北近畿鉄道物語-1 鉄道ラッシュ

北近畿鉄道物語

鉄道敷設ラッシュ

日本最初の高速産業道路というべき馬車専用道路が、当時日本三大鉱山としての生野銀山(兵庫県朝来市生野町)と飾磨(しかま:姫路市)港の間、約49kmに1876年(明治9年)開通した。官設の馬車道で、生野鉱山道とも言う。

日本の鉄道開業は、日本初の鉄道路線である新橋駅~横浜駅間が、1872年(明治5年)9月12日だ。兵庫県と京都府は、日本初の鉄道である東海道本線の終点駅となった神戸から延伸する山陽鉄道(現JR山陽本線)を皮切りに鉄道建設がさかんで、国鉄路線として継続された播但線、山陰本線、舞鶴線、福知山線、宮津線などの他に、廃線となったものも多い。
北近畿とは、京都府丹波・丹後、兵庫県但馬をさす言葉である。鉄道が地域の人々に何をもたらしたのか、その時代と社会の動きを調べてどのような結果を生みだしたのかを考えてみる。

鉄道敷設ラッシュの北近畿

  • 阪鶴鉄道 大阪から福知山を経て舞鶴を結ぶ鉄道を運行していた鉄道会社。(現JR福知山線)
  • 京都鉄道 1893年(明治26年)に設立された民営鉄道。現在の山陰本線の前身にあたる路線の一部を建設、運営した)
  • 山陽鉄道 (JR山陽本線の前身)、播但線(姫路~新井間は播但鉄道により開業し、新井~和田山間は播但鉄道を買収した山陽鉄道により開業)、篠山軽便鉄道、国鉄篠山線、加古川水系の舟運を代替する目的で設立された。
  • 播州鉄道 の路線を受け継ぐ国鉄時代の国鉄加古川線(現JR西日本)と支線、国鉄鍛冶屋線、国鉄三木線(三木鉄道)と国鉄北条線(北条鉄道)
  • 国鉄高砂線、別府鉄道、土山鉄道、兵庫電気軌道、国鉄福知山線(尼崎港線)他に、北近畿では以下の路線があった。

出石鉄道出石町(現在の豊岡市出石町)~山陰本線の江原11.2km1929(昭和4年)7月1970年(昭和45年)7月当初、山陰線は軍港舞鶴と豊岡を鉄道でつなぐという構想でスタートした(鉄道敷設法)。山陰線が舞鶴~豊岡というキーワードで始まったため、丹後地区が敏感に反応し期成同盟などの取組があったが、どうやら海岸線は艦砲射撃にやられるというような発想があったらしく福知山経由となったようだ。

北近畿の廃線の歴史
名 称区間・路線距離開業廃線備 考
京都府北丹鉄道国鉄福知山駅から加佐郡大江町(福知山市大江)12.4km1923年(大正12年)9月1974年(昭和49年)2月河守鉱山の輸送用として建設。北部の開設は、軍港舞鶴への輸送のためのもので、終戦・閉山・道路整備のために廃線となった。
加悦鉄道与謝郡野田川町(現・与謝野町)の丹後山田~加悦5.7km1940年(昭和15年)1985(昭和60年)
ウィキペディア大江山ニッケル鉱山への貨物専用線が開業し、1942(昭和17)年には丹後山田駅から北東の岩滝町にある精錬所(日本冶金大江工場)への専用線も開通した鉱山鉄道。
国鉄舞鶴港線西舞鶴~舞鶴港1.8km1907年(明治40年)1999(平成11年)出征者や戦場からの引揚者を運んだ。
国鉄中舞鶴線東舞鶴~中舞鶴3.4km1919年(大正8年)1972年(昭和47年)、舞鶴鎮守府の兵員ならびに軍需資材の輸送を主な使命とし、舞鶴港線とともに国策として建設。軍港引込み線として開設。
兵庫県生野鉱山寮馬車道生野と飾磨港約49km1873年(明治6年)1888年(明治21年)5月31日鉄道ではありませんが、「銀の馬車道」と呼ばれ、鉱石を運ぶために造られた日本最初の高速産業道路。あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入
篠山鉄道篠山口駅から篠山町1915(大正4年)1944(昭和19年)国鉄の篠山駅(現在の篠山口駅)は篠山町の中心市街地から遠く離れた場所に位置しているため、同駅と中心市街地を結ぶ交通機関として建設された。しかし戦時中の1944年、同じく篠山口駅を起点として篠山町を通る国鉄篠山線が開通したのと同時に廃止された。
国鉄篠山線篠山口駅から福住17.6km1929(昭和4年)1972(昭和47年)太平洋戦争中、丹波地方で産出されるマンガン輸送と、海沿いを通るため海からの攻撃が懸念された山陽本線のバイパスとして福知山線の篠山駅(現在の篠山口駅)と山陰本線の園部駅を結ぶ目的で建設された。終戦を迎え、福住~園部間の建設は中止された。
明神電車(めいしんでんしゃ)神子畑(みこばた)~新井(国鉄播但線)約6km1929(昭和4年)4月1985(平成3年)11月
神戸新聞 養父市大屋地域局提供、1986年ごろ撮影
鉱石の輸送を目的に敷設された。本来は神子畑-新井(国鉄播但線)間の下部軌道とワンセットの上部軌道に位置づけられていたが、道路整備で下部軌道は早期(1957年)に廃止され、上部軌道に当たるこちらのみが残された。鉱石列車のほかに、鉱山関係者の便宜を図って人車も1945年から運行された。この時、当初は運賃無料であったのが、1949年から50銭、1952年から1円を徴収するようになった。従業員利用の「1円電車」で、料金は廃線まで変わらなかった。なお、登山客へも10円の料金を徴収して開放していた事がある(私は小学生の時に一度乗ったことがあります)。電気機関車・客車などの車両が公開保存されている。円高の進行で錫鉱山としての明延鉱山の競争力が低下し、閉山となったため、廃線となった。

日本の鉄道

日本の鉄道は、明治2(1869)11.10、鉄道建設の廟議決定のよって、東京と京都・大阪・神戸の間、すなわち日本の屋台骨となる三府を結ぶ路線と、日本海側の貿易都市である敦賀へ米原から分岐して至る路線を敷設しようとしていました。

    • 1872年(明治5年)、品川駅~横浜駅(現、桜木町駅)間で仮営業を開始したのが日本初の営業用鉄道。
      旧暦9月12日(グレゴリオ暦では、10月14日)に新橋駅(後、汐留駅・現在廃止)~横浜駅間が正式開業(その翌日に旅客営業が開始された)。1922年(大正11年)に10月14日は「鉄道記念日」へ指定されました。
    • 1874年(明治7年)8月1日、大阪駅~神戸駅間で、日本初の往復乗車券が販売される。1880年(明治13年)11月28日、北海道初の鉄道として、官営幌内鉄道開業。これはアメリカの技術によって建設され、車両などもアメリカ式でした。
    • 1880年(明治13年)11月28日、北海道初の鉄道として、官営幌内鉄道開業。
    • 1881年(明治14年)8月、日本初の私鉄として日本鉄道が創業。日本鉄道は、日本初の私鉄であり、現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本の東日本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営していた会社です。
    • 1882年(明治15年)3月1日、新橋駅~横浜駅間で、急行列車が運行開始。
    • 1885年(明治17年)3月1日、日本鉄道品川線(現、山手線・赤羽線)開業。品川駅で国有鉄道と貨車に関して直通運転を行う。これが日本初の他鉄道事業者間の直通運転。
      1885年(明治17年)、日本鉄道(半官半民)・東京馬車鉄道に次いで日本で3番目の私鉄として阪堺鉄道(純民間資本としては現存する日本最古の私鉄である現、南海電気鉄道)が難波、大和川(後に廃止)間を開業。
    • 1887年(明治19年)1月1日、日本初の定期乗車券が販売開始される。
    • 1887年(明治19年)12月、北海道初の私鉄として、釧路鉄道開業。
    • 1888年(明治21年)10月28日、伊予鉄道により、四国初の鉄道が松山駅(現、松山市駅)~三津駅間で開業。
    • 1889年(明治22年)5月10日、2ヵ月後の新橋駅~神戸駅間を結ぶ鉄道の全通に備え、官営鉄道で列車便所の導入が開始される。
    • 1889年(明治22年)7月1日、現在の東海道本線にあたる、新橋駅~神戸駅間が全通。
    • 同12月11日、九州初の鉄道として、九州鉄道が博多駅~千歳川(仮)駅間を開業。
    • 1892年(明治25年)6月21日、国鉄の整備予定路線を定めた、「鉄道敷設法」公布。
    • 1893年(明治26年)4月1日、信越本線碓氷峠区間の横川駅~軽井沢駅間が開業(日本初となるアプト式とよばれる車両とレールの間を歯車でかみ合わせる方式。現在は廃止)。
    • 1887年(明治20年)1月、山陽鉄道設立。
    • 1888年(明治21年)11月1日に兵庫-明石間が開通し、12月23日には、明石-姫路間が開通した。翌年の1889年(明治22年)9月1日に神戸-兵庫間が開通。これが兵庫県で最初の私鉄。
    • 1895年(明治28年)2月1日、日本初の電気鉄道として、京都電気鉄道開業(路面電車、後の京都市電)。
    • 1899年、六郷橋~大師間に路面電車を開業させた大師電気鉄道(現:京浜急行電鉄大師線)は、日本で初めて標準軌を採用。
    • 1903年(明治36年)8月22日、馬車鉄道の東京馬車鉄道が動力を馬から電気に改めることで誕生した東京電車鉄道(東電)が、品川、新橋間を開業。
    • 1905年(明治38年)4月12日、阪神電気鉄道(現、阪神電鉄)の大阪(出入橋)~神戸(雲井通)間が開業。路面電車と同じ軌道として建設された都市間高速電車であった。以後、京阪電気鉄道(現、京阪電車)・京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄)など類型の私鉄会社が次々と誕生することになる。
    • 1906年、「鉄道国有法」公布。
    • 1910年(明治43年)3月10日、箕面有馬電気軌道(現、阪急電鉄)が、現在の宝塚線・箕面線に当たる路線を開業る。
    • 1910年(明治43年)9月16日、大阪と奈良を結ぶ路線を敷設すべく奈良軌道として設立。同年10月に大阪電気軌道に改称。
    • 1912年(明治45年)6月11日、京都市電気軌道事務所によって4路線7.7kmの運行が開始された。なお、軌間は京都電気鉄道が1067mmの狭軌を採用していたのに対し、市は1435mmの標準軌を採用した。1918年(大正7年)7月1日、京都電気鉄道は消滅、全面市営化。
    • 1917年5月23日~8月5日、横浜線原町田駅(今の町田駅)~橋本駅で、途中の淵野辺駅を境に三線軌条ないし四線軌条方式による改軌実験が行われた。狭軌から標準軌への改軌実験は、これが初めてであった。

列車画像の一部はウィキペディアからお借りしています。

北近畿鉄道物語-山陰本線全通

北近畿鉄道物語

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山陰本線全通

 
特急「こうのとり」(新大阪~福知山・豊岡・城崎温泉、287系:旧「北近畿」)・特急「きのさき」(京都~福知山・豊岡・城崎温泉)(写真:JR西日本)


特急「はまかぜ」(大阪~(播但線経由)香住・浜坂・鳥取、キハ189系)

JR山陰本線が全通したのは意外にも昭和に入ってからである。1933年(昭和8年)2月24日、ついに須佐駅(山口県萩市) – 宇田郷駅(山口県阿武郡阿武町)間 (8.8km) が延伸開業し、京都駅から幡生駅(山口県下関市)間(673.8km)が全通した。
しかし、在来線としての営業キロは日本最長の路線であるが、起点(京都駅)から終点(下関市の幡生駅)までの列車はなく、京都から居組駅(兵庫県美方郡新温泉町)間までを通して走る列車は全通以来一度もない本線の一つである。山陽本線や山陽新幹線開業以来、山陰本線沿いの各都市(福知山市・豊岡市・鳥取市・倉吉市・米子市・松江市・出雲市・益田市・長門市など)から直接山陽新幹線に至る路線を強化してきた結果である。1961(昭和36)年10月、山陰本線に初の特急「まつかぜ」(キハ80系気動車6連)が京都~松江間(福知山線経由)まで。1964(昭和39)年には一気に博多まで延長となったが最長列車だった。(その後、2003(平成15)年、「スーパーまつかぜ」(鳥取駅 – 米子駅・益田駅間)として、この名が復活する)

また、東京駅-浜田駅間を東海道本線、京都から山陰本線を通る寝台特急「出雲(いずも)」(1998年7月からは、1往復に285系を投入して電車化を行い「サンライズ出雲」として伯備線経由で運転開始。2006年3月に山陰本線経由は、車両の老朽化や利用客の減少などの理由により廃止)や、城崎温泉までの特急「きのさき」のみで、鳥取へは、智頭急行開通後、播但線経由の特急「はまかぜ」のみとなった。

山陰本線はそれぞれの区間で性格が多様だが、京都駅から園部駅間は近畿統括本部、園部駅から居組駅(兵庫県内)間(園部駅構内のぞく)は福知山支社、居組駅から益田駅間は米子支社*1、益田駅から 幡生駅間は広島支社下関地域鉄道部の管轄となっている。

*1 居組駅 – 赤碕駅間(居組駅構内のぞく) 米子支社鳥取鉄道部
赤碕駅 – 田儀駅間(赤碕駅構内のぞく) 米子支社
田儀駅 – 益田駅間(田儀駅構内のぞく) 米子支社浜田鉄道部

北近畿鉄道ものがたりー今

北近畿鉄道物語

現在の主な交通機関

コウノトリ但馬空港

概 略
空港種別その他飛行場
設置管理者兵庫県
開港日1994年5月18日
運用時間8:30 – 18:30 (JST)
所在地兵庫県豊岡市
岩井字河谷1598-34
海抜 AMSL
584ft (178m)
位置北緯35度30分46秒
東経134度47分13秒


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但馬飛行場(たじまひこうじょう Tajima Airport)は、兵庫県豊岡市にある飛行場。通称は但馬空港。コウノトリ但馬空港の愛称がある。

新幹線や高速道路などがない高速交通空白地帯であった兵庫県北部(但馬地域)の交通インフラの整備を目的として、兵庫県を事業者として1987年6月に基本建設計画が発表され、1994年5月に開港した。

日本エアコミューター(JAC) がサーブ 340Bを伊丹まで1日2往復運行している。

それまでには神戸ヘリポート~湯村温泉にへりが運行されていた。

また現在、東京羽田直通便実現を目指して、地元での機運が盛り上がって来ている。市民からは東京便実現ももちろんだが、伊丹空港で乗り継ぎを行う事で、東京、松山、出雲、山形、長崎、福岡等日本各地へ短時間でアクセスが出来、疲労も少ない移動が出来る事を行政はもっとPRしてはとの声が出ている。なお、但馬空港から東京便が実現した場合の利用が想定される周辺人口は、舞鶴市など北近畿全域からの利用者が見込まれるため、現在の伊丹便よりも遥かに多い30万人~40万人とされ、これは隣の鳥取空港の周辺人口にも相当し、決していい加減な話ではないと、2007年11月1日に開催された地域航空フォーラムにおいて有識者から意見が出た。

空港を運営する兵庫県は、大阪国際空港線のみでは空港のメリットが十分には活かせず、東京国際空港線の開設が必要との見地から、滑走路延長事業を計画しており2006年から基礎調査が進められている。この計画では現在の1200メートルから1500メートルに延長し、ジェット機材による東京国際空港線が就航できるようにする。

神戸空港の開港に伴い路線就航も検討されたが、運行経費の財政負担を求められた豊岡市、養父市などで構成する但馬広域行政事務組合が2006年6月に「東京国際空港線の開設に具体的に寄与しないのなら神戸空港線は不要」と兵庫県に申し入れ、計画は棚上げされている。

山間を切り開いて開設されたため、早朝の霧や荒天による欠航や出発空港への引き返しが比較的多かったが、2001年10月より兵庫県が計器着陸装置(空港には導入されているが、定期路線があるとはいえ、一般飛行場に導入されるのは異例)を導入したため、運航率は向上している。航空管制については、定期便は大阪国際空港航空管制官による遠隔指示(伝達は大阪レディオ航空管制運航情報官による。
兵庫県は広域な県域のアクセスとして神戸と但馬・播磨を1時間以内で結ぶ構想で、但馬空港が完成した。しかし、播磨学研都市に空港を建設する計画は棚上げとなっている。
地元日高町商工会青年部では、かつて創部35年特別事業「鹿児島へサーブ!!」としてチャーター利用を企画・実施した。同時間帯にサーブ2機がターミナルに並んだ。これは定期便以外の空港利用で活性化促進を目指したものであったが、当時運輸省(国交省)の航空運輸法では定期路線以外にチャーターを運行することは前例がなく、運輸省・県・日本エアコミュータ等の協力により実現した画期的なもので当時注目を浴びた。

但馬~伊丹線は離島との路線を除けば国内線最短の空路であり、しばしば搭乗実績目的の俗にマイル修行僧と呼ばれる人々が利用することでも知られ、年々増加の傾向にある。伊丹から但馬まで搭乗し、すぐ折り返しの便で伊丹に戻る行為は俗に「但馬修行」と呼ばれることがある。

ターミナル右側にはYS-11(11A-500R型/YS-11の103号機)およびエアロコマンダー式680FL型の退役機が展示されており、2006年9月現在、主翼の真下まで近づいて見学できる。

但馬空港のホームページがリニューアルされたことに伴い、空港ライブカメラが設置された。

>但馬空港ライブカメラ 但馬空港の現在の様子(携帯電話向け)

空港から最も近い市街地にあるJR西日本豊岡駅と新大阪駅・大阪駅間には特急「北近畿」が所要時間約2時間40分、片道5130円(乗車券・特急料金込)で運行しており競合関係にある。他の交通機関との競合

また高速バスは全但バスが豊岡市街と大阪梅田間を所要時間約2時間50分、片道運賃3350円で運行しており競合関係にある。

2006年7月には北近畿豊岡自動車道が和田山インターチェンジまで開通し、豊岡市街から大阪梅田まで自動車での移動時間が約20分から30分程度短縮された。また、引き続き和田山インターチェンジから養父市八鹿町の間に和田山八鹿道路の建設が進んでおり2011年頃開通の予定となっている。これらの道路整備に伴い全但バスも豊岡市街・大阪梅田間が従来3時間超であったものが時間短縮されており、高速バスの競争力強化にともない行政当局も但馬空港の利用者減が懸念されている。

このため、伊丹で乗り継ぎをする事で東京や福岡、出雲、仙台、松山、山形など全国から短時間で訪れることができるようになるという利用価値を見出そうと必死の努力が続けられている。

また、「鳥取豊岡宮津自動車道」は、鳥取市から豊岡市を経て宮津市に至る延長120kmの地域高規格道路で、平成6年に計画路線として指定を受けた。このうち、兵庫県内は約46kmで、香住道路(L=6.2km)は平成17年3月に開通し、余部道路(L=5.3km)及び東浜居組道路(L=3.5kmうち兵庫県1.9km)の2路線が整備中である。

国道178号の兵庫県と鳥取県の県境部は、通称「七坂八峠」と呼ばれ、急なカーブが連続し、特に冬季には交通の難所となっていた。そのため、この峠の改良は地元住民の悲願となっていた。

鳥取豊岡宮津自動車道の整備により、鳥取東部、但馬、京都北部の3地方生活圏の交流、連携が強まるとともに、鳥取空港、但馬空港や重要港湾である舞鶴港、鳥取港など交通拠点へアクセスしやすくなり、地域の生活が支えられる。

さらに、北近畿豊岡自動車道、中国横断自動車道姫路鳥取線、京都縦貫自動車道、山陰自動車道と連結することにより全国的な広域ネットワークを形成する。

北近畿鉄道物語-宮津線

北近畿鉄道物語

宮津線

舞鶴は、京都府で京都市に次ぐ第二の都市であるとともに、日本海側屈指の貴重な軍港で、日露戦争を控え、舞鶴市までの鉄道敷設が緊急の課題となっていた。 明治25年ごろ、宮津・福知山間鉄道敷設の運動が起こる。1923年(大正12年)9月、北丹鉄道が福知山~河守間営業開始する。1924年(大正13年)4月12日、峰山線、舞鶴・宮津間営業開始。1933年(昭和7年)8月10日、丹後木津・久美浜間が開通し、峰豊線全線完成。これにより峰豊線と連接、舞鶴・豊岡間全通し、「宮津線」と線名を変更。現在は、北近畿タンゴ鉄道宮津線として運行されています。

また、丹後由良駅、丹後神崎駅、丹後大宮駅、丹後神野駅、但馬三江駅など丹後○○駅という駅名が多いのは、旧国鉄に同じ駅名が多いためで特徴的だ。野田川駅(丹後山田駅)、木津温泉駅(丹後木津駅)もかつて
は丹後○○駅だった。

宮福線

宮福線は、福知山と宮津を結ぶ鉄道計画は古くからあり、1887年(明治20年)には関西鉄道が由良を経る経路で測量するが実現しなかった。1892年(明治25年)には宮津側で敷設運動が起るが、実現しなかった。他方、北丹鉄道が福知山 – 河守間を1923年(大正12年)に開業させていた。しかし河守駅以北の建設は資金難から断念され、日本鉄道建設公団が宮守線として計画を引き継いだ。北丹鉄道は経営悪化により1971年(昭和46年)に休止、1974年に廃止となったため、福知山 – 河守(大江)間も鉄道建設公団が建設することになり宮福線として工事が続けられたが、1980年(昭和55年)の国鉄再建法施行により工事は中断されました。その後、第三セクターの宮福鉄道(現在の北近畿タンゴ鉄道)が1982年(昭和57年)に設立され、1983年(昭和58年)に工事再開、1988年(昭和63年)7月に宮福線として開業し悲願が達成されました。これにより、京都・大阪から宮津・天橋立へ向かう直通ルートができたことで北近畿の鉄道事情が大きく改善された(従来は、たとえば京都→天橋立の移動は、綾部駅と西舞鶴駅で二度のスイッチバックを伴うこととなり、時間的・心理的な遠さが存在した)。現在は、北近畿タンゴ鉄道宮福線として運行されています。

KTR北近畿タンゴ鉄道

タンゴエクスプローラー(KTR) 北近畿タンゴ鉄道は、京都府で旧日本鉄道建設公団が建設した宮福線と、旧国鉄特定地方交通線の鉄道路線宮津線を運営している京都府などが出資する第三セクター会社である。京都府舞鶴市の西舞鶴駅から宮津市の宮津駅を経由して兵庫県豊岡市の豊岡駅に至る宮津線と宮福線(宮津~福知山)がある。北近畿タンゴ鉄道路線(北近畿タンゴ鉄道)

普通ワンマン1両。丹後半島の付け根を通り、日本三景の天橋立などへの観光の足となっています。のどかな風景は見どころがいっぱいだ。
特急には宮福線経由の以下の列車が運行されています。

  • 特急「はしだて」(京都~天橋立)183系電車
  • 特急「文殊」(新大阪から天橋立)183系電車
  • 特急「タンゴエクスプローラー」(新大阪~宮津・豊岡、宮津 – 西舞鶴間快速・普通列車扱いあり)KTR001形気動車
  • 特急「タンゴディスカバリー」(京都~福知山~豊岡、久美浜 – 豊岡間快速列車扱いあり)KTR8000形気動車
    宮福線経由

沿 革
明治25年ごろ宮津・福知山間鉄道敷設の運動おこる。
1923年(大正12年)9月北丹鉄道福知山~河守間営業開始
1924年(大正13年)4月12日峰山線、舞鶴・宮津間営業開始
1925年(大正14年)7月31日峰山線、宮津・丹後山田間開通
同 11月3日丹後山田・峰山間開通し、峰山線全線完成
1926年(昭和元年)12月25日峰豊線、峰山・網野間開通
1930年(昭和4年)12月15日峰豊線、久美浜・豊岡間開通
1932年(昭和6年)5月25日峰豊線、網野・丹後木津間開通
1933年(昭和7年)8月10日丹後木津・久美浜間開通し、峰豊線全線完成、これにより峰山線と連接、舞鶴・豊岡間全通し、「宮津線」と線名を変更
1953年(昭和28年)8月宮津・河守間(宮守線)鉄道敷設法別表予定路線に追加
1964年(昭和39年)4月宮守線基本計画の決定
1966年(昭和41年)3月宮守線工事実施計画の認可
同年10月宮守線工事着手
1971年(昭和46年)2月北丹鉄道、福知山・河守間営業休止
1975年(昭和50年)7月河守・福知山間(宮福線)鉄道敷設法別表予定路線に追加
1978年(昭和53年)12月宮津・福知山間(宮福線)基本計画の変更
1980年(昭和55年)12月27日「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(国鉄再建法)公布、施行
1982年(昭和57年)9月20日宮福鉄道(株)創立総会
同年9月22日会社設立(登記)
同年10月4日宮福鉄道(株)、運輸大臣に宮福線地方鉄道事業免許申請
同年12月24日運輸大臣、同上免許
1983年(昭和58年)1月20日工事施行認可、公団工事の申出
同年2月28日工事着手
1986年(昭和61年)4月7日国鉄、宮津線など第3次特定地方交通線12線の選定承認申請
1987年(昭和62年)1月19日京都府知事、運輸大臣に意見書を提出
同年2月 3日運輸大臣、宮津線など第3次特定地方交通線8線の選定承認
同年9月22日宮津線特定地方交通線対策協議会 第1回会議開催
同年12月21日宮津線特定地方交通線対策協議会 第2回会議開催
1988年(昭和63年)3月26日宮津線問題対策協議会臨時総会開催、宮津線は第三セクター方式による鉄道として存続との決議
同年3月31日京都府公共交通網整備研究会鉄道部会から、「宮津線の代替輸送は、第三セクターによる鉄道として選択することが地域の活性化に貢献する」旨の「提言」
同年4月4日宮津線問題対策協議会会長から京都府・兵庫県知事あて第三セクター鉄道による存続実現要請
同年4月7日宮津線特定地方交通線対策協議会第3回会議開催、鉄道(第三セクター)として存続を全会一致で合意決定
同年4月28日宮福鉄道(株)第14回取締役会開催、宮津線の運営引き受け決議
同年6月4日地元3市10町の首長会議開催、宮津線の運営主体について、宮福鉄道(株)が一体運営を行うことで基本合意
同年6月22日宮福鉄道(株)第6回定時株主総会開催、「転換計画」合意決定時には宮津線の運営を引き受け決議
同上宮津線特定地方交通線対策協議会第4回会議開催、宮津線の代替輸送事業者として、宮福鉄道(株)が運営を引き継ぐこと等を内容とする「転換計画」を全会一致で合意決定
同年7月16日開 業
同年12月24日宮福鉄道(株)宮津線引き受けに伴う増資
1989年(平成元年)8月1日宮福鉄道(株)が北近畿タンゴ鉄道(株)に商号変更
同年9月5日北近畿タンゴ鉄道(株)、運輸大臣に宮津線第一種鉄道事業免許申請
同年9月29日運輸大臣、同上免許
1990年(平成2年)4月1日転換開業
1992年(平成4年)1月10日列車無線運用開始
同年6月30日鉄道施設資産取得
1993年(平成5年)4月16日宮津・天橋立間電化の事業基本計画及び鉄道施設変更認可申請
同年5月13日同 事業基本計画変更認可
同年5月14日同 鉄道施設変更認可
同年6月10日同 工事実地計画の指示、鉄道整備基金事業認定
同年7月21日同 起工式
1994年(平成6年)4月15日福知山駅付近連続立体交差事業 都市計画決定
1996年(平成8年)3月16日宮津・福知山間電化・高速化開業

沿線の見どころ


如意寺・日切不動尊(京丹後市久美浜町)


豪商稲葉家(京丹後市久美浜町)

日本三景天橋立(宮津市)


内部には美しい古いステンドグラス。


丹後一の宮籠神社(宮津市)


カトリック宮津教会 日本で2番目に古い天主堂(宮津市)

加悦鉄道

会社概要・沿革
1926年(大正15年)12月5日丹後山田(現在の野田川)~加悦間が開業。路線距離(営業キロ):5.7km、# 軌間:1067mm、駅数:6駅(起終点駅含む。専用線除く)
1930年(昭和5年)12月5日三河内口駅開業。
1970年(昭和45年)4月8日加悦谷高校前駅開業。
1984年(昭和59年)2月1日貨物営業廃止。
1985年(昭和60年)5月1日丹後山田~加悦間廃止。


京都府与謝郡野田川町(現・与謝野町)の丹後山田駅(現在の北近畿タンゴ鉄道宮津線野田川駅)

丹後山田駅から、同郡加悦(かや)町(現・与謝野町)の加悦駅までを結んでいた私鉄である。1985年(昭和60年)5月1日に全線が廃止された。

当初は沿線の特産品である丹後ちりめんを京阪神地区に輸送することを主目的として開業し、旅客営業も行いた。その後、加悦駅の南西にある大江山でニッケルの採掘が開始されたため、1940年(昭和15年)に大江山ニッケル鉱山への貨物専用線が開業し、1942年(昭和17年)には丹後山田駅から北東の岩滝町にある精錬所(日本冶金大江工場)への専用線も開通した。

戦後、大江山でのニッケル採掘が中止されたため加悦~大江山間の専用線は撤去されたが、大江工場への専用線は同工場で精錬する輸入ニッケル鉱を輸送するため存続した。

モータリゼーションの進行により旅客輸送量が減少する一方であったが、明治・大正時代に製造された古典蒸気機関車をはじめ、「マッチ箱」と呼ばれる木造2軸客車、国鉄から購入した客車改造のキハ08形気動車など希少車・珍車の宝庫として知られ、多くのファンを集めた。会社側もやがて観光鉄道を目指すようになり、グッズ類の販売等にも力を入れるようになりました。しかし、1985年(昭和60年)3月14日の国鉄ダイヤ改正で宮津線の貨物輸送が廃止され、同線でのニッケル鉱輸送が不可能となったため、丹後山田~大江工場間の専用線も廃止を余儀なくされました。これにより、鉄道収入の6割を占めていた専用線の輸送業務委託料が失われ、赤字額の大幅な増大が見込まれたため、同年5月1日に全線が廃止された。

なお、運営会社の加悦鉄道株式会社は鉄道路線廃止後、カヤ興産株式会社と社名を変更し、代替となる路線バスの運行や鉄道保存展示施設「加悦SL広場」の運営などを行っていたが、1999年にバス部門を加悦フェローラインに分社し、会社設立時のニッケル鉱輸送の関連から日本冶金工業のグループ会社となっています。

北近畿鉄道年表

北丹鉄道

京都府北部、福知山市の福知山駅から加佐郡大江町(現在は福知山市の一部)の河守駅(現在の北近畿タンゴ鉄道宮福線大江駅近傍)までを結ぶ鉄道を運営していた。1923年(大正12年)9月22日開業、設立当時は、北丹軽便鉄道株式会社という名称だったが開業前に改称しています。本来は国鉄福知山駅から宮津線を短絡する目的であったが、宮津線の由良川架橋点が当初の予定より河口近くに変更されたため、河守(こうもり)駅から先の建設は断念した。その後、日本鉄道建設公団が河守駅から宮津駅までを結ぶ路線を宮守線として建設することになり、1966年(昭和41年)に着工されました。ルートは由良川沿いから山中をほぼ直線に抜けるものに変更されています。

しかし、1969年(昭和44年)に沿線の河守鉱山が閉山したことによって北丹鉄道の貨物輸送は激減したため経営が成り立たなくなり、宮守線完成を待つことなく、1971年(昭和46年)3月2日に由良川治水事業を名目に運行休止、程なくバス事業も営業休止に追い込まれた。

1974年(昭和49年)に鉄道路線が正式に廃止されるとともに会社は解散、バス事業については京都交通株式会社に譲渡しています。

宮守線の建設工事は国鉄再建法施行により中断するものの、第三セクターに引き継がれることとなり、1988年(昭和63年)に宮福鉄道(現在の北近畿タンゴ鉄道)宮福線として開業した。

会社概要
社名北丹鉄道株式会社
本社所在地京都府福知山市(福知山西駅構内)
設立1920年(大正9年)2月1日 設立時は「北丹軽便鉄道株式会社」
事業内容地方鉄道事業 道路運送事業他
資本金1,500千円
従業員数43名(鉄道部門24名)
大株主不明
沿 革
1919年(大正8年)路線免許交付。
1921年(大正10年)当初の北丹軽便鉄道から北丹鉄道に社名変更。
1923年(大正12年)9月22日路線距離(営業キロ):12.4km、# 軌間:1067mm、駅数:8駅(起終点駅含む)で福知山~河守(こうもり)間が開業。
1971年(昭和46年)3月2日福知山~河守間休止。
1974年(昭和49年)2月28日福知山~河守間廃止許可。

ウィキペディアなどを参考にさせていただきました。

北近畿鉄道物語-氷ノ山(ひょうのせん)越えと山陰本線計画

北近畿鉄道物語

北近畿鉄道物語-氷ノ山(ひょうのせん)越えと山陰本線計画

氷ノ山(ひょうのせん)越えと山陰本線計画

明治後期に鉄道敷設がさかんになると、舞鶴の軍港と大阪を結ぶ計画の阪鶴鉄道(現JR福知山線)が福知山まで完成。また、山陽鉄道(現JR山陽本線)、さらに姫路から和田山までを結ぶ播但鉄道(現JR播但線)が完成した。さらに京都鉄道が京都から福知山、そして阪鶴鉄道がさらに福知山から舞鶴まで鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきた。ことは、山陰線を舞鶴から鳥取までどう通すかということを決める辺りから始まっている。

当初、山陰線は軍港舞鶴と豊岡を鉄道でつなぐという構想でスタートした(鉄道敷設法)。丹後地区が敏感に反応し、期成同盟などの取組みがあったが、どうやら海岸線は艦砲射撃にやられるというような発想があったらしく福知山経由となったようだ。しかし、平坦部が少ない山陰海岸は難工事ではあったが、氷ノ山を貫く大トンネル工事は、当時のトンネル技術では困難なことから、明治42年頃には和田山から城崎まで北進していた播但鉄道から、鳥取まで延伸する計画となった。当初は、豊岡駅から舞鶴までは峰豊線(現:北近畿タンゴ鉄道宮津線)、鳥取までは、内陸部の八鹿駅から若桜へ抜けるルート構想もあった。鳥取県郡家町郡家(こおげ)駅を起点として若桜町までは敷設できており(旧国鉄若桜線、現若桜鉄道)、海岸線は敵国艦隊から砲撃を受ける危険性があるため内陸を通す計画であった。
ここで注意すべきは、この時点では出石は沈黙していることだ。というより、当時の全国の鉄道新設で見られたように、鉄道を拒否していたのではないだろうか。それで結局、(思惑通り)出石に鉄道延伸はなかった。山陰線が開通し始めると、やっぱり鉄道が欲しいということになり、出石・日高で個別に鉄道敷設の行動が起る。

また別に、大正初期に宮津から若桜までの当初の山陰本線最短ルートを実現させようと考えた、とんでもない人物が、「大正の大風呂敷」と言われた日高町長(当時日高村)だった故藤本俊郎村長である。
彼はすでに営業されていた出石軽便鉄道の株主の一人であり、さらに江原駅から村岡へ抜ける鉄道敷設を計画して、江原駅を東西南北を走る交通の要所にしたいという構想を抱いていた。彼はこの事業以外にも銀行設立や阿瀬電力など事業家であった。実際に豊岡町や近隣町村の猛反対にも遭いながら、国会議員の支援も取り付けた。

但馬鉄道敷設工事跡(日高町久斗・現在は市道になっている)

軽便鉄道敷設工事(但馬鉄道)は三方鉱山(日高町十戸)から十戸あたりまで完成していく。また丹後山田から加悦まで鉄道は延びており、出石鉄道まで延長するという計画で、藤本村長は旗振り役となり自らも事業家として私財を投げ売り夢見た計画だった。

餘部(あまるべ)橋梁

ところが不運なことに大正の世界的な大恐慌が始まってしまう。藤本は鉄道敷設を町民の出資でまかなおうとしたが、藤本自らの政治失脚などもあり、結局は頓挫している。海岸ルートに決まったころ、鳥取まで開通した山陰西線と竹野まで開通していた山陰東線は、最大の難所である山陰海岸(浜坂・香住間)を残すのみとなった。そして餘部(あまるべ)鉄橋(日本一の高さ)と桃観トンネル(山陰本線最長)などの難工事の末、開通したのが現在のJR山陰本線である。


桃観トンネル

出石軽便鉄道

そしてその大ロマン但馬鉄道計画の面影を今に伝えているのが、京都府野田川町の丹後山田駅を起点として、加悦町加悦までを走る加悦鉄道(廃線)と、鳥取県郡家町こおげ駅を起点として若桜町わかさ駅を終点とする若桜鉄道(旧JR若桜線)、出石鉄道跡、但馬鉄道跡である。

出石軽便鉄道廃線跡(日高町上郷・現在は市道になっている)

出石鉄道(いずしてつどう)は、かつて兵庫県に存在した軽便鉄道路線およびその運営会社。路線距離(営業キロ):11.2km、軌間:1067mm、駅数:7駅(起終点駅含む)。但馬の小京都と呼ばれた出石町(現在の豊岡市出石町)と山陰本線の江原(JR江原)を結ぶべく1918(大正7)年7月20日 出石軽便鉄道敷設免許申請。発起人は、日高村長藤本俊郎、出石桜井勉以下78名連名。

1920年(大正9年)に会社が設立され、紆余曲折の末に昭和4年(1929年)、地元住民の出資により軽便鉄道(貨物には蒸気機関車・旅客車はガソリンカー)として開通したが、経済不況や自然災害などにより営業不振が続きた。

1938(昭和13)年、江原自動車を買収し、自動車運輸営業権を得る。

そして太平洋戦争下の昭和19年(1944年)に国により不要不急線として営業休止に追い込まれる。

終戦後、路線復活の動きもあったものの、結局昭和45年(1970年)に正式に廃線となった。事業会社としての出石鉄道では、バスの運行や、営業休止の賠償としてトラックを入手し、運輸事業等も行っていたが、全線運休後に全ての事業を停止した。

北近畿鉄道物語-福知山線

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

JR福知山線・舞鶴線

JR福知山線

福知山線の発祥は、1891年(明治24年)に川辺馬車鉄道が開業させた尼崎(のちの尼崎港)~伊丹間の馬車鉄道である。のちに摂津鉄道と改称して馬車鉄道を蒸気動力の軽便鉄道に改築し尼ヶ崎~池田(現在の川西池田)間を開業させた。当時の池田駅は呉服橋西詰付近にありましました。

摂津鉄道は、大阪から舞鶴までの鉄道を計画していた阪鶴鉄道に合併され、改軌(レール幅を広げる)した上で宝塚駅まで開業。以後順次延伸されて、1899年(明治32年)には福知山南口駅(堀内田町付近)まで開通しました。

1904年(明治37年)、軍部からの要請で対ロシア戦略の軍用鉄道として舞鶴鎮守府までの開通を急がされた福知山~綾部~新舞鶴(現在の東舞鶴)間が官設で開通。阪鶴鉄道も現在の福知山駅(天田)まで延伸し、福知山~新舞鶴間の貸与を受けて、大阪~舞鶴間を結ぶ鉄道が完成しました。
1907年に国有化され、官設区間とあわせて阪鶴線と呼ばれていましたが、山陰本線の京都~出雲今市(現在の出雲市)間が1912年に開通したのを機に、神崎(かんざき:現在の尼崎)~福知山間、塚口~尼崎間が福知山線となりました。

1986年(昭和61年)11月1日、全線電化完了と伴いL特急「北近畿」運転開始。東海道本線の大阪~尼崎間を含む大阪 ~篠山口間にJR宝塚線(ジェイアールたからづかせん)の愛称がある。阪急電鉄にも宝塚線があるため、混同を避けるために愛称に「JR」と付けています。また尼崎~谷川間が大阪近郊区間に含まれ、JR宝塚線の区間はアーバンネットワークの路線の一つとなって、大阪と北近畿を結ぶ路線であると同時に、兵庫県東部の各都市から大阪への通勤・通学路線となっています。

武庫川、由良川など川沿いを進むため、生瀬 – 道場付近では武庫川の渓流の眺めを楽しめたりするなど、のどかなローカル路線の体であったが、宝塚~新三田間の複線電化を機に路線短縮化と客車普通列車らは姿を消し、沿線住宅開発の進展とJR東西線の開業などにより新型電車が行き交う通勤路線(アーバンネットワーク)となっています。太平洋と日本海を分ける本州で最も低い分水嶺の氷上(石上駅)を通るため、高低差やトンネルは少ないが、106.5kmながら直線区間がなくカーブが多い。
北近畿ビッグXネットワークの一角として以下の優等列車が運行されています。2004年10月16日に急行「だいせん」が廃止されてからは、夜行列車の運転は無くなり、昼行列車のみの運転となっています。

  • エル特急「北近畿」(新大阪 – 福知山・豊岡・城崎温泉:10.5往復)
  • 特急「文殊」(新大阪 – 北近畿タンゴ鉄道 – 天橋立:1往復)
  • 特急「タンゴエクスプローラー」(新大阪 – 北近畿タンゴ鉄道 – 宮津・豊岡:2往復)

路線データ

管轄(事業種別)西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)
路線距離(営業キロ)106.5km
駅数30駅(起終点駅含む。JR宝塚線としては23駅)
複線区間尼崎 – 篠山口間電化区間全線電化(直流1500V)
最高速度120km/h

※尼崎 – 新三田間はJR西日本大阪支社の直轄、新三田 – 福知山間は両端の駅を除き同・福知山支社篠山口鉄道部の管轄である。

東海道本線の大阪 – 尼崎間を含む大阪 – 篠山口間にJR宝塚線(ジェイアールたからづかせん)の愛称を持っています。また尼崎 – 谷川間は大阪近郊区間に含まれ、JR宝塚線の区間はアーバンネットワークの路線の一つとなっています。路線の起点は尼崎であるが、全ての列車が東海道本線経由で大阪駅、またはJR東西線と直通しています。

北近畿(きたきんき)とは、西日本旅客鉄道が新大阪駅~福知山駅・豊岡駅・城崎温泉駅間を福知山線(JR宝塚線)・山陰本線経由で運行するエル特急の名称である。北近畿ビッグXネットワークを形成する列車の1つである。

イメージカラーは黄色。走行路線の一つであるJR宝塚線のラインカラーにちなんでいる。

2015年10月31日より特急
北近畿」は廃止され、特急「こうのとり」を運用開始。

こうのとり 287系

写真:JR西日本

停車駅
新大阪駅 – 大阪駅 – 尼崎駅 – 宝塚駅 – 三田駅 – (新三田駅 – 相野駅) – 篠山口駅 – (谷川駅) – 柏原駅 – (石生駅 – 黒井駅 – 市島駅) – 福知山駅 – 和田山駅 – 八鹿駅 – 江原駅 – 豊岡駅 – 城崎温泉駅
括弧内の駅は一部列車が停車。

JR舞鶴線

舞鶴線(まいづるせん)は、京都府綾部市の綾部駅から京都府舞鶴市の東舞鶴駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)。
日本海軍の舞鶴鎮守府が置かれ、軍港として発展した舞鶴への鉄道として建設された。かつて出征者や引揚者の輸送で賑わった路線も現在は舞鶴市などへのビジネス利用や丹後・若狭地方への観光路線となっています。

路線データ
管轄(事業種別)西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)
路線距離(営業キロ)26.4km
駅数6駅(起終点駅含む)
複線区間なし(全線単線)
電化区間全線(直流1500V)

歩み

全区間JR西日本福知山支社の直轄である(1991年4月から2006年6月までは、同支社舞鶴鉄道部の管轄であった)。
京都 – 東舞鶴間に特急「まいづる」と「タンゴディスカバリー」が合わせて上り7本、下り8本運転されています。なお、土曜・休日・夏季には「まいづる」のうち1往復が小浜線の小浜駅まで乗り入れ、観光需要に応えています。
他の北近畿方面特急と異なり、大阪方面の列車は設定されていない(過去には「エーデル北近畿」として東舞鶴駅まで乗り入れていた時期もあった)。ちなみに東舞鶴 – 大阪間の距離は福知山経由 (152.9km) よりも京都経由 (145.4km) のほうが若干短い。

元は阪鶴鉄道・京都鉄道が計画していた路線だが、日露戦争を控え着工を急ぐ必要性から1904年に官設で福知山 – 綾部 – 新舞鶴(現在の東舞鶴)間と支線が開通、阪鶴鉄道に貸与されて開業した。支線として舞鶴港線(西舞鶴 – 舞鶴港間)や、出征者や戦場からの引揚者を運んだ中舞鶴線(東舞鶴 – 中舞鶴間)などを有していましたが、1985年までにすべて廃止。

摂津鉄道

川辺馬車鉄道会社が1891年(明治24年)に開業した尼崎~伊丹間の馬車鉄道を、軽便鉄道化したもの。当時の法律の制限があるため、川辺馬車鉄道の解散、新会社の設立の手順を踏んでいます。1893年(明治26年)12月に開業。伊丹~池田(川西池田)間に新線路を追加し、尼崎~池田を1日13便(尼崎始発:6:05 最終発:23:02)で運行しました。ただし、川辺馬車鉄道では許されていた平面交差が認められず、汽車が官線をまたぐことは許可されなかったため、長洲駅を官線(東海道本線)の北側と南側の2か所に分けて、乗客には歩いて乗り替えを行うこととなりました。興味深いことに貨物のみの通過は認められていた。馬車鉄道で尼崎~伊丹間が1時間を超えていたものが、わずか18分で交通できるようになりました。

1897年(明治30年)2月に阪鶴鉄道会社に合併されることとなる。

摂丹鉄道

1889年(明治22年)に設立された。兵庫県尼崎市(神崎)から京都府舞鶴市への鉄道建設をめざしたが免許は却下された。川西馬車鉄道(後の摂津鉄道)を設立した小西壮二郎(白雪/小西酒造)ら30名が発起人となり、1889年(明治22年)4月29日に設立された。川西馬車鉄道の計画を延伸する形で、当時、京都府第二の都市で、軍港として発展が見込める舞鶴へ至る鉄道敷設を目的としました。摂丹鉄道のほかにも、京鶴鉄道(京都~舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪~綾部~舞鶴)、南北鉄道(加古川~舞鶴)、播丹鉄道(姫路~生野~舞鶴)の4つの民営鉄道が舞鶴への鉄道敷設に名乗りをあげており、積極的な免許許可運動が展開された。

しかし、いずれの計画も採算困難であると予想され、また複数路線の並立で共倒れになると考えられたためいずれの路線も却下された。なお、摂丹鉄道が却下されると、小西らは再び川西馬車鉄道を推進しており、摂丹鉄道の基本構想は後の阪鶴鉄道に引き継がれています。

阪鶴鉄道

阪鶴鉄道(はんかくてつどう)は、大阪から福知山を経て舞鶴を結ぶ鉄道を運行していた鉄道会社。尼崎(のちの尼崎港)~池田(現在の川西池田駅)間で営業していた摂津鉄道に出資していた小西新右衛門らが大阪と、軍港を擁し日本海側の主要都市の1つであった舞鶴を結ぶ鉄道を計画。1895年(明治28年)に設立。

1897年(明治30年)に摂津鉄道を合併し、池田~宝塚間が開業。1899年(明治32年)には三田、篠山(現在の篠山口駅)、柏原と順次延伸され福知山南口(のちに廃止)まで開通。

しかし京都鉄道に京都~綾部~舞鶴間の認可が下ったため、福知山~舞鶴間の鉄道敷設は出来なかった。

1904年(明治37年)には、現在の福知山駅まで開通。その際に官製の線路であった福知山~舞鶴間を借りて大阪~舞鶴間の運行が可能となりました。舞鶴からは丹波・若狭地方との連絡のため宮津、境、小浜などへの連絡船も運営しました。

また、神崎(現JR尼崎駅)~大阪間も、官鉄線と並行しているという理由で認可が下りなかっため、塚口から官鉄線の神崎に接続し大阪までのルートを確保しました。なお、将来の輸送量の増加を考え、支線として池田~大阪間の鉄道敷設免許を受けた。

1907年(明治40年)8月1日に、鉄道国有法により帝国鉄道庁に尼ヶ崎~福知山間の営業を譲渡し国有となりJR福知山線の原型となりました。また、池田~大阪間の鉄道敷設免許は阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道に継承され、阪急宝塚本線の原型となりました。

北近畿鉄道物語-播但線

銀の馬車道~播但鉄道~JR播但線

播但線(ばんたんせん)は、兵庫県の中央部を流れる市川・円山川に沿って山陽本線と山陰本線を結ぶ、その名の通り陰陽連絡路線。日本の鉄道開業は、日本初の鉄道路線である新橋駅~横浜駅間が、1872年(明治5年)9月12日である。

1.日本最初の高速産業道路 「生野鉱山寮馬車道」

「銀の馬車道」は、日本最初の高速産業道路というべき馬車専用道路が、当時日本三大鉱山としての生野銀山と飾磨港の間、約49kmに1876年(明治9年)開通した。官設の馬車道で、生野鉱山道とも言う。正式には「生野鉱山寮馬車道」。
1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コアニエが選んだ技師レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事が始まった。道路を水田より60cm高くし、 あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がスムーズに走行できる工事が3年がかりで行われた。この馬車道により、物資を非常に早く輸送でき、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1まで低減したと言われている。
完成から約130年がたった今では、播但鉄道(現在のJR播但線)開通により物資輸送が鉄道にかわり、馬車道としては1921年(大正9年)に廃止となったが、その後も道路として利用された。現在でも国道312号などの一部に当時の面影を残している。一部は新幹線姫路駅になっている。

2.播但鉄道

1887年(明治20年)内藤利八、浅田貞次郎ら地元の数名が馬車鉄道で結ぶ計画を兵庫県知事に提出、将来は蒸気鉄道にする計画だった。この頃、舞鶴を目指す鉄道計画が、播丹鉄道(飾磨~生野~福知山~舞鶴。播但線の前身である播但鉄道とは別))をはじめ、京鶴鉄道(後に京都鉄道となる、京都~園部~舞鶴)、摂丹鉄道(尼崎~福知山~舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪~池田~園部~山家~舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪~池田~綾部~舞鶴)、南北鉄道(加古川~氷上~舞鶴)と6社の出願するところとなったが、乱立および計画不十分によりいずれも却下された。(ここに見える播丹鉄道と地元資本による馬車鉄道の関係は資料によって異なる。)
播但鉄道の設立は1893年(明治26年)で資本金は当初100万円、のち180万円。本社は、初め東京市京橋区(現中央区の一部)日吉町に設置されたが、その後さらに飾磨郡国衙村に移転している。和田山への敷設の仮免許は1894(明治27年)7月、本免許が1896年(明治29年)5月に下付された。そしてさらに1894年(明治27年)7月には、兵庫県津居山(現在の豊岡市、円山川の河口付近)への延長を出願した。この延長も京都鉄道、但馬鉄道との競願になったが、1896年(明治29年)5月に仮免許、翌年8月に本免許が下付された。
しかしこの後の経営は免許前の井上勝の具申書で予想されたように苦しく、生野~新井間の工事に着工したが、この区間は途中難工事が多く、そのため、1901年(明治34年)8月に新井まで開通したところで建設を終了した。1902年(明治35年)には、和田山-津居山間の敷設免許を返納。そして、翌年3月には山陽鉄道と売却の仮契約を結び、播但鉄道は解散することとなった。払込資本金113万円、社債86万円に対して山陽鉄道の年利6%の社債140万円が交付。
1903年(明治36年)5月30日に引き継がれた線路設備は路線35M57C、機関車6両、客車26両、貨車82両だった。開業駅は、飾磨-天神-亀山駅-豆腐町-姫路-京口-野里-仁豊野-香呂-溝口-福崎-甘地-鶴居-寺前-長谷-生野-新井。その後、新井~和田山間は山陽鉄道によって建設、1906年(明治39年)開業した。

3.国鉄播但線


旧和田山機関庫1912年(明治45年)3月に建築されたもので、旧豊岡機関区和田山支区のレンガ造りの車庫と給水塔が現在も残されている。車庫は1991年(平成3年)3月に支区が廃止されてからは倉庫として利用されている。屋根に「ふれあい リゾ-ト 北近畿」と書かれいる。たしかこの看板で「北近畿」というフレーズをはじめて知ったと思う。
1906年(明治39年)12月1日、鉄道国有法により山陽鉄道は国有化、飾磨~和田山間は官設鉄道の一部となり、後に播但線と名称が定められた。播但線を延伸する形で敷設された山陰本線の東部分、当時の山陰東線と合わせて陰陽連絡路線の一つが完成した。 播但線でも貨物扱いがあったが、線路規格が弱く、生野の峠を越えるため1000分の25の急勾配で、補機を設けていた他、C57の回送運用を兼ねて3重連牽引(私もさようならSL三十連に中学の時、カメラとカセット録音で乗車した。)もしばしば見られた。
生野峠での補機には、1960年(昭和35年)よりDF50型ディーゼル機関車が、また1969年(昭和44年)からはDD54型ディーゼル機関車が用いられた。1972年(昭和47年)の無煙化後は、山陰本線より転属してきたDD54型が旧型客車を牽引していたが、故障が多発していたため1979年(昭和54年)までに順次DD51型ディーゼル機関車やDE10型ディーゼル機関車に置き換えられた。

4.JR播但線


寺前 – 和田山間の非電化区間で使用されているキハ41形(キハ40系気動車の両運転台改造車)気動車
 姫路駅を除きJR西日本福知山支社の管轄である(うち、同支社直轄の和田山駅以外は福知山支社管轄の福崎鉄道部が管轄する。なお姫路駅は神戸支社の直轄)。

221系電車
 1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災の時には、東海道・山陽本線が寸断され、朝早いこともあり、車両が姫路方面の車両基地にあったため、加古川線(当時は非電化)と共に、迂回路線として使われていた。
古いトンネルが多く、開口面積が小さかったので、パンタグラフを外して、ディーゼル機関車で牽引して福知山運転所まで回送し、そこでパンタグラフを取り付けて福知山線方面へ自力回送した。なお、生野駅 – 新井駅間の生野トンネルは、特に開口面積が小さく、超低速で、かつトンネルの壁などに当たらない様に監視しながら通り抜けたようである。

2006年11月2日まで朝の通勤ラッシュ時間帯に使用されていた103系0番台R10編成103系電車

電化以前は基本的に姫新線と共通の運用であり、車両についても同じ運用であった。 また、姫路駅で山陽本線(JR神戸線)に接続しているが、機関車等は福知山機関区の所属機を運用していたため、いずれも寒冷地仕様であった。
姫路 – 寺前間の電化区間で主に使用される103系3500番台電車 智頭急行智頭線が開通して以降、この路線を走る優等列車は特急「はまかぜ」のみとなり、それ以外では地域輸送が主体となっている。普通列車については電化区間である姫路 – 寺前間と非電化区間である寺前 – 和田山間に運転系統が分かれており、全線を通して運転される列車はない。また姫路 – 福崎間の区間運転もある。
電化後、普通列車は主に103系3500番台が使用されており、うちH6編成は2008年(平成20年)3月から「銀の馬車道」のラッピングを施して運転されている。

5.急行 但 馬


キハ58
 まだ蒸気機関車が主力で走っていた1960(昭和35)年頃、但馬地方と姫路・京阪神を結ぶ急行「但馬(たじま)」号が生まれた。昭和35年10月にDC準急として生まれ、昭和41年3月5日に急行に昇格した。
最初はキハ28、キハ26などの3両編成で準急「たじま」上下1本で、昭和36年10月1日に漢字表記の「但馬」に変更となり、昭和37年3月1日ダイヤ改正で、播但線経由大阪~鳥取(下り1号、上り1号)と姫路~浜坂(下り2号、上り2号)の計4本運行となった。
昭和38年10月1日からは、準急「但馬・みまさか(上下但馬1号・上下みまさか1号)」として、大阪→鳥取・新見(下り但馬1号・下りみまさか1号)となり(みまさか3両、たじま9両、計12両連結車)、しかもM1号車は大阪~津山、M2、3号車は大阪~新見、T1~3号車は姫路~豊岡(但馬)、T4~9号車は大阪~鳥取(但馬)と、準急「きのさき・但馬・丹後」京都・姫路←城崎・天橋立・浜坂(上りきのさき・上り但馬2号・上り丹後4号)が誕生。3~1号車は姫路~浜坂(但馬)、A1~A3号車は京都~城崎(きのさき)、1~6号車は京都~天橋立(丹後4号)を12両連結(和田山駅連結)した列車だった。

昭和39年10月1日の改正で、準急「但馬・城崎」姫路・京都←浜坂・城崎(上り但馬2号・上りきのさき)7両編成A3~A1号車は京都~城崎(きのさき)、1~5号車は姫路~城崎(但馬)、準急「但馬・みまさか」10両大阪→鳥取・新見(下り但馬4号・下りみまさか1号)、*印の付いた1号車は大阪~津山(みまさか)、*印の付いた2、3号車は大阪~新見(みまさか)、6~12号車は大阪~鳥取(但馬)、1~5号車は姫路駅から「みまさか」を切り離した後、5両連結し12両編成姫路~豊岡(但馬)となります。大阪~鳥取・新見(上り但馬1号・上りみまさか1号)13両(3両みまさか、10両但馬)。昭和41年3月5日改正で「急行」に昇格となります。

昭和43年10月1日改正から、急行「但馬・伯耆・みまさか」大阪~米子・中国勝山・城崎(上り伯耆2号・上りみまさか3号・上り但馬3号)が誕生。1~6号車は大阪~城崎(但馬)、5両は大阪~米子(伯耆)、2両は大阪~中国勝山(みまさか) が誕生しますが、昭和45年10月1日に消滅。急行「但馬・みまさか」のみまさかは6両編成に変更。上り「但馬1号・上りみまさか1号」の姫路~豊岡(但馬)は2両に変更。
1996(平成8年)3月に廃止された。2004(平成16年)5月2日、1961年にデビューし、全国の急行列車として活躍したキハ28・58系の車両が2日、懐かしい国鉄時代の塗色で復活、急行「但馬」として大阪-豊岡(兵庫県)間を走った。

6.特急はまかぜ

 はまかぜは、西日本旅客鉄道(JR西日本)が大阪駅~香住駅・浜坂駅・鳥取駅間を東海道本線・山陽本線・播但線・山陰本線経由で運行する特急列車。兵庫県の但馬地方と県西部の中心都市・姫路市や県都・神戸市を結ぶ役割を持つ。
「まつかぜ」が廃止され、大阪・神戸対但馬・鳥取県東部直通列車が唯一となった。1986(昭和61)年より1994(平成6)年までの「スーパーはくと」運行まではその存在理由がはっきりとしていたが、智頭急行線開業以降同線を経由し、大阪・神戸対鳥取県東部直通では速達列車となった特急「スーパーはくと(153分)運行以降は、京阪神方面から鳥取駅へ行く場合は、1往復運転されているこの列車(267分)を使用するより智頭急行線の「スーパーはくと」(7往復)を利用する方が圧倒的に速く、運賃・料金も若干安価である。また、尼崎(大阪)~和田山駅間では、同じような時間帯に福知山線経由のエル特急「北近畿」が運行されており、先発の「はまかぜ」より後発の「北近畿」または、福知山駅乗換で「きのさき」か「タンゴエクスプローラー」・「文殊」の方が先着する事例もある。
2006年(平成18年)3月の寝台特急(ブルートレイン)「出雲」廃止後、余部鉄橋を通過する鳥取までの優等列車はこの「はまかぜ」のみとなっている。鳥取駅発着の06:05発「はまかぜ2号」は後発の06:39発「スーパーはくと2号」(智頭急行)に先着されている。また、08:53発「スーパーはくと4号」は、「はまかぜ5号」の約2時間後に大阪駅を発車するが、鳥取駅到着は5号のわずか55分後である。
しかし、2・5号は運行上鳥取発着であるが、他は香住駅・浜坂駅発着となっており、非電化区間の城崎温泉以西の但馬北西部の利用が主目的であるため。
2010年11月7日から京都総合運転所(2012年6月に吹田総合車両所京都支所に改組)に所属するキハ189系気動車が使用されている。

余部橋梁
京都総合運転所所属のキハ181系を使用する唯一のJRの定期列車。同系列は車両の老朽化が目立つため、新型車両への置き換え計画が挙がってもおかしくない状況であるが、現在の所、具体的な計画はまだない。そのため、 JRの気動車特急の中では最も古い車両を使用していることとなるが、逆に人気は高く、大阪駅や姫路駅などでは「はまかぜ」を撮影する鉄道ファンが日々増加している。現在国鉄時代に気動車優等列車に利用されていた「アルプスの牧場」の車内チャイムが今でも聴けるのも臨時列車を除けばこの列車だけである。

新大阪から大阪・神戸、姫路までは複々線の東海道本線・山陽本線を並行して走る快速電車をディーゼル気動車ながら特急のメンツたりと懸命に走る(大阪駅~姫路駅間 時速120km/h)姿は可愛いい。神戸港や瀬戸内海・明石海峡大橋が眺められ、姫路駅で進行方向が反対になる。播但線からは姫路城、難所の生野峠越え、城崎温泉、そして日本海とリアス式山陰海岸、桃観トンネル(山陰本線一長い)や余部鉄橋(高さ日本一)を通過する車窓は実に多彩で楽しい列車だ。「夢千代日記」(NHKドラマ人間模様・浜坂駅)「ふたりっ子」(1996年度下半期にNHK連続テレビ小説。香住町・城崎町)「砂の器」(TBS・鎧駅・鎧海岸)のロケ地の雰囲気が楽しめる(冬季余部鉄橋が強風で香住~浜坂間が運行停止することがある)。

掛け替え工事夏休みなどの長期休暇や冬季のいわゆる「カニ食い(ツアー)列車」などの多客時や臨時列車として、車両の貸し出しや臨時列車の運転(増発)、車両が1~4両増結される機会が多い。ただし「かにカニはまかぜ」については、最近は増発ではなく定期列車の増結で対応するようになっている。
運転本数・列車番号大阪駅~香住駅間 1往復(3・6号 多客時は浜坂駅まで延長)
大阪駅~浜坂駅間 1往復(1・4号 1・4号の姫路駅~浜坂駅間では、車内販売も行われている)
大阪駅~鳥取駅間 1往復(2・5号)
大阪駅~浜坂駅間 1往復(88・89号 ※多客臨時列車)
大阪駅~香住駅間 1往復(「かにカニはまかぜ」※冬期臨時列車)
特急はまかぜ(画像:JR西日本)

餘部鉄橋を通過するはまかぜ(画像:JR西日本)

停車駅()内の駅は一部列車が臨時停車。姫路駅では構内配線の関係で走行する方向が変わる(スイッチバック)。

大阪駅 – 三ノ宮駅 – 神戸駅 – 明石駅 -(加古川駅) – 姫路駅 – 福崎駅 – 寺前駅 – 生野駅 – 和田山駅 – 八鹿駅 – 江原駅 – 豊岡駅 – 城崎温泉駅 – 竹野駅 – (佐津駅) – 香住駅- (餘部駅) – 浜坂駅 – 岩美駅 – 鳥取駅

1971年(昭和46年)、キハ80系を使用し、臨時特別急行列車「ゆあみ」が秋季、「はくぎん」が冬季のそれぞれ週末に運転され、臨時ながら初めて播但線で特別急行列車を運転した。「はまかぜ」登場前の慣らし運転的意味あいも兼ねていたとされる。

同年3月15日、同区間特急「はまかぜ」新大阪~倉吉(下り1号、上り2号)、大阪~鳥取(下り2号、上り1号)が誕生。車両は気動車にキハ82が前後ろ各1両ずつとキロ80が1両、キハ80が3両の計6両編成。

桃観トンネル

1972年(昭和47年) 福知山線経由の特急「まつかぜ」の補完列車として、キハ80系を使用し、新大阪駅・大阪駅~鳥取駅・倉吉駅間を播但線経由となる特別急行列車「はまかぜ」の運転を開始。

「はまかぜ」は播但線内を無停車で運転されたため、急行である「但馬」との差別化は計られていた。1973年(昭和48年)10月1日、新大阪~倉吉(下り1号、上り2号)が7両に増設、昭和50年3月10日に下り1号、上り2号が、6両になり新大阪~米子なで延長されましたが、昭和51年10月1日には再び新大阪~倉吉となる。1982年(昭和57年7月1日から1984年(昭和59年)1月31日まで大阪~倉吉(1、4号)が8両編成になり、1985年(昭和60年3月14日から新大阪・大阪~鳥取に変更、1986年(昭和61年)11月1日から上下合わせて計6本に、1、6号は新大阪~倉吉に。3・4号は米子までとなる。1988年(昭和63年3月13日から5両編成になる。

1994年(平成6年)12月3日から大阪~浜坂(1、4号)、大阪~鳥取(3、2号)の計4本となる。1996年(平成8年)3月16日から大阪~浜坂(1、4号)、大阪~城崎(3、6号)、大阪~鳥取(5、2号)で全4両編成に、1997年(平成9年)3月8日、3、6号は大阪~香住までに延びた。

7.播但線沿革

播但線沿革
1876年(明治9年)現在の姫路市飾磨(しかま)~生野(いくの)銀山間には日本初の高速道路というべき「生野鉱山寮馬車道」が整備
1887年(明治20年)11月5日内藤利八、浅田貞次郎ら生野飾磨間馬車鉄道敷設願を知事に提出
1888年(明治21年)5月31日馬車鉄道認可
1889年(明治22年)10月18日飾磨~生野間の蒸気鉄道敷設を出願
1893年(明治26年)3月8日鉄道敷設の仮免許
 〃 5月30日測量が完了し、鉄道敷設の免許出願
 〃 6月30日鉄道敷設の本免許
〃 7月播但鉄道会社設立
1894年(明治27年)2月飾磨~生野敷設工事開始
 〃 7月生野~和田山間の仮免許
 〃 7月26日姫路~寺前間開業
1895年(明治28年)4月17日長谷~生野間、姫路~飾磨(後の飾磨港)3M31C開業
1896年(明治29)年5月23日生野~和田山の敷設本免許
1897年(明治30年)8月25日和田山~津居山間の本免許
 〃 10月30日生野~和田山間の本免許
1901年(明治34年)8月29日生野~新井間開業
1902年(明治35年)3月10日和田山~津居山間の工事竣工期間経過により免許返納
1903年(明治36年)5月31日播但鉄道解散
1903年(明治36年)6月1日山陽鉄道による営業開始
1906年(明治39年)4月1日新井~和田山間開業、播但線全線開通
 〃 12月1日山陽鉄道国有化
1952年(昭和27年)大阪駅~城崎駅(現:城崎温泉駅)間を播但線経由で運転する臨時快速列車「たじま」が設定される。
1953年(昭和28年)大阪駅~城崎駅間を播但線経由とする臨時快速列車「ゆあみ」の運転を開始する。
週末運転で下りは金曜日、上りは日曜日運転であった。
1955年(昭和30年)「たじま」定期列車化。
1956年(昭和31年)「たじま」上り始発駅を香住駅に変更。
1958年(昭和33年)「たじま」浜坂駅まで運転区間を延長。また、臨時列車「ゆあみ」を準急列車化。
1959年(昭和34年)4月6日生野 – 長谷間で蒸気機関車牽引の回送列車が脱線転覆。播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故。
1960(昭和35)10月但馬地方と姫路・京阪神を結ぶDC準急「但馬(たじま)」号が生まれた。同時に運転区間も大阪駅~鳥取駅間に変更。
1960年(昭和35年)「たじま」準急列車に昇格。
1961年(昭和36年)「たじま」名称を漢字書きの「但馬」に変更。
1962年(昭和37年)「但馬」に姫路駅発着列車が設定される。
1965年(昭和40年)「ゆあみ」の名称を「但馬」に変更。また、1往復増発され、「但馬」4往復での運転となる。
但し、大阪駅発着は2往復のままで、運転区間も従来の「たじま」・「ゆあみ」を踏襲する形で運転。
1966年(昭和41年)準急列車制度の変更により「但馬」 急行列車に昇格。
1971年(昭和46年)キハ80系を使用し、臨時特別急行列車「ゆあみ」が秋季、「はくぎん」が冬季のそれぞれ週末に運転され、臨時ながら初めて播但線で特別急行列車運転。「はまかぜ」登場前の慣らし運転的意味あいも兼ねていたとされる。
1972年(昭和47年)福知山線経由の特急「まつかぜ」の補完列車として、キハ80系を使用し無煙化(ディーゼル車)、新大阪駅・大阪駅~鳥取駅・倉吉駅間を播但線経由となる特別急行列車「はまかぜ」の運転を開始。「はまかぜ」は播但線内を無停車で運転されたため、急行である「但馬」との差別化は計られていた。
1975年(昭和50年)「はまかぜ」倉吉行を米子駅行きに変更し、鳥取・米子~小郡間に新設された特急「おき」との共通運用を開始。
1976年(昭和51年)「おき」の使用車両がキハ181系に変更された為、米子行きを倉吉行きに再変更。
1982年(昭和57年)「やくも」電車化に伴う余剰車両を割当てる形でキハ181系に車両変更。
1984年(昭和59年)2月1日飾磨港 – 飾磨間の貨物営業廃止。
1985年(昭和60年)「はまかぜ」全列車鳥取駅発着となる。
1986年(昭和61年)福知山線電化に伴い特急「まつかぜ」の運転が終了。これをカバーする目的で倉吉駅・米子駅発着列車を運転開始。また、「但馬」については大阪駅~豊岡駅間運行の列車と姫路駅~浜坂駅間の2往復に減少する。
1986年(昭和61年)11月1日飾磨港 – 姫路間 (5.6km) が廃止。
1987年(昭和62年4月1日国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道が承継。姫路 – 和田山間の貨物営業廃止。
1989年(平成元年)「但馬」 大阪駅乗り入れを臨時列車に格下げ。定期列車は全列車姫路駅発着となる。
1991年(平成3年)11月1日ワンマン運転開始。
1992年(平成4年)客車列車全廃。北陸地区より転属したキハ58系初期型を改造したキハ58系5500番台車(オールロングシート改造車)投入。
1993年(平成5年)全列車大阪駅発着となる。
1994年(平成6年)智頭急行智頭線開業。特急「スーパーはくと」運転開始により、運転区間を大阪駅~浜坂駅・鳥取駅間と短縮。3往復から2往復へ減便し、大阪駅~浜坂駅間、大阪駅~鳥取駅間各1往復とする。
1995年(平成7年)阪神大震災の影響により1月17日より3月31日まで全便全区間運休。
1996年(平成8年)姫路駅発着で同区間を運転していた急行「但馬」2往復のうち1往復を大阪駅まで延長の上、「はまかぜ」に格上げして城崎駅(多客期に限り香住駅)発着とし、残りの1往復は廃止とする。これによって「但馬」は定期列車としての運行を終了することとなり、大阪駅乗り入れの臨時「但馬81・82号」も「はまかぜ81・82号」として特急に格上げ。
それまで播但線内無停車であったが、この時より播但線内の福崎駅及び寺前駅に停車、特急料金も大阪駅~浜坂駅に関しては急行廃止の救済も兼ねて割安なB特急料金が新たに導入されることとなった。また、このころより「はまかぜ」の性格も兵庫県内移動が主体となる。
1998年(平成10年)姫路~寺前間電化。「はまかぜ」播但線内の停車駅に生野駅を追加。
2006年(平成18年)山陰本線余部鉄橋架け替えに伴う記念事業「鉄橋サミット」開催に伴う輸送列車として姫路駅~浜坂駅間を運行する急行列車「あまるべ」が運行。
使用車両は、キハ58・キハ282両一組の4両編成。金沢総合車両所・越前大野鉄道部所属車の国鉄色を用い、全車座席指定席で運行された。
2006年(平成18年)4月1日姫路 – 和田山間の全通100周年記念セレモニーが和田山駅で行われ、特製ヘッドマーク掲出運転や様々な記念関連イベント開催。
2008年(平成20年)12月22日姫路駅付近(約1.3km)が高架に切換予定。

100年の夢、氷ノ山越え3

●蘇武トンネルまもなく完成

時代は鉄道から自動車時代となって久しい。京都を起点として山口県まで結ぶ日本で3番目に長い国道9号が完成した。そして京都府宮津市から鳥取県米子市までを、日高町の清水豊町長が音頭を取って宮津市から米子市までの関係市町が国道482号昇格期成同盟を結成。そして国道に昇格し、難所として行き止まりだった下記の3ケ所が繋がるのである。このルートこそ、大正時代に故藤本俊郎が夢見た壮大なロマン、但馬鉄道計画そのものであり、完成するとかつて旧山陰道の最短ルートであった氷ノ山越えが百年の時を越えて復活することになる。冬季除雪もほとんどなく、国道9号の関宮町から若桜町を抜けるルートとしても期待が大きい。また、若桜、美方、関宮3町ともスキー場があり、トンネルを利用すれば30分単位での移動が可能となるし、蘇武トンネル開通によって神鍋高原も結ばれ、全く違うルートを利用してきた関西の主なスキー場の移動が、短時間でできるようになるのだ。

100年の夢、氷ノ山越え2

●氷ノ山越えと山陰本線計画

明治後期に鉄道敷設がさかんになると、舞鶴の軍港と大阪を結ぶ計画の阪鶴鉄道(現JR福知山線)が福知山まで完成。また、山陽鉄道(現JR山陽本線)、さらに姫路から和田山までを結ぶ播但鉄道(現JR播但線)が完成した。さらに京都から福知山そして福知山から舞鶴まで鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきたのだ。豊岡駅から国鉄宮津線(現北近畿丹後鉄道)、鳥取までは、内陸部の八鹿駅から若桜へ抜けるルートである。鳥取県郡家町こおげ駅を起点として若桜町までは敷設でき(旧国鉄若桜線、現若桜鉄道)ていたが、氷ノ山を貫く大トンネル工事は、当時のトンネル技術では困難なことから、明治42年頃には和田山から城崎まで北進していた鉄道から、余部鉄橋も難工事ではあったが海岸ルートに決まったのが、現在のJR山陰本線である。