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明智光秀と細川ガラシャ
1.丹後平定と細川藤孝(幽斎)
田辺城城門
丹後国は元々一色氏が守護を務める国でしたが、天正7年(1579年)、細川藤孝(幽斎)は明智光秀とともに反信長連合の一角だった一色氏らを滅ぼし、丹後国・丹波国を制圧し功績を挙げました。藤孝は恩賞とし丹後一国を与えられ田辺城を築き、田辺(舞鶴)を拠点に丹後一国を治めました。
その後、天正10年(1582年)6月2日に、嫡男の忠興が明智光秀の娘玉(のちガラシャ)を迎え親戚関係にあった明智光秀が本能寺の変を起こし、光秀から藤孝(幽斎)自身も加担するよう誘われますが、反光秀の立場を貫き、羽柴秀吉から丹後の本領を安堵されています。しかし藤孝(幽斎)は、光秀の裏切りの責任をとる形で嫡男の忠興に家督を譲って隠居しました。その際、隠居城として宮津城を築き、丹後舞鶴から移りました。
天守閣跡
慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こりました。細川忠興は家康に従っており、幽斎は僅かな兵とともに田辺城の留守を守っていました。そこへ、大坂方の大軍が攻め寄せたが、幽斎は屈することなく六十日間にわたって城を死守しました。藤孝は『古今和歌集』の秘伝を三条西実条から、『源氏物語』の秘伝を近衛稙通より伝授されていました。藤孝の死によって歌道秘訣の絶えるのを恐れた後陽成天皇によって、包囲軍は田辺城から撤退となったのです。その筋書きは、藤孝が京の公卿衆を動かして書いたものだと伝えられています。
しかし、関ヶ原の戦い時には、ふたたび舞鶴城に戻り、留守中の息子の代理を務めました。
戦後、細川忠興は関ヶ原の合戦の功により、慶長5年(1600年)、細川氏は豊前国中津藩(福岡県東部)へ転封されました。かわって信濃国飯田より、京極高知(きょうごくたかとも)が田辺城に入城しました。
一躍、豊前一国と豊後の内速水・国東両郡併せて三十九万九千石を拝領しました。幽斎も田辺城における功を賞され、別に隠居料として六千石を与えられました。こうして、細川幽斎は、慶長十五年、七十七歳を一期として世を去りました。文字通り、激動の時代を生き抜いた幽斎は、人生の達人といえる人物であったといえるでしょうか。幽斎のあとを継ぎ、豊前の大大名となった忠興は三斎と号し、『細川三斎茶書』といった著書もあり、利久七哲の一人に数えられるほどの文化人でもありました。忠興も逸話の多い人物だが、ガラシャとの関係は世に有名なところです。忠興のあとはガラシャとの間に生まれた忠利が継ぎ、寛永九年(1632)、加藤氏が改易されたのちの肥後国(熊本県)に転封されました。以後、細川氏は肥後一国を領して明治維新に至りました。
細川幽斎(藤孝)
細川幽斎は、天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員の次男として京都東山に生まれる。天文9年(1540年)、7歳で伯父である和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄)の養子となりました。初め幕臣として13代将軍将軍義輝に仕えますが、永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺されると、幽閉された義輝の弟・一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)を兄・三淵藤英らとともに救出し、近江の六角義賢、若狭の武田義統、越前の朝倉義景らを頼って義昭の将軍擁立に尽力しますが、その後、朝倉氏に仕えていた明智光秀を通じて尾張の織田信長に従うこととなります。天正6年(1578年)、信長のすすめによって嫡男・細川忠興と光秀の娘・玉(細川ガラシャ)を娶ります。
天正8年(1580年)に単独で丹後に進攻するも守護一色氏に反撃され失敗、光秀の加勢によってようやく平定に成功し、信長から丹後11万石を与えられ宮津城を居城とし丹後宮津11万石の大名となります。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は織田の山陰道平定軍の上司であり親戚でもある明智光秀の再三の要請を断り、剃髪し幽斎玄旨と号して隠居、細川忠興に領土を譲りました。
後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世細川氏の祖となりました。また、幽斎は千利休らとともに秀吉側近の文化人として寵遇され、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け近世歌学を大成させた文化人としても知られています。
嫡男の忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。一方、徳川家康とも親交があり、
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近しました。
細川忠興は、天正10年(1582年)6月、義父・明智光秀が本能寺の変を起こし藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、織田信澄とは異なり父子は誘いを拒否したうえ、玉子を丹後の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建っている。細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれている。忠興はこのとき、父が隠居したので領国を譲られて丹後宮津城主となりました。
慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津(上杉景勝)征伐に軍勢を引きつれて参加し、7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興夫人・ガラシャは包囲された屋敷に火を放って家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて亡くなりました。
幽斎は500に満たない手勢で丹後田辺(舞鶴)城を守りました。田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されましたが、幽斎が指揮する籠城軍の抵抗は激しく、また攻囲軍の中に幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲が乏しかったこともあり長期戦となりました。ようやく、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入りました。
関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の有力大名であるうえ、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われていわれています。
前線で石田三成の軍と戦い、戦後の慶長7年(1602年)、家康から豊前中津藩39万9000石に加増移封し、その後豊前40万石の小倉藩に移り、小倉城を築城しました。かわりに京極高知が丹後一国12万3千石を与えられ仮に田辺城に入城したが、宮津城を再築し宮津城へ本拠地を移しました。
幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれています。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、徳川方として参戦する。ただし、大坂冬の陣には参戦していない。元和6年(1620年)、三男の細川忠利に家督を譲って隠居する。この頃、出家して三斎宗立と号した。
寛永9年(1632年)、忠利が肥後熊本藩54万石の領主として熊本城に移封されると熊本の南の八代城に入り北の丸を隠居所としました。
細川ガラシャ夫人隠棲地
細川ガラシャ(俄羅奢)、永禄6年(1563年) – 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、明智光秀の三女で織田信澄室、細川忠興の正室。諱は「たま」(珠、玉)または玉子(たまこ)。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。子に、於長(おちょう:1579年生、前野景定室)、忠隆(1580年生)、興秋(1584年生)、忠利(1586年生)、多羅(たら:1588年生稲葉一通室)などがいます。明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも「細川ガラシャ」と呼ばれる場合が多いですが、前近代の日本は夫婦別姓であり、北条政子・赤橋登子・日野富子などの例に照らせば、本名は「明智 珠」が正しいようです。 永禄6年(1563年)、明智光秀と妻煕子(ひろこ)の間に三女(四女説もあります。ただしこの場合、長女と次女は養女であり、実質は次女となる)として越前国で生まれましました。
天正6年(1578年)、15歳の時に父の主君、織田信長のすすめによって坂本城より、勝(青)龍寺(京都府長岡京市)城主細川藤孝(幽斎)の息子忠興に嫁ぎました。珠(たま)は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆後の長岡休無)が二人の間に生まれましました。
しかし天正10年(1582年)、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となります。忠興は珠を愛していたがために離縁する気になれず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉します。この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(公家清原枝賢の娘)らの侍女達でしました。
珠の幽閉先とされる場所ですが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実です。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」があります。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられます。
細い山道を苦労して標高400mの地にたどりつくと、すっかり日が暮れて記念碑は見ることができませんでした。女城跡に建てられている弥栄町の案内板によると、「味土野は、御殿と書かれていた時期もあり、現在の記念碑が建立してある平坦面にガラシャの居城があったといわれています。谷の周囲には、現在でも矢に使う矢竹が確認でき、また樹の下にある観音堂の台石はガラシャが信仰した場所と伝えられています。この他にも古井戸、蓮池跡などガラシャの足跡を現在に伝える伝承や遺跡が多く残っています。
山深い味土野の里にある細川ガラシャ夫人の隠棲地(女城跡)(いんせいち)は、ガラシャ夫人の父・明智光秀が本能寺の変を起こした天正十年から十二年(1582~1584)までの二年間、ガラシャ夫人が幽閉されていた場所である。また、谷を挟んだ向かいの丘陵は「男城跡」(おじろあと)で、ガラシャ夫人に付き従った家来達の居城の跡と言われている。
調査者 上智大学文学部教授 ヘルマン・ホイヴェルス東京女子高等師範学校長 下村 壽一女城跡 御殿屋敷ともいわれ、細川ガラシャ夫人の城跡男城跡 女城と谷を隔てた向かい側の尾根にあり、当時細川ガラシャを警護するために作られた城」
キリスト教徒へ
天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻しました。この年に興秋が生まれています。これらの人生の変転の中で、珠はカトリックの話を聞き、その教えに心を魅かれていきましました。天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれましましたが、病弱のため、珠は日頃から心配していましました。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣し、彼女は意を決してカトリックの教えを聞きに行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は修道士にいろいろな質問をしました。そのコスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べています。
教会から戻った珠は大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けましました。しかし、後に秀吉はバテレン追放令を出し、大名が許可無くキリスト教を信仰することを禁じた。忠興は家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒し、改宗した侍女の鼻を削ぎ、追い出しましました。
幸いにもガラシャは発覚を免れましましたが、拠り所を失ったガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説いた。それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったといいます。
壮絶な最期
関ヶ原の戦いが勃発する直前の慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、石田三成は、徳川家康が上杉討伐に兵を起こした際に、これに従った細川忠興を始めとする大坂城下に屋敷を構える家康方の大名から、人質を取ることを企て、まず細川家屋敷に軍勢を差し向け、大坂玉造の細川屋敷にいた彼女を人質に取ろうとしましましたが、ガラシャはそれを拒絶しましました。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて死んだ(偕成社刊『偉人の話』では“首を打たせた”の記述あり。キリスト教では自殺は大罪であり、天国へは行けないため)。38歳。辞世の句として、「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠みましました。こののち、小笠原はガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃しましました。ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬りましました。細川忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬しました。他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがあります。
なお細川屋敷を三成の兵に囲まれた際に、ガラシャは世子細川忠隆の正室で前田利家娘の千世に逃げるように勧め、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れましました。しかし、これに激怒した忠興は忠隆に千世との離婚を命じ、反発した忠隆を勘当廃嫡してした(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。
細川ガラシャ夫人は、日本の歴史の大きなうねりの中に、その名を残す数少ない女性の一人で、大変な美人であったと言われています。苦難の生活を送りながらも自己の尊厳と人間愛を貫き通し、女性であることの誇りを守り、常に世の中の平和を祈り続け、波乱に富んだ生涯を送った人でありました。
戯曲「気丈な貴婦人」
ガラシャをモデルにした戯曲「気丈な貴婦人」(グラーシャ)の初演は神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーナ皇后の聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にイエスズ会の劇場でオペラとして発表されましました。ガラシャの死はヨーロッパでは殉教死と考えられました(「武士道」と言う観念、武家社会の礼法が理解されない為)。その戯曲の中でのガラシャは、夫である野蛮な君主の非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心さるという解釈になっています。この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君達に特に好まれたとされ、彼女達は政治的な理由で他国に嫁がされるガラシャを自分達の身の上に重ね、それでも自らの信仰を貫いた気高さに感銘を受けたと言う。エレオノーレ・マグダレーナ、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリーザベトなどの生き方にも尊敬と感銘を受け深く影響を与えたと言われています。
カトリック宮津教会
洗者聖ヨハネ天主堂ともいわれ、フランス人のルイ・ルラーブ神父が1896(明治29)年に造った木造の教会で、毎週ミサの捧げられる現役の聖堂としては、日本で最も古いものとされています。
内部の床は畳敷きという和洋折衷のロマネスク風様式の教会、堂内を明るく照らすステンドグラスはフランスから輸入したもので、1280枚あります。 この教会は観光施設ではなく多くの方が礼拝に訪れる宗教施設です。。
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