目次
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。 |
木戸孝允(桂小五郎)と新選組
桂は、様々な肩書きやエピソードを持っています。吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、江戸練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者・指導者・藩庁政務座の最高責任者として活躍。また、彼の周りには絶えず女性の姿があります。モテモテ男だったのです。
木戸孝允(桂小五郎)
京都守護職跡(京都府庁) 2009.1.27
木戸孝允(桂小五郎)は、天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩呉服町、薩摩藩出身の西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」のひとりとして並び称せられています。 桂小五郎は萩藩医 和田昌景の長男として生まれました。桂小五郎の少年時代は、病弱でありながら、他方、いたずら好きの悪童でもあったそうで、七歳のとき、隣家桂九郎兵衛に乞われてその養子に入りますが、養子になってから二十日ほどで養父が死に、さらに養母が死んだため、彼は実家で成人し、少年の身ながら桂家の当主になりました。
志士時代には徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれました。明治維新政府では、木戸の合議制重視の姿勢のため分かりにくいが、木戸が初代宰相、西郷が第二代宰相、大久保が第三代宰相に相当しました。
弘化3年(1846年)、長州藩の師範代である新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門しています。嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から大組士桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、それ以降、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始めます。嘉永5年(1852年)、剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、ほか5名の藩費留学生たちと共に江戸に旅立ちます。
身長6尺(約174センチメートル)で当時としてはかなりの長身でした。江戸三大道場の一つ、「力の斎藤」(斎藤弥九郎)の練兵館(九段北三丁目)に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門1年で練兵館塾頭となります。大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えるや否や「その静謐(せいひつ)な気魄(きはく)に周囲が圧倒された」と伝えられます。小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡邊昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつけた人物)とともに、練兵館の双璧と称えられました。
ほぼ同時期に、
- 「位の桃井」(桃井春蔵)の士学館(鏡新明智流剣術、新富一丁目)の塾頭を務めた武市半平太
- 「技の千葉」(千葉定吉)の桶町千葉道場(北辰一刀流剣術、八重洲二丁目)の塾頭を務めた坂本龍馬
も免許皆伝を得ています。 練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航(1854年)に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など天領五カ国の代官である江川太郎左衛門に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞します。文久2年(1862年)5月12日、小五郎や高杉晋作たちのかねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた江戸幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争(馬関戦争)を始めます(この戦争は、約2年間続くが、当然のことながら、破約攘夷にはつながらず、攘夷決行を命令した江戸幕府が英米仏蘭に賠償金を支払うということで決着する)。5月、藩命により江戸から京都に上る。京都で久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指します。
新選組池田屋襲撃事件(池田屋騒動)と桂小五郎
壬生寺 京都市中京区壬生
境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行こなわれたという。
また、一番隊組長・沖田総司が境内で子供達を集めて遊んだり、 近藤勇をはじめ隊士が壬生
狂言を観賞したり、新選組が相撲興行を壬生寺で企画し、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料
理し、力士に振る舞ったという、面白い逸話も当寺に残っている。境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。毎年7月16日には池田屋騒動の日とし、「新選組隊土等慰霊供養祭」がここで行われる。 当日は全国各地から
新選組を参詣者が数多く訪れ、近藤勇の胸像前で慰霊法要が行われた後、有志による剣技や詩吟
の披露がある(参加自由)。
壬生寺本堂
新選組が同志の近江郷士古高俊太郎宅に踏み込んで、倉庫に隠されていた武器、機械類、書簡類を押収し、古高を逮捕、壬生(みぶ)の屯所へ連行しました。土方(ひじかた)歳三の拷問には絶えられず、ついに自白しました。それは「風の烈しい夜を待って、洛中に火を放ち、その混乱に乗じて天皇を長州へ移す」という驚くべきクーデターの計画でした。
この計画を知った近藤勇は、京都守護職と京都所司代へ報告し、すぐに尊攘派志士たち犯行グループの捜索を始めました。 新選組壬生屯所では、普段と変わらない様子を装いながら、三人、五人とバラバラに、白の単衣姿に草履や下駄履きで出かけていきました。しかし、その単衣の下には、防具の竹胴がつけられていたことが目撃されています。
八木邸壬生屯所跡
新選組は文久3年(1863)3月に、ここ壬生の地において結成された。東門前の坊城通りには、
その当時、八木邸前川邸、南部邸の3箇所が屯所と定められ、今も八木邸と前川邸が残っている。(2009/1/25)目立たないように通常の市内見回りを装って、壬生屯所を出発した三十名の隊士は、続々と八坂神社の石段下の祇園町会所に集まりました。
全員が集まると、近藤を中心とするグループ五名は木屋町方面へ、土方を中心とするグループ25名は祇園方面へ向かい、旅籠などの旅客改めを開始しました。四条通にあった「越房」(所在不明)に八時四十五分頃、探索に訪れていました。その約30分後、縄手通四条東入ル北側にある茶屋「井筒」を調べており、恐らくアヤシイと思われるところをしらみ潰しに調べていたと思われます。
前川邸壬生屯所跡
元治元年(1864)6月5日夜、三条小橋西にある長州藩士の定宿だった旅籠(はたご)「池田屋」には、長州藩士を主とする尊攘派の志士三十名が集まっていました。彼らが集まったのは、同志の古高俊太郎が、この日朝早く新選組に捕らえられたことについて対策を打ち合わせるためでした。桂小五郎は長州藩邸を出て、密会の場である池田屋へ着きました。しかし、まだ誰も集まっていなかったため「まだ時間があるようだし、対馬藩邸に用事があるから今の内に…」と考え、いったん池田屋を出てすぐ近所の対馬藩邸の別邸に向かいました。
八坂神社 京都市東山区祇園町北側625番地
祇園町会所は、四条通の八坂神社前にあった。 四条木屋町付近から三条方面へ向けて探索を行っていた近藤グループは、「池田屋」へ踏み込みました。近藤が玄関の戸を開き、出てきた主人の惣兵衛に「新選組の御用改めである!」と怒鳴るとそのまま二階への階段を駆け上がりました。その後を沖田総司が続き、永倉新八と藤堂平助が一階を、近藤の養子の周平が表を固めました。一方、突然の新選組の襲撃を受けた尊壤派の志士たちは脇差しを抜き、明かりを消しました。暗闇の中で、手探り状態での息詰まる闘いが始まりました。
四条通から三条通までの祇園界隈からをしらみつぶしに探索してきた土方グループは、鴨川の三条大橋を渡ると「池田屋」での死闘が始まって約一時間後、ようやく「池田屋」へ駆けつけ表を固めました。土方グループの到着を知った近藤らは、相手を斬るより捕らえることを優先し、次々と捕らえていきました。守護職と所司代の手勢三千が到着したのは闘いがほぼ終わった頃でした。
池田屋跡 河原町三条通東入
しかし、この秘密の会合は、新選組によって襲撃され、多数の死者・逮捕者がでました。この池田屋騒動によって、新選組は尊攘派の志士たちに壊滅的な打撃を与えるとともに、全国にその名を轟かせました。
不動堂村屯所跡 京都市下京区東堀川通り塩小路下ル松明町1番地(リーガロイヤルホテル京都敷地)2009.1.27
不動堂村屯所は、西本願寺が本堂から見えるところで隊士の切腹があったり、拷問が行われるなどに閉口していた西本願寺がその費用を出して新築されました。この屯所は表門、高塀、式台玄関、使者の間、長廊下などが揃った大名屋敷風の立派なものでしたが、試用期間はわずか6ヶ月でした。
慶応2年(1866)当時、京都所司代が町奉行を監督し、京都の治安維持を行っていましたが、幕末期にはそれだけでは手に負えなくなったため、京都守護職が新設されました。新選組、見廻組は京都守護職配下に置かれました。
新選組の巡回地域割当は、西本願寺一帯と鴨川東岸の東山、所司代組は東本願寺一帯、京都守護職は鴨川東岸の四条以北、京都所司代は禁裏御所周辺、見廻組は蛸薬師通りから五条通と堀川下立売から西北を担当しました。
禁門の変(蛤御門の変)
蛤御門 2009/1/28
「禁門」とは「禁裏の御門」の略した呼び方です。蛤御門(はまぐりごもん)の名前の由来は、天明の大火(1788年1月30日)の際、それまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤に例えられた為です。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていました。
蛤御門の銃弾跡
尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、1863年(文久3年)に会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変(七卿落ち)で京都を追放されていました。7月18日、長州藩の攻撃が始まったころ、河原町の長州藩邸は加賀藩によって包囲されていました。しかし、加賀兵が踏み込んだとき、そこの桂小五郎の姿はありませんでした。桂はすでに対馬藩邸に逃れていました。
同日夜、対馬藩が長州藩の同情藩として断定され、幕軍が藩邸を取り巻き始めたため、御池通りを西へ油小路を北に向かい御所の西にある因幡藩邸へ向かいました。伏見方面で砲声が轟き、幕府対長州の激闘が始まりました。その中を因幡藩邸へ向かいました。
建礼門 禁裏の正門
因幡藩邸に潜んでいると、夜明け前になって御所の中立売御門を目指して進軍する長州軍の一隊が藩邸前を通っていきました。それに遅れて桂は堺町御門向けて出ていきました。鷹司邸が炎上し長州軍は敗走します。その混乱の中、桂は朔平門(ざくへいもん)当たりへと戦場を見察して回りました。この戦いで鷹司邸に発した火災は、河原町の長州藩邸の出火とともに、三日間に及ぶ大火の原因となりました。
夜陰に乗じて、桂は天王山へ向かいますが、伏見付近に至ったとき、天王山へ退いていた長州軍の総指揮官であった真木和泉らが自決し、兵が四散したことを聞き京の町へ引き返しました。
桂小五郎邸跡 京都オークラ前
7月19日午前七時頃、御所へ到着 長州藩は天皇の側近だった三条実美(さねとみ)らの公卿とともに、幕府を倒し、天皇による政治を復活させる企て(王政復古)を着々と進めていました。この勢力はかなり大きな流れとなり、幕府の存在を脅かすようになりました。これに対して巻き返しを図りたい公武合体派の会津藩と薩摩藩は密かに兵を集め、文久三年(1863)八月十八日、武力によるクーデターを起こしました。これを「八・十八の政変」といいます。
堺町御門 2009/1/28
公武合体派は御所を囲む兵を集め、長州藩の堺町御門警備を解任し、京都からの退出を命じ、関与した公卿と長州へ向かいました(七卿落ち)。 長州藩(山口県)は公武合体に敗れ京都から退去、さらに池田屋事件をきっかけに元治元年(1864年)7月に起こった蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)に敗れ、小五郎は幕府に追われる身となってしまうのです。
小五郎・幾松寓居跡碑とされているが、本当は三本木料亭「吉田屋」:京都市上京区 東三本木通
京都には彼を捨て身で守った幾松という女性がいました。幾松はひいき芸者の一人でした。三条大橋の下に隠れながら幾松が差し入れに食事を運んだ話もあります。 この政変によって長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行うことになります。戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。この二箇所から上がった火で京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失しました。
御所内 皇女和宮生誕地 2009/1/28
このとき小五郎は、藩主と三条実美らの復権を求めて活動し、再び天皇に忠義を尽くしたいと何度も願い出ましたがそれが聞き入れられることはありませんでした。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、三本木の吉田屋という料亭で桂小五郎と逢瀬を重ねていた幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら潜伏していました。しかし、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、三条大橋下に潜伏したり商人・広戸甚助の手引きで京を脱出し但馬出石に潜伏します。
一方、会津藩をはじめとする公武合体派は、京から尊壤派の志士たちを徹底的に排除しようと、新選組や見廻組を使って浪士狩りを行いました。ちなみに新選組は、この八・一八の政変の時に出陣し堺町御門の警備に当たった時に京都守護職松平容保から「新選組」という名前をもらい、正式に市中取締りの任に就きました。禁門の変では御所を囲むようにして幕府軍に北から備前藩・因幡藩・出石藩、東には尾張藩・篠山藩・桑名藩・見廻組・大垣藩・彦根藩、淀に宮津藩、丹波口には亀山(亀岡)藩、小浜藩、南は園部藩・鯖江藩、禁裏(御所)薩摩藩・筑前藩・会津藩・桑名藩などが布陣していました。
京都守護職跡 京都府庁内
京都所司代の役所や、住居は、二条城の北に隣接した場所に設けられ、二条城は使用されませんでした。その支配下に京都とその周辺の行政のために京都郡代が置かれましたが、後に町中を担当する京都町奉行と周辺部やそこにある皇室領・公家領を管理する京都代官に分離するようになりました。 京都に置かれた役人の総元締めの立場にありましたが、京都市政を預かる京都町奉行や宮中・御所の監督にあたる禁裏付などの役職は平時は所司代の指揮に従うものの、老中の管轄でした。
幕末動乱期は京都所司代だけでは、京の治安を治めるのは難しく、その上に最高機構として京都守護職をおき、所司代はその下に入りました。当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保(かたもり)は、これにより長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えることになります。 禁門の変に於いて長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行いました。慶応2年(1866)当時、京都市中巡回地域割り当ては、
- 見廻組…京都守護職傘下。堀川下立売通以西、以北。蛸薬師通から五条通
- 御定番組…西は御土居から東は寺町通、北は下立売通から南は蛸薬師通まで
- 京都守護職…寺町通から四条通以北の左京
- 新選組…西本願寺周辺、四条通以南・高瀬川以東(祇園・東山)
- 所司代組…禁裏(御所)、東本願寺周辺▲ページTOPへ
桂小五郎、最大の危機 久畑関所
旧山陰道(支道)石畳が往時を偲ぶ
元治元年7月、小五郎は対馬藩邸出入りで知っていた出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ遁れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助は快く受け、その夜直ちに幕府方から逃れるために変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出を脱出、京街道の諸藩の関所をくくり抜けながら、もう少しで出石城下に入る但東町久畑にある京街道(現在の国道426号線)の久畑関所で、船頭を名乗る男(小五郎)が厳しい取り調べを受けていました。
関所があった石段 かつては木の関門があったので見たかったが今はなくなっている。
しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の命令が出ていたほどで、調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変で出陣しており、その知らせを受け、都からの脱出者を警戒していました。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りました。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。
明治維新 小五郎を出石へ追ってきた木戸松菊・・・碑(菊松の間違い)
そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできました。出石出身の商人、広戸甚助でした。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えました。甚助と顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放しました。
しかし、船頭の正体はやはり長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允)だったのです。その後しばらく出石と城崎温泉に潜伏。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。 後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生最大の危機だったのです。もし甚助の助けがなかったら…。ここで歴史が“動いた”かもしれない。
久畑宿陣跡の石碑
桂は但馬に潜伏しました。出石(兵庫県)や広戸家の菩提寺でもある養父の昌念寺、城崎温泉の旅館にも住み込みで働いていたそうです。しかし、長州討つべしとの命が下り、幕府寄りの出石藩・豊岡藩は、長州人逮捕の警戒を強めていたので出石の城下に滞在するには危険な場所でした。潜伏を始めて2ヵ月後、とうとう会津藩の追っ手が出石にやって来たのです。「さあ、逃げろ!」と出石より北にある兵庫県養父郡の西念寺という寺に潜伏場所を移しました。
更に今度は「寺に隠れるなど、あまりにも一般的。もっと見つかりにくい場所を」
ということで、一般の町家に潜伏先を移しました。そのひとつが豊岡藩の城崎温泉(きのさきおんせん)でした。大勢の湯治客の中に紛れ込めるので安全と考えたのでしょう。小五郎はその年の9月に城崎を訪れ、広戸甚助の顔がきく『松本屋』に逗留しました。ここには当時“たき”という一人娘がおり、桂の境遇を憐れんで親身に世話をしたといいます。
小五郎但馬に潜む
桂小五郎潜居跡
小五郎は温泉に入って心身を休めましたが、当時の城崎には各旅館に内湯はなく、「御所の湯」「まんだら湯」「一の湯」の3つの外湯があるに過ぎませんでした。城崎最古の源泉地「鴻の湯」は当時浴場としては使用されていなかったといいますうから、小五郎が入ったのも3つのうちのどれかでしょう。ちなみに、現在は全部で7つの外湯がありますが、温泉街全体で源泉を集中管理し供給しているため、泉質はすべて同じものだそうです。
10月、小五郎は一旦出石に戻り、荒物商(雑貨屋)になりすまして再起の時を待ったといいます。明けて慶応元年(1865)3月、再び城崎を訪れました。泊まったのはやはり『松本屋』で、長州再興し幕府と戦うに当り、桂を探し長州藩の大勢を告げ帰藩を望みました。愛人幾松も長州より城崎湯島の里へ尋ねて来ました。共に泊って入浴し1ヶ月ほど滞在したのちに大坂へ出て海路長州へ戻りました。長州に帰り木戸孝允と改名します。当時桂は33才でした。一人娘“たき”は小五郎の身のまわりの世話をしているうちに身重となったが、流産したといいます。その心境はいかばかりであったでしょうか。
小五郎が滞在した部屋には「朝霧の 晴れ間はさらに 富士の山」と墨で落書きされた板戸が残されていましたが、大正14年の北但大震災で温泉街もろとも焼失してしまいました。現在、館内に展示されている掛け軸や書状は広戸氏の関係者等から譲り受けたものといわれています。建物は震災で焼けた後の昭和初期に再建されたものですが、小五郎が使った2階の部屋は「桂の間」として再現されています。昭和41年春、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』の取材と執筆のために訪れ、この部屋に泊まっています。
温泉街の西側、外湯のひとつ御所の湯の向かいに「維新史跡・木戸松菊公遺蹟」と刻まれた1本の碑が立っています。“木戸松菊”とは桂小五郎の変名です。
ここが幕末に桂小五郎が身を隠していた宿『松本屋』で、現在は
『つたや』兵庫県豊岡市城崎町湯島485と名を変えて営業されいます。
城崎での潜伏は短く、再び出石に戻ってきます。しかし、出石藩は禁門の変で兵を出したとおり幕府方で長州人逮捕の命令が出ていたほどで、出石の城下に滞在するには危険な場所でした。幕吏の追手が出石にまで伸びてきたため何度か潜伏場所を変えました。まずは広戸の両親の家に世話になり、次に番頭も丁稚もいない荒物屋を開業しました。 つまり商人に成りすまして潜伏したわけです。出石潜伏期間の約10ヶ月の間に出石だけで7箇所以上潜伏先を移り変わりました。荒物屋にはひとりの女性がおり、前述の出石藩広戸甚助の妹で“八重”と言いました。桂は商売が出来るわけでなく、商売自身は八重が行いました。当然、桂の身の回りの世話もです。こういった、広戸一家の献身的な世話で、毎日を過ごしたようです。潜伏の毎日で、桂はやりきれない思いだったのかというと、案外そうではなかったようです。潜伏中の桂は、子供の手習いや、好きな碁を打ったり、また賭博にもはまり、結構借金を作ったとも言われています。
霊山墓地にある木戸孝允・幾子墓(京都市東山区)
慶応元年(1865年)2月、広戸が京都から幾松を連れて帰ってきました。幾松からエネルギーをもらい、またそのころ長州藩でも奇兵隊が立ち上がって尊王攘夷派が盛り返すというニュースも入ってきたため、再び気合が入った桂は、幾松を連れて出石を離れ長州へ帰っていったのです。 広戸の妹八重は、桂の帰郷をさぞ悲しく思ったことでしょう。小五郎が京都から逃れ潜んでいたといわれる出石の住居跡に現在は記念碑が残されています。
しかし、どこにいても女性の話がついてまわります。
その後、小五郎は薩摩の西郷隆盛と薩長同盟を結び倒幕へと奔走します。
維新後は木戸孝允と名を改め、五箇条の誓文の原案を作成。版籍奉還、廃藩置県など、明治の時代の基礎を固め新しい時代をつくっていきました。
参考:神戸新聞・城崎温泉観光協会▲ページTOPへ