室町-2 守護大名 山名(やまな)氏

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
[catlist id=34 orderby=title order=asc]

守護大名 山名(やまな)氏

守護 山名氏垣屋氏太田垣氏八木氏田公氏宿南氏
田結庄氏塩冶氏篠部氏丹生氏長氏下津屋氏磯部氏ほか家臣但馬の鉱山但馬征伐大航海時代と世界経済

概 要

国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する守護大名の時代に入ります。荘園・公領に在住する民衆は、村落を形成し、自立を指向していきました。このような村落を惣村といいます。畿内では惣村の形成が著しく、民衆の団結・自立の傾向が強かったのでう。東北・関東・九州ではより広い荘園・公領単位でのゆるやかな村落が形成され、これを郷村と呼ぶこともあります。これら惣村・郷村は高い自治能力を醸成していき、荘園領主から直接、年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が行われることもありました。守護大名の権限強化と惣村・郷村の自立とによって、荘園は次第に解体への道を進んでいくこととなりました。
目次

  1. 山名氏の起源
  2. 南北朝時代と四職
  3. 六分一殿
  4. 此隅山城
  5. 明徳の乱と山名氏の再起
  6. 応永の乱
  7. 生野城

但馬山名勢力図 クリック拡大

山名氏の起源

二つ引両/桐に笹(清和源氏新田氏流)
■山名氏系図
 山名氏は清和源氏の名門・新田氏の一族とされ、新田氏の祖である新田義重の長男、三郎義範(または太郎とも)が本宗を継承せずに上野国多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)に住して山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称して山名氏の祖(山名氏初代)となったとされます。
義範は『平家物語』にみえる山名次郎範義、『源平盛衰記』に山名太郎義範と記されている人物と同一人であろうとされています。さらに『東鑑』にも山名冠者義範の名が見えます。義範は源平の争乱期にあって源氏方として活躍、「平氏追討源氏受領六人」の一人として伊豆守に任じられました。
源姓山名氏の場合、鎌倉幕府草創期に初代義範が活躍したものの、以後、歴史の表面にはほとんどあらわれてこない。おそらく、里見・大井田・大島氏らの新田一族諸氏とともに新田氏を惣領として仰ぎ、多胡郡の領地経営に汗を流していたのであろう。鎌倉時代には、早くから源頼朝に従いて御家人となります(異説では岩松氏と共に足利一門ともいわれるが、それが間違いとも誤りともされるが、真偽の程は謎のままである)。源氏将軍家が三代で断絶してのちの幕府政治は、執権北条氏が次第に実権を掌握していきました。鎌倉時代中期を過ぎるころになると、北条得宗家の専制政治が行われるようになり、幕府創業に活躍した御家人の多くが滅亡あるいは没落していきました。源氏一門では足利氏が勢力を保つばかりで、山名氏の惣領新田氏は衰退を余儀なくされていきました。山名時氏は「初め元弘より以往は、ただ、民百姓の如くにして、上野の山名という所より出侍しかば、渡世の悲しさも、身の程も知りにき」と言っています。つまり足利と縁が生じ五ヶ国の守護に栄進したが、それ以前は関東の地にあって農作業に明け暮れている身分だったのである。素直に自分の前歴を告白しています。しかし、今川貞世(了俊)の著した『難太平記』によれば、民百姓の暮らしをしていたとされていますが、山名氏は鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は、今川貞世がライバルである山名氏を貶めたものと考えられます。山名氏が大きく飛躍するきっかけとなったのは、元弘・建武の争乱でありました。ときの当主山名政氏と嫡男時氏は惣領新田義貞に従って行動したようです。
元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡、翌建武元年に後醍醐天皇の親政による建武の新政が発足しました。倒幕の功労者である新田義貞が勇躍して上洛すると、時氏ら山名一族もそれに従ったようです。ところが、新政の施策は武士らの反発をかい、一方の倒幕の功労者である足利尊氏に武士の期待が寄せられました。やがて、北条氏残党による中先代の乱が起ると、尊氏は天皇の許しを得ないまま東国に下向、乱を鎮圧すると鎌倉に居坐ってしまいました。天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を発向、尊氏は箱根竹の下において官軍を迎え撃ちました。この戦いにおいて、山名政氏・時氏父子は義貞を離れて尊氏に味方して奮戦、尊氏方の勝利に大きく貢献しました。かくして、山名氏は新政に叛旗を翻した尊氏に従って上洛、尊氏が北畠顕家軍に敗れて九州に奔ると、それに従って尊氏の信頼をかちとりました。九州で再起をはたした尊氏が上洛の軍を起こすと、時氏は一方の将として従軍、湊川の合戦、新田義貞軍との戦いに活躍しました。尊氏が京都を制圧すると後醍醐天皇は吉野に奔って南朝をひらかれ、尊氏は北朝を立てて足利幕府を開きました。(南北朝の対立)。建武四年(1337)、時氏の一連の軍功に対して、尊氏は伯耆守護に補任することで報いました。かくして、時氏は山名氏発展の端緒を掴んだのです。二代将軍足利義詮の時代に切り取った領国の安堵を条件に室町幕府に帰順。時氏は因幡国・伯耆国・丹波国・丹後国・美作国の五カ国の守護となりました。

南北朝時代と四職

 暦応四年(1341)、幕府の重臣で出雲・隠岐両国の守護職塩冶(えんや)高貞が尊氏に謀反を起こし、領国に走るという事件が起りました。時氏は嫡男の師義とともに高貞を追撃すると出雲において高貞を誅しました。その功績によって、時氏は出雲・隠岐、さらに丹後の守護職に補任されました。高貞の謀反は、幕府執事高師直(こうのうじなお)が高貞の妻に想いを寄せたことが原因といわれますが、真相は不明です。その後、出雲・隠岐守護職は高貞と同族である佐々木高氏(道誉)が任じられ、時氏は丹波守護に補任されました。そして、貞和二年(1345)には侍所の頭人(所司)に任じられ、山名氏は赤松・一色・京極氏と並んで四職の一に数えられる幕府重臣へと成り上がりました。

やがて尊氏の弟直義と執事師直の対立から、幕府は直義派と師直=尊氏派とに二分され、観応元年(1350)、観応の擾乱が勃発しました。擾乱は師直の敗北、さらに直義の死によって終息したが、幕府内部の抗争により時代はさらに混乱の度を深めていきました。はじめ時氏は尊氏に味方していましたが、のちに直義派に転じ、直義が謀殺されたときは任国の伯耆に戻っていました。時氏は義詮方の重鎮である出雲守護職佐々木道誉をたのんで尊氏方への復帰を画策しましたが、道誉の態度はすげなく、腹をくくった時氏・師義らは出雲に侵攻すると出雲と隠岐を制圧しました。

山陰地方に大勢力を築いた時氏らは、南朝方と呼応して文和二年(1353)には京に攻め入り、京を支配下におきました。そして、直義の養子である直冬に通じて義詮方と対抗しました。以後、直冬党として幕府と対立を続けましたが、貞治二年(1363)、安芸・備後で直冬が敗れて勢力を失うと、大内氏につづいて幕府に帰順しました。帰順の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、「多くの所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかれけれ」と不満の声が高かったと伝えられています。いずれにしろ、幕府の内訌、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったのです。
時氏には嫡男の師義を頭に多くの男子があり、子供らの代になると山名氏の守護領国はさらに拡大されることになりました。

山名時氏(六分一殿、但馬山名初代)

応安三年(1370)、山名時氏(ときうじ)は師義(もろよし)に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は、但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分け与えました。永和二年(1376)、弟時義も若年より父時氏に従って兄師義らとともに行動、いちはやく上洛を果たして幕府の要職の地位にありました。師義死去のときは伯耆守護でしたが、家督を継いだ時義は但馬守護職にも任じ、さらに、備後・隠岐の守護職も兼帯しました。
山名時氏が没すると山名一族は大きく躍進、

  • 惣領を継いだ長男の師義は丹後国・伯耆国、
  • 次男の義理は紀伊国、
  • 三男の氏冬は因幡国、
  • 四男の氏清は丹波国・山城国・和泉国、
  • 五男の時義は美作国・但馬国・備後国
    の守護となりました。
    師義の子の満幸は新たに播磨国の守護職も得ています。このころの但馬は、古くからの守護太田氏が亡び、幕府から新しい守護も任命されましたが、南北朝の争乱で実権はなく有名無実のありさまでした。古くからの豪族で出石氏や太田氏の支族もありましたが、南北朝に分かれての戦いが但馬でも繰り返され、土地の武士たちも、その時々に応じて実力のある側について左右するありさまでした。
    そのうちにとなりの因幡・伯耆をもつ新しい勢力の山名氏の力が次第に伸び、大きな合戦もないまま、但馬の豪族はこれに従い、完全に山名の支配下に置かれたようです。但馬を手に入れて守護となった時義は、本拠を宮内(豊岡市出石町)において此隅城(このすみじょう)を築きました。但馬の本拠をここに定めたのは、天日槍(あめのひぼこ)の昔から但馬の中心地で、但馬一の宮の出石神社があり、歴史的な中心地だったからだと考えられます。
    時義は父時氏が亡くなったあと、惣領職を継いで山名の宗本家となり、山名一族の勢力も強大になりました。「明徳記」という本には「山名伊予守時義但馬に在国して京都の御成敗にも応ぜず雅意(自分の心)に任せて振る舞い…」とあるほどでした。時義は多く京都に住んでいたようで、守護代を但馬に送っていた記録もあります。時義は風流な戦国の武将だったらしく、此隅城の北の神美村長谷の荒原に咲くカキツバタの美しい眺めが好きで、有名な三河の八橋になぞらえて楽しんだと伝えられますが、病気にかかって若くして亡くなりました。
    そのあとを継いだ時熈(ときひろ)のころには、山名一族の勢力はさらに大きく伸びて、全国六十余州のうち、十一ヶ国の守護をかね世に「六分一殿」と呼ばれました。

応永の乱

 応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、周防国・長門国・石見国の守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こして堺に篭城して滅ぼされた事件です。
室町幕府の将軍は有力守護大名の連合に擁立されており、その権力は弱体なものでした。三代将軍足利義満はその強化を図りました。花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強して将軍権力を強化しました。また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379年)、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させ(康暦の政変)、康応元年(1389年)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下します(土岐康行の乱)。そして、明徳2年(1391年)、11カ国の守護となり『六分の一殿』と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙と氏幸の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させました。さらに、氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込み滅ぼしました。これによって、山名氏は3カ国を残すのみとなってしまいました(明徳の乱)。
山名氏が大きく勢力を後退させたのち、にわかに勢力を伸張したのは大内義弘でした。明徳の乱で義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられました。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになりました。義弘は明徳の乱に氏清勢を撃退する抜群の功を挙げ、和泉・紀伊両国の守護職に任じられ、一躍六ヶ国の守護職を兼帯しました。さらに領内の博多と堺の両港による貿易で富を築くと、その勢力を背景として南北朝統一の根回しを行い、その実現によって得意絶頂を迎えました。義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていきました。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていました。
周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘いました。有力守護大名の弱体化を策する義満は、大内義弘の存在を目障りに思うようになり、両者の間には次第に緊張がみなぎるようになりました。ついに義満打倒を決した義弘は、鎌倉公方足利満兼、美濃の土岐氏、近江の京極氏らと結び、これに旧南朝方諸将も加担しました。さらに、山名氏清の子宮田時清が丹波で呼応しました。かくして、応永六年(1399)、堺に拠った義弘は義満打倒の兵を挙げたのです。乱は幕府軍の勝利に帰し、これにより義満を頂点に戴く幕府体制が確立されました。応永の乱に際して、但馬兵を率いた時熙は丹波に出兵して宮田時清を撃退。さらに堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、時熙は備後守護を与えられました。
垣屋氏は山名氏の上洛に従って西上した土屋一族で、時熙に味方した垣屋弾正は、乱戦のなかであやうく命を落としかけた時熙を助けて壮烈な討死を遂げました。弾正は明徳の乱を引き起こした張本人は時熙であり、世間の目も時熙に辛辣でした。ここは誰かが勇戦して討死、山名氏の名誉回復を図るべしとして、死装束をして合戦に臨んだと伝えられています。果たして、弾正の壮烈な討死によって、時熙はおおいに名誉を回復することができたのでした。この弾正の功によって垣屋氏は、没落した土屋氏に代わって一躍山名氏家中に重きをなすようになりました。一方、応永の乱で活躍した太田垣氏は、乱後、但馬守護代に抜擢されました。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が備後守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられました。こうして、垣屋氏・大田垣氏は山名氏の双璧に台頭、のちに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されることになります。その後、時熙は幕府内における地位を確立するとともに、但馬・因幡・伯耆に加えて、備前・石見・安芸守護職を山名氏一族で有するに至りました。時熙は将軍義満、義持に仕え、山名氏の勢力を回復していったのです。正長元年(1428)、義持が病死したとき、すでに嫡男の義量は亡くなっていたため、つぎの将軍を籤引きで選ぶことになりました。この件にもっとも深く関与したのは三宝院満済と管領畠山満家、そして山名時熙でした。このころになって、山名氏は、その国をもとに伯耆山名・因幡山名・但馬山名の三国に分かれた形をとりますが、その主流はやはり但馬山名でした。この時熈のころ、その帰依を受けた大機禅師により、此隅城下に多くの寺院が創建されました。
神美村長谷の大安寺、倉見の宝勝寺、森尾の盛重寺がそれです。また宮内に宗鏡寺や願成寺が建てられたのもこの頃だと考えられます。そのほか宮内の惣持寺にも篤い信仰を寄せており、時熈の一面がうかがわれます。これらの寺院はその後山名氏の保護の元に栄えますが、山名が亡ぶとともに衰え、現在ではなくなったものもあります。
▲ページTOPへ

此隅山城(このすみやまじょう)

 此隅山城は、兵庫県豊岡市の出石坪井にある山城。のちに別名「子盗城(こぬすみじょう)」と呼ばれましたが、これは不吉な呼び方としてのちに築城した城には有子(こあり)山城と名づけています。国指定史跡。文中年間(1372)ころ、但馬一の宮・出石神社に近い、北西にある独立した丘陵、標高140mの此隅山に山名時義が築城しました。南は気多郡・播磨方面、西方は豊岡・因幡方面、東方は丹後・丹波の三方が見渡せる山頂にあり、主郭は東西10-15m×南北50mで北西側に高さ2mの段差で区画された西郭があり、また南側には高さ3mの切岸で区画された郭が3-4段配置され、この部分が城の中枢と考えられます。大手は南麓から主郭南側に繋がるコースが想定されます。

此隅山城は但馬守護職に補任された時熙が、この頃に築いたと考えられます。以後山名氏の居城となりました。応仁元年(1467年)、応仁の乱が始まると、此隅山城には各国から2万6000騎の西軍の軍勢が集まり、山名宗全は当城から京都へ出陣しました。永禄12年(1569年)、山名祐豊の時、羽柴秀吉に攻められ落城。祐豊は、より高所にある有子山城に居城を移し、城は廃城となりました。
そして時義の築いた此隅城は、規模こそ大きなものではありませんが、その占める意味は山名王国の首都ともいえる地位にあり、応仁の乱などで京都に出陣する時には、その大根拠地となり、宮内を中心にいちど兵力を結集してから隊をつくって出陣したといわれます。
持豊(宗全)が家督を継いで間のない永享八年(1436)、出石神社に奉納した願いの文が神床家に伝わっており「自分が父祖重代の後を継ぎ、親族の首領に立ったが、神明の助けがなければつとまりません。なにぶんお加護をお願いします。」とあり、これは山名宗本家の首領となった持豊(宗全)が但馬の一の宮に祈願したものです。
持豊(宗全)はほとんど京都におりましたが、享徳三年(1454)ごろには但馬に在国しております。これは最大の勢力となった持豊(宗全)に将軍義政が脅威を感じて討伐しようとしたのですが、のちに応仁の乱で対立する細川勝元の計らいで中止されます。そのため将軍から「但馬に在国して上洛すべからず。」と命じられ、本国の但馬に帰って、かわりにこの教豊(のりとよ)を京都に出仕させました。

明徳の乱と山名氏の再起

しかし、「満つれば欠くる」のたとえもある如く、一族が分立したことは内訌の要因になるのでした。さらに、三代将軍足利義満は強大化した山名氏の存在を危惧するようになり、ついにはその勢力削減を考えるようになりました。そのような状況下の康応元年(1389)、惣領の時義が四十四歳の壮年で死去しました。その子の義幸、氏之、義熈、満幸は若年であったため、中継ぎとして弟の時義が惣領となりました。これに対して、長男の氏清とその婿の満幸が不満を示します。こうして、さしもの隆盛を誇った山名氏も、将軍義満の巧みな謀略にのせられて大きく勢力を後退させたのでした。とはいえ、但馬・伯耆・因幡は山名氏の勢力が浸透していた地域であったことは、山名氏にとっては不幸中の幸いでした。 氏清の弟・山名時義が後を継いで山名氏の総領となり、氏清は丹波、和泉を領する守護に命じられましたが、総領になれなかったことに不満を持ち、時義と常に対立していたといいます。
明徳元年(1390年)三月、山名一族で時熈に対立する満幸と叔父の氏清が、時熈を将軍義満にざん訴しました。義満は待っていたとばかりに、時義が生前将軍に対して不遜であり、後を継いだ時熙とその弟の氏幸も不遜な態度が目立つとして、討ち手の大軍を但馬に送り、時熈と氏幸の討伐を命じました。義満が山名氏の勢力削減を狙った策謀であることは明白でしたが、氏清は「一家の者を退治することは当家滅亡の基であるが、上意故随わざるを得ぬ。しかしいずれ二人が嘆願しても許されることはないか?」と確認したうえで出陣しました。
時熙と氏幸は挙兵して戦いますが、氏清が時熙の本拠但馬、満幸が氏幸の本拠伯耆を攻め、翌明徳2年(1391年)に時熙は但馬を逃れ、剃髪して備後に引きこもりました。戦功として氏清には但馬国と山城国、満幸には伯耆国と隠岐国の守護職が新たに与えられました。
ここで勢力を占めた満幸は、勢いに乗って出雲にある京都の仙洞御所領(上皇の領地)を占領しました。なおも山名氏の分裂を策する将軍義満は、許しを乞うた時熙・氏之らを赦免、代わりに今度は氏清・満幸らを挑発しました。義満の不義に怒った氏清は満幸・義理らを誘い、南朝方に通じて大義名分を得ると、明徳二年の暮に京へと進撃しました。これが明徳の乱です。そして元中8年・明徳2年(1391年)、氏清は足利義満の挑発に乗って一族の山名満幸・山名義理とともに挙兵(明徳の乱)、同年12月には京都へ攻め入るも、幕府軍の反攻にあって氏清は戦死、満幸は敗走、義理は出家という結果になりました。この満幸を討つために、備後に引きこもっていた時熈らを許し、幕府軍と協力して討伐に当たらせました。
この乱によって、但馬国衆は山名氏清方と山名時熙方に分かれて相分かれて戦ったことで、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていました。したがって、優秀な人材に対する時熈の期待は大きかったのでした。時熈は奮戦めざましく、満幸軍を破って敗走させました。この戦いで時熈の家来垣屋弾正は、弥陀(みだ)の名号や曼陀羅を袋に入れて首にかけて戦い、時熈が強敵八騎に取り囲まれて危ないところを救い出し、自分は戦死するなどめざましい働きをしました。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、山名時熙の但馬守護職、同じく時義の子・氏幸の因幡守護職のみとなり、因幡山名家と但馬山名氏が対立していたことが窺え、一族は大幅にその勢力を減ずるに至ったのです。この明徳の乱で、氏清は斬られ満幸は敗れ、時熙に但馬国守護として山名の惣領に返り咲きました。氏幸に伯耆国、氏冬に因幡国の守護職がそれぞれ安堵されました。但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、家臣団の人材不足は深刻でした。そのようななかで、頭角をあらわしたのが垣屋氏と太田垣氏で、垣屋氏は土屋氏の庶流、太田垣氏は日下部一族の末流で、山名氏家臣団には大きな逆転現象が起こったのです。この状況にあって急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけたのです。
▲ページTOPへ

生野城(古城山=いくのじょう)

足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。応永三十四年(1427)十月、四職のひとりである赤松満祐(みつすけ)が、父義則の三十五回忌の法要仏事を赤松家の菩提寺である東山龍徳寺で行っておりました。その時、将軍義持の使者として、南禅寺の長老が来て一通の書状を手渡しました。その文面は赤松満祐の領地播磨国を足利将軍の直轄地として、そこの代官職を分家筋にあたる赤松持貞に代えるという思いがけないものであったのです。これにはいろいろ原因があるのですが、つまりは満祐は将軍義持に嫌われており、その間に立って持貞がうまく将軍に取り入っていたことのよるものと伝えられています。

この意外な書状を読んだ満祐は、たとえ父が死んだといっても播磨国は祖父円心以来立派に治めてきた土地であるから、領地を取り上げられることは許してもらいたいと、たびたび願ったのですが、ついに聞き入れてもらえなかったのです。そこで満祐も仕方なくこれに従うことを伝え、その日の仏事を住ませたのち自分の屋敷に帰り、決心して多くの財宝を召使いの者に分けた与え、屋敷には火をかけ焼き払い、夜にまぎれて本国の播磨へ引き上げてしまいました。
これを知った将軍義持はたいそう怒って、「播磨一国を取り上げてもまだ備前・美作の二国があるにもかかわらず、このような反抗は許し難い。残る一国も他の赤松家に与え、満祐を討伐せよ。」
ということになって、その命令が山名時熈(ときひろ)と一色義貫(よしつら)に下ったのです。しかし、一色は様子を見るために出発しなかったようです。

山名時熈は将軍義持の命に従い、すぐに京都から本国の但馬に帰り、赤松満祐討伐のため、播但の要衝である生野を選び、その北にそびえる標高六百mの山上に城を築きました。「銀山旧記」という古文書によりますと、「ここ二十間(約36m)四方の居所を構え、尾崎尾崎に物見をつけ、厳重の要害なり。」と書かれています。これから考えてみますと山上に“館(たて)”といわれるような建物を造り、その尾根続きの要所には見張所も構えていたものと思われます。こうした陣をしいて敵方の様子をうかがっていたわけで、時に応永三十四年(1427)の十一月も末頃のことといわれています。
一方播磨国に引き上げた赤松満佑は、一族を集めて本拠の白旗城に立てこもり、戦いの体制を整えながらも、今一度将軍義持にあてて、「自分の所領地は播磨一国でいいから、先祖から受け継いだ土地として相続させてもらいたい。そしてこの度の軽率な行動は深くお詫びするから許してほしい。」という書状を送ったのですが、将軍義持は承知しませんでした。
ところが、そのころになって、今まで将軍義持のお気に入りであった分家筋の赤松持貞がおごりにふけって良よからぬことをしていたことがわかり、将軍義持は大へん怒って持貞に切腹を命じ、それまで憎んでいた満祐に対して心機一転その謀反の罪を許すことになりました。また、管領畠山氏のすすめで、満祐もとりあえず家臣を名代として京都へ送り幕府にあやまり、自分も十二月中ごろに上洛して、謀反の罪を詫びましたので、ことは無事に治まり、満祐は父の後を継ぎ播磨国を治めることができ、とにかく落ち着いたのです。

こうしたことで、生野城砦にいた山名時熈は、かねがね尊敬していた黒川村大明寺の月庵和尚の墓に参って、新しく香華を供えたと伝えられています。山城跡は“御主殿”とも“古城山”とも呼ばれ、その雄大な姿は生野小学校校歌にも取り入れて歌われ、生野銀山発祥の地として郷土史に輝いているのです。
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

▲ページTOPへ

室町薄群青(うすぐんじょう)#5383c3最初のページ戻る次へ
Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reser E-mail

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください