歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
山名氏家臣 ここでは四天王として名高い垣屋、日下部氏系以外の主な家臣について記しています。 [但馬の城跡]
田結庄氏概要 大きな地図で見る 鶴城 豊岡市六地蔵と山本の両地区
戦国時代(1467~1568)の但馬地方の守護大名である山名氏の家臣のうち、四天王といわれた武将に、垣屋、太田垣、八木、田結庄の四氏があり、それぞれ但馬の各地に城を構えていました。
その四天王の一人、田結庄是義(たいのしょうこれよし)は鶴城を守っていました。豊岡市六地蔵と山本の両地区にまたがる「愛宕山」がその昔の鶴城です。この田結庄ともう一人の武将、垣屋隠岐守隆充(続成(みつなり)=光重・楽々前城主=日高町佐田)[*1] との間に、天正年間、大きな戦いが行われ、その結果、田結庄氏が滅ぶことになったのですが、その下りは後ほどお伝えします。田結庄氏は、但馬国城崎郡田結郷田結庄(豊岡市田結)を本貫とする中世豪族でした。田結(たい)は、円山川が日本海の注ぐ河口で、海水浴で知られる気比ノ浜の東に位置する漁村です。わかめ漁などがさかんです。
田結庄は「たいのしょう」と読み、出自は桓武平氏であったといわれますが、その世系については詳らかではないようです。
越中次郎兵衛盛嗣 気比ノ浜
『田結庄系図』によれば、桓武天皇の子で桓武平氏の祖、皇子葛原親王(かずらわらしんのう)の後裔とみえ、七代後の平 盛嗣(盛継 たいら の もりつぐ 生年不詳 – 建久5年(1194年))、通称は越中次郎兵衛盛嗣がいました。平安時代末期の平家方の武将です。父・平盛俊(たいらのもりとし)同様平家の郎党として勇名を馳せました。
『平家物語』では「越中次郎兵衛盛嗣」の通称で呼ばれ、平家においてその豪勇を称えられる名将でした。源氏との数々の戦に参戦し、屋島の戦いでは源義経の郎党である伊勢三郎義盛(さぶろうよしもり)との詞戦(簡単に言えば嘲笑合戦)の逸話を残しています。
能登守教経(のとのかみのりつね)が、越中次郎兵衛盛嗣を引き連れて小船に乗り込み、焼き払った総門前の渚に陣取りました。侍大将である盛嗣が、船の上に立って大声で言うには、「さきほどお名乗りになったのは耳にしたが、遠く離れた海の上であったのではっきりと分からなかった。今日の源氏の大将はどなたでおはしますか」。そこで、伊勢三郎義盛さまが馬を歩ませ、「言わずと知れた清和天皇(せいわてんのう)(平安前期の天皇、源氏の先祖)十代の御子孫、鎌倉殿(かまくらどの=源頼朝)の御弟、九郎太夫判官殿(源義経)であるぞ」とおっしゃいました。
すると敵が 「そう言えば思い出した。平治の合戦で父を討たれて孤児になったが、鞍馬(くらま:京都)の稚児(ちご)になって、その後はこがね商人の家来になり、食べ物を背負って奥州へ落ちぶれ去ったという若ぞうのことか」
と失礼なことを申します。そこで義盛さまが「軽口をたたいて、わが君のことをあれこれ申すな。そういうお前らは、砥波山(となみやま)の戦いに追い落とされ、あやうい命を助かって北陸道をさまよい、乞食をして泣く泣く京へ上がった者か」。
すると敵が重ねて言うには、「そういうお前たちこそ、伊勢の鈴鹿山で山賊をして妻子を養い、暮らしてきたと聞いておるぞ」と。
そこで、金子十郎家忠(いえただ)さまが、「お互いに悪口を言い合っても勝負はつかぬ。去年の春、一の谷での戦いぶりは見たであろう」と、おっしゃる横から、弟の親範(ちかのり)さまが敵に向かって矢を放ちました。その矢は、盛嗣の鎧(よろい)の胸板に、裏まで通すほどに突き刺さったのでした。寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、残党狩りの結果、平家の子孫は絶えたと思われましたが、彼は自害を快く思わず、平盛久らと共に京の都に落ち延びます。都では平家の残党狩りが厳しく行われていたため、但馬の国に落ち延びます。その後但馬国で潜伏生活へ入りました。盛嗣は城崎郡田結郷気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われています。その後盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っていました。道弘は婿が越中次郎だとは知らなかった。けれども、錐(キリ)を袋の中に隠してもその先が自然と外へ突き出てしまうように、夜になると舅の馬を引き出して、馬を走らせながら弓を引いたり、海の中を十四、五町から二十町(1町=約109メートル)も馬で泳ぎ渡ったりしているので、地頭・守護は怪しんでいました。そのうちどこからかこの事が漏れたのだろう、鎌倉殿から文書が下されました。源氏側は盛嗣の行方を厳しく追及しており、源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦め(縛る)ても誅して(殺して)もまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したとされる記述が『平家物語』(延慶本)にもあります。諸説あるものの、そのころ盛嗣は、忍んで度々京に上り、旧知の女の許へ通っていました。やがて女に気を許した盛嗣は、女に自分の居所を教えてしまいます。ところが、この女には他にも情夫がおり、女は情夫が「盛嗣を捕らえて勧賞をもらいたいものだ」と言ったのを聞き、「わらわこそ知りたれ」と洩らしてしまったのです。
「但馬国の住人、朝倉太郎大夫高清 、平家の侍である越中次郎兵衛盛次が但馬国に居住していると聞く。捕らえて身柄を引き渡せ」との命を受けました。気比四郎は朝倉太郎の婿であったので、朝倉は気比四郎を呼び寄せて、どのようにして捕まえるかと相談した結果、「浴室で捕まえよう」という事になりました。
越中次郎を湯に入れて、ぬかりのない者五、六人を一度に突入させて捕まえようとしたところが、取り付けば投げ倒され、起き上がれば蹴倒される。互いに体は濡れているし、取り押さえる事もできない。けれども、大人数の力にはどれほどの力持ちでも敵わないものなので、二、三十人がばっと寄って、太刀の背や長刀の柄で打ちのめして捕まえ、すぐに関東へ連れて行きました。鎌倉殿は越中次郎を前に引き据えて、事の子細を尋ねました。
「どうしてお前は同じ平家の侍であるだけではなく、古くから親しくしていた者であるというのに、死ななかったのか」
「それは、余りに平家があっという間に滅びてしまいましたので、もしや鎌倉殿を討ち取る事ができるかもしれないと、狙っていたのでございます。切れ味のいい太刀も、良質の鉄で作られた矢も、鎌倉殿を討つためにと思って用意したのでございますが、これ程までに運命が尽き果てています上は、あれこれ言っても仕方ありません」
「その気構えの程は立派なものだ。頼朝を主人として頼むのならば、命を助けてやるがどうか」
「勇士というものは、二人の主人に仕える事はありません。この盛嗣ほどの者にお心を許されては、必ず後で後悔なされるでしょう。慈悲をかけてくださるのなら、さっさと首をお取りください」
と言ったので、 「それならば切れ」と、
由井ヶ浜(神奈川県鎌倉市)に引き出して首を切ってしまいました。越中次郎の忠義の振る舞いを誉めない者はいなかったといいます。赤間神宮(山口県下関市)にある壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓七盛塚 は、江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていました。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、「耳なし芳一」の舞台でもあります。墓は、左近衛少将有盛、左近衛中将清経、右近衛中将資盛、副将能登守教経、参議修理大夫経盛、大将中納言知盛、参議中納言教盛、伊賀平内左衛門家長、上総五郎兵衛忠光、飛騨三郎左衛門景経、飛騨四郎兵衛景俊、越中次郎兵衛盛継、丹後守侍従忠房、従二位尼時子の一門が並んでいます。
平家落人伝説は、但馬でも約40ヶ所に残されていますが、唯一確かといえるのが、この越中次郎兵衛盛嗣にまつわる話です。豊岡市気比と城崎町湯島に残る2基の宝篋(ほうきょう)印塔がその供養塔と伝わっています。
さて、竹野町には宇日(ウヒ)があり、香美町香住区御崎地区は余部(あまるべ)鉄橋で知られる余部からさらに岬にあり、日本一高い所にある灯台で知られ、1185年の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の武将門脇宰相教盛(清盛の弟)らがこの地に逃れてきたと伝えられる平家落人伝説の地です。鎧(よろい)、丹後半島には平などもゆかりがありそうな地名です。いずれも田結同様に陸の孤島というべき魚村です
田結庄是義(たいのしょう これよし) 鶴城趾/豊岡市山本
違い鷹の羽* (桓武平氏後裔?)
戦国時代の田結庄氏のものではないが、後裔の方が再興された田結庄氏が用いられている家紋とのこと。武家家伝 さんより
参考略系図 称田結庄氏 越中次郎兵衛 宮井太郎兵衛尉 桓武天皇━葛原親王・・・平 盛嗣(盛継)━━盛長━━━━━盛重━━盛行━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ 鶴城主 ┃ 左近将監 左近将監 1642没 ┗━盛親━━盛敏━国盛━━重嗣・・・是義━━━━盛延 さて、盛嗣の子の盛長は一命をとりとめて田結庄に住み田結庄氏を称したといいます。盛長はその後、橋爪郷宮井(豊岡市宮井)に移り住み、宮井太郎兵衛尉盛長と称し『但馬国太田文』にも、同郷公文職、大庭庄下司職を有していたことが知られます。その後、盛長の子盛行が田結庄に帰り、ふたたび田結庄氏を称したといいます。 戦国末期には、左近将監国盛は但馬守護山名時熙に仕え、山名四天王の一人に数えられる重臣となりました。子重嗣は山名持豊に従って赤松満祐の「嘉吉の乱(1441)」に際して播磨国に出陣したと伝えられますが、それを裏付ける史料はないようです。
「応仁の乱(1467)」以前の但馬で守護山名氏に従う諸将としては、垣屋・太田垣・八木・田結庄の四天王に加えて、塩冶(えんや)・篠部・長(ちょう)、奈佐、上山・下津屋・西村・赤木・三方・三宅・藤井・橋本・家木・朝倉・宿南・田公などの諸氏が数えられています。
田結庄氏で明確な裏付けを得るのは、戦国末期の左近将監是義(これよし)です。子は田結庄盛延。是義は愛宕山((宝城山)豊岡市六地蔵・山本)に鶴城を築いて居城とし城崎郡を領し、太田垣輝延(朝来郡)、八木豊信(養父郡)、垣屋光成(気多郡)らと但馬を四分して勢力を広げました。神武山の亀城に対して鶴城と呼びます。山名氏の有子山(出石)城下に田結庄という町名が残っているのは田結庄氏の屋敷があったのが由来とされています。 平安時代に成立した「和名抄」に城崎郡内に新田、城崎、三江、奈佐、田結の5郷が記されており、田結郷は 気比庄(湯島、桃島、気比、田結、瀬戸、津居山、小島)、灘庄(今津、来日、上山、ひのそ)、下鶴井庄(三原、畑上、結、楽々浦、戸島、飯谷、赤石、下鶴井)、大浜庄(江野、伊賀谷、新堂、滝、森津)からなっています。下鶴井庄の南端であり、山名氏の本拠地である九日市守護所や此隅山城に最も近い愛宕山に城を築いたのも、納得できます。 やがて、但馬に伯耆・出雲の尼子氏[*2] が勢力を伸ばしてくると是義は尼子氏に味方しました。是義は、垣屋氏との仲が悪かったのです。それは、是義が垣屋氏勢力範囲である美含郡(竹野・香住)の併合を狙っていたからです。
永禄12年(1569年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の侵攻(第一次但馬征伐)を受けます。この侵攻を受けて祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡しました。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地に復帰しています。その後は同じく信長と手を結んでいた尼子勝久や山中鹿介らと協力して毛利輝元と戦いました。元亀3年(1572年)には宿敵である武田高信を山中鹿介と共に討ち取っています。
その後、織田信長の天下統一の過程で但馬は、織田党(山名祐豊・田結庄)と毛利党(垣屋・八木・太田垣)に分かれました。田結庄是義は織田党色を鮮明にし、竹野轟城主垣屋豊続との対立が熾烈化しました。元亀元年(1570年)毛利党色を示していた楽々前城主 垣屋続成(つぐなり)を奇襲により殺害することになります。 しかしその後、山名祐豊は天正三年(1575)春、突如として毛利氏と和睦を結んで織田氏を裏切ってしまう。これに怒った信長は、秀吉に再度の侵攻を命じました。
野田合戦と田結庄氏の没落織田方=田結庄氏と毛利方=垣屋氏との間で、代理戦争ともいわれる野田合戦 が起きます。
天正三年(1575)六月十三日、長谷村(豊岡市長谷)で、カキツバタ見物の宴会が行われている時、楽々前城主(日高町佐田)、垣屋続成(みつなり=光重・隆充)の家来が鉄砲で鳥を撃っておりますと、その弾が酒盛りをしていた田結庄是義の幕の中に落ちました。是義は大そう怒って、その垣屋の家来を召し捕らえて殺してしまいました。このことがあって、光成は是義を征伐しようと時期を狙っていました。その年の秋、10月15日、垣屋播磨守続成(光重・隆充)は、同族(親類)の垣屋駿河守豊続(亀城主、後の豊岡城)の応援を受けて、田結庄是義の出城である海老手城(豊岡市新堂、栃江、宮井境界標高215mの山上)を垣屋続成・長(ちょう)越前守らに略取します。是義の属将・海老手城主、栗坂主水は養寿院(豊岡市岩井、後の養源寺)に、お参りして留守でした。したがって城はわけなく落とされてしまいました。垣屋勢は勢いに乗って、養寿院を焼き払い、田結庄方の宮井城(豊岡市宮井)にも攻め寄せてきました。
危ないところで逃げ延びた栗坂主水は、すぐに鶴城に行き、是義に事の次第を話すと、是義は大いに驚き、「ただちに、海老手城を取り返せ」と、一門の将兵五百人を集めて、海老手城に向かいましたが、垣屋勢の援軍五百人に阻止されて、野田(豊岡市宮島付近)の沼田での大野戦となりました。この戦いを「野田合戦」といっています。野田は湿地帯のため、足中(小さなわらじ)をつけた垣屋勢に分があっただけでなかったのですが、置いた小田井神社は焼き払われました。また宮井城主の篠部伊賀守は、田結庄の旗色が悪いとみて、垣屋駿河守の軍に降参してしまいました。繰り出した垣屋の別働隊の追撃もあって、田結庄軍のうち鶴城下に帰着した者はわずか十六名であったといいます。
このようにして追いつめられた田結庄是義は、「今はこれまで」と家来とともに、ひそかに菩提寺正福寺(豊岡市日撫)にて自害し、没落していったといわれています。このとき、天正三年(1575)十月十七日と書かれています。
いま、愛宕山の南側の麓に静かに建っている宝篋(ほうきょう)印塔が是義の墓と伝えられています。 また、海老手城主、栗坂主水は、お坊さんとなり、諸国を修行した後、海老手城下の村(滝・森津・新堂あたり)で余生を送り、自分の死が近づいたことが分かると、墓の穴の正座して、鐘を打ちつつ死んでいったと伝えられています。新堂の氏神さんの境内に、立派な宝篋(ほうきょう)印塔が建っています。また、海老手城落城の時に、垣屋勢に捕らえられた十六人の武士は、打ち首にされた後、城下の森津畷にさらし首にされました。後々までこの畷を「十六畷」といったそうです。野田合戦の様子は軍記物に記されているばかりですが、1575年 (天正3年)、八木城主、八木豊信が但馬の情勢を吉川元春に報告している中で、「田結庄において、垣駿(垣屋駿河守豊続)一戦に及ばれ、勝利を得られ候間、海老手の城今に異儀無くこれをもたれ候、御気遣い有るべからず候」と記されており、その事実は裏付けられています。この合戦によって垣屋豊続は但馬を完全に毛利党に統一し、毛利氏の対織田防御ライン(竹野~竹田城)を構成する繋ぎの城として、鶴城・海老手城の両城を確保しました。そして天正8年(1580年)5月21日、山名祐豊は秀吉の因州征伐による第二次但馬征伐によって居城である有子山城を包囲される中で死去しました。ここに二百数十年続いた但馬山名氏も滅亡しました。 【資料:兵庫県大辞典など】
こうしてみると、家臣団の対抗が起きた中、田結庄氏は唯一人、主君山名氏に最後まで忠臣をとげた忠義の重臣のように見えます。しかし、下克上の時代であり、山名氏に不満を募らせた他の重鎮とは違い、それがかえって仇となったともいえます。他の戦国時代では多く見られるように、垣屋・太田垣・八木氏などが姻戚関係を深めるのとは異なり、系図からも全く姻戚関係が見当たりません。
[脚注] *1…「郷土の城ものがたり-但馬編」には隆充または光重とありますが、「但州発元記」では垣屋隠岐守隆充となっています。宿南保氏が考証された系図では隆充という名は記されておらず、豊岡市史所蔵『垣屋系図』にしたがい続成としております。 *2…尼子氏…宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の支流。南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響を持った佐々木高氏(道誉)の孫、京極高秀次男、高久が近江国甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。高久の次男、持久は宗家京極氏が守護を務める出雲と隠岐の守護代を務めて雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。孫の尼子晴久の時代には山陰・山陽八ヶ国約200万石を領する大大名にまでなった。 塩冶(えんや)氏塩冶(えんや)周防守 但馬山名氏家臣。但馬美方郡(浜坂町)芦屋城主。 播磨屋さんの武家家伝によりますと、 近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉・南北朝時代の守護大名。宇多源氏の成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に住み、子孫は佐々木氏を称しました。成頼の玄孫秀義は源頼朝を援けて活躍。長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となり、四男?氏信は京極氏の祖となりました。秀義の五男が義清で、出雲・隠岐の守護に補せられて、子孫は同地方に繁栄しました。
義清の孫出雲守護頼泰は、惣領として塩冶郡を根拠とし、塩冶左衛門尉と称しました。これが塩冶氏の祖であるとされています。貞清を経て、南北朝初期に名をあらわしたのが塩冶判官高貞です。高貞は、父のあとを継いで出雲守護となり、元弘三年(1333)閏二月、後醍醐天皇が隠岐を逃れて伯耆国船上山に挙兵すると、その召しに応じて千余騎の兵を率いて馳せ参じ、六月には供奉して入京。建武政権成立ののち、高貞は千里の天馬を献上し、その吉凶について洞院公賢・万里小路藤房らが議論したといいます。建武二年十一月、足利尊氏が鎌倉に叛すると、高貞は新田義貞軍に属して足利軍と箱根竹ノ下に戦いましたが、敗れて尊氏に降り、やがて出雲・隠岐守護に補任されました。暦応四年(1341)三月、高貞は京都を出奔、幕府は高貞に陰謀ありとして、山名時氏・桃井直常らに命じて追跡させ、数日後高貞は播磨国影山において自害しました。一説には、出雲国宍道郷において自害したともいわれています。高貞の妻は後醍醐天皇より賜った女官で、美人の聞こえが高かったため、尊氏の執事高師直が想いを寄せ、叶わず尊氏、直義に高貞の謀叛を告げ口したので、高貞は本国の出雲に帰って挙兵しようとしたのであるといわれています。
高貞没後、弟時綱の子孫から室町幕府近習衆が出ています。また京極・山名氏の被官人となったものもあるらしいです。この一族が塩冶周防守ではないかと思われます。尼子時代に尼子経久の三男興久が塩冶氏を継ぎましたが、父に背いて自刃しました。
但馬国の塩冶氏は高貞の甥・塩冶通清の四男・周防守の子・某を祖とします。但馬塩冶氏は山名氏に仕え、各文献・古文書にも「塩冶周防守」「塩冶左衛門尉」「塩冶肥前守」「塩冶前野州太守」「塩冶彦五郎」などの名が散見します。戦国時代に登場する芦屋城主・塩冶高清はその末裔であるとされます。高清は、もと出雲発祥の塩冶氏の一族で、のち但馬に移り芦屋城(新温泉町)を本拠地とし、山陰の複雑な山岳の地形を熟知し神出鬼没に兵を動かしたため、海賊の将と呼ばれた奈佐日本之介に対比して「山賊衆」と羽柴秀吉に言わしめましたが、もちろん山賊ではありません。
永禄12年(1569年)、但馬に侵攻した尼子党と織田氏の前に帰順の意を示します。 同年8月、山名豊国と通じたことに激怒した武田高信らの軍勢によって攻撃されるもこれを撃退、その後は毛利氏の傘下に入ります。
天正2年(1574年)~4年(1576年)にかけてはかつて自身を攻撃した武田高信を保護し、高信の復権と助命を毛利氏に嘆願していました。しかし、高清らの願いもむなしく武田高信は山名豊国によって謀殺されます。 後には高清自身も織田氏の侵攻には抗すべくもなく芦屋城を追われ、ついに天正9年(1581年)に吉川経家率いる毛利勢と結んで、因幡国鳥取城において織田氏の中国攻めを担当していた羽柴秀吉と対峙することになります。高清は鳥取城の北方に位置する雁金山に雁金山城を築き、奈佐日本之介の守る丸山城とともに鳥取城の兵站線を担当しました。鳥取城に対する兵糧攻めを行っていた羽柴秀吉は、鳥取城-雁金山城-丸山城のラインを遮断することが鳥取城の落城を早めることに気づき、宮部継潤に命じて雁金山城を攻撃させました。塩冶高清は宮部の手勢をよく防ぎましたが、兵糧の欠乏による兵の消耗はいかんともし難く、雁金山城は織田方の手に落ち、高清は奈佐の守る丸山城に逃れました。天正9年(1581年)10月、鳥取城中の飢餓地獄を見かねた吉川経家は、自らの命と引き替えに城兵の命を救うことを条件として、秀吉に降伏を申し出ます。これに対し秀吉は、経家の武勇を惜しんで助命しようとする一方、高清および奈佐の海賊行為を責め、二人の切腹を主張して譲りませんでした。結局、経家の自刃に先立つ天正9年10月24日、高清は奈佐とともに陣所で切腹して果てました。法名は節叟廣忠居士。
丸山城の西麓に、塩冶高清と奈佐日本之介それに佐々木三郎左衛門の3名の供養塔があります。
高清の子の塩冶安芸守やその弟の塩冶高久は、吉川氏の家臣となり防州岩国の地に移りました。
芦屋城北は日本海、東に浜坂の平野、西は諸寄(もろよせ)の港、南から幾重にも重なって迫る山脈の端、海抜200mのこんもりとした山の頂に築かれたのが芦屋城です。
築城年代はわかりませんが、南北朝のころ、因幡(鳥取県)の守護職として布施城にいた山名勝豊(宗全の第三子)から、塩冶周防守が二方郡をもらい受けたと伝えられています。城は、本丸と二の丸からなり、典型的な山城でした。
いつ果てるとも知れぬ争乱に明け暮れていた元亀三年八月(1572)、鳥取城にいた山名の家来、武田又五郎高信が、布施城の山名豊国を攻めようとしました。それを知った豊国は、井土城主・河越大和守、温泉(ゆの)城主・奈良左近、七釜城主・田公氏、芦屋城主・塩冶周防守らに早馬を出し、戦いにそなえました。兵八百騎をもってまず芦屋城に攻め込んだ武田又五郎高信は、急を知ってかけつけた付近の大名、豪族のことごとくを敵に回す結果となり、庭中(ばんなか)での戦いで戦死、因幡武田氏の滅びる原因となりました。
天正八年(1580)、羽柴秀吉(実働隊は秀長)が但馬を平定しようとしたとき、宮部善祥房を大将として芦屋城攻めがあり、大軍を持って押し寄せましたが、塩冶周防守の守りはかたく城はなかなか落ちませんでした。その話を、芦屋の方が話してくださいました。 芦屋の城はむかし亀が城といって、とても立派な城だったそうだ。
元亀年間に因幡の武田が攻めてきた時は、近くの大名もいっしょになって戦い、武田の軍勢を破ったそうだ。 塩冶の殿さんに近くの大名が味方したのは、よい大名だったからでしょう。 天正年間、秀吉の部下によって攻め落とされたが、秀吉の軍も芦屋攻めには苦労したそうだ。 大勢で城を取り囲み、いろいろの方法で攻めたが、城の中の何本もの旗が浜風になびき、それに夏だったそうで、日の光は強いし、秀吉軍は木の影や、民家の軒先に攻めるのをあきらめて、三人、四人集まり長期戦の構えをし出す有様、何回となく作戦も考えてみたがどうにもならない。本当に困り果てたそうだ。 そういう日が続いたある日のこと、何人かのお侍が坂の茶屋で相談していると、奥で聞いていたおばあさんが、「おさむらいさん、この城は亀が城といって亀が主だから、何年かかっても、どうしてもこの城を落とすことは無理ですよ。」それを聞いた何人かの侍は、この茶屋のおばあさんが城を落とす急所を知っているな、と感ずきました。それから毎日、おばあさんに聞きに来ますが話してくれません。そんな日が続いたある日、あまりにも気の毒に思ったのでしょうか、「おさむらいさん、この城を落とすのに急所が一つだけあるのですよ。」 と、話してくれましたが、それ以上どうしても話してくれない。また何日もおばあさんにお願いして、侍の熱心さに負けたのでしょう。 「この話はしてよいものか、悪いことか、わからなくなりました。その急所は、『亀の首を刀で切らなければ落ちない』」 と話してくれました。その亀の首は『坂の上』とも教えてくれました。そのおばあさんの話で秀吉の軍は、芦屋城を落とすことができたそうだ。 そのたたりでか、それ以後その茶店には男の子が生まれなくなり、そしてとうとう家も絶えてしもうたそうな。 たぶん、おばあさんが亀の首といった坂の上を通って、今でいうサイホンのようにして南の山から水を取っており、その水源を切られて水攻めにあったのでしょう。 そして宮部善祥房の手に落ちてしまいました。城主塩冶は城を捨てて因幡に逃れました。あくる天正九年、秀吉が鳥取城を攻めたとき、芦屋城主塩冶は丸山の出城で自害して果てました。 宮部善祥房が鳥取城主となってからは、芦屋城には但州(但馬)奉行がおかれましたが、関ヶ原で宮部氏が自害し、山崎家盛が摂津三田から因幡若狭に入り、弟の宮城右京進頼久に二方郡六千石を分け、芦屋城に住まわせました。それから二十年あまり宮城氏による支配が行われました。寛永四年、三代宮城主膳正豊嗣のとき、陣屋を清富に移しています。そのため芦屋城は廃城となってしまいました。 現在城下には、殿町・やかた・馬場などの小字名が残っており、芦屋の松原には塩冶周防守の碑も建っています。
篠部氏昭和42年五月二十日の各新聞の但馬地方版は「香住町月岡公園で、有馬(有間)皇子の墓が発見された。」と報じています。
有馬皇子とは、日本書紀に、斉明天皇の四年十一月五日に謀反が発覚し、捕らえられて、同年十五日には紀伊国藤白坂(和歌山県)で処刑されたと書かれておりますが、孝徳天皇第一の宮、有馬皇子のことです。
この事件は、有馬皇子が十九才のとき、大化改新の立て役者であった中大兄皇子ら改新派によって、天皇の位につけられた孝徳天皇のたた一人の遺児、有間皇子が、父天皇と同じように改新派の計略にもてあそばれ、非業の最期をとげられたことに同情してか、香住町には有間皇子の変の後日談を、次のように伝えているのです。
日本書紀では、このとき討たれたことになっているのですが、実は皇子の家来が身代わりとなって処刑され、皇子は追討に向かった者の好意によって、ひそかに丹波まで逃げのびたのです。ところが、皇子の弟宮である表米王 [*1]が但馬の国に住んでいるのを聞き、ふたたび舟で但馬をめざしました。
香住に浜に上陸した皇子は、志馬比山(しまひやま:香住駅の裏山)のあたりに隠れ住み、海部の比佐を妻にして、平和な日々を過ごしていたのです。その後も表米王と会う機会もなくこの地で亡くなり、入江大向こうの岡の上(月岡)に手厚く葬られました。
ところで、二人の間に男の子が生まれ、志乃武王と名づけました。やがて成人した志乃武王は、出石小坂の美しい娘を妻にし、天武天皇七年(678)志馬比山の山頂を切り開いて城塞を造りました。 やがて、幾年かの時が流れ、志乃武王の子孫、志乃武有徳が領主のとき、有徳は姓を篠部と改め、山頂にあった屋敷を山のふもと東方の台地に移したのです。そして、対岸の矢谷に川港を開いて、物資交易の設備を整え、中心地としたのです。
そればかりか、篠部氏の菩提寺として長見寺を建立し、要害の地としましたが、交通の便はともかくいろいろと不便なことが多かったので、当時としては前代未聞の大事業である、河川改修や耕地拡張の大工事を計画しました。
二十九年という長い年月を経て、ようやく完成しました。 この大工事によって、一日市の柳池をはじめ湿地は全部埋め立てられ、約70㌶という新しい耕地ができたのです。
このようにして、有間皇子在住以来、約五百年という長い間徳政を施し、領地内の人々から尊敬されてきた篠部氏ですが、延元元年(1336)に、篠部有信公が、祖先の法要のために長見寺に参詣されていたところを、かねてから領地のことで不和であった長井庄の釣鐘尾城主・野石源太が、この時とばかりにあらかじめ示し合わせてあった一日市の塔の尾城に合図し、一手は長見寺に、他の一手は留守で手勢の少ない館へと攻め寄せました。
この不意打ちに驚いた篠部方は、必死になって防いだのですが、何分にも敵は多勢の上に充分な戦備を整えて攻めてきたのですから、そのうち寺に火を放たれたのを見て、もはやこれまでと、有信公をはじめ主従ことごとく火の中に身を投じ、悲痛な最期をとげたのです。 留守館でも寺に火がかかったのを見て、形勢は味方に不利であることを知り、一族の北村七郎は若君を、そして日下部新九郎は姫を連れて兵火の中を脱出したのですが、姫は逃亡の途中、姫路山のふもとで敵の矢に当たって倒れ、若君もまた、乱戦の内に行方不明となり、さすが名門を誇った篠部氏もついにその力を失いました。その後、行方不明であった若君は首尾良く落ちのび、奈佐(豊岡市)宮井城主・篠部伊賀守のところに身を寄せていたのですが、お家再興の望みもうまくいかず、のちに京都に移り住んだと伝えられています。 [*1] 表米王…但馬国の古豪族、日下部氏の祖とされている。
丹生氏(にゅうし)「上計(あげ)のお殿さんは、四十二の祝いの餅をのどにつめて死んだのだそうな。」 この話は、柴山地区の人ならみんな物心がついたころから聞かされる話です。日本海有数の避難港であり、カニ漁港としても知られる柴山港を、朝に夕に見下ろしている上計の城山にはこんな話が残されています。
丹生美作守長近は、養山城の城主でした。養山城は上計・浦上の二つの村を望み、北には柴山港から日本海を望む景色の美しい土地です。城主長近は、出石城山名誠豊の家老の一人であり、慈悲深い人でもありました。領地は、丹生地・浦上・上計・沖の浦・境の五つの村で、村民たちも長近の人徳になびき、戦国争乱の時代にもかかわらず、平和な明け暮れを楽しんでいました。
ところが、隣の無南垣の館山城主・塩冶左衛門尉秀国は、同じ山名家の家老の一人でしたが、野心満々たる人物であり、恵まれた漁獲と、避難する大小の舟で賑わう柴山を、なんとかして領地にしたいと考え、主君山名公に養山城主長近は避難にことよせて入港する他国の船と密輸して、私腹を肥やしているばかりか、ひそかに武器弾薬を蓄えつつあると報告し、みずから長近討伐の大将を引き受けました。 享禄二年(1529)十一月二十三日は、長近初老祝賀の日でありました。養山城内は、めでたい延寿を祝う声に満ちあふれていました。ところが、この機会を狙っていた塩冶左衛門尉は、日もとっぷり暮れたころ、数十人の手勢を引き連れて、沖の浦から山伝いに攻め込んできました。
これより少し前に、丹生地の大江田五郎兵衛という人が、たまたま用事があって無南垣に出たところ、塩冶勢が養山城を攻める準備をしている最中と聞いて、用事はそっちのけで取るものも取らず、大急ぎで養山城のこのことを知らせてきました。 急を聞いた養山城では、祝賀の席は一瞬にして上を下への大騒ぎとなり、油断して不意を付かれた酔いどれ兵士どもは物の役に立たず、城は火を吹き、美作守もついに自刃して果てました。
そうこうしているうちに、天下は織田氏から豊臣氏へと移り、秀吉の但馬征伐によって、山名氏の勢力も次第に衰えていきました。
鳥取城攻撃に勝ち誇った軍勢が、引き上げていく中で、海岸づたいに帰っていく軍の一隊が、無南垣の塩冶秀国の城をめざして、ときの声を上げつつ攻撃し始めました。いまは丹生三左衛門長宗と名を改めて旗頭となった熊之丞が、主君秀吉の許しを得て父の仇を討ったのです。戦いに慣れきった熊之丞にとっては、塩冶勢など物の数ではなく、一時間も経たない間に塩冶の城を攻め落とし、見事に父の敵を討ったのでした。
このときから、柴山地区では、かつての城主・丹生美作守長近の仁徳を慕い、四十二の歳を厄年として、初老を祝うことをやめ、八月二十四日の地蔵盆には、かつての城跡に建てられたお堂に集まって、供養回向をしているということです。
出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会 歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
応仁の乱以後の但馬 戦国時代(1467~1568)、但馬の守護大名である山名氏の中でも、親と子、主君と家来同士の間で、血なまぐさい合戦があちこちで行われています。 応仁の乱ののち山名の勢力は急速に衰え、国内にも分裂が起こり、文明十三年(1481)九月にはいったん但馬に引き上げます。また但馬のほか備後・美作・播磨・因幡の守護を兼ねておりましたが、しだいに備後・美作・播磨から撤退していきました。
戦国時代はとても貧しい時代でした。天災による被害で飢饉もあちらこちらで見られました。当然、合戦(乱取り)による飢餓と餓死、それによる疫病も蔓延していました。そのため領主が領主でいるためには、自国領内の庶民をある程度満足(満腹といってもいいかも)させる必要があったのです。それが出来ないと一揆が起きたり、または隣国の比較的条件のいい領主に鞍替え(離散)をされてしまうからです。 それを防ぐ手立ての一つが”戦”だったのです。戦に勝てる強い領主は庶民の信頼得ることができたのです。 戦国期、ほとんどの兵隊は専属ではなく、合戦のとき以外は田畑を耕す農民が多かったのです。税として兵役を課したのですが、戦国後期は現代のアルバイトのような感じで兵隊を雇用するようになったようです。 しかし、信長の場合、おそらくは京、堺などを手中にして、お金をがっぽり巻き上げてからだと思われますが、武器を貸し与え、鉄砲組や足軽組などを組織したようです。また、専属の兵隊も組織したようです(兵農分離)。京も堺も商人の町で当時の大都会ですから、そうしないと兵隊が集まらなかったという実態もあったのでしょう。
応仁の乱と太田垣氏大きな地図で見る
太田垣光景が竹田城の守備を山名持豊(宗全)から命じられて以後、但馬国の播磨・丹波からの入口に位置する竹田城が太田垣氏代々の居城となりました。
応仁元年(1467)、「応仁の乱」が勃発すると、西軍の大将となった山名持豊(宗全)に従って太田垣氏も出陣しました。応仁二年三月、竹田城の太田垣土佐守・宗朝父子は京都西陣の山名の西軍に参軍し、太田垣宗朝(むねとも)の弟新兵衛(宗近?)を留守将として竹田城を守らせていましたが、その守備は手薄でした。しかも、山名方の垣屋・八木・田結庄氏らも京都に参陣し、山名の領地である但馬国は、東軍の丹波守護細川氏や播磨の赤松氏にとって、侵攻するのに好都合な状態でした。 そして、長九郎左衛門や、細川氏の重臣で丹波守護代の内藤孫四郎を大将とする足立・芦田・夜久等の丹波勢が但馬に乱入したのです。かくして、細川方は、一品・粟鹿・磯部(いずれも朝来市山東町)へ攻め入りました。この時、竹田城留守将太田垣新兵衛は、楽音寺に陣を取っていましたが、一品に攻め入った敵は葉武者と見抜いて、これにかまわず磯部へ兵を進めました。細川方の内藤軍は東河(朝来市和田山町)を進発し、かれらが民家を焼き払った煙が山の峰から尾に立ちのぼっていました。それを見た太田垣軍は夜久野の小倉の氏神賀茂宮の山に立って眺めると、内藤軍が魚鱗の陣形に布陣しているのが見えました。
その大軍に対して、小勢の太田垣新兵衛を大将とする山名方の諸将は、一瞬、攻めかかることを躊躇しました。しかし、大将太田垣新兵衛・行木山城守らは陣頭に立って、鉾先をそろえて打ってかかりました。その勇猛果敢な突撃に内藤軍が陣を乱したところを、太田垣軍はさらに襲いかかりました。
敵将内藤孫四郎・長九郎左衛門らも踏み止まって奮戦しましたが、討死してしまいました。大将が討死したことで、夜久野の細川方の軍勢は散り散りになり、東河へ攻め入っていた者らも、我先にと敗走しました。さらに、粟鹿・一品に攻め入った者達もこれを見てたまらず逃げ失せてしまいました。山名方の大勝利でした。これを世に「夜久野の合戦」 と呼ばれています。
合戦に勝利を得た太田垣新兵衛は、勝報を京都西陣の山名宗全へ注進したところ、宗全は大変感激して、身に着けていた具足に御賀丸という太刀を添えて太田垣新兵衛に与えました。この太刀は宗全が足利義満より下賜された宝刀であり、新兵衛は大いに面目をほどこしたのでした。応仁の乱以後も、太田垣氏は山名氏に仕え、垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名四天王と呼ばれる存在となり、但馬の勢力を培っていきました。
竹田城(たけだじょう)
兵庫県朝来市竹田
JR播但線竹田駅からタクシーで約10分または徒歩で約50分 JR山陰本線和田山駅からタクシーで約20分 道路 播但連絡道路・北近畿豊岡自動車道和田山ICより約10分 中世山城。縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっています。東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭があります。石垣には織田信長がしばしば採用した穴太流石積みの技法(野面積み技法)が用いられています。廃城から約400年を経ていますが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として全国屈指の規模となっています。
竹田城は、但馬国守護大名山名持豊(宗全)によって、出石此隅山城の出城として、播磨、丹波と但馬の国境が近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で建設されました。築城は1431年(永享3年)、完成は嘉吉年間(1441~43年)と伝えられています。当初は土塁造りの城郭でしが、羽柴秀長から赤松広秀(斎村政広)の城主時代における改修工事により、総石垣造りの近世城郭として生まれ変わり、廃城間近に現在の壮大な姿となりました。修復には13年の年月を要し、竹田城は標高353.7mもある山上に、今のように機械があっても大抵のことではないのに、人の肩と手と足で五百年も昔では、考えることもできない大工事だったのでしょう。
山名氏のもとでは明徳の乱・応永の乱に活躍して、山名四天王のひとりとして台頭してきた太田垣氏が配されました。応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けますが、太田垣氏らの軍勢が国境の夜久野が原に細川方を撃退しました。
「竹田城跡」周辺
寺町通り
古城山のふもと、4カ寺と表米神社が並ぶ約600メートルの区間は「寺町通り」と呼ばれ、歴史散策路として親しまれています。白壁の塀や錦鯉が泳ぐ小川、松並木、小川沿いと虎臥城公園に植栽された約3000株の花しょうぶなどが目を楽しませてくれます。
表米神社(ひょうまいじんじゃ)
祭神は格技を好んだという表米宿弥命。表米は日下部氏族太田垣氏の祖。参道横の広場に相撲桟敷が設けられています。これは全国でも珍しい半円形石積段型桟敷で、正面には舞台もあり、歌舞伎なども上演されたのではと考えれられています。 法樹寺
竹田城最後の城主赤松広秀の菩提寺です。赤松公は文人としても優れ、領民から慕われる武将でしたが、関ヶ原の合戦で西軍に属し敗北。その後、鳥取城攻めで城下に火を放ったとされ、自刃しました。境内の裏手に墓碑が祀られています。
常光寺
山名宗全の四天王の一人であり、竹田城の初代城主、太田垣光景の菩提寺。光景公の墓碑とされる石塔が残っています。 「竹田城跡」周辺については朝来市ページより
(余談ながら拙者の母方は、赤松と共に宍粟郡三日月村中島より移った竹田赤松氏家老で、養父郡大塚庄を領し後に帰農した中島重右衛門と伝わっています。)
生野城生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられています。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。
この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれています。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。
この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていました。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。
赤松氏との抗争宗全の死後、家督は山名政豊が継いだものの、宗全死去や応仁の乱などによって一族の勢力は急速に衰退していきました。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、時義の子・山名時熙の但馬守護職、同じく時義の子・氏幸の伯耆守護職のみとなります。
領内では毛利次郎の乱をはじめとする国人による反乱が相次ぎ、家督をめぐる一族内部での争いが始まりました。さらに出雲の尼子経久、周防の大内義興、備前の浦上村宗らの圧迫を受けるようになり、次第に領土を奪われて、政豊の子・山名誠豊の時代には、誠豊が但馬、山名豊時の孫・山名誠通が因幡をかろうじて支配するという状態に陥りました。しかも、これを契機に山名家は但馬守護家と因幡守護家に分裂し、互いが宗家の家督をめぐって争う有様でした。
文明十一年(1471年)、赤松政則は播磨に下向すると播磨・備前・美作三国の支配に乗り出しました。政則は山名氏の分国因幡の有力国衆毛利次郎を援助して、山名氏の後方攪乱をはかりました。毛利次郎は因幡一国を席巻し、山名氏にとって看過できない勢力となっていました。
赤松政則は、山名氏の分国である因幡・伯耆の有力国衆を抱き込んで山名氏への反乱を起させました。因幡では私部城に拠る毛利次郎が赤松氏に通じ、他の国衆も毛利次郎に加わって反乱は内乱の状況を呈しました。因幡の状況を重くみた政豊は但馬に帰国すると、ただちに因幡に出撃し、守護山名豊氏とともに毛利次郎を因幡から追放しました。ところが翌年、伯耆国で南条下総入道らが政則に通じて伯耆守護山名政之から離反、一族の山名元之とその子小太郎を擁して兵を挙げました。政豊は政之を応援して出兵、反乱は文明十三年に及びましたが、元之らを追放して内乱を鎮圧しました。
赤松政則の策謀による因幡・伯耆の反乱に手を焼いた政豊は、政則の介入を斥け、播磨の奪還を目指して出兵の準備を進めました。一方、政豊の嫡男で備後守護の俊豊は、父に呼応して備前から播磨への進攻を狙いました。俊豊は備前の有力国衆松田氏元成を味方に引き入れると、文明十五年、赤松氏の守護所福岡城(備前)を攻撃しました。松田一族は一敗地にまみれたものの、俊豊は太田垣氏らの兵を率いて備前に進撃しました。かくして、但馬の政豊は俊豊の動きに合わせて、播磨へ向けて出陣すると、国境の生野に布陣しました。
ときに京にいた赤松政則は、ただちに播磨に下向しましたが、生野方面と福岡城方面との両面作戦を迫られました。重臣の浦上則宗は備前福岡の救援を説きましたが、政則は生野方面を重視し、主力を率いて生野へと出陣しました。両軍は真弓峠で激突、結果は山名方の大勝利で、敗走する赤松軍を追って播磨に雪崩れ込みました。政則の敗報に接した福岡城救援軍も播磨に引き返したため、福岡城の守備兵は四散しました。戦後、赤松政則は播磨を出奔、浦上氏ら重臣は政則を見限って赤松一族の有馬氏から家督を迎えました。ここに、山名氏は播磨・備前を支配下に置き、垣屋氏、太田垣氏らを代官に任じて播磨の支配に乗り出しました。
政則が出奔したあとの赤松軍は浦上則宗が中心となり、備前方面で山名軍と泥沼の戦いを展開しました。山名氏が備前方面に注力している隙を狙って、文明十七年(1485)、細川氏の支援を得た政則は播磨に帰国すると旧臣を糾合、垣屋一族が守る蔭木城を急襲しました。不意を討たれた垣屋勢は 越前守豊遠 左衛門尉宗続父子、平右衛門尉孝知ら主立った一族が討死する大敗北を喫し、辛うじて城を脱出した田公肥後守が書写坂本城の政豊に急を報じました。蔭木城の陥落は、赤松政則の動きにまったく気付いていなかった政豊の油断であったのです。
出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会 武家家伝
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