室町-3 垣屋(かきや)氏

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

垣屋(かきや)氏

概要

垣屋氏(かきやうじ)は、桓武平氏の分家であり、のちに山名氏、脇坂氏の家老の家系です。以下では但馬垣屋氏について書きます。

垣屋氏の起源


七 曜 (桓武平氏土屋氏流?)
武家家伝さん
鎌倉時代から室町時代になり、但馬でも守護が大名として国を治める武家社会に移行します。但馬国では山名氏が山名四天王と呼ばれる重鎮たちと治めることとなりました。出石に本拠を構える山名氏と豊岡を治める田結庄(たいのしょう)氏、朝来郡を治める太田垣氏、養父郡を治める八木氏、そして気多・美含郡を治めたのが垣屋氏です。垣屋氏は山名四天王の中で唯一の山名家直参です。

垣屋氏は山名氏同様、但馬生え抜きの武士ではありません。垣屋氏は山名氏の支流ともいわれ、山名時氏(ときうじ)に従って関東から移り住んだ山名氏譜代の家臣といわれてきました。しかし、山名時氏時代に垣屋氏の名前は表われていません。それは、もともと垣屋氏は土屋姓だったからです。「土屋越中前司豊春寿像賛」は、天隠龍沢がしたためたものですが、そのなかで豊春について「人は垣屋と称するが、自らは土屋を号しています。また源氏の山名氏に仕えていますが、本姓は平氏なのだといっている」と記しています。

土屋氏は、相模国大住郡土屋邑を本貫地とする関東の武門の名門の一つ土屋党です。垣屋氏は土屋氏分流のひとつで、時氏の時代は土屋姓を称していたのでしょう。ちなみに関東から山名時氏に従って、但馬に移り住んだ土屋党は垣屋氏だけではありません。『明徳記』によれば、山名満幸の手に属して内野で討死した土屋党が五十三人もいたと記しています。

山名時氏は自らを「初め元弘より以往は、ただ、民百姓の如くにして、上野の山名という所より出侍しかば、渡世の悲しさも、身の程も知りにき」と言っています。つまり足利と縁が生じ五ヶ国の守護に栄進しますが、それ以前は関東の地にあって農作業に明け暮れている身分だったのです。素直に自分の前歴を告白していますが、因幡の垣屋氏に伝来している『垣屋系図』には、垣屋は自分の出自を誇示しようとして、千葉の本流だと称し、系図の上で名族と関係あるらしく見せようとして、つじつまの合わない粉飾をしているといいます。
しかし山名時氏に見えるように小百姓だったかといえば、そうとは言い切れない面もあります。『垣屋系図』によると垣屋家は、典型的な桓武平氏の分家で、千葉氏の分流だということになっています。高望王の7代後にあたる平継遠が上総に移り住んで、「土屋」から「垣屋」と名乗ったことが始まりとされています。山名氏、脇坂氏の家老の家系です。「垣屋」は時代によって「柿屋」とも「垣谷」とも書きますが、約180年の間に世代は十六代を数えます。180年間に十六世代ということは、一世代の平均はわずか十二年ということになるので、系図は無理なこじつけをしているといわれても仕方がありません。

『垣屋系図』以外に、紀伊の垣屋家のものは、先祖を平氏となし、伯耆の人と記しているし、龍野の垣屋氏のものは、本姓は源氏で、山名が但馬守護となって但馬に居着いてから、分流したものだといい、異本が多いようです。
さて、観応の乱と呼ばれる足利一門の内紛が、一応のけりがついたのが1352(観応三)年です。この紛糾の間に、今川頼貞は、但馬から足利直義党を完全に追い落としました。守護となった頼貞は、三方楽々前(ササノクマ)を拠点としていたらしいです。楽々前は既に鎌倉時代には、但馬守護太田氏の守護領として記録に現れ、足利尊氏によって補任された今川頼貞が、安田修理氏義に楽々前南荘の一部を与え地頭職としました。

しかし、やがて但馬は完全に山名時氏のものとなっていきます。安田氏が尊氏党に属していち早く但馬入りをなし、足がかりを得ていたのに対して、おそらく同郷であったと思われる垣屋は、山名時氏に付して但馬にやって来ています。『垣屋系図』によると、その人は垣屋重教で、ます城崎郡奈佐荘亀ヶ崎城主となりました。奈佐岩井荘に養寿院を開基しました。

ところで亀ヶ崎という地名は、現在豊岡市五荘地区の南の山鼻に残っていて、本来は大浜荘の中と考えた方がよい場所です。垣屋重教が山名時氏に従って但馬入りをした時、最初の基地となったのは、この円山川と奈佐川の合流点付近の土地でした。
後になって垣屋続成が安田千松丸に大浜荘半分を与えています。
時氏が死んで、山名時義が家督を継ぎ、出石の此盗山(こぬすみやま)に居城します(山名師義(もろよし)とも)。この代に至って初めて山名氏が但馬を完全掌握します。山名の勢威は急速に伸び、一族の有する所領は山陰をはじめ十一ヶ国を数え、世に六分一殿と称せられほどになります。
垣屋氏は、但馬八木氏と縁戚関係にありました。戦国末期、垣屋信貞は八木豊信の婿養子となり、八木氏の家督を継いでいます。

室町時代前期


楽々前城跡
城主:垣屋弾正~遠江入道(熙忠)・越前守熙知

写真左側斜面。後方は蘇武岳。ここから当方の宵田城まで尾根づたいにつながる。戦後まで楽々前城から宵田城までに隧道で結ばれていたが、関電の道場ダム・岩中発電所建設工事の際に消滅してしまった。康応元年(1389)、山名時義が死に、23歳で子の時熙(ときひろ)が宗家を継ぎました。山名の強大を嫌った足利義満は、一族の時熙、氏幸と満幸との内紛を利用して、山名氏清らを挑発したので、氏清らが明徳二年(1391)の年末、挙兵します(明徳の乱)。義満は直ちに細川、畠山、大内氏らに命じて討伐させました。時熙は、敵方となった同族の山名と区別するために、篠の葉を旗竿の上に付けて戦いました。垣屋弾正(頼忠)は、山名時熙に従って参戦し、ついに討ち死にします。

垣屋弾正は、「合戦の勝敗はともかく、明日の軍に、一番に討ち死にを仕えるべし。後の事は、幸福丸という九歳の子供を引き立てて欲しい」と述べ、弥陀の名号と阿字本来の曼陀羅を錦の袋に入れて死出の装束をなしていました。翌日の晦日の合戦に、時熙主従八騎が取り囲まれて危なく見えたところに、垣屋は、滑良兵庫と共に突入し、身代わりとなって戦死しました。この戦いで敗れ、十一ヶ国を有した山名の所領は分解し、山名は但馬・因幡・伯耆の三ヵ国を残すのみとなりました。この乱を機に、山名宗家は時熙の系に固定し、笹葉の下に「○二」を配した家紋を、宗家を誇示する標識としました。
時熙の分国が但馬一国となったということは、かえって従来以上に緊密に但馬を掌握することになりました。

室町時代後期


鶴ヶ峰 神鍋方面へ車で向かうと目前に目立つ山が別名三方富士
鶴ヶ峰城(亀城)があった。

明徳の乱以来、山名時熈(ときひろ)は垣屋弾正時忠の忠節に感銘し、その子幸福丸(のちの垣屋隆国)を気多郡代に任じました。

宵田城はそれより前に築城されていましたが、郡のほぼ中央にあり最適の地であったと思われます。
日高(高生・たこう)平野の南に突き出た佐田連山の東端にある山城で、北に祢布城(にょうじょう)・国分寺城、北北西に水生(みずのお)城、北西に伊福(ゆう)城、日高・高生田が一面に見渡せ、岩山の急斜面があり、ふもとを流れる円山川の支流稲葉川が自然の堀となって、最高の条件に恵まれていました。稲葉川が東向きから急に南方に向きを変えるところにつくられており、気多郡の要として重要な位置にあります。楽々前城からのなだらかな稜線が続く形から南龍城とも呼ばれました。

幸福丸は播磨守隆国と名を改め、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前(ささのくま)城を築き、自らはここに移り住み、宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主にしました。
本丸の跡は300mの頂上にありましたが、今は荒れ果てていて雑木が生い茂っています。ここから本拠の楽々前(ささのくま)城まで尾根づたいにつながっていたといわれています。

佐田から宵田までに道場の風穴といわれるところがあり、道場の人々は、夏ここを冷蔵庫の代用に使ったといわれています。ところが、昭和30年12月、宵田城近くに岩中発電所工事が進められ、昭和31年12月に完成、道場から水を取り、山の中を水道トンネルにしました。この工事中、城の抜け穴と思われる穴を埋めたところ、この風穴は冷たい風がぴたりと止まったそうです。城の抜け穴を通ってきた冷風だったのではないでしょうか。考古的な価値がさけばれなかった頃ですので、今となっては悔やまれます。

着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなります。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てました。
隆国の子である越前守熙続(長男満成)は三方地区楽々前に、 越中守熙知(次男国重)は平野部に近い宵田城に、駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡竹野轟城を本拠とするようになります。三兄弟のうち、長子熙続、二子熙知はともに主君山名時熙の偏諱(へんき)*1を受けたもので、垣屋氏に対する時熙の信頼がいかに篤かったかを示すものです。

嘉吉の乱の恩賞で山名宗全が播磨守護職を賜ったとき、その代官として播磨守護代に任命されたのは垣屋越前守熙続であった。熙続の名は『但馬大岡寺文書』にもみえる。しかし『校補但馬考』がもっとも整然としているとする『因幡垣屋系図』には越中守豊春も越前守熙続もその名を欠いており、おそらく、この頃の垣屋氏は多くの庶子家を抱える巨大な武士団を構成していたようです。何はともあれ、垣屋が山名の守護代を勤める地位にのし上がっていることは注目しなければなりません。

*1偏諱(へんき)…上位者が下位者に諱(いみな)(本名)を一字与える事を偏諱の下賜と言い、中世以降、公家、武家社会において広く行われた。

隆国寺

垣屋家菩提寺 布金山隆国寺

隆国寺

宗派 曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏隆国寺は、室町時代の開基で、山名の四天王筆頭といわれた垣屋播磨守隆国公の菩提寺と伝わっています。実質開基ともいわれる光成公は、策彦周良和尚から、天正4年(1576)に「悦岩」道号記を授かっています。策彦和尚は遣明使節団の団長もつとめており、中国から持ち帰った牡丹を和尚から道号記とともに贈られたのが、 隆国寺と牡丹の縁の始まりといわれています。元和9年(1623)に金山より現在に移された。

何時、誰の手によって造られたかはっきりしありません。『但馬考』は、楽々前城主播磨守隆国の開基で、初め楽々前の城門にあり、泰孝山隆国寺と号していましたが、楽々前落城の後、寺を阿瀬谷金山に遷し、布金山隆国寺と号したと記しています。『三方村誌稿』も、隆国開基説を採用して、むかし、楽々前城主播磨守隆国、一寺を創立し、安養山西方寺と称していたが、楽々前落城の後、その支族なる、知見村垣谷氏の祖、之を羽尻村の支郷、金山字寺谷に移した。時に鉱山盛時に当り、砂金を産出したので布金山長者峯と号し、開基の名をとって隆国寺と改めたという。これに対して『垣屋系図』は、隆国の子、満成が、宝徳元年(1449)、金山村に隆国寺を建立し、また別に安養山西方寺も開基したとしています。

『日高町史』ではさらにこう記しています。「隆国寺は、垣屋満成が父母のために建てた寺ではないようだし、
それかといって隆国が建てた寺だとも言い切れない面もあります。それと言うのも、垣屋隆国その人の名前が出てくるのは、『垣屋系図』だけであって、隆国の存世を裏付ける資料が、何一つとして見いだせないからだ。とはいえ、実在説も一方でささやかれています。それは『但馬考』の説で、隆国の幼名を幸福丸だと考えていることがそれだ。即ち、死出への戦いに当たって、ただ一つ気にしたのは、九歳になるわが子の幸福丸の将来であったと、『明徳記』は記しています。嘉吉元年(1441)五十八歳で死したとも記載しているから、逆算すれば、父、時忠が死んだ明徳二年(1391)は、丁度九歳ということになるので、但馬考では明徳記に記載する九歳の幸福丸は、この隆国の幼名だと考えるのです。」

阿瀬金銀山

垣屋家が山名四天王の中でも最も栄えたのは、前出の明徳2年(1391年)明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清・山名満幸に属したのに対し、山名時熙方に属したのは垣屋氏だけだったことが発端とされています。その結果、垣屋氏は躍進を遂げることになります。このとき、垣屋家は10万石以上を手にしたとされており、これを垣屋氏の最盛期であると判定されます。垣屋は弾正の子、隆国になって、山名の所領、三方荘の楽々前城主となりますが、恐らく明徳の乱の垣屋弾正の忠死に報いるため、隆国に楽々前の地をあてがったとしたら頷けます。

さて、所領の三方荘阿瀬谷から金や銀が発見されました。その時期については、異説があって一定しませんが、永禄五年(1562)、阿瀬谷のクワザコから銀が産出したといい、金の発見は文禄四年(1595)、川底に光る砂金の輝きを見つけたのが機となったとも伝えています。しかし、それより約二百年前の応永五年(1398)に既に発見されていたとも言われています。この応永五年説が本当だとすると、これは垣屋にとって重大で幸運な事件でした。この地域を領有することになり、幸運にも金銀山を支配下に治めたということで、計り知れない財源を提供することとなりました。

のちに、但馬守護の山名氏や、家臣太田垣氏が、生野銀山の経営に手を染めるのは、記録では、天文十一年(1542)といいますから、それに先立つ130年前に、垣屋は銀山経営に乗り出していたことになります。何はともあれこの鉱山資源を背景にして、垣屋は山名の最高家臣の地位を得るし、金山の地に、布金山隆国寺を移建することができました。生野鉱山が発見されたのは807年(大同2年)と伝えられていますが、詳しい文献資料がなく、正確な時期は不明です。 天文11年(1542)、「銀山旧記」によると、山名祐豊が銀山を支配し生野城を築き盛んに操業したとされています。

駿河守豊茂(三男国時)は気多郡と背中合わせの美含郡椒荘(はじかみのしょう)に竹野轟(とどろき)城を本拠とするようになりました。これは神鍋山を背に北部但馬に対する防衛拠点であると同時に、椒に段金山鉱山、金原鉱山が見つかったことにも関係あるのではないでしょうか。

伊福(ゆう=鶴岡)の大庄屋の書記をしていた赤木一郎右衛門光明が書いた「御代官様歴代記」のなかに、永禄五年(1562)に足利十三代将軍義輝に金を献上したことが記されています。さらに、天文十一年(1542)に生野銀山が、天正元年(1573)に中瀬金山のことが記録されています。したがって、金山の発展に目をつけたのが垣屋弾正満成(みつしげ)だと記録の通りに考えると、百年余りの差がありますが、金がぼつぼつ出ていたので、ここに寺を建立したことも考えられます。この時代には、将軍をはじめ大名、小名がそれぞれ寺院を建てていますが、時代の風潮であったと考えられます。

垣屋氏と山名氏の対立

●嘉吉の乱と山名氏の衰退

山名氏は嘉吉の乱で守護領国となっていた播磨や備前では、応仁の乱を期に回復した赤松政則が占拠している状況にあいました。山名氏と赤松氏はいわば犬猿の仲です。山名政豊は、旧領回復のため、文明15年(1483年)に赤松家の内紛に乗じて播磨に出兵します。当初は真弓峠の戦いで大勝したものの、文明17年(1485年)以降は劣勢となり、長享2年(1488年)には政則に敗れて(坂本の戦い)、播磨における影響力を失うに至りました。

赤松は六千、山名は三万の軍隊を投入していました。圧倒的な大軍にかかわらず、山名が負けたのは、布陣を誤り、垣屋の陣所、森岡城が攻撃を受けている時に、山名政豊は遠く離れた書写坂本城(姫路市)にいて、援軍を出すすべも及ばなかったためです。その後も播磨で山名と赤松との間に一進一退の戦いを展開するが、文明十八年(1486)、英賀の戦いには、山名勢は敗北、垣屋越中守、惣右衛門など数十人が討ち死にしてしまいました。

つまり、前年の戦いに次いで良国のみが一人残されました。先に文明8・9・12年にわたって、隆国の三子が相次いで他界しました。

さらに同年四月、書写坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められました。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていきました。

窮地に陥った政豊は但馬への帰還を願いましたが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めました。さらに嫡男の俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔りました。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となりました。但馬国衆まもとより俊豊を擁する備後国衆らは背を向けました。なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代の垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じていました。備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督として振舞っていたようです。ところが、明応の政変によって将軍足利義材が失脚、義材に従って河内に出陣していた俊豊は窮地に陥りました。ただちに但馬に帰った俊豊でしたが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となっていました。
垣屋続成は明応二年(1493)、山名俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として実質的に山名領国の経営を担うようになります。

永正九年(1512)居城を楽々前城から鶴ケ峰城(日高町観音寺)に移し、ここを垣屋本流の拠点としました。楽々前城よりも標高が高く、山名氏の本城をはじめ四方が見渡せるからでしょう。こうした中、轟城主系の垣屋には戦死者が出なかったのが、せめてもの救いでした。
天正になると、山名氏の衰退とともに、西に毛利氏、東に織田氏が台頭すると、四天王たちは独立色を強め、二派に分かれ抗争を繰り広げ、山名氏の衰退をさらに加速させました。
垣屋続成の子が播磨守光成で、光成は八木・田公・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って主君である山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁立して但馬の領国経営の実権を握ります。以後、垣屋光成・太田垣輝延・八木豊信・田結庄是義等四頭が割拠し但馬を四分割しました。
この後、「野田合戦」が起きます。

参考略系図
				 
	   7代後  |垣屋
平 高望・・平 継遠・・重 教━━━時 忠━━━┓
	       |豊岡市史所蔵『垣屋系図』┃
	    			    ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃	  楽々前城主
┃播磨守  垣屋弾正 筑後守  越前守  越前守
┗隆 国━┳満 成━┳政 忠━┳続 成━┳光 成━┳恒 総
(幸福丸)┃    ┃宗 忠 ┃鶴ヶ峰城主    ┃
	 ┃    ┃    ┗氏 続 ┣信 貞 ┣政 氏
	 ┃    ┃         ┃    ┃
     ┃    ┗豊 成━━豊 知 ┗峰 定 ┗忠 次
     ┃
     ┃宵田城主     ┏某    後楽々前城主
     ┃越中守      ┃     筑後守 隠岐守
     ┣国 重━┳遠 忠━┻良 国━━忠 顕━国 宣━忠 平
     ┃    ┃              峯 信
     ┃    ┗孝 知
     ┃
	 ┃竹野轟城主
	 ┣国 時━┳豊小解━━豊 続━━宗 時━┳豊 実
	 ┃    ┃			     ┃
	 ┗永 喜 ┗豊 経		     ┗兵衛左衛門
	  知見村分


垣屋氏の系図は、『校補但馬考』に「因幡垣屋系図」「紀伊垣屋系図」が収められている。前者は、浦冨の桐山城主垣屋恒総の孫重政が関ヶ原合戦後因幡に帰農し、その子孫が作成したもので、桓武平氏を称している。後者は、同じ垣屋恒総の孫吉綱(光重)が紀州藩に仕え、その子孫が作成したものである。また、轟城主垣屋駿河守家の子孫は、江戸時代に至って龍野藩脇坂家に仕え、駿河守系の系図は「龍野垣屋系図」といわれ、本姓源氏で山名氏の支流としている。

これらのなかで、従来もっとも信頼がおかれ、但馬内の多くの史書に採用されているのが『因幡垣屋系図』である。ところが、この系図も含めて垣屋氏系図全部に共通していることは、第一級古文書史料上にみえる垣屋姓の人物の名前がほとんど見られないことである。これに対し、『校補但馬考』にも採用されていないもうひとつの「紀州垣屋系図」がある。こちらの系図に記されている人名は、文書史料上の名前とよく合致している。この系図は日高町の井垣寿一郎が、和歌山県に照会して入手したもので『但馬志料』に収められた。しかし、古代までさかのぼる系譜でなかったことから『校補但馬考』には採用されなかったといわれる。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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