新温泉町の郷と地名

[郷名は、鎌倉以前の郷名として作成した。行政区名は現在の地名を使用]
現在の兵庫県美方郡新温泉町は、鳥取県と兵庫県の西の県境に位置する旧美方郡浜坂町と温泉町で、平成17年(2005年)10月1日に日本海に面する漁港で知られる浜坂町と夢千代日記の舞台となった湯村温泉で有名な温泉町が合併して発足した。その町域は、但馬国に併合される以前の二方(ふたかた)国(郡)に当たる。

ちなみに美方郡は、明治29年(1896年)4月1日、郡制施行のため、七美しつみ郡・二方ふたかた郡の区域をもって七美の美・二方の方より一字ずつを用い美方郡として発足したものである。西は鳥取県岩美郡岩美町、東隣りは美方郡香美町。

二方国

二方国とは、(古くは「ふたあがた」と読み布多県と書いた。)九州北部や出雲などからクニ(小国)が起こり始めて、二方国が国としては小さいながら、因幡・但馬とは独立した国であったのかを考えると、その地理的要因が大きい。因幡国と但馬国の中間にあり、中央や周囲と疎遠で独自の文化を残していたからと考えられる。中国山地の県境、氷ノ山など標高の高い山岳地帯をくねくねと曲がりながらいくつも峠を越えて山陰道(今の国道9号線)が走る。湯村を下り式内面沼神社がある竹田交差点で左に折れれば因幡(鳥取県東部)の山陰道が通り、まっすぐ北へ進めば日本海の浜坂へ分かれる交通の要所である。

『国司文書別記 但馬郷名記抄』をみても、他の但馬国の朝来・養父・気多・出石・城崎・美含、七美の七郡は、天火明命が丹波から但馬へ入り国を開き、多遅麻(但馬)と名づくことから話が始まるのは共通している。しかし、二方郡だけは当初別々の国であり、出雲国から素盞鳴尊が子の大歳命(大年命)と稲倉魂命に勅し、井久比宮(今の居組)に坐し、布多県国を開くところから始まる。

二方国は、人皇42代文武天皇の庚子四年(701)に廃し、但馬国に合せられ二方郡となるまで、約1300年間、二方国造16代、同国司1代、計17代続く。

二方とは

二方は古くは「ふたあがた」と読み布多県と書いた。二方郷は久斗川と岸田川が合流する久斗川から日本海までの北の郷名でもある。現在の区は西から清富・指杭・田井・三尾・赤崎・和田。

「ふたあがた」が「ふたかた」になったようであるが、布多は万葉仮名でまだ仮名がなかった当時の漢字の当て字なので意味はない。その「ふたあがた」とは、大庭県オホバノアガタ端山県ハヤマノアガタの2つの県をさす。二方郷は、律令制で但馬国府の国府が置かれた郷には郷名がなく「国府(または国府郷)」と記しているように、二方国の府が置かれたから二方郷としたのではないか。大庭県は旧浜坂町全域、端山県は旧温泉町全域(その後七美郡から一部編入)で、二方とは二方国、のち二方郡であり、旧浜坂町と旧温泉町が合併し新温泉町となったのは、二つの県(郡の古名)の二方国がそもそも歴史上においては起こりである点では、ごく自然な合併の流れといえるかも知れない。

二方郡(ふたかたのこおり・ぐん)

人皇42代文武天皇の庚子四年(701)に二方国を廃し、但馬国に合せ二方郡となる。

『校補但馬考』地理第七上

この郡は、上古別に一国なり。人皇十三代成務天皇の御宇、国造を定め給う。旧事本紀曰く二方国造くにのみやつこ、志賀高穴穂朝の御世、出雲国造の同祖、遷狛一奴命うかつくぬのみことの孫、美尼布命みねふのみことを国造に定め賜うとあり、其後一郡として、但馬に合わせられしは、何時にかありけん。古書に見えず。(*1)

倭名類聚抄に載る郷 9
久斗・二方・田公・大庭・陽口・刀岐・熊野・温泉(ユ)
以上9郷に村数54

延喜式神名帳曰く二方郡五座並小
二方神社・大家神社・大歳神社・面沼神社・須加神社

久斗郷(クト)
今の村数 7
瀧田・久谷・正法菴・邊地・境・濱(浜)坂・福島

二方郷(フタカタ)
今の村数 5
清富・赤崎・指杭(サシクイ)・和田・田井
『国司文書・但馬故事記別記・郷名抄』
和機村(和田)・二方村

三尾浦

『国司文書・但馬故事記別記・郷名抄』
御火浦ミホノウラ(古語は御保乃宇良)

息長帯姫尊は、越前国気比浦より御船に御し、北海より穴門(長門)国に至る。
この時多遅麻の伊佐佐御崎において日暮るる故、五十狭沙別大神、御火を現わし、二方浦曲(ウラワ)に導く。故に御火浦という。
のち火を避け、尾となすため「三尾浦」という。五十狭沙別(イササワケ)大神・息長帯姫尊・帯仲彦天皇(仲哀)を鎮座す。

田公郷(タキミ)
今の村数 7
栃谷・七釜・古市・新市・用土・今岡・金屋

大庭郷(オホバ)
今の村数 7
三谷・二日市・戸田・高末・釜屋・諸寄・蘆(芦)屋・居組

今 居組は仮で、別に大歳ノ庄というは、延喜式の大歳神社ここにいますゆえならん。本名は伊含なり。太田文大庭ノ庄に加えるとあり。今居組と書くは、訓同じければなり。

大庭(オホバ)

素戔嗚尊は、大年命と蒼稲魂神に命じて、布多県(ふたあがた)国を開かせ賜う。大年命は、蒼稲魂神とともに布多県国に至り、御子を督励して、田畑を開き、その地を称して、大田庭と云う。いま大庭(おおば)と云う。(美方郡新温泉町に大庭あり)

八太郷(ハタ)

今俗に畑と一字に書くは、謬(アヤマ)りなり。地名は二字を用いて、佳名を選ぶべしと延喜式にあり。(*2)

今の村数 11
井土・千原・鐘尾・千谷・宮脇・内山・越坂・海上・前村・石橋・岸田

面沼神社
井土村にいます。(中略)面沼に駅馬八疋置きし。

熊野郷
何れの郷と入り混じりや、その境を知らず。(*3)

温泉(ユ)郷
この郷の湯村に温泉あるゆえ、古代に二字にて「ゆ」と読ませたるを、後世知らずして、温泉(ユセン)郷と云う。また誤って泉の字を前に書き換えて、今は湯前庄と云う。(*4)

今の村数 16
湯村・熊谷(クマダニ)・伊角・檜尾()・春木・哥長(今は歌長)・柤岡(ケビオカ)・細田・多子(オイゴ)・鹽(塩)山(シオヤマ)・中辻・丹土(タンド)・切畑・竹田・飯野・相岡

温泉郷(ユノサト)

端山(ハヤマ)村・榛木(ハリキ)村(春木、今の春来)
*春木は二方郡温泉郷であったが、延喜式神名帳で春木神社は七美郡となっていることから、のち平安後期には、七美郡射添郷に編入された時期があったかも知れない。『国司文書・但馬故事記』『国司文書別記 但馬郷名記抄』等には、春来が二方郡から七美郡に変更されたような記述は全く見られないので、もしかしたら延喜式神名帳の編纂者が誤って七美郡としたのかも知れない。

陽口刀岐の二郷は、倭名鈔に和訓なし。その地を考えがたし。故に強いて論せず。総じてこの郡中諸郷の土地。その村入り混じりて正しからず。古代の境を失えるに似たり。重ねてその地を踏まずんば、みだりに議しがたし。故に今しばらく土人の説に従いこれを訳す。

(以上、『校補但馬考』)

拙者註

『校補但馬考』では、桐岡が抜けているのはなぜか。『校補但馬考』の以上の村は『和名抄』の記載を引用しているが、『和名抄』以前の『国司文書・但馬故事記別記 但馬郷名記抄』 天延3(975)にすでに桐岡村は記されている。

陽口(ヤク)郷(古語は屋久)

陽口開別命鎮座の地なり。この故に名づく。
壇岡(古語は麻由美乃意可)
壇貢進の地なり。日枝神社あり。大山咋(オオヤマクイ)命を祀る。
切畑村・細機村・陽口村・桐岡村

*切畑・細機(細田)・桐岡は現存し、陽口村とは郷の中心部であるから郷名となったものだろう。照来小学校など今も中心部である。陽口と照来は似た意味なので今の桐岡は人口増加により桐岡と陽口は村の区域が密着して桐岡に合わせた可能性が高い。

真弓 壇岡(マユミオカ)
人皇40代天武天皇白凰12年閏4月 文武官に教えて軍事を努め習わしめ、兵馬器械を具え、馬有る者は以て騎兵と為し、馬無き者を以て歩卒と為し、時を以て検閲す。牧場場を当国の刀伎波トキハ村に設け、刀伎波兵主神を祀り、兵馬の生育を祈らしむ。
(それまでは、人皇37代舒明天皇の2年 竹田周辺に軍団は置かれていた。おそらく人口増加により集落が発達し、兵馬・軍事訓練には向かなくなったためではないか?)

常磐ときわ神社 美方郡新温泉町中辻304)

旧温泉町で広い場所として考えられるのは、唯一、但馬牧場公園のある照来地区である。最も平坦な場所はここ以外にない。照来を陽口郷、中辻から塩山・飯野を古くは刀伎波郷で、但馬牧場公園スキー場辺りの丘を真弓、壇岡と称していたのではないだろうか?

『但馬神社系譜伝』壇岡

壇貢進の地なり。日枝神社あり。大山咋命を祀る。とある。この付近で日枝神社は香美町村岡区柤岡の村社に日枝神社。

照来(テラギ)

人皇16代応神天皇六年春三月、
二方開咋彦命の子・宇多中大中彦命(又の名は須賀大中彦命)をもって、二方国造と為す。宇多中大中彦命は、前原大珍彦命の娘・多久津毘売命を娶り、陽口開別(やくひらきわけ)命を生む。

人皇42代文武天皇庚子4年春3月 二方国を廃し、但馬国に合わせ、二方郡と為す。
従七位上榛原公照来を以て二方郡司と為し、郡衙を端山郷に置く。
大宝元年秋9月 榛原公照来は、その祖大山守命を春木山に祀り、春来神社と申しまつる。(式内 春来神社 新温泉町春来)

(陽口郷(ヤク)の陽口は見当たらないが、榛原公照来からこの地区を照来となったのだろう。)

刀岐郷(トキ)

刀岐波彦命の地なり。この故に名づく。また刀岐波兵主神を斎きまつる。往昔(ムカシ)は兵庫(ヤグラ)の地なり。
刀岐波村・塩屋村・壱岐村とある。

*『校補但馬考』では熊野郷・陽口郷・刀岐郷は不明とし一緒に合わせて16村としているが、『但馬国郷名記抄』から考察するに、熊野郷は県道47号線の今岡・金屋から県道549、550線の熊谷・伊角・桧尾を指す。

『国司文書別記 但馬郷名記抄』 天延3年(975)より (吾郷清彦氏編者註含む)

素戔嗚尊の子・大年命の子・瑞山富命の孫である布多県国造初代・穂須田大彦命と布多県国造二代・刀岐波彦命はいずれも大年命と蒼稲魂命の兄弟神の血が濃く入り交じっている。
第三十五代舒明天皇まで、素戔嗚尊の末裔が第十五代まで長く続く。
第四十二代文武天皇朝に、二方国は廃され、但馬国に合わせ、二方郡となる。

歌長(古語は宇多中、歌中:ウタナカ・哥長:ウタナガ)

人皇一代神武天皇五年八月、
瑞山富命の孫・穂須田大彦命をもって、布多県(ふたあがた)国造と為す。穂須田大彦命は、久々年命の娘・萌生比売命を娶り、刀岐波彦命を生み、宇多中宮に在りて国を治む。(美方郡新温泉町に歌長あり)

塩山(シオヤマ)

人皇五代孝昭天皇元年夏四月、
刀岐波彦命の子・布伎穂田中命を以って、布多県国造と為す。布伎穂田中命は、黒杉大中彦命の娘・千々津比売命を娶り、糠田泥男(ひじ)命を生む。布伎穂田中命は、志波山宮にありて国を治む。(刀岐郷の地名に今の塩山に相当する鹽(塩)山あり)

人皇八代孝元天皇五十六年春三月、
布伎穂田中命の子・糠田泥男ひじ命をもって、布多県国造と為す。糠田泥男ひじ命は、磐山飯野命の娘・豊御食姫命を娶り、宇津野真若命を生む。糠田泥男命は、泥男宮にありて国を治む。

浜坂(濱坂・濱阪)

人皇10代崇神天皇三年秋七月、
糠田泥男命の子・宇津野真若命をもって、布多県国造と為す。宇津野真若命は、波多類彦命の娘・真若毘売命を娶り、高末真澄穂命を生む。宇津野真若命は、浜阪宮にありて国を治む。(美方郡新温泉町浜坂)

高末(タカスエ)

人皇11代垂仁天皇十年春二月 宇津野真若命の子・高末真澄穂命をもって、布多県国造と為す。高末真澄穂命は、熊野狭津見命の娘・飯依毘売命を娶り、弥栄滝田彦命を生む。高末真澄穂命は、高末宮にありて国を治む。
(美方郡新温泉町高末あり)

対田(古くは滝田)

人皇12代景行天皇二年春三月 高末真澄穂命の子・弥栄滝田彦命をもって、布多県国造と為す。弥栄滝田彦命は、滝田宮にありて国を治む。弥栄滝田彦命は、遷狛一奴命(うかつくぬ)の娘・安来刀売(やすぎとめ)命を娶り、美尼布命を生む。

田井・清富

人皇13代成務天皇五年秋八月 出雲国造の同祖・遷狛一奴命の孫・美尼布命をもって、二方国造と定む。美尼布命は、田井宮にありて国を治む。大清富命の娘・美保津姫命を娶り、二方開咋(あきくひ)彦命を生む。(美方郡新温泉町に田井・清富あり)

人皇15代神功皇后七年春二月 美尼布命の子・二方開咋彦命をもって、二方国造と為す。二方開咋彦命は、多遅摩国造天清彦命の娘・須賀嘉摩比売命を娶り、宇多中大中彦命を生む。二方開咋彦命は、田井宮にありて国を治む。

和田

人皇35代舒明天皇十二年春三月 檜尾真若彦命の子・真弓射早彦命をもって、二方国造と為す。真弓射早彦命は、磐山野中彦命の娘・和田毘売命を娶り、和田佐中命を生む。
(美方郡新温泉町に和田あり)

千原・千谷・前

人皇17代仁徳天皇十年春三月 宇多中大中彦命の子・陽口開別命をもって、二方国造と為す。陽口開別命は、井上湧津玉命の娘・井上滝流姫命を娶り、千原大若伊知命を生む。

人皇19代反正天皇三年秋七月 陽口開別命の子・千原大若伊知命をもって、二方国造と為す。千原大若伊知命は、千谷聖中津彦命の娘・千谷若子比売命を娶り、前原真若伊知命を生む。
(美方郡新温泉町に千原・千谷・前あり)

伊角(イスミ)

人皇22代雄略天皇二十二年夏六月 千原大若伊知命の子・前原真若伊知命をもって、二方国造と為す。前原真若伊知命は、戸田大弓臣命の娘・清澄姫命を娶り、伊角大若彦命を生む。
(美方郡新温泉町に伊角あり)

桧尾(ヒノキオ)

人皇27代継体天皇二十四年秋七月 前原真若伊知命の子・伊角大若彦命をもって、二方国造と為す。伊角大若彦命は、宇多上大中彦命(又の名は須賀狭津男命)の娘・宇志賀毘売命を娶り、檜尾真若彦命を生む。
(美方郡新温泉町に桧尾あり)

人皇30代欽明天皇三十年秋七月 伊角大若彦命の子・檜尾真若彦命をもって、二方国造と為す。檜尾真若彦命は、黒杉太立彦命の娘・黒杉太立姫命を娶り、真弓射早彦命を生む。

 

 

拙者註
*1 『国司文書・但馬故事記』
人皇42代文武天皇の庚子四年春三月、二方国を廃し、但馬国に合わせ、二方郡と為す。

*2 桜井勉は「今俗に畑と一字に書くは、謬(アヤマ)りなり。地名は二字を用いて、佳名を選ぶべしと延喜式にあり。」と述べているが、氏の認識の欠如としか言えないのは、八太こそカナがまだなかった時代に、「ハタ」と云っていたものを八太と万葉仮名で当てただけのことがそんなに大した意味はないのであり、むしろハタは畑や機織りを指すだろうから、畑の方が由来として妥当だ。“地名は二字を用いて、佳名を選ぶべし”とといえども、拘束力はなく要望文なのであって、例外はある。畑をどう書けば二字にできるというのか。

*3 『国司文書・但馬郷名抄』
熊野連在住の地なり。故に味饒田(ウマシニギタ)命を斎きまつり、これを久麻神社と称しまつる。熊野神社 祭神 家津御子神)(イヘツミコノカミ)美方郡新温泉町熊谷849

*4 *2同様、桜井勉の万葉仮名の認識不足あるいは独断に過ぎない。“また誤って泉の字を前に書き換えて、今は湯前庄と云う” 誤ったのではなく、湯の前に庄があると解釈すると、前は先と同義で、黄沼前をキノサキ(今の城崎)と読み、佐々前をササノクマと読む例にある通り、前は(サキ)と読めば、湯前庄は“ユノサキ庄”で誤りとはいえない。

美方郡の変遷

美方郡の変遷は、1896年(明治29年)4月1日の郡制による郡再編により、七美(シツミ)郡(村岡町、兎塚村、射添村、小代村、熊次村)、二方(フタカタ)郡(浜坂町、大庭村、西浜村、温泉村、照来村、八田村)が合併して誕生した。
七美郡の美、二方郡の方を合わせ美方郡。

1912年(大正元年)城崎郡長井村九斗山地区を大庭村に編入、
1956年(昭和31年)8月1日熊次村が養父郡関宮村と合併し養父郡へ分離、
2005年(平成17年)4月1日に村岡町、美方町との合併により城崎郡から香住町を編入し、郡境が変更されている。(城崎郡竹野町・城崎町・日高町は、豊岡市との合併により消滅。)
これにより、美方郡は以下の2町を含む。
・香美町(かみちょう)2005年4月1日に美方郡美方町・村岡町、城崎郡香住町の合併により誕生
・新温泉町(しんおんせんちょう)2005年10月1日に浜坂町・温泉町の合併により誕生

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