古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は

古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は


※この地図は地図作成ソフトを元に古墳を方向を調べて私が作成したものです。上の地図は、前方後円墳は、それぞれのクニのどこに、どの方向に向いているのかを分かる範囲で地図上に記してみたものである。方向はGoogleマップにも組み込まれているので、現在の地図上で古墳の位置を確認することができる。

前方後円墳の方向は朝廷のある大和に関係しているのか、それぞれのクニに自主性を持って決められたのか、分からないが関心があるテーマである。

『前方後円墳』というサイトによくまとめられているので引用させていただくと、

弥生時代は、魏志倭人伝が伝えるように日本列島各地で多くの勢力が「国」として、たがいに対峙していた。卑弥呼の時代(3世紀前半頃)には,邪馬台国を含めておよそ30「国」の存在が魏側で知られていたようである。

前方後円墳の出現の背景には、統合への流れが進行して他とは比肩できないほどの大きな勢力の出現があったと考えられる。この勢力とは大和を本拠とする大和政権(大和朝廷)である.巨大な前方後円墳の築造は、大和朝廷の権威を他の地域へ誇示するねらいがあったとみてよいだろう。奈良県や大阪府に多数遺存する4世紀末以降の巨大前方後円墳が天皇や皇后など皇統に属する人々、もしくは朝廷において有力な地位にあった人々の墳墓であることを考えると、時代をぐんとさかのぼる古い箸墓古墳(奈良県桜井市)も巨大前方後円墳である以上、当然大和朝廷に属する高貴な人の墳墓でなければならない。

邪馬台国が北部九州にあったのか、畿内かはさておき、少なくとも崇神天皇(第10代天皇)以降の大和朝廷が奈良を本拠としてきたことは歴史上明白である。

前方後円墳の各部位の呼称は決まっている.丸い部分を「後円部」、矩形部分を「前方部」,後円部と前方部の接続部を「くびれ部」とよぶ.被葬者が葬られている場所は後円部であって、前期古墳にあっては、前方部上で葬送の祭祀が執り行われたと考えられている。前方後円墳の築造企画は、前期から中期へ、さらに後期へと時間が進行するにしたがって変化するが、とくに前方部が大きく発達していくという明瞭な変化が認められる。くびれ部付近に「造出(つくりだし)」とよばれる小さな突起部をもつ古墳が中期頃から現れる。左右両側,または片側だけにつくられる.造出は祭祀用の施設とみられるが、前方部の巨大化にともなって、前方部上でくり返される祭祀の執行に不便をきたすようになったことが造出出現の理由とも考えられる。

丹後・但馬は大宝律令以前に分国するまでは丹波内であったが、律令以後に3つの国に分国された。中央集権化が強固になるにつれて、大和から遠い丹後にあった丹波の政治の中心は大和に近い現在の亀岡市に移り、丹波・但馬・丹後と3つに分けられる。

これは地形的に比較的に高い山で遮られる丹波・但馬・丹後の特性もあったかも知れない。しかしそれだけで、3つに分けた理由にはならない。分けるにはそれぞれ国府建設や国司など莫大な費用が生じるからである。

何かの理由が生じたと考えるのが普通だろう。

朝鮮半島への最短ルートとしてこの地が大和政権にとって重要だったことで、大和政権に組み入れる必然性があったからだと考えるのである。

日本海側最大の前方後円墳は、丹後の網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)で、墳丘長は201m。それに次ぐ規模が神明山古墳(京都府京丹後市丹後町宮、墳丘長190m)、蛭子山えびすやま1号古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦、墳丘長145m)の3つの前方後円墳が、日本海側および京都府では最大規模の古墳で、「日本海三大古墳」と総称される。

「日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中している

なぜ丹後に日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中しているかである。

それでは、大和政権に組み入れられた時代はいつ頃だろうか?少なくとも崇神天皇が四道将軍を派遣し本州を平定していった時期からだろうと思われる。

丹後三大古墳は4世紀末-5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。網野銚子山古墳は、墳丘3段築成、築造された順番は、蛭子山1号墳が4世紀中葉、網野銚子山古墳がそれに次いで古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭、神明山古墳が4世紀末-5世紀初頭とされる。

網野銚子山古墳と神明山古墳は、日本海に突き出た丹後半島の北、網野銚子山古墳は浅茂川の河口にできた浅茂川湖、神明山古墳は竹野川の河口の竹野湖という古代の潟湖(ラグーン)に対して墳丘の横面を見せる形式をとっており、前方部を北北東に向けている。当時の丹後地方がこれら潟湖を港として日本海交易を展開した様子が指摘される。それに対して蛭子山古墳は、丹後半島反対側の付け根で、日本三景天橋立を形成した野田川に北北西に開けた加悦谷の東縁部にあり、前方部を北西に向ける。

但馬地方では最大、兵庫県では第4位の規模の前方後円墳は池田古墳(兵庫県朝来市和田山町平野)で、5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。

ヤマト王権の宮が置かれた大和と大和川が注ぎ込む大阪湾の摂津・河内・和泉の機内には、大王(天皇)墓である大型の前方後円墳がいくつも造営されている。前方後円墳の最古とされる箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)は、3世紀後半以降とされている。

大和政権と大丹波(今の丹後。但馬。丹波)との結びつきが記紀に登場するのは、第11代垂仁天皇の最初の皇后、狭穂姫命である。父は四道将軍のひとりである彦坐王(日子坐王)ひこいますのみこ、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王たにはのみちぬしのみこの女であり、狭穂姫命の姪に当たる。第12代景行天皇を生む。日本海三大古墳と総称される蛭子山1号墳、網野銚子山古墳、神明山古墳と、それ以降の池田古墳、船宮古墳が築造された年代は垂仁天皇期であると思われる。


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四道将軍 彦坐王(日子坐王)の終焉の地は

四道将軍 彦坐王は、『古事記』では「日子坐王」、『日本書紀』では「彦坐王」と書く。

『日本書紀』開化天皇紀によれば、第9代開化天皇と、和珥臣わにのおみの遠祖の姥津命ははつのみことの妹の姥津媛命ははつひめのみこととの間に生まれた皇子とする。『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命ひこくにおけつのみことの妹の意祁都比売命おけつひめのみこととの間に生まれた第三皇子とする。

四道将軍と丹波道

『古事記』崇神天皇の条に、四道将軍(古訓:よつのみちのいくさのきみ)が各地に派遣されたとある。いずれも皇族(王族)の将軍で、大彦命おおびこのみこと武渟川別命たけぬなかわわけのみこと吉備津彦命きびつひこのみこと、丹波道主命の4人を指す。『古事記』では一括して取り扱ってはおらず、断片的のそれぞれの将軍を扱い、四道将軍の呼称も記載されていない。『日本書紀』では事績に関する記載はなく、子の丹波道主命たにわのみちぬしのみことが丹波に派遣されたとしている。この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。

また、西道(山陽道)に派遣された吉備津彦命は、『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」(紀)彦五十狭芹彦命、(記)比古伊佐勢理毘古命とする。『古事記』によると、崇神天皇10年(西暦217年)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽道)は吉備津彦命、そして丹波には、丹波道主命が派遣されたのである。

四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル(日本武尊)伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。

 

国土交通省

四道とは北陸、東海、西道、丹波の四つの地方であり、地理的に丹波道は狭いが、図のように幹線道路としては離れざるを得ない立地にある。山陰道から別れて丹後半島今でも東海道などは使われているようにこの時期の「丹波国」は、後の令制国の丹波国、丹後国、但馬国を指し、五畿七道の山陰道に含まれる。山陰道の篠山あたりから別れて円のようにまわり、但馬国府の置かれた気多郡(今の豊岡市日高町)で山陰道に合流する支線を丹波路としている。北陸、東海、西道が細長い広大なエリアなのに対し、この時代の分立するまでの3国を含めた丹波を、近年、丹波王国、大丹波、北近畿などと名付けられていたりする。日子坐王のの子が丹波道主命ということから、丹波道主は丹波道の主(首長)ということを意味する名前なのだ。当時の丹波、丹後、但馬をまとめて総称するなら「丹波道」がふさわしいと思う。

北陸、東海、西道は現在でもほぼ同じエリアであるが、日本海側を山陰道のような表記では表さず、丹波道としているのは、丹後の三大大前方後円墳や但馬の池田古墳規模の大規模な前方後円墳が鳥取・島根で少ないことも因幡以西の出雲王国までにヤマト王権による支配権が当時は及ばなかった証拠でだろう。

玖賀耳之御笠(陸耳御笠)くがみみのみかさ

日子坐王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、土蜘蛛の玖賀耳之御笠くがみみのみかさ(陸耳御笠とも)を討ったという。彦坐王が丹波に派遣されたとあるが、丹波道主命は彦坐王ひこいますのみこ・-おうの子で、実際に遣わされたのが丹波道主命とも読めるし、一緒に派遣されたとも読める。

『国司文書 但馬故事記』に詳細に記されている。第10代崇神スジン天皇10年(前88年)秋9月 丹波青葉山の賊 陸耳の御笠、土蜘蛛匹女ら、群盗を集め、民の物品を略奪した。
タヂマノクルヒ(多遅麻狂・豊岡市来日)の土蜘蛛がこれに応じて非常に悪事を極め、気立県主櫛竜命を殺し、瑞宝を奪った。

崇神天皇は、第9代開化天皇の皇子であるヒコイマス(彦坐命)にみことのりを出して、討つようにいわれた。ヒコイマスは、子の将軍 丹波道主命とともに、
多遅麻朝来直の上祖 アメノトメ(天刀米命)、
〃 若倭部連の上祖 タケヌカガ(武額明命)、
〃 竹野別の上祖 トゲリヒコ(当芸利彦命)、
丹波六人部連の上祖 タケノトメ(武刀米命)、
丹波国造 ヤマトノエタマ(倭得玉命)、
大伴宿祢の上祖 アメノユゲノベ(天靭負部命)、
佐伯宿祢の上祖 クニノユゲノベ(国靭負部命)、
多遅麻黄沼前県主 アナメキ(穴目杵命)の子クルヒノスクネ(来日足尼命)、等
丹波に向かい、ツチグモノヒキメを蟻道川で殺し、クガミミを追い、白糸浜に至った。
クガミミは船に乗り、多遅麻の黄沼前の海に逃げた。

『丹後風土記残欠』にも、

(志楽郷)甲岩。甲岩ハ古老伝テいわク、御間城入彦五十瓊殖天皇ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠トフ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。ゆえに日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲあらわたちまチニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生(今の舞鶴市成生)ト号ク。

福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹に玖賀耳之御笠(陸耳の御笠)は、

ところで、大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。ご承知のように、青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
陸耳御笠。何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。

記紀は、土蜘蛛と蔑みながら、陸耳の笠でよいのに御を加えて尊称もしているのは、あまりに無礼であると感じていたのか。「クガミミ」とは国神の事で、クガミミノミカサとは国神クニガミノミカサという意味だとすると、笠国をつくった主とは先住の王であった。土蜘蛛、(つちぐも)は、上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。各地に存在しており、単一の勢力の名ではない。土雲とも表記される。史書は、勧善懲悪となるのが常で、勝者が美化され、敗者は悪党に描かれる。織田信長VS明智光秀、浅野内匠頭VS吉良上野介、、、本当のところはよく分からないのだ。

『地形で読み解く古代史』関 裕二 氏は、
『日本書紀』に狭穂姫がなくなったあとの垂仁天皇の后妃の記述が残り、垂仁15年春2月10日の条に、「丹波の五人の女性を召し入れた」とあり、その中から日葉酢媛命がのちの皇后に立てられたとある。さらに垂仁34年春3月の条には、垂仁天皇が山背(山城)に行幸し、評判の美女を娶ったとある。
(中略)
なぜタニハの謀反のあと、垂仁天皇はタニハ系の女人ばかりを選んだのだろう。
これには伏線があったと『日本書紀』はいう。狭穂姫が天皇に別れを告げたとき、後添えのことに言及していた。
「私の後宮は、よき女性たちに授けてください。丹波国に五人の貞潔な女性がおります。彼女たちは、丹波道主命(日子坐王の子)の娘です。」
この最後の要望を、垂仁天皇は聞き入れたのである。

どうにもよくわからない。タニハ系の彦坐王の人脈が謀反を起こしたにも関わらず、その上で、次の后妃もタニハからとっている。こうしてタニハの女人で埋まっていく。ヤマト黎明期のヤマトで、いったいなにが起きていたのだろう。タニハ(+山背)が、なぜ後宮を席巻できたのか。

(中略)

やはり、地形と地政学で、この謎は解けるのではないかと思えてくる。たしかにヤマトは国の中心にふさわしい土地だったが、日本全土を視野に入れて流通を考える場合、西国に通づる河内、若狭、丹波三国、さらに東海、北陸に通づる山城、近江のラインが最も大切で、そこを支配する「タニハ連合」と手を組まなければ、政局運営はままならなかったからだろう。

ちなみに東に向かった二人の将軍は、太平洋側と日本海側から東北南部に進み、福島県南部(二人が会ったから、「相津」(会津)の地名ができたという)で落ちあったという。早い段階の前方後円墳の北限は、ほぼこのあたりで、ヤマト建国時の様子を『日本書紀』編者がよく承知していて、その上で、「各地から多くの首長がヤマトを建国したのに、『日本書紀』の文面では、ヤマトから将軍が四方に散らばり、和平したことにしてしまった」のだ。

ヤマト建国の中心に立っていたのは吉備だされる。前方後円墳などにみられる円筒形埴輪が吉備がルーツとされており、吉備にも吉備津彦命が派遣され、その末裔が吉備を支配するようになったとあるが、これは全く逆で、吉備がヤマトに進出しヤマト建国の中心に立ったのだというのだ。『日本書紀』はこの事実を裏返して示している。

10代崇神天皇は、四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めてヤマト政権の国家体制を整えたことから、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。もしそれがタニハ連合(のち分国した但馬・丹後を含む丹波、若狭)+山城、近江、尾張が手を組み、ヤマトに進出し、あわてた吉備と出雲がヤマト建国の流れに乗ったのだ。

としている。

たしかに、ヤマト建国は、タニハなどの連合国家だったならば、ヤマト建国の主役はヤマトではなくなってしまう。これでは国家の史書として都合が悪い。『日本書紀』編者らは、その経過を知っていたので、四道将軍を創作し、朝廷が平定したのだと都合のいいように史実をひっくりかえして朝廷主導に書いたという氏の考察も、あながちそうではないと言い切れない。

しかし、地方豪族ではなかったことは、『日本書紀』に「四道将軍はいずれも皇族(王族)」と記述していることだ。そして、「彦坐王はタニハからヤマトにやってきたとみなすべきだ。」とはどういう根拠なのかだ。彦坐王の子・狭穂彦王と狭穂姫がヤマトにやってきたし、その後も彦坐王の子丹波道主命の娘5人が后・妃になっているが、彦坐王・丹波道主命がタニハからヤマトにやってきた形跡はないし、『日本書紀』に皇族(王族)で開化天皇の皇子としているが、地方豪族出身ということになってしまう。記紀編者らが朝廷に都合が悪い出来事は朝廷優位に改変することがあったろうとは当然思えるにしても、開花天皇の皇子などと捏造したとしたら、皇族に不敬となる話を記紀編者らが創作するはずもない。

彦坐王の墓は但馬か美濃か?

墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか)に治定されている。宮内庁上の形式は自然石。

墓には隣接して伊波乃西神社が鎮座し、日子坐命(彦坐王)に関する由緒を伝える。。美濃を領地として、子の八瓜入日子(やついりひこ-神大根王)とともに治山治水開発に努めたとも伝えられる。この地で亡くなり、この地に埋葬されたという。八瓜入日子は三野国造、本巣国造の祖とされている(本巣国は美濃国中西部)。

これと異なる記述が『但馬故事記』に詳細に記されている。

『但馬故事記』では、陸耳(玖賀耳)之御笠との戦いについて、気多郡・朝来郡・城崎郡では実に詳しく記している。そのうち第二巻・朝来郡故事記では、

第10代崇神天皇天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠が群盗を集め、民の物を略奪し、天皇は彦坐命に命じて、これを討たせた。

その功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)*1の宮に居した(多遅摩粟鹿県は但馬国朝来郡)。

天皇は彦坐命に日下部足泥(宿祢)くさかべのすくねという姓を与え、諸国に日下部を定めた。諸将を各地に置き、鎮護とした。

丹波国造 倭得玉命
多遅麻国造 天日楢杵命
二方国造 宇津野真若命、その下知に従う。

人皇11代垂仁天皇84年9月、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主、日下部宿祢の遠祖・彦坐命は禾鹿宮で死去。禾鹿の鴨ノ端ノ丘に葬る。(兆域東28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部二烟を置き、これを守る。

但馬国二宮 粟鹿神社の御祭神は、彦火々出見命ひこほほでみのみこと日子坐王ひこいますのきみ、阿米美佐利命の三柱である書かれる場合が多いが、『国司文書 但馬神社系譜伝』では、
彦坐命・息長水依姫命・遠祁都毘売命(亦名は瀛津姫命・うみつひめ)。

しかし、兵庫県神社庁では次の通り、日子坐王の1柱のみとある。

当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。

人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。

粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。旧県社。

-「兵庫県神社庁」-

彦坐命の墓は、美濃(岐阜県岐阜市岩田西)と但馬(兵庫朝来市山東町粟鹿)の2箇所にあることになる。但記では、彦坐王は、粟鹿宮で薨去し、粟鹿の鴨ノ端ノ丘に葬るとある。その後は何も記されていない。

ところが伊波乃西神社の由来には、

祭神日子坐王は、人皇第九代開化天皇の皇子で、伊奈波神社の祭神、丹波道主命の父君にあたらせられる。古事記中巻、水垣宮の段(崇神天皇の御代)によれば「日子坐王をば、旦波の国につかわして、玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給いき」とある。史上に表れた御勲功のはじめである。なお、クガミミとは、国神の義であって、旦波の国に国神ミカサが住んでいたのである。王は、その後、勅命により東日本統治の大任をおび、美濃国各務郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくされた。八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)は、日子坐王の皇子である。神大根王(カムオオネノミコ)と申し上げ、父君の後をつがれて、この地方の開発に功が多かった。日子坐王薨去の後、御陵を清水山の中腹に築かれた。当社の西に隣接している。明治8年12月に至り、日子坐王陵と確認されたので、宮内省陵墓寮の所管に移された。

但馬にある2つの前方後円墳は誰の墓なのか

但馬(兵庫県北部)にある前方後円墳は、朝来市和田山町平野の池田古墳と朝来市物部の船宮古墳のみである。これ以外に前方後円墳は見つかっていないが、但馬は平地の少ない地形から他にも大規模な前方後円墳は築造されてはいないだろう。埴輪・葺石・周濠を備えた古墳は但馬地方では池田古墳と船宮古墳(朝来市桑市)のみである。朝来市域では古墳時代前期の南但馬地方の王墓として若水古墳・城ノ山古墳の築造が知られるが、それらに後続する池田古墳は南北但馬地方を統合する最初の王墓に位置づけられ、その地位は茶すり山古墳(朝来市和田山町筒江)・船宮古墳へと継承される。(朝来市教育委員会)

前方部は祭祀場で、後円部は被葬者が埋葬される。池田古墳は前方部を北東に向ける。池田古墳より南にある船宮古墳は、北北東を向いており、その方向には丹後の旧与謝、加佐がある。但馬史上で彦坐命と丹波道主命は、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主(大王)である。単なる国造以上の位であり、この二人以外にいない。丹波三国を眺めるようにかも知れない。大和政権に近いタニハの王は、日子坐王と丹波道主の二人以外にいない。先に初代多遅麻国造となった天日槍はいたが、時代がもっと古いので当てはまらない。

池田古墳も船宮古墳も、被葬者は明らかでないが、国造級の豪族の首長墓と想定され、船宮古墳は当地を治めた但遅麻国造の船穂足尼一族との関連を指摘する説がある。船宮の船が船穂足尼と重なるからだろうが、但記の朝来記には、「第13代成務天皇5年、大多牟阪命の子、(彦坐命の五世孫)船穂足尼命をもって多遅麻国造と定む。船穂足尼命は大夜父宮(今の養父神社)に還る。

(中略)

神功皇后元年、但遅麻国造船穂足尼命薨ず。大夜父船丘山に葬る。(中略)船穂足尼命を夜父宮下座(養父神社)に斎き祀り、また将軍丹波道主命を水谷丘に祀り、これを水谷神社と称す。(現在の水谷神社所在地ではなく、養父神社後方の山中と考える)」とあるから、朝来郡ではなく養父郡で国造の職務を行っており、朝来市物部の船宮古墳と逆方向。大藪古墳群のいずれかだと思う。

*1 禾鹿 禾は本来イネと読むべきだが、禾鹿神を粟鹿神と同一神の如く記す記載が多いので、禾をアハと読むべき。


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大江山の鬼退治~彦坐王と陸耳の御笠は大丹波平定だった

開化天皇の御子・彦坐王と陸耳の御笠の真相

 

『但馬故事記』は、郡ごとに八巻からなるが、ほとんどの巻は人皇十代崇神すじん天皇から、記載がにわかに詳細になるが、二方郡を除き、八郡のどの郡の故事記も「丹波青葉山(通称わかさ富士)の賊で、陸耳ノ御笠くがみみのみかさ、(土蜘蛛つちぐもの匹女ひきめなど)盗賊を集め、民衆の物を略奪して…」についての記述に文面を費やしている。

冒頭に天火明命が丹波国から但馬に入った記述は数ページに及び、それに匹敵するページ数を丹波青葉山の賊、陸耳ノ御笠征伐についてさいていて、再び舞台は古代丹波の中心えあった加佐郡(いまの舞鶴市)へ移るのだ。

『第五巻・出石郡故事記』だけは、何故かこの下りをさらりと書いているのであるが、あらすじとしては分かりやすい。

人皇十代崇神(すじん)天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠群盗を集め、良民を害す。その党狂(いまの豊岡市来日くるい)ノ土蜘蛛[*1]、多遅麻(但馬)に入り、略奪を行う。
黄沼前県主きのさきあがたぬし穴目杵命あなめきのみことが使いを馳せて多遅麻国造・天日楢杵命あめのひならきのみことに報告し、天日楢杵命がこの由を開化天皇に伝えた。
天皇はその皇・彦坐命に、これを討てと命じる。
彦座命は丹波に下り、これ等の賊徒を多遅摩伊伎佐碕たぢまいぎさのみさき[*2]の海上において討ち、これを誅す。狂ノ土蜘蛛随したがって平らぐ。

これは単なる賊征伐ではなく、ヤマト朝廷における国家的な出来事が起きたと考えていた。

*1 土蜘蛛とはこの時代の記述に度々登場するが、国家統一に抵抗する元々の豪族を侮蔑した名称

*2 伊伎佐碕…兵庫県美方郡香美町香住区御崎の古名。式内伊伎佐あり。

困難な時代の中興の祖 崇神天皇

その前に少し、第十代崇神天皇の時代背景について触れておきたい。十代崇神天皇はおおよそ三世紀終わり頃の天皇である。和風諡号しごう[*3]は『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)、国家体制を整えたことから御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)、同じく所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)と称えられる。

『日本書紀』における初代神武天皇の称号も、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)で、これを「初めて国を治めた天皇」と解釈するならば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。安本美典氏は、どちらも同じ意味であるならばわざわざ漢字の綴りを変える理由が解らず、また「高天原」などの用語と照応するならば神武の「天下」は「天界の下の地上世界」といったニュアンスと捉えるべきであり、神武の『始馭天下之天皇』とは「はじめてあまのしたしらすすめらみこと」などと読んで、天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことを称讃したものと解釈すれば上手く説明がつくとしている。要するに神武はヤマト建国の祖、崇神は中興の祖と解釈される。崇神天皇と言う諡号は、漢風諡号を持たない神武天皇から元正天皇までの44代(弘文天皇と文武天皇を除く)に対して、奈良時代の文人「淡海三船」が漢風諡号を一括撰進し、多くの社をたてて神をあがめ奉った事から「崇神天皇」の漢風諡号があたえられて以降呼ばれるようになったものである。

『中興の祖 崇神』桂川 光和は、第三章 困難な崇神朝の始まりで、

『日本書紀』によると、崇神朝の始めの頃は、困難な時代であったとする。疫病が多く多くの民が死亡し、また百姓が流亡したり背いたりする多難な幕開けだった。そこで崇神は、災いを鎮めるため神を祀るのである。その神の一つが、ヤマト朝廷の祖先神である天照大神である。

最初、天照大神は宮中に祀られるが、崇神は宮中で祀ることに不安を覚え、宮中以外のところで祀ることにする。そこで皇女の豊鍬入姫とよすきいりひめに天照大神を託し、倭(大和)の笠縫邑に祀る。その後、天照大神を祀る場所は転々と遷し替えられていくが、笠縫邑に続く場所が丹波である。丹波の籠神社、海部氏の『勘注系図』には次のように記されている。

「豊鍬入姫は、天照大神を戴き、大和国笠縫の里から、丹波の余社郡よさのこおり(与佐・与謝)久志比真名井原匏宮くしひのまないはらよさのみやに遷る。天照大神と豊受大神を同殿に祀り、日本得魂命やまとえたまのみこと等が仕える」

豊鍬入姫が天照大神を祀る場所を丹波に求めたのは、丹波は尾張氏[*4]の支配地で、尾張氏の当主、日本得魂命の孫であることによる。

豊鍬入姫は、丹波で天照大神を祀るが、再び大和に戻る。その後天照大神を祀る皇女は、垂仁天皇の時代になって、倭姫に替わる。倭姫は天照大神を祀る場所を求めて各地を巡る。最後は、伊勢に祀られ神宮(伊勢神宮内宮)となる。丹波では天照大神と豊受大神が同殿に祀られるのは、豊受大神は元々、丹波の神であったので一緒に祀ったのである。豊受大神は雄略天皇の時代になって、丹波から伊勢に迎えられ、外宮の主祭神として祀られことになる。

*3 和風諡号 主に帝王などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のこと。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。

*4 尾張氏は、 天火明命を祖とする葛木高尾張に居た豪族で ある。高尾張とは現在の奈良県御所市( ごせ し)あたりの事である。

丹波に派遣された丹波道主

『中興の祖 崇神』桂川 光和は、第三章 困難な崇神朝の始まり(3)陸国(くがこく)との戦いで、上述の「これは単なる賊征伐ではなく、ヤマト朝廷における国家的な出来事が起きたと考えていた。」の謎が解けたのだ。

崇神朝の始めの頃である。

『古事記』は崇神時代の事として、「日子坐王を旦波国に遣わし、陸耳之御笠を殺すを命ず」とする。『日本書紀』には見られない伝承である。

丹波の系図『勘注系図』には、八世孫日本得魂命の注記で次のように記す。

「崇神の時代、当国の青葉山中に土蜘蛛あり。陸耳御笠の者、そのさま人民おおみたからぬすむ。ゆえに日子坐王、勅をたてまつりこれを討つ。余社ノ大山に至り遂にこれを誅す。」

『勘注系図』が記すこの伝承は、「丹後風土記」と同様で、日子坐王と日本得魂命が戦った相手は、陸耳御笠と匹女と呼ばれる一党で、場所は現在の福井県の西部から京都府の北部、若狭と丹後との境でもある。

大和朝廷はここ若狭から東の勢力と対峙していたのである。

陸(くが)というのは今の北陸地方の名前である。したがって陸耳御笠は陸国くがのくにの王である。

この陸(玖賀)国こそ『魏志倭人伝』が伝える、邪馬台国と激しく争っていた狗奴国くなこくに他ならない。卑弥呼の時代から続いていた狗奴国との戦いはおおよそ三世紀後半の半ばに、大和朝廷側の勝利で決着がつくのである。その後丹波には、丹波道主が派遣されることになる(拙者註-日子坐王ではなく、その子丹波道主が派遣されたとする記述もある)。

『第一巻・気多郡故事記』『第ニ巻・朝来郡故事記』『第三巻・養父郡故事記』『第四巻・城崎郡故事記』『第六巻・美含郡故事記』を現代文風に要約すると、以下の通りである。

人皇十代崇神(すじん)天皇の十年秋(紀元前87)九月、
丹波青葉山(通称わかさ富士)の賊で、陸耳ノ御笠(くがみみのみかさ)、土蜘蛛の匹女など盗賊を集め、民衆の物を略奪していた。
その党(やから)で、狂(クルヒ、豊岡市来日)の土蜘蛛に入り、盗みを行う。甚だ猖けつを極め、気多県主・櫛竜命を殺し、瑞宝を奪う。

多遅摩国造・天日楢杵命あめのひならきのみことは、それを崇神天皇にこもごも奏した。天皇は、(9代開化天皇の皇子)彦坐命(ひこいますのみこと)に命じて、これを討つようにと命じられ、

御子の将軍丹波道主命とともに、
多遅麻朝来直あさこのあたえの上祖 天刀米命あめのとめのみこと
〃 若倭部連の上祖 武額明命たけぬかがのみこと
〃 竹野別の上祖 当芸利彦命たぎりひこのみこと
丹波六人部連むとべのむらじの上祖 武刀米命たけのとめのみこと(今の福知山市六人部)
丹波国造 倭得玉命やまとのえたまのみこと
大伴宿祢命の上祖 天靭負部命あめのゆきえべのみこと
佐伯宿祢命の上祖 国靭負部命くにのゆきえべのみこと
多遅麻黄沼前県主きのさきのあがたむし 穴目杵命あなめきのみことの子・来日足尼命くるいのすくねのみことら丹波に降り、土蜘蛛匹女を蟻道ありじ川(福知山市大江町有路)に殺し、陸耳を追い、白糸浜(由良川河口)に至る。陸耳は船に乗り多遅麻の黄沼前きのさきの海(円山川河口)に逃げる。
(中略)
時に狂の土蜘蛛は陸耳に加わり、賊勢再び振るう。時に水前大神教えて曰く、

「天神・地祀の擁護有り。すべからく美保大神・八千矛大神を祀れ」と。

再び王軍勢いを得て、陸耳を御崎に攻撃す。時に彦坐命の甲冑鳴動し、光輝を発す。故にその地を鎧浦と云う。(兵庫県美方郡香美町鎧)

当芸利彦命は進んで陸耳に迫り、これを刺し殺す。故にその地を勢刺いきさしの御崎と云い、また勇割の御崎と云う。

彦坐命は賊の滅ぶのをもって美保大神(美保神社:松江市美保関町)・八千矛大神の加護となし、戦功の賽をなさんと、出雲に至り、二神に詣でる。

大江山の鬼退治

大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが、「丹後風土記残欠たんごふどきざんけつ」[*2]に記された陸耳御笠[*3]の伝説である。『但馬故事記』と見事に一致しているのだ。

青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王(ひこいますのみこ)[*4]の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ、というものです。

崇神(すじん)天皇の時、青葉山中に陸耳御笠(くがみみのみかさ)・匹女(ひきめ)を首領とする土蜘蛛(つちぐも)[*5]がいて人民を苦しめていました。

日子坐王(ひこいますのみこ)が勅命を受けて討ったというもので、その戦いとかかわり、鳴生(舞鶴市成生・ナリウ)、爾保崎(匂ヶ崎)、志託(舞鶴市志高・シダカ)、血原(福知山市大江町千原・センバラ)、楯原(福知山市大江町蓼原・タデワラ)、川守(福知山市大江町河守・コウモリ)などの地名縁起が語られています。

このなかで、川守郷(福知山市大江町河守)にかかる記述が最も詳しいです。
これによると青葉山から陸耳御笠らを追い落とした日子坐王は、陸耳御笠を追って蟻道郷(福知山市大江町有路・アリジ)の血原(千原)にきてここで匹女を殺した。
この戦いであたり一面が血の原となったので、ここを血原と呼ぶようになりました。
陸耳御笠は降伏しようとしましたが、日本得玉命(やまとえたまのみこと)が下流からやってきたので、陸耳御笠は急に川をこえて逃げてしまいました。そこで日子坐王の軍勢は楯(たて)をならべ川を守りました。これが楯原(蓼原)・川守(河守)の地名の起こりです。

陸耳御笠は由良川を下流へ敗走しました。このとき一艘の舟が川を下ってきたので、その船に乗り陸耳御笠を追い、由良港へ来ましたが、ここで見失ってしましました。そこで石を拾って占ったところ、陸耳御笠は、与謝の大山(大江山)へ逃げ込んだことがわかりました。そこを石占(石浦)といい、この舟は楯原(蓼原)に祀りました。これが船戸神(ふなどのかみ)[*5]です。

[考察]

陸耳御笠(くがみみのみかさ)は、何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。長年の謎が一つ解けたような気がしています。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。(加佐郡?)陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。

陸耳ノ御笠について、興味ある仮説を提示しているのが谷川健一氏で、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」として、福井県から兵庫県・鳥取県の日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘されています。

一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲に伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖となっており、大和からみて、北方世界とよぶべき地域をその系譜圏としているといわれます。

「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。

土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとかいわれるが、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称である。また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、朝廷から恐れられていた。四道(北陸、東海、西道、丹波『日本書紀』)以外のまだ平定されていない地方豪族をさすのだろう。

陸耳ノ御笠も大江山の鬼退治の伝承も、同じく朝廷の丹波平定の過程である。陸耳の御笠とは加佐を中心にした丹後・但馬を含む古代丹波国であり、大和に従った戦いを伝説として残しているのだ。

『第ニ巻・朝来郡故事記』が彦座命について詳細だ。

天皇はその功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)の宮に居しました。アワビは、塩ケ渕(のり味沢)に放ちました。水がかれたのち、枚田(ひらた)の高山の麓の穴渕に放ちました(のち赤渕神社に祀ると云う)。
のちに彦坐命は(天皇から)勅を奉じて、諸国(三国)を巡察し、平定を奏しました。

天皇は勅して、姓を日下部足泥(宿祢)と賜い、諸国に日下部を定め、これを彦坐命に賜いました。

十一年夏四月、(粟鹿)宮に還り、諸将を各地に置き、鎮護(まもり)としました。
丹波国造 倭得玉命
多遅摩国造 天日楢杵命
二方国造 宇都野真若命
その下に、
当芸利彦命の功を賞し、気多県主と
武額明命をもって、美伊県主としました。
同じく、
比地県主・美保津彦命
夜夫県主・美津玉彦命
黄沼前県主・穴目杵命
伊曾布県主・黒田大彦命
みな、刀我禾鹿宮に朝して、その徳を頒ました。
朝来の名は、ここに始まります。

(中略)

第十一代垂仁天皇八十四年九月、
丹波・多遅摩・二方三国の大国主・日下部宿祢の遠祖・彦坐命は、刀我禾鹿宮に薨ず。寿二百八歳。禾鹿の鴨の端の丘に葬りました。(兆域28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部ニ烟(けむり)を置き、これを守る。

息長宿祢の子。大多牟阪(おおたむさか)命をもって、朝来県主としました。大多牟阪命は、墨阪大中津彦命の娘・大中津姫命を娶り、船穂足泥(すくね)命を生みました。
大多牟阪命は、山口宮にあり、彦坐命を禾鹿宮に祀りました。(名神大 粟鹿神社)

第十三代成務天皇五年秋九月、
大多牟阪命の子・船穂足泥命をもって、多遅摩国造と定めました。船穂足泥命は大夜夫宮に還りました。(名神大 養父神社)

船穂足泥命の子・当勝足泥(まさかつすくね)命をもって、朝来県主としました。

[解説]*1
『天日槍』の著者今井啓一郎は、出石の郷土史家桜井勉が『国司文書 但馬故事記』を偽書説などを牙歯にもかけず、人或いは荒唐無稽の徒事なりと笑わば笑えと堂々の論れんを張り、天日槍研究に自信の程を示した。すなわち彼は、桜井とは見解をことにし、この但馬国司文書を大いに活用している。

「この地に朝来山という名所あり。取りて郡の名とせり。」とするならば、その朝来山の由来はどう説明するのだろう。

[*2]…「丹後風土記残欠」とは、奈良時代に国別に編纂された地誌である 8世紀に、国の命令で丹後国が提出した地誌書ともいうべき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、15世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。
[*3]…陸耳御笠のことは、「古事記」の崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。この陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいるように思える。大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
[*4]…日子坐王とは崇神天皇の弟にあたり、四道将軍として丹波に派遣された丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)の父にあたる。

[*5]…衝立船戸(ツキタツフナト)神。境界の神。民間信仰における道祖神に相当する。「フナト」は「クナト」を古名とする記述から、「来(く)な」の意。「ツキタツ」は、杖を突き立てて「ここから来るな」と告げた意。
引用:福知山市オフィシャルホームページ「日本の鬼の交流博物館」
福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹

以上

丹波道主命と大丹波王国

地図:国土交通省

但馬・丹後は、方言も山陰や若狭に近いが、兵庫県・京都府であり、関西(近畿)でもある。瀬戸内の山陽地方と中国山地を隔てて北にあるので山陰という。かといって、日本海側は交通も不便であり、過疎化が進み人口も減少傾向にある。

しかしである。結果的に自然や寺社などが残っていることは財産でもあるのだ。そもそも三丹が国として誕生したはるか昔から江戸末期に黒船が来航するまでの日本誕生から長い間、日本海側が表日本だったのであるのに比べれば、日本列島の太平洋側が表玄関になったのは、幕末からわずか200年に過ぎない。

丹波たんばの国は、律令制以前の古代は、丹後たんご但馬たじまも丹波であった。

とくに但馬・丹後は、なかでも近い豊岡市と京丹後市などの地域は、文化・方言等がよく似た地域で、府県の違いはあるにも関わらず、共通の生活圏でもある。

『国司文書 但馬故事記』にそのヒントが隠されている。

郡ごとに八巻に分けられれるが、ほとんどの冒頭はこれにはじまる。

天照國照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖、高皇産霊神より、十種瑞宝を授かり、妃の天道姫命とともに、坂戸天物部命等十数名を率い、天磐船に乗り、田庭の真名井原に降り、豊受姫命より五穀養桑の種子を獲て、射狭那子嶽に就き、真名井を掘り、稲の水種や五穀の陸種をつくるべく植え、その秋、稲の穂が一面に充ちた。(中略)故にこの処を田庭と云う。丹波の号、ここに始まる。その後、天火明命は谿間(但馬)を開く。(中略)

のち、人皇10代崇神天皇の御世、先帝の皇子、彦坐命が丹波・多遅麻・二方の三国を賜い、大国主となる。

伴とし子さんは著書「ヤマト政権誕生と大丹波王国」で、

国宝『海部氏系図』(元伊勢籠神社)の中で、地名に限り言及すると、「孫 健振根宿祢たけふりねのすくね」のところに、「若狭木津高向宮わかさこづたかむくのみや」という地名が記されている。このことから、古代の地域国家を名づけて大丹波王国(=丹後王国)としたが、若狭国もその勢力範囲であったと考えられる。(中略)

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彦座王と丹波の鬼退治

[wc_skillbar title=”彦座王と丹波の鬼退治” percentage=”100″ color=”#e45e32″] [catlist id=589]

『但馬故事記』の崇神天皇の御代は、丹波青葉山にいた賊に陸耳の御笠を彦座命たちが丹波(丹後・但馬と丹波北部に限られる)の首長とともに退治した話のみが長く詳細に記されている。現代語風に訳してみる。

第十代崇神崇神天皇の十年秋、丹波青葉山にいた賊に陸耳くがみみの御笠みかさがいました。土蜘蛛つちぐもの匹女ひきめなどの盗賊を集めて人々の物を略奪していました。その仲間の土蜘蛛が多遅麻・狂の久流山にいて、あちこちに出没しては人びとに害を及ぼしていました。それは酷い有様でした。

丹波国造の倭得玉命やまとのえたまのみことと多遅麻国造の天日楢杵命あめのひならきのみことは、崇神天皇にそのことを伝えました。天皇は開化天皇の皇子・彦坐命に命じて、これを討つようにいわれました。
彦坐命は、御子の将軍・丹波道主命たにはのみちぬしのみこととともに丹波に下り、

多遅麻朝来直たぢまあさごのあたえの上祖 天刀米命あめのとめのみこと(天砺米命)
〃 若倭部連わかやまとのべのむらじの上祖 武額明命たけぬかがのみこと
〃 竹野別たかののわけの上祖 当芸利彦命たぎりひこのみこと
丹波六人部連むとべのむらじの上祖 武刀米命たけのとめのみこと(武砺米命・今の福知山市六人部むとべ)
丹波国造 倭得玉命やまとのえたまのみこと
大伴宿祢命おおとものすくねのみことの上祖 天靭負部命あめのゆきえべのみこと
佐伯宿祢命の上祖 国靭負部命くにのゆきえべのみこと
多遅麻黄沼前県主きのさきのあがたぬし 穴目杵命あなめきのみことの子・来日足尼命くるいのすくねのみことら

を率いて、丹波と若狭との国境に至りました。

陸耳・土蜘蛛匹女は南に向かい、蟻道ありじ川(福知山市大江町有路)にて土蜘蛛匹女を殺しました。その血が流れて、染みて紅色になりました。それでこの地を血原といいます(のち福知山市大江町千原)。

陸耳らは力が尽き、まさに降参しようとした際に、丹波国造倭得玉命は下流からこれを追い、楯を並べて河を守り、イナゴのように矢を放ちました。賊党は矢に当たり水に溺れ死にする者が多くいました。

それでこの地を河守といい、王軍がいた所を縦原といいます。(福知山市大江町河守・蓼原)

さらに賊を追って由良の湊に至りました。竹野の海で戦い、陸耳たちは大敗してまた逃げて行きました。(由良の湊は由良川河口、竹野の海は久美浜湾)

王軍はこれを追い、多遅麻の黄沼前きのさきの海(円山川河口)に逃げました。

その時に狂の土蜘蛛は陸耳に加わり、賊の勢いは再び増しました。(狂は豊岡市来日)

王軍の船は岸に当たり穴が空いてしまいました。さすがに王軍は士気を失いました。

その時に、水前大神が現れて告げました。

「天神・地神の擁護が有る。すぐに美保大神と八千矛大神を祀りなさい」と。

彦坐命はそのお告げを聞いて両神をまつりました。すると風はおさまり、波が穏やかになりました。それでこの地を安来浦といいます。(兵庫県美方郡香美町安木)安来に坐す大国主大神・玉櫛入彦大神はこの神です。(國主神社 祭神大国主命 美方郡香美町香住区安木)

再び王軍の士気は大いに高まりました。するとにわかに鯨波ときが起こり、無数のアワビが浮かび出て、その船の穴を塞ぎました。それで鯨波島ときしまといい(いま鳥加計島)、アワビが浮かび出たところを鮑島といいます(のち青島)。船が直ったところを舟生港といいます(のち舟を丹に誤りて丹生港。いまの柴山。式内丹生神社 祭神:丹生津彦命)。

その時天より神の剣が武額明命の船に降りてきました。武額明命はこれを彦坐命に献上しました。それで神ノ浦といいます(神ノ浦山)。またその地を名づけて、幸魂谷といいます(のち佐古谷)。

陸耳・土蜘蛛たちは島の陰に潜みました。それで屈居ノ浦といいます。来日足尼命(宿祢)は土蜘蛛に迫り、刺し殺しました。その地を多派礼波奈といいます。

王軍は陸耳を御崎の海に攻撃しました。その時、彦坐命の甲冑が鳴り、輝きを発しました。故にその地を鎧浦と云う。(兵庫県美方郡香美町鎧)

当芸利彦命は進んで陸耳に迫り、これを刺し殺しました。それでその地を勢刺いきさしの御崎といいます。また勇割の御崎と云う。(伊伎佐御碕、式内伊伎佐神社:兵庫県美方郡香美町余部)

彦坐命は、賊の滅ぶのをもって美保大神(美保神社:松江市美保関町)・杵築大神(出雲国一宮 出雲大社:出雲市大社町)の加護のお陰とし、戦功のお礼参りをするために出雲に行きました。二神に詣で、伯耆を過ぎ、因幡青屋崎(いまの鳥取市青谷町)、加露港に入り、順風を待ちました。

順風になって田尻沖を過ぎると、たちまち暴風が起こり、船は揺れました。それでその地を振動浦いふりうらといいます。

二方国、雪ノ白浜に入り、将兵を休ませました。それでその地を諸寄もろよせといいます(兵庫県美方郡新温泉町諸寄)。多遅麻の舟生港に寄り、順風を待ちました。その時、磯辺より世にまれな大アワビが多数浮かび出て、白石島を廻りました。この時、大アワビは、海神の御船と化して導き、丹波国与佐浦に到着できました。

11月3日、天皇のおられる都に凱旋し、将兵の戦功と戦中の奇談を奉じました。天皇はその功を賞め、丹波・多遅麻・二方の三国を彦坐命に与え大国主としました。

12月7日、彦坐命は諸将を率いて。多遅麻粟賀の県に下り、粟賀に宮を建てここに住まいました。(名神大 粟鹿神社)

アワビは塩ケ渕に放ちました。水が枯れたのち、枚田の高い山の麓の穴渕に放ちました(のち式内赤淵神社に祀ると云う)。

彦坐命は再び天皇の仰せで諸将を率いて山陰の諸国を巡察し、その平定につとめました。

天皇は、姓を日下部足尼(宿祢)くさかべのすくね*1と与え、諸国に日下部を定めて、彦坐命に与えました。しばらくして、彦坐命は宮に帰り、諸将を各地に置き、守りとしました。

各地の諸将は、みな粟賀宮に朝見して、徳をよろこびました。朝来あさごの名はここに始まります。


*1日下部氏 『日下部系図』は、その子孫が日下部表米別命-日下部荒島宿祢-養父の軽部・建屋・朝倉・八木・宿南・田公、朝来の太田垣などとする。

『但馬故事記』は、彦坐命-(2代省略)-息長宿祢命-大多牟阪命(朝来県主)-船穂足尼命(多遅麻国造)-当勝別命(朝来県主)-(丹波六人部武刀米命の子・武田背命:朝来県主)-

日下部の上祖・表米別命(当勝別命の子・朝来県主)-賀津米別命(朝来県主)-伊由臣彦命(朝来県主)-(律令制発足・県を郡へ)-(武刀米命の裔朝来直命:朝来郡司)・・・荒島宿祢(朝来大領、養父郡故事記には郡司とある?)-荒島宿祢の子・乙主(一に磯主)(朝来大領)-荒島宿祢の孫・安樹(朝来大領・父磯継は養父大領)-荒島安樹の玄孫・荒島国守(朝来大領)

[養父郡]多遅麻国造 船穂足尼命の9世孫 日下部宿祢(養父郡司)・・・朝来郡司荒島宿祢の子・磯継(養父郡司)・・・荒島宿祢利実(養父郡司)

・・・は他の家系の人が任じられているので省略した。

弥生文化圏の成立とタニハ

『倭の古王国と邪馬台国問題上』 著者: 中島一憲から。

三千年前からはじまって二千五百年前に「真冬」となる大気候の寒冷期は、紀元後八世紀(1300年前)まで続き、ちょうどこの時期に「製鉄」が世界に普及するので「鉄器時代初期の寒気」と呼ばれている。

二千五百年前といえば列島では縄文晩期の「葉畑・曲り田段階」である。列島の平均気温は現代より二度低く、11度ほどであったという。

早期稲作が瀬戸内海地方や東北地方に始まったことを考えると、この時期に西北九州地方に稲作が普及するのは、「渡来人」が新たに優れた(水)稲作技術を朝鮮半島からもたらしたからではなく列島の大気候の寒冷化と関係があるのではないだろうか。
だが「鉄器時代初期の寒気」には、世界的にも紀元前後を通じて例外的に温暖な時期があった。

中国大陸では戦国時代のはじめ(紀元前403年・2400年前)から、後漢時代のはじめ(紀元25年・2000年前)までのおよそ400年間が寒冷期の谷間の温暖期となった。日本では尾瀬ヶ原の泥炭層の花粉分析の結果、紀元前約400年から紀元20年にかけて「弥生暖期」の名がつけられている。

しかし、つかの間の温暖期も大陸の内陸部から崩れはじめる。中国の文献には、すでに紀元前1世紀から内陸部に寒冷化と乾燥化が同時進行し、旱害とと鍠害と飢饉と疫病がきょう奴の社会文化を壊滅させたことが記録されており、紀元48年の南北分裂後、南きょう奴は後漢に帰順したが、北きょう奴は91年の後漢の攻略によって西方へ逃散し、古代中国史から姿を消している。

黄河流域の中原(ちゅうげん)でも後漢の桓帝(147~167年)の時代の184年には数十万人の飢餓農民の反乱である「黄巾の乱」が勃発する。

ちょうどこの時期が『後漢書』「倭伝」や『太平御覧』にのる『魏志』逸文に記録された「倭国大乱」という列島の内乱時代と重なっているのは、列島の大気候が寒冷化したためか、大陸の動乱の直接・間接の影響によるもの寡欲検討する必要がある。列島の本格的な「冬」はもう少し遅れて240年ころに始まったとされているからである。

大陸内陸部の冷涼寒冷化は黄河中原の冷害はまだ予兆的なもので、魏王朝(220~264年)時代の225年には黄河と長江(揚子江)の間を流れる准河(ワイガ)が凍結し、227年には「連年穀麦不収」という記事がある。

弥生時代600年間の列島の大気候は、前半暖かく後半はやや寒かったと要約できるだろう。

豊葦原の瑞穂の国

佐原真氏は、福岡県遠賀郡水巻町立屋敷遺跡は福岡県中央部を北流して響灘に注ぐ遠賀川の川底にある。1931年、この遺跡から豊富な文様をもつ弥生土器が発掘され、遠賀川式土器と命名された。

その後の発掘調査で、この土器は弥生前期(紀元前300~同200年)に太平洋側では愛知県西部の名古屋、日本海側では京都府丹後半島を東限とする西日本一帯に分布していることがわかった。

この土器が出土する遺跡にはコメや稲もみ、農具類が伴出するので、この土器は農民の生活道具であり、遺跡の性格は農村集落であるとされている。

ところが1982年ごろ、青森県八戸市松石橋遺跡で「遠賀川式と見まごうばかりの完全な壺が発見されて以来、八戸市是川、山形県酒田市地蔵田B、秋田市生石2、福島県会津盆地の三島町荒屋敷などの遺跡でも、続々と遠賀川式そっくりの土器が出土した。

なかにもみ跡がついているものがあり、東北でのこの時期の水田遺跡の発掘が期待されていたが、1187年に弘前市砂沢遺跡でその水田が発掘された。
このようにして日本列島では弥生前期には、すでに北は青森県から南は鹿児島県にいたる稲作と土器を共有する文化圏が成立していた。北海道と南西諸島、沖縄を除く本州、四国、九州がきわめて均質な稲作文化圏を形成しているのである。(佐原2000)

記紀の神話で、天照大神が孫のニニギノミコト(邇邇芸命)を降臨させた、豊葦原のチアキナガイホアキ(千秋長五百秋)の水穂國(瑞穂国)、アシハラノナカツクニ(葦原中国)というのは、おそらくこのように水稲耕作が普及した時代の日本列島主部のことだろう。(中略)

主な縄文前期の遺跡

■縄文草創期~早期(1万2千年前~6千年前)
紀元前8000年頃
静岡県富士宮市若宮遺跡(最古の集落)
福井県三方郡鳥浜遺跡(海港・農耕遺跡)
島根県隠岐諸島島後宮尾・中村湊遺跡(黒曜石コンビナート・海港)
京都府京丹後市丹後町平遺跡(海港)
同 6000年頃
函館市函館空港遺跡(大規模定住集落)

■縄文前期(6千年前~5千年前)
紀元前3800年
山形県米沢市一の板遺跡(石器のコンビナート的集落)
東京都伊豆諸島八丈島樫立(海港)
長崎県多良見町伊木力遺跡(海港・丸木船出土)

京都府京丹後市峰山町は、丹後半島を流れて日本海に注ぐ竹野川の中流域に位置する。そこの扇谷遺跡は深さ4m、最大幅6mの濠が直径270m、短径250mの範囲をめぐる弥生時代の前期後半から中期初頭にかけての丘陵上の環濠遺跡である。
濠の底から土器、碧玉やメノウなどの玉造りの遺物とともに鉄斧と鉄滓が出てきた。鉄斧は鋳鉄で原料は砂鉄ではないかと考えられている。

「チタン、バナジウムの量が多く、砂鉄系の原料を使った可能性が強い。鉄滓も砂鉄系の鍛冶滓の感じがする」ということであるから、私は弥生前期後半にはすでに列島内で砂鉄原料による精錬製鉄が行われていたと考えている。

この峰山町を含む丹後半島一帯は「記紀」伝承に登場する「丹波の県」の地であり、古くからひとつの政治文化圏を形成していた特別な地域である。ここには今に残る「丹波」という小字があるし、隣の弥栄町との町境にまたがる4世紀後半の大田南五号墳からは、1994年に紀年銘鏡としては最古の「青龍三年」(235年)という魏の紀年銘のある青銅鏡が出土している。

また弥栄町の遠所遺跡では1987年に、いまのところ列島最古とされる五世紀末のタタラ・コンビナート遺跡が発見されている。

森浩一氏、門脇氏は、

さらに峰山町には、扇谷遺跡とほぼ同時期の途中ヶ丘遺跡という高地性集落がある。扇谷遺跡から2km程しか離れていない。「これほど接近して二つの大きな高地性集落があるところなんて、全国的にもまれ」である。

そしてこれも同時期に、弥栄町には奈具岡遺跡という「弥生中期の玉造り遺跡があって、緑色の凝灰岩に加えて、そんなに古くから水晶が使われていたのかと思うほど、たくさんの水晶の玉を造っている。

竹野川上流にある「大宮町には弥生時代の小さな古墓がたくさんある。ガラスの玉がたくさん(7~8千)出て、それがブルー系のきれいなガラス玉なんです。弥生時代に限れば、ガラス玉があんなにたくさん墓から出るところは珍しい」(森浩一氏、門脇氏)。

こうしてみてくると、古代タニハ国は、弥生中期から砂鉄製鉄を行ってきた伝統的な「工業国」で、八世紀の『古事記』に「大県主」として記録されたユゴリの名は、門脇氏が指摘されるように「湯凝」すなわち、哲也青銅などの金属素材を熱で溶かして精錬した四世紀代の技術集団の指導者の名ではなかったか。

またヒコ・ユムスビのユブスビも「湯結」すなわち製鉄王の孫にふさわしい命名だと思われる。このようにして弥生中期以来、製鉄とガラス工芸の一大コンビナート地帯であったことがうかがえる仮称「タニハ国」は、三世紀末には畿内の大王と緊密な関係を結ぶようになる。

もちろん「記紀」に基づく系図は後世的なものでとりわけ婚姻関係や血縁関係をそのまますべて史実とするわけにはいかないが、伝統的な政治関係がそこに投影されていると考えることはできるだろう。

私はそのことからさかのぼって、弥生中期の仮称「タニハ国」は、日本海と近畿の中心を関係づける重要な軍事的・経済的戦略拠点として栄えたのではないかと想像している。

これも後世のことになるが、「大和へ結ぶ道も、丹後(タニハ)には、現在のように京都市から出ていく道と、丹後の加悦谷から福知山の方へ出て、山越えで神戸の垂水に出る。系図で見たタケトヨ・ハズラワケの母のワシッヒメは葛城垂見宿禰の娘とされているが、垂見は垂水でしょう。そして大阪湾をわたって堺から上陸し、葛城に出る。このルートの意味をもっている。

「そういう点で、丹後(タニハ)というのは、古くは、大和からいえば、西の瀬戸内へ出ていくルートに加え、近江を経て敦賀へ出るルートとは別に、かなり重視されていたと思っているわけです」(門脇氏)。

門脇氏はそれを古墳時代のこととして述べておられるが、弥生中期の近畿中心部の発展状況と、仮称「タニハ国」

の発展状況に技術的な格差が見られないことや、仮称「タニハ国」の地政学的条件から考えると、私は両者の緊密な関係はすでにこの時期からはじまっているのではないかと思うのである。

丹後町竹野遺跡で、弥生前期の地層から外洋とつながる直径1kmほどの潟湖が見つかった。同じ地層から大陸製と思われる磁器も出土し、個々に古くから開かれた港市国家が成立していたことが裏付けられた。

拙者はこの野田川から元伊勢神宮を通り天田郡(福知山)から由良川上流、石生(水分かれ)という日本一低い分水嶺からそして加古川へというルートが信憑性があると思う。またこのルートと前後してまた別のルートでより近い但馬・出石の沖の気比から朝鮮半島に出向いていたとも考えられる。天日槍や神号皇后のルートにほぼ一致していることが、記紀が単なる神話ではなく、当時のヤマト政権の勢力範囲を示していると考えられるからだ。

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弥生.徐福と兵主神社

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が日本列島外から渡来して、北部九州に移住することによって始まった時代です。

紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まります。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れています。これは、縄文時代に日本列島にはいなかった多くの人々が大陸から流入したことを示しているもので、かつて朝鮮半島からというのが考えられていましたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力です。

北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っていますが、これによると、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡していますから整合性はとれます。

福岡板付遺跡のように、縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいます。弥生時代は700年かけて日本列島に広がっていきましたが、侵略による拡大ではなく、コメという食文化を通じた緩やかな弥生人と中国大陸の渡来人との混合が弥生人だったのです。

秦から斉の時代に山東半島から、朝鮮半島南端部を経て北九州に上陸したのではないかというのが、「徐福伝説」です。始皇帝の命で常世の国に仙薬を求めて日本列島に渡ったとされるが、実態は逃れた人々だってのではないかと推測できます。

『出雲と大和のあけぼの: 丹後風土記の世界』斎木雲州氏(元日本大学教授)にアメノヒボコと製鉄集団についての興味深い内容があった。

兵主(ヒョウズ)とは、中国の山東半島方面の古代信仰であった。戦国時代の中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)の斉(セイ)国では、八神を崇拝した。徐福の家系は斉国の出身であったので、八神の信仰を倭国(日本)に伝えた。

八神について『史記』の「封禅書」には、「八神の第一は天主である(これはユダヤ教の信仰に基づくという)。兵主は八神のうちの第三で、蚩尤(しゆう)を祀る。蚩尤は、西方を守る神だとされる。(戦の神と考えられている。また戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢等、全ての優れた武器(五兵)を発明したという。蚩尤が反乱を起こしたことで、これ以降は法を定めて反乱を抑えなければいけなくなったとも言う。)

徐福の息子イタケの時代には、ハタ(秦)族は出雲のおもに太田(市)の東に住んでいた。その西を守るために建てられた社が、五十猛神社になった。

丹後の地に移ってからは、ハタ(秦)族は漁民になった者が多かった。その宮津湾(あそ海)の漁村を守る西の位置に、カゴヤマは真名井神社(宮津市)を建てた。カゴヤマ(香具山)は『書紀』に一書として、天火明命の子で、尾張連らの遠祖とある。

射楯兵主神社は播磨国にも祭られた。「播磨風土記」に飾磨の郡因達(いだて)の里の記事がある。

因達というのは…伊太代(いだて)の神がここに鎮座しています。それで神の名前より、里の名前になった。

射楯兵主神社は今は姫路市に鎮座するが古くは八丈岩山に祭られていた。因達の里のとなりに昔は安師の里があった。
大和に住まわれた天村雲命は、三輪山の神奈備を守るために、その西麓の穴師で兵主の神を祀った。

イタケの発音から、イダテやイタチにもなった。戦国大名の伊達氏は、因達の神を拝む家系であった、といわれる。伊達藩の支倉常長がローマ法王に書いた書状には、ローマ字で「イタチ藩」と書かれている。
カツラギ王家のタタラ五十鈴姫の御子に八井耳がおられたが、出雲王の血を引くので、臣の名称を使い多(おお)臣の祖となった。多家では、苗字に「太」の字も使った。

その一族は磯城郡田原本町の南端・多の地を本拠としたので、そこに多神社が鎮座する。そこには八井耳命とともに、子孫の太安万侶もまつられている。太安万侶は、古事記を書いたことで知られる。かれは晩年に、出雲国庁の脇(松江市竹矢町)に住んだと伝わる。その屋敷跡が「オウ(太)の杜」といばれる。

ヒボコが日本に携えてきた神宝にも、「出石の小刀」「出石の鉾(木偏)」「日鏡」と、やはり「金属器」が含まれている。どこから見ても「ホコ」を名に持ち、鉄の産地からやってきたアメノヒボコが「鉄の男」であることは、はっきりしている。

この属性は、ツヌガアラシトのそれでもある。「鉄の神=蚩尤(しゆう」ではないかと疑われるツヌガアラシトが、本来同一だった可能性は、やはりヒボコの将来した神宝の名前からもうかがい知ることができる。

それは「イササ(イザサ)」で、ヒボコがヤマト朝廷に献上した八つの宝物のなかに「胆狭浅太刀」がある。その「イザサ」が、ツヌガアラシトの祀られる角鹿の気比神宮の現在の主祭神の名と重なってくる。それが「イザサワケ(伊奢沙和気命)」にほかならない。

もっとも、門脇禎二氏のように、八世紀の『日本書紀』の編者が「新羅」と「加羅」両者の王子を混同するはずがないという理由から、説話が似ていて共通の要素があるからといって二つの話を同一視することはできないとする説もある。

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