水田稲作と技術は伝播ではない

稲作と技術の伝播

[catlist id=583] 縄文時代から行われていた稲作

狩猟や自然の恵みを採集していた縄文人と大陸から渡来してきた人々が水田稲作をもたらし人が稲を栽培するようになった。人々の中には農耕や道具作りに長けた人もいたかも知れないが、弥生時代に水田稲作が突如始まったわけでも、大量に弥生人のルーツである渡来人がわたって来たという定説は覆りはじめた。

「日本の酒の歴史」(協和発酵(株)元会長 加藤辨三郎)には、
いろいろな説があるが、今日の学説から次の3つに要約することができる。

(1)華北説(華北→朝鮮半島→北九州)
(2)江南説(江南→東シナ海→南朝鮮・北九州)
(3)「海上の道」説(台湾→沖縄→九州)

第一の華北説は考古学者浜田博士が提唱したものであるが、華北の仰韶(ヤンシャオ)文化・龍山(ロンシャン)文化と日本の弥生文化との間の時間的な落差があまりにも大きすぎるので今日では疑問視されている。また、第三の柳田国男説も偶然性が強く説得力に乏しいとして退けられている。したがって、第二の安東博士の提唱した江南説(江南の稲作が日本と南朝鮮へ同時に伝わったとする学説)が最も有力で、多くの学者の支持を得ている。

江南というのは、今の中国の長江(揚子江)以南地域を指すが、ここから南シナ沿岸地方にかけては、かつては呉・越・ビンなどの名で呼ばれたオーストロ・アジア系の非シナ稲作民族が先住していた。彼らは稲作を行うかたわら航海技術にも長じ、早くから船を操って沿岸交易に従事していた。ちょうどその頃、この地にまず呉・越が台頭し、次に楚(ソ)が勢いを得たが、さらに北からは秦の、続いて漢の国家的統一が進み、漢民族が大挙して江南の地に進出するといった政治的激動が起こった。強大な漢民族の圧迫に耐えかねたこの地の非シナ稲作民族は、やむを得ず海上へ脱出して難を避けた。江南から北九州へ、あるいは南鮮へと稲作文化が移動していったのは、このような民族移動の一つと見られ、紀元前二、三世紀のことであった。たまたま『魏略』逸文に見える倭人の記事の一節に
「其ノ旧語ヲ聞クニ自ヲ太伯ノ後ト謂フ」とある。これは、倭人のなかには呉の太伯の後裔、言い換えれば江南の人を祖先に持つという伝承があるという意である。この伝承は、江南からの稲作文化渡来の有力な裏付けとされている。
しかし、ある日突然稲作文化を携えた多くの人々が、一時に日本へ渡ってきたわけではなくて、これら大陸の農耕文化の波のうち、最も大きなうねりの一つが江南地方からのそれであったと考えてよい。それ故、「日本酒」造りの原型は、この稲作文化を構成する要素のなかから見いだすことができる。

「稲の日本史」 佐藤洋一郎著では、
弥生時代の人びとの中でもっともポピュラーであった植物資源はドングリの仲間であり、イネがこれに続くがそのウェイトは全体の中ではそんなに大きくない。弥生時代の食は、水田稲作が導入された後とはいえまだ採集に依存する部分が相当に大きく、栽培によって得られる資源の中でもイネに依存する割合が高いわけでもない。日本列島では農耕の開始や広まりは実にゆっくりしたものだった。としている。

黄河の下流の肥沃な土地で、約3000年前には稲作が始まったとされる。また緯度が揚子江より高く、温帯性の気候である。
渤海の北側離岸流から対馬海流に乗る。伽耶国あるいは新羅に到着する。伽耶国は鉄の産地なので、このルートで鉄器が伝来した可能性はあるが、稲作については文献資料は残されていない。

東シナ海に出帆し、黒潮の本流に乗ると、秋冬は強い偏西風により、日本列島沖合いを流される可能性が大である。台風に遭遇することが多い。鑑真はこのあたりより出帆し、何度も渡航に失敗している。また元寇の際にも南宋の船団は操船に苦労し、遅延したという記載がある。東シナ海に出帆した漁師の食料の籾が、黒潮に流され、九州に漂着して、自生したという説がある。

朝鮮併合時代に、朝鮮半島は日本総督府によって隅々まで水稲栽培や治水整備がなされた。韓国・朝鮮には農酒(マッコルリ)という濁り酒のような酒はあるが、それ以外に米を用いた紹興酒や清酒のような濾過した酒は今も昔も存在しない。それも半島にあった酒みたいなものに米を混ぜるようになったのは、併合以降である。

ところで、弥生時代の日本の人口は、稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口はめざましく伸長し、5万9千人くらいになっていたと想定できるようです。

近年、日本海側の山口県から青森県に至る広域で、これまでの歴史学をひっくり返す新たな発見が起きている。

昭和53年(1978)、福岡県の板付遺跡において縄文土器だけが出土する地層から水田遺構が発見された。さらに昭和55年(1980)から翌年にかけて佐賀県唐津市の菜畑遺跡から、より古い時代の縄文土器と共に灌漑施設を伴う水田遺構も出土した。

NHKスペシャル『日本人はるかな旅4』イネ、知られざる一万年の旅(2001)で、「従来、日本列島の水田稲作は弥生時代(2300~1800年前)頃に、朝鮮半島からやって来た渡来人によって始まるというのが定説であったが、菜畑遺跡の発見はその常識を覆すことになった。時代はさらに300年遡り、水田を作った主体も日本列島在来の縄文人であることが分かった。」

『天孫降臨の謎「日本書紀」が封印した真実の歴史』関裕二は、

「めざましい科学の進歩によって、現代の日本列島の住民の遺伝子のなかに、想像以上に渡来系の血が混じっていることが徐々に明らかにされている。その比率は、縄文人を1とすると、弥生時代以降に渡来した人たちは2~3に上っていたと考えれている。この数字を見れば、渡来人が先住民を圧倒したと考えるのは当然である。」

崎山理氏は、「縄文人といっても単一の民族ではなく、北方系のツングース語に、南方系のオーストロネシア語が日本列島のなかで重なって「縄文語」が成立し、これが日本語になった、というのである。縄文期と弥生期の遺伝子の比率を見れば、渡来人の圧倒的な優位を想像しがちだが、渡来人たちは徐々に同化していったのであり、だからこそ、縄文人のつくり上げた「日本語」は、今日に継承されていったと考えられるわけである。」

DNA研究が進み、日本人の遺伝子はなんと16種類ものDNA研究のように2つパターンを持っていたことが分かってきた。少なくとも2つの民族同士の対立という単純な構図ではないので各地から渡ってきた人々によって日本人独自のDNAを持っていることが分かってきた。

紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まる。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れていることがまずあげられる。これは、大陸から多くの人々の流入があったことを示しているものである。かつて朝鮮半島からというのが考えられていたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力になっている。
まず、山口県下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡では、

日本列島の弥生人の骨格が朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨と極めてよく似た形質を持っていることが確認されたこと、稲作の導入の点と日本酒の誕生について、どうしても朝鮮半島説は不自然に思う点があるようだ。

紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がりました。初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、北部九州地域に集中して発見されており弥生時代のはじまりです。弥生時代の前3~2世紀には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、次いで紀元前2世紀~紀元1世紀には同県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡からも広範囲に整然とした水田区画が見つかっています。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえます。
また、稲の伝来ルートについても従来は朝鮮ルートが有力視されていましたが、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点である。

極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部から当該遺伝子の存在が確認されない
ことなどの複数の証左から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が有力視されつつあります。従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられています。弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されています。後述の青銅器の伝来も古代中国に起源をもち、日本や朝鮮など東アジアで広く使用されたとされることと重なります。

日本は小さな島国なのか

はじめに

日本列島を北を上にした現在の地図で見ると、大陸から太平洋に離れた小さい島国にみえる。


(大陸からみた日本列島)

ところが、ひっくり返してみると視点が大きく変わってくる。中国や朝鮮半島、シベリアのカムチャッカ半島以南から続く千島列島や樺太(ロシア名サハリン)から、北海道・本州・四国・九州、そして台湾までのトカラ列島まで、長い日本列島は太平洋に鍋の蓋のように見える。小さい島国どころか、北海道・本州・四国・九州だけみても、ヨーロッパで比較するとでデンマークからイタリア半島までにほぼ匹敵するほど細長く、国土面積でもイギリスやドイツ、イタリアより大きく決して小国ではない。西ヨーロッパの先進諸国を大国とすれば日本も物理的大きさでも大国の中に入るのである。日本は思っている以上に「大きい」のである。

小さな島国だとそう思い込んでいる人が多い。原因は学校で教えられる「日本は小さな東洋の島国」だと習い、地図帳に採用されているメルカトル図法にある。地球は丸いので世界地図を平面的に表現するのがむずかしい。そこで採用されているのがメルカトル図法。メルカトル図法の大きな特徴は角度が正しい、すなわち十分狭い範囲だけを見ると形が正しい事である。しかし、緯度によって縮尺が変化し、赤道から高緯度に向かうにつれ距離や面積が拡大されることになる。北極圏に近いグリーンランドやシベリアや南極大陸が実際より17倍も拡大されている。カナダやアメリカ合衆国も実際よりも大きく描かれているのだ。

逆さ地図を見ると、九州北部から出雲・但馬・丹後・若狭(合わせて古代丹波)から北陸、越、津軽半島・北海道、樺太までの日本海沿岸が大陸との表玄関であり、平成10年舞鶴市浦入遺跡群から約5300前の丸木舟を発掘されたことや平成13年の指定で豊岡市出石町袴狭(はかざ)で見つかった船団やサメ・サケ・飛びはねるカツオの群れ、動物を描いた線刻画の木片から、古代丹後・但馬と大陸は強大な船団で往来していたことが分かったのである。大きなロマンが浮かび上がってきた。古代丹波こそ、大陸とヤマト(大和)を結ぶ国際ターミナルだったのである。

たとえば、『国司文書・但馬故事記』は『校補但馬考』桜井勉氏は偽書と決めつけている。多くの研究者にはそうではないとする人もいるのである。むしろ『校補但馬考』にも、ところどころ間違っている私見が含まれているが、明治のまだ十分な史料・発見も乏しい時代、氏が但馬史を調べあげた苦労は偉業である。しかし、大学で教えている考古学者や歴史家は、そうした過去の大先生がいっているのだからと、古い解釈をそのまま教えることが正しいと思うのか迷惑この上ない。ネットや凝り固まった歴史認識ではない自由な研究家により「本当にそうなんだろうか」と自ら調べてみることができる時代になってきた。どこかの大新聞が長い間、「従軍慰安婦」「南京大虐殺」など捏造記事をくりかえし書いていても、大クオリティペーパーだと信じ込んでいる時代が続いている。真面目で秀才な人ほど、学校で習うことに嘘はないと疑うことをせず、NHKは嘘は言わないと信じ込んでいるのと同じではないか?

歴史は古いままのものでも、暗記することではない。新しい事実を知り、現在に生かすのは楽しいことなのだ。温故知新、不易流行。歴史も過去にはそう思われていた説が、新しい発見、技術など進歩していくものなのである。したがって、『但馬史のパラドックス(逆説) 但馬国誕生ものがたり』とした。自分もこれまでの史料・文献は大いに活かし、おかしなことは最新の歴史の発見・研究を知り、間違っていたことはたえず修正しています。

INDEX

第一章 但馬人はどこから来たのか
[catlist id=582] 第ニ章 天火明命と但馬の始まり
[catlist id=589] 第三章 彦座王と大丹波平定
[catlist id=592]