豊岡の近代化遺産・城下町界隈

とよおか市民学芸員養成講座第九回 「豊岡の近代化遺産」
講師:松井敬代さん(豊岡市教育委員会主幹)
日時:平成26年11月16日10:00-12:00

とよおか市民学芸員養成講座第9回に参加してきました。
ポカポカした陽気に恵まれ、近代化遺産と京町の城下町界隈に残る遺産を歩いてまわりました。

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山名持豊と九日市守護所

「武家列伝」さんの山名氏によると、
山陰地方に大勢力を築いた時氏らは、南朝方と呼応して文和二年(1353)には京に攻め入り、京を支配下においた。そして、直義の養子である直冬に通じて義詮方と対抗した。以後、直冬党として幕府と対立を続けたが、貞治二年(1363)、安芸・備後で直冬が敗れて勢力を失うと大内氏につづいて幕府に帰順した。帰順の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、「多くの所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかれけれ」と不満の声が高かったと伝えられる。いずれにしろ、幕府の内訌、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったのである。

時氏には嫡男の師義を頭に多くの男子があり、子供らの代になると山名氏の守護領国はさらに拡大されることになった。
山名時義の時代に山名一族は大きく躍進し、 応安三年(1370)、時氏は師義に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分かった。永和二年(1376)、師義が死去したのち、家督は弟の時義が継承した。時義は若年より父時氏に従って兄師義らとともに行動、いちはやく上洛を果たして幕府の要職の地位にあった。師義死去のときは伯耆守護であったが、家督を継いだ時義は但馬守護職にも任じ、さらに、備後・隠岐の守護職も兼帯した。

この時義の時代に山名一族は大きく躍進、次兄義理は紀伊・美作守護職、四兄氏清は丹波・山城・和泉三ケ国の守護職、師義の実子で甥の満幸が丹後・出雲守護職、同じく甥の氏家が因幡守護職に任じられ、一族で守護領国は十二ヶ国*を数えた。それは、室町時代の日本全国六十八州のうち六分の一にあたり、山名氏は「六分一殿」とか「六分一家衆」と呼ばれる大勢力になった。

しかし、「満つれば欠くる」のたとえもある如く、一族が分立したことは内訌の要因になった。さらに、三代将軍足利義満は強大化した山名氏の存在を危惧するようになり、ついにはその勢力削減を考えるようになった。そのような状況下の康応元年(1389)、惣領の時義が四十四歳の壮年で死去した。時義のあとは嫡男の時熙が継いだが、将軍義満は時熙・氏之(幸)兄弟に我意の振るまいがありとして、一族の氏清と満幸に討伐を命じた。義満が山名氏の勢力削減を狙った策謀であることは明白だったが、氏清は「一家の者を退治することは当家滅亡の基であるが、上意故随わざるを得ぬ。しかしいずれ二人が嘆願しても許されることはないか」と確認したうえで出陣した。

追放された時熙・氏之に代わって、但馬守護職には氏清が、伯耆・隠岐守護職には満幸が任じられた。これで山名氏の内訌は一段落したものと思われたが、なおも山名氏の分裂を策する将軍義満は、許しを乞うた時熙・氏之らを赦免、氏清・満幸らを挑発した。義満の不義に怒った氏清は満幸・義理らを誘い、南朝方に通じて大義名分を得ると、明徳二年の暮に京へと進撃した。明徳の乱であり、この乱により氏清は戦死、満幸は敗走、義理は出家という結果になった。

乱後、幕軍として戦った、時熙に但馬国、氏幸に伯耆国、氏冬に因幡国の守護職がそれぞれ安堵された。こうして、さしもの隆盛を誇った山名氏も、将軍義満の巧みな謀略にのせられて大きく勢力を後退させたのである。とはいえ、但馬・伯耆・因幡は山名氏の勢力が浸透していた地域であったことは、山名氏にとっては不幸中の幸いであった。

時義のあとは嫡男の時熙が継いだが、将軍義満が山名氏の勢力削減を狙った策謀によって一族の内訌により追放された時熙・氏之に代わって、但馬守護職には氏清がなったが、伯耆・隠岐守護職には満幸が任じられた。

時熙のあとは二男の持豊が家督を継承して、但馬・安芸・備後・伊賀の守護職を与えられた。
山名氏といえば「六分一殿」と言われた山名氏清が、全国の国の約六分の一に当たる十一か国を所領したことから呼ばれたのですが、ほんの一時期であって、すぐに八か国ぐらいになっている。しかも代ごとにころころ国や数も変わっている。室町時代の守護職とは、いわゆる近世守護大名のような存在ではなく、一円的に国を支配しているわけではない。但馬の一国をもらってそこで領主にあったのではない。そのような支配体制を「守護分国制」あるいは「守護領国制」といいますが、原則的に言えば「守護職」とは、つまり領主ではなく幕府から与えられた「職」です。「職」であるからいつでも首になる。律令時代の国司(国衙)に近いもので武士が国司の替わりに守護職を与えられるようになったのである。つまり守護所とは国府に代わる武士が国単位で設置された軍事指揮官・行政官である国の出先機関です。

守護職(守護大名)

鎌倉時代

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられている。

その後、守護の職務内容が次第に明確化されていき、1232年(貞永1)に制定された御成敗式目において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、国司の職権である行政への関与や国衙領の支配を禁じられた。
しかし、守護が国内の地頭や在庁官人を被官(家臣)にしようとする動き(被官化)は存在しており、こうした守護による在地武士の被官化は、次の室町時代に一層進展していくこととなる。

室町時代

次に成立した室町幕府も、守護の制度を継承した。当初、守護の多くは在地の有力者が任じられていたが、次第に足利氏一門と交代させられて、その地位を保持していたのは、播磨の赤松氏(赤松則村)などごく僅かだった。これは、鎌倉期の得宗専制を引き継いだものである。

1352年(文和1)には、軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領の年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられた。当初は、戦乱の激しい3国(近江・美濃・尾張)に限定して半済が認められていたが、守護たちは半済の実施を幕府へ競って要望し、半済は恒久化されるようになる。1368年(応安1)の半済令(寺社本所領事)は、年貢だけでなく土地自体の半分割を認める内容であり、守護による荘園・国衙領への侵出が著しくなっていった。さらに、守護は荘園領主らと年貢納付の請け負い契約を結び、実質的に荘園への支配を強める守護請(しゅごうけ)も行うようになった。また、税の一種である段銭や棟別銭の徴収なども行うなど、経済的権能をますます強めていったのである。

守護はこのように強化された権限を背景に、それまで国司が管轄していた国衙の組織を吸収すると同時に、強まった経済力を背景に、国内の地頭、在地領主(当時、国人と呼ばれた)、さらに有力名主らを被官(家臣)にしていった。この動きを被官化というが、こうして守護は、土地の面でも人的面でも、国内に領域的かつ均一な影響力を次第に及ぼしていく。こうした室町期の守護のあり方は、軍事・警察的権能のみを有した鎌倉期守護のそれと大きく異なることから、室町期守護を指して守護大名と称して区別する。また、守護大名による国内の支配体制を守護領国制という。ただし、守護大名による領国支配は必ずしも徹底したものではなく、畿内を中心に、国人層が守護の被官となることを拒否した例は、実は多く見られる。

室町中期までに、幕府における守護大名の権能が肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護には、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者がいた。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や、多くの分国を抱える場合などに、国人を守護の代官としたり、直属家臣の中から守護代を置いた。さらにその守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していった。

守護の恩典には、将軍の諱から一字をもらう一字拝領などがあった。また、守護の格式として白傘袋・毛氈鞍覆を許され、守護代には唐傘袋・毛氈鞍覆、塗輿が免許された。また、守護・守護代ともに塗輿の使用が免許され、有力な武士としての権威性を認められていた。管領・探題に達する者や有力守護にのみ許された特典としては、屋形号と朱の采配の免許があり、屋形号を持つ者の家臣は烏帽子と直垂を着用することが許された。特に鎌倉公方足利家では関東の有力武士のうち、8家に屋形号を授け関東八館などといわれた。

戦国時代

応仁の乱の前後から、守護同士の紛争が目立って増加しており、それに歩調を合わせるように、在地領主である国人の独立志向(国人一揆など)が見られるようになる。これらの動きは、一方では守護の権威の低下を招いたが、他方では守護による国人への支配強化へとつながっていった。そして、1493年(明応2)の明応の政変前後を契機として、低下した権威の復活に失敗した守護は、守護代や国人などにその地位を奪われることになり、逆に国人支配の強化に成功した守護は、領国支配を一層強めていった。

こうして、室町期の守護のうち領国支配の強化に成功した守護や、守護に取って代わった守護代、国人は、戦国大名へと変質・成長していった。しかし、室町時代、世襲という家柄や既得権として権威があった守護職は戦国時代でも、戦国大名の称号としてそれなりに意味を持っており、実力者の称号となることでそれなりの意味を持った。多くの戦国大名が幕府から守護に補任されていることはその証左である。このことから、戦国期守護という概念を提示する論者もいる。

九日市守護所


「但馬山名氏在所の移転を巡って」豊岡市 山口久喜氏

『但馬史研究 第31号』「但馬山名氏在所の移転を巡って」豊岡市 山口久喜氏によると、こう記されている。
桜井勉氏が『校補但馬考』で「山名氏の居所、初は豊岡に住し、漸次式微に至り、此隅に蟄し、更に出石に移りしかと思はる。応仁武鑑に、持豊(宗全)の居城は出石郡出石なりと云ふに至りては無稽の最も甚だしきものと謂へきなり。」と断言している。

「武家列伝」によると、時義は師義に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は但馬と丹後の守護職を継承したとあるので、、師義以前の時氏のころには但馬守護職も担っていたと思われる。時氏の京に住んでいたと思われるので但馬は守護代が九日市(豊岡市)を根拠地とし、時義から時熙、持豊(宗全)の三代のいつごろからかが不明だが、その後、当地を但馬守護所としたと思われる。

山口久喜氏によると、九日市守護所の防衛体制について考察を加えたい。
九日市には在所の中核を示唆する「御屋敷」の他、「丁崎(庁先)」などの小字名や地名を残すが、さらに「大堀」「堀通(堀道?)」の地名がある。円山川西岸の自然堤防の一区画を堀とともに囲む形である。この中に「御屋敷」や、当時の山名氏菩提寺と伝える妙経寺(現存)と九日市上ノ町、中ノ町、下ノ町がある(現存)。
この囲みの西側は「荒原」と呼ばれる低湿地で、西部丘陵間に展開する後背湿地である。円山川から引く水は堀を満たして、溢れた水は荒原に満ちて囲みの中を水城化したものであろう。円山川と堀群は、西部丘陵上の城砦群と結んで九日市守護所の惣構えを構成した。
丘陵上の城砦群は、北から正法寺城(山王山)、城崎城(神武山)、大門砦、妙楽寺城、(戸牧山)、びくに城、戸牧城、佐野城と記してある。

従来の九日市在所否定論は、「強固な詰め城」がないからとしてきたが、以上の「惣構」が南北朝・室町時代の防御体制の一面を示唆し得ないだろうか。

山名氏が本拠地を出石に変えたワケ

出石郡西部(旧出石町)はもともと山名氏の直轄領であった。したがって但馬一宮出石神社の所在地としても、直轄領中の重要地点であった。その守りとしてすでに出石神社を見下せて円山川と出石川の平野部を見渡せる位置の此隅山に城か砦が築かれていても不思議はないし充分想定できるが、最近の研究では要塞としての此隅山城の構築時期は比較的新しく、永禄12(1569)年の織田氏の命による豊臣秀吉軍の但馬征伐に至る情勢の中で織田氏対策として着手されたと説いている。

永正二(1505)年六月、山名氏と垣屋氏が乱入して出石神社が焼失した事件は、近傍の此隅山山下の山名致豊勢を垣屋氏が襲ったとみられるが、この時点で山名氏が在所を此隅山に移したと断定できるかどうか(山口久喜氏の文を加筆した)。
したがって、他に出石へ移った根本の理由があったからではないか。

「武家列伝」によると、
嘉吉の乱以降、播磨赤松氏との対立をくり返し、文明十一年、赤松政則は播磨に下向すると播磨・備前・美作三国の支配に乗り出した。政則は山名氏の分国因幡の有力国衆毛利次郎を援助して、山名氏の後方攪乱をはかった。毛利次郎は因幡一国を席巻し、山名氏にとって看過できない勢力となった。

山名氏の後方攪乱をはかる政則は、山名氏の分国である因幡・伯耆の有力国衆を抱き込んで山名氏への反乱を起させた。因幡では私部城に拠る毛利次郎が赤松氏に通じ、他の国衆も次郎に加わって反乱は内乱の状況を呈した。因幡の状況を重くみた政豊は但馬に帰国すると、ただちに因幡に出撃し、守護山名豊氏とともに次郎を因幡から追放した。ところが翌年、伯耆国で南条下総入道らが政則に通じて伯耆守護山名政之から離反、一族の山名元之とその子小太郎を擁して兵を挙げた。政豊は政之を応援して出兵、反乱は文明十三年におよんだが、元之らを追放して内乱を鎮圧した。

赤松政則の策謀による因幡・伯耆の反乱に手を焼いた政豊は、政則の介入を斥け、播磨の奪還を目指して出兵の準備を進めた。一方、政豊の嫡男で備後守護の俊豊は、父に呼応して備前から播磨への進攻を狙った。俊豊は備前の有力国衆松田氏元成を味方に引き入れると、文明十五年、赤松氏の守護所福岡城を攻撃した。松田一族は一敗地にまみれたものの、俊豊は太田垣氏らの兵を率いて備前に進撃した。かくして、但馬の政豊は俊豊の動きに合わせて、播磨へ向けて出陣すると、国境の生野に布陣した。
ときに京にいた赤松政則は、ただちに播磨に下向したが、生野方面と福岡城方面との両面作戦を迫られた。重臣の浦上則宗は備前福岡の救援を説いたが、政則は生野方面を重視し、主力を率いて生野へと出陣した。両軍は真弓峠で激突、結果は山名方の大勝利で、敗走する赤松軍を追って播磨に雪崩れ込んだ。政則の敗報に接した福岡城救援軍も播磨に引き返したため、福岡城の守備兵は四散した。戦後、赤松政則は播磨を出奔、浦上氏ら重臣は政則を見限って赤松一族の有馬氏から家督を迎えた。ここに、山名氏は播磨・備前を支配下に置き、垣屋氏、太田垣氏らを代官に任じて播磨の支配に乗り出した。

政則が出奔したあとの赤松軍は浦上則宗が中心となり、備前方面で山名軍と泥沼の戦いを展開した。山名氏が備前方面に注力している隙を狙って、文明十七年(1485)、細川氏の支援を得た政則は播磨に帰国すると旧臣を糾合、垣屋一族が守る蔭木城を急襲した。不意を討たれた垣屋勢は 越前守豊遠 左衛門尉宗続父子、平右衛門尉孝知ら主立った一族が討死する大敗北を喫し、辛うじて城を脱出した田公肥後守が書写坂本城の政豊に急を報じた。蔭木城の陥落は、赤松政則の動きにまったく気付いていなかった政豊の油断であった。

蔭木合戦で細川氏の支援を得た政則は播磨に帰国すると旧臣を糾合、垣屋一族が守る蔭木城を急襲した。不意を討たれた垣屋勢は 越前守豊遠 左衛門尉宗続父子、平右衛門尉孝知ら主立った一族が討死する大敗北を喫し、辛うじて城を脱出した田公肥後守が書写坂本城の政豊に急を報じた。

従来から宗全は出石此隅山を本拠地として応仁の乱へと出陣していったと思われていたが、但馬山名氏在所の出石移転(此隅山)の背景には応仁の乱以降に、衰退していった山名氏と筆頭家老・守護代・垣屋氏との相克がある。

蔭木合戦ののち、赤松政則と浦上則宗との間に妥協が成立、一枚岩となった赤松軍は勢力を増大、それまでの守勢から攻勢に転じるようになった。そして、文明十八年正月、山名勢は英賀の合戦に敗北、垣屋遠続らが戦死した。さらに同年四月、坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められた。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていった。

窮地に陥った政豊は但馬への帰還を願ったが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めた。さらに嫡男の俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔った。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となった。

但馬に逃げ帰った政豊に対して、但馬国衆まもとより俊豊を擁する備後国衆らは背を向けた。なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代の垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じた。備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督としおて振舞ったようだ。ところが、明応の政変によって将軍足利義材が失脚、義材に従って河内に出陣していた俊豊は窮地に陥った。ただちに但馬に帰った俊豊であったが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となった。

明応二年(1493)、俊豊は政豊の拠る九日市城を攻撃、どうにか俊豊の攻撃をしのいだ政豊は、逆に俊豊方の塩冶・村上氏を打ち取る勝利をえた。以後、政豊と俊豊父子の間で抗争が繰り返された。情勢は次第に政豊方の優勢へと動き、ついに山内氏の進言をいれた俊豊は備後に落去していった。明応四年、政豊は九日市城から此隅山城に移り、翌年には俊豊を廃すると次男致豊に家督を譲り、備後守護も譲ったことで山名氏の内訌は一応の終熄をみせた。

しかし、この政豊と俊豊父子の内訌は、確実に山名氏の勢力失墜を招く結果となった。乱において政豊・俊豊らは、垣屋氏・大田垣氏ら被官衆への反銭知行権の恩給を濫発、みずから守護権力を無実化し、結果として垣屋氏・大田垣氏らの台頭が促したのである。とくに垣屋続成は俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として領国の経営を担うようになった。
(以上)

足利将軍家後継争いにより垣屋氏が勝利した結果、義稙派の垣屋氏と義澄派の山名氏とのバランスが微妙に関わり合ったとみられている。さらに後世代になって此隅山城から有子山(子有山)へと後退していったようだ。

大生部兵主神社(奥野・市場)

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。

その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

また同じ更杵村(寺内)には、佐伎都比古阿流知命神社という式内社がある。この神社は、中世には山王権現を祭神とし、山王社と呼ばれていたが、主祭神は、社号の通り、佐伎都比古阿流知命。『日本書記』垂仁天皇八十八年紀に以下の一文がある。「新羅の国の王子、名を天日槍という」と答えた。その後、但馬国に留まり、但馬国の前津耳の娘・麻挓能烏を娶り但馬諸助を産んだ。この前津耳が、佐伎都比古命であり佐伎都比古阿流知命は、その妻であるという。一説には、佐伎都比古命は前津耳の祖であり、佐伎都比古阿流知命は、佐伎都比古命の御子であるという。いずれにしろ、延喜当時の祭神は、佐伎都比古命と阿流知命の二柱だったのだろう。

豊岡市神美地区(旧出石郡神美村)と朝来市寺内(旧養父郡糸井村寺内字更杵)はとくに天日槍ならびに兵主神社があり、また渡来人にゆかりがある地名・神社・遺跡が多い。

  
右側の低い丘が森尾古墳地

2000(平成12)年、神美地区に近い豊岡市出石町袴狭(はかざ)遺跡から出土した木製品の保存処理作業中に、船団線刻画のある木製品(板材)が見つかった。

中嶋神社の穴見川をはさんで東に隣接する森尾地区の北端に位置する小山で但馬で最も早く大正時代に発見された森尾古墳は謎の多い古墳で、そこから中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれている「三角緑神獣鏡」と、また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡」であることがわかって大きな話題になった。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡神美村三宅(豊岡市三宅)のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。
三宅地区のすぐ北に隣接する出石郡穴見郷には、奥野の大生部兵主神社は有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。

また三宅地区に鎮座する穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市三宅)がある。
いずれも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。

奈良県田原本町には鏡作りに関係する神社として、『延喜式』では鏡作伊多神社(祭神の石凝姥命は鏡製作に関する守護神)、鏡作麻気神社(祭神の天糠戸命は鏡作氏の祖神)がある。鏡作りは、弥生時代後期後半から唐古・鍵遺跡にいた銅鐸鋳造の技術者集団が、五世紀初めに新羅から伝えられた鋳造・鍛造技術を吸収していったとされ、その技術集団は倭鍛冶(やまとかぬち)と称し、この集団が鏡作氏につながる(『田原本町史』)。

また工芸品の製作技術だけでなく、大規模な土木工事に生かす技術も渡来人によってもたらされ、その技術によって造営されたと考えられる池についての伝承もある。

穴見川、奥野には土師口という字がついたバス停もあり、他の兵主神社とは異なり大生部兵主神社とわざわざ大生部と冠しているのは何か意味がありそうだ。大生部(おおうべ)とは品部(王権に特定の職業で仕える集団)のひとつではないかと想定できる。生部は生産、製造する品部とすれば穴見は鉄資源に関係する穴師、土師は須恵器(陶器)の陶部、謎の多い森尾古墳の造営と銅鏡などは、須恵器焼き上げに必要な高温生成の技術は、鉄鉱石や砂鉄の溶解を可能にするから製鉄技術集団でもあるとみなすことができると、歴史学者の上田正昭氏はいう。一連の三宅氏による、大生部は陶器、鉄器、土木などの広範囲な偉大さを誇るのかも知れない。

土師器

土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代~奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土師器本来の製法を汲む手づくね式の土器で、主として祭祀用として用いられた)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。埴輪も一種の土師器である。古墳時代に入ってからは、弥生土器に代わって土師器が用いられるようになった。

多く生産されたのは甕等の貯蔵用具だが、9世紀中頃までは坏や皿などの供膳具もそれなりに生産されていた。炊飯のための道具としては、甑がある。

小さな焼成坑を地面に掘って焼成するので、密閉性はなく酸素の供給がされる酸化焔焼成によって焼き上げる。そのため、焼成温度は須恵器に劣る600~750度で焼成されることになり、橙色ないし赤褐色を呈し、須恵器にくらべ軟質である。

須恵器

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したの記述がある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されている。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれないが、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない。結局、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。

天日槍という渡来技術集団が出石神社を中核として天日槍系の神社と集中する兵主神社、出石郡全域と城崎郡、気多郡、養父郡に基盤を固めていた事が、崇神、垂仁天皇のころには大和(奈良県)へ拠点を移す三宅氏や糸井氏の一族といい、ヤマト王権と深く結びついていた所作であるように思える。

兵主神社
兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。大己貴命(おほなむち)も大国主の別名で、他には素盞嗚尊・速須佐之男命(スサノオ)を祭神としている。
兵庫(ひょうご)とは、古代の武器庫である兵庫(つわものぐら)に由来する言葉。
このことから転じて、歴史的には武器を管理する役職名として使用されていた。兵庫県も神戸市内の地名で大輪田泊(兵庫港)から。
兵主神ゆかりの神社は延喜式に19社ある。
大和 城上(桜井市) 穴師坐兵主神社 「兵主神、若御魂神、大兵主神」
大和 城上 穴師大兵主神社※
穴師坐兵主神社は、穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。
和泉 和泉 兵主神社
参河 賀茂 兵主神社
近江 野洲 兵主神社 「国作大己貴神」
近江 伊香 兵主神社
丹波 氷上 兵主神社 「大己貴神、少彦名神、蛭子神、天香山神」
因幡 巨濃 佐弥之兵主神社
因幡 巨濃 許野之兵主神社 「大国主命、素戔嗚命」
播磨 餝磨 射楯兵主神社二座
播磨 多可 兵主神社 「大己貴命」
壱岐 壱岐 兵主神社
延喜式に19社のうち但馬の式内兵主神社
但馬國朝來郡 朝来市山東町柿坪 兵主神社 大己貴命 旧村社 一説には、持統天皇4年(690)
但馬國養父郡 朝来市和田山町寺内 更杵村大兵主神社 祭神不詳・十二柱神社
但馬國養父郡 豊岡市日高町浅倉 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國氣多郡 豊岡市日高町久斗 久刀寸兵主神社 素盞嗚尊、大己貴命 旧村社
但馬國出石郡 豊岡市奥野 大生部兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國城崎郡 豊岡市山本字鶴ヶ城 兵主神社 速須佐男神 旧村社 天平18年(746)
但馬國城崎郡 豊岡市赤石 兵主神社二座 速須佐之男命 旧村社 年代は不詳
また、薬王寺に近い但東町虫生(ムシュウ)にも式内社・阿牟加(アムカ)神社の論社安牟加神社があるが、全国で3か所「正始元年」三角縁神獣鏡がみつかっている森尾古墳の森尾にも阿牟加(アムカ)神社があるがここも奥野に近く、この二か所が似ている。
大生部兵主(おおうべひょうず)神社
但馬の式内兵主神社巡りもいよいよ最後になった。
分かりにくい場所にあって数回通っているが、対岸にあるため気づかなかった。
県道703号線(永留豊岡線)と160号線が合流する地点から穴見川を越えて南へ渡った場所に境内がある。
豊岡市奥野1
旧村社
御祭神 大己貴命
いつもお世話になっている「玄松子」さんのページによると、
創祀年代は不詳。
一説に、弘仁元年(810)、当地に兵庫を建て在庫の里と呼ばれて兵主の神を祀り、兵主神社と称したという。
後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。
延暦二年(1674)本殿を改築、
寛政三年(1791)火災により焼失したため再建された。
式内社・大生部兵主神社の論社の一つ。
祭神は大己貴命だが、異説として素盞嗚尊を祀るという。
また、常陸国鹿島からの勧請とする説もある。
社殿の左右に境内社の祠が二つ。
それぞれに三社が合祀されているようだ。
社殿左の祠には、愛宕神社、秋葉神社、金刀比羅神社。
社殿右には、稲荷神社、皇大神宮、有庫神社。
ただし、大生部兵主神社として有力な論社は二つある。
豊岡市(旧出石郡)但東町薬王寺にある同名社と、この奥野にある同名社。
しかし、薬王寺の大生部兵主神社は延喜式式内社にはないから、奥野の方が古いのではないか。
薬王寺の読み方は「おおいくべひょうすじんじゃ」だが、それは時代によって変化したものだろう。
祭神として素盞嗚命を祀り、用明天皇の皇子麻呂子親王勅を奉 じて牛頭天王も祀っている。
薬王寺は但東町から丹後へ抜ける国境の峠の一つで、東側には京街道だった。

  
鳥居                   木造りの鳥居と参道

  
社殿                   拝殿

境内の西側に舞殿があり、舞殿に向かい合う形で社殿がある。
拝殿は瓦葺・入母屋造、後方の本殿は瓦葺・流造。

有庫神社

兵庫県豊岡市市場85
祭神は、武甕槌神・奧津彦神・奧津姫神・軻遇槌神・菅原道眞。
有庫神社としての祭神は、武甕槌神。
つまり鹿島からの勧請ということになる。
菅原道真公は、天神社を、
その他の神々は、荒神社を合祀したもの。
社格は、旧村社。

  
鳥居                   神門

  
社殿

穴見郷 戸主 式内 大生部兵主神社(あなみごう へぬしおおうべひょうず)
兵庫県豊岡市三宅字大森47

 
鳥居とと神門

  
本殿覆屋

式内社
田道間守を祀る式内社中嶋神社に近いところにあるが、古くて小さな社。上記の大生部兵主神社や有子神社は村の氏子の方によって手入れが行き届いているが、この社はあまり参拝者が多くないように見える。
大生部兵主神社として有力な論社は薬王寺にある同名社と、奥野にある同名社。

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

糸井造と三宅連

天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。『川西町史』は、この姓(カバネ)を与えられた氏族は五世紀末におかれた新しい型の品部(王権に特定の職業で仕える集団)を掌握する伴造であり、より古い型の品部を掌握する連姓氏族より概して地位は低かった。以上から三宅氏の「三宅」が前述の倭のミヤケを指し、そのミヤケの管理を担当した有力な氏族であるとすれば、糸井氏と三宅氏の関係は、三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から分かれた一分族が糸井氏であると推測できる。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡(豊岡市)三宅のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。

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【たじま昔ばなし】 五社明神の国造り(豊岡市小田井)

大昔、まだ豊岡(とよおか)のあたりが、一面にどろの海だったころのことです。

人々は十分な土地がなくて、住むのにも耕すのにも困っていました。そのうえ悪いけものが多く、田畑をあらしたり、子供をおそったりするので、人々はたいへん苦しんでいました。この土地を治める五人の神様は、そのようすを見て、なんとかしてもっと広く、住みよい所にしたいものだと考えました。

そこで神様たちは、床尾山(とこのおさん)に登って、どろの海を見わたしてみました。すると、来日口(くるひぐち)のあたりに、ものすごく大きな岩があって水をせき止めています。

「あの大岩が、水をせき止めているのだな」
「あれを切り開けば、どろ水は海へ流れるにちがいない」
「そうすれば、もっと広い土地ができるだろう」
「それはよい考えだ。どろの海がなくなれば、たくさんの人が安心して暮らせる」

神様たちはさっそく相談して、大岩を切り開くことにしました。

大岩を断ち割り、切り開くと、どろ海の水はごうごうと音を立てて、海の方へ流れ始めました。神様たちはたいそう喜んで、そのようすを見ていました。

ところが、水が少なくなり始めたどろ海のまん中から、とつぜんおそろしい大蛇(だいじゃ)が頭を出して、ものすごいうなり声を上げながら、切り開かれた岩へ泳ぎはじめました。そして、来日口に横たわって水の流れをせき止めてしまったのです。

神様たちはおどろきました。

「この大蛇は、どろの海の主にちがいない」
「これを追いはらわねば、いつまでたっても水はなくならないぞ」

神様たちがそろって、大蛇を追いはらおうとすると、大蛇はすぐにどろにもぐってにげてしまいます。あきらめてひきあげると、大蛇はまたあらわれて、水をせき止めてしまいます。神様たちはたいそうおこりました。

すきをみて大蛇に飛びかかり、神様たちは、とうとう大蛇を岸に引きずり上げてしまいました。そして頭と尻尾(しっぽ)をつかんで、まっぷたつに引きちぎろうとしましたが、大蛇もそうはさせまいと大暴れします。それどころか、太くて長い体を神様たちに巻き付けて、しめころそうとするのでした。

五人の神様と大蛇は、上になったり下になったりしながら、長い間戦いました。大蛇が転がるたびに、地面は地震(じしん)のようにゆれます。けれども五人が力をあわせ、死にものぐるいでたたかいましたので、大蛇もしだいにつかれてきました。そこで神様たちが、大蛇の頭と尻尾にとびかかって、えいっと力をこめて引っ張りますと、さしもの大蛇も真っ二つになってしまいました。

こうして、どろの海の水は全部日本海へと流れ出し、後には豊かな広い土地が残りました。そしてどろの海のまわりにはびこっていた悪いけものたちも、みなにげ出してしまいましたので、人々はたいへん喜び、それからは安心して暮らせるようになったということです。
このできごとをお祝いして、毎年八月に、わらで大蛇の姿をした太いつなをつくり、村人みんなでひっぱってちぎるというお祭りが、行われるようになったということです。


小田井神社

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

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【たじま昔ばなし】 鼻かけ地蔵(豊岡市楽々浦)

昔、但馬(たじま)の楽々浦(ささうら)の村に、貧しい漁師の男が住んでいました。毎日、楽々浦であみを打って働いていましたが、暮らしは少しも楽になりません。そんなある日、男の夢にお地蔵様があらわれて、こんなふうにおっしゃいました。

「私は、大水にさらわれて、楽々浦の底にしずんでいるのだよ。暗いし冷たいし、その上ここにいたのでは、人々を救うこともできない。どうかおまえの力で助けておくれ」

ふしぎな夢もあるものだ。男はそう思いましたが、翌日さっそくあみを打って水底をさぐってみました。すると、夢のとおりのお地蔵様があみにかかってあがってきたのです。男はさっそく、小さなお堂をこしらえて、お地蔵様をていねいにお祭りしました。

あくる日、男がお参りしてみると、お地蔵様の足元に白い米つぶがたくさん散らばっています。どうしたことかと思って見ていると、なんとお地蔵様の鼻の穴からぽろり、ぽろりと米つぶがこぼれ落ちているではありませんか。男はびっくりするやらうれしいやら。さっそく、おけを持ち出して、お地蔵様の鼻の下に置きました。

ぽろりぽろりとこぼれ落ちるお米は、だんだんとおけの中にたまってゆきます。
「これはありがたい。もう苦労をして働かなくても暮らしていける」

それからというもの、お地蔵様の鼻の穴からこぼれるお米で、男はだんだん豊かになりました。いつまでも止まることなく出てくるお米を、近所の人たちに分けてやるようにもなりました。

ある日、男は考えました。
「あの鼻の穴がもっと大きければ、もっとたくさんお米が出てくるんじゃないかな。そうすれば、もっといい暮らしができる」
ようしっ! 男はのみと金づちを持ち出すと、さっそくお地蔵様の鼻の穴をけずりはじめました。
トン、カン、カン・・・。
鼻の穴は少しずつ大きくなってゆきます。「よしよし」男はにっこりしました。
「もう少しだ」

ところが、あと少しというところで、手元がくるってしまったのです。
「あっ!」

しまったと言うひまもなく、次のしゅん間、お地蔵様の鼻は欠け落ちていました。そしてそれきり、お地蔵様の鼻から出ていたお米は、ぱったりと出なくなってしまいました。

男はぼう然としましたが、もう元にはもどりません。
「何とばちあたりなことをしてしまったんだろう」

男はすっかり目が覚めました。心から反省し、毎日お地蔵様にお参りしておいのりするようになりました。前にもまして、楽々浦であみを打ち、いっしょうけんめい働きました。やがて男はおよめさんをもらい、二人は幸せに暮らしたということです。

今でも、鼻の欠けたお地蔵様は、楽々浦のほとりにあるお堂の中で、村の人たちの暮らしを見守っています。どんな願い事でも、ひとつだけちゃんとかなえてくれるというお地蔵様には、毎日きれいな花が絶えることがありません。

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

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【たじま昔ばなし】 国造りにまつわるお話

兵庫県立歴史博物館「ひょうご伝説紀行 - 語り継がれる村・人・習俗 ‐」によれば、”アメノヒボコは但馬国を得た後、豊岡(とよおか)周辺を中心とした円山川(まるやまがわ)流域を開拓したらしい。そして亡くなった後は、出石神社(いずしじんじゃ)の祭神として祭られることになった。

但馬一宮の出石神社は、出石町宮内にある。この場所は出石町の中心部よりも少し北にあたり、此隅山(このすみやま)からのびる尾根が出石川の右岸に至り、左岸にも山が迫って、懐のような地形になっている。神社はその奥の一段高い場所に建っている。

このあたりから下流は、たいへん洪水が多い場所である。2004年におきた豊岡市の大水害は記憶に新しいところだが、出石神社のあたりを発掘してみると、低湿地にたまる粘土や腐植物層と、洪水でたまった砂の層が厚く積み重なっている所が多い。

そんな場所であるから、古代、この地を開拓した人々は、非常な苦労を強いられたことだろう。『出石神社由来記』には、アメノヒボコが「瀬戸の岩戸」を切り開いて、湖だった豊岡周辺を耕地にしたと記されているという。そのアメノヒボコは、神となって今も自分が開拓した平野をにらんでいるのだ。

去年の伝説紀行に登場したアメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのだろう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思える。

この出石神社から1kmほど北へ行った所に、出石古代体験館がある。出石町内で発掘されたさまざまな資料が展示され、体験もできるから、古代史に関心がある人は訪ねてみるとよいだろう。”

縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんよりお借りしました

”二つの伝説に共通しているのは、「但馬(特に円山川(まるやまがわ)流域)はかつて湖だったが、神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点である。実はこの「かつて湖だった」というくだりは、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではなさそうなのだ。  今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代だった。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられている(縄文海進)。
但馬の中でも円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしている。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、そんなものがない古代のことは想像に難くない。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いている。
豊岡市中谷や同長谷では、縄文時代の貝塚が見つかっている。中谷貝塚は、円山川の東500mほどの所にある縄文時代中期~晩期の貝塚だが、現在の海岸線からは十数km離れている。長谷貝塚はさらに内陸寄りにある、縄文時代後期の貝塚である。これらの貝塚は、かつて豊岡盆地の奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことを物語っている。
縄文時代中期だとおよそ5000年前、晩期でもおよそ3000年前のことである。「神様たちが湖の水を海に流し出した」という伝説は、ひょっとするとこういった太古の記憶を伝えているのではないだろうか。
円山川をさかのぼって北から南へ。それぞれの神社(北から順に、絹巻神社、小田井縣神社、出石神社、養父神社、粟鹿神社)を訪ねて、五社明神のお話を考えてみた。途中、鼻かけ地蔵さんと、伝説に登場する来日岳(くるひだけ)に立ち寄ったのはもちろんである。”
兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

このことは、但馬五社である古社、粟鹿神社、養父神社、小田井神社にも但馬の国を切り開いた伝承が残っていることから、気が付いていた。
【たじま昔ばなし】 五社明神の国造り(豊岡市小田井)
http://koujiyama.at.webry.info/201002/article_56.html
【たじま昔ばなし】 粟鹿山 「大山」の地名伝説(朝来市山東町粟鹿)
http://koujiyama.at.webry.info/201002/article_59.html
どちらにも共通しているのはそのころ広い湖であったということだ。豊岡盆地が円山川支流出石川まで奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことは実際に地層やハカザ遺跡から船団が描かれた木が見つかっておりうなづける。しかし山東町あたりはどうだったのだろうか。遠阪峠そばで標高差を考えても、粟鹿山から流れている粟鹿川が神社のそばでは少し川幅が広くなっており勾配がないようだ。湖とはいわないが大雨で氾濫していたのかも知れない。
また、
『播磨風土記』には、天日槍(アメノヒボコ)命と伊和大神(葦原志許乎命(あしはらのしこおのみこと)=大巳貴命(おおなむち))が、黒土の志爾嵩(藤無山)に至りおのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。 アメノヒボコ命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。 葦原志許乎命の投げた黒葛は、一条が但馬の気多の郡(豊岡市日高町)に、一条は夜夫(養父)の郡に、 そして、最後の一条が御方に落ちたため、 三条(みかた:御方・御形)という地名となった。
アメノヒボコ命の投げた黒葛が出石に落ち、ヒボコ命を祭神とする出石神社があり、また、気多郡に葦原志許乎命を祀る気多神社、御方にも葦原志許乎命を祀る御方神社が鎮座する。 養父郡にも、国土開発統治の神様大己貴命(葦原志許乎命)を祀る養父神社が存在するということは、古くからこの地に有力な地方豪族がおり、四道将軍の少彦名命、谿羽道主命が平定後に、
養父神社の祭神に五座(二座 小三座)
倉稲魂命--------米麦養蚕牛馬の神様
少彦名命--------薬草、治病の神様
大巳貴命(大国主命)--国土開発統治の神様
谿羽道主命(四道将軍のひとり丹波道主命)国民生活安定の神様
船帆足尼命-------地方政治の神様
を配祀したのではないかと思われることから伺えます。
大己貴神(別名、大国主神、国作大己貴命、葦原志許男命など)を祀る但馬の神社
養父神社
小田井神社
但馬総社 気多神社
伊福部(イフクベ)神社
神門神社(かむとじんじゃ)
伊福部(イフクベ)神社
石部(いそべ)神社
安牟加(アムカ)神社
式内社 重浪神社(しきなみ)神社
式内社 韓國(からくに)神社
西刀(せと)神社
式内社 與佐伎(よさき)神社
また、粟鹿神社は
彦火々出見命(ホオリ、山幸彦、ニニギとコノハナノサクヤビメとの間の子。ウガヤフキアエズの父、神武天皇の祖父)あるいは 日子坐王(谿羽道主命の子・日下部氏の祖)

「洪水説話」と天沼矛(アメノニボコ)
天沼矛(あめのぬぼこ・あまのぬぼこ)は日本神話に登場する矛である。『古事記』では天沼矛、『日本書紀』では天之瓊矛(本文)・天瓊戈(一書第一・第二・第三)と表記される。
『古事記』によれば、伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神は、別天つ神たちに漂っていた大地を完成させることを命じられ、天沼矛を与えられた。伊邪那岐・伊邪那美は、天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛で、渾沌とした大地をかき混ぜたところ、矛から滴り落ちたものが、積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった。伊邪那岐・伊邪那美は淤能碁呂島で結婚し、大八島と神々を生んだ(国産み、神産み)。
国産み(くにうみ)とは日本の国土創世譚を伝える神話である。
イザナギとイザナミが天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくる。また、『古事記』などではそののち2神で島を産んだというものである。この島産みは、中国南部、沖縄から東南アジアに広く分布する「洪水説話」に似た点が多いといわれる。
なお、国生みの話の後には神生み(かみうみ)が続く。
「洪水説話」とは、文明を破壊するために、天誅として神々によって起こされた大洪水(洪水神話、洪水伝説)は、世界の諸神話に共通して見られるテーマである。聖書(旧約聖書)『創世記』のノアやノアの方舟、インド神話、ヒンドゥー教のプラーナのマツヤ、ギリシャ神話のデウカリオン、および『ギルガメシュ叙事詩』のウトナピシュティムの物語は、よく知られた神話である。過去現在の世界の文化のうち大部分が、古い文明を壊滅させる「大洪水」物語を有している。
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【たじま昔ばなし】 「鴻の湯」の伝説(豊岡市城崎町)

はるか太古のむかしより、温泉の郷として親しまれている「城崎温泉」。舒明天皇(在位629年?641年)の時代に、コウノトリが傷を癒した伝説がある。コウノトリが足の傷を癒したといわれる城崎温泉最古の湯です。庭園風呂(露天風呂)もあり、山に囲まれているので自然に囲まれた森林浴風呂という楽しみ方もできます。

山の湯風をとり入れた素朴な様式の建築で町の奥深く街路から離れた閑静な湯。川べりの柳が風情ある散策をかねた七つの外湯めぐりが楽しめます。知名度と京阪神からのアクセスの良さにもかかわらず、歓楽色の少ない静かな情緒が特徴です。

夏は海水浴、冬はカニ料理に人気があります。城崎温泉駅にもさとの湯(駅舎にある温泉)や足湯、飲泉場があります。足湯や飲泉場が温泉街各所にある。外湯は、「鴻の湯」・「まんだら湯」・「御所の湯」・「一の湯」・「地蔵湯」・「柳湯」・「さとの湯」 の7箇所。

城崎では浴衣を着て下駄を履くのが正装と言われている。温泉街には「ゆかたご意見番」という掲示をした店が多く、浴衣が着崩れたりした時に対応する。浴衣の模様で旅館が分かるとその旅館の下駄を差し出す下足番もいる。色鮮やかな浴衣を貸し出す旅館も多い。

また温泉郷に設置されている7ヶ所の外湯では観光客向けに当日最初の入湯者に一番札を配布しています。
泉質:ナトリウム・カルシウム・塩化物・高温泉、効能:神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・疲労回復・慢性婦人病ほか。

歴史

舒明天皇(在位629年~641年)の時代に、コウノトリが傷を癒した伝説がある。「鴻の湯」の伝説。

養老元年717年から養老四年720年、道智上人が千日の修行を行った末に湧出したことが城崎温泉のはじまり。(現在のまんだら湯)道智上人は温泉寺開山でもある。温泉寺は以後、城崎温泉の社会的中心になる。

平安時代になり、「城崎温泉」が広く知られるようになりました。
鎌倉時代嘉禄2年(1226年) 、藤原定家が「名月記」7月2日の条に記しています。
文永4年(1267年)、「木崎湯治」、安嘉門院が入湯した湯を「御所の湯」といいました。

江戸時代の温泉番付によると西の関脇(最高位は大関)にランクされる。ライバルの有馬温泉は西の大関。江戸時代の外湯の元になった湯壷は9つあった。

幕末に桂小五郎(木戸孝允が)が新撰組に追われて出石・城崎温泉に潜伏していたことがあった。

江戸時代の城崎温泉はすでに遊技場のほか、食べ物屋は鍋焼き、ぜんざい、うどん、そばなどがある。果物、魚、鳥も各地から運ばれフグ、タコ、カモと何でも手に入った。

貸し物屋では三味線、すごろく、碁、琵琶、琴、さらに、槍や刀まで貸してくれていた。このように、客が帰るのを忘れさすほどもてなした。城崎温泉には、近郊の藩主や藩士が多数訪れたにぎわった。

大正2年(1913年)、志賀直哉が来遊し、大正6年(1917年)、「城の崎にて」を発表。

城崎を訪れた文人たち
有島武郎、泉鏡花、京極杞陽、斎藤茂吉、志賀直哉、白鳥省吾、柴野栗山、司馬遼太郎、島崎藤村、沢庵、田中冬二、徳富蘇峰、山口誓子、吉井勇、徳富蘆花、富田砕花、日野草城、藤原兼輔、前川佐美雄、向井去来、柳田國男、吉田兼好、与謝野晶子、与謝野寛など

見どころ
社寺 – 温泉寺、四所神社、極楽寺
博物館 – 城崎美術館、城崎文芸館、太田垣士郎資料館、城崎麦わら細工伝承館
日和山・城崎マリンワールド、兵庫県立円山川公苑、自然 玄武洞、来日岳、竹野浜、神鍋高原
2008年7月、木屋町通りと四所神社を結ぶ小路に木屋町小路がオープン。

ローカルキャラクター
* 松葉カニの ジョーくん(弟)、サキちゃん(姉) * コウノトリの 翔君、舞ちゃん (夫婦) * 城崎泉隊オンセンジャー
アクセス
鉄道…JR山陰本線城崎温泉駅下車すぐ。かにカニエクスプレス
バス…大阪・神戸から全但特急バス「かに王国号」で城崎温泉駅または城崎温泉下車
飛行機
羽田~(日本航空)~伊丹~(日本エアコミューター)~コウノトリ但馬空港
コウノトリ但馬行きは日本航空東京便と連絡。コウノトリ但馬空港からは空港連絡バス40分で城崎温泉。
その他…冬は山陰名物松葉ガニ(ズワイガニ)の料理を組み入れたツアーが設定されている。

引用:城崎温泉観光協会

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【たじま昔ばなし】 あいたっつあん

足の痛み治す神様  葦田神社 豊岡市中郷 (2004/08/26)

のどかな田園に囲まれた神社。拝殿の手すりには、靴や松葉づえ、ギプスなどがひもでくくりつけてある。足のけがが治った人が神様へのお礼に供えているのだという。

神様の名前は「あいたっつあん」。足痛の神様として信仰を集めてきた。
近くに住む森本幸二さん(73)は「今でこそお参りに来る人も減ったが、昔は但馬一円から集まったわらじやぞうりが柱などにいっぱいかけられていた」と言う。

その昔、天日槍(あめのひぼこ)が湖の底だった但馬を切り開いていたころの話。天日槍は、美しい田んぼが見渡せる所に屋敷を構えようと家来の神様に適当な場所を探させていた。  ところが、家来は中郷に見晴らしのいい土地を見つけたものの、自分が気に入ってしまって天日槍に隠していた。

それを知った天日槍が激怒。剣を抜いて家来に切りかかり、驚いて飛びのいた家来の足を傷つけ、そばにあった岩にまで傷をつけた。

しばらくして、天日槍は怒りすぎたことを反省し、見つけた土地を家来に与えた。家来は喜び、住人の足の痛みを癒やすことを誓ったという。

「あいたっつあん」と呼ばれるようになったのは切りつけられたとき、「あいた!」と言ったからだとされる。神社の辺りの小字名は「アイタチ」。近くにある狭間坂のわきには、刀傷のついた岩が残っている。

引用:神戸新聞「但馬の説話探訪」

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【たじま昔ばなし】 かっぱの恩返し  「赤石の者」襲わず(豊岡市赤石)

豊岡市赤石の玄武洞のすぐそば。道路脇にひっそりと立つ地蔵がある。明治時代に近くの川でおぼれた子どもをまつったものだという。

そこでは昔から、かっぱが出て子どもを引っ張るという言い伝えがあり、時々子どもがおぼれていた。

ある時、おじいさんが玄武洞近くの畑で草取りをしていると、子どもが近づいてきた。ところが頭に皿があり、かっぱが化けたのだと分かった。水浴びをしようとしつこく誘ってくる。おじいさんはかっぱのすきを見て捕まえてしまった。

「これまでたくさんの子どもを川へ引っ張ったな。もう許さんぞ」

「助けて」。かっぱは、命ごいに必死になった。川へ入るときに「赤石の者だぞ」と言ったら引っ張らないと約束し、毎日、魚を届けることも申し出た。

おじいさんは、かわいそうになってかっぱを逃してやった。それから毎日、玄関の木の鍵に魚が掛けられるようになった。しかし鍵を鉄に替えると、ぱったり途絶えてしまった。

引用:神戸新聞「但馬の説話探訪」 豊岡市赤石 (2004/08/28)

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