第2章 3.天日槍ゆかりの神社にみる足取り

天日槍(以下、ヒボコ)は但馬出石に安住の地を決めるまで、どういう足取りを辿ったのか。

『日本書紀』、『播磨国風土記』にその足取りが記されている。

『日本書紀』ではまとめると次のルートである。
新羅-伊都国-播磨国宍粟邑-宇治川-近江国吾名邑-若狭国-但馬国

近江国と天日槍

足取りを残すようにゆかりの神社がある。

1.播磨国 宍粟 式内御形神社

中殿 葦原志許男神(アシハラノオ)
左殿 高皇産靈神(タカミムスビ) 素戔嗚神(スサノオ)
右殿 月夜見神(ツクヨミ) 天日槍神(アメノヒボコ)」 兵庫県宍粟市一宮町森添280

1.近江国 蒲生 鏡神社 「天日槍命」 滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289
2.近江国 栗太 安羅神社 「天日槍命」 滋賀県草津市穴村町
3.近江国 伊香 
式内鉛練日古神社 「大山咋大神オオヤマクイノオオカミ 天日桙命アメノヒボコノミコト 滋賀県長浜市余呉町中之郷108

4.越前国 敦賀   式内気比神宮摂社角鹿神社「都怒我阿羅斯等命つぬがあらしとのみこと」(=天日槍命とする説) 敦賀市曙町11-68
5.若狭国 若狭大飯 式内静志神社「天日槍命 今は少彦名命」 福井県大飯郡大飯町父 子46静志1
6.但馬国 但馬出石 但馬国一宮 名神大 出石神社(伊豆志坐神社)「出石八前大神、天日槍命 兵庫県豊岡市出石町宮内字芝池

神社由緒には、 「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とある。この辺りを「吾名邑」とし、「鏡邑の谷の陶人」の地とする条件はかなり揃っている。

息長氏おきながうじは古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。 『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。天皇家との関わりを語る説話が多い。姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公・坂田公・酒人公などがある。

息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

1.竜王町説

苗村神社

滋賀県竜王町には「苗村ナムラ神社」(式内長寸神社)が鎮座する。鏡山の東麓にある。吾名邑(アナムラ)という地名が苗村になったという。(景山春樹氏)鏡山の麓にあり、鏡邑に隣接していることからも、ここが吾名邑という。

鏡山神社
滋賀県竜王町鏡
御祭神 「天日槍」 神社由緒には、 「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とある。この辺りを「吾名邑」とし、「鏡邑の谷の陶人」の地とする条件はかなり揃っている。

2.草津市穴村説

滋賀県草津市には穴村町という地名が残り、「安羅神社」がある。
安羅(ヤスラ)神社
滋賀県草津市穴村町
御祭神 「天日槍」

神社由緒記には、「日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する」とあり、祭神は「天日槍命」とする。「近江国の吾名邑」は、ここ「穴村」に比定する。天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類を留め、後それらの人々が彼を祖神としてその恩徳を慕うて神として社を創建した。この安羅神社である。「安羅」という社名は、韓国慶尚南道の地名に同種の安羅・阿羅があり、天日槍を尊崇するとともに、故郷の地名に執着して社名にしたものと思われる。

(*兵庫県豊岡市出石いずし町袴狭はかざの近くに安羅に似た安良(ヤスラ)、伊豆志に通じる伊豆・嶋という地名がある。古くは合わせて出島いずしまと書く。天日槍垂跡の地『但馬故事記』)

3.米原市(旧近江町)説

米原市の旧近江町は旧坂田郡にあり、この辺りは「坂田郡阿那郷アナゴウ」と呼ばれていた。阿那郷が後に息長オキナガ郷になった。(息長郷は神功皇后の関連地名である。) この阿那郷が「吾名邑」であるという。(金達寿「日本の中の朝鮮文化」からの引用。坂田郡史に書かれてあるらしい)。米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立つ。

伊弉諾神社  米原市菅江(旧山東町)   この神社にはつぎのような口伝がある。
古老の伝に、村の南西大谷山の中腹に、百人窟という洞穴があり、息長族系の人々が住んでいた。阿那郷と呼ばれる渡来人の遺跡と思われる。これらの人々は須恵器を作って、集団生活が始まったという。この地は古代の窯業跡とも云われる。

息長氏おきながうじは古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。 『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。天皇家との関わりを語る説話が多い。かばねは公(または君、きみ)。同族に三国公・坂田公・酒人公などがある。

息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

息長宿禰王おきながのすくねのみこ(生没年不詳)は、2世紀頃の日本の皇族。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王かにめいかずちのみこの王子。母は丹波之遠津臣の女・高材比売たかきひめ。神功皇后の父王として知られる。気長宿禰王とも。 王は河俣稲依毘売かわまたのいなよりびめとの間に大多牟坂王おおたむさかのみこ、天之日矛の後裔・葛城之高額比売かつらぎのたかぬきびめとの間に息長帯比売命おきながたらしひめのみこと虚空津比売命そらつひめのみこと息長日子王おきながひこのみこを儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡される。

王は少毘古名命・応神天皇と並び滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。
天日槍は近江国の吾名邑あなのむら(滋賀県草津市)にいたとされるので、息長宿禰王とひ孫の葛城之高額比売も同族は親戚かもしれない。
西野凡夫氏『新説日本古代史』の中で、通説では息長氏の本貫地が北近江であると考えられているが、それは間違っている。本貫地は大阪である。継体天皇を息長氏と切り離したのは、天皇家を大和豪族とは超越した存在として位置づけるための造作である、としている。

2009/08/28


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第3章 1.天日槍と伊和大神の国争い

播磨国一宮 伊和神社

奈良時代に編集された播磨国の地誌『播磨国風土記』(国宝)の成立は715年以前とされている。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。ちなみに『風土記』とは奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書。写本として現存するのは、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。その中で『但馬国風土記』の焼失を惜しんで、のちに但馬国府の役人が編纂した『国司文書 但馬故事記』は貴重な史料である。

『播磨国風土記』には伊和大神いわのおおかみ天日槍あめのひぼことの争いが語られている。結果としては住み分けをしたことになり、ヒボコは但馬の伊都志(出石)の地に落ち着いたことが語られている。

ヒボコと伊和大神の国争い

(中略)ヒボコは宇頭ウズの川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命アシハラシノミコトに土地を求めたが、海上しか許されなかった。

ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘イイボノオカに上がった。

葦原志挙乎命とヒボコが志爾蒿シニダケ(=藤無山)[*1]に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。

その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条ミカタと云う。

ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を占領した。

神前郡多駝里粳岡は伊和大神[*2]とヒボコ命の二柱の神が各々軍を組織して、たがいに戦った。その時大神の軍は集まって稲をついた。その粳が集まって丘とな った。

[現代語訳]

アメノヒボコは、とおいとおい昔、新羅(しらぎ)という国からわたって来ました。
日本に着いたアメノヒボコは、難波なにわ(=現在の大阪)に入ろうとしましたが、そこにいた神々が、どうしても許してくれません。
そこでアメノヒボコは、住むところをさがして播磨国はりまのくににやって来たのです。

播磨国へやって来たアメノヒボコは、住む場所をさがしましたが、そのころ播磨国にいた伊和大神という神様は、とつぜん異国の人がやって来たものですから、
「ここはわたしの国ですから、よそへいってください」
と断りました。

ところがアメノヒボコは、剣で海の水をかき回して大きなうずをつくり、そこへ船をならべて一夜を過ごし、立ち去る気配がありません。その勢いに、伊和大神はおどろきました。

「これはぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。はやく土地をおさえてしまおう。」
大神は、大急ぎで川をさかのぼって行きました。そのとちゅう、ある丘の上で食事をしたのですが、あわてていたので、ごはん粒をたくさんこぼしてしまいました。そこで、その丘を粒丘(いいぼのおか)と呼ぶようになったのが、現在の揖保(いぼ)という地名のはじまりです。

一方のアメノヒボコも、大神と同じように川をさかのぼって行きました。
二人は、現在の宍粟市(しそうし)あたりで山や谷を取り合ったので、このあたりの谷は、ずいぶん曲がってしまったそうです。さらに二人は神前郡多駝里粳岡(福崎町)のあたりでも、軍勢を出して戦ったといいます。
二人の争いは、なかなか勝負がつきませんでした。
「このままではまわりの者が困るだけだ。」
そこで二人は、こんなふうに話し合いました。

「高い山の上から三本ずつ黒葛(くろかずら)を投げて、落ちた場所をそれぞれがおさめる国にしようじゃないか。」
二人はさっそく、但馬国(たじまのくに)と播磨国の境にある藤無山(ふじなしやま)[*1]という山のてっぺんにのぼりました。そこでおたがいに、三本ずつ黒葛を取りました。それを足に乗せて飛ばすのです。
二人は、黒葛を足の上に乗せると、えいっとばかりに足をふりました。

「さて、黒葛はどこまで飛んだか。」と確かめてみると、
「おう、私のは三本とも出石(いずし)に落ちている。」とアメノヒボコがさけびました。
「わしの黒葛は、ひとつは気多郡(けたぐん)、ひとつは夜夫郡(やぶぐん)に落ちているが、あとのひとつは宍粟郡に落ちた。」
伊和大神がさがしていると、「やあ、あんな所に落ちている。」とアメノヒボコが指さしました。  黒葛は反対側、播磨国の宍粟郡(しそうぐん)に落ちていたのです。

アメノヒボコの黒葛がたくさん但馬に落ちていたので、アメノヒボコは但馬国を、伊和大神は播磨国をおさめることにして、二人は別れてゆきました。

ある本では、二人とも本当は藤のつるがほしかったのですが、一本も見つからなかったので、この山が藤無山と呼ばれるようになったと伝えられています。

その後アメノヒボコは但馬国で、伊和大神は播磨国で、それぞれに国造りをしました。アメノヒボコは、亡くなると神様として祭られました。それが現在の出石神社のはじまりだということです。

「兵庫県立歴史博物館ネットミュージアム ひょうご歴史ステーション」より

『播磨国風土記』にあるヒボコの足取りをまとめると、

播磨国揖保川河口-粒丘(揖保郡)-神前(神崎)郡多駝里粳岡(福崎町)-志爾蒿(シニダケ=藤無山)-御方里(宍粟郡三方)御形神社━

┳━(天日槍は但馬国)  出石 但馬国一宮 出石神社
┗━(伊和大神は播磨国) 宍粟 播磨国一宮 伊和神社

『播磨国風土記』

御形神社

式内 御形神社

兵庫県宍粟市一宮町森添280
中殿 葦原志許男神(アシハラノオ)
左殿 高皇産靈神(タカミムスビ) 素戔嗚神(スサノオ)
右殿 月夜見神(ツクヨミ) 天日槍神(アメノヒボコ)

ご祭神葦原志許男神の又の御名を大国主神。社名「御形」は、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植え形見代・御形代より。
この神様は、今の高峰山(タカミネサン)に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生(アヲヒトグサ)をも定められて、今日の基礎を築いて下さいました。  しかし、その途中に天日槍神(アメノヒボコノカミ)が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛(ツヅラ)を三條(ミカタ)づつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條(ヒトカタ)は但馬の気多郡に、一 條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。「御形神社HP」

 

[註] *1 志爾蒿(シニダケ=藤無山・ふじなしやま)
宍粟市と養父市の播・但国境にあるある山。標高は1139.2m。若杉峠の東にある、大屋スキー場から尾根筋に登るルートが比較的平易だが、ルートによっては難路も多い、熟達者向きの山であります。尾根筋付近は植林地となっています。

第3章 3.ヒボコより伊和大神の方が鉄集団っぽい

ヒボコより伊和大神の方が鉄集団っぽい

『播磨国風土記』にある伊和大神とヒボコの土地(国)争いを、鉄原料の奪い合いであると見て、タタラ製鉄に優れていた出雲からやって来た伊和大神の方が鉄の集団にふさわしいという説もある。

そして、この二人を祀る神社が、それぞれ但馬国一宮出石神社・播磨国一宮 伊和神社であることが、それを後世に証明している。

ここで、『播磨国風土記』をもう一度、振り返ってみよう。

ヒボコは宇頭ウズの川底(揖保川河口)に来て、国の主のアシハラシコ(葦原志挙乎命)に土地を求めたが、海上しか許されなかった。
ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべくイイボノオカ(粒丘)に上がった。

葦原志挙乎命とヒボコが志爾蒿(シニダケ=藤無山)に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。

その時、アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。

ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を領した。

播磨国一宮 伊和神社

播磨国一宮 伊和神社

兵庫県宍粟市(旧一宮町)にある神社。宍粟市一宮町須行名407
播磨国一宮で、延喜式内社(名神大社)、旧社格は国幣中社。

伊和神社の社叢しゃそうは、「兵庫の貴重な景観」Bランクに選定されている。

祭神は伊和大神(大己貴神おおなむちのかみ)を祀る。『播磨国風土記』にその名が見え、神社周辺は豪族・伊和族の根拠地であったと考えられ、末裔の伊和一族が祭祀したとみられている。

伊和大神は、播磨国の国土開発の神として大己貴神おおなむちのかみ大国主神おおくにぬしのかみ大名持御魂神おおなもちみたまのかみとも呼ばれ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命あしはらしこおのみこととも記されている。『播磨国風土記』も伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神であると思わせる構成であるのだ。

播磨国の「国造り」をおこなった神とされており、『播磨国風土記』には、記紀にはないヒボコとの土地争いが記されている。

『播磨国風土記』には、宍粟郡しそうから飾磨郡しかま伊和里いわのさとへ移り住んだ、伊和君いわのきみという古代豪族の名が見えることから、この伊和氏が祖先を神格化した神とも考えられている。

同記によると、オオナムチ(大己貴命)は、出雲から来た神と記されている事から、大己貴命は出雲から宍粟邑(宍粟市一宮町伊和)あたりに住みつき、勢力を拡大し、伊和族とともに播磨統一を目指したと思われてきた。しかし最近では、オオナムチは、奈良県桜井市にある三輪山付近で勢力を伸ばしていた一族の長で、この三輪族がなんらかの理由で三輪の地を離れ、海路、播磨に辿り着いたのではないかと言われ始めている。また、播磨土着の神が、後に大国主神に習合されたという見方もある。(アメノヒボコは、西から海路瀬戸内海から播磨に上陸している)

『播磨国風土記』によれば、大己貴命が姫路平野に辿り着き、居を構えた手柄山てがらやま南方の山を、三和山と名付けたと言う。(大和の)三輪山西南麓には金屋遺跡があり、ここからは縄文時代初期の土器が発見されており、日本で最も早く拓けたところと思われるが、この遺跡からは弥生時代の遺物とともに、製鉄が行われていた事を示す遺物が発見され、近くの穴師兵主神社にも鉄工の跡が見られると言う。つまり、この三輪山は古代の鉄生産に関わる山であり、この山を御神体とする大神おおみわ神社の御祭神は大物主大神で、この神も大己貴命と同一神とされている。

鉄と穴師

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜弘明の中に、

『古代の鉄と神々』真弓常忠によると、砂鉄を含む山は「鉄穴かな山」と呼ばれ、砂鉄を採る作業を「鉄穴かんな流し」と言い、そこで働く人々を「鉄穴師かなし」と呼ぶ。つまり古代において「穴」は「鉄穴かな」の意から「鉄」を表し、オオナムチ(大己貴命)は「大穴持命」・「大穴牟遅命」とも記す事から「偉大な鉄穴の貴人」という意味で、すなわち「鉄穴」の神であり、産鉄の神であったということがわかるのだ。大己貴命という名は、新しい産鉄・製鉄の技術を持った鉄鍛冶の長が代々、継承した名前かと思われ、播磨に辿り着いた大己貴命とその一族は、市川や夢前川、揖保川流域の砂鉄を使って、鉄を作り、武器や農具に変えて、播磨を支配下に入れ、豊かな田園地帯を作り上げていった。

『播磨国風土記』には、オオナムチとともに大活躍を見せるスクナビコナ(少彦名命)という神さまが登場し、2人の神さまが競う様に市川を北上し、播磨を開拓して行く様子が描かれている。日本書紀によると、オオナムチが出雲の海岸でスクナビコナと出会った時、スクナビコナは、手のひらに乗るほど小さく、まだ言葉もしゃべれなかったという。その後、オオナムチは、スクナビコナの父神さまに会い、弟として一緒に国づくりをさせてやってくれと頼んだ。産鉄・製鉄の神さまであるオオナムチに対して、スクナビコナは、薬学や養蚕、酒造りなどの神様と言われ、日女道丘ひめじおか(姫路城のある今の姫山)に落ちた蚕子はスクナビコナの荷物かもしれず、播磨で酒造りが盛んなのもスクナビコナのお陰なのかもしれない。

アシハラシコオ(葦原志許乎命)の葦原とは

アシハラシコオ(葦原志許乎命 大己貴神の別称・葦原醜男)は同神であると思わせる構成である。葦原醜男は葦原志許乎命とも記すが、葦原とは何かを知ることが必要になってくる。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、

『古事記』は、わが国を「豊葦原の瑞穂の国」と記している。瑞穂の国はみずみすしい稲穂の実る国で理解できるが、豊葦原がわからない。

(中略)古代の人は鉄鉱の団塊が葦など植物の根などから長い間に褐鉄鉱が生成・蓄積され水辺に層をなすことを知っていた。これをスズ(錫)と称し、万葉集は信濃の枕詞として「みすず苅る」も用いる。ミスズ(信濃)はスズが特産であり、当時から鉄は貴重品であり、その意味でスズに「ミ(御)」をつけたのであろう。

諏訪大社は古代の製鉄に関与した社で、古代よりスズを用いた製鉄が盛んだったことが浮かび上がってくる。

実は、古代日本は製鉄原料に事欠かなかった。火山地帯の河川や湖沼は鉄分が豊富で、水中バクテリアの働きで葦の根からは褐鉄鉱が鈴なりにできたからだ。では何故、鈴なり=鈴というのか。

振ると音のする鈴石や鳴石というものがある。これも葦などの根を包むように成長し、形成された褐鉄鉱の内部の根が枯れて消滅し、内部の鉄材の一部が剥離して、振ると音を出すことがある。これが鈴石などとよばれるのである。

そして足などの根に楕円・管状になった褐鉄鉱が密生した状態が「すずなり=鈴なり=五十鈴いすゞ」の原義であった。(中略)これを横にすると何処か銅鐸に似ているように見えないか。

ここに豊葦原の意味がわかった、といっていいだろう。わが国では神代の昔から鉄が作られ、人々は製鉄職人を崇め、最初の原料はスズ=褐鉄鉱であった。

当時の人々は、「葦原」はスズを生み出す源であることを知っていた。したがって、「豊葦原」とは、「貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原」と云う意味なのだ。(中略)

それが各地から出土する銅矛で象徴されたと考えてよい。また鐸とは「大鈴なり」とあるように、鈴石の象徴で、これを打ち鳴らすことで葦の根にスズが鈴なりに産み出されることを祈ったのだろう。そして祭器としての矛や鐸は、古くは神話にあるように鉄が使われていたが、青銅器を知るに及んで、加工しやすく、実用価値の低い青銅を用いるようになっていった。このような考えに逢着ほうちゃくしたのである。

太古、「豊葦原」から産み出されるスズから鉄を作り、その鉄を使った農具で開墾し、「瑞穂の国」を造る。この両者は、古代より豊かな国の礎いしずえ、両輪と認識されていたゆえに、わが国の美祢となったのである。

気多神社と葦田神社

『播磨国風土記』では、「アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。」

気多郡にそのアシハラシコの但馬総社 気多神社(豊岡市日高町上郷)があるが、そのすぐ隣村が今の豊岡市中郷で、古くは気多郡葦田郷。式内葦田神社がある。

式内葦田神社

『但馬故事記』に葦田神社が現れるのは、人皇15代神功皇后2年のことだ。気多大県主の物部連大売布命が亡くなり、その子・物部多遅麻連公武をもって多遅麻国造とする。

それ以前は初代多遅麻国造となったアメノヒボコ以来、代々ヒボコの子孫が出石に多遅麻国の府を置いていたが、人皇十代崇神天皇十年に重大事が起きる。
丹波青葉山の賊、陸耳ノ御笠が土蜘蛛・匹女ら群盗を集めて民の物を略奪したのである。多遅麻の狂(今の豊岡市城崎町来日)の土蜘蛛ももこれに応じ、著しく猖獗ショウケツを極めた。崇神天皇は、開化天皇の皇子、彦坐命にこれを討たせた。彦坐命は子の将軍丹波道主命を補佐とし、多遅麻・丹波の国造・県主らを率いて、多遅麻美伊県伊伎佐御崎の海上で討滅した。
天皇はこれを賞し、彦坐命に丹波・多遅麻・二方の三国を与え、大国主とした。彦坐命は多遅麻粟鹿県に下向し、刀我禾鹿宮に住んだ。諸将を各地に置き鎮護となした。
丹波国造 倭得玉命、多遅麻国造 天日楢杵命、二方国造 宇津野真若命
この時多遅麻の県主がみな禾鹿宮に朝り、その徳を頒ける。故に朝来ノ県と云うなり。(それまでは比地県)
それから十三代成務天皇五年に、彦坐命の5世孫、船穂足尼命を多遅麻国造とし、夜父宮(今の養父神社)に府を置くことで、アメノヒボコから多遅麻日高命まで代々世襲制で出石県に国造と府が置かれていた時代は終わる。おそらく大国主のいる朝来から近い夜父に遷したのだろう。しかし一代にして気多県・黄沼前県、摂津河辺を賜った物部連大売布命の子、物部多遅麻連公武が多遅麻国造となる。(これ以降、律令制が瓦解するまで但馬国府は気多郡となった)

アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に
『播磨国風土記』では、「アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。」は偶然なのか、多遅麻国造は出石から養父、気多と遷るのである。

多遅麻国造 物部多遅麻連公武は、

天目一筒命の末裔・葦田首を召し、刀剣を鍛えさせ、(→式内葦田神社:豊岡市中郷)
彦狭知命の末裔・楯縫首を召し、矛・楯を作らせ、(→式内楯縫神社:現在地ではなく鶴岡字多々谷)
石凝姥命の末裔・伊多首を召し、鏡を作らせ、(→式内井田神社:豊岡市日高町鶴岡)
天櫛玉命の末裔・日置部首を召し、曲玉を作らせ、(→式内日置神社:同日置)
天明命六世の孫、武碗根命の末裔・石作部連を召し、石棺を作らせ、(おそらく豊岡市日高町石井)
野見宿禰命の末裔・土師臣陶人を召し、埴輪・甕・ホタリ・陶壺を作らせ、(→式内須谷神社:豊岡市日高町藤井)

大売布命の御遺骸に就け、

御統玉を以て、モトドリを結い、御統五十連の珠を以てお顎に掛け、磐石の上に立て、これを石棺に納め、射楯の丘に葬る。而して(そして)埴輪を立て、御酒をほたり(徳利)に盛り、御食を陶壺に盛り、之を供え、草花を立てて、之を葬る。

またずっとのちになり、人皇37代孝徳天皇の
大化三年、気多郡高田邑に兵庫を造り、軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管轄する。その際に役職に隊正があり、それぞれ上記の村の男を任命している。

また、葦田氏に剣・鉾・鏑・鏃やじり
を鍛えさせている。

これらから、気多郡の気多神社、葦田神社、井田神社、楯縫神社の古社地タタノヤ(多々谷)は、タタラに通じ、ヒボコの世から神功皇后の頃、気多神社周辺が但馬の鉄の産地であったことが浮かび上がる。おそらく砂鉄が採れたので旧日高町(旧気多郡)で最も古くから記されている気多神社と、近い位置に式内社が集中するのか?井田神社、葦田神社がこの近い距離にいずれも式内社であり、なぜ但馬国府をこの周辺に置いた。

いったいこの小さい国である但馬に何が起きようとしていたのだろうか?但馬は谿間とも記され、平野部の少ない小さな国が、倭国と朝鮮半島という日本海を挟んだ接点として、極めて倭国の国家存亡の危機を握る場所になりつつあったのではないか。新羅が伽耶が百済が裏切ったのだ。


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