たじまる 奈良5

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

但馬国分寺

但馬国分寺

国分寺(こくぶんじ)は、天平13年(西暦741年)、聖武天皇の国分寺建立の詔(みことのり)を受けて、国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ)とともに建立を命じた寺院です。正式名称は

  • 国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
  • 国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)です。
    前者には護国の教典『金光明経』十部が置かれ、封五十戸・僧二十人が配されました。後者には滅罪の教典『法華経』十部が置かれ、水田十町・尼十人が配されたといわれています。まさに仏教の力によって国家の安泰と発展を実現することが祈願されたのです。
    各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれました。多くの場合、国府(国庁)とともにその国の最大の建築物でした。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられました。さらに天皇は二年後の天平十五年、『華厳経』の教主である廬舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像(大仏)を造立することを宣言する詔を発しました。天皇は自らが天下の富を注いでこの事業を完遂するという決意を述べるとともに、多くの人々が結縁のために、たとい「一枝の草、一把の土」でも協力してくれるよう、呼びかけました。大仏が大仏殿と共に一応完成したのは、天平勝宝元年(749)です。それは諸国の資源と民衆の労力と、そして主に渡来人の人々の技術を総動員して遂行された国家的大事業でした。『続日本紀』が記す「人民苦辛」の程度も相当なものだったと推測されます。四年、来日していたインド僧のボーディセーナ(菩提せん那)を導師として、盛大な大仏開眼の法会が行われました。参列した僧侶は一万人に及び、諸外国の舞楽が奉納されたといわれます。それは文字通り国際的な大イベントでした。


礎石

律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れました。ただし、中世以後もかなりの数の国分寺は、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、あるいは後世において再興されるなどして、現在まで維持しているところもあるそうです。また、かつての国分寺近くの寺で国分寺の遺品を保存していることもあります。国分尼寺も同様ですが、寺院が国家的事業から国司、守護など実質統治に代わると、かつての国分寺は復興を受けなかったところが多くなりました。ここ但馬でも国司が中心となって建設が進められました。全国でも伽藍が残っている数少ない国分寺跡として、注目を集めています。


塔跡(画像:但馬国府国分寺館)

昭和48年(1973年)から始まった発掘調査の結果、七重塔、金堂、門、回廊などの建物が見つかり、お寺の範囲がおよそ160m四方もあったことがわかりました。また、全国の国分寺ではじめて、「木簡」(木の板に書かれた文書)が見つかるなど、貴重な発見が相次いでいます。


金堂と回廊がつながる部分(画像:但馬国府国分寺館)

風鐸(ふうたく)屋根の軒に垂らし、風で音を奏でる。

金堂(こんどう)
寺の中心的な建物で、本尊を安置する。東大寺でいうと「大仏殿」にあたる建物です。

回廊(かいろう)
門と金堂をつなぐ廊下。

基壇(きだん)
建物が建つ土壇。壇の周囲に化粧石を積んだり、壇上に石などを敷いたりする。

礎石(そせき)
地盤に据えて柱を立てるための石。


釈迦(仏教の創始者)の舎利(遺骨)を納める。寺のシンボル的な建物。

但馬尼寺


但馬尼寺 豊岡市日高町水上、山本

現在も日高東中学校の前に二個の礎石が残っています。150年位前には、26個の礎石が一定間隔を置いて残っていたといいます。(国分寺から約1km弱北へ。)
▲ページTOPへ

気多郡分寺

日本に仏教が伝来してから百年も経つと、仏教の普及はめざましく、日本のあちこちで造寺が行われ、その時の元号から「白鳳寺院」と呼ばれています。但馬の白鳳寺院は、現在のところ豊岡市三宅の薬琳廃寺のみが知られています。


鹿島神社境内 日高町府中新

鹿島神社境内には、大きな礎石が安置されています。但馬の郡ごとに設置された「郡分寺」ではないかと想定されています。薬琳廃寺の建立に続く時期のものだそうです。郡分寺とはいえ巨額の費用がかかるので、気多郡の在地有力者が、個人的に独力で建立したものではなく、但馬国司の側から、積極的に造営費の援助、助成が行われていたのでしょう。さらに各郷には「郷寺」がつくられはじめます。寺は鎮護国家の道場であると同時に、教育の場として、律令制度を全面的に実施するために、但馬国衙から郡司や郷司に指令が発せられます。

但馬の国司(守)

都が794年に奈良から京都へ遷され、時代は平安時代になります。平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していきました。しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。

国衙(こくが)は、もとは奈良時代に日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画を指す用語でしたが、平安時代頃までに、国司の役所(建物)そのもの(国庁という)を国衙と呼んだり、国司の行政・司法機構を国衙と呼ぶことが一般的となりましました。また、国衙に勤務する官人・役人を「国衙」と呼んだ例も見られます。国衙を中心として営まれた都市域を国府(こくふ)といいましました。古代では「こう」といい、地名として全国に残っているものもあります。
但馬国の国司(但馬守)の記録として残るものは、以下の通りです。

  • 源経基(みなもとの つねもと、在任:930頃)平安時代中期の皇族・武将。清和源氏経基流の祖。位階は贈正一位。神号は六孫王大権現。弟に経生、子に満仲・満政・満季・満実・満快・満生・満重・満頼ら。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めましました。
  • 源頼光(1010年頃 天暦2年(948年)~治安元年7月19日(1021年8月29日)がいます。平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘。清和源氏の三代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれます。但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任しましました。左馬権頭となって正四位下になります。頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にあります。頼光寺
    一方で、後世に成立した『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。日高町上郷に頼光寺があります。但馬にいる時の居館だったといわれれています。
  • 平正盛 在任:1110年頃、正盛が家督を継いだ頃は平家も勢力が小さく、河内源氏に臣従し源義家に仕えていましました。従四位上、検非違使、因幡権守、伊予権守、備前守、右馬権頭、讃岐守、但馬守、丹後守を歴任。平経正は、平安時代末期の武将、歌人。平経盛の長男で、弟に経俊、敦盛があります。平清盛の甥にあたる。官位は正四位下に昇叙し、但馬守、皇太后宮亮、左馬権頭を歴任しましました。
    一門の中の俊才として知られ、歌人、また琵琶の名手として名を挙げた。藤原俊成や仁和寺五世門跡覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けましました。
  • 平忠盛 在任:1130年頃 平安時代末期の武将。伊勢平氏庶流。平清盛の父。大治2年(1127年)従四位下に叙され、備前守となり左馬権頭も兼ねた。さらに、牛や馬の管理を行う院の御厩司となりましました。内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇でしました。美作守-、尾張守-久安2年(1146年)播磨守。諸国の受領を歴任したことに加えて、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄え、平氏政権の礎を築いましました。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』があります。
  • 平重衡 1182年(権守) 平安時代末期の武将。平清盛の五男。母は平時子。位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称されましました。南都焼討を行って東大寺大仏を焼亡させましました。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送されましました。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首されましました。
    応保2年(1162年)6歳で従五位下、長寛元年(1163年)7歳:尾張守(頼盛の後任)、永万2年のち改元して仁安元年(1166年)(10歳):従五位上(中宮・藤原育子御給)、12月30日:左馬頭(宗盛の後任)、仁安3年(1168年)(12歳):正五位下(女御・平滋子御給)、承安元年(1171年)(15歳):従四位上(建春門院御給)、承安2年(1172年)(16歳):中宮亮(中宮・平徳子)、2月17日:正四位下、治承2年(1178年)(22歳):春宮亮(東宮・言仁親王)。左馬頭如元。中宮亮を辞任、治承3年(1179年)(23歳):左近衛権中将、12月14日:左中将を辞任。春宮亮如元、治承4年(1180年)(24歳):蔵人頭、2月21日:新帝(安徳天皇)蔵人頭。春宮亮を辞任、治承5年のち改元して養和元年(1181年)(25歳):左中将に還任。従三位、養和2年のち改元して寿永元年(1182年)(26歳):但馬権守兼任、寿永2年(1183年)(27歳):正三位(建礼門院御給)、8月6日:解官寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦いで維盛の平氏軍が源義仲に大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされましました。重衡も妻の輔子とともに都落ちしましました。重衡は勢力の回復を図る中心武将として活躍。同年10月の備中国・水島の合戦で足利義清・海野幸広を、同年11月の室山の戦いで再び行家をそれぞれ撃破して義仲に打撃を与えた。翌寿永3年(1184年)正月、源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した範頼と義経によって滅ぼされましました。この間に平氏は摂津国・福原まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していましました。しかし、同年2月の一ノ谷の戦いで平氏は範頼・義経に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて梶原景季に捕らえられてしまう。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女たちは入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっています。木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首されましました。享年29。参考:「仏教の思想」国際仏教学大学院大学教授 木村 清孝フリー百科事典 「ウィキペディア」

たじまる 奈良4

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

但馬国(たじま)

1.但馬国(たじま)

但馬国(たじま)とは旧国名で、兵庫県北部に位置し、西は因幡国(鳥取県東部)、東は丹後国、東南部は丹波国(共に京都府)、南部は播磨国(兵庫県)に接しています。兵庫県が日本海と瀬戸内海の両方に面しているというと意外に思われる方がいます。

但馬は最初は丹波国の一部でした。7世紀、「続日本紀」によると天武天皇十三年(六八五)に丹波国より西部の8郡を分割して成立したとありますが確証はありません。さらに、和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれました。但馬国は、延喜式での律令制における地方行政区分の一つで、格は「上国」、「近国」に位置づけられています。『古事記』は「多遅麻」、「多遅摩」、『日本書紀』はすべて「但馬」と記し、『和名抄』は「太知万」と訓じています。この「たちま」は、谷間が訛ったとも、「タチ(台地)・マ(間)」と解する説(後述)があります。実際に低い山間に細い谷が広がる地域だ。もとは丹波(たんば)の一部でした。丹波は古くは但波・田庭・谷端・旦波とも記されていますが、「たんば」とよく似ていることからたんばが訛ったのではないかとも思えます。日本神話に登場する人物で、天日槍(あめのひぼこ)を祭神とする出石神社田道間守(タヂマモリノミコト)を祀るお菓子の神様、中嶋神社には、コウノトリをつかまえた天湯河棚神(天湯河板挙命)も祀られています。タヂマモリは、全国のお菓子の神。古事記では多遅麻毛理、日本書紀では田道間守と表記され、新羅から渡ってきた天日槍(あめのひぼこ)の曾孫であるとされます。また、多遅摩比多詞の娘が神功皇后です。

但馬で育ちつつあった指導者たちは、大和の大王と手を結び、力をつけ、ここに但馬の国を総括する規模の但馬王が誕生しました。但馬王は、大和の王との関係を強めながら次第に力を伸ばしていきました。

2.国府の施設と配置

国府(こくふ)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設が置かれた場所や都市を指し、国衙(こくが)ともいいます。律令制において、国司が政務を執った施設を国庁といい、国庁の周囲は塀などによって方形に区画されていました。国、郡、城柵で政務の中心となる建物をまとめて政庁といい、国庁もしばしば政庁と呼ばれます。国庁とその周りの役所群、都市域を総称して国衙(こくが)、国府といいます。現在は役所群のほうを国衙、都市のほうを国府と分けて用いることもありますが、同時代的には区別はなかったようです。歴史的には国府の方が先行し、8世紀にはもっぱら国府という言葉が用いられ、平安時代後期以降に国衙が一般的になりました。

各国の国庁の規模の差は小さく、方形の区画の中に中庭を囲んで正殿、東脇殿、西脇殿を冂字形に配置し、南に正門を持ちます。外形上もっとも整備された形では、南門から出る南北道と、これと交差する東西道が中心街路をなし、その他の官衙、国司館、その他施設が区画割りして配置されます。しかし多くの場合国庁をとりまく建物群の配置の規律は緩い。国府の内と外を区分する外郭線は、国府が城柵に置かれたような例外を除きありません。

国府に限らず、律令制時代の日本では役所の建物を曹司といい、これらがまとまった一区画を院と呼びました。国司館は、守館、介館など、国司のために用意された公邸です。もともと国司は国庁で政務をとっていましたが、平安時代中期以降、国司館が政務の中心になりました。国府には正倉が付属しますが、奈良時代には徴税実務上郡の重要性が大きく、地方の正倉は大部分郡家にありました。また工房があって、国府勤務の官人の需要に応じ、都に送る調庸物を生産しました。役所や工房で働く人には、国厨(国府厨)から給食が出されました。工房で働いたり様々な雑務を行う労働者が住む竪穴住居群があり、さらに市場もありました。国府の陸上交通のためには駅家が置かれました。水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多かくありました。
741年(天平13年)以降、国ごとに国分寺と国分尼寺が建てられることになりましたが、それ以前から国府機能と密着した付属寺院を持つ国もありました。平安時代にはさらに総社が建てられました。

これらの施設が一箇所に集中して建てられると都市的な景観になりますが、距離を置いて分散する例も多くありました。国府には国司の他、史生、国博士、国医師、徭丁などの職員が勤務しており、小国で数十人、大国では数百人の人数規模でした。全体としての人口は、陸奥国や武蔵国のような多いところで2、3千人に達したと推定されています。
国府は室町時代に完全に消滅し、ほとんどが所在不明となりました。和名類聚抄が国府があった郡を伝えていますが、それ以上に絞り込むのは難しくなっていました。1960年代までの研究では、「国府(こう)」、「国分寺」、「総社」、あるいはそれと似た地名が探索され、他の状況証拠とあわせて様々に位置が推理されました。
1964年に近江国府が発掘されてから、国府跡の遺跡が次々と発掘されるようになって、状況は劇的に変わりました。あわせて郡衙、寺院の遺跡も見つかり、これらと照らし合わせて国府に共通する特徴が浮かび上がってきました。奈良時代から平安時代前半の国府では、方形区画と正殿・脇殿などで構成される政庁が他の施設にはない特徴で、これが国府の中心施設でもあることから、政庁を発見した時点で国府位置確定とみなされます。


但馬国府国分寺館

大きな地図で見る

但馬国府は、但馬のどこに設置されていたのでしょうか。国府と密接な関係を有していた国分寺。その寺地選定の要件は、「衆の帰集を労するを欲せず」とされているように、交通至便の地が望まれました。国庁内にあった仏舎の発展延長でもあるので、国府から飛び離れた地点に建立されることはまずありませんでした。実際、国府から五町乃至二町位隔たって建設されたものが多いようです。

古くから日高町国分寺区は、但馬国分寺跡だとの伝承を持つ位置が存在し、但馬の他所から移ってきたような大変化も伝承もなく、遺跡も存在しているのは、但馬では他にはありません。

つまり、国分寺と国府は、まず距離的に密着しているのが通例ですし、この国分寺の近くに国府が最初から建設されたと見るのが妥当です。

次ぎに、国分寺という地名は、和妙抄には存在せず、江戸時代には国保村と書かれています。
国府が国保に訛ったとも考えられ、国府を保つ村だから国保村、国分寺があるから後に国分寺になったのだろうか?『兵庫県史』は、「但馬に気多郡団が知られるが、出石軍団は知られないこと、天平九年の『但馬国正税帳』によると、但馬国府から因幡へ伝達するのに気多郡の主帳を使っています。ふつう国府のある郡には軍団が置かれるし、また文書の逓送には、国府に近い郡の役人を使うのが自然」と述べています。したがって、但馬国府は、出石神社が古くから出石郡に鎮座することから、はじめ出石郡に置かれていたのではないかする見解が一部にありますが、上述の発見からも否定する意見が濃いようです。

『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記されています。別の場所から高田郷へ移されたと記しています。移転月日まで判明している資料的な裏付けがある希有な例だといわれています。
では何故、せっかく好地を選定し、多くの農民を駆り立てて建設した古代の政治都市が、惜しげもなく放棄され、新しい地点を求めて移転したのでしょうか?
総じて移転原因と見られるのは洪水のようです。都市計画に当たって広大な平野が選定されても、高水位対策の配慮が足りないとその機能が発揮できません。
第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もありました。

  • 但馬史説
  • 国府村誌説
  • 日置郷説
  • 八丁路説
  • 八丁路南説
  • 国司館移設説

伊智神社なかでも国府説では、明治中期に設定された国府村という行政体の名前から、国府はこの地にあったに違いないとするものです。国府には船所が設置されていたので、おそらくその河流沿いではあるというものです。国府の市場は「こうの市」と記載されています。国府は「こう」ともいいました。また近くに伊智神社が鎮座しており、伊智は市のことで、市場に関係する神社です。また、中世末期、「府中」と呼ばれていた域内には律令制に所縁ありそうな「堀」「土居」などの地名があります。

日置郷説は、かつて上郷は日置郷にあり、惣社の近くに国府があったというものです。ところが、鎌倉時代には惣社気多神社は、下郷に鎮座していることになっているのでつじつまが合いません。
八丁路説は、伊福(鶴岡)に「八丁」という小字があり、太平洋戦争末期まで鶴岡橋の下流左岸に渡し船がありました。八丁とは区間の長さを示す言葉ではなく八条の転化であり、条里地割りの呼称ではないかといいます。

また、『日本後記』は、上記の通り明瞭に第一次国府の移転を宣言してありますが、果たして国府全体が本当に移転したかです。「国衙」「国庁」あるいは「国府」とも言わず、「国治」を移すと表現していることは、やはりそれなりの意味があって、行政機関のあるものを移転したことを示すものではないだろうか、という考察です。いくつかの新庁舎が建設された類のものではないか、だからこそ、旧国府村でも、円山川沿いに、国府と関係するらしい小字名が伝承されてきたのではないかというものです。
いずれにしても第一次国府は、国分寺の近くにあったこと、人々が行き来しやすい至便の地に建設されたことは確かです。参考:『日高町史』

4.祢布ケ森(にょうがもり)の三時代の遺跡

 縄文後期や晩期前半・後半の凸型文土器が出土し、昭和48年、祢布ヶ森東方部を発掘したところ、幅一メートル深さ60センチの溝や土器とともに石器が発見され、この溝を境にして遺跡の性格が実にはっきりと相変わっていることが判明した。また、西側一帯は、
奈良時代から平安初期にわたる遺物が出土しています。この祢布ヶ森三つの文化層の差異が見られる。(中略)

このように、高原の神鍋山麓だけでなく、低平部の稲葉川と円山川との合流点付近の扇状地帯に縄文時代の新しい生活が展開してきています。
-日高町史- 縄文人たちが但馬の地にはじめてやってきた頃、水面は現在よりも高かったとされています。また狩猟や採集生活をおこなっていたことから、最初は高原地帯に居住していて、だんだん平地にも移住していったのではないでしょうか。


門のある塀と大きな建物(画像:但馬国府国分寺館)

祢布ヶ森遺跡

但馬国府は『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。遷された原因やどこから遷したのかについては記述がないため分からありませんが、移転後の所在地については、近年の発掘調査で博物館に隣接する祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡であると考えられるようになりました。

それではなぜ祢布ヶ森遺跡が但馬国府であると考えられるようになったのだろうか?


大きな建物の柱(画像:但馬国府国分寺館)

役所跡と判断する理由

  • 塀で囲まれた中に大きな建物群が規則性を持って配置されていたこと
  • 庶民は使わない高級な食器である青磁や白磁、三彩などが見つかったこと
  • 但馬各郡の役所で作成されたと思われる戸籍や税に関する木簡が見つかったことなどがあげられる。 水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多く、平安時代にはさらに総社気多神社が建てられた。国府という地名は、全国にあるが、国府跡の所在地が判明しているところは数少なく、その意味でも但馬国府・国分寺跡は貴重です。

    国府の規模は大国以外は六町域をとるものが多くありました。上国とされていますが、貢租の額を詳しく分析してみると、中国の実態しかない国だったようです。

    2008年6月21日、中国最古の詩集「詩経(しきょう)」に触れた木簡が国内で初めて出土しました。同時に二百二点の木簡が見つかり、一つの遺跡では県内最多、全国でも二、三番目の数だそうで。810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されています。川岸遺跡(官衙跡)兵庫県豊岡市日高町松岡第1次但馬国府か?(昭和59年)都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

    5.県内最多の木簡(もっかん)出土

    祢布ケ森遺跡では、1986年から16点の木簡がすでに見つかっていました。木簡では、紀年銘をもつものが多く、但馬国府が高田郷に遷された時期に近いものから10世紀末までにもおよび、この遺跡が機能した時期がわかるものです。また、墨書土器でも「但馬」や「国当」は硯(すずり)の存在と合わせて、この遺跡が国府に関係することを示すものと考えられます。

    また、豊岡市教育委員会(出土文化財管理センター、但馬国府・国分寺館)では、2008年6月4月30日から5月13日まで、日高町祢布にある但馬国府・国分寺館のすぐの祢布ヶ森遺跡の発掘調査で中国最古の詩集「詩経(しきょう)」の注釈書の一節が書かれた9世紀前半(平安時代)の木簡が全国で初めて見つかりました。当時、都の学問・教育機関だった「大学寮」の教科書として使われたとされ、しかし、都でも見つかっていない『詩経』の内容を書いた木簡が見つかったことは、あまり普及していなかった『詩経』の注釈書が但馬にあり、それを使って役人が漢詩の勉強をしていたことを物語っています。

    堀状の遺構から木簡203点が見つかりました。203点という木簡の出土数は、県内で最多です。詩経が書かれた木簡は長さ39・5センチ、幅10・9センチ、厚さ0・7センチ。「淒寒風也谷風曰東風」(淒(せい)は寒風なり。谷風は東風という)などと墨書され、詩経にある「淒」や「谷風」の意味を説明する内容で、注釈書「毛詩正義」にあるのとほぼ同文でした。下に「健児長」とあり、国府を警備していた兵士「健児(こんでい)」が字の練習のために書いた可能性があるそうです。

    また、別の木簡には桓武天皇の姪(めい)にあたる「従三位五百井女王(じゅさんみい おいのじょおう)」の名前が記されていました。五百井女王が「従三位」の位だったのは808~812年で、木簡の時期が特定できました。「城埼郡(きのさきぐん・原文のまま)」から茜(あかね)を送った際に付けた付札、「弘仁四年」(西暦813年)の年号を書いたものなどがありました。

    ほぼ同時期の810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されます。

    木簡の書かれた西暦810年ごろは、国内で天皇の勅(ちょく)による漢詩集が編集されていたときで、地方における漢詩の普及を示す資料と言えます。また、若い?官人が九九を間違えている跡、同じ文字を繰り返し練習したものなど、さまざまな内容のものがありました。

    祢布ヶ森遺跡は、今までの発掘調査で延暦23年(804年)に移転をした但馬国府の跡と考えられていました。今回の木簡はそれをさらに裏付けるとともに、国府における役人たちの姿をほうふつさせる大きな発見となりました。
    祢布ヶ森遺跡では、これまでに16点の木簡が出土しているので、今回のものと合わせて219点の木簡が出土したことになります。県内で見つかっている木簡は約870点ありますが、そのうち、豊岡市内で見つかった木簡は、袴狭遺跡(出はかざ石)の76点、但馬国分寺跡(日高)の42点など、約440点。県内の木簡の約半数が、豊岡で出土していることになります。

    しかも、一つの遺跡で出土した木簡数では、下野(しもつけ)国府(栃木県)の約5千5百点に次ぎ、阿波国府(徳島県)の二百五点に並ぶそうです。これらの遺物は当遺跡の性格を明らかにするだけでなく、但馬国の平安時代を考える上で大変貴重な資料です。

    深田遺跡(官衙跡)

    兵庫県豊岡市水上字深田他(兵庫県指定重要有形文化財 平成6年度指定 兵庫県立考古博物館所蔵)は、周辺に国分僧寺、国分尼寺などがあり、延暦23年(804)に気多郡高田郷に移したと『日本書紀』に記されている但馬国府跡推定地の一つと考えられています。

    6.木簡(もっかん)

    木簡(もっかん)とは、古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、細長い木の板です。紙の普及により廃れましたが、荷札には長く用いられていました。

    中国と日本では一行または数行の文を書いた細長い板が多数出土しており、典型的な、狭義の木簡はこれです。これらは当時も木簡と呼ばれていましたが、用途や状況に応じて様々に呼ばれていました。漢代まで木簡と竹簡には冊書を作る用途があり、一、二行しか書けないような細長い規格で作られました。後に長い文書が紙で作られるようになり、木簡の形に対する制約がなくなっても、細長い形はなかなか変わりませんでした。

    木簡の特徴の一つは、削って書き直したり再利用したりすることができるという点にあります。そのため当時の文具には筆、墨、硯に加えて小刀が含まれていました。削り屑に習字した例もあり、それらも上述の広義の木簡に含まれます。遺跡からの木簡出土の始まりは、1901年にハンガリー出身のイギリス人オーレル・スタインが中国の尼雅で50枚、スウェーデンのスウェン・ヘディンが同じく楼蘭で120枚余の晋代の木簡を発見したことです。スタインは、1907年、1913年-16年の、第2次・第3次探検でも、約900枚の漢代の木簡を発見しています(敦煌漢簡)。その後1930年にはエチナ川流域から一挙に1万点以上の大量の木簡が発見されました(居延漢簡)。20世紀前半には西北辺境からの発見が多かりましたが、後半には中国全国で多数見つかるようになりました。中国では竹に文字を書いた竹簡が主流で、単に簡や簡牘といえば竹簡を指します。しかし黄河流域以北では木簡も広く用いられました。紙が普及しない漢代まで、木簡・竹簡は文書の材料として広く用いられていました。木簡と竹簡の相違は、その用途の相違によるものとも考えられています。つまり、各種の証明書や検・檄・符などの単独簡として用いられる簡には木簡が用いられ、それに対して、書物や簿籍などの編綴簡には竹簡が用いられている、という出土状況から、そのように考えられています。日本の木簡としては、正倉院の宝物に付けられていたものが伝わるほか、1928年に柚井遺跡、1930年に払田柵跡で3点ずつが見つかっていました。大量出土は1961年の平城京跡での40点に始まり、以後続々と各地で見つかるようになりました。数的に多いのは1996年の平城京東南隅から1万3千点、1988~1989年の長屋王家木簡・二条大路木簡計11万点、長岡京など都からのものですが、国・郡の地方官衙や寺院など全国から出ています。2002年度末までに総数約31万点が見つかり、数だけなら中国より多いです。

    7.高田郷

    但馬考

    高田(タカダ)郷…和妙抄は「多加多」。夏栗、久斗、祢布、石立、国保(国分寺)、水上

    日置(ヒオキ)郷…和妙抄は「比於岐」。日置、多田谷、伊福(鶴岡)、上郷、中郷

    高生(タコウ)郷…和妙抄は「多加布」。地下、岩中、宵田、江原

    なお、山本、松岡、土居、手辺、府市場、府中新、堀、野々庄、池上、芝、上石(あげし)の十一村が所属不明。

    『日本後記』延暦二十三年(804)に、但馬国府は「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。これが公式に残る最古の記録です。移転後の高田郷は、江戸時代には東組(旗本小出領)と西組(出石藩領)に分けられています。西は久斗(くと)村、東は石立(いしだち)村、国保(国分寺)村までの、かなり広い地域です。祢布(ネフ・にょう)は、古くからの住居跡が発見されている祢布ヶ森遺跡などがあり、第二次但馬国府跡とされます。縄文後期から晩期前半及び後半の土器、さらに町役場移転に伴う発掘調査で、多数の国名を記した木簡などが発見され、さらには、平成20年、詩経が書かれた木簡が多数見つかりました。

    さて、『和妙抄』では但馬八郡の中で、七郡までが、郡名と同名の郷名が記されていますが、気多郡に気多郷はありません。国府の所在地には、行政上の特別処置として郷を設置しなかったものか、あえて気多郡であるから郷名が忘れられてしまったものなのでしょうか。

    ところが、鎌倉時代になると突如として気多郷の名前が出てきます。その気多郷の下郷に惣社の所領が記載してあります。江戸時代の資料によると、総社気多神社は日置荘上郷に鎮座となっています。平安時代中頃の歌集『金葉和歌集』の中には、気多川が出てきます。現在には気多川という名前はありませんから気多神社そばの円山川(まるやまがわ)を指しているのでしょう。

    『但馬国太田文』によると、気多郷域内に常荒流失地が約一割強の十三町歩(1町歩 = 9 917.35537 m2)もあります。気多下郷は、現在の府市場、府中新、堀、野々庄、池上、芝、上石、納屋、上佐野の地域が該当するのではないかといわれています。いずれにしても山陰道から円山川を下って国府に通ったので、国府が円山川に近い地域に設置されたことは間違いありませんが、高田郷に移す以前の第一次国府は、移転した原因が円山川の水害にあったとすれば、わざわざ、さらに低い場所に移すことは考えにくいでしょう。『和妙抄』には以下の地名が記されていませんので、気多郷内は山本、松岡、土居、手辺(府中新?)、国府市場、堀、野々庄、池上、芝、上石とすると、このどこかと考えることはできないでしょうか。しかし、かつては入り江だった地域ですし、円山川の氾濫から影響されにくい場所とすれば限られてきます。手辺が今のどこなのか分からありませんが、堀、野々庄、池上、芝、上石は現在でも海抜0メートル地帯で水害に遭いやすい場所であり、国分寺や尼寺から遠すぎることからまず外したいと思います。とすると、「高田郷に移す」と書かれてあるので高田郷以外の郷のいずれかであることは確かです。となれば隣接する日置郷か高生郷、もしくは気多郷内と想定します。やはり松岡、土居の、深田遺跡か川岸遺跡か、またその包括的領域当たりでしょうか。

    高生(たこう)

    地下、岩中、宵田、江原となっていますが所在地不明。国府平野を高生平野と言っていますが、岩中、宵田あたりから上石あたりまでの広範囲をさすようです。
    国府駅以西は海抜0メートル地帯でかつて円山川に八代川が注ぐ沼地でした。

    「タ・カウイ」、「編んだレースのような(川の流れが縦横に入り組んでいる九頭竜川の河口付近一帯の)土地を・(九頭竜川の洪水が)襲う(地域)」
    竹貫(たかぬき)
    「タクヌイ」、TAKUNUI(wide)、「広い(浦)」
    鷹貫神社[タカヌキ] 鷹野姫命
    兵庫県豊岡市日高町竹貫字梅谷429
    御由緒
    創立年月不詳ですが、天日槍ゆかりの古社。

    祭神「鷹野姫命」は、天日槍ゆかりの神功皇后の御生母。

    延喜式の鷹貫神社と記して小社に列し明治六年十月村社に列せられる。

    祢布(にょう)は丹生・女布か?

    祢布は、ネフと呼ばれやすいですが、ニョウと読みます。日高町の中心部で、役場(日高町総合支所)が移転する際に大規模な遺跡が発見されました。そもそも祢布集落は祢布川が流れる深い谷の裾にあります。下記のように、賣布(メフ)神社、祢布区や但馬国分寺に近い石立に売布(メフ)神社があります。

    • 賣布神社 式内神名小兵庫県豊岡市日高町国分寺字山ノ脇797
    • 賣布神社古社地兵庫県豊岡市日高町祢布(禰布ヶ森遺跡)
    • 賣布神社古社地兵庫県豊岡市日高町国分寺(天神山に小祠)丹生(にゅう)と似た発音の地名です。したがって、古くは朱を生産したり水銀が見つかったのかも知れません。
      すでに丹土(たんと)と丹生(にゅう)で書いていますのでそちらをご覧ください。京丹後市網野町木津女布谷(にょうだに)にも賣布神社(ひめふじんじゃ)があります。
      式内社神名小御祭神:「豐宇賀能咩命(とようかのめのみこと)、素盞嗚命(すさのおのみこと)」御由緒:『竹野郡誌』に次の様に記載されています。垂仁天皇九十年春、田道間守勅を奉じて常世国に渡航し、不老不死の香菓たる橘を得、景行天皇元年無事帰国し、田神山(屋船山)に神籬を設けて礼典を挙げられしより、此の地に奉祀せしを以て創始とする。田道間守を祀る中嶋神社と関係有りです。賣布神社は他にも、京丹後市久美浜町女布初岡にある賣布神社 祭神豐受姫命、大屋媛命、抓津媛命。しかも神社の読みは島根県松江市和多見町に鎮座する式内社と同名です。深い谷。似た地名に丹生、舞鶴市女布(ニョウ)があり、日本の水銀鉱床は中央構造線沿い、当地に関係深いところなら特に紀ノ川・吉野川流域にある。そのずっと北側にも、当地の女布あたりを中心に大きな楕円を描いて但馬から近江・越前を含む範囲、若狭湾岸地域とも呼ばれていますが、そこにも集中分布しているのが以前から知られています。兵庫県宝塚市の売布神社「大布命口羊布命、現在は高比賣神」も有名です。

      大伴家持(オオトモノヤカモチ)

      直接関係ないですが、気多神社がある国に国司として三カ所も大伴家持が赴任しています。単なる偶然だろうかなんて思うが、気になる人物として取り上げました。

      養老2年(718年)頃 – 延暦4年8月28日

たじまる 奈良3

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

丹波(たんば)の始まり


画像:北近畿開発促進協議会に神社を加筆しました

丹波(たんば)の始まり


元伊勢籠神社(宮津市大垣)

一の宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ、こもりじんじゃ)

延喜式神名帳には大社7座6社・小社58座58社の計65座64社が記載されています。大社6社は以下の通りで、竹野神社以外は名神大社に列しています。

4.丹後国府移転の理由は?

この時代の国府移転理由として考えられるのは、やはり桓武天皇の即位でしょうか。天応元年(781年)、桓武天皇は即位すると、新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきます。遷都は前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高める目的があったと考えられており、形骸化した律令官職に代わって令外官などが置かれました。また、桓武は王威の発揚のため、当時日本の支配外にあった東北地方(越後国(後の出羽国を含む))の蝦夷征服に傾注し、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征服に活躍しています。そのことから国府が宮津湾の与謝郡から舞鶴湾の加佐郡に移された理由として考えられるのは、平安京からわざわざ遠いながらも、湾が入り組んでおり、防衛上より適している舞鶴湾を蝦夷攻撃や朝鮮半島との最重要軍事基地として重要視したためとも考えられます。軍事上舞鶴湾は朝廷に最短距離かつ日本海側で最も適した湾であることが、すでに認識されていたのでしょう。

丹波とは、延喜式で定めた山陰道の国の一つで、格は上国、近国。

古代丹国は、北ッ海(日本海)を前に朝鮮半島からの日本の表玄関として、古代は奴国(北九州)・文身国(出雲・伯耆・因幡)の出雲から東に水行5千余里(約260km~300km)の地点に大漢国(但馬・丹後・丹波・若狭・越国・近江)の王都があります。おそらく約260km~300kmから推定すると、福井県・滋賀県のいずれかに王都があったと推定されます。具体的に利便性や気比神宮から敦賀近辺と比定するとします。
丹国(にのくに)は、近畿地方北部を治めた、古代日本の勢力圏の一つです。丹州(たんしゅう)とも呼ばれていました。 5世紀ころ四道将軍の遠征により大和朝廷に服属したとされます。

7世紀に丹波国が定められたときの領域は、初期の中心地は、現在の元伊勢籠神社(宮津市大垣)の付近を地盤として、国分寺が置かれていました。現在の丹波(京都府の中部と兵庫県中東部、京都府北部(丹後)、兵庫県北部(但馬)に及んでいました。丹波と但馬の読みが似ていることもこの背景と関係があるのかも知れません。

しかし、律令制度下でヤマト王権の支配下に入れられると、丹国は丹波国・丹後国・但馬国に3分割されました。天武天皇13(684)年?に丹国北西部の朝来(あさこ)、養父、出石、気多、城崎、美含(みぐみ)、二方、七美(しつみ)の8郡を分けて但馬国(たじまこく)を分割、さらに和銅6(713)年に北部の加佐、与謝、丹波、竹野、熊野の5郡を分けて丹後国を分割し、桑田、船井、多紀、氷上、天田、何鹿(いかるが)の6郡を丹波国としました。大和朝廷の弱体化政策により、古代出雲が出雲と伯耆に分断されたと見ると、同様に古丹波国を三分割されたと考える

現在では丹波と丹後をあわせて両丹(りょうたん)、丹波と但馬をあわせて但丹(たんたん)または丹但、丹波・丹後・但馬を三丹と総称することもあります。最近ではJR西日本の特急「北近畿」という名前のようにも呼ばれています。

現在の丹波は大まかに言って三つの盆地、亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う盆地があり、互いの間を低い山地が隔てている地勢です。このため、丹波国は一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化しました。

年号が不明ですが、律令制が布かれ、北西部を『但馬国』、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を『丹後国』として分離し、後世まで長く続く地域が定まりました。但馬を但州、丹波を丹州と書くこともあります。


天橋立 宮津市

地域性として、

  • 亀岡・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津
  • 氷上・福知山・綾部の中丹(奥丹波)は丹後・但馬
  • 篠山・丹波(西丹波)は但馬・摂津・播磨に密接に係わっています。

そのことからも明治の廃藩置県では数回の変更の末、兵庫県と京都府に分割されることになった。方言的には但馬・丹後は山陰のアクセントに似ており、中丹・南丹は関西弁に近いように思う。もちろん明確に分かれているのではなくて地域の距離的によってより濃厚になってくるようです。(私見)

丹波南東部の亀岡盆地は太古は大きな湖であり、風が吹くと美しい丹色の波が立ったところから、このあたりを丹のうみ・丹波と呼ぶようになったとされており、出雲神話で有名な大国主命(オオクニヌシノミコト)が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地を干拓し、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」(ミホツヒメノミコト)の名前にちなみ「保津川・保津峡」と名付けたという伝説が残っています。出雲大神宮(亀岡市千歳町)の祭神となっており、事実、湖だったことを示す地層も明らかになっています。この伝説は、出雲神話をはじめ、但馬の沼地を切り開いたという伝説や網野入り江を切り開いた伝説などとよく似ている(後述)。

これとは異なり、次の説もあります。6世紀ころには「丹波」の名のつく女性が天皇の后となっていることから、古代より丹波の名称はあったようです。

出雲大神宮


京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地
丹波國一宮 旧國幣中社

御祭神 大國主尊 三穗津姫尊 少那姫尊

出雲大神宮(丹波国一之宮)は、島根県の出雲大社に祀られる大国主命が最初に鎮座したのがこの宮であり、奈良時代の和銅年間(708年~714年)に出雲国へ遷座したという。従ってこの宮を元出雲と呼ぶようです。出雲大社の源なら神宮号を自称するのもうなずけます。
祭神は、その大国主命(オオクニヌシノミコト)と后神三穂津姫(ミホツヒメノミコト)ですが、不思議なことに三殿あるうちの左右は、その二柱の夫婦神なのですが、中央に祀られる神が不明なのです。背後の御影山がそもそものご神体とされ、国常立神だという説もありますが、とにかく中央神が明確に伝わっていません。

いずれにしても一之宮を出雲神としていることは、この地に出雲からの移住民が数多く住み着いた証拠であるといえましょう。丹波国は出雲と大和両勢力の接点にあり、ここに国譲りの所以として祀られたのが当宮です。
現在の本殿は足利尊氏造営による三間流造で、国の重要文化財です。

大宝律令で亀山(亀岡市)の地域が丹波国の中心となり、国府・国分寺・国分尼寺・一宮などがすべて亀岡盆地にありました。亀岡盆地北西部の船井郡八木(やぎ)町屋賀(やが)には、国府、国府垣内などの地名が残っています。

丹波国府はまだ発掘されていません。亀岡市千代川町拝田に比定する説と、船井郡八木町屋賀に比定する説があります。木下良氏(元國學院大教授)は拝田にあった国府が、のちに屋賀へ移転したと考え、これが現在の通説になっています。

丹波国分寺は、浄土宗の護国山国分寺として法灯を伝えるが、その山門の前に礎石群が残されています。昭和三年(1928)国指定史跡とされ、金堂跡基壇をはじめ、中門、塔、講堂などの跡が確認されています。

宗神社は、屋賀という集落にある小さな神社です。国府が屋賀へ移転したとされることからも古代の丹波国総社だという説があります。

丹後国(たんご)誕生

和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれました。

古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある(丹後王国論を参照)。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説もある。

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられています。南部の桑田郡(亀岡市)は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

勘注系図[註1]のなかに見える、「丹後風土記残欠」いわゆる「残欠風土記」の問題がある。同書に見える「丹波」という名の由来では、天道日女命らがイサナゴ嶽に降臨した豊宇気大神に五穀と蚕などの種をお願いしたところ、嶽に真名井を堀って水田陸田に潅漑させたので、秋には垂穂が豊かな豊饒の土地となったということで、大神は大いに喜んでこの地を「田庭」といい、天に帰ったという伝承を載せる。これが丹波の語源となったといい、この記事が勘注系図にも同じく見える。「諸国名義考」にも丹波は「田庭なるべし」とあり、古代の丹波郡あたりは実際にも豊かな土地であって、丹波は宮廷の大嘗祭の主基国にしばしば当てられた。しかし、これら「田庭」起源説は、当地の国造一族が豊受大神を奉斎したことからくる説話にすぎない。

また、丹波方面で彦坐王が討ったと崇神記に見える「玖賀耳之御笠(陸耳御笠)」についても、「残欠風土記」に見える。同書の記事では、玖賀耳之御笠の拠った地が丹後の青葉山(舞鶴市と福井県大飯郡高浜町の境界にある山で、若狭富士、標高は六九九M)とされるが、これも疑問が大きい。すなわち、仁徳天皇の宮人「桑田玖賀媛」などから丹波国桑田郡(亀岡市)という説(太田亮博士)があり、この点や山城国乙訓郡には久我の地からいって、丹波路の入口にあたる乙訓郡あたりから丹波国東南部にあたる桑田郡にかけての地域を、大和王権の先兵としての彦坐王の勢力がまず押さえて丹波道主命と称せられたと考えるのが妥当であろう。この地域に居て抵抗した土着勢力が玖賀耳だと畑井弘氏もみている(『天皇と鍛冶王の伝承』など)。

中世には足利氏の一族である一色氏が入封、一時期を除いて室町時代を通じて丹後一国を支配した。ただ、その支配体系は不明です。恐らく、九州探題も務めたことのある一色氏自体は在京し、地元豪族を守護代として支配をしたのであろう。戦国時代が始まる1498年には守護の一色義秀が地元豪族に攻められて自殺していることから、強力な施政はできなかったようにも思われる。それでも一色氏の命脈は戦国期を通じて永らえたが、1579年7月に一色氏が細川幽斎に滅ぼされて以来、細川氏が丹後を支配した。関ヶ原の戦い後、京極高知に、丹後守の称号と丹後一国、十二万三千石の領地が与えられ、国持ち大名京極家の領地となりました。
国府は、和名類聚抄および拾芥抄では、加佐郡。現在の舞鶴市内と思われる。

ただし、易林本の節用集では、与謝郡とある。現在の宮津市府中と推定される。
国分寺は宮津市府中(国指定史跡)とされ、一の宮 元伊勢 籠神社も近いので、二次国府は宮津市府中が有力である。

[註1]「勘注系図」は、江戸期の作成ないし書写ではないかとする見解を先に紹介したが、海部氏系図を天孫本紀の尾張氏系図などの知識を加えて大補充したものであって、平安前期より前の部分は、まったく意味をもたない。それどころか、様々な意味で有害である。それ以降の系図は田雄の孫世代まで及んでいるので、平安前期の範囲に記述はとどまる(全体の系図の詳細も刊本として公開されているが、実物の写真全ては入手しがたい事情にある)。
そもそも、天孫本紀の尾張氏系図の記事には様々な混乱があるのをそのまま引き写し、そこにすら見えない人物をいい加減に多数書き加え、その記事を付けた偽撰系図そのものであり、このような系図まで「附」として国宝指定をするのは、関係者の学究としての見識が疑われる。

だいたい記載内容が支離滅裂のかぎりで、本来の海部氏系図に尾張氏、和珥氏、倭国造氏の系図を勝手に混合させている。倭宿禰(椎根津彦と同人という解釈がなされている)と尾張連の祖・高倉下命(椎根津彦と同じく神武朝の人)との関係さえ、混乱している状況である。同書奥書には、「豊御食炊屋姫(註:推古)天皇御宇に国造海部直止羅宿祢等が丹波国造本記を撰した」という記事があると報告されるが(刊本では確認できない)、この表現には多くの誤りがある。
海部直氏は丹波国造ではないというのが史実なのに、何度も繰り返される重大な誤りが一連の史料の根底にある(これは、籠神社祠官家の主張にすぎない)。いま勘注系図の別名が「丹波国造本記」とされるが、この推古朝までの系図がその当時撰せられたとしたら、現在に伝わる内容のはずではありえないほど杜撰な記事内容なのである。「海部直止羅宿祢」という表記形式そのものがおかしいほか、止羅宿祢なる者は系図のどこに現れるのだろうか。

参考:舞鶴市HP
▲ページTOPへ

たじまる 奈良2

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。


古代山陰道の国と駅
古代山陰道と但馬・丹波

1.古代山陰道と但馬・丹波

律令制の時代、わが国は五畿七道(ごきしちどう)という地域区分をもち、現在の近畿地方を中心とした国づくりが行われていました。

ここでいう「道」とは、中国で用いられていた行政区分「道」に倣った物であり、朝廷の支配が及ぶ全国を、都(平城京・平安京)周辺を畿内、それ以外の地域をそれぞれ七道に区分していました。

五畿七道には、律令で定められた国(令制国)があり、それぞれの国府は、七道と同じ名前の幹線道路で結ばれていました。幹線道路は大路、中路、小路に区分され、大路は都と大宰府を結ぶ路線、中路は東海道・東山道の本線、小路はそれ以外の道路とされています。

この時代の記録を残す物の一つとして知られているのが、平安時代中期に編纂されほぼ完全な形で伝わっている「延喜式」(えんぎしき:律令の施行細則的位置づけ)で、細かな事柄まで規定され、古代史の研究で重要な文献となっています。そして「延喜式」は、幹線道路の沿道に置かれ、使者に馬や食事、宿泊などを提供した「駅家(うまや)」の一覧が載っている最古の記録なのです。

古代山陰道の国と駅

延喜式によれば、山陰道のルートは畿内の山城国(現在の京都府南?部)から丹波国、但馬国、丹後国、伯耆国、因幡国、出雲国、石見国、隠岐国を通るとされます。現代の道との比較をしてみると、古代の山陰道は、おおよそ国道372号線、国道176号線、国道483号線、国道9号線などのルートを通ったものと考えられています。
古代山陰道の駅は、当然のことながら実在したものではありますが、それが実際にどこにあったのかということについては、地名などをもとに、比定地について研究が進められており、駅によって、諸説がほぼ一致しているものもあれば、説が分かれている場合もありますが、おおよその地域については研究の結果明らかになってきています。

【延喜式による古代山陰道の国と駅】

駅名
丹波国大枝野口小野長柄星角佐治日出花浪
丹後国勾金
但馬国粟鹿郡部養耆山前面治射添春野
因幡国山崎佐尉敷見柏尾
伯耆国笏賀松原清水奈和相見
出雲国野城黒田宍道狭結多杖千酌
石見国波弥託農樟道江東江西伊甘

吉川弘文書刊「完全踏査 古代の道」(木下良監修/武部健一著)を参考に作成

これらのことからもわかるように、古代の道は江戸時代の道とは違い、未だ解明されていない部分も多いとされますが、一方でその研究結果から、古代の道は直線的道路が多く、かつ道幅も広くとられていたと考えられており、非常に計画的に整備された交通路であったといわれています。

■古代の山陰道と近畿豊岡自動車道との関係

古代の山陰道は平成18年7月に供用を開始した近畿豊岡自動車道の一部である春日和田山道路のルートと一致する部分も多く、この道路のパーキングエリアとなっている、山東、青垣などは古代山陰道の駅の比定地などとほぼ一致しているなど、高規格道路と古代道路との連関性は、全国的にも事例が多いとされています。

古代の遺物という観点では、古墳や遺跡などわかりやすい形でみることのできるものがある一方で、実は今私たちの目の前に当たり前のように存在する「みち」は他の古代の遺物と同じように歴史や文化の宝庫でありながら、今もなお長い歴史の現在進行形の中で私たちが利用しその恩恵を受けている地域社会の生きた古代遺産ということを実感します。

 

「みち」がまちをつくり、そして「みち」や「まち」の出来事の蓄積が地域の歴史や文化をつくってきました。現代においても、北近畿豊岡自動車道が春日・和田山間に供用されたことで京阪神からの丹波・但馬地域への観光客も増加しており、新たな「みち」による北近畿文化圏の新たな1ページが開かれるのかも知れません。

古代山陰道の時代の丹波国とは、現在の京都府の亀岡市・園部町、兵庫県篠山市・丹波市にわたるエリアということができます。古代山陰道は京都の羅城門から始まり、この丹波を入り口に本路は但馬へ、支路は丹後を通り再び但馬で本路に合流し、日本海岸にむけて道がつづきます。延喜式による山陰道本路における丹波国の駅は「大枝」「野口」「小野」「長柄」「星角」「佐治」の6つが示されており、その比定地等について見ていきます。

■古代山陰道:丹波国の駅家

畿内の山城国から老の坂峠を越えて丹波国に入り、出発点の羅城門から約13.4キロの距離に最初の駅「大枝駅」(おおえ)があります。現在の京都府亀岡市篠町王子あたりと考えられています。同名の地名が京都府西京区にも残っていることから、もともとは(奈良時代には)山城国にあった駅家が平安時代に丹波国に移されたものと考えられています。

山陰道本路は、亀岡市の東西道路から先は、大筋では近世の篠山街道あるいはそれを踏襲する国道372号のルートに乗るものになりますが、より直線的な篠山街道のルートが近いと考えられています。また、丹波国府を経由するルートが本来の山陰道であるという考え方もあります。

そのルートの先にあるその次の駅家が「野口駅」(のぐち)です。現在の京都府園部町南大谷あたりに存在したと考えられています。十世紀に成立した百科事典「和名抄」に船井郡野口郷の記述があり、現在の薗部町南大谷に旧字名の野口があることから、比定地として有力視されているのです。ここには、地元の郷土史家の方々が立てられた「野口駅跡」の石碑が存在しています。

ここから「天引峠」といわれる峠を越えると同じ丹波でありながら、京都府から兵庫県に入ります。現在の篠山街道(デカンショ街道ともいわれています)に沿って、丹波第3番目の駅「小野駅」(おの)があります。これは現在の兵庫県篠山市小野奥谷あたりと考えられています。近隣には、「史跡延喜式小野駅跡」と記された碑と祠、その横に篠山市による板が立てられています。

「小野駅」から篠山街道を進み、次の駅「長柄駅」(ながら)に向かいます。「長柄駅」の比定地については諸説ありますが、西濱谷遺跡などの発掘などから、篠山市西濱谷にあった可能性が高いとされています。小野駅から篠山市街地の北側の山麓沿いを通ってきたと考えられ、小野駅からは12キロ程度となります。「長柄駅」から先の古代山陰道は本路と支路に分かれます。本路は現在の丹波市を通って但馬地方へ抜ける道であり、支路は篠山から丹後地方に向かい、但馬の出石地方を通って香美町村岡区で本路と合流します。

延喜式山陰道の本路は、「長柄駅」から国道176号線を北に向かいます。直線的な道路が多くなり、古代の道の面影を感じさせる風景がつづきます。

「長柄駅」の比定地から約16.4キロ、丹波市氷上町石生のあたりが「星角駅」(ほしずみ)の比定地とされています。このあたりは旧道の国道 175号線と国道176号線が合流する地点で、標高100メートル未満の太平洋と日本海の分水嶺としても有名で、「水分れ」と呼ばれる地区です。このあたりから延喜式山陰道は、昨年供用が開始された国道483号線(北近畿豊岡自動車道)と平行して走るようになり、駅家もインターチェンジの場所とほぼ同じ配置となってきます。ちなみに星角駅は北近畿豊岡道氷上ICの近くになります。

丹波地区最後の駅は「佐治駅」(さじ)です。北近畿豊岡道の青垣ICの近くであり、丹波市青垣町佐治という地名から比定地には問題がないとされています。北近畿豊岡道の「遠阪トンネル」を抜けると、もうそこは兵庫県朝来市にはいり、「丹波国」から「但馬国」に入ることとなります。

■古代山陰道における丹後・但馬路の分岐について

山陰道丹後支路最初の駅は「日出駅」(ひづ)駅です。その比定地は兵庫県丹波市市島町上竹田段宿とされ、由良川支流の竹田川右岸を北上し、市島町に入ってからは左岸に移って比定地に達します。現在は国道175号線が近くを通っています。

その次は福知山市にあると考えられる「花浪駅」(はななみ)です。日出駅から由良川筋を避け、西回りでいくルートと考えられます。福知山市中心部から西の西明寺・今安付近を通過して府道109号線を北上し、福知山市野花から府道528号線を沿って北上すると「花浪駅」にいたります。具体的な比定地としては京都府福知山市瘤ノ木周辺とされています。

この周辺には「花浪駅跡」とされた地元が建立した石碑もあり、和泉式部の歌にも「はななみ」の言葉が用いられたものがあります。ここから小さな峠を越え、国道426号を通り、丹後支路は丹後国に入ります。
国道426号を加悦町を経て、野田川町に達すると、ここが丹後国唯一の駅家「勾金駅」(まがりかね)の比定地となります。支路と丹後国府への道がクロスするポイントに置かれたと考えられています。この駅家から丹後国府へは10キロ程度で、国府は宮津市中野府中あたりとされ、宮津湾が天の橋立にふさがれた風光明媚な阿蘇海に面しています。
再び「勾金駅」に戻り、支路を進むことにしましょう。府道2号線宮津八鹿線を西に進み、岩屋峠を越えるとそこは但馬国です。ここに山前駅を置く説もありますが、山前駅については諸説あって分からないことが多いので、今回の特集ではふれないこととします。

さらに西に進み、豊岡市出石町中心部まで支路は峠を越えながら直線的に進むと考えられています。出石市街からは、国道482号線を通り、豊岡市日高町に向かいます。豊岡市日高町には但馬国府があったとされ、この周辺の弥布ヶ森遺跡がそれではないかと有力視されています。正倉院文書の中に「高田」駅家という記述があり、延喜式以前、このあたりに「高田」という駅家があったと考えられています。延喜式の時代には、但馬国府がその代替施設として役割を果たした可能性があります。)

丹後・但馬路の最後の駅家は「春野駅」(かすがの)1です。この駅の比定地については諸説あり、特定は難しいとされています。ある説では、国道 482号線の蘇部トンネルを抜けて、香美町村岡に通じるルートにその駅家があったのではないかと考えられています。古代道路のルートを新しい自動車道やバイパスが通る例がよく見られることなどを考えると、可能性のある説とはいえ、近くの道の駅「神鍋高原」があるあたりが好適地とも思われます。
ここをまっすぐ進み、古代山陰道の支路である丹後・但馬路は香美町村岡区で本路と再び合流すると考えられます。
(丹後と但馬を結ぶ支路で山前はどこなのか。射添と春野間は蘇武岳越えという難所ではありますが直線距離が近すぎるので、山前は勾金と春野の間であれば高田あたりであれば勾と春野の中間、出石神社あたりではないか。)

この支路は丹後国府へ行くだけでなく、それから但馬国府を経て山陰道本路へ戻ります。分岐点の考え方にはいくつかあり、比較される路線は、「佐仲峠越え」「瓶割り峠越え」「水分れ街道」の3つが考えられています。
「佐仲峠越え」は「長柄駅」より本路を進み、現在の舞鶴若狭自動車道とクロスするポイントから分かれるルートで、佐仲峠を越えて、丹波市春日町国領に出る道です。

「瓶割り峠越え」のルートは、鐘ヶ坂峠の手前で分岐し、北上して瓶割峠を越え、「佐仲峠越え」と同じく丹波市春日町国領に出ます。福知山市史などはこのルートを採用しています。

「水分れ街道」のルートは丹波国の駅家「星角」から、現在の国道175号線やJR福知山線に沿って進む黒井川沿いのルートです。
それぞれのルートの違いは「佐仲峠越え」がもっとも標高が高いところを通り丹後・但馬路の最初の駅に最も近く、「水分れ街道」は峠を越えない平坦な道路であるが最初の駅までは最も遠くなっています。古代道路は最短のルートをとる場合が多いこと、江戸時代の道しるべも「佐仲峠越え」のルートを丹後への道としていること、高速道路に沿ったみちであることなどを考えると「瓶割り峠越え」のルートの蓋然性が高いと考えられます。

丹波市春日町国領から北上すると舞鶴若狭自動車道の春日ICに到達しますが、この付近に位置する七日市遺跡で南北方向に走る幅約11mの道路遺構が見つかり、位置や方位、幅員などから山陰道丹後支路の可能性が高いとされています。この遺跡では、多数の建物や、木製品・硯・石帯、および「春マ郷長」「大家」「門殿」などと記された墨書土器が出土し、木簡・墨書土器が多数出土した付近の山垣遺跡とともに、この地域を治めた役所の跡と考えられています。

■古代山陰道:但馬国の駅家

但馬国は現在の兵庫県但馬地方とほぼ同じ地域をさします。第2回の中で、とりあげた丹波市青垣町から北近畿豊岡道にある全長4キロ近くある遠坂トンネルを抜けると兵庫県朝来市、但馬地域の入り口となります。

延喜式による山陰道本路における但馬国の駅は「粟鹿」「郡部」「養耆」「射添」「面治」とつづき、その後但馬国から因幡国に入ります。
但馬国の一番最初の駅は、「粟鹿駅」(あわが)です。北近畿豊岡道に沿って進み、次のIC(山東)の近くと考えられています。遺跡地名の粟鹿がありますが、近くの朝来市山東町柴で「駅子」と書かれた木簡が出土し、このあたりが駅家の場所ではなかったかと考えられています。(柴遺跡として知られています。)この近くにある粟鹿神社は延喜式時代のものといわれ、古代の情緒を残した神社として知られています。

ここからのルートは学説がいくつかに分れます。一つは近世山陰道や国道9号の道筋である円山川沿いを進むルート、今ひとつは朝来市和田山町牧田から峠越しに同市同町岡、岡から養父市畑を経て広谷あたりに出たと考えるルートです。古代道路の多くはその経路として、氾濫などの多い河谷沿いを避ける傾向があり、円山川がたびたび氾濫を繰り返したことから後者の川沿いを避けたルートという考え方に基づいて話をすすめていきます。

次の「郡部駅」(こうりべ)は円山川沿いを避けたルートとすると、養父市広谷または岡田辺りがその比定地と考えられます。ただし、このあたりには明確な遺跡等が確認されていません。現在北近畿豊岡自動車の和田山八鹿間の工事が行われ、養父ICの設置が予定されている近くであり、古代山陰道と北近畿豊岡自動車道との関係性をここでも見ることができます。また、丹波の星角駅よりつかずはなれずつづいてきた古代山陰道と北近畿豊岡道の関係はここでおわり、ここから駅路は国道9号に沿って進むことになります。

次の駅は「養耆駅」(やぎ)です。この駅についてはいくつかの説がありますが、養父市八鹿町八木に遺称地名があり、この近くにある中世八木城遺跡の発掘調査で、奈良時代の須恵器や役人の存在を物語る石帯が出土しており、この地を有力な比定地とする考え方が主流といえます。なお、延喜式では「養耆駅」の次に「山前」(やまさき)とよばれる駅が記されていますが、この山前駅は丹後-但馬間の支路に位置する駅である可能性が高いので、今回は本路の駅としてとりあげることは避けることとします。

さて、国道9号をさらに北上すると、途中の香美町村岡区村岡で、丹後・但馬を通った支路と合流し、さらに進むと次の駅「射添駅」(いそう)にいたります。遺跡などは見受けられませんが、香美町村岡区和田のあたりと比定され、湯船川と矢田川の合流地点付近とされています。

但馬最後の駅家は「面治駅」(めじ)です。新温泉町出合付近に比定されており、近くに「面沼神社」があり、「米持」(めじ)の小字名もあることから、この付近を比定地することに大きな異論はないところです。この周辺は湯村温泉の温泉街のすぐ近くです。

三丹地域の古代山陰道の特徴の一つとして、丹波・丹後・但馬をトライアングル状につなぐ支路の存在があります。この支路が本路のどのあたりから出たかということについては、いくつかの説があります。いずれにしても丹波のある地点から分岐し、丹後をとおり、その後但馬国府を通って、但馬の美香町村岡区付近で本路に合流する経路です。
延喜式によれば、この経路における駅は、「日出」「花浪」「勾金」「山前」「春野」とつづき、本路に合流します。

参考:国土交通省近畿地方整備局 近畿幹線道路調査事務所 「みちまち歴史・文化探訪」

5.律令制における地方行政

701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成されました。日本では奈良時代、律令制における地方行政の最下位の単位として、県は郡に改められ、郡の下に(り、さと)が設置されていました。里は五十戸(世帯)で構成されました。その統率者が里長(さとおさ)で郡司の管轄下にあり、末端行政を担いました(現在の区長、自治会長です)。税の取り立て・出挙の管理などを主な職務としており、当地の有力農民から選ばれ、庸・雑徭を免除されました。715年に郡が(ごう、さと)と改められ、郷の下に新たに2~3の里が設定されました。しかしこの里はすぐに廃止されたため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになりました。奈良時代初期に里が郷と改名されたのに伴い、里長は郷長と改称されました。
平安時代中期の辞書である和名抄は、律令制の国・郡・郷の名称を網羅しています。中世・近世には、郷の下には更に小さな単位である村(惣村)が発生して郷村制が形成されていきました。中国において郷(鄕)は秦・漢の時代から存在しており、現在も中国では行政区画として存続しています。
例:但馬国気多郡高田郷

6.律令制における租庸調

租庸調(そようちょう)は、中国及び日本の律令制下での租税制度です。中国の制度を元としているが、日本の国情に合わせて導入されたものです。

律令制を整え発展した唐と連合し,その律令制を受容することで強大化した新羅が,百済・高句麗を滅ぼし,ついには唐をも朝鮮半島から排除して,朝鮮半島の統一的支配を確立するという7世紀の東アジアの激動を背景として,倭(天武天皇による国号制定以後日本)では中央集権的律令国家建設の必要性が生じた。

日本の税体系は,10世紀頃の籍帳支配崩壊に伴う公地公民制の崩壊をうけて,課税が個別的人身賦課方式から土地賦課方式へ転換されるまで,人頭税を財源の中心とするものであった。土地税の租は,課税対象確保のための農民の最低生活の保障の意味で,低率に抑えられていたが,庸調などの人頭税は,財源の中心と位置づけられており,民衆にとっては極めて負担過重なものであったため,税回避のための浮浪や逃亡,偽籍などが頻発した。このことは,口分田の荒廃をもたらし,班田制動揺の一因となりました。

租は、田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%に当たった。原則として9月中旬から11月30日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。しかし、歳入としては極めて不安定であったため、律令施行よりまもなく、これを種籾として百姓に貸し付けた(出挙)利子を主要財源とするようになりました。一部は舂米(臼で搗いて脱穀した米)として、1月から8月30日までの間に、京へ運上された。(年料舂米)

律令以前の初穂儀礼に由来するのではないか、とする説もある。

正丁(21~60歳の男性)・次丁(正丁の障害者と老丁(61歳以上の男性))へ賦課された。元来は、京へ上って労役が課せられるとされていたが(歳役)、その代納物として布・綿・米・塩などを京へ納入したものを庸といった。京や畿内・飛騨国(別項参照)へは賦課されなかった。現代の租税制度になぞらえれば、人頭税の一種といえる。

庸は、衛士や采女の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となりました。

調

正丁・次丁・中男(17~20歳の男性)へ賦課された。繊維製品の納入が基本であり(正調)代わりに地方特産品34品目または貨幣による納入も認められていた。(調雑物)これは中国の制度との大きな違いです。京へ納入され中央政府の主要財源として、官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。京や畿内では軽減、飛騨では免除された。

正調

調の本体であり、繊維製品をもって納入した。正調は大きく分けて絹で納入する調絹(ちょうきぬ)と布で納入する調布(ちょうふ)に分けることが出来る。当時において、絹は天皇などの高貴な身分の人々が用いる最高級品であり、その製品は「布」とは別の物とされていた。従って当時の調布とは、麻をはじめ苧・葛などの絹以外の繊維製品を指していた。

時代によって違うものの、大宝律令・養老律令の規定に基づけば、

  • 調絹は長さ5丈1尺・広さ2尺2寸で1疋(1反)となし、正丁6名分の調とする。
  • 調布は長さ5丈2尺・広さ2尺4寸で1端(1反)となし、正丁2名分の調とする。とされていたが、実際の運用においては、養老年間に改訂が行われ、
  • 調絹は長さ6丈・広さ1尺9寸で1疋(1反)となし、正丁6名分の調とする。
  • 調布は長さ4丈2尺・広さ2尺4寸で1端(1反)となし、正丁1名分の調とする。とする規定が定められて、これを元に徴収が行われていました。▲ページTOPへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

北近畿鉄道物語-1 鉄道ラッシュ

北近畿鉄道物語

鉄道敷設ラッシュ

日本最初の高速産業道路というべき馬車専用道路が、当時日本三大鉱山としての生野銀山(兵庫県朝来市生野町)と飾磨(しかま:姫路市)港の間、約49kmに1876年(明治9年)開通した。官設の馬車道で、生野鉱山道とも言う。

日本の鉄道開業は、日本初の鉄道路線である新橋駅~横浜駅間が、1872年(明治5年)9月12日だ。兵庫県と京都府は、日本初の鉄道である東海道本線の終点駅となった神戸から延伸する山陽鉄道(現JR山陽本線)を皮切りに鉄道建設がさかんで、国鉄路線として継続された播但線、山陰本線、舞鶴線、福知山線、宮津線などの他に、廃線となったものも多い。
北近畿とは、京都府丹波・丹後、兵庫県但馬をさす言葉である。鉄道が地域の人々に何をもたらしたのか、その時代と社会の動きを調べてどのような結果を生みだしたのかを考えてみる。

鉄道敷設ラッシュの北近畿

  • 阪鶴鉄道 大阪から福知山を経て舞鶴を結ぶ鉄道を運行していた鉄道会社。(現JR福知山線)
  • 京都鉄道 1893年(明治26年)に設立された民営鉄道。現在の山陰本線の前身にあたる路線の一部を建設、運営した)
  • 山陽鉄道 (JR山陽本線の前身)、播但線(姫路~新井間は播但鉄道により開業し、新井~和田山間は播但鉄道を買収した山陽鉄道により開業)、篠山軽便鉄道、国鉄篠山線、加古川水系の舟運を代替する目的で設立された。
  • 播州鉄道 の路線を受け継ぐ国鉄時代の国鉄加古川線(現JR西日本)と支線、国鉄鍛冶屋線、国鉄三木線(三木鉄道)と国鉄北条線(北条鉄道)
  • 国鉄高砂線、別府鉄道、土山鉄道、兵庫電気軌道、国鉄福知山線(尼崎港線)他に、北近畿では以下の路線があった。

出石鉄道出石町(現在の豊岡市出石町)~山陰本線の江原11.2km1929(昭和4年)7月1970年(昭和45年)7月当初、山陰線は軍港舞鶴と豊岡を鉄道でつなぐという構想でスタートした(鉄道敷設法)。山陰線が舞鶴~豊岡というキーワードで始まったため、丹後地区が敏感に反応し期成同盟などの取組があったが、どうやら海岸線は艦砲射撃にやられるというような発想があったらしく福知山経由となったようだ。

北近畿の廃線の歴史
名 称区間・路線距離開業廃線備 考
京都府北丹鉄道国鉄福知山駅から加佐郡大江町(福知山市大江)12.4km1923年(大正12年)9月1974年(昭和49年)2月河守鉱山の輸送用として建設。北部の開設は、軍港舞鶴への輸送のためのもので、終戦・閉山・道路整備のために廃線となった。
加悦鉄道与謝郡野田川町(現・与謝野町)の丹後山田~加悦5.7km1940年(昭和15年)1985(昭和60年)
ウィキペディア大江山ニッケル鉱山への貨物専用線が開業し、1942(昭和17)年には丹後山田駅から北東の岩滝町にある精錬所(日本冶金大江工場)への専用線も開通した鉱山鉄道。
国鉄舞鶴港線西舞鶴~舞鶴港1.8km1907年(明治40年)1999(平成11年)出征者や戦場からの引揚者を運んだ。
国鉄中舞鶴線東舞鶴~中舞鶴3.4km1919年(大正8年)1972年(昭和47年)、舞鶴鎮守府の兵員ならびに軍需資材の輸送を主な使命とし、舞鶴港線とともに国策として建設。軍港引込み線として開設。
兵庫県生野鉱山寮馬車道生野と飾磨港約49km1873年(明治6年)1888年(明治21年)5月31日鉄道ではありませんが、「銀の馬車道」と呼ばれ、鉱石を運ぶために造られた日本最初の高速産業道路。あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入
篠山鉄道篠山口駅から篠山町1915(大正4年)1944(昭和19年)国鉄の篠山駅(現在の篠山口駅)は篠山町の中心市街地から遠く離れた場所に位置しているため、同駅と中心市街地を結ぶ交通機関として建設された。しかし戦時中の1944年、同じく篠山口駅を起点として篠山町を通る国鉄篠山線が開通したのと同時に廃止された。
国鉄篠山線篠山口駅から福住17.6km1929(昭和4年)1972(昭和47年)太平洋戦争中、丹波地方で産出されるマンガン輸送と、海沿いを通るため海からの攻撃が懸念された山陽本線のバイパスとして福知山線の篠山駅(現在の篠山口駅)と山陰本線の園部駅を結ぶ目的で建設された。終戦を迎え、福住~園部間の建設は中止された。
明神電車(めいしんでんしゃ)神子畑(みこばた)~新井(国鉄播但線)約6km1929(昭和4年)4月1985(平成3年)11月
神戸新聞 養父市大屋地域局提供、1986年ごろ撮影
鉱石の輸送を目的に敷設された。本来は神子畑-新井(国鉄播但線)間の下部軌道とワンセットの上部軌道に位置づけられていたが、道路整備で下部軌道は早期(1957年)に廃止され、上部軌道に当たるこちらのみが残された。鉱石列車のほかに、鉱山関係者の便宜を図って人車も1945年から運行された。この時、当初は運賃無料であったのが、1949年から50銭、1952年から1円を徴収するようになった。従業員利用の「1円電車」で、料金は廃線まで変わらなかった。なお、登山客へも10円の料金を徴収して開放していた事がある(私は小学生の時に一度乗ったことがあります)。電気機関車・客車などの車両が公開保存されている。円高の進行で錫鉱山としての明延鉱山の競争力が低下し、閉山となったため、廃線となった。

日本の鉄道

日本の鉄道は、明治2(1869)11.10、鉄道建設の廟議決定のよって、東京と京都・大阪・神戸の間、すなわち日本の屋台骨となる三府を結ぶ路線と、日本海側の貿易都市である敦賀へ米原から分岐して至る路線を敷設しようとしていました。

    • 1872年(明治5年)、品川駅~横浜駅(現、桜木町駅)間で仮営業を開始したのが日本初の営業用鉄道。
      旧暦9月12日(グレゴリオ暦では、10月14日)に新橋駅(後、汐留駅・現在廃止)~横浜駅間が正式開業(その翌日に旅客営業が開始された)。1922年(大正11年)に10月14日は「鉄道記念日」へ指定されました。
    • 1874年(明治7年)8月1日、大阪駅~神戸駅間で、日本初の往復乗車券が販売される。1880年(明治13年)11月28日、北海道初の鉄道として、官営幌内鉄道開業。これはアメリカの技術によって建設され、車両などもアメリカ式でした。
    • 1880年(明治13年)11月28日、北海道初の鉄道として、官営幌内鉄道開業。
    • 1881年(明治14年)8月、日本初の私鉄として日本鉄道が創業。日本鉄道は、日本初の私鉄であり、現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本の東日本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営していた会社です。
    • 1882年(明治15年)3月1日、新橋駅~横浜駅間で、急行列車が運行開始。
    • 1885年(明治17年)3月1日、日本鉄道品川線(現、山手線・赤羽線)開業。品川駅で国有鉄道と貨車に関して直通運転を行う。これが日本初の他鉄道事業者間の直通運転。
      1885年(明治17年)、日本鉄道(半官半民)・東京馬車鉄道に次いで日本で3番目の私鉄として阪堺鉄道(純民間資本としては現存する日本最古の私鉄である現、南海電気鉄道)が難波、大和川(後に廃止)間を開業。
    • 1887年(明治19年)1月1日、日本初の定期乗車券が販売開始される。
    • 1887年(明治19年)12月、北海道初の私鉄として、釧路鉄道開業。
    • 1888年(明治21年)10月28日、伊予鉄道により、四国初の鉄道が松山駅(現、松山市駅)~三津駅間で開業。
    • 1889年(明治22年)5月10日、2ヵ月後の新橋駅~神戸駅間を結ぶ鉄道の全通に備え、官営鉄道で列車便所の導入が開始される。
    • 1889年(明治22年)7月1日、現在の東海道本線にあたる、新橋駅~神戸駅間が全通。
    • 同12月11日、九州初の鉄道として、九州鉄道が博多駅~千歳川(仮)駅間を開業。
    • 1892年(明治25年)6月21日、国鉄の整備予定路線を定めた、「鉄道敷設法」公布。
    • 1893年(明治26年)4月1日、信越本線碓氷峠区間の横川駅~軽井沢駅間が開業(日本初となるアプト式とよばれる車両とレールの間を歯車でかみ合わせる方式。現在は廃止)。
    • 1887年(明治20年)1月、山陽鉄道設立。
    • 1888年(明治21年)11月1日に兵庫-明石間が開通し、12月23日には、明石-姫路間が開通した。翌年の1889年(明治22年)9月1日に神戸-兵庫間が開通。これが兵庫県で最初の私鉄。
    • 1895年(明治28年)2月1日、日本初の電気鉄道として、京都電気鉄道開業(路面電車、後の京都市電)。
    • 1899年、六郷橋~大師間に路面電車を開業させた大師電気鉄道(現:京浜急行電鉄大師線)は、日本で初めて標準軌を採用。
    • 1903年(明治36年)8月22日、馬車鉄道の東京馬車鉄道が動力を馬から電気に改めることで誕生した東京電車鉄道(東電)が、品川、新橋間を開業。
    • 1905年(明治38年)4月12日、阪神電気鉄道(現、阪神電鉄)の大阪(出入橋)~神戸(雲井通)間が開業。路面電車と同じ軌道として建設された都市間高速電車であった。以後、京阪電気鉄道(現、京阪電車)・京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄)など類型の私鉄会社が次々と誕生することになる。
    • 1906年、「鉄道国有法」公布。
    • 1910年(明治43年)3月10日、箕面有馬電気軌道(現、阪急電鉄)が、現在の宝塚線・箕面線に当たる路線を開業る。
    • 1910年(明治43年)9月16日、大阪と奈良を結ぶ路線を敷設すべく奈良軌道として設立。同年10月に大阪電気軌道に改称。
    • 1912年(明治45年)6月11日、京都市電気軌道事務所によって4路線7.7kmの運行が開始された。なお、軌間は京都電気鉄道が1067mmの狭軌を採用していたのに対し、市は1435mmの標準軌を採用した。1918年(大正7年)7月1日、京都電気鉄道は消滅、全面市営化。
    • 1917年5月23日~8月5日、横浜線原町田駅(今の町田駅)~橋本駅で、途中の淵野辺駅を境に三線軌条ないし四線軌条方式による改軌実験が行われた。狭軌から標準軌への改軌実験は、これが初めてであった。

列車画像の一部はウィキペディアからお借りしています。

戦国-11 イエズス会と宣教活動

tajimaru_b歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
伝説先史縄文弥生出雲銅鐸日槍古墳飛鳥奈良平安鎌倉室町戦国近世近代現代地方鉄道写真SITEMAP
戦国群青色(ぐんじょういろ #4c6cb3最初のページ戻る次へ

[catlist id=36 orderby=title order=asc]

概 要

目次

  1. イエズス会と宣教活動
  2. フランシスコ・ザビエル
    1. 東洋への出発
    2. 日本へ
    3. 京都から山口へ
    4. ザビエルの最期
    5. ザビエルと日本人
  3. ルイス・フロイス
  4. オルガンティノ
  5. キリシタン大名
    1. 高山右近
    2. 京極高吉
    3. 朱印船
    4. 亀井 茲矩

1.イエズス会と宣教活動

 イエズス会(ラテン語:Societas Iesu)はキリスト教、カトリック教会の男子修道会。宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれました。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。現代では六大陸の112カ国で活動する2万人の会員がいます。これはカトリック教会の男子修道会としては最大のものである。イエズス会員の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっています。

イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「路傍の聖母」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長はアドルフォ・ニコラス師である。会の総本部はローマにあり、かつて本部がおかれていたジェズ教会(Chiesa del Gesu`)は歴史的建築物となっています。略称はS.J. 中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶?であることから耶?会(やそかい)とも呼ばれました。
イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣した。もっとも有名な宣教師はフランシスコ・ザビエルである。彼は西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王の要請にしたがって1541年にインドのゴアへ赴いた(ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。二年滞在して困難な宣教活動に従事した。彼は日本人へ精神的影響を与えるために中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去しました。

日本でのイエズス会事業はその後、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展しました。日本人初のイエズス会士は鹿児島出身のベルナルドで、彼は日本人初のヨーロッパ留学生としてポルトガルに渡り、1553年にリスボンで入会して修道士となりました。1561年には琵琶法師であったロレンソ了斎が入会。有名な天正遣欧少年使節を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノでした。

1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす利益を独占しようとした大村純忠と、とにかく戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものでしたが、スペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目をむけた豊臣秀吉は1587年にこれを取り上げて直轄領としました。日本における宣教活動は大きな成果を得たが、最終的に徳川幕府による迫害によって宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、イエズス会は日本からの撤退を余儀なくされました。

琉球国でのキリスト教の伝来は、尚豊王の治世の1622年、八重山に南蛮船が渡航して布教を行ったのが始まりです。日本ではキリスト教はすでに禁止されていましたが、ジャワやルソンから往来する南蛮船が琉球諸島にたびたび寄港していた関係から、布教活動が行われました。しかし、この頃から琉球でもキリスト教は公には禁止されており、また薩摩藩からも度々禁令が発せられて琉球側に伝達されていたので、キリシタンは摘発されると罰せられました。

1846年、イギリスのバーナード・ジャン・ベッテルハイムが来琉して、王府の手配した波之上の護国寺に住みながら布教活動を行いました。しかし来琉時に、王府からの丁重な退去要請を無視しての強引な上陸であったため、布教活動は様々妨害を受け困難を極めました。ベッテルハイムは滞在中琉球語を修得し、新約聖書の福音書のいくつかを翻訳して「琉球聖書」を作成し、後に香港で出版しました。
▲ページTOPへ

2.フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifier または Francisco de Gassu y Jahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifier)は、カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名です。また、日本だけでなくインドなどでも宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれています。
彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)と共に1541年にリスボンを出発しました。ザビエルはアフリカのモザンビークで秋と冬を過して1542年5月6日ゴアに到着。同地に3年滞在し、そこを拠点にインド各地やマラッカなどに赴いて宣教活動を行い、多くの人々をキリスト教に改宗させました。
東洋への出発当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになりました。ザビエルはインドからマラッカに渡り、同地で宣教を行いながら、信徒たちの世話を行っていた。ここで1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)という日本人でした。ヤジロウの話を聞いたザビエルの心の中で、まだキリスト教の伝わっていない日本に赴いて宣教したいという気持ちが強くなりました。
日本へ

ザビエルは1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指しました。

中国のジャンク船に乗った一行は上川島を経て1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日にあたる)に鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸しました。1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得た。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と宗教論争を行う事を好んだ。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。1568年、尾張国の織田信長が足利義昭を奉じて上洛し室町時代の終焉を迎える20年前ころでしました。

1550年になると、かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、島津貴久のはからいで平戸へ向かうことができた。そこでも宣教活動を行っていたが、ザビエルは平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に都を目指しました。
山口から京都へ

1550年11月、山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになりました。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。了珪の助けによって1551年1月、一行は念願の京に到着しました。京都では了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。日本国内での活動は了珪の邸宅の一部を借りて行われました。その場所が現在では「ザビエル公園」(大阪府堺市)として市民に開放されており、彼の宣教活動を顕彰する碑が建てられています。なお、ザビエル公園より南側に位置する大小路筋は、堺が自治都市として栄えた時代のメインストリートで、近くには小西隆佐・小西行長の生家跡、千利休の屋敷跡、武野紹鴎の邸宅跡と伝えられる場所が存在する(石碑のみ)。

ザビエルは京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得れば全国での布教が自由になると考えていたが、京は戦乱で荒れ果て、足利幕府の権威は失墜しており、後奈良天皇が居住する御所も荒れ放題でした。ザビエルは比叡山で僧侶たちと論戦をしてみたかったが、比叡山から拒絶されました。天皇への拝謁も献上品がなければかなわないことを知ってあきらめたザビエルは、滞在わずか11日で失意のうちに京都を去ることになりました。

1551年3 月に平戸に戻ると、残していた贈り物用の品々を持って山口へ向かい、再び大内義隆に拝謁しました。それまでの経験で、貴人と会見する時はどこでも外見が重視されることを知っていたザビエルは一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上しました。義隆は喜んで布教の許可を与え、ザビエルたちのために住居まで用意しました。山口で布教していますとき、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く目の不自由な琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動し、ザビエルに従った。彼が後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎です。

ザビエルの最期

1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞いて、ザビエルは豊後に向かいました。同地で22歳の青年領主大友義鎮(後の大友宗麟)に謁見している。日本滞在も2年になり、ザビエルはインドからの情報がないのが気になっていたため、ここで一度インドに戻ることを決意し、トーレスらを残して出発、中国の上川島を経てインドに向かいました。このとき、ザビエルは日本人青年4人を選んで同行させた。それが鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオの4人です。

1552年2月 インドのゴアに到着。司祭の養成学校である聖パウロ学院にベルナルドとマテオを入学させました。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となりました。

1552年4月、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えていたザビエルは、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣し、自分自身は中国入国を目指して8月に上川島に到着しました(ここはポルトガル船の停泊地であった)。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰えていたザビエルは精神的にも消耗し、病を得て12月2日(12月3日説あり)に上川島でこの世を去りました。46歳でした。

遺骸は石灰をつめて納棺し海岸に埋葬した。その後、マラッカに移送され棺を開いたところ、死後4ヶ月近くを経てなお、腐敗した様子がなかったといいます。さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許されました。そのとき参観者の1人の貴婦人が右足の指2個を噛み切って逃走しました。2個の足の指は、彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移されました。遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されていますが、右腕は1614年ローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断され、ローマ・ジェズ教会に移されています。なお、この右腕は1949年ザビエル来朝400年記念のおり、腕型の箱に入れられたまま、日本で展示されました。

ザビエルは1619年10月25日教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日盟友イグナチオ・ロヨラと共に教皇グレゴリウス15世によって列聖されました。ザビエルはカトリック教会によってオーストラリア、ボルネオ、中国、東インド諸島、ゴア、日本、ニュージーランドの守護聖人とされています。

ザビエルと日本人

ザビエルは日本人を、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であるとみた。特に名誉心、貧困を恥としないことをほめ、優れたキリスト教徒になりうる資質が十分ある人々であるとみていた。これは当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価です。同時にザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた男色(同性愛)が日本において公然と行われていたことでした。

布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともありました。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになりました。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになります。
▲ページTOPへ

3.ルイス・フロイス

ルイス・フロイス(Luis Frois, 1532年 – 1597年7月8日)は、リスボン生まれのポルトガル人。イエズス会員でカトリック教会の司祭、宣教師。『日本史』を執筆。
1548年、16歳でイエズス会に入会しました。同年、当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。このことがその後の彼の人生を運命付けることになります。1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事に従事しました。1563年、31歳で横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して念願だった日本での布教活動を開始。日本語を学んだ後、1564年に平戸から京都に向かいました。1565年1月31日に京都入りを果たしたが、保護者と頼んだ将軍足利義輝と幕府権力の脆弱性に失望。三好党らによる戦乱などで困難を窮めながらも京都地区の布教責任者として奮闘しました。

1569年、入京した新しい中原の覇者織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得ました。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれています(フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、日本史における重要な資料の一つになっています)。

その後は九州において活躍していましたが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁しています。1583年、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられます。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めました。この記録が後に『日本史』とよばれることになります。

当初、豊臣秀吉は信長の対イエズス会政策を継承していたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587年6月19日には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち長崎に落ち着きました。

1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見しました。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年に長崎に戻り、1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日没しました。65歳。フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになりました。
▲ページTOPへ

4.オルガンティノ

グネッキ・ソルディ・オルガンティノ。(Gnecchi‐Soldo Organtino, 1533年 – 1609年4月22日)は戦国時代末期の日本で宣教活動を行ったイタリア人宣教師。カトリック司祭。イエズス会員。人柄が良く、日本人が好きだった彼は「うるがんばてれん」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となりました。
1533年北イタリアのカストで生まれたオルガンティノは22歳でイエズス会に入会した。ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後で日本に派遣されました。来日は1570年6月18日で、天草志岐にその第一歩をしるした。オルガンティノははじめから京都地区での宣教を担当し、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事した。1577年から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめた。持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気がありました。
オルガンティノは1576年に京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成。1578年、荒木村重の叛乱時には家臣と村重の間で板ばさみになった高山右近から去就について相談を受けた。1580年には安土で直接織田信長に願って与えられた土地にセミナリヨ(初等教育機関(小神学校))を建てた。オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働いた。最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちでした。第一期生の中には後に殉教するパウロ三木もいた。しかしこのセミナリヨは信長が本能寺の変で横死した後で安土城が焼かれた時に放棄されました。1583年には豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、結局、右近の支配する高槻に設置されました。1587年に最初の禁教令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てた。オルガンティノは右近とともに表向き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信徒を指導した。翌年、右近が加賀に招かれると、オルガンティノは九州に向かいました。

1591年、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされました。1597年には日本二十六聖人の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取っています。オルガンティノは涙を流してそれらを押し頂いたといいます。

半生を日本宣教に捧げたオルガンティノは最晩年、長崎で病床につき、1609年、76歳で没した。
▲ページTOPへ

5.キリシタン大名

フランシスコ・ザビエルは戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行った。後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行っています。その際、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器の援助などを提示した者もおり、大名側もこうした宣教師から得られる利益をより多く得ようと、入信して歓心を買った者もいた。入信した大名の領地では、特に顕著にキリスト教が広がることになった。しかしキリスト教が広まると、キリスト教の教義や、キリシタン大名の人徳や活躍ぶり(特に高山右近)に感化され、自ら入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていった。キリスト教に入信した大名とその配下達の中には、宣教師たちの意見を聞き入れ領地内の寺や神社を破壊したり焼き払うなどの行動を取った者もいた。仏教や神道を奉ずる大名の中にも、僧侶たちの意見を聞き入れ外来の宗教であるキリスト教を『邪教』として弾圧する者もおり、キリスト教徒と日本の旧来の宗教の信者達との間に憎悪と対立を深めていくことになった。また、豊臣秀吉によりバテレン追放令(伴天連追放令)が出され、キリシタン大名に対する政治的な圧力が強まり、多くの大名が改易、もしくは仏教か神道への改宗を余儀なくされ(強制改宗)、キリスト教の禁教と迫害の時代に入っていった。
江戸時代に入り、1613年(慶長18年)には禁教令も出されたため、最後まで棄教を拒んだ高山右近はマニラに追放され、有馬晴信は刑死し、以後キリシタン大名は存在しませんでした。

彼らの領内にいた多数のキリシタンは、仏教に改宗するか、隠れキリシタンとなるか、劇的な例では旧有馬晴信領で起こった島原の乱という大規模な一揆の際に殺害され、表から消えていった。

高山右近
洗礼名はユスト。茶道を究めた右近は「南坊」と号し、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られます。この項目での呼称は右近で統一します。

高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照(飛騨守を自称)が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、長慶の重臣松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原区)を居城としました。
高山右近は、そうした中、天文21年に右近は友照の嫡男として生まれました。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けています。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためでした。父の洗礼名はダリヨ、右近はポルトガル語で「正義の人」を意味するユスト(ジュストとも)。
しかし、三好氏は当主長慶が永禄7年に没すると内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めつつありました。そうした中、永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下足利義昭が将軍となると状況は一変します。義昭は土着の領主の一つである入江氏を滅ぼすと直臣である和田惟政を高槻城に置き、さらに彼に伊丹親興・池田勝正を加えた三人を摂津の守護に任命した。高山親子は和田惟政に仕えることとなったが、領域の狭い摂津をさらに分割統治する体制がうまくいくわけもなく、摂津は大きく混乱します。まず元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重の軍に敗れて討死(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏そのものを乗っとります。荒木村重は織田信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、荒木村重の領有となりました。

こうした状況下で、高山親子はうまく立ち回る。和田惟政の死後、高槻城はその子惟長が城主となっていたが、まだ幼かいました。そこで高山親子は元亀4年(1573年)4月、高槻城を乗っ取り、自ら城主となりました。惟長が暗愚であったためともいわれるが、高山親子が荒木村重と示し合わせた上での下剋上ともいわれ、荒木の重臣であった中川清秀が高山氏にごく近い親族であったことからも、後者の可能性は高い。高山親子は荒木村重の支配下に入り、村重がすでに信長から摂津一円の支配権を得ていたことからこの事件は黙認され、高山親子は晴れて高槻城主となることができた。まもなく高槻城の修築工事を行い、石垣が塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れました。右近は高槻城を乗っ取る際、惟長と切り合って瀕死の重傷を負うが、奇跡とも言える回復を遂げた。右近はこの機を境にキリスト教へ傾倒するようになった。このときまでは、父・友照ほど熱心ではなかったというが、生死の境を彷徨ったことで何か悟るものがあったのだろう。
この天正11年から13年頃に、御着城主・姫路城代黒田孝高は高山右近らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。しかし、天正15年(1587年)7月に秀吉がバテレン追放令を出すと高山右近らがこれに反抗して追放される中、孝高は率先して令に従った。

ただし、こうした戦国乱世を地でいくようなことをしつつも、高山親子はいっそうキリシタンに傾倒していく。特に父友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を息子の右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は当然息子の右近に大きな影響を与えました。
京極高吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

▲ページTOPへ

戦国群青色(ぐんじょういろ #4c6cb3最初のページ戻る次へ
Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reser E-mail

戦国-10 大航海時代と世界経済

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

 

概 要

目次

  1. 大航海時代の開幕
  2. 帝国を求めて
  3. ポルトガルとスペイン
  4. オランダの役割
 近世ヨーロッパは、その内部に新しい政治・社会の秩序を造り出すとともに、外の世界に向かっても大きく飛躍していきました。とくに16世紀は「地理上の発見」とか「大航海」の時代と呼ばれ、ヨーロッパ人がアジアと新大陸に進出した時期にあたっています。
問題は、これを契機にヨーロッパが徐々に他の文明世界を圧迫し、政治的にも経済的にも支配するようになったことで、そうした状況を個々の事情の認識ではなく、グローバルな視点から総合的に捉えることが重要な課題となっています。とかく日本史では国内の政治・社会を中心に、そうしたヨーロッパの動きを軽視して捉えがちです。江戸時代の閉鎖的な鎖国時代を除けば、古代より東アジアと絶えず人々や文明が交流しながら発達してきたのであり、16世紀以降、その規模は地球規模に広がることになります。

[catlist id=36 orderby=title order=asc]

大航海時代と世界経済


1.大航海時代の開幕

ポルトガルは、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出しました。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功しました。

オランダも17世紀から18世紀にかけて植民地主義大国として活躍してオランダ海上帝国と呼ばれました。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカに植民地(スリナム)を保持していました。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長した大英帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は低迷して行みました。20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われましたが、現在でもカリブ海にオランダ領アンティル、アルバの二つの海外領土を持っています。

ロシア帝国は15世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げました。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと開拓をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ制圧しました。シベリアには殖民都市を多数建設し、都市同士を結ぶことで勢力を広げました。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国(モンゴル帝国)を侵略、植民地化しました。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めましたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件のどさくさにまぎれ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化しました。

東方の併合が一段落すると、続いて全中央アジアを征服、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突しました(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどとぶつかり合い、その戦費の捻出によって経済は破綻、共産主義者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅びましだ。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となりました。1941年にはバルト三国を、武力併合しました。また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義諸国も、名目上独立国とはいえ、ソ連の植民地同然でした。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国はCIS(独立国家共同体)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われています。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになりました。

ドイツ帝国の前身であるプロイセン公国は1683年に西アフリカに遠征し、ゴールド・コーストに植民(1720年に放棄)。更にギニアにグロース=フリードリヒスベルク市を建設し、奴隷貿易にも携わりました。ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を持っていましたが第一次世界大戦敗北により喪失しました(ドイツ植民地帝国)。

イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持しましたが、第二次世界大戦の優柔不断な国政によって戦後にすべて喪失しました。。
▲ページTOPへ

2.帝国を求めて

 近世ヨーロッパの政治史の流れは、大きく三つに区分できます。第一期は、フランスとドイツがヨーロッパの派遣を競った時期で、イタリア戦争(1521年から1544年または1494~1559年)の時期に相当します。イタリア戦争は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争です。ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執がありましたが、1519年にカール5世が神聖ローマ皇帝に即位し、またスペイン王を兼ねていたため、重大な脅威を受けることになったフランスは、戦略上イタリアを確保することが必要になりました。16世紀のイタリアはルネサンス文化の最盛期でもありますが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになります。
第二期は、新大陸の富を背景にスペインが派遣を握った時期。第三期は、スペインの衰退のあと、フランスとイギリスが大陸の派遣と海外植民地をセットで争い、初期的な世界戦争に突入した時期です。
第一期のイタリア戦争は、イタリアの領有権を主張するフランス国王シャルル八世がイタリアに出兵したことから始まりますが、16世紀前半では、ハプスブルク家の膨大な家産を相続したドイツ皇帝カール五世(在位1519~6年)と、中世のシャルルマーニュ大帝がつくりあげたカロリング帝国の再現を目論むフランス国王フランソワ一世(在位1515~47年)が、何度も戦争を交えました。しかし、戦争は決着がつかず、ドイツの内乱に疲れたカール五世は、ドイツヲを弟のフェルディナント一世に、スペインとネーデルランドを息子のフェリペ二世に譲って、スペインの修道院に隠棲しました。ハプスブルク家の東西分裂です。フランス側でも、フランソワ一世を継承したアンリ二世は、1557年にサン=カンタンの戦いで大敗を喫し、帝国の野望を達成できませんでしました。1559年、イタリア戦争はカトー=カンブレジの和約で終結しました。
▲ページTOPへ

3.ポルトガルとスペイン

覇権争いの常連だったフランスとドイツが後退したあと、地位を受け継いだのはスペインです。コロンブスの新大陸への到達以後、次々と植民地化し、大西洋貿易を独占的に支配したスペインは、フェリペ二世の時に黄金期を迎えました。新しい通商路の成立はヨーロッパに大きな影響を及ぼしました。第一に、ヨーロッパ人の海外進出です。ただし、アジアではインドのムガール帝国、中国の明・清帝国、日本の織豊政権などがあって、ポルトガル人の活動は限定され、中継貿易に留まりました。アジアとヨーロッパを往復するには約二年かかり、商館と寄港地を維持するコストの高さが最大のネックとなったのです。この点では、17世紀にアジア貿易の主役を担ったオランダも同様で、東インド会社は、アジア間の中継貿易に力点を置き、しばしば本国と対立しました。
第二に、ヨーロッパの諸地域の役割変化です。アジアや新大陸の物産が北辺にあるオランダに直接運び込まれるようになると、ヨーロッパの重心がオランダに傾き、地中海のイタリアと内陸部の意味が大幅に後退せざるを得なくなりました。「地理上の発見」は、ヨーロッパの人や物の流れを変えただけでなく、伝統的な地理観それ自体に大きな変化をもたらしたのです。ヨーロッパが世界に進出するきっかけをつくったのは、イベリア半島のポルトガルとスペインという「国土回復運動」を終えたばかりの新興国でしました。
15世紀中葉以降、ポルトガルはインドへの通商路を求めてアフリカ大陸を南下していましたが、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが率いる船隊は、アフリカ南端の喜望峰を通過し、インドの西海岸カルカッタに到着し、大量の香辛料を買い付けてリスボンに戻りました。このあと、インドのゴア、マラッカ、マカオ、平戸(長崎)に商館を作り、アジアの商業ネットワークを築き上げました。1500年インドに向かったカブラルの船隊は、途中で嵐にあってブラジルに漂着し、この地の領有を宣言しました。ポルトガルから近いブラジルでは、蘇芳(紅色染料)、タバコ、砂糖の生産が始まりました。
一方、スペイン国王の後援を受けて西方からインドをめざしたコロンブスは、1492年、アメリカに第一歩を記しました。翌年、再びこの地にやってきたコロンブスは、早くも千人ほどの移民を伴っていました。これが植民地化の始まりです。次いで、マゼランはポルトガルが支配するマラッカ海峡に西回りで到達しようと1519年に船出し、初めて世界周航を果たしました。このあと、新大陸では貴金属を求めた「征服者」が暗躍し、1520年代にはコルテスがメキシコのアステカ王国を、1530年代にはピサロがペルーのインカ帝国を滅ぼしました。ほどなくペルーのポトシで産出された銀がセヴィリア経由でイタリアのジェノヴァやネーデルランドのアントウェルベンにもたらされ、ヨーロッパ通過の基礎となっています。1580年にはポルトガルの王家断絶を利用してポルトガル国王を兼ね、まさに「太陽の沈まない王国」を実現しました。新大陸では国王直轄のもとに、採掘から輸送に至るルートが整備されました。ヨーロッパ各地にもたらされた銀は、通貨量を増大させ、価格革命をもたらしたといわれますが、16世紀ヨーロッパの経済発展を根底で支えました。しかし、フェリペ二世の没後、スペインは衰退に向かい、スペインが持っていた権益をイギリスとオランダが分け合うようになりました。イギリスは、フランスとドイツが争いに熱中しています隙に乗じてスコットランドやアイルランドに遠征し、スペインの無敵艦隊を撃破し、新大陸にも進出しました。ヨーロッパ大陸の問題に深入りしないで、島国としての立地を生かし、海洋国家に転身したところからイギリスの未来が開けたのです。オランダは、もともと北海・バルト海と大西洋をつなぐ商取引の結節点に位置し、自由主義的な貿易立国をめざしました。オランダは王権が弱体であり、貴族や商人の勢力を背景に、アムステルダムやロッテルダムなどの都市が主力となって「連邦共和国」を成立させます。
▲ページTOPへ

4.アジアの通商

 一方、アジアにおいては、16世紀は活発な通商がおこなわれ、東アジアからインド洋にかけてさかんに人びとが交流していました。特に琉球王国は、日本、朝鮮、中国、東南アジアを結ぶ中継貿易で繁栄の時代をむかえ、日本の堺や博多は自治都市として栄えました。そうしたなか、ヨーロッパからはるばるインド洋に達したポルトガル人は、東南アジアや東アジアの通商に参入し、戦国時代の日本や琉球にも渡来しました。

ポルトガル人はインドのゴア、マレー半島のマラッカ、中国のマカオ、広州、日本の平戸などの港に商館をおいて通商し、またイエズス会などカトリックの修道会が中国や日本で布教をはじめました。少し遅れてスペイン人やオランダ人も通商に加わった。しかし、この時期のヨーロッパ人は、アジアにおける政治秩序や文化を侵すことはできなかいました。すでにアジア人相互の通商がさかんで、それぞれの国では統治制度もきわめて高度に整備されていたからでした。

豊かなアジアの国々は、鉄砲に強い関心をもった日本をのぞくと、ヨーロッパ産品を特に必要としませんでした。なお、鉄砲は、1543年に種子島に漂着したポルトガル人が伝えたとされています。しかし、軍事史家の宇田川武久は、それが倭寇が用いたアジア製の模造品である可能性が高いことを指摘しています。

明やオスマン帝国などのアジアの大国の軍隊では大砲を中心に火器もかなり普及していましたが、火薬の原料として必要な硝石は日本と異なり家畜の飼育が盛んだったため、十分自給できていました。逆に、ヨーロッパの人びとは香辛料、陶磁器、絹織物、茶などアジアの物産を大いに求めました。結果的に、これら産品を購入するための対価としては、メキシコやペルー、ボリビアなどで産出された銀が充当されました。アメリカ大陸や日本の石見銀山・生野銀山からの銀が大量にアジアに流れることによって、16世紀後半のアジア経済はさらに活況を呈することとなりました。
そして、明王朝では1565年に銀を用いた納税方法である一条鞭法が採用され、1570年代以降には全国に波及して税制が簡素化されていきました。
▲ページTOPへ

5.オランダの役割

ヨーロッパ世界経済が勃興したのは、16世紀のヴェネティア(イタリア)でした。しかし、その時点で、地中海世界はすでに反映のピークは過ぎていたとみられています。16世紀後半から17世紀前半にかけて、ヨーロッパ各地が凶作、伝染病の流行、人口減少などの深刻な危機に見舞われるなか、唯一明るい兆しが見られたのは大西洋や北海に面した海港都市、そしてネーデルランドでしました。ネーデルランド北部(オランダ)の独立派は、宗主国スペイン側にあった海港都市アントウェルベンの機能を16世紀末に破壊し、アムステルダムに新たな経済活動の拠点を築きました。
人口150万人と小さな国家に過ぎないオランダが、17世紀後半まで主導権を堅持できたのです。それは、オランダは工芸技術に優れ、毛織物業、製糖業、製紙業、醸造業などが興隆しました。ニシン・タラの遠洋漁業や、集約型の農業もよく知られています。金融の面では、1609年にアムステルダム銀行が設立され、為替手形による国際的な決済、資本の外国投資が可能となりました。最も注目すべきことは、オランダが培った海洋的な側面です。
そのひとつは、オランダがバルト海方面の貿易と密接に結びついていたことです。輸入された商品は、エルベ川以東のプロイセン、ポーランド、ロシアなど東ヨーロッパで生産された穀物(小麦とライ麦)、スカンジナヴィア参の銅、鉄、硝石、船材、タール、ピッチなどでしました。前者は工業国に転じたオランダの食生活を賄う必需品でしました。東ヨーロッパでは領主制が強化され、「再販農奴制」と呼ばれる農民の隷属化が広がりました。後者は船舶や武器の製造用で、海洋に乗り出すには不可欠な物資です。
もうひとつは、オランダの植民地経営の手法です。第一に、オランダは会社制度を導入し、喜望峰を境に東インド会社(1602年設立)と西インド会社(1621年設立)に分け、外交権、自衛権、貨幣鋳造権などを含む当事者能力を与えました。第二に、オランダはポルトガルのアジア戦略の方法を取り入れました。ポルトガルが始めたアフリカの奴隷貿易に参加し、スペインとエージェント契約を交わしたことや、ブラジルに侵入し、タバコ、砂糖、コーヒーなどの大規模農園の技術をカリブ海方面に伝えたことは、のちに「三角貿易」の原点となりました。また、インドネシアで香辛料貿易が低迷すると、コーヒー栽培への転換を試みるなど、オランダは植民地の有効利用に熱心で、本格的な植民地の領有化を促進しました。
最もオランダが世界の物産の集散地として成功した最大の秘密は、造船業と海運業の発展であり、何よりも優秀な船員の養成にありました。新鋭のフライト船は、容積が大きく、操船が簡単で、少人数で大量の積荷を輸送する能力を持ち、中継貿易には最適でしました。人口の少ないオランダは、その弱点を船舶の保有数と操船の技術力でカバーし
、ヴェネティアを上回る規模の世界システムを機動させたのです。
相前後して1600年にはイングランドがイギリス東インド会社を設立しました。これはエリザベス女王より貿易独占権を付与された会社でしたが、ここでは、17世紀半ばまでは一航海ごとに出資者に利益を分配するしくみをとっっていました。
江戸幕府は、当初は朱印船貿易によって東南アジアに進出して各地に「日本町」を建設しましたが、1630年代には鎖国政策に転じ、オランダ船と中国船による貿易だけに制限して国内発展をめざしました。
中国大陸では、1616年にヌルハチによって統一された女真族が満州の地に後金王朝(後の清朝)を建国、つづくホンタイジが内モンゴルを併合して、順治帝の1644年には李自成を追って呉三桂を先導に北京に入城し、明にかわって中国支配を開始しました。続く康煕帝は中国史上最高の名君とされています。彼は文化の振興を図り、三藩の乱を鎮め、鄭氏政権を滅ぼし台湾を支配し、漢民族を支配下におきました。また康熙帝は1697年にジュンガルのガルダン・ハーンを滅ぼし、モンゴル高原を支配下に治め、さらにロシアとの間に中国史上初めての対等条約であるネルチンスク条約(1689年)を結ぶなどの対外活動も充実させて、安定した治世を実現しました。ロシアとの交渉はイエズス会宣教師が行い、交渉用語にはラテン語が用いられました。清朝は、公式条文中の「両国は―」ではじまる文言をことごとく「中国は―」とする一方的な命令口調に改竄し、対内的には朝貢関係としてこれを理解させました。朝鮮王国は、1636年に清に攻撃されてその服属国となり、その後厳しい鎖国政策を採用しました。琉球王国も1609年に薩摩藩に服属しましたが、中国との朝貢貿易は続きました。ロシアでは、内乱や農民反乱、ポーランド王国の侵入などの動乱を経て、ミハイル・ロマノフが1613年にロマノフ王朝を建て、正教を奉じる北方の専制国家として領主制支配を強めて、シベリアに領土を広げていきました。当初は西欧と深いかかわりを持たなかったロシアでしたが、17世紀末ころにピョートル1世があらわれると、西欧化政策を推進する一方、康煕帝治下の清朝との間に上述のネルチンスク条約を結んで国境を画定しました。
▲ページTOPへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『ヨーロッパの歴史』 放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温

戦国群青色(ぐんじょういろ #4c6cb3最初のページ戻る次へ但馬の城跡
Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reser E-mail

たじまる 戦国9 明智光秀と細川ガラシャ

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

明智光秀と細川ガラシャ

1.丹後平定と細川藤孝(幽斎)

田辺城城門

丹後国は元々一色氏が守護を務める国でしたが、天正7年(1579年)、細川藤孝(幽斎)は明智光秀とともに反信長連合の一角だった一色氏らを滅ぼし、丹後国・丹波国を制圧し功績を挙げました。藤孝は恩賞とし丹後一国を与えられ田辺城を築き、田辺(舞鶴)を拠点に丹後一国を治めました。

その後、天正10年(1582年)6月2日に、嫡男の忠興が明智光秀の娘玉(のちガラシャ)を迎え親戚関係にあった明智光秀が本能寺の変を起こし、光秀から藤孝(幽斎)自身も加担するよう誘われますが、反光秀の立場を貫き、羽柴秀吉から丹後の本領を安堵されています。しかし藤孝(幽斎)は、光秀の裏切りの責任をとる形で嫡男の忠興に家督を譲って隠居しました。その際、隠居城として宮津城を築き、丹後舞鶴から移りました。


天守閣跡

慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こりました。細川忠興は家康に従っており、幽斎は僅かな兵とともに田辺城の留守を守っていました。そこへ、大坂方の大軍が攻め寄せたが、幽斎は屈することなく六十日間にわたって城を死守しました。藤孝は『古今和歌集』の秘伝を三条西実条から、『源氏物語』の秘伝を近衛稙通より伝授されていました。藤孝の死によって歌道秘訣の絶えるのを恐れた後陽成天皇によって、包囲軍は田辺城から撤退となったのです。その筋書きは、藤孝が京の公卿衆を動かして書いたものだと伝えられています。

しかし、関ヶ原の戦い時には、ふたたび舞鶴城に戻り、留守中の息子の代理を務めました。
戦後、細川忠興は関ヶ原の合戦の功により、慶長5年(1600年)、細川氏は豊前国中津藩(福岡県東部)へ転封されました。かわって信濃国飯田より、京極高知(きょうごくたかとも)が田辺城に入城しました。

一躍、豊前一国と豊後の内速水・国東両郡併せて三十九万九千石を拝領しました。幽斎も田辺城における功を賞され、別に隠居料として六千石を与えられました。こうして、細川幽斎は、慶長十五年、七十七歳を一期として世を去りました。文字通り、激動の時代を生き抜いた幽斎は、人生の達人といえる人物であったといえるでしょうか。幽斎のあとを継ぎ、豊前の大大名となった忠興は三斎と号し、『細川三斎茶書』といった著書もあり、利久七哲の一人に数えられるほどの文化人でもありました。忠興も逸話の多い人物だが、ガラシャとの関係は世に有名なところです。忠興のあとはガラシャとの間に生まれた忠利が継ぎ、寛永九年(1632)、加藤氏が改易されたのちの肥後国(熊本県)に転封されました。以後、細川氏は肥後一国を領して明治維新に至りました。

細川幽斎(藤孝)

細川幽斎は、天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員の次男として京都東山に生まれる。天文9年(1540年)、7歳で伯父である和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄)の養子となりました。初め幕臣として13代将軍将軍義輝に仕えますが、永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺されると、幽閉された義輝の弟・一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)を兄・三淵藤英らとともに救出し、近江の六角義賢、若狭の武田義統、越前の朝倉義景らを頼って義昭の将軍擁立に尽力しますが、その後、朝倉氏に仕えていた明智光秀を通じて尾張の織田信長に従うこととなります。天正6年(1578年)、信長のすすめによって嫡男・細川忠興と光秀の娘・玉(細川ガラシャ)を娶ります。

天正8年(1580年)に単独で丹後に進攻するも守護一色氏に反撃され失敗、光秀の加勢によってようやく平定に成功し、信長から丹後11万石を与えられ宮津城を居城とし丹後宮津11万石の大名となります。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は織田の山陰道平定軍の上司であり親戚でもある明智光秀の再三の要請を断り、剃髪し幽斎玄旨と号して隠居、細川忠興に領土を譲りました。

後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世細川氏の祖となりました。また、幽斎は千利休らとともに秀吉側近の文化人として寵遇され、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け近世歌学を大成させた文化人としても知られています。
嫡男の忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。一方、徳川家康とも親交があり、
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近しました。
細川忠興は、天正10年(1582年)6月、義父・明智光秀が本能寺の変を起こし藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、織田信澄とは異なり父子は誘いを拒否したうえ、玉子を丹後の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建っている。細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれている。忠興はこのとき、父が隠居したので領国を譲られて丹後宮津城主となりました。

慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津(上杉景勝)征伐に軍勢を引きつれて参加し、7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興夫人・ガラシャは包囲された屋敷に火を放って家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて亡くなりました。
幽斎は500に満たない手勢で丹後田辺(舞鶴)城を守りました。田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されましたが、幽斎が指揮する籠城軍の抵抗は激しく、また攻囲軍の中に幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲が乏しかったこともあり長期戦となりました。ようやく、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入りました。

関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の有力大名であるうえ、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われていわれています。

前線で石田三成の軍と戦い、戦後の慶長7年(1602年)、家康から豊前中津藩39万9000石に加増移封し、その後豊前40万石の小倉藩に移り、小倉城を築城しました。かわりに京極高知が丹後一国12万3千石を与えられ仮に田辺城に入城したが、宮津城を再築し宮津城へ本拠地を移しました。

幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれています。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、徳川方として参戦する。ただし、大坂冬の陣には参戦していない。元和6年(1620年)、三男の細川忠利に家督を譲って隠居する。この頃、出家して三斎宗立と号した。
寛永9年(1632年)、忠利が肥後熊本藩54万石の領主として熊本城に移封されると熊本の南の八代城に入り北の丸を隠居所としました。

細川ガラシャ夫人隠棲地

細川ガラシャ(俄羅奢)、永禄6年(1563年) – 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、明智光秀の三女で織田信澄室、細川忠興の正室。諱は「たま」(珠、玉)または玉子(たまこ)。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。子に、於長(おちょう:1579年生、前野景定室)、忠隆(1580年生)、興秋(1584年生)、忠利(1586年生)、多羅(たら:1588年生稲葉一通室)などがいます。明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも「細川ガラシャ」と呼ばれる場合が多いですが、前近代の日本は夫婦別姓であり、北条政子・赤橋登子・日野富子などの例に照らせば、本名は「明智 珠」が正しいようです。 永禄6年(1563年)、明智光秀と妻煕子(ひろこ)の間に三女(四女説もあります。ただしこの場合、長女と次女は養女であり、実質は次女となる)として越前国で生まれましました。

天正6年(1578年)、15歳の時に父の主君、織田信長のすすめによって坂本城より、勝(青)龍寺(京都府長岡京市)城主細川藤孝(幽斎)の息子忠興に嫁ぎました。珠(たま)は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆後の長岡休無)が二人の間に生まれましました。

しかし天正10年(1582年)、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となります。忠興は珠を愛していたがために離縁する気になれず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉します。この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(公家清原枝賢の娘)らの侍女達でしました。

珠の幽閉先とされる場所ですが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実です。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」があります。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられます。

細い山道を苦労して標高400mの地にたどりつくと、すっかり日が暮れて記念碑は見ることができませんでした。女城跡に建てられている弥栄町の案内板によると、「味土野は、御殿と書かれていた時期もあり、現在の記念碑が建立してある平坦面にガラシャの居城があったといわれています。谷の周囲には、現在でも矢に使う矢竹が確認でき、また樹の下にある観音堂の台石はガラシャが信仰した場所と伝えられています。この他にも古井戸、蓮池跡などガラシャの足跡を現在に伝える伝承や遺跡が多く残っています。

山深い味土野の里にある細川ガラシャ夫人の隠棲地(女城跡)(いんせいち)は、ガラシャ夫人の父・明智光秀が本能寺の変を起こした天正十年から十二年(1582~1584)までの二年間、ガラシャ夫人が幽閉されていた場所である。また、谷を挟んだ向かいの丘陵は「男城跡」(おじろあと)で、ガラシャ夫人に付き従った家来達の居城の跡と言われている。

調査者 上智大学文学部教授 ヘルマン・ホイヴェルス東京女子高等師範学校長 下村 壽一女城跡 御殿屋敷ともいわれ、細川ガラシャ夫人の城跡男城跡 女城と谷を隔てた向かい側の尾根にあり、当時細川ガラシャを警護するために作られた城」

キリスト教徒へ

天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻しました。この年に興秋が生まれています。これらの人生の変転の中で、珠はカトリックの話を聞き、その教えに心を魅かれていきましました。天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれましましたが、病弱のため、珠は日頃から心配していましました。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣し、彼女は意を決してカトリックの教えを聞きに行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は修道士にいろいろな質問をしました。そのコスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べています。

教会から戻った珠は大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けましました。しかし、後に秀吉はバテレン追放令を出し、大名が許可無くキリスト教を信仰することを禁じた。忠興は家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒し、改宗した侍女の鼻を削ぎ、追い出しましました。

幸いにもガラシャは発覚を免れましましたが、拠り所を失ったガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説いた。それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったといいます。

壮絶な最期

関ヶ原の戦いが勃発する直前の慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、石田三成は、徳川家康が上杉討伐に兵を起こした際に、これに従った細川忠興を始めとする大坂城下に屋敷を構える家康方の大名から、人質を取ることを企て、まず細川家屋敷に軍勢を差し向け、大坂玉造の細川屋敷にいた彼女を人質に取ろうとしましましたが、ガラシャはそれを拒絶しましました。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて死んだ(偕成社刊『偉人の話』では“首を打たせた”の記述あり。キリスト教では自殺は大罪であり、天国へは行けないため)。38歳。辞世の句として、「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠みましました。こののち、小笠原はガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃しましました。ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬りましました。細川忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬しました。他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがあります。

なお細川屋敷を三成の兵に囲まれた際に、ガラシャは世子細川忠隆の正室で前田利家娘の千世に逃げるように勧め、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れましました。しかし、これに激怒した忠興は忠隆に千世との離婚を命じ、反発した忠隆を勘当廃嫡してした(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。
細川ガラシャ夫人は、日本の歴史の大きなうねりの中に、その名を残す数少ない女性の一人で、大変な美人であったと言われています。苦難の生活を送りながらも自己の尊厳と人間愛を貫き通し、女性であることの誇りを守り、常に世の中の平和を祈り続け、波乱に富んだ生涯を送った人でありました。

戯曲「気丈な貴婦人」

ガラシャをモデルにした戯曲「気丈な貴婦人」(グラーシャ)の初演は神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーナ皇后の聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にイエスズ会の劇場でオペラとして発表されましました。ガラシャの死はヨーロッパでは殉教死と考えられました(「武士道」と言う観念、武家社会の礼法が理解されない為)。その戯曲の中でのガラシャは、夫である野蛮な君主の非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心さるという解釈になっています。この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君達に特に好まれたとされ、彼女達は政治的な理由で他国に嫁がされるガラシャを自分達の身の上に重ね、それでも自らの信仰を貫いた気高さに感銘を受けたと言う。エレオノーレ・マグダレーナ、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリーザベトなどの生き方にも尊敬と感銘を受け深く影響を与えたと言われています。

カトリック宮津教会


洗者聖ヨハネ天主堂ともいわれ、フランス人のルイ・ルラーブ神父が1896(明治29)年に造った木造の教会で、毎週ミサの捧げられる現役の聖堂としては、日本で最も古いものとされています。

内部の床は畳敷きという和洋折衷のロマネスク風様式の教会、堂内を明るく照らすステンドグラスはフランスから輸入したもので、1280枚あります。 この教会は観光施設ではなく多くの方が礼拝に訪れる宗教施設です。。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

 

戦国8 丹波・播磨平定

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

丹波・播磨平定

丹波国(たんばのくに)は、大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てています。このため、丹波国は甲斐や尾張、土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化しました。地域性として亀岡・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津、福知山・綾部の中丹は丹後・但馬、篠山・氷上の兵庫丹波は但馬・摂津・播磨に密接に係わっています。

丹波や畿内では国人の独立志向が非常に高く、山城や丹波などでは、守護(細川氏)が数十年をかけても国人層の被官化を達成できない事例も見られました。丹波国は古くより山陰道からの京都の出入口に当たる地理的条件から、各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司代などの支配を受けました。ただそれだけにひとたび都で戦乱が起こった時は戦乱にすぐ巻き込まれました。そして篠村(亀岡市篠町)では、鎌倉時代末期には足利尊氏が挙兵し、安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀が本能寺の変へと向う際にそれに倣ったとされるなど、時代変革の舞台ともなりました。

明智光秀(あけち みつひで)

明智光秀は、戦国時代、安土桃山時代の武将。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。正室は妻木勘解由左衛門範煕(のりひろ)の娘煕子(ひろこ)。間には、織田信澄室、細川忠興室珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男光慶(十五郎)がいます。

明智氏は『明智系図』によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族。美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市)より発祥。

源頼光-源頼国-源国房-(6代略)-土岐頼貞-土岐頼基-明智頼重-(7代略)-明智光継-明智光綱-明智光秀-明智光慶

(生年日は不明()、岐阜・可児(かに)市出身、明智城主の子とされるが不明(美濃国説が有力)。明智氏は美濃守護・土岐(とき)氏の分家。はじめ斎藤道三に仕えた。1556年、道三と子・義竜の争いが勃発した際に道三側につき、明智城を義竜に攻撃されて一族の多くが討死しました。光秀は明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたといいます。

※煕子は婚約時代に皮膚の病(疱瘡)にかかり体中に痕が残ったことから、煕子の父は姉とソックリな妹を嫁がせようとしました。しかし、光秀はこれを見抜き、煕子を妻に迎えたといいます。当時の武将は側室を複数持つのが普通だった時代に(、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。

やがて光秀は鉄砲の射撃技術をかわれて越前の朝倉義景に召抱えられ10年間仕えたとも言われる。156http://kojiyama.net/history/?p=119525年(http://kojiyama.net/history/?p=1195255歳)、100名の鉄砲隊が部下になる。射撃演習の模範として通常の倍近い距離の的に100発撃って全弾命中させ、しかも68発が中心の星を撃ち抜くスゴ腕を見せた。1566年(http://kojiyama.net/history/?p=1195258歳)、1http://kojiyama.net/history/?p=119525代将軍足利義輝が暗殺され、京を脱出した弟・足利義昭(http://kojiyama.net/history/?p=1195259歳)が朝倉氏を頼ってくると、光秀は義昭の側近・細川藤孝(※要記憶)と意気投合し、藤孝を通して義昭も光秀を知ることとなります。
▲ページTOPへ

謎の多い明智光秀

『勧善懲悪』、時代劇や多くのハリウッド映画、ヒーロー戦隊番組に於けるシナリオにおける典型的パターンです。これは善玉(正義若しくは善人)と、悪玉(悪役・悪党・搾取する権力者など)が明確に分かれており、最後には悪玉が善玉に打ち倒され、滅ぼされたり悔恨するという形で終結します。一般にはハッピーエンドとされる形で物語は終幕を迎えるパターンです。
信長、秀吉、家康などは英雄視され、光秀については、歴史物では、本能寺の変で主君信長を討った「主殺し」、「謀反者」、「三日天下」など悪いイメージで知られています。しかし、本当にそうであったのかという素朴な疑問がありましました。光秀ほど謎に満ち、歴史的興味をかりたててくれる人物も、そう多くはありません。

怨恨説は元になったエピソードが主として江戸時代中期以降に書かれた書物が出典であること(すなわち、後世の憶測による後付である。例えば、波多野秀治の件は現在では城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされている)、織田信長・豊臣秀吉を英雄とした明治以来の政治動向に配慮し、学問的な論理展開を放棄してきたことが挙げられる(ただし、ルイス・フロイスの足蹴の記述など、明らかに同時代の資料も存在する)。

ひょうきん者の藤吉郎(秀吉)、カリスマ的な信長。光秀は生真面目な努力の人であり秀才型といえます。『勧善懲悪』な時代劇にするには、なんとも光秀は面白くはないでしょう。戦国期の武将の中で光秀が特異な存在で一人浮いて見えてしまうのはどうしてなのでしょうか。私の感覚ではありますが、信長・秀吉・家康に代表される戦国武将は歴史上の勝者敗者を問わず、現実世界からかけ離れた人物であるのに対し、光秀については、その栄光も苦悩も挫折も現代に通じるドキュメンタリーとしてとらえることができる人間らしい人物としても興味があるところです。

「勤勉で、学問好きで、まじめに生きようとしています。むろん武士として名誉欲も、政治的野心もありますが、歌人であり、ものの哀れを知る男だ。」(明智光秀 物語と史蹟をたずねて 早乙女貢著より抜粋)という現代人的感覚に近い人間だからだ英雄的ではないと思われます。

逆に言えば戦国期においては、生きていけない人間ということになってしまうのかもしれませんが、明智一族の結束の強さに光秀の人情に厚い人間らしさを感じるのです。光秀の才能や人間性が、どのようにして培われたものか大変興味がありますが、残念ながら光秀が歴史の表舞台に登場してくるのは朝倉義景に仕官した時からで、その前半生を語る信憑性のある資料はほとんどなく、謎に包まれています。
しかしながら、歴史を大きく転回させたキーマンであることは疑うべくもありません。

1571年7月、光秀は信長から近江国滋賀郡を与えられ、琵琶湖の湖畔に居城となる坂本城の築城を開始します(信長は築城費に黄金千両を与える)。これは織田家にとって大事件でした。光秀は初めて自分の城を持っただけではありません。織田に来て僅か4年の彼が、家臣団の中で初めて一国一城の武将となったのです。

天正5年(1575年)の叙任の際に姓と官職を両方賜ったのは、光秀・簗田広正・塙直政の三人だけである。このことから、この時点で既に官職を賜っていた柴田勝家・佐久間信盛は別としても、丹羽長秀・木下秀吉などより地位が高かったと見てよいと思われます。当時織田家中で5本の指に入る人物であったことは疑いなく、簗田・塙は譜代家臣であることから考えても信長の信頼の厚さが窺えます。

天正10年(158http://kojiyama.net/history/?p=119525年)6月http://kojiyama.net/history/?p=119525日(西暦6月http://kojiyama.net/history/?p=1195251日)早朝、光秀が羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上、亀山城から桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる「本能寺の変」が起こります(しかし、光秀は丹波亀山城には事件前にも後にも死ぬまで立ち寄っておらず、坂本城よりhttp://kojiyama.net/history/?p=119525000の兵で本能寺に向かい、到着したのは本能寺が焼け落ちた午前7時半より数時間後の9時頃だったとする説もある)。光秀は、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼしたために、謀反人として歴史に名を残すことになってしましましました。一方で光秀の心情を斟酌する人間も少なくなく、変の背景が未だに曖昧なこともあって、良くも悪くも光秀に焦点をあてた作品が後に数多く作られることとなりましました。

本能寺の変

天正10年6月。ここで本能寺の変について、おさらいしてみましょう。

5月15日&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
光秀は、武田攻めから帰還したのち、長年武田氏と戦って労あった徳川家康の接待役をより務めた。
15日羽柴秀吉から応援の要請が届く。
17日光秀は接待役を途中解任されて居城坂本城に帰され、中国攻めの秀吉援護の出陣を命ぜられた。
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
http://kojiyama.net/history/?p=1195256日
いまひとつの居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕大権現に参篭。
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
http://kojiyama.net/history/?p=1195258日・http://kojiyama.net/history/?p=1195259日
「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催しました。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが、句の解釈は種々ある。
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
http://kojiyama.net/history/?p=1195259日
信長は秀吉の応援に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った[*1]。同時に、信長の嫡男・信忠は妙覚寺に入った。
翌6月1日信長は本能寺で茶会を開いています。
6月1日夕光秀は1万http://kojiyama.net/history/?p=119525000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった(光秀は丹波亀山城には事件前にも後にも死ぬまで立ち寄っておらず、坂本城よりhttp://kojiyama.net/history/?p=119525000の兵で本能寺に向かい、到着したのは本能寺が焼け落ちた午前7時半より数時間後の9時頃だったとする説もある)。
http://kojiyama.net/history/?p=119525日未明桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言[*http://kojiyama.net/history/?p=119525]して、襲撃を明らかにしました。
6月http://kojiyama.net/history/?p=119525日『本能寺の変』。&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
光秀は権力地盤を固める為に諸将へ向け、ただちに「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と、共闘を求める書状を送る。堺にいた家康は動乱の時代が来ることを察し、速攻で自国へ帰った。
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
6月http://kojiyama.net/history/?p=119525日
、遠方の武将達は信長の死を知らず、柴田勝家はこの日も上杉方の魚津城(富山)を落としています。夜になって、毛利・小早川の元へ向かった使者が秀吉軍に捕まり密書を奪われ、「本能寺の変」を秀吉が知ることになる。翌日、秀吉は信長の死を隠して毛利と和睦。勝家もこれを知り上杉との戦いを停止して京を目指す。5日、光秀の次女と結婚していた信長の甥・信澄は自害に追い込まれた。後継者争いの最初の被害者だ。午後2時、俗に言う「秀吉の中国大返し」が始まる(秀吉は“変”から10日で全軍を京都に戻した)。
6月9日信長に反感を抱く諸将は多いはずなのに、一向に援軍が現れず光秀は焦り始める。どの武将も秀吉や勝家と戦いたくなかったし、信長が魔王でも「主君殺し」を認めれば、自分も部下に討たれることを容認するようなものだからだ。光秀が最もショックだったのは細川父子の離反。旧知の細川藤孝とガラシアの夫・忠興は、当然自分に味方すると思っていたのが、なんと藤孝は自分の髪を切って送ってきた。細川家存続を選んで親友光秀を裏切った自分に「武士の資格はない」と、頭を剃って出家したのだ(以後、幽斎を名乗る)。忠興はガラシアを辺境に幽閉しました。&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
光秀は最後にもう一度細川父子に手紙を書いた「貴殿が髪を切ったことは理解できる…。この上はせめて家臣だけでも協力してほしい。50日から100日で近国を平定し、その後に私は引退するつもりだ」。引退。光秀は人々の上に君臨する野望や征服欲の為に信長を討ったのではありません。ガラシアが後に隠れキリシタンとなった背景には、このように夫と舅が実父を見捨てたことへの、癒されぬ深い悲しみがあった。
6月10日光秀が大和の守護に推した筒井順慶も恩に応えず、彼は完全に孤立しました。11日、京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、小規模な戦闘が起きる。1http://kojiyama.net/history/?p=119525日、秀吉の大軍の接近を察した光秀は、京都・山崎の天王山[*http://kojiyama.net/history/?p=119525]に防衛線を張ろうとするが、既に秀吉方に占領されていた。
6月1http://kojiyama.net/history/?p=119525日『山崎の戦い』。秀吉の軍勢は四国討伐に向かっていた信孝の軍も加わり、4万に膨れ上がった。一方、光秀は手勢の部隊に僅かに3千が増えただけの 1万6千。光秀は長岡京・勝竜寺城から出撃し、午後4時に両軍が全面衝突。明智軍の将兵は中央に陣する斎藤利三から足軽に至るまで「光秀公の為なら死ねる」と強い結束力で結ばれており、圧倒的な差にもかかわらず一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げた。戦闘開始から3時間後の午後7時。圧倒的な戦力差が徐々に明智軍を追い詰め、最後は三方から包囲され壊滅しました。「我が隊は本当によくやってくれた」光秀は撤退命令を出し、再起を図るべく坂本城、そして安土城を目指す。堅牢な安土城にさえたどり着ければ、勝機は残されていた。“あの城で籠城戦に持ち込み戦が長期化すれば、犬猿の仲の秀吉と勝家が抗争を始めて自滅し、さらには上杉や毛利の援軍もやって来るだろう…大丈夫!まだまだ戦える!”。
同日深夜大雨。しかし、天は光秀を見放しました。小栗栖(おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹やぶを1http://kojiyama.net/history/?p=119525騎で敗走中だった光秀は、落武者狩りをしていた土民(百姓)・中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて落馬。長兵衛はそのまま逃げた。光秀は致命傷を負っており、家臣に介錯を頼んで自害しました。その場で2名が後を追って殉死。&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
14日朝、村人が3人の遺骸を発見。一体は明智の家紋(桔梗、ききょう)入りの豪華な鎧で、頭部がないため付近を捜索、土中に埋まった首級を発見したといいます。安土城を預かっていた明智左馬助(http://kojiyama.net/history/?p=1195255歳、光秀の長女倫子の再婚相手、明智姓に改姓)は、山崎合戦の敗戦を知って坂本城に移動する。秀吉は三井寺に陣形。
6月15日坂本城は秀吉の大軍に包囲されます。「我らもここまでか」左馬助や重臣は腹をくくり、城に火をかける決心をする。左馬助は“国行の名刀”“吉光の脇差”“虚堂の名筆(墨跡)”等を蒲団に包むと秀吉軍に大声で呼びかけた。「この道具は私の物ではなく天下の道具である!燃やすわけにはいかぬ故、渡したく思う!」と送り届けさせた。「それでは、光秀公の下へ行きますぞ」左馬助は光秀の妻煕子、娘倫子を先に逝かせ、城に火を放ち自刃しました。&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
光秀の首はこの翌々日(17日)に本能寺に晒され、明智の謀反はここに終わった。

[脚注]

[*1]…本能寺は無防備な寺ではなく、天正8年(1580年)年http://kojiyama.net/history/?p=119525月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど、防御面にも優れた信長宿舎としての改造を施されていた。http://kojiyama.net/history/?p=119525007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっています。

[*http://kojiyama.net/history/?p=119525]…「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、江戸時代初期の『川角太閤記』が初出-『検証本能寺の変』谷口克広著。江戸時代の頼山陽の『日本外史』では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には、ごく一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもうひとつの山道・明智越を使ったと言う説もある。またルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』によれば、当時、重職以外の足軽や統率の下級武士は京都本能寺にいる徳川家康を討つものと信じていた、とされています。

天王山は軍事拠点となったことから、以降、決戦の勝敗を決める分岐点を「天王山」と呼ぶようになった。

本能寺の変の原因

中国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられたこと。など諸説あげられています。信憑性はともかく、信長の革新的な様々な政策は、光秀の家臣団に受け入れがたい点もあったと考えられています。信長の軍団・柴田勝家の北陸統治に見られるように、武士団にとって簡単に国替えを行うことは大きな負担と不安を与える事が考えられます。しかし、この国替えは信長自身も数度行っており、信長はそれらを解決するために家族そのものの移住等を行い、その度にその国を発展させてきましたが、信長にとっては大したことでなくとも家臣にとっては難しい問題であって摩擦の原因となった可能性はあります。明智氏やその家臣、従者に関わる口伝などはいくつか伝わっており、資料の少ない考証については、従来日の目をみることがなかったこうした信憑性を確定できない資料の分析を行っていく必要があるようです。

光秀は信長から浪人とは思えないほど取り立てられただけではなく、石山合戦では1万5千の兵に光秀が取り囲まれていたところを、信長はわずかhttp://kojiyama.net/history/?p=119525千ほどの兵で自ら前線に立って傷を負いながら救出しています。このことからも光秀は信長からかなり眼をかけられていたようです。本能寺の変当時の光秀の領地は、信長の本拠安土と京都の周辺でhttp://kojiyama.net/history/?p=1195250万石とも50万石とも言われていますが、史上権力者が本拠地周辺にこれだけの領土を与えた事例は秀吉が弟秀長に大阪の隣地である大和に100万石を与えたくらいしかありません。この配置を見ても、信長が相当の信頼を置いていたことが窺えます(結果として、これが裏目に出てしまった)。また、『明智家法』には「自分は石ころ同然の身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という文も残っています。このことを根拠に「光秀は恩を仇で返した愚か者」と酷評する歴史研究家も存在します。

ルイス・フロイスの『日本史』に、「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評があります。秀吉については好色・女好きで知られ、多くの側室をおいていた(ルイス・フロイスは「日本史」において「http://kojiyama.net/history/?p=11952500名の側室を抱えていた」と記録している)。

高柳光寿は、著書『明智光秀』の中で、合理主義者同士、光秀と信長は気が合っただろうと述べています。光秀が信長とウマがあったのは事実で、光秀が信長を信奉していたという史料上の記述も多いようです。また、信長の方も、例えば天正七年の丹波国平定について、「感状」の筆頭に「日向守、こたびの働き天下に面目を施し候…」と讃えています。『信長公記』には他にも似たような記述が少なくありません。

光秀は努力の人であり秀才型といえます。明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたといいます。戦国武将の多くが側室を持つ中で、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。何度も主君を変わり、領国では税を低く抑えるなど善政を敷いて民衆から慕われ、歌を詠み茶の湯を愛する風流人であり、また生涯の大半の戦で勝利し自身も射撃の天才という、文武両道の名将だった。側室もなく妻一人を愛し、敗将の命を救う為に奔走する、心優しき男。織田家だけでなく、朝廷からも、幕府からも必要とされた大人物だった。物静かで教養人の光秀は、エネルギッシュで破天荒な性格の信長にとって、退屈で面白くない男であったハズ。それでも家臣団のトップとして重用するほど、才覚に優れた英傑だったのです。

一方、秀吉は、ドラマなどでは人を殺すことを嫌う人物のように描写されることの多い秀吉であるが、実際には元亀5年に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』や『信長公記』より)、天正5年に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、女・子供500人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑する(同年1月 5日の羽柴秀吉書状より)等、晩年だけでなく信長の家臣時代でも、少なくとも他の武将並みの残酷な一面があったようです。

母親の大政所への忠孝で知られています。小牧・長久手の戦いの後、必要に迫られて一時徳川方に母と妹を人質に差し出しましたが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させています。天下人としての多忙な日々の中でも、妻の北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出しており、そのうちの幾つかは現存しています。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京しましたが、結局臨終には間に合わなかった。秀吉が親孝行であったことは明治時代の国定教科書でも好意的に記述されました。

江戸時代を通じて、信長からの度重なるイジメが原因とする「怨恨説」が根拠のない創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、「怨恨説」の域を出ることはありませんでした。

こうした理解は、映画やドラマなどでも多く取り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していました。しかし、戦後は実証史学に基づく研究がすすんできました。その先鞭をつけたのが高柳光寿(野望説)と桑田忠親(怨恨説)であり、両氏はこれまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論を戦わせました。

現在ではさまざまな学説が唱えられており、光秀の挙兵の動機として怨恨(江戸時代までの怨恨説とは異なる根拠に基づく)、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていありません。また、クーデターや、信長による古くからの日本社会を変革させる急進的な動き(仏教弾圧など)への反動(反革命)とする説も多いのです。

本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば、『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、これによれば信長に対しては尊崇の念を抱いていることが伺える。また変三ヶ月前の茶会で宝をおく床の間に信長の書を架けるなど心服している様子がある。このため怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われています。しかし、それらの黒幕に関する主張は、光秀とその敵対者の双方においてなされたことはありません。

ルイス・フロイスの『日本史』には「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。従来はドラマや旧領丹波など一部の地域では遺徳を偲んでいる事などの影響か誠実なイメージがある。しかし、教養の高い文化人で線が細いといわれる光秀像と別に、フロイスの人物評や信長が「佐久間信盛折檻状」で功績抜群として光秀を上げたように、したたかな戦国武将としての姿が見えます。

織田方面軍団

  • 北陸方面:柴田勝家を方面軍総司令官として、与力に前田利家や佐々成政らを配属。
  • 中国方面:羽柴秀吉を方面軍総司令官として、与力に黒田官兵衛や蜂須賀正勝らを配属。
  • 畿内方面:明智光秀を方面軍総司令官として、与力に細川藤孝・忠興父子や筒井順慶を配属。
  • 関東方面:滝川一益を方面軍総司令官として、与力に森長可や川尻秀隆を配属。
  • 四国方面:信長の三男・信孝を方面軍総司令官として、与力に丹羽長秀や蜂屋頼隆らを配属。一方、織田政権崩壊の原因は、政権の構造的な問題より、むしろ織田信忠の自害(享年http://kojiyama.net/history/?p=1195256)が大きいとする意見もあります。すなわち、信長は本能寺の変以前に、大名としての織田家の家督は信忠に譲っており、自らは、織田・柴田・明智・羽柴・神戸(信孝)・北畠(信雄)などの「大名(信長の取立による大名)」の上に君臨する存在となっていた。そのため、配下の柴田や明智などの大名が、毛利や上杉などの信長に臣従していない大名より大きな兵力をもっていても組織としては問題がなく、むしろ合理的であったと言える。つまり織田家はすでに信長の直接指揮から外れているため、信長自らが巨大な兵力をもつことは組織としての弊害が大きいといえる(信忠が大兵力をもつのであれば問題ない)。そのため、仮に信長配下の大名の謀反により信長が倒されても、信長傘下でもっとも大勢力をもつ織田家の当主が生き残っていれば、政権が維持できる構造になっていた。従って政権崩壊の主要因は後継者の死亡との説である。いずれにせよこの時信忠が脱出できていれば、織田政権は存続した可能性が高かったという意見もあり、少なくとも個人の武名としてはともかく、織田政権の後継者としては重大な判断ミスであった。ただ、信忠が生き残れば政権が存続することを理解できたならば、信忠が脱出すれば光秀の謀反が失敗になることも同時に理解できたはずである。そのため、光秀が見逃すはずがないとの判断に至ることはむしろ自然なことといえる。結局、信忠の行動を読んで謀反を起こした光秀が上手だったのでありこの判断ミスをもって信忠の能力を判断することは難しい。鳴かないホトトギスを三人の天下人がどうするのかで性格を後世の人が言い表している(それぞれ本人が実際に詠んだ句ではない)。これらの川柳は江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』に見える。
    • 織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
    • 豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」
    • 徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」

    光秀ならこう詠んだかも・・・。

    • 明智光秀「鳴かぬなら 私が鳴こう ホトトギス」
    • 石田三成「鳴かぬなら 死なせてくれよ ホトトギス」

    ▲ページTOPへ

    明智光秀と北近畿の足取り

    明智光秀は、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を秀吉とともに領地として与えられたことからも、但馬・丹後・丹波に関わりがあります。

    • 信頼できる史料によると、永禄12年(1569年)頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務に当たったとされます。
    • 但馬は山名氏、丹波は細川氏、丹後は一色氏。
    • 朝倉義景は但馬養父郡、古族日下部氏の出自。朝倉義景の母は若狭武田氏の出、光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられています。光秀は最初、斎藤道三に仕えるも、のち越前国の朝倉氏に仕えた。
    • 足利義昭が姉婿の武田義統を頼り若狭国に、さらに越前国の朝倉氏に逃れる。
      義昭は朝倉に上洛を期待していたが義景は動かなかった。そこで義昭は光秀を通して織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるように要請しました。
    • 最初に光秀が但馬と関わりのあるとされる事件は、永禄二年(1559)、丹波福知山城主の光秀が、出石の此隅山(このすみやま)城が虚城であることを聞いて、有子山(出石)城を攻撃しようと考え、陣代として大野内膳統康・伊藤七之助次織・伊藤加助の三名をあて、進美寺(しんめいじ)に「掻上の城」を築いて、水生城(みずのうじょう)を攻撃しましたが落とせませんでしました。
    • 丹波は明智光秀によって治められ、丹後の細川氏には光秀の娘・細川忠興の室珠(洗礼名:ガラシャ)がいましました。
    • 但馬国主でのちに隠居した山名祐豊と城主となった氏政が出石城(有子山城)が築城間もない天正三年(1575)十月、となりの丹波国黒井城主荻野直正が軍を率いて但馬に侵入し、朝来の竹田城と出石の有子城を攻めたとき、信長に助けを求めて部下の光秀を派遣して、奪われていた竹田城を取り戻し黒井城に入った直正を攻めています。
    • 天正7年(1579年)、光秀は近畿各地を転戦しつつ、4年越しで丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担当し、ついに波多野秀治を下して畿内を平定しました。
    • この功績によって近江滋賀郡および丹波一国を与えられ、丹波亀山城・横山城・周山城を築城しました。京に繋がる街道の内、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられたことからも、光秀が織田家にあって最重要ポストにあったことが伺えます。
    • 丹波一国拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられた。近年の歴史家には、この地位を関東管領になぞらえて「山陰・畿内管領」と呼ぶ者もいます。天正9年(1581年)には、京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃え」の運営を任された。
    • 現代に至る亀岡市、福知山市の市街は、光秀が築城を行い城下町を整理したことに始まる。亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われています。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっています。
      そして、秀吉の但馬征伐が二回(1577、1580)にわたって行われます。
    • 秀吉→山陽方面・山陰方面
    • 光秀→丹波・山陰方面

    ▲ページTOPへ

    丹波平定と黒井城の戦い

    さほど有名ではありませんが、戦国時代に八上城の波多野氏は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて山城など周辺諸国に進出したこともあります。

    丹波国では、元亀元年(1570年)、上洛していた織田信長に赤井直正(荻野直正)と赤井忠家は拝謁し織田方につくことを約束しました。織田信長はこれに対して氷上郡(ひかみぐん・兵庫県丹波市)、天田郡(あまたぐん・福知山市)、何鹿郡(いかるがぐん・福知山市/綾部市)の丹波奥三郡を安堵しました。
    これで丹波国は安定するかに思えたのですが、翌元亀(1571年)11月、此隅山城(出石町)城主・山名祐豊(すけとよ)が家来、夜久野城(山東町)城主・磯部豊直らと、氷上郡にあった足立氏の山垣城(青垣町)を攻めました。黒井城の赤井直正と赤井忠家はこの動きに即応し、山垣城に救援に向かい、山名祐豊、磯部豊直両軍を撃退しました。その後、勢いにのって、但馬国の竹田城を攻城し手中に収めると、次は山名祐豊の本拠地である此隅山城に迫りました。

    このような状況になり、山名祐豊は織田信長に援軍を要請しました。織田信長は当時信長包囲網にあい、援軍を出せる余裕はなかったのですが、越前一向一揆が一段落した天正年(1575年)、明智光秀を総大将に丹波国征討戦に乗り出すことになります。織田信長としてみれば、毛利元春を討つ前に京に近い丹波国を平定し、背後の憂いを削ぐのが目的だったと推察されています。
    明智光秀は越前国より坂本城に帰城し、戦の準備を整えて同年10月初旬に出陣したと思われています。この時赤井直正は竹田城にいましたが、明智光秀の動きを察知し黒井城(兵庫県丹波市春日町黒井)に帰城、戦闘態勢を整えました。織田信長は、同年10月1日、丹波国人衆に向けた朱印状を出し、その調略によって八上城の波多野秀治をはじめ、国人衆の大半を取り込んでいきました。

    明智光秀は圧倒的兵力で黒井城を包囲しました。この時の状況を『八木豊信書状』によると「城の兵糧は来春までは続かないで落城するであろう」と観測を述べ、スムーズに戦がすすんでいました。戦況は明智光秀に有利であり、攻城戦はhttp://kojiyama.net/history/?p=119525ヵ月以上となった翌天正4年(1576年)1月15日、波多野三兄弟による裏切で方向から攻め立て明智光秀軍は総退却してしまいました。

    『甲陽軍鑑』によると「名高キ武士」として、

    • 徳川家康&
    • 長宗我部元親
    • 赤井直正

    と並び紹介されているほどの武将でした。

    大敗した明智光秀軍は京に逃げ込み、その後坂本城に帰城しました。先の戦いから1ヶ月後、再び戦の準備を整え、同年http://kojiyama.net/history/?p=119525月18日に坂本城を出陣し丹波国に入国しましたが、この時はほとんど戦わず短期間で引き揚げてしまいました。その後、一方、この戦いで織田信長軍に土をつけたことで赤井直正は「丹波の赤鬼」という名を広め、全国の武将から一目おかれる存在となっていきます。

    再び明智光秀が黒井城を攻城するまで約1年半の月日が流れ、この間明智光秀は畿内を転戦します。石山本願寺攻め、加賀攻め、信貴山城の戦いなど明智光秀軍は「遊撃軍団」だったと思われます。
    その間、赤井直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていました。足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者、跡部大炊助や長坂長閑斎、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っています。

    天正5年(1577年)10月、第二次丹波国征討戦を開始します。まず明智光秀軍は、多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城 (丹波国)を落城させました。この二城を丹波国征討戦の本拠地としました。第一次丹波国征討戦と違い、明智光秀軍は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく個別撃破戦略をとりました。織田信長は細川藤孝、細川忠興親子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)に八上城と氷上城の包囲を完成させます。

    一旦は明智光秀を裏切った丹波国の国人衆は、二城が陥落し、赤井直正が死去、八上城を攻囲するのを見ると再び明智光秀に降っていきました。赤井家では赤井直正の弟の赤井幸家が後見となり統率することになります。
    さらに織田信長は同年4月に羽柴秀長軍と明智秀満軍の増援を送り込み、八上城、黒井城の支城を次々と落城していきました。明智光秀は攻囲中に、軍勢を八上城に置きながら別所長治や荒木村重の謀反にも対処しています。
    明智光秀、細川藤孝らは同年10月http://kojiyama.net/history/?p=1195254日安土城に凱旋し、織田信長に拝謁し丹波国が平定できたことを報告します。その翌天正7年(1579年)織田信長は丹波国を明智光秀に、丹後国を細川藤孝に与えることになりました。

    ▲ページTOPへ

    3.波多野氏(はたのし)

    波多野氏は、波多野秀長の代に応仁の乱で細川勝元方に属し、その戦功により丹波多紀郡を与えられたのが丹波に勢力を扶植した始まりで、政元にも仕えて以後、波多野一族はこの地を中心に丹波一円へ勢力を伸ばしました。
    秀長の子で英君といわれる波多野稙通は永正1http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1515年)、朝治山に八上城[*1](兵庫県篠山市)を築城し、ここを本拠として守護代である内藤氏を討ち、さらに細川氏の勢力を駆逐して、戦国大名として独立を果たしました。

    稙通の孫で波多野秀治は三好氏の勢力が衰えると再び独立を果たし、永禄9年(1566年)には八上城を奪回しました。永禄11年(1568年)に織田信長の上洛の際、赤井直正とともに信長に1度は降伏します。天正http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1575年)からは反織田勢力である丹波の諸豪族を討伐するために信長が派遣してきた明智光秀の軍に加わって織田家のために働きますが、天正4年(1576年)1月に突如として足利義昭の信長包囲網に参加して光秀を攻撃し、撃退してしまいました。このため、秀治は信長と敵対します。

    一時は織田軍を撃退したものの、天正7年(1579年)、遂に秀治は降伏しました。その後、秀治は弟の波多野秀尚とともに信長によって処刑され、戦国大名としての波多野氏は滅び去りました。


    [*1]…この合戦で、明智光秀の母(伯母とも)が磔(はりつけ)になった城としても知られる(後世の創作という説もある)。
    4.赤松氏

    嘉吉元年(1441年)、赤松満祐・赤松教康父子が結城合戦の祝勝会で、第6代将軍・足利義教を謀殺するという嘉吉の乱が起こし、それにより赤松氏は山名持豊(山名宗全)を中心とした幕府軍の追討を受け、満祐と教康は殺され、赤松氏本流は没落しました。領地は功により山名氏に引き継がれました。しかし、赤松政則のときに再興を果たし、応仁の乱では細川勝元に与し、その功により播磨・備前・美作のhttp://kojiyama.net/history/?p=119525ヶ国を領する大大名にまで返り咲き、長享http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1488年)には山名氏の勢力を播磨から駆逐しました。

    戦国時代に入ると、政則の子・赤松義村が家臣の浦上村宗に殺され、さらにその子・赤松晴政は村宗に傀儡(かいらい)として擁立されるなどして赤松氏は内紛により衰退していきます。さらに一族であり家臣でもあった別所氏に独立されたり、尼子氏の侵攻を受けるなどして悪条件が重なってさらに衰退が促進されました。
    このため、本拠を置塩城(おきしおじょう)に移し、晴政の子・赤松義祐は当時の天下人である織田信長と同盟を結ぶなどして勢力回復を図りますが、浦上宗景との戦いに敗れて結局は没落しました。義祐の子・赤松則房の時代には豊臣秀吉の家臣となり、天正11年(158http://kojiyama.net/history/?p=119525年)にわずか1万石を安堵されるにすぎない小大名にまで没落してしまいました。

    秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで則房の子・則英は西軍に与したため、自害を余儀なくされてしまいました。同じく赤松一族で但馬竹田城城主・斎村政広も西軍から東軍に寝返ったものの、西軍に与した宮部長房の居城・鳥取城を攻めるときにあまりに手ひどく城下町を焼き払ったために、徳川家康から戦後、これを理由に自害(この件に関しては寝返りを促した亀井茲矩に責任転嫁された冤罪説が強い)を命じられてしまい、これにより大名としての赤松氏は滅亡したのです。
    ▲ページTOPへ

    5.三木合戦と別所長治

    室町時代中期以降、嘉吉の乱により主家の赤松氏と共に別所氏も一時衰退しましたが、応仁の乱により赤松氏が勢力を回復すると別所則治は三木城を築き初代城主となりました。そのため則治は別所氏中興の祖と言われています。
    則治の孫・別所就治の時代に主家の赤松氏とその守護代である浦上氏が対立して赤松氏の勢力が衰退の一途をたどり始めると、就治は東播三郡を支配下に置いていたことを背景に赤松氏から独立し、戦国大名として名乗りを上げます。
    就治は武勇に秀でたことから、その後は三好氏や尼子氏の侵攻を次々と撃退して勢力を拡大し、東播八郡(美嚢郡、明石郡、加古郡、印南郡、加西郡、加東郡、多可郡 、神東郡)を支配する別所氏の最盛期を築き上げました。

    別所氏は早くから織田信長に従っており、家督を相続した長治も天正http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1575年)10月に信長に謁見、翌年も年頭の挨拶に訪れています。しかし、就治の孫・別所長治のときに信長が中国の毛利氏を制圧しようとすると、それに呼応して先鋒の役を務めようとしましたが、中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、妻の実家である丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆しました。多くの周辺勢力が同調、従わなかった勢力も攻め、東播磨一帯が反織田となります。

    長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、さらに荒木村重の謀反や毛利氏の援軍などの好条件も続いて、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の有名な「三木の干し殺し」戦法に遭い、この三木合戦の際には神吉城(かんきじょう・印南郡・加古川市)、志方城(印南郡)、淡河城(美嚢郡)、高砂城(加古郡)、端谷城(明石郡)など東播磨各地の城は支城として別所方に従いましたが、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから二年後の天正8年(1580年)、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害して果てたといいます。享年、。但し「信長公記」ではhttp://kojiyama.net/history/?p=1195256とされています。

    別所重宗(重棟)は、甥の別所長治に信長に降伏するように進言しましたが容れられなかったため、甥のもとから去って秀吉の家臣となった人物で、天正13年(1585年)8月に八木城主(養父市八鹿町八木)に任命されました。しかし後に長男の別所吉治(ただし長治の子という説がある)に家督を譲って隠居した重棟は、天正19年6月に死去しました。

    後を継いだ吉治は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては西軍に味方して細川幽斎が守る丹後田辺城(舞鶴市)を攻めたため、戦後に改易され、大坂を流浪しました。しかし吉治の伯母が徳川秀忠の乳母であったことから、後に罪を許されて藩主として再起することを許されたのです。

    吉治は大坂の陣で徳川方として武功を挙げたことから、丹波国内に5000石を加増されてhttp://kojiyama.net/history/?p=119525万石の大名となりました。しかし寛永5年(1628年)5月 日、吉治は病を理由に参勤交代を行なわず、その実は病ではなく狩猟して遊んでいたことが露見して、幕命により改易されてしまい、大名家としての別所氏は滅亡しました。

    慶安元年(1648年)、息子の別所守治は赦免され、のち1000俵を与えられ、子孫は700石の旗本として存続しました。吉治は息子の下で余生を過ごしました。
    ▲ページTOPへ

     

    6.荒木村重

    明智光秀より4年前に織田信長に反逆を起こした武将として有名です。
    天文4年(15http://kojiyama.net/history/?p=1195255年)、摂津国池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕え池田長正の娘を娶り一族衆となります。しかし三好三人衆の調略にのり池田知正とともに三好家に寝返り知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握します。
    その後織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(157http://kojiyama.net/history/?p=119525年)、茨木城主となりました。同年、信長が足利義昭を攻めたとき、宇治填島城攻めで功を挙げました。天正http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1574年)、伊丹城主となり、摂津一国を任されました。その後も信長に従って、石山本願寺攻め、紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げました。

    天正6年(1578年)10月、村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻しました。一度は翻意し釈明のため安土に向かいましたが、途中寄った高槻城で家臣の高山右近から

    「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻りました。織田軍羽柴秀吉は、村重と旧知の仲でもある黒田孝高(官兵衛)を使者として有岡城に派遣し翻意を促しましたが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁してしまいました。その後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦しましたが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となりました。

    天正7年(1579年)9月http://kojiyama.net/history/?p=119525日、村重は単身で有岡城を脱出して尼崎城へ、次いで花隈城(神戸市)に移り(花熊城の戦い)最後は毛利氏に亡命します。

    落城した有岡城の女房衆1http://kojiyama.net/history/?p=119525http://kojiyama.net/history/?p=119525人が尼崎近くの七松において惨殺され、

    「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。」

    と記されるほどの残虐な様子だったといいます(信長公記)。

    1http://kojiyama.net/history/?p=119525月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族のhttp://kojiyama.net/history/?p=1195256人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。立入宗継はその様子を「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也」と記しています(立入左京亮宗継入道隆佐記)。その後も信長は、避難していた領民を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追求していきました。天正9年(1581年)8月17日には、村重の家臣を匿いそれを追求していた信長の家臣を殺害したとして、高野山金剛峯寺の僧数百人が虐殺されました。

    &#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
    &#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
    天正10年(158http://kojiyama.net/history/?p=119525年)6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住します。そして豊臣秀吉が覇権を握ると、大坂で茶人・荒木道薫として復帰を果たし、千利休らと親交をもちました。はじめは妻子を見捨てて逃亡した自分を嘲って「道糞」と名乗っていましたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われています。銘器「荒木高麗」を所有していました。天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。享年5http://kojiyama.net/history/?p=119525。
    ▲ページTOPへ

    7.黒田官兵衛

    天正八年(1580年)正月、三木城(兵庫県三木市)を落した秀吉が三木城に移ろうとした時、黒田孝高(官兵衛・如水)は姫路城を秀吉に譲り、代わり宍粟郡を与えられ篠の丸城に入りました。このころ、主家の小寺氏は没落しており、官兵衛は信長の命で小寺姓を棄て、黒田の名乗りに戻っています。

    以後、官兵衛は秀吉の幕下にあって、天正九年六月に因幡国鳥取城を包囲し、同年七月に淡路・阿波(徳島県)を攻略、十一月には淡路由良城主安宅河内守を攻略し、淡路を平定しました。翌天正十年(158http://kojiyama.net/history/?p=119525)、毛利氏と雌雄を決せんとする秀吉に従って備中国に出陣しました。四月、清水宗治が守る備中高松城を包囲しました。ここで、官兵衛が秀吉に水攻めの策を献じたことから、史上有名な「備中の水攻め」となりました。

    ところが水攻めも大詰めとなった六月、本能寺の変で信長が光秀に殺害されてしまいました。この知らせを聞いた秀吉は放心の体でしたが、官兵衛は秀吉にそっと「上手になされませ」と囁きました。それを聞いた秀吉は、何もいわず官兵衛を見返したといいます。そのとき官兵衛は、さかしらな(利口ぶった)失言をなしたことを思い知ったのでした。

    ともあれ、毛利氏との和議が進められ、城将清水宗治が切腹することで高松城の戦いは終わりました。かくして、史上に残る秀吉の大返しが行われ、山崎の合戦で光秀を討った秀吉が天下取りに躍り出たのでした。その後も孝高は秀吉の帷幕にあって、賤ケ岳(しずがだけ)の合戦、小牧の戦いなど、秀吉の天下取りの合戦において多くの軍功をがげました。そして、天正十五年(1587)九州征伐の先陣をつとめ、戦後の行賞において豊前国内(福岡県東部)のうち六郡十二万石を与えられました。有名な「黒田節」
    ▲ページTOPへ