世界最古の天皇を仰ぐ独立国家『日本』宣言

五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。

『日本書紀』

『日本書紀』は国史で、「六国史」の最初に記されました。続日本紀に「日本紀を修す」とあり、「書」の文字はない。「日本紀」が正式名だったと言うのが通説です。

『日本書紀』    720   神代~持統
続日本紀      797   文武~桓武
日本後紀      840   桓武~淳和
続日本後紀     869   仁明
日本文徳天皇実録  879   文徳
日本三代実録    901   清和~光孝

書紀の内容は、神代から40代(41代:後述)持統天皇までを30巻にわけ、それぞれの天皇記は『古事記』に比べてかなり多く記述されているのが特徴です。第3巻以降は編年体で記録され、うち9巻を推古から持統天皇までにあ てているのも特徴です。

これは『古事記』が天皇統治の正当性を主張しているのに対し、『日本書紀』は律令制の必然性を説明していると直木孝次郎氏は指摘しています。

確かに『古事記』に比べれば、『日本書紀』の方がその編纂ポリシーに、律令国家の成立史を述べたような政治的な意図が見え隠れしているような気がしないでもありません。『日本書紀』自体には、『古事記』の序のような、その成立に関する説明はありません。『続日本記』養老4年(720)5月21日の記事によると、舎人(とねり)親王が天皇の命令をうけて編纂してきたことが見えるだけです。

大がかりな「国史編纂局」が設けられ、大勢が携わって完成したと推測できますが、実際の編纂担当者としては「紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂」の名が同じく続日本紀に見えるだけです。編纂者として名前が確実なのは舎人親王だけと前述したが、藤原不比等が中心的な役割を担っていたとする説や、太安万侶も加わっていたとする見解もあり、いずれにしても多数のスタッフを抱え、長い年月をかけて完成されたことは疑いがありません。しか、ある部分は『古事記』と同歩調で編纂された可能性もあるのではないでしょうか。

『古事記』同様、「帝紀」「旧辞」がその根本資料となっていますが、各国造に命じた『風土記』など多くの資料を収集し、その原文を尊重しているのが『日本書紀』における特徴です。諸氏や地方に散逸していた物語や伝承、朝廷の記録、個人の手記や覚え書き、寺院の由緒書き、百済関係の記録、中国の史書など、実に多くの資料が編纂されていますが、たぶんに中国(唐)や新羅の国書を意識した(或いはまねた)ような印象もあり、半島・大陸に対しての優位性を示すのも、編纂目的の一つだったのかもしれません。そしてそれは、日本国内の臣下達に対する大和朝廷の権威付けにも使用されたような気がするのです。

『古事記』がいわば天武天皇の編纂ポリシーに沿った形でほぼ一つの説で貫かれているのに対して、『日本書紀』は巻数が多く、多くの原資料が付記され、「一書に曰く」と諸説を併記しています。国内資料のみならず、朝鮮資料や漢籍を用い、当時の対外関係記事を掲載しているのも『古事記』にはない特徴です。特に、漢籍が当時の日本に渡ってきて『日本書紀』の編集に使われたので、書紀の編纂者達は、半島・大陸の宮廷人が読めるように、『古事記』のように平易な文字・漢語・表現を使わず、もっぱら漢文調の文体で『日本書紀』を仕上げたのだとされています。

『日本書紀』では、天照大神の子孫が葦原中国(地上の国)を治めるべきだと主張し、何人かの神々を送り、出雲国の王、大国主命に国譲りを迫り、遂に大国主命は大きな宮殿(出雲大社)を建てる事を条件に、天照大神の子孫に国を譲ったとされています。しかし現実には、ヤマトの王であった天皇家の祖先が、近隣の諸国を滅ぼすか併呑しながら日本を統一したと思われるのですが、『日本書紀』の編者は、その事実を隠蔽し、大国主命が天照大神の子孫にこの国を託したからこそ、天皇家のみがこの国を治めるという正当性があるということを、事実として後世に残そうとしたようです。そして、天皇家に滅ぼされた国王たちをすべて大国主命と呼び、彼らの逸話をまとめたのが出雲神話ではないかと言われています。
このように『記紀』は、どちらも天皇の命令をうけて7世紀末から8世紀の初期に作られた歴史書であるとともに、内容はともに神代から始められているために、推古天皇までが重複しているのです。

『日本書紀』の意図は独立国家『日本』宣言

では、なぜわずか8年の間隔で、同じ時代をとりあげる歴史書を2種類も編纂したのでしょう。また同じ時代をとりあげつつ内容には違いがあるのはなぜでしょうか。『古事記』が「記」で『日本書紀』が「紀」であることの字の持つ意味の違い、『古事記』の文体が「音訓交用」と「訓録」で『日本書紀』が漢文であるという文体の違い。2種類の歴史書がわずかの間に作られた背景はいったい何なのでしょう。 なぜ、『日本書紀』が中心になっていったのでしょうか。

この時代は、国号を倭国から日本国へ、君主号を大王から天皇へと変更し、中国をモデルにした律令制定も行われて、中央集権的国家体制を急ピッチで整備していました。歴史書編纂が活発に行われた背景には、このような社会の情勢が大きく変化しつつある時代に歴史書に期待されていた機能があり、『古事記』は、天皇や関係者に見せるためのいわば内部的な本で、『日本書紀』は外国、特に中国を意識して作られた国史(正史)です。こうして見ると『古事記』は『日本書紀』を作るための雛型本であったと思われています。『古事記』は成立直後からほぼ歴史の表面から姿を隠し、一方『日本書紀』は成立直後から官人に読まれ、平安時代に入っても官人の教養として重要な意味を持ったことは注目すべきです。

対して、『日本書紀』を作った最大の目的は、対中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立なのです。

古来権力者が残した記録には自らの正当性を主張している点が多く、都合の悪いことは覆い隠す、というのは常套手段です。ストーリーに一貫性がなく、書記に書かれている事を全て真実だと思いこむのも問題ですが、まるっきり嘘八百を書き連ねている訳でもありません。
まるっきり天皇が都合良く創作して書かせたのであれば、わざわざ恥になるような記録まで詳細に書かせる意図が分かりませんし、『日本書紀』は「一曰く」として諸説も併記され、客観的に書かれています。したがって、少なくともその頃には中国王朝・朝鮮王朝のような、独裁的な絶対君主の王権ではなくて、すでに合議的(連合的)な政権を形成していたのではないでしょうか。

記紀が史実に基づかないとしても国家のあり方の真実を伝えようとしたものであるならば、そのすべてを記紀編纂者の作為として片づけるには、それなりの根拠がなくてはなりません。

大和に本拠を構える大和朝廷が、正史を編纂するにあたり、なぜわざわざ国家を統一する力が、九州に天孫が降臨した物語や出雲の伝説を記録したのだろう。それは単に編纂者の作為ではなく、ヤマト王権の起源が九州にあり、国家統一の動きが九州から起こったという伝説が史実として語り継がれていたからだと考えるのが自然でしょう。九州から大和へ民族移動があり、ヤマト王権の基礎が固まったという伝承は、記紀が編纂された七世紀までに、史実としてすでに伝承されていたと考える方が自然です。記紀には歴代天皇の埋葬に関する記事がありますが、編纂時にはすでに陵墓が存在していたと思われます。もし記紀に虚偽の天皇が記載されていたなら、陵墓も後世に造作されたことになり、わざわざ記紀のためにそんなことをするとは考えられないからです。

何が真実で何が虚構か、また書紀に書かている裏側に思いをめぐらし、それらを新たな発掘資料に照らし合わせて、体系的に組み上げていく作業を通して、独立国家『日本』を周辺国に宣言した編纂の意図が見えてくるのだろうと思います。

紫式部は、その漢字の教養のゆえに「日本紀の御局(みつぼね)」と人からいわれたと『紫式部日記』に書いています。『日本書紀』はその成立直後から、官僚の教養・学習の対象となりました(官学)。それに対して『古事記』は、一部の神道家を除いて一般の目には余り触れることがありませんでした。

『風土記』


『出雲国風土記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵(見学しましたが撮影禁止なので)

『風土記』は、『日本書紀』が編纂される7年前の713年に、元明天皇が各国の国司に命じて、各国の土壌の良し悪しや特産品、地名の由来となった神話などを報告させたもの。『日本書紀』編纂の資料とされた日本初の国勢調査というべきものとは思われないが、参考にしたふしがあるのは、「一書曰く」と諸説を併記していることだ。『風土記』は、国が定めた正式名称ではなく一般的にそう呼ばれています。他と区別するため「古風土記」ともいう。

『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、

郡郷の名(好字を用いて)
産物
土地の肥沃の状態
地名の起源
伝えられている旧聞異事
が挙げられています。

完全に現存するものはありませんが、出雲国風土記が唯一ほぼ写本で残り、総記、意宇・島根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の各郡の条、巻末条から成る。各郡の条には現存する他の風土記にはない神社リストがある。神祇官に登録されている神社とされていないものに分けられ、社格順に並べられていると推察される(島根郡を除く)。

他には「播磨国風土記」、「肥前国風土記」、「常陸国風土記」、「豊後国風土記」が一部欠損して残っています。現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみです。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在します。

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『古事記』にみる天皇の日本統一への思い

日本最古の歴史書『古事記』にみる天皇の日本統一への思い


[youtube http://www.youtube.com/watch?v=N85-qJFuW2w&hl=ja_JP&fs=1&] 1/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた!』 「古事記」はなぜ作られた? 2008年

捏造と反日のNHKですが、大阪放送局製作はわりとまともだと思っている。

日本の思想とは、日本列島の上に日本語で展開されてきた思想です。原初的な意識を含め思想というなら、その意識のはじまりがどのような様子だったかを探ることは容易なことではありません。無文字文化をさぐる方法はないのです。五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。

わたしたちは史書として、『古事記』をもって最古の思想作品としています。原始の日本のようすは、ようやく八世紀にあらわれた『古事記』『日本書紀』あるいは『万葉集』といったテキストによるしかありません。その成立にはさまざまの説がありますが、日本という自己意識の最古のものの名残という点は異論の余地はないようです。

大化の改新後のあらたな国家建設と大和朝廷の集権化のなかで、国の歴史を残そうとする試みが繰り返されてきました。その一端として、『日本書紀』620年の推古紀の箇所では、聖徳太子と蘇我馬子が「共に議(はか)りて」天皇記および国記、また臣下の豪族の「本記」を記録したと伝えます。『記紀』はそうした自己認識への継続した努力のなかから生まれたものでした。

『古事記』と『日本書紀』

『古事記』と『日本書紀』(以下、『記紀』)は、七世紀後半、天武天皇の命によって編纂されました。『古事記』成立の背景は、漢文体で書かれた序文から知ることができます。それによれば、当時、天皇の系譜・事蹟そして神話などを記した『帝紀』(帝皇日継(すめらみことのひつぎ))と『旧辞』(先代旧辞(さきつよのふること))という書物があり、諸氏族の伝承に誤りが多いので正し、これらを稗田阿礼(ひえだのあれ)に二十九年間かけて、誦習(しょうしゅう)(古典などを繰り返して勉強すること)を命じたのが『古事記』全三巻です。

その後元明天皇の711年(和銅四年)、太安万侶(おおのやすまろ)が四ヶ月かけて阿礼の誦習していたものを筆録させ、これを完成し、翌712年に献上したことを伝えます。

一方、皇族をはじめ多くの編纂者が、『帝紀』『旧辞』以外にも中国・朝鮮の書なども使い、三十九年かけて編纂したのが、前三十巻と系図一巻から成る大著『日本書紀』です。『古事記』が献上された八年後の720年(養老四年)には『日本書紀』が作られました。『日本書紀』は「一曰く」として、本文のほかに多くの別伝が併記されています。神代は二巻にまとめられ、以降は編年ごとに記事が並べられ、時代が下るほど詳しく書かれています。

なぜわずか数年後に『日本書紀』を編纂したのだろうか?

ではどうして、同じ時代に『記紀』という二つの異なった歴史書が編纂されたのでしょうか。

それは二つの書物の違いから想像できます。『記紀』が編纂された七世紀、天平文化が華開く直前です。すでに日本は外国との交流が盛んで、外交に通用する正史をもつ必要がありました。当時の東アジアにおける共通言語は漢語(中国語)であり、正史たる『日本書紀』は漢語によって綴られました。また『日本書紀』は中国の正史の編纂方法を採用し、公式の記録としての性格が強いことからも、広く海外に向けて書かれたものだと考えられます。

それに対し、日本語の要素を生かして音訓混合の独特な文章で天皇家の歴史を綴ったのが『古事記』です。編纂当時、まだ仮名は成立していなかったため、漢語だけでは日本語の音を伝えることはできませんでした。そのため『古事記』の本文は非常に難解なものになり、後世に『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者・本居宣長ですら、『古事記』を読み解くのに実に三十五年の歳月を費やします。

ところで本居は全四十四巻から成る古事記研究書の『古事記伝』を著し、『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないことを述べ、『古事記』を最上の書と評価しました。

歴史物語の形式をとり、文学的要素の強い『古事記』は、天皇家による統治の由来を周知させ伝承するために記したテキストで、氏族の系譜について『日本書紀』よりも詳しく記されています。当時の日本人の世界観・価値観・宗教観を物語る貴重な資料であり、これがおよそ千三百年前間伝承されてきたことには大きな意義があります。

天皇は地方豪族の治める諸国を日本に統一する思いがこめられて『古事記』を編纂させました。そしてようやく日本は外交へ進んでいったのです。

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=EqfNzkaOxtg&hl=ja_JP&fs=1&] 4/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた』 「古事記」はなぜ作られた? 2008年  heiankyoalienさん
[youtube http://www.youtube.com/watch?v=qz5V61iOKMk&hl=ja_JP&fs=1&] 5/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた』 「古事記」はなぜ作られた? 2008年 heiankyoalienさん

『古事記』にみる天皇の日本統一への思いを、NHKは敗戦という一点にどうしても導く道具として利用したと付け加えねばならない後味の悪い締め方をするのが決まりだ。そこで止まってしまう。
その責任転嫁から脱却できない限りNHKや朝日は、日本を明るくしない。

逆に言えばNHKや朝日が報道を正せば、日本は明るくなる。

そんな簡単なことを難しくインテリぶってその異常な思想停止をくり返してきた。日本史のはじまりを戦争へと結びつける思考とは何か。世界に誇れる長い歴史を愛する多くの普通の日本国民に、自らの使命と存在価値がいま改めて問われていることをいまだ覚醒できていないばかりかその責任を放棄して誰かが悪いと押しつけ続けている。人のせいにすれば結局自らに跳ね返ってくる。それでは日本の日本人による日本人のための公共放送であるからだ。

NHKや朝日など反日思想よりも、もっと大切な守らなければならない日本がたくさんある。稗田阿礼が二十九年間かけて誦習し太安万侶が四ヶ月かけて筆録させ、北畠親房が天皇家の南北朝分裂からこの国の道を救おうとし、本居宣長が三十五年もかけて解読し光を当てた。いまだ研究され続ける偉大なる最初の古代長大歴史ロマンである『古事記』・・・。たった45分の番組で片づけられないにせよ、その先人たちの国を思う努力に尊敬の念を抱かずにはいられない。進むべき方向がわからなくなるとき、日本人の矜持(自信と誇り)、プライド。国の原点を思い返してみることも必要な気がする。

引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之
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【もう一つの日本】物部氏2/4 もう一つの東征 

『古事記』の神武東征

天皇家の初代カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向(ヒムカ)を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で「どこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうか」と相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

神武が九州から東征してヤマトに入った時、浪速国の白肩津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、生駒山麓の孔舎衛坂(くさかえのさか)で長髄彦(ながすねびこ、以下ナガスネビコ)の抵抗に遭います。
ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。

カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で八咫烏(やたがらす)が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。 その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。 このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。

『日本書紀』の神武東征

『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。

ナガスネビコは、天磐船(あまのいわふね)に乗ってヤマトに降った櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、以下ニギハヤヒ)に仕え、しかも妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)はニギハヤヒと結ばれ、可美真手命(うましまでのみこと、以下ウマシマデ)を生んでいます。

そこでナガスネビコは、神武に「天神の子はニギハヤヒ一人だと思っていたのに、そう何人もいるのだろうか」と疑問を呈すと、ニギハヤヒが天神の子である証拠として、天の羽羽矢(蛇の呪力をもった矢)と、歩靱(カチユキ・徒歩で弓を射る時に使うヤナグイか)を持ち出してナガスネビコに見せます。
神武はその証拠を天神の子とのものであると認めるのと、ナガスネビコは、恐れ畏まったのですが、改心することはありませんでした。そのため、間を取り持つことが無理だと知ったニギハヤヒはナガスネビコを殺して神武に帰順します。

「記紀」は、九州にいた天皇が大和を制圧するという点で、後の神功皇后・応神天皇母子との類似性が指摘される事がある。高句麗の建国神話も似ています。

もう一つの東征

一般には、物部氏(もののべうじ)の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきました。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきたのです。
しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのです。

2世紀後半の北九州で起きた「倭国大乱」の頃には、すでに河内・大和を中心とした地域に勢力が確立していきました。生駒山周辺には、天磐船(あまのいわふね)の伝説が残る河南町や交野市の磐船(いわふね)神社、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社など、物部氏ゆかりの神社が数多く、それ以上に谷川健一氏が注目するのは、この河内平野一体から多数の銅鐸が出土し、石切劔箭神社に近い鬼虎川(キトラ)遺跡から、弥生中期のものと見られる銅鐸製作の跡が見つかっている点です。

さて、手がかりになるのが、神武東征で軍勢が日向から大阪湾の白肩之津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった)に上陸して生駒山の西側にある孔舎衛坂(くさえさか)[*1]の戦いで、ニギハヤヒ(饒速日命)に使えた土地の豪族である長髄彦(ナガスネヒコ)に負かされたという。孔舎衛坂は河内国草香邑(大阪府東大阪市日下町))の地だろうとされています。この場所は、ニギハヤヒが神武東征に先立ち、河内国の河上の地に天降りた場所です。

谷川健一氏は、
饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本(ひのもと)」の本当の名付け親であるといえるのではないか?
と見ています。

関裕二氏は、考古学の進展によって明らかにされた三世紀のヤマト建国の様子と、『日本書紀』に記された「ヤマト建国」の記事は、恐ろしいほど見事に重なってくるのである。

今日、ヤマト建国は三世紀半ばから後半の段階であったと考えられている。それは、古代ヤマトの中心・三輪山山麓に、三世紀の巨大な政治と宗教の都市・纏向(まきむく)遺跡が発見され、ほぼ同時に、ヤマトに前方後円墳が出現していたからである。

日本全国を見渡しても、同時代の纏向をしのぐ遺跡はない。しかも、纏向周辺で誕生した前方後円墳が、四世紀にかけて西日本はおろか、東北南部まで広がっていったところに大きな意味が隠されている。これが、考古学の明らかにしたヤマト建国の歴史なのだが、これに対し、『日本書紀』にはいくつもの符合が見出される。

『日本書紀』は、初代神武天皇を指して、ハツクニシラス天皇(スメラミコト)と称賛している。これは「はじめて国を治めた天皇」を意味しているのだが、不可解なことに、第十代崇神天皇にも、同様の称号を与えている。ひとつの王家に二人の初代王がいたことになり、話は矛盾する。

一般に、神武東征は、実際の歴史ではなく、ヤマト建国を神話かしたものにほかならないとされている。そして第九代までの天皇をひとくくりにし、「欠史八代」と呼んでいるのは、ヤマトの本当の初代天皇は崇神で、それ以前は歴史ではない、という考えからである。

ところが、神武東征説話には、神話として捨て置くことのできない信憑性が垣間見える。そして、神武天皇と崇神天皇という二人の「ハツクニシラス天皇」を重ねると、考古学の明かしたヤマト建国とそっくりになることに気づかされるはずである。

『日本書紀』は、神武がヤマトに君臨するはるか以前、出雲神・大物主神は、大和に住みたいといいだし、遷し祀られたといい、またヤマトを造成した神だという。また、その後、神武天皇がまだ九州にいたころ、ヤマトの地にはすでにいずこからともなくニギハヤヒなる人物が舞い降りて、土着の首長ナガスネヒコの恭順を得て、この地域を統治していたとする。神武天皇はこの話を聞き、「ヤマトこそ都にふさわしい」と確信し、東征を決意する。このニギハヤヒがヤマト最大の名門豪族物部氏の遠祖であると書かれている。

神武天皇は長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗にてこずるも、ニギハヤヒの子のウマシマシの王権禅譲によって、ヤマトの王位を獲得するに至るのである。

と書いている。とすればニギハヤヒこそヤマト建国の祖であり、崇神天皇以前の歴史を出雲神話と神武天皇に置き換えた可能性が高いともいえるのである。

物部氏(もののべうじ)

物部氏は、河内国の哮峰(タケルガミネ・現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒ・ウマシマジを祖先と伝えられる氏族とされます。邪馬台国が九州か大和、どちらにあっても、その主催者と言われる程、日本の古代を席巻していた氏族とされいます。

物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられます。また、物部連となった氏族は時代によって幾度も交代しながら続いているからです。さらに無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがないのです。石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東北地方などに物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録があります。各地に多数祀られているスサノオ・ニギハヤヒ・饒速日尊の一族の物部氏、石上氏、尾張氏、海部氏等代々神官を務める式内社は国の一宮、総社、物部系神社や磐船神社は、各地にたくさんあります。

『古事記』では、ウマシマジノミコト(可美真手命)は、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。ナガスネヒコの妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)・トミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・可美真手命)をもうけました。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としています。

『日本書紀』にはこの人物について多くを語りませんが、物部系の文書『先代旧事本紀』によれば、神武天皇が即位した直後、ウマシマジノミコトは、大切な祀り事(神事)である朝廷の儀礼など、諸事を定めたといい、ヤマトの基礎を築いた人物として描かれています。

長髄彦(ながすねひこ)

ナガスネヒコは、『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族で東征に抵抗した豪族の長として登場します。。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。

不思議に思えるのは、『日本書紀』では、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)あるいはミカシキヤヒメ(三炊屋媛)、を妻とし、仕えるようになる。トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・物部氏の祖)をもうけました。宇摩志麻遅尊は、物部の兵を率いて、天之香山尊と共に、尾張・美濃・越を平定し、天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、更に播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県大田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

その後、八十梟帥(ヤソタケル:『古事記』では八十建と表記)や兄、磯城(シギ)を討った皇軍と再び戦うことになります。このとき、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼がくらみ、戦うことができなくなりました。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。私の妹の三炊屋媛(ミトヤヒメ)を娶(めあ)わせて、可美真手(ウマシマデ)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べました。

通説は、物部氏を五世紀に勃興した一族と見なします。しかしそれでは、このようなヤマト建国の立て役者である物部氏の活躍を、ほとんど無視してしまいます。しかしそれなら、なぜ『日本書紀』は、「物部氏の祖は神武天皇よりも先にヤマトに君臨していた」という話をわざわざ掲げたのでしょう。それは、「祟る神」として、本当のことを隠したら祟られるであろうと信じていたからではないでしょうか。

たとえば、天皇家の儀礼や宗教観には、物部の強い影響が残されているという指摘があります。
スサノオノミコトの遺命を受けた御子・大歳尊(以下、オオトシ)は、父の死後、北九州の筑紫から讃岐・播磨を経て河内から大和に東遷し、三輪山麓に戦闘なく日ノ本王朝・大和国を建国、饒速日(以下、ニギハヤヒ)と改名しました。大歳尊は、東海・関東から東北の飽田(秋田)辺りまで遠征、日本(ひのもと)国を拡大し、大和に帰還して没しました。とくに播磨から摂津にかけて大歳神社がたくさん建てられ、三輪山はニギハヤヒの御陵で、死して天照御魂神として各地の天照神社に祀られました。
ニギハヤヒの死後、末娘・御歳(伊須気依)姫は日向から婿養子として磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)を迎え、磐余彦尊は初代・神武天皇として即位しました。

神武のヤマト入りを助けたことも謎めきますが、その後のウマシマジノミコトの動きも、また不可解なのです。

島根の物部神社

島根県大田市にはそのものずばりの物部神社があって、ここにはおおよそ次のような伝承が残されています。

「神武天皇のヤマト建国を助けた後、ウマシマジノミコトは尾張氏の祖の天香具山命と共に、尾張、美濃、越国を平定した。ウマシマジノミコトはさらに西に向かい、播磨、丹波を経て石見に入ると、鶴に乗って舞い降り、この地に留まった」といいます。

なぜ、石見なのかというと、近くの三瓶(さんべ)山が、ニゴハヤヒノミコトの出身地だったからといい、また、出雲を監視するためだという。物部神社のある大田市は、元々出雲国と石見国の境目に位置します。

よくわからないのは、ヤマト建国の功労者であるはずのウマシマジノミコトが、なぜ政権の中枢に留まらず、石見に向かったのか、ということです。

神武と同一人物とされる崇神天皇と垂仁天皇の時代、ヤマト朝廷がさかんに出雲いじめをしていたと 『日本書紀』が記録していることです。考古学的にも、ヤマト建国の直後、吉備や丹後・但馬・因幡などには前方後円墳がつくられているのに、出雲には巨大な前方後円墳が見当たらず、出雲が実際に衰弱していることが確かめられています。そして、出雲いじめの主役が、物部系の人物だったと記されているのだから、ウマシマジノミコトの石見入りも、信憑性を帯びてきます。

問題は、なぜヤマト建国の功労者が、出雲いじめに走ったのかということで、神話の出雲の国譲りも、単なる神話と無視できなくなってくるのです。

物部氏は、兵器や銅剣・銅鉾・銅鐸などの神具の製造・管理を主に管掌していましたが、しだいに大伴氏(おおともうじ)とならぶ有力軍事氏族へと成長していきました。連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣(あそみ・あそん)姓を賜ります。五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになりました。

しかし果たして物部氏は単一氏族だったのでしょうか。祭祀に従事する氏族のことを概ね物部氏と呼ばれたのではなかろうかと思わせる程、この氏族は歴史の中心に立ち現れるのです。物部には八十氏とされる諸集団がおり、戦闘、兵器生産、軍神祭祀に従事し、物部連という組織によって統率されていたのではないでしょうか。

継体天皇の時代に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのも物部氏でした。また、後述の蘇我馬子(ソガノウマコ)と物部守屋(モノノベノモリヤ)の戦いで大きく登場します。

2009/09/08

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【日本神話】3.出雲神話5/5 オオクニヌシの国譲り -葦原中国平定-

『古事記』オオクニヌシの国譲り

アマテラスら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけアマテラスの子孫だ」とした。そのため、何人かの神を出雲に使わした。大国主の子である事代主・タケミナカタが天津神に降ると、大国主も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。

アメノオシホミミの派遣

アマテラスは、「葦原中国は私の子のアメノオシホミミが治めるべき国だ」と言い、アメノオシホミミに天降りを命じた。しかし、アメノオシホミミは天の浮橋に立って下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしい状態で、とても手に負えない」と高天原に上ってきて、アマテラスに報告した。

『古事記』では、アマテラスとスサノオとの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男(『日本書紀』の一書では次男)で、物実の持ち主であるアマテラスの子としている。高木神の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間にアメノホアカリとニニギをもうけた。

葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。

名前の「マサカツアカツ(正勝吾勝)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「カチハヤヒ(勝速日)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられる。「オシホ(忍穂)」は多くの稲穂の意で、稲穂の神であることを示す。

『古事記』では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
『日本書紀』では天忍穂耳命、『先代旧事本紀』では正哉吾勝々速日天押穂耳尊
富田八幡宮/勝日神社(島根県安来市)

アメノホヒの派遣

タカミムスヒとアマテラスは天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問うた。オモイカネと八百万の神が相談して「アメノホヒを大国主神の元に派遣するのが良い」という結論になった。タカミムスヒとアマテラスはアメノホヒに大国主の元へ行くよう命じた。しかし、アメノホヒは大国主の家来になってしまい、三年たっても高天原に戻って来なかった。

天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神などと書く。

アマテラスとスサノオが誓約をしたときに、アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。

名前の「ホヒ」を「穂霊」の意味として稲穂の神とする説と、「火日」の意味として太陽神とする説がある。

農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神などとして信仰されており

能義神社(出雲四大神である野城大神と呼ばれる)など
島根県安来市能義町366
式内社 旧県社
天穗日命(アメノホヒノミコト)
大己貴命,事代主命(コトシロヌシノミコト)
誉田別命,息長足姫命,経津主命,國常立命,國狹土命
伊弉冉命,玉依姫命,順徳天皇,神皇魂命,惶根命

アメノワカヒコの派遣

タカムスヒとアマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々とオモヒカネが相談して「アメノワカヒコを遣わすべき」と答えた。そこで、アメノワカヒコに天之麻古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)と与えて葦原中国に遣わした。しかし、アメノワカヒコは大国主の娘であるシタテルヒメと結婚し、自分が葦原中国の王になってやろうと考えて八年たっても高天原に戻らなかった。

アマテラスとタカムスヒがまた八百万の神々に、アメノワカヒコが長く留まって戻ってこないので、いずれの神を使わして理由を訊ねるべきかと問うと、八百万の神々とオモイカネは「雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を遣わすべき」と答えたので、天つ神は、ナキメに、アメノワカヒコに葦原中ッ国に遣わしたのは、其の国の荒ぶる神どもを平定せよと言ったのに、何故八年経ても帰ってこないのかを、聞くように命令した。ナキメは天より下って、アメノワカヒコの家の木にとまり理由を問うと、アメノサグメが「この鳥は鳴き声が不吉だから射殺してしまえ」とアメノワカヒコをそそのかした。アメノワカヒコはタカムスヒから与えられた弓矢でナキメの胸を射抜き、その矢は高天原のタカムスヒの所まで飛んで行った。

タカムスヒはその矢に血が付いていたので、この矢はアメノワカヒコに与えた矢であると諸神に示して、「アメノワカヒコの命に別状無くて、悪い神を射た矢が飛んで来たのなら、この矢はアメノワカヒコに当たるな。もしアメノワカヒコに邪心があるのなら、この矢に当たれ」と言って、矢を下界に投げ返した。矢はアメノワカヒコの胸を射抜き、アメノワカヒコは死んでしまった。ナキメも高天原へ帰ってこなかった。

名前の「ワカヒコ」は若い男の意味である。これが神名ではなく普通名詞だったため、「神」「命」「尊」の尊称が付かないとする説がある。また、天津神に反逆したためであるとする説もある。

アメノワカヒコ(天若日子、天稚彦)

シタテルヒメとの恋に溺れて使命を放棄しその罪によって亡くなるという悲劇的かつ反逆的な神として、民間では人気があった。平安時代の『宇津保物語』、『狭衣物語』などでは天若御子の名で、室町時代の『御伽草子』では天稚彦の名で登場し、いずれも美男子として描かれている。

アメノワカヒコを唆したアメノサグメが「アマノジャク」の元となったとする説があるが、アメノワカヒコの「天若」が「アマノジャク」とも読めることから、天若日子がアマノジャクだとする説もある。

穀物神として安孫子神社(滋賀県愛知郡秦荘町)などに祀られているが、祀る神社は少ない

アメノワカヒコの葬儀

葦原中国を平定するに当たって、遣わされたアメノホヒが3年たっても戻って来ないので、次にアメノワカヒコが遣わされた。しかし、アメノワカヒコは大国主の娘シタテルヒメと結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。そこでアマテラスとタカミムスビは雉の鳴女を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いたアメノサグメが、不吉な鳥だから射殺すようにとアメノワカヒコに進め、アメノワカヒコは遣された時にタカミムスビから与えられた弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で雉を射抜いた。その矢は高天原のタカミムスビの元まで飛んで行った。タカミムスビは「アメノワカヒコに邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とすと、矢は寝所で寝ていたアメノワカヒコの胸に刺さり、アメノワカヒコは死んでしまった。

アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父アマツクニタマや母が聞いて、下界に降りて泣き悲しみ喪屋をつくった。アヂシキタカヒコネが弔いに訪れた時、アヂシキタカヒコネがアメノワカヒコによく似ていたため、アメノワカヒコの父と母が「我が子は死なないで、生きていた」と言って抱きついた。するとアヂシキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。この喪屋が美濃国の喪山である。アヂシキタカヒコネの妹のタカヒメは、歌を詠んだ。

タケミカヅチの派遣

アマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、オモイカネと八百万の神々は、「イツノオハバリか、その子のタケミカヅチを遣わすべき」と答えた。アメノオハバリは「タケミカヅチを遣わすべき」と答えたので、タケミカヅチにアメノトリブネを副えて葦原中国に遣わした。

コトシロヌシの服従

タケミカヅチとアメノトリフネは、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきであるとアマテラス大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。大国主は、自分が答える前に息子の事代主に訊ねるようにと言った。事代主は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れてしまった。

『古事記』では建御雷之男神・建御雷神
『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神など
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)
佐志武神社(さしむじんじゃ)
島根県出雲市湖陵町差海891
式内社 建御雷神、経津主神

日本書紀によれば、「高天原から葦原中国を平定するため、経津主神(ふっつぬしのかみ)と武壅槌神(たけみかずちのかみ)を遣わされた」とあり、この二神が降臨されたのがこの地であったとされています。

タケミナカタの服従

タケミカヅチが「コトシロヌシはああ言ったが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子のタケミナカタにも訊くよう言った。そうしている間にタケミナカタがやって来て、「ここでヒソヒソ話をしているのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」と言ってタケミカヅチの手を掴んだ。すると、タケミカヅチは手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた。逆にタケミカヅチがタケミナカタの手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、タケミナカタは逃げ出した。タケミカヅチはタケミナカタを追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめた。タケミナカタはもう逃げきれないと思い、「この地から出ないし、オオクニヌシやコトシロヌシが言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と言った。

建御名方神(たけみなかたのかみ)

建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神の一柱に数えられている。

出自について記紀神話での記述はないが、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が各地に残る。妻は八坂刀売神とされている。

建御名方神は神(みわ)氏の祖先とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ保科氏など諏訪神党の氏神でもある。

諏訪大社(長野県諏訪市)ほか全国の諏訪神社に祀られている。

[考証]

葦原中国平定の記述は、ヤマト王権による国家統一の過程が元になったものと考えられている。記紀の説話では出雲国が舞台となっているが、他の国でもヤマト王権への何らかの形での「国譲り」が行われたものと思われる。記紀で出雲が国譲りの舞台として書かれているのは、出雲が最後に残った勢力で、出雲の平定により一応の国家統一が達成されたと考えられたためとされている。 葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)は、天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受ける日本神話の説話である。国譲り(くにゆずり)ともいう。

2009/09/06

出雲神話4/5 「オオクニヌシの国づくり」

オオクニヌシの国づくり

大国主が出雲の美保岬にいたとき、海の彼方から天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って、鵝(蛾の誤りとされる)の皮を丸剥ぎに剥いで衣服として、やって来る神がいた。大国主がその小さな神に名を尋ねたが答えなかった。従えている者も皆知らなかった。そこにヒキガエルが現れて、「これは久延毘古(クエビコ)ならきっと知っているでしょう」と言った。久延毘古に尋ねると、「その神は神産巣日神の御子の少名毘古那神である」と答えた。久延毘古は山田のかかしであり、歩くことはできないが、天下のことは何でも知っている神である。

神産巣日神は少名毘古那が自分の子であることを認め、少名毘古那に大国主と一緒になって国づくりをするように言った。大国主と少名毘古那は協力して葦原中国の国づくりを行った。その後、少名毘古那は常世に渡って行った。

大国主は、「これから私一人でどうやって国を作れば良いのだろうか」と言った。その時、海を照らしてやって来る神がいた。その神は、「我は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である。丁重に私を祀れば、国作りに協力しよう」と言った。どう祀ればよいかと問うと、大和国の東の山の上に祀るよう答えた。この神は現在御諸山(三輪山)に鎮座している神(大物主)である。

オオクニヌシの国譲り

高天原(たかまがはら)では、地上の豊かな出雲の国はアマテラスオオミカミの子孫が治めるべきだという相談がなされていました。 そこでアマテラスオオミカミは国譲りの交渉のために、3度も使いを送ったのですが、使いは出雲の住み心地の良さに帰って来なかったりして、なかなか交渉は成立しませんでした。

そこで切り札として、タケミカヅチノカミとアメノトリフネノカミが出雲にやって来ました。 タケミカヅチノカミとアメノトリフネノカミは稲佐の浜に降り立ち、剣を抜いて波頭に逆さまに立て、その上にあぐらをかいてオオクニヌシノカミに国譲りを要求しました。オオクニヌシノカミは自分の息子であるコトシロヌシノカミから考えを聞くように二神に言いました。

タケミカヅチは、再びオオクニヌシのところへ戻って来て言いました。

「そなたの子どものコトシロヌシとタケミナカタは、アマテラスオオミカミのお子さまの命令には逆らわないと答えた。そなたの心はどうだ。」

これに対して、オオクニヌシは、こう答えました。

「わたしの子どもたちがお答えしたとおり、わたしも同じ気持ちです。この葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)は、ご命令どおりに、すべて差し上げます。ただし、わたしの住む場所をアマテラスオオミカミのお子さまが、天の神の「あとつぎ」となってお住まいになられる御殿のように、地面の底深くに石で基礎(きそ)を作り、その上に太い柱を立て、高天原にとどくほどに高く千木(ちぎ)を上げて造っていただければ、わたしは、その暗いところに隠れております。また、わたしの百八十もいる子どもの神たちは、コトシロヌシを先頭にお仕えいたしますので、天の神のお子様に逆らうものはいないでしょう。」

鳥や魚を捕るために美保の碕に出かけていたコトシロヌシノカミは呼び戻され、アマテラスオオミカミの考えに従うと言って、乗ってきた船を踏み傾け、柏手を打って青い柴垣に変えて、その中に隠れてしまいました。

この様子を伝えているのが、美保神社の諸手船神事(もろたぶねしんじ)と青柴垣神事(あおふしがきしんじ)です。

また、もう一人の息子のタケミナカタノカミはタケミカヅチノカミと力くらべで決めようと、タケミカヅチノカミの腕をつかんだところ、たちまち腕はツララに変わり、次いで剣に変わってしまいました。 今度はタケミカヅチノカミがタケミナカタノカミの腕をつかみ、握りつぶしてしまったので、タケミナカタノカミは青くなって、諏訪湖まで逃げてしまいました。

オオクニヌシノカミもアマテラスオオミカミの申し出を受け入れることにしました。 その代わり、自分の住まいをアマテラスオオミカミの子孫と同じように、千木(ちぎ)が大空にそびえるような立派な宮殿を建ててほしいと願い出ました。

そこでアマテラスオオミカミは、オオクニヌシノカミのために多芸志(たぎし)の浜に大宮殿を建てました。
それが出雲大社のはじまりだといわれています。

大国主と出雲神話

高天原を追放されたスサノヲは流浪の果てに、出雲において大蛇を退治し、須賀の宮におさまって妻を求める歌をうたいます。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」

出雲地方の伝承的な歌謡であったこの歌が、『古事記』の中で最初に掲げられた歌です。

『古事記』上巻には、このスサノヲの物語に続いてオオクニヌシ(大国主神)神話が続きます。オオクニヌシの事跡の出雲との関係や出雲大社との関連から、出雲系神話といわれ、また登場する神々を出雲系の神々とよびます。

この部分は、すでにオオクニヌシの支配していたこの国土が、天下ってきた高天原の神の支配に交替するという劇的な構成から、大和朝廷に拮抗ないし対立する出雲での権力の存在を示す物語であるというような歴史的事実と結びつけた見解などさまざまに論じられる物語となっています。上巻特有のごつごつした違和感に満ちた世界が展開すると同時に、他方で人間の「情」のありように通じるもの、たとえば後世なら「仁」や「愛」あるいは「やさしさ」といったことばで本来表現されるべき事柄が描かれてもいます。

オオクニヌシの物語は、前半と後半では趣が異なります。前半は美しい因幡のヤガミヒメを獲得しようと旅立つ兄たちのあとに荷を背負って追うさえない神でした。白ウサギにやさしさを施すとウサギの予言通り姫を得ることになります。しかし、兄弟神の怒りを買い、試練にたたされ死に追いやられます。そのたびに彼は母神やカミムスビや貝の女神たちなどの力で復活しますが、最後には迫害を避けるため、母神の配慮で根の国のスサノヲのもとにおくられます。そこでもスサノヲに試練を与えられますが、恋仲となったスサノヲの娘スセリビメの助けを得て脱出し、スベリビメと手を携え呪術能力を得てこの世に帰還します。迫害した兄弟神たちを退治し、支配者となります。

支配者としてのオオクニヌシは、国作りを単独では行えず、スクナビコナ(小彦名神)という海の向こうから渡ってきた小身の神の協力を得て、支配します。後にスクナビコナは海の向こうに去り、、オオクニヌシは国土の未完であることを嘆きます。

さて、このオオクニヌシは多くの神話的神の重ね絵とされます。事実、物語の展開のなかでその呼称を何度か変えます。『日本書紀』では、人々に「恩頼(みたまのふゆ)」を与えたと簡潔に書かれています。他方『古事記』では、複雑ですが民衆的なレベルでの神、あるいは支配者の理想像という古層をとくによく伝えているといえるでしょう。

しかし、オオクニヌシ神話は国土の完成のあとは一転して、色好みのこの神の女性遍歴と、妻であるスセリビメの嫉妬と、二人の和解の物語となります。

このように、出雲系の神話は、その政治性とは別に、その叙情性において、『風土記』にも登場するオオクニヌシの姿には、民衆に「恩頼(みたまのふゆ)」をほどこした神として、支配ないし支配者によせる集団的な願望のようなものが込められているともいえます。出雲系とくに、オオクニヌシ神話は、その後高天原の神に国の支配を譲るという形で書かれ、天皇の物語のなかで、重要な位置を占めます。政治神話と異なる側面をみせるのが、この神話の後半の愛の遍歴の部分です。そこでは濃厚に歌謡が情の世界と関わり、神の世界から、人間の情の描写へとの橋渡しの意味を持った部分を形成しています。

「大国主」となった「大己貴命」

『出雲国風土記』では、国引き神話のヤツカミズオミツヌこそ、出雲国の名付け神になっている。それは、ヤツカミズオミツヌが、この地を「八雲立つ出雲」と呼んだから、というものであるが、和歌こそ詠んでないものの『古事記』に記されたスサノオのそれと、まったく同じ内容である。

ヤツカミズオミツヌは『古事記』こそ、スサノオの四世孫としているが、案外、スサノオの別名ではなかろうか。

それはスサノオの「出雲」における呼称なのかも知れない。

『古事記』によれば、オオナムチはスサノオから、生大刀、生弓矢、玉飾りのついた琴を奪って逃げ、スサノオは、それを許している。これは、オオナムチを、軍師に命じたことに他ならない。この時スサノオは、50歳にさしかかってしたと思う。オオナムチが軍師になれたのは、スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)が、オオナムチに惚れてしまったという、『古事記』の記述を信用するしかないが、以外にも、本当なのかも知れない。いずれにしても、スサノオの後押しがなければ、不可能な話であろう。

軍師であるからには、スサノオの率いて来た、「物部」の大軍を自由に使ってもいいわけだ。オオナムチは、「越」の八口を討ったと、『出雲国風土記』は記している。この記述が、「越」の高句麗族の最後の時だ。

これにより「出雲」・「越」とも平定され、スサノオは、その後、南朝鮮に渡り、先に述べたとおり、南朝鮮を含めた日本海文化圏を、形成していくのである。

この文化圏は、鉄資源を元手にした通商連合であった。貿易を生業としていたのである。

通商を生業とした、早い話が商売人は、江戸時代の堺衆がそうであったように、何者にも屈しない、強い結束力を備えていたのであるが、一度、メリットが無くなれば簡単に崩壊してしまう。

オオナムチは、スサノオの後押しもあって、最大の貿易相手である「少彦名命」(すくなひこなのみこと、おそらく朝鮮半島の「昔」《すく》姓の一族。以下、スクナヒコナ)と、共同して貿易に携わり、国土経営をしていたのであるが、そのスクナヒコナは、常世の国に行ってしまう。すなわち、死んだのである。

この結果、オオナムチは、スポンサーを失ってしまうこととなった。

オオナムチは、『古事記』によれば様々な地方の女性を妻にしている。
スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)を始め、「因幡」の「八上姫」(やがみひめ)、「越」の「沼川姫」(ぬまかわひめ)、「宗像」の「多紀理姫」(たぎりひめ)、「鳥取」の「鳥取神」(ととりかみ)、「神屋楯姫」(かむやたてひめ)がそうである。

これらの女性出身地からみても、海を通じた交流の様子が窺い知れる。
「神屋楯姫」の出身地は明記されていないが、オオナムチの地元、「意宇国」であろうか。

この頃の、オオナムチの勢力範囲は、「大和」までに拡大していたらしい。

『古事記』には、「出雲」から「大和」(倭国)にオオクニヌシが、出張していく様子が記されている。このことは、「須勢理姫」との歌のやりとりとともに記されているのだが、「須整理姫」が、オオクニヌシに対して「八千矛神」と呼びかけているので、「大和」を勢力範囲にしたのは、スサノオだったのかも知れない。「八千矛神」とは、神社伝承学によれば、スサノオのことであった。

「昔」姓の「少彦名命」が亡くなることにより、スポンサーを失ってしまったオオナムチは、南朝鮮の資金源(鉄資源)を、絶たれてしまう可能性があった。もともと、南朝鮮の鉄資源は、スサノオ族が押さえていたのだが、その後、高句麗族に奪われた。スサノオは、「統一奴国」を成し遂げ、高句麗族を追放することにより、再び南朝鮮の鉄資源を奪取した、と推測している。その地盤をオオナムチが受け継いでいたのであるが、「昔」族は、スサノオ族と同郷であろう。「昔」族もスサノオ族もともに、「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと、以下、タカミムスビ)を、崇める一族であったのである。

出雲神話1/5 「スサノオとヤマタノオロチ」

乱暴な所業で高天原を追われたスサノオノ命は、鳥髪(とりかみ)といわれる出雲の船通山(せんつうざん)に降り立ちました。

すると上流から箸が流れて来るではありませんか。川上に人が住んでいるのだろうと、スサノオノミコトは川沿いに上っていきました。

(川上に人が住んでいる)

そこには、クシナダヒメという美しい娘をはさんでアシナヅチとテナヅチという年老いた両親が泣いていたのです。

わけを尋ねると、その両親には8人の娘がいたのですが、毎年ヤマタノオロチに1人ずつ食べられて、いよいよ最後の1人が食べられる時期になったというのです。  そう思ったスサノオが、どんどん上っていくと、老夫婦が若い女を中において泣いていました。

「なせ泣いているのです?」

「私たちはもともと8人の娘がおりましたが、毎年恐ろしいオロチがやってきて1人ずつ食べてしまい、今ではこのクシナダヒメだけになりました。今年もそろそろオロチがやって来る頃となりましたので、それが悲しくて泣いているのです」
とアシナヅチは答えた。

「して、そのオロチとはどんなもの」

「はい、ヤマタノオロチは、目はホオズキのように赤く、からだ一つに八つの頭と八つの尾を持ち、その長さは八つの谷と八つの尾根を越える恐ろしい姿をしている。」というのです。

スサノオはしばらく考えてから言いました。

「よし、私がオロチを退治してあげよう。その代わり、クシナダヒメを私の妻にくださらぬか」 心ひかれた美しいクシナダヒメとの結婚の約束をとりつけ、オロチ退治を決心したのでした。

そこでスサノオは、クシナダヒメを小さな櫛に変えて自分の髪に差しこみました。
アシナヅチとテナヅチに頼んで、垣根で八つの門を作らせ、門ごとに八つの樽に強い酒を用意させました。

「そなたたちはすぐに強い酒を造ってください。そして、オロチの来そうなところへ柵を廻らせ、8つの入り口と8つの柵を作り、くだんの酒を満たした桶を置いておきなさい」  老夫婦は早速準備をしました。

やがてオロチが物凄い地響きを立てながらやってきて、好物の酒をガブガブ飲み、酔いつぶれて眠ってしまいました。

スサノオはここぞと剣を取り出し、今がチャンスと酔っぱらったオロチに向かっていきました。

とうとうスサノオノミコトはオロチの息の根を止めたのです。その後オロチをずたずたに切り刻んだところ、尾から立派な剣が出てきました。

スサノオノミコトが取り出した剣は、アメノムラクモの剣といい、スサノオノミコトは見たことのないこの剣は、自分が持っているより姉のアマテラスオオミカミにこそふさわしい剣だろうと、アマテラスオオミカミに献上しました。

この剣は、後に草薙の剣(くさなぎのつるぎ)といわれ、今も伝えられる三種の神器の一つといわれています。

激しい闘いが終わったとき、スサノオは約束どおりクシナダヒメと結婚し、新居の地を探し歩きました。

そして、最適の地を見つけ、
「わが心清々し」
と叫んだので、その地は須賀と呼ばれるようになりました。

新居が出来あがると、あたりから美しい雲が湧き上がってきました。喜んだスサノオは思わず歌を詠みました。

日本で最初といわれる「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」という和歌を詠み、幸せに暮らしました。

やがて子孫に、オオクニヌシノカミが誕生するのです。
神楽でおなじみの、あの壮絶な死闘のシーンは、『古事記』にも、『日本書紀』にも書かれていない。だが、名だたる怪獣オロチが、寝込みを襲われて、易やすと殺されることはなかったろう)

スサノオの力強さ、優しさ、そして善神ぶりが、生きいきと描かれています。出雲では、スサノオはオオクニヌシと並んで人気絶大です。

クシナダヒメ…稲田の神として信仰されており、廣峯神社(兵庫県姫路市)、氷川神社(さいたま市大宮区)、須佐神社(島根県出雲市)、八重垣神社(島根県松江市)、須我神社(島根県雲南市)、八坂神社(京都市東山区)、櫛田神社(富山県射水市)、櫛田宮(佐賀県神埼市)のほか、各地の氷川神社で祀られている。多くの神社では、夫のスサノオや子孫(又は子)の大国主などと共に祀られている。

引用:社団法人島根県観光連盟・島根県観光振興課
2009/09/06
ヤマタノオロチの解明

オロチ[*8]は水を支配する竜神を、クシナダヒメは稲田を表しているとみられています。すなわち、毎年娘をさらうのは河川の氾濫の象徴であり、それが退治されたことは、治水を表しているとする。また大蛇が毎年娘をさらって行ったということは、神に対して一人の処女が生贄としてささげられていたということであり、その野蛮な風習を廃しえたことも表しています。

あるいはこの当時、出雲国は実際に越国(高志・北陸地方)[*7]との交戦状態にあり、『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現在の島根県安来市)の地名説話において「越の八口」を平定したと記されており、これがこの神話の原型ではないかという説もある。高志=越とみる向きには、福井県に『高志(こし)』『九頭竜(くずりゅう)』という名称や地名が残っていることが挙げられる(例:高志高校、九頭竜川など)。

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)[*10]は、出雲国の古代製鉄文化を象徴するとされています。してみると天叢雲剣は鉄製であり、十拳剣(とつかのつるぎ)が天叢雲剣に当たって欠けたということは、対する十拳剣は青銅製であったことを類推させる。十束剣は日本神話に登場する剣。「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記されます。

様々な場面で登場していることや、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから、一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされます。当時としては最先端の技術であった製鉄、またはその結晶である鉄剣を「アマテラスに献上した」というのは、その頃の出雲と大和の関係を推し量る上で興味深いエピソードであると言える。

また、オロチの腹が血でただれているのは、砂鉄(あるいは鉱毒)で川が濁った様子を表しているとする説もある。また、たたら吹きには大量の木炭を必要とするため、川の上流の木が伐採しつくされた結果洪水が起きたことを象徴しているともされます。

古志が出雲国古志郷(島根県出雲市古志町)とする説でみると、オロチ河川群(船通(鳥髪、鳥上)山系を出発点とする日野川、斐伊川、飯梨川、江の川、伯太川等の川およびそのその支流)の治水工事が進み、稲作や小国家が発展していった。
古志が越国(北陸地方)であるとする説は、この当時、出雲国は実際に越国(北陸地方)との交戦状態にあり、越国を平定しています。

『出雲風土記』の大原郡神原郷に、「神原郷 郡家正北九里。古老傳云「所造天下大神之 御財 積置給 處」。則、可レ謂「神財郷」。而、今人 猶 誤 云「神原郷」耳」とあります。

これを、「神原の郷は、郡家の正北九里。古老の伝えに云うには、天の下 造らしし大神(スサノオ)の御財を積置き給いし処なり。即ち神財郷(かむたからのさと)と云うべし。今の人は誤って聞き神原郷(かむはらのさと)と云う」と。本来は神財郷(かむたからのさと)と呼んでいたことになります。

長男・八島野尊や部下の豪族らは、スサノオの遺骸を熊野山に埋葬し、建国の偉業を偲んで祭祀を始めた(須我神社・雲南市大東町須賀)とみられ、近くの加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町)や荒神谷遺跡(島根県簸川郡斐川町)から出土した紀元前2世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣・銅矛は、まさにスサノオ祭祀の遺物とも考えられます。荒神谷遺跡の小字名は神庭(カンバ)。荒神谷とは荒ぶる神、すなわちスサノオのことで、字神庭というのもスサノオを祭祀する場所をさしているものではないでしょうか。

スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られています。神のなかの祖神(おやがみ)である。出雲大社が出来るまでは、出雲地方最大・最高の神社だったのです。
天平五(733)年に撰録された出雲風土記は、すでに荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになります。

「日本」を探す 著者: 産経新聞文化部に

「ヤマタノオロチ」な、たたら(ふいご)を吹いて製鉄している様子を描いたもの。われわれにはすぐわかります」というのは、刀の原料の鋼(はがね)を作っている島根県仁多郡出雲町の「日本美術刀剣保存会(日刀保)たたら」村下(技師長)の木原明さんだ。

良質の砂鉄に恵まれた中国地方では古来、土で作った炉に木炭と砂鉄を入れ、たたらで風を送り込み、木炭を燃焼させて砂鉄を溶かして鉄にする「たたら製鉄」が行われてきた。奈良時代の「出雲風土記」には「仁多郡の鉄は良質で、さまざまな道具を作るのに適している」という意味の記述があり、製鉄の歴史の古さがうかがえる。
ヤマトノオロチ伝説の舞台は奥出雲町、船通山のふもとのあたりで、日刀保たたらもここにある。

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)剣には製剣説と銅剣説がある。ヤマトノオロチ伝説は、ヤマト朝廷が出雲に進出する過程で製鉄集団を征服、武器を含む鉄器をこの地で供給するようになった史実を反映しているとう説がある。それが正しいとしたら、製剣説に軍配が上がりそうだ。

ヤマトノオロチ=製鉄集団説では、古事記に描かれたオロチの赤いホオズキのような目は真っ赤に燃えるたたらの炉を、一つの胴体に八つの頭と八本の尾が生えているのは砂鉄を採取する川が多くの支流に分かれる様子を、腹が血でただれているのは鉄分で赤く染まった川をそれぞれ描写している-とする。

奥出雲町の中心を流れる斐伊川は古事記の「肥の河」とされる川だが、そのほとりを歩くと、酸化した鉄分で川のあちこちが赤く染まっている。古代人が製鉄集団をオロチにたとえた理由が分かるような気がした。

奥出雲町では、いまも毎年1~2月に伝統的なたたら製鉄が行われ、全国の刀匠に刀の素材になる玉鋼を供給している。それが日刀保だ。玉鋼はここでしか作られない。

たたらは、古代は炉に風を送るふいごを指す言葉だったが、時代が下がるにつれて砂鉄と木炭を使った「和鉄」と呼ばれる日本独自の製鉄法を指すようになった。宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」にたたら製鉄の様子が描写されていたのをご記憶の方も多いだろう。

(中略)

鉄の品質を左右するのが、火力と砂鉄を入れるタイミングだ。火力を調整し、投入のタイミングを計るのが村下と呼ばれる技師長の仕事。木原さんは「溶鉱炉を使って鉄鉱石から作る洋鉄(二千度)に比べ、低温(千五百度)で精錬する玉鋼(和鉄)は不純物が混じりにくい。日本刀の特徴である地金の美しさは、低温精錬のたたらでないとできない」と話す。

(中略)

刀が、中国大陸や朝鮮半島から伝えられた(銅剣のような)「直刀」から、反りのある日本刀になったのは、平安時代の中期以降といわれる。東京国立博物館の元刀剣室長、小笠原信夫さんは「(切るという)実用目的以上に刀身を美しく研ぎ上げ、鑑賞する習慣は外国では聞いたことがない」という。

鉄は空気に触れると錆びる。遺跡から鉄器があまり出土しないのはこのためだ。しかし、博物館で見る刀は千年の時を経ても輝きを失わない。

(中略)

一つ不思議に思うことがあった。鉄は弥生時代に中国大陸から朝鮮半島を経て日本にもたらされ、それとともに製鉄技術を持つ集団が渡来してきて日本で製鉄を始めたという説が有力だ。

製鉄集団の存在を示唆するといわれる「古事記」のヤマタノオロチ伝説が島根県奥出雲地方にあるのも、地理的に近い大陸から製鉄集団がやってきて、砂鉄に恵まれたこの地に定着したと考えれば分かりやすい。

それならば、なぜ“本家”である大陸には砂鉄を使った製鉄法が残らず、日本列島でたたら製鉄が発達したのだろう。

木原さんによると。1トンの炭を焼くのに700平方メートルの山林が必要だという。日刀保たたらでは、炉に火を入れてから玉鋼を含む鉄の塊であるを取り出すまで三昼夜の工程を「一代(ひとよ)」と呼ぶが、一代には十トンの砂鉄、十二トンの木炭が使われる。「二千ヘクタールの山林がないとたたらは途絶えてしまう・と木原さんが言うのはそのためだ。

たたらに使う木炭はナラ、クリ、クヌギなどの雑木を使うが、大量の木を切っても、「根(切り株)が残っていれば、四十年たったらまた戻る」のだそうだ。

面白い発見として大量の銅剣と銅鐸が同じ場所で見つかった荒神谷遺跡と日本最多の銅鐸が見つかった加茂岩倉遺跡の中間に斐伊川の源流がある船通山系は位置するのだ。これまで「なぜ製鉄集団なのに銅製品ばかりなのだろう」と思っていたが、鉄器と銅製品が同時に製造されて鉄器は錆びてしまい銅製品のみが残ったと考えれば納得できるのではないだろうか。

[註] [*6]…スサノオ – イザナギの鼻から生まれたとされる男神。海原の神。『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。

[*7]…「古志」 『古事記』では高志と表記。越国とも出雲国古志郷とも考えられます。高志=越とみる向きには、この当時、出雲国は実際に越国(北陸地方)との交戦状態にあり、『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現在の島根県安来市)の地名説話において「越の八口」を平定したと記されており、これがこの神話の原型ではないかという説もある。福井県に『高志(こし)』『九頭竜(くずりゅう)』という名称や地名が残っていることが挙げられる(例:高志高校、九頭竜川など)。あるいはその時代製鉄の先進地帯で、出雲側から山越しするので吉備地方を古志としていたとも考えられます。

[*8]…ヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智、八俣遠呂知)は、日本神話に登場する伝説の生物。8つの頭と8本の尾を持ち、目はホオズキのように真っ赤で、背中には苔や木が生え、腹は血でただれ、8つの谷、8つの峰にまたがるほど巨大とされています。島根県の斐伊川には、出水後に「鱗状砂洲」と呼ばれる、蛇の鱗を思わせる砂洲が幾条も構成されます。これが大蛇のイメージを作り上げたとの説がある。また、島根・鳥取県境にある船通(鳥髪、鳥上)山系を出発点とする日野川、斐伊川、飯梨川、江の川、伯太川等の川およびそのその支流を頭が八つある大蛇に見立てたとする説もあり、これらの河川をオロチ河川群と呼ぶ。

[*9]…様々な場面で登場していることや、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから、一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされます。

[*10]…三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。草薙剣(くさなぎのつるぎ・くさなぎのけん)・都牟刈の大刀(つむがりのたち)・八重垣剣(やえがきのつるぎ)とも称されます。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされます。

[*11]…日本神話ではスサノオが詠った「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣を」が最初の和歌とされることから、その初めの語句を取って八雲(やくも)ともいう。「八雲の道」といえば「歌道」のことである。

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高天原神話1/2 アマテラスとスサノオ

乱暴なスサノオノミコト

イザナギ・イザナミはさまざまな神々を生み出していったが、火の神カグツチを出産した際にイザナミは火傷で死ぬ。愛する妻を失ったイザナギはその怒りから迦具土(加具土)神を十拳剣で切り殺した(この剣に付着し、したたり落ちた血からまた神々が生まれる)。イザナギはイザナミをさがしに黄泉の国へと赴くが、黄泉の国のイザナミは既に変わり果てた姿になっていた。これにおののいたイザナギは逃げた。イザナギは黄泉のケガレを清めるために禊ぎをした。

黄泉の国(よみのくに)から戻ったイザナギノミコトはこのときもさまざまな神々が生まれました。最後に左の目からアマテラスオオミカミ(日の神、高天原を支配)を、右の目からツクヨミノミコト(月の神、夜を支配)を、そして鼻からスサノオノミコト海を支配)を産みました。

神様だから男でも、どこからでも、子どもを産めるんですね。 スサノオノミコトは海を守る神様なのに泣いてばかりいたので、怒ったイザナギノミコトはスサノオノミコトを海から追い出しました。 そこで人恋しくなったスサノオノミコトは、高天原(たかまがはら)に住む姉のアマテラスオオミカミを訪ねたのですが、ここでもせっかく耕した田を荒らしたり、機織り小屋(はたおりごや)に馬を投げ込んだりして、高天原(たかまがはら)では彼の乱暴ぶりにことごとく手を焼いていました。

最後に生まれたアマテラス・ツクヨミ・スサノオは三貴子(三貴神)と呼ばれ、イザナギによって世界の支配を命じられました。

『古事記』

『古事記』では、父イザナギが海原を支配するようにスサノオに命じたところ、スサノオは母イザナミがいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナギは怒って「それならばこの国に住んではいけない」としてスサノオを追放した。

スサノオは、姉のアマテラスにいってから根の国へ行こうと思って、アマテラスが治める高天原へと登っていく。アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たのだと思い、弓矢を携えてスサノオを迎えた。

スサノオはアマテラスの疑いを解くために、2人でウケヒ(宇気比、誓約)をしようといった。二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取ってそれを噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の3柱の女神(宗像三女神)が生まれた。この女神は宗像の民が信仰しており、宗像大社にまつられている。

多紀理毘売命(タキリビメ) – 別名:奥津島比売命(オキツシマヒメ)。沖つ宮にまつられる。
市寸島比売命(イチキシマヒメ) – 別名:狭依毘売命(サヨリビメ)。中つ宮にまつられる。
多岐都比売命(タキツヒメ) – 辺つ宮にまつられる。

次に、スサノオが、アマテラスが持っていた「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」受け取ってそれを噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の5柱の男神が生まれた。

左のみづらに巻いている玉から 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)
右のみづらに巻いている玉から天之菩卑能命(アメノホヒ)
かづらに巻いている玉から天津日子根命(アマツヒコネ)
左手に巻いている玉から活津日子根命(イクツヒコネ)
右手に巻いている玉から熊野久須毘命(クマノクスビ)

アマテラスは、後に生まれた男神は自分の物から生まれたから自分の子として引き取って養い、先に生まれた女神はスサノオの物から生まれたからスサノオの子だと宣言した。スサノオは自分の心が潔白だから私の子は優しい女神だったといい、アマテラスはスサノオを許した。

『日本書紀』

『日本書紀』の本文では、スサノオは五人の男神を産み、彼の心が清いことを証明している。

第一と第三の一書では男神なら勝ちとし、物実を交換せずに子を生んでいる。すなわち、アマテラスは十拳剣から女神を生み、スサノオは自分の勾玉から男神を生んでスサノオが勝ったとする(第三の一書ではスサノオは6柱の男神を生んでいる)。

第二の一書では、男神なら勝ちとしている他は『古事記』と同じだが、どちらをどちらの子としたかについては書かれていない。『古事記』と同じ(物実の持ち主の子とする)ならばアマテラスの勝ちとなる。

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=YU6BDHadXQU&hl=ja_JP&fs=1&] 3/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた!』 「古事記」神話は何を伝える? 2008年

『古事記』と『日本書紀』を併せて『記紀』といいますが、風土記は記紀神話とは違い、その土地ならではの神話を伝えています。 『出雲国風土記』でも、大和の史官たちの手の入らない古代出雲人が伝承してきた純粋なものとして、出雲地方の言い伝えを正確に残しています。

たとえば、記紀神話で描かれるスサノオノミコトの「ヤマタノオロチ退治」やオオクニヌシノカミの「国譲り」は、『出雲国風土記』には記載されず、逆に「国引き神話」は、『出雲国風土記』だけに記された神話なのです。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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1.天地開闢(てんちかいびゃく)1/5 世界の始まり

現在、日本神話と呼ばれる伝承は、そのほとんどが『古事記』、『日本書紀』および地方各国の『風土記』にみられる記述をもとにしています。高天原の神々を中心とする神話がその大半を占めていますが、その一方で出典となる文献は決して多くはありません。

本来、日本各地にはそれぞれの形で何らかの信仰や伝承があったと思われ、その代表として出雲(神話)が登場しますが、ヤマト王権の支配が広がるにつれて、そのいずれもが国津神(くにつかみ)または「奉ろわぬ神」(祟る神)という形に変えられて、「高天原神話」の中に統合されるに至ったと考えられています。

また、後世までヤマト王権などの日本の中央権力の支配を受けなかったアイヌや琉球にはそれぞれ独自色の強い神話が存在します。自分達の世界がどのようにして生まれたか。このことは古代人にとっても大きな問題でした。『古事記』、『日本書紀』の最初の部分は世界誕生のころの物語となっていますが、『古事記』と『日本書紀』との間で、物語の内容は相当に異なります。

さらに、『日本書紀』の中でも、「本書」といわれる部分の他に「一書」と呼ばれる異説の部分があります。これはヤマト王権が各国の伝承・特産などを調べ『風土記』として提出させたのですが、このようにして、神々の誕生の神話は1つに定まっていないので、公平に一書として併記しているのは、すでに当時、日本は民主国家的であったということをすさしているとも思えます。

『古事記』(和銅5年(712年)は一般に一つのストーリーとなっている歴史書で、『日本書紀』(養老4年(720年)に完成)は、対外向け正史といわれていていますが、特に有名な出雲神話・日向神話(天孫降臨)は古事記以外の伝承も記載しました。

0.世界の始まり(天地開闢(てんちかいびゃく))

『古事記』によれば、世界のはじまった直後は次のようであった。『古事記』の「天地初発之時」(あめつちのはじめのとき)という冒頭は天と地となって動き始めたときであり、天地がいかに創造されたかを語ってはいないが、一般的には、日本神話における天地開闢のシーンといえば、近代以降は『古事記』のこのシーンが想起される。

『日本書紀』

『日本書紀』における天地開闢は渾沌が陰陽に分離して天地と成ったという世界認識が語られる。続いてのシーンは、性別のない神々の登場のシーン(巻一第一段)と男女の別れた神々の登場のシーン(巻一第二段・第三段)に分かれる。また、先にも述べたように、古事記と内容が相当違う。さらに異説も存在する。

卷第一 神代上(かみのよのかみのまき)
第一段、天地のはじめ及び神々の化成した話(天地開闢)
本書によれば、太古、天と地とは分かれておらず、互いに混ざり合って混沌とした状況にあった。しかし、その混沌としたものの中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。そして、その中から、神が生まれるのである。

第二段、世界起源神話の続き
天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが神となる。

■考 証

田辺広氏『日本国の夜明け: 邪馬台国・神武東征・出雲』には、

世に出雲神話としてよく知られているものに、須佐之男命の八俣の大蛇退治、大国主命の因幡の白兎の話であるが、いずれも記紀に著された神話で風土記にはまったく見えない。そこで是等は記紀の中でつくられたもので、たとえば、前者は「高天原による出雲平定を神話化し、正当化したものである。あとに続く国譲りの先駆的役割を果たすために作られたと見るべきであろう」とある。

しかし一方で、萩原千鶴氏は「記によれば、天から追われた須佐之男命は出雲の国の肥の河上、名は鳥髪の地に降ったとあるが、それは出雲国風土記が斐伊川の水源としてあげる鳥上山に一致する。記の出雲神話の地理は、出雲国風土記の記載によく適合しており、単なる中央の机上の製作とは思われない」という。

大国主命が主人公として出る神話は、稲羽素兎神話、根の国神話、八千矛神話、国作神話、国譲神話があり、記紀の出雲神話は、その神代の巻の約三分の一を占める。

(中略)

私の意見は、萩原説に賛成である。神話に書いてある細々とした説話は荒唐無稽で、事実としては信ずるに足りなくても問題ではない。史実として取り上げるべきことは、出雲の古代にスサノオという偉大な統率者と、その子孫にオオクニヌシという立派な後継者がいたことである。スサノオのオロチ退治も斐伊川の上流にいた、たぶん金属加工(たたら製鉄)を行って勢力を伸ばした豪族がいて、それを占拠した事実を神話・伝説化したものであろう。そして亡ぼしたのは大和の朝廷軍であったのか、東部の意宇の主であったのかは確たる証拠がないかぎりわからない。

それより問題は、記紀の編者、あるいはそのバックにある大和朝廷は、なぜ抵抗勢力であり、同族でもない出雲の神話をこのようにたくさんのページを割いて載せたのかということである。勝利者であれば、むしろ出雲神話は抹殺すればよいのではないか。(中略)

記紀の方から見れば、出雲の伝承に多くのページを割かねばならないにしても、それをどのように日向神話の中に入れ込むか、旧辞の編者というか太朝臣安万侶の考えというか、難しいところだが、次のように大雑把に言えると思う。

いろいろからみ合って天孫族の神と出雲の神が出現するが、ある一線を引いたと思う。それは陰陽(影と光)の別である。地域的には山陽と山陰、太陽と月、天と地、地上と地下、現世と冥土(黄泉国)、天津神と国津神、勝者と敗者、征服者と被征服者の別である。具体的には政権と宗教界という形で現在まで続いている。もちろん、のちの仏教その他の宗教を除いた神道の世界のことである。

神武東征の謎: 「出雲神話」の裏に隠された真相 著者: 関裕二

神武天皇をめぐっては、いくつもの誤解がある。
神武天皇が圧倒的な武力をもってヤマトを制圧した古代最大の英雄、という思いこみはその最たるものであろう。

(中略)
『日本書紀』を丹念に読んでいくと、神武東征はけっして神武軍の「一方的な勝利」ではなかったことがわかる。

ようやくの思いで大和に到着し、しかも、力ずくで王権を獲得したのではなく、相手が勝手に政権を放り投げてきたのである。これは「推理」ではなく、『日本書記』にそう書いていることだ。それにもかかわらず、神武天皇が偉大な勇者、武力に秀でた強い天皇と思われるに至ったのは、尋常小学校の教科書の記述が神武天皇の武功のみをクローズアップしたからに他ならない。もちろん、このような教科書の記述は、明治政府の意向でもあったろう。

(中略)
一方、神武天皇にまつわるもう一つの誤解は、神武東征は「神話」にすぎなかった、というのものである。

(中略)
(それは)戦前の偏った教育に対する反動に他ならなかった。史学者たちは「神の子・神武」という図式を比定するばかりか、神武天皇という存在そのものを疑ってかかるようになっていたのである。

たしかに、『日本書紀』や『古事記』は、神武天皇が今から二千数百年前の人物であったとしているのだから、これをそのまま素直に信じるわけにはいかない。考古学的に見ても、大和に「国」らしきものが誕生するのは、それから千年後のことになる。したがって、『日本書紀』や『古事記』の神武天皇にまつわる記述は疑わしい。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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