たじまる 近世-19

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

幕末の但馬

6.池田草庵と青谿書院(せいけいしょいん)

池田草庵は、但馬国宿南村(現在の兵庫県養父市)の組頭である孫左衛門の三男として生まれたが、10歳の時、母の死により寺に預けられました。天保2年(1831年)、村を訪れた儒学者・相馬九方の教えを受けた。その後、九方を追って寺を出奔。京都で九方に入門し、学問に励む。

天保14年(1843年)に、請われて郷里に戻り、弟子の教育を始めた。最初の門人には北垣国道、原六郎ら後に大成した人物がいました。

弘化4年(1847年)、私塾「青谿書院」(せいけいしょいん)を開き、子弟共々共同生活を行い知識と実行を兼ね備えた人間の育成を目指した。

主な門下生

7.生野の変(いくののへん)

江戸時代後期の文久3年(1863年)10月に但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件が起きました。「生野の乱」、「生野義挙」とも言います。

1716年(享保元)、生野奉行を生野代官と改称します。但馬は石見・佐渡と並ぶ幕府の三大鉱山として栄えた生野銀山を筆頭に、明延、神子畑、中瀬、阿瀬等の金・銀などを産出する鉱山が各所にあったことからも幕府直轄領(天領)が多くありました。

1735年(享保20)、久美浜に代官所が置かれ、丹後西部(京都府北部)・但馬(兵庫県北部)の大半は久美浜代官所の管轄で幕府直轄領(天領)でした。久美浜湾は、船見番所が置かれ諸国の廻船や御城米入津のときの改めなどを行っていました。享保16年(1731)より、湊宮陣屋での仕事が始まり、さらに京や大坂への陸上輸送に便利なところが必要となり、海を生かしながら陸上輸送に便利な久美浜に代官所が移されました。(久美浜小学校付近)。福岡脱藩士 平野国臣は、攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や久留米の勤王志士真木和泉、清河八郎(将軍家茂警護役・浪士隊(のちの新選組)の進言者)ら志士と親交をもち、討幕論を広めました。

文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄されます。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と天皇の大和行幸を画策します。大和国での天誅組の制止を命じられますが、その前日、天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵。さらに八月十八日の政変で会津藩と薩摩藩が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまったのです。

平野は急ぎ京へ戻りますが、すでに京の攘夷派は壊滅状態になっていました。国臣は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州国三田尻へ赴き、長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎この時点で天誅組は壊滅しており、国臣は挙兵の中止を主張すますが、天誅組の仇を討つべしとの強硬派に押されて挙兵に踏み切りました。

文久3年(1863年)8月、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組は孝明天皇の大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めました(天誅組の変)。

天誅組の過激な行動を危惧した公卿三条実美は暴発を制止するべく、学習院出仕の平野国臣(福岡脱藩)を五条へ送りました。その直後の8月18日、政局は一変します。会津藩と薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまいます(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放されました(七卿落ち)。

変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合しますが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知り、平野は巻き返しを図るべく大和国を去りました。天誅組は十津川郷士を募兵して1000人余の兵力になりますが、装備は貧弱なものだった。高取城攻略を図るが失敗し、9月に入って周辺諸藩からの討伐を受け、多勢に無勢で各地で敗退し、9月27日に壊滅しました。

攘夷派による天誅組の変が勃発し、続いて但馬では沢宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生しました。これらの事件は倒幕を目的とした最初の軍事的行動として、後世から見た歴史的な意味は大きいものの、この時点では無残な結末となりました。天誅組の挙兵は失敗しましたが、この事件は明治維新の導火線になったと評価されています。

但馬の国は、小藩の豊岡藩、出石藩以外は天領が多くを占めていました。同国の生野銀山は佐渡、石見とともに当時三大鉱山として有名でした。
しかし、幕末の頃には産出量が減少し、山間部のこの土地の住民は困窮していました。このように全国各地で260年間続いた藩幕体制は崩壊に向かっていきました。明治維新期の日本の人口は、3330万人。

生野天領では豪農の北垣晋太郎(のちの国道)が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていました。

平野国臣は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州三田尻に保護されている攘夷派七卿の誰かを迎え、また武器弾薬を長州から提供させる手はずを決定する。

28日に平野と北垣は長州三田尻に入り、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら30数人の浪士とともに生野に入りました。平野らは更に藩としての挙兵への同調を求めますが、藩首脳部は消極的でした。

10月2日、平野と北垣は沢とともに三田尻を出立して船を用意し、河上弥市(元奇兵隊総管)ら尊攘浪士を加えた37人が出港した。10月8日に一行は播磨国に上陸、生野へ向かいました。一行は11日に生野の手前の延応寺に本陣を置きました。この時点で大和の天誅組は壊滅しており、挙兵中止も議論され、平野は中止を主張しますが、天誅組の復讐をすべしとの河上ら強硬派が勝ち、挙兵は決行されることになりました。播磨口の番所は彼らを穏便に通し、12日未明に生野に入りました。生野代官所は彼らの動きを当然察知していましたが、代官の川上猪太郎が出張中なこともあり、代官所を無抵抗で平野らへ明け渡しました。藩と違い、天領の代官所は広い地域を支配している割には軍備が手薄であり、天誅組の挙兵の際も五条代官所は40人程の浪士に占領されています。

平野、北垣らは「当役所」の名で沢宣嘉の告諭文を発して、天領一帯に募兵を呼びかけ、かねてより北垣が「農兵論」を唱えていたこともあり、その日正午には2000人もの農民が生野の町に群集しました。しかし、天誅組の変の直後とあって、幕府側の動きは早く、代官所留守から通報を受けるや豊岡藩、出石藩、姫路藩が動き、挙兵の翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動しています。諸藩の素早い動きに対して、浪士たちからは早くも解散説が持ち上がりました。強硬論の平野、河上らに圧されて解散は思いとどまりますが、13日夜に肝心の主将の沢宣嘉が解散派とともに本陣から脱走してしまいました。集まった農民たちは動揺します。

妙見山(養父市)に布陣していた河上は生野の町で闘死しようとしますますが、騙されたと怒った農民たちが「偽浪士」と罵って彼らに襲いかかりました。河上ら13人の浪士は妙見山に戻って自刃して果ています。美玉三平と中島太郎兵衛は農民に襲撃され射殺されました。平野は兵を解散させると鳥取へ向かったが捕らえられ、京の六角獄舎へ送られます。その他の浪士たちも戦死、逃亡、捕縛されました。

生野での挙兵はあっけなく失敗しましたが、この挙兵は天誅組の挙兵(天誅組の変)とともに明治維新の導火線となったと評価されています。

10月12日に生野代官所は無抵抗で降服。農民に募兵を呼びかけて2000人が集まり意気を挙げました。しかし、幕府の対応は早く、翌日には豊岡藩・姫路藩など周辺諸藩が兵を出動させました。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられ、13日の夜に主将の沢が逃げ出してしまいました。農民たちは騙されたと怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図りますが、豊岡藩兵に捕縛され、京へ護送され六角獄舎に預けられていましたが、禁門の変の際に生じた火災(どんどん焼け)は京都市中に広く延焼。獄舎に火が及び、囚人が脱走して治安を乱すことを恐れた京都所司代配下の役人が囚人の処刑を決断。他の30名以上の囚人とともに斬首されました。享年37。

平野国臣は明治24年(1891年)、正四位を贈られています。福岡市中央区の西公園に銅像が、京都市上京区の竹林寺に墓がある。同じく、京都霊山護国神社にも墓碑および石碑が建立されています

北垣は、青谿書院で同期の原六郎(初名は進藤俊三郎。但馬国佐曩村(現・兵庫県朝来市)出身)とともに生野の変に参戦するが長州へ亡命。進藤は鳥取に逃れ、名を原六郎と改める。1863年、時代は明治へ入る。

8.北垣 晋太郎(国道)


南禅寺の琵琶湖疎水

天保7年(1836年)8月、兵庫県養父市能座村に生まれる。池田草庵の私塾「青谿書院」で最初の門人として学ぶ。生野の変に参加するも破れ、長州へ亡命。

1868年1月、山陰道鎮撫使の西園寺公望に従軍。さらに、8月に北越戦争に従軍しています。

明治12(1879)年、高知県県令に就任。翌1880年、徳島県県令を兼任し、明治14(1881)年から1892年まで第3代京都府知事に就任します。その頃、京都府議会議員に京都鉄道の創立者、田中源太郎がいます。東京遷都などにより東京や大阪などへの人口流出、産業衰退により、都市としての活力が失われつつあった京都市街。第3代京都府知事として灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画・完成。
疏水の設計は工部大学校(後の東京大学工学部)を卒業した京都府技師の田辺朔郎が進め、4年8ヶ月の大工事で完成させた。工期途中で視察のためアメリカ合衆国を訪れた田辺は、当初の計画になかった水力発電を取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設した。


京都府庁旧本館 国重要文化財(建築物)

京都府京都市上京区にあるルネサンス様式の建築物。設計は東京帝国大学で西洋建築を中心とする建築学を学んだ、明治6年(1874)生まれの若き京都府技師松室重光でした。建築の基本モチーフはルネサンス様式に属し、建物の外観は、正面の一段高くなった屋根を中心として左右両翼に対称に張り出した形となっており、西洋近世の大邸館をほうふつさせるものがある。
明治30年代は、日本人がこうした西洋建築における様式操作を適切に行えるようになり始める時期であり、本建築はその代表と位置づけられる。


京都府庁旧本館玄関から二階

建物内部においては、随所に和風の優れた技術が巧みに取り入れられており、内部意匠は建築よりもむしろ工芸品といった趣さえ感じさせる。明治維新以来続けられてきた近代的行政庁舎の模索の総決算的建築であり、以後、大正期後半までは、府県庁舎の典型として模範にされた。近代日本が生み出した府県庁舎のうち、東京府庁舎はすでになく、兵庫県庁舎は、昭和20年の戦災で壁体だけを残して焼失したが、近年、外観を建設当時に復原し、内部は大改造し迎賓館兼県政資料館として再生した。それらの中、京都府庁旧本館は本格的に改修するような工事はこれまで行われておらず、明治期の形態を損なうことなく、府県庁舎の全容をとどめている点が評価できる。現役日本最古の庁舎で一般公開されています。

建物本体だけでなく外構でも、明治から大正期を代表する庭師であり、平安神宮神苑や山形有朋の別邸であった無鄰庵庭園を手がけた七代目小川治兵衛が庭園の設計をしている。また、家具についても、当時「日本の洋家具の父」と言われた東京の杉田幸五郎が旧本館の主要家具を製作納入している。


梅小路機関車館にある市電?

1895年には京都・伏見間で日本初となる路面電車、京都電気鉄道(電気鉄道の曙)の営業運転が始まることとなりました。
後、北海道庁長官、貴族員議員、明治維新資料編纂委員、枢密院顧問官を歴任し明治の官界で活躍した。

9.原 六郎(はらろくろう)

天保13年11月9日(1842年12月10日)~ 昭和8年(1933年)11月14日)。

明治・大正・昭和期の銀行家、実業家。初名は進藤俊三郎。但馬国佐曩村(現・兵庫県朝来市)出身。

大地主の子として生まれる。幕末期は尊皇攘夷派に属す。生野の変に参戦するが敗れて鳥取に逃れ、名を原六郎と改める。その後は長州藩の軍に属し、討幕運動に関わる。

明治維新後、アメリカ・イギリスに留学し、経済学や銀行論を学ぶ。

1877年(明治10年)帰国後、第百国立銀行・東京貯蓄銀行を設立、頭取となる。

1883年(明治16年)には第3代横浜正金銀行各頭取に就任します。この他日本、台湾勧業興業各銀行の創立委員を務め、富士製紙・横浜船渠各会社長、山陽・北越両鉄道、東洋汽船、帝国ホテル、汽車製造、猪苗代水田などの各重役を歴任します。

1896年(明治29年)4月、東武鉄道創立発起人に就任し、同年10月に東武鉄道取締役就任。1920年(大正9年)4月、東武鉄道取締役退任。

往時は渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・古河市兵衛とともに五人男と並び称されるほどの経済界の大物であった。

たじまの偉人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
▲ページTOPへ

たじまる 近世-18

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

坂本龍馬

坂本龍馬については、ここで述べるまでもなく、司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物であり、多くのファンがおられ、私も個人的に大好きな人物の一人です。高知の桂浜や龍馬記念館、伏見寺田屋、京都国立博物館、霊山記念館および墓等訪ねています。しかし、むしろ生前より死後に有名になった人物であり、それらは実際の龍馬とかけ離れているのではないかという指摘も多いようです。

1.坂本龍馬


吟醸 司牡丹「才谷屋」

龍馬の本家に当たる才谷家は、高知城下に質屋と酒屋を開き、5代目の頃には、あらゆる商品売買を行う一方、武士の俸禄を抵当に、あるいは刀剣・武具・馬具・書画・骨董などを質にとって金を貸す仕送屋を経営し相当繁盛しました。まじめな奉公人にはのれん分けをして「才谷屋」の屋号を土佐に着々と浸透させていきました。


高知城下にあった才谷屋

やがて名字・帯刀御免の藩主御目見得商人にまでのし上がり、商家としては最高の家柄だったことがうかがえます。「違い枡に桔梗」といえば坂本龍馬。坂本本家の屋号『才谷屋』の家紋であり、彼は随所で「才谷梅太郎」と名乗ってもいて、後輩達から才谷先生と親しまれていました。 「才谷先生」の愛称でも呼ばれた龍馬は、商家に育ったからこそ、武士道にこだわらない商売人魂から生まれる柔軟な発想を国家改革に生かせたのでしょう。


乙女に宛てた書付(重要文化財) 京都国立博物館蔵

5人兄弟の末っ子として生まれた龍馬には1人の兄と3人の姉がいました。
最も慕っていたのは年が近い三女の乙女姉さんでした。 「乙女」という清純で可憐な名前とは正反対の、大柄(身長175cm、体重113kg)な、男勝りで文武に精通した才女だったとか。剣術にかけてはそこいらの男も顔負けの腕前で、ピストルもやれば浄瑠璃もやる。その自由奔放な姿は龍馬とよく似ています。だから兄弟の仲でも最も気があったのでしょう。


(重要文化財)京都国立博物館蔵

子供の頃の龍馬は「寝小便たれ」の「泣き虫」といわれ、およそ得意といえるものがなかったようです。
そんな龍馬が人より勝るものを身につけ大きく変わったのは、家の近所にできた剣術道場に通うようになってから。
稽古がおもしろくてたまらないほど打ち込み、19歳で道場の卒業書を受け取り、さらなる修行のために江戸に向かいます。「一芸が身を助ける」。龍馬にはそれは剣術でした。


坂本龍馬着用紋服(重要文化財) 京都国立博物館蔵

さて、筆まめな一面があった龍馬の手紙は130通ほど残っているとか。乙女に何通も手紙を書いていますが、勝海舟の下、設立に携わった兵庫(神戸)の海軍操練所のことを「弟子どもにも、4、500人も諸方よりあつまり」とはったりをかまし(実際は200人ほど)、「少しエヘン顔してひそかにおり候」と威張った上に、「なおエヘン、エヘン」とさらに付け加えています。龍馬の調子に乗りやすい性格をいつも乙女に叱られているのか、乙女にまた言われる前に自重しているよと先に書いています。男勝りの乙女を「大荒れ先生」
と書いたり、茶目っ気たっぷりで、自分が偉くなったことを良き理解者である乙女姉さんに自慢したくてたまらないといった龍馬のやんちゃな性格が文面に表れています。

京都伏見の寺田屋/京都市伏見区南浜町263

店長実写(2000.10)

文久3年(1863)、姉乙女に書いた手紙の中で、「日本(ニッポン)を世界の列強国と渡り合えるよう
な国にするには藩でもなく、幕府でもなく、日本国自体を改革=洗濯する必要がある」と書いています。
鎖国体制下にあった日本では、自国が世界の中にある1つの独立国家だという認識が薄く、
草もうの志士と呼ばれた者でさえ、国内の朝廷と幕府との権力闘争に目を奪われていることが多かったようです。 日本をニホンではなく、「ニッポン」とあえてフリガナを付けて書いています。
これは諸外国では「nippon」と呼ばれているという最先端情報を乙女姉さんに教えたかったからでしょう。
まして土佐から一歩も出たこともない乙女姉さんには、龍馬が何を言っているのかとても理解できたとは
思えませんね。「龍馬がまた調子にのって大きなことをいいおって」ぐらいにしか思えなかったでしょう。


店長実写

元治元年(1864)五月正式に発足した幕府の直轄施設・神戸海軍操練所の解散をきっかけに、龍馬を筆頭とする一団を母体とし、長崎・亀山の地で亀山社中(亀山隊)を結成します。私設の、海軍・商社的性格を持った草もうの志士の結社です。

当初は薩摩藩の援助の下に、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得るのを目的としながら航海術の習得に努め、その一方で商社的に国事に奔走していました。その社中(グループ)が後に土佐藩主の寛大な許しの元、一度は脱藩した龍馬以下、中岡慎太郎やその他のメンバーで、土佐藩とも仲直りし、貿易結社「海援隊」として誕生させます。薩摩藩などの資金援助を受け、日本初の株式会社とも言われています。中岡慎太郎が隊長となった陸援隊と併せて翔天隊と呼ばれます。


月桂冠 大倉記念館/京都市伏見区南浜町247
濠川沿いの寺田屋から東二筋目

慶応2年(1866年)1月23日、伏見の旅籠、寺田屋が200人もの幕府方に取り囲まれたとき、お龍はちょうど風呂に入っていました。
窓の向こうの異様な気配に気づいたお龍は、体も拭かずに、全裸に近い姿で2階に駆け上がります。
長州藩士三吉慎蔵と薩長同盟の打ち合わせをしていた龍馬に知らせるためでした。龍馬は襲ってきた幕府方に
高杉晋作から贈られたリボルバー銃で発砲しながら応戦。横から斬りつけてきた刀をとっさにピストルで受けて、お龍と二人で近くの木材小屋に隠れて難を逃れたのでした。お龍は「ピストルのお陰で助かった」と述懐し、龍馬はお龍の働きにいたく心を打たれ、まもなくお龍を妻にしました。その傷を癒すため、妻おりょうと共に鹿児島を旅行しました。


十石船から濠川/十石舟乗船場

龍馬が泊まっていた部屋には、事件の際の刀傷が柱に残っています。現在の建物はその後再建されたものです。
伏見といえば酒どころ。上質の湧き水(伏流水)が湧くことから伏水から地名になりました。
当然龍馬も伏見の酒に酔ったことでしょう 海援隊は亀山社中(亀山隊)時代を加えても、慶応元年(1865)から慶応四年(明治元年・1868)四月までの約三年間という短期間の活動で役目を終えました。翌年4月には藩命により解散。土佐藩士の後藤象二郎は海援隊を土佐商会として、岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させます。 慶応元(1865)年、京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始します。薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行いました。

龍馬は、長崎のグラバー商会(イギリス武器商会のジャーディン・マセソン商会の直系)と関係が深く信用を得ていましたが、8月、薩摩藩名義で香港のジャーディン・マセソン商会の信用状により長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功しました。この年、「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されています。 慶応2年(1866年)、1月、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれました。


純米酒 司牡丹「船中八策」

また陸援隊は、慶応3年(1867)に、土佐藩士の中岡慎太郎によって組織された討幕運動のための軍隊(浪士隊)です。海援隊に続いて中岡と土佐藩士の坂本龍馬の協議により発足。隊長は中岡で、京都を本拠としました。隊員は尊皇攘夷の思想を持つ脱藩浪士などが集められ、総員は70名以上。薩摩藩から洋式軍学者鈴木武五郎が派遣され、支援の十津川郷士ら50名と共に洋式調練を行った。中岡、坂本が京都で暗殺された後は田中光顕、谷干城らが指導し、高野山では紀州藩兵を牽制する。明治には御親兵に吸収されました。

2.薩長同盟


材木商酢屋龍馬寓居跡:京都市中京区河原町三条上ル一筋目東入ル

江戸時代末期は、薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩などが藩の財政改革に成功して経済力をつけ、軍備拡充と人材登用で国政における発言力を増し、「雄藩」と呼ばれるようになりました。また、水戸藩も政治的発言力を背景に「雄藩」と呼ばれました。 禁門の変を長州軍の朝廷への反逆であるとして、幕府は元治元年(1864)長州征伐に乗り出しました。都合二回行われたこの長州征伐は「再び幕府が独裁力をつけるのではないか」という強い懸念と、台所事情などの様々な事情から諸藩が出兵命令に従わなかったため、何の成果も上げられず幕府の威光は失墜しました。尊壤派の発言力の強い藩などは、長州藩に同情的な立場を取りようになりました。

逆賊となった長州藩に長州への征伐が発令され、総大将に徳川慶勝(尾張藩主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命されますが、幕臣・勝海舟との会談で長州藩への実力行使の不利を悟った西郷は、開戦回避を模索。長州藩内でも四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、椋梨藤太ら譜代家臣を中心とする俗論派が擡頭。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、第1次長州征伐は回避されることとなりました。しかし長州藩内で旧攘夷派の粛清が続くなか同年末、高杉晋作らが諸隊を糾合し長府功山寺にて挙兵(功山寺挙兵)。翌年初頭、藩中枢部の籠もる萩城を攻撃し、俗論派を壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回しました。


土佐藩邸跡 京都市中京区木屋町蛸薬師下ル備前島町

藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない長州藩へのいらだちは高まり、老中小笠原長行(唐津藩世子)・勘定奉行小栗忠順ら強硬派による長州再征論が浮上し、将軍家茂は再度上洛する。一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった兵庫(神戸港)問題を巡って、英国公使パークスが主導する英仏蘭米連合艦隊が兵庫沖に迫った。摂海防禦指揮徳川慶喜は、いまだに条約への勅許が得られていないのが原因と考え、老中らに勅許工作と外国艦隊との交渉をおこなわせますが、独断で兵庫開港を決めた阿部正外・松前崇広らに対し朝廷から老中罷免の令が出される異常事態となり、幕府は慶喜への疑念を強める。慶喜は条約勅許・兵庫開港問題を巡って在京の諸藩士を集めて世論をまとめ、朝廷に条約勅許を認めさせました(兵庫開港は延期)。

こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、逆に長州との提携を模索します。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士坂本龍馬や、同じく土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに従っていた中岡慎太郎らが周旋する形で、両藩の接近が図られます。逆賊となり表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、慶応2年(1866年)正月、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締結されました。

幕府は同年2月に第二次長州征伐を発令。6月に開戦すますが、薩摩との連携後軍備を整え、大村益次郎により西洋兵学の訓練を施された長州の諸隊が幕府軍を圧倒。各地で幕府軍の敗報が相次ぐなか、7月20日家茂が大坂城で病死。徳川宗家を相続した慶喜は自ら親征の意志を見せるものの、一転して和睦を模索し、広島で幕府の使者勝海舟と長州の使者広沢真臣・井上馨らの間で停戦協定が結ばれ、第二次長州征伐は終焉を迎えました。


小五郎 幾松 寓居跡碑とされている。三本木料亭「吉田屋」:京都市上京区 東三本木通

城崎から京都へ戻った小五郎は、西郷隆盛と薩長連合を結び倒幕をすすめます。慶応3年(1867)6月、三本木料亭「吉田屋」にて土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀との間で大政奉還と公議政体を目指した盟約が結ばれました。後に「薩土盟約」と呼ばれる、幕末維新の時代において、きわめて重要な事件の1つです。

攘夷派の旗頭として長州と薩摩はさらに肥前・土佐とともに倒幕へと動き出しました。小五郎は、土佐藩の土方楠左右衛門・中岡慎太郎・坂本龍馬らに斡旋されて小松帯刀邸にて薩摩藩と秘密裏に藩レベルでの薩長同盟を結びます。慶応2年(1866年)1月22日に京都で薩長同盟が結ばれて以来、桂は長州の代表として薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛・黒田清隆らと薩摩・長州でたびたび会談し、薩長同盟を不動のものにして行きます。1863年の下関戦争(馬関戦争)以来、孤立した長州は薩長同盟の下、長州は薩摩名義でイギリスから武器・軍艦を購入し、薩摩は不足している米を長州から支援してもらいました。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っています。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信頼を得ていたかがわかります。

3.薩長同盟の陰の功労者、グラバー


龍馬刀 霊山記念館

龍馬とグラバーは、「薩摩と長州が手を結ばなくてはならない」との考えで一致。薩長同盟成立に進んでいきます。
明治新政府の素案となった、龍馬が執筆した「船中八策」ですが、夕顔丸の船中ではなく、実際は
長崎グラバー邸で草案をつくったのだそうです。グラバーは上海在住のイギリス商人でしたが、ビジネスチャンスと、
開港したばかりの長崎にやってきました。いまだに日本が火縄銃を使っているのを見て「これは儲かる」と思ったでしょう。

トーマス・グラバーは、イギリス・スコットランド生まれで、1859年、上海に渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。 その後、開港後まもない長崎に移り、2年後に香港の「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店(グラバーの肩書きは、「マセソン商会・長崎代理人」)として「グラバー商会」を設立。貿易業を営みました。当初は生糸や茶の輸出を中心として扱っていましたが、八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して長州藩の伊藤博文や井上馨らの英国への密留学を支援したほか、薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長沢鼎らの海外留学の手引きもしています。

1865年(慶応元年)には、大浦海岸において日本で初めて、蒸気機関車(アイアン・デューク号)を走らせた。1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を製造して本業にも力を注ぎ、1868年(明治元)、肥前藩と契約して高島炭鉱の開発に着手。また、長崎の小菅に船工場(史跡)を作っています。

龍馬は亀山社中を作り、グラバーから帆船や武器を仕入れ、薩摩藩へその武器を収めるようになります。アメリカでは南北戦争が終わって銃があり余っていました。その中古品を仕入れても飛ぶように売れました。
そして、その豊かな大藩、薩摩藩の援助によって、長州藩は鉄砲や西洋の近代兵器を長崎社中から手にすることができるようになります。こうして薩長同盟は、龍馬を介して倒幕に向けて着々と準備を進めていきます。

欧米列強の黒船が中国の次ぎに日本に迫っている…この危機感は、当時の人々にとって大変なものだったとは想像に難くありません。それほど、世界が動いている中で、300年近く鎖国政策を続けてきた江戸幕府が世の中から乖離してしまっていることに、龍馬は危機感を誰よりも察知していたからでしょう。筆まめ、情報を集め、「日本を洗濯する」と書くに至った背景には、リサーチできるものはすべてやった。自分の策以外に日本の将来はないという結論なのです。だからこそこれでだめだったら「なんとかなるきぃ!」という開き直りにも聞こえるセリフの通り、武士と言うよりも商売人的な日本の利益重視を研究しつくした龍馬だからこそ、薩長を動かすことができたのかも知れません。

明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めましたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)グラバー商会は破産。グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まりました。1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも、所長として経営に当たりました。また、1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥った日本最初のビール会社、横浜のスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築きました。

キリンビールのトレードマーク麒麟の長いひげは、トーマス・グラバーのひげに因んで付けられたといわれています。

龍馬の死後、海援隊を引き継いだのは同じ旧土佐藩士、岩崎弥太郎でした。彼は龍馬たちのように
維新の夜明けのために奔走することはありませんでしたが、土佐藩が輩出した希有な近代的センスを持ったビジネスマンでした。

グラバーといえばオペラ「蝶々夫人」のモデルになったことで有名です。グラバーは「蝶々夫人」では帰国することなっていますが、実際は“長崎か~ら~船に乗って、神戸ではなく横浜に着き”、三菱商会に渉外顧問として厚遇で迎えられます。やがて日本人の妻、談川ツルをもらい一男一女をもうけて、明治政府からも外国人としては破格の勲二等を叙勲しています。

在日外国人社会における人望は絶大で、鹿鳴館の名誉セクレタリーにも推され、明治日本の国際交流に貢献しました。また、かつてグラバーの尽力で密かに英国に留学した伊藤博文は、明治政府の高官となってからもグラバーと接触を保ち、私的に意見を求めることもあったといいます。

邸宅跡がグラバー園として一般公開され、現在長崎の観光名所となっています。
晩年の彼は「倉場」と名乗り、日本の土となりました。

4.岩崎彌太郎

岩崎弥太郎は、幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められます。21歳の時、江戸へ遊学し安積艮斉の塾に入塾。1856年父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放されます。その後、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、この時期後藤象二郎らの知遇を得ます。 慶応3年(1867年)、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事します。坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると、藩命により隊の経理を担当します。

時代は雲急を告げていました。雄藩(ゆうはん)は討幕に向けて準備を進めていました。京都では山内容堂(ようどう)、島津久光、松平春嶽、伊達宗城(だてむねなり)の四侯が会談し策を練るが纏(まと)まりません。容堂は後藤象二郎と坂本竜馬の意見を求めました。二人は急遽京都に向かいます。
この夕顔丸の船中で竜馬は、いわゆる『船中八策』をまとめました。

「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷から出ずべきこと。上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛(さんさん)せしめ、万機公論に決すべきこと…」で始まる、新しい国のグランド・デザインである。これは象二郎から容堂に建言され、容堂から徳川慶喜への建白書となって、歴史を大きく動かすことになります。

長崎商会の後事は彌太郎に託された。留守居役への郷士の起用。象二郎の信頼の厚さを示していました。彌太郎は、竜馬が長崎を離れてからもいろは丸事件※で紀州藩と粘り強く交渉を続けて多大な賠償を取りつけるなど、引き続き海援隊の面倒をみました。また、英国人殺傷事件で土佐藩にあらぬ嫌疑がかかると英国公使を相手に一歩も妥協しませんでした。

一方、竜馬は京都に出て半年、薩長土を主役とする維新の舞台回しの中で無念にも暗殺されてしまいます。新しい日本のあり方を建策し、その実現に邁進しながら、自らその結果を見届けることは叶いませんでした。七つの海に乗り出すことを夢見ていた竜馬。もし竜馬が明治の世にも生きていたら、海運を取り仕切り、貿易を手掛け、産業を興して、彌太郎三菱の強力なライバルになったでしょう。

5.龍馬暗殺


坂本竜馬・中岡慎太郎墓 霊山墓地(京都市東山区)(なお、靖国神社にも祀られている)

慶応三年(1867)十一月十五日夜、数名の暗殺者が醤油商近江屋を襲撃して、坂本龍馬・中岡慎太郎、下男の藤吉を殺害しました。この事件については、関係者の証言もまちまちで、暗殺犯は京都見廻組という説が有力ですが、犯人は誰なのかはっきりしていません。 龍馬は午後三時と五時の二回、近江屋の三件南隣りにある福岡孝弟の下宿を訪ねましたが、福岡は留守でした。中岡は以前の下宿先だった「菊屋」へ行って、「薩摩屋」へ手紙を届けるよう店の息子峰吉に頼みました。「菊屋」を出た中岡は、次に谷千城の家へ行きましたが、留守だったので龍馬のいる「近江屋」へ向かいました。

龍馬と中岡が話をしているところへ、岡本と手紙を届け終わった峰吉がやって来て話しに加わりました。龍馬が「シャモでも食おう」と言い出したので、峰吉はシャモを買いに「鳥新」へ出かけました。岡本はよそへ寄るから途中まで一緒に行くと行って席を立ちました。

峰吉らが出かけたのと入れ替わりに、数名の刺客が「近江屋」を訪れ、十津川郷士と名乗って龍馬に会いたいと言ってやって来たので、下男の藤吉は名刺を受け取り、龍馬に取り次ぐために二階へ上がっていきました。

二階奥の部屋には手前に中岡、行灯と火鉢を挟んで龍馬が向かい合っていました。二人が行灯に頭を寄せて、受け取った名刺を見ていると、藤吉について上がってきていた武士が突然「コナクソ!」といって中岡に斬りつけました。直後、別の武士も龍馬に斬りつけました。龍馬は床の刀を取り、鞘を付けたまま受け止めますが、力に押されて背中を方から脇へ斜めに斬られ、乱闘のうちに額を斬られてしまいました。一方、中岡も鞘のまま短刀を振り回して抵抗していましたが、ついに斬られてしまいました。

峰吉が買い物を終えて戻ってくると、すでに暗殺者は去った後でした。その後、連絡を受けた谷千城や陸援隊の田中光顕らが駆けつけました。

実行犯諸説

  • 新選組 原田左之助 暗殺現場の近江屋に遺留品として残された蝋色の鞘(さや)と、瓢亭が新選組の隊士に貸したという証言があったひょうたん印のついた下駄、犯人が発したという四国弁の「こなくそ」という言葉のすべてが、新選組の原田を示していた。しかし、物証のみで、実行グループに加わったとされる他の新選組隊士の物証は確認されていない。
  • 御陵衛士 伊東甲子太郎 原田左之助犯人説を裏付ける刀の鞘についての証言をしたのも、実はその鞘をすり替えていたのも、ともに御陵衛士の伊東一派であった。伊東と薩摩藩の関係もかなり深く、事件に深く関与していた可能性がある。
  • 薩摩藩士 中村半次郎 示顕流の達人で、別名人斬り半次郎と呼ばれた。西郷隆盛を神様のように崇めていたため、西郷の指示で暗殺したともいわれる。事件当日のアリバイはなかった。歴史家の西尾秋風氏の説では、他に土佐藩の松島和介、富永貫一郎、本川安太郎、岡山禎六、前島平吉、宮川助五郎の6名に佐土原藩脱藩士を含む合計9名が暗殺者だったとされている。
  • 見廻組 佐々木只三郎 見廻組与頭の佐々木只三郎が6名の部下を率いて、龍馬を暗殺したのが通説になっている。元幕府講武所教授方で、風心流小太刀と夢想流の居合いの使い手だった。主要メンバー
    今井信郎
    明治3年の刑部省での取り調べで、自分は見張りであったと証言していますが、家人には自分が龍馬を暗殺したと告白したといわれる。渡辺一郎(篤)
    暗殺容疑者の中で幕末の動乱を唯一生き残り大正4年に死去している。高弟の飯田恒太郎に、龍馬は自分が斬ったと語ったいう。

    桂早(隼)之助
    子孫宅から、龍馬を斬った刀と関係資料が発見されている。

    この他にも京都見廻組の関係者では、渡辺吉太郎、高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎(以上、今井信郎の供述及び家人の口伝による)、世良敏郎等が関与したとされる。

  • 長州藩士 実行犯説 長州藩内の一部過激集団による犯行ではないかといわれる。

    6.大政奉還と王政復古

    家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続しましたが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいました。5か月後の12月5日ついに将軍宣下を受けます。しかし、同月天然痘に罹っていた孝明天皇が突然崩御。睦仁親王(後の明治天皇)が即位しました。 翌慶応3年(1867年)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させましたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化しました。5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつありました。

    こうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図ります。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を山内容堂に進言し、周旋を試みていました。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の外祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって10月14日に討幕の密勅が出されるにいたります。ところが同日、徳川慶喜は山内容堂の進言を受け入れ、在京諸藩士の前で大政奉還を宣言したため、討幕派は大義名分を失うこととなってしまいました。ここに江戸幕府による政権は名目上終了します。

    しかし、慶喜は将軍職も辞任せず、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わりませんでした。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画します。12月9日、王政復古の大号令が下され、従来の将軍・摂政・関白などの職が廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与からなる新政府の樹立が宣言されました。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜は将軍辞職および領地返上を要請されたのです。会議に参加した山内容堂は猛反対しましたが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定されました。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去しましたが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまいます。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、幕府側を挑発しました。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちしました。

    なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られました。

    翌慶長三年(1866)十二月三日、王政復古の大号令が発せられ、第一回の新政府会議が開かれました。このことは「徳川家へ実質的な権力は帰ってくる」と考えていた徳川慶喜と親幕府派の諸大名や公卿らにしてみれば、まさにクーデターでした。十二月二十五日、江戸薩摩藩邸を拠点としての治安攪乱や挑発行為の横行にたまりかねた幕閣は、幕臣・諸藩の兵を発して、江戸の薩摩・佐土原両藩邸を急襲し不穏分子の一婦をはかりました。この急報が二十八日、大坂城の徳川慶喜の許に届けられると、在坂の幕臣・会津兵・桑名兵から「薩摩討つべし」の声が上がり、ついに慶喜の挙兵上京が決定しました。

    慶応四年(1868)一月三日正午過ぎ、薩摩藩討伐を掲げて、幕軍先鋒隊は淀城下を発し、鳥羽街道を北上しました。幕軍北上の動きを察知した薩長勢は、鳥羽小枝橋付近に布陣しました。

    狭い鳥羽街道を縦隊で北上して来た幕軍が、小枝橋付近に到着したのは、すでに夕方近くでした。そこで「朝命により上京するので通せ」という幕軍と「何も聞いていないので通すわけにいかない」とする薩摩兵との間でにらみ合いとなりました。

    薩摩の回答がない事にしびれを切らした幕軍は、再度交渉に向かいましたが、物別れに終わり双方が自陣に戻りました。その直後、鳥羽街道正面の薩摩砲が幕軍に向けて放たれました。こうして戦いの幕は切って落とされました。幕軍を待たせている間に臨戦態勢を整えていた薩軍は、この直後小銃の一斉射撃を行いました。西欧式装備の薩軍に対し、幕軍先鋒隊の見廻組五百余名は旧態依然の槍・刀を振りかざして肉弾戦を挑みました。銃弾の雨の中、多くの隊士が倒れていきましたが、これで時を稼いだ幕軍も銃を準備し、やがて壮絶な銃撃戦が開始されました。

    それから約一時間ほどの激戦の末、日没とともに戦闘は終了しました。陣地とするべき場所を失った幕軍は下鳥羽まで撤退しましたが、薩軍は追撃しませんでした。

    四日未明、松平豊前守以下約一千名の幕軍後続の中軍が合流した幕軍は、再び鳥羽街道を北上し、烈しく薩軍を攻めました。数時間の激闘の後、薩軍が後退もやむなしと思われたとき、新政府軍の援軍が到着し再び激戦となりました。薩摩を主力とする新政府軍は、御香宮神社を拠点として幕軍が陣した伏見奉行所とほとんど接していました。幕軍・新選組合わせて千五百名と、人数において勝っていた幕軍でしたが、火力に勝る新政府軍の攻撃を受けた幕軍は、午前十時頃、ついに横大路方面へ敗走しました。幕軍の拠点伏見奉行所は火を発し、日没頃には幕軍は敗走を余儀なくされました。前日、局長の近藤が狙撃され、傷の手当てのため大坂にいたため、土方歳三が隊士を指揮していました。土方は、得意の白兵戦で戦況を打開しようと、永倉新八の二番隊に塀を乗り越えて斬り込むように指示をしました。御香宮の西の京町通を通り、敵の背後を突くという作戦でした。しかし、途中で薩軍と衝突し小銃による銃撃を浴び、それ以上進むことができなくなり、永倉らはやむなく撤退しました。

    7.戊辰戦争(1868年~1869年)

    江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、ついに翌慶応4年(1868年。9月に明治と改元)正月「討薩表」を掲げ、京へ進軍を開始しました。1月3日鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始されました(鳥羽伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩・津藩などの寝返りが相次ぎ、5日には幕府軍の敗北が決定的となります。徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。これによって旧幕軍は瓦解しました。以後、翌年までおこなわれた一連の内戦を1868年の干支である戊辰をとって「戊辰戦争」と呼びます。 東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道・中山道・北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣されました。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布しました。

    江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となりました。

    しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し北関東、北越、南東北など各地で抵抗を続けました。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もりましたが、5月15日長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧されます(→上野戦争)。

    そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は武装恭順の意志を示したものの、新政府の意志は変わらず、周辺諸藩は新政府に会津出兵を迫られる事態に至りました。この圧力に対抗するため、陸奥、出羽及び越後の諸藩により奥羽越列藩同盟(北部政府)が結成され、輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立されました(東武皇帝)。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれましたが、いずれも新政府軍の勝利に終わりました。

    旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館の五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索し蝦夷共和国の樹立を宣言しますが箱館戦争で、翌明治2年(1869年)5月新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結しました。

    その間、薩摩・長州・土佐・肥前の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離されました。明治4年(1871年)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉しました(→明治維新)。

    8.出石藩出身者

    川﨑尚之助 川﨑尚之助は、出石藩医の息子で、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者だった。山本八重(のち新島 八重)は弘化二年(一八四五)一一月三日、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁で生まれている。父の権八が三九歳、母の咲が三七歳のとき三女として生まれたのだが、山本家にとっては五人目の子であった。一男二女は早逝し、一七歳年上の覚馬と二歳下の弟、三郎とともに育った。兄の覚馬は江戸で蘭学、西洋兵学を学ぶ藩期待の駿才だった。いつも銃や大砲に囲まれて育った八重は、並みの藩士以上に軍学に明るく武器の扱いも上手だった。

    『山本覚馬伝』(田村敬男編)によると、父の権八は黒紐席上士、家禄は一〇人扶持、兄の覚馬の代には一五人扶持、席次は祐筆の上とあるが、疑問がある。郭内の屋敷割地図を見ると、山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。幕末の山本家は、それ相応の家柄だったろうと情勢判断される。

    兄の山本覚馬は嘉永六年(一八五三)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番になっている。江戸での三年間、蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟らに西洋の兵制と砲術を学び、帰藩するやいなや蘭学所を開設している。八重にとって多感な人間形成期に兄覚馬の影響は大きかった。兄から洋銃の操作を習うことにより、知らず知らず洋学の思考を身につけていったのだった。

    安政四年(一八五七)、川﨑尚之助は、覚馬の招きにより会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていた。尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所日新館の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮していた。

    戊辰戦争が始まる前、八重と結婚した。八重と尚之助の結婚の時期についての記録は定かではないが、元治二年(一八六五)ごろと推定される。八重一九歳のときである。男勝りだった八重にはじめて女性らしい平凡な日々が訪れたが、結婚して三年後に戊辰戦争が始まる会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中尚之助は行方不明になった。断髪・男装し、家芸であった砲術を以て奉仕し、会津若松城籠城戦で奮戦したことは有名である。後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。

    その後の新島八重についてはここではくわしくは省きます。こちら
    参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅
    『京都時代MAP 幕末維新編』 光村推古書院
    三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2002年11月号掲載
    「但馬情報特急 但馬の事典」より参照
    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。

たじまる 近世-17

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

木戸孝允(桂小五郎)と新選組

桂は、様々な肩書きやエピソードを持っています。吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、江戸練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者・指導者・藩庁政務座の最高責任者として活躍。また、彼の周りには絶えず女性の姿があります。モテモテ男だったのです。

木戸孝允(桂小五郎)


京都守護職跡(京都府庁) 2009.1.27

木戸孝允(桂小五郎)は、天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩呉服町、薩摩藩出身の西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」のひとりとして並び称せられています。 桂小五郎は萩藩医 和田昌景の長男として生まれました。桂小五郎の少年時代は、病弱でありながら、他方、いたずら好きの悪童でもあったそうで、七歳のとき、隣家桂九郎兵衛に乞われてその養子に入りますが、養子になってから二十日ほどで養父が死に、さらに養母が死んだため、彼は実家で成人し、少年の身ながら桂家の当主になりました。

志士時代には徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれました。明治維新政府では、木戸の合議制重視の姿勢のため分かりにくいが、木戸が初代宰相、西郷が第二代宰相、大久保が第三代宰相に相当しました。

弘化3年(1846年)、長州藩の師範代である新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門しています。嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から大組士桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始めます。嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、ほか5名の藩費留学生たちと共に江戸に旅立ちます。

身長6尺(約174センチメートル)で当時としてはかなりの長身でした。江戸三大道場の一つ、「力の斎藤」(斎藤弥九郎)の練兵館(九段北三丁目)に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門1年で練兵館塾頭となります。大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えるや否や「その静謐(せいひつ)な気魄(きはく)に周囲が圧倒された」と伝えられます。小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡邊昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつけた人物)とともに、練兵館の双璧と称えられました。

ほぼ同時期に、

  • 「位の桃井」(桃井春蔵)の士学館(鏡新明智流剣術、新富一丁目)の塾頭を務めた武市半平太
  • 「技の千葉」(千葉定吉)の桶町千葉道場(北辰一刀流剣術、八重洲二丁目)の塾頭を務めた坂本龍馬
    も免許皆伝を得ています。 練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航(1854年)に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など天領五カ国の代官である江川太郎左衛門に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞します。文久2年(1862年)5月12日、小五郎や高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた江戸幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争(馬関戦争)を始めます(この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した江戸幕府が英米仏蘭に賠償金を支払うということで決着する)。5月、藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指します。

新選組池田屋襲撃事件(池田屋騒動)と桂小五郎


壬生寺 京都市中京区壬生

境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行こなわれたという。
また、一番隊組長・沖田総司が境内で子供達を集めて遊んだり、 近藤勇をはじめ隊士が壬生
狂言を観賞したり、新選組が相撲興行を壬生寺で企画し、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料
理し、力士に振る舞ったという、面白い逸話も当寺に残っている。境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。毎年7月16日には池田屋騒動の日とし、「新選組隊土等慰霊供養祭」がここで行われる。 当日は全国各地から
新選組を参詣者が数多く訪れ、近藤勇の胸像前で慰霊法要が行われた後、有志による剣技や詩吟
の披露がある(参加自由)。


壬生寺本堂

新選組が同志の近江郷士古高俊太郎宅に踏み込んで、倉庫に隠されていた武器、機械類、書簡類を押収し、古高を逮捕、壬生(みぶ)の屯所へ連行しました。土方(ひじかた)歳三の拷問には絶えられず、ついに自白しました。それは「風の烈しい夜を待って、洛中に火を放ち、その混乱に乗じて天皇を長州へ移す」という驚くべきクーデターの計画でした。

この計画を知った近藤勇は、京都守護職と京都所司代へ報告し、すぐに尊攘派志士たち犯行グループの捜索を始めました。 新選組壬生屯所では、普段と変わらない様子を装いながら、三人、五人とバラバラに、白の単衣姿に草履や下駄履きで出かけていきました。しかし、その単衣の下には、防具の竹胴がつけられていたことが目撃されています。


八木邸壬生屯所跡

新選組は文久3年(1863)3月に、ここ壬生の地において結成された。東門前の坊城通りには、
その当時、八木邸前川邸、南部邸の3箇所が屯所と定められ、今も八木邸と前川邸が残っている。(2009/1/25)目立たないように通常の市内見回りを装って、壬生屯所を出発した三十名の隊士は、続々と八坂神社の石段下の祇園町会所に集まりました。

全員が集まると、近藤を中心とするグループ五名は木屋町方面へ、土方を中心とするグループ25名は祇園方面へ向かい、旅籠などの旅客改めを開始しました。四条通にあった「越房」(所在不明)に八時四十五分頃、探索に訪れていました。その約30分後、縄手通四条東入ル北側にある茶屋「井筒」を調べており、恐らくアヤシイと思われるところをしらみ潰しに調べていたと思われます。


前川邸壬生屯所跡

元治元年(1864)6月5日夜、三条小橋西にある長州藩士の定宿だった旅籠(はたご)「池田屋」には、長州藩士を主とする尊攘派の志士三十名が集まっていました。彼らが集まったのは、同志の古高俊太郎が、この日朝早く新選組に捕らえられたことについて対策を打ち合わせるためでした。桂小五郎は長州藩邸を出て、密会の場である池田屋へ着きました。しかし、まだ誰も集まっていなかったため「まだ時間があるようだし、対馬藩邸に用事があるから今の内に…」と考え、いったん池田屋を出てすぐ近所の対馬藩邸の別邸に向かいました。


八坂神社 京都市東山区祇園町北側625番地

祇園町会所は、四条通の八坂神社前にあった。 四条木屋町付近から三条方面へ向けて探索を行っていた近藤グループは、「池田屋」へ踏み込みました。近藤が玄関の戸を開き、出てきた主人の惣兵衛に「新選組の御用改めである!」と怒鳴るとそのまま二階への階段を駆け上がりました。その後を沖田総司が続き、永倉新八と藤堂平助が一階を、近藤の養子の周平が表を固めました。一方、突然の新選組の襲撃を受けた尊壤派の志士たちは脇差しを抜き、明かりを消しました。暗闇の中で、手探り状態での息詰まる闘いが始まりました。

四条通から三条通までの祇園界隈からをしらみつぶしに探索してきた土方グループは、鴨川の三条大橋を渡ると「池田屋」での死闘が始まって約一時間後、ようやく「池田屋」へ駆けつけ表を固めました。土方グループの到着を知った近藤らは、相手を斬るより捕らえることを優先し、次々と捕らえていきました。守護職と所司代の手勢三千が到着したのは闘いがほぼ終わった頃でした。


池田屋跡 河原町三条通東入

しかし、この秘密の会合は、新選組によって襲撃され、多数の死者・逮捕者がでました。この池田屋騒動によって、新選組は尊攘派の志士たちに壊滅的な打撃を与えるとともに、全国にその名を轟かせました。


不動堂村屯所跡 京都市下京区東堀川通り塩小路下ル松明町1番地(リーガロイヤルホテル京都敷地)2009.1.27

不動堂村屯所は、西本願寺が本堂から見えるところで隊士の切腹があったり、拷問が行われるなどに閉口していた西本願寺がその費用を出して新築されました。この屯所は表門、高塀、式台玄関、使者の間、長廊下などが揃った大名屋敷風の立派なものでしたが、試用期間はわずか6ヶ月でした。

慶応2年(1866)当時、京都所司代が町奉行を監督し、京都の治安維持を行っていましたが、幕末期にはそれだけでは手に負えなくなったため、京都守護職が新設されました。新選組、見廻組は京都守護職配下に置かれました。

新選組の巡回地域割当は、西本願寺一帯と鴨川東岸の東山、所司代組は東本願寺一帯、京都守護職は鴨川東岸の四条以北、京都所司代は禁裏御所周辺、見廻組は蛸薬師通りから五条通と堀川下立売から西北を担当しました。

禁門の変(蛤御門の変)


蛤御門 2009/1/28

「禁門」とは「禁裏の御門」の略した呼び方です。蛤御門(はまぐりごもん)の名前の由来は、天明の大火(1788年1月30日)の際、それまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤に例えられた為です。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていました。


蛤御門の銃弾跡

尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、1863年(文久3年)に会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変(七卿落ち)で京都を追放されていました。7月18日、長州藩の攻撃が始まったころ、河原町の長州藩邸は加賀藩によって包囲されていました。しかし、加賀兵が踏み込んだとき、そこの桂小五郎の姿はありませんでした。桂はすでに対馬藩邸に逃れていました。

同日夜、対馬藩が長州藩の同情藩として断定され、幕軍が藩邸を取り巻き始めたため、御池通りを西へ油小路を北に向かい御所の西にある因幡藩邸へ向かいました。伏見方面で砲声が轟き、幕府対長州の激闘が始まりました。その中を因幡藩邸へ向かいました。


建礼門 禁裏の正門

因幡藩邸に潜んでいると、夜明け前になって御所の中立売御門を目指して進軍する長州軍の一隊が藩邸前を通っていきました。それに遅れて桂は堺町御門向けて出ていきました。鷹司邸が炎上し長州軍は敗走します。その混乱の中、桂は朔平門(ざくへいもん)当たりへと戦場を見察して回りました。この戦いで鷹司邸に発した火災は、河原町の長州藩邸の出火とともに、三日間に及ぶ大火の原因となりました。

夜陰に乗じて、桂は天王山へ向かいますが、伏見付近に至ったとき、天王山へ退いていた長州軍の総指揮官であった真木和泉らが自決し、兵が四散したことを聞き京の町へ引き返しました。


桂小五郎邸跡 京都オークラ前

7月19日午前七時頃、御所へ到着 長州藩は天皇の側近だった三条実美(さねとみ)らの公卿とともに、幕府を倒し、天皇による政治を復活させる企て(王政復古)を着々と進めていました。この勢力はかなり大きな流れとなり、幕府の存在を脅かすようになりました。これに対して巻き返しを図りたい公武合体派の会津藩と薩摩藩は密かに兵を集め、文久三年(1863)八月十八日、武力によるクーデターを起こしました。これを「八・十八の政変」といいます。


堺町御門 2009/1/28

公武合体派は御所を囲む兵を集め、長州藩の堺町御門警備を解任し、京都からの退出を命じ、関与した公卿と長州へ向かいました(七卿落ち)。 長州藩(山口県)は公武合体に敗れ京都から退去、さらに池田屋事件をきっかけに元治元年(1864年)7月に起こった蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)に敗れ、小五郎は幕府に追われる身となってしまうのです。


小五郎・幾松寓居跡碑とされているが、本当は三本木料亭「吉田屋」:京都市上京区 東三本木通

京都には彼を捨て身で守った幾松という女性がいました。幾松はひいき芸者の一人でした。三条大橋の下に隠れながら幾松が差し入れに食事を運んだ話もあります。 この政変によって長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行うことになります。戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。この二箇所から上がった火で京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失しました。


御所内 皇女和宮生誕地 2009/1/28

このとき小五郎は、藩主と三条実美らの復権を求めて活動し、再び天皇に忠義を尽くしたいと何度も願い出ましたがそれが聞き入れられることはありませんでした。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、三本木の吉田屋という料亭で桂小五郎と逢瀬を重ねていた幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら潜伏していました。しかし、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、三条大橋下に潜伏したり商人・広戸甚助の手引きで京を脱出し但馬出石に潜伏します。

一方、会津藩をはじめとする公武合体派は、京から尊壤派の志士たちを徹底的に排除しようと、新選組や見廻組を使って浪士狩りを行いました。ちなみに新選組は、この八・一八の政変の時に出陣し堺町御門の警備に当たった時に京都守護職松平容保から「新選組」という名前をもらい、正式に市中取締りの任に就きました。禁門の変では御所を囲むようにして幕府軍に北から備前藩・因幡藩・出石藩、東には尾張藩・篠山藩・桑名藩・見廻組・大垣藩・彦根藩、淀に宮津藩、丹波口には亀山(亀岡)藩、小浜藩、南は園部藩・鯖江藩、禁裏(御所)薩摩藩・筑前藩・会津藩・桑名藩などが布陣していました。


京都守護職跡 京都府庁内

京都所司代の役所や、住居は、二条城の北に隣接した場所に設けられ、二条城は使用されませんでした。その支配下に京都とその周辺の行政のために京都郡代が置かれましたが、後に町中を担当する京都町奉行と周辺部やそこにある皇室領・公家領を管理する京都代官に分離するようになりました。 京都に置かれた役人の総元締めの立場にありましたが、京都市政を預かる京都町奉行や宮中・御所の監督にあたる禁裏付などの役職は平時は所司代の指揮に従うものの、老中の管轄でした。

幕末動乱期は京都所司代だけでは、京の治安を治めるのは難しく、その上に最高機構として京都守護職をおき、所司代はその下に入りました。当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保(かたもり)は、これにより長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えることになります。 禁門の変に於いて長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行いました。慶応2年(1866)当時、京都市中巡回地域割り当ては、

  • 見廻組…京都守護職傘下。堀川下立売通以西、以北。蛸薬師通から五条通
  • 御定番組…西は御土居から東は寺町通、北は下立売通から南は蛸薬師通まで
  • 京都守護職…寺町通から四条通以北の左京
  • 新選組…西本願寺周辺、四条通以南・高瀬川以東(祇園・東山)
  • 所司代組…禁裏(御所)、東本願寺周辺▲ページTOPへ

桂小五郎、最大の危機 久畑関所


旧山陰道(支道)石畳が往時を偲ぶ

元治元年7月、小五郎は対馬藩邸出入りで知っていた出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ遁れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助は快く受け、その夜直ちに幕府方から逃れるために変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出を脱出、京街道の諸藩の関所をくくり抜けながら、もう少しで出石城下に入る但東町久畑にある京街道(現在の国道426号線)の久畑関所で、船頭を名乗る男(小五郎)が厳しい取り調べを受けていました。

関所があった石段 かつては木の関門があったので見たかったが今はなくなっている。

しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の命令が出ていたほどで、調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変で出陣しており、その知らせを受け、都からの脱出者を警戒していました。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りました。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。
明治維新 小五郎を出石へ追ってきた木戸松菊・・・碑(菊松の間違い)

そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできました。出石出身の商人、広戸甚助でした。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えました。甚助と顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放しました。

 

しかし、船頭の正体はやはり長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允)だったのです。その後しばらく出石と城崎温泉に潜伏。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。 後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生最大の危機だったのです。もし甚助の助けがなかったら…。ここで歴史が“動いた”かもしれない。


久畑宿陣跡の石碑

桂は但馬に潜伏しました。出石(兵庫県)や広戸家の菩提寺でもある養父の昌念寺、城崎温泉の旅館にも住み込みで働いていたそうです。しかし、長州討つべしとの命が下り、幕府寄りの出石藩・豊岡藩は、長州人逮捕の警戒を強めていたので出石の城下に滞在するには危険な場所でした。潜伏を始めて2ヵ月後、とうとう会津藩の追っ手が出石にやって来たのです。「さあ、逃げろ!」と出石より北にある兵庫県養父郡の西念寺という寺に潜伏場所を移しました。

更に今度は「寺に隠れるなど、あまりにも一般的。もっと見つかりにくい場所を」
ということで、一般の町家に潜伏先を移しました。そのひとつが豊岡藩の城崎温泉(きのさきおんせん)でした。大勢の湯治客の中に紛れ込めるので安全と考えたのでしょう。小五郎はその年の9月に城崎を訪れ、広戸甚助の顔がきく『松本屋』に逗留しました。ここには当時“たき”という一人娘がおり、桂の境遇を憐れんで親身に世話をしたといいます。

小五郎但馬に潜む


桂小五郎潜居跡

小五郎は温泉に入って心身を休めましたが、当時の城崎には各旅館に内湯はなく、「御所の湯」「まんだら湯」「一の湯」の3つの外湯があるに過ぎませんでした。城崎最古の源泉地「鴻の湯」は当時浴場としては使用されていなかったといいますうから、小五郎が入ったのも3つのうちのどれかでしょう。ちなみに、現在は全部で7つの外湯がありますが、温泉街全体で源泉を集中管理し供給しているため、泉質はすべて同じものだそうです。

10月、小五郎は一旦出石に戻り、荒物商(雑貨屋)になりすまして再起の時を待ったといいます。明けて慶応元年(1865)3月、再び城崎を訪れました。泊まったのはやはり『松本屋』で、長州再興し幕府と戦うに当り、桂を探し長州藩の大勢を告げ帰藩を望みました。愛人幾松も長州より城崎湯島の里へ尋ねて来ました。共に泊って入浴し1ヶ月ほど滞在したのちに大坂へ出て海路長州へ戻りました。長州に帰り木戸孝允と改名します。当時桂は33才でした。一人娘“たき”は小五郎の身のまわりの世話をしているうちに身重となったが、流産したといいます。その心境はいかばかりであったでしょうか。

小五郎が滞在した部屋には「朝霧の 晴れ間はさらに 富士の山」と墨で落書きされた板戸が残されていましたが、大正14年の北但大震災で温泉街もろとも焼失してしまいました。現在、館内に展示されている掛け軸や書状は広戸氏の関係者等から譲り受けたものといわれています。建物は震災で焼けた後の昭和初期に再建されたものですが、小五郎が使った2階の部屋は「桂の間」として再現されています。昭和41年春、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』の取材と執筆のために訪れ、この部屋に泊まっています。

温泉街の西側、外湯のひとつ御所の湯の向かいに「維新史跡・木戸松菊公遺蹟」と刻まれた1本の碑が立っています。“木戸松菊”とは桂小五郎の変名です。

ここが幕末に桂小五郎が身を隠していた宿『松本屋』で、現在は
『つたや』兵庫県豊岡市城崎町湯島485と名を変えて営業されいます。

城崎での潜伏は短く、再び出石に戻ってきます。しかし、出石藩は禁門の変で兵を出したとおり幕府方で長州人逮捕の命令が出ていたほどで、出石の城下に滞在するには危険な場所でした。幕吏の追手が出石にまで伸びてきたため何度か潜伏場所を変えました。まずは広戸の両親の家に世話になり、次に番頭も丁稚もいない荒物屋を開業しました。 つまり商人に成りすまして潜伏したわけです。出石潜伏期間の約10ヶ月の間に出石だけで7箇所以上潜伏先を移り変わりました。荒物屋にはひとりの女性がおり、前述の出石藩広戸甚助の妹で“八重”と言いました。桂は商売が出来るわけでなく、商売自身は八重が行いました。当然、桂の身の回りの世話もです。こういった、広戸一家の献身的な世話で、毎日を過ごしたようです。潜伏の毎日で、桂はやりきれない思いだったのかというと、案外そうではなかったようです。潜伏中の桂は、子供の手習いや、好きな碁を打ったり、また賭博にもはまり、結構借金を作ったとも言われています。


霊山墓地にある木戸孝允・幾子墓(京都市東山区)

慶応元年(1865年)2月、広戸が京都から幾松を連れて帰ってきました。幾松からエネルギーをもらい、またそのころ長州藩でも奇兵隊が立ち上がって尊王攘夷派が盛り返すというニュースも入ってきたため、再び気合が入った桂は、幾松を連れて出石を離れ長州へ帰っていったのです。 広戸の妹八重は、桂の帰郷をさぞ悲しく思ったことでしょう。小五郎が京都から逃れ潜んでいたといわれる出石の住居跡に現在は記念碑が残されています。

しかし、どこにいても女性の話がついてまわります。

その後、小五郎は薩摩の西郷隆盛と薩長同盟を結び倒幕へと奔走します。

維新後は木戸孝允と名を改め、五箇条の誓文の原案を作成。版籍奉還、廃藩置県など、明治の時代の基礎を固め新しい時代をつくっていきました。

参考:神戸新聞・城崎温泉観光協会▲ページTOPへ

 

たじまる 近世-16

tajimaru_b歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

>

概 要

  1. 英国の情報収集
  2. アーネスト・サトウ
  3. サトウの英国策論と国内の動向
  4. サトウとパークスの情報収集合戦
  5. サトウたち外交官の功績
  6. アストンとチェンバレン
  7. 日本の情報収集
  8. 外国人居留地
  9. まとめ

大航海時代が到来。植民地時代が始まると、東アジアネットワークの中心に位置したのが、香港、上海、横浜の三つの開港場でした。なかでも覇権を競った英仏の情報収集が活発になります。

日本に派遣された外交官たちが情報収集に力を入れたのは任務として当然のことでした。外交団の中心的存在である英仏の情報収集の方法には違いがありました。

 

1.英国の情報収集

 

 1860年初頭、英国外務省では、中国派遣の通訳生に北京で中国語の学習に専念させる制度が確立していました。しかし、日本へ派遣する通訳生の訓練については整備が遅れました。1861(文久元)年に通訳生に任命されたアーネスト・サトウは、上海に到着すると、初代駐日英国大使ラザフォード・オールコックから、北京に留まり漢字や漢文を習得すれば、日本語の書簡や書物を読みこなせると考えたからですが、当時、幕府との外交交渉は、英語からオランダ語へ、オランダ語から日本語へという手間のかかる方法をとらざるを得ませんでした。しかし、この方法では、交渉等に延滞や誤解が生じることが多く、攘夷事件の勃発等により外交交渉が頻繁に行われると、オランダ語を介さず直接英語に翻訳できる日本語通訳官の必要が痛感されるようになりました。 一方、フランスでは通訳生制度が確立しておらず、ド・ベルクール公使の公認として1864(元治元)年三月に来日したレオン・ロッシュ公使は、有能な領事や通訳不在のため、情報収集で英国に後れを取ることが多かったのです。そのためか、ロッシュの本国政府への報告は、英国に比べて情報量がきわめて少なく、内容的にも貧弱なものが多かったのです。ロッシュの対日政策は、幕府が条約を履行する限り幕府の立場を支持し擁護するもので、仏国からの武器輸入、横須賀海軍工廠の建設、軍事顧問団の招聘等を支援しましたが、幕府以外の諸藩、とりわけ西南雄藩に対する視点が欠落し、単眼的な理解しかできない状況を生むことになりました。

英国の情報収集を主に担ったのは、サトウとオランダ人アレグザンダー・シーボルトです。シーボルトは1859(安政六)年、父フィリップに連れられて13歳で来日、日本語の会話に優れていたこともあずかって、英国領事館に雇われました。一方サトウは、来日直後から日本人教師の指導を受け、草書体の読解などシーボルトより読み書きの能力が優れていたこともあって、65年4月には通訳生から通訳官に昇進し、その後68年1月には通訳畑の最高責任者である日本語書記官に就任しました。

▲ページTOPへ

 

2.アーネスト・サトウ

 

 こうした日本学者のなかで、最大の成果を残したのがアーネスト・サトウ(Ernest M. Satow)です。サトウは来日して二年目の1864(元治元)年、「日本という国、日本語、そして日本人に対する愛着」を断ち切れぬため「すぐれた日本学者」になることを決意し、日本語を習得、情報収集担当の外交官の任務を超えて、各分野の研究で先駆的役割を果たしました。日本アジア協会に論文を発表したり、英国の雑誌に寄稿しています。

1865年、片仮名や平仮名まじりの楷書、行書、草書等解説した「日本語のさまざまな書体」、73年には「会話編」を、76年には65年から編纂を進めていた初めての『英和口語辞典』を出版しました。

サトウはその苦労を次のように回顧しています。

日本語は、習得するのが困難であるという点で、中国語の次ぎに位置するものであり、日本語を学ぼうとする者にとっては、学習のさいに助けとなる文法書も辞書もないという、非常に著しい不便さを伴うので、日本語の学習者はまったく自分自身の独力にゆだねられるのである……ヨーロッパ人に知られていなかったこの言葉を学ぶために、絶え間ない努力を続けてきた。

1862年に開市開港交渉に派遣された遣欧使節団の随行員、市川渡の見聞録『尾蠅欧行漫録』を全訳し、65年に雑誌や新聞に発表。そのほか『絵本太閤記』『日本外史』『開国史談』『近世史略』等数多くの歴史書が、71年から73年にかけて彼により英訳されました。シャム(タイ)総領事時代の85年には、山田長政についての論考「十七世紀の日本・シャム交渉史に関する覚書」を発表、1900年には、秀吉・家康に会見し日英貿易の道を開いた東インド会社の商人兼船長の『ジョン・サリス船長の日本旅行記』を編集出版しています。

▲ページTOPへ

 

3.サトウとパークスの情報収集合戦

 

 1864年、四国連合艦隊による下関遠征に通訳として随行したサトウは、英国留学から急遽帰国した伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)らと親しく交流し、その後日本語を解して知己を広げ、情報収集活動に語学力を役立てていきました。65年サトウが伊藤に宛てた日本文の書簡(日本人教師が協力)には、第二次長州戦争に対する幕府側の動静や英国側の態度、武器の密貿易に対する英国の立場など貴重な情報を伝え、サトウと長州の間に情報の回路が成立していたことがわかります。

1865年7月、第二次公使ハリー・パークスが横浜に到着するや、英国の情報収集活動はさらに活発になりました。第二次長州戦争の最中、将軍家茂が病死するや、パークスは事実確認のためシーボルトを江戸に派遣し、大名の家臣や幕府の下級役人から後継者に関する情報を収集させました。またオランダ総領事ポルスブルックからも、オランダ人外科医が大坂城に呼ばれ江戸に派遣された情報を入手し、ロッシュからは将軍死去の確証を得ました。ヨーロッパの外交団は、利害が一致する場合は情報を交換し合っていたことが判明します。

ところで将軍と天皇との関係をいち早く理解したサトウは、1866(慶応二)年三回にわたり、横浜外国人居留地で発行されていた『ジャパン・タイムズ』に無題、無署名の論説を発表しました。この英文は、サトウの日本語教師である徳島藩士沼田寅三郎の協力で得てサトウ自身により翻訳され、その後、写本が各地に流布され、『英国策論』の題名で出版されました。現在数種の写本と版本が各地に残っており、その影響の大きさを物語っています。この論考は、天皇(Majesty)を元首とする諸大名の連合体が支配権力の座に着くべきだとする、サトウ個人の非公式見解でしたが、英国の対日政策を代弁するものとして受け取られ、討幕派に注目されました。また政治情報を収集しようとする諸藩の人々により読まれていきました。

幕府の監視が厳しい江戸での政治情報の入手を困難とみたパークスは、1866年12月から67年1月にかけて、「情報将校」サトウを長崎・鹿児島・宇和島・兵庫に派遣しました。サトウは長崎で宇和島藩士や肥後藩士から、京都での大名会議や長州問題、兵庫開港に関する情報を入手しました。またその帰途、兵庫で西郷吉之助(隆盛)と初めて会談、一橋慶喜の将軍職拝命の情報を外国人として最初に入手することができました。西郷が京都の小松帯刀に送った書簡には、西郷がサトウの心底を探るため、兵庫開港に関しては二、三年傍観すると発言したこと、サトウが長州問題と兵庫開港問題で幕府を追求した方がよいと、パークスの内政不干渉の立場から一歩踏み出した発言をしたことが記されています。

サトウは1867年2月、各国公使の新将軍徳川慶喜の謁見準備と大坂での政治情報の収集のため、再度兵庫へ派遣されました。この時から会津藩士等幕府側諸藩との交流が始まります。ついでパークスは、4月の慶喜謁見にサトウの他に、日本語能力に優れたウィリアム・アストンらを同行させ、英国公使館員の層の厚さを見せつけました。慶喜は外国との友好関係を希望して兵庫開港を確約、さらに5月には朝廷から勅許をとりつけ長年の外交懸案を解決しましたが、その助言者で合ったロッシュには日本語に堪能な通訳がつかず、幕臣以外と接触しなかったロッシュが入手できる情報は限られていたといえるでしょう。

一方、天皇を陛下(His Majesty)、将軍を殿下(His Highness)と呼び、日本語の専門家にふさわしく両者の関係を的確に理解していたサトウは、雄藩連合政権か徳川幕府の強化かという政局の現実に迫ることができたこともあって、西郷に「革命の機会」がなくなったわけではないが、兵庫が開港されると「大名は革命の好機を逸することになるだろう」と、彼らの奮起を促すなど、倒幕寄りの旗印を鮮明にしました。

1868年7月から、サトウはパークスの日本海側諸港の視察に同行し、新潟、佐渡、能登、金沢、福井等で各地の政治や物産の情報を収集、その後大坂に入り西郷と再会しました。この時西郷は、4月の慶喜の謁見以来英国領事館が幕府寄りの製作をとり始めたのではないかと危惧し、サトウに対して英国は仏国の「つかわれもの」ではないかと対抗心をあおり、英仏離間策を画策しています。挑発に乗ったサトウは、英国の対日政策を踏み越える武力援助、倒幕援助の提案をしたようですが、西郷は日本の政体変革は日本人の手で行うときっぱりと断りました。この後サトウは、パークスの命令で、イカルス号水夫殺害事件の調査のため土佐に派遣され、後藤象二郎や山内容堂と公議政体につて議論、さらに下関では井上聞多(馨)、長崎では伊藤俊輔(博文)や木戸準一郎(孝允)らと政治情勢について議論を重ねました。しかし、大政奉還や討幕運動の実情をさぐることができないほど、日本の変革はさらに進んでいました。

 

5.アストンとチェンバレン

 

 サトウに次ぐ日本研究者となったのがウィリアム・アストンです。アストンは1864(元治元)年、23歳でイギリス公使館通訳生として来日。69年に『日本口語小文典』や72年の『日本文語小文典』は、通訳生の入門書として編纂され、優れた日本語辞書として評価が高いものです。74年には「日本語はアーリア語と類似性があるか」を発表し、文法構造や語彙等について比較言語学的な試論を試み、75年には「古代日本の古典文学」を発表、日本最古の仮名で書かれた紀貫之の『土佐日記』を英訳、解説しました。

アストンはサトウよりいっそう学究肌で、帰国後も日本研究を続けました。96年に『日本書紀』を英訳、99年には代表的な業績となる「日本文学史」を、1905年にはサトウの神道研究を引き継いだ『神道』を出版しています。また、サトウから譲られた日本の書籍を含む膨大な蔵書一万冊(アストン・コレクション)は、ケンブリッジ大学図書館に所蔵されています。

1873(明治六)年に22歳で来日したバジル・ホール・チェンバレンは、30余年日本に滞在し、海軍兵学寮や帝国大学文科大学で英語を教授しながら、優れた日本研究を発表し続けました。80年に『日本の古代歌謡』、琉球語やアイヌ語等について研究を発表、82年には『古事記』の英訳を出版して日本学者としての地位を確立しました。サトウの研究を完成させたチェンバレンは、90年に「百科全書」的な『日本事物誌』を出版しました。

 

6.サトウたち外交官の功績

 

 日本の歴史や言語、社会、文化等が、外交官たちによって紹介されていった事例を上げてみたいと思います。

ラザフォード・オールコックは、初代駐日英国公使として1863(文久三)年『大君の都』を出版し、59年から62年にかけて行われた外交交渉や井伊大老の暗殺など諸事件を書き残しましたが、なかでも幕藩体制や日本の産業、経済、宗教、文化等日本社会についての分析は、その後の日本研究の基礎となりました。引退後も78年に『日本の芸術と芸術産業』を著し、英国の日本研究に貢献しています。

第二代駐日英国公使パークスは、著作を著すことはありませんでしたが、彼の尽力により、1872(明治五)年、横浜外国人居留地の英米系の人々を中心に日本アジア協会が設立されました。貿易商人や外交官、お雇い外国人、宣教師等の会員が、例会で、日本の歴史、風俗、言語、伝説、地理、鉱物、植物、建築、気候等あらゆる分野の研究を次々と発表し、この中から多くの日本学者(ジャパノロジスト)が育っていきました。

その一人であるバジル・ホール・チェンバレンは、「サトウ、アストン、マクラッチー、ガビンズなど、日本駐在のイギリス領事部門が生んだ著名な人物は、みなサー・ハリーの鼓舞と激励に負うところが大きい……勤務する者の中から、日本に関するあらゆる問題についての、主要な権威と呼ばれる人々が輩出した……この偉大な人物の監督下にあった時ほど、日本研究一般が活発で、しかも実り多い時期はなかった。」

つまり、日本の政治や社会情勢を的確に判断して外交交渉を有利に導くためには、各分野の「日本通」の育成が必要だったのです。パークスが対日外交を他の列強よりもリードし得た秘密はここにありました。

神道、キリシタン研究

サトウは、日本人を理解するには神道の分析が重要であると考え、1874年「伊勢神宮」を「発表。最初の外国人として伊勢神宮に参拝した経験や、本居宣長の『古事記伝』等を参考にまとめたものです。75年には「古神道の復興」を発表、仏教と儒教の影響を除いた神道の原初的形式を「古神道」と名づけた賀茂真淵や本居宣長ら近世国学者の神道観を、『古事記』『日本書紀』『万葉集』等の原典によって克明にたどり、日本学者としての力量を示しました。ついで78年、英国の季刊誌に匿名で「古代日本の神話と宗教的儀式」を発表し、「祝詞(のりと)」をヨーロッパに紹介した啓蒙的な論考で、本国への最初のデビュー論文となりました。79年には本格的な論文「古代日本の祭式」を発表、『延喜式』の「祝詞」を英訳しました。この研究はその後アストンに受け継がれています。

民族、地理、考古学、植物、書誌学、旅行記

1870年に「蝦夷のアイヌ」がロンドンの雑誌に掲載され、74年には新井白石の『琉球国時略』等を参考に、琉球の歴史や産物を紹介した「琉球についての覚書」を発表、78年には「煙草の日本伝来」「薩摩の朝鮮陶工」、80年にモースの大森貝塚発見等により考古学への関心をかき立てられ、「上野地方の古墳群」、82年には「日本の初期の印刷の歴史」や、「朝鮮の活字と日本の古活字本についての補足」を発表、99年に「日本における竹の栽培」は片山直人の『日本竹譜』を翻訳しています。また、81年に友人たちと日本各地を旅行した記録を集大成した『中部・北部日本旅行案内』をホーズと共著で出版しました。この本は、世界的に有名なロンドンのマレー社のガイドブックを手本に編纂されたもので、外国人の手になる最初の本格的な旅行案内書となりましたが、学術的色彩が強く、日本研究の集大成としても高く評価されています。

日本の書籍収集

日本語学習や日本研究を支えたのが、サトウ自身が収集した大量の日本の書籍です。助言もあって寺社や大名家等から流出した数多くの貴重な本を廉価で購入することができましたが、その後これら書籍の大半は他の研究者に提供され、現在は大英図書館やオックスフォード大学図書館、ケンブリッジ大学ボードリアン図書館、日本大学文理学部図書館、天理大学付属天理図書館、横浜開港資料館等多くの研究機関に所蔵されています。大英図書館が所蔵する1600年以前の古版本や古活字本は貴重で、日本国内に残存しないものもあり、質量共にきわめて評価の高いコレクションとされています。▲ページTOPへ

 

7.日本の情報収集

 

 それでは英国の情報収集に対して、日本側の情報収集はどのようになされていたのでしょうか。第一は、幕府や諸藩が、横浜で発行されていた英字新聞『ジャパン・ヘラルド』『ジャパン・コマーシャル・ニューズ』『ジャパン・タイムズ』等から情報を入手したことです。この情報は、洋書調所(後の開成所)で翻訳され、翻訳書写新聞として諸藩に回覧されました。

第二は、密偵を派遣して情報を収集していました。生麦事件以来、薩摩藩の江戸藩邸では探索方の南部弥八郎らが幕府や英国から情報を収集していました。南部は、下関砲撃、水戸天狗党の乱、禁門の変、第一次長州戦争等の情報や、江戸、横浜、京都、大坂の風説等を国元に送付し続けていました。江戸城内の情報は幕閣から、外国側の情報は外国奉行や神奈川奉行所付の翻訳方、送り込んだ書生、横浜の英字新聞等から得ていました。英国公使館が幕府へ提出した文書を南部が入手するため、サトウやシーボルトの留守中に潜り込ませた者に草稿を筆写させていたところ、サトウらが帰宅したため半分で止めざるを得なかった、という生々しい報告もあります。また『ジャパン・コマーシャル・ニューズ』には、薩英戦争後横浜に入り込んだ薩摩藩の探索方が、英国艦隊の再来襲の予測や薩英和平交渉の可能性を探っていた記事が掲載されています。日本側(倒幕方)も英国に劣らず情報収集を行っていたのです。

▲ページTOPへ

 

8.外国人居留地

 

 政府が外国人の居留及び交易区域として特に定めた一定地域をいう。これが居留地の始まりである。条約改正により1899年に廃止されるまで存続した。単に居留地ともいう。

鎖国時代の長崎に設置された出島や唐人屋敷も、一種の居留地に当たる。出島のオランダ人や唐人屋敷の中国人は、みだりに長崎市街へ外出することは許されなかった。1854年の日米和親条約では米国商船の薪水供給のため下田、箱館の二港が開港され、日英和親条約では長崎と箱館が英国に開港されたが、外国人の居住は認められなかった。その後、ロシアやオランダと締結された和親条約も同様である。
江戸幕府は、安政年間に1858年の日米修好通商条約をはじめとして英国、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。これを安政の五か国条約と総称する。この条約では、東京と大阪の開市および、箱館(現函館市)、神奈川(現横浜市神奈川区)、長崎、兵庫(現神戸市兵庫区)、新潟の五港を開港して外国人の居住と貿易を認めた。実際に開港されたのは、神奈川宿の場合、街道筋から離れた横浜村(現横浜市中区)であり、兵庫津の場合もやはりかなり離れた神戸村(現神戸市中央区)であったが、いずれにしても開港場には外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、あるいは住宅倉庫商館を建てることが認められた。居留地の外国人は居留地の十里(約40キロ)四方への外出や旅行は自由に行うことができ、居留地外でも治外法権があった。日本人商人との貿易は居留地内に限定された。

▲ページTOPへ

 

神戸居留地

 

 江戸幕府は天皇の居住する京都に近い畿内は攘夷気分が強く情勢不穏であるとして、兵庫開港を延ばしに延ばしていた。しかし、実際は、当時日本の経済的中心地であった大阪から外国人を遠ざけておきたかったからのようである。このため、神戸港は条約締結から10年を経過した1868年1月1日に開港した。

日本人と外国人との紛争を避けるため、開港場や外国人居留地は当時の兵庫市街地から3.5kmも東に離れた神戸村に造成される。東西を川に、北を西国街道、南を海に囲まれた土地で、外国人を隔離するという幕府の目的に適う地勢であった。ここにイギリス人土木技師J.W.ハートが居留地の設計を行い、格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道などを整備、126区画の敷地割りが行われ、同年7月24日に外国人に対して最初の敷地競売が実施された。全区画が外国人所有の治外法権の土地であり、日本人の立入が厳しく制限された事実上の租界である。当時、東洋における最も整備された美しい居留地とされた。この整然した街路は今もそのままである。神戸居留地では外国人の自治組織である居留地会議が良く機能し、独自の警察隊もあった。1868年に居留地の北、生田神社の東に競馬場が開設されているが、数年で廃止されている。

開港場の居留地は、長く鎖国下にあった日本にとって西洋文明のショーウィンドーとなり、文明開化の拠点であった。西洋風の町並み、ホテル、教会堂、洋館はハイカラな文化の象徴となる。この居留地を中心として横浜、神戸の新しい市街地が形成され、浜っ子、神戸っ子のハイカラ文化が生み出されることになる。

神戸の外国人居留地が日本に返還されたのは、不平等条約改正後の明治32年(1899年)であった。神戸市街地は1945年に大空襲を受けたため、現在の神戸市役所西側一帯にあった居留地時代(1899年以前)の建物で残っているのは旧居留地十五番館(旧アメリカ合衆国領事館、国の重要文化財)が唯一で、多く残る近代ビル建築は主に大正時代のものである。ただ、居留地が手狭になったため、1880年頃から六甲山麓の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)である北野町山本通付近に多くの外国人住宅が建てられ、戦災を免れた。これが今日の神戸異人館である。

▲ページTOPへ

 

9.居留地貿易

 

 函館・横浜・長崎開港後まもなく、「ゴールド・ラッシュ」と呼ばれる奇妙な現象がブームとなる。世界的に金銀の比価は1:15であったのに、日本では1:5であった。つまり日本では金が安く、銀が異常に高かったのである。(これは、幕府によって日本の銀貨には一種の信用貨幣的な価値が付与されていたという事情もあった。)このため、中国の条約港で流通している銀貨を日本に持ち込んで金に両替し、再び中国に持ち帰り銀に両替するだけで、一攫千金濡れ手で粟の利益が得られた。商売を禁止されている外交官でさえこの取引を行ったとされる。事態に気付いた江戸幕府が通貨制度の改革に乗り出す頃には大量の金が日本から流出し、江戸市中は猛烈なインフレーションに見舞われていた。 政治的緊張が続く幕末には、武器や軍艦が日本の主要輸入品となった。武器商人トーマス・グラバーが長州藩や薩摩藩を相手に武器取引を行ったのは長崎であった。明治になっても近代化のために最新の兵器や機械の輸入は続く。これに対して日本が輸出できるのは日本茶(グリーンティー)や生糸くらいしかなかった。貿易赤字は金銀で決済するしかない。このため富国強兵を掲げる明治政府は殖産興業に力を入れ、富岡製糸場などを建設していく。
 

居留地と華僑

 

横浜、神戸、長崎では居留地の中(神戸は隣接地)に中華街が形成され、日本三大中華街に発展した。これは当初来日する外国商人は中国の開港場から来る者が多く、日本は漢字が通用するので中国人買弁が通訳として同行してきたためである。その後、日本と中国各地の開港場に定期船航路が開けると中国人商人(華僑)が独自に進出してきた。 中国人もオランダ人同様、長崎唐人屋敷で長年日本貿易を行ってきた歴史がある。神戸に進出した華僑は富裕な貿易商が多く、彼らは北野町とその西に居を構えた。これが神戸の関帝廟が例外的に中華街から離れた山手の住宅地に存在する理由である。

横浜に進出した華僑は、その大半が飲食業を営んだために、中華街の面積が大きくなった。

 

9.まとめ

 

 以上、主に英国外交官を中心とする欧米の情報活動の一環は、

  • 英国の情報収集は、幕府以外の雄藩や討幕運動にまで及び、日本の政治動向を正確に把握することに力が入れられていたこと
  • 仏国の情報源は主に幕府に限られていたため、正確に把握することができなかったこと
  • また対日貿易においても英国は圧倒的優位を占め、こうした貿易と情報収集の幅の広さ、卓越した能力は、幕末維新期の英仏の対日政策に決定的な差をもたらしました。それを可能にしたのがサトウやアストンらを生みだした通訳生制度であったことは間違いないのです。 日本アジア協会に集まった外国人たちが、多種多様な研究を行い、優れた日本学者として、現在につながる日本研究に多大な貢献をもたらし、日本文化の国際化に寄与したことはたしかです。

    ▲ページTOPへ
    参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
    ▲ページTOPへ

 

近世江戸紫(えどむらさき)#745399最初のページ戻る次へ

 

Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reser E-mail

たじまる 近世-15

tajimaru_b歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

交通革命と情報合戦

 

9.交通革命の時代

 

 汽船と電信という技術革新を背景に、交通・情報ネットワークが一変して世界が交通革命の時代を迎えたのは1860年代末のことでした。

汽船は、1850年代にスクリューの開発、60年代には二段膨張エンジンの実用化、70年代には三連成機関の登場によって、航続距離の延長、船舶の大型化、高速化など飛躍的に高校性能を上昇させ、1870年代以降それまでの海上交通の担い手であった帆船を駆逐していきました。

1867年には、ペリーが開拓した太平洋横断行路が、太平洋郵船というアメリカの汽船会社によって実現しました。ついで1869年には、スエズ運河の開通、アメリカ横断鉄道の開通という、世界の交通網を一変させる事件が相次いで起きました。

新たな交通網の形成により、1869年にはロンドン・横浜間の移動日数は、スエズ運河経由の東回りルートで54日、太平洋経由の西回りルートで33日となりました。まさに「八十日間世界一周」が実現することになったのです。ジュール・ベルヌがこの小説を書いたのは1873年です。イギリスの旅行業者のトマス・クックは1872年に西回りでの世界一周ツアーを実施し、1871年、日本の岩倉具視使節団は東回りで欧米回覧の旅(実際は不平等条約)に出ています。

また、海底電信の敷設は、変動するヨーロッパの商況を早くしかも的確に把握することを可能にし、アジア貿易のリスクを大幅に減らしました。幕末期、セイロン以東には電信網は通じておらず、本国政府からの指令や日本からの情報は船で運ばれていました。1869年にスエズ運河が開通するまで、往復には四~五ヶ月かかっていたのです。電信線がデンマーク系の会社によりシベリア経由で長崎に延長敷設されるのは、1871年です。電信線は同年上海・香港へとつながれ、香港で、地中海・インド洋を経由して敷設された英国系会社の海底電線と接続されました。ヨーロッパと横浜や東京が電信でつながるのは73年のことです。

アジアの開港場に各国の植民地銀行が支店を開設して貿易金融を開始したため、資金力の弱い勝者にも貿易取引に参加する機会を拡大しました。不平等条約が締結された1850年代末とは比較にならないほど、経済的結びつきは拡大し、強固なものになっていきました。

そのネットワークの中心に位置したのが、香港、上海、横浜の三つの開港場でした。植民地金融、商業の拠点であり、定期海運網の基地であると同時に、通信・情報(海底電信網、外字新聞、領事館)のセンターでもありました。欧米の東アジア経営を支える貿易・流通機能の集中点としての三港体制は、定期汽船航路が拡充された1860年代に入って形成され、交通革命を迎えた1870年代に急速に整備されていいたのです。

▲ページTOPへ

参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅▲ページTOPへ

 

10.1880年代への展望

 

 こうして欧米によって形成された東アジアの国際的ネットワークは、欧米との経済関係のみならず、アジア相互の経済関係においても実権を握りました。しかし、1880年代にかけて、アジア相互の条約体制が整備されていくにつれ、アジア相互の直接貿易が発展し、朝貢(ちょうこう)貿易システムにかわる自由貿易状況が形成されると、貿易ネットワークは三港を中心としつつもその他の開港場相互のネットワークの拡充によって急速に多元化していきました。また、80年代における東アジア域内市場の拡大は、欧亜間貿易を独占していた欧米資本の地位を低下させていきました。その結果、アジアの海は、次第にアジア商人の手に握られるようになっていくのです。

上海・香港・横浜の三港は、いずれも在来の都市をなるべく避けて、現地との衝突を起こさない場所を選んで建設されました。たとえば、香港では、中国人には利用価値のない不毛の島と呼ばれた香港島を獲得し、港湾都市を建設して、やがてアジア最大の貿易都市へと発展させました。

日本では当初の開港場は神奈川とされていましたが、幕府はここを避けて当時の小さな漁村である横浜村を開港場に指定しました。ここに外国人の居留地を建設しても問題は少ないと考えたのです。列強は当初は異論を唱えましたが、商人たちは次々と横浜に進出したため、開港場として認め、やがて日本最大の貿易港へと発展したのです。

とはいえ、この三港は、ヨーロッパから東回りでも西回りでも終着点であったため、列強の複雑な利害関係が絡み合っていました。そのことが三港の性格の違いを生じさせたのです。

 

香港はイギリスのネットワークの拠点

 

 香港は、南京条約でイギリスに割譲されたイギリスの植民地であり、イギリスの世界海運ネットワークの終結点でした。英国(頭脳)、インド(胴体)、シンガポール(肘:ひじ)、香港(手首)、上海・横浜(指)というたとえがありますが、まさに香港は、東アジアへの入口であり、アジア経営の要でした。

香港には、香港総督・全権大使・貿易監督官が設置され、イギリス海軍の極東艦隊が置かれていました。軍事的・外向的基地としての役割が重視されていたため、香港財政の構造は土地、アヘン、酒類ライセンス収入が主であり、支出の第一は人件費でした。

香港は、軍事基地およびイギリス国内法の保護を要する金融の中心でしたが、地代が高い、総督の東征が厳しい、後背地が狭い、貿易の可能性が少ない、などのデメリットから、住みにくい(上海との気候の違い、病死が多い)という欠点がありました。そのため初期には貿易商から嫌われていました。

▲ページTOPへ

 

上海はどちら回りでも終着点

 

 香港(植民地)がアジア経営の政治的、軍事的センターであったのに対して、上海(居留地)は中国側の開港場であり、欧米の共同租界が設置され、租界の経営には列強が共同してあたりました。上海は東回り、西回りのどちらでもアジアの終着点であり、その先には長江や大運河を通じて広大な中国内陸都市が広がっていました。香港が欧亜間貿易の中継点であるのに対して、上海は内陸市場と外国貿易を結合する中国の経済ネットワークの拠点であったのと同時に、アジア域内最大の貿易・海運・布教の拠点でもありました。両者は分業関係が成立していました。

また、私見ですが、上海は長江の支流に位置しています。ロンドンもテームズ川を少し入った港でありよく似ています。

 

横浜は太平洋ネットワークの拠点

 

 一方横浜は、西回りルートにおける東アジアの入口であり、その意味では、アメリカの東アジア戦略の拠点としての性格を有していました。イギリスにとって、横浜は最終点であり、香港・上海に比べればその地位は相対的に低かったというべきでしょう。アメリカは南北戦争によって一時的に後退したものの、1870年代には再び対日外交を積極化させて、英仏のアジア経営に対抗していきます。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
▲ページTOPへ

 

近世江戸紫(えどむらさき)#745399最初のページ戻る次へ

 

Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reser E-mail

王政復古と鳥羽・伏見の戦い 学校で教えてくれなかった近現代史(21)

王政復古の大号令

徳川家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続しましたが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいました。5か月後の12月5日ついに将軍宣下を受けます。しかし、同月天然痘に罹っていた孝明天皇が突然崩御。睦仁親王(後の明治天皇)が即位しました。

翌慶応3年(1867年)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させましたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化しました。5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつありました。

こうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図ります。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を山内容堂に進言し、周旋を試みていました。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の外祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって10月14日に討幕の密勅が出されるにいたります。ところが同日、徳川慶喜は山内容堂の進言を受け入れ、在京諸藩士の前で大政奉還を宣言したため、討幕派は大義名分を失うこととなってしまいました。ここに江戸幕府による政権は名目上終了します。

しかし、慶喜は将軍職も辞任せず、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わりませんでした。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画します。12月9日、王政復古の大号令が下され、第一回の新政府会議が開かれました。従来の将軍・摂政・関白などの職が廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与からなる新政府の樹立が宣言されました。このことは「徳川家へ実質的な権力は帰ってくる」と考えていた徳川慶喜と親幕府派の諸大名や公卿らにしてみれば、まさにクーデターでした。

同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜は将軍辞職および領地返上を要請されたのです。(大政奉還)会議に参加した山内容堂は猛反対しましたが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定されました。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去しましたが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまいます。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、幕府側を挑発しました。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちしました。

なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られました。

鳥羽・伏見の戦い

12月25日、江戸薩摩藩邸を拠点としての治安攪乱や挑発行為の横行にたまりかねた幕閣は、幕臣・諸藩の兵を発して、江戸の薩摩・佐土原両藩邸を急襲し不穏分子の一婦をはかりました。この急報が二十八日、大坂城の徳川慶喜の許に届けられると、在坂の幕臣・会津兵・桑名兵から「薩摩討つべし」の声が上がり、ついに慶喜の挙兵上京が決定しました。

慶応四年(1868)一月三日正午過ぎ、薩摩藩討伐を掲げて、幕軍先鋒隊は淀城下を発し、鳥羽街道を北上しました。幕軍北上の動きを察知した薩長勢は、鳥羽小枝橋付近に布陣しました。

狭い鳥羽街道を縦隊で北上して来た幕軍が、小枝橋付近に到着したのは、すでに夕方近くでした。そこで「朝命により上京するので通せ」という幕軍と「何も聞いていないので通すわけにいかない」とする薩摩兵との間でにらみ合いとなりました。

薩摩の回答がない事にしびれを切らした幕軍は、再度交渉に向かいましたが、物別れに終わり双方が自陣に戻りました。その直後、鳥羽街道正面の薩摩砲が幕軍に向けて放たれました。こうして戦いの幕は切って落とされました。幕軍を待たせている間に臨戦態勢を整えていた薩軍は、この直後小銃の一斉射撃を行いました。西欧式装備の薩軍に対し、幕軍先鋒隊の見廻組五百余名は旧態依然の槍・刀を振りかざして肉弾戦を挑みました。銃弾の雨の中、多くの隊士が倒れていきましたが、これで時を稼いだ幕軍も銃を準備し、やがて壮絶な銃撃戦が開始されました。

それから約一時間ほどの激戦の末、日没とともに戦闘は終了しました。陣地とするべき場所を失った幕軍は下鳥羽まで撤退しましたが、薩軍は追撃しませんでした。

四日未明、松平豊前守以下約一千名の幕軍後続の中軍が合流した幕軍は、再び鳥羽街道を北上し、烈しく薩軍を攻めました。数時間の激闘の後、薩軍が後退もやむなしと思われたとき、新政府軍の援軍が到着し再び激戦となりました。薩摩を主力とする新政府軍は、御香宮神社を拠点として幕軍が陣した伏見奉行所とほとんど接していました。幕軍・新選組合わせて千五百名と、人数において勝っていた幕軍でしたが、火力に勝る新政府軍の攻撃を受けた幕軍は、午前十時頃、ついに横大路方面へ敗走しました。幕軍の拠点伏見奉行所は火を発し、日没頃には幕軍は敗走を余儀なくされました。前日、局長の近藤が狙撃され、傷の手当てのため大坂にいたため、土方歳三が隊士を指揮していました。土方は、得意の白兵戦で戦況を打開しようと、永倉新八の二番隊に塀を乗り越えて斬り込むように指示をしました。御香宮の西の京町通を通り、敵の背後を突くという作戦でした。しかし、途中で薩軍と衝突し小銃による銃撃を浴び、それ以上進むことができなくなり、永倉らはやむなく撤退しました。

戊辰戦争

江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、ついに翌慶応4年(1868年。9月に明治と改元)正月「討薩表」を掲げ、京へ進軍を開始しました。1月3日鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始されました(鳥羽伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩・津藩などの寝返りが相次ぎ、5日には幕府軍の敗北が決定的となります。徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。これによって旧幕軍は瓦解しました。以後、翌年までおこなわれた一連の内戦を1868年の干支である戊辰をとって「戊辰戦争」と呼びます。

東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道・中山道・北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣されました。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布しました。

江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となりました。

しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し北関東、北越、南東北など各地で抵抗を続けました。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もりましたが、5月15日長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧されます(→上野戦争)。

そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は武装恭順の意志を示したものの、新政府の意志は変わらず、周辺諸藩は新政府に会津出兵を迫られる事態に至りました。この圧力に対抗するため、陸奥、出羽及び越後の諸藩により奥羽越列藩同盟(北部政府)が結成され、輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立されました(東武皇帝)。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれましたが、いずれも新政府軍の勝利に終わりました。

旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館の五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索し蝦夷共和国の樹立を宣言しますが箱館戦争で、翌明治2年(1869年)5月新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結しました。

その間、薩摩・長州・土佐・肥前の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離されました。明治4年(1871年)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉しました(→明治維新)。

「幕末のジャンヌ・ダルク」新島八重と川﨑尚之助

川﨑尚之助は、出石藩医の息子で、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者だった。山本八重(のち新島 八重)は弘化二年(一八四五)一一月三日、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁で生まれている。父の権八が三九歳、母の咲が三七歳のとき三女として生まれたのだが、山本家にとっては五人目の子であった。一男二女は早逝し、一七歳年上の覚馬と二歳下の弟、三郎とともに育った。兄の覚馬は江戸で蘭学、西洋兵学を学ぶ藩期待の駿才だった。いつも銃や大砲に囲まれて育った八重は、並みの藩士以上に軍学に明るく武器の扱いも上手だった。

『山本覚馬伝』(田村敬男編)によると、父の権八は黒紐席上士、家禄は一〇人扶持、兄の覚馬の代には一五人扶持、席次は祐筆の上とあるが、疑問がある。郭内の屋敷割地図を見ると、山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。幕末の山本家は、それ相応の家柄だったろうと情勢判断される。

兄の山本覚馬は嘉永六年(一八五三)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番になっている。江戸での三年間、蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟らに西洋の兵制と砲術を学び、帰藩するやいなや蘭学所を開設している。八重にとって多感な人間形成期に兄覚馬の影響は大きかった。兄から洋銃の操作を習うことにより、知らず知らず洋学の思考を身につけていったのだった。

安政四年(一八五七)、川﨑尚之助は、覚馬の招きにより会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていた。尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所日新館の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮していた。

戊辰戦争が始まる前、八重と結婚した。八重と尚之助の結婚の時期についての記録は定かではないが、元治二年(一八六五)ごろと推定される。八重一九歳のときである。男勝りだった八重にはじめて女性らしい平凡な日々が訪れたが、結婚して三年後に戊辰戦争が始まる会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中尚之助は行方不明になった。断髪・男装し、家芸であった砲術を以て奉仕し、会津若松城籠城戦で奮戦したことは有名である。後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。

明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。

兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い明治8年(1875年)には女紅場を退職して準備を始め、翌明治9年(1876年)1月3日に結婚。女紅場に勤務していたときの経験を生かし、キリスト教主義の学校同志社(同士社大学の前身)の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。

明治23年(1890年)、襄は病気のため急逝。2人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。

日清戦争、日露戦争で篤志看護婦となった功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を授与される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。
墓所は襄の隣、京都市左京区若王子の京都市営墓地内同志社墓地。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

小五郎但馬に潜む 学校で教えてくれなかった近現代史(17)

開国攘夷に傾く

蛤御門の変(禁門の変)が起きる2年前の文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、これまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。

兵学家で幕府代官江川太郎左衛門から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ
浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学ぶ
江戸幕府海防掛本多越中守の家来高崎伝蔵からスクネール式洋式帆船造船術を学ぶ
長州藩士手塚律蔵から英語を学ぶ
文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助、久坂玄瑞(義助)たちと共に、吉田松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付長井雅楽の幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。

欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において文久2年から文久3年の春にかけて定着し、文久3年(1863年)5月8日、長州藩から英国への秘密留学生五名が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。

この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名、すなわち、井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)。山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。この時点で小五郎は、長州藩急進派の尊皇攘夷派とは一線をかして西洋に学び開国しても同時に富国しなければならないと思っていたところが、龍馬などと世界観が合致していたのだろう。

八月十八日の政変

江戸時代末期の文久3年八月十八日(1863年9月30日)に中川宮朝彦親王や薩摩藩・会津藩などの公武合体派が長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都における政治の中枢から追放した政変である。

尊攘派の長州藩と公家は、大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に命ずる事を孝明天皇に献策しようとした。徳川幕府がこれに従わなければ長州藩は錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に葬ることも視野に入れたものだった。しかし、事前に薩摩藩(当時は長州藩と対立)に察知され、薩摩藩や藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩、尊攘派の振る舞いを快く思っていなかった孝明天皇や公武合体派の公家は連帯してこの計画を潰し、朝廷における尊攘派一掃を画策した。

文久3(1863)年8月18日、会津・薩摩などの藩兵が御所九門の警護を行う中、公武合体派の中川宮朝彦親王や近衛忠熙・近衛忠房父子らを参内させ、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議。長州藩兵は、堺町御門の警備を免ぜられ京都を追われた。またこの時、朝廷を追放された攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人も長州藩兵と共に落ち延びた(七卿落ち)。

これによってこれまで京都政界を掌握してきた長州などの尊攘派が京都政界から追放された。後に池田屋事件や禁門の変が起こるきっかけにもなった出来事であった。
蛤御門の変(禁門の変)


光村推古書院

八月十八日の政変の不当性が認められない上、池田屋事件まで起こされた長州藩は、小五郎や周布政之助・高杉晋作たちの反対にもかかわらず、先発隊約300名が率兵上洛し、蛤御門の変(禁門の変)を敢行するが、結局失敗に終わる。

このとき小五郎は、幕府寄りの因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難する所を直訴に及ぼうと待った。

しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、但馬出石に潜伏する。

桂小五郎、最大の危機 久畑関所

元治元(1864)年八月二十日の蛤御門の変(禁門の変)で危険を感じた小五郎は、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。しかし、会津藩など幕府方による長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくるから逃れるため、桂小五郎(木戸孝允)が懇意にしていた対馬藩邸出入りで知っていた但馬出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ逃れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助は快く受け、その夜直ちに幕府方から逃れるために変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出を脱出した。

京街道(山陰道)の諸藩の関所をくくり抜けながら、福知山から出石に抜ける京街道(現在の国道426号線)を通り、もう少しで但馬出石城下に入る高橋村(但東町)久畑にある出石藩久畑関所で、船頭を名乗る男(小五郎)が厳しい取り調べを受けた。小五郎、最大の危機である。

しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の命令が出ていたほどで、調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変でも出陣しており、その知らせを受け、都からの脱出者を警戒していた。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りった。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。

そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできた。広戸甚助である。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えた。甚助と顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放したのである。
後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生最大の危機だった。もし甚助の助けがなかったら…。ここで維新の歴史が“変わった”かもしれない。

但馬潜伏期間

  
桂小五郎潜居跡(豊岡市出石町魚屋)

桂は但馬出石(兵庫県)に潜伏していた。しかし、長州討つべしとの命が下り、幕府寄りの出石藩・豊岡藩は、長州人逮捕の警戒を強めていたので出石の城下に滞在するには危険な場所でした。潜伏を始めて2ヵ月後、とうとう会津藩の追っ手が出石にやって来たのです。「さあ、逃げろ!」と出石より北にある広戸家の菩提寺でもある兵庫県養父郡の西念寺という寺に潜伏場所を移した。城崎温泉の旅館にも住み込みで働いたり場所を幾度も変更したそうである。

更に今度は「寺に隠れるなど、あまりにも一般的。もっと見つかりにくい場所を」 ということで、一般の町家に潜伏先を移しました。そのひとつが豊岡藩の城崎温泉(きのさきおんせん)でした。大勢の湯治客の中に紛れ込めるので安全と考えたのでしょう。小五郎はその年の9月に城崎を訪れ、広戸甚助の顔がきく『松本屋』に逗留しました。ここには当時“たき”という一人娘がおり、桂の境遇を憐れんで親身に世話をしたといいます。

小五郎は城崎温泉に入って心身を休めましたが、当時の城崎には各旅館に内湯はなく、「御所の湯」「まんだら湯」「一の湯」の3つの外湯があるに過ぎませんでした。城崎最古の源泉地「鴻の湯」は当時浴場としては使用されていなかったといいますうから、小五郎が入ったのも3つのうちのどれかでしょう。ちなみに、現在は全部で7つの外湯がありますが、温泉街全体で源泉を集中管理し供給しているため、泉質はすべて同じものだそうです。

10月、小五郎は一旦出石に戻り、荒物商(雑貨屋)になりすまして再起の時を待ったといいます。明けて慶応元年(1865)3月、再び城崎を訪れました。泊まったのはやはり『松本屋』で、長州再興し幕府と戦うに当り、桂を探し長州藩の大勢を告げ帰藩を望みました。愛人幾松も長州より城崎湯島の里へ尋ねて来ました。共に泊って入浴し1ヶ月ほど滞在したのちに大坂へ出て海路長州へ戻りました。長州に帰り木戸孝允と改名します。当時桂は33才でした。一人娘“たき”は小五郎の身のまわりの世話をしているうちに身重となったが、流産したといいます。その心境はいかばかりであったでしょうか。

小五郎が滞在した部屋には「朝霧の 晴れ間はさらに 富士の山」と墨で落書きされた板戸が残されていましたが、大正14年の北但大震災で温泉街もろとも焼失してしまいました。現在、館内に展示されている掛け軸や書状は広戸氏の関係者等から譲り受けたものといわれています。建物は震災で焼けた後の昭和初期に再建されたものですが、小五郎が使った2階の部屋は「桂の間」として再現されています。昭和41年春、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』の取材と執筆のために訪れ、この部屋に泊まっています。

温泉街の西側、外湯のひとつ御所の湯の向かいに「維新史跡・木戸松菊公遺蹟」と刻まれた1本の碑が立っています。“木戸松菊”とは桂小五郎の変名です。
ここが幕末に桂小五郎が身を隠していた宿『松本屋』で、現在は『つたや』兵庫県豊岡市城崎町湯島485と名を変えて営業されいます。

城崎での潜伏は短く、再び出石に戻ってきます。しかし、出石藩は禁門の変で兵を出したとおり幕府方で長州人逮捕の命令が出ていたほどで、出石の城下に滞在するには危険な場所でした。幕吏の追手が出石にまで伸びてきたため何度か潜伏場所を変えました。まずは広戸の両親の家に世話になり、次に番頭も丁稚もいない荒物屋を開業しました。 つまり商人に成りすまして潜伏したわけです。

出石潜伏期間の約10ヶ月の間に出石だけで7箇所以上潜伏先を移り変わりました。荒物屋にはひとりの女性がおり、前述の出石藩広戸甚助の妹で“八重”と言いました。桂は商売が出来るわけでなく、商売自身は八重が行いました。当然、桂の身の回りの世話もです。こういった、広戸一家の献身的な世話で、毎日を過ごしたようです。潜伏の毎日で、桂はやりきれない思いだったのかというと、案外そうではなかったようです。潜伏中の桂は、子供の手習いや、好きな碁を打ったり、また賭博にもはまり、結構借金を作ったとも言われています。

慶応元年(1865年)2月、広戸が京都から幾松を連れて出石へ帰ってきました。幾松からエネルギーをもらい、またそのころ長州藩でも奇兵隊が立ち上がって尊王攘夷派が盛り返すというニュースも入ってきたため、再び気合が入った桂は、幾松を連れて出石を離れ長州へ帰っていったのです。

広戸の妹八重は、桂の帰郷をさぞ悲しく思ったことでしょう。小五郎が京都から逃れ潜んでいたといわれる出石の住居跡に現在は記念碑が残されています。

しかし、どこにいても女性の話がついてまわります。かなりの男前でモテ男だったようだ。
その後、小五郎は薩摩の西郷隆盛と薩長同盟を結び倒幕へと奔走します。

維新後は木戸孝允と名を改め、五箇条の誓文の原案を作成。版籍奉還、廃藩置県など、明治の時代の基礎を固め新しい時代をつくっていきました。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。

戊辰戦争終了の明治2年(1868年)、腹心の大村益次郎と共に東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追悼・顕彰しました。

なぜ但馬に逃れたのか

しかし、ここで不思議に思うことは、小五郎はなぜ但馬に逃れようと思ったのかである。出石藩・豊岡藩は幕府寄りの藩であり、丹波も幕府よりの藩ばかりで禁門の変では幕府方で禁裏警護の配備図を見ても、長州藩邸の周囲には東海道入口に篠山藩、大原口に出石藩、鞍馬口に因州(因幡)藩、鳥羽伏見には園部藩が山崎には宮津藩、丹波街道には亀山(亀岡)藩が配備についている。丹波や但馬・因幡の諸国を通過するのは火の中に飛び込むようなものだ。というか朝敵とみなされた長州以外はすべて敵で長州人逮捕の命令が出ていたからである。当然小五郎が幕府寄りの出石へ逃亡するなどわざわざ捕まりにいくようなものだ。

小五郎はひとまず、長州へ帰り藩の意志を固めようとしたのではないだろうか。往来が盛んで取締りが厳しい瀬戸内海や山陽道を避けて、山陰道を選んだのではないか。そこで知り合いの但馬出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ逃れ、時の到るのを待って長州へ帰ろうと考えたのではないか。

但東町の京街道

武知憲男氏が『但東町の京街道』と題して『但馬史研究 第24号』に投稿されているので参考にする。

兵庫県豊岡市但東町は、兵庫県は地図でタコのように見えますが、ちょうど口の様に見える場所が但東町です。出石川の上流に位置し、下流以外は山に囲まれ、西以外の三方は京都府と接している。従って、丹波街道・成相道(巡礼道)・丹後道などと呼んでいる峠道が幾つもあり、その一つが出石より福知山・京都へ通じる京街道である。また明石の真北に位置するため東経135度の子午線(日本標準時)が通過している。

江戸時代、出石藩参勤交代の重要な街道であり、現在も国道426号線として、但馬の経済・文化の交流に大きな役割を果たしている。

京街道は、江戸時代では最も新しい文化十二年(1815)以降のことが記されている『出石藩御用部屋日記』によると京街道は、福知山(上川口)から登尾峠-久畑関所-小谷-出合-矢根-寺坂-鯵山峠(県道253)-谷山-(出石高校)-出石城下への旧道だろうと思われる。久畑関所跡横には村の鎮守一宮神社がある。但馬一宮は出石神社で一宮ではないのになぜ一宮神社なのか不思議に思っていたが、登尾峠の反対側の京都府佐々木の次に一の宮集落があるので久畑の村人が分社されたのではないだろうか。

武知憲男氏によると京街道を記す道標が残っているそうだ。小谷には「左たんご、くみはま道」と石仏の道標があり、右は判別できないが「右京道」であろう。小谷も「茶屋地」の小字名が残り、矢根や南尾、久畑同様に宿屋・茶屋の屋号が残る。登尾橋の手前に「右京都。左志ゅん連い道(巡礼道・宮津成相山)」の道標が立つ。左は薬王寺で大生部兵主神社があり、交通の要所であっただろうが、かつては旧道で難所だったに違いない。また機会があったら探してみたい。

参考:神戸新聞・城崎温泉観光協会・松本屋
参考資料:『京都時代MAP 幕末・維新編』 光村推古書院

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

逃げの小五郎 学校で教えてくれなかった近現代史(16)

禁門の変(蛤御門の変)

蛤御門の銃弾跡

「禁門」とは「禁裏の御門」の略した呼び方です。蛤御門(はまぐりごもん)の名前の由来は、天明の大火(1788年1月30日)の際、それまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤に例えられた為です。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていました。
尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、1863年(文久3年)に会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変(七卿落ち)で京都を追放されていました。7月18日、長州藩の攻撃が始まったころ、河原町の長州藩邸は加賀藩によって包囲されていました。しかし、加賀兵が踏み込んだとき、そこの桂小五郎の姿はありませんでした。桂はすでに対馬藩邸に逃れていました。

同日夜、対馬藩が長州藩の同情藩として断定され、幕軍が藩邸を取り巻き始めたため、御池通りを西へ油小路を北に向かい御所の西にある因幡藩邸へ向かいました。伏見方面で砲声が轟き、幕府対長州の激闘が始まりました。その中を因幡藩邸へ向かいました。
因幡藩邸に潜んでいると、夜明け前になって御所の中立売御門を目指して進軍する長州軍の一隊が藩邸前を通っていきました。それに遅れて桂は堺町御門向けて出ていきました。鷹司邸が炎上し長州軍は敗走します。その混乱の中、桂は朔平門(ざくへいもん)当たりへと戦場を見察して回りました。この戦いで鷹司邸に発した火災は、河原町の長州藩邸の出火とともに、三日間に及ぶ大火の原因となりました。

京都御所 蛤御門 2009/1/28

夜陰に乗じて、桂は天王山へ向かいますが、伏見付近に至ったとき、天王山へ退いていた長州軍の総指揮官であった真木和泉らが自決し、兵が四散したことを聞き京の町へ引き返しました。
7月19日午前七時頃、御所へ到着 長州藩は天皇の側近だった三条実美(さねとみ)らの公卿とともに、幕府を倒し、天皇による政治を復活させる企て(王政復古)を着々と進めていました。この勢力はかなり大きな流れとなり、幕府の存在を脅かすようになりました。これに対して巻き返しを図りたい公武合体派の会津藩と薩摩藩は密かに兵を集め、文久三年(1863)八月十八日、武力によるクーデターを起こしました。これを「八・十八の政変」といいます。

堺町御門

公武合体派は御所を囲む兵を集め、長州藩の堺町御門警備を解任し、京都からの退出を命じ、関与した公卿と長州へ向かいました(七卿落ち)。
長州藩(山口県)は公武合体に敗れ京都から退去、さらに池田屋事件をきっかけに元治元年(1864年)7月に起こった蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)に敗れ、小五郎は幕府に追われる身となってしまうのです。

小五郎と幾松

京都には彼を捨て身で守った幾松という女性がいました。幾松はひいき芸者の一人でした。三条大橋の下に隠れながら幾松が差し入れに食事を運んだ話もあります。
この政変によって長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行うことになります。戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。この二箇所から上がった火で京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失しました。
このとき小五郎は、藩主と三条実美らの復権を求めて活動し、再び天皇に忠義を尽くしたいと何度も願い出ましたがそれが聞き入れられることはありませんでした。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、三本木の吉田屋という料亭で桂小五郎と逢瀬を重ねていた幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら潜伏していました。しかし、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、三条大橋下に潜伏したり商人・広戸甚助の手引きで京を脱出し但馬出石に潜伏します。
一方、会津藩をはじめとする公武合体派は、京から尊壤派の志士たちを徹底的に排除しようと、新選組や見廻組を使って浪士狩りを行いました。ちなみに新選組は、この八・一八の政変の時に出陣し堺町御門の警備に当たった時に京都守護職松平容保から「新選組」という名前をもらい、正式に市中取締りの任に就きました。禁門の変では御所を囲むようにして幕府軍に北から備前藩・因幡藩・出石藩、東には尾張藩・篠山藩・桑名藩・見廻組・大垣藩・彦根藩、淀に宮津藩、丹波口には亀山(亀岡)藩、小浜藩、南は園部藩・鯖江藩、禁裏(御所)薩摩藩・筑前藩・会津藩・桑名藩などが布陣していました。

参考資料:京都時代MAP 幕末・維新編 光村推古書院
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

NTV「歴史サスペンス劇場」忠臣蔵

12.3放送のNTV「歴史サスペンス劇場」を観ました。

歴史好きな自分にはNHK大阪「堂々日本史」が好きでした。
「その時歴史は動いた」に代わってからはあまり見なくなりました。

(松平さんのナレーションは好きではないので・・・)

まず、忠臣蔵というテーマなのに冒頭の新選組の話が入っているのが分からない。

忠臣蔵だけで良いのでは。

吉良を一方的に悪者扱いしていない中立的に取り扱っているのはいいと思いました。

ただ、大石りくを豊田藩家老石束家の長女と説明したのにはがっくりした。「但馬豊岡藩」でしょう。豊田藩なんて全国どこにも存在しません。

ちなみに「豊田藩」ってあったのかをググッってみると、トヨタの工場が集まる豊田市周辺を、地元の人は豊田藩と皮肉っぽく呼んでいることがわかりました。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。