但馬に圧倒的に多い兵主神社の訳は?!

但馬には兵主神社という神社が出石神社を取り囲むように郡境などにあって際立って多い。このような地域は全国的にも例がない。

兵主とは武神で、後の八幡神社も武神です。滋賀県野洲市にある兵主大社の祭神は八千矛神(やちほこのかみ)(大国主神)を主祭神とし、手名椎神・足名椎神を配祀する。中世には、「兵主」を「つわものぬし」と読むことより、武士の厚い信仰を得た。中でも源頼朝・足利尊氏による神宝の寄進・社殿造営があり、社宝として残されている。また、江戸時代には、徳川将軍家から社領の寄進を受け、厚い保護を受けた。奈良の穴師坐兵主神社が最も古いらしい。しかし、出雲系の須佐之男命や大己貴命、大國主命を祭神とする社が多いのだが、不思議と天日槍の移動ルートに類似して建っていて、崇神天皇と垂仁天皇の頃には、記紀の丹後、但馬の記述が特に多い。彦坐王(開化天皇の子)の娘、狭穂姫を最初の皇后として、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、その中から日葉酢媛を皇后とする。丹後王国がヤマト朝廷支配下に入ったとみられる。また、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。現在の伝垂仁天皇陵とされる宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。兵主神社がやたらと多いのはこのころ但馬が半島の防衛基地になったことが分かる。

但馬に式内社が異常に多い謎は日本海の防衛基地だった

式内社(延喜式神名帳記載の神社)が多い但馬で触れたように、但馬国は式内社の数が、畿内ではないし、他の旧国と比べて決して面積的にみても特別大きいといえないにも関わらず、式内社の数が大和・伊勢・出雲や近江に次いで、131座で全国で5番めと異常に多いのである。

さて、なぜ延喜式神名帳が重要なのか。「式」とは、天皇の命により編纂された格式(律令の施行細則)で、弘仁式は、701年(大宝元年)から819年(弘仁10年)、次の貞観式は871年(貞観13)完成。そして延喜式は、平安時代中期の905年(延喜5年)に編纂され、三代格式の一つである。三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけであり、かつ細かな事柄まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっている。つまり、延喜式の前の二つの格式を引き継いでさらに改編していると考えられるから、八世紀(奈良期)の神社の位置づけが判る。

式内社は当時朝廷が認定した官社・国社で、日本の律令制下において、地方の要として重要視された神社であることを示している。但馬国は131座(名神大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも名神大社の位の神社数は大和に次いで多い。名神(みょうじん)大社というのは、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。名神は神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号で、名神祭(みょうじんさい)は国家的事変が起こり、またはその発生が予想される際に、その解決を祈願するための臨時の国家祭祀である。

旧丹波として丹波・丹後を合わせると267座・大30座。
大和國:286座 大128 小158
伊勢國:253座 大14 小235
出雲國:187座 大2 小185
近江國:155座 大13 小142
但馬國:131座 大18 小113
越前國:126座 大8 小118
このことが朝廷から見て消し去ることのできない重要な場所であったのではないかと思えるのだ。それは関裕二氏の神と鬼から、天皇家が神であり、多くの豪族を鬼として抹殺した祟りを恐れていたことに他ならないのではないだろうか。
しかも但馬国は近隣で比べてみても、
但馬國:131座 大18 小113
丹波國:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭國:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨國:50座 大7 小43
となっていて異常な数なのだ。
但馬が決して大和や出雲に比べて華やかな歴史が残っているわけではないのに、全国で5位、近隣を遙かに引き離していることがわかった。平安京の近くばかりと思わなくもないが、22年の歳月を掛けて全国の神社を調べている。しかも延喜式は三大格式の初期から260年も経て編纂されたのが三代格式で、その最後のものが延喜式であり、唯一ほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけである。
それは大和朝廷が確立したころは、その勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。ただし、古くは丹後國、但馬国もかつての丹波国の一部ですから、旧丹波国を合わせると267座は、大和に次ぐ全国2位なのだ。
ここではヤマト朝廷成立以前にすでに存在していた古い自然神・出雲系などの神社を、どうしても無視できなかったのではないか、大和・伊勢は天皇家の本拠であり当然だろうけれども、その他の但馬、丹後、越前、近江などは出雲系神社が多い。しかもそれは神功皇后と天日槍=ツヌガアラシトにゆかりがある国ばかりである。
記紀は、天日槍の末裔とされる神功皇后から、実際の初代大王とされる崇神天皇、その子の垂仁天皇の時代になると但馬や丹後の記載が圧倒的に多くなる。
武光誠氏は、日本固有の信仰は、精霊信仰、祖霊信仰、首長霊信仰の三層から成ると述べた。
但馬国も縄文時代のから弥生、そして天皇家のヤマト朝廷になって以降の三段階があるとする。
まず精霊信仰である神奈備(神鍋山)の自然神が祀られている神名大社は気多郡四社と城崎に海神社一社
次の時代の祖霊信仰である物部系出雲系神社が先であり一宮が二つあるが、粟鹿神社が先にあった。
だとすると、天日槍の出石神社は、天皇家の首長霊信仰となる。

縄文時代-精霊信仰

死火山神鍋山を神奈備とする自然神が祀られている神名大社は、気多郡(日高町)四社「山神社」「雷神社」薬の神「椒神社」火之神「戸神社」と城崎(豊岡市港地区)に「海神社」一社。

弥生時代-祖霊信仰

・弥生時代 出雲神政国家連合
秦漢から半島や北部九州に渡来人が移住してきて、稲作と青銅器、祖神を祀る人間神信仰をもたらした。
縄文人と渡来人は融和しながら弥生人が形成される。
ニギハヤヒ、オオナムチなど出雲系・物部系が日本海や朝鮮半島との交易と越(北陸)までに住み着いていった。
古社である粟鹿(日下部)、養父、小田井神社は、沼地だった但馬を開削したとしている。

ヤマト王権時代-兵主信仰

ヤマト政権が誕生する有史以前に、出雲系物部一族の吉備・山陰・丹後・若狭・北陸の出雲神政国家連合の祖、ニギハヤヒが大和に東征した。一族は纏向宮を建て諸国は連合体の日本を建国した。
但馬及び丹後が重要なポジションに位置していたのではないか。ヤマトに穴師兵主神社を建て、天日槍を祀る出石神社、崇神・垂仁両天皇との関わりが濃密になっていたことが『日本書紀』の記述から伺えます。
記紀では但馬を開削したのは天日槍となった。銅鐸は埋められ粉々にして放棄された。気比銅鐸、久田谷銅鐸片
ヒボコ系神社や兵主神社が但馬に集中して造られた。
天日槍系および兵主神社はすべて式内社であるから、延喜式以前には古社として確固たる神社であったことは間違いない。各郡に1社という割で、交通の要所に均等に配置されたのではないだろうか。

大和朝廷国家統一-丹後籠神社が元伊勢へ 伊勢神宮遷宮

丹波國から但馬國が分立。それは、朝鮮半島との玄関口が、都に近い但馬に移り、また出雲神政国家連合勢力への抑えから大和の都に近い但馬・丹後に必然的に要衝として重要視されていたからではないか。
但馬国造に日下部氏、社家に長尾市、丹後国造と社家に海部氏 ?
大宝律令発せられる。
丹波國から丹後國分立。
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