100年の夢、氷ノ山越え3

●氷ノ山越えと但馬鉄道計画
またそれは別に大正初期に宮津から若桜までの当初の山陰本線最短ルートを実現させようと考えた、とんでもない人物が、「大正の大風呂敷」と言われた我が日高町(当時日高村)だった故藤本俊郎村長である。彼はすでに営業されていた出石軽便鉄道(現存せず)の株主の一人であり、さらに江原駅から村岡へ抜ける鉄道敷設を計画して、江原駅を東西南北を走る交通の要所にしたいという構想である。実際に近隣町村の猛反対にも遭いながら、国会議員の支援も取り付け、軽便鉄道敷設工事は日高町十戸あたりまで完成していく。また丹後山田から加悦まで鉄道は延びており、出石鉄道まで延長するという計画で、藤本村長は旗振り役となり自らも事業家として私財を投げ売り夢見た計画だった。ところが大正の世界的な大恐慌が始まると、敷設工事は不可能となり工事は頓挫してしまう。
そしてその大ロマン但馬鉄道計画の面影を今に伝えているのが、京都府野田川町の北近畿丹後鉄道(旧JR宮津線)丹後山田駅を起点として、加悦町加悦までを走る野田川鉄道と、鳥取県郡家町こおげ駅を起点として若桜町わかさ駅を終点とする若桜鉄道(旧JR若桜線)である。
-参考 日高町史-

舂米(つくよね)神社とわが区のつながり

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さて、平成12年11月19日(日)わたしたち日高町東構区8組(隣保)一行は、東構区舂米神社の本社である鳥取県若桜町舂米(つくよね)を訪れた。(ちょっとお恥ずかしい記念撮影おばっ)

正直に言ってそれほどすごい神さんとは子供時代から最近まで思っていなかったのであるが、氷ノ山を囲む4国の総社であったならすごい神社であるのだ。なお東構の神社では舂米の臼がなぜか旧の時になっていて、本来は若桜町の舂米神社の分社なのだから、臼が正しいのではないのかと思うのだけれど、どうしていつのまにか旧になったのであろうか。また、舂の漢字は存在するが「臼」の部分を「旧」にした漢字は第一、第二水準漢字には存在しない文字だからなのである。