たじまる あめのひぼこ 2

天日槍と伊和大神の国争い

概 要

『播磨国風土記』[*1]には伊和大神(いわのおおかみ)とヒボコとの争いが語られています。結果としては住み分けをしたことになり、ヒボコは但馬の伊都志(出石)の地に落ち着いたことが語られています。 ヒボコは海水を攪きて宿ったとある宇頭の川底とは、「宇須伎津の西の方に紋水の淵あり。」とされ、姫路市網干の魚吹八幡神社(うすき)が遺称地です。

ヒボコと伊和大神の国争い


写真左から銅剣・銅鐸・銅矛複製 荒神谷博物館

ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命(アシハラシノミコト)に土地を求めたが、海上しか許されなかった。
ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。
葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘(いいぼのおか)に上がった。
葦原志挙乎命(アシハラシノミコト)とヒボコが志爾蒿(シニダケ=藤無山)[*6]に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。

その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。

ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を占領した。
神前郡多駝里粳岡は伊和大神とヒボコ命の二柱の神が各々軍を組織して、たがいに戦った。その時大神の軍は集まって稲をついた。その粳が集まって丘とな った。

アメノヒボコは、とおいとおい昔、新羅(しらぎ)という国からわたって来ました。

日本に着いたアメノヒボコは、難波(なにわ=現在の大阪)に入ろうとしましたが、そこにいた神々が、どうしても許してくれません。
そこでアメノヒボコは、住むところをさがして播磨国(はりまのくに)にやって来たのです。
播磨国へやって来たアメノヒボコは、住む場所をさがしましたが、そのころ播磨国にいた伊和大神(いわのおおかみ)という神様は、とつぜん異国の人がやって来たものですから、
「ここはわたしの国ですから、よそへいってください」
と断りました。

ところがアメノヒボコは、剣で海の水をかき回して大きなうずをつくり、そこへ船をならべて一夜を過ごし、立ち去る気配がありません。その勢いに、伊和大神はおどろきました。

「これはぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。はやく土地をおさえてしまおう。」

大神は、大急ぎで川をさかのぼって行きました。そのとちゅう、ある丘の上で食事をしたのですが、あわてていたので、ごはん粒をたくさんこぼしてしまいました。そこで、その丘を粒丘(いいぼのおか)と呼ぶようになったのが、現在の揖保(いぼ)という地名のはじまりです。

一方のアメノヒボコも、大神と同じように川をさかのぼって行きました。
二人は、現在の宍粟市(しそうし)あたりで山や谷を取り合ったので、このあたりの谷は、ずいぶん曲がってしまったそうです。さらに二人は神前郡多駝里粳岡(福崎町)のあたりでも、軍勢を出して戦ったといいます。
二人の争いは、なかなか勝負がつきませんでした。
「このままではまわりの者が困るだけだ。」
そこで二人は、こんなふうに話し合いました。
「高い山の上から三本ずつ黒葛(くろかずら)を投げて、落ちた場所をそれぞれがおさめる国にしようじゃないか。」

二人はさっそく、但馬国(たじまのくに)と播磨国の境にある藤無山(ふじなしやま)[*6]という山のてっぺんにのぼりました。そこでおたがいに、三本ずつ黒葛を取りました。それを足に乗せて飛ばすのです。
二人は、黒葛を足の上に乗せると、えいっとばかりに足をふりました。
「さて、黒葛はどこまで飛んだか。」と確かめてみると、
「おう、私のは三本とも出石(いずし)に落ちている。」とアメノヒボコがさけびました。
「わしの黒葛は、ひとつは気多郡(けたぐん)、ひとつは夜夫郡(やぶぐん)に落ちているが、あとのひとつは宍粟郡に落ちた。」
伊和大神がさがしていると、「やあ、あんな所に落ちている。」とアメノヒボコが指さしました。
黒葛は反対側、播磨国の宍粟郡(しそうぐん)に落ちていたのです。
アメノヒボコの黒葛がたくさん但馬に落ちていたので、アメノヒボコは但馬国を、伊和大神は播磨国をおさめることにして、二人は別れてゆきました。
ある本では、二人とも本当は藤のつるがほしかったのですが、一本も見つからなかったので、この山が藤無山と呼ばれるようになったと伝えられています。

その後アメノヒボコは但馬国で、伊和大神は播磨国で、それぞれに国造りをしました。アメノヒボコは、亡くなると神様として祭られました。それが現在の出石神社のはじまりだということです。


  • *6志爾蒿(シニダケ=藤無山・ふじなしやま)宍粟市と養父市の播・但国境にあるある山。標高は1139.2m。若杉峠の東にある、大屋スキー場から尾根筋に登るルートが比較的平易だが、ルートによっては難路も多い、熟達者向きの山であります。尾根筋付近は植林地となっています。[*6]扶余…紀元前三世紀から現在の中国吉林市付近にあった最も早くからあった国家。五世紀末に高句麗に降伏して滅亡。[*7]『三国史記』…高麗の編纂した高句麗・百済・新羅の史書。1145年に成立。朝鮮における現存最古の体系的な史書。
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