【もう一つの日本】物部氏1/4 もう一つの天孫降臨

饒速日命(ニギハヤヒノミコト)

ニギハヤヒは、それぞれの駐留地点を中心に、水稲の栽培を始め、麦・黍・栗などの栽培を拡めたといいます。

とするとよく似た話が徐福伝説です。つまり秦の始皇帝の圧政に耐えかね、日本列島に活路を求めた人々こそが縄文人と融合して弥生人となった渡来人ではないかというのです。

さて、オオナムチ(大己貴命)は、オオクニヌシ(大国主)という別名があります。一般的には、こちらの方がよく知られているのですが、但馬郷土史研究の基礎『校補但馬考』の著者であり、日本の天気予報の創始者でも知られる桜井勉氏が偽書としている『但馬故事記』には、「彦坐王」(ヒコイマスオウ)が、「丹波」・「但馬」の二国を賜り「大国主」の称号を得たとの記述があります。従って、オオクニヌシとは、今で言えば県知事のような職制上の称号であったのでしょう。オオナムチはスサノオから、オオクニヌシの称号をもって、「出雲」の自治権を許されたということです。同様に他の地方には、その地方のオオクニヌシ(国造のようなもの)がいたのであり、『記紀』に記される、オオクニヌシの別名が、異常に多いのもこれで説明がつきます。

『記紀』では、スクナヒコナ(少彦名)は、タカミムスビ(高御産巣日神・高皇産霊尊)の子であると言いますが、タカミムスビの別名に「高木の神」があります。

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけました。

『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といい、アメノオシホミミ[*2]の子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。

『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照の系)とし両者を別とする。

『播磨国風土記』では、国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神=大汝命(大国主命(オオクニヌシノミコト))の子とする。

ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)[*3]は、日本の祖であり、神武はその養子だといいます。この事実を抹殺し、出雲王朝とヤマト王朝の関係を抹殺するために、『日本書紀』は、イザナギとイザナミによって創造されたのであるとしています。その証拠に、「石上神宮」(いそのかみじんぐう)と「大神神社」の古文書と十六家の系図を没収し、抹殺したという資料をつかんだとも述べています。それは、691年のことであるらしいのです。

ニギハヤヒも、父・スサノオ同様、さまざまな別名を与えられています。
フルネームは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」ですが、「天照国照彦命(あまてるくにてるひこのみこと)」・「天火明命(ほあかりのみこと)」・「彦火明命(ほあかりのみこと)」は、フルネームの一部であり、ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)のことです。

別名としては、
・櫛玉命(くしたまのみこと)
・「大物主大神」
・「布留御魂大神」(ふるのみたまおおかみ)
・「日本大国魂大神」(やまとおおくにたまおおかみ)
・「別雷命」(わけいかずつのみこと)→上賀茂神社
・「大歳御祖大神」(おおとしみおやおおかみ)
などです。

古代、朝鮮半島の人々は、天上界の神々は、山岳にそびえ立つ高木から降臨すると信じていました。「高木の神」とは、きわめて朝鮮的な神です。スクナヒコナとタカミムスビの関係は、どうでしょうか。
『富士宮下文書』は、スクナヒコナは、タカミムスビの曽孫(ただし養子である)であるとし、
「祖佐之男命(スサノオノミコト)、朝鮮新羅国王の四男・太加王」
と具体的に記しています。

この「太加王」(たかおう)説の真偽のほどは、諸説あり定かではありませんが、スクナヒコナとタカミムスビとの関係の深さはわかります。タカミムスビは、実在した人物ではなく、観念的な神でしょうが、スクナヒコナに代表される「昔(ソク)」族とスサノオの親密ぶりを、伺い知ることができます。

スサノオが、「出雲」に侵攻して以来、「統一奴国」の本拠地は「出雲」であったはずです。従って、「統一奴国」の国土経営は、「出雲」に政庁をおいて繰り広げられていました。「出雲」のオオクニヌシであったオオナムチは、「統一奴国」の総理大臣的な存在であったのでしょう。その上に君臨していた人物、「牛頭天王」ことスサノオであり、文字通り、天皇です。

しかし、スポンサーであったスクナヒコナの死により、この法則は崩れ始めました。朝鮮半島での基盤を失ったのです。さらに、オオナムチに、追い打ちをかける衝撃の事件が起こりました。スサノオの死です。
『記紀』には、去っていったスクナヒコナのことを、オオナムチが嘆いていると、海を照らして神がやって来たと記しています。この神は、「大和」の三諸山に住みたいと言い、三輪山の神だといいますが、この物語こそ、スサノオ尊の死を暗示していると思われます。

『日本書紀』は、この神は次のように述べたとしています。
「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を治めることができたろうか。私があるからこそ、お前は大きな国を造る手柄を立てることができたのだ。」
これはスサノオが死に際して、オオナムチに述べた最後の言葉です。そして、スサノオは、自らを三諸山に祀るように、オオナムチに依頼したのでしょう。もちろん、「大和」の三諸山ではなく、オオナムチが国土経営を成功させたのは、「出雲」です。そこに、おおよそ関係がないと思われる、三輪山の神が、どうして入り込んでくるのでしょうか。つじつまを合わせるために他ならないのです。
確かに、「ヤマト」は勢力範囲であったかもしれませんが、出雲の神を三輪山の神に比定するにはかなり無理があります。

三諸山は三諸山でも、「出雲」の三室山すなわち、八雲山ではないでしょうか。そこは、スサノオが住居を定めていた場所であり、出雲発祥の地であるからです。

もう一つの天孫降臨

古代氏族のルーツを探る場合、伝承で探るしか手段がありません。さいわい、物部氏は家記といわれる 『先代旧事本紀』というのが後世に出ています。この書の真偽性を疑う学者もいますが、これと各地に残っている伝承をあわせて探っていくと、物部氏が最初は九州にいたことが判明してくるといいます。
一番大切なのは、物部氏が神武より先に大和に来ていることです。

九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ九州北部の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされています。

物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によれば、アマテラス(天照大神)から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内国の河上の地に天降りたとあります。おそらく石切劔箭(いしきりつるぎや)神社(東大阪市)のあたり、生駒山の西側にある「日下(クサカ)」の地でなないか、他にも天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社があります。どちらにしろ生駒山系です。なお、天磐船といっても飛行物体ではなく、これは本来「海船(あまぶね)」を意味します。
古代氏族の一つとして、また蘇我氏との神仏戦争でよく知られる物部氏は、皇祖神を除いて、天孫降臨と国見の逸話をもつ唯一の氏族です。

これらは、アマテラス(天照大神)の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に降りたニニギ(瓊瓊杵尊や瓊々杵尊)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられます。
したがって、ニギハヤヒは、神武東征(じんむとうせい)に先立ち、河内国の河上の地に天降りているのです。

ニギハヤヒが、32の神と25の物部氏の一族を連れて大空を駆けめぐり、河内国の哮ケ峰(タケルガミネ)に天降った、とされています。
この哮ケ峰は、どこなのか定かではありません。

また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑(とみのしらにわのむら)に埋葬したといいます。
この登美の白庭の邑も、いったいどこなのでしょう。
ところが、日本神話において、天照大神の孫のニニギが葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。 とされながら、高天原神話にはこの、大和への天孫降臨神話が見当たりません。

黒岩重吾氏は、邪馬台国は、九州からヤマトに東遷したと考えています。それは、弥生時代の近畿地方には鏡と剣と玉を祀る風習はなかったのに、九州にはそれがあった点です。鏡を副葬品として使う氏族は畿内にはなく、九州独特のものです。この説でいうと邪馬台国は最初九州北部にあり、大和に移動したのかも知れません。邪馬台(ヤマト)は大和(ヤマト)と同じです。第一次が九州北部、第二次が大和とすると、邪馬台国どちらにあったかという論議は、解決できてしまいます。

関裕二氏は、纏向遺跡に集まった人々の中で、ヤマト建国の中心に立っていたと考えられているのは吉備である。それはなぜかといえば、記に唐ヤマトにもたらされた特殊器台形土器や特殊壺形土器が、宗教儀礼に用いる特殊な土器だからだ。政治を「マツリゴト」といっていた時代、吉備の果たした役割は、軽視できない。前方後円墳の原型が、弥生後期の吉備にすでに出来上がっていたこともわっかってきている。それが楯築弥生墳丘墓(岡山市)で、円墳の左右に突出部が二つくっつくという奇妙な形をしている。

一方、物部氏といえば物部守屋を思い浮かべるが、守屋が滅びたのは、現在の大阪府八尾市の周辺だ。物部氏はこの一帯を地盤にしていたが、八尾市からは、三世紀の特殊器台形土器や吉備系の祖飢餓出土している。記にからヤマトに続く通り道である河内は、必ず押さえておかなければならない要衝である。物部氏は吉備系ではないだろうか。

ヤマト朝廷が発足後間もなく出雲潰しに向かったのは、瀬戸内海と日本海の流通ルートの対立と捉えれば、その意味がはっきりとしてくる。としている。
2009/08/28

【出雲神政国家連合】 古代出雲2/4 スサノオは「砂鉄」を採る男だった

スサノオは「砂鉄」を採る男だった

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(カヤ((任那(みまな))とも関係が深いという指摘もあります。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られています。それは早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことは決してはずせない史実が伺えます。

ここでは先史のことなので史実は残されていませんが、神政国家連合体「出雲王国」について、考えてみたいと思います。

黒岩重吾氏は、出雲の東西の争いが『日本書紀』崇神紀にある、出雲振根と飯入根の兄弟の争う話に結晶したと述べています。

荒神谷遺跡から出土した銅鉾は、九州佐賀のケンミ谷遺跡から出ている銅鉾と同じものです。したがって、西部の王は九州北部と交流があったと考えていいとしています。要するに、西の荒神谷周辺の王「振根」と、東の安来の王「飯入根、甘美韓日狭」との闘争です。出雲振根はスサノオの原型で、近畿や吉備勢力に味方して、東の意宇(おう)から出雲を統一したと思われる甘美韓日狭(うましからひさ)らがオオクニヌシであると考えてもそんなに不自然ではないといいます。

弥生後期、吉備と近畿地方とは密接な関係にありましたが、出雲進出は吉備独自の判断だったのかも知れません。吉備津彦は吉備国の王で、ヤマトと同名を結んでいたとは思われますが、『日本書紀』のように、吉備津彦が崇神の命を受けて出雲を討ったとなると、“初めにヤマトありき”となってしまいます。崇神の命で出雲に向かったというのは創作でしょう。

さて、黒岩重吾氏は、問題なのは、出雲を支配していた振根=スサノオ、甘美韓日狭=大国主の王一族の出自としています。

ヒトデのような特異な形の四隅突出型方墳は出雲独特で、倭人が手がけたとはどうにも思えない、高句麗の将軍塚古墳、新羅の土廣墓にも四隅が突出した墳墓がありますが、弥生前期に高句麗から出雲へ渡ってきた一族かも知れない。

スサノオ神話でも、斐伊川上流へ新羅から天降ったという点です。振根、飯入根らの出雲一族も、渡来系が渡来系と婚姻関係を結んだ一族の可能性がある。わざわざスサノオを新羅から天降ったとしない、といいます。

もちろん、秦から徐福が渡来してきたのと同様に、スサノオが一人で渡来したわけではなく、一族(スサノオ族とする)による集団渡来であったはずである。渡来した原因は、日本海側の鉄資源を求めての渡来であったのかも知れないが、朝鮮半島を南下してくる高句麗族に、抵抗しきれなくなったのが最大の原因だと考えられる。
東シナ海を船に乗って、たどり着く地と言えば海流に乗って、済州(チェジュ)島・壱岐・対馬を経て、まず九州北部のどこかへ落ち着いたとするのが自然でしょう。

『魏志東夷伝』をみると、紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部は、三韓といわれる「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」に分かれており、その弁韓は12国に分かれており、後に伽耶(任那)となる南朝鮮では鉄の一大産地であり、「倭」や「楽浪郡」などもこの地で鉄を求めていたようです。スサノオ一族は、南朝鮮にいて製鉄に従事していた一族であり、支配階級であったのでしょう。

関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』では、
八世紀に成立した朝廷の正史『日本書紀』によれば、スサノオははじめ天皇家の祖神・アマテラス(天照大神)同様、高天原に住んでいたが、いち早く日本列島に舞い降りていたという。つまり、天皇家のみならず、出雲神・スサノオにも降臨神話があったわけだが、問題は、『日本書紀』には「一書~」という形で遺伝が残されていて、そこには、次のような不思議な話が記されていることだ。すなわち、スサノオは日本に舞い降りる以前、朝鮮半島の新羅に降臨していて、そのあとに新本にやってきた、というのである。

『日本書紀』神代第八段一書第四によると、高天原で乱暴狼藉を働いたスサノオは、追放され、子どものイタケル(五十猛神)を率いて、新羅国のソシモリ(曾戸茂梨)に舞い降りたという。

ところがスサノオは何を思ったか、「この地にはいたくない」といいだし、埴土(はにつち・赤土)で船を造って東に向かい、出雲の斐伊川の川上の鳥上峰(船通山)に至ったのだという。

このように、『日本書紀』の別伝には、はっきりと、「スサノオははじめ新羅に住んでいて、そのあと日本にやってきた」と書き残されている。

通説は、スサノオが新羅からやってきたという『日本書紀』の記事から、「出雲と朝鮮半島のつながり」について、肯定的に受け止めているようなところがある。漠然とした形ながら、「出雲は朝鮮半島の影響を強く受けた」と考えているようだ。

「出雲」は神話の三分の一を占めながら、絵空事というのが、かつての常識であった。八世紀のヤマト朝廷が、「ヤマト=正義」の反対概念としての「悪役としての出雲」を、神話の中で大きく取り扱ったのであって、現実に出雲に巨大な勢力がいたわけではないと考え、出雲を無視してきたのだ。

その一方で、スサノオが新羅からやってきたという記事には注目し、スサノオ=出雲は新羅からの渡来人を象徴していたと考えられてきたのである。実際、『日本書紀』のくだりの記事以外にも、出雲と朝鮮半島を結びつける要素は、いくつも見出すことができるし、地理的に見ても、出雲と朝鮮半島がつながっていたと考えるのは、ごく自然のことなのかもしれない。

新羅系渡来人の祖神がスサノオだった?

出雲と朝鮮半島を結びつける例として、まず最も分かりやすいのは、『出雲国風土記』の出雲国意宇郡(おうぐん)の段の「国引き神話」ではなかろうか。この地を「意宇」と名付けた由縁は、その昔、ヤツカミヅオミツノノミコト(八束水臣津野命)が、「出雲の国は狭く、できて間もない国なので、よその余った土地を持ってきて、縫い合わせよう」といったとあり、「志羅紀(しらぎ)の三埼(みさき)(=新羅の岬)」が余っているからと、綱を掛けそろりそろりと、「土地よ来い」といいながら引き寄せた。それが「八穂爾支豆支(やほにきづき)の御埼(大社町日御碕)」だったという。そののち、北陸地方の土地などをやはり出雲に引っ張り込んで、最後に「意宇」の地に杖を突き立てて「オウ」と述べたところから、この地名ができたというのである。

新羅の土地を持ってきてしまったという話は、事実であるはずがない。しかし一方で、島根半島の西はずれ、出雲大社にほど近い岬が新羅の土地だったという伝承は無視することはできない。出雲と新羅は、強い縁でつながっていたことは間違いないだろう。

それだけでなない。出雲神といえば、スサノオだけではなく、オオナムチ(大己貴神だが、そのほかに大国主神(おおくにぬしのみこと)、大穴持命(おおあなもちのみこと)、大国魂命(おおくにたまのみこと)、顕国玉神(うつくしくにたま)、大物主命(おおものぬしのみこと)などの多くの別名がある)が有名だが、この神も朝鮮半島出身だったのではないかとする考えは、根強いものがある。というのも、平安時代以降、宮中では、「韓神(からかみ)」を祀っていたが、その正体は出雲に関わりの深いオオナムチとスクナヒコナ(少彦名命)だったからである。

出雲神をわざわざ「韓神」と定義づけて宮中で祀っていたのだから、「出雲の神々」が朝鮮半島からやってきたと考えるのは当然だった。

ならば、スサノオは「日本人」ではなく、新羅からの渡来人だったのだろうか。すでに江戸時代中期には、考証学者・藤井貞幹が、「スサノオは朝鮮半島南部(辰韓)からやってきた」と推理している。同様の考えは今日に引き継がれている。

たとえば、水野祐氏は、スサノオを新羅系の客神とみなしている。「新羅の神=スサノオ」を奉斎して日本にやってきた人びとは、「新羅系の一団であり、砂鉄を求めて移動する、いわゆる「韓鍛冶(からかぬち)」だったといい、次のように指摘している。
だが、「スサノオが気になる」と述べておいたのは、これほど単純で明解な「出雲=韓」という図式だけではない。

朝鮮半島南部の人びとのみならず、「倭人」も、競って鉄を求めて集まっていた様子が、記事からつかめる。弁韓の地域では、原三国時代の初期から、鉄の素材が各地に搬出されていたことが分かってきている。「韓の金銀(鉄)」が、当時貴重な資源であり、「お宝」だったことは間違いない。

これに対し、日本の「浮宝」とは、「船」のことで、「浮宝がなければ」というのは、材料となる樹木(しかも巨木)が欲しい、といっているわっけだ。太古構造船のない時代の交通手段は、木をくり抜いて作る丸太舟だったから、海の民にとって巨木はなによりも大切な宝物だった。長野県の穂高地方に、日本を代表する海の民・安曇氏が拠点を造り神を祀っているのも、「造船」と山(森)が、深く関わっていたからだろう。(拙者註:諏訪大社の御柱祭り)、という。

ヒボコの出石神社に近い兵庫県豊岡市(出石)ハカザ遺跡から2000年に巨大船団を描いた板が見つかり話題となった。新羅からやってきた集団を描いたものではなく、むしろ出石にいた集団が造船して伽耶の人びとに鉄の代価に渡していたのかも知れない。

日本は鉄の見返りに何を韓に渡していたのか

たしかに「木材=船」は貴重な財産だっただろう。しかし、朝鮮半島の「金銀(鉄)」と比べるとそうしても見劣りがする。一見して不釣り合いな「金銀」と「木」を等式で結んでいるのはなぜだろう。実をいうと、この神話の意味するところは重大だったと思われる。

朝鮮半島からもたらされた「鉄」の量に見合うだけの日本側からの「代価」が何だったのか、その正体が分からず、帳簿上の日本側の「輸入超過」状態が続いているのである。いったい、古代の列島人は、何を手みやげに大量の鉄を手に入れていたというのだろう。

朝鮮半島南端に位置し、三世紀前後の北部九州や畿内のヤマトと盛んに交渉を持っていた地域・狗邪韓国・金官伽耶(時代によって呼び方がからっているが同じ地域)の墳墓から、日本製の銅矛、巴形銅器、碧玉製石製品といった「日本的な宝器」が大量に発掘されたことを受けて、これらの儀器が、貿易の代価として支払われた可能性が指摘されている。もっとも、それでも大量の鉄に見合うだけの「宝器」であるはずもなく、この点は(まだまだわからない)。

たしかに日本は極東の島国であって、ここから先はないのだから、つねに朝鮮半島や中国大陸に向かって立っていたことは間違いのないことだ。また一方の伽耶にしても、日本だけを重視していたわけではないこと、隣には、新羅(辰韓)や百済(馬韓)が存在したし、されに向こう側には、高句麗や中国の諸王朝の圧力が控えていた。
だから日本人が考えるほど、伽耶は日本を重視していたわけではなく、日本的な文化と宗教観を喜んで受け入れたかというと疑わしい。だが逆に考えると、つねに北からの圧迫を受けていた半島南部の人びとが、最後の逃げ場書として日本列島という「保険(シェルター)」がほしかったことも一方の事実であろう。鉄の見返りに目に見えない「保険」を手に入れたという可能性も捨てきれないし、もう一歩踏み込んで、倭国の軍事力を、いざというときに活用しようと目論んでいた可能性も否定できない。


西谷古墳 島根県出雲市

スサノオ一族の文明は、魏(中国)の影響を受け、その当時の日本列島の縄文文明よりも発達していたことは間違いなく、農業・漁業・航海術に長けていたスサノオ一族が、ようやく計画的な稲作もはじめかけていたものの、漁労や狩猟中心で暮らしてきた九州の土着の勢力らを包括していくには、そう時間のかかることではなかったと思われます。

当時の日本列島の文明よりも、発達していた朝鮮半島の、農業・漁業・製鉄・航海術に長けていたスサノオ一族が、九州北部や出雲の豪族間との合議・融合によって連合体としてクニ連合を形成していったのではないでしょうか。もし、武力鎮圧によって隷属的に支配下においたのならば、必ずや中国の歴史のように、王が変わると、日本列島へ逃亡・離散するような歴史が残っているはずだからです。

砂鉄は日本のような火山列島には、それこそ腐るほど埋蔵されています。だから、兵庫県出石の墳墓に砂鉄が埋葬されてあったということは、出石の豪族が砂鉄に感謝したからに他ならないのです。

このことは、出雲のスサノオをめぐる神話からも読みとれます。一般に「出雲神は新羅系」とする考えがありますが、そうではなく、スサノオは朝鮮半島に群がった倭人を象徴的に表しているようです。

なぜなら、出雲でのスサノオは、朝鮮半島の「鉄の民」の要素を持っていますが、それは決して大陸や半島の人々の発想ではないからです。

吉野裕氏は、『出雲風土記』に登場するスサノオをさして、海や川の州に堆積した砂鉄を採る男だから「渚沙(すさ)の男」なのだと指摘しています。

スサノオはヤマタノオロチ退治をしていますが、この説話が製鉄と結びつくという指摘は多いです。砂鉄を採るために鉄穴流し(かんなながし)によって真っ赤に染まった河川をイメージしているというのです。

2009/09/06

半島南部の鉄と商人の小国家が日本を建国したのではない

関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』によると、
伽耶諸国は六世紀に至るまで統一国家というものを望まず、小国家の連合体のままの状態で滅亡していったということだ。それはなぜかというと、彼らは優秀な証人だったからで、地の利と鉄資源を生かし、海を股にかけた通商国家が伽耶連合だったと考えると判りやすい。

その名うての商人たちが、いざというときの「保険」や「空手形」だけをもらうという不公平な貿易を行ったかというと、実に怪しく、彼らは冷徹に鉄の見返りを求めたに違いないのだ。

それでは日本に何を求めたのだろう。わずかな青銅器や碧玉の儀器だけで、彼らは満足したのだろうか。そうではあるまい。

彼らが求めてやまなかったのは、「木」ではなかったか。
ただの「木」ではない。鉄を精製するために欠かせない燃料の「木炭」である。
なぜ「木」が重要なのか。

青銅器や鉄の技術は中国文明からの贈り物である。その中国では、殷(イン)の時代、青銅器の文明が花開いた。その一方で、森林破壊も徐々に進み、秦の始皇帝の精力的な国土開発と金属冶金事業が、中国の砂漠化の端緒を開いたとされている。と書いている。

なんと今日問題化している砂漠化はすでに始まっていた…
関裕二氏はさらに、ちゅうごくのミニチュアである朝鮮半島でも、同様のことが起きた。青銅器や鉄という文明の利器を盛んに生産したから、貪欲に燃料を求めたのは当然のことだ。

(中略)
そうなると、スサノオの宮の決め方にも、「鉄」を意識したのもと捉えることが可能だ。

吉野裕氏は、『東洋文庫 145 風土記』のなかで、スサノオは、海や川の州に堆積した砂鉄を取る男「渚沙の男」の意味だとしている。

スサノオ最大の活躍、ヤマタノオロチ話も、「鉄」とのつながりで語られることがしばしばだ。草薙剣が現れ、これが天皇家の三種の神器のひとつになるわけだが、「金属」が神話のモチーフになっていることから、スサノオが金属冶金と関わりがあるとされ、さらに、舞台となった簸川(ひかわ)が、砂鉄産地として名高く、ヤマタノオロチの流した血が川を赤く染めたのは、砂鉄の色を暗示しているという指摘もある。

このように、スサノオの周囲には「鉄」の要素が満ちている。
さらに、スサノオの子(あるいは末裔)のオオナムチも、鉄との関わりをもっている。オオナムチの別名に「大穴持命」があって、「穴」は「鉄穴山」からきているという。鉄穴山とは、砂鉄の産地になる山で、土砂を大量の水で流し、比重が重く下に沈んだ砂鉄を採るわけである。この作業を「鉄穴流し」といい、従事する者達を「鉄穴師(かなし)」と呼んだ。したがって、大穴持命は、「偉大な鉄穴の貴人」であるという(『古代の鉄と神々』真弓常忠)。

これらの伝承は、当然の事ながら、中国地方で盛んにたたら製鉄が行われたからこそ語り継がれたのだろう。出雲地方では、砂鉄採取によって生じる土砂が下流に堆積し、地形が変わるほど製鉄が盛んだったのである。

もっとも、だからといって、現在のところ日本最古の製鉄遺跡は、五世紀末~六世紀にかけての丹後半島の遠所遺跡(京丹後市弥栄町)なのだから、神話が弥生時代から三世紀のヤマト建国当時の出雲の姿を活写しているかどうかは、はっきりとはしていないのだが…。

出雲神話と鉄が結びつくとはいっても、ヤマト建国以前に日本で製鉄が行われていたと考えることはできない。今のところ弥生時代の組織的な製鉄が日本で行われていたことを裏付ける物証は見つかっていないのが本当のところだ。

これに対し、いやいや、日本では弥生時代から、すでに製鉄が行われていた可能性が高いちする説もある。

まず、日本に鉄器が現れるのは、稲作とほぼ同時だったようだ。ととえば、福岡県・曲がり田遺跡では、弥生時代早期の遺跡から、鉄器片が見つかっている。鉄器は、中国から稲作文化の伝播ルート(江南→山東半島→朝鮮半島)をなぞって日本にたどり着いたと考えられているから、稲作民が「鉄」とともに日本列島に渡ってきたということになる。

日本最古の製鉄遺跡は遠所遺跡で、古墳時代後期から平安時代にかけての複合遺跡だ。ここからは炭窯が五世紀末に造られ、やはり五世紀末の土器が見つかっていて、製鉄もその頃はじめられた可能性が強いのである。

では、それ以前、日本では製鉄は行われていなかったのだろうか。まず。森浩一氏らは、製鉄の痕跡が見つかっていないのだから、弥生時代の鉄は輸入され、その上で加工されていたと主張している。見つかっていないのに予測することは、考古学的な発想ではないからである。

このような考えに対し、弥生時代の鉄器の普及と生産の開始は、ほぼ同時だったとする考えがある。まず第一に、「日本の製鉄は六世紀から」という考古学の指摘はさらに遡る可能性を秘めていること(もっと古い製鉄遺跡が発見されるかもしれない)、第二に、日本における製鉄開始の年代が早まるとしたら、ひとつの仮説が導き出せる、ということなのである。

すなわち、古墳時代はじめの大量の渡来人の流入は、彼らの一方的で腕力にものを言わせた仕業ではなかったということだ。彼らは「利」を求め、あるいは、日本側に求められて来日したのではなかったか、ということなのである。

そう思うのは、古代渡来系豪族を代表する秦氏や東漢(やまとのあや)氏らが、想像を絶する数の人びとを伴って日本にやってきていること、しかも彼らは、「金属冶金」に精通した技術者を多く抱えていたという事実があるからである。

しかも彼らの渡来は、混乱や政変による亡命ではなく、迎える側も渡来する方も、あたかも前もって契約していたかのような整然とした移住であった。この理由えお考えるに、やはり彼らは、「双方の合意」のもとに、来日したのではなかったか。すなわち、彼らは金属冶金の燃料を求めてやってきたのであり、迎え入れる側は「燃料」を供給することで「鉄製品」を手に入れることができるわけであり、どちらもメリットがあったのである。

渡来人の来日には、何回かの波があったと言われているが、弥生時代の渡来は「農地」を求めた人びとのなかば移住であったとしても、古墳時代に入ってからの秦氏や東漢氏らの移住は、「燃料確保」という朝鮮半島の切迫した事情が隠されていたとはいえないだろうか。

いずれにせよ、出雲神話に記されたスサノオの姿は、「燃料」を求めて来日した渡来人たちの姿と重なってくるのであり、秦氏らが渡来したという「応神天皇の時代」とは、じつはヤマト建国の前後だった可能性があり、つまりは、「朝鮮半島の鉄の民の動向」が、ヤマト建国と大いに関連していたのではないかと、筆者はひそかに勘ぐっているのである。

そしてもちろん、秦氏や東漢氏らが、鉄の技術を持って来て、ヤマトを圧倒したのではないかと言っているのではないことは、くり返す必要はあるまい。あくまでもギブアンドテイクであり、鉄と商人の民であった朝鮮半島南部の人びとの行動原理を、もっと「利」というもので見直す必要も出てくるのではないか、といいたいのである。

記紀神話に現れたスサノオと鉄の関係を追っていくと、日本列島の森林資源が燃料として貴重だったこと、そして、朝鮮半島の人びとがこれを求めて大量に渡来していたのではないかと思えてきた。

それでは、天皇家がもし海の外からやってきたのであれば、やはり彼らも「森林」を求めてやってきたのだろうか。いや、そもそも本当に天皇家は朝鮮半島からの渡来人なのであろうか。

天皇家の祖が海の外からやってきたのではないかと疑わせるきっかけを作ったのは、八世紀に編纂された記紀に記された二つの神話や説話なのである。それがいわゆる「天孫降臨神話」と「神武東征説話」である。

出雲神話4/5 「オオクニヌシの国づくり」

オオクニヌシの国づくり

大国主が出雲の美保岬にいたとき、海の彼方から天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って、鵝(蛾の誤りとされる)の皮を丸剥ぎに剥いで衣服として、やって来る神がいた。大国主がその小さな神に名を尋ねたが答えなかった。従えている者も皆知らなかった。そこにヒキガエルが現れて、「これは久延毘古(クエビコ)ならきっと知っているでしょう」と言った。久延毘古に尋ねると、「その神は神産巣日神の御子の少名毘古那神である」と答えた。久延毘古は山田のかかしであり、歩くことはできないが、天下のことは何でも知っている神である。

神産巣日神は少名毘古那が自分の子であることを認め、少名毘古那に大国主と一緒になって国づくりをするように言った。大国主と少名毘古那は協力して葦原中国の国づくりを行った。その後、少名毘古那は常世に渡って行った。

大国主は、「これから私一人でどうやって国を作れば良いのだろうか」と言った。その時、海を照らしてやって来る神がいた。その神は、「我は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である。丁重に私を祀れば、国作りに協力しよう」と言った。どう祀ればよいかと問うと、大和国の東の山の上に祀るよう答えた。この神は現在御諸山(三輪山)に鎮座している神(大物主)である。

オオクニヌシの国譲り

高天原(たかまがはら)では、地上の豊かな出雲の国はアマテラスオオミカミの子孫が治めるべきだという相談がなされていました。 そこでアマテラスオオミカミは国譲りの交渉のために、3度も使いを送ったのですが、使いは出雲の住み心地の良さに帰って来なかったりして、なかなか交渉は成立しませんでした。

そこで切り札として、タケミカヅチノカミとアメノトリフネノカミが出雲にやって来ました。 タケミカヅチノカミとアメノトリフネノカミは稲佐の浜に降り立ち、剣を抜いて波頭に逆さまに立て、その上にあぐらをかいてオオクニヌシノカミに国譲りを要求しました。オオクニヌシノカミは自分の息子であるコトシロヌシノカミから考えを聞くように二神に言いました。

タケミカヅチは、再びオオクニヌシのところへ戻って来て言いました。

「そなたの子どものコトシロヌシとタケミナカタは、アマテラスオオミカミのお子さまの命令には逆らわないと答えた。そなたの心はどうだ。」

これに対して、オオクニヌシは、こう答えました。

「わたしの子どもたちがお答えしたとおり、わたしも同じ気持ちです。この葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)は、ご命令どおりに、すべて差し上げます。ただし、わたしの住む場所をアマテラスオオミカミのお子さまが、天の神の「あとつぎ」となってお住まいになられる御殿のように、地面の底深くに石で基礎(きそ)を作り、その上に太い柱を立て、高天原にとどくほどに高く千木(ちぎ)を上げて造っていただければ、わたしは、その暗いところに隠れております。また、わたしの百八十もいる子どもの神たちは、コトシロヌシを先頭にお仕えいたしますので、天の神のお子様に逆らうものはいないでしょう。」

鳥や魚を捕るために美保の碕に出かけていたコトシロヌシノカミは呼び戻され、アマテラスオオミカミの考えに従うと言って、乗ってきた船を踏み傾け、柏手を打って青い柴垣に変えて、その中に隠れてしまいました。

この様子を伝えているのが、美保神社の諸手船神事(もろたぶねしんじ)と青柴垣神事(あおふしがきしんじ)です。

また、もう一人の息子のタケミナカタノカミはタケミカヅチノカミと力くらべで決めようと、タケミカヅチノカミの腕をつかんだところ、たちまち腕はツララに変わり、次いで剣に変わってしまいました。 今度はタケミカヅチノカミがタケミナカタノカミの腕をつかみ、握りつぶしてしまったので、タケミナカタノカミは青くなって、諏訪湖まで逃げてしまいました。

オオクニヌシノカミもアマテラスオオミカミの申し出を受け入れることにしました。 その代わり、自分の住まいをアマテラスオオミカミの子孫と同じように、千木(ちぎ)が大空にそびえるような立派な宮殿を建ててほしいと願い出ました。

そこでアマテラスオオミカミは、オオクニヌシノカミのために多芸志(たぎし)の浜に大宮殿を建てました。
それが出雲大社のはじまりだといわれています。

大国主と出雲神話

高天原を追放されたスサノヲは流浪の果てに、出雲において大蛇を退治し、須賀の宮におさまって妻を求める歌をうたいます。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」

出雲地方の伝承的な歌謡であったこの歌が、『古事記』の中で最初に掲げられた歌です。

『古事記』上巻には、このスサノヲの物語に続いてオオクニヌシ(大国主神)神話が続きます。オオクニヌシの事跡の出雲との関係や出雲大社との関連から、出雲系神話といわれ、また登場する神々を出雲系の神々とよびます。

この部分は、すでにオオクニヌシの支配していたこの国土が、天下ってきた高天原の神の支配に交替するという劇的な構成から、大和朝廷に拮抗ないし対立する出雲での権力の存在を示す物語であるというような歴史的事実と結びつけた見解などさまざまに論じられる物語となっています。上巻特有のごつごつした違和感に満ちた世界が展開すると同時に、他方で人間の「情」のありように通じるもの、たとえば後世なら「仁」や「愛」あるいは「やさしさ」といったことばで本来表現されるべき事柄が描かれてもいます。

オオクニヌシの物語は、前半と後半では趣が異なります。前半は美しい因幡のヤガミヒメを獲得しようと旅立つ兄たちのあとに荷を背負って追うさえない神でした。白ウサギにやさしさを施すとウサギの予言通り姫を得ることになります。しかし、兄弟神の怒りを買い、試練にたたされ死に追いやられます。そのたびに彼は母神やカミムスビや貝の女神たちなどの力で復活しますが、最後には迫害を避けるため、母神の配慮で根の国のスサノヲのもとにおくられます。そこでもスサノヲに試練を与えられますが、恋仲となったスサノヲの娘スセリビメの助けを得て脱出し、スベリビメと手を携え呪術能力を得てこの世に帰還します。迫害した兄弟神たちを退治し、支配者となります。

支配者としてのオオクニヌシは、国作りを単独では行えず、スクナビコナ(小彦名神)という海の向こうから渡ってきた小身の神の協力を得て、支配します。後にスクナビコナは海の向こうに去り、、オオクニヌシは国土の未完であることを嘆きます。

さて、このオオクニヌシは多くの神話的神の重ね絵とされます。事実、物語の展開のなかでその呼称を何度か変えます。『日本書紀』では、人々に「恩頼(みたまのふゆ)」を与えたと簡潔に書かれています。他方『古事記』では、複雑ですが民衆的なレベルでの神、あるいは支配者の理想像という古層をとくによく伝えているといえるでしょう。

しかし、オオクニヌシ神話は国土の完成のあとは一転して、色好みのこの神の女性遍歴と、妻であるスセリビメの嫉妬と、二人の和解の物語となります。

このように、出雲系の神話は、その政治性とは別に、その叙情性において、『風土記』にも登場するオオクニヌシの姿には、民衆に「恩頼(みたまのふゆ)」をほどこした神として、支配ないし支配者によせる集団的な願望のようなものが込められているともいえます。出雲系とくに、オオクニヌシ神話は、その後高天原の神に国の支配を譲るという形で書かれ、天皇の物語のなかで、重要な位置を占めます。政治神話と異なる側面をみせるのが、この神話の後半の愛の遍歴の部分です。そこでは濃厚に歌謡が情の世界と関わり、神の世界から、人間の情の描写へとの橋渡しの意味を持った部分を形成しています。

「大国主」となった「大己貴命」

『出雲国風土記』では、国引き神話のヤツカミズオミツヌこそ、出雲国の名付け神になっている。それは、ヤツカミズオミツヌが、この地を「八雲立つ出雲」と呼んだから、というものであるが、和歌こそ詠んでないものの『古事記』に記されたスサノオのそれと、まったく同じ内容である。

ヤツカミズオミツヌは『古事記』こそ、スサノオの四世孫としているが、案外、スサノオの別名ではなかろうか。

それはスサノオの「出雲」における呼称なのかも知れない。

『古事記』によれば、オオナムチはスサノオから、生大刀、生弓矢、玉飾りのついた琴を奪って逃げ、スサノオは、それを許している。これは、オオナムチを、軍師に命じたことに他ならない。この時スサノオは、50歳にさしかかってしたと思う。オオナムチが軍師になれたのは、スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)が、オオナムチに惚れてしまったという、『古事記』の記述を信用するしかないが、以外にも、本当なのかも知れない。いずれにしても、スサノオの後押しがなければ、不可能な話であろう。

軍師であるからには、スサノオの率いて来た、「物部」の大軍を自由に使ってもいいわけだ。オオナムチは、「越」の八口を討ったと、『出雲国風土記』は記している。この記述が、「越」の高句麗族の最後の時だ。

これにより「出雲」・「越」とも平定され、スサノオは、その後、南朝鮮に渡り、先に述べたとおり、南朝鮮を含めた日本海文化圏を、形成していくのである。

この文化圏は、鉄資源を元手にした通商連合であった。貿易を生業としていたのである。

通商を生業とした、早い話が商売人は、江戸時代の堺衆がそうであったように、何者にも屈しない、強い結束力を備えていたのであるが、一度、メリットが無くなれば簡単に崩壊してしまう。

オオナムチは、スサノオの後押しもあって、最大の貿易相手である「少彦名命」(すくなひこなのみこと、おそらく朝鮮半島の「昔」《すく》姓の一族。以下、スクナヒコナ)と、共同して貿易に携わり、国土経営をしていたのであるが、そのスクナヒコナは、常世の国に行ってしまう。すなわち、死んだのである。

この結果、オオナムチは、スポンサーを失ってしまうこととなった。

オオナムチは、『古事記』によれば様々な地方の女性を妻にしている。
スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)を始め、「因幡」の「八上姫」(やがみひめ)、「越」の「沼川姫」(ぬまかわひめ)、「宗像」の「多紀理姫」(たぎりひめ)、「鳥取」の「鳥取神」(ととりかみ)、「神屋楯姫」(かむやたてひめ)がそうである。

これらの女性出身地からみても、海を通じた交流の様子が窺い知れる。
「神屋楯姫」の出身地は明記されていないが、オオナムチの地元、「意宇国」であろうか。

この頃の、オオナムチの勢力範囲は、「大和」までに拡大していたらしい。

『古事記』には、「出雲」から「大和」(倭国)にオオクニヌシが、出張していく様子が記されている。このことは、「須勢理姫」との歌のやりとりとともに記されているのだが、「須整理姫」が、オオクニヌシに対して「八千矛神」と呼びかけているので、「大和」を勢力範囲にしたのは、スサノオだったのかも知れない。「八千矛神」とは、神社伝承学によれば、スサノオのことであった。

「昔」姓の「少彦名命」が亡くなることにより、スポンサーを失ってしまったオオナムチは、南朝鮮の資金源(鉄資源)を、絶たれてしまう可能性があった。もともと、南朝鮮の鉄資源は、スサノオ族が押さえていたのだが、その後、高句麗族に奪われた。スサノオは、「統一奴国」を成し遂げ、高句麗族を追放することにより、再び南朝鮮の鉄資源を奪取した、と推測している。その地盤をオオナムチが受け継いでいたのであるが、「昔」族は、スサノオ族と同郷であろう。「昔」族もスサノオ族もともに、「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと、以下、タカミムスビ)を、崇める一族であったのである。