『但馬故事記』から読み解く但馬国府の所在地

但馬国府の所在地は、但馬史の長年の謎とされている。

日本後紀にほんこうき』延暦23(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」と書かれていることから、少なくとも2ヶ所の但馬国府移転が考えられる。遷された理由や、どこからどこへ遷したのかについては、記述がないため分からないので今後も発掘調査にかかっているが、所在地については、近年の国道312号バイパス発掘調査により、その移転先は、豊岡市役所日高振興局(旧日高町役場)の西にある祢布にょうヶ森遺跡から国道312号バイパスまであると考えられている。「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」とあるから、この発見は、移転後の第二次、第三次国府だとされている。
ではなぜ、祢布ヶ森遺跡が但馬国府と考えられるようになったのか。

川岸遺跡(官衙跡)
兵庫県豊岡市日高町松岡(JR山陰線東側市道建設時)
・川岸遺跡出土(昭和59年)
人形、斎串、馬形、木製品、須恵器、土師器など

都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

深田遺跡(官衙跡)
兵庫県豊岡市水上字深田他(国道312号バイパス建設工事発掘調査)(平成6年)
・深田遺跡出土
木簡、木製品、墨書土器、金属製品、須恵器、
土師器など
(一部兵庫県指定文化財。平成6年度指定 兵庫県立考古博物館蔵)

祢布ヶ森遺跡
(国道312号バイパス袮布交差点西北から豊岡市日高総合支所まで)
・祢布ヶ森遺跡出土
水田面から深さ25cmの所で平安時代の遺構を確認。木簡、木製品、祭祀具、墨書土器、須恵器、土師器など。さらに南北20mにわたって濠を発見し、中からは自然木や木製品、建築部材などたくさんの木に混じって木簡203点が出土した。木簡203点が出土(県内最多)した。日本で初めて中国最古の詩集『詩経』の一部を書いたもの、城埼郡(原文のママ)から茜を送った際の付札、「弘仁四年(813)の年号を書いたものなど祢布ヶ森遺跡では、これまでに16点の木簡が出土しているので、今回のものと合わせて219点の木管が出土したことになる。

県内で見つかっている木簡は約870点あるが、市内で見つかった木簡は、袴狭はかざ遺跡(出石)の76点但馬国分寺跡(日高)の42点など、約440点。県内の木簡の約半数が豊岡で出土していることになる。全国60ヶ所余りに置かれた国府跡でも、点数では栃木県の下野国府に次いで全国で2番目に多い出土となる。

長く続いていた国府推定地をめぐる論争は、以下の川岸遺跡・深田遺跡2ヶ所の発掘調査で、国衙と思われる官衙跡が見つかりほぼ断定されてきた。

祢布ヶ森但馬国府は条里制に収まっていた

但馬国府は少なくとも三回移転が行われていることがわかっている。

第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もあった。
『日高町史』には
但馬史説・国府村誌説・日置郷説・八丁路説・八丁路南説・国司館移設説が記されている。

詳細は『日高町史』をご覧いただくとして、国分寺と国府は、まず距離的に近い場所に遷されるのが通例である。国分寺と国分尼寺は当初から移転がなかったことはそれぞれ礎石が残っていることから確定しており、国衙はその付近が濃厚だということになる。国分寺と国分尼寺のあった水上(正確には山本字法花寺。奈良の法華寺を総国分尼寺とする。正式には法華滅罪之寺という、日高東中前の礎石の所在地も山本字法花寺。法花寺は古くは法華寺と書いた。現在の法華寺と天河森神社所在地は移転)は隣接区で、その2ヶ所を底辺とする二等辺三角形の頂点に国府があったものだと考えると、その三角形の頂点にあたるのが深田遺跡付近で、この国分寺、国分尼寺に近い地点に国府(国衙)が最初に建設されたと見るのが妥当であろう。

国府と国衙

府とは、『国司文書・但馬故事記』に府と記されているように政務を執る施設のことで、すでに全国に国府が置かれる以前の多遅麻国造のころから国の政治を掌る場所を「府」と呼んでいたようだ(国府と国衙を同一視する説もあり)。通常、国府とは令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市をいい、国司が政務を執る施設(国庁)を国衙(国の役所)というそうだ。


2011.資料:2011.5.22 「第45回 但馬歴史講演会」但馬史研究会
「祢布ヶ森ニョウガモリ遺跡を考える」 但馬国府・国分寺館 前岡孝彰氏資料より

最初の国府は国府(郷)にあった

 

『国司文書・但馬故事記』(抜粋)に、

人皇12代景行天皇32年夏6月、伊香色男命の子、物部大売布命は、日本武尊に従い、東夷を征伐せしことを賞し、その功により摂津の川奈辺(旧川辺郡)・多遅麻の気多・黄沼前(城崎)の三県を賜う。
大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮に在り。多遅麻物部氏の祖なり。
人皇15代神功皇后立朝の2年5月21日、気多の大県主物部大売布命薨(殯)モガリす。寿158歳(79歳)。射楯(今の国分寺石立)丘に殯す。(式内売布神社)
物部連大売布命の子、物部多遅麻連公武を以て、多遅麻国造と為し、府を気立(のち気多と記す)県高田邑(今の久斗)に置く。
人皇16代仁徳天皇元年4月、物部多遅麻連公武の子、物部多遅麻毘古を以て、多遅麻国造と為し、府を日置郷に遷す。物部連多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武を射楯丘に葬る。
2年春3月、物部多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武の霊を気多神社に合祀す。
人皇18代反正天皇3年春3月、物部連多遅麻毘古の子、物部連多遅麻公を以て多遅麻国造と為す。多遅麻公は多遅麻毘古を射楯丘に葬る。
人皇21代雄略天皇3年秋7月、黒田大連を以て多遅麻国造と為し、府を国府村に移す。

人皇42代文武天皇庚子4年春3月、二方国を廃し、但馬国に合し、八郡と為す。
朝来・養父・出石・気多・城崎・美含・七美・二方これなり。
府を国府邑に置き、これをツカサドる。従五位下・櫟井イチイ臣春日麿を以って、但馬守タジマノカミと為す。
櫟井臣春日麿は孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人命の孫、彦姥津命五世の孫・大使主命オホオミノミコトの裔なり。

とあるから、律令制度による最初の但馬国府は国府村(官衙跡とされる深田遺跡(水上)、川岸遺跡(松岡)辺り)で間違いないだろう。

大宝3年春3月、国司櫟井臣春日麿はその祖大使主命オオオミノミコトを市ノ丘に祀る。
5月市場を設け、貨物を交易す。しかして商長首宗麿命アキオサノオビトムネマロノミコトを祀る。(式内 伊智神社の現在地 豊岡市日高町府市場935)

「国司櫟井臣イチイノオミ春日麿はその祖大使主命を市ノ丘に祀る。」とあるから、式内 伊智神社の現在地は豊岡市日高町府市場935であるが、遷座される前は国府所在地に近い市が開かれた市ノ丘という丘の場所であったであろう。

『国司文書・但馬故事記』に見る限り、第一次但馬国府は国府村内ということになる。しかも美努(三野)ミノ神社は国府村に祀ったとしている。美努は今の野々庄だ。今の所在地が遷座されたものではないものとすると、当時の国府村はいまの府市場から野々庄までを指したのかもしれない。

『但馬国司文書別記・第一巻・気多郡郷名記抄』に、太多タダ郷・三方郷・佐々前ササクマ郷・高田郷・日置郷・高生タコウ郷・国府・狭沼サノ郷・賀陽カヤ郷とある。

国府は国府所在地なので、あえて「郷」は付けないのだろう。
国府内の村名は山本(古くは八上ヤカミ)・土居ヒヂイ村・伊智村・堀部・美努ミノ・熊野・柴垣・池上イキノエ上石アゲシ
同時期の『但馬郷名記抄』には美努とあり、美努は式内三野神社から今の野々庄である。気多郡郷名記抄に国府村は記載がないにも関わらず、美努村としないで国府村と記されている。それは、どういうことなのだろう。国府村が戸数増加により分村し美努村が分かれたのか。

『但馬故事記』註解の吾郷清彦氏は、それぞれの但馬国史文書編纂時期を調べているが、『但馬故事記』・『但馬郷名記抄』は、ともに天延3年に完成している。しかし、最初に編纂された第一巻・気多郡故事記から第八巻完成まで、起稿 弘仁5年(814)-脱稿 天延2年(974)で160年という長い年月をかけているわけである。その長い年月の間に国府村・美努村と変遷があったのかもしれない。しかし、国府の郷にあって国府村とするには、国府所在地だったからで、何んらかの根拠があったからではないか。伊智村は市場を意味する。

『和名抄』にはいまの地名である府市場に近い国府市場コウノイチバとなっている。国府に近いに違いないが、国衙(国府が置かれていた区画)の所在地ではない。山本は元は国府郷に入っていたことが、国府所在地のヒントだといえないだろうか。国分寺はいまの国分寺区、国分尼寺は今の水上ミノカミ区(正確には山本字法花寺)で国分寺と国分尼寺はともに礎石が残っており、場所は確定されるので、国衙は2つを底辺に二等辺三角形の頂点だと考えられる。それらに近い場所であるはずだから、発掘調査で水上字深田から川岸遺跡の松岡辺りのJR山陰本線西周辺である可能性が高くなった。第一次国府はその近い位置に置かれたとすれば、深田遺跡は高田郷であり、松岡は当時日置郷にあるからおかしいことになるが、深田遺跡とは隣接地である。『日本後紀』延暦3(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」がその唯一の記録である。中央から地方に派遣された任官が中央に報告しないと『日本後紀』に記録されるはずはない。第一次但馬国府は、高田郷には近いかも知れないが、高田郷の水上・国分寺・祢布あたりではなく国府(郷)であった。そうでないと、「高田郷に遷す」と、わざわざ書かないだろう。高田郷ではない国府(郷)でなければならない。

以下、私個人の推察

以上、調査を元に地図にしてみた。

縄文時代、人々は山間部で狩猟や木の実や果実を採集して暮らしていた。縄文海進からやがて平地が現れる。稲作が伝わり計画的農業には水の多い平地が適している。田んぼの作業に近い場所に定住するようになり、村が生まれ人口が増え郷へ発展し物々交換で往来する。なぜ、縄文以前の旧石器時代に人々は高い山岳地帯に暮らしていたのだろう。但馬で人類の遺構として古いものは、新温泉町の鳥取県境の畑ヶ平遺跡など豪雪地帯の山岳であるのに、他に但馬の古い遺跡は鉢伏や神鍋などで見つかるのだ。

平地に住めばいいのに何で不便で寒い山岳地帯に人類は最初に住んだのかと不思議なことだと思っていた。不思議でもなく理由があるはずだ。

当時の縄文海進のころは海抜は高くおそらく今の高地部まで海水が近かったのだろう。新温泉町でも海であった貝殻の化石が見つかるし、今より気温は高く、日本列島は細かい島々に分かれていたのではないか。高所を好んだのではなく、地勢により必然的にそこしか陸地がなかった。

奈良時代に律令制が全国的に整備されものが国と国府(国衙)・国分寺・国分尼寺で、また、国府は水運に便利な円山川に近い平地からやや高い高田郷へ遷ったとすれば、それは何を理由にしたのだろう。台風など天災による水害に見舞われたのか、火災なのか、あるいは不便だったからからかやむを得ない事情が起きたことに他ならない。

官衙跡とされる深田遺跡(水上)、川岸遺跡(松岡)は、ともに隣接地なので同一のもとも考えられるが、水上ミノカミという地名の通り、縄文期までは円山川下流域は黄沼前海キノサキノウミという入江で、国府から以北の円山川流域は海抜が0mに近い地点である。丹後の国庁跡、丹波国庁推定地、鳥取県の因幡国庁跡や伯耆国庁跡、島根県の出雲国庁跡も見に行ったが、例えば因幡国庁も千代川下流域の旧鳥取市内ではなく旧国府町に置かれた。出雲国庁も松江の宍道湖周辺ではなく、やや内陸部である。それは河口に近いところは川から運ばれてきた土砂が堆積して平野部を形成する沖積地であり、松江、鳥取、豊岡、宮津にしても、中世以降、戦国時代に城を築き発展した城下町である点だ。豊岡と旧日高町との地勢や国庁の配置が酷似している。

気多郡(旧日高町のほぼ全域)は、すぐ北は城崎郡、東は出石郡、南は養父郡、朝来郡で、西は蘇武岳を越えると七美郡、美含郡、二方郡、また山陰道につながり、但馬国八郡のどまん中である。国府を置くには最適地だ。しかし、それは大水による水害かあるいは地震による地盤沈下と倒壊なのか、移転せざるを得ない止むに止まれぬ大きな事情が起きたからではないかと思っていたのである。

また、興味深い事実を知った。平安期にも縄文海進のような平安海進があったというのだ。8世紀から12世紀にかけて発生した大規模な海水準の上昇(海進現象)と減少を繰り返していた。ロットネスト海進とも呼ばれているが、日本における当該時期が平安時代と重なるためにこの名称が用いられている。ローズ・フェアブリッジ教授の海水準曲線によると、8世紀初頭(日本の奈良時代初期)の海水面は、現在の海水面より約1メートル低かった。10世紀初頭には現在の海水面まで上昇した。11世紀前半には現在の海水面より約50センチメートル低くなった。12世紀初頭に現在の海水面より約50センチメートル高くなった。

8世紀初頭は現在の海水面より約1メートル低かったが、10世紀初頭には現在の海水面まで上昇しているのだ。高田郷に移転したのが、延暦23(804)年であるから、この平安海進の時期に符合するのだ。第二次但馬国府は高田郷

さて、但馬国府は何かの理由で最低一回は移転されている。おそらく国府平野が海抜0メートルに近い低湿地であったことが原因だったのではないかと思う。国衙が河川の大きな水害に遭ったのだ。祢布ケ森遺跡で大量の木簡などが発掘された、水害を免れるより高い場所の高田郷の祢布(市役所日高振興局周辺)である。

ところが、『国司文書・但馬故事記』は、律令以前の府を克明に記してあり貴重であるが、人皇50代桓武天皇御代に関する記述は、。『日本後紀』にある延暦3(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」がまったく記されず、こう記してある。

人皇50代桓武天皇延暦3年冬12月 本国、大毅外従六位上、川人部広井、私物を集めて、公用に供す。勅して外従五位下を賜う。
4年春2月 外従五位下、川人部広井、本姓を改め、高田臣を賜う。

国の正書『日本後紀』に但馬国府移転が記載されるというのは国の重要事項なのに、但馬国府の国学の任官であるはずの執筆者等にとっては、知っていながらさしたる重大事でなかったのだろうかと不思議である。

(続いて、)人皇52代嵯峨天皇大同5年夏5月11日 兵士300人を以て健児と為し、健児一人ごとに馬子二人を置く。
弘仁3年春正月 従五位下、良峰朝臣安世を但馬介と為し、国学寮をして但馬故事記を撰ましむ。これを国司文書と云う。

国衙移転という大事業の時期なのに、軍団は簡素化され、歴史書を編纂し始めると、いたって平穏な印象である。

また、深田遺跡は水上ミノカミといって、出石町にも水上ムナガイという同じ漢字の地名がある。いずれも黄沼前海が入り込んだ低湿地帯のそばであったと思われる岸辺だった。水上字深田という地名からみて、沖積土壌で地盤も軟弱な地盤であったことは推察できる。この田園地帯は北へ進むほど海抜0メートルに近い場所である。国府には郷名はそもそもない。国府は国府でありあえて郷名は必要ないからだが、中世以降は、国府、または国府郷と郷名で記されている場合もある。

国府の国衙を置くとすれば水害に遭わないように少しでも海抜が高い場所を選んだはずで、以降に挙げた但馬国司文書但馬故事記に国府村に移すとあるので、今の野々庄から堀辺りに府が置かれたことはあった。唯一の公式文書『日本後紀』にある延暦3(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」とあるので、国府郷から高田郷に遷すと記したのだから他の郷からである。国府村ではなく国府(郷)で一番水害の起きにくい標高の高い場所の深田遺跡で、ここはぎりぎり国府(郷)の南端であり、すぐ西隣は高田郷、南は日置郷に隣接している3つの郷の境に当たる。『日高町史』にある八丁路説・八丁路南説はこの条里制の東西道に当たるし、すぐ南は日置郷で日置郷説にも近い。

条里制が布かれた頃は、すっかり水位が下がって国府平野も安定していたのかどうか分からないが、国衙もその条里の正方形の一画に組み入れられ計画されたものだとすれば、その当時は、すっかり平野ができていたのだろうか。私は大きな水害に見舞われたのではないかと推察する。同一場所に再建するのは不可能であったか、また、より安心できる標高の高い場所で地盤もしっかりしている高田郷の祢布ケ森付近に遷したのではないかと考えている。

『国司文書・但馬故事記』を見ると、延暦3年(784)には、かなり中央集権からその土地の人々に権限を移譲していったのがが分かる。弘仁3年(812)春正月 従五位下・良峰朝臣安世を以って但馬介タジマノスケと為し、とあり、但馬守は国司で、介はその次官であるので、「弘仁3年(812)春正月 従五位下・良峰朝臣安世を以って但馬介」とあり、この頃すでに国司は任地に赴かず、次官の介を派遣していたようだ。実務上の最高位は次官の介であった。
この3点の年月は10年以内で、中央集権機能は簡素化されていったのだろう。

 

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