつみ)の8郡を分けて但馬国(たじまこく)を分割、さらに和銅6(713)年に北部の加佐、与謝、丹波、竹野、熊野の5郡を分けて丹後国を分割し、桑田、船井、多紀、氷上、天田、何鹿(いかるが)の6郡を丹波国としました。大和朝廷の弱体化政策により、古代文身国が出雲と伯耆、因幡に分けられたのと同様に、古丹波国を三分割されたと考えられます。
現在では丹波と丹後をあわせて両丹(りょうたん)、丹波と但馬をあわせて但丹(たんたん)または丹但、丹波・丹後・但馬を三丹と総称することもあります。最近ではJR西日本の特急「北近畿」という名前のようにも呼ばれています。
現在の丹波は大まかに言って三つの盆地、亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う盆地があり、互いの間を低い山地が隔てている地勢です。このため、丹波国は一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化しました。

年号が不明ですが、律令制が布かれ、北西部を『但馬国』、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を『丹後国』として分離し、後世まで長く続く地域が定まりました。江戸時代に丹波は丹州、但馬は但州と書くこともあります。
地域性として、
亀岡・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津
氷上・福知山・綾部の中丹(奥丹波)は丹後・但馬
篠山・丹波(西丹波)は但馬・摂津・播磨
に密接に係わっています。
そのことからも明治の廃藩置県では数回の変更の末、兵庫県と京都府に分割されることになりました。
方言的には但馬・丹後は山陰のアクセントに似ており、中丹・南丹は関西弁に近いです。もちろん明確に分かれているのではなくて各地域の距離的位置によってより濃厚になってくるようです。(私見)
丹波南東部の亀岡盆地は太古は大きな湖であり、風が吹くと美しい丹色の波が立ったところから、このあたりを丹のうみ・丹波と呼ぶようになったとされており、出雲神話で有名な大国主命(オオクニヌシノミコト)が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地を干拓し、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」(ミホツヒメノミコト)の名前にちなみ「保津川・保津峡」と名付けたという伝説が残っています。出雲大神宮(亀岡市千歳町)の祭神となっており、事実、湖だったことを示す地層も明らかになっています。この伝説は、出雲神話をはじめ、但馬の沼地を切り開いたという伝説や網野入り江を切り開いた伝説などとよく似ている(後述)。
これとは異なり、次の説もあります。
上記の峰山町丹波です。6世紀ころには竹野媛や「丹波」の名のつく女性が垂仁天皇の后となっていることからも、古代より丹波の名称はあったようです。

丹後国(たんご)誕生

和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれました。

古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある(丹後王国論を参照)。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説(有力)もある。

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より大和(奈良)の都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられています。南部の桑田郡(亀岡市)は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

勘注系図[註1]のなかに見える、「丹後風土記残欠」いわゆる「残欠風土記」の問題がある。同書に見える「丹波」という名の由来では、天道日女命らがイサナゴ嶽に降臨した豊宇気大神に五穀と蚕などの種をお願いしたところ、嶽に真名井を堀って水田陸田に潅漑させたので、秋には垂穂が豊かな豊饒の土地となったということで、大神は大いに喜んでこの地を「田庭」といい、天に帰ったという伝承を載せる。これが丹波の語源となったといい、この記事が勘注系図にも同じく見える。「諸国名義考」にも丹波は「田庭なるべし」とあり、古代の丹波郡(京丹後市峰山町)あたりは実際にも豊かな土地であって、丹波は宮廷の大嘗祭の主基国にしばしば当てられた。しかし、これら「田庭」起源説は、当地の国造一族が豊受大神を奉斎したことからくる説話にすぎないともされています。
また、丹波方面で彦坐王が討ったと崇神記に見える鬼「玖賀耳之御笠(陸耳御笠)」についても、「残欠風土記」に見える。同書の記事では、玖賀耳之御笠の拠った地が丹後の青葉山(舞鶴市と福井県大飯郡高浜町の境界にある山で、若狭富士、標高は六九九M)とされるが、これも疑問が大きい。すなわち、仁徳天皇の宮人「桑田玖賀媛」などから丹波国桑田郡(亀岡市)という説(太田亮博士)があり、この点や山城国乙訓郡には久我の地からいって、丹波路の入口にあたる乙訓郡あたりから丹波国東南部にあたる桑田郡にかけての地域を、大和王権の先兵としての彦坐王の勢力がまず押さえて丹波道主命と称せられたと考えるのが妥当であろう。この地域に居て抵抗した土着勢力が玖賀耳だと畑井弘氏もみている(『天皇と鍛冶王の伝承』など)。

中世には足利氏の一族である一色氏が入封、一時期を除いて室町時代を通じて丹後一国を支配した。ただ、その支配体系は不明です。恐らく、九州探題も務めたことのある一色氏自体は在京し、地元豪族を守護代として支配をしたのであろう。戦国時代が始まる1498年には守護の一色義秀が地元豪族に攻められて自殺していることから、強力な施政はできなかったようにも思われる。それでも一色氏の命脈は戦国期を通じて永らえたが、1579年7月に一色氏が細川幽斎に滅ぼされて以来、細川氏が丹後を支配した。関ヶ原の戦い後、京極高知に、丹後守の称号と丹後一国、十二万三千石の領地が与えられ、国持ち大名京極家の領地となりました。

国府は、和名類聚抄および拾芥抄では、加佐郡。現在の舞鶴市西舞鶴と思われる。 ただし、易林本の節用集では、与謝郡とあり、国分寺は宮津市府中(国指定史跡)に見つかっており、一の宮 元伊勢 籠神社も近いので、第一次国府は宮津市府中という地名から国府が置かれていたと推定される。

[註1]「勘注系図」は、江戸期の作成ないし書写ではないかとする見解を先に紹介したが、海部氏系図を天孫本紀の尾張氏系図などの知識を加えて大補充したものであって、平安前期より前の部分は、まったく意味をもたない。それどころか、様々な意味で有害である。それ以降の系図は田雄の孫世代まで及んでいるので、平安前期の範囲に記述はとどまる(全体の系図の詳細も刊本として公開されているが、実物の写真全ては入手しがたい事情にある)。   そもそも、天孫本紀の尾張氏系図の記事には様々な混乱があるのをそのまま引き写し、そこにすら見えない人物をいい加減に多数書き加え、その記事を付けた偽撰系図そのものであり、このような系図まで「附」として国宝指定をするのは、関係者の学究としての見識が疑われる。

だいたい記載内容が支離滅裂のかぎりで、本来の海部氏系図に尾張氏、和珥氏、倭国造氏の系図を勝手に混合させている。倭宿禰(椎根津彦と同人という解釈がなされている)と尾張連の祖・高倉下命(椎根津彦と同じく神武朝の人)との関係さえ、混乱している状況である。同書奥書には、「豊御食炊屋姫(註:推古)天皇御宇に国造海部直止羅宿祢等が丹波国造本記を撰した」という記事があると報告されるが(刊本では確認できない)、この表現には多くの誤りがある。   海部直氏は丹波国造ではないというのが史実なのに、何度も繰り返される重大な誤りが一連の史料の根底にある(これは、籠神社祠官家の主張にすぎない)。いま勘注系図の別名が「丹波国造本記」とされるが、この推古朝までの系図がその当時撰せられたとしたら、現在に伝わる内容のはずではありえないほど杜撰な記事内容なのである。「海部直止羅宿祢」という表記形式そのものがおかしいほか、止羅宿祢なる者は系図のどこに現れるのだろうか。

一の宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ、こもりじんじゃ)
延喜式神名帳には大社7座6社・小社58座58社の計65座64社が記載されています。大社6社は以下の通りで、竹野神社以外は名神大社に列しています。

丹後国府移転の理由は?

この時代の国府移転理由として考えられるのは、やはり桓武天皇の即位でしょうか。天応元年(781年)、桓武天皇は即位すると、新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきます。遷都は前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高める目的があったと考えられており、形骸化した律令官職に代わって令外官などが置かれました。また、桓武は王威の発揚のため、当時日本の支配外にあった東北地方(越後国(後の出羽国を含む))の蝦夷征服に傾注し、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征服に活躍しています。そのことから国府が宮津湾の与謝郡から舞鶴湾の加佐郡に移された理由として考えられるのは、平安京からわざわざ遠いながらも、湾が入り組んでおり、防衛上より適している舞鶴湾を蝦夷攻撃や朝鮮半島との最重要軍事基地として重要視したためとも考えられます。軍事上舞鶴湾は朝廷に最短距離かつ日本海側で最も適した湾であることが、すでに認識されていたのでしょう。

参考:舞鶴市HP
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【丹国の歴史】(25) 彦坐王と谿羽(丹波)道主命

彦坐王・日子坐王(ひこいますのみこ・-おう)

彦坐王は、「記・紀」に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。彦坐命、日子坐王、彦今簀命とも書きます。
開化天皇の第3皇子で、母は姥津命(ははつのみこと)の妹・姥津媛命(ははつひめのみこと)。崇神天皇の異母弟、景行天皇の曾祖父、神功皇后の高祖父にあたるとされます。『古事記』によると、王は崇神天皇の命を受け、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)という土蜘蛛退治のために丹波に派遣されたとあります。
妃は以下の通り4人記されています。

『稗史』[*1]によれば、彦坐王は美濃を領地として、子の八瓜入日子王(やつりいりひこのおう)とともに治山治水開発に努めたとも伝えられていますが、その後裔氏族は美濃のみならず、常陸・甲斐・三河・伊勢・近江・息長氏・山城・河内・大和・但馬・播磨・丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布しています。岐阜市岩田の伊波乃西神社でも祀られており、同社の近くには日子坐命の墓(宮内庁が管理)とされる巨岩があります。
彦坐王(日子坐命)の王子女は『古事記』に詳しいですが、なぜか『日本書紀』ではほとんど触れられていません。

時代は下りますが、戦国時代に大名となった越前朝倉氏は本姓日下部氏で、彦坐王の子である神功皇后の曽祖父・但馬国造の祖 山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)の子孫と称する但馬国造家の流れを汲んでいます。

大阪府堺市西区草部(くさべ)にある日部神社(くさべじんじゃ)の祭神で、日下部首氏はこの一帯を拠点としていた豪族で、一族には浦島太郎もいたといいます。

妃:袁祁都比売命(おけつひめのみこと、彦姥津命の妹)
山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)神功皇后の曽祖父・但馬国造日下部氏の祖
比古意須王(ひこおすのみこ)
伊理泥王(いりねのみこ)
妃:沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ。春日建国勝戸売の女)
狭穂彦王(さほびこのみこ、沙本毘古王・沢道彦命?) 甲斐国造の祖
袁邪本王(おざほのみこ)
狭穂姫命(さほびめのみこ、沙本毘売之命・佐波遅比売) 垂仁天皇の皇后 (前)
室毘古王(むろびこのみこ)
妃:息長水依比売(おきながのみずよりひめ。天之御影神の女)
丹波道主王(たにわのみちぬしのみこ、旦波比古多多須美知能宇斯王)
日葉酢媛命(垂仁天皇の皇后(後)・景行天皇の母)の父・三河穂別の祖
水穂之真若王 (みずほのまわかのみこ) 近淡海安直の祖
神大根王(かむのおおねのみこ、神骨・八瓜入日子王) 本巣国造・三野前国造の祖
水穂五百依比売(みずほのいおよりひめ)
御井津比売(みいつひめ)
妃:山代之荏名津比売 (やましろのえなつひめ)
大俣王(おおまたのみこ) 品遅部君の祖
小俣王(おまたのみこ)
志夫美宿禰王(しぶみのすくねのみこ)

[*1]…「正史」の対語。民間の細々としたことを記録したもの。野史。

四道将軍(シドウショウグン

『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(オオビコノミコト)、武渟川別命(タケヌカワワケノミコト)、吉備津彦命(キビツノミコト)、谿羽(丹波)道主命(タニワミチヌシノミコト)の4人を指します。

彼らの遠征により諸国は大和朝廷に服属したとされています。

『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、都に近い、北陸、東海、西道、丹波に派遣されました。教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされています(実際には4世紀初めのことと思われる)。
なお『古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在しますが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていません。また、吉備津彦命の名前もない(別名は記載されています。)。
また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されています。

大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、母は皇后・鬱色謎命(うつしこめのみこと)。開化天皇の同母兄で、娘は崇神天皇皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと)、垂仁天皇の外祖父に当たる。北陸道を主に制圧した。舟津神社(福井県鯖江市)、敢国神社(三重県伊賀市)、伊佐須美神社(福島県会津美里町)、古四王神社(秋田県秋田市)等に祀られている。

武渟川別は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。東海に派遣される。津神社(岐阜県岐阜市)、健田須賀神社(茨城県結城市)等に祀られている。 また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した武渟川別(建沼河別命)が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。また、天皇の命により吉備津彦と共に出雲振根を誅した。

吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、古事記には吉備津彦の名は出てこない。一説にはこの時の逸話(温羅伝説)が桃太郎のモデルの一つであったとも言われている。吉備津神社(岡山県岡山市)、田村神社(香川県高松市)等に祀られている。

引用:ウィキペディア 四道将軍

丹波道主王命たにわのみちのうしのみこと)

丹波道主王命(生没年不詳)は、『記紀』における皇族(王族)です。『日本書紀』では谿羽(丹波)道主王命、『古事記』では旦波比古多多須美知能宇斯王。四道将軍のひとりで、丹波に派遣されたとされる。『古事記』では開化天皇の第三皇子、または孫に当たる。彦坐王(ひこいますのみこ・日子坐王とも書く)の子。景行天皇の外祖父に当たります。

なお、『古事記』では丹波道主命ではなく、父の彦坐王が丹波に派遣されたとあります。母は天之御影神の女・息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。

同母兄弟に、水穂之真若王(近淡海安直の祖)、神大根王(本巣国造・三野前国造の祖)、水穂五百依比売、御井津比売がいる。 一説に彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと、開化天皇の子)の子。 妻は、丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)。 子は日葉酢媛命(ひばすひめ)(垂仁天皇皇后)、渟葉田瓊入媛(同妃)、真砥野媛(同妃)、薊瓊入媛(同妃)、竹野媛、朝廷別王(三川穂別の祖)。記には他に歌凝比売命。
また、日子坐王は一説によると「大江山の鬼退治伝説」のモデル一つであったとも言われています。
神谷神社(京都府京丹後市)等丹国一円(丹後・但馬・丹波)に祀られています。

彦坐王や丹波道主命ゆかりの神社

・神谷(かみたに)神社
京都府京丹後市久美浜町小谷
旧郷社
御祭神:丹波道主命
網野神社
京都府京丹後市網野町網野789
式内社 祭神:日子坐王、住吉大神、浦嶋子神
竹野神社
京丹後市丹後町宮字宮ノ谷245
式内大社 祭神:天照皇大神
相  殿  竹野媛命、建豐波豆羅和氣命、日子坐王命
彌伽宜(みかげ)神社(大森神社)
舞鶴市字森
開創は丹波道主命(たにわみちぬしのみこと)で、祭神は、その母の 息長水依比賣(おきながみずよりひめ)の先祖である 天御影命(あめのみかげのみこと)。 同神は「古代製鉄」の神で、御上(みかみ)神社(滋賀県野洲町)の神と同じです。
鬼嶽稲荷神社
京都府福知山市大江町字北原
丹波道主命が、父、日子坐王の旧蹟に神祠を建立した。
若宮神社
南丹市園部町横田
御祭神は品陀別命
丹波道主命の后神を祀つたのが始まりと伝へる。
小幡神社
亀岡市曽我部町穴太宮垣内
式内社 祭神:開化天皇(かいかてんのう)、彦坐王(ひこいますのみこ)(開化天皇の皇子)、小俣王(おまたのみこ)(彦坐王の子)
紀元前90年(皇紀570年)頃 崇神天皇の勅命により、丹波地域を治めた四道将軍の一人 丹波道主命が、開化天皇を祀ったことが由来  開化天皇の皇子の彦坐王と、その御子 小俣王の三代が祀られています。
粟鹿(あわが)神社
兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
式内社 御祭神 彦火々出見命あるいは日子坐王との説もある
夜夫坐神社5座
兵庫県養父市養父町養父市場字宮ノ谷827-3
「倉稻魂尊、大己貴命尊、少彦名尊、谿羽道主命、船帆足尼命」
出石(いずし)神社
兵庫県豊岡市出石町宮内字芝地99
式内社 御祭神 天日槍命
谿羽(丹波)道主命と多遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀った。

丹波道主命(たにわのみちのうしのみこと)と神谷太刀宮


式内社 丹後國熊野郡 神谷(かみたに)神社
京都府京丹後市久美浜町小谷
旧郷社
御祭神:丹波道主命
配祀 八千矛神(ヤチホコノミコト) 天神玉命(アマノカムタマノミコト) 天種子命(アマノタネコノミコト)
京都府久美浜の地名は、丹波道主命の伺帯した「国剣」から「国見」「久美」となり「くみのみなと」「くみの見谷」「くみの浜」など久美浜の地名の起源になったと言われる。
崇神天皇十年九月、四道将軍・丹波道主命が勅命を受けて山陰地方を巡視された時、 武運長久を祈願して、久美浜の地に社地を定めて 出雲国・八千矛神・天神玉命・天種子命を祀ったのが当社の創祀。
もとは、神谷小字明神谷に祀られていたが中世の頃、戦乱にため社屋が破壊されたので現在地の太刀宮に合祀されました。太刀宮(たちのみや)は、丹波道主命薨去の後、命を追慕して創建された神社。

御由緒

当社は崇神天皇十年秋九月、四道将軍旦波道主命、出雲国なる八千矛神を迦へ奉りて、字神谷の地に齋き祀られしを始とす。 垂仁天皇の代道主命薨去後国人同命を追慕し、久美の地を卜して神社を創建し、佩かせ給ひし国見剱を神霊として此処に齋き祀る。 世呼んで太刀宮と称す。古来久美は国見の假字也といひ、国見は宝剣より超れる名称也と言ひ伝ふ。 期の如く神谷神社と太刀宮とは、全く別社なりし事は、神社覈録丹哥府志丹後旧事記等に記せるが如し。 而して創立後壹干年間に於て、神谷神社の大破に及ふや、之を太刀宮に合祀せしは、遠く延喜以前に属す。 爾来一般には神谷太刀宮又は省賂して単に太刀宮と唱ふ。奉額神宝祭器等に神谷太刀宮とあるは、両社合併の古を物語れるなり。 古文書等は省略せる通称に做ひ、太刀宮を以て称するを例とし、現今一般にも太刀宮と唱ふ。 諸書記述せる処大同小異なりと雖も、多くは実地史実の片影を誤れり。太刀宮は道主命を祭神とせるものなれど、 神谷神社と太刀宮とを合併せる以来、八千矛神と旦波道主命との事歴を混同せるは、甚た遺憾とする処なり。 神祇志に大巳貴命刀を奪ひ巨巖を割断せられたりといへるは、太刀宮即ち旦波道主命の事歴にして、 現社地中剣岩として特に保存し、古來清浄の地となせる処あり、これ実物を以て保存せる一の伝説記念物と見るべき乎、 同社の例祭に字奥馬地より大根を奉るは、剣岩の伝説より起れる事柄なり(右の伝説等は神谷神社考に委曲を述べる)。  神谷神社の旧社地なりと言へるは、久美谷村字神谷(かんだに)小字明神谷にして今尚存す、右等の関係上毎歳字神谷より特に幟を建つるを例とせり。 ≪京都府熊野郡誌より抜粋≫

拝殿 冬季のためシートがかけられています。  通称「神谷太刀宮」「太刀宮」と称し延喜式の神名帳に記される神社です。現在の本殿は天明元年(1781)に建てられました。桁行き 二間 入母屋造りの桧皮葺の出雲地方に多い大社造の系統をひく建物であり、彫刻も精巧なものとなっており「太刀宮造」と称され この地方では例のない神社建築です。神門も切妻造の四脚門で格天井を張るなど意匠に優れ、 境内社八幡神社本殿も 小規模なこけら葺、一間社流造で孔雀の彫刻を施すなど装飾豊かな建物です。


磐座
丹波道主命は、丹波河上摩須郎女をめとり、五子を授かる。その娘の 日葉酢媛は第十一代垂仁天皇の皇后となる。神谷神社は 旧郷社であり、社蔵文書によると文禄五年(一五九六)城主 松井康之から用地寄進を受けていることがわかります。
もともと同じ境内だった真ん中を道路建設によって寸断されてますが、もともと磐座や中剣岩、摂社がある山が聖域。

八幡社
神谷神社本殿 京都府指定文化財 昭和六十年指定
神谷神社神門 京都府登録文化財 昭和六十年登録
八幡神社本殿 京都府登録文化財 昭和六十年登録
鳥居 京都府登録文化財 昭和六十年登録
参考館(旧久美浜県庁舎玄関の一部) 京都府指定文化財 昭和六十年指定
文化財環境保全地区 京都府指定文化財 昭和六十年指定

同じく熊野郡の式内社・村岳(むらおか)神社の神は、 この太刀宮の神(丹波道主命)の臣下で、神谷神社の社地選定を命じられたという。

ところが、村岳の神は良地を秘して別の地(当社の元地)を上申した。 このことが露見し、怒った太刀宮の神は剣を抜いて村岳の神を追った。 大石に隠れた村岳の神を斬ろうとしたが 誤って大石を断ち割った。 怖れた村岳の神は、大根を下物として和睦の宴を開き和解した。 よって、以後、太刀宮(当社)の例祭には 奥馬地部落より大根が奉納されているという。

似たような伝承が、丹後の隣り、但馬(豊岡市)の葦田(あした)神社にも残っています。 話の筋は同じだが、葦田神社の神が騙したのは天日槍であり、 石だけでなく、葦田神社の神の足も傷つけられています。
八千矛神が祭神として祀られており、途中で丹波道主命が主祭神に替えられたような由来は粟鹿神社や出石神社にも共通していて面白いです。

関裕二氏は、四道将軍が各地を平定し凱旋して、崇神天皇はハツクニシラス(はじめて国を治めた)天皇と称賛している。『古事記』にしたがえば、崇神天皇と四道将軍の説話が、まったくの作り話とするこれまでの定説を疑わざるを得ないのである。そればかりか、神武天皇と崇神天皇、二人のハツクニシラス天皇の業績を合わせれば、そのまま「ヤマト建国の考古学」を裏付けてしまうわkである。

こうしてみると、神話とヤマト建国の考古学の大きな食い違いは「強い天皇がヤマトを征服した」という一点であったことに気づかされる。とするならば、八世紀の朝廷はヤマト建国の歴史を熟知していたからこそ、ヤマト建国を神話の世界に封印し、しかもそれを「征服劇」に仕立て上げてしまう必要があったのではあるまいか。もし仮に、この逆転した発想を投げかけてみれば、事態は意外な方向に進むのである。

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【丹国の歴史】(11) 徐福伝説と浦島太郎

丹後と徐福伝説

京都府北部の丹後半島は、若狭湾の西端に張り出した日本三景の一つ「天橋立」の近く、「舟屋」で有名な京都府与謝郡伊根町に浦嶋太郎と徐福にかかわる次の伝説が残っています。

日本海を対馬海流にのって北上した徐福(じょふく)の船は丹後半島にたどり着きました。

海上に浮かんでいるように見える冠島。常世島(とこよしま)とも呼ばれており、ここに生える黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)や九節の菖蒲(しょうぶ)が徐福の求めた不老不死の仙薬と言われています。佐賀にもフロフキが自生しており不老不死がなまってフロフキとなったといわれています。

冠島は「天火明命」(あめのほあかりのみこと)の降臨地といわれており、「天火明命」は伊勢神宮の元になったとされている元伊勢籠(この)神社(宮津市)の祭神ともなっています。徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ、丹後半島へ上陸したといわれています。

丹後半島では岩が浸食されてできた地形が至るところで見られます。徐福は「ハコ岩」と呼ばれるところに漂着しました。丹後半島の先端に近い京都府与謝郡伊根町新井の海岸に「秦の始皇帝の侍臣、徐福着岸の趾」と碑が立つ場所があります。大きな岩で囲まれた洞穴のようになった場所で、現在の海水面からはやや高い位置にあります。

「秦の始皇帝の侍臣、徐福着岸の趾」

「ハコ岩」から山の斜面を登ると新井崎(にいざき)神社があります。この神社には、医薬・天文・占い・漁業・農耕など多くの知識や技術などを伝えた徐福が産土神として祀られ、今も土地の人たちが大切にしているそうです。徐福は「仙薬が少なくて故国の都に帰ることができない」と言って、ここに住みついたと伝えられているのです。新井崎神社を童男童女宮(とうなんかじょぐう)とも呼びますが、徐福に同行した3000人の童男童女にちなんだ名だと思われます。実際、ご神体は男女二体の木像であるらしいのです。

霊亀(れいき)は、古代中国の神話等に登場する怪物の一種とされ、四霊の一つにあげられている。 中国神話等では、背中の甲羅の上に「蓬莱山(ほうらいざん)」と呼ばれる山を背負った巨大な亀の姿をしており、蓬莱山には不老不死となった仙人が住むと言われている。

浦嶋太郎と亀に共通するものですが関係あるのか。

2009/08/28

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