不平等条約改正への苦悩 学校で教えてくれなかった近現代史(28)

不平等条約の問題点

幕末に日本が欧米諸国と結んだ条約は、日本人の誇りを傷つける不平等条約でした。
江戸幕府が王政復古により倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を引き継いだのですが、戊辰戦争の終結によって明治政府が日本の正統な政府であることが諸外国に認められると、1869年2月4日(明治元年12月23日)に明治政府は江戸幕府が勅許を得ずに締結した(不平等)条約には問題がある点を指摘し、将来的な条約改正の必要性を通知しました。

第一に、治外法権が相手国にだけ認められ、第二に、関税自主権が日本には与えられなかった。欧米諸国との法的な差別を解消する条約改正は、明治の日本人の悲願であり、日本外交の最大の課題となりました。

この条約は1872年(明治5年)から改正交渉に入ることとなっていたため、1871年(明治4年)岩倉使節団が欧米に派遣されました。従来この使節派遣の目的は、条約改正の打診であったといわれてきましたが、実情は刑法などの法律が整備されていないことを理由に、国法や近代的社会制度の整備が遅れていることから、改正時期の延期を諸外国に求めるものであったという学説が一般的になってきています。

次ぎに日本は、イギリスとの間で関税自主権の回復を図ろうとしました。ところが、イギリス商人によるアヘンの密輸事件がおこり、イギリスは領事裁判権を行使し、アヘンは薬用であるとして無罪を言い渡しました。この事件は日本人を怒らせましたが、治外法権に手をつけない条約改正交渉は失敗しました(1878年)。

鹿鳴館とノルマントン事件

1883(明治16)年、政府は東京の日比谷に鹿鳴館という名前の洋風建築をつくり、外国人を招いてさかんに舞踏会を開きました。これは日本も欧米並みの文化を持つ国であることを世界に誇示し、条約改正を有利に進めようとする試みでした。

1885年(明治18年)に太政官制度が廃止され内閣制度が発足。条約改正は明治憲法制定と同時並行で取り組まれ、伊藤博文内閣の外相井上馨は鹿鳴館に代表される欧化政策を行いつつ交渉を進めました。1886年(明治19年)、井上は東京において諸外国の使節団と改正会議を行いましたが、井上案は関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示したため、政府内で農商務大臣谷干城や法律顧問ボアソナードらからの反対意見を受けました。翌1887年(明治20年)、国民がこの案を知るところとなると、全国的な民権運動が盛り上がり(三大事件建白運動)、条約改正交渉は中止となり、井上は辞任しました。

1886(明治19)年、ノルマントン事件が起きました。審査をしたイギリス領事裁判所は、船長に禁固3ヵ月という軽い罰を与えただけでした。この事件を境に治外法権を撤廃するための条約改正を求める国民の声はいっそう強くなりました。

40年がかりの条約改正

1888年11月30日には駐米公使兼駐メキシコ公使だった陸奥宗光が、メキシコとの間にアジア以外の国とは初めての平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功しました。

黒田清隆内閣の外相大隈重信は1888年(明治21年)に交渉を再開するが、外国人を大審院に任用するなどの譲歩案がイギリスのロンドンタイムズに掲載されて日本へも伝わると、国内世論からは激しい批判がわき上がりました。大隈は改正案に反対する右翼団体の団員から爆裂弾を投げつけられ右脚切断の重傷を負い、これが原因で黒田内閣は崩壊、改正交渉はまたしも挫折しました。

欧米諸国はそれでも簡単に条約改正に応じようとはしませんでした。日本はあくまで欧米並みの制度を取り入れることによって、対等な扱いを受けることのできる国になろうと努力を重ねました。1889(明治22)年、日本が時前の憲法を制定した動機の一つは条約改正でした。

山縣有朋内閣で外相青木周蔵は法権の完全回復を目指して交渉を再開。この頃にはロシアの進出などの国際的状況においてイギリスの外交姿勢は軟化を示していたが、1891年(明治24年)の大津事件で青木が辞任に追い込まれた結果、中断を余儀なくされました。

やがて最大の強国イギリスは、こうした日本の近代化の努力を認め、また、極東に進出してきたロシアの南下に危機感を募らせていたイギリスは対抗するためにも、日本との交渉に応じました。第二次伊藤内閣で、メキシコとの間に平等条約締結を成功させた陸奥宗光外務大臣が交渉の責任者となり駐英公使の青木周蔵を交渉に当たらせ努力が実を結び、日清戦争が始まる前の1894(明治27)年、日本の内地を開放するのと引き換えに治外法権が撤廃されました(日英通商航海条約)。このことは後の日英同盟への布石となりました。その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをはじめ各国も治外法権を撤廃しました。

関税自主権の条約改正はさらに遅れ、達成されるのは日露戦争において勝利した日本の国際的地位が高まった後のことです。1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに条約改正が達成されました。岩倉使節団の交渉から40年の歳月が経っていました。

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岩倉使節団と征韓論 学校で教えてくれなかった近現代史(27)

東アジアが欧米列強に植民地化されていくなかにあって、日本が植民地化を免れたのは何故だろう。
江戸時代後期に、たびたび日本へ来航して鎖国を行う日本に通商や国交を求める諸外国に対し、江戸幕府は1859年(安政6年)に安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を結びました。五カ国条約は関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する(一説には一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請とする説もある)内容でしました。この条約が尊皇攘夷運動を活性化させることになり、これが討幕運動につながることになったのです。

岩倉使節団

1871(明治4)年、廃藩置県のあと、新政府として正式に条約締結国を訪問し、あわせて条約改正の予備交渉を行うために、全権大使岩倉具視を代表とする、大久保利通、木戸孝允らの使節団が、アメリカとヨーロッパに派遣されました。使節団は留学生を含め総勢110人からなっていました。
使節団は、2年近く欧米文化を実地に学び取った結果、欧米と日本との文明の進歩の差はおよそ40年と見積もるにいたりました。そして何よりも近代産業の確立(富国)を優先して欧米に追いつくべきだと考えるようになりました。

征韓論

こうした状況下の1873(明治6)年、明治政府は日本の開国のすすめを拒絶してきた朝鮮の態度を無礼だとして、氏族の間に、武力を背景に朝鮮を開国を迫る「征韓論」がわき起こってきました。明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中に、武力で朝鮮を開国しようとする主張でした。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われています。

「征韓論」は、すでに18世紀末、仙台藩の林子平は海国兵談で海防論を説き、幕末には経済学者佐藤信淵は土地国有化と海外進出を行う絶対主義国家を論じ、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられました。

吉田松陰は幽囚録で蝦夷地開拓とともにカムチャッカ半島、朝鮮、台湾、満州等への侵略統治論を展開していました。それらの主張は、尊王攘夷運動と明治初期の薩長藩閥政府にも少なからぬ影響を与え、朝鮮との国交交渉が進展しない明治政府内で武力による開国を迫るいわゆる征韓論が台頭していました。

そもそも、維新後、対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行いましたが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側にたびたび拒否されていました。朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、意気大いにあがっていました。
日本は、平和のうちにことをおさめようと努めたのですが、朝鮮は頑としてこれに応じることなく、1873(明治6)になってからは排日の風がますます強まっていました。ここに、日本国内において武力で朝鮮を開国しようとする征韓論が沸騰したのです。

政府の分裂と西南戦争

廃藩で失業した士族たちは、全国民に徴兵令が施行されていたので、武士の誇りを傷つけられたとして不満を高めていました。彼らが期待をかけたのは、その留守を守るために組織された留守政府の首脳であった西郷隆盛でした。

西郷は政府にあって近代国家をつくる改革を進めながらも、士族たちの精神も重要だと考え、彼らの社会的な役割と名誉を守ってやらなければならないと考えていました。西郷は自分が使節として朝鮮 に行くことを協力に主張し、板垣退助・江藤新平など参議も同意して、政府の決定を取り付けました。西郷自身は戦争覚悟の交渉によって朝鮮に門戸を開かせようと考えていました。西郷・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた使節を朝鮮に派遣することを閣議決定しました。

しかし、当時西洋の政治を学ぶために欧米各国を視察していた岩倉使節団の岩倉具視・大久保利通達が、それを知って急いで同年9月に帰国しました。繁栄していた欧米列強を目の当たりにした、岩倉・大久保らをはじめ、太政大臣の三条実美は、まずは国力充実を図ることが先として、万が一朝鮮と交戦状態になれば、欧米の干渉を招くとし、本来の目的である東アジアの大同団結を損ねるのみならず莫大な戦費が必要となること等も鑑みこの決定に反対し、決定が取り消されました。

当時の日本には朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの国力が備わっていないという戦略的判断、外遊組(岩倉使節団)との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組(留守政府)に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球帰属問題、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正)などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えました。
これを明治六年政変(征韓論政変)といいます。これに怒った西郷と板垣退助、江藤新平ら、当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞しました。これが1874年の佐賀の乱から1877年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となりました。
また大久保達はこれ以降、政治の実権を握る事になったが、いわゆる「征韓論」に対しては大久保らも、交渉決裂に際して朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではありませんでした。
1876(明治9)年、政府は旧藩に肩代わりして士族に給付していた禄を、一時金の給付と引き替えにうち切りました(秩禄処分)。これを不満とした各地の士族が、政府に反対する兵を挙げましたが、次々に鎮圧されました。
西郷は鹿児島に帰って私学校を開いていましたが、不満を持つ全国の士族たちは西郷を指導者として兵を挙げましたが、徴兵された平民からなる政府軍に敗れました(西南戦争)。
これ以降、士族たちの武力による抵抗はあとを絶ちました。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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