山名持豊と九日市守護所

「武家列伝」さんの山名氏によると、
山陰地方に大勢力を築いた時氏らは、南朝方と呼応して文和二年(1353)には京に攻め入り、京を支配下においた。そして、直義の養子である直冬に通じて義詮方と対抗した。以後、直冬党として幕府と対立を続けたが、貞治二年(1363)、安芸・備後で直冬が敗れて勢力を失うと大内氏につづいて幕府に帰順した。帰順の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、「多くの所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかれけれ」と不満の声が高かったと伝えられる。いずれにしろ、幕府の内訌、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったのである。

時氏には嫡男の師義を頭に多くの男子があり、子供らの代になると山名氏の守護領国はさらに拡大されることになった。
山名時義の時代に山名一族は大きく躍進し、 応安三年(1370)、時氏は師義に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分かった。永和二年(1376)、師義が死去したのち、家督は弟の時義が継承した。時義は若年より父時氏に従って兄師義らとともに行動、いちはやく上洛を果たして幕府の要職の地位にあった。師義死去のときは伯耆守護であったが、家督を継いだ時義は但馬守護職にも任じ、さらに、備後・隠岐の守護職も兼帯した。

この時義の時代に山名一族は大きく躍進、次兄義理は紀伊・美作守護職、四兄氏清は丹波・山城・和泉三ケ国の守護職、師義の実子で甥の満幸が丹後・出雲守護職、同じく甥の氏家が因幡守護職に任じられ、一族で守護領国は十二ヶ国*を数えた。それは、室町時代の日本全国六十八州のうち六分の一にあたり、山名氏は「六分一殿」とか「六分一家衆」と呼ばれる大勢力になった。

しかし、「満つれば欠くる」のたとえもある如く、一族が分立したことは内訌の要因になった。さらに、三代将軍足利義満は強大化した山名氏の存在を危惧するようになり、ついにはその勢力削減を考えるようになった。そのような状況下の康応元年(1389)、惣領の時義が四十四歳の壮年で死去した。時義のあとは嫡男の時熙が継いだが、将軍義満は時熙・氏之(幸)兄弟に我意の振るまいがありとして、一族の氏清と満幸に討伐を命じた。義満が山名氏の勢力削減を狙った策謀であることは明白だったが、氏清は「一家の者を退治することは当家滅亡の基であるが、上意故随わざるを得ぬ。しかしいずれ二人が嘆願しても許されることはないか」と確認したうえで出陣した。

追放された時熙・氏之に代わって、但馬守護職には氏清が、伯耆・隠岐守護職には満幸が任じられた。これで山名氏の内訌は一段落したものと思われたが、なおも山名氏の分裂を策する将軍義満は、許しを乞うた時熙・氏之らを赦免、氏清・満幸らを挑発した。義満の不義に怒った氏清は満幸・義理らを誘い、南朝方に通じて大義名分を得ると、明徳二年の暮に京へと進撃した。明徳の乱であり、この乱により氏清は戦死、満幸は敗走、義理は出家という結果になった。

乱後、幕軍として戦った、時熙に但馬国、氏幸に伯耆国、氏冬に因幡国の守護職がそれぞれ安堵された。こうして、さしもの隆盛を誇った山名氏も、将軍義満の巧みな謀略にのせられて大きく勢力を後退させたのである。とはいえ、但馬・伯耆・因幡は山名氏の勢力が浸透していた地域であったことは、山名氏にとっては不幸中の幸いであった。

時義のあとは嫡男の時熙が継いだが、将軍義満が山名氏の勢力削減を狙った策謀によって一族の内訌により追放された時熙・氏之に代わって、但馬守護職には氏清がなったが、伯耆・隠岐守護職には満幸が任じられた。

時熙のあとは二男の持豊が家督を継承して、但馬・安芸・備後・伊賀の守護職を与えられた。
山名氏といえば「六分一殿」と言われた山名氏清が、全国の国の約六分の一に当たる十一か国を所領したことから呼ばれたのですが、ほんの一時期であって、すぐに八か国ぐらいになっている。しかも代ごとにころころ国や数も変わっている。室町時代の守護職とは、いわゆる近世守護大名のような存在ではなく、一円的に国を支配しているわけではない。但馬の一国をもらってそこで領主にあったのではない。そのような支配体制を「守護分国制」あるいは「守護領国制」といいますが、原則的に言えば「守護職」とは、つまり領主ではなく幕府から与えられた「職」です。「職」であるからいつでも首になる。律令時代の国司(国衙)に近いもので武士が国司の替わりに守護職を与えられるようになったのである。つまり守護所とは国府に代わる武士が国単位で設置された軍事指揮官・行政官である国の出先機関です。

守護職(守護大名)

鎌倉時代

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられている。

その後、守護の職務内容が次第に明確化されていき、1232年(貞永1)に制定された御成敗式目において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、国司の職権である行政への関与や国衙領の支配を禁じられた。
しかし、守護が国内の地頭や在庁官人を被官(家臣)にしようとする動き(被官化)は存在しており、こうした守護による在地武士の被官化は、次の室町時代に一層進展していくこととなる。

室町時代

次に成立した室町幕府も、守護の制度を継承した。当初、守護の多くは在地の有力者が任じられていたが、次第に足利氏一門と交代させられて、その地位を保持していたのは、播磨の赤松氏(赤松則村)などごく僅かだった。これは、鎌倉期の得宗専制を引き継いだものである。

1352年(文和1)には、軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領の年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられた。当初は、戦乱の激しい3国(近江・美濃・尾張)に限定して半済が認められていたが、守護たちは半済の実施を幕府へ競って要望し、半済は恒久化されるようになる。1368年(応安1)の半済令(寺社本所領事)は、年貢だけでなく土地自体の半分割を認める内容であり、守護による荘園・国衙領への侵出が著しくなっていった。さらに、守護は荘園領主らと年貢納付の請け負い契約を結び、実質的に荘園への支配を強める守護請(しゅごうけ)も行うようになった。また、税の一種である段銭や棟別銭の徴収なども行うなど、経済的権能をますます強めていったのである。

守護はこのように強化された権限を背景に、それまで国司が管轄していた国衙の組織を吸収すると同時に、強まった経済力を背景に、国内の地頭、在地領主(当時、国人と呼ばれた)、さらに有力名主らを被官(家臣)にしていった。この動きを被官化というが、こうして守護は、土地の面でも人的面でも、国内に領域的かつ均一な影響力を次第に及ぼしていく。こうした室町期の守護のあり方は、軍事・警察的権能のみを有した鎌倉期守護のそれと大きく異なることから、室町期守護を指して守護大名と称して区別する。また、守護大名による国内の支配体制を守護領国制という。ただし、守護大名による領国支配は必ずしも徹底したものではなく、畿内を中心に、国人層が守護の被官となることを拒否した例は、実は多く見られる。

室町中期までに、幕府における守護大名の権能が肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護には、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者がいた。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や、多くの分国を抱える場合などに、国人を守護の代官としたり、直属家臣の中から守護代を置いた。さらにその守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していった。

守護の恩典には、将軍の諱から一字をもらう一字拝領などがあった。また、守護の格式として白傘袋・毛氈鞍覆を許され、守護代には唐傘袋・毛氈鞍覆、塗輿が免許された。また、守護・守護代ともに塗輿の使用が免許され、有力な武士としての権威性を認められていた。管領・探題に達する者や有力守護にのみ許された特典としては、屋形号と朱の采配の免許があり、屋形号を持つ者の家臣は烏帽子と直垂を着用することが許された。特に鎌倉公方足利家では関東の有力武士のうち、8家に屋形号を授け関東八館などといわれた。

戦国時代

応仁の乱の前後から、守護同士の紛争が目立って増加しており、それに歩調を合わせるように、在地領主である国人の独立志向(国人一揆など)が見られるようになる。これらの動きは、一方では守護の権威の低下を招いたが、他方では守護による国人への支配強化へとつながっていった。そして、1493年(明応2)の明応の政変前後を契機として、低下した権威の復活に失敗した守護は、守護代や国人などにその地位を奪われることになり、逆に国人支配の強化に成功した守護は、領国支配を一層強めていった。

こうして、室町期の守護のうち領国支配の強化に成功した守護や、守護に取って代わった守護代、国人は、戦国大名へと変質・成長していった。しかし、室町時代、世襲という家柄や既得権として権威があった守護職は戦国時代でも、戦国大名の称号としてそれなりに意味を持っており、実力者の称号となることでそれなりの意味を持った。多くの戦国大名が幕府から守護に補任されていることはその証左である。このことから、戦国期守護という概念を提示する論者もいる。

九日市守護所


「但馬山名氏在所の移転を巡って」豊岡市 山口久喜氏

『但馬史研究 第31号』「但馬山名氏在所の移転を巡って」豊岡市 山口久喜氏によると、こう記されている。
桜井勉氏が『校補但馬考』で「山名氏の居所、初は豊岡に住し、漸次式微に至り、此隅に蟄し、更に出石に移りしかと思はる。応仁武鑑に、持豊(宗全)の居城は出石郡出石なりと云ふに至りては無稽の最も甚だしきものと謂へきなり。」と断言している。

「武家列伝」によると、時義は師義に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は但馬と丹後の守護職を継承したとあるので、、師義以前の時氏のころには但馬守護職も担っていたと思われる。時氏の京に住んでいたと思われるので但馬は守護代が九日市(豊岡市)を根拠地とし、時義から時熙、持豊(宗全)の三代のいつごろからかが不明だが、その後、当地を但馬守護所としたと思われる。

山口久喜氏によると、九日市守護所の防衛体制について考察を加えたい。
九日市には在所の中核を示唆する「御屋敷」の他、「丁崎(庁先)」などの小字名や地名を残すが、さらに「大堀」「堀通(堀道?)」の地名がある。円山川西岸の自然堤防の一区画を堀とともに囲む形である。この中に「御屋敷」や、当時の山名氏菩提寺と伝える妙経寺(現存)と九日市上ノ町、中ノ町、下ノ町がある(現存)。
この囲みの西側は「荒原」と呼ばれる低湿地で、西部丘陵間に展開する後背湿地である。円山川から引く水は堀を満たして、溢れた水は荒原に満ちて囲みの中を水城化したものであろう。円山川と堀群は、西部丘陵上の城砦群と結んで九日市守護所の惣構えを構成した。
丘陵上の城砦群は、北から正法寺城(山王山)、城崎城(神武山)、大門砦、妙楽寺城、(戸牧山)、びくに城、戸牧城、佐野城と記してある。

従来の九日市在所否定論は、「強固な詰め城」がないからとしてきたが、以上の「惣構」が南北朝・室町時代の防御体制の一面を示唆し得ないだろうか。

山名氏が本拠地を出石に変えたワケ

出石郡西部(旧出石町)はもともと山名氏の直轄領であった。したがって但馬一宮出石神社の所在地としても、直轄領中の重要地点であった。その守りとしてすでに出石神社を見下せて円山川と出石川の平野部を見渡せる位置の此隅山に城か砦が築かれていても不思議はないし充分想定できるが、最近の研究では要塞としての此隅山城の構築時期は比較的新しく、永禄12(1569)年の織田氏の命による豊臣秀吉軍の但馬征伐に至る情勢の中で織田氏対策として着手されたと説いている。

永正二(1505)年六月、山名氏と垣屋氏が乱入して出石神社が焼失した事件は、近傍の此隅山山下の山名致豊勢を垣屋氏が襲ったとみられるが、この時点で山名氏が在所を此隅山に移したと断定できるかどうか(山口久喜氏の文を加筆した)。
したがって、他に出石へ移った根本の理由があったからではないか。

「武家列伝」によると、
嘉吉の乱以降、播磨赤松氏との対立をくり返し、文明十一年、赤松政則は播磨に下向すると播磨・備前・美作三国の支配に乗り出した。政則は山名氏の分国因幡の有力国衆毛利次郎を援助して、山名氏の後方攪乱をはかった。毛利次郎は因幡一国を席巻し、山名氏にとって看過できない勢力となった。

山名氏の後方攪乱をはかる政則は、山名氏の分国である因幡・伯耆の有力国衆を抱き込んで山名氏への反乱を起させた。因幡では私部城に拠る毛利次郎が赤松氏に通じ、他の国衆も次郎に加わって反乱は内乱の状況を呈した。因幡の状況を重くみた政豊は但馬に帰国すると、ただちに因幡に出撃し、守護山名豊氏とともに次郎を因幡から追放した。ところが翌年、伯耆国で南条下総入道らが政則に通じて伯耆守護山名政之から離反、一族の山名元之とその子小太郎を擁して兵を挙げた。政豊は政之を応援して出兵、反乱は文明十三年におよんだが、元之らを追放して内乱を鎮圧した。

赤松政則の策謀による因幡・伯耆の反乱に手を焼いた政豊は、政則の介入を斥け、播磨の奪還を目指して出兵の準備を進めた。一方、政豊の嫡男で備後守護の俊豊は、父に呼応して備前から播磨への進攻を狙った。俊豊は備前の有力国衆松田氏元成を味方に引き入れると、文明十五年、赤松氏の守護所福岡城を攻撃した。松田一族は一敗地にまみれたものの、俊豊は太田垣氏らの兵を率いて備前に進撃した。かくして、但馬の政豊は俊豊の動きに合わせて、播磨へ向けて出陣すると、国境の生野に布陣した。
ときに京にいた赤松政則は、ただちに播磨に下向したが、生野方面と福岡城方面との両面作戦を迫られた。重臣の浦上則宗は備前福岡の救援を説いたが、政則は生野方面を重視し、主力を率いて生野へと出陣した。両軍は真弓峠で激突、結果は山名方の大勝利で、敗走する赤松軍を追って播磨に雪崩れ込んだ。政則の敗報に接した福岡城救援軍も播磨に引き返したため、福岡城の守備兵は四散した。戦後、赤松政則は播磨を出奔、浦上氏ら重臣は政則を見限って赤松一族の有馬氏から家督を迎えた。ここに、山名氏は播磨・備前を支配下に置き、垣屋氏、太田垣氏らを代官に任じて播磨の支配に乗り出した。

政則が出奔したあとの赤松軍は浦上則宗が中心となり、備前方面で山名軍と泥沼の戦いを展開した。山名氏が備前方面に注力している隙を狙って、文明十七年(1485)、細川氏の支援を得た政則は播磨に帰国すると旧臣を糾合、垣屋一族が守る蔭木城を急襲した。不意を討たれた垣屋勢は 越前守豊遠 左衛門尉宗続父子、平右衛門尉孝知ら主立った一族が討死する大敗北を喫し、辛うじて城を脱出した田公肥後守が書写坂本城の政豊に急を報じた。蔭木城の陥落は、赤松政則の動きにまったく気付いていなかった政豊の油断であった。

蔭木合戦で細川氏の支援を得た政則は播磨に帰国すると旧臣を糾合、垣屋一族が守る蔭木城を急襲した。不意を討たれた垣屋勢は 越前守豊遠 左衛門尉宗続父子、平右衛門尉孝知ら主立った一族が討死する大敗北を喫し、辛うじて城を脱出した田公肥後守が書写坂本城の政豊に急を報じた。

従来から宗全は出石此隅山を本拠地として応仁の乱へと出陣していったと思われていたが、但馬山名氏在所の出石移転(此隅山)の背景には応仁の乱以降に、衰退していった山名氏と筆頭家老・守護代・垣屋氏との相克がある。

蔭木合戦ののち、赤松政則と浦上則宗との間に妥協が成立、一枚岩となった赤松軍は勢力を増大、それまでの守勢から攻勢に転じるようになった。そして、文明十八年正月、山名勢は英賀の合戦に敗北、垣屋遠続らが戦死した。さらに同年四月、坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められた。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていった。

窮地に陥った政豊は但馬への帰還を願ったが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めた。さらに嫡男の俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔った。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となった。

但馬に逃げ帰った政豊に対して、但馬国衆まもとより俊豊を擁する備後国衆らは背を向けた。なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代の垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じた。備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督としおて振舞ったようだ。ところが、明応の政変によって将軍足利義材が失脚、義材に従って河内に出陣していた俊豊は窮地に陥った。ただちに但馬に帰った俊豊であったが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となった。

明応二年(1493)、俊豊は政豊の拠る九日市城を攻撃、どうにか俊豊の攻撃をしのいだ政豊は、逆に俊豊方の塩冶・村上氏を打ち取る勝利をえた。以後、政豊と俊豊父子の間で抗争が繰り返された。情勢は次第に政豊方の優勢へと動き、ついに山内氏の進言をいれた俊豊は備後に落去していった。明応四年、政豊は九日市城から此隅山城に移り、翌年には俊豊を廃すると次男致豊に家督を譲り、備後守護も譲ったことで山名氏の内訌は一応の終熄をみせた。

しかし、この政豊と俊豊父子の内訌は、確実に山名氏の勢力失墜を招く結果となった。乱において政豊・俊豊らは、垣屋氏・大田垣氏ら被官衆への反銭知行権の恩給を濫発、みずから守護権力を無実化し、結果として垣屋氏・大田垣氏らの台頭が促したのである。とくに垣屋続成は俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として領国の経営を担うようになった。
(以上)

足利将軍家後継争いにより垣屋氏が勝利した結果、義稙派の垣屋氏と義澄派の山名氏とのバランスが微妙に関わり合ったとみられている。さらに後世代になって此隅山城から有子山(子有山)へと後退していったようだ。

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