最初の但馬人

 

最初の但馬人(たじまじん)

但馬で最も古くから人がいたのはどこだろう。
現時点では、兵庫県と鳥取県境で氷ノ山の北、扇の山の東、兵庫県美方郡新温泉町畑ヶ平旧石器遺跡である。旧石器時代後期、同じく新温泉町海上東尾の上山旧石器遺跡と家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの集落跡複合遺跡)である。

2カ所は同じ中国山脈の山岳地帯で尾根でつながっている。人類は最初、山岳地帯から住み着いていたといえる。畑ヶ平(はたがなる)遺跡では、火山灰の下から約2万5,000年前の旧石器時代のナイフ形石器が発見された。見つかった石器や石材の種類はさまざまなので、人々が継続的に活動していた証だといわれる。ただし、ここは標高1,000mの高地であり、当時の気候は分からないが、季節を選んだ一時的な居住場所であったのではともいわれている。

家野遺跡(養父市別宮字家野 海抜6~700m)は、旧石器~縄文までの複合遺跡で、約8千年前の縄文時代早期の平地式住居跡・屋外炉跡・貯蔵穴・焼土抗・配石遺構が見つかっている。

兵庫県立考古博物館の遺跡データベースを調べてきた。その後、但馬の旧石器時代の遺跡の発見は増えている。

杉ケ沢遺跡第13地点 養父市関宮出合甲字轟野
西谷遺跡 養父市三宅字西谷
円光寺林遺跡 〃 古井字奥山
八木西宮遺跡 養父市八鹿町八木字西宮
大山田遺跡 〃

養父町と但東町で尖頭器が発見されている。、大屋町の上山高原で採集された一片の土器破片と、日高町神鍋ミダレオ遺跡(神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で見つかった爪型文土器、訓原古墳群、家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡)の2カ所です。

また、養父市関宮(せきのみや)町や豊岡市但東(たんとう)町で尖頭器が発見されています。また、上山高原遺跡(養父市大屋町上山字峯山、標高773mの御祓山から北東にのびる尾根の、標高480~520mの緩やかな斜面にで、一片の土器破片(縄文時代早期)が採集され、神鍋(かんなべ)遺跡(豊岡市日高町神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で爪型文土器が発見され、
鉢伏高原遺跡(養父市関宮町丹戸(たんど))で縄文時代前期前半の竪穴式住居跡、土坑、集積遺跡を検出した。尖頭器なども出土しました。

高柳ナベ遺跡(養父市八鹿町高柳)で発掘された遺跡は、縄文時代早期に土を掘った穴が1か所、古墳時代の竪穴住居跡が8棟、奈良時代の掘立柱建物跡が21棟、古墳時代から平安時代にかけて粘土を掘った採掘坑等で、早い時期から連続した遺跡です。

兵庫県神戸市や瀬戸内側では旧石器時代の遺跡がかなり発見されいる。これは道路工事や開発により偶然見つかるケースからで、但馬に人が住み着くようになったのが比較的に遅いということにはならない。山岳地帯の多い但馬には、手付かずの旧石器人の足跡がまだまだ眠っているだろう。

但馬人のルーツと思われる旧石器人は、まだ日本列島が大陸と陸続きだった頃、獲物を求めて北からやってきたのか?地形的には兵庫県西部まで続く中国山地を、氷ノ山、鉢伏や神鍋を尾根づたいに西の方から獲物を追って移住してきたとも考えられる。

豊岡市で考古学の先駆者として知られている但馬考古学研究会の故瀬戸谷晧氏は、HP「但馬最古の遺物を求めて」で、

「ひと昔前は但馬には本格的な旧石器時代の遺物はないと考えられていた。旧石器時代、すなわち土器製作を未だ知らない一万数千年以上も前のことを本格的に調査・研究しようとする人は但馬にはほとんどいなかった。

そんな実態を、たとえば一九七四年に刊行された『兵庫県史』本編のなかに探ってみよう。その一巻によると、県下の遺跡分布図に三八箇所に点が落とされているなかで、わずかに二点が記されていたのみである。それも、もっとも新しい時期の「尖頭器」出土地として、但東と養父の二町の遺跡が紹介されているだけである。」

しかしここに疑問が湧いていた。なぜ最初に住み着いた原始人は山深い但馬にあってもさらに標高が高い豪雪地帯ばかりなのか?

たしかに、縄文時代以前は、今より気候は亜熱帯に近く、雪が積もる状態ではなかったのかも知れない。だから冬場でも住みやすかっただろうか。獲物や木の実、果実などを採集するのには、平地より山岳地帯の方が豊富だ。また平地は敵から狙われやすい。

それにしろ、こうした奥深い山岳地帯からのみ旧石器時代の遺跡がみつかるからといって、未開発だったから残っていただけではないかと。もっと住みやすい低地に人はいなかったのだろうか?低地になるほど後世に人が手を加え、棲家や耕作地にし、縄文以前の遺跡遺物を破壊してしまい、痕跡が残っていないだけかも知れない。山岳地帯からしか旧石器時代の遺跡が発掘されないからといって、原始人はかならず山岳地帯のみに暮らし、これを但馬人のルーツと断言することは無理だ。

縄文人は海洋民族

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縄文人は海洋民族

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『日本人のルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、

 文字のない時代、日本に天文学があったかは不明だが、約8千年前の三宅島や本土の縄文遺跡から、伊豆諸島の神津島産黒曜石が発見されている。約6千年前の八丈島の縄文遺跡からもこの黒曜石が発掘されているから、この時代の人たちは見えない島を目指して黒潮を乗り切る航海術を持っていたことになる。星や太陽の運行を理解していなければ外洋を乗り切り、見えない目的地に到達することは不可能だから、当時の人々は天文学の知識を持ち、使いこなしていたに違いない。また太陽進行を意識して造られたストーン・サークルや日時計を思わせる遺跡も、各地で発掘されている。縄文人は農業も行っていたから何らかの暦を使っていたに違いない。

日本各地から出土する異物は、太平洋諸島、沖縄列島、日本列島周辺で活躍する海洋民族の存在を示し、それが1万数千年といわれる縄文文化の一翼を担ってきた。
この時代の船は、縄文時代前期(6千年前)の千葉県加茂遺跡や福井県の鳥浜遺跡を始め、多くの遺跡から出土しており、その殆どが長さ6m以上、直径80cm以上の丸太をくり抜いた丸木船である。そして彼らの行動範囲が予想以上に広いことも分かってきた。

その証拠として近年、朝鮮半島南部から縄文遺跡が相次いで発見され、縄文時代の人たちはこの地まで進出していたことが明らかになった。

3千年前頃から縄文人たちは、九州あたりを出て朝鮮半島南部までの海を越えていたことがわかってきた。(中略)対馬からほど近い慶尚南道や釜山広域市で、最近相次いで日本列島から縄文時代の人々が渡っていたことを示す痕跡が見つかっている。
東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。朝鮮半島には独自の土器があり、縄文土器は縄文人がやって来た確かな証拠品といえる。朝鮮半島で特に貴重であった黒曜石を携え、縄文人たちは交易にやって来たのではないかと考えられる。(はるかな旅4)

だが、あの重い縄文土器を小さな丸木船に大量の乗せたうえでの渡航は考えられない。長期にわたり縄文時代の人たちが半島南部で生活し、土器を作っていたからこそ大量の土器が発見されたのであろう。さらに九州産の黒曜石が発見されたことから、彼らは消耗品である黒曜石を供給するため、定期的に往来していたに違いない。

今まで「大勢の渡来人が日本へとやって来た」とされた時代があった。逆に、かなりの日本人が半島へと進出していたのだ。半島南部から発見された多くの遺跡や縄文土器、弥生土器がこのことを証明している。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』 長浜浩明氏で、「倭人は朝鮮半島にも住んでいた」で、このあと、新羅・百済、加羅のち任那日本府も、縄文時代から続く倭がつくった小国家であったことにつながっていく。韓国人が聞くと発狂しそうだが、朝鮮から日本へもたらされた独産物や文化はない。

三国志・韓の条「韓は帯方郡の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。三種あり、一に馬韓といい、ニに辰韓といい、三に弁韓という。

実は縄文時代から多くの人々が日本から半島南部に移り住み往来していた。かなりの韓国人のDNAが縄文・弥生時代の日本人と相同であり、半島から出土する多くの縄文土器・弥生土器がこのことを裏付けている。

「韓国」とはシナの植民地名であり、朝鮮が南北に分断され北朝鮮と大韓民国「韓国」となった。朝鮮半島ではなく韓半島というべきとして迫り、一部のノー天気な歴史学者やメディアは「韓半島」と云うが、それはかつてシナが蔑視して周辺を蔑んで倭や韓と呼んでいたのに朝鮮から韓国に戻して喜んでいることを知っているのだろうか?要するにシナの属国だと宣言しているのであるから。まあそうなりつつあるのは皮肉だ。

弥生文化圏の成立

『倭の古王国と邪馬台国問題上』 著者: 中島一憲から。

三千年前からはじまって二千五百年前に「真冬」となる大気候の寒冷期は、紀元後八世紀(1300年前)まで続き、ちょうどこの時期に「製鉄」が世界に普及するので「鉄器時代初期の寒気」と呼ばれている。

二千五百年前といえば列島では縄文晩期の「葉畑・曲り田段階」である。列島の平均気温は現代より二度低く、11度ほどであったという。
早期稲作が瀬戸内海地方や東北地方に始まったことを考えると、この時期に西北九州地方に稲作が普及するのは、「渡来人」が新たに優れた(水)稲作技術を朝鮮半島からもたらしたからではなく列島の大気候の寒冷化と関係があるのではないだろうか。

だが「鉄器時代初期の寒気」には、世界的にも紀元前後を通じて例外的に温暖な時期があった。

中国大陸では戦国時代のはじめ(紀元前403年・2400年前)から、後漢時代のはじめ(紀元25年・2000年前)までのおよそ400年間が寒冷期の谷間の温暖期となった。日本では尾瀬ヶ原の泥炭層の花粉分析の結果、紀元前約400年から紀元20年にかけて「弥生暖期」の名がつけられている。

しかし、つかの間の温暖期も大陸の内陸部から崩れはじめる。中国の文献には、すでに紀元前1世紀から内陸部に寒冷化と乾燥化が同時進行し、旱害とと鍠害と飢饉と疫病がきょう奴の社会文化を壊滅させたことが記録されており、紀元48年の南北分裂後、南きょう奴は後漢に帰順したが、北きょう奴は91年の後漢の攻略によって西方へ逃散し、古代中国史から姿を消している。

黄河流域の中原(ちゅうげん)でも後漢の桓帝(147~167年)の時代の184年には数十万人の飢餓農民の反乱である「黄巾の乱」が勃発する。
ちょうどこの時期が『後漢書』「倭伝」や『太平御覧』にのる『魏志』逸文に記録された「倭国大乱」という列島の内乱時代と重なっているのは、列島の大気候が寒冷化したためか、大陸の動乱の直接・間接の影響によるもの寡欲検討する必要がある。列島の本格的な「冬」はもう少し遅れて240年ころに始まったとされているからである。
大陸内陸部の冷涼寒冷化は黄河中原の冷害はまだ予兆的なもので、魏王朝(220~264年)時代の225年には黄河と長江(揚子江)の間を流れる准河(ワイガ)が凍結し、227年には「連年穀麦不収」という記事がある。
弥生時代600年間の列島の大気候は、前半暖かく後半はやや寒かったと要約できるだろう。

豊葦原の瑞穂の国

佐原真氏は、福岡県遠賀郡水巻町立屋敷遺跡は福岡県中央部を北流して響灘に注ぐ遠賀川の川底にある。1931年、この遺跡から豊富な文様をもつ弥生土器が発掘され、遠賀川式土器と命名された。

その後の発掘調査で、この土器は弥生前期(紀元前300~同200年)に太平洋側では愛知県西部の名古屋、日本海側では京都府丹後半島を東限とする西日本一帯に分布していることがわかった。
この土器が出土する遺跡にはコメや稲もみ、農具類が伴出するので、この土器は農民の生活道具であり、遺跡の性格は農村集落であるとされている。

ところが1982年ごろ、青森県八戸市松石橋遺跡で「遠賀川式と見まごうばかりの完全な壺が発見されて以来、八戸市是川、山形県酒田市地蔵田B、秋田市生石2、福島県会津盆地の三島町荒屋敷などの遺跡でも、続々と遠賀川式そっくりの土器が出土した。
なかにもみ跡がついているものがあり、東北でのこの時期の水田遺跡の発掘が期待されていたが、1187年に弘前市砂沢遺跡でその水田が発掘された。

このようにして日本列島では弥生前期には、すでに北は青森県から南は鹿児島県にいたる稲作と土器を共有する文化圏が成立していた。北海道と南西諸島、沖縄を除く本州、四国、九州がきわめて均質な稲作文化圏を形成しているのである。(佐原2000)

記紀の神話で、天照大神が孫のニニギノミコト(邇邇芸命)を降臨させた、豊葦原のチアキナガイホアキ(千秋長五百秋)の水穂國(瑞穂国)、アシハラノナカツクニ(葦原中国)というのは、おそらくこのように水稲耕作が普及した時代の日本列島主部のことだろう。(中略)

主な縄文前期の遺跡

■縄文草創期~早期(1万2千年前~6千年前)
紀元前8000年頃
静岡県富士宮市若宮遺跡(最古の集落)
福井県三方郡鳥浜遺跡(海港・農耕遺跡)
島根県隠岐諸島島後宮尾・中村湊遺跡(黒曜石コンビナート・海港)
京都府京丹後市丹後町平遺跡(海港)
同 6000年頃
函館市函館空港遺跡(大規模定住集落)

■縄文前期(6千年前~5千年前)
紀元前3800年
山形県米沢市一の板遺跡(石器のコンビナート的集落)
東京都伊豆諸島八丈島樫立(海港)
長崎県多良見町伊木力遺跡(海港・丸木船出土)

京都府京丹後市峰山町は、丹後半島を流れて日本海に注ぐ竹野川の中流域に位置する。そこの扇谷遺跡は深さ4m、最大幅6mの濠が直径270m、短径250mの範囲をめぐる弥生時代の前期後半から中期初頭にかけての丘陵上の環濠遺跡である。

濠の底から土器、碧玉やメノウなどの玉造りの遺物とともに鉄斧と鉄滓が出てきた。鉄斧は鋳鉄で原料は砂鉄ではないかと考えられている。
「チタン、バナジウムの量が多く、砂鉄系の原料を使った可能性が強い。鉄滓も砂鉄系の鍛冶滓の感じがする」ということであるから、私は弥生前期後半にはすでに列島内で砂鉄原料による精錬製鉄が行われていたと考えている。

この峰山町を含む丹後半島一帯は「記紀」伝承に登場する「丹波の県(あがた)」の地であり、古くからひとつの政治文化圏を形成していた特別な地域である。ここには今に残る「丹波」という小字があるし、隣の弥栄町との町境にまたがる4世紀後半の大田南五号墳からは、1994年に紀年銘鏡としては最古の「青龍三年」(235年)という魏の紀年銘のある青銅鏡が出土している。また弥栄町の遠所遺跡では1987年に、いまのところ列島最古とされる五世紀末のタタラ・コンビナート遺跡が発見されている。

森浩一氏、門脇氏は、
さらに峰山町には、扇谷遺跡とほぼ同時期の途中ヶ丘遺跡という高地性集落がある。扇谷遺跡から2km程しか離れていない。「これほど接近して二つの大きな高地性集落があるところなんて、全国的にもまれ」である。

そしてこれも同時期に、弥栄町には奈具岡遺跡という「弥生中期の玉造り遺跡があって、緑色の凝灰岩に加えて、そんなに古くから水晶が使われていたのかと思うほど、たくさんの水晶の玉を造っている。

竹野川上流にある「大宮町には弥生時代の小さな古墓がたくさんある。ガラスの玉がたくさん(7~8千)出て、それがブルー系のきれいなガラス玉なんです。弥生時代に限れば、ガラス玉があんなにたくさん墓から出るところは珍しい」(森浩一氏、門脇氏)。

こうしてみてくると、古代タニハ国は、弥生中期から砂鉄製鉄を行ってきた伝統的な「工業国」で、八世紀の『古事記』に「大県主」として記録されたユゴリの名は、門脇氏が指摘されるように「湯凝」すなわち、哲也青銅などの金属素材を熱で溶かして精錬した四世紀代の技術集団の指導者の名ではなかったか。

またヒコ・ユムスビのユブスビも「湯結」すなわち製鉄王の孫にふさわしい命名だと思われる。このようにして弥生中期以来、製鉄とガラス工芸の一大コンビナート地帯であったことがうかがえる仮称「タニハ国」は、三世紀末には畿内の大王と緊密な関係を結ぶようになる。

もちろん「記紀」に基づく系図は後世的なものでとりわけ婚姻関係や血縁関係をそのまますべて史実とするわけにはいかないが、伝統的な政治関係がそこに投影されていると考えることはできるだろう。

私はそのことからさかのぼって、弥生中期の仮称「タニハ国」は、日本海と近畿の中心を関係づける重要な軍事的・経済的戦略拠点として栄えたのではないかと想像している。

これも後世のことになるが、「大和へ結ぶ道も、丹後(タニハ)には、現在のように京都市から出ていく道と、丹後の加悦谷から福知山の方へ出て、山越えで神戸の垂水に出る。系図で見たタケトヨ・ハズラワケの母のワシッヒメは葛城垂見宿禰の娘とされているが、垂見は垂水でしょう。そして大阪湾をわたって堺から上陸し、葛城に出る。このルートの意味をもっている。

「そういう点で、丹後(タニハ)というのは、古くは、大和からいえば、西の瀬戸内へ出ていくルートに加え、近江を経て敦賀へ出るルートとは別に、かなり重視されていたと思っているわけです」(門脇氏)。
門脇氏はそれを古墳時代のこととして述べておられるが、弥生中期の近畿中心部の発展状況と、仮称「タニハ国」の発展状況に技術的な格差が見られないことや、仮称「タニハ国」の地政学的条件から考えると、私は両者の緊密な関係はすでにこの時期からはじまっているのではないかと思うのである。

丹後町竹野遺跡で、弥生前期の地層から外洋とつながる直径1kmほどの潟湖が見つかった。同じ地層から大陸製と思われる磁器も出土し、個々に古くから開かれた港市国家が成立していたことが裏付けられた。
拙者はこの野田川から元伊勢神宮を通り天田郡(福知山)から由良川上流、石生(水分かれ)という日本一低い分水嶺からそして加古川へというルートが信憑性があると思う。またこのルートと前後してまた別のルートでより近い但馬・出石の沖の気比から朝鮮半島に出向いていたとも考えられる。天日槍や神号皇后のルートにほぼ一致していることが、記紀が単なる神話ではなく、当時のヤマト政権の勢力範囲を示していると考えられるからだ。

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たじまる 弥生6 奴国誕生

奴国誕生

2.九州北部「奴国誕生」

1世紀ころ、百余国もあった日本列島の国(といっても西日本の一部であろうが)の中で、スサノオ族を中心に結束した九州北部の「奴国」が、徐々に頭角を現してきたのです。現在の博多付近に存在したと推定されています。 スサノオ尊の建国した国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・連合体でした。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたとあり、江戸時代に農民が志賀島から「漢委奴国王」と刻まれていた金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明されました。委国の委は、倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭です。

スサノオ尊は、小諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始し、御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。思えば、スサノオは日本列島に初めて国らしき国を創建した建国の始祖王だった。

南九州では日向を連合させたとき、伊弉諾尊(いざなぎ)の娘・向津姫(むかつひめ、記・紀の天照大神)を現地妻として娶(めと)り、豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置いた。そして、各地に御子・八島野(やしまぬ)尊・五十猛(いたける)尊・大歳(おおとし)尊・娘婿の大己貴(おおなむち)尊(大国主)や部下を配置して統治させた。

政情がほぼ安定したのを見定めて、筑紫(ちくし)から讃岐(さぬき)に遷(うつ)って、北九州から瀬戸内地方を統治していた大歳(おおとし)尊に、河内・大和に東遷(とうせん)して、以東の国々を統合するよう命じ、故郷・出雲に帰って亡くなられた。ときに65歳、BC124年頃とみられる。

スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られている。神のなかの祖神(おやがみ)である。

大同五(810)年正月、嵯峨天皇は、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオ尊を祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉られ、また一条天皇は、同社に天王社の号を贈られた。

当時の天皇は、記紀に

中国の史書・宋史の日本伝は、神武天皇(記・紀では初代天皇)の六代も前に、素戔嗚尊(須佐之男尊)を国王としてはっきりと記している。

ようやく九州北部にもクニが誕生しきて、大陸の統一国家「漢」への朝貢は、満を持してのことだったはずです。そして、初代奴国王こそ、スサノオの父でしょう。当然、他に百余国もあるのだから、妨害工作や、先に朝貢を試みた諸国は他にもあったと考えられますが、『漢書』に、「奴国」以外の朝貢の記述が無いことから、諸国も納得せざるを得ないほど、「奴国」は強大な国になっていたのでしょう。また、稲作が九州北部ではじまったことなどから、スサノオは、九州で生まれていると思われます。

そして、初代奴国王である父から、王位を引き継いだスサノオの時代がおとずれます。推定、紀元前97年のことです。九州北部から中国地方の出雲に勢力を広げます。

『記紀』神話中、最大にして最強の巨神、出雲の荒ぶる神「素戔嗚尊」(すさのおのみこと、以下、スサノオ)です。スサノオは「尊」としています。本文で、大悪人のごとく記述しているにもかかわらず、これは、どういうわけなのでしょうか。

「命」・「尊」と書いて、ともに「みこと」と読みます。『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ
以外は、「命」と明確に区別しています。『日本書紀』自らが、そう注釈しているのだから間違いはありません。

『古代日本正史』の著者、原田常治氏は、『記紀』という人造亡霊からは、真の古代史などわからない、という一念から、その資料を奈良県の「大神神社」(おおみわじんじゃ)に始まり、全国の『記紀』以前の、創建の神社に求めたのです。

原田氏は、神社名と主祭神との比較検討から、本来祀られていた真実の神を発見し、それら神社の由来を調査した結果、一本の歴史ストーリーを完成させています。同様の手法は、『消された覇王』の著者、小椋一葉氏も採用され、同じ結論に到っています。

それによれば、スサノオは、ヤマト朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させていた、日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言います。

3.出雲神政国家連合

つまり、ここですぐ想像できるのは斐伊川支流の荒神谷(簸川郡斐川町)で発見された358本もの大量の銅剣や銅鐸・銅矛です。

荒神谷で発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土した組合わせは、これまでに例のないものでした。しかも、358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。

これらは、九州「奴国」を統一した王スサノオは、九州地方の政情が安定したのをみて、出雲まで進んできて、スサノオがオオムナチ(大己貴尊・大穴牟遲命)とムカツヒメ(向津姫)に後を托し、故郷・出雲に帰り、紀元前124年頃、65歳くらいで亡くなられたとみられます。オオムナチは出雲の大国主となって出雲の統治を任された。ところで、島根県簸川郡佐多町宮内(もと須佐村、現在・出雲市佐田町)に在る須佐神社(須佐大宮)には、祭神・須佐之男命・稲田比売命・足摩槌命・手摩槌命(須佐家祖神)が祀られ、社伝に「ここはもと国幣小社で、社殿の造営・改修は武将藩主によって行うのを例としてきた。また、須佐家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任ぜられ、今日まで連綿と七十八代を経ている(AD2004年現在)といいます。

資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を、新技術や資源を梃子(てこ)に説き伏せ、大同団結を呼びかけた。越・加賀・能登・長門・筑前・豊前から日向にも遠征し、北陸・山陰・中四国・九州各地の小部族国を連合、拡大に成功し出雲神政国家連合を創建した。国王スサノオは、「和」を治世の基本戦略とした。

邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。

例えば、江戸期における大名の参勤交代などは、神無月に出雲へ全国の神々が出雲に参集し会議を行うことをモデルとしたと考えるのが合理的であるとの指摘があるそうです。「弥生」、「神無月」など旧暦の名称や、和歌[*1]、相撲の起源などもここに求められるという説もあります。

ただし、宗教でまとめ上げられた合議的連合政体は、武断的ピラミッド組織をもつヤマト王権の政体にとって変わられたとする見解があり、それが有名な「国譲り」の物語として今に伝わっているとしています。

現在考えられている古代出雲の広がりは律令制でいう出雲国+伯耆(ほうき)国と考えるのが妥当であり、出雲国府跡が松江市大草町であることからも、初期の中心地は出雲と伯耆の国境近辺にあったと思われ、大和朝廷の弱体化政策により、出雲と伯耆に分断されたと見るのが妥当とされています。その後も出雲文化を継承した律令出雲の実質的支配者、出雲国造(くにのみやつこ)家は現松江市東部にあり、その本幹である出雲大社を中心に宗教的活動を行いました。

神話に登場する国譲り神話は、この国造家がその権威を大和朝廷から次第に剥奪され、ついには出雲大社の神官というだけの地位までになり、意宇郡(おうぐん)の大半の権利を平安期に剥奪され、現在の出雲市大社町を中心とする西出雲に押し込められた形となった経緯を神話として今に伝えていると考えられています。

神政合議政体を維持できたのは、同盟国との共有化しうる神話制作の巧みさが指摘されていますが、一方で縄文時代に始まった黒耀石[*2]の流れを汲む圧倒的な玉石加工(玉造)や鉄や銅の金属製造技巧(たたら)を蓄え、その交易によってその優位性を形成したとの見方もあります。

4.四隅突出型方墳


2号墳墓

大規模な西谷古墳群や荒島墳墓群などの、隅部が発達した四隅突出墳と呼ばれる独特の出雲の墳墓の形が、弥生時代中期から中国山地から出雲・伯耆・因幡、時代を日本海を北上して、少し遅れて越前(福井県嶺北)・越中(富山)へとその広がりを持っている(但馬・丹後・若狭の方形墓のものとは異なる)。3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混じっていた。 山陰地方東部から北陸地方南部にかけての首長の間に強い結びつきがあり、政治的勢力の同盟関係があったのではないかと推測できる。さらに、吉備の場合も同様なことが考えられます。日本海側を中心に約90基が確認されています。北陸地方(福井県・石川県・富山県)では現在までに計8基が知られています。

墳丘墓側面には貼り石を貼りめぐらし、サイズは後の前期古墳のサイズに近づいていたなど、古墳時代以前の墓制ではもっとも土木技術が駆使されており、日本海沿岸という広域で墓形の規格化が進んでいた。

このことから、山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されるが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考えるものもおり、出雲国造家とのつながりを指摘するものもいます。

造山古墳1号墳(島根県安来市)は一辺60mの古墳時代前期のもので、この時代のものとしては全国でも最大級の方墳で、近隣には、大成古墳もあり造山1号墳同様、古墳時代前期に築造、全国最大規模の方墳。


西谷2号墳墓

姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。

また、四隅突出墳墓に代表される独自の文化を生み出しました。

出雲西部の荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語りますが、この大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説はありません。

その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では、鳥取県米子市から大山町にまたがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡や島根県安来市の竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開しました。古墳時代前期では全国最大級の方墳である、大成古墳、造山一号古墳にその繁栄の後がうかがえます。

さらに、ヤマト・吉備連合政権の物部氏の侵攻によって、ヤマト政権に従属したとの説や、それでは記紀に記された膨大な出雲の活躍が説明できないとして、ヤマト政権樹立のため協力し大和へ一部が移住した(これが物部氏、蘇我氏に相当する)との説もあります。また、魏志倭人伝にある邪馬台国七万戸に次ぐ大国である投馬国五万戸を出雲に比定する説があります(前田晴人氏など)。

朝鮮半島北部にあった中国の植民地の楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと思われ、壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡、任那と壱岐、古代出雲の間の交流を示しています。 楽浪郡には、中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味する。邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められています。

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もあります。「古事記」、「日本書紀」の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺えます。

5.統一奴国

初代奴国王から、王位を受け継いだスサノオを、推定15歳としますが、スサノオの死亡年齢から推定すれば、このとき10~20歳であったと思われます。幼き王に、一国を治めるだけの力があろうはずがなく、当然、参謀格の武将なり智将なりが、政治を司っていたものと思われます。彼らは、「もののふ」と呼ばれる武闘派であり、呪術集団でもありました。もちろん推定でしかありませんが、その中でも、卓越した指導力を発揮した者こそ、後の「物部氏」「蘇我氏」です。

スサノオを王とした「奴国」は、107年までに九州全土をほぼ掌握したものと思われます。スサノオ尊、その息子・「大歳」(おおとし=のちにニギハヤヒノミコト(饒速日尊)と改める)とともに、鹿児島県に至るまで、九州地方の神社に広く祀られています。

そしてその年、「奴国」を「倭面土」(ヤマトと読める説も、首都の意味である)とした一大国家・「統一奴国」の国王帥升(すいしょう)となったスサノオは、「後漢」の首都、洛陽におもむき、孝安帝に面会を求めたのです。

この時の推定年齢は、20~30歳でしょう。大国・「後漢」の皇帝に直接面会を求めるという大胆な発想は、血気盛んなこの若さでないとできないことだと思います。ちなみに、生口(せいこう)[*1]を160人つれてと、『後漢書』は記しています。

スサノオは、その勢いに任せて、関門海峡を渡り「出雲」へと向かったのではないでしょうか。「出雲」の鉄資源の噂を、どこからか聞いたのかも知れません。ところが、その地は既に、八岐大蛇(やまたのおろち、以下、ヤマタノオロチ)が支配する土地でした。

『記紀』神話では、高天原を追われたスサノオが、出雲の地で、ヤマタノオロチの人身御供にされようとしていた、「櫛稲田姫」(くしいなだひめ)を救うためにヤマタノオロチを倒して、夫婦になったと記しています。『古事記』では、「高志」(こし)のヤマタノオロチとしています。「高志」とは「越」であり、今の、新潟県のことではないかというのが有力です。

また、『日本原紀』の著者である朴炳植氏によれば、「越」とは、「高句麗」のことであり、朝鮮半島から日本海を渡って、高句麗人が住み着いていた地が、「越」であるといいます。ヤマタノオロチとは、大勢の「オリ」とか「オロ」と呼ばれた、「越」の人々であるらしく、それを裏付けているとしています。さらに、「語りべ」・「下僕」と言うことから「べ=人」であり、他にも、人の意味を表す古語として、「ち」があるといいます。とすると、「オロチ」は大勢の人となります。「オチ=エチ」「アイチ」も類似します。

6.スサノオは「砂鉄」を採る男だった

砂鉄は日本のような火山列島には、それこそ腐るほど埋蔵されています。だから、出石の墳墓に砂鉄が埋葬されてあったということは、出石の豪族が砂鉄に感謝したからに他ならないのです。 このことは、出雲のスサノオをめぐる神話からも読みとれます。一般に「出雲神は新羅系」とする考えがありますが、そうではなく、スサノオは朝鮮半島に群がった倭人を象徴的に表しているようです。

なぜなら、出雲でのスサノオは、朝鮮半島の「鉄の民」の要素を持っていますが、それは決して大陸や半島の人々の発想ではないからです。

吉野裕氏は、『出雲風土記』に登場するスサノオをさして、海や川の州に堆積した砂鉄を採る男だから「渚沙(すさ)の男」なのだと指摘しています。

スサノオはヤマタノオロチ退治をしていますが、この説話が製鉄と結びつくという指摘は多いです。砂鉄を採るために鉄穴流し(かんなながし)によって真っ赤に染まった河川をイメージしているというのです。

出雲大社の摂社は「素が社」です。蘇我氏と出雲は強く結ばれていたのではないかと思えます。その理由の一つが、蘇我氏も砂鉄と強く結ばれていたからです。スサノオ同様、蘇我が関与したのは「鉄鉱石」ではなく「砂鉄」です。「ソガ」のもともとは「スガ」からきているようで、「スガ」は湿地帯を意味していて、なぜスサノオがじめじめしたところを好んで宮に選んだかというと、やはり「鉄」が関係してくる疑いがあります。砂鉄は鉄穴流しをするために大量の水を必要とします。スサノオがヒボコ同様に湿地帯を選んだのも、このためだろう。


[*1]生口(せいこう)…弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。

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