戦国6 織田信長の躍進

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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織田信長の躍進

概 要

目 次
  1. 家督争いから尾張統一
  2. 桶狭間の戦いから清洲同盟へ
  3. 第一次信長包囲網
  4. 第二次信長包囲網

織田信長は、尾張統一を果たし、また徳川家康が独立して戦国大名となります。越前攻め、武田が滅び、安土城を築城。上洛を開始しました。織田軍団が全国制覇に動き出します。
但馬国では永禄十二年(1569)、毛利氏からの要請を入れた織田信長の羽柴秀吉軍が羽柴秀長を指揮官に派遣。与力に藤堂高虎や宮部善祥房らを配属し、二回但馬攻めを行いました。

1.家督争いから尾張統一

 当時、尾張国は守護大名の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡の守護代であった「織田大和守家」当主にして清洲城主・織田信友が実権を掌握していました。
しかし、信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その秀でた智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大していました。信秀の死後、信長が後を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持し、信長と敵対し、信長謀殺計画を企てた。しかし、信友により傀儡(かいらい)にされていた尾張国守護・斯波義統が、その計画を事前に信長に密告しました。これに激怒した信友は、義統の嫡男・斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。
このため、義銀が信長を頼って落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君・義統を殺した謀反人として殺害します。
こうして尾張下四郡の守護代「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めました。織田氏の庶家であった信長が名実ともに織田氏の頭領となりました。叔父の信光も死亡しているが、死因は不明です。弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死しました。信長も道三へ援軍を出したが、間に合わなかったと言われています。こうしたなか、信長の当主としての器量を疑問視した織田氏重臣の林秀貞、林通具、柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた信長の同母弟・信勝を擁立しようとしました。これに対して信長には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方し、両派は対立します。

道三の死去を好機と見た信勝派は同年8月24日、挙兵して信長と戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長は末盛城に籠もった信勝を包囲しますが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免しました。しかし、弘治3年(1557年)、信勝は再び謀反を企てます。このとき、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病いと称して信勝を清洲城に誘い出し殺害しました。

こうして信長は、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立しました。

2.桶狭間の戦いから清洲同盟へ

 織田信長は、尾張統一を果たした翌年・永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いののち今川氏を破り、今川氏の支配から三河国の徳川家康が独立して戦国大名となります。永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化していました。その際、信長は妹・市を輿入れさせました。永禄9年(1566年)には美濃の多くの諸城を戦いと調略によって手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家直元、安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳でした。このとき、井ノ口を岐阜と改称しています。また、この頃から『天下布武』の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになりました。

このころ中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者・三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀が、室町幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた第13代将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立します(永禄の変)。久秀らはさらに義輝の弟・足利義昭の暗殺も謀ったが、義昭は細川藤孝、和田惟政ら幕臣の支援を受けて京都から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていました。

永禄11年(1568年)9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始しました。こうして、三好長慶以来中央政治を牛耳っていた三好・松永政権は、信長の電撃的な上洛によってわずか半月で崩壊し、代わって足利義昭を第15代将軍として擁立した信長による織田政権が誕生しました。

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍権力を制限するため、「殿中御掟」9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになっていくことになります。元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、織田・徳川連合軍は朝倉方の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで北近江の盟友であった浅井長政に背後を突かれるかたちとなってしまいます。突然の窮地に追い込まれた信長であったが、殿(しんがり)を務めた池田勝正・明智光秀・木下(藤吉郎改め)秀吉・徳川家康らの働き(金ヶ崎の退き口)もあり、なんとか京に逃れた。信長が京に帰還したとき、従う者はわずか10名ほどであったといわれています。

これを機に、将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化しました。義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成しました。対して信長は浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川家康軍とともに浅井・朝倉連合軍と合戦する(姉川の戦い)。進退に窮した信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、帝の命をもって浅井・朝倉軍との和睦に成功した。大久保忠教の記した『三河物語』によれば、このとき信長は義景に対して「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったといいます。

元亀2年(1571年)9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた延暦寺を焼き討ちにした。これは、浅井・朝倉連合軍に協力したことに対する報復であったとされている。
元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(のちの織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していました。しかし戦況は信長有利に展開し、8月には朝倉軍の武将・前波吉継と富田長繁、戸田与次らが信長に降伏したという。
10月、足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こした。武田軍の総兵力は3万。その大軍が織田領の東美濃、並びに徳川領の遠江、三河に侵攻(西上作戦)を開始する。これに対して織田・徳川軍も抵抗した。元亀4年(1573年)4月5日、正親町天皇から勅命を出させることによって義昭と和睦しました。4月12日、武田信玄が病死。これにより武田方は軍を返し、甲斐へ帰国しました。
信玄の死去によって勢いを得た信長は態勢を立て直した。そうして7月、叛旗を翻して、二条城や槇島城に立て籠もっていた足利義昭を破り、京の都から追放。これをもって室町時代に終止符を打った。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させました。
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3.第一次信長包囲網

尾張国を平定し、美濃国、伊勢国、近江国へと進出した織田信長は将軍足利義昭を奉じて上洛し、三河国の徳川家康と同盟(清洲同盟)し、畿内の平定や本願寺攻め(野田城・福島城の戦い)を進めていました。信長と義昭の関係は当初は良好でしたがしだいに険悪化し、元亀元年(1570年)に義昭は独自の外交を志向しはじめます。義昭は反織田勢力に呼びかけ、自身を盟主に織田家に反発する近畿地方の諸勢力を団結させ、包囲網が結成されました。同時期に、甲斐国の武田信玄は信濃を平定して領国を拡大し、信玄後期には外交方針が転換し駿河侵攻が行われていました。信長は美濃平定で武田領国と接していたため武田と誼を通じ、駿河侵攻に際しては将軍義昭に周旋して甲越和睦の調停を試みており友好路線をとっていましたが、駿河を平定した武田は甲相同盟を回復すると、元亀2年(1571年)10月には大規模な遠江・三河侵攻を行い織田・徳川連合との対立が決定的となります。

信玄には織田・徳川連合を駆逐して上洛意図のあったことが指摘されており、元亀3年(1572年)には西上作戦が開始されます。同年10月には三方ヶ原の戦いで家康を撃破し、さらに西上しました。同年12月に浅井長政の援軍として近江において織田軍と対峙中の朝倉義景が、突然本国への撤退を始めた。この撤退によって信玄がもくろんでいた織田軍分散計画は破綻。武田軍の進軍速度は極端に鈍りました。翌年3月には京都で将軍義昭が挙兵するものの信長に制圧され、4月には信玄が死去し、西上作戦は中止されました。

最大の脅威であった信玄が死去したことを知った信長は、一気に攻勢に出ました。信玄なき今、もはや信長と立ち向かえるほどの余力が残された勢力はなく、なすすべもなく各個撃破されていきました。こうして信玄の死から一年足らずで浅井・朝倉・三好といった勢力は信長に滅ぼされ、将軍足利義昭も京から追放されました。

4.第二次信長包囲網

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の前波吉継(桂田長俊)は一乗谷で攻め殺され、3月、信長は上洛して従三位参議に叙任されました。9月29日、兵糧に欠乏した長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去することを信長に申し出て、これを信長も了承しました。しかし、信興や信広という信頼する兄弟を殺された信長は、一揆衆の退去する動きが遅いこともあり、船で移動する門徒に一斉射撃を浴びせることで攻略しました。しかし一揆側も激怒した一部が織田軍に襲いかかり、信長の弟・織田秀成らを討ち取りました。

さらに信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒に対しては、城の周囲から包囲して討ち取りました。このとき、一揆衆は2万人が織田軍によって討ち取られたといわれています。この戦によって信長は長島門徒の反乱を治めることに成功しました。

天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言、11月7日に右近衛大将に叙任します。

同11月28日、信長は嫡男・織田信忠に 織田家の家督ならびに美濃・尾張などの領地を譲って建前上隠居しました。しかし、信長は引き続き織田家の政治・軍事を執行する立場にありました。

天正4年(1576年)1月、信長は琵琶湖湖岸に安土城の築城を信長自身が指揮を執り開始します。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成しました。天主内部は吹き抜けとなっていたといわれています。イエスズ会の宣教師は「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っています。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住みました。信長はここを拠点に天下一統(近年、俗に天下統一とも言う)に邁進することとなります。

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田家に具わっていました。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせました。これら信長配下の新設大名を「軍団」とか「方面軍」などと呼称する研究者もおり、今日では一般書でもかなり見かける記述となっています。もちろん当時はそのような名称はありませんでした。

織田方面軍団

  • 北陸方面:柴田勝家を方面軍総司令官として、与力に前田利家や佐々成政らを配属。
  • 中国方面:羽柴秀吉を方面軍総司令官として、指令官に弟羽柴秀長・藤堂孝虎、黒田官兵衛や蜂須賀正勝らを配属。
  • 畿内方面:明智光秀を方面軍総司令官として、与力に細川藤孝・忠興父子や筒井順慶を配属。
  • 関東方面:滝川一益を方面軍総司令官として、与力に森長可や川尻秀隆を配属。
  • 四国方面:信長の三男・信孝を方面軍総司令官として、与力に丹羽長秀や蜂屋頼隆らを配属(天正10年結成)。
  • 対本願寺方面・佐久間信盛軍団
  • 東海道の抑えは徳川家康謙信の死後、御家騒動を経て後を継いだ上杉景勝に対しては柴田勝家、前田利家、佐々成政らを、武田勝頼に対しては嫡男・織田信忠、滝川一益、森長可らを、波多野秀治に対しては明智光秀、細川藤孝らを(黒井城の戦い)、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備しました。
    織田軍は謙信の死後、上杉氏との戦いを優位に進め、能登・加賀を奪い、越中にも侵攻する勢いを見せました。天正6年(1578年)3月播磨の別所長治の謀反(三木合戦)が起こり、また、毛利は激しい抵抗を行い、同年7月、上月城は毛利の手に落ちて山中鹿之介ら尼子再興軍という味方を失います(上月城の戦い)。10月には摂津の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し、本願寺と手を結んで信長に抵抗します。一方、村重の与力であり東摂津を領する中川清秀、高山重友は信長に降伏しました。

    同年11月6日、第二次木津川口の戦いで毛利水軍が信長考案の鉄甲船6隻に大敗を喫し、孤立した石山本願寺と荒木村重は毛利の援助を受けることができなくなりました。このころから信長方は優位に立つ。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、村重が妻子を置き去りにして有岡城から逃亡すると城は落城し、荒木一族の大半が処刑されました。次いで10月、それまで毛利方であった備前の宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。翌・天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。同年4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田有利の条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨、但馬、天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めに追い込み因幡、さらには岩屋城を落として淡路を攻略しました。

    天正7年(1579年)、伊勢の出城構築を伊賀の国人に妨害されて立腹した織田信雄は独断で伊賀国に侵攻し、大敗を喫しました。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせました(第一次天正伊賀の乱)。そして天正9年(1581年)、信雄を再び総大将とし、6万の軍勢で伊賀を攻略。伊賀は織田家の領地となりました(第二次天正伊賀の乱)。

    天正7年(1579年)、信長は徳川家康の嫡男・松平信康と、信康の生母の築山殿に対し切腹を命じました。理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田勝頼への内通などです。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げましたが、最終的に家康は2人を自害させました(これに関しては異説もある)。

    天正8年(1580年)8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦さに係る不手際を理由に追放処分としました。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放しました。

    出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
    「ヨーロッパの歴史」-放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
    「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
    武家家伝

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たじまる 戦国5 山名氏の内乱と家臣の台頭

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

山名氏の内乱と家臣の台頭

1.山名家の内訂

赤松勢に大敗北した蔭木合戦ののち、赤松政則と浦上則宗との間に妥協が成立、一枚岩となった赤松軍は勢力を増大、それまでの守勢から攻勢に転じるようになりました。そして、文明十八年正月、山名勢は英賀の合戦に敗北、垣屋遠続らが戦死しました。さらに同年四月、坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められた。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていきました。窮地に陥った山名政豊は、但馬への帰還を願いましたが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めました。さらに嫡男の山名俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた山名政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔りました。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となったのです。

この衰運を予言するかのように、文明十五年(1483)八月に播磨に勢力を回復した赤松政則を討つために此隅城(このすみじょう)から出兵しましたが、「出兵の翌日出石神社の大鳥居の横木が落ちて、前途の不安を皆の者が思いやりました。」と記録され、まさに山名氏の運命を暗示するような不吉な出来事でした。

但馬に逃げ帰った山名政豊に対して、但馬国衆はもとより、山名俊豊を擁する備後国衆らは背を向けました。なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代を任されていた垣屋氏と、政豊の間の対立は深刻さを増していました。さらに、備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督として振舞ったようです。
明応の政変によって将軍足利義材が失脚。義材に従って河内に出陣していた山名俊豊は窮地に陥りました。ただちに但馬に帰った俊豊でしたが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが今度は政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となってしましました。

しかし、この山名政豊と山名俊豊父子の内乱は、確実に山名氏の勢力失墜を招く結果となりました。乱において政豊・俊豊らは、垣屋氏・大田垣氏ら被官衆への反銭知行権の恩給を濫発、みずから守護権力を無実化し、結果として垣屋氏・大田垣氏らの台頭が促したのです。とくに垣屋続成は俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として領国の経営を担うようになりました。

明応二年(1493)、山名俊豊は山名政豊の拠る九日市城を攻撃、どうにか俊豊の攻撃をしのいだ政豊は、逆に俊豊方の塩冶・村上氏を打ち取る勝利をえました。以後、政豊と俊豊父子の間で抗争が繰り返されました。

情勢は次第に政豊方の優勢へと動き、ついに山内氏の進言をいれた俊豊は備後に落去していきました。明応四年(1495)、政豊は九日市城から此隅山城に移り、翌年には俊豊を廃すると次男致豊(むねとよ)に家督を譲り、備後守護も譲ったことで山名氏の内訌は一応の終熄をみせました。

2.有力国人衆の離反

戦乱が続く中で、室町幕府は次第に衰退していき、将軍・守護らは徐々に力を失い、遂に家臣団・国人らが実力を持つ下克上の時代となりました。但馬国も例外ではなく、守護山名氏は実力が伴わない象徴的な存在となっていきました。その後、永正元年(1504)には、此隅城の山名致豊(むねとよ)と重臣田結庄方に対抗して重臣の垣屋氏が反旗をひるがえし、八月から九月中旬にかけて戦いが続き、出石神社のあたりまで戦場となり、社殿や寺まで戦火にあって焼けてしまうという事件が起こり、永正三年(1506)六月になって将軍足利義澄(よしずみ)の仲介で和解しました。

永正九年(1512)には致豊(むねとよ)は出家して宗伝と号し、誠豊(のぶとよ)を惣領として、十八年間国中の政治を任せ、致豊の次男祐豊(すけとよ)を但馬守護にしましたが、この頃はかつての山名氏の威勢は全くなく、わずかに但馬一国を守るのがやっとのありさまでした。

垣屋続成の台頭は致豊との対立を誘発、やがて両者は対立関係となりました。永正元年(1504)、出石郡坪井の山名氏を垣屋氏が襲いました。この時、出石神社が兵火のために火災に遭っています。垣屋続成に此隅山を攻められましたが、和議が成立して最悪の事態は回避されたものの山名氏の衰退は決定的でした。さきの蔭木合戦の敗退、政豊と俊豊父子の内訌、有力家臣の自立によって、山名氏は戦国守護大名の地位が閉ざされたといえるでしょう。

政豊の子、致豊(やまな おきとよ)が継ぎますが、1512(永正八)年、「山名四天王」と呼ばれる太田垣氏・八木氏・田公氏・田結庄氏ら有力国人衆に離反を起こされてしまいます。山名四天王は致豊の弟山名誠豊を擁し、但馬国において強い影響力を及ぼすようになりました。山名氏の衰退とともに独立色を強め、西に毛利氏、東に織田氏が台頭すると、二派に分かれ抗争を繰り広げ、山名氏の衰退をさらに加速させました。。

3.但馬山名氏と因幡山名氏の対立

永正九年(1513)、致豊(おきとよ)は弟の誠豊(のぶとよ)に但馬守護の家督を譲りましたが、これは垣屋・太田垣氏らの策謀によるもので、致豊にとっては不本意な引退でした。家督となった誠豊(のぶとよ)は、権力基盤を強固にするため、因幡山名氏の内政に介入しました。そして、因幡国守護山名豊重の排除を策し、豊重の弟豊頼を援助して豊重を布施天神城に討ち取りました。誠豊をうしろ楯てとして因幡山名氏の家督となった豊頼でしたが、こんどは豊重の子豊治の攻勢を受け、永正十二年(1515)には豊治が因幡守護となっています。豊治は妹を将軍足利義材の側室に送り込むなど、守護権力の強化を図り誠豊と対立しました。両者の抗争は繰り返され、誠豊は豊頼の子誠通(のぶみち)を応援して豊治と対抗させました。

大永二年(1522)、播磨国守護赤松氏と重臣浦上氏の擾乱で揺れる播磨に侵攻しました。ところが、赤松政村と浦上村宗が和睦して山名勢に対したため、敗れた誠豊は翌年に播磨から撤退せざるをえませんでした。この播磨出兵の失敗は、誠豊の権力後退につながり、「山名四天王」の垣屋氏をはじめ太田垣・八木・田結庄氏らの台頭がますます促されました。一方で因幡において誠豊と対立していた豊治がにわかに急死したことで、誠通が因幡守護に収まりました。なんとか因但を支配下においたかに見えた誠豊(のぶとよ)でしたが、大永八年(享禄元年=1528)、死去しました。誠豊のあとは、致豊の長男祐豊(すけとよ)が継ぎ、但馬守護に任じました。
祐豊(すけとよ)は、山名致豊(おきとよ)の次男として生まれ、致豊の弟で但馬の守護を務めていた山名誠豊(のぶとよ)の養子として入り但馬守護を継ぎます。

天文11年(1542)、「銀山旧記」によると、山名祐豊(すけとよ)が生野銀山を支配し生野平城を築き盛んに操業しました。生野鉱山が発見されたのは807年(大同2年)と伝えられていますが、詳しい文献資料がなく、正確な時期は不明です。

祐豊は、此隅山城(このすみじょう・豊岡市出石町)を本拠にすると因幡進出を企図しました。しかし、祐豊(すけとよ)にしてみれば誠豊が擁立した誠通は、父致豊を引退に追い込んだ誠豊派であり許し難き存在でした。後楯を失った誠通は、祐豊に対抗するため出雲の尼子晴久と結ぶと、名を久通と改めました。因幡国衆もまた誠豊の死によって但馬からの自立を願い、これを糾合した久通が天神山城(鳥取県)で兵をあげました。以後、但馬山名氏と因幡山名氏の間で戦いが繰り返され、天文十五年(1546)、久通は多治見峠において討死しました。

久通を討ち取ったのち、祐豊は因幡の残敵勢力の掃討戦を行いました。そして、弟豊定を因幡に派遣、豊定は天神山城に入ると因幡の支配にあたりました。その後、豊定の子豊数は武田氏の攻撃を受けて敗北、天神山城から退転、中務太夫豊国が因幡守護となりました。

生野銀山と太田垣氏

戦国末期に至り、ついに太田垣輝延、垣屋・八木・田結庄ら山名の四天王は但馬の有力国人衆とはかって守護山名致豊(いたとよ)に離反し、誠豊(まさとよ)を擁立して但馬の領国経営の実権を握りました。以後、垣谷光成・八木豊信・田結庄是義ら四頭が割拠し但馬を四分割しました。
天正三年(1575)、信長の指令を受けた羽柴秀吉が中国征伐を進めると、太田垣輝延は八木豊信・垣屋豊続を擁立して毛利氏の吉川元春と「芸但和睦」を結び、秀吉に対抗しました。しかし、結局は秀吉によって没落の憂き目となりました。輝延以降の系図は残っていないようです。

生野銀山は、山名氏支配の時代が約十五年の間続いたのですが、弘治二年(1556)、朝来郡を任された家臣である太田垣朝延の反逆によってこの城塞を占領され、銀山の経営を奪われることになって、祐豊は本城である有子山城(出石城)に追われてしまったのです。それ以後朝延は、自分の家臣を代官としてこの城に駐在させて銀山経営にあたり、秀吉の但馬征伐までの永禄・元亀時代の約二十年の間を自分のものとして続けてきました。
それからは実権が徳川幕府に移り、滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、鉱政庁として利用されていました、そして明治維新の改革で明治二年(1869)に生野県がおかれた時、その役所としてこれまでの代官所に使用されていた館などがそれにあてられました。

しかし、同四年廃県となった時に、この由緒ある建物は払い下げて売られ、取り壊して何一つなくなり、ただ石垣と外堀だけが昔を偲ぶ城跡として残っていました。しかしながら、史跡を守り文化財を重要視する現代と違った大正時代に、この生野の歴史的価値のある平城を惜しげもなく取り崩し、埋め立てて宅地に造成するなどによって、その存在した事実さえ知らないというのが、この城にまつわる物語であります。

4.但馬争乱と八木氏

因幡と但馬のあいだを結ぶ山陰道が通じる養父郡は、重要な要衝です。その養父郡を統治していた八木宗頼には長男遠秀を頭に四人の男子がありました。遠秀は山名持豊に仕え、「忠にして孝、武にして文、修斎治平の才」に恵まれた武士でしたが、文明元年(1469)六月、二十七歳で早世しました。そして、宗頼のあと八木氏を継いだのは豊賀でした。延徳三年(1491)八月、山名俊豊が上洛したとき、従した武士に八木氏が見られますが、豊賀であったと思わされています。豊賀も早世したようで、その弟で三男貞直が家督を継ぎました。貞直は、兄豊賀の生存中は僧門にあったようで、その卒去により還俗して、八木氏の家督を継いだようです。明応六年(1497)に小佐郷内の田一反を妙見日光院へ寄進していることが史料に残されています。

四男が宗世で、一説によれば、この宗世が宗頼の家督を継いだともいい、惣領が名乗る受領名但馬守を称しています。しかし、その息子誠頼は八木氏の家督を継ぐことはかなわなかったらしく、八木氏の家督は誠頼の従兄弟にあたる直宗(直信?)が継いだようで、直宗が但馬守を称しています。

戦国時代の永正九年(1512)、八木豊信は垣屋・太田垣・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁しました。以後、八木豊信と垣屋光成・太田垣輝延・田結庄是義らが但馬を四分割するようになりました。

国道9号線但馬トンネルを出て左に、頂上が平らになった山が見えます。大谷川と大野川に挟まれたこの山に中山城の跡があります。本丸、二の丸、三の丸を堀割で区切り、石垣を積み、規模は小さいですが整った城で、堀切も十㍍に及ぶものが数カ所も残っています。
鎌倉時代には菟束(うづか)氏が、南北朝のころは上野氏の城となり、のち八木氏の支城となり天正五年(1577)秀吉の山陰攻めによって落城し、因幡の国に逃げたのですが、用瀬(もちがせ)の戦いで滅んだそうです。立派な城にしては残っている話が少ない城のひとつです。

5.明智光秀と水生(みずのお)城

『但馬の城ものがたり』という書物によれば、昭和50年現在において確認されている但馬の城の数は、215だそうです。この中には徳川時代の陣屋も加えられていますが、まだ未確認の山城もまだあるだろうといわれています。日高町内では20で、但馬の中では数は少ないというものの、但馬史に関係する重要な城がいくつか含まれています。

水生(みずのお)城


豊岡市日高町上石字水生

散り椿で有名な水生山長楽寺の裏から山頂に至る間に、数カ所の平坦地があり、頂上近くや頂上に伸びる尾根に堀割があります。南北朝のころ、長左右衛門尉が居城したと伝え、戦国期には初め榊原式部大輔政忠が居し、ついで西村丹後守の居城となったらしい。天正八年(1580)、秀吉の武将、宮部善祥房らの強襲を受けて廃城となります。

水生城の攻防戦は、毛利党の轟城主、垣屋豊続が打った一大決戦でした。秀吉の勢力が延びると共にいくつかの小競り合いが行われました。天正八年(1580)4月18日には、秀吉勢と竹野衆とが水生城で交戦し、この時竹野衆が勝ったといいます。

水生城は、標高百六十メートルの山頂に至る間に構築された城で、東は険しく、北は切り立つ岩、西の尾根づたいには深い堀割が作られていて、まさに要害の地でした。眼下には広々とした高生平野(たこうへいや)が広がり、その昔、政治の中心地として、但馬一円の政務を執り行った国府の庁や国分寺の当たりもここから一望できます。

円山川の本流は、当時は土居の付近から水生山麓にかけて一直線に北流していた時期があったらしく、北へ流れる円山川のはるか彼方には、山名の本城出石の有子山の城を見ることができ、当時の戦争の仕方から考えて、たいへん大事な城であったことがうかがわれます。
この城は、遠く南北朝のころ造られたもので、南朝に味方した長左衛門尉がいた城として知られています。

その後約二百年あまりは、残念ながら誰の居城であったのか明らかではありません。
ところが、大永年中、丹波福知山の城主、明智日向守光成(後の光秀)が、出石の此隅山(こぬすみやま)の城が虚城であることを聞いて登尾峠(丹波・但馬境)を経て、有子城(出石城)を攻撃しようと考えました。そこで陣代として大野統康・伊藤次織・伊藤加助の三名を軍勢を添えて出石表へ差し出しました。やがて但馬に進入した彼らは、進美寺山(しんめいじざん)に「掻上の城(かきあのげじろ)」を築いて居城し陣を布きました。

その頃の出石の山名氏の勢力は日に日に衰えていく有様でした。しかも中央では、織田信長が天下の実権を握り、その上家来の羽柴秀吉が近々に但馬にせめて来るという噂も高くなったので、山名氏の四天王といわれた垣屋等の武将も、さすがに気が気でありませんでした。

一方、進美山掻上の城に陣取った大野・伊藤の両勢は、軍を揃え、出石・気多の郷士たちを競い合わせ準備を整えました。そして、永禄二年(1559)八月二十四日、西村丹後守の居城水生城を攻撃してきました。この城には前後に沼(円山川から満潮時には潮が差す)があって、自然の楯となり、左側は通れないほど険しい天然の構えとなり、攻め落とせそうにもないので、ひとまず善応寺野に陣取って遠攻めの策をとりました。この時伊藤勢の中に河本新八郎正俊(気多郡伊福(鶴岡)の郷士であり、この家は今も続いている)という豪傑がいました。陣頭に出て大声で敵の大将をさそったので、城中からもこれに応え、服部助右衛門という武者が名乗りを上げて出てきました。ふたりは違いに槍を交えてしばらく争っていましたが、新八郎の方が強く、ついに服部を倒し首級(しるし)をあげました。

明けて二十五日、伊藤勢はふたたび城近く攻め寄せていきました。城中にあった兄の服部左右衛門は、弟を無念に思い、攻めてくる敵軍を後目に城中から躍り出て大音声に、「新八郎出てこい。きょうは助右衛門の兄左近右衛門が相手になってやる、ひるむか新八郎!」とののしりました。新八郎は「心得たり。」と、これに応じて出てきました。ふたりは間合いを見計らって、ともに弓に矢をつがえました。新八郎はもともと弓の名人でもあったので、ねらいを定めて「ヒョー」と放つ矢は見事に左近右衛門を射止めました。この三度の戦いの活躍に対して新八郎は明智光成から感状(感謝状)をもらいました。この感状は今も河本家に残っています。

八月二十八日には、丹波勢が攻め寄せましたが、城の正面大手門の方には大きな沼になっていてなかなかの難攻でした。城中はしーんと静まりかえり、沼を渡って攻めてきたならと待ちかまえています。攻めての大野勢の中で伊藤七之助という者は搦め手から攻めようとして竹貫から尾根づたいにわざと小勢を引き連れ迂回作戦に出ました。

ところが城内の武将「宿院・田中」という家来で、竹貫・藤井などから来ている兵士の中に、中野清助という人がいました。清助は伊藤七之助を遠矢で見事に射ました。この怪力に恐れをなした丹波勢は慌てふためき、この日の城攻めは中止にしました。
大野統康・伊藤加助は無念の歯ぎしりをし、城攻めにあせりを見せ総攻撃をはかり、竹や木を切らせ、沼に投げ入れて沼を渡ろうとしました。しかし、城内から見すましていた城兵は「すは、この時ぞ。」とばかりに、木戸を開けて討って出ました。大沼を渡ろうとしている大野・伊藤勢をここぞとばかりに射かけたので進退きわまり、たまたま沼を渡りきった者たちは山が険しくて登ることができず、逆に退こうとしても沼が深くて思うに任せず、城内からはさらに新手を繰り出し寄手をしゃにむに攻め、櫓からは鏑(かぶら)を構えて、射たてているところに「ころはよし。」と、大将西村丹後守みずから討って出たので、寄せ手は這々(ほうほう)の体で敗走してしまいました。

掻き揚げ城(かきあのげじろ)…掻上げ城とも書く。堀を掘ったとき、その土を盛りあげて土居を築いた堀と土居だけで成る臨時の小規模な城郭。
出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝

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山名氏家臣

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

山名氏家臣

越中次郎兵衛盛嗣

ここでは四天王として名高い垣屋、日下部氏系以外の主な家臣について記しています。
[但馬の城跡]

田結庄氏概要

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鶴城 豊岡市六地蔵と山本の両地区

戦国時代(1467~1568)の但馬地方の守護大名である山名氏の家臣のうち、四天王といわれた武将に、垣屋、太田垣、八木、田結庄の四氏があり、それぞれ但馬の各地に城を構えていました。

その四天王の一人、田結庄是義(たいのしょうこれよし)は鶴城を守っていました。豊岡市六地蔵と山本の両地区にまたがる「愛宕山」がその昔の鶴城です。この田結庄ともう一人の武将、垣屋隠岐守隆充(続成(みつなり)=光重・楽々前城主=日高町佐田)[*1]との間に、天正年間、大きな戦いが行われ、その結果、田結庄氏が滅ぶことになったのですが、その下りは後ほどお伝えします。田結庄氏は、但馬国城崎郡田結郷田結庄(豊岡市田結)を本貫とする中世豪族でした。田結(たい)は、円山川が日本海の注ぐ河口で、海水浴で知られる気比ノ浜の東に位置する漁村です。わかめ漁などがさかんです。

田結庄は「たいのしょう」と読み、出自は桓武平氏であったといわれますが、その世系については詳らかではないようです。

越中次郎兵衛盛嗣


気比ノ浜

『田結庄系図』によれば、桓武天皇の子で桓武平氏の祖、皇子葛原親王(かずらわらしんのう)の後裔とみえ、七代後の平 盛嗣(盛継 たいら の もりつぐ 生年不詳 – 建久5年(1194年))、通称は越中次郎兵衛盛嗣がいました。平安時代末期の平家方の武将です。父・平盛俊(たいらのもりとし)同様平家の郎党として勇名を馳せました。

『平家物語』では「越中次郎兵衛盛嗣」の通称で呼ばれ、平家においてその豪勇を称えられる名将でした。源氏との数々の戦に参戦し、屋島の戦いでは源義経の郎党である伊勢三郎義盛(さぶろうよしもり)との詞戦(簡単に言えば嘲笑合戦)の逸話を残しています。

能登守教経(のとのかみのりつね)が、越中次郎兵衛盛嗣を引き連れて小船に乗り込み、焼き払った総門前の渚に陣取りました。侍大将である盛嗣が、船の上に立って大声で言うには、「さきほどお名乗りになったのは耳にしたが、遠く離れた海の上であったのではっきりと分からなかった。今日の源氏の大将はどなたでおはしますか」。そこで、伊勢三郎義盛さまが馬を歩ませ、「言わずと知れた清和天皇(せいわてんのう)(平安前期の天皇、源氏の先祖)十代の御子孫、鎌倉殿(かまくらどの=源頼朝)の御弟、九郎太夫判官殿(源義経)であるぞ」とおっしゃいました。

すると敵が
「そう言えば思い出した。平治の合戦で父を討たれて孤児になったが、鞍馬(くらま:京都)の稚児(ちご)になって、その後はこがね商人の家来になり、食べ物を背負って奥州へ落ちぶれ去ったという若ぞうのことか」

と失礼なことを申します。そこで義盛さまが「軽口をたたいて、わが君のことをあれこれ申すな。そういうお前らは、砥波山(となみやま)の戦いに追い落とされ、あやうい命を助かって北陸道をさまよい、乞食をして泣く泣く京へ上がった者か」。

すると敵が重ねて言うには、「そういうお前たちこそ、伊勢の鈴鹿山で山賊をして妻子を養い、暮らしてきたと聞いておるぞ」と。

そこで、金子十郎家忠(いえただ)さまが、「お互いに悪口を言い合っても勝負はつかぬ。去年の春、一の谷での戦いぶりは見たであろう」と、おっしゃる横から、弟の親範(ちかのり)さまが敵に向かって矢を放ちました。その矢は、盛嗣の鎧(よろい)の胸板に、裏まで通すほどに突き刺さったのでした。寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、残党狩りの結果、平家の子孫は絶えたと思われましたが、彼は自害を快く思わず、平盛久らと共に京の都に落ち延びます。都では平家の残党狩りが厳しく行われていたため、但馬の国に落ち延びます。その後但馬国で潜伏生活へ入りました。盛嗣は城崎郡田結郷気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われています。その後盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っていました。道弘は婿が越中次郎だとは知らなかった。けれども、錐(キリ)を袋の中に隠してもその先が自然と外へ突き出てしまうように、夜になると舅の馬を引き出して、馬を走らせながら弓を引いたり、海の中を十四、五町から二十町(1町=約109メートル)も馬で泳ぎ渡ったりしているので、地頭・守護は怪しんでいました。そのうちどこからかこの事が漏れたのだろう、鎌倉殿から文書が下されました。源氏側は盛嗣の行方を厳しく追及しており、源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦め(縛る)ても誅して(殺して)もまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したとされる記述が『平家物語』(延慶本)にもあります。諸説あるものの、そのころ盛嗣は、忍んで度々京に上り、旧知の女の許へ通っていました。やがて女に気を許した盛嗣は、女に自分の居所を教えてしまいます。ところが、この女には他にも情夫がおり、女は情夫が「盛嗣を捕らえて勧賞をもらいたいものだ」と言ったのを聞き、「わらわこそ知りたれ」と洩らしてしまったのです。

「但馬国の住人、朝倉太郎大夫高清、平家の侍である越中次郎兵衛盛次が但馬国に居住していると聞く。捕らえて身柄を引き渡せ」との命を受けました。気比四郎は朝倉太郎の婿であったので、朝倉は気比四郎を呼び寄せて、どのようにして捕まえるかと相談した結果、「浴室で捕まえよう」という事になりました。

越中次郎を湯に入れて、ぬかりのない者五、六人を一度に突入させて捕まえようとしたところが、取り付けば投げ倒され、起き上がれば蹴倒される。互いに体は濡れているし、取り押さえる事もできない。けれども、大人数の力にはどれほどの力持ちでも敵わないものなので、二、三十人がばっと寄って、太刀の背や長刀の柄で打ちのめして捕まえ、すぐに関東へ連れて行きました。鎌倉殿は越中次郎を前に引き据えて、事の子細を尋ねました。

「どうしてお前は同じ平家の侍であるだけではなく、古くから親しくしていた者であるというのに、死ななかったのか」

「それは、余りに平家があっという間に滅びてしまいましたので、もしや鎌倉殿を討ち取る事ができるかもしれないと、狙っていたのでございます。切れ味のいい太刀も、良質の鉄で作られた矢も、鎌倉殿を討つためにと思って用意したのでございますが、これ程までに運命が尽き果てています上は、あれこれ言っても仕方ありません」

「その気構えの程は立派なものだ。頼朝を主人として頼むのならば、命を助けてやるがどうか」

「勇士というものは、二人の主人に仕える事はありません。この盛嗣ほどの者にお心を許されては、必ず後で後悔なされるでしょう。慈悲をかけてくださるのなら、さっさと首をお取りください」

と言ったので、
「それならば切れ」と、

由井ヶ浜(神奈川県鎌倉市)に引き出して首を切ってしまいました。越中次郎の忠義の振る舞いを誉めない者はいなかったといいます。赤間神宮(山口県下関市)にある壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓七盛塚は、江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていました。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、「耳なし芳一」の舞台でもあります。墓は、左近衛少将有盛、左近衛中将清経、右近衛中将資盛、副将能登守教経、参議修理大夫経盛、大将中納言知盛、参議中納言教盛、伊賀平内左衛門家長、上総五郎兵衛忠光、飛騨三郎左衛門景経、飛騨四郎兵衛景俊、越中次郎兵衛盛継、丹後守侍従忠房、従二位尼時子の一門が並んでいます。

平家落人伝説は、但馬でも約40ヶ所に残されていますが、唯一確かといえるのが、この越中次郎兵衛盛嗣にまつわる話です。豊岡市気比と城崎町湯島に残る2基の宝篋(ほうきょう)印塔がその供養塔と伝わっています。

さて、竹野町には宇日(ウヒ)があり、香美町香住区御崎地区は余部(あまるべ)鉄橋で知られる余部からさらに岬にあり、日本一高い所にある灯台で知られ、1185年の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の武将門脇宰相教盛(清盛の弟)らがこの地に逃れてきたと伝えられる平家落人伝説の地です。鎧(よろい)、丹後半島には平などもゆかりがありそうな地名です。いずれも田結同様に陸の孤島というべき魚村です

田結庄是義(たいのしょう これよし)


鶴城趾/豊岡市山本

違い鷹の羽*
(桓武平氏後裔?)

戦国時代の田結庄氏のものではないが、後裔の方が再興された田結庄氏が用いられている家紋とのこと。武家家伝さんより

参考略系図

称田結庄氏 越中次郎兵衛   宮井太郎兵衛尉 桓武天皇━葛原親王・・・平 盛嗣(盛継)━━盛長━━━━━盛重━━盛行━┓     ┃    ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛    ┃  鶴城主    ┃      左近将監  左近将監  1642没      ┗━盛親━━盛敏━国盛━━重嗣・・・是義━━━━盛延
さて、盛嗣の子の盛長は一命をとりとめて田結庄に住み田結庄氏を称したといいます。盛長はその後、橋爪郷宮井(豊岡市宮井)に移り住み、宮井太郎兵衛尉盛長と称し『但馬国太田文』にも、同郷公文職、大庭庄下司職を有していたことが知られます。その後、盛長の子盛行が田結庄に帰り、ふたたび田結庄氏を称したといいます。
戦国末期には、左近将監国盛は但馬守護山名時熙に仕え、山名四天王の一人に数えられる重臣となりました。子重嗣は山名持豊に従って赤松満祐の「嘉吉の乱(1441)」に際して播磨国に出陣したと伝えられますが、それを裏付ける史料はないようです。

「応仁の乱(1467)」以前の但馬で守護山名氏に従う諸将としては、垣屋・太田垣・八木・田結庄の四天王に加えて、塩冶(えんや)・篠部・長(ちょう)、奈佐、上山・下津屋・西村・赤木・三方・三宅・藤井・橋本・家木・朝倉・宿南・田公などの諸氏が数えられています。

田結庄氏で明確な裏付けを得るのは、戦国末期の左近将監是義(これよし)です。子は田結庄盛延。是義は愛宕山((宝城山)豊岡市六地蔵・山本)に鶴城を築いて居城とし城崎郡を領し、太田垣輝延(朝来郡)、八木豊信(養父郡)、垣屋光成(気多郡)らと但馬を四分して勢力を広げました。神武山の亀城に対して鶴城と呼びます。山名氏の有子山(出石)城下に田結庄という町名が残っているのは田結庄氏の屋敷があったのが由来とされています。
平安時代に成立した「和名抄」に城崎郡内に新田、城崎、三江、奈佐、田結の5郷が記されており、田結郷は 気比庄(湯島、桃島、気比、田結、瀬戸、津居山、小島)、灘庄(今津、来日、上山、ひのそ)、下鶴井庄(三原、畑上、結、楽々浦、戸島、飯谷、赤石、下鶴井)、大浜庄(江野、伊賀谷、新堂、滝、森津)からなっています。下鶴井庄の南端であり、山名氏の本拠地である九日市守護所や此隅山城に最も近い愛宕山に城を築いたのも、納得できます。
やがて、但馬に伯耆・出雲の尼子氏[*2]が勢力を伸ばしてくると是義は尼子氏に味方しました。是義は、垣屋氏との仲が悪かったのです。それは、是義が垣屋氏勢力範囲である美含郡(竹野・香住)の併合を狙っていたからです。

永禄12年(1569年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の侵攻(第一次但馬征伐)を受けます。この侵攻を受けて祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡しました。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地に復帰しています。その後は同じく信長と手を結んでいた尼子勝久や山中鹿介らと協力して毛利輝元と戦いました。元亀3年(1572年)には宿敵である武田高信を山中鹿介と共に討ち取っています。

その後、織田信長の天下統一の過程で但馬は、織田党(山名祐豊・田結庄)と毛利党(垣屋・八木・太田垣)に分かれました。田結庄是義は織田党色を鮮明にし、竹野轟城主垣屋豊続との対立が熾烈化しました。元亀元年(1570年)毛利党色を示していた楽々前城主 垣屋続成(つぐなり)を奇襲により殺害することになります。
しかしその後、山名祐豊は天正三年(1575)春、突如として毛利氏と和睦を結んで織田氏を裏切ってしまう。これに怒った信長は、秀吉に再度の侵攻を命じました。

野田合戦と田結庄氏の没落

織田方=田結庄氏と毛利方=垣屋氏との間で、代理戦争ともいわれる野田合戦が起きます。

天正三年(1575)六月十三日、長谷村(豊岡市長谷)で、カキツバタ見物の宴会が行われている時、楽々前城主(日高町佐田)、垣屋続成(みつなり=光重・隆充)の家来が鉄砲で鳥を撃っておりますと、その弾が酒盛りをしていた田結庄是義の幕の中に落ちました。是義は大そう怒って、その垣屋の家来を召し捕らえて殺してしまいました。このことがあって、光成は是義を征伐しようと時期を狙っていました。その年の秋、10月15日、垣屋播磨守続成(光重・隆充)は、同族(親類)の垣屋駿河守豊続(亀城主、後の豊岡城)の応援を受けて、田結庄是義の出城である海老手城(豊岡市新堂、栃江、宮井境界標高215mの山上)を垣屋続成・長(ちょう)越前守らに略取します。是義の属将・海老手城主、栗坂主水は養寿院(豊岡市岩井、後の養源寺)に、お参りして留守でした。したがって城はわけなく落とされてしまいました。垣屋勢は勢いに乗って、養寿院を焼き払い、田結庄方の宮井城(豊岡市宮井)にも攻め寄せてきました。

危ないところで逃げ延びた栗坂主水は、すぐに鶴城に行き、是義に事の次第を話すと、是義は大いに驚き、「ただちに、海老手城を取り返せ」と、一門の将兵五百人を集めて、海老手城に向かいましたが、垣屋勢の援軍五百人に阻止されて、野田(豊岡市宮島付近)の沼田での大野戦となりました。この戦いを「野田合戦」といっています。野田は湿地帯のため、足中(小さなわらじ)をつけた垣屋勢に分があっただけでなかったのですが、置いた小田井神社は焼き払われました。また宮井城主の篠部伊賀守は、田結庄の旗色が悪いとみて、垣屋駿河守の軍に降参してしまいました。繰り出した垣屋の別働隊の追撃もあって、田結庄軍のうち鶴城下に帰着した者はわずか十六名であったといいます。

このようにして追いつめられた田結庄是義は、「今はこれまで」と家来とともに、ひそかに菩提寺正福寺(豊岡市日撫)にて自害し、没落していったといわれています。このとき、天正三年(1575)十月十七日と書かれています。

いま、愛宕山の南側の麓に静かに建っている宝篋(ほうきょう)印塔が是義の墓と伝えられています。
また、海老手城主、栗坂主水は、お坊さんとなり、諸国を修行した後、海老手城下の村(滝・森津・新堂あたり)で余生を送り、自分の死が近づいたことが分かると、墓の穴の正座して、鐘を打ちつつ死んでいったと伝えられています。新堂の氏神さんの境内に、立派な宝篋(ほうきょう)印塔が建っています。また、海老手城落城の時に、垣屋勢に捕らえられた十六人の武士は、打ち首にされた後、城下の森津畷にさらし首にされました。後々までこの畷を「十六畷」といったそうです。野田合戦の様子は軍記物に記されているばかりですが、1575年 (天正3年)、八木城主、八木豊信が但馬の情勢を吉川元春に報告している中で、「田結庄において、垣駿(垣屋駿河守豊続)一戦に及ばれ、勝利を得られ候間、海老手の城今に異儀無くこれをもたれ候、御気遣い有るべからず候」と記されており、その事実は裏付けられています。この合戦によって垣屋豊続は但馬を完全に毛利党に統一し、毛利氏の対織田防御ライン(竹野~竹田城)を構成する繋ぎの城として、鶴城・海老手城の両城を確保しました。そして天正8年(1580年)5月21日、山名祐豊は秀吉の因州征伐による第二次但馬征伐によって居城である有子山城を包囲される中で死去しました。ここに二百数十年続いた但馬山名氏も滅亡しました。
【資料:兵庫県大辞典など】

こうしてみると、家臣団の対抗が起きた中、田結庄氏は唯一人、主君山名氏に最後まで忠臣をとげた忠義の重臣のように見えます。しかし、下克上の時代であり、山名氏に不満を募らせた他の重鎮とは違い、それがかえって仇となったともいえます。他の戦国時代では多く見られるように、垣屋・太田垣・八木氏などが姻戚関係を深めるのとは異なり、系図からも全く姻戚関係が見当たりません。

[脚注] *1…「郷土の城ものがたり-但馬編」には隆充または光重とありますが、「但州発元記」では垣屋隠岐守隆充となっています。宿南保氏が考証された系図では隆充という名は記されておらず、豊岡市史所蔵『垣屋系図』にしたがい続成としております。
*2…尼子氏…宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の支流。南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響を持った佐々木高氏(道誉)の孫、京極高秀次男、高久が近江国甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。高久の次男、持久は宗家京極氏が守護を務める出雲と隠岐の守護代を務めて雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。孫の尼子晴久の時代には山陰・山陽八ヶ国約200万石を領する大大名にまでなった。

塩冶(えんや)氏

塩冶(えんや)周防守 但馬山名氏家臣。但馬美方郡(浜坂町)芦屋城主。
播磨屋さんの武家家伝によりますと、
近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉・南北朝時代の守護大名。宇多源氏の成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に住み、子孫は佐々木氏を称しました。成頼の玄孫秀義は源頼朝を援けて活躍。長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となり、四男?氏信は京極氏の祖となりました。秀義の五男が義清で、出雲・隠岐の守護に補せられて、子孫は同地方に繁栄しました。

義清の孫出雲守護頼泰は、惣領として塩冶郡を根拠とし、塩冶左衛門尉と称しました。これが塩冶氏の祖であるとされています。貞清を経て、南北朝初期に名をあらわしたのが塩冶判官高貞です。高貞は、父のあとを継いで出雲守護となり、元弘三年(1333)閏二月、後醍醐天皇が隠岐を逃れて伯耆国船上山に挙兵すると、その召しに応じて千余騎の兵を率いて馳せ参じ、六月には供奉して入京。建武政権成立ののち、高貞は千里の天馬を献上し、その吉凶について洞院公賢・万里小路藤房らが議論したといいます。建武二年十一月、足利尊氏が鎌倉に叛すると、高貞は新田義貞軍に属して足利軍と箱根竹ノ下に戦いましたが、敗れて尊氏に降り、やがて出雲・隠岐守護に補任されました。暦応四年(1341)三月、高貞は京都を出奔、幕府は高貞に陰謀ありとして、山名時氏・桃井直常らに命じて追跡させ、数日後高貞は播磨国影山において自害しました。一説には、出雲国宍道郷において自害したともいわれています。高貞の妻は後醍醐天皇より賜った女官で、美人の聞こえが高かったため、尊氏の執事高師直が想いを寄せ、叶わず尊氏、直義に高貞の謀叛を告げ口したので、高貞は本国の出雲に帰って挙兵しようとしたのであるといわれています。

高貞没後、弟時綱の子孫から室町幕府近習衆が出ています。また京極・山名氏の被官人となったものもあるらしいです。この一族が塩冶周防守ではないかと思われます。尼子時代に尼子経久の三男興久が塩冶氏を継ぎましたが、父に背いて自刃しました。

但馬国の塩冶氏は高貞の甥・塩冶通清の四男・周防守の子・某を祖とします。但馬塩冶氏は山名氏に仕え、各文献・古文書にも「塩冶周防守」「塩冶左衛門尉」「塩冶肥前守」「塩冶前野州太守」「塩冶彦五郎」などの名が散見します。戦国時代に登場する芦屋城主・塩冶高清はその末裔であるとされます。高清は、もと出雲発祥の塩冶氏の一族で、のち但馬に移り芦屋城(新温泉町)を本拠地とし、山陰の複雑な山岳の地形を熟知し神出鬼没に兵を動かしたため、海賊の将と呼ばれた奈佐日本之介に対比して「山賊衆」と羽柴秀吉に言わしめましたが、もちろん山賊ではありません。

永禄12年(1569年)、但馬に侵攻した尼子党と織田氏の前に帰順の意を示します。 同年8月、山名豊国と通じたことに激怒した武田高信らの軍勢によって攻撃されるもこれを撃退、その後は毛利氏の傘下に入ります。

天正2年(1574年)~4年(1576年)にかけてはかつて自身を攻撃した武田高信を保護し、高信の復権と助命を毛利氏に嘆願していました。しかし、高清らの願いもむなしく武田高信は山名豊国によって謀殺されます。 後には高清自身も織田氏の侵攻には抗すべくもなく芦屋城を追われ、ついに天正9年(1581年)に吉川経家率いる毛利勢と結んで、因幡国鳥取城において織田氏の中国攻めを担当していた羽柴秀吉と対峙することになります。高清は鳥取城の北方に位置する雁金山に雁金山城を築き、奈佐日本之介の守る丸山城とともに鳥取城の兵站線を担当しました。鳥取城に対する兵糧攻めを行っていた羽柴秀吉は、鳥取城-雁金山城-丸山城のラインを遮断することが鳥取城の落城を早めることに気づき、宮部継潤に命じて雁金山城を攻撃させました。塩冶高清は宮部の手勢をよく防ぎましたが、兵糧の欠乏による兵の消耗はいかんともし難く、雁金山城は織田方の手に落ち、高清は奈佐の守る丸山城に逃れました。天正9年(1581年)10月、鳥取城中の飢餓地獄を見かねた吉川経家は、自らの命と引き替えに城兵の命を救うことを条件として、秀吉に降伏を申し出ます。これに対し秀吉は、経家の武勇を惜しんで助命しようとする一方、高清および奈佐の海賊行為を責め、二人の切腹を主張して譲りませんでした。結局、経家の自刃に先立つ天正9年10月24日、高清は奈佐とともに陣所で切腹して果てました。法名は節叟廣忠居士。

丸山城の西麓に、塩冶高清と奈佐日本之介それに佐々木三郎左衛門の3名の供養塔があります。

高清の子の塩冶安芸守やその弟の塩冶高久は、吉川氏の家臣となり防州岩国の地に移りました。

芦屋城

北は日本海、東に浜坂の平野、西は諸寄(もろよせ)の港、南から幾重にも重なって迫る山脈の端、海抜200mのこんもりとした山の頂に築かれたのが芦屋城です。

築城年代はわかりませんが、南北朝のころ、因幡(鳥取県)の守護職として布施城にいた山名勝豊(宗全の第三子)から、塩冶周防守が二方郡をもらい受けたと伝えられています。城は、本丸と二の丸からなり、典型的な山城でした。

いつ果てるとも知れぬ争乱に明け暮れていた元亀三年八月(1572)、鳥取城にいた山名の家来、武田又五郎高信が、布施城の山名豊国を攻めようとしました。それを知った豊国は、井土城主・河越大和守、温泉(ゆの)城主・奈良左近、七釜城主・田公氏、芦屋城主・塩冶周防守らに早馬を出し、戦いにそなえました。兵八百騎をもってまず芦屋城に攻め込んだ武田又五郎高信は、急を知ってかけつけた付近の大名、豪族のことごとくを敵に回す結果となり、庭中(ばんなか)での戦いで戦死、因幡武田氏の滅びる原因となりました。

天正八年(1580)、羽柴秀吉(実働隊は秀長)が但馬を平定しようとしたとき、宮部善祥房を大将として芦屋城攻めがあり、大軍を持って押し寄せましたが、塩冶周防守の守りはかたく城はなかなか落ちませんでした。その話を、芦屋の方が話してくださいました。
芦屋の城はむかし亀が城といって、とても立派な城だったそうだ。

元亀年間に因幡の武田が攻めてきた時は、近くの大名もいっしょになって戦い、武田の軍勢を破ったそうだ。
塩冶の殿さんに近くの大名が味方したのは、よい大名だったからでしょう。
天正年間、秀吉の部下によって攻め落とされたが、秀吉の軍も芦屋攻めには苦労したそうだ。
大勢で城を取り囲み、いろいろの方法で攻めたが、城の中の何本もの旗が浜風になびき、それに夏だったそうで、日の光は強いし、秀吉軍は木の影や、民家の軒先に攻めるのをあきらめて、三人、四人集まり長期戦の構えをし出す有様、何回となく作戦も考えてみたがどうにもならない。本当に困り果てたそうだ。
そういう日が続いたある日のこと、何人かのお侍が坂の茶屋で相談していると、奥で聞いていたおばあさんが、「おさむらいさん、この城は亀が城といって亀が主だから、何年かかっても、どうしてもこの城を落とすことは無理ですよ。」それを聞いた何人かの侍は、この茶屋のおばあさんが城を落とす急所を知っているな、と感ずきました。それから毎日、おばあさんに聞きに来ますが話してくれません。そんな日が続いたある日、あまりにも気の毒に思ったのでしょうか、「おさむらいさん、この城を落とすのに急所が一つだけあるのですよ。」
と、話してくれましたが、それ以上どうしても話してくれない。また何日もおばあさんにお願いして、侍の熱心さに負けたのでしょう。
「この話はしてよいものか、悪いことか、わからなくなりました。その急所は、『亀の首を刀で切らなければ落ちない』」
と話してくれました。その亀の首は『坂の上』とも教えてくれました。そのおばあさんの話で秀吉の軍は、芦屋城を落とすことができたそうだ。
そのたたりでか、それ以後その茶店には男の子が生まれなくなり、そしてとうとう家も絶えてしもうたそうな。
たぶん、おばあさんが亀の首といった坂の上を通って、今でいうサイホンのようにして南の山から水を取っており、その水源を切られて水攻めにあったのでしょう。
そして宮部善祥房の手に落ちてしまいました。城主塩冶は城を捨てて因幡に逃れました。あくる天正九年、秀吉が鳥取城を攻めたとき、芦屋城主塩冶は丸山の出城で自害して果てました。
宮部善祥房が鳥取城主となってからは、芦屋城には但州(但馬)奉行がおかれましたが、関ヶ原で宮部氏が自害し、山崎家盛が摂津三田から因幡若狭に入り、弟の宮城右京進頼久に二方郡六千石を分け、芦屋城に住まわせました。それから二十年あまり宮城氏による支配が行われました。寛永四年、三代宮城主膳正豊嗣のとき、陣屋を清富に移しています。そのため芦屋城は廃城となってしまいました。
現在城下には、殿町・やかた・馬場などの小字名が残っており、芦屋の松原には塩冶周防守の碑も建っています。

篠部氏

昭和42年五月二十日の各新聞の但馬地方版は「香住町月岡公園で、有馬(有間)皇子の墓が発見された。」と報じています。

有馬皇子とは、日本書紀に、斉明天皇の四年十一月五日に謀反が発覚し、捕らえられて、同年十五日には紀伊国藤白坂(和歌山県)で処刑されたと書かれておりますが、孝徳天皇第一の宮、有馬皇子のことです。

この事件は、有馬皇子が十九才のとき、大化改新の立て役者であった中大兄皇子ら改新派によって、天皇の位につけられた孝徳天皇のたた一人の遺児、有間皇子が、父天皇と同じように改新派の計略にもてあそばれ、非業の最期をとげられたことに同情してか、香住町には有間皇子の変の後日談を、次のように伝えているのです。

日本書紀では、このとき討たれたことになっているのですが、実は皇子の家来が身代わりとなって処刑され、皇子は追討に向かった者の好意によって、ひそかに丹波まで逃げのびたのです。ところが、皇子の弟宮である表米王[*1]が但馬の国に住んでいるのを聞き、ふたたび舟で但馬をめざしました。

香住に浜に上陸した皇子は、志馬比山(しまひやま:香住駅の裏山)のあたりに隠れ住み、海部の比佐を妻にして、平和な日々を過ごしていたのです。その後も表米王と会う機会もなくこの地で亡くなり、入江大向こうの岡の上(月岡)に手厚く葬られました。

ところで、二人の間に男の子が生まれ、志乃武王と名づけました。やがて成人した志乃武王は、出石小坂の美しい娘を妻にし、天武天皇七年(678)志馬比山の山頂を切り開いて城塞を造りました。
やがて、幾年かの時が流れ、志乃武王の子孫、志乃武有徳が領主のとき、有徳は姓を篠部と改め、山頂にあった屋敷を山のふもと東方の台地に移したのです。そして、対岸の矢谷に川港を開いて、物資交易の設備を整え、中心地としたのです。

そればかりか、篠部氏の菩提寺として長見寺を建立し、要害の地としましたが、交通の便はともかくいろいろと不便なことが多かったので、当時としては前代未聞の大事業である、河川改修や耕地拡張の大工事を計画しました。

二十九年という長い年月を経て、ようやく完成しました。
この大工事によって、一日市の柳池をはじめ湿地は全部埋め立てられ、約70㌶という新しい耕地ができたのです。

このようにして、有間皇子在住以来、約五百年という長い間徳政を施し、領地内の人々から尊敬されてきた篠部氏ですが、延元元年(1336)に、篠部有信公が、祖先の法要のために長見寺に参詣されていたところを、かねてから領地のことで不和であった長井庄の釣鐘尾城主・野石源太が、この時とばかりにあらかじめ示し合わせてあった一日市の塔の尾城に合図し、一手は長見寺に、他の一手は留守で手勢の少ない館へと攻め寄せました。

この不意打ちに驚いた篠部方は、必死になって防いだのですが、何分にも敵は多勢の上に充分な戦備を整えて攻めてきたのですから、そのうち寺に火を放たれたのを見て、もはやこれまでと、有信公をはじめ主従ことごとく火の中に身を投じ、悲痛な最期をとげたのです。
留守館でも寺に火がかかったのを見て、形勢は味方に不利であることを知り、一族の北村七郎は若君を、そして日下部新九郎は姫を連れて兵火の中を脱出したのですが、姫は逃亡の途中、姫路山のふもとで敵の矢に当たって倒れ、若君もまた、乱戦の内に行方不明となり、さすが名門を誇った篠部氏もついにその力を失いました。その後、行方不明であった若君は首尾良く落ちのび、奈佐(豊岡市)宮井城主・篠部伊賀守のところに身を寄せていたのですが、お家再興の望みもうまくいかず、のちに京都に移り住んだと伝えられています。
[*1] 表米王…但馬国の古豪族、日下部氏の祖とされている。

丹生氏(にゅうし)

「上計(あげ)のお殿さんは、四十二の祝いの餅をのどにつめて死んだのだそうな。」
この話は、柴山地区の人ならみんな物心がついたころから聞かされる話です。日本海有数の避難港であり、カニ漁港としても知られる柴山港を、朝に夕に見下ろしている上計の城山にはこんな話が残されています。

丹生美作守長近は、養山城の城主でした。養山城は上計・浦上の二つの村を望み、北には柴山港から日本海を望む景色の美しい土地です。城主長近は、出石城山名誠豊の家老の一人であり、慈悲深い人でもありました。領地は、丹生地・浦上・上計・沖の浦・境の五つの村で、村民たちも長近の人徳になびき、戦国争乱の時代にもかかわらず、平和な明け暮れを楽しんでいました。

ところが、隣の無南垣の館山城主・塩冶左衛門尉秀国は、同じ山名家の家老の一人でしたが、野心満々たる人物であり、恵まれた漁獲と、避難する大小の舟で賑わう柴山を、なんとかして領地にしたいと考え、主君山名公に養山城主長近は避難にことよせて入港する他国の船と密輸して、私腹を肥やしているばかりか、ひそかに武器弾薬を蓄えつつあると報告し、みずから長近討伐の大将を引き受けました。
享禄二年(1529)十一月二十三日は、長近初老祝賀の日でありました。養山城内は、めでたい延寿を祝う声に満ちあふれていました。ところが、この機会を狙っていた塩冶左衛門尉は、日もとっぷり暮れたころ、数十人の手勢を引き連れて、沖の浦から山伝いに攻め込んできました。

これより少し前に、丹生地の大江田五郎兵衛という人が、たまたま用事があって無南垣に出たところ、塩冶勢が養山城を攻める準備をしている最中と聞いて、用事はそっちのけで取るものも取らず、大急ぎで養山城のこのことを知らせてきました。
急を聞いた養山城では、祝賀の席は一瞬にして上を下への大騒ぎとなり、油断して不意を付かれた酔いどれ兵士どもは物の役に立たず、城は火を吹き、美作守もついに自刃して果てました。

 そうこうしているうちに、天下は織田氏から豊臣氏へと移り、秀吉の但馬征伐によって、山名氏の勢力も次第に衰えていきました。

 鳥取城攻撃に勝ち誇った軍勢が、引き上げていく中で、海岸づたいに帰っていく軍の一隊が、無南垣の塩冶秀国の城をめざして、ときの声を上げつつ攻撃し始めました。いまは丹生三左衛門長宗と名を改めて旗頭となった熊之丞が、主君秀吉の許しを得て父の仇を討ったのです。戦いに慣れきった熊之丞にとっては、塩冶勢など物の数ではなく、一時間も経たない間に塩冶の城を攻め落とし、見事に父の敵を討ったのでした。

 このときから、柴山地区では、かつての城主・丹生美作守長近の仁徳を慕い、四十二の歳を厄年として、初老を祝うことをやめ、八月二十四日の地蔵盆には、かつての城跡に建てられたお堂に集まって、供養回向をしているということです。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

但馬守護

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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山名氏 但馬守護

  1. 山名義範
  2. 山名重国
  3. 山名重村
  4. 山名義長
  5. 山名義俊
  6. 山名政氏
  7. 山名時氏
  8. 山名師義
  9. 山名満幸
  10. 山名義理
  11. 山名氏冬
  12. 山名氏清
  13. 山名時義
  14. 山名時熙
  15. 山名宗全(持豊)
  16. 山名教豊
  17. 山名政豊
  18. 山名致豊
  19. 山名誠豊
  20. 山名祐豊

山名系図

	  (源氏)			征夷大将軍
八幡太郎義家━┳義親━━為義━━義朝━━源頼朝
	   ┃
	   ┃	新田太郎 新田太郎
	   ┗義国━┳義重━━┳義俊
		   ┃   	┃
		   ┃足利陸奥┃山名三郎 新田太郎 三郎蔵人
		   ┗義康  ┣義範━━━義節━━┳重家━━氏家
 				┃		  ┃
				┃新田次郎	  ┃山名太郎 小太郎
				┣義兼・・・・義貞 ┗重国━┳━朝家
				┃徳川(得川)四郎	  ┃ 次郎   孫次郎 彦次郎
				┗得家			  ┣━重村━┳━義長━━義俊━政氏┓
 							  ┃ 三郎 ┃		  ┃ 
                 			  ┗━國長 ┗━義政       ┃
足利尊氏に従う										  ┃
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
   ┃左京大夫  右衛門佐 民部小輔
   ┗時氏━━┳━師義━┳━義幸
   丹波・丹後┃丹後・ ┃ 相模守			   伯耆守護伯耆守護伯耆守護
  ・若狭・因幡┃伯耆	 ┣━氏幸━━熈氏━━教之━━豊之━━政之━━尚之━━澄之
  ・伯耆・出雲┃	 ┃ 
  ・隠岐守護 ┃	 ┃ 伊豆守
		┃    ┣━義熈
		┃	 ┃
     	┃	 ┃ 播磨守
		┃    ┗━満幸
		┃
	 	┃弾正少弼  中務大輔 修理大夫	  因幡守護
		┣━義理━┳━義清━━━教清━━━政清━━━豊治 
		┃紀伊  ┃
		┃	 ┣━氏親
		┃    ┃
		┃	 ┗━時理
		┃    		中務大輔
		┃中務大輔  中務大輔 ・左衛門佐  治部少輔 治部少輔
		┣━氏冬━━━氏家━━━煕貴=勝豊━━豊時━┳━豊重━━豊治
		┃因幡					  ┃
		┃					  ┃ 左馬助 因幡守護
		┃民部少輔				  ┗━豊頼━━誠通
		┣━氏清━┳━時清
		┃丹波・ ┃
		┃山城守護┣━満氏			   
		┃明徳の乱┃				   ┏━常豊
		┃戦死	 ┗━氏利			   ┃
		┃					   ┣━俊豊	   (村岡山名氏)
		┃左京大夫  宮内少輔 弾正少弼	   ┃		 中務大輔
		┣━時義━┳━時熙━━━持豊(宗全)━┳━教豊━╋━致豊━┳豊定━━豊国━━┓
		┃美作・但馬 但馬守護 山城・但馬 ┃但馬・播磨	・  1.秀吉御伽衆┃
		┃・備後守護      備後・安芸 ┃	   ┗━誠豊━・祐豊━┳棟豊  ┃
		┃山名氏総領		・播磨守護 ┣━是豊	     致豊	┃右衛門督┃
		┃    ┣━氏幸	応仁の乱  ┃	備後		の子養子┗堯熙  ┃
		┃	 ┃ 伯耆		  ┣━勝豊			 馬廻衆 ┃
		┃宮内少輔┃			  ┃					 ┃
		┣━義数 ┗━時長		  ┣━政豊				 ┃
		┃信濃守			  ┃	 				 ┃
		┣━義継 			  ┣━時豊				 ┃
		┃右馬助			  ┃					 ┃
		┣━氏重			  ┗━女子				 ┃
		┃				   細川勝元室			 ┃
		┃修理亮 上総介							 ┃
		┣━高義━━熈高━┳━時長					     ┃
		┃上総介 因幡守護┃	  						 ┃
		┗━義治	 ┣━熈成━━政実					 ┃
				 ┃	  因幡守護					 ┃
				 ┗━熈幸						 ┃
				  因幡守護						 ┃
  		┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
		┃交代寄合  交代寄合 交代寄合 交代寄合 交代寄合 交代寄合 交代寄合
		┃	   伊豆守  弾正忠  因幡守  中務少輔 衛門尉  中務少輔
		┃		   	     大番頭
		┃	  	         寺社奉行 
		┣━2.豊政━┳3.矩豊━━4.隆豊━━5.豊就━━6.豊暄━━7.義徳━━8.義方━━┓
		┃ 	  ┃書院番	  	  光豊の三男 	婿養子(貞俊)	 ┃
		┃ 	  ┗義豊	  					     ┃
		┃	     	  						 ┃
		┣━豊義━━豊守━━光豊  						 ┃
		┃下総葛飾郡		  						 ┃
 		┃		  	  						 ┃
 		┗━豊晴		  						 ┃
				         					 ┃
		┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
		┗━娘・整
		  ∥主膳正  養子     因幡守             
		 9.義蕃━┳10.義問━━11.義済━━12.義路━━13.義鶴
		越前国鯖江┃      村岡県知事  村岡県知事	貴族院議員
	  	藩主間部 ┣━眞龍            貴族院議員
	    詮茂の四男┃了源寺(船橋市)住職
	    婿養子  ┗━秀量
			   誠照寺(鯖江市)住職
			     

  • 山名 義範(やまな よしのり)山名氏の祖。父は新田義重。子に山名重国。平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。通称は三郎(または太郎とも)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男 源義国の長男 新田義重に始まる新田氏の庶子。
    新田義重の庶子・三郎義範(または太郎三郎とも)が上野国多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)に住して山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称した。
    1175年-1177年ごろには豊前国の宇佐八幡宮を勧請し、山名八幡宮を建立している。他の兄弟と比べて新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続しなかったことから、新田氏の中でかなり冷遇されていたと見られる。父とされる義重は治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げた源頼朝の命になかなか従おうとしなかったために、頼朝から不興を買って鎌倉幕府成立後に冷遇されたが、義範はすぐさま頼朝の元に馳せ参じたため「父に似ず殊勝」と褒められ、御家人として優遇され活躍した。
  • 山名 重国(やまな しげくに)
    生没年未詳。鎌倉時代初期の上野国山名郷の武将。清和源氏新田氏の流れを汲む山名義範の子。通称は小太郎。鎌倉幕府の御家人。承明門院蔵人。
    文治元年(1185年)10月、源頼朝が父の源義朝を弔うために建立した勝長寿院の落慶供養に随兵として七列の内の六列目に列している。
  • 山名 政氏(やまな まさうじ)
    鎌倉時代末期~南北朝時代の武士。山名義俊の子。政氏の妻は、足利尊氏の母親の実家、上杉氏の娘。子に山名時氏。
    新田義貞が足利尊氏に対し挙兵すると、総領家である新田氏方にはつかず、妻の親戚の足利氏方についた。
    室町幕府成立後もそのまま尊氏に従っている。
  • 山名時氏(やまな ときうじ)、嘉元元年(1303年) – 建徳2年/応安4年3月28日(1371年4月14日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将である。父は山名政氏、母は上杉重房の娘。子に山名師義、山名氏清、山名義理、山名時義、山名氏冬など。2代将軍足利義詮時代に南朝方から室町幕府に帰服して守護国を安堵された。
  • 山名師義(やまな もろよし)
    1328~1376(嘉暦3~永和2)
    時氏の長子。観応の擾乱では父時氏とともに直義方で戦い南朝に降る。山名氏の勢力拡大に貢献。
    貞和2年(1363年)に時氏が北朝に帰順すると、将軍義詮の政策もあって山名氏が優遇され、師義も丹後・伯耆の守護に任じられた。
    時氏死後は家督を継いだが、わずか5年で師義も死去する。49歳の若さであった。
  • 山名満幸(やまな みつゆき)
    ?~1395(?~応永2)
    師義の四男で末子といわれる。父師義が永和2年(1376年)に死去すると、兄義幸が病弱のために家督を継ぎ丹後・出雲の守護となる。しかし惣領家は師義から、その弟の時義に移ったために不満を持ち、やがて叔父氏清ととも時義と対立。
    山名氏の強大化を警戒した三代将軍義満は、この対立を利用して山名氏の分裂を図り、時義死後家督となった時義の嫡子時煕と満幸の兄氏幸を氏清・満幸に討伐させた。
    この功によって伯耆・隠岐の守護を得たが、満幸はこれに驕って後円融上皇の所領である出雲国横田荘を押領し、義満はこれを口実に満幸を丹後に蟄居させた。
    その後義満は時煕・氏幸を赦免し、逆に氏清と満幸を叛臣とした。これに起こった満幸は氏清とともに兵を挙げ明徳の乱を起こすが、幕府軍に敗れ敗走し、やがて九州で捕らえられ応永2年に処刑された。
  • 山名義理(やまな よしただ)
    生没年不詳
    時氏の二男。永和4年(1378年)に紀伊で楠木一族の橋本正督が反乱を起こして、紀伊守護の細川業秀が敗走し、幕府はその鎮定のために紀伊守護に山名義理、和泉守護に山名氏清を補任した。
    義理は、氏清とともに橋本正督を滅ぼし紀伊守護を安堵される。
    明徳の乱では氏清、満幸とともに幕府に叛いた。しかし義理は出兵はせず、そのために命は助けられたが、紀伊は没収され出家したという。
  • 山名氏冬(やまな うじふゆ)
    ?~1370(?~応安3)
    時氏の三男。観応の擾乱では父時氏や兄師義らとともに直義方で戦い南朝に降る。山名氏の勢力拡大に貢献。
    貞和2年(1363年)に時氏が北朝に帰順すると、将軍義詮の政策もあって山名氏が優遇され、氏冬は因幡守護となった。
  • 山名氏清(やまな うじきよ)1344~1392(康永3~明徳2)山名時氏の四男。応安4年(1371年)に山名氏を大大名にした時氏が死去、さらに永和2年(1376年)に時氏の跡を継いだ師義が没すると山名の家督を継いだのは時氏五男で氏清の弟の時義であった。
    氏清は丹波・和泉と畿内の二ヶ国の守護であったが、惣領となれなかったことに不満を持ち、同様の不満を持つ師義の末子満幸とともに時義と対立する。山名氏清のとき、一族で全国66ヶ国中11ヶ国の守護職を占め、「六分の一殿」と称されて権勢を誇った。しかしその結果、山名氏の強大化を警戒した三代将軍義満は、この対立を利用して山名氏の分裂を図り、時義死後家督となった時義の嫡子時煕と満幸の兄氏幸を氏清・満幸に討伐させた。そして元中8年・明徳2年(1391年)、氏清は義満の挑発に乗って一族の山名満幸・山名義理とともに挙兵(明徳の乱)、ところが、同年12月には京都へ攻め入るも、幕府軍の反攻にあって、その後義満は時煕・氏幸を赦免し、逆に氏清と満幸を叛臣とした。これに起こった氏清は満幸を語らい兵を挙げ明徳の乱を起こすが、幕府軍に敗れ戦死した。

戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、時義の子・山名時熙の但馬守護職、同じく時義の子・氏幸の伯耆守護職のみとなり、一族は大幅にその勢力を減ずるに至った。

  • 山名時義(やまな ときよし)1346~1389(貞和2~康応元)時氏の五男。応安4年(1371年)に山名氏を大大名にした時氏が死去、さらに永和2年(1376年)に時氏の跡を継いだ師義が没すると山名の家督を継いだ。
    美作・備前・伯耆・但馬・隠岐の守護でもあったが、時義の家督継承には兄の氏清、師義の子の満幸などが不満を持ち、山名氏の強大化を警戒した三代将軍義満は、この対立を利用して山名氏の分裂を図り、時義死後家督となった嫡子時煕と満幸の兄氏幸を氏清・満幸に討伐させ、やがて明徳の乱に発展する。
  • 山名 時煕(やまな ときひろ)
    、1367年(正平22年/貞治6年) – 1435年7月29日(永享7年7月4日))は、南北朝時代から室町時代の武将である。父は山名時義で長男。養子として入った兄弟に山名氏幸。正室は山名氏清の娘。子に山名満時、山名持煕、山名持豊(宗全)。「常熈」とも表記する。1389年に父の時義が死去し、家督を相続。山名氏の惣領権を巡る争いから90年3月には山名氏幸とともに3代将軍の足利義満から討伐を受け、一族の山名氏清らに攻められ、但馬から備後へ逃れる。翌91年には義満に赦免され、氏清らが挙兵した明徳の乱では義満の馬廻勢に加わり戦う。戦後には分国の但馬を拝領する。99年に堺で大内義弘が蜂起した応永の乱でも戦い、備後の守護となる。相伴衆として幕政にも参加し、4代将軍の足利義持から6代足利義教時代まで仕える。1414年、32年には侍所頭人を務め、畠山満家とともに宿老となる。16年に鎌倉府で起こった上杉禅秀の乱では、同時期に京都から奔しようとした足利義嗣とともに内通疑惑をもたれる。27年の赤松満祐出奔事件では、討伐軍に加わる。1433年に家督を持豊に譲り、日明貿易に関する横領疑惑で失脚。69歳で死去。 山名氏は91年の明徳の乱で没落したが、時熙の家系が存続した。
  • 山名 宗全/山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)
    、応永11年5月29日(1404年7月6日) – 文明5年3月18日(1473年4月15日))は、室町時代の守護大名。室町幕府の四職のひとつ山名家の出身。山名家は清和源氏新田氏族。山名時熙の三男で、母は山名師義の娘。子に山名教豊、山名是豊、山名勝豊、山名政豊、山名時豊、細川勝元室、斯波義廉室、六角高頼室。諱は持豊で、宗全は出家名。通称は小次郎(こじろう)。
  • 山名 教豊(やまな のりとよ)
    室町時代後期の但馬の守護大名。山名宗全(山名持豊)の嫡男。応永31年(1424年)、山名持豊(山名宗全)の嫡男として生まれる。宝徳2年(1450年)、父の宗全が隠居したため、家督を譲られて山名氏当主となる。享徳3年(1454年)には但馬・播磨・備後・安芸4ヶ国の守護となる。
    応仁元年(1467年)9月9日、父に先立って陣没する。享年44。家督は嫡男の山名政豊が継いだ。
  • 山名 政豊(やまな まさとよ)
    室町時代後期の守護大名。応仁の乱で知られる山名宗全の後継者である。
  • 山名致豊(やまな おきとよ)
    生年不詳 – 天文5年(1536年)。但馬山名氏一族。山名政豊の子。子に山名祐豊・山名豊定。1512年に「山名四天王」と呼ばれる太田垣氏・八木氏・田公氏・田結庄氏ら有力国人衆に離反を起こされてしまう。山名四天王は致豊の弟山名誠豊を擁し、但馬国において強い影響力を及ぼすようになりました。
  • 山名 誠豊(やまな のぶとよ)
    ? – 享禄元年2月14日(1528年3月4日))は戦国時代の武将。但馬山名氏一族。
    父は山名政豊。兄に山名致豊。養子に山名祐豊。1512年山名四天王と呼ばれる但馬国人たちに担ぎ上げられ但馬守護に就任。
    1522年に播磨国の浦上氏の内紛に乗じて、誠豊は播磨へ侵攻し領土拡大を狙うが、1523年11月には敗れて引き上げる。
  • 山名 祐豊(やまな すけとよ)
    但馬の守護大名・戦国大名。永正8年(1511年)、山名致豊の次男として生まれる。父・致豊の弟で但馬の守護を務めていた山名誠豊の養子となり、大永8年(1528年)の誠豊の死去によって家督を継いだ。この頃の山名氏は但馬守護と因幡守護の両家に分裂していたため、祐豊は山名氏の統一を目指して天文17年(1548年)に因幡守護である山名誠通を討ち取り、新たな因幡守護として弟の山名豊定を置き、領国の安定に努めた。天文11年(1542年)に生野で生野銀山が発見された。これにより、祐豊は銀山経営のために生野城を築いたが、この銀山の存在は織田信長や毛利氏らの周辺勢力から目をつけられることとなり、山名氏の領国はたびたび敵の侵攻を受けることとなりました。永禄12年(1569年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の侵攻を受ける。この侵攻を受けて祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡した。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地に復帰している。その後は同じく信長と手を結んでいた尼子勝久や山中鹿介らと協力して毛利輝元と戦りました。元亀3年(1572年)には宿敵である武田高信を山中鹿介と共に討ち取っている。
    黒井城の戦いしかし天正3年(1575年)に、突如として毛利氏と和睦を結んで織田氏を裏切ってしまう。これに怒った信長は、秀吉に再度の侵攻を命じた。そして祐豊は天正8年(1580年)5月21日、秀吉の軍勢が居城である出石城を包囲する中で死去した。享年70。

山名家臣団

たじまる 戦国1 応仁の乱以後の但馬

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

応仁の乱以後の但馬

戦国時代(1467~1568)、但馬の守護大名である山名氏の中でも、親と子、主君と家来同士の間で、血なまぐさい合戦があちこちで行われています。
応仁の乱ののち山名の勢力は急速に衰え、国内にも分裂が起こり、文明十三年(1481)九月にはいったん但馬に引き上げます。また但馬のほか備後・美作・播磨・因幡の守護を兼ねておりましたが、しだいに備後・美作・播磨から撤退していきました。

戦国時代はとても貧しい時代でした。天災による被害で飢饉もあちらこちらで見られました。当然、合戦(乱取り)による飢餓と餓死、それによる疫病も蔓延していました。そのため領主が領主でいるためには、自国領内の庶民をある程度満足(満腹といってもいいかも)させる必要があったのです。それが出来ないと一揆が起きたり、または隣国の比較的条件のいい領主に鞍替え(離散)をされてしまうからです。
それを防ぐ手立ての一つが”戦”だったのです。戦に勝てる強い領主は庶民の信頼得ることができたのです。
戦国期、ほとんどの兵隊は専属ではなく、合戦のとき以外は田畑を耕す農民が多かったのです。税として兵役を課したのですが、戦国後期は現代のアルバイトのような感じで兵隊を雇用するようになったようです。 しかし、信長の場合、おそらくは京、堺などを手中にして、お金をがっぽり巻き上げてからだと思われますが、武器を貸し与え、鉄砲組や足軽組などを組織したようです。また、専属の兵隊も組織したようです(兵農分離)。京も堺も商人の町で当時の大都会ですから、そうしないと兵隊が集まらなかったという実態もあったのでしょう。

応仁の乱と太田垣氏

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太田垣光景が竹田城の守備を山名持豊(宗全)から命じられて以後、但馬国の播磨・丹波からの入口に位置する竹田城が太田垣氏代々の居城となりました。

応仁元年(1467)、「応仁の乱」が勃発すると、西軍の大将となった山名持豊(宗全)に従って太田垣氏も出陣しました。応仁二年三月、竹田城の太田垣土佐守・宗朝父子は京都西陣の山名の西軍に参軍し、太田垣宗朝(むねとも)の弟新兵衛(宗近?)を留守将として竹田城を守らせていましたが、その守備は手薄でした。しかも、山名方の垣屋・八木・田結庄氏らも京都に参陣し、山名の領地である但馬国は、東軍の丹波守護細川氏や播磨の赤松氏にとって、侵攻するのに好都合な状態でした。
そして、長九郎左衛門や、細川氏の重臣で丹波守護代の内藤孫四郎を大将とする足立・芦田・夜久等の丹波勢が但馬に乱入したのです。かくして、細川方は、一品・粟鹿・磯部(いずれも朝来市山東町)へ攻め入りました。この時、竹田城留守将太田垣新兵衛は、楽音寺に陣を取っていましたが、一品に攻め入った敵は葉武者と見抜いて、これにかまわず磯部へ兵を進めました。細川方の内藤軍は東河(朝来市和田山町)を進発し、かれらが民家を焼き払った煙が山の峰から尾に立ちのぼっていました。それを見た太田垣軍は夜久野の小倉の氏神賀茂宮の山に立って眺めると、内藤軍が魚鱗の陣形に布陣しているのが見えました。

その大軍に対して、小勢の太田垣新兵衛を大将とする山名方の諸将は、一瞬、攻めかかることを躊躇しました。しかし、大将太田垣新兵衛・行木山城守らは陣頭に立って、鉾先をそろえて打ってかかりました。その勇猛果敢な突撃に内藤軍が陣を乱したところを、太田垣軍はさらに襲いかかりました。

敵将内藤孫四郎・長九郎左衛門らも踏み止まって奮戦しましたが、討死してしまいました。大将が討死したことで、夜久野の細川方の軍勢は散り散りになり、東河へ攻め入っていた者らも、我先にと敗走しました。さらに、粟鹿・一品に攻め入った者達もこれを見てたまらず逃げ失せてしまいました。山名方の大勝利でした。これを世に「夜久野の合戦」と呼ばれています。

合戦に勝利を得た太田垣新兵衛は、勝報を京都西陣の山名宗全へ注進したところ、宗全は大変感激して、身に着けていた具足に御賀丸という太刀を添えて太田垣新兵衛に与えました。この太刀は宗全が足利義満より下賜された宝刀であり、新兵衛は大いに面目をほどこしたのでした。応仁の乱以後も、太田垣氏は山名氏に仕え、垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名四天王と呼ばれる存在となり、但馬の勢力を培っていきました。

竹田城(たけだじょう)


兵庫県朝来市竹田

  • JR播但線竹田駅からタクシーで約10分または徒歩で約50分
  • JR山陰本線和田山駅からタクシーで約20分
    道路
  • 播但連絡道路・北近畿豊岡自動車道和田山ICより約10分

中世山城。縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっています。東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭があります。石垣には織田信長がしばしば採用した穴太流石積みの技法(野面積み技法)が用いられています。廃城から約400年を経ていますが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として全国屈指の規模となっています。

竹田城は、但馬国守護大名山名持豊(宗全)によって、出石此隅山城の出城として、播磨、丹波と但馬の国境が近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で建設されました。築城は1431年(永享3年)、完成は嘉吉年間(1441~43年)と伝えられています。当初は土塁造りの城郭でしが、羽柴秀長から赤松広秀(斎村政広)の城主時代における改修工事により、総石垣造りの近世城郭として生まれ変わり、廃城間近に現在の壮大な姿となりました。修復には13年の年月を要し、竹田城は標高353.7mもある山上に、今のように機械があっても大抵のことではないのに、人の肩と手と足で五百年も昔では、考えることもできない大工事だったのでしょう。

山名氏のもとでは明徳の乱・応永の乱に活躍して、山名四天王のひとりとして台頭してきた太田垣氏が配されました。応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けますが、太田垣氏らの軍勢が国境の夜久野が原に細川方を撃退しました。

「竹田城跡」周辺

寺町通り

古城山のふもと、4カ寺と表米神社が並ぶ約600メートルの区間は「寺町通り」と呼ばれ、歴史散策路として親しまれています。白壁の塀や錦鯉が泳ぐ小川、松並木、小川沿いと虎臥城公園に植栽された約3000株の花しょうぶなどが目を楽しませてくれます。

表米神社(ひょうまいじんじゃ)

祭神は格技を好んだという表米宿弥命。表米は日下部氏族太田垣氏の祖。参道横の広場に相撲桟敷が設けられています。これは全国でも珍しい半円形石積段型桟敷で、正面には舞台もあり、歌舞伎なども上演されたのではと考えれられています。
法樹寺

竹田城最後の城主赤松広秀の菩提寺です。赤松公は文人としても優れ、領民から慕われる武将でしたが、関ヶ原の合戦で西軍に属し敗北。その後、鳥取城攻めで城下に火を放ったとされ、自刃しました。境内の裏手に墓碑が祀られています。

常光寺

山名宗全の四天王の一人であり、竹田城の初代城主、太田垣光景の菩提寺。光景公の墓碑とされる石塔が残っています。
「竹田城跡」周辺については朝来市ページより

(余談ながら拙者の母方は、赤松と共に宍粟郡三日月村中島より移った竹田赤松氏家老で、養父郡大塚庄を領し後に帰農した中島重右衛門と伝わっています。)

生野城

生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられています。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。

この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれています。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。

この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていました。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。

赤松氏との抗争

宗全の死後、家督は山名政豊が継いだものの、宗全死去や応仁の乱などによって一族の勢力は急速に衰退していきました。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、時義の子・山名時熙の但馬守護職、同じく時義の子・氏幸の伯耆守護職のみとなります。

領内では毛利次郎の乱をはじめとする国人による反乱が相次ぎ、家督をめぐる一族内部での争いが始まりました。さらに出雲の尼子経久、周防の大内義興、備前の浦上村宗らの圧迫を受けるようになり、次第に領土を奪われて、政豊の子・山名誠豊の時代には、誠豊が但馬、山名豊時の孫・山名誠通が因幡をかろうじて支配するという状態に陥りました。しかも、これを契機に山名家は但馬守護家と因幡守護家に分裂し、互いが宗家の家督をめぐって争う有様でした。

文明十一年(1471年)、赤松政則は播磨に下向すると播磨・備前・美作三国の支配に乗り出しました。政則は山名氏の分国因幡の有力国衆毛利次郎を援助して、山名氏の後方攪乱をはかりました。毛利次郎は因幡一国を席巻し、山名氏にとって看過できない勢力となっていました。

赤松政則は、山名氏の分国である因幡・伯耆の有力国衆を抱き込んで山名氏への反乱を起させました。因幡では私部城に拠る毛利次郎が赤松氏に通じ、他の国衆も毛利次郎に加わって反乱は内乱の状況を呈しました。因幡の状況を重くみた政豊は但馬に帰国すると、ただちに因幡に出撃し、守護山名豊氏とともに毛利次郎を因幡から追放しました。ところが翌年、伯耆国で南条下総入道らが政則に通じて伯耆守護山名政之から離反、一族の山名元之とその子小太郎を擁して兵を挙げました。政豊は政之を応援して出兵、反乱は文明十三年に及びましたが、元之らを追放して内乱を鎮圧しました。

赤松政則の策謀による因幡・伯耆の反乱に手を焼いた政豊は、政則の介入を斥け、播磨の奪還を目指して出兵の準備を進めました。一方、政豊の嫡男で備後守護の俊豊は、父に呼応して備前から播磨への進攻を狙いました。俊豊は備前の有力国衆松田氏元成を味方に引き入れると、文明十五年、赤松氏の守護所福岡城(備前)を攻撃しました。松田一族は一敗地にまみれたものの、俊豊は太田垣氏らの兵を率いて備前に進撃しました。かくして、但馬の政豊は俊豊の動きに合わせて、播磨へ向けて出陣すると、国境の生野に布陣しました。

ときに京にいた赤松政則は、ただちに播磨に下向しましたが、生野方面と福岡城方面との両面作戦を迫られました。重臣の浦上則宗は備前福岡の救援を説きましたが、政則は生野方面を重視し、主力を率いて生野へと出陣しました。両軍は真弓峠で激突、結果は山名方の大勝利で、敗走する赤松軍を追って播磨に雪崩れ込みました。政則の敗報に接した福岡城救援軍も播磨に引き返したため、福岡城の守備兵は四散しました。戦後、赤松政則は播磨を出奔、浦上氏ら重臣は政則を見限って赤松一族の有馬氏から家督を迎えました。ここに、山名氏は播磨・備前を支配下に置き、垣屋氏、太田垣氏らを代官に任じて播磨の支配に乗り出しました。

政則が出奔したあとの赤松軍は浦上則宗が中心となり、備前方面で山名軍と泥沼の戦いを展開しました。山名氏が備前方面に注力している隙を狙って、文明十七年(1485)、細川氏の支援を得た政則は播磨に帰国すると旧臣を糾合、垣屋一族が守る蔭木城を急襲しました。不意を討たれた垣屋勢は 越前守豊遠 左衛門尉宗続父子、平右衛門尉孝知ら主立った一族が討死する大敗北を喫し、辛うじて城を脱出した田公肥後守が書写坂本城の政豊に急を報じました。蔭木城の陥落は、赤松政則の動きにまったく気付いていなかった政豊の油断であったのです。

出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝

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室町-7 応仁の乱

応仁の乱

概 要

戦国時代(1493年(1467年)頃-1573年頃)は、1493年の明応の政変頃あるいは1467年の応仁の乱頃をそのはじまりとし、1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって追放されて室町幕府が事実上消滅するまでの約百年におよぶ全国的規模の争乱の時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。室町時代の一部、あるいは信長上洛以後を織豊時代(安土桃山時代)と区分することもあります。

幕府権力は著しく低下し、全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現し、ほぼ恒常的に相互間の戦闘を繰り返すとともに、領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めていきました。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制といいます。織田信長は、尾張統一を果たし、また徳川家康が独立して戦国大名となります。織田軍団が全国制覇に動き出します。

とくに応仁の乱以降の百年ばかりの間というものは、日本の歴史において最も大きな転換期とされています。日本を大きく、新しく、改造してしまうことになりました。それ以前の古代では律令国家への権力統合、中世にはそれがゆるやかになり、中央では寺社や権門[*1]が独自の組織を形成して分立しました。戦国時代はそうした特権階級以外の人々には直接関わりのない歴史とは異なり、下克上という「日本全体の入れ替わり」つまり支配階層の全面的な交替が起きたという直接我々に触れる歴史です。
[*1]…権門(けんもん)とは、古代末期から中世の日本において、社会的な特権を有した権勢のある門閥・家柄・集団をさす

1.応仁の乱の原因


山名宗全邸址 2009/1/28 上京区堀川通上立売下る一筋目北西角

応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代の8代将軍・足利義政のときに起こった内乱です。室町幕府管領の細川勝元と四職・山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し戦国時代に突入するきっかけとなりました。応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれます。もともとは、守護大名・畠山氏内部の家督争いへの将軍家の調停失敗に端を発しています。

ただし、実際には文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあり、両氏が対立関係となるのは寛正6年から両氏が和睦する文明6年(1474年)までであり、ことさらに勝元と宗全の対立を乱の要因とする理解は、『応仁記』の叙述によるものであるとの見解が提起されています。

室町幕府は、南北朝時代の混乱や有力守護大名による反乱が収束した将軍足利義満・足利義持の代に将軍(室町殿)を推戴する有力守護の連合体として宿老政治が確立していました。籤(くじ)引きによって選ばれた6代将軍の足利義教が専制政治をしいて、嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に誘殺されると(嘉吉の乱)、政権にほころびが見え始めます。7代将軍は義教の嫡子・足利義勝が9歳で継いだが1年足らずのうちに急逝し、義勝の次弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され8歳で将軍職を継承しました。

義政は母・日野重子や愛妾・今参局らに囲まれ、家宰の伊勢貞親や季瓊真蘂等の側近の強い影響を受けて気まぐれな文化人に成長しました。義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていました。

打続く土一揆や政治的混乱に倦んだ義政は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、それは長禄・寛正の飢饉にも対策を施さない程になっていました。義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に、将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立ちました。禅譲を持ちかけられた義尋は、まだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けました。しかし、義政が「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない」と起請文まで認めて、再三将軍職就任を説得したことから、寛正5年11月26日(1464年12月24日)、義尋は意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移りました。

文正の政変は、文正元年(1466年)7月、突然義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波武衛家の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えました。義廉と縁戚関係にあった山名宗全は一色義直や土岐成頼らとともに義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放を図ったことから、義視の後見人である勝元は宗全と協力して貞親を近江に追放、このとき政変に巻き込まれた季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われました(文正の政変)。

2.勝元と宗全の対立


山名宗全屋旧跡(2009/1/28)上京区堀川通五辻西入ル

嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に誘殺されると(嘉吉の乱)、政権にほころびが見え始めました。7代将軍は義教の嫡子・足利義勝が9歳で継ぎましたが1年足らずのうちに急逝し、義勝の次弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され8歳で将軍職を継承しました。義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていました。将軍足利義政は政治に疲れ、男子にも恵まれなかったことから僧籍にあった弟の義視を還俗させて後継者に立てていました。

嘉吉の乱鎮圧に功労のあった宗全は、主謀者赤松氏の再興に反対していましたが長禄2年(1458年)、勝元が宗全の勢力削減を図って自分の娘婿である赤松政則を加賀国守護職に取立てたことから両者は激しく対立するようになっていました。文正の政変で協力した2人でしたが、それぞれ守護大名の家督争いに深く関わっていたため、強烈に対立する2人でもありました。

ところが、寛正6年11月23日(1465年12月11日)、正妻の日野富子が懐妊、やがて男子(足利義尚(のち義煕))が誕生すると、にわかに後嗣問題は波乱含みとなったのです。実子・義尚の将軍職擁立を切望する富子は宗全に接近し、義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍しました。これに、管領斯波氏、畠山氏の家督問題が絡み、時代は動乱前夜の様相を呈していました。
一方、赤松氏で唯一残っていた次郎法師丸が、遺臣らの神璽奪還の功により再興が許されたのです。赤松氏再興の背後には管領細川勝元がおり、将軍継嗣問題、管領家の家督騒動、そして赤松氏の再興とが相まって宗全と細川勝元の対立は決定的となってしまいました。義視の後見人である勝元と義尚を押す宗全の対立は激化し将軍家の家督争いは、全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、衝突は避け難いものになっていきました。

3.応仁の乱

かくして、応仁元年(1467)1月、管領畠山政長の解任を契機として対立は発火点に達し、京都御霊社に陣取った勝元方の畠山政長を宗全方の畠山義就が攻撃したことで、応仁の乱の火ぶたが切られたのです。

応仁元年(1467)史上に類を見ない応仁・文明の乱が起こります。それは三度目の赤松氏再興の問題をめぐって山名持豊と細川勝元が対立し、管領の畠山氏と斯波氏の間での将軍の後継ぎ問題がからんで戦いが起こりました。両陣営とも地方から続々と兵力を上洛させました。幕府は争いを調停せず(できず)、両陣営の大兵力は京の東西に布陣する。前哨戦とも言える小競り合いを経て、5月26日に本格的な合戦が始まりました。乱が起こると応仁二年、宗全は但馬でも山名の四天王垣屋・太田垣・八木・田結庄(たいのしょう)を中心に、因幡・備後の勢力も軍備を整えて但馬に入り、総勢二万六千あまり此隅山城(このすみやまじょう)下の出石(いずし)付近に勢揃いしました。六月八日には西軍を率いて挙兵し、十五日には丹波口(京都)にさっそうと入りました。

細川勝元は京に軍勢を集結した山名方の留守を突いて、丹波守護代内藤孫四郎、長九郎左衛門らを但馬に侵攻させました。これを迎え撃ったのは、京に出陣中の父や兄の留守を守っていた太田垣新兵衛でした。竹田城から出撃した新兵衛は、但馬・丹波の国境の夜久野高原に布陣する細川勢に突入、内藤備前守孫四郎、長九郎左衛門らを打ち取る勝利しました。山名一族の大方は宗全に属しましたが、二男で備後守護の是豊(これとよ)は勝元方について宗全と対しました。その原因は、宗全には嫡男の教豊があり、幕府の横槍があったとはいえ家督も譲っていました。ところが、寛正元年(1460)宗全は教豊を放逐しました。これによって、是豊は自分が山名氏の家督を継げると期待したのですが、ほどなく教豊(のりとよ)が嫡男に復したことで野望はあっけなく潰れました。この家督をめぐる不満と、勝元の娘婿であったことなどが相俟って、是豊は勝元方につき石見・山城の守護職に補任されたのです。東軍にあって気を吐いたのは、播磨奪還を目指す赤松政則と山名是豊でした。さしもの権勢を誇った宗全でしたが、山名氏一族の統制は鉄壁とはいえないものがあったのです。

一方、播磨の回復を狙う赤松氏では、一族の赤松下野守が播磨に下り、旧臣を糾合すると播磨はもとより美作・備前の両国も回復してしまいました。これに対して山名方は、太田垣宗朝が但馬に帰り、夜久野合戦勝利の余勢をかって丹波へ侵攻、氷上郡の全域と多紀郡の大山荘あたりまでを制圧する勢いを示しました。


西陣織会館 上京区堀川通今出川南入(2009/1/28)

「西陣」の名は応仁の乱で西軍総大将である山名宗全が堀川よりも西に陣をおいたとされたことが由来です。 今出川通の大宮通と堀川通の間に西陣の史跡があます。西陣(にしじん)とは京都府京都市上京区から北区にわたる地域の名称。上京区内の東の堀川通から西の七本松通、北の鞍馬口通から南の中立売通あたりまでの範囲の中を指しますが、住所としては存在せず、どこからどこまでかは正確に定められているわけではありません。 一般に鎌倉時代前半に綾織りの織り手がすでに集住していたことが知られており、西陣織など織物産業が集中する地域です。 また、日本で初めて映画館ができた場所です。

4.戦火の拡大

応仁の乱は京都が主戦場でしたが、後半になると地方へ戦線が拡大していきました。これは勝元による西軍諸大名(大内氏・土岐氏など)に対する後方撹乱策が主な原因であり、その範囲は奥羽・関東・越後・甲斐を除くほぼ全国に広がっていきました。ここでは東西両軍に参加した守護大名や豪族を列挙しますが、時期によっては去就が異なる場合があります。主に応仁4年(1470年)頃の状況に照らした去就を記す(参考資料:『鎌倉・室町人名辞典』・『戦国人名辞典』)。

■東軍

  • 守護大名
  • 細川勝元および細川氏一門:摂津・和泉・丹波・淡路・讃岐・阿波・土佐
  • 畠山政長:越中・(河内)
  • 斯波義敏・斯波持種:(尾張・越前・遠江)
  • 京極持清:飛騨・近江半国・出雲・隠岐
  • 赤松政則:播磨・加賀半国(備前・美作)
  • 山名是豊:山城・備後
  • 武田信賢・武田国信:若狭 安芸半国
  • 今川義忠:駿河
  • 富樫政親:加賀半国
  • 北畠教具:伊勢半国
  • 大友親繁:豊後・筑後
  • 少弐頼忠:肥前・対馬(筑前)
  • 菊池重朝:肥後
  • 島津立久:薩摩・大隅・日向(ただし、実戦には参加していない)
  • 豪族
    • 小笠原家長、木曽家豊、松平信光、吉良義真、筒井順尊、吉川経基、吉見信頼、益田兼堯、大内教幸、小早川熈平、河野教通、相良長続など

■西軍

  • 守護大名
  • 山名持豊(宗全)および山名氏一門:但馬・因幡・伯耆・美作・播磨・備前・備中(ただし、山名是豊を除く)
  • 畠山義就:河内(紀伊・大和)
  • 畠山義統:能登
  • 斯波義廉:越前・尾張・遠江
  • 一色義直:丹後・伊勢半国
  • 小笠原清宗:信濃
  • 土岐成頼:美濃
  • 六角高頼:近江半国
  • 河野通春:伊予
  • 大内政弘:長門・周防・豊前・筑前
  • 豪族
    • 吉良義藤、飛騨姉小路家、富樫幸千代、毛利豊元、武田元綱、竹原小早川氏、渋川尹繁・島津季久、一色時家など

京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半でした。「東軍」は皇室と将軍義政を確保し義政の支持を受けて「官軍」と号したことに加え、地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加え、その近隣地域にも自派の守護を配置していたため、「東軍」が優位を占めていました。「西軍」は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める地方の勢力が参加していました。このため西軍には、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や六角高頼・土岐成頼のように成り行きで参加したものも多く、その統率には不安が残されていました。

一方、関東地方や東北、九州南部などの地域は既に中央の統制から離れて各地域で有力武家間の大規模な紛争が発生しており、中央の大乱とは別に戦乱状態に突入していました。
しかし、細川領の丹波国を制圧した山名軍8万が上洛し、8月には周防から大内政弘が四国の河野通春ら7ヶ国の軍勢と水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復しました。激戦となった相国寺の戦いは両軍に多くの死傷者を出しましたが、勝敗を決するには至りませんでした。

長引く戦乱と盗賊の頻発によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃しました。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなっていました。かつて大義名分に掲げられていたはずの、守護大名たちが獲得を目指していた幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや獲得するものは何もなかったのです。

この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたにも関わらず主だった将が戦死することもなく、惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま和睦成立と言う形でしか決着はつきませんでした。義政が義尚に将軍職を譲ったことは、将軍自らがその職務を放棄した事を意味しました。大内政弘が撤退したのも、領土の安堵を約束させるために日野冨子に政弘が賄賂を贈ったからこそできたことでした。西軍の解体はわずか1日で終わったと伝えられています。

5.応仁の乱の影響

文明九年(1477年)、西軍の中心的存在であった畠山義就、大内政弘らが相継いで領国に撤収したことで、さしもの応仁の乱も終熄を迎えました。しかし、乱はすでに全国に拡散しており、世の中は下剋上が横行する戦国乱世へと推移していました。応仁の乱の長期化は、将軍義政の気紛れと優柔不断さが最も大きな原因となったことは言うまでもありません。さらに、応仁の乱は室町幕府の形骸化を引き起こし、終結から100年足らずにして室町幕府を滅亡へと追いやりました。

応仁の乱は、将軍や守護大名の没落を促進し、守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように真の実力者の身分上昇をもたらしました。社会は下克上は全国に拡散され、戦国の世の幕開けとなったのです。

残存していた荘園制度等の旧制度が急速に崩壊し始めると、新しい価値観を身につけた勢力が登場した。応仁の乱終了後も政長と義就は山城国で戦い続けていたが、度重なる戦乱に民衆は国人を中心にして団結し勝元の後継者であった政元の後ろ盾も得て、山城国一揆を起して両派を国外に退去させた。加賀国においては、本願寺門徒が富樫政親を追った(加賀一向一揆)。これは、旧体制に属さない新勢力が歴史の表舞台に現れた瞬間であった。


清明神社

京都市上京区堀川通一条上ル806一条天皇は平安期の陰陽師・阿部清明の遺業は非常に尊いものであったこと、そして晴明公は稲荷大神の生まれ変わりであるということで寛弘4年(西暦1007年)、そのみたまを鎮めるために晴明公を祀る晴明神社を創建されました。境内の「清明井」は悪疫難病を平癒するという霊泉。

星形の清明桔梗印呪符や陰陽道、天文学に通じた神主の祈祷、人生相談が人気です。応仁の乱の後豊臣秀吉の都造り、度々の戦火によってその規模は縮少。そして、古書、宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続きました。そこで、地元の氏子が中心となり嘉永6年、明治11年、明治36年、昭和3年に整備改修が行われました。また昭和25年には多年の宿望であった堀川通に面する境内地を拡張するなど御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が進められました。近年は陰陽師が一大ブームが巻き起こり、文芸、漫画、映画などを通じて晴明公の存在は広く知られ、全国にその崇敬者を集めるようになりました。

持豊(宗全)が亡くなったあと、孫の政豊(まさとよ)が後を継いで惣領となり(子の教豊は応仁の乱の起こった応仁元年陣中で亡くなった)、文明6年4月3日(4月19日)、宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立し、終結しました。

11年間という長引く戦乱と盗賊の暴挙によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃しまいました。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなってしまいました。かつて大義名分に掲げられていたはずの、守護大名たちが獲得を目指していた幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや獲得するものは何もなかったのです。

この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたにも関わらず主だった将が戦死することもなく、惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま和睦成立と言う形でしか決着はつきませんでした。義政が義尚に将軍職を譲ったことは、将軍自らがその職務を放棄した事を意味しました。応仁の乱の長期化は、将軍義政の気紛れと優柔不断さが最も大きな原因となったことは言うまでもないことです。さらに、応仁の乱は室町幕府の形骸化を引き起こし、100年足らずにして室町幕府を滅亡へと追いやってしまいました。また、越前(福井県)の守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように真の実力者の身分上昇をもたらしました。社会は下克上の風潮が大勢を占め、戦国の世の幕開けとなったのです。

一方で、町衆主導によって行われたと評価されてきた明応9年(1500年)の祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りであったことを考えると、逆に当時の社会不安の反映が祇園祭再興を促したという側面も考えられるています。本当の意味での町衆による祇園祭開催が可能になったのは、天文2年(1533年)の幕府の延期命令に対する町衆の反対運動以後と考えられています。また、当時町衆における法華宗受容も社会不安からくる信仰心の高まりと関連づけられています。
また、応仁の乱以後を「戦国時代」とするのが従来の説でしたが、応仁の乱以降、室町幕府が衰退しつつも影響力が一応維持されていたと考えられるため、明応の政変(明応2年(1493年))以後を戦国時代とするのが現在では有力な説の一つとなっています。

6.九日市城(ここのかいちじょう)と当辺羅山(とべらやま)の合戦

南北朝末期から15世紀まで、但馬守護・山名氏は、守護所を豊岡市九日市に置きました。東側の円山川を外濠に見立て、西側の当辺羅山の嶺々に城を築き、中心(九日市上町)の自然堤防台地をお屋敷が占める防御態勢でした。1454年(享徳3年)から4年間、山名宗全は将軍足利義教の怒りに触れて、京から当地に退去しました。この間に備後国被官・山名泰通に安堵状を発しています。

御屋敷内には一族の日真上人の産湯井が残り、山名大明神祠もあります。外縁部には山名氏菩提寺の系譜を引き、日真上人が改名した法華宗妙経寺が現存しています。

応仁元年(1467)足利幕府や諸大名の勢力争いから始まった有名な応仁の乱は、京都を焼け野原とし、続いて地方に広がって、戦いは十一年も続けられましたが、その西軍の総大将、但馬国守護大名山名宗全(持豊)ですが、宗全の子・是豊は、父の宗全と領地問題で仲が悪くなり、東軍の細川方につくこととなりました。文明三年(1471)、是豊の子の山名七郎頼忠をして、父宗全の本拠地である九日市城に攻め入るように指示しました。これに味方したのが、奈佐谷の奈佐太郎高春でした。奈佐太郎は当辺羅(とべら=戸牧)山に陣を張りました。

宗全の家来で九日市城を守っていた垣屋平右衛門は、これらに対して積極的に戦いをいどんで、頼忠を追っ払い、高春を討ち取りました。
歴史家の石田松蔵氏(豊岡市)は、この合戦の九日市城が、後の豊岡城であり、当辺羅山(戸牧山)というのが、今の文教府付近と思われるとのことです。

7.戦国時代の国内社会

戦国時代はとても貧しい時代でした。天災による被害で飢饉もあちらこちらで見られました。当然、合戦(乱取り)による飢餓と餓死、それによる疫病も蔓延していました。そのため領主が領主でいるためには、自国領内の庶民をある程度満足(満腹といってもいいかも)させる必要があったのです。それが出来ないと一揆が起きたり、または隣国の比較的条件のいい領主に鞍替え(離散)をされてしまうからです。

それを防ぐ手立ての一つが”戦”だったのです。戦に勝てる強い領主は庶民の信頼得ることができたのです。
戦国期、ほとんどの兵隊は専属ではなく、合戦のとき以外は田畑を耕す農民が多かったのです。税として兵役を課したのですが、戦国後期は現代のアルバイトのような感じで兵隊を雇用するようになったようです。 しかし、信長の場合、おそらくは京、堺などを手中にして、お金をがっぽり巻き上げてからだと思われますが、武器を貸し与え、鉄砲組や足軽組などを組織したようです。また、専属の兵隊も組織したようです(兵農分離)。京も堺も商人の町で当時の大都会ですから、そうしないと兵隊が集まらなかったという実態もあったのでしょう。

出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
「ヨーロッパの歴史」-放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
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たじまる 年表

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

カンブリア紀では、原生代(先カンブリア紀)によって形成された海洋が地球上のほぼ全てを覆い尽くす。
5億4,200万年前以前 肉眼で見える大きさで硬い殻を持った生物の化石が初めて産出する。

海中では様々な種類に至る海洋生物が現れ、中でも三葉虫等の節足動物が繁栄し、藻類が発達した。
カンブリア爆発…この時期の初期には動物門のほとんどすべてが出現したと考えられ、この時代に動物の多様性が一気に増大した可能性がある。

後期には多細胞生物も出現した。北海道もアンモナイトの世界的な産地の1つで、約1億年前頃の化石が多く発見されている。

約20万~19万年前 ホモ・サピエンス (現在のヒト) の出現。

約14万年前 氷期 (リス氷期) のピーク。この後、急速に温暖化へと向かった。

アフリカに出現、10万年前頃にユーラシア大陸にも拡大したと考えられている。

約5万年前 クロマニョン人。

最古の洞窟壁画

現在知られている古いものでは、南フランスのショーヴェ洞窟壁画 (約3万年前?)がある。また、ラスコー (約1万8千年~1万6千年前)、アルタミラ(約1万4千年~1万3千年前)など多くの洞窟壁画がある。

約3万年前~2万年以前 – モンゴロイドがアメリカ大陸に渡る。

氷河期の時代にベーリング海峡は地続きになっていた。この頃、ユーラシア大陸から無人のアメリカ大陸に人類が移り住んだと考えられている。約1万年前頃までには、南アメリカ大陸の南端地域まで到達した。

約2万年前 – ウルム氷期 (最終氷期)のピーク。気温は年平均で摂氏7度から8度も下がった。そのため地球上で氷河が発達し、海水面が現在よりも 100メートル から最大で 130メートル ほど低かったと考えられている。その後、温暖化と寒冷化の小さな波をうちながら、長期では徐々に温暖化に向かった。

約1万6千年前 東南アジアにあったとされるスンダランドが、海面上昇により徐々に後退。

約1万2千年前 こと座 (七夕の織り姫星付近) が北極星だった。
紀元前4万年頃 アボリジニーがオーストラリアに渡来する。

「柳江人」(中国広西省出土;約4万年前の化石人骨)。

約3万年前 – ネアンデルタール人がこの頃絶滅。

25万年前から40万年前に住んだと思われる「北京原人」の骨と遺物(1921~)

ジャワ原人(1891)

約7万3千年前 – スマトラ島のトバ火山の大噴火。スマトラ島のトバ湖はこの時の噴火によって形成されたカルデラ湖。ここ10万年ほどでは最大級の噴火とされ、地球の気温が数年間3~3.5度低下した。

ヒトのDNAの解析によれば、7万年ほど前に人類の人口が一万人以下に激減し、遺伝的な多様性の多くが失われ現在の人類につながる種族のみが残った「ボトルネック効果(遺伝子多様性減少)」があったと考えられるが、これがトバ火山の大噴火に関連すると考えられている。

約1万4千年前~約1万年前 この頃までにイヌを飼い慣らしたと考えられている。

約1万3千年前~1万年前 温暖化が進行しつつあったが寒冷気候に戻った時期である。2万5千年前頃 鹿児島県にある姶良(あいら)火山が大爆発を起こす。

この頃を境にナウマンゾウが日本列島から姿を消す。
約1万8千年前 日本海に津軽海峡を通って寒流である親潮が流入し、この影響で朝鮮海峡あるいは対馬海峡から表層水が流出した。

青森で発見の土器が世界最古(1万6千年前)と判明

静岡県浜松市で発掘された浜北人(約1万4,000年前)

「港川人骨」(沖縄県具志頭村港川)1万数千年前の化石人骨数体分が採集
約1万3千年前 – 日本列島が大陸から完全に離れ、ほぼ今の形を整えたと考えられている。マイナス約60メートルの宗谷海峡が海水面下に没した。

対馬暖流は一進一退を繰り返しながら日本海に流入していき、約1万から8千年前の間に、現在と同じような海洋環境になったと考えられている。海抜5m以上の盆地周辺からは貝塚や縄文遺跡などが数多く発見されており、旧石器時代に人々が住み着いていたことが推測されます。

鳥取県・上淀廃寺跡
但馬守が来任するころには、郷・村・保等も整い、鎌倉期になって荘園が置かれ、荘司が政治をとるようになり、ことに承久3年(1221年)但馬守護太田昌明の本拠地となったころ管理はようやくゆきとどくようになり、文化も次第に向上する機運に乗ったといわれています。

朝来町 立脇廃寺

 

時代期別西 暦地 球西 洋東 洋国 内但馬国

*1

約38億年前地球誕生44億年前 地球は、太陽の周囲を廻る軌道にあった天体、すなわちミニ惑星が合体して形成されたとされる。小さな塵などが合体して火星ほどの大きさになり、それがさらに10個ほど衝突して現在の地球となった。最後の衝突(ジャイアント・インパクト)

海の形成。

40億年~38億年前 この頃、現在、知られている最古の堆積岩が現れる。原始生命が誕生したと考えられている。
始  生  代約38億年前から約25億年前この時大陸がはじめて安定した。そして光合成によりエネルギーと酸素を作り出す微生物、シアノバクテリア
が誕生。
嫌気性微生物細胞呼吸は酸素を必要としなかった。生き残った嫌気性微生物たちは酸素に耐性を持つようになったか、酸素のない環境で暮らすようになった。
原  生  代前期25億~16億年前24億年前~22億年前 現在分かっている最古の氷期。? ヒューロニアン氷期>

20数億年前? 大気中の酸素の増加。>

約10億~7億年前 ロディニア超大陸の形成。約6億年前に分裂したと考えられている。
真核生物の誕生。中期の終盤には有性生殖への進化が起きた。
後期9億年前から5億4,200万年前オゾン層ができて紫外線が地表に届かなくなった。地理的に、新原生代には超大陸ロディニアが少なくとも8つの地塊に分裂したことによる複雑な大陸移動が引き起こったと考えられる。この大陸移動の結果、「スノーボールアース」として知られる赤道まで氷床に覆われるかつてない厳しさのスターティアン氷期・マリノア氷期といった大規模な世界的氷河期が起こった。生殖への進化が起きた。
8億年前~6億年前 大規模氷河時代。雪球地球 (スノーボールアース)仮説。
藻類によって大気中に酸素の放出が始まり、また、古細菌がユリアーキオータ、クレンアーキオータ、原始真核生物の三系統に分岐し、さらに原始真核生物にαプロテオバクテリア(後のミトコンドリア)が共生することで現在の真核生物が成立した。後期には多細胞生物も出現6億年前~ -約5億3000万年前 カンブリア爆発と呼ばれる生物の多様化が起こる。今日見られる動物の「門(生物の体制)」が出そろった現象であるとされる。生物種の爆発的増加。(バージェス動物群)三葉虫など無脊椎動物の繁栄。

*2

約5億4,500万年前~約5億500万年前概して温暖で、極地方には氷河がなかったと考えられている。
オル

約5億900万年前から約4億4,600万年前オゾン層の形成。オゾン層は、太陽からの有害な紫外線の多くを吸収し、地上の生態系を保護する役割を果たしている。オウムガイの全盛期で三葉虫のような節足動物や筆石のような原索動物が栄えた。甲冑魚のような魚類が登場したのもこの時代である。4億3千年前頃 生物の大量絶滅(オルドヴィス紀末)
シル

約4億4000万 – 4億1000万年前地球温暖期3つの大陸は徐々に接近し、約4億2,000万年前に衝突した。このためイアペトゥス海は消滅し、ユーラメリカ大陸(ローラシア大陸とも)という大陸が形成された。4億年前 陸上植物が出現。アンモナイトが現れる。* あごやうろこを持つ魚類の登場。サンゴ類の繁栄。植物の陸上進出。昆虫の誕生。脊椎動物の登場、無顎類動物が一般的に。

約4億1,600万年前から約3億6,700万年前「魚の時代」と呼ばれる。古生代の中ごろ。魚類が繁栄し、シーラカンスや肺魚、アンモナイトもこの時代に出現。

陸上では、最古の森林が発達し、巨大な節足動物が出現。また両生類が出現したのもこの時代。

3億6千万年前 生物の大量絶滅(デヴォン紀後期)。

3億6,700万年前から2億8,900万年前氷河の消滅。年間を通して季節の変化はあまりなく、1年中湿潤な熱帯気候であったといわれる。大森林が各地に形成され、石炭の元になったとされる。地質時代では石炭紀という名称がついている

シダ植物が発達し、種子植物の出現。巨大昆虫類の繁栄。昆虫が拡大。両生類の地上上陸。爬虫類の出現。動物の陸上進出。
ゴキブリもこの頃に出現。身近な生きている化石とされる。
* 硬骨魚類の繁栄。
オウムガイ、アンモナイトの繁栄。ハイギョの出現。

中生

ペル

約2億8000万~2億5000万年前巨大大陸パンゲアの出現。大陸移動説において、現在の諸大陸が分裂する前にひとつであったときの超大陸のことである。
地球史上最大の大量絶滅があった。



約1億9500万年前~約1億3500万年前恐竜が繁栄、原始的な鳥類の出現、被子植物の出現。
白  亜

約1億4550万年前~約7060万年前約7000万年前 インド亜大陸とユーラシア大陸の衝突。プレートテクトニクス説によれば、インド亜大陸の北上でユーラシア大陸と衝突したことにより、約2500万年前頃からヒマラヤ山脈の形成がはじまったと考えられている。



約6,550万年前~約2,500万年前約2500万年前 アルプス・ヒマラヤ地帯などで山脈の形成がはじまる。テチス海が消滅し、造山運動により隆起。6500万年前 生物の大量絶滅 (白亜紀末)。この頃、恐竜が絶滅。隕石の落下による環境の激変を原因とする説が有力と考えられている。
霊長類(有胎盤類)の出現約4000万年前 南極大陸で氷河の形成がはじまり、徐々に寒冷化。これ以前は非常に温暖な時期だった。→海水準変動現代の動物相につながるものがほぼ出現している。ヒトの祖先はこの時代に誕生した。
九州中西部、常磐、石狩、釧路などの炭田地帯で、石炭層を含む陸成層と浅海成層が厚く分布する。



中新

約2,300万年前~約500万年前約2000万年前 現存する最古の湖の形成。バイカル湖、タンガニーカ湖。→ 古代湖約1500万年前 ヨーロッパに隕石が落下、クレーターを形成する。

現在のドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州にあるリース隕石孔、シュタインハイム・クレーター。

ベーリング海に存在した陸橋ベーリンジアが温暖化の海進により水没し、北米大陸はユーラシア大陸から分離した。
1000万年前~500万年前 アフリカでグレート・リフト・バレーの形成が始まる。

2500万年前 最古の類人猿と思われる化石?アフリカのケニヤで発見された。

1300万年前 この頃からヨーロッパ、南アジア、東アジアなどユーラシア各地にも類人猿の化石が現れる。

1600万年前頃 大和三山の内の畝傍山や耳成山が、二上山もこの頃火山活動していた。推定約600万~400万年前 琵琶湖の形成。琵琶湖は世界に現存する湖の中では3番目に古い湖と考えられている。豊岡盆地は、人類の歴史が始まったころに干陸化し平地になったと推定。
鮮新

約500万年前~約160万年前シベリアに大隕石が激突し、それが引き起こした気候変動により、新哺乳類に最初の危機が訪れた。人類誕生に大きな影響を与えたとする説がある。アウストラロピテクス・アファレンシスは約390万~約290万年前に存在した化石人類(1924)約600万~500万年前 この頃、ヒトとチンパンジーが分化したとされる。

直立二足歩行の開始

旧石

前期250万年前~12万年前石器の使用がはじまった。オルドヴァイ文化、オルドワン石器日本列島形成?
約170万年前 伊豆半島が本州に衝突。
70万年前~6000年前 兵庫のもっとも新しい火山活動「神鍋山火山群」が活動

30万年前~3万年前温暖期のピーク。現在よりも温暖であったと考えられている。海面の上昇により、他にも、アラスカとロシアの間にあるベーリング海峡 (氷期には陸続きだった) の海没や、大陸と地続きだった日本も徐々に島化が進んだ。剥片石器が出現した時代。約23万年前 ネアンデルタール人が広がった。後期約1万3千年前~約1万年前約1万年前 最後の氷期 (最終氷期) が終わったとされる。ヨーロッパ中部の火山活動が終息へ

アイフェル高地(ドイツ・ベルギー)や中央高地(フランス)の火山活動がおおむね終息。ピュイ=ド=ドームは約8,000年前まで活動を続けた。

農耕革命 (農耕の開始)。人類史上、重大な事件の1つとされる。石器が急速に高度化、多様化した時代。このような技術革新の原動力を言語に求める説もある。

クロマニヨン人(ホモ・サピエンス)が主流となり、他の化石人類は急速に姿を消した。

この期の初め頃 日本列島が大陸から離れる直前であったと推測されている。晩氷期の気候は、短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であった。

環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になった。狩猟の獲物は、ゾウや野牛の大型哺乳動物からシカやイノシシの中・小哺乳動物に変わっていった。竪穴住居址からサケの顎骨発見。小型の骨製U字型釣針。

約1万3000年前から1万2000年前頃 日本列島が大陸から離れ、現在の姿ができあがった。

立川ローム基底部(X層)。日本の旧石器文化発見。

日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認

大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡で竪穴住居が見つかる。

温泉町畑ヶ平遺跡 台形様石器、養父町・但東町 尖頭器発見
家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野、山東町比叡截頭段丘



約13000年前~約10000年紀元前12,000年頃 イヌの家畜化長江文明 玉蟾岩遺跡 稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できない。日本列島が完全に大陸から離れて島国となっていた。暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入してきた。「海進」という。石器・弓矢、狩猟・漁労・採集
関宮町別宮 鉢伏高原遺跡(海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡)爪型文土器
大屋町の上山高原で採集された一片の土器破片日高町神鍋遺跡 (神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡) 爪型文土器’69豊岡市城崎町 スクモ塚遺跡(縄文式土器)、「黄沼前海(きぬさきうみ)」の誕生
早期紀元前1000年頃完新世の気候最温暖期この頃、海面は現在よりも数メートル(4mから10mまで諸説あり)程度高かったと考えられている。紀元前9000年頃 牛乳が人間の食糧として飲まれはじめる。紀元前9000年頃 メソポタミア 都市国家ウルの創建

紀元前8300年~前7300年 エリコで周囲を石壁で囲った集落が現れる。

メソポタミア文明 最初の陶器が作られる。金や銅が使われ始める。

紀元前6500年頃 ブリテン島がヨーロッパ大陸から分離、島となる。

紀元前5600年頃 北アフリカで砂漠化が始まる。この結果サハラ砂漠が生じた。砂漠化の結果、エジプトへの移住と人口集中がおき、文明化を促進した。

紀元前5100年頃 南メソポタミアで神殿が建築される。

ナイル川の渓谷で農業が行われる。
車輪と鋤の発明。
前5000年頃~前3000年頃

アジアでイネの耕作紀元前7000年頃 南アジアのメヘルガル遺跡で定住農耕生活。北西ヨーロッパには森林が広がり、狩人達が新たな狩猟具を手にして獲物を追い始めていた。投げやりに替わって、弓矢が普及した時代で、中石器時代と呼ばれる。北アメリカでは、気候が温暖化し、マンモスが姿を消す。遊牧インディアンは定住・農耕生活へと向かう。
紀元前7000年? – 紀元前5000年? 「彭頭山文化」中国に於ける最古の水稲とされる。「長江文明」河姆渡遺跡 紀元前6000年 – 紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見。狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われた。住居は高床式裴李崗文化…紀元前7000?~紀元前5000?。一般的な「新石器時代」のはじまり。定住し農業も行われていた。河南省(黄河中流)。土器は赤褐色
紀元前6000年頃 — 朝鮮が新石器時代に入る。中国:河南省舞陽県の賈湖遺跡。
紀元前7500年頃 千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚が作られる。そこから出た土器を手懸かりにおおよその年代を割り出すと、現在まで発見された貝塚の中で最も古い時期の貝塚ということができる。紀元前7000年~紀元前6700年頃の神奈川県夏島貝塚で最古の犬の化石。

数個の竪穴住居で一集落を構成する。
圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。

鹿児島で旧石器時代(縄文早期)の住居跡見つかる

青森三内丸山遺跡 今から約5500年前から4000年前まで(縄文時代前期から中期まで)の1500年間にわたって継続して営まれた巨大な集落群が見つかる’93 青森県

前5300年頃  鹿児島南方の鬼界カルデラで大噴火。

日高町 神鍋遺跡・ミダレオ古墳群’69 押型文土器・住居跡・貯蔵穴・配石遺構美方町広井の上ノ山遺跡(住居跡)、山東町 茶堂散布地
前期<span style=”font-size: small紀元前800年頃前3000年頃 初期の文明が現れる。
古代エジプト文明、メソポタミア文明など。人為による環境破壊がそろそろ表面化-
塩害、塩類集積、森林破壊、レバノン杉など参照。紀元前36世紀 – シュメール文明、都市国家分立
黄河文明 仰韶文化中国で水牛の家畜化

稲の栽培がインド北東部のアッサム地方から中国雲南の雲貴高原にかけての山岳地帯でも始まった。

温暖な気候が続き、日本では縄文時代人が各地に拡がった時期竪穴住居が広場を囲んで集落をつくる。
犬を人と一緒に埋葬。屈葬。木器・土器・櫛などに漆を塗ることが始まる。耳飾り・勾玉・管玉などの装身具がつくられる。
日高町 神鍋遺跡(竪穴住居跡) 少量の縄文土器船元式、黒木Ⅱ式出土
中期<span style=”font-size: small前400年頃紀元前3000年頃 – 新石器時代が終わった。
クレタ文明が始まった。「エジプト文明」紀元前3000年前後に中央集権的な統一国家となる。紀元前2600年から紀元前1800年「インダス文明」アメリカ大陸で最も古い都市カラルの建設が始まった。
表意文字 – 中国海岸線ほぼ現在に近くなる。石棒・土偶などの呪物が盛んにつくられる。石柱祭壇。抜歯の風習が始まる。気温低下始める。立体的文様のある大型土器が流行する。

集落の規模が大きくなる。植林農法の種類もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化する。

人口26万1300人。

中谷貝塚、荒原貝塚、長谷貝塚 豊岡市後期紀元50年頃四川文明 三星堆遺跡 大量の青銅器大湯環状列石(ストーンサークル)、東北地方に集中。ウッドサークル(巨大木柱遺跡)。敷石住居址。人口16万300人。山東町 柿坪遺跡、粟鹿遺跡石ヶ堂遺跡 養父市森字石ヶ堂 縄文/弥生/古墳
ナベ遺跡(集落跡)養父市八鹿町高柳 縄文時代~平安時代
日高町 祢布ヶ森遺跡、日高町伊府遺跡(石器)
晩期約3000年~2300年前古代ギリシアで「古代オリンピック」始まる気温2度前後低下。海面も低下。漁労活動壊滅的打撃受ける。大湯環状列石(ストーンサークル)、東北地方に集中。福岡板付遺跡 菜畑遺跡 北九州・近畿でも縄文水田。京都府夜久野町 菖蒲池遺跡
弥生早期紀元

13

中国における稲作は長江中流域起源説が有力である。また、古代の銅鐸の絵には、狩猟文化と稲作文化がはっきりと描かれている。中国が春秋時代を迎え、中国国内の騒乱から逃れれた人々が、稲作文化と一緒に移住して来たと考える。ムラからクニへ水稲耕作・大陸系石器・支石墓(しせきぼ)の伝来。

日本最古の水田(板付遺跡)

北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。

前期前800~前400中期前400~100年紀元前後 古代ローマ、漢などの古代帝国が出現。
* 8年 – 王莽により前漢滅亡。新が建てられる。
* 9年 – トイトブルクの戦いでローマがゲルマニア人に敗れる。
* 14年 – アウグストゥス死去。* 30年頃 – イエス、パレスティナで刑死。この頃、キリスト教が成立。
* 37年 – パルティアとローマが和睦する。
* 62年 – エルサレムでキリスト教エルサレム教会の初代主教ヤコブが殉教
* 64年 – ローマ大火。ネロがキリスト教を迫害。
* 68年 – ネロ自殺。以降、4皇帝が乱立し内戦状態となる。フラウィウス朝の確立。
* 70年 – ユダヤ戦争でエルサレムが陥落する。
* 73年 – ローマ軍が包囲したマサダ要塞が陥落。
* 79年 – ベスビオ火山の噴火によりポンペイが埋没。
* 80年 – ローマにコロッセウムが完成。
* 96年 – 古代ローマで五賢帝時代始まる(- 180年)。
* 97年 – 甘英が班超により大秦国(ローマ帝国)へ派遣される。
「秦」紀元前221年には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦の始皇帝が「漢字」の字体統一、万里の長城建設に着手。秦滅亡後、前漢成立。「シルクロード」、中国と地中海世界の間の交易路、特にローマ帝国と秦漢帝国を結ぶルート

* 18年 – 赤眉の乱(- 27年)
* 23年 – 王莽が死亡し、新が滅亡。
* 25年 – 劉秀(光武帝)が皇帝に即位する。後漢王朝の成立(- 220年)。
* 36年 – 後漢の光武帝、中国を統一する。

* 40年 – ベトナムで徴姉妹が後漢に対して反乱を起こす(- 43年)。ローマのブリタンニア支配が始まる。

紀元前後 – 倭は百余国に分かれており、その一部は前漢の楽浪郡に朝献をする。(『漢書』地理志)

* 57年 – 倭の奴国王が後漢に朝献して、倭奴国王印(金印紫綬)を授けられる。(後漢・建武中元2、丁巳;後漢書光武帝紀、同東夷伝)

* 85年ごろ – 鮮卑が北匈奴を破る。

* 94年 – 後漢の班超が西域諸国を制圧。

吉野ヶ里遺跡のはじまり57年 委奴国王(倭の奴と読む説有り)が後漢に朝貢し、光武帝から印綬を授けられる(『後漢書』光武帝紀、同東夷伝)。筑前国志賀島(福岡市)出土の金印「漢委奴国王」にあたる。

近畿地方を中心に銅鐸がつくられる。

西日本から関東にかけて集落の周りに濠や土塁を巡らした環濠集落が増える。佐賀県神埼郡吉野ヶ里遺跡、大阪府池上・曽根遺跡。

瀬戸内海沿岸各地に高地性集落が集中的に営まれる。畿内と瀬戸内地域に軍事的緊張。集落相互間の支配・従属的秩序化が進む。関東や北陸にも普及する。

中期後半(1世紀代)以降は、畿内と瀬戸内地域に人的交流があり、平和的関係になっている。

銅鐸が急に大型化する。近畿式と三遠(さんえん)式がある。三遠とは、旧国名の三河・遠江で、現愛知県東南部部と静岡県西南部を指す。
倭国内乱が続く

鳥取青谷上寺地遺跡戦いの痕跡を残した人骨が、全国各地の弥生遺跡から出土
1世紀末 – 弥生文化が東北地方に波及する。

この頃、倭人は百余国に分かれて、その中の何国かは前漢の楽浪郡に朝献するという(『漢書』地理志)

大阪府和泉市の池上・曽根遺跡(弥生Ⅳ期・中期後半)の大型建物のヒノキの伐採年が紀元前52年と年輪年代法で判定された。

和田山町 筒江片引遺跡山東町 柿坪遺跡、仲田遺跡
大盛山遺跡 和田山町岡田字更杵他(集落跡)
豊岡市出石町袴狭 砂入遺跡 豊岡市出石町宮内 入佐川遺跡 弥生/古墳/奈良/平安
後期100年~400年石器が消滅し、鉄器が普及する。後漢成立。司馬遷『史記』編纂弥生式土器が現れる107年倭国王(倭面土国王)帥升ら後漢の安帝に生口160人を献ずる(『後漢書』光武帝紀、同東夷伝 永初1丁未)。この頃、倭国乱れ、互いに攻伐し(倭国大乱)、長い間盟主なし。

この後、卑弥呼が共立されて王となる。(『魏志』倭人伝)。

「倭国乱」は、北部九州が主要な戦場ではなかったと考えられている。大量の人骨(約90体以上)が散乱した状態で発見される
畿内勢力と吉備・瀬戸内勢力の間に戦いはなかった。

180年代の「中平□年」(中平は後漢霊帝治世の年号、184~189年間)の金象嵌紀年名の大刀(奈良県天理市東大寺山古墳から出土)。「倭国乱」収束後に「倭国王」が後漢に遣使した時に「下賜」されたものと考えられている。

西日本に青銅製の武器型祭器が使われる

祭祀が行われていた
2
卑弥呼の墓と目される箸墓古墳が築造されている。
300 北九州で支石墓・甕棺墓が現れる。多数の前漢鏡を副葬する甕棺墓が少数見つかっている。

近畿地方で方形周溝墓がつくられた

山東町 森向山遺跡(古墳) 弥生/古墳/奈良/平安
加都遺跡(宮ヶ田地区)和田山町加都字宮ヶ田他
集落遺跡(ナベ遺跡) 養父市八鹿町高柳’07祢布ヶ森遺跡、久田谷古墳遺跡 銅鐸破片117片豊岡市日高町久田谷和田山町 大盛山遺跡(環壕集落)山東町 柿坪中山墳墓群(環壕集落)豊岡市 気比遺跡 銅鐸4個
出石町 袴狭遺跡 船団の線刻画のある木製品(板材) 弥生~平安(官衙跡) 
古墳前期4世紀後半238年 呉の「赤烏元年」の紀年銘を持つ画文帯神獣鏡(山梨県市川三郷町の鳥居原狐塚古墳から出土)。500 春秋戦国時代。春秋時代の中国の思想家。儒家の始祖「孔子」「景初三年」の紀年名を持つ三角縁神獣鏡が大阪府黄金塚と島根県大原郡の神原古墳から出土。
大和政権
「□始元年」の紀年名を持つ三角縁神獣鏡が群馬県高崎市の芝崎古墳と兵庫県豊岡市森尾古墳から出土。倭の五王  巨大古墳391 倭国朝鮮進出、高句麗と戦う538 百済から仏像・教典伝来奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡、弥生時代終末期の畿内勢力の中心的位置を占める宗教的・政治的勢力の本拠の一つ。前方後円墳の祖型とみなされる墳丘が集中して見られる。
邪馬台国畿内説の最有力候補地。266年(西晋の泰始2)11月、倭の女王(壱与か)遣使し、西晋に朝献する(『日本書紀』神功66年条に引く晋起居注、晋書武帝紀)。この後、413年まで中国の史書には倭の関係記事見えず。
前方後円墳出現
山際古墳 養父市八鹿’08 水上遺跡(縄文後期~平安)日高町水上 日本最古の高床倉庫跡
中期5世紀607 法隆寺建立 石舞台古墳(奈良県)645 大化の改新。難波宮に遷都

『丹波国』成立

豊岡市 森尾古墳(現在わかっている但馬最古の古墳のひとつ)
日高町水上 羽根山古墳 箱式二重石棺日高町上郷 満仲谷古墳日高町鶴岡 馬場ヶ崎古墳日高町神鍋 訓原古墳稲作が一般的に行われるようになった弥生時代には遺跡が平地部に分布するようになり、久田谷遺跡からは小さく壊された銅鐸が発見されています
後期6世紀ローマ帝国 紀元前27年(帝政の開始) から 1453年(東ローマ帝国滅亡)和田山町 茶すり山古墳・城の山古墳・池田古墳(県下第二位の規模)

山東町  柿坪遺跡(豪族居館) 全国第二位の規模

和田山町 加都遺跡(集落)

山東町  大同寺山古墳群(陶棺)


6世紀終わり~8世紀初頭592「隋」中国を統一聖徳太子遣隋使・遣唐使

大化改新

白鳳文化

律令

676 全国を大・上・中・下の四等級に分類した国が制定され国府が置かれる
840 『日本後紀』

奈良710年~794年 隋は滅亡し唐が統一710 平城京遷都741 国分寺・国分尼寺建立の詔、官道の整備、古事記・日本書紀、風土記粟鹿大明神元記北西部を分離し 『但馬国』成立

713年 北部5郡を分離し『丹後国』成立

日高町 但馬国分寺跡 寺域確認調査’73~75
但東町は古くは各地の土豪が分割領有しており、各地に存する古墳はそれらの土豪を葬祭したものと推定できる。垂仁天皇3年、出石神社の祭神天日槍が来朝し、円山川と竹野川流域の但馬が統一されたのに従い、その領有に帰したものと思われます。

但馬地方の谷あいに営まれた律令期の窯跡(小河江窯跡)’07 豊岡市日高町小河江

和田山町 加都遺跡(但馬道)


794年~1185年頃十字軍遠征960年、宋を建国794年(延暦13年)平安京に遷都905年(延喜5年)「延喜式」編纂を始め、927年(延長5年)に一応完成。

奥州藤原氏1087-1189

807年(大同2年)生野銀山開坑(伝承)804年(延暦23年)深田遺跡(日高町水上) 県指定有形文化財 深田遺跡(昭和60年)、沼地から人形を含む多量 の木簡や役所で使ったと思われる遺物が見つかる。
川岸遺跡(官衙跡) 気多郡高田郷(現在の日高町水上付近)に遷す。第1次但馬国府?(昭和59年)都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近に。祢布ヶ森遺跡の発掘調査(昭和61年) 祢布ヶ森遺跡は、第2次但馬国府である可能性が高い。
鎌倉1185年~1333年1206年、「モンゴル帝国」、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが創設「インカ帝国」16世紀まで

マルコ・ポーロ『東方見聞録』

1192年 鎌倉幕府成立、守護地頭設置但馬国守護 1185年~? – 小野時広1197年~1221年 – 安達親長

1221年~1223年 – 常陸坊昌明

1285年~1321年 – 太田政頼

?~1333年 – 太田氏


町・南北朝時代
14世紀半ば~19世紀半ば – 小氷期とされる。14世紀半ば ヨーロッパでペストの猛威。一説では人口の3割近くを失ったとされる。ルネサンス1368年 – 1644年、「明」1336年、足利尊氏が後醍醐天皇の南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開く。明徳2年(1391年)、(明徳の乱)

1392年(元中9年(北朝:明徳3年)南北朝合一(明徳の和約)

山名時氏 但馬国を掌握し、出石(豊岡市出石町)に拠点を置く。此隅山城跡 出石町宮内・袴狭
此隅山城の出城として、標高48mの神武山に木崎城(城崎城)が建築。山名氏のもとでは、山名四天王の垣屋氏が配された。別名・亀城→豊岡城守護大名として山陰地方に大勢力を張り、また赤松氏や京極氏、一色氏と並んで四職家の一つにまで数えられるに至った。氏清は戦死、時熙の家系が存続し、山名四天王(やまなしてんのう)は室町時代から戦国時代にかけて山名氏で重きをなした垣屋氏、田結庄氏、八木氏、大田垣氏の当主の総称
戦国

1441年(嘉吉元年) 赤松満祐 嘉吉の乱1429 琉球統一

将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺(嘉吉の乱)されると、同年、赤松氏討伐の総大将として大功を挙げる。この功績によって山名氏は、備後・安芸・石見・備前・美作・播磨などの守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げた。

1467年(応仁元年)- 1477年(文明9年)応仁の乱

室町幕府管領の細川勝元と、四職家山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争う。

1431年(永享3年) 山名氏竹田城構築に着手山名氏清のとき、一族で全国66ヶ国中11ヶ国の守護職を占め、「六分の一殿」と称されて権勢を誇った。
安土

1568年(永禄11年) 織田信長、足利義昭を奉じて入京する。
1549年(天文18年)フランシスコ・ザビエル、薩摩国鹿児島に上陸し、キリスト教を伝える。
1582年(天正10年) 本能寺の変1590年(天正18年) 小田原の役(豊臣秀吉の全国統一)
1542年(天文11年)、生野銀山の本格採掘始まる山名豊定の子・山名豊国が秀吉を通じて信長に降伏したため、秀吉の家臣となった。その後、豊国は秀吉から因幡にわずかの所領を与えられ、御伽衆として迎えられた。
羽柴秀吉による1569年の但馬の山名勢攻略後、1580年に秀吉の武将宮部善祥房が神武山に城を築き、城下町の形成に着手したのが豊岡のまちの始まりであるといわれています。宮部継潤が城崎荘を豊岡と改名め、豊岡城を築く。竹田城秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代になる。但馬平定 出石城落城

1600-1868(慶応4年)「清」、1636年に満州に建国、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝1769年8月15日-1821年5月5日 革命期フランスの軍人・政治家で、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世

1776年にアメリカ合衆国独立

1603年(慶長8年)徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。近代明治20世紀 – 科学技術の発達、人口の爆発的増加、世界大戦、環境破壊、地球温暖化や資源枯渇の懸念。安政元年(1854年)正月に再来したペリー艦隊は、重ねて開国を要求安政の大獄 1858年(安政5年)。
万円元年3月3日(1860根) 桜田門外の変慶応2年(1866年) 薩長同盟締結
日米和親条約が締結1867年(慶応3年)。鎖国体制が終焉。
1867年 大政奉還、王政復古
1868年10月23日(旧9月8日)明治改元1868年 戊辰戦争
1871年廃藩置県
文久3年(1863年) 生野の変
木戸孝允但馬出石に潜伏1868年(慶応4年) 久美浜県(くみはまけん)設置丹後、丹波、但馬、播磨、美作5ヶ国の久美浜代官所、生野代官所支配地および但馬、丹波の旗本領の926ヶ村23万石を管轄した。

*1…先カンブリア時代は地質学的証拠に乏しい時代であるため、先カンブリア時代に属する地質年代に関しての用語はまだ定まっていない。一般には、冥王代、始生代(太古代)、原生代に区分されることが多い。20世紀に入ってから、古生代、中生代、新生代の地史区分にならって、先カンブリア時代は冥王代と始生代と原生代に三分された。さらに細かい時代に分けられる事もある。化石などといった地質学的証拠があまりない時代であり、陰性代と呼ぶこともある。

*2…古生代 先カンブリア時代の後に相当する。地質学的には、古生代以前の地質年代をはっきりと確定することはできない。

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■参考資料
週刊「ビジュアル日本の歴史」110号 日本人の誕生10 (株)デアゴスティーニ・ジャパン

日本の酒の歴史 坂口謹一郎 監修/加藤べん三郎 編 研成社

兵庫県教育委員会ページ
ウイキペディア
神奈備へようこそ
<a href=”http://www.genbu.net/cgi-bin/mapindex.cgi?index=1&amp玄松子ページ

井上夢間さんの「夢間草廬(むけんのこや)-ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」(引用許可済)

日高町史

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室町-6 但馬の鉱山と守護

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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但馬の鉱山

概要

平安時代初期から、但馬では金銀鉱山の採掘が行われていました。とくに生野銀山は山名氏支配の時代から四天王の太田垣氏が、阿瀬金山などは山名、垣屋氏が経営し、山名氏の衰退と下克上に大きく寄与する財源になっていたのではないかと考察します。養父郡北部を領していた八木氏は、中瀬鉱山・日畑金山などがその領地内にありました。そして各鉱山は豊臣・徳川時代まで最盛期が続き、重要な鉱山として幕府直轄領になりました。

生野銀山

生野銀山(いくのぎんざん)は兵庫県朝来市(旧生野町)に開かれていた、戦国時代から昭和にかけての日本有数の銀山。

歴史

生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられていますが、詳細は不明です。天文11年(1542年)、但馬国守護大名・山名祐豊が銀鉱脈を発見、石見銀山から灰吹法といわれる採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まりました。

このようにして山名氏の時代が約十五年続き、その後弘治二年(1556)家臣である竹田城酒太田垣朝延の反逆によって約二十年経営され、天正五年(1577)から慶長三年(1598)までの約十六・七年間、織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、江戸時代にはただちに徳川家康が間宮新左衛門を代官として「銀山奉行」を設置。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び徳川幕府の財源的な存在でした。徳川幕府が滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出しました。宝永2年(1705年)には、「御所務山(ごしょむやま)」という最上級の鉱山に指定されています。

慶安年間(1648年~1652年)頃より銀産出が衰退し、享保元年(1716年)には生野奉行は生野代官と改称しました。江戸中期には銀に換わり、銅や錫の産出が激増しました。

明治元年(1868年)から政府直轄運営となり、鉱山長・朝倉盛明を筆頭として、お雇いフランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエらの助力を得て、先進技術を導入し近代化が進められました。

明治22年(1889年)から皇室財産となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となりました。

昭和48年(1973年)3月22日、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから、閉山し、1200年の歴史に幕を閉じた。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しています。

2007年、日本の地質百選に選定されました。
その間掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しており採掘した鉱石の種類は黄銅鉱・閃亜鉛鉱など70種にも及んでいます。

鉱山資料館

現在は、史跡・生野銀山(三菱マテリアル関連会社の株式会社シルバー生野が管理・運営)となっており、のみの跡も生々しい坑道巡りのほか、鉱山資料館は、「和田コレクション」、「石亭標本」、「藤原寅勝コレクション」など常時2,000余点を展示しております。国内産出鉱石標本としては世界的にも貴重な国内最大級の鉱物博物館として知られております。「和田コレクション」は、和田維四郎博士が明治8年から30年間にわたって収集したもので、明治年間に我が国で産出した鉱物の大半を網羅し、最初の完全な日本産鉱物標本として国宝的評価と名声を博しています。和田維四郎の標本の散逸を惜しんだ三菱合資会社の岩崎小彌太社長が、同コレクションを一括して譲り受けました。その後当地に移管され、現在の三菱ミネラルコレクションの主体を成しています。 「和田コレクション(和田維四郎)」、「石亭標本」は、木内石亭が苦労の末に日本全国から集めた2千余点の奇石や鉱物類の標本で、我が国最古の岩石・鉱物コレクションです。

銀の馬車道

「銀の馬車道」は、明治の初め生野と飾磨港の間、約49kmを結ぶ道として新しく作られ、正式には
「生野鉱山寮馬車道」と呼ばれた、当時の高速道路というべき馬車専用道路です。
完成から約130年がたった今では、道の大部分は車が走る国道や県道に変わり、
一部は新幹線姫路駅になっています。
しかしながら、「銀の馬車道」のルートをたどれば、あちらこちらに記念碑などがあり、
往時のおもかげを残しています。
1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コアニエが選んだ技師レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事が始まりました。
道路を水田より60cm高くし、 あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がスムーズに走行できる工事が3年がかりで行われました。
この馬車道により、物資を非常に早く輸送でき、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1まで低減したと言われています。
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お雇い外国人

幕末以降明治初期に、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された欧米人のことである。江戸幕府や各藩、明治以降は新政府や各府県、または民間によって招聘された。幕末に各藩が競って外国人を抱えて雇用したために、お抱え外国人ともよばれることもあります。ジュール・レスカス(JulS. Lescasse)

明治初期に活躍した在日フランス人建築家。明治4(1871)年に来日。官営生野鉱山に勤めたのち、横浜に建築事務所を開設、かたわらパリの建築金物店ブリカール兄弟社の代理店も営んだ。代表作にニコライ邸(1875頃)や西郷従道邸(1885頃)などがある。
ジャン・フランシスク・コワニエ(Jean Francisque Coignet)

(1835年 – 1902年6月18日)は、フランスより招聘された御雇(おやとい)外国人技師のひとりである。兵庫県・生野銀山(生野鉱山)の近代化に尽力した。
コワニエは、フランス・サンテチェンヌの鉱山学校を卒業したのち、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州など世界各地の鉱山を視察し、1867年(慶應3年)より鉱業資源調査のために薩摩藩によって招聘されていた。

明治新政府は官営鉱山体制を確立すべく、1868年(慶應4年)、江戸幕府から受け継いだ産業資産のひとつである但馬国の生野鉱山(現・兵庫県朝来市生野町)の鉱山経営を近代化するため、コワニエは帝国主任鉱山技師として現地に派遣された。鉱山長・朝倉盛明の元、政府直轄となったこの鉱山を再興するため、鉱山学校(鉱山学伝習学校)を開設し新政府の技術者らを鉱山士として指導、近代的鉱山学の手法により当時の欧米先進技術を施し成果を挙げる。

坑口の補強にフランス式組石技術を採用し、鑿(のみ)と鏨(たがね)だけの人力のみに頼っていた採掘作業に火薬発破を導入、運搬作業の効率化を図り機械化を推進、軌道や巻揚機を新設した。また、より金品位の高い鉱石脈に眼をつけ、採掘の対象をそれまでの銅中心から金銀に変更するよう進言した。さらに、製錬した鉱石その他の物資輸送のための搬路整備を提案し、生野~飾磨間に幅員6m・全長50kmの、当時としては最新鋭のマカダム式舗装道路「生野鉱山寮馬車道」として1878年(明治11年)結実する。大阪の造幣寮(現・造幣局)への積出し港である飾磨港(現・姫路港)の改修なども指導し、発掘から積み出しまでの工程を整備した。

着任当初の鉱山の混乱(播但一揆に伴う鉱山支庁焼打ち事件:明治4年)もあり一時離日するが、その後再任し上記事業に本格的に取り組んだ。大蔵卿・大隈重信の官営鉱山抜本的改革についての諮問により、日本滞在中に各地の鉱山調査もあわせて行い、1874年(明治7年)『日本鉱物資源に関する覚書』(Note sur la richesse minerale du Japon)を著した。1877年(明治10年)1月に任を解かれ帰国、1902年、郷里のサンテチェンヌにて67歳で死去。

銀山現地にはコワニエの業績を称え、彼のブロンズ胸像が建つ。当時、生野の鉱山にはフランスから地質家・鉱山技師・冶金技師・坑夫・医師らが呼ばれ、その総数は24名に達したという。
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関連人物

中江種造(なかえ・たねぞう、1846ー1931)

豊岡藩出身の鉱業家。幕府貨幣司から新政府の鉱山司役人に転じ、コワニエとともに銀山開発に尽力した。のちに古河家の顧問役をつとめ「古河鉱業」を大きく成長させ、独立したあと、各地の鉱山を手中にし「鉱山王」とも呼ばれた。山林事業にも意欲的で成功し、郷里・豊岡の事業や後進の育成を推進した。豊岡藩の下級武士の子として生まれ(父・河本筑右衛門元則、母・松子)、1858年(安政5年)、豊岡藩士・中江晨吉の養子となり、藩警護役のかたわら火砲技術や数学・測量を学ぶ。1868年(慶応4年)、戊辰戦争において京・桂御所の警備につき、砲術家・久世治作に従い理化学を学んだ。明治新政府より「貨幣司」(造幣局の前身)勤務の命を受け、そこで身につけた金属分析技術をもって、貨幣司から鉱山司に転任となり、但馬国(現・兵庫県朝来市)の生野銀山の再興の職に就く。ここでフランスより来ていた外国人技師ジャン・フランシスク・コワニエらと協同し、最新の鉱山技術や製錬・冶金技術を学ぶ。その後、裸一貫で上京、1875年(明治8年)から1884年(同17年)まで、古河市兵衛の顧問技師として、栃木県・足尾銅山や新潟県・草倉銅山の経営に当たり、「古河鉱業」ひいては「古河財閥」(現在の古河グループ)を大きく成長させた。1884年(明治17年)、顧問役をつとめた古河家を辞し、鉱業家として独立自営する。岡山県・国盛鉱山など各地の鉱山を買収、巨万の富を成し「鉱山王」とも呼ばれるようになる。鉱業のみならず山林業にも手を染め、500万本もの植林を行い「山林王」の名も欲しいままにしたという。郷里・豊岡での産業振興や人材育成にも力を入れ、銀行・製糸工場・煉瓦工場などの経営にも関わり、1906年(明治39年)育英基金「中江済学会」を創設し、学者・弁護士・医師など多くの人材を育成した。

広瀬宰平

(ひろせ・さいへい、1828ー1914):別子銅山支配人(1865ー)。鉱山司付属試補として住友家より出仕、生野鉱山にて黒色火薬を用いた近代的採鉱法や冶金技術を視察し、銅山の再生に西洋技術および近代的経営法の不可欠を確信、1872年(明治5年)コワニエの別子視察を要請し、 1874年L・ラロックを雇用した。1876年別子近代化起業方針を打ち出し、改革に着手する。1877年(明治10年)、住友家の指名を受けて初代「住友」総理事となり、明治15年(1882)1月、住友家では、伝統的家業経営から近代企業経営へと大きく転換していく中で、当時住友家総理人であった広瀬宰平は、第十二代家長住友友親の命を受けて、「住友家法」を制定した。以降明治期関西財界の実力者となる。

高島北海

(たかしま・ほっかい、1850-1931):萩・明倫館の出身で明治政府工部省の技術官僚にして画家。1872年(明治5年)から4年間、生野鉱山に勤務する。コワニエからフランス語を学び、治水や山林・地質・植物に関する学問を元に政府の命により渡欧、フランス・ナンシーに渡り3年間滞在する。元来絵画を好んだ彼は、当時アール・ヌーボーの旗手であったエミール・ガレらと交友、日本文化や植物に関する知識を紹介し、その新興芸術に多大な影響をあたえた。

明延鉱山

明延鉱山(あけのべこうざん)とは、兵庫県養父市大屋町で世界的に有名な多金属鉱脈鉱床です。日本最大の錫鉱山で日本の産出量の90%をしめていました。かつて操業していたスズ、銅、亜鉛、タングステンなどの多品種の非鉄金属鉱脈をもつ鉱山。特にスズは日本一の鉱量を誇っていました。

歴史

明延鉱山は平安時代初期の大同年間に採掘開始といわれる。明治初年(1868年)、生野銀山とともに官営となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払い下げられました。

昭和48年(1973年)に三菱金属株式会社(現三菱マテリアル株式会社)となり、昭和47年(1972年)のオイルショックをきっかけに、昭和51年(1976年)に三菱金属の子会社として分離・独立し明延鉱業株式会社となる。最盛期には、鉱山関係の人口が4,123人(963世帯)おり、娯楽施設の協和会館では、最新の映画が上演され、多くの芸能人(島倉千代子、村田英雄、フランク永井など)が歌いました。

大正元年(1912年)に明延鉱山の鉱石を神子畑(みこばた)選鉱所に運ぶためにつくられた5.75kmの鉱山列車「明神電車」は、昭和27年(1952年)以来、乗車賃「一円」で乗客を運んだことから、「一円電車」として有名になったこともあります。

粗鉱生産量は、ピーク時の戦時中から昭和26年(1951年)頃には月産35,000トン、閉山前頃には、銅、亜鉛、スズの粗鉱生産量が月産25,500トンであったが、プラザ合意後の急激な円高に伴う銅、亜鉛、スズの市況の下落により、大幅な赤字を計上することとなり、まだ採掘可能な鉱脈を残して、昭和62年(1987年)1月31日午後11時20分の発破を最後に、同年3月をもって閉山しました。

平成19年(2007年)11月30日公表の近代化産業遺産認定遺産リスト(経済産業省)において、「25.我が国鉱業近代化のモデルとなった生野鉱山などにおける鉱業の歩みを物語る近代化産業遺産群」の中で、明延鉱山関係では、「明神電車と蓄電池機関車」、「明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞坑)」、「明盛共同浴場『第一浴場』建屋」の3点が選定されました。

神子畑鉱山・選鉱所


すでに撤去されています

朝来市佐嚢。1878年(明治11年)の鉱脈再発見により、加盛山と呼ばれ、生野鉱山の支山として稼働していましたが、1896年(明治29年)の生野鉱山の三菱合資会社への払い下げ後、1917年(大正6年)採鉱の不況により閉山しました。明延鉱山で採鉱された鉱石の選鉱場となり、1919年(大正8年)に竣工。昭和に入ってから数度の拡張工事を経て、最盛期には東洋一と謳われた選鉱施設となりました。

最初の建設が1919年(大正8年)の選鉱場跡は、2003年(平成15年)の調査で、内部の階層延べ22階、幅110m、斜距離165m、高低差75mという規模が確認されました。木造部分と鉄骨部分があり(木造部分が初期の建設と考えられる)、一部鉱石などを入れる容器としての鉄筋コンクリート造の部分がある。
2004年(平成16年)に取り壊され、現在はコンクリートの基部やシックナー(液体中に混じる固体粒子を泥状物として分離する装置)の一部等が残るのみとなりました。

神子畑鋳鉄橋

兵庫県朝来市の神子畑川に架かる鋳鉄一連アーチ橋。明延(あけのべ)鉱山から採掘されたものを神子畑選鉱所(最盛期には東洋一と謳われた選鉱施設)や生野精錬所まで輸送するための鉱石運搬道路として手引車や牛車(後に鉄道馬車等のトロッコ用の線路が引かれる)などのためにかけられた鉄橋群の一つである。鋳物で作られたものとしては日本では最古のもので横須賀製鉄所で作られ飾磨まで海輸し運ばれたとされ、生野鉱山の開発などで呼ばれたフランス人技師たちの指導のもと作られました。

他に5箇所架けられていたが現在は他に羽淵鋳鉄橋を含めて2つだけが現存するものとなっています。 1977年6月27日に重要文化財に指定されています。老朽化のため1982年には一年かけて修繕が行われました。2007年に近代化産業遺産に認定されました。

諸元

  • 施工年 明治16(1883)年4月-1885年3月
  • 橋長 15.975m
  • 最大支間 14.2m
  • 幅員 3.6m
  • 高さ 3.81m

明神電車(めいしんでんしゃ)

明神電車は、かつて兵庫県大屋町(現・養父市)・朝来町(現・朝来市)の明延鉱山にあった鉱山用軌道。明延(あけのべ)と神子畑(みこばた)を結ぶことからその名がついた。延長:5.75km
鉱石列車のほかに、鉱山関係者の便宜を図って人車も1945年から運行されました。この時、当初は運賃無料であったのが、1949年から50銭、1952年から1円を徴収するようになった。その運賃はその後、1985年11月の廃線まで変わらなかった。「1円電車」と呼ばれる所以はここにある。

なお、登山客へも10円の料金を徴収して開放していた事があり、その後は関係者かどうかに関係なく運賃を1円に統一した。しかし、1960年代にマスコミで「運賃が1円」ということが取り上げられた結果、興味本位の部外者の乗車が増え、その中には運行を妨害するような者も少なからずいたことから、業務に支障が出るという本末転倒の事態になり、部外者の乗車を禁止せざるを得なくなった。(小学生の時に乗った時は11円でした。)
円高の進行で錫鉱山としての国際競争力が低下し、明延鉱山が1987年に閉山となったことに伴い、明神電車も廃線となりました。
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阿瀬鉱山

兵庫県豊岡市日高町阿瀬

日高町史によると、
気多郡三方荘阿瀬谷(豊岡市日高町河畑)から金や銀が発見された時期については、異説があって一定していません。永禄五年(1562)、阿瀬谷のクワザコから銀が産出したといい、金の発見は文禄四年(1595)、川底に光る砂金の輝きを見つけたのが機となったとも伝えていますが、それより約二百年前の応永五年(1398)に既に発見されていたとも言われています。この応永五年説が本当だとすると、これは垣屋にとって重大で幸運な事件であった。この地域を領有することになったということは、幸運にも銀山を支配下に治めたということで、計り知れない財源を提供することとなりました。但馬守護の山名や、家臣太田垣が、生野銀山の経営に手を染めるのは、公式的には、天文十一年(1542)というから、それに先立つ百三十年前に、垣屋は銀山経営に乗り出していたことになります。何はともあれ、この鉱山資源を背景にして、垣屋は山名の最高家臣の地位を得るし、金山の地に、布金山隆国寺を移建することができました。
時代によって、阿瀬銀山、河畑銀山あるいは阿瀬河畑銀山とも呼ばれたようです。
天正5(1577)年、豊臣秀吉の但馬征伐後、別所豊後守の給地になったが、天正10(1682)年からは生野銀山の支山となり、銀山奉行・伊藤石見守が支配した。それ以来、「木戸岩」、「八十枚山」、「与太郎」など多くの間歩(坑道)が次々と発見され隆盛を誇った。阿瀬金銀山は広い範囲にわたり、その繁栄を物語るように「阿瀬千軒」、「金山千軒」、などの言い伝えが今も残されています。
江戸時代、元文3(1738)年ごろ、気多郡にあった金山として「阿瀬奥金山」の名があります。安政6(1855)年8月、八々山人赤木勝之が著述した「但馬国新図」には、但馬における名産として、『阿瀬の銀』は、生野の銀と並び称されています。阿瀬には、阿瀬金山(阿瀬之奥金山)もあったので、併せて阿瀬金銀山とも称されました。

現在は阿瀬渓谷のハイキングコースになっています。(中学生の時に阿瀬渓谷から金山峠まで歩いています。分校跡らしい小屋には少女マンガが置きざらしになっていました。)

和田維四郎と日本鉱物学

和田鉱物標本は、東京大学理学部鉱物学教室の基盤を築いた日本人の初代教授である和田維四郎の収集した日本最大の鉱物標本コレクションである。和田維四郎が開成学校助教から東京大学助教授・教授、地質調査所長、鉱山局長、官営製鉄所長官と職を転ずることがあっても、終生変えなかったのが鉱物収集であった。和田維四郎の逝去後、標本は全て岩崎家に買い取られ、現在三菱マテリアルの所有になっています。

和田維四郎は、若狭小浜藩から14才の若さで貢進生というエリート集団に選ばれたことは、彼が藩内で際立った存在だったではあろうが、明治時代という激動の時代の中で、かくも光り輝くとは予想されなかったに違いない。
明治3年7月27日、大政官より各藩に人材を大学南校に貢進せよとの通達があった。各藩より優秀で壮健な16歳以上20歳までの男子が15万石以上の藩からは3名、5万石以上の藩からは2名、5万石未満の藩からは1名が貢進生として選出され、藩は一人当り学費として一ヵ月10両を下らない資金を援助し、書籍代として年50両を大学南校に納入しなければならなかった。この年の10月に各藩から選出された貢進生は合計319人おり、その中には小浜藩から和田維四郎が選ばれています。貢進生の多くが明治・大正の各界で活躍していることからみても、貢進生は、いわばエリート養成集団であったことは明らかです。

明治11年、内部省地理局に地質課が設けられ、和田維四郎はナウマンと共に、地質課に移動した。地理局は明治7年に創設された地理寮に起源を持ち、明治10年に地理局となった。その後、ナウマンと和田維四郎の建議により明治15年に地質課を分割して地質調査所が設立され、和田維四郎は所長となりました。地質調査所の調査研究は直接間接に日本産鉱物の研究に大きく貢献し、特に鉱物の分析には最も力を入れていました。この間、和田維四郎は明治14年に東京大学助教授を兼任する。また、明治17年から18年に和田維四郎はベルリン大学のウェブスキー教授の下で鉱物学を学び、帰国後の明治18年10月に東京大学教授に昇進し、日本人として最初の鉱物学の教授となりました。これ以降、鉱物学の研究教育は日本人の手で行われる。和田維四郎の東京大学教授兼務は明治24年まで続いた。

彼は64年間の人生の中で、東京大学教授として日本の鉱物学の基礎を築き、優秀な後継者を育てました。同時に地質調査所を創設し、所長として日本の鉱山開発やその後の地質事業の基盤を確立しました。更に、鉱山局長として最初の近代的鉱業法制を整備し、官営八幡製鉄所長官として製鉄所を建設し稼働させた。そして晩年、古書収集に没頭し書誌学者として大家をなした。しかも、これらの仕事を同時並行でこなしています。能力は勿論、その努力は超人的であったと思われます。

鉱物学が科学として日本に導入されたのは、明治6年に東京に開成学校が開かれ、ドイツ人鉱山技師カール・シェンク(Karl Schenk)が鉱物学を講義したことに始まる。しかし当時の設備は極めて不完全で、和田の後継者として東京大学教授になった神保小虎によれば、外国から購入した約150点の鉱物標本と教科書としてドイツのヨハンネス・ロイニース著「博物学」(Leunis’ Naturgeschichte, 1870)が一冊しか備え付けられていなかったという。日本産鉱物にいたっては、一つとしてなく、鉱物研究の設備は皆無で、結晶の形態は、学生が書籍を参照しながら板紙を用いて作成し、初めて見ることができた有り様であったといいます。

明治6年オーストリアのウィーンで開催される万国博覧会に日本の物品を出品することになりました。この時、政府は各府県に命じて各地の鉱物を集め、これをウィーンに送った。同時に、出品した鉱物標本の一部を内務省博物局に収蔵した。これが日本で鉱物を収集した最初です。

また博物局に収蔵されたかを知る唯一つの手掛りが「博物館列品目録」に残されています。また、明治7・8年に文部省は日本産鉱物調査の目的で、各府県から鉱物を徴収し、金石取調所を設け、ドイツ人ナウマンと和田維四郎に担当させた。この時集めた鉱物標本の鑑定の結果は明治8・9年にわたって「各府県金石試験記」として文部省から刊行されています。さらに、明治10年に第1回内国勧業博覧会が東京で開催されました。各府県は競って管内の物産を出品したが、その中には鉱物も数多く含まれていました。博覧会の出品物の多くは博物局に寄贈されたか購入されたが、その記録は「博物館列品目録」に残されています。東京大学の助教であり博覧会の審査委員でもあった和田維四郎は、出品された標本の大部分を東京大学に収めて研究を行い、その成果を「本邦金石略誌」として世に問うています。
和田維四郎の逝去後、標本は全て岩崎家に買い取られ、現在三菱マテリアルの所有になっています。しかし、明治初期に開成学校助教から東京大学助教授・教授時代に勧業博覧会などの機会に日本全国から集まった標本を東京大学に収めて研究に用いたものが基礎になっています。その点で、和田鉱物標本は東大コレクションの名を付しても不思議ではない。平成11~12年に和田標本画像データベースを作成するべく、三菱マテリアル中央研究所、シルバー生野、ゴールデン佐渡、鴬沢町立標本館、土肥黄金館を調査し、全標本の写真撮影を行った。

-東京大学総合研究博物館

但馬の鉱山

東京大学総合研究博物館が所蔵する鉱物学関係の書籍の中に、明治13年発行の「博物館列品目録 天産部第三 鉱物類」があります。

  • センアエンコウ 閃亜鉛鉱 (Sphalerite) 但馬朝来郡生野
  • キギンコウ 輝銀鉱 (Argentite) 但馬朝来郡生野銀山
  • キエンコウ 輝鉛鉱 (Galenite) 但馬朝来郡生野
  • キエンコウ 輝鉛鉱 (Galenite) 但馬朝来郡生野銀山(気多郡)阿瀬銀山、但馬気多郡羽尻村
  • オウリュウテッコウ 黄硫鉄鉱 (Pyrite) 但馬出石郡中山村、但馬出石郡奥矢根村、但馬養父郡竹ノ内村
  • オウリュウドウコウ 黄硫銅鉱 (Chalcopyrite) 但馬朝来郡生野村
  • テツシャ 鉄砂 (Magnetite-Sand) 但馬二方郡伊角村
  • メクラズイショウ 珪石 (Quartz) 但馬朝来郡生野
    明治7年オーストリアのウィーンで万国博覧会が開かれた、政府は、参加に際して各府県に産する鉱物を集めてウィーンに送る一方、同様のものを東京に残して内務省博物局に収蔵しました。その万国博覧会に出品した鉱物の研究はオーストリアの研究者に研究を依頼する一方、博物局に収蔵した標本については和田維四郎に命じて研究を行わせました。明治13年に博物局で作成された列品目録から、ウィーンにどのような鉱物標本が送られたのか、また、明治10年内国勧業博覧会場に各地からどのような鉱物が出品されたかを垣間見ることができる。
  • 兵庫県朝来郡 糸井金山(衣谷鉱山)
    大同年間(806-810)発見。金・銀産出
  • 但馬国(兵庫県)養父郡 中瀬鉱山天正元年(1573)発見? 金・銀産出
  • 但馬国(兵庫県)養父郡 日畑金山
    慶長八年(1603)発見?
  • 但馬国(兵庫県)城崎郡 竹野金山(金原鉱山)8世紀発見。江戸期に開発
  • 但馬国(兵庫県)城崎郡 椒の段金山?慶長十九年(1614)発見?
  • 但馬国(兵庫県)七美郡 山田鉱山?江戸期に山名氏が開発。金・銀産出
  • 但馬国(兵庫県)七美郡 射添鉱山慶長年間(1596-1615)村岡但馬守が開発? 金を産出
  • 但馬国(兵庫県)七美郡 久須部鉱山(峯山鉱山)

    外部リンク

    金原鉱山遺跡 豊岡市竹野町金原字金山
    銅山鉱山遺跡 豊岡市竹野町銅山字金谷
    大山鉱山遺跡群 豊岡市竹野町三原字大山
    水山タタラ場口遺跡 豊岡市竹野町三原字水山口

  • 生野銀山
  • 銀の馬車道

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
-「和田鉱物標本」-東京大学総合研究博物館 他

室町-5 山名氏と赤松氏

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山名氏と赤松氏

目 次
  1. 山名持豊(山名宗全)
  2. 赤松氏と万人恐怖
  3. 嘉吉の乱(かきつのらん)
  4. 乱の経過
  5. 黒田城と長谷部休範

1.山名持豊(山名宗全)

山名持豊(山名宗全)は、応永11年5月29日(1404年7月6日)~文明5年3月18日(1473年4月15日)は、山名時熙の三男で、母は山名師義の娘。子に山名教豊、山名是豊、山名勝豊、山名政豊、山名時豊、細川勝元室、斯波義廉室、六角高頼室。諱(いみな)は持豊で、宗全は出家名。通称は小次郎(こじろう)。山名氏の祖、山名三郎義範から10代目にあたります。

文明四年(1432)に家督を相続。1435年には父の時熙が死去し、1437年には兄弟の山名持熙が持豊の家督相続に不満を持ち備後で挙兵し、これを鎮圧します。但馬・安芸・備後・伊賀の守護職を与えられました。時熙には嫡男持熙(もちひろ)があり、はじめ後継者に立てられいましたが、将軍義教の勘気にふれて、持豊が家督に立てられたのです。永享七年(1435)、時熙が死去すると、持豊が山名一族の惣領となったのですが、備後において兄持熙が反乱の兵をあげました。ただちに軍を起した持豊は備後に進攻すると、たちまち持熙を国府城に討ち取りました。

将軍権力の強化と幕府政治の引き締めを狙う足利義教は、恐怖政治を行っていました。多くの守護、公家、武家が粛正の波にさらされ没落、つぎは自分の番と思いつめた満祐が義教を殺害するという暴挙を行ったのです。この前代未聞の事変に際して幕府は動揺をきたしましたが、赤松討伐軍を編成すると播磨に向けて進攻させました。その主力となったのは侍所頭人の地位にあり、赤松氏の本国播磨の隣国にあたる但馬守護職でもある山名持豊でした。

一族の反乱を平定した持豊は領国支配を固め、幕府の侍所頭人に任じられ、時熙につづいて幕府内で重きなしました。そして、持豊が侍所頭人在任中の嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐が自邸に招いた将軍足利義教を暗殺するという一大事件が起こりました。

2.赤松氏と万人恐怖

赤松氏は播磨国の地頭でしが、鎌倉時代末の赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄(げき)に応じて挙兵し、鎌倉幕府打倒に大きく尽力した功績により守護に任じられました。南北朝の争乱では足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨国の他に備前国、美作国を領し、幕府の四職のひとつとなっていた家柄です。

義持は応永35年(1428年)に後継者を定めないまま死去しました。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟たちの中から「籤引き(くじびき)」で後継者が選ばれることになりました。籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任しました。この経緯から義教は世に「籤引き将軍」と呼ばれています。義教は、当初は「三管四職」の有力守護大名による衆議によって政治を行っていましたが、長老格の三宝院満済、山名時煕(ときひろ)の死後から次第に指導力を発揮するようになりました。

義教は、将軍の権力強化をねらって、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者をそれぞれの家督に据えさせました。永享11年(1439年)の永享の乱では、長年対立していた関東公方足利持氏を滅ぼしました。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶たちが根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなってしましました。

足利将軍の中では三代義満に比肩する権力を振るった義教でしたが、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられました。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者たちの名が書き連ねられてあります。中には遠島にされたり、殺された者もいました。伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』は義教の政治を「万人恐怖」と書き記しています。

3.嘉吉の乱(かきつのらん)

このころ幕府の最長老格となっていた赤松満祐は、足利義教に疎まれる様になっており、永享9年(1437年)には播磨国、美作国の所領を没収されるとの噂が流れています。義教は赤松氏の庶流の赤松貞村を寵愛し、永享12年(1440年)3月に摂津国の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまいました。

永享九年(1437)五月、大和国出陣中の一色義貫と土岐持頼が義教の命により誅殺されました。「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱」したと称して隠居してしましました。
嘉吉元年(1441年)4月、足利持氏の遺児を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝の結城城が陥落(結城合戦)しました。捕えられた春王、安王は、護送途中の美濃国垂井宿で斬首されます。これより先の3月、出奔して大和国で挙兵し、敗れて遠く日向国へ逃れていた弟の大覚寺義昭も島津氏に殺害されており、足利義教の当面の敵はみな消えたことになっってしましました。

嘉吉元年(1441年)、将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺(嘉吉の乱)されると、同年、赤松氏討伐の総大将として山名持豊ら山名一族が但馬国、伯耆国から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定し挙兵し大功を挙げました。

同年6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招きました。『嘉吉記』などによると、「鴨の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい」と招いたといいます。この宴に相伴した大名は細川持之、畠山持永、山名持豊、一色持親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熈貴、細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちでした。他に公家の三条実雅(義教の正室三条尹子の兄)らも随行しています。

一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたちました。臆病な義教は「何事であるか」と叫びますが、傍らに座していた三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えました。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまったのでした。
酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名たちの多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑います。山名熈貴は抵抗しましたがその場で斬り殺されました。細川持春は片腕を斬り落とされ、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負ってしましました。公家の三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向いましたが、切られて卒倒します。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化しました。

赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名たちは退出しました。

貞成親王の『看聞日記』は「赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。自業自得である。このような将軍の犬死は、古来例を聞いたことがない」と書き残しています。

嘉吉元年(1441年)に播磨国、備前国、美作国守護の赤松満祐が、六代将軍足利義教を暗殺し、領国播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱です。嘉吉の変(かきつのへん)とも呼ばれています。

管領・細川持之を始め諸大名たちは、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまいました。彼らは赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は、必ず同調する大名がいるに違いないと考え、形勢を見極めていたのです。満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害するつもりでいました。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去しました。これを妨害する大名は誰もいなかったのでした。翌25日、ようやく管領・細川持之は評定を開き、義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決定しました。しかし幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は容易に編成されませんでした。本拠地の播磨国坂本城に帰った満祐は、足利直冬(足利尊氏の庶子、直義の養子)の孫の義尊を探し出して擁立し、大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗しようとしました。

その後、細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津国から、山名持豊ら山名一族が但馬国、伯耆国から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定しました。大手軍は7月11日に発向しましたが、事実上の総大将であった侍所頭人・山名持豊はなかなか京を動きませんでした。その間に持豊配下の兵士が「陣立」と称して洛中の土倉・質屋を襲撃して財物を強奪しました。これには管領・細川持之も怒り、数日たってようやく持豊が陳謝するという事件がを起こっています。

8月中旬、山名持豊はようやく4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防がありました。28日、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍しました。30日、両軍は田原口で決戦を行い、義雅は善戦しますが力尽き敗走しました。

赤松一族は城山城へ籠城するが、山名一族の大軍に包囲された。9日、義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨国の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまいましりました。10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた満祐は教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹しました。

この功績によって山名氏は、赤松氏の領国を加えて、備後・安芸・石見・備前・美作・播磨など8ヶ国の守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げました。京都室町に屋敷を構え在京しました。

山名持豊(宗全)は、満祐を討ち果たしたことによって播磨国の守護職を与えられ、備前国は山名教之、美作国は山名教清に与えられました。足利義満時代の明徳の乱で敗れて勢力を低下させた山名家は大きく回復し、管領細川家と力を競うようになります。
1443年には山名熙貴の娘を猶子に迎え、大内教弘に嫁がせ、1447年には同じく熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結びます。

赤松氏はこの乱によって全ての守護職を奪われ没落しました。しかし、長禄元年(1457年)に赤松氏の遺臣が禁闕の変で後南朝に奪われた三種の神器のうちの神璽を奪還した事で、足利義政時代の赤松政則(義雅の孫)のときに再興を果たしています(長禄の変)。

播磨に兵を進めた持豊は赤松勢が拠る城山城を猛攻、観念した満祐は自害、赤松氏宗家は没落した。乱後、山名氏の功に対して幕府は、播磨・美作・備前の守護職を与えました。持豊はただちに垣屋越前守熙続を守護代に任じて播磨に派遣すると、赤松氏残党を掃討するとともに、領国支配を推進しました。しかし、播磨は赤松氏発祥の地であり、東三郡は幕府に味方した赤松満政が分郡守護に任じられるなど、領国支配の前途は多難でした。
播磨一国の守護職を望む持豊は幕府に働きかけ、ついに東三郡の守護職にも任じられました。この処置に怒った満政が挙兵すると、ただちにこれを討ち、満政を播磨から追い払いました。その後も赤松氏一族の挙兵が繰り返されましたが、そのことごとくが持豊によって征圧されました。

1450年(宝徳2)に出家し、家督を子の教豊に譲ります。1454年には赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立し、政務を引退して但馬へ下国しました。赤松則尚が播磨で宗全の孫に当たる山名政豊を攻めると、但馬から出兵してこれを駆逐します。1458年には赦免されて再び上洛。幕政を巡り、娘婿である細川勝元と対立するようになりました。三管領の畠山氏の家督争いでは、勝元は畠山政長を支持するのに対して畠山義就を支持、斯波氏の家督争いでは、斯波義敏を支持する勝元に対し斯波義廉を支持しました。

その後まもなく、持豊(宗全)が守護を兼ねていた播磨国で赤松氏再興の問題が起こり、将軍がこれを許したので怒った、持豊(宗全)は二万の大軍を率いて但馬から播磨に出陣し、康正元年(1455)六月には、赤松教祐(のりすけ)・則尚(のりなお)を討って自殺させ、将軍の命にそむいて八月には京都に侵入しました。このように、持豊(宗全)の勢力は将軍をしのぎ天下に並ぶ者のない勢いでした。
山名持豊の傲慢と勢力拡大を嫌った幕府の謀略で、享禄三年(1454)、持豊は討伐を受けて隠居、家督を嫡男教豊に譲りました。このとき、持豊は出家して宗全と号し、備後守護職には是豊が補任されました。長禄元年(1458)、赦免された宗全はふたたび幕府内で権力を振るうようになります。

黒田城と長谷部休範

和田山町東河(とが)の黒田城は、上道秀重(かんだちひでしげ)という武将が築いたものだといわれています。

上道秀重は小さいときから文武に優れ、嘉吉元年(1441)、竹田城を築いた名将山名持豊(宗全)の家来として播州の赤松満祐と戦い、たちまちこれをうち破り、さらに敵を追って進み、備前国上道郡(岡山県)に追いつめてこれを討ち滅ぼしました。その手柄によって、山名宗全からその地名をとり、上道(かんだち)の姓を与えられました。

その後、応仁二年(1468)三月二十日、夜久野ヶ原の合戦が起こりました。これは山名宗全と勢力争いをしていた細川勝元の家来で丹波国八上城(篠山町)の内藤孫四郎が、家来の長谷部四郎休範らとともに但馬国へ攻め込んで起こった合戦です。この戦いに、山名宗全の家来である竹田城主二代目・太田垣土佐守景近の三男、新兵衛尉宗朝(のちの三代城主)が多くの兵を引き連れて夜久野ヶ原に迎え撃ったわけですが、この時、黒田城の城主上道秀重は、長谷部四郎休範と戦いこの首を討ち取りました。大将を失った長谷部勢は総崩れとなり、夜久野ヶ原の合戦も山名軍の大勝となりました。山名宗全は大変喜び、御賀丸の太刀一振りと着替えの具足一揃いを新兵衛尉に贈ったと伝えられています。

しかし、その後東河村には悪い病気が流行し、村人たちは大へんな苦しみを受けました。それはきっと長谷部四郎休範のたたりであると噂が広まり、村人たちは相談して村の氏神さんに、休範の霊を祭ってその冥福を祈りました。それからは悪病も流行せず、村の平和は続いたということです。
その後、黒田城の城主も何代か続き、とくに秀重から四代あとの上道左京之進は、武芸に優れた人だったといわれ、天正八年(1580)九月、中国征伐中の羽柴秀吉に召し抱えられて鳥取城攻めなどに加わって手柄を立て、さらに山崎の合戦や賤ヶ岳の合戦にも参加したということですが、天正十二年(1584)の春、病に倒れ三月十八日に死んだといわれています。どうやら黒田城もそのころから、廃城となり子孫も絶えて、現在では跡形もなくなり、ただ伝説として物語が伝えられているだけとなりました。

出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
「ヨーロッパの歴史」-放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝
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