南構遺跡(兵庫県豊岡市日高町久斗)について

いただいたパンフレットから

去る10月26日(土)、一般国道483号北近畿豊岡自動車道(八鹿豊岡南道路)の建設に伴い、豊岡市久斗(本籍は祢布)の南構遺跡の現地説明会が行われました。当日告知があったのかなかったのか、それもネットから知って毎日新聞一社のみでした。翌日現地へ行ったみました。

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養父市立大庄屋記念館(旧長島家住宅)

母方の墓参で母と叔母を乗せて養父市大塚へ。帰路養父市小城の大庄屋記念館(旧長島家住宅)へ立ち寄った。ここの長島家に先々代が大塚中島家から嫁がれたそうだ。母や叔母が子供の頃は法事で来たことがありまだ住まわれていたそうだ。 養父市小城の裏山高台にある。江戸時代後期に出石藩の大庄屋を勤めた長島善右衛門の時代に母屋が建てられたことから大庄屋記念館と呼ばれている。敷地と建物は養父市が長島家から寄贈を受けて、古い建物を保存しながら昔の生活が体験できる歴史民族資料館となっている。 明治期に母屋が改造され、大正時代に客殿が増築された。このため現在の屋敷は大正時代に最盛期を迎えた豪農が生活する建物群として完成されている。建物が無傷な状態で良好に保存されていることから養父市指定文化財「長島家住宅」となり、玄関前には山梨の古木がある。

但馬最初の民俗資料館

養父市教育委員会ホームページ・パンフレットによると、 江戸時代の大庄屋屋敷を利用した資料館です。 母屋や納屋、土蔵などが広い敷地に配置された風格ある建築空間は見事です。 館内には生活用具や民具などが収集展示され、かつての暮らしや養蚕の歴史などが学べます。 江戸時代後期に小城村の庄屋をつとめた旧長島邸をそのまま利用して民族資料館として開館しています。建物は寛保3(1743)年に建設されたことが、土蔵金具から明らかになっており、建物空間・構造・石垣など当時の生活をうかがうことができます。現在展示している民族資料は、長島家のものと町民から無償で寄付していただいたもので、養蚕・和牛・炭焼きを中心に生活用具を展示しています。 昭和49年11月、養父町民俗資料館として開館 平成16年4月、養父市発足を機に養父市大庄屋記念館と名称変更 但馬でも最初に開館した民俗資料館で、市内にはほかに市立山田風太郎記念館、市立上垣守国養蚕記念館、市立木彫記念館がある。

歴史文化遺産の長島家住宅

敷地:3,718㎡ 上段・中段・下段の3段 下段:現在は管理棟がある 中段:母屋・客殿・土蔵 上段:納屋・物置 また中段の母屋と常談の納屋の間には帯状の段(スロープ)があり、地神の社 建物:892㎡(母屋・客殿・土蔵など) 居宅:部屋数21室、風呂2ヶ所、便所5ヶ所 納屋:納屋2棟、倉庫、土蔵3棟、土塀、門5ヶ所

庭園:表座敷前の母屋庭園、客殿横の裏庭園、さらに母屋の西方の庭園と3箇所 特徴 住宅東側の谷川沿いには高さ10mもある石垣が積まれ、日本の伝統である隅角部がなく、緩やかなカーブを描いて石垣ライ ンが形成されている。これは西洋風の石垣をモデルにして築いた珍しい石垣工法で、明治期に築かれたもの。 さらに谷川には谷底が掘れないように石材を敷き詰めた床固工法を採用している。またすぐ上流には砂防堰堤も施されている。セメントを利用しない石積み工法で作られた大正期の貴重な土木遺産である。

   

伯耆国庁・国分寺

  

鳥取市から倉吉市へは国道9号線が、鳥取バイパス、青谷羽合道路が開通し、国庁所在地で別の旧国であるが時間的に早くなった。高校時代にまだ国鉄だった頃、同級生3人と香住から夜行の山陰号でどこまで行けるかと乗った。今は時効だろうが最初で最後のキセル乗車である。誰も乗っていない客車で限界を感じて倉吉駅で降りて引き返した。深夜の倉吉駅は遠くて寂しい思いがしたことを覚えている。

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旧豊岡藩主京極家家廟・石束家墓地

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豊岡市三坂字宝林谷


「大石りく生家 石束(いしづか)家墓地」案内表示

ガード下と市道北に2カ所立てられているが、車ではガードをくぐってすぐ右折すると線路側にかなりのスペースで停められる。但し私有地なのか知らないのでしばらく勝手に停めさえてもらった。ただし、石束(いしづか)家は、豊田町の豊岡陣屋の武家屋敷にあったので、大石りく生家というのが意味が不明だ。


豊岡藩の陣屋移築門  京極家廟


旧豊岡藩主京極家廟・墓地


京極家累代の墓

 

豊岡といえば赤穂浪士大石内蔵助妻大石りくの生誕地としても有名だ。
式内社深坂神社をたずねるついでに、豊岡藩主京極家墓地と豊岡藩主京極家墓地を訪れた。ここにかつては京極家菩提寺の瑞泰寺(廃寺)が建てられていたことと京極家と 石束家墓地があることは、歴史好きの私でさえ初めて来たぐらいで、地元の人でもあまり知られていない。

理玖は豊岡城(神武山)東麓の豊岡市京町にあった石束家の屋敷で生まれたのではないかとされている。三坂町は真反対だ。現在、京町の約50メートル南側に「大石陸女生誕之地」の碑が建立されています。当時は城山(神武山)のふもとに陣屋、それをとりまくように家老級の屋敷があり、東側の広い範囲を石束本家が占めていました。

「豊岡市観光協会」参考文献: 瀬戸谷晧著 『忠臣蔵を生きた女―内蔵助の妻理玖とその周辺』 北星社 2005年

略史(ウィキペディア)

寛文8年(1668年)丹後国田辺藩(舞鶴)より京極高盛が3万5千石にて転封となった。この際、京極氏は城主大名から無城大名に降格となった。陣屋の建設にあたり幕府より金2千両が与えられた。

4代高寛は享保11年(1726年)僅か10歳で没した。このため6歳の弟高永が1万5千石に減封の上、家名相続を許された。減封に伴い藩士を大幅に除籍し、また残った藩士の禄も削減した。また、享保12年(1727年)には江戸藩邸が全焼する不幸にも見舞われた。高永は藩政を立て直すべく、勝手方に倉持左膳を起用し藩政改革に当たらせた。彼の政策に反対した筆頭家老石束源五右衛門が藩を去るという事件が起きた。

次の6代藩主高品の代になっても藩主・改革派と守旧派の確執が続き、重臣の脱藩や永蟄居などが相次いだ。

7代高有は文政6年(1823年)藩営の産物会所を開設し柳行李流通の独占を図り財政の再建に努めた。しかし、文政8年(1825年)には豊岡町民による産物会所や金銀売買商屋敷の打ち壊しに遭っている。

8代高行は天保4年(1833年)藩校「稽古堂」を開いた。

明治4年(1871年)廃藩置県により豊岡県となる。その後、兵庫県に編入された。 豊岡藩主家は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した。

  

京極家家廟                     京極家家紋

なお、京極家筆頭家老の石束家より元禄赤穂事件で著名な大石良雄(内蔵助)の妻・理玖(りく)が出ており、討ち入り前夜、豊岡へ返された。なお、その後の理玖は三男大三郎の広島藩仕官に伴い広島に移り、そこで余生を送った。のち、石束家も5代藩主・高永の時代に上記の通り藩政改革に反対し藩を去っている。

明治維新の後、東京の藩主家11代当主である高光(9代高厚の孫)は杞陽の号を持つ俳人として昭和期に活躍した。

現在の豊岡藩主家の当主は12代目(京極高知から数えて15代目、丹後田辺藩初代藩主高三から数えて14代目)の高晴であり、2009年6月15日に靖国神社宮司に就任した。

京極家墓所

  

  

石束家墓地

京極家墓所から少し登ると石束家ほか立派な墓が並んでいる。

  

理玖の遺髪塚
豊岡市日撫(香林会館敷地内)

父毎公(つねとも)は宝永6年(1709)ころに職を退くとともに日撫(ひなど)の正福寺に居住するようになり、理玖と子どもたちも広島に移るまでの4年間、一緒に住んだのではとされています。

大石内蔵助 りく 次男 祖錬元快禅師 大石吉之進墓地
豊岡市三坂町大門山墓地 旧興国寺

但馬国府は条里制に収まっていた?!

20111.5.22 「第45回 但馬歴史後援会」但馬史研究会
「祢布ヶ森(ニョウガモリ)遺跡を考える」 但馬国府・国分寺館 前岡 孝彰氏

見つかった施設・遺構から、大型建物跡などが確認されている。かなり大きな役所跡だった。
また、全国的にみても多数の木簡が見つかっており、当時の役人の業務が分かる。


祢布ヶ森遺跡と周辺の遺跡 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

但馬国府の推定と発掘

全国的にも国府(国衙)はさまざまな理由によって官庁を移転している例があります。国府と密接な関係を有していた国分寺。その寺地選定の要件は、「衆の帰集を労するを欲せず」とされているように、交通至便の地が望まれました。国庁内にあった仏舎の発展延長でもあるので、国府から飛び離れた地点に建立されることはまずありませんでした。実際、国府から五町乃至二町位隔たって建設されたものが多いようです。

『日高町史』によれば、古くから日高町国分寺区は、但馬国分寺跡だとの伝承を持つ位置が存在し、但馬の他所から移ってきたような大変化も伝承もなく、遺跡も存在しているのは、但馬では他にはありません。つまり、国分寺と国府は、まず距離的に密着しているのが通例ですし、この国分寺の近くに国府が最初から建設されたと見るのが妥当です。

次ぎに、高田郷に国分寺という地名は、和妙抄には存在せず、江戸時代には国保村と書かれています。和妙抄は高田(タカダ)郷は「多加多」と記され、夏栗、久斗、祢布、石立、国保(国分寺)、水上が含まれるとされています。国府が国保と記されていたとも考えられます。

『兵庫県史』は、「但馬に気多郡団が知られるが、出石軍団は知られないこと、天平九年の『但馬国正税帳』によると、但馬国府から因幡へ伝達するのに気多郡の主帳を使っています。ふつう国府のある郡には軍団が置かれるし、また文書の逓送には、国府に近い郡の役人を使うのが自然」と述べています。

したがって、但馬国府は、出石神社が古くから出石郡に鎮座することから、はじめ出石郡に置かれていたのではないかする見解が一部にありますが、上述の発見からも否定する意見が濃いようです。
『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記されています。別の場所から高田郷へ移されたと記しています。移転月日まで判明している資料的な裏付けがある希有な例だといわれています。高田郷とは祢布ヶ森を含む現在の旧日高町中心部なので、どこからか祢布ヶ森へ移されたことは間違いないようです。

総じて移転原因と見られるのは洪水のようです。都市計画に当たって広大な平野が選定されても、高水位対策の配慮が足りないとその機能が発揮できません。
役所跡と判断する理由

塀で囲まれた中に大きな建物群が規則性を持って配置されていたこと

庶民は使わない高級な食器である青磁や白磁、三彩などが見つかったこと

但馬各郡の役所で作成されたと思われる戸籍や税に関する木簡が見つかったことなどがあげられる。
水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多く、平安時代にはさらに総社気多神社が建てられた。国府という地名は、全国にあるが、国府跡の所在地が判明しているところは数少なく、その意味でも但馬国府・国分寺跡は貴重です。

国府の規模は大国以外は六町域をとるものが多くありました。但馬国は上国・近国とされていますが、貢租の額を詳しく分析してみると、但馬国は中国の実態しかない国だったようです。

2008年6月21日、中国最古の詩集「詩経(しきょう)」に触れた木簡が国内で初めて出土しました。同時に二百二点の木簡が見つかり、一つの遺跡では県内最多、全国でも二、三番目の数だそうで。810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されています。なかにはまだ若い(だろう?)役人が九九の計算を練習して間違えていたり、同じ文字を繰り返し練習したものなど、さまざまな内容のものがありました。

第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もありました。
但馬史説
国府村誌説
日置郷説
八丁路説
八丁路南説
国司館移設説

なかでも国府説では、明治中期に設定された国府村という行政体の名前から、国府はこの地にあったに違いないとするものです。国府には船所が設置されていたので、おそらくその河流沿いではあるというものです。国府の市場は「こうの市」と記載されています。国府は「こう」ともいいました。また近くに伊智神社が鎮座しており、伊智は市のことで、市場に関係する神社です。また、中世末期、「府中」と呼ばれていた域内には律令制に所縁ありそうな「堀」「土居」などの地名があります。

川岸遺跡(官衙跡)

兵庫県豊岡市日高町松岡
第1次但馬国府か?(昭和59年)
都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

深田遺跡(官衙跡)

兵庫県豊岡市水上字深田他(兵庫県指定重要有形文化財 平成6年度指定 兵庫県立考古博物館所蔵)は、周辺に国分僧寺、国分尼寺などがあり、延暦23年(804)に気多郡高田郷に移したと『日本書紀』に記されている但馬国府跡推定地の一つと考えられています。

祢布ヶ森遺跡

但馬国府は『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。遷された原因やどこから遷したのかについては記述がないため分からありませんが、移転後の所在地については、近年の発掘調査で博物館に隣接する祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡であると考えられるようになりました。

日置郷説は、かつて上郷は日置郷にあり、惣社の近くに国府があったというものです。ところが、鎌倉時代には惣社気多神社は、下郷に鎮座していることになっているのでつじつまが合いません。

八丁路説は、伊福(鶴岡)に「八丁」という小字があり、太平洋戦争末期まで鶴岡橋の下流左岸に渡し船がありました。八丁とは区間の長さを示す言葉ではなく八条の転化であり、条里地割りの呼称ではないかといいます。

また、『日本後記』は、上記の通り明瞭に第一次国府の移転を宣言してありますが、果たして国府全体が本当に移転したかです。「国衙」「国庁」あるいは「国府」とも言わず、「国治」を移すと表現していることは、やはりそれなりの意味があって、行政機関のあるものを移転したことを示すものではないだろうか、という考察です。いくつかの新庁舎が建設された類のものではないか、だからこそ、旧国府村でも、円山川沿いに、国府と関係するらしい小字名が伝承されてきたのではないかというものです。

前岡さんは個人的な考察として、国府地区から祢布ヶ森へ移転したのではなく、12世紀以降の遺物はほとんど出土しないので、祢布ヶ森から国府地区へ移転したのではないかと想像すると語る。
祢布ヶ森遺跡の位置と、これまでの発掘調査箇所 S=1:2,000 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

条里と条里(青線)の間は218m(2町)で左の条里以西からは遺跡が見つかっていない。
祢布ヶ森遺跡・但馬国分寺周辺の条里復元図 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

天平13年(741)造営開始から天平勝宝年間(750年代)に一応の完成をみた但馬国分寺は条里制に東西は一致しているものの、条里からはずれているが、延暦23年(804)に移転してきた但馬国府(祢布ヶ森)は、律令制による条里制の区画にすっぽりと合致しており、条里制が布かれた後に条里制を反映したものかということが想定されるということが興味深い。
気多郡の条里が施行されたのは、8世紀後半~末であろう。

国庁は、中央の正殿とその左右にある脇殿や、周りを囲む塀などで構成され、「コ」や「品」字の型に計画的に配置されている。規模の違いは国の等級が在る程度反映されているようです。40mほどのものから100mを超える大規模なものもある。但馬国府は正殿らしき遺構から脇殿まで約100m。

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因幡国府址をさぐる

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但馬国府国分寺が置かれた旧日高町(現豊岡市)の人間として全国の国府国分寺跡は関心があった。鳥取市内から南東に国府町がある。もとは法美郡(法味郡)で、合併前までは岩美郡国府町。近年鳥取市と合併し鳥取市国府町になったが、名の通り因幡国府国分寺が置かれた政治の中心地だった場所である。因幡一宮宇倍神社も近い。ここも我が日高町と豊岡市の関係に似ているので親近感が湧く。

  

鳥取市国府町中郷

スマホのナビを見ながら国道53号を市内から県庁前まで行き、そのまままっすぐ旧若狭街道を走る。県道291号を曲がらずさらに進んで県道31号から国府跡をめざすが、鳥取は道路網が整備されていて平野部は目印がなく、いくつも似たような道路があってカーブが多くまっすぐ目的地にたどり着くのが容易ではない。県立盲学校聾学校が見えてくると左にゆるく大きくカーブして結局291号に戻ってから宮ノ下小前を県道225へ右折すると新しい郵便局がある。しばらくすると因幡国庁跡への案内標識が見えた。

細い農道を進むと田んぼの中に整備され史跡公園になっている。全国的に国衙址はよくわからないケースが多いが、ここはすでに平安時代末期から鎌倉時代にかけての国衙跡中心部の遺跡が発掘されていたというからすごい。1978年(昭和53年)に国の史跡に指定された。

概要 『ウィキペディア(Wikipedia)』

因幡国は、鳥取県のほぼ東半分にあたる。本国庁跡は、鳥取市の東方約10キロメートルの所にあり、法美平野の中に残っている。そして、1977年(昭和52年)の発掘調査では、国庁の中心部にごく近いと推定される建物群の一画が発見されて、翌1978年(昭和53年)には史跡に指定されている。発掘調査で10軒余の掘立柱建物、2条の柵、2基の井戸、数本の道路と溝などが検出された。これらの遺構は、石積み遺構や溝に囲まれており、中心殿舎は、桁行5間×梁間4間で南北の両面に廂を持つ掘立柱建物と後方約7、8メートルに軸線を同じくして桁行5間×梁行2間の切妻型の掘立柱建物である。中心殿舎の南側約750メートルの所に桁行7間×梁間3間以上の東西棟の掘建柱建物(中世に下る)が国庁の南限を示していると考えられている。国庁を象徴する遺物の代表的なものは、石帯(せきたい)、硯、題簽、木簡、墨書土器、緑秞陶器などが挙げられる。

これら中心遺構の年代は、近くの溝から出土した「仁和2年假分」(886年、けぶん)の墨書を持つ題簽(だいせん)、木簡やその他の資料から、平安時代初期以降のものと考えられている。
因みに、因幡国庁は、大伴家持が国守として着任したことでも知られる[1]。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

現在でも周囲は田んぼが広がり住宅がなく開発されていないことが幸いだ。因幡国分寺跡は史跡公園から農道を進むと国分寺という地名が残っているが、時間がないので今回はパスした。後で調べると幹線道路から少し入った場所に塔跡と南門などが確認されたにとどまり、全容は不明である。また、国分尼寺跡は国分寺跡の西方にある法花寺集落の周辺と推定されるが、確認されていない。総社は、『時範記』によれば国府の近くにあったようだが、現存しないものとみられている。但馬総社は気多神社としてかつては現在の頼光寺の場所に広大な境内を誇っていたことがわかっている。

 

円山川も氾濫し改修工事がされて現在の場所を流れているがかつてはもっと西方だった。但馬国府は数回移転していることがわかっていて、後期は祢布に移されたとされるが、国府町は一級河川旧千代川の沖積平野に位置する。但馬の円山川の沖積平野であり大耕作地帯である国府平野によく似ている。当時は千代川以北の鳥取市街地も豊岡市街地も沼地であり、比較的安定していた場所を選定して国衙としたと想像できる。

因幡は古くは稲葉と書いた。現在でもこの旧岩美郡一帯は水田地帯が拡がる。

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丹後国分寺跡と丹後国府推定地

古代丹波

かつては丹波(たにわ)が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心は日本海に面した丹後半島地域だった。水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びとは海上ルートを利用して交易をしながら、安全な丘陵や谷あいに集団で暮らし始めた。丹後に日本海側最大の巨大な三大前方後円墳などが多く造られた背景は何だったのだろう。

記紀は、実際の初代天皇といわれている崇神天皇と皇子の垂仁天皇と四道将軍の派遣、丹後からの妃の婚姻関係や天日槍と但馬、出雲大社建設など日本海とのかかわりで占めるように記されている。

古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある。弥栄町丹波という地名が残る。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説もある。

和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれた。

丹波から丹後へ降格?

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられている。南部の桑田郡(亀岡)は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備を備前、備中、備後とするような分割)とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる
籠神社(与佐宮)が元伊勢といわれるように、元丹波なのだが、そういう国名は例がなく、朝廷からの位置関係で分割された場合は吉備のように前・中・後とつけられているのに習ったのだろう。
い。

丹後国府

国府は、和名類聚抄および拾芥抄では、加佐郡。現在の舞鶴市内と思われる。
ただし、「易林本」の節用集では、与謝郡とある。現在の宮津市府中と推定される。
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。
承平年間 (931年 – 938年) 、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。
拾芥抄(しゅうがいしょう)は、中世日本にて出された類書(百科事典)。
今日では鎌倉時代中期には原型が成立し、暦応年間に洞院公賢がそれを増補・校訂したと考えられている。
「節用集」(せつようしゅう)とは、室町時代に成立した国語辞書の名称で、当時の書き言葉を語頭のイロハ順に分け、天地・時節・草木・人倫など12前後の意義部門別に多少の注記をほどこして示すのが特徴である。江戸時代に流布した節用集の基となったのが、『節用集(易林本)』である。易林本とは西本願寺の平井休与易林(号は夢梅)が編集したので、多くの節用集の中で特異な存在で区別するために呼ばれる通称である。

  

地元の但馬国府が何かの事情で三度ほど同じ気多郡の近隣地に移転したことが分かっており、一説には出石(はかざ)もその前には国府ではなかったかという節もある。同様に丹後国府も天災等で加佐郡から与謝郡の現在地に移転したことは不思議はない。しかし、加佐郡からいまだに国府跡・国分寺跡と思われる遺跡が見つかっていないので分からないが、平安時代より前の奈良時代の律令制が制定されたころから、山陰道の丹後への支道が与謝郡加悦から籠神社へ通じていたようだし、加佐郡は七道から外れている。宮津市国分・府中という地名からも、記録的に和名類聚抄および拾芥抄が「易林本」の節用集よりも古いといえ、奈良時代に宮津に国府・国分寺が置かれていたのは間違いない。平安時代には国府が何かの事情で加佐郡に移った可能性があるが、以降の鎌倉時代中期からの記録では与謝郡となっているから、丹後の位置からも、丹後支道に入っていないし、都からの交通の利便からいっても、丹後の東端にあたる加佐郡(舞鶴)よりも、中央の与謝郡に国府・国分寺を置いた方が自然だ。


ふるさとミュージアム丹後(京都府立丹後郷土資料館)
京都府宮津市字国分小字天王山 611-1

丹後・丹波の歴史や文化の展示を行っている。1970年に創設された丹後で最も伝統ある資料館。考古展示・歴史展示・民俗展示に分かれている。

宮津湾に面して天橋立の西側に阿蘇海という内海が広がる絶好の景色を見下ろす丘に位置する。寺跡には、寺域全域、金堂、筆跡、礎石が残るのみであるが、しかし、国分寺はのち荒れるにまかせられ、創建当時の様子を知る資料は、軒瓦が二点残されているだけであり、礎石などものちの再建時に移動されており、寺域などほとんど分かっていないのが実情である。現在の史跡は、天平国分寺跡ではなく、鎌倉時代に再建された建武国分寺跡だそうです。


国宝「天橋立図」 雪舟等楊 室町時代(16世紀) 京都国立博物館所蔵

画面に作者を明示するような落款・印章の類はないものの、全体の筆法や構図、図中に書き込まれた地名の文字の書体などから、雪舟(1420~1506頃)筆とみなされている作品である。
図にはほぼ中央に天橋立の白砂青松と智恩寺が表され、その上方に阿蘇海をはさんで寺社の林立する府中の町並み、さらにその背後には巨大な山塊と成相寺の伽藍が配されている。一方、橋立の下方には宮津湾がひろがり、またそれを囲むように栗田(くんだ)半島の山並みがその下端になだらかに横たわっている。広大な空間を感じさせる、開放感たっぷりの構成である。
この図が実際の景観に基づいて描かれているのは確かだが、実景そのままを絵画化したというものではなく、成相寺の建つ山を極端に屹立(きつりつ)させてみたり、府中の町並みを横に引き伸ばすなどの変更が見て取れる。またかなり高い位置から橋立とその周辺を捉えているが、このように見える場所も実際は存在しない。近年の指摘によれば、こうした実景との違いは、雪舟が中国画の学習で培った山水画の画面構成法をもとにして実景部分を再構成したためであるという。とくにこの図の俯瞰(ふかん)的な構成法は、おそらく中国の景勝地を描いた西湖図などのそれを強く意識した結果なのであろう。
筆遣いはいたって荒々しく、まさに一気呵成に仕上げた感があるが、かえってそれが図に独特の躍動感、力強さをもたらしている。寸法の違う21枚もの小紙を不規則に貼り合わせた紙に描かれていることや、描き直しの跡が認められることなどからみて、本来は完成画(本絵)ではなく、下絵であった可能性が高い。もしかすると、すでにみた荒々しい筆さばきもそのあたりに原因があるのかもしれない。(京都国立博物館所蔵)


旧永島家住宅

旧永島家住宅は、京丹後市丹後町徳光にあった農家の母屋で、天保11年(1840)に建てられました。永島家は、江戸時代に宮津藩の大庄屋を務めました。
この建物は、丹後地方の民家の特徴である「平入り広間型三間取り」が「整型四間取り」へ変化した初期の建物です。
屋根が茅葺きで、室内の天井は鉄砲梁など大庄屋らしく整えられています。
(ふるさとミュージアム丹後)

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但馬国分寺 国分尼寺

但馬国分寺

豊岡市日高町国分寺

国分寺(こくぶんじ)は、天平13年(西暦741年)、聖武天皇の国分寺建立の詔(みことのり)を受けて、国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ)とともに建立を命じた寺院です。正式名称は

国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)です。

前者には護国の教典『金光明経』十部が置かれ、封五十戸・僧二十人が配されました。後者には滅罪の教典『法華経』十部が置かれ、水田十町・尼十人が配されたといわれています。まさに仏教の力によって国家の安泰と発展を実現することが祈願されたのです。

各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれました。多くの場合、国府(国庁)とともにその国の最大の建築物でした。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられました。

さらに天皇は二年後の天平十五年、『華厳経』の教主である廬舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像(大仏)を造立することを宣言する詔を発しました。天皇は自らが天下の富を注いでこの事業を完遂するという決意を述べるとともに、多くの人々が結縁のために、たとい「一枝の草、一把の土」でも協力してくれるよう、呼びかけました。大仏が大仏殿と共に一応完成したのは、天平勝宝元年(749)です。それは諸国の資源と民衆の労力と、そして主に渡来人の人々の技術を総動員して遂行された国家的大事業でした。『続日本紀』が記す「人民苦辛」の程度も相当なものだったと推測されます。四年、来日していたインド僧のボーディセーナ(菩提せん那)を導師として、盛大な大仏開眼の法会が行われました。参列した僧侶は一万人に及び、諸外国の舞楽が奉納されたといわれます。それは文字通り国際的な大イベントでした。


自分のサイト「たじまる」のため撮影してきた。 伊能忠敬が測量した時には7個の礎石が確認できたと記してありますが、現在は1個のみが残っています。

但馬国分尼寺

但馬国分尼寺 豊岡市日高町水上、山本

律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れました。ただし、中世以後もかなりの数の国分寺は、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、あるいは後世において再興されるなどして、現在まで維持しているところもあるそうです。また、かつての国分寺近くの寺で国分寺の遺品を保存していることもあります。国分尼寺も同様ですが、寺院が国家的事業から国司、守護など実質統治に代わると、かつての国分寺は復興を受けなかったところが多くなりました。ここ但馬でも国司が中心となって建設が進められました。全国でも伽藍が残っている数少ない国分寺跡として、注目を集めています。

塔跡(画像:但馬国府国分寺館)  昭和48年(1973年)から始まった発掘調査の結果、七重塔、金堂、門、回廊などの建物が見つかり、お寺の範囲がおよそ160m四方もあったことがわかりました。また、全国の国分寺ではじめて、「木簡」(木の板に書かれた文書)が見つかるなど、貴重な発見が相次いでいます。

礎石

現在も日高東中学校の前に二個の礎石が残っています。150年位前には、26個の礎石が一定間隔を置いて残っていたといいます。(国分寺から約1km弱北へ。)

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