小田井県神社と酒垂神社の関係

小田井県と小田井懸神社

小田井県神社の県は旧字で「懸」とは、古代の時代において施行されていた地方行政の制度で、701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成される前は、国・県ムラであった。

『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)は、「天火明命はこれより西して谿間タヂマに来たり、清明スアカリ宮に駐まり、豊岡原に降り、御田オダを開き、垂樋天物部命たるいのあめのもののべのみことをして、真名井を掘り、御田にがしむ。

すなわちその地、秋穂八握ヤツカ莫々然シナヒヌ。故れその地を名づけて豊岡原と云い、真名井を名づけて御田井オダイと云う。のち小田井と改む。」

 

天火明命はまた南して、佐々前原ささのくまはらに至り、磐船宮いわふねのみやにとどまる。佐久津彦命をして、篠生原しのいはらかしめ、御田を開かせ、御井を掘り、水をそそがしむ。後世その地を名づけて、真田稲飯原と云う(今は佐田伊原)。佐久津彦命は佐久宮にいまし、天磐船命は磐船宮にいますなり。(式内佐久神社:豊岡市日高町佐田、磐舩いわふね神社:豊岡市日高町道場)
天火明命は、また天熊人命を夜父やぶ(のち養父)に遣わし、蚕桑の地を相せしむ。天熊人命は夜父の溪間にき、桑を植え、かいこう。
故れ此の地を名づけて、谿間屋岡原と云う(のちの但馬八鹿)。谿間のこれに始まる。
天火明命はこの時、浅間の西奇霊くしび宮に坐す。天磐船命の子、天船山命、供し奉る(式内浅間神社:養父市八鹿町浅間)。
(中略)
時に国作大己貴命くにつくりおおなむちのみこと少名彦命すくなひこなのみこと蒼倉魂命うかのみたまのみことは、高志こし国(のち越の国・北陸・新潟)より還り、御出石みずし県(のち出石郡)に入りまし、その地を開き、この地に至り、天火明命を召してのたまわく、
汝命いましみこと、この国をうしはき知るべし」と。
天火明命、大いに歓びて曰く、
「あな美うるし。永世なり。青雲弥生国なり」と。故れこの地を名づけて弥生やふと云う。(いま夜父)

国作大己貴命は「蒼倉魂命と天熊人命とともに心をともにし、力を合わせ、国作りの御業を補佐たすせよ」と教え給う。

二神は、天火明命に勧めて、比地の原を開かせ、垂桶天物部命に命じて、比地に就かしめ、真名井を掘り、御田を開き、その水を灌がしむ。垂穂の稲の可美うまし稲、秋の野面に狭し。故れこの地を比地の真名井原と云う(比地県はのちの朝来郡)。

天火明命は、御子稲年饒穂命いきしにぎほのみことを小田井県主(のち黄沼前きのさき県・城崎郡)と為し、
稲年饒穂命の子・長饒穂命たけにぎほのみこと美含みぐみ郡故事記には武饒穂命と書す)を美伊県主(のちの美含郡・美伊は美稲の義、また曰く水霊の義)と為し、
佐久津彦命(両槻天物部命なみつきあめのもののべのみことの子)に命じて、佐々前ささくま県主(のちの気多郡・佐々前は献神の義)と為し、
佐久津彦命の子・佐伎津彦命に命じて、屋岡県主(のちの養父郡・屋岡は弥生の丘の義、のちの八鹿)、伊佐布魂命に命じて、比地ひち県主(のちの朝来郡)と為す。
(中略)
人皇一代神武天皇三年秋八月、天火明命の子瞻杵磯丹杵穂命いきしにぎほのみこと(稲年饒穂命とも記す)を以て、谿間小田井県主と為す。瞻杵磯丹杵穂命は父命の旨を奉じ、国作大己貴命くにつくりおおなむちのみことを豊岡原に斎き祀り、小田井県神社と称え祀り、帆前大前神の子・帆前斎主命を使わして、御食の大前に仕えまつらしむ。

また天照国照彦櫛玉饒速日天火明命を州上原すあがりのはらに斎き祀り清明すが宮と申し祀る。(いま杉宮と云う。当初は円山川下流に点在していた中洲のいずれかにあったのだろうか)

*1 御田(おた、みた、おみた、おんた、おんだ、おでん)は、寺社や皇室等が所有する領田のこと

小田井県から黄沼前県へ

小田井県は、「第10代崇神天皇9年秋7月、(小田井県主)小江命の子穴目杵命アナメキノミコト黄沼前県キノサキアガタ主と為す。」(城崎郡故事記に最初に黄沼前県が登場)とあるので、崇神朝に小田井県は黄沼前県と改名されたようである。同じく城崎郡故事記に「人皇17代仁徳天皇10年(322年)秋8月 水先主命の子、海部直命あまべのあたえのみことを以て、城崎郡司兼海部直と為す」と城崎郡の初見があるので、この古墳時代(4世紀)にはすでに城崎ゴオリと称していたようである。

黄沼前きのさきとは、円山川下流域は黄沼前海きのさきのうみと呼ばれていた入江の湖沼で、旧城崎郡一帯は小田井県から黄沼前県と云われるようになった。

『但馬郷名記抄の第五巻・城崎郡郷名記抄』に、

黄沼前郷はいにしえの黄沼海なり。昔は上は塩津大磯シオツ・オオゾより、下は三島に至る一帯の入江なり。これを黄沼海キノウミという。黄沼は泥の水たまりなり。故に黄沼というなり。

黄沼前島は、黄沼島・赤石島・鴨居島・ユイ浦島・鳥島(今の戸島)・三島・小島・小江・渚浦(今の奈佐)・干磯(ひのそ)・打水浦・大渓島(今の湯島)・茂々島(今の桃島)・戸浦など、その中にあり。

他にも現在の地名に宮島がある。『但馬郷名記抄』が記された平安後期(975)には、海抜が下がり現在の地形とほぼ同じであったと思うが、これらは地名として残っていたものであろう。

この城崎郡は、明治29年(1896年)4月1日、郡制の施行のため、城崎郡・美含ミクミ郡・気多ケタ郡の区域を含め、改めて城崎郡が発足(美含郡・気多郡は消滅)したのとは異なる範囲で、旧豊岡町と旧城崎町にあたる。ここでの城崎郡は、古代から明治29年以前までの城崎郡である。

最初から豊岡だった?!

城崎(郷)が豊岡になったのは、一般には次のようにいわれている。

1580年(天正8)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉による第二次但馬征伐で但馬国の山名氏が一旦滅ぶと、秀吉配下の宮部継潤の支配となった。宮部氏は、城崎を豊岡と改め、城を改築した。このとき城下町も整備され、これが現在の豊岡の町の基礎となった。(城崎城は木崎城とも記す。)

しかし、上記の通り、『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)の冒頭から、天火明命は豊岡原と名づけて、のちに小田井と改めていたのだ。宮部継潤は、自分の発案で豊岡と改めたのではなく、おそらく寺社の有力者から昔は豊岡原と呼ばれていたことを聞いたり、こうした古文書を読んでのことではなかったろうか。

順番でいうと、豊岡原→御田井(小田井)→黄沼前→城崎→豊岡

となるので、元通りになったとも云える。

御田井と三江(御贄みにえ

次にこれらの地理的要因による地名以外に、城崎郡には、小田井県神社を中心にした神社に関連する地名がある。それが小田井県神社とは円山川対岸に位置する三江(郷)である。

『但馬故事記』には、

人皇40代天武天皇白凰三年(663?)夏六月、物部韓国連神津主の子・久々比命を以て、城崎郡司と為す。久々比命は神津主命を敷浪丘に葬る。(豊岡市畑上 式内重浪神社)

この時大旱たいかん*1に依り、雨を小田井県宮に祈り、戎器を神庫に納め、初めて矛立ホコタテ神事を行う。また水戸上神事を行う。後世これを矛立神事・河内神事と称し、歳時これを行う。

(*1 大旱 大旱魃・大干ばつ)

また、祖先累代の御廟を作り、御幣ごへいを奉り、豊年を祈り、御贄田みにへた神酒所みきとを定め、歳時これを奉る。また海魚の豊獲を海神に祈る。これにより民の飢餓を免れる。(これはあまの神社、今の絹巻神社だろう)

故れ、酒解子神さかとけこのかみ大解子神おおとけこのかみ小解子神こどけこのかみを神酒所に、保食神うけもちのかみを御贄村に斎き祀る。是に於いて各神の鎮坐を定む。
(中略)
酒垂さかたる神社 祭神 酒解子神・大解子神・小解子神
御贄神社(御食津みけつ神社) 祭神 保食神

下ノ宮なら上ノ宮はどこをさすのか

下宮という地名はどこに由来したのであろう。通常神社の上社・下社は同じ祭神である場合は、山中の元社は日常の参拝には不便なため、集落の近くに里宮・下宮が設けられることをいう。例えば富士山を祀る浅間神社の上社は富士山頂だが、下社としては富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされている。久々比神社がある場所が、現在豊岡市下宮であるから、下宮は久々比神社であることは間違いない。国道312号線で河梨峠で京都府との府県境あるので、上ノ宮は同じ谷あいにあったのだろうか。酒垂神社と御贄神社、そのどちらかが上宮と呼ばれ、同じ神社の上社(上ノ宮)・下社(下ノ宮)の関係にはないが、御贄が三江の古名であるので、三江郷のどこかに鎮座されていたのだろう。現存する式内社であれば、小田井県神社の御贄と御神酒を司った場所という意味では、御神酒を司った酒垂神社と久久比神社は、上宮・下宮の関係があったかもしれない。酒垂神社は創建以来、遷座の記録がない。式内酒垂神社がある今の法花寺の古名は神酒所と云った。三江郷の二つの式内社の高低差で考えれば上にある酒垂神社が上ノ宮、低所にある久々比神社を下ノ宮と呼んでいたのかも知れない。

現存せず所在不明であり、三江の古名は御贄で、御贄神社が今の三江には唯一梶原の八幡神社のみだ。当社を下社とすれば、三江村がのちに下ノ宮となった所以と考えられなくもない。現存する式内久々比神社が下宮と思われるわけだが、久々比神社創建は次の通り、これより後である。下ノ宮は古名の御贄田、御贄村、三江村である。久々比神社がのちの時代に別記されている。久々比神社創建以前に御贄神社があったようである。

「人皇42代文武天皇大宝元年(701)、物部韓国連久々比卒す。三江村に葬り、その霊を三江村に祀り、久々比神社と称し祀る。
物部韓国連格麿の子・三原麿を以て、城崎郡の大領と為し、正八位下を授く。
佐伯直赤石麿を以て、主政と為し、大初以上を授く。
大蔵宿祢味散鳥を以て、主帳と為し、小初位上を授く。
佐伯直赤石麿はその祖阿良都(またの名は伊自別命)を三江村に祀り、佐伯神社と申し祀る。(また荒都神社という)」とあるので、『但馬故事記』では他の式内社と酒垂神社、御贄神社が併記されている。

ということは下の宮も三江村内であったことになるが、下宮で他に御贄神社の古社地が見当たらない。御贄神社の境内に久々比神社が建てられ、のちに久々比神社の方が残ったとも考えられなくもない。

『但馬郷名記抄』に、

古くは御贄郷といい、小田井県大神御贄みにえの地なり。この故に名づく。
神田かむた(今の鎌田)・神服部かんはたべ神酒所みきと・白雲山・馬地村・殻原村(今の梶原)・火撫(今の日撫)・物部村・白鳥村・金岡森(今の金剛寺)・磐船島(今の船町か?)
※()にあるのは、現存する地名で分かる範囲である。

御贄とは神饌で、神に供する供物のこと。主食の米に加え、酒、海の幸、山の幸、その季節に採れる旬の食物、地域の名産、祭神と所縁のあるものなどが選ばれ、儀式終了後に捧げたものを共に食することにより、神との一体感を持ち、加護と恩恵を得ようする「直会(なおらい)」とよばれる儀式が行われる。神田が鎌田と考えるのが自然であるが、御贄田が三江村であったから、御贄田はのち神田とも考えられる。とすれば今の下宮となる。
御贄郷につながる地名としてあと、神服部かんはたべ神酒所みきとがある。

神酒所は酒垂神社のある今の法花寺であることは間違いないが、神服部はどこだろう。ここでさす神服部の神は当然、小田井県神社だ。その小田井県神社の服部であり、服部は機織部(はたおりべ・はとりべ)で衣食住の衣を司る部である。古代日本において機織りの技能を持つ一族や渡来人、およびその活動地域をいう。「部」(ベ)が黙字化し「服部」になったという。神服部と呼ばれていた別の集落が三江郷のどこかにあったことになる。また、神服部の部は、のちに省略され、神服かむはたが今の鎌田かまたであるとも思えるし、その例が、同じ豊岡市日高町の篠民部しのかきべが篠垣、猪子民部いのこかきべが猪子垣のようにあるので、神服部の部が部民制が廃れると部落といい、省略され神服と云うようになったと想定することは充分にあり得る。

『但馬郷名記抄』の順はほぼ南から列記している。とすれば、現存する殻原村(今の梶原)から磐船島(今の船町か?)まではだんだん北になる。神田が鎌田、神酒所が法花寺、白雲山は愛宕山(今の山本)ではないかと考えたが、『但馬故事記』に「天平18年冬12月、本郡の兵庫を山本村に遷し、城崎。美含二郡の壮丁を招集し、兵士に充て、武事を調練す。」とあるから、すでに山本は存在していたことになる。物部村・白鳥村が赤石・下鶴井だろう。残るは馬地村と神服部だ。現存地名では祥雲寺と庄境が残る。馬地村は馬路村とも書く。その名のとおり、交通の要所とすれば庄境しかない。

神社と田結

豊岡市の日本海に面した場所に田結たい集落がある。明治の市町村再編までの郷村制では、円山川河口から円山川下流域の広大な郷域を城崎郡田結郷といった郷名になった村である。戦国時代から安土桃山時代に、山名氏の重臣に田結庄是義がいる。山名四天王の一人で、愛宕山に鶴城を築いて城崎郡を領した。その田結庄という姓は、『田結庄系図』によれば、桓武天皇の皇子葛原親王の後裔とみえ、七代後の越中次郎兵衛盛継は源平合戦に敗れ、城崎郡気比に隠れ住み、のちに捕えられて暗殺された。しかし、その子の盛長は一命をとりとめて田結庄に住み田結庄氏を称したという。

それはさておき、田結郷はすでに平安後期に編纂された『但馬郷名記抄』にある。
田結郷は古くは伎多由郷といい、[魚昔きたゆ](魚へんに昔)貢進ぐしんの地なり。この故に名づく。小魚・[魚昔きたゆ]の地。[魚昔きたゆ]は古語で伎多由または伎多伊なり。「きたゆ」とはサメのことらしい。「きたゆ(い)」が「たゆ(い)」に転訛し田結と書くようになったたものと思われる。

上記の御贄(三江)が神社にお供えする神饌の米や穀物・酒を、田結は神饌の海産物を納めていた重要な村であった。だからこそ郷名として三江郷・田結郷と名づいたのだろう。

日本の国のおこりから、人々は山や海、風、雨、雷などの自然には神が宿ると信じ、祟りを畏れ敬う。政り、祀り、祭りと漢字がいろいろあるが、すべてまつりごとは神事とつながるものなのである。城崎郡のまつりごとの頂点は、名の通り小田井県神社であり、その御神田が三江の古名御贄田の御贄神社、神酒所の酒垂神社、海の守護神、海神社(今の絹巻神社)という関係になる。

『但馬郷名記抄』の伎多由郷(田結郷)に、大浜・与佐伎村・赤石島・結浦・鳥島・三島・干磯浜打水浦、久流比・気比浦・白神山・[魚昔きたゆ]・大渓島、桃島・小島・西刀(今の瀬戸)
余部郷として墾谷(今の飯谷)・機紙村(今の畑上)・御原村(今の三原)

鳥島(戸島)・打水(二見)の間、磐水を支え、黄沼海きぬまうみ・きぬうみとなり、巌上より滴り滝となって岩を打つ。故にその地を打水浦(二見浦)という。

城崎の古語である黄沼前を、この黄沼海の前(手前)をいうとすれば、小田井県神社あたりをさす。

最後に、黄沼前郷に記されている内容をまとめてみたい。

黄沼前郷は古の黄沼海なり。昔はかみ、塩津大磯より、しも、三島に至るの間一帯の入江なり。

天火明命国開きの時、すでに所々干潟を生じ、浜をなす。あるいは地震・山崩れにて島湧き出て、草木青々の兆しを含む。天火明命 黄沼前を開き、墾田となす。

故に天火明命黄沼前に鎮座す。小田井県神これなり。

降りて、稲年饒穂命・味饒田命・佐努命あいついで西岸を開く。与佐伎命は、浮橋をもって東岸に渡り、鶴居岳を開き墾田となす。(中略)黄沼崎島はいわゆる豊岡原なり。

黄沼前郷と田結郷の混同が見られるが、この黄沼崎島とは円山川西岸の北は奈佐川・大浜川から南は佐野までの川に囲まれた平地を島になぞらえているものだろう。

ちなみに絹巻神社の山は絹巻山といい、山の斜面一帯に上坐・中坐・下坐と分かれており、今の境内は下坐であろう。絹巻山の社が絹巻社、絹巻神社という通称で、古語は名神大海神社である。『但馬故事記』の人皇13代仲哀天皇・神功皇后の記述に、

皇后ついに穴門国(長門)に達し給う。水先主命は征韓に随身し、帰国のあと海童神を黄沼前山に祀り、海上鎮護の神と為す。水先主名の子を以て、海部直となすは、これに依るなり。

絹巻山とは黄沼前山のことであり、黄沼は黄色い泥の意味なので、黄沼前を絹巻の二字の好字に替えたものだ。城崎も絹巻も、黄沼前から転訛した同じ語源である。

神社の由来や地名を調べれば、郷土の成り立ち。歴史が分かる。その点で『国司文書 但馬故事記』『但馬神社系譜伝』『但馬郷名記抄』など関連史料のように、神社や古墳時代の風習等を克明に記したは、全国的にも珍しく貴重な史料である。

この中から、字の変更を拾うと、次のようなものがある。律令制導入により、郷村名や地名を二字の好字(縁起の良い)にすることを奨励しているが、同様に伎多由は田結に、機紙は波多(今の畑上)、墾谷は飯谷、久流比は来日、百島(茂々島)は桃島、西刀は瀬戸、鳥島は戸島、与佐伎は都留井・鶴井、楯野は赤石、(立野も楯野だと思う)、耳井は宮井、島陰は下陰、野田丘は福田、深坂は三坂、鳥迷羅は戸牧、火撫は日撫、穀原は梶原、狭沼は佐努・佐野に、黄沼前郷は城崎郷、渚郷は奈佐郷、新墾田郷は新田郷、御贄郷は三江郷。

旧日高町内に多い垣のつく区名

豊岡市日高町の旧日高町内には、頃垣、猪子垣、篠垣と◯◯垣という区名が多い。市内で区と呼んでいるのは、明治以前までの村名で、平安期に編纂された『但馬郷名記抄』によれば、他にも頃垣の近くには漆垣という村があった。また、芝も当時は柴垣、国府地区の西芝は、芝垣と書していた。同史で餘部等の部の付く村名はあるが、但馬の旧八郡でも垣の付く村名は、他では見られない気多郡(旧日高町)の特徴である。

垣は民部(カキベ)の転訛したもの

垣というと垣根や石垣、神社の周りに張りめぐらせた瑞垣等をイメージするが、『但馬郷名記抄』によれば、垣は民部(かきべ)が転訛したもののようである。篠垣は「篠民部」、猪子垣は「亥猪民部」(古語は為能己訶支部)、頃垣は「己呂訶伎」。

民部(カキベ)とは

『日本大百科全書』には、

民部とは、664年(天智称制3)の甲子(かっし)の改革で設定された身分階層の一つで、家部(やかべ)とともに諸氏に設定された。その性格・意義については諸説があるが、大化改新によって公民になった民衆への私民的支配の復活や、また後の律令(りつりょう)制の帳内(ちょうない)・資人(しじん)的な従者の源流と推測するよりも、なお広く残っていた諸氏の私民的支配に、国家権力による統制を加え、その認定・登録を図ったものとすべきであろう。民部・家部は670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)に載せられ、壬申(じんしん)の乱を経た675年(天武天皇4)、家部よりも身分の高かった民部(部曲(かきべ))は公民化された。[野村忠夫]

部は、大和王権の制度である部民制(べみんせい)がはじまりで、王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。その集団である村が、墾田永年私財法によって平民化したものが「部落」であり、朝来市物部、養父市軽部、美方郡香美町余部(50戸に満たない村の総称で固有地名ではない)などが区名として、また豪族名として日下部氏、石部、伊福部などが残っている。

 

 

豊岡の地名の由来

豊岡(とよおか)

「豊岡」は、羽柴秀吉による但馬占領後の1580年、当地を与えられた宮部善祥房継潤が「小田井」に入り、小高い丘(神武山)に築城し、城崎キノサキ(荘)を佳字・「豊岡」と改めたことが起源というが、山名氏の時代に既に「豊岡」の名称が存在したとも考えられている。「地名由来辞典」

豊岡市日高町(旧気多郡ケタグン)の北部に水上ミノカミという地名がある。八代川が上石アゲシから但馬の大川円山川に合流し、日本海へ注ぐ。豊岡市出石町にも水上という区がある。こちらは「ムナガイ」と読む。八代川よりやや下流で円山川と合流する。円山川下流域はむかし黄沼前海キノサキノウミと言われる潟湖であった。その痕跡が水上という集落名として円山川をはさんで東西に残っている。つまりかつて潟湖黄沼前海の畔であった所以だ。同様に豊岡市街地の南端に大磯オウゾ、塩津がある。川を流れる淡水に日本海の海水が混じっていたので塩津だろうし、大磯は舟で日本海に出ていた中心的船溜まりだったから大きな磯と名付けられたとも想像できる。大磯と塩津の間に京口に円山川の廃川をまたいだ橋がある。豊岡城下から京都へ向かう出入り口だった。明治まで円山川はここで大きく蛇行し、京口以南の塩津は塩津村であった。豊岡市街は円山川や支流からの土砂でできた堆積地で、太古は豊岡市日高町水上・出石町水上から塩津付近は黄沼前海の潟湖で、いつごろか水位が下がり広大な平野ができる。平安までは小田井県オダイアガタ、のち黄沼前県キノサアガタ城崎郡キノサキグンへ変わる。大磯から小田井神社辺り、三坂(古くは深坂)から戸牧トベラまでが城崎郡城崎郷。

黄沼前(城崎)キノサキが小義では城崎郡城崎郷という郷名であり、立野・女代メシロ深坂(三坂)ミサカ・永井・鳥迷羅(戸牧)トベラ・大石(大磯オウゾ)の村をさした。

江戸期の伊能忠敬日本地図などは豊岡と書かれているし、豊岡藩である。

『国史文書 但馬故事記第四巻・城崎郡故事記』・『第五巻・養父郡-』に、

天照国照彦櫛玉饒速日天火明命アマテルクニテルヒコクシダマニギハヤヒホアカリノミコト 田庭タニワの真名井原に降り、豊受姫命トヨウケヒメノミコトに従い、五穀 養桑の種子を獲り、伊狭那子嶽イザナゴダケ(岳)に就ユき、真名井を掘り、稲の水種や麦菽(まめ)粟(あわ)の陸種を為るべく、これを国の長田・狭田に蒔く。すなわちその秋瑞穂の垂穂のうまししねないぬ。豊受姫命はこれを見て、大いに喜びてモウし給わく、「あなにやし。命これを田庭に植えたり」と。
故この処を田庭と云う。丹波の号ナこれに始まる。

天火明命はこれより西して、谿間(但馬)タジマに来たり。清明宮に駐まる。豊岡原に降り、御田を開く。後、御田井(小田井) 佐々原磐船宮(気多郡)→ 夜父ヤブ(養父郡)屋岡(八鹿)ヤオカ→ヨウカ、谿間(但馬)のこれに始まる
→ 比地ヒジ県(のち朝来アサコ郡)→  美伊県(のち美含ミクミ郡)
天火明命 美伊・小田井・佐々前・屋岡・比地の県を巡りて、田庭津国を経て河内へ。

『和名抄』(平安時代中期承平年間(931年 – 938年))

新田・城崎・三江・奈佐・田結・餘部*1

『国史文書別記 第五巻・城崎郡郷名記抄』(975 平安期)に、
北から伎多由キタユ(今の田結タイ)、餘部アマルベ墾谷ハリダニ機上ハタガミ[今の飯谷・畑上])、黄沼前(のち城崎)、御贄ミニエ(のち三江ミエ)、ナギサ(のち奈佐)、新墾田ニイハリタ(のち新田ニッタ)郷。

天火明命国開きの時、すでに所々干潟を生じ、浜をなす。あるいは地震・山崩れにて島涌出て、草木青々の兆しを含む。天火明命、黄沼前を開き、墾田となす。
故に天火明命黄沼前島に鎮座す。小田井県神これなり(小田井県神社)。
降りて、稲年饒穂命イキシニギホノミコト(天火明命の子)*2・味饒田命ウマシニギタノミコト*3・佐努命サノノミコト*4(今の佐野)あいついで西岸を開く。与佐岐命ヨサキノミコトは、浮橋をもって東岸に渡り、鶴居岳を開き、墾田となす。
故に世界神となす。
鶴居岳は、また鵠鳴コウナキ*5山と名づく。鴻集まる故の名なり。黄沼崎島はいわゆる豊岡原なり。

中世の『但馬太田文』(弘安8年・1285 鎌倉期)では、城崎郷
佐野・九日・妙楽寺・戸牧・大磯・小尾崎・豊岡・野田・新屋敷・一日市・下陰・上陰・高屋・六地蔵の14村となり、江本・今森・塩津・立野は新田郷の新田庄となっている。

地元でも、1580年、神武山に築かれた木崎(城崎城)を宮部善祥房継潤が城崎(荘)を佳字ヨキジ・「豊岡」と改め、城も豊岡城としたと云う説が一般的に知られている。
江戸期の『伊能忠敬測量日記』には豊岡や出石・村岡城下は豊岡町、出石町、村岡町と書かれ、その他はすべて村と記している。

しかし、上記のように『但馬太田文』(弘安8年・1285)の城崎郷に「豊岡」の村名は記され、さらに山名氏の時代に既に「豊岡」の名称が存在したといえる。さらに『国史文書 但馬故事記第四巻・城崎郡故事記』には「天火明命は西して谿間(但馬)に来たり。清明宮に駐まる。豊岡原に降り、御田を開く。

この城崎郷(荘)域が明治からの城崎郡豊岡町である。ちなみに廃藩置県により丹波・丹後・但馬を合わせて久美浜県ができ、5年間ではあるが、1871年(明治4年)11月2日:但馬・丹後・丹波3郡(氷上郡・多紀郡・天田郡)が豊岡県に統合され、県庁が城崎郡豊岡町に置かれる。1876年(明治9年)8月21日:豊岡県が廃止され、兵庫県に編入する。丹後・丹波天田郡は京都府に編入。

城崎と豊岡という地名で大きな変化が江戸期から明治期にある。
1889年(明治22年)4月1日 – 町村制の施行により、今津村・湯島村・桃島村の区域をもって湯島村が発足。
1895年(明治28年)3月15日 – 湯島村が町制施行・改称して城崎町となる。
1950年(昭和25年) – 城崎郡豊岡町・五荘村・新田村・中筋村が合併して豊岡市が発足。
(以下、変遷は省略)

豊岡は古くは小田井で、のち城崎郷となるが、秀吉軍の但馬征伐以前から豊岡であったのだ。城崎郡城崎郷の豊岡城及び以東周辺の村名であり、城崎郡田結庄湯島村の湯嶋(湯島)は、「城崎温泉」と呼ぶようになる。拙者は旧気多郡(日高町)民なので、とやかくいうものではないが、客観的に解釈できるともいえるだろう。円山川下流域の今の豊岡市大磯から津居山まで古来から黄沼前(城崎)と呼ばれており、「城崎」を郡名として大きくみれば、城崎郡城崎郷は城崎郡の中心ではあっても、城崎郷のエリアだけを指すものではない。同じ城崎郡内である。江戸期にはすでに城崎郷(荘)豊岡町として呼ばれていたのであって、それから数百年経ったのちに、湯島村が町制施行・改称して城崎町となり、湯島を城崎(温泉)としたのであるから、自然の流れであっただろう。

豊受大神宮 外宮(伊勢神宮)、丹後では豊受姫命(豊受大神)を祀る神社が多く、京都府宮津市由良の京丹後市弥栄町船木の奈具神社、賣布神社(網野町木津女布谷)などでは祭神:豊宇賀能売神(とようかのめ)、賣布神社(京丹後市久美浜町女布)では豊受姫命、籠神社奥宮真名井神社、比沼麻奈爲神社、元伊勢外宮豊受大神社では豊受大神、丸田神社:宇氣母智命ウケモチノミコト(豊受) と記される。豊受は「トヨウケ」「トヨウカ」で、あるいは神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂命ウカノミタマノミコト)と習合し、同一視される説もある。但馬では豊受姫命を祀る神社は少なく、養父神社を代表するように食物神としては倉稲魂命となっている。
天火明命は丹波から但馬に入り田を開く。豊かな岡とは、豊受の転化したものかもしれない。

小田井の周辺に田結と三江がある。
豊岡市田結(たい)は、城崎郡田結郷、古くは「伎多由」で、[魚昔](キタユ)貢進の地であった。[魚昔]とは小魚で海産物を献上する地。また御贄ミニエ郷(いまの三江) 贄を貢進する国をは御食ミケツ国といった。酒垂神社は小田井神社などに御神酒を献上していたものと思われる。

 


小田井懸神社

*1 餘部 アマルベ 戸数が50戸に満たない郷を地名を用いずに餘部(郷)という

*2 稲年饒穂命(イキシニギホ・天火明命の子) 人皇一代神武天皇三年 初代小田井県主
*3 味饒田命(ウマシニギタ) 甘美真手名の子。人皇二代綏靖(スイゼイ)天皇23年 小田井県主
*4佐努(サノ)命 味饒田命の子。人皇四代懿徳(イトク)天皇33年 小田井県主

*5 鵠(クグイ)…白鳥(はくちょう)の古名。(久々比命・久々比神社の久々比も同義だと思う)
鴻(コウ)…おおとり。オオハクチョウ、ヒシクイ。ガンの一種。
鴻鵠(コウコク)…鴻(おおとり)や鵠(くぐい)など,大きな鳥。また大人物。英雄。
コウノトリは鸛と書く。音-カンと書く。コウノトリは鳴かないので、鵠鳴山の鵠は鳴く鳥でなければならない。白鳥? コウノトリは鴻(の)鳥と書く場合もあるが大きな鳥という意味であろう。

コウノトリは、『国史文書別記 第五巻・城崎郡郷名記抄』(975 平安期)には、鶴居岳に同じく存在していたのかは不明であるが、下鶴井に近い野上に1965年(昭和40)「特別天然記念物コウノトリ飼育場」(現、コウノトリの郷公園附属コウノトリ保護増殖センター)が設置されたことは、偶然なのか、太古から何かつながる部分があって驚くのである。

鶴ヶ峰城と殿区とは


国道482号線久田谷付近と鶴ヶ峰(三方富士)

子供の頃から何か周りと違い神秘性を感じていた三角おにぎりみたいな山

国道482号線を神鍋かんなべ方面へ久田谷くただに付近まで進むと、前方にきれいな三角形の山がぽっかりと現れてくる。通称「三方富士みかたふじ」と呼ばれるが、これが鶴ヶ峰つるがみねである。標高は405m。周囲のなだらかな山々とは別に、美しい山だが傾斜がきつそうである。

山名四天王のひとりで気多郡を治めていた垣屋氏の主君、山名時氏やまなときうじが但馬に攻め入り、進美寺山城とともに南党勢力の拠点となっていた三開山城(豊岡市)を陥れ、この城を但馬の居所としたいわれている。三開山も但馬富士ともいわれるよく目立つ三角形の美しい山だ。ふと気づくのだが、山名氏が三開山を拠点とした時、垣屋氏は気多郡代に任じられ三方庄に入った際に、その三開山によく似た鶴ヶ峰(三方富士)を居所にしたいと思ったのではなかろうかと想像するのである。

垣屋氏の聖地鶴ヶ峰城

  
南から眺める鶴ヶ峰 左から鶴ヶ峰城Ⅰ(西城)、Ⅱ(東城)、亀ヶ崎城(栗山城)

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭集成Ⅱ』によれば、

永正9年(1512)、山名致豊いたとよは弟誠豊まさとよに守護職を譲るが、同じ年、楽々前城主垣屋続成つぐなりが鶴ヶ峰城を築き本拠にしたという(因幡垣屋系図)。

現在の所在地は豊岡市日高町観音寺字城山となっていて、同じ尾根にあり西城と東城に別れる。西城は観音寺集落西側、標高405mの山頂に位置し、集落との標高差は約300m。また東城は観音寺集落北側、標高301mの山頂に位置し、集落との標高差は約200mである。文化財観音寺仁王門や馬止神社の裏手である。

楽々前城ささのくまじょうは、神鍋までの西気谷にしのげだにや気多谷けただにが見渡せる三方平野の東、円山川支流の稲葉川右岸、佐田から道場にかけてそびえていた垣屋氏の本城である。城域は広大で、東西約250m、南北約1000mもある。『因幡垣屋系図』では、垣屋隆国が応永年間(1394~1427)で、その子満成が跡を継いだというが、史料上は隆国も満成も確認できないが、垣屋氏の楽前庄入部は、但馬の南北朝争乱が事実上集結した貞治2年(1363)以降であろう。

他に詳しく述べているので簡単に垣屋氏について触れておくと、垣屋氏(重教)は関東から山名時氏に従って但馬に来往し、城崎郡奈佐の亀ヶ崎城主となったという(『因幡垣屋系図』)。しかし史料上確認できる最初は、明徳の乱(1391)の時、京都二条大宮の合戦で山名時煕の危急を救出して討ち死にした垣屋弾正(頼忠)である(『明徳記』)。

鶴ヶ峰城は楽々前城に比べれば細長く小さな山城である。小曲輪を飛び飛びに配置するような縄張りは南北朝期の特徴であり、堀切・竪堀は戦国期特有の普請である。永正9年(1512)に築城したといわれるが、それ以前の南北朝~室町期に城砦じょうさい化していたと考えられ、南北朝期に観音寺が城砦としていた可能性がある。続成は既にあった古い城を利用したのではないだろうか。

なお、観音寺区の西端には、字殿屋敷があり、居館跡と伝承されている。しかし石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治期のもので、続成の居館跡とは考えにくい。また城の北側山麓には「殿」という集落があり、家臣団屋敷の存在が想定されているが、定かなことは不明である
と記されている。

まず、かんたんに垣屋氏について触れておきたい。

垣屋氏(重教)は関東から山名時氏に従って但馬に来往し、城崎郡奈佐の亀ヶ崎城主となったという『因幡垣屋系図』。元は土屋姓であったが、気多郡代になり三方庄に本拠を構えるようになって垣屋(または柿屋・垣谷)と名乗ったようである。土屋一族は垣屋氏だけではなく山名氏とともに50数名が従って但馬に来往してきたようである。

『因幡垣屋系図』の記述では、城崎郡奈佐の亀ヶ崎城主となったとある。福田から今は但馬卸売市場があるカーブの西側である。ここにも亀ヶ崎城跡とされる遺構があるが、これは垣屋氏が但馬で最初に居た城というに合っているかは疑問に思っていた。何故なら、最初に城崎郡のしかも気多郡から遠い城崎郡内の奈佐庄(郷)と大浜庄との境に在したとすると、気多郡代垣屋氏の三方・楽々前と城崎郡奈佐が繋がらないからである。しかも、すでに奈佐庄(郷)を治めていたのは、但馬国人の但馬日下部氏の一族で朝倉氏、八木氏の子孫が、但馬国城崎郡奈佐谷を本貫とし奈佐氏を称しており、奈佐氏は戦国期や江戸期まで代々続いている。細長い狭い谷であるのに、同じ奈佐庄内に国人ではない垣屋氏が城を持つなどまずあり得ないであろう。

気多郡の三方庄(今の豊岡市日高町三方地区)は、垣屋氏が但馬に来て気多郡代として最初に与えられた所領である。いわば垣屋氏発祥の地であるから、最初に城を築いた場所は少なくとも気多郡内でないとおかしいのである。

山名氏家紋

垣屋氏の台頭

3代将軍に就任した足利義満が有力守護大名の弱体化を図っての山名氏の内紛である明徳の乱(1392)で、十一ヶ国を有し六分一殿と称された山名氏の所領は分解し、山名氏は但馬たじま・因幡いなば・伯耆ほうきの三ヵ国を残すのみとなる。この乱を機に、山名時熙ときひろの分国が但馬一国となったということは、かえって従来以上に緊密に但馬を掌握することになった。山名宗家は時熙ときひろの系に固定し、笹葉の下に「○二」を配した家紋を、宗家を誇示する標識とした。この明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清うじきよ・山名満幸みつゆきに属したのに対し、山名時熙ときひろ方に属したのは垣屋氏だけだったことが垣屋氏が頭角をなした発端である。山名氏家中の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていた。山名氏の建て直しを急務とする時熈にすれば、優秀な人材を求める気持は強かった。さらに、氏清方に味方した土屋氏、長氏、奈佐氏らは勢力を失い、山名氏家中に大きな逆転現象が起こった。そのような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏であった。
その結果、明徳の乱を契機として垣屋氏は躍進を遂げることになった。 このとき、垣屋家は10万石以上を手にしたとされており、これを垣屋氏の最盛期であると判定する。

明徳三(1393)年正月に評議があり、山名時熙は但馬国を賜って出石有子山(子有山とも書く)に住み、山名時熈ときひろは垣屋弾正時忠の忠節に感銘し、その子の幸福丸(のち隆国)を気多けた郡代(現在の浅倉・赤崎を除く豊岡市日高町全域・佐野、円山川右岸中筋地区、竹野町轟以南)に任じ亀ヶ崎城を同時期に築いた。

明徳の乱以来着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなる。幸福丸は垣屋播磨守隆国と名を改め、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前城ささのくまじょうを築き、自らはここに移り住み、平野部に近い宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主に置いた。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てた。隆国の子である越前守熙続ひろつぐ(長男満成)は三方地区楽々前に、 越中守熙知(次男国重)は宵田城に、駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡竹野轟城を本拠とするようになる。

その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられた。こうして、垣屋氏・大田垣氏が山名氏の家中に重きをなし、さらに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されるようになるのである。

主君山名氏との対立

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播磨の赤松氏と但馬の山名氏との坂本の戦いで多くの一族を失った垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じていた。山名氏との対立、抗争は、垣屋氏にとってその存続を揺るがす脅威であり、 ひとつ誤れば滅亡にすらつながりかねないものであった。 明応8年(1499)、山名政豊が死去。致豊が家督を継承したが、すでに守護としての実力もなく、垣屋続成は山名氏をしのぐ勢力を築いていた。

明応3年(1494)に垣屋氏と抗争を起こして以来、山名政豊は九日市城を引き払い、出石の此隅山城このすみやまじょうに居所を移していたようだ。明応4年(1495)の和談成立以後も、山名氏と垣屋氏との対立は、折にふれて火を吹いていたようである。

永正元年(1505)、山名致豊は、垣屋続成にもうひとつの居城此隅山を攻められる。翌年、将軍足利義澄は致豊と垣屋氏との和与を勧告、永正五年、山名氏と垣屋氏の間に和議が成立した。この間の混乱によって、山名氏は衰退、戦国大名への道を閉ざすことになった。以後、但馬は山名四天王と呼ばれた垣屋光成(気多郡・美含郡)・太田垣輝延(朝来郡)・八木豊信(養父郡)・田結庄是義(城崎郡)等四頭が割拠し、但馬を四分割した。

なぜ楽々前城から鶴ヶ峰城へ移った(戻った)のか?

鶴ヶ峰は、稲葉いなんば川支流観音寺かんのんじ川と阿瀬あせ川に挟まれ東西に長く伸びる丘陵にあった。のちの垣屋氏の本城は、ここから約4.5km東にある日高町佐田の楽々前城ささのくまじょうだが、それより奥にあるにも関わらず鶴ヶ峰城は、楽々前城よりあとに再度改築されている。普通、城と本拠は、高い山城から城下町や田畑が形成しやすく、生活・交通の便利な平野部に移っていくのが一般的なのに、永正9年(1512)、楽々前城からさらに谷深い鶴ヶ峰の高い場所をあえて再利用して本拠を移す必要があったか?その謎にせまるにはその頃に何が起きたのかである。

垣屋氏と阿瀬鉱山

垣屋氏所領の気多郡三方荘阿瀬谷から金や銀が発見された。その時期については、異説があって一定しない。垣屋氏が本拠としたのは偶然なのか、鉱山があったから本拠としたのかは分からないが、永禄五年(1562)、阿瀬谷のクワザコから銀が産出したといい、金の発見は文禄四年(1595)、川底に光る砂金の輝きを見つけたのが機となったとも伝えている。しかし、それより約二百年前の応永五年(1398)に既に発見されていたとも言われている。この応永五年説が本当だとすると、これは垣屋にとって重大で幸運な事件であった。この地域を領有することになり、幸運にも金銀山を支配下に治めたということで、計り知れない財源を提供することとなった。

のちに、但馬守護の山名氏や家臣太田垣氏が、生野銀山の経営に手を染めるのは、記録では、天文十一年(1542)とされるから、それに先立つ130年前に、垣屋は銀山経営に乗り出していたことになるのである。何はともあれこの鉱山資源を背景にして、垣屋は山名の最高家臣の地位を得るし、金山の地に、布金山隆国寺を移建することができた。天文十一年(1542)に朝来郡代太田垣輝延の生野銀山が、天正元年(1573)に養父郡代八木豊信所領の中瀬金山のことが記録されているが、金山の発展に目をつけたのが垣屋弾正満成だんじょうみつしげだと記録の通りに考えると、百年余りの差がある。金がぼつぼつ出ていたので、ここに寺(布金山隆国寺)を建立したことも考えられる。この時代には、将軍をはじめ大名、小名がそれぞれ寺院を建てているが、時代の風潮であったと考えられる。

隆国寺りゅうこくじ

三男駿河守豊茂(国時)が気多郡と背中合わせの美含郡椒荘みくみぐんはじかみのしょうに竹野とどろき城を本拠とするようになったのも、これは神鍋山を背に北部但馬に対する防衛拠点であると同時に、椒に段金山鉱山、金原鉱山が見つかったことにも関係あるのではないだろうかと容易に想像することができる。

殿屋敷と殿区

鶴ヶ峰を挟んで南の山麓にある観音寺区と反対側の北麓、阿瀬川沿いの谷に殿区がある。上記西尾孝昌氏の著書に、「観音寺区の西端には、字殿屋敷があり、居館跡と伝承されている。しかし石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治期のもので、続成の居館跡とは考えにくい。また城の北側山麓には「殿」という集落があり、家臣団屋敷の存在が想定されているが、定かなことは不明である。」

殿の殿屋敷は不明であるが、家臣団屋敷だと伝承さてれいるとある。しかし、城の麓によく残る殿屋敷という小字の殿とは城主をさすものであると考えるのが妥当だから、家臣団の屋敷を殿屋敷とは呼ばないだろう。上述の通り観音寺の字殿屋敷は江戸から明治期のものであり、観音寺側ではまずないのは、阿瀬鉱山に通じる阿瀬川は鶴ヶ峰城をはさんで観音寺の反対側であるからだ。阿瀬鉱山と鶴ヶ峰城を死守したいがために阿瀬川沿いの殿に屋敷を移したと考えるのが自然だと思うのである。

『兵庫県の小字辞典』に殿と西隣りの羽尻にも小字に「越前こしまえ」がある。ふりがなは「こしまえ」だが、「えちぜん」と読めば、総領である楽々前城主は、代々垣屋越前守家といわれていたことに結びつく。殿と羽尻にまたがる広大な殿屋敷があったことを裏付けるものではないかと思うのである。また、小字に「東門とうもん」「城山しろやま」とあり、これは鶴ヶ峰城のことだろう。

鶴ヶ峰は地勢上最適な要塞

阿瀬鉱山防衛とは別に、もうひとつ考えられるのは、楽々前城よりも標高が高く、山名氏の本城(出石・此隅山城)をはじめ神鍋方面まで四方が見渡せるからである。

宿南保氏は、著書『但馬の中世史』の中で、山名時氏に従って但馬に来た垣屋氏の祖継遠が最初に落ち着いたところは、豊岡市日高町栗山にある城跡と推定している。ここは三方富士と称されている鶴ヶ峰から、東方向に順に低くなっている3つの峰の東端の峰である。垣屋氏の祖が最初に築城したのは、この連峰の第三の峰であったと筆者は推定している。この山並みを三方盆地の野に立って仰ぎ見るとき、翼を休めてそびえる鶴ヶ峰を背景に、尾根筋の端のところにこんもりと第三の峰が立ち、その穏やかな山容は、第一の峰と美しい調和を見せている。この佇まいから、鶴ヶ峰に対する亀ヶ崎の名称が思いつかれ、それが城の名前とされたのであろう。

垣屋播磨守隆国、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前城ささのくまじょうを築き、自らはここに移り住み、平野部に近い宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主に置いた。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てた。隆国の子である越前守熙続ひろつぐ(長男満成)は三方地区楽々前に、 越中守熙知(次男国重)は宵田城に、駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡竹野轟城を本拠とするようになる。

垣屋氏が主家の山名氏と存亡を賭けた戦いを交えるようになって、惣領家の越前守家は再び故地に還り、「永正九年(1512)亀ヶ崎城ニ移ル」(『因幡垣屋系図』)
亀ヶ崎城に移る(『因幡垣屋系図』)とするのも、鶴ヶ峰城を築城するとあるのも、同じ永正九年(1512)なのであり、第一の峰・第三の峰・第三の峰を同じ鶴ヶ峰城とみなすのか、または亀ヶ崎城は別と見るかによって違う呼び名で記したと考えればよいのだと思う。楽々前城からさらに谷深い鶴ヶ峰の高い場所をあえて再利用して本拠を移すと、

宿南保氏は著書で、

『因幡垣屋系図』によると、越前守続成の代に垣屋惣領家は新しく構築した鶴ヶ峰城に移り、そのあとの楽々前城(日高町佐田)には宵田城主が移ったと記されている。(中略)鶴ヶ峰城Ⅰの山麓の観音寺村域内に城主館を構築した。ここは現在「殿屋敷」という小字名となっている。鶴ヶ峰Ⅱに登城する武士たちの居館は、阿瀬渓谷側にも構築されたであろう。集落「殿村」はその名残と考えられる。

とあるが、上記の通り、(観音寺殿屋敷の)石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治期のもので、続成の居館跡とは考えにくい。
垣屋氏にとって阿瀬金銀山は絶対に死守したいはずである。阿瀬川沿いにある殿こそ、城主の臨戦体制上の殿屋敷か、阿瀬金銀山を検分する際の作業事務所的な目的も兼ねて屋敷があったのではないかと思う。

神社(村社)でみる殿と観音寺の村成立の特性

殿と観音寺のそれぞれの村の成立と神社で、殿屋敷をさらに証拠づけると、
観音寺の馬止まどめ神社(兵庫県豊岡市日高町観音寺700)は気多郡でも古く、平安期の『気多郡神社神名帳』のひとつに記載されている。元は馬工ウマタクミ神社といったが、いつしか誤って馬止マドメ神社と呼ばれるようになった。
祭神  名草彦命ナクサヒコノミコト

配祀神 市杵島命イチキシマノミコト 速須佐之男命ハヤスサノオノミコト 奇稲田姫命クシイナダヒメノミコト
『国司文書 但馬故事記』

馬工連刀伎雄ウマタクミノムラジトキオの祖・平群木免宿禰命ヘグリノツクノスクネ
人皇四十代天武天皇四年(675)二月乙亥朔キノトイサク
但馬国等の十二国に勅して曰わく、 「所部クニノウチ百姓オホムタカラの能く歌う男女およびヒキ伎人ワザトを撰みて貢上タテマツれ」と。 (中略)
十二年夏四月 ミコトノリして、文武の官に教え、軍事を習い努めしめ、兵馬の器械を具え、馬有る者を以て歩卒と為し、以て時に検閲す。 馬工連刀伎雄ウマタクミノムラジトキオを以て、但馬国の兵官ツワモノノツカサと為し、操馬の法を教えしむ。その地を名づけて、馬方原ウマカタハラ(のち三方郷は馬方郷の転訛)と云う。 十三年三月、馬方連刀伎雄は、その祖、平群木菟宿禰ヘグリノツクノスクネ命を馬方原に祀り、馬工ウマタクミ神社と称えまつる。

観音寺は古くは馬工村といい、村社馬止神社は馬工神社の誤記。南北朝期に観音寺が建立され観音寺村となり門前(町)となる。まったく中世の城下町として発展したのではないからである。

これに対して殿は、

志伎シキ神社 兵庫県豊岡市日高町殿410
主祭神 誉田別命ホンダワケノミコト(=応神天皇 別名八幡神)
配祀神 志伎山祇命シキヤマツミノミコト 速素盞鳴命ハヤスサノオノミコト
誉田別命は八幡神のことであり、武人が好んで祀っていた祭神である。志伎という社号の「しき」は、士気のことで、八幡神を祀り、家来の士気を鼓舞したと想像するのである。中世の城は例外なく、日吉(日枝・山王)神社や八幡神社を祀るものである。配祀神の志伎山祇命は大山祇神オオヤマツミノカミのことで、すなわち鶴ヶ峰山を祀る山の神で、志伎は不明。速素盞鳴命ハヤスサノオノミコトはスサノオの別名で、武神の代表として多く祀られている。

まとめ

最後にまとめるとしよう。

鶴ヶ峰城は第一の峰が鶴ヶ峰城Ⅰ(西城)、第二の峰が〃Ⅱ(東城)、第三の峰が亀ヶ崎(栗山)城。

垣屋氏の殿屋敷は栗山城のことで、亀ヶ崎城(栗山城)を下屋敷とすれば、殿(村)は、上屋敷的存在ではないだろうか。阿瀬鉱山にも鶴ヶ峰城にも近い場所に殿屋敷を置き、便宜上利用していたのではないだろうか。出石城と有子山城の位置関係も同様である。山頂の城は平時には使わない。

また、田ノ口には清瀧神社があり、羽尻には萬場神社がある。どちらも今は三方地区なので万場や清滝という西気・清滝地区の区名と同じ神社が村社となっていることに不思議に思ったが、古くは今の栃本へ抜ける西の下街道は田ノ口から清瀧神社を通り栃本へ抜け、羽尻から万場へ抜ける阿瀬川沿いは、垣屋氏にとって阿瀬金銀山とともに経済的かつ軍事的に重要なルートだったのである。主君山名氏や田結庄氏との対立が激しくなり、戦時体制上、楽々前城から西気谷から気多谷が見渡せる鶴ヶ峰城へ移る必要があったのではないだろうか。

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市場の地名

「市場」について考察

ここで、別に東構区の西にある久斗区の小字名、「市場」に触れておきたい。気多郡の中心部を東西につなぐ西の下街道をはさんで宵田城の北構と南構が構築され、その街道上に市場があった。

既出の宿南保氏『但馬の中世』の「市場村と諸街道」に、『兵庫県小字名集』但馬編にある中世に成立した但馬の市場のなかで、豊岡市日高町の市場は、道場、久斗の2カ所が記されている。南北朝期の山城跡で、垣屋氏の居城楽々前(ささのくま)城が遺存している道場の小字に市場があった。室町後期、垣屋氏は明徳の乱以後、垣屋隆国の孫三人に別れ、楽々前城、宵田城、轟城を受け持った。山名家の筆頭家老の座につき、久斗の字市場は、祢布との境の村の入口部で、「構」の要害に接する位置である。おそらく南北朝から室町期に宵田城築城により、道場から久斗へ移ったのだろう。

以下、『但馬の中世』p251 宿南保氏

室町期に創築ともられる山城のところでも、城主居館地に接して市場字名地が残っている例のあることはわかっているのであるが、だいたいのところは、小字名として残っている市場のところは、南北朝期に始まった市場の地とみてよいのではなかろうか。

集落名となっている市場は室町期成立

これに対し室町期になると、一集落名全体が市場となったことを表す集落名が現れてくる。一日市とか出合市場(いずれも豊岡市)などである。それは市場維持の要因が、地方権力の保護よりは、農民流通の便利な場所に重点が移ったことによると考えられる。したがって、その出現地は地域の中心地で、自然発生的な姿である。同時に、南北朝期の市場のなかには廃れるものも現れてくるはず。

宵田城址は正しくは岩中地番であり、現在、岩中区が城山公園の管理をされている。円山川沿いの旧国道312号線が宵田区で、なぜ岩中なのに宵田城なのかと思う。垣屋氏の殿屋敷(居館)が宵田にあったのだろう。山名氏の趨勢が衰えて但馬守護代の筆頭となった垣屋氏は、木崎城(豊岡城)代となり、屋敷を置いたことから豊岡市の豊岡城東に宵田町という地名や出石町にも宵田町が残っている。垣屋氏は宵田殿と呼ばれていたと考えられる。

集落名としては但馬では旧朝来郡伊由市場、加都市場、糸井市場、旧養父郡の養父市場、大屋市場、旧出石郡の出合市場、久畑市場、城崎郡の九日市、一日市、穴見市場、美含郡の市場(現豊岡市竹野町森本・坊岡、七日市、一日市(現美方郡香美町)、旧美方郡の菟束市場(現香美町村岡区福岡)、二日市(新温泉町、旧浜坂町)


兵庫県豊岡市日高町府中新

 


兵庫県豊岡市日高町府市場

(上)豊岡市日高町府中新・(下)府市場

気多郡には府市場が今でも残っているが、これはもっと古く、国府があったことによるとみられている。しかし、太田文には国府(こふの・こうの)市場・手辺とされるところで、府中とも称されていた。府市場となったのはまだ新しい。

気多郡道場・久斗の市場

東構区の元となった小字北構は宵田城か祢布城どっちの構か?!

宵田・祢布字限図

豊岡市役所日高総合支所にて明治時代の字限図をいただいた。
当時の気多郡日高村祢布にょうと岩中の字限図を合成したが、市役所の担当の方もおっしゃっていたように、かなり境の記載が手書きによりいい加減なところがあるが、時代的に測量技術が現在と比べて未熟でも祢布と岩中の大字の境は知ることができた。

拙者が住む東構ひがしがまえ区は、第二次但馬国府推定地大字祢布にょうの南部と、山名四天王の一人で気多郡を治めていた垣屋氏の宵田城があった大字岩中北部が、日高村の中心部として発展を遂げ、大正時代に独立して区として誕生し、旧日高町では新しい今年で100周年を迎えた区である。「ひがしかまえ区誌」(昭和60年1月10日発行)によれば、東構区の区名は、大正4年4月25日、日高村議会に新区設立を申請し承認を受けたのが東構区の誕生である。

その際の村議会議事録には、
「議会申請第拾七号議案
西気県道筋 岩中村所属 祢布村所属ヲ合ワセ行政上便宜ノ為一ノ行政区ヲ設置其ノ名称ヲ
東構ト定ム」
日高村長 藤本 俊郎 印
認可ス 印

新区は、大字祢布と大字岩中から成り、大字岩中字東柳の「東」と大字祢布字北構の「構」をとり東構区と名付けられたものである。

構(カマエ)とは何か

上記の通りよく東構があるなら西構はないのかとか聞かれたりするが、東は岩中字東柳の「東」で、東西の方向ではない。明治になって日置郷と高田郷、高生郷が合併し「日」と「高」の1字ずつをとって日高村が誕生したのと似ている。その「東柳」は岩中の東に柳の木があったからなのだろうが、東構区から祢布への旧道から拙者の自宅も字東柳で、日高小学校は当初東柳小学校という名称だった。では「構」とは何を意味するのだろうかと幼い頃より疑問があった。これは区の境界のうち、久斗との境界はことぶき苑入口西の現在工事が行われている豊岡自動車道で、工事前の調査の際に古墳や居館跡が発掘され、南構遺跡と名付けられた地点である。県道をはさんで北側が祢布字北構、南側から稲葉川までを南構という。

この地点は明治まで気多郡高田郷で、但馬国府が置かれていた高田郷祢布内であり、気多郡をはじめ但馬の中心部であった。高田は久斗区がかつては高田村と呼び、国史文書『但馬郷名記抄』には、高田郷は高機郷なり。雄略天皇の御世十六年夏六月、秦の伴部を置く。養蚕・製糸の地なり。
とある。平成になり閉鎖されたグンゼ日高工場があったこともその証である。今でも久斗区内の旧家には、三階の部分に蚕室を設けた三階建ての住居は、養蚕がさかんだった名残りが伝わるのである。

さて、話を東構区に戻そう。
『但馬郷名記抄』にはその名の通り郷名、村名までで、残念ながら小字までは記されてはいない。まあそこまで調べるのは大変であるし、その必要性は薄かったのだろうか。

高田郷は稲葉川に沿った気多郡の東西と但馬の中心部を南北に流れるの円山川が流れる交通の要所で、古くは但馬国府・国分寺が置かれていた場所である。西から夏栗・久斗くと・祢布にょう・国分寺・水上で、今の区では、夏栗・久斗くと東構ひがしがまえ祢布にょう・国分寺・水上みのかみにあたる。

構は御土居ともいい、近世以降の城郭では、大阪城、姫路城のようにそのぐるりと囲む惣構(総構)のことである。しかし宵田や祢布城は、そのような広大なものではなかったし、すでに祢布城があった頃に祢布の字であるので北構と南構ができたと考えるのが自然だと思う。

祢布城があった丘の小字は祢布字城山で、付近に祢布区の旧村社、楯石神社がある。宵田城の北で円山川の支流、稲葉川を越えた宵田城は高生郷であるのに、すぐ城の近くまで高田郷祢布字丁子となっていることだ。これはのちに室町時代に高生郷岩中に佐田の楽々前城の支城として築城された宵田城より古く、祢布城が南北朝期にはのちに宵田城が築かれた高生郷岩中字城山に隣接する北面まで祢布としてすでに開発されたのであり、祢布の小字、北構・南構・丁子がすでにあったのではいかと思えるからである。北構と南構は高田郷祢布の小字であるし、宵田城を険しい斜面の下に流れる稲葉川で挟んだ反対側で、地図のように高生郷岩中の宵田城のすぐ北側までが、高生郷とは違う高田郷祢布の字名が稲葉川の南岸まで南北に細長く連なっている。

祢布城は宵田城築城より古く、宵田城の西麓までが祢布字丁字とあるから、北構・南構はこの2城のいずれかの構だとすると祢布城のものと考えるのが自然だろう。宵田城により開墾されたものであれば、岩中の字になるはずで、築城以前にすでに、祢布北構・南構・丁字は地名としてあっただろう。祢布城は南北朝期の城であるが戦国期に改修したあとがあるそうだ。宵田城の支城として両側から敵に備えるために祢布城と宵田城の中間の西気街道の北と南の両側に土塁(構)を築いたのなら、祢布の構も宵田城の構でもあり同じことだが、宵田城築条以前から祢布字北構・南構・丁字が宵田城のすぐそばまであったと思えるから、宵田城築城以降の戦国期に名付けられたものとは考えにくいのではないだろうか。どうも構という小字はこの頃に生まれたと考えるがどうであろう。

ちなみに、祢布字北構の東に字サヲリがある。サヲリとは何だろうか。  ウィキペディアによれば、日本の女性の名前のひとつ。漢字表記は「沙織」「紗織」「佐緒里」など。仮名で「さおり」「さをり」「さほり」と書く例も多い。また、田植え前に作業の無事を祈る祝祭を「さおり」、田植えの終了時に豊作を祈る祝祭を「さのぼり」とよぶ(当地ではさなぼりと云う)。稲の神「さ」が田圃に「おり」てくることを語源とする説が有力である。

これらに語源が見つけられるとすれば、田があり、豊作を祈ってサヲリと名づけたのではないだろうか。祢布城から宵田城の稲葉川をはさんで北側一体は奈良時代までは林野であったらしく、岩中荒田の北は岩中字東柳、北西は祢布字祢布ケ森、字ガケガ森、字松ヶ花、西は字井森木と、樹木が生い茂る野原だったと思わせる小字名が連なっている。

宵田城(別名:南龍城)は、室町時代(永享2年:1430)の築城で、稲葉川がカーブする地の利を生かして南北に流れる円山川流域と気多郡の東西が見渡せる楽々前城と同じ尾根にあり絶好の地形にあるが、祢布城と宵田城とは郷が異なる。高生郷の岩中から稲葉川を渡った鹿嶋神社からが登り口である。すぐ北が宵田で、宵田城主の垣屋氏の殿屋敷があったので宵田殿と呼ばれていたと思われる。宵田殿の城という意味から岩中城ではなく宵田城と呼ばれたのだろう。宵田という地名は他の豊岡城下、出石にも残る。垣屋氏が木崎城(のち豊岡城)の城代を務めたことから豊岡市宵田町という地名が残り、出石には山名氏の有子山城下に山名四天王で気多郡を任された垣屋氏の居館があったとされる宵田町、城崎郡を任された田結庄氏の田結庄や養父郡を任された八木氏の八木がある。

稲葉川は城の北は深いが岩中では浅く広くなり登城口に岩中区の村社である鹿島神社があり、高田郷祢布字北構・南構の方面から稲葉川を渡って字北構・南構の方面から稲葉川を渡って登城したような道はあったのだろうか。宵田城の本丸までの大手は岩中側からで、城の北面にも小さな郭がいくつも築かれているものの、しかも崖が険しく天然の堀である稲葉川対岸に二重に構を作って宵田城を守る必要があったのであろうか?今では用水を兼ねた小さいコンクリート橋がかかっているが崖が険しく、稲葉川対岸に渡れるようになっていたとは考えにくい。搦手口として尾根伝いに楽々前城まで繋がっていたとも伝え聞く。ここの川幅は短く木橋をかけることは容易だろうが、稲葉川を渡っていた宵田城の市場や構として築いたとは考えにくいのである。

構の3つの説を考えてみた。

1.居館等の構造物だとする


豊岡自動車道工事中に見つかった南構遺跡(2013)

「構」を住居跡や井戸などの建造物や工作物とする見方もある。住居跡には珍しい古墳も築かれているので、国府が置かれる奈良時代以前からこの場所にはかなり位の高い人がいたようだ。祢布字北構・南構という小字名がいつごろからそう呼ばれるようになったのかは不明だが、すぐ西は久斗字市場。祢布字南構は、西は久斗、その東は岩中字荒田という。南北に細長く延びた字で、稲葉川を挟んだ対岸から宵田城西域までかなり広い字が祢布字丁字と祢布になっていることが不自然なのだ。祢布は実に大きな区域で、北は集落からかなり奥の深い谷から、久斗と岩中の間に字北構・南構が挟まれるように続き、さらに稲葉川対岸の宵田城西まで細長く延びていることがわかる。西気、三方から国府や円山川に向かうには、この細長い祢布の区域を避けては通れないようになっている。また、南構に隣接する字は祢布が森にあった但馬国府の高官が構えていた居館ではないかとも考えられる。

2.公有地を囲っていたから北構、南構

南構から稲葉川を挟み宵田城(岩中区字城山)の西の麓まで祢布で祢布字丁字となっている。丁は田の面積を表す丁(町)で、その丁の小字という意味か。(すぐ南に岩中字蝶子谷がある。「ちょうじだに」と読むのだろうから、丁字と蝶子谷は同音異字で、他に意味があるかも知れない。)小字は、奈良時代にはすでにそのような人工的な人の集積地、構造物や田畑があったことを示し地名がすでに存在していたとすると、久斗字市場や岩中荒田よりも古くから祢布だったようである。「構」はカマエ、コウとも読む。構造物以外に囲いの意味もある。国府の公有地であると防御のために囲っていたのかも知れないが、思い当たるのが奈良時代前期の三世一身法や、のちの墾田永年私財法である。

奈良時代中期の聖武天皇の治世に、自分で新しく開墾した耕地を永年私財化を認める、つまり何代も私有化できるように定めたことだ。祢布村の人が開いた田畑だったのではないか。今では雑木林となっているが、私有化が許されて、子や兄弟が山々の奥地まで耕作地を開いたのかもしれない。岩中は高生郷で『但馬郷名記抄』に矢作部ヤハギベ(おそらくのちの地下村で今の岩中西部)、善威田ヨヒダ(今の宵田)、善原エバラ(今の江原)、稲長イナガ(今の岩中)。「古語は多可布。威田臣荒人の裔、威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく」とある。おそらく律令期以降墾田されたことに由来するとすれば、稲長の新田シンデンをアラタと読み、荒田に変化したのか、実際に荒れた土地だったか、また威田臣荒人の末裔の田という意味から荒田としたのかいずれによるのかは定かではないが、そのどれかで間違いないだろう。

祢布に隣接する岩中北部の小字名が荒田、焼辻、中坪など墾田による人工的な手を加えたものによる地名で、北構・南構の東に字郷境がある。今の日高医療センター(旧日高病院)がある岩中の小字で、今はすっかり街なかになっているが、当時、郷の境には人が住んでいなく何もない寂しいところであったと思われる。荒田が開発され、野が焼かれて田畑になったところが焼辻であろう。荒田と書くが新田しんでんを「あらた」と読み、荒田と書くようになったのかもしれない。

3.祢布城か宵田城の構(御土居)

私は祢布字北構・南構は、祢布城か宵田城の御土居をさすのではないかと思うのである。敵が攻めて来にくいいように城や屋敷の周囲を土塁で囲むもので惣構という。その土塁を御土居ともいい、土を盛って防御した。姫路城下など全国に御土居や御土居町の地名が残っている。宵田城のすぐ北に南北朝の頃に築城されたとする祢布城がある(但馬国府・国分寺館のすぐ裏手の小山)。どこの城の構を意味するのだろうか疑問があった。この構は宵田城の構(堀や石垣、土塁で囲い込んだ日本の城郭構造)であるとされているが、本当に宵田城の構なのかと思うからである。

拙者は、「構」は、3.の城の防衛のために垣屋氏が設けた構(土居)だとする説が濃厚だと思う。

以前に引用させていただいた宿南保氏『但馬の中世史』の図をもう一度見てみよう。

本文にこう著されている。

垣屋氏が主家の山名氏と存亡を賭けた戦いを交えるようになって、惣領家の越前守家は再び故地に還り、「永正九年(1512)亀ヶ崎城ニ移ル」(『因幡垣屋系図』)仕儀になったものと推定する。(中略)

鶴ヶ峰城に惣領家が移ったあとの楽々前城には、宵田城から越中家が移って入ったといわれる。宵田城へは惣領家の分家、垣屋新五郎豊成の子孫が入ったのではないか。(中略)

東西に伸びるこの谷の入口部を制する位置の南側の山上に宵田城、その向かいの北側の山上に祢布城があって、その両域を結ぶ平地部の直線上には、「南構」「北構」の小字名が橋渡しのように接続している。明確に入口部に防衛線が構築されていたことを物語っていよう。南構と北構の境界線上には街道があって、それが西方向へと伸びていたのだろう。南構の西に細長い「市場」字名の存在することは、街道沿いに市場の形成されていたことが読み取れる。(中略)
美含みぐみ郡竹野郷は垣屋駿河守家の所領であったことはしばしば述べた。垣屋氏三家は、現在の日高町域から竹野町域にかけての連続した地域を勢力圏としていたことがわかろう。この地域を根城に、垣屋氏は主家山名氏に対抗したのであった。

円山川支流稲葉川沿いに西から鶴ヶ峰城、楽々前城、宵田城の垣屋氏の城がほぼ等間隔に並んでおり、山名氏が出石方面から攻め入るにはまず谷の入口部にあるのが宵田城で、祢布城は戦国期にも改修されたらしいので宵田城と祢布城をその支城とし、南北で西の下谷(三方盆地)の最前線に第一防衛線として構を築いたのではないだろうか。第二防衛戦が楽々前城、最後の本陣が鶴ヶ峰城なのである。

  
左祢布城・右国分寺山城             宵田城

  
西下谷(三方盆地)から眺める気多谷(夏栗から久斗)。右手が楽々前城から宵田城への佐田連山。左手が久斗

但馬の城郭研究の第一人者、西尾孝昌先生の『豊岡市の城郭集成Ⅱ』によれば、南北朝から戦国期にかけて垣屋氏の本城楽々前城、久斗城、祢布城、国分寺城と城が東西に細長く密集しており、戦国以降に宵田城が築城されるなど要衝であったことは明らかだ。祢布城は標高110mの丘陵突端にある。城域は東西80m、南北約140mの宵田城とは比較にならない規模だ。城主は高田次郎貞永であり、南北朝の頃、山名時氏によって滅ぼされた(『但馬の城』)というが定かではない。しかし曲輪や堀切などはしっかりしており、戦国期に改修されてる。規模的には地侍クラスの「村の城」であるが、戦国期には東の国分寺城と共に宵田城の支城として神鍋・三方の谷を監視・封鎖する役割を担っていたものと思われる。

東構区と地名

私の生まれ育ち、現在も暮らす区は東構(ひがしかまえ)区という。大正12年に舂米(つきよねとも言うが、正確にはつくよね)神社を建立したとあるので、その数年前である。来年、平成27年(2015年)区創立百周年を迎えることとなる。

『ひがしかまえ区誌』によれば、

「大正の初期には、祢布区から出て来た者の他、他地区からの居住者もあり、約三十戸に達し、暫らく独立の機運が高まってきた。(中略)

大正四年四月、日高村議会に新区設立を申請し、承認を受けたことにより、祢布区から分区し東構区として独立した。

議会申請第拾七号議案

西気県道筋 岩中村所属 祢布村所属ヲ合ワセ行政上便宣の為一ノ
行政区ヲ設置其ノ名称ヲ
東構ト定ム

大正四年四月二十五日
日高村長 藤本俊郎 印
認可ス 印

以下、沿革

明治2年、祢布村の住人田里順三郎氏が、祢布字北構に出村して住居を構えたのが最初とされる。
〃 6年、長谷川周治氏、古川徳兵衛氏がこの地に移り住む。
〃 7年、岩中字東柳に日高村立東柳小学校設立(現在の日高小学校の前身)。
〃 7年以降、前記先住者の外に、4名が相協力して部落への来住を各所で勧誘し、建築資金不足者には頼母子講を以って建築資金を融通する等、大正13年までの約四十年間にわたり鋭意住民の増加に努力して、区形成の基盤を固めていった。
大正2年、阿瀬水力発電所完成。供給開始。
〃 3年1月、独立を前提として集会所(寄付台帳では倶楽部となっている)新築を計画。ニカ年にわたって寄付金を募る。
〃 4年8月、平屋建面積(15坪)の集会所及び、一部消防器具庫を兼ねた火の見櫓を建設。(今の4組小林盛夫氏宅)
〃 7年、藤本俊郎村長が県に運動して、兵庫県蚕種製造所を誘致。東構に開設。東構住民の良き働き場所として大変歓迎された。
〃 10年、日高、宿南、三方、清滝各村の伝染病隔離病舎計画が起こり、建設地を日高村の中央に位置する東構区(現在の日高医療センター)に決定する。
〃 区民は、祢布の楯石神社に参拝していたが、他地区から転入する区民が増加するに従い、祢布村出身者以外の者の神社参拝を遠慮されたしという通達が祢布村よりあり、これを機に大正12年、自区内に神社を建てようという機運が盛り上がる。
〃 12年頃、バイパス案を作成、新県道建設
〃 13年4月、日高上水道株式会社が設立。7月20日給水開始。

〃 15年1月、社殿建築決定。用地取得と社殿の建築には巨額の費用が必要としたので、総予算額を各戸の経済事情に応じて割り当てし、四年間の分割徴収を行った。
境内登記(十六坪 長谷川丈エ門寄贈) 岩中東柳56 152坪2合 3月18日登記
〃    6月23日、社殿落成。区民の意見を取りまとめた結果、明治神宮の遥拝所に決定。長谷川利雄氏が区を代表して東京へ行き、明治神宮の遥拝所としての認可を受ける。祭事には明治神宮ののぼり旗を立てていた。
昭和2年、三方村荒川の吉田神官が舂米(つくよね)神社の御神霊を奉持されていることを聞き、それを勧請し、県の神社庁にも登録され、正式に舂米神社となった。なお、祭神の本社は、鳥取県若桜町の舂米神社である。
〃 8年、火葬場の建設については、確かな時期は不明であるが、昭和八年四月の日付で村議会議事録に「東構火葬場に達する道路改良工事施行の件」と上程されているので、この時以前に建設されていたと思われる。
〃 36年には区の戸数は90戸に達し、舂米神社の地続き岩中字東柳(現在地)に新築。
〃 37年、町立の養護老人ホーム「ことぶき苑」完成
〃 42年、区長、副区長、会計の他に事務長を置き、従来の老人会・青年団・婦人会等外郭団体への財政補助を廃止。また区独自の区民運動会を計画実施する。

区名の由来

新区は、大字祢布と大字岩中から成り、区名の「東」は岩中字東柳から、「構」は祢布字北構から取り、「東構」と名付けられた。

区粋はすべて祢布の地番ではなく、下の地図をみるとお分かりいただけるように、面積の約半分は岩中地番であり、神社と公民館も祢布地番に近いが正確には岩中地番にある。

ところで、構や西構もないのになぜ東構なのかと思う。これは区名となった東構のいわれは、区域の西端にあたる祢布字「北構」の「構」と、区域の東端にあたる岩中字「東柳」の「東」と「構」を合わせ東構としたものである。
明治に旧気多(けた)郡日高村という村名が発足したいわれも、『郷土誌 日高村』には、「日高村ハ往時、日置・高生・高田・気多・太田・楽前ノ六郷ニ分属シタリシガ、近古、日置・高田二郷の頭文字を取リテ日高村ト改称セルナリ」とあるが、それに倣ったのかもしれない。

『但馬の中世』p251 宿南保氏に、南構について触れられている。

垣屋氏の本拠地は、しばしば述べてきたように、三方庄・楽々前庄であった。ここは円山川支流の稲葉川の中・下流域である。垣屋氏の居城はこの庄域に集中している。東西に伸びるこの谷の入口部を制する位置の南側の山上に宵田城、その真向かいの北側に祢布城があって、その両域を結ぶ平地部の直線上には、「南構」「北構」の小字名が橋渡しのように接続して並んでいる。明確に入口部に防衛線が構築されていたことを物語っていよう。南構と北構の境界線上には街道があって、それが西方向へと伸びていたのだろう。南構の西に細長い「市場」字名の存在することは、街道沿いに市場の形成されていたことが読み取れる。

(現在の東構区に隣接する久斗区東部)


赤点線域 祢布


赤点線域 岩中

上図のように、国道312号線城山トンネルの真ん中あたりに宵田城跡がある。その北構と南構の境界線は、西の下道(西気道)とすると、現在の旧県道にあたり、その旧県道に離接する北側で、おそらく北構は中川までだろう。東は祢布区に北に伸びる道までが祢布。道から東は岩中だが、宿南保氏の図によれば、北構は、中川から旧県道までの間に岩中地番までだろうか。その旧県道に隣接する南側から稲葉川までが南構である。祢布区につながる道の西までが祢布、東からは岩中になる。旧県道はJR山陰本線をまたぎ、江原本町で旧国道312号と合流する。岩中字東柳は、西気(西の下)道(旧県道)の北側で、現在の日高小学校の前進、東柳小学校があったあたりから祢布に向かう旧道までの細長い字である。旧県道の日高小学校入口あたりである。

現在の行政区域は、本籍上は上記の祢布と岩中であるが、西北部が祢布であるが、その他の大部分は岩中となっている。ちなみに明治までは祢布は高田郷、岩中は高生郷と異なる郷であるように、祢布と岩中の田畑地域で、何時頃から居住者があったかは定かではないが、大正期に東構発足時、十数軒と記されている。

新温泉町の郷と地名

[郷名は、鎌倉以前の郷名として作成した。行政区名は現在の地名を使用]
現在の兵庫県美方郡新温泉町は、鳥取県と兵庫県の西の県境に位置する旧美方郡浜坂町と温泉町で、平成17年(2005年)10月1日に日本海に面する漁港で知られる浜坂町と夢千代日記の舞台となった湯村温泉で有名な温泉町が合併して発足した。その町域は、但馬国に併合される以前の二方(ふたかた)国(郡)に当たる。

ちなみに美方郡は、明治29年(1896年)4月1日、郡制施行のため、七美しつみ郡・二方ふたかた郡の区域をもって七美の美・二方の方より一字ずつを用い美方郡として発足したものである。西は鳥取県岩美郡岩美町、東隣りは美方郡香美町。

二方国

二方国とは、(古くは「ふたあがた」と読み布多県と書いた。)九州北部や出雲などからクニ(小国)が起こり始めて、二方国が国としては小さいながら、因幡・但馬とは独立した国であったのかを考えると、その地理的要因が大きい。因幡国と但馬国の中間にあり、中央や周囲と疎遠で独自の文化を残していたからと考えられる。中国山地の県境、氷ノ山など標高の高い山岳地帯をくねくねと曲がりながらいくつも峠を越えて山陰道(今の国道9号線)が走る。湯村を下り式内面沼神社がある竹田交差点で左に折れれば因幡(鳥取県東部)の山陰道が通り、まっすぐ北へ進めば日本海の浜坂へ分かれる交通の要所である。

『国司文書別記 但馬郷名記抄』をみても、他の但馬国の朝来・養父・気多・出石・城崎・美含、七美の七郡は、天火明命が丹波から但馬へ入り国を開き、多遅麻(但馬)と名づくことから話が始まるのは共通している。しかし、二方郡だけは当初別々の国であり、出雲国から素盞鳴尊が子の大歳命(大年命)と稲倉魂命に勅し、井久比宮(今の居組)に坐し、布多県国を開くところから始まる。

二方国は、人皇42代文武天皇の庚子四年(701)に廃し、但馬国に合せられ二方郡となるまで、約1300年間、二方国造16代、同国司1代、計17代続く。

二方とは

二方は古くは「ふたあがた」と読み布多県と書いた。二方郷は久斗川と岸田川が合流する久斗川から日本海までの北の郷名でもある。現在の区は西から清富・指杭・田井・三尾・赤崎・和田。

「ふたあがた」が「ふたかた」になったようであるが、布多は万葉仮名でまだ仮名がなかった当時の漢字の当て字なので意味はない。その「ふたあがた」とは、大庭県オホバノアガタ端山県ハヤマノアガタの2つの県をさす。二方郷は、律令制で但馬国府の国府が置かれた郷には郷名がなく「国府(または国府郷)」と記しているように、二方国の府が置かれたから二方郷としたのではないか。大庭県は旧浜坂町全域、端山県は旧温泉町全域(その後七美郡から一部編入)で、二方とは二方国、のち二方郡であり、旧浜坂町と旧温泉町が合併し新温泉町となったのは、二つの県(郡の古名)の二方国がそもそも歴史上においては起こりである点では、ごく自然な合併の流れといえるかも知れない。

二方郡(ふたかたのこおり・ぐん)

人皇42代文武天皇の庚子四年(701)に二方国を廃し、但馬国に合せ二方郡となる。

『校補但馬考』地理第七上

この郡は、上古別に一国なり。人皇十三代成務天皇の御宇、国造を定め給う。旧事本紀曰く二方国造くにのみやつこ、志賀高穴穂朝の御世、出雲国造の同祖、遷狛一奴命うかつくぬのみことの孫、美尼布命みねふのみことを国造に定め賜うとあり、其後一郡として、但馬に合わせられしは、何時にかありけん。古書に見えず。(*1)

倭名類聚抄に載る郷 9
久斗・二方・田公・大庭・陽口・刀岐・熊野・温泉(ユ)
以上9郷に村数54

延喜式神名帳曰く二方郡五座並小
二方神社・大家神社・大歳神社・面沼神社・須加神社

久斗郷(クト)
今の村数 7
瀧田・久谷・正法菴・邊地・境・濱(浜)坂・福島

二方郷(フタカタ)
今の村数 5
清富・赤崎・指杭(サシクイ)・和田・田井
『国司文書・但馬故事記別記・郷名抄』
和機村(和田)・二方村

三尾浦

『国司文書・但馬故事記別記・郷名抄』
御火浦ミホノウラ(古語は御保乃宇良)

息長帯姫尊は、越前国気比浦より御船に御し、北海より穴門(長門)国に至る。
この時多遅麻の伊佐佐御崎において日暮るる故、五十狭沙別大神、御火を現わし、二方浦曲(ウラワ)に導く。故に御火浦という。
のち火を避け、尾となすため「三尾浦」という。五十狭沙別(イササワケ)大神・息長帯姫尊・帯仲彦天皇(仲哀)を鎮座す。

田公郷(タキミ)
今の村数 7
栃谷・七釜・古市・新市・用土・今岡・金屋

大庭郷(オホバ)
今の村数 7
三谷・二日市・戸田・高末・釜屋・諸寄・蘆(芦)屋・居組

今 居組は仮で、別に大歳ノ庄というは、延喜式の大歳神社ここにいますゆえならん。本名は伊含なり。太田文大庭ノ庄に加えるとあり。今居組と書くは、訓同じければなり。

大庭(オホバ)

素戔嗚尊は、大年命と蒼稲魂神に命じて、布多県(ふたあがた)国を開かせ賜う。大年命は、蒼稲魂神とともに布多県国に至り、御子を督励して、田畑を開き、その地を称して、大田庭と云う。いま大庭(おおば)と云う。(美方郡新温泉町に大庭あり)

八太郷(ハタ)

今俗に畑と一字に書くは、謬(アヤマ)りなり。地名は二字を用いて、佳名を選ぶべしと延喜式にあり。(*2)

今の村数 11
井土・千原・鐘尾・千谷・宮脇・内山・越坂・海上・前村・石橋・岸田

面沼神社
井土村にいます。(中略)面沼に駅馬八疋置きし。

熊野郷
何れの郷と入り混じりや、その境を知らず。(*3)

温泉(ユ)郷
この郷の湯村に温泉あるゆえ、古代に二字にて「ゆ」と読ませたるを、後世知らずして、温泉(ユセン)郷と云う。また誤って泉の字を前に書き換えて、今は湯前庄と云う。(*4)

今の村数 16
湯村・熊谷(クマダニ)・伊角・檜尾()・春木・哥長(今は歌長)・柤岡(ケビオカ)・細田・多子(オイゴ)・鹽(塩)山(シオヤマ)・中辻・丹土(タンド)・切畑・竹田・飯野・相岡

温泉郷(ユノサト)

端山(ハヤマ)村・榛木(ハリキ)村(春木、今の春来)
*春木は二方郡温泉郷であったが、延喜式神名帳で春木神社は七美郡となっていることから、のち平安後期には、七美郡射添郷に編入された時期があったかも知れない。『国司文書・但馬故事記』『国司文書別記 但馬郷名記抄』等には、春来が二方郡から七美郡に変更されたような記述は全く見られないので、もしかしたら延喜式神名帳の編纂者が誤って七美郡としたのかも知れない。

陽口刀岐の二郷は、倭名鈔に和訓なし。その地を考えがたし。故に強いて論せず。総じてこの郡中諸郷の土地。その村入り混じりて正しからず。古代の境を失えるに似たり。重ねてその地を踏まずんば、みだりに議しがたし。故に今しばらく土人の説に従いこれを訳す。

(以上、『校補但馬考』)

拙者註

『校補但馬考』では、桐岡が抜けているのはなぜか。『校補但馬考』の以上の村は『和名抄』の記載を引用しているが、『和名抄』以前の『国司文書・但馬故事記別記 但馬郷名記抄』 天延3(975)にすでに桐岡村は記されている。

陽口(ヤク)郷(古語は屋久)

陽口開別命鎮座の地なり。この故に名づく。
壇岡(古語は麻由美乃意可)
壇貢進の地なり。日枝神社あり。大山咋(オオヤマクイ)命を祀る。
切畑村・細機村・陽口村・桐岡村

*切畑・細機(細田)・桐岡は現存し、陽口村とは郷の中心部であるから郷名となったものだろう。照来小学校など今も中心部である。陽口と照来は似た意味なので今の桐岡は人口増加により桐岡と陽口は村の区域が密着して桐岡に合わせた可能性が高い。

真弓 壇岡(マユミオカ)
人皇40代天武天皇白凰12年閏4月 文武官に教えて軍事を努め習わしめ、兵馬器械を具え、馬有る者は以て騎兵と為し、馬無き者を以て歩卒と為し、時を以て検閲す。牧場場を当国の刀伎波トキハ村に設け、刀伎波兵主神を祀り、兵馬の生育を祈らしむ。
(それまでは、人皇37代舒明天皇の2年 竹田周辺に軍団は置かれていた。おそらく人口増加により集落が発達し、兵馬・軍事訓練には向かなくなったためではないか?)

常磐ときわ神社 美方郡新温泉町中辻304)

旧温泉町で広い場所として考えられるのは、唯一、但馬牧場公園のある照来地区である。最も平坦な場所はここ以外にない。照来を陽口郷、中辻から塩山・飯野を古くは刀伎波郷で、但馬牧場公園スキー場辺りの丘を真弓、壇岡と称していたのではないだろうか?

『但馬神社系譜伝』壇岡

壇貢進の地なり。日枝神社あり。大山咋命を祀る。とある。この付近で日枝神社は香美町村岡区柤岡の村社に日枝神社。

照来(テラギ)

人皇16代応神天皇六年春三月、
二方開咋彦命の子・宇多中大中彦命(又の名は須賀大中彦命)をもって、二方国造と為す。宇多中大中彦命は、前原大珍彦命の娘・多久津毘売命を娶り、陽口開別(やくひらきわけ)命を生む。

人皇42代文武天皇庚子4年春3月 二方国を廃し、但馬国に合わせ、二方郡と為す。
従七位上榛原公照来を以て二方郡司と為し、郡衙を端山郷に置く。
大宝元年秋9月 榛原公照来は、その祖大山守命を春木山に祀り、春来神社と申しまつる。(式内 春来神社 新温泉町春来)

(陽口郷(ヤク)の陽口は見当たらないが、榛原公照来からこの地区を照来となったのだろう。)

刀岐郷(トキ)

刀岐波彦命の地なり。この故に名づく。また刀岐波兵主神を斎きまつる。往昔(ムカシ)は兵庫(ヤグラ)の地なり。
刀岐波村・塩屋村・壱岐村とある。

*『校補但馬考』では熊野郷・陽口郷・刀岐郷は不明とし一緒に合わせて16村としているが、『但馬国郷名記抄』から考察するに、熊野郷は県道47号線の今岡・金屋から県道549、550線の熊谷・伊角・桧尾を指す。

『国司文書別記 但馬郷名記抄』 天延3年(975)より (吾郷清彦氏編者註含む)

素戔嗚尊の子・大年命の子・瑞山富命の孫である布多県国造初代・穂須田大彦命と布多県国造二代・刀岐波彦命はいずれも大年命と蒼稲魂命の兄弟神の血が濃く入り交じっている。
第三十五代舒明天皇まで、素戔嗚尊の末裔が第十五代まで長く続く。
第四十二代文武天皇朝に、二方国は廃され、但馬国に合わせ、二方郡となる。

歌長(古語は宇多中、歌中:ウタナカ・哥長:ウタナガ)

人皇一代神武天皇五年八月、
瑞山富命の孫・穂須田大彦命をもって、布多県(ふたあがた)国造と為す。穂須田大彦命は、久々年命の娘・萌生比売命を娶り、刀岐波彦命を生み、宇多中宮に在りて国を治む。(美方郡新温泉町に歌長あり)

塩山(シオヤマ)

人皇五代孝昭天皇元年夏四月、
刀岐波彦命の子・布伎穂田中命を以って、布多県国造と為す。布伎穂田中命は、黒杉大中彦命の娘・千々津比売命を娶り、糠田泥男(ひじ)命を生む。布伎穂田中命は、志波山宮にありて国を治む。(刀岐郷の地名に今の塩山に相当する鹽(塩)山あり)

人皇八代孝元天皇五十六年春三月、
布伎穂田中命の子・糠田泥男ひじ命をもって、布多県国造と為す。糠田泥男ひじ命は、磐山飯野命の娘・豊御食姫命を娶り、宇津野真若命を生む。糠田泥男命は、泥男宮にありて国を治む。

浜坂(濱坂・濱阪)

人皇10代崇神天皇三年秋七月、
糠田泥男命の子・宇津野真若命をもって、布多県国造と為す。宇津野真若命は、波多類彦命の娘・真若毘売命を娶り、高末真澄穂命を生む。宇津野真若命は、浜阪宮にありて国を治む。(美方郡新温泉町浜坂)

高末(タカスエ)

人皇11代垂仁天皇十年春二月 宇津野真若命の子・高末真澄穂命をもって、布多県国造と為す。高末真澄穂命は、熊野狭津見命の娘・飯依毘売命を娶り、弥栄滝田彦命を生む。高末真澄穂命は、高末宮にありて国を治む。
(美方郡新温泉町高末あり)

対田(古くは滝田)

人皇12代景行天皇二年春三月 高末真澄穂命の子・弥栄滝田彦命をもって、布多県国造と為す。弥栄滝田彦命は、滝田宮にありて国を治む。弥栄滝田彦命は、遷狛一奴命(うかつくぬ)の娘・安来刀売(やすぎとめ)命を娶り、美尼布命を生む。

田井・清富

人皇13代成務天皇五年秋八月 出雲国造の同祖・遷狛一奴命の孫・美尼布命をもって、二方国造と定む。美尼布命は、田井宮にありて国を治む。大清富命の娘・美保津姫命を娶り、二方開咋(あきくひ)彦命を生む。(美方郡新温泉町に田井・清富あり)

人皇15代神功皇后七年春二月 美尼布命の子・二方開咋彦命をもって、二方国造と為す。二方開咋彦命は、多遅摩国造天清彦命の娘・須賀嘉摩比売命を娶り、宇多中大中彦命を生む。二方開咋彦命は、田井宮にありて国を治む。

和田

人皇35代舒明天皇十二年春三月 檜尾真若彦命の子・真弓射早彦命をもって、二方国造と為す。真弓射早彦命は、磐山野中彦命の娘・和田毘売命を娶り、和田佐中命を生む。
(美方郡新温泉町に和田あり)

千原・千谷・前

人皇17代仁徳天皇十年春三月 宇多中大中彦命の子・陽口開別命をもって、二方国造と為す。陽口開別命は、井上湧津玉命の娘・井上滝流姫命を娶り、千原大若伊知命を生む。

人皇19代反正天皇三年秋七月 陽口開別命の子・千原大若伊知命をもって、二方国造と為す。千原大若伊知命は、千谷聖中津彦命の娘・千谷若子比売命を娶り、前原真若伊知命を生む。
(美方郡新温泉町に千原・千谷・前あり)

伊角(イスミ)

人皇22代雄略天皇二十二年夏六月 千原大若伊知命の子・前原真若伊知命をもって、二方国造と為す。前原真若伊知命は、戸田大弓臣命の娘・清澄姫命を娶り、伊角大若彦命を生む。
(美方郡新温泉町に伊角あり)

桧尾(ヒノキオ)

人皇27代継体天皇二十四年秋七月 前原真若伊知命の子・伊角大若彦命をもって、二方国造と為す。伊角大若彦命は、宇多上大中彦命(又の名は須賀狭津男命)の娘・宇志賀毘売命を娶り、檜尾真若彦命を生む。
(美方郡新温泉町に桧尾あり)

人皇30代欽明天皇三十年秋七月 伊角大若彦命の子・檜尾真若彦命をもって、二方国造と為す。檜尾真若彦命は、黒杉太立彦命の娘・黒杉太立姫命を娶り、真弓射早彦命を生む。

 

 

拙者註
*1 『国司文書・但馬故事記』
人皇42代文武天皇の庚子四年春三月、二方国を廃し、但馬国に合わせ、二方郡と為す。

*2 桜井勉は「今俗に畑と一字に書くは、謬(アヤマ)りなり。地名は二字を用いて、佳名を選ぶべしと延喜式にあり。」と述べているが、氏の認識の欠如としか言えないのは、八太こそカナがまだなかった時代に、「ハタ」と云っていたものを八太と万葉仮名で当てただけのことがそんなに大した意味はないのであり、むしろハタは畑や機織りを指すだろうから、畑の方が由来として妥当だ。“地名は二字を用いて、佳名を選ぶべし”とといえども、拘束力はなく要望文なのであって、例外はある。畑をどう書けば二字にできるというのか。

*3 『国司文書・但馬郷名抄』
熊野連在住の地なり。故に味饒田(ウマシニギタ)命を斎きまつり、これを久麻神社と称しまつる。熊野神社 祭神 家津御子神)(イヘツミコノカミ)美方郡新温泉町熊谷849

*4 *2同様、桜井勉の万葉仮名の認識不足あるいは独断に過ぎない。“また誤って泉の字を前に書き換えて、今は湯前庄と云う” 誤ったのではなく、湯の前に庄があると解釈すると、前は先と同義で、黄沼前をキノサキ(今の城崎)と読み、佐々前をササノクマと読む例にある通り、前は(サキ)と読めば、湯前庄は“ユノサキ庄”で誤りとはいえない。

美方郡の変遷

美方郡の変遷は、1896年(明治29年)4月1日の郡制による郡再編により、七美(シツミ)郡(村岡町、兎塚村、射添村、小代村、熊次村)、二方(フタカタ)郡(浜坂町、大庭村、西浜村、温泉村、照来村、八田村)が合併して誕生した。
七美郡の美、二方郡の方を合わせ美方郡。

1912年(大正元年)城崎郡長井村九斗山地区を大庭村に編入、
1956年(昭和31年)8月1日熊次村が養父郡関宮村と合併し養父郡へ分離、
2005年(平成17年)4月1日に村岡町、美方町との合併により城崎郡から香住町を編入し、郡境が変更されている。(城崎郡竹野町・城崎町・日高町は、豊岡市との合併により消滅。)
これにより、美方郡は以下の2町を含む。
・香美町(かみちょう)2005年4月1日に美方郡美方町・村岡町、城崎郡香住町の合併により誕生
・新温泉町(しんおんせんちょう)2005年10月1日に浜坂町・温泉町の合併により誕生

気多郡道場・久斗の市場

気多郡(今の豊岡市日高町)は但馬国の国府が置かれた場所で、『日本後紀』延暦23(804)年正月の条に、「高田郷に遷す」という記述が残っており、気多郡のおそらく国府地区周辺から高田郷に移転したのは、袮布ガ森遺跡から多量の木簡などが見つかり間違いないこととなった。現在豊岡自動車道八鹿日高道路建設に伴う南構遺跡調査が行われており、古墳や但馬国府の役人らの居館跡ではないかと思われる遺構が見つかった。

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