彦座王と丹波の鬼退治

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『但馬故事記』の崇神天皇の御代は、丹波青葉山にいた賊に陸耳の御笠を彦座命たちが丹波(丹後・但馬と丹波北部に限られる)の首長とともに退治した話のみが長く詳細に記されている。現代語風に訳してみる。

第十代崇神崇神天皇の十年秋、丹波青葉山にいた賊に陸耳くがみみの御笠みかさがいました。土蜘蛛つちぐもの匹女ひきめなどの盗賊を集めて人々の物を略奪していました。その仲間の土蜘蛛が多遅麻・狂の久流山にいて、あちこちに出没しては人びとに害を及ぼしていました。それは酷い有様でした。

丹波国造の倭得玉命やまとのえたまのみことと多遅麻国造の天日楢杵命あめのひならきのみことは、崇神天皇にそのことを伝えました。天皇は開化天皇の皇子・彦坐命に命じて、これを討つようにいわれました。
彦坐命は、御子の将軍・丹波道主命たにはのみちぬしのみこととともに丹波に下り、

多遅麻朝来直たぢまあさごのあたえの上祖 天刀米命あめのとめのみこと(天砺米命)
〃 若倭部連わかやまとのべのむらじの上祖 武額明命たけぬかがのみこと
〃 竹野別たかののわけの上祖 当芸利彦命たぎりひこのみこと
丹波六人部連むとべのむらじの上祖 武刀米命たけのとめのみこと(武砺米命・今の福知山市六人部むとべ)
丹波国造 倭得玉命やまとのえたまのみこと
大伴宿祢命おおとものすくねのみことの上祖 天靭負部命あめのゆきえべのみこと
佐伯宿祢命の上祖 国靭負部命くにのゆきえべのみこと
多遅麻黄沼前県主きのさきのあがたぬし 穴目杵命あなめきのみことの子・来日足尼命くるいのすくねのみことら

を率いて、丹波と若狭との国境に至りました。

陸耳・土蜘蛛匹女は南に向かい、蟻道ありじ川(福知山市大江町有路)にて土蜘蛛匹女を殺しました。その血が流れて、染みて紅色になりました。それでこの地を血原といいます(のち福知山市大江町千原)。

陸耳らは力が尽き、まさに降参しようとした際に、丹波国造倭得玉命は下流からこれを追い、楯を並べて河を守り、イナゴのように矢を放ちました。賊党は矢に当たり水に溺れ死にする者が多くいました。

それでこの地を河守といい、王軍がいた所を縦原といいます。(福知山市大江町河守・蓼原)

さらに賊を追って由良の湊に至りました。竹野の海で戦い、陸耳たちは大敗してまた逃げて行きました。(由良の湊は由良川河口、竹野の海は久美浜湾)

王軍はこれを追い、多遅麻の黄沼前きのさきの海(円山川河口)に逃げました。

その時に狂の土蜘蛛は陸耳に加わり、賊の勢いは再び増しました。(狂は豊岡市来日)

王軍の船は岸に当たり穴が空いてしまいました。さすがに王軍は士気を失いました。

その時に、水前大神が現れて告げました。

「天神・地神の擁護が有る。すぐに美保大神と八千矛大神を祀りなさい」と。

彦坐命はそのお告げを聞いて両神をまつりました。すると風はおさまり、波が穏やかになりました。それでこの地を安来浦といいます。(兵庫県美方郡香美町安木)安来に坐す大国主大神・玉櫛入彦大神はこの神です。(國主神社 祭神大国主命 美方郡香美町香住区安木)

再び王軍の士気は大いに高まりました。するとにわかに鯨波ときが起こり、無数のアワビが浮かび出て、その船の穴を塞ぎました。それで鯨波島ときしまといい(いま鳥加計島)、アワビが浮かび出たところを鮑島といいます(のち青島)。船が直ったところを舟生港といいます(のち舟を丹に誤りて丹生港。いまの柴山。式内丹生神社 祭神:丹生津彦命)。

その時天より神の剣が武額明命の船に降りてきました。武額明命はこれを彦坐命に献上しました。それで神ノ浦といいます(神ノ浦山)。またその地を名づけて、幸魂谷といいます(のち佐古谷)。

陸耳・土蜘蛛たちは島の陰に潜みました。それで屈居ノ浦といいます。来日足尼命(宿祢)は土蜘蛛に迫り、刺し殺しました。その地を多派礼波奈といいます。

王軍は陸耳を御崎の海に攻撃しました。その時、彦坐命の甲冑が鳴り、輝きを発しました。故にその地を鎧浦と云う。(兵庫県美方郡香美町鎧)

当芸利彦命は進んで陸耳に迫り、これを刺し殺しました。それでその地を勢刺いきさしの御崎といいます。また勇割の御崎と云う。(伊伎佐御碕、式内伊伎佐神社:兵庫県美方郡香美町余部)

彦坐命は、賊の滅ぶのをもって美保大神(美保神社:松江市美保関町)・杵築大神(出雲国一宮 出雲大社:出雲市大社町)の加護のお陰とし、戦功のお礼参りをするために出雲に行きました。二神に詣で、伯耆を過ぎ、因幡青屋崎(いまの鳥取市青谷町)、加露港に入り、順風を待ちました。

順風になって田尻沖を過ぎると、たちまち暴風が起こり、船は揺れました。それでその地を振動浦いふりうらといいます。

二方国、雪ノ白浜に入り、将兵を休ませました。それでその地を諸寄もろよせといいます(兵庫県美方郡新温泉町諸寄)。多遅麻の舟生港に寄り、順風を待ちました。その時、磯辺より世にまれな大アワビが多数浮かび出て、白石島を廻りました。この時、大アワビは、海神の御船と化して導き、丹波国与佐浦に到着できました。

11月3日、天皇のおられる都に凱旋し、将兵の戦功と戦中の奇談を奉じました。天皇はその功を賞め、丹波・多遅麻・二方の三国を彦坐命に与え大国主としました。

12月7日、彦坐命は諸将を率いて。多遅麻粟賀の県に下り、粟賀に宮を建てここに住まいました。(名神大 粟鹿神社)

アワビは塩ケ渕に放ちました。水が枯れたのち、枚田の高い山の麓の穴渕に放ちました(のち式内赤淵神社に祀ると云う)。

彦坐命は再び天皇の仰せで諸将を率いて山陰の諸国を巡察し、その平定につとめました。

天皇は、姓を日下部足尼(宿祢)くさかべのすくね*1と与え、諸国に日下部を定めて、彦坐命に与えました。しばらくして、彦坐命は宮に帰り、諸将を各地に置き、守りとしました。

各地の諸将は、みな粟賀宮に朝見して、徳をよろこびました。朝来あさごの名はここに始まります。


*1日下部氏 『日下部系図』は、その子孫が日下部表米別命-日下部荒島宿祢-養父の軽部・建屋・朝倉・八木・宿南・田公、朝来の太田垣などとする。

『但馬故事記』は、彦坐命-(2代省略)-息長宿祢命-大多牟阪命(朝来県主)-船穂足尼命(多遅麻国造)-当勝別命(朝来県主)-(丹波六人部武刀米命の子・武田背命:朝来県主)-

日下部の上祖・表米別命(当勝別命の子・朝来県主)-賀津米別命(朝来県主)-伊由臣彦命(朝来県主)-(律令制発足・県を郡へ)-(武刀米命の裔朝来直命:朝来郡司)・・・荒島宿祢(朝来大領、養父郡故事記には郡司とある?)-荒島宿祢の子・乙主(一に磯主)(朝来大領)-荒島宿祢の孫・安樹(朝来大領・父磯継は養父大領)-荒島安樹の玄孫・荒島国守(朝来大領)

[養父郡]多遅麻国造 船穂足尼命の9世孫 日下部宿祢(養父郡司)・・・朝来郡司荒島宿祢の子・磯継(養父郡司)・・・荒島宿祢利実(養父郡司)

・・・は他の家系の人が任じられているので省略した。

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