生野義挙 平野国臣1/8 恋闕(れんけつ)第一等の人


「平野国臣」像 福岡市中央区西公園内

「生野義挙」は生野の変ともいう。

平野次郎国臣は、幕末三大義挙のひとつ、「生野義挙」の中枢人物である。福岡脱藩士 平野国臣は、攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や久留米の勤王志士真木和泉、清河八郎(将軍家茂警護役・浪士隊(のちの新選組)の進言者)ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。幕末の但馬に関わる出来事として桂小五郎の但馬潜伏は有名だが、但馬・生野で起こったこの義挙を最初に起こした人としてもっと知られていいと思う。

彼は、幕末の動乱期に活躍した志士として、「幕末の三大豪傑」として知られる木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛、大久保利通が有名だが、またあまりにも有名な坂本龍馬らの影に隠れた人物の一人である。有名ではなくとも、明治維新の礎となった行動を最初に起こした人々の一人で、同じく先駆者だった真木保臣(まきやすおみ)(久留米藩)から「恋闕(れんけつ)第一等の人」とたたえられた人物である。

平野国臣 ひらの・くにおみ●1828~64年。福岡藩士として江戸、長崎に赴任する。31歳で脱藩し、志士として活動、僧月照と入水した西郷を助け出した。薩摩藩主への建白書『回天管見策』を著すが、下関で捕縛され、出獄ののち生野にて挙兵。京都に護送され、37歳で斬首された。

闕(けつ)とは皇居の門のこと。恋闕とは天皇を深く敬い慕う尊皇の心である。維新の志士の中で、平野は後世に残る最もすぐれた尊皇愛国の名歌を詠んだ歌人でもあった。

《大内(おおうち)の山の御(み)かま木樵(ぎこ)りてだに仕(つか)へまほしき大君の辺(へ)に》
《大内のさまを思へばこれやこの身のいましめのうきはものかは》
《君が代の安けかりせばかねてより身は花守となりけむものを》
《わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山》
《年老いし親のなげきはいかならん身は世のためと思ひかへても》
《わが心岩木(いわき)と人や思ふらむ世のため捨てしあたら妻子(つまこ)を》
《国のため世のためなればいかにせんゆるしたまひね年月のつみ》
《青雲のむかふすきはみ皇(すめらぎ)のみいつかがやく御代(みよ)になしてん》
《大王(おおきみ)にささげあまししわがいのちいまこそ捨つる時は来にけれ》

平野はじめ志士たちの絶唱は、西行や定家らの名歌とは趣が異なるが、彼らの歌以上に私たち日本人の心魂を強く打ってやまない。それは天皇を敬い、国を愛する心こそ日本人の奥底にある最も深い心であるからである。(日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦 産経新聞2010.2.10 07:44 一部加筆した)

神戸製鋼所社長・工学博士 佐藤廣士氏は、「幕末維新の人物学―一歩前に出る勇気、決断(4)」『「自らの境遇を決してあきらめない」』(プレジデント2010年1月 19日)『平野国臣:「最初に種をまいた人々の思いと行動」』(プレジデント2010年 1月 18日(2009年6.15号)で、

我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山
幕末維新に関心がある方ならどこかでこの歌に出合っているはずだ。胸にたぎる思いを噴煙たなびく桜島の姿と重ねた堂々たる作風が胸に響く。私がこの歌の作者である一人の勤王志士と出会ったのは、九州大学に通う学生時代だった。
博多湾に突き出た丘陵地にある西公園に今も銅像が立つ福岡藩士、平野国臣。一般にはあまり知られていない。隣の大分出身の私もそうだったが、「我が胸の」の歌の作者と知り、足跡をたどるにつれ、その情熱と行動力に引かれてしまった。

我が心 岩木と人や思ふらむ 世のため捨てしあたら妻子を

国臣が志士として活動するため、離別した妻子を思って詠んだ歌だ。岩や木のように心のない人間と思われても妻子を捨てる。決断をさせたのは外国の脅威だった。その生涯をなぞってみたい。

[catlist ID = 35] 参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
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