山名氏と九日市城・正法寺城

宿南保氏『但馬の中世史』「山名氏にとって九日市ここのかいち城とは」の項で、九日市の居館を九日市城と呼んでいる。豊岡盆地の中心部の近い場所だけでも城といわれるものは正法寺城・木崎きのさき(城崎、のち豊岡)城・妙楽寺城・九日市城がある。

正法寺城は山王山で、今は日吉神社となっている。文献に初めて登場するのは、『伊達文書』で、延元元年(1366)六月、北朝方の伊達真信らが南朝方のひとつの拠点「木崎性法寺」を攻撃している。この性法寺は正法寺のことであろうとされる。

また『蔭涼軒日録』によると、長享二年(1489)九月、「但馬のこと、一国ことごとく垣屋に依る」とありながら、「垣屋衆およそ三千員ばかりあり、総衆は又次郎(山名俊豊)をもって主となす、垣屋孫四郎(続成つぐなり)いまだ定まらず」、また「朝来郡(太田垣)衆は又四郎殿を主と為すを欲する也。垣屋いまだこれに与せず」とある。
播磨攻めに失敗した山名政豊が居住していた所が「正法寺」であり、木崎城から18町余り隔たるところに所在するという(木崎城から18町というが、実際は日吉神社から神武山山頂までは約600m。1町は109.09091メートルなので×18町は1,963mだから合わないが、神武山で間違ってはいないだろう)。

寛永年間(1624~44)に著されたと思われる『豊岡細見抄』には、、山王権現宮(日吉神社)について、「今、領主京極家の産宮とす。往古はこの山真言宗性法寺という小寺あり。天正年間、社領没収の後、寺坊荒廃して退転せり。寛文年中、京極家丹後田辺(今の西舞鶴)より御入国の後、この寺跡の鎮守を尊敬ありて(中略)、今豊岡町の本居神とす。」と記されている。

拙者は、山王権現宮を祀ったとされる京極氏が治めていた丹後の宮津にも日吉山王宮があり、京極氏が日吉神社を信奉していたのは間違いないと思うし、天正年間に正法寺は消滅したので、寺跡のあとに日吉神社を建立し京極氏も守護神として大切に祀ったのだが、日本は長い間神仏習合であったから、それ以前の山名氏の頃からすでに正法寺の境内に、現在より小規模で山王権現宮も祀られていたとしても考えられなくもないと思っている。現在地名として残っている正法寺区はこの神武山にあった正法寺の寺領であろう。

但馬山名氏は、本州の6分の1を領する六分一殿と称された。その中心は山名宗全であり、出石であった。その権力はのちに京都を焼き尽くす応仁の乱の西方大将になってしまう。

因幡山名氏が鳥取城へ移るまでの本城があった鳥取市布施の布勢天神山城にも日吉神社(布勢の山王さん)があり、時氏が近江(日枝神社)から勧請したとされる。政豊は時氏の未子で但馬・伯耆守護時義から4代あと、持豊(宗全)の孫であるが、山名氏も守護である各国の城に日吉神社(山王権現)を祀っていたのではないだろうか。京極氏が丹後から豊岡へ入国するよりも以前から正法寺と共に祀られていたのではないかと思うし、今はJR山陰線で分断されているが線路以西も正法寺であり、かつてはこの寺領は広大であったように思われる。

京極氏入国以前の山名氏の頃から正法寺に現在より小規模で山王権現宮も祀られていたのではないかと思っていたら、宿南保氏『但馬の中世史』にこのように記されている。

「木崎性法寺」は、現在の日吉神社鎮座の丘である。同神社はもと山王権現と称され、その地にあった正法寺の寺域内鎮守であった。承応年中(1652~55)に同寺が退転したことにより、跡地全域が社地となったものである。

(中略)

標高40m余のこの丘には、南北朝期の特色を示す尾根郭跡が残っている。それは神社本殿の裏側、豊岡駅方向に面する斜面である。(中略)

当時から正法寺伽藍は城郭を兼ねていたものであったことがわかろう。この位置は(奈佐方面から)九日市へ通じる道を抑えるに重要な場所である。

天正8年(1580)、豊臣秀吉の家臣、宮部継潤が山名氏討伐後に城主として入城し、木崎(城崎きのさき)(城)を豊岡(城)と改めた。木崎城はのちの豊岡城で神武山にあった。しかし神武山と呼ばれるようになったのはまだ新しく、明治五年(1873)に神武天皇遥拝所が設置されたことに由来する。明治五年までは神武山は豊岡と呼ばれていたのか、天正8年以降は豊岡城となり、豊岡は町名であると同時に城山も豊岡なのか分からないが、城崎から豊岡という町名となり、その城は豊岡城となったのである。木崎という地名は往古も存在しない。古語は黄沼前キノサキと書いたが城崎きのさきとは読めないので城崎と書かず、間違ってか故意か木崎とも書いたのだろう。

『豊岡市史』によると、山名氏は「戦時には此隅山このすみやま城を本城としつつ、平時には九日市の居館を守護の在所と定めて政務の中心とした」としている。九日市の詰城は妙楽寺城なのか、木崎城なのか、三開山城なのか、あるいは此隅山城なのか?また、正法寺城は単独の城だったのか?

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭形成Ⅰ』には、こう記されている。
この城崎庄域に木崎城がいつごろ築城されたのかは明らかではない。「木崎城」の文献的初見は、長享二年(1489)九月の『蔭涼軒日録』に、但馬守護山名政豊が播磨攻めに失敗して帰但した際、あくまで播磨進攻を主張する垣屋氏を筆頭とする26人の国人らが政豊を廃し、備後守俊豊を擁立しようとして、政豊・田公たぎみ肥後守の立てこもる木崎城を包囲している。また「木崎城は田公新左衛門が築城した」とも記されている。木崎城の所在については不明とされてきたが、『豊岡市史・上巻』では「神武山から正法寺のあった山王山一帯」に所在したといい、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』では豊岡城と木崎城を別扱いしている。

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭形成Ⅰ』でも、山王山の正法寺城跡と神武山の豊岡(木崎)城跡は別々に記されている。今では山王山と神武山の間に道が通り分断されているが、ゆるい坂が上下しており、両山は同じ丘陵地の西と東にある同じ城域だったのではないか?と考えられるのである。

妙楽寺城は標高70mの見手山丘陵で妙楽寺から但馬文教府にかけて、東西約400m、南北約600mの大規模な城郭であった。

さて、最後の九日市城は、城というよりは山名氏の在所で、守護所と考えられている。所在地は不明確であるが、九日市上ノ町に「御屋敷」「丁崎」という字名がある。円山川左岸の堤防上を通る国道312号線から豊岡駅へ通じる交差点から九日市中ノ町にかかるあたりで、「御屋敷」は山名時義の居所と伝え、「丁崎」は「庁先」のことで但馬守護が事務を執った居館跡に関係する場所ではないかとされている。

しかし、宿南保氏は『但馬の中世史』で、「筆者は、あくまで山名氏の本拠地は此隅山城であったと考えている。(中略)『大乗院寺社雑事記』に、政豊の動静について、「九日市ト云在所ニ在之」と記している。「在所」とは城下町に対して村部を指す対比語である。この表現から当時本城ではないところに居住していたことを表現していると解釈しているのである。

山名持豊(宗全)は、室町幕府の四職のひとりとしてほとんどが京都に居住していたので但馬守護代に垣屋氏、太田垣氏らが任ぜられているため、実際に木崎城の城主は垣屋氏であった。木崎(豊岡)城と旧円山川に挟まれた街道を南北に宵田町・京町という。京町いうのは何であろう?京極氏から京町と呼ばれるようになったのだろうが、ひょっとして四職として幕府の侍所頭人を任じられた持豊(宗全)は幕府のある京都に住んでいたから、京殿などと呼ばれていたのではなかろうか?!但馬に引責後、京から家来や文化を連れて京風にしたからなのか?宵田町は山名家の筆頭家老、遠江入道(熙忠ひろただ)(豊岡市の「垣屋系図」では隆国)の次男で宵田城主となった垣屋越中守熙知ひろともが但馬守護代として実質的に但馬を掌握していたのだろう。宵田殿の居館があったことによるものだろうし、応仁の乱以降、山名氏は出石へ追いやられ(権威はあった)、但馬の中央部である木崎城(豊岡城)周辺を制圧して但馬の戦国大名となったのである。

これまでの資料からは、明徳二年の山梨の内紛において時熈らが妙楽寺城に立て籠もっている。また長享二年には政豊が木崎城に立て籠もっていることを考えると、木崎城もその候補となろう。また九日市の対岸であるが、かつて南北朝期に立て籠もった三開山城も詰城かもしれない。出石の此隅山城は、垣屋氏が山名氏との対立で楽々前城から垣屋氏起源の鶴ヶ峰城へ移したように、但馬山名氏の起源の本城であり、出石神社の祭祀権を掌握して地域支配を図るためには不可欠の城であろう。

とにかく、祇園祭が台風の影響で心配されたが、小雨の中無事に巡行が行われた。かつて祇園祭が最初に中止となったのは応仁の乱だというからすごい話であるが、ふと西の総大将で西陣の地名ともなった山名宗全について思い出してみた。

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鶴ヶ峰城と殿区とは


国道482号線久田谷付近と鶴ヶ峰(三方富士)

子供の頃から何か周りと違い神秘性を感じていた三角おにぎりみたいな山

国道482号線を神鍋かんなべ方面へ久田谷くただに付近まで進むと、前方にきれいな三角形の山がぽっかりと現れてくる。通称「三方富士みかたふじ」と呼ばれるが、これが鶴ヶ峰つるがみねである。標高は405m。周囲のなだらかな山々とは別に、美しい山だが傾斜がきつそうである。

山名四天王のひとりで気多郡を治めていた垣屋氏の主君、山名時氏やまなときうじが但馬に攻め入り、進美寺山城とともに南党勢力の拠点となっていた三開山城(豊岡市)を陥れ、この城を但馬の居所としたいわれている。三開山も但馬富士ともいわれるよく目立つ三角形の美しい山だ。ふと気づくのだが、山名氏が三開山を拠点とした時、垣屋氏は気多郡代に任じられ三方庄に入った際に、その三開山によく似た鶴ヶ峰(三方富士)を居所にしたいと思ったのではなかろうかと想像するのである。

垣屋氏の聖地鶴ヶ峰城

  
南から眺める鶴ヶ峰 左から鶴ヶ峰城Ⅰ(西城)、Ⅱ(東城)、亀ヶ崎城(栗山城)

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭集成Ⅱ』によれば、

永正9年(1512)、山名致豊いたとよは弟誠豊まさとよに守護職を譲るが、同じ年、楽々前城主垣屋続成つぐなりが鶴ヶ峰城を築き本拠にしたという(因幡垣屋系図)。

現在の所在地は豊岡市日高町観音寺字城山となっていて、同じ尾根にあり西城と東城に別れる。西城は観音寺集落西側、標高405mの山頂に位置し、集落との標高差は約300m。また東城は観音寺集落北側、標高301mの山頂に位置し、集落との標高差は約200mである。文化財観音寺仁王門や馬止神社の裏手である。

楽々前城ささのくまじょうは、神鍋までの西気谷にしのげだにや気多谷けただにが見渡せる三方平野の東、円山川支流の稲葉川右岸、佐田から道場にかけてそびえていた垣屋氏の本城である。城域は広大で、東西約250m、南北約1000mもある。『因幡垣屋系図』では、垣屋隆国が応永年間(1394~1427)で、その子満成が跡を継いだというが、史料上は隆国も満成も確認できないが、垣屋氏の楽前庄入部は、但馬の南北朝争乱が事実上集結した貞治2年(1363)以降であろう。

他に詳しく述べているので簡単に垣屋氏について触れておくと、垣屋氏(重教)は関東から山名時氏に従って但馬に来往し、城崎郡奈佐の亀ヶ崎城主となったという(『因幡垣屋系図』)。しかし史料上確認できる最初は、明徳の乱(1391)の時、京都二条大宮の合戦で山名時煕の危急を救出して討ち死にした垣屋弾正(頼忠)である(『明徳記』)。

鶴ヶ峰城は楽々前城に比べれば細長く小さな山城である。小曲輪を飛び飛びに配置するような縄張りは南北朝期の特徴であり、堀切・竪堀は戦国期特有の普請である。永正9年(1512)に築城したといわれるが、それ以前の南北朝~室町期に城砦じょうさい化していたと考えられ、南北朝期に観音寺が城砦としていた可能性がある。続成は既にあった古い城を利用したのではないだろうか。

なお、観音寺区の西端には、字殿屋敷があり、居館跡と伝承されている。しかし石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治期のもので、続成の居館跡とは考えにくい。また城の北側山麓には「殿」という集落があり、家臣団屋敷の存在が想定されているが、定かなことは不明である
と記されている。

まず、かんたんに垣屋氏について触れておきたい。

垣屋氏(重教)は関東から山名時氏に従って但馬に来往し、城崎郡奈佐の亀ヶ崎城主となったという『因幡垣屋系図』。元は土屋姓であったが、気多郡代になり三方庄に本拠を構えるようになって垣屋(または柿屋・垣谷)と名乗ったようである。土屋一族は垣屋氏だけではなく山名氏とともに50数名が従って但馬に来往してきたようである。

『因幡垣屋系図』の記述では、城崎郡奈佐の亀ヶ崎城主となったとある。福田から今は但馬卸売市場があるカーブの西側である。ここにも亀ヶ崎城跡とされる遺構があるが、これは垣屋氏が但馬で最初に居た城というに合っているかは疑問に思っていた。何故なら、最初に城崎郡のしかも気多郡から遠い城崎郡内の奈佐庄(郷)と大浜庄との境に在したとすると、気多郡代垣屋氏の三方・楽々前と城崎郡奈佐が繋がらないからである。しかも、すでに奈佐庄(郷)を治めていたのは、但馬国人の但馬日下部氏の一族で朝倉氏、八木氏の子孫が、但馬国城崎郡奈佐谷を本貫とし奈佐氏を称しており、奈佐氏は戦国期や江戸期まで代々続いている。細長い狭い谷であるのに、同じ奈佐庄内に国人ではない垣屋氏が城を持つなどまずあり得ないであろう。

気多郡の三方庄(今の豊岡市日高町三方地区)は、垣屋氏が但馬に来て気多郡代として最初に与えられた所領である。いわば垣屋氏発祥の地であるから、最初に城を築いた場所は少なくとも気多郡内でないとおかしいのである。

山名氏家紋

垣屋氏の台頭

3代将軍に就任した足利義満が有力守護大名の弱体化を図っての山名氏の内紛である明徳の乱(1392)で、十一ヶ国を有し六分一殿と称された山名氏の所領は分解し、山名氏は但馬たじま・因幡いなば・伯耆ほうきの三ヵ国を残すのみとなる。この乱を機に、山名時熙ときひろの分国が但馬一国となったということは、かえって従来以上に緊密に但馬を掌握することになった。山名宗家は時熙ときひろの系に固定し、笹葉の下に「○二」を配した家紋を、宗家を誇示する標識とした。この明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清うじきよ・山名満幸みつゆきに属したのに対し、山名時熙ときひろ方に属したのは垣屋氏だけだったことが垣屋氏が頭角をなした発端である。山名氏家中の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていた。山名氏の建て直しを急務とする時熈にすれば、優秀な人材を求める気持は強かった。さらに、氏清方に味方した土屋氏、長氏、奈佐氏らは勢力を失い、山名氏家中に大きな逆転現象が起こった。そのような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏であった。
その結果、明徳の乱を契機として垣屋氏は躍進を遂げることになった。 このとき、垣屋家は10万石以上を手にしたとされており、これを垣屋氏の最盛期であると判定する。

明徳三(1393)年正月に評議があり、山名時熙は但馬国を賜って出石有子山(子有山とも書く)に住み、山名時熈ときひろは垣屋弾正時忠の忠節に感銘し、その子の幸福丸(のち隆国)を気多けた郡代(現在の浅倉・赤崎を除く豊岡市日高町全域・佐野、円山川右岸中筋地区、竹野町轟以南)に任じ亀ヶ崎城を同時期に築いた。

明徳の乱以来着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなる。幸福丸は垣屋播磨守隆国と名を改め、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前城ささのくまじょうを築き、自らはここに移り住み、平野部に近い宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主に置いた。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てた。隆国の子である越前守熙続ひろつぐ(長男満成)は三方地区楽々前に、 越中守熙知(次男国重)は宵田城に、駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡竹野轟城を本拠とするようになる。

その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられた。こうして、垣屋氏・大田垣氏が山名氏の家中に重きをなし、さらに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されるようになるのである。

主君山名氏との対立

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播磨の赤松氏と但馬の山名氏との坂本の戦いで多くの一族を失った垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じていた。山名氏との対立、抗争は、垣屋氏にとってその存続を揺るがす脅威であり、 ひとつ誤れば滅亡にすらつながりかねないものであった。 明応8年(1499)、山名政豊が死去。致豊が家督を継承したが、すでに守護としての実力もなく、垣屋続成は山名氏をしのぐ勢力を築いていた。

明応3年(1494)に垣屋氏と抗争を起こして以来、山名政豊は九日市城を引き払い、出石の此隅山城このすみやまじょうに居所を移していたようだ。明応4年(1495)の和談成立以後も、山名氏と垣屋氏との対立は、折にふれて火を吹いていたようである。

永正元年(1505)、山名致豊は、垣屋続成にもうひとつの居城此隅山を攻められる。翌年、将軍足利義澄は致豊と垣屋氏との和与を勧告、永正五年、山名氏と垣屋氏の間に和議が成立した。この間の混乱によって、山名氏は衰退、戦国大名への道を閉ざすことになった。以後、但馬は山名四天王と呼ばれた垣屋光成(気多郡・美含郡)・太田垣輝延(朝来郡)・八木豊信(養父郡)・田結庄是義(城崎郡)等四頭が割拠し、但馬を四分割した。

なぜ楽々前城から鶴ヶ峰城へ移った(戻った)のか?

鶴ヶ峰は、稲葉いなんば川支流観音寺かんのんじ川と阿瀬あせ川に挟まれ東西に長く伸びる丘陵にあった。のちの垣屋氏の本城は、ここから約4.5km東にある日高町佐田の楽々前城ささのくまじょうだが、それより奥にあるにも関わらず鶴ヶ峰城は、楽々前城よりあとに再度改築されている。普通、城と本拠は、高い山城から城下町や田畑が形成しやすく、生活・交通の便利な平野部に移っていくのが一般的なのに、永正9年(1512)、楽々前城からさらに谷深い鶴ヶ峰の高い場所をあえて再利用して本拠を移す必要があったか?その謎にせまるにはその頃に何が起きたのかである。

垣屋氏と阿瀬鉱山

垣屋氏所領の気多郡三方荘阿瀬谷から金や銀が発見された。その時期については、異説があって一定しない。垣屋氏が本拠としたのは偶然なのか、鉱山があったから本拠としたのかは分からないが、永禄五年(1562)、阿瀬谷のクワザコから銀が産出したといい、金の発見は文禄四年(1595)、川底に光る砂金の輝きを見つけたのが機となったとも伝えている。しかし、それより約二百年前の応永五年(1398)に既に発見されていたとも言われている。この応永五年説が本当だとすると、これは垣屋にとって重大で幸運な事件であった。この地域を領有することになり、幸運にも金銀山を支配下に治めたということで、計り知れない財源を提供することとなった。

のちに、但馬守護の山名氏や家臣太田垣氏が、生野銀山の経営に手を染めるのは、記録では、天文十一年(1542)とされるから、それに先立つ130年前に、垣屋は銀山経営に乗り出していたことになるのである。何はともあれこの鉱山資源を背景にして、垣屋は山名の最高家臣の地位を得るし、金山の地に、布金山隆国寺を移建することができた。天文十一年(1542)に朝来郡代太田垣輝延の生野銀山が、天正元年(1573)に養父郡代八木豊信所領の中瀬金山のことが記録されているが、金山の発展に目をつけたのが垣屋弾正満成だんじょうみつしげだと記録の通りに考えると、百年余りの差がある。金がぼつぼつ出ていたので、ここに寺(布金山隆国寺)を建立したことも考えられる。この時代には、将軍をはじめ大名、小名がそれぞれ寺院を建てているが、時代の風潮であったと考えられる。

隆国寺りゅうこくじ

三男駿河守豊茂(国時)が気多郡と背中合わせの美含郡椒荘みくみぐんはじかみのしょうに竹野とどろき城を本拠とするようになったのも、これは神鍋山を背に北部但馬に対する防衛拠点であると同時に、椒に段金山鉱山、金原鉱山が見つかったことにも関係あるのではないだろうかと容易に想像することができる。

殿屋敷と殿区

鶴ヶ峰を挟んで南の山麓にある観音寺区と反対側の北麓、阿瀬川沿いの谷に殿区がある。上記西尾孝昌氏の著書に、「観音寺区の西端には、字殿屋敷があり、居館跡と伝承されている。しかし石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治期のもので、続成の居館跡とは考えにくい。また城の北側山麓には「殿」という集落があり、家臣団屋敷の存在が想定されているが、定かなことは不明である。」

殿の殿屋敷は不明であるが、家臣団屋敷だと伝承さてれいるとある。しかし、城の麓によく残る殿屋敷という小字の殿とは城主をさすものであると考えるのが妥当だから、家臣団の屋敷を殿屋敷とは呼ばないだろう。上述の通り観音寺の字殿屋敷は江戸から明治期のものであり、観音寺側ではまずないのは、阿瀬鉱山に通じる阿瀬川は鶴ヶ峰城をはさんで観音寺の反対側であるからだ。阿瀬鉱山と鶴ヶ峰城を死守したいがために阿瀬川沿いの殿に屋敷を移したと考えるのが自然だと思うのである。

『兵庫県の小字辞典』に殿と西隣りの羽尻にも小字に「越前こしまえ」がある。ふりがなは「こしまえ」だが、「えちぜん」と読めば、総領である楽々前城主は、代々垣屋越前守家といわれていたことに結びつく。殿と羽尻にまたがる広大な殿屋敷があったことを裏付けるものではないかと思うのである。また、小字に「東門とうもん」「城山しろやま」とあり、これは鶴ヶ峰城のことだろう。

鶴ヶ峰は地勢上最適な要塞

阿瀬鉱山防衛とは別に、もうひとつ考えられるのは、楽々前城よりも標高が高く、山名氏の本城(出石・此隅山城)をはじめ神鍋方面まで四方が見渡せるからである。

宿南保氏は、著書『但馬の中世史』の中で、山名時氏に従って但馬に来た垣屋氏の祖継遠が最初に落ち着いたところは、豊岡市日高町栗山にある城跡と推定している。ここは三方富士と称されている鶴ヶ峰から、東方向に順に低くなっている3つの峰の東端の峰である。垣屋氏の祖が最初に築城したのは、この連峰の第三の峰であったと筆者は推定している。この山並みを三方盆地の野に立って仰ぎ見るとき、翼を休めてそびえる鶴ヶ峰を背景に、尾根筋の端のところにこんもりと第三の峰が立ち、その穏やかな山容は、第一の峰と美しい調和を見せている。この佇まいから、鶴ヶ峰に対する亀ヶ崎の名称が思いつかれ、それが城の名前とされたのであろう。

垣屋播磨守隆国、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前城ささのくまじょうを築き、自らはここに移り住み、平野部に近い宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主に置いた。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てた。隆国の子である越前守熙続ひろつぐ(長男満成)は三方地区楽々前に、 越中守熙知(次男国重)は宵田城に、駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡竹野轟城を本拠とするようになる。

垣屋氏が主家の山名氏と存亡を賭けた戦いを交えるようになって、惣領家の越前守家は再び故地に還り、「永正九年(1512)亀ヶ崎城ニ移ル」(『因幡垣屋系図』)
亀ヶ崎城に移る(『因幡垣屋系図』)とするのも、鶴ヶ峰城を築城するとあるのも、同じ永正九年(1512)なのであり、第一の峰・第三の峰・第三の峰を同じ鶴ヶ峰城とみなすのか、または亀ヶ崎城は別と見るかによって違う呼び名で記したと考えればよいのだと思う。楽々前城からさらに谷深い鶴ヶ峰の高い場所をあえて再利用して本拠を移すと、

宿南保氏は著書で、

『因幡垣屋系図』によると、越前守続成の代に垣屋惣領家は新しく構築した鶴ヶ峰城に移り、そのあとの楽々前城(日高町佐田)には宵田城主が移ったと記されている。(中略)鶴ヶ峰城Ⅰの山麓の観音寺村域内に城主館を構築した。ここは現在「殿屋敷」という小字名となっている。鶴ヶ峰Ⅱに登城する武士たちの居館は、阿瀬渓谷側にも構築されたであろう。集落「殿村」はその名残と考えられる。

とあるが、上記の通り、(観音寺殿屋敷の)石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治期のもので、続成の居館跡とは考えにくい。
垣屋氏にとって阿瀬金銀山は絶対に死守したいはずである。阿瀬川沿いにある殿こそ、城主の臨戦体制上の殿屋敷か、阿瀬金銀山を検分する際の作業事務所的な目的も兼ねて屋敷があったのではないかと思う。

神社(村社)でみる殿と観音寺の村成立の特性

殿と観音寺のそれぞれの村の成立と神社で、殿屋敷をさらに証拠づけると、
観音寺の馬止まどめ神社(兵庫県豊岡市日高町観音寺700)は気多郡でも古く、平安期の『気多郡神社神名帳』のひとつに記載されている。元は馬工ウマタクミ神社といったが、いつしか誤って馬止マドメ神社と呼ばれるようになった。
祭神  名草彦命ナクサヒコノミコト

配祀神 市杵島命イチキシマノミコト 速須佐之男命ハヤスサノオノミコト 奇稲田姫命クシイナダヒメノミコト
『国司文書 但馬故事記』

馬工連刀伎雄ウマタクミノムラジトキオの祖・平群木免宿禰命ヘグリノツクノスクネ
人皇四十代天武天皇四年(675)二月乙亥朔キノトイサク
但馬国等の十二国に勅して曰わく、 「所部クニノウチ百姓オホムタカラの能く歌う男女およびヒキ伎人ワザトを撰みて貢上タテマツれ」と。 (中略)
十二年夏四月 ミコトノリして、文武の官に教え、軍事を習い努めしめ、兵馬の器械を具え、馬有る者を以て歩卒と為し、以て時に検閲す。 馬工連刀伎雄ウマタクミノムラジトキオを以て、但馬国の兵官ツワモノノツカサと為し、操馬の法を教えしむ。その地を名づけて、馬方原ウマカタハラ(のち三方郷は馬方郷の転訛)と云う。 十三年三月、馬方連刀伎雄は、その祖、平群木菟宿禰ヘグリノツクノスクネ命を馬方原に祀り、馬工ウマタクミ神社と称えまつる。

観音寺は古くは馬工村といい、村社馬止神社は馬工神社の誤記。南北朝期に観音寺が建立され観音寺村となり門前(町)となる。まったく中世の城下町として発展したのではないからである。

これに対して殿は、

志伎シキ神社 兵庫県豊岡市日高町殿410
主祭神 誉田別命ホンダワケノミコト(=応神天皇 別名八幡神)
配祀神 志伎山祇命シキヤマツミノミコト 速素盞鳴命ハヤスサノオノミコト
誉田別命は八幡神のことであり、武人が好んで祀っていた祭神である。志伎という社号の「しき」は、士気のことで、八幡神を祀り、家来の士気を鼓舞したと想像するのである。中世の城は例外なく、日吉(日枝・山王)神社や八幡神社を祀るものである。配祀神の志伎山祇命は大山祇神オオヤマツミノカミのことで、すなわち鶴ヶ峰山を祀る山の神で、志伎は不明。速素盞鳴命ハヤスサノオノミコトはスサノオの別名で、武神の代表として多く祀られている。

まとめ

最後にまとめるとしよう。

鶴ヶ峰城は第一の峰が鶴ヶ峰城Ⅰ(西城)、第二の峰が〃Ⅱ(東城)、第三の峰が亀ヶ崎(栗山)城。

垣屋氏の殿屋敷は栗山城のことで、亀ヶ崎城(栗山城)を下屋敷とすれば、殿(村)は、上屋敷的存在ではないだろうか。阿瀬鉱山にも鶴ヶ峰城にも近い場所に殿屋敷を置き、便宜上利用していたのではないだろうか。出石城と有子山城の位置関係も同様である。山頂の城は平時には使わない。

また、田ノ口には清瀧神社があり、羽尻には萬場神社がある。どちらも今は三方地区なので万場や清滝という西気・清滝地区の区名と同じ神社が村社となっていることに不思議に思ったが、古くは今の栃本へ抜ける西の下街道は田ノ口から清瀧神社を通り栃本へ抜け、羽尻から万場へ抜ける阿瀬川沿いは、垣屋氏にとって阿瀬金銀山とともに経済的かつ軍事的に重要なルートだったのである。主君山名氏や田結庄氏との対立が激しくなり、戦時体制上、楽々前城から西気谷から気多谷が見渡せる鶴ヶ峰城へ移る必要があったのではないだろうか。

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10年ぶりに宵田城跡を登る

  

豊岡市日高町岩中区の宵田城跡へ約10年ぶりに登った。FBに30年ぶりと書いたけど、10年ほど前に一人で旧道から登ったことを思い出した。新しい広い道からははじめて。
毎年、地元消防団で竹だんじりを製作していた頃は、この城山の麓まで真竹を採りに登っていたので、よく知っているし、城跡では最も回数が多い。しかし60歳近くなって広い道なのに息切れがして老化を痛感した。神社の長い石段には慣れているものの、城山としては156mと低いのに、なかなか着かない。

宵田城中枢部縄張図 西尾孝昌氏

講師は但馬では城郭研究の第一人者である西尾孝昌先生。指導を受けながらメジャーで本丸、二の丸や各郭の実寸を測り方眼紙にスケッチする。

宵田城については、すでに書いているので概要のみ記すと、中世から戦国時代前記まで山名四天王といわれた重臣の一人で気多郡西気谷(現在の豊岡市日高町と竹野町南部)と阿瀬金銀山、竹野鉱山を押さえていた垣屋氏の居城のひとつ。道場区と佐田区の西南にあった楽々前城(ささのくまじょう)を本拠として垣屋隆国の長男、垣屋熙続(熙忠長男:越前守)が楽々前城、次男の垣屋熙知(次男:越中守)がここ宵田城、三男・垣屋豊茂(熙忠三男:駿河守)が竹野の轟城主となった。兄弟三人は、越前守家が楽々前城、越中守家が宵田城、駿河守家が轟城と、それぞれ城を分かち持ち垣屋氏の勢力はおおいに伸張したのある。

山名四天王のうち、竹田城の太田垣氏は生野銀山と朝来郡を配下に置き、中瀬金山と八木城を築き養父郡を配下に置いた八木氏は、丹波道主命の末裔で但馬国造日下部一族の流れをくむ但馬の国人衆、田結庄(たいのしょう)氏は桓武天皇の皇子葛原親王の後裔で、七代後の越中次郎兵衛盛継は源平合戦に敗れ、城崎郡気比に隠れ住み、その子の盛長が一命をとりとめて田結庄に住み田井庄氏を名乗ったという。鶴ケ城(豊岡市山本)と城崎郡を配下に置いていた。垣屋氏はこの3人と異なリ但馬国人ではなく、山名氏の重臣の一人として群馬県山名庄から起こった山名氏に従って但馬へ移り住んだ。もとは土屋姓で、相模国大住郡土屋邑を本貫地とする関東の武門の名門の一つ土屋党で、垣屋氏は土屋氏分流のひとつである。

いまNHK大河「軍師官兵衛」では秀吉の但馬・因幡侵攻で竹田城が登場するかもと期待してみていたら、織田軍羽柴秀吉の備中松山城水攻めに重点が置かれて、羽柴秀長率いる豊臣軍の竹田城を始め但馬や鳥取城攻めまで、ものの見事にカットされてしまっていたが、宵田城のすぐ南の浅倉の岩山城では毛利方についた山名一門の激烈な防御戦により秀長軍は気多郡からの侵攻は諦め、出石へルートを変更したのである。

第5回 姫路城の作事 

姫路城の作事

■作事(さくじ)とは

天守や櫓、門、御殿など建築工事及びその工事に付帯的な作業

・天守・櫓を上げる
・城門をつくる
・土塀を掛ける
・御殿を建てる
・土蔵、番所、馬屋を立てる

1.姫路城天守

・連立式天守
・白漆喰総塗籠
・後期望楼型天守
(大天守各層の理想的な逓減率)
・破風(はふ)と懸魚(げぎょ)の巧みな配合
・大通柱工法(大天守)

1)窓

■格子窓
・八角形の格子 漆喰塗
・土戸 外側漆喰塗・引き戸
・明障子・排水管(鉄製)
・柱を挟んで半間ごと

■華頭窓
・黒漆塗り、金属金具(乾・西小天守)

■鉄格子窓

■出格子窓

八角形の格子

2.大天守内部

■東大柱:樅の一本材 一部根継(檜)

■西大柱:3階床部分で2本継

・檜材(上部)・・・笠形神社(樹齢650年)
・檜材(下部)・・・木曽国有林(樹齢765年)


江戸時代の西大柱

3.小天守

■東小天守

3重 地上2階、地下1階
簡素な造り

■乾小天守

3重 地上4階、地下1階

■西小天守

3重 地上3階、地下2階

4.渡櫓と台所

■イ・ロ・ハの渡櫓 地上2階・地下1階
■ニの渡櫓 2重櫓門・水の御門
■渡櫓地下に籠城のための物資(塩・米)貯蔵
■台所と大天守地階、ロの渡櫓1階に出入口

5.櫓

■櫓とは

矢倉・矢蔵 弓矢を収納する倉庫、武器庫
矢の坐(くら) 弓矢を射る場所、陣地

■櫓の名称

・多聞櫓、渡櫓、付櫓
・平櫓、二重櫓、三重櫓
・鉄砲櫓、弓櫓、太鼓櫓、月見櫓など

■姫路城の櫓

27棟(重要文化財)
全国109棟現存の内、27棟

・櫓座敷(化粧櫓・帯の櫓)や武者櫓(帯郭櫓)を備える櫓
・櫓形式の井戸(ロの櫓、井郭櫓)
・長大な多聞櫓(西の丸櫓群)、二重の多聞櫓(りの一渡櫓)
・極端な変形平面を持つ櫓群(北腰曲輪櫓群)
・穴倉式(りのニ渡櫓・折廻り櫓)、半地下式(帯郭櫓)の櫓
・菱形の櫓(トの櫓)
・防御と華やかな雰囲気を合わせ持つ櫓(西の丸櫓群)

第4回 2.姫路城の普請 石垣

[catlist categorypage=”yes”] 2.姫路城の石垣

三つの異なる石積み形式

1)羽柴時代(野面積み)
2)池田時代(打込接ぎ)
3)本多時代(打込接ぎ・一部切込接ぎ)

秀吉時代の野面積み 上山里


秀吉時代(右)と池田時代の石組み(左) 二の丸
武蔵野御殿池護岸石垣


算木積み 扇の勾配(二の丸隅部)


打込接ぎ 武蔵野御殿池護岸石垣


人面石 ぬノ門前

第4回 姫路城の縄張り・普請

Ⅰ.選地

築城は四要素 選地・縄張・普請・作事

1。選地

城をどこに置くか
-城の防御と領国経営の要諦

山 城    →  平山城・平城
(防御主体)  (領国経営主体)

姫路城は、理想的な選地

・三方を山に囲まれ
・市川・夢前川が流れる平野の中央
・交通の要衝に恵まれた地

姫山と鷺山の高低差を生かした平山城

【四神相応】
中国儒書『礼記』(らいき)…都城の理想的な選地

(姫路城)  (平安京)
■東 青龍 <流水>  市川     鴨川

■南 朱雀 <窪地>  瀬戸内海   巨椋池

■西 白虎 <大道>  山陽道    山陽道

■北 玄武 <丘陵>  広嶺山系   船岡山

2.縄張

築城における曲輪や建物の配置、計画、城下町の地割すなわち築城の総合的な計画・設計

■縄張のタイプ

・輪郭式・・・大坂城、駿府城など
・梯郭式・・・岡山城、熊本城、萩城など
・連郭式・・・彦根城、水戸城など

■姫路城の縄張(全体)

・らせん状(左巻き)に三重の堀
・三つの曲輪
内曲輪(内堀内)・・・城郭と居館
中曲輪(中掘内)・・・侍屋敷
外曲輪(外堀内)・・・町家、寺町、侍、組屋敷

・総構えの縄張
城と城下町全体を土塁と堀で囲んだ縄張

■姫路城の縄張(内曲輪)

・二つのタイプの縄張が共存
姫山・・・小さな曲輪・ひな壇状に集合 迷路のように複雑に分かれた古いタイプの縄張(秀吉時代の曲輪利用)
鷺山・・・一つの大きな曲輪(西の丸)

Ⅱ.普請(ふしん)

■普請とは・・・築城における土木工事または土木工事を伴う建築工事

・石垣  石垣を築く
・堀   堀をうがつ
・土塁  土塁を盛る

第3回 姫路城の歴史と人物

[catlist categorypage=”yes”] 姫路城の歴史を人物でたどる。

1.最初の築城説

赤松貞範築城説と黒田重隆築城説がある。

■赤松貞範築城説
『赤松播磨録』(延享4年(1747))
『播磨鑑』(宝暦12年(1762))典拠
貞和2年(1346)築城の根拠…正明寺板碑

■黒田重隆・職隆(もとたか)築城説
天文24年(1555)から永禄4年(1561)の間
根拠…姫道御構(ひめじおんかまえ)の存在確認
(姫道村助太夫の畠地売券(正明寺文書))
※永禄4年(1561)12月に、姫道村助太夫が、母屋藤兵衛尉に畠地を直銭弐貫七百文で売った。土地の場所は「姫道御構東門之口、妙楽寺の西」にあったという。

2.中世の姫路城  ※「姫路城史」橋本政次著説

■1代 初代城主 赤松貞範(貞和2年(1346))
-その後、貞範が庄山城へ(1349)

■2~5代 第一次小寺氏
頼季(よりすえ)-景治ー景重-職治(もとはる)
-貞和5年(1349)~嘉吉元年(1419)

■6代 山名持豊(宗全) 嘉吉の変後赤松氏滅亡後、播磨守護職として姫路城主 嘉吉元年(1441)

■7代 赤松政則 赤松宗家を再興し、姫路城主に 応仁元年(1467)
-その後置塩城へ(文明元年(1469))

■8~10代 第2次小寺氏
小寺豊職(とよもと) 文明元年(1469) 応仁の乱に遭遇
小寺政隆     延徳三年(1491) 御着城を築く
小寺則職(のりもと) 永正16年(1519) 御着城主に転ず

■11代 八代道慶(小寺家家老)姫路城を預かる
享禄4年(1531)~天文14年(1545)

——————————————-

■12~14代 黒田氏三代(約35年間)
小寺氏家臣であった黒田重隆 小寺氏の命により、御着城から姫路城へ移る。
重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている。

12 黒田重隆 天文14年(1545)
-職隆 永禄7年(1564)
-孫の孝高(官兵衛、如水) 永禄10年

・天正8年(1580)
黒田孝高 秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し、国府山城へ移る。

■15~17代 秀吉三代(約20年)

・天正5年(1577) 羽柴秀吉 播磨へ侵攻
天正8年(1580)秀吉 播磨平定
天正9年(1581)三重の天守完成

・天正11年(1583)羽柴秀長
・天正13年(1585)木下家定

3.近世の姫路城

■18~20代 池田氏三代(約17年)

・慶長5年(1600)
池田輝政 三河吉田15万2千石から関ヶ原の戦いの戦功により52万石に加増入封
三木、明石、平福、龍野、赤穂、高砂に支城

・慶長6年(1601)~慶長14年(1609)
白亜の姫路城築造 総構えの城下町
8年掛けた大改修で広大な城郭を築いた。
普請奉行 池田家家老伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛
作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 – 5千万人であろうと推定されている。

・慶長5年(1600) 池田輝政
・慶長18年(1614) 池田利隆
・元和2年(1616年)池田光政 →元和3年(1617)因幡鳥取へ転封

4.譜代・親藩大名の入・転封

■21~23代 本多家三代(第一次本多氏22年間)

・元和3年(1617) 本多忠政 伊勢桑名10万石から15万石に加増され入城
・元和4年(1618) 千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸造営、御殿群築造

本多忠政-政朝-正勝 寛永16年(1639)大和郡山へ

■24・25代 奥平松平家 忠明 寛永16年(1639)大和郡山より
忠弘 正保元年(1644)出羽山形へ

■26・27代 越前松平家(結城) 直基 慶安元年(1648)出羽山形より
直矩 慶安元年(1648)越後村上へ

■28・29代 榊原家 忠次 慶安2年(1649)陸奥白河より
政房 寛文5年(1648)

■30代 再度越前松平家 直矩 豊後日田へ

■31・32代 再度本多家 忠国 天和2年(1682)陸奥福島より
忠孝 宝永元年(1704)越後村上へ

■33~36代 再度榊原家 政邦 宝永元年(1704)越後村上より
政祐 享保11年(1726)
政岺(まさみね) 享保17年(1732)
政永 寛保元年(1735)越後高田へ

■37・38代 再々度越前松平家 明矩(あきのり) 陸奥白河より
朝矩(とものり) 上野前橋へ

■39~48代 酒井家十代

39 酒井忠恭(ただずみ) 寛延2年(1749)松平朝矩と入れ替わり前橋城より入城する。
40 酒井忠以(ただざね) 安永元年(1772)
41 酒井忠道(ただひろ) 寛政2年(1790)
42 酒井忠実(ただみつ) 文化11年(1814)
43 酒井忠学(ただのり) 天保6年(1835)
44 酒井忠宝(ただとみ) 弘化元年(1844)
45 酒井忠顕(ただてる) 嘉永6年(1853)
46 酒井忠績(ただしげ) 万延元年(1860)
47 酒井忠惇(ただとう) 慶応3年(1867)
48 酒井忠邦(ただくに) 明治元年(1868)

第2回 城郭の歴史と姫路城

姫路城築造には、赤松貞範築城説と黒田重隆築城説がある(後に記述する)。

1.戦国時代の姫路城■天文14年(1545)
黒田重隆、小寺氏の命により御着城から姫路城に移る(御着城の出城(支城)としての姫路城)■永禄4年(1561)
黒田重隆・職隆、城を改修する永禄4年12月・「姫路御構」の存在確認■天正8年(1580)
黒田孝高(官兵衛)、羽柴秀吉に姫路城を勧める
(黒田職隆・孝高父子は、妻鹿国府山城へ)2.羽柴秀吉

姫路城築城

三重の天守築造 天正9年(1581)
中国攻めの拠点としての姫路城…『豊鑑』『播磨鑑』

拙者付記 但馬征伐もおこなう

3.築城最盛期の築城(池田輝政の大改修)

■慶長6年(1601)~14年(1609)
池田輝政が白亜の姫路城を完成(播磨の国主を誇示する姫路城)
・連立式天守構造
5重7階(地上6階・地下1階)の大天守
東・乾・西小天守をイロハニの渡櫓
・総構えの城下町造営

4.姫路城・総構えの城下町

  
■らせん状に三重の堀
■三つの曲輪
・内曲輪(内堀内)…城郭と居館
・中曲輪(中掘内)…侍屋敷
・外曲輪(外堀内)…町家、寺町、侍屋敷・組屋敷

■総構え…城と城下町全体を堀と土塁で囲む
■山陽道を城下町に引き込む

5.武家諸法度下の築城

■本多忠政の御殿築造
元和4年(1618)
西国の藩鎮、西国探題職、幕府を守る姫路城
・西の丸櫓群、中書丸御殿
・御殿群構造
居城(本城)、武蔵野御殿、向屋敷、樹木屋敷(西屋敷)、東屋敷築造

「姫路侍屋敷図」姫路市立城郭研究室蔵

第1回 城郭の歴史(古代山城、中世城館、近世城郭)

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※放送大学兵庫学習センター(姫路)第2学期面接授業
「城郭の歴史と姫路城を学ぶ」

1.城郭とは?

■「城」とは、
「土に成る」
地面を掘り、土を盛って囲った区画

■「郭」とは、
「囲いのある所」
「物の外まわり」

『古事記』…「稲城(いなぎ)」、『日本書紀』…「城(き)」

2.城郭の主な系譜

■古代山城
7世紀後期(飛鳥時代末期)約30
■中世城館
13世紀~16世紀
(鎌倉・南北朝・室町時代)
約40,000
■近世城郭
16世紀後期~19世紀(桃山・江戸時代)
約200~300

3.その他の城郭

■都城…外郭ラインに城壁は築かれず、築地塀や区画溝で囲む
7世紀~8世紀はじまり
藤原京、平城京など

■城柵…古代朝廷の東北地方計略の拠点 8世紀
多賀城、秋田城、志波城など

■チャシ…物見や祭祀の場としても利用されたアイヌの砦

■グスク…琉球(沖縄)で地方領主が地域支配のために築く 14世紀
中城城、勝連城、今帰仁城など

4.古代山城 7世紀後期

■朝鮮式山城
大野城、基肄(きい)城、屋島城、高安城、金田城など6城

■神籠石系山城
城山城、鬼ノ城、大廻小廻山城、石城山城、高良山城、女山城、雷山城など

西日本中心に30ヶ所があるといわれ、現在23ヶ所確認

5.中世城館 13世紀~16世紀(鎌倉・南北朝・室町時代)

■在地領主(土豪や国人など)による私的な城
■山上には詰めの城、普段は麓の居館に居住
■居館
方形、周囲に土塁・堀
■詰城
山上の尾根伝いに段々畑状の小さな曲輪を連ね、要所に空堀や土塁を配置
堀切(尾根を切断)、堅堀(山の斜面を竪に区画)、切岸など

詰城例…浅井氏小谷城、北条氏小田原城、尼子氏月山冨田城、六角氏観音寺城、毛利氏吉田郡山城、上杉氏春日山城など
居館例…足利氏館、一乗谷朝倉氏館など

6.近世城郭 16世紀後期~19世紀(桃山・江戸時代)

■安土城築城(織田信長)天正4年(1576)
・天主を持つ城(5重7階)…熱田の宮大工、岡部友右衛門
・総石垣の城…穴太衆の存在
・瓦の使用(金箔瓦)…奈良の瓦工集団
・御殿の築造
・城下町の出現(楽市・楽座)

7.豊臣秀吉の天下統一(天正18年(1590))

■近世城郭は全国に普及
秀吉配下の大名たちが大城郭を築造
・羽柴秀長 大和郡山城 天正13年(1585)
・毛利輝元 広島城 天正17年(1589)
・宇喜多秀家 岡山城 天正18年(1590)

■秀吉による天下普請
・大坂城  天正11年(1583)
・聚楽第  天正14年(1586)
・肥前名護屋城 天正19年(1591)
・伏見城 文禄元年(1592)

8.築城ラッシュ(慶長の築城最盛期)

■関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))の後
・大名たちの全国的な配置換え

■加増された広大な領地を与えられた外様大名たち
(中国・四国・九州中心)

・加増に見合う大城郭を新築・大改修

■一方、徳川幕府は、外様大名たちを動員して天下普請の城を築造
(豊臣包囲網・外様大名の財力消耗)

9.築城最盛期の城

■外様大名による築城
熊本城(加藤清正)、福岡城(黒田孝高・長政)
小倉城(細川忠興)、伊予松山城(加藤嘉明)
高知城(山内一豊)、萩城(毛利輝元)
松江城(堀尾吉晴)、津山城(森忠政)
姫路城(池田輝政)、伊賀上野城(藤堂高虎)
仙台城(伊達政宗)など

■徳川家康による天下普請
彦根城、江戸城、駿府城、篠山城、名古屋城
丹波亀山城(再築)、高田城、伏見城(再築)など

10.幕府による城の規制

■大坂の陣(慶長20年(1615))後の幕藩体制の強化

・一国一城令(元和元年(1615)6月)
一つの国に一つだけの城を認め他は廃止

・武家御法度(元和元年(1615)7月)
「諸国の居城、修復を為すと言えども必ず言上すべし、況んや新儀の構営、堅く停止せしむる事」
・居城修復に事前に幕府に届け、許可を受ける
・新城の築城や修復以外の新たな工事は一切禁止

11.天守代用櫓と天主がない城

■天守代用櫓(御三階櫓)…新発田城、丸亀城

■天守台はあるが天主がない城…赤穂城、篠山城

12.城の規制下での築城

■幕府の政略上
・明石城 小笠原忠真 元和3年(1617)
・福山城 水野勝成 元和6年(1620)

■幕府の天下普請
・徳川大坂城再築 元和6年、寛永元年、5年(1628)
・二条城     寛永元年(1624)

■外様大名の転封による
・赤穂城 浅野長直 慶安元年(1648)
・丸亀城再築 山崎家治 寛永19年(1642)

13.幕末の築城

■海防の強化
・新城の築城(砲台を設置)
福山(松前)城 松前崇広 嘉永2年(1849)
石田城  五島盛正 嘉永2年( 〃)

■様式築城
・五稜郭 安政4年(1857)

■砲台
・品川台場、和田岬砲台

14.明治維新後の城郭

■存城・廃城令 太政官布達 明治6年(1873)1月14日

全国の城郭に対し、「存続」と「廃城」の線引き
旧城郭の管轄の二分化

存城・・・56城(姫路城、名古屋城など)陸軍省の管轄
廃城・・・190の城・陣屋など 大蔵省の管轄