戦国6 織田信長の躍進

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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織田信長の躍進

概 要

目 次
  1. 家督争いから尾張統一
  2. 桶狭間の戦いから清洲同盟へ
  3. 第一次信長包囲網
  4. 第二次信長包囲網

織田信長は、尾張統一を果たし、また徳川家康が独立して戦国大名となります。越前攻め、武田が滅び、安土城を築城。上洛を開始しました。織田軍団が全国制覇に動き出します。
但馬国では永禄十二年(1569)、毛利氏からの要請を入れた織田信長の羽柴秀吉軍が羽柴秀長を指揮官に派遣。与力に藤堂高虎や宮部善祥房らを配属し、二回但馬攻めを行いました。

1.家督争いから尾張統一

 当時、尾張国は守護大名の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡の守護代であった「織田大和守家」当主にして清洲城主・織田信友が実権を掌握していました。
しかし、信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その秀でた智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大していました。信秀の死後、信長が後を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持し、信長と敵対し、信長謀殺計画を企てた。しかし、信友により傀儡(かいらい)にされていた尾張国守護・斯波義統が、その計画を事前に信長に密告しました。これに激怒した信友は、義統の嫡男・斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。
このため、義銀が信長を頼って落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君・義統を殺した謀反人として殺害します。
こうして尾張下四郡の守護代「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めました。織田氏の庶家であった信長が名実ともに織田氏の頭領となりました。叔父の信光も死亡しているが、死因は不明です。弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死しました。信長も道三へ援軍を出したが、間に合わなかったと言われています。こうしたなか、信長の当主としての器量を疑問視した織田氏重臣の林秀貞、林通具、柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた信長の同母弟・信勝を擁立しようとしました。これに対して信長には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方し、両派は対立します。

道三の死去を好機と見た信勝派は同年8月24日、挙兵して信長と戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長は末盛城に籠もった信勝を包囲しますが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免しました。しかし、弘治3年(1557年)、信勝は再び謀反を企てます。このとき、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病いと称して信勝を清洲城に誘い出し殺害しました。

こうして信長は、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立しました。

2.桶狭間の戦いから清洲同盟へ

 織田信長は、尾張統一を果たした翌年・永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いののち今川氏を破り、今川氏の支配から三河国の徳川家康が独立して戦国大名となります。永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化していました。その際、信長は妹・市を輿入れさせました。永禄9年(1566年)には美濃の多くの諸城を戦いと調略によって手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家直元、安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳でした。このとき、井ノ口を岐阜と改称しています。また、この頃から『天下布武』の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになりました。

このころ中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者・三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀が、室町幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた第13代将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立します(永禄の変)。久秀らはさらに義輝の弟・足利義昭の暗殺も謀ったが、義昭は細川藤孝、和田惟政ら幕臣の支援を受けて京都から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていました。

永禄11年(1568年)9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始しました。こうして、三好長慶以来中央政治を牛耳っていた三好・松永政権は、信長の電撃的な上洛によってわずか半月で崩壊し、代わって足利義昭を第15代将軍として擁立した信長による織田政権が誕生しました。

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍権力を制限するため、「殿中御掟」9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになっていくことになります。元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、織田・徳川連合軍は朝倉方の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで北近江の盟友であった浅井長政に背後を突かれるかたちとなってしまいます。突然の窮地に追い込まれた信長であったが、殿(しんがり)を務めた池田勝正・明智光秀・木下(藤吉郎改め)秀吉・徳川家康らの働き(金ヶ崎の退き口)もあり、なんとか京に逃れた。信長が京に帰還したとき、従う者はわずか10名ほどであったといわれています。

これを機に、将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化しました。義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成しました。対して信長は浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川家康軍とともに浅井・朝倉連合軍と合戦する(姉川の戦い)。進退に窮した信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、帝の命をもって浅井・朝倉軍との和睦に成功した。大久保忠教の記した『三河物語』によれば、このとき信長は義景に対して「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったといいます。

元亀2年(1571年)9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた延暦寺を焼き討ちにした。これは、浅井・朝倉連合軍に協力したことに対する報復であったとされている。
元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(のちの織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していました。しかし戦況は信長有利に展開し、8月には朝倉軍の武将・前波吉継と富田長繁、戸田与次らが信長に降伏したという。
10月、足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こした。武田軍の総兵力は3万。その大軍が織田領の東美濃、並びに徳川領の遠江、三河に侵攻(西上作戦)を開始する。これに対して織田・徳川軍も抵抗した。元亀4年(1573年)4月5日、正親町天皇から勅命を出させることによって義昭と和睦しました。4月12日、武田信玄が病死。これにより武田方は軍を返し、甲斐へ帰国しました。
信玄の死去によって勢いを得た信長は態勢を立て直した。そうして7月、叛旗を翻して、二条城や槇島城に立て籠もっていた足利義昭を破り、京の都から追放。これをもって室町時代に終止符を打った。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させました。
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3.第一次信長包囲網

尾張国を平定し、美濃国、伊勢国、近江国へと進出した織田信長は将軍足利義昭を奉じて上洛し、三河国の徳川家康と同盟(清洲同盟)し、畿内の平定や本願寺攻め(野田城・福島城の戦い)を進めていました。信長と義昭の関係は当初は良好でしたがしだいに険悪化し、元亀元年(1570年)に義昭は独自の外交を志向しはじめます。義昭は反織田勢力に呼びかけ、自身を盟主に織田家に反発する近畿地方の諸勢力を団結させ、包囲網が結成されました。同時期に、甲斐国の武田信玄は信濃を平定して領国を拡大し、信玄後期には外交方針が転換し駿河侵攻が行われていました。信長は美濃平定で武田領国と接していたため武田と誼を通じ、駿河侵攻に際しては将軍義昭に周旋して甲越和睦の調停を試みており友好路線をとっていましたが、駿河を平定した武田は甲相同盟を回復すると、元亀2年(1571年)10月には大規模な遠江・三河侵攻を行い織田・徳川連合との対立が決定的となります。

信玄には織田・徳川連合を駆逐して上洛意図のあったことが指摘されており、元亀3年(1572年)には西上作戦が開始されます。同年10月には三方ヶ原の戦いで家康を撃破し、さらに西上しました。同年12月に浅井長政の援軍として近江において織田軍と対峙中の朝倉義景が、突然本国への撤退を始めた。この撤退によって信玄がもくろんでいた織田軍分散計画は破綻。武田軍の進軍速度は極端に鈍りました。翌年3月には京都で将軍義昭が挙兵するものの信長に制圧され、4月には信玄が死去し、西上作戦は中止されました。

最大の脅威であった信玄が死去したことを知った信長は、一気に攻勢に出ました。信玄なき今、もはや信長と立ち向かえるほどの余力が残された勢力はなく、なすすべもなく各個撃破されていきました。こうして信玄の死から一年足らずで浅井・朝倉・三好といった勢力は信長に滅ぼされ、将軍足利義昭も京から追放されました。

4.第二次信長包囲網

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の前波吉継(桂田長俊)は一乗谷で攻め殺され、3月、信長は上洛して従三位参議に叙任されました。9月29日、兵糧に欠乏した長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去することを信長に申し出て、これを信長も了承しました。しかし、信興や信広という信頼する兄弟を殺された信長は、一揆衆の退去する動きが遅いこともあり、船で移動する門徒に一斉射撃を浴びせることで攻略しました。しかし一揆側も激怒した一部が織田軍に襲いかかり、信長の弟・織田秀成らを討ち取りました。

さらに信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒に対しては、城の周囲から包囲して討ち取りました。このとき、一揆衆は2万人が織田軍によって討ち取られたといわれています。この戦によって信長は長島門徒の反乱を治めることに成功しました。

天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言、11月7日に右近衛大将に叙任します。

同11月28日、信長は嫡男・織田信忠に 織田家の家督ならびに美濃・尾張などの領地を譲って建前上隠居しました。しかし、信長は引き続き織田家の政治・軍事を執行する立場にありました。

天正4年(1576年)1月、信長は琵琶湖湖岸に安土城の築城を信長自身が指揮を執り開始します。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成しました。天主内部は吹き抜けとなっていたといわれています。イエスズ会の宣教師は「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っています。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住みました。信長はここを拠点に天下一統(近年、俗に天下統一とも言う)に邁進することとなります。

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田家に具わっていました。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせました。これら信長配下の新設大名を「軍団」とか「方面軍」などと呼称する研究者もおり、今日では一般書でもかなり見かける記述となっています。もちろん当時はそのような名称はありませんでした。

織田方面軍団

  • 北陸方面:柴田勝家を方面軍総司令官として、与力に前田利家や佐々成政らを配属。
  • 中国方面:羽柴秀吉を方面軍総司令官として、指令官に弟羽柴秀長・藤堂孝虎、黒田官兵衛や蜂須賀正勝らを配属。
  • 畿内方面:明智光秀を方面軍総司令官として、与力に細川藤孝・忠興父子や筒井順慶を配属。
  • 関東方面:滝川一益を方面軍総司令官として、与力に森長可や川尻秀隆を配属。
  • 四国方面:信長の三男・信孝を方面軍総司令官として、与力に丹羽長秀や蜂屋頼隆らを配属(天正10年結成)。
  • 対本願寺方面・佐久間信盛軍団
  • 東海道の抑えは徳川家康謙信の死後、御家騒動を経て後を継いだ上杉景勝に対しては柴田勝家、前田利家、佐々成政らを、武田勝頼に対しては嫡男・織田信忠、滝川一益、森長可らを、波多野秀治に対しては明智光秀、細川藤孝らを(黒井城の戦い)、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備しました。
    織田軍は謙信の死後、上杉氏との戦いを優位に進め、能登・加賀を奪い、越中にも侵攻する勢いを見せました。天正6年(1578年)3月播磨の別所長治の謀反(三木合戦)が起こり、また、毛利は激しい抵抗を行い、同年7月、上月城は毛利の手に落ちて山中鹿之介ら尼子再興軍という味方を失います(上月城の戦い)。10月には摂津の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し、本願寺と手を結んで信長に抵抗します。一方、村重の与力であり東摂津を領する中川清秀、高山重友は信長に降伏しました。

    同年11月6日、第二次木津川口の戦いで毛利水軍が信長考案の鉄甲船6隻に大敗を喫し、孤立した石山本願寺と荒木村重は毛利の援助を受けることができなくなりました。このころから信長方は優位に立つ。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、村重が妻子を置き去りにして有岡城から逃亡すると城は落城し、荒木一族の大半が処刑されました。次いで10月、それまで毛利方であった備前の宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。翌・天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。同年4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田有利の条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨、但馬、天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めに追い込み因幡、さらには岩屋城を落として淡路を攻略しました。

    天正7年(1579年)、伊勢の出城構築を伊賀の国人に妨害されて立腹した織田信雄は独断で伊賀国に侵攻し、大敗を喫しました。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせました(第一次天正伊賀の乱)。そして天正9年(1581年)、信雄を再び総大将とし、6万の軍勢で伊賀を攻略。伊賀は織田家の領地となりました(第二次天正伊賀の乱)。

    天正7年(1579年)、信長は徳川家康の嫡男・松平信康と、信康の生母の築山殿に対し切腹を命じました。理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田勝頼への内通などです。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げましたが、最終的に家康は2人を自害させました(これに関しては異説もある)。

    天正8年(1580年)8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦さに係る不手際を理由に追放処分としました。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放しました。

    出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
    「ヨーロッパの歴史」-放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
    「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
    武家家伝

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たじまる 戦国5 山名氏の内乱と家臣の台頭

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

山名氏の内乱と家臣の台頭

1.山名家の内訂

赤松勢に大敗北した蔭木合戦ののち、赤松政則と浦上則宗との間に妥協が成立、一枚岩となった赤松軍は勢力を増大、それまでの守勢から攻勢に転じるようになりました。そして、文明十八年正月、山名勢は英賀の合戦に敗北、垣屋遠続らが戦死しました。さらに同年四月、坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められた。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていきました。窮地に陥った山名政豊は、但馬への帰還を願いましたが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めました。さらに嫡男の山名俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた山名政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔りました。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となったのです。

この衰運を予言するかのように、文明十五年(1483)八月に播磨に勢力を回復した赤松政則を討つために此隅城(このすみじょう)から出兵しましたが、「出兵の翌日出石神社の大鳥居の横木が落ちて、前途の不安を皆の者が思いやりました。」と記録され、まさに山名氏の運命を暗示するような不吉な出来事でした。

但馬に逃げ帰った山名政豊に対して、但馬国衆はもとより、山名俊豊を擁する備後国衆らは背を向けました。なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代を任されていた垣屋氏と、政豊の間の対立は深刻さを増していました。さらに、備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督として振舞ったようです。
明応の政変によって将軍足利義材が失脚。義材に従って河内に出陣していた山名俊豊は窮地に陥りました。ただちに但馬に帰った俊豊でしたが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが今度は政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となってしましました。

しかし、この山名政豊と山名俊豊父子の内乱は、確実に山名氏の勢力失墜を招く結果となりました。乱において政豊・俊豊らは、垣屋氏・大田垣氏ら被官衆への反銭知行権の恩給を濫発、みずから守護権力を無実化し、結果として垣屋氏・大田垣氏らの台頭が促したのです。とくに垣屋続成は俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として領国の経営を担うようになりました。

明応二年(1493)、山名俊豊は山名政豊の拠る九日市城を攻撃、どうにか俊豊の攻撃をしのいだ政豊は、逆に俊豊方の塩冶・村上氏を打ち取る勝利をえました。以後、政豊と俊豊父子の間で抗争が繰り返されました。

情勢は次第に政豊方の優勢へと動き、ついに山内氏の進言をいれた俊豊は備後に落去していきました。明応四年(1495)、政豊は九日市城から此隅山城に移り、翌年には俊豊を廃すると次男致豊(むねとよ)に家督を譲り、備後守護も譲ったことで山名氏の内訌は一応の終熄をみせました。

2.有力国人衆の離反

戦乱が続く中で、室町幕府は次第に衰退していき、将軍・守護らは徐々に力を失い、遂に家臣団・国人らが実力を持つ下克上の時代となりました。但馬国も例外ではなく、守護山名氏は実力が伴わない象徴的な存在となっていきました。その後、永正元年(1504)には、此隅城の山名致豊(むねとよ)と重臣田結庄方に対抗して重臣の垣屋氏が反旗をひるがえし、八月から九月中旬にかけて戦いが続き、出石神社のあたりまで戦場となり、社殿や寺まで戦火にあって焼けてしまうという事件が起こり、永正三年(1506)六月になって将軍足利義澄(よしずみ)の仲介で和解しました。

永正九年(1512)には致豊(むねとよ)は出家して宗伝と号し、誠豊(のぶとよ)を惣領として、十八年間国中の政治を任せ、致豊の次男祐豊(すけとよ)を但馬守護にしましたが、この頃はかつての山名氏の威勢は全くなく、わずかに但馬一国を守るのがやっとのありさまでした。

垣屋続成の台頭は致豊との対立を誘発、やがて両者は対立関係となりました。永正元年(1504)、出石郡坪井の山名氏を垣屋氏が襲いました。この時、出石神社が兵火のために火災に遭っています。垣屋続成に此隅山を攻められましたが、和議が成立して最悪の事態は回避されたものの山名氏の衰退は決定的でした。さきの蔭木合戦の敗退、政豊と俊豊父子の内訌、有力家臣の自立によって、山名氏は戦国守護大名の地位が閉ざされたといえるでしょう。

政豊の子、致豊(やまな おきとよ)が継ぎますが、1512(永正八)年、「山名四天王」と呼ばれる太田垣氏・八木氏・田公氏・田結庄氏ら有力国人衆に離反を起こされてしまいます。山名四天王は致豊の弟山名誠豊を擁し、但馬国において強い影響力を及ぼすようになりました。山名氏の衰退とともに独立色を強め、西に毛利氏、東に織田氏が台頭すると、二派に分かれ抗争を繰り広げ、山名氏の衰退をさらに加速させました。。

3.但馬山名氏と因幡山名氏の対立

永正九年(1513)、致豊(おきとよ)は弟の誠豊(のぶとよ)に但馬守護の家督を譲りましたが、これは垣屋・太田垣氏らの策謀によるもので、致豊にとっては不本意な引退でした。家督となった誠豊(のぶとよ)は、権力基盤を強固にするため、因幡山名氏の内政に介入しました。そして、因幡国守護山名豊重の排除を策し、豊重の弟豊頼を援助して豊重を布施天神城に討ち取りました。誠豊をうしろ楯てとして因幡山名氏の家督となった豊頼でしたが、こんどは豊重の子豊治の攻勢を受け、永正十二年(1515)には豊治が因幡守護となっています。豊治は妹を将軍足利義材の側室に送り込むなど、守護権力の強化を図り誠豊と対立しました。両者の抗争は繰り返され、誠豊は豊頼の子誠通(のぶみち)を応援して豊治と対抗させました。

大永二年(1522)、播磨国守護赤松氏と重臣浦上氏の擾乱で揺れる播磨に侵攻しました。ところが、赤松政村と浦上村宗が和睦して山名勢に対したため、敗れた誠豊は翌年に播磨から撤退せざるをえませんでした。この播磨出兵の失敗は、誠豊の権力後退につながり、「山名四天王」の垣屋氏をはじめ太田垣・八木・田結庄氏らの台頭がますます促されました。一方で因幡において誠豊と対立していた豊治がにわかに急死したことで、誠通が因幡守護に収まりました。なんとか因但を支配下においたかに見えた誠豊(のぶとよ)でしたが、大永八年(享禄元年=1528)、死去しました。誠豊のあとは、致豊の長男祐豊(すけとよ)が継ぎ、但馬守護に任じました。
祐豊(すけとよ)は、山名致豊(おきとよ)の次男として生まれ、致豊の弟で但馬の守護を務めていた山名誠豊(のぶとよ)の養子として入り但馬守護を継ぎます。

天文11年(1542)、「銀山旧記」によると、山名祐豊(すけとよ)が生野銀山を支配し生野平城を築き盛んに操業しました。生野鉱山が発見されたのは807年(大同2年)と伝えられていますが、詳しい文献資料がなく、正確な時期は不明です。

祐豊は、此隅山城(このすみじょう・豊岡市出石町)を本拠にすると因幡進出を企図しました。しかし、祐豊(すけとよ)にしてみれば誠豊が擁立した誠通は、父致豊を引退に追い込んだ誠豊派であり許し難き存在でした。後楯を失った誠通は、祐豊に対抗するため出雲の尼子晴久と結ぶと、名を久通と改めました。因幡国衆もまた誠豊の死によって但馬からの自立を願い、これを糾合した久通が天神山城(鳥取県)で兵をあげました。以後、但馬山名氏と因幡山名氏の間で戦いが繰り返され、天文十五年(1546)、久通は多治見峠において討死しました。

久通を討ち取ったのち、祐豊は因幡の残敵勢力の掃討戦を行いました。そして、弟豊定を因幡に派遣、豊定は天神山城に入ると因幡の支配にあたりました。その後、豊定の子豊数は武田氏の攻撃を受けて敗北、天神山城から退転、中務太夫豊国が因幡守護となりました。

生野銀山と太田垣氏

戦国末期に至り、ついに太田垣輝延、垣屋・八木・田結庄ら山名の四天王は但馬の有力国人衆とはかって守護山名致豊(いたとよ)に離反し、誠豊(まさとよ)を擁立して但馬の領国経営の実権を握りました。以後、垣谷光成・八木豊信・田結庄是義ら四頭が割拠し但馬を四分割しました。
天正三年(1575)、信長の指令を受けた羽柴秀吉が中国征伐を進めると、太田垣輝延は八木豊信・垣屋豊続を擁立して毛利氏の吉川元春と「芸但和睦」を結び、秀吉に対抗しました。しかし、結局は秀吉によって没落の憂き目となりました。輝延以降の系図は残っていないようです。

生野銀山は、山名氏支配の時代が約十五年の間続いたのですが、弘治二年(1556)、朝来郡を任された家臣である太田垣朝延の反逆によってこの城塞を占領され、銀山の経営を奪われることになって、祐豊は本城である有子山城(出石城)に追われてしまったのです。それ以後朝延は、自分の家臣を代官としてこの城に駐在させて銀山経営にあたり、秀吉の但馬征伐までの永禄・元亀時代の約二十年の間を自分のものとして続けてきました。
それからは実権が徳川幕府に移り、滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、鉱政庁として利用されていました、そして明治維新の改革で明治二年(1869)に生野県がおかれた時、その役所としてこれまでの代官所に使用されていた館などがそれにあてられました。

しかし、同四年廃県となった時に、この由緒ある建物は払い下げて売られ、取り壊して何一つなくなり、ただ石垣と外堀だけが昔を偲ぶ城跡として残っていました。しかしながら、史跡を守り文化財を重要視する現代と違った大正時代に、この生野の歴史的価値のある平城を惜しげもなく取り崩し、埋め立てて宅地に造成するなどによって、その存在した事実さえ知らないというのが、この城にまつわる物語であります。

4.但馬争乱と八木氏

因幡と但馬のあいだを結ぶ山陰道が通じる養父郡は、重要な要衝です。その養父郡を統治していた八木宗頼には長男遠秀を頭に四人の男子がありました。遠秀は山名持豊に仕え、「忠にして孝、武にして文、修斎治平の才」に恵まれた武士でしたが、文明元年(1469)六月、二十七歳で早世しました。そして、宗頼のあと八木氏を継いだのは豊賀でした。延徳三年(1491)八月、山名俊豊が上洛したとき、従した武士に八木氏が見られますが、豊賀であったと思わされています。豊賀も早世したようで、その弟で三男貞直が家督を継ぎました。貞直は、兄豊賀の生存中は僧門にあったようで、その卒去により還俗して、八木氏の家督を継いだようです。明応六年(1497)に小佐郷内の田一反を妙見日光院へ寄進していることが史料に残されています。

四男が宗世で、一説によれば、この宗世が宗頼の家督を継いだともいい、惣領が名乗る受領名但馬守を称しています。しかし、その息子誠頼は八木氏の家督を継ぐことはかなわなかったらしく、八木氏の家督は誠頼の従兄弟にあたる直宗(直信?)が継いだようで、直宗が但馬守を称しています。

戦国時代の永正九年(1512)、八木豊信は垣屋・太田垣・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁しました。以後、八木豊信と垣屋光成・太田垣輝延・田結庄是義らが但馬を四分割するようになりました。

国道9号線但馬トンネルを出て左に、頂上が平らになった山が見えます。大谷川と大野川に挟まれたこの山に中山城の跡があります。本丸、二の丸、三の丸を堀割で区切り、石垣を積み、規模は小さいですが整った城で、堀切も十㍍に及ぶものが数カ所も残っています。
鎌倉時代には菟束(うづか)氏が、南北朝のころは上野氏の城となり、のち八木氏の支城となり天正五年(1577)秀吉の山陰攻めによって落城し、因幡の国に逃げたのですが、用瀬(もちがせ)の戦いで滅んだそうです。立派な城にしては残っている話が少ない城のひとつです。

5.明智光秀と水生(みずのお)城

『但馬の城ものがたり』という書物によれば、昭和50年現在において確認されている但馬の城の数は、215だそうです。この中には徳川時代の陣屋も加えられていますが、まだ未確認の山城もまだあるだろうといわれています。日高町内では20で、但馬の中では数は少ないというものの、但馬史に関係する重要な城がいくつか含まれています。

水生(みずのお)城


豊岡市日高町上石字水生

散り椿で有名な水生山長楽寺の裏から山頂に至る間に、数カ所の平坦地があり、頂上近くや頂上に伸びる尾根に堀割があります。南北朝のころ、長左右衛門尉が居城したと伝え、戦国期には初め榊原式部大輔政忠が居し、ついで西村丹後守の居城となったらしい。天正八年(1580)、秀吉の武将、宮部善祥房らの強襲を受けて廃城となります。

水生城の攻防戦は、毛利党の轟城主、垣屋豊続が打った一大決戦でした。秀吉の勢力が延びると共にいくつかの小競り合いが行われました。天正八年(1580)4月18日には、秀吉勢と竹野衆とが水生城で交戦し、この時竹野衆が勝ったといいます。

水生城は、標高百六十メートルの山頂に至る間に構築された城で、東は険しく、北は切り立つ岩、西の尾根づたいには深い堀割が作られていて、まさに要害の地でした。眼下には広々とした高生平野(たこうへいや)が広がり、その昔、政治の中心地として、但馬一円の政務を執り行った国府の庁や国分寺の当たりもここから一望できます。

円山川の本流は、当時は土居の付近から水生山麓にかけて一直線に北流していた時期があったらしく、北へ流れる円山川のはるか彼方には、山名の本城出石の有子山の城を見ることができ、当時の戦争の仕方から考えて、たいへん大事な城であったことがうかがわれます。
この城は、遠く南北朝のころ造られたもので、南朝に味方した長左衛門尉がいた城として知られています。

その後約二百年あまりは、残念ながら誰の居城であったのか明らかではありません。
ところが、大永年中、丹波福知山の城主、明智日向守光成(後の光秀)が、出石の此隅山(こぬすみやま)の城が虚城であることを聞いて登尾峠(丹波・但馬境)を経て、有子城(出石城)を攻撃しようと考えました。そこで陣代として大野統康・伊藤次織・伊藤加助の三名を軍勢を添えて出石表へ差し出しました。やがて但馬に進入した彼らは、進美寺山(しんめいじざん)に「掻上の城(かきあのげじろ)」を築いて居城し陣を布きました。

その頃の出石の山名氏の勢力は日に日に衰えていく有様でした。しかも中央では、織田信長が天下の実権を握り、その上家来の羽柴秀吉が近々に但馬にせめて来るという噂も高くなったので、山名氏の四天王といわれた垣屋等の武将も、さすがに気が気でありませんでした。

一方、進美山掻上の城に陣取った大野・伊藤の両勢は、軍を揃え、出石・気多の郷士たちを競い合わせ準備を整えました。そして、永禄二年(1559)八月二十四日、西村丹後守の居城水生城を攻撃してきました。この城には前後に沼(円山川から満潮時には潮が差す)があって、自然の楯となり、左側は通れないほど険しい天然の構えとなり、攻め落とせそうにもないので、ひとまず善応寺野に陣取って遠攻めの策をとりました。この時伊藤勢の中に河本新八郎正俊(気多郡伊福(鶴岡)の郷士であり、この家は今も続いている)という豪傑がいました。陣頭に出て大声で敵の大将をさそったので、城中からもこれに応え、服部助右衛門という武者が名乗りを上げて出てきました。ふたりは違いに槍を交えてしばらく争っていましたが、新八郎の方が強く、ついに服部を倒し首級(しるし)をあげました。

明けて二十五日、伊藤勢はふたたび城近く攻め寄せていきました。城中にあった兄の服部左右衛門は、弟を無念に思い、攻めてくる敵軍を後目に城中から躍り出て大音声に、「新八郎出てこい。きょうは助右衛門の兄左近右衛門が相手になってやる、ひるむか新八郎!」とののしりました。新八郎は「心得たり。」と、これに応じて出てきました。ふたりは間合いを見計らって、ともに弓に矢をつがえました。新八郎はもともと弓の名人でもあったので、ねらいを定めて「ヒョー」と放つ矢は見事に左近右衛門を射止めました。この三度の戦いの活躍に対して新八郎は明智光成から感状(感謝状)をもらいました。この感状は今も河本家に残っています。

八月二十八日には、丹波勢が攻め寄せましたが、城の正面大手門の方には大きな沼になっていてなかなかの難攻でした。城中はしーんと静まりかえり、沼を渡って攻めてきたならと待ちかまえています。攻めての大野勢の中で伊藤七之助という者は搦め手から攻めようとして竹貫から尾根づたいにわざと小勢を引き連れ迂回作戦に出ました。

ところが城内の武将「宿院・田中」という家来で、竹貫・藤井などから来ている兵士の中に、中野清助という人がいました。清助は伊藤七之助を遠矢で見事に射ました。この怪力に恐れをなした丹波勢は慌てふためき、この日の城攻めは中止にしました。
大野統康・伊藤加助は無念の歯ぎしりをし、城攻めにあせりを見せ総攻撃をはかり、竹や木を切らせ、沼に投げ入れて沼を渡ろうとしました。しかし、城内から見すましていた城兵は「すは、この時ぞ。」とばかりに、木戸を開けて討って出ました。大沼を渡ろうとしている大野・伊藤勢をここぞとばかりに射かけたので進退きわまり、たまたま沼を渡りきった者たちは山が険しくて登ることができず、逆に退こうとしても沼が深くて思うに任せず、城内からはさらに新手を繰り出し寄手をしゃにむに攻め、櫓からは鏑(かぶら)を構えて、射たてているところに「ころはよし。」と、大将西村丹後守みずから討って出たので、寄せ手は這々(ほうほう)の体で敗走してしまいました。

掻き揚げ城(かきあのげじろ)…掻上げ城とも書く。堀を掘ったとき、その土を盛りあげて土居を築いた堀と土居だけで成る臨時の小規模な城郭。
出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
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たじまる 戦国1 応仁の乱以後の但馬

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

応仁の乱以後の但馬

戦国時代(1467~1568)、但馬の守護大名である山名氏の中でも、親と子、主君と家来同士の間で、血なまぐさい合戦があちこちで行われています。
応仁の乱ののち山名の勢力は急速に衰え、国内にも分裂が起こり、文明十三年(1481)九月にはいったん但馬に引き上げます。また但馬のほか備後・美作・播磨・因幡の守護を兼ねておりましたが、しだいに備後・美作・播磨から撤退していきました。

戦国時代はとても貧しい時代でした。天災による被害で飢饉もあちらこちらで見られました。当然、合戦(乱取り)による飢餓と餓死、それによる疫病も蔓延していました。そのため領主が領主でいるためには、自国領内の庶民をある程度満足(満腹といってもいいかも)させる必要があったのです。それが出来ないと一揆が起きたり、または隣国の比較的条件のいい領主に鞍替え(離散)をされてしまうからです。
それを防ぐ手立ての一つが”戦”だったのです。戦に勝てる強い領主は庶民の信頼得ることができたのです。
戦国期、ほとんどの兵隊は専属ではなく、合戦のとき以外は田畑を耕す農民が多かったのです。税として兵役を課したのですが、戦国後期は現代のアルバイトのような感じで兵隊を雇用するようになったようです。 しかし、信長の場合、おそらくは京、堺などを手中にして、お金をがっぽり巻き上げてからだと思われますが、武器を貸し与え、鉄砲組や足軽組などを組織したようです。また、専属の兵隊も組織したようです(兵農分離)。京も堺も商人の町で当時の大都会ですから、そうしないと兵隊が集まらなかったという実態もあったのでしょう。

応仁の乱と太田垣氏

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太田垣光景が竹田城の守備を山名持豊(宗全)から命じられて以後、但馬国の播磨・丹波からの入口に位置する竹田城が太田垣氏代々の居城となりました。

応仁元年(1467)、「応仁の乱」が勃発すると、西軍の大将となった山名持豊(宗全)に従って太田垣氏も出陣しました。応仁二年三月、竹田城の太田垣土佐守・宗朝父子は京都西陣の山名の西軍に参軍し、太田垣宗朝(むねとも)の弟新兵衛(宗近?)を留守将として竹田城を守らせていましたが、その守備は手薄でした。しかも、山名方の垣屋・八木・田結庄氏らも京都に参陣し、山名の領地である但馬国は、東軍の丹波守護細川氏や播磨の赤松氏にとって、侵攻するのに好都合な状態でした。
そして、長九郎左衛門や、細川氏の重臣で丹波守護代の内藤孫四郎を大将とする足立・芦田・夜久等の丹波勢が但馬に乱入したのです。かくして、細川方は、一品・粟鹿・磯部(いずれも朝来市山東町)へ攻め入りました。この時、竹田城留守将太田垣新兵衛は、楽音寺に陣を取っていましたが、一品に攻め入った敵は葉武者と見抜いて、これにかまわず磯部へ兵を進めました。細川方の内藤軍は東河(朝来市和田山町)を進発し、かれらが民家を焼き払った煙が山の峰から尾に立ちのぼっていました。それを見た太田垣軍は夜久野の小倉の氏神賀茂宮の山に立って眺めると、内藤軍が魚鱗の陣形に布陣しているのが見えました。

その大軍に対して、小勢の太田垣新兵衛を大将とする山名方の諸将は、一瞬、攻めかかることを躊躇しました。しかし、大将太田垣新兵衛・行木山城守らは陣頭に立って、鉾先をそろえて打ってかかりました。その勇猛果敢な突撃に内藤軍が陣を乱したところを、太田垣軍はさらに襲いかかりました。

敵将内藤孫四郎・長九郎左衛門らも踏み止まって奮戦しましたが、討死してしまいました。大将が討死したことで、夜久野の細川方の軍勢は散り散りになり、東河へ攻め入っていた者らも、我先にと敗走しました。さらに、粟鹿・一品に攻め入った者達もこれを見てたまらず逃げ失せてしまいました。山名方の大勝利でした。これを世に「夜久野の合戦」と呼ばれています。

合戦に勝利を得た太田垣新兵衛は、勝報を京都西陣の山名宗全へ注進したところ、宗全は大変感激して、身に着けていた具足に御賀丸という太刀を添えて太田垣新兵衛に与えました。この太刀は宗全が足利義満より下賜された宝刀であり、新兵衛は大いに面目をほどこしたのでした。応仁の乱以後も、太田垣氏は山名氏に仕え、垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名四天王と呼ばれる存在となり、但馬の勢力を培っていきました。

竹田城(たけだじょう)


兵庫県朝来市竹田

  • JR播但線竹田駅からタクシーで約10分または徒歩で約50分
  • JR山陰本線和田山駅からタクシーで約20分
    道路
  • 播但連絡道路・北近畿豊岡自動車道和田山ICより約10分

中世山城。縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっています。東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭があります。石垣には織田信長がしばしば採用した穴太流石積みの技法(野面積み技法)が用いられています。廃城から約400年を経ていますが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として全国屈指の規模となっています。

竹田城は、但馬国守護大名山名持豊(宗全)によって、出石此隅山城の出城として、播磨、丹波と但馬の国境が近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で建設されました。築城は1431年(永享3年)、完成は嘉吉年間(1441~43年)と伝えられています。当初は土塁造りの城郭でしが、羽柴秀長から赤松広秀(斎村政広)の城主時代における改修工事により、総石垣造りの近世城郭として生まれ変わり、廃城間近に現在の壮大な姿となりました。修復には13年の年月を要し、竹田城は標高353.7mもある山上に、今のように機械があっても大抵のことではないのに、人の肩と手と足で五百年も昔では、考えることもできない大工事だったのでしょう。

山名氏のもとでは明徳の乱・応永の乱に活躍して、山名四天王のひとりとして台頭してきた太田垣氏が配されました。応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けますが、太田垣氏らの軍勢が国境の夜久野が原に細川方を撃退しました。

「竹田城跡」周辺

寺町通り

古城山のふもと、4カ寺と表米神社が並ぶ約600メートルの区間は「寺町通り」と呼ばれ、歴史散策路として親しまれています。白壁の塀や錦鯉が泳ぐ小川、松並木、小川沿いと虎臥城公園に植栽された約3000株の花しょうぶなどが目を楽しませてくれます。

表米神社(ひょうまいじんじゃ)

祭神は格技を好んだという表米宿弥命。表米は日下部氏族太田垣氏の祖。参道横の広場に相撲桟敷が設けられています。これは全国でも珍しい半円形石積段型桟敷で、正面には舞台もあり、歌舞伎なども上演されたのではと考えれられています。
法樹寺

竹田城最後の城主赤松広秀の菩提寺です。赤松公は文人としても優れ、領民から慕われる武将でしたが、関ヶ原の合戦で西軍に属し敗北。その後、鳥取城攻めで城下に火を放ったとされ、自刃しました。境内の裏手に墓碑が祀られています。

常光寺

山名宗全の四天王の一人であり、竹田城の初代城主、太田垣光景の菩提寺。光景公の墓碑とされる石塔が残っています。
「竹田城跡」周辺については朝来市ページより

(余談ながら拙者の母方は、赤松と共に宍粟郡三日月村中島より移った竹田赤松氏家老で、養父郡大塚庄を領し後に帰農した中島重右衛門と伝わっています。)

生野城

生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられています。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。

この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれています。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。

この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていました。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。

赤松氏との抗争

宗全の死後、家督は山名政豊が継いだものの、宗全死去や応仁の乱などによって一族の勢力は急速に衰退していきました。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、時義の子・山名時熙の但馬守護職、同じく時義の子・氏幸の伯耆守護職のみとなります。

領内では毛利次郎の乱をはじめとする国人による反乱が相次ぎ、家督をめぐる一族内部での争いが始まりました。さらに出雲の尼子経久、周防の大内義興、備前の浦上村宗らの圧迫を受けるようになり、次第に領土を奪われて、政豊の子・山名誠豊の時代には、誠豊が但馬、山名豊時の孫・山名誠通が因幡をかろうじて支配するという状態に陥りました。しかも、これを契機に山名家は但馬守護家と因幡守護家に分裂し、互いが宗家の家督をめぐって争う有様でした。

文明十一年(1471年)、赤松政則は播磨に下向すると播磨・備前・美作三国の支配に乗り出しました。政則は山名氏の分国因幡の有力国衆毛利次郎を援助して、山名氏の後方攪乱をはかりました。毛利次郎は因幡一国を席巻し、山名氏にとって看過できない勢力となっていました。

赤松政則は、山名氏の分国である因幡・伯耆の有力国衆を抱き込んで山名氏への反乱を起させました。因幡では私部城に拠る毛利次郎が赤松氏に通じ、他の国衆も毛利次郎に加わって反乱は内乱の状況を呈しました。因幡の状況を重くみた政豊は但馬に帰国すると、ただちに因幡に出撃し、守護山名豊氏とともに毛利次郎を因幡から追放しました。ところが翌年、伯耆国で南条下総入道らが政則に通じて伯耆守護山名政之から離反、一族の山名元之とその子小太郎を擁して兵を挙げました。政豊は政之を応援して出兵、反乱は文明十三年に及びましたが、元之らを追放して内乱を鎮圧しました。

赤松政則の策謀による因幡・伯耆の反乱に手を焼いた政豊は、政則の介入を斥け、播磨の奪還を目指して出兵の準備を進めました。一方、政豊の嫡男で備後守護の俊豊は、父に呼応して備前から播磨への進攻を狙いました。俊豊は備前の有力国衆松田氏元成を味方に引き入れると、文明十五年、赤松氏の守護所福岡城(備前)を攻撃しました。松田一族は一敗地にまみれたものの、俊豊は太田垣氏らの兵を率いて備前に進撃しました。かくして、但馬の政豊は俊豊の動きに合わせて、播磨へ向けて出陣すると、国境の生野に布陣しました。

ときに京にいた赤松政則は、ただちに播磨に下向しましたが、生野方面と福岡城方面との両面作戦を迫られました。重臣の浦上則宗は備前福岡の救援を説きましたが、政則は生野方面を重視し、主力を率いて生野へと出陣しました。両軍は真弓峠で激突、結果は山名方の大勝利で、敗走する赤松軍を追って播磨に雪崩れ込みました。政則の敗報に接した福岡城救援軍も播磨に引き返したため、福岡城の守備兵は四散しました。戦後、赤松政則は播磨を出奔、浦上氏ら重臣は政則を見限って赤松一族の有馬氏から家督を迎えました。ここに、山名氏は播磨・備前を支配下に置き、垣屋氏、太田垣氏らを代官に任じて播磨の支配に乗り出しました。

政則が出奔したあとの赤松軍は浦上則宗が中心となり、備前方面で山名軍と泥沼の戦いを展開しました。山名氏が備前方面に注力している隙を狙って、文明十七年(1485)、細川氏の支援を得た政則は播磨に帰国すると旧臣を糾合、垣屋一族が守る蔭木城を急襲しました。不意を討たれた垣屋勢は 越前守豊遠 左衛門尉宗続父子、平右衛門尉孝知ら主立った一族が討死する大敗北を喫し、辛うじて城を脱出した田公肥後守が書写坂本城の政豊に急を報じました。蔭木城の陥落は、赤松政則の動きにまったく気付いていなかった政豊の油断であったのです。

出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝

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たじまる 年表

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

カンブリア紀では、原生代(先カンブリア紀)によって形成された海洋が地球上のほぼ全てを覆い尽くす。
5億4,200万年前以前 肉眼で見える大きさで硬い殻を持った生物の化石が初めて産出する。

海中では様々な種類に至る海洋生物が現れ、中でも三葉虫等の節足動物が繁栄し、藻類が発達した。
カンブリア爆発…この時期の初期には動物門のほとんどすべてが出現したと考えられ、この時代に動物の多様性が一気に増大した可能性がある。

後期には多細胞生物も出現した。北海道もアンモナイトの世界的な産地の1つで、約1億年前頃の化石が多く発見されている。

約20万~19万年前 ホモ・サピエンス (現在のヒト) の出現。

約14万年前 氷期 (リス氷期) のピーク。この後、急速に温暖化へと向かった。

アフリカに出現、10万年前頃にユーラシア大陸にも拡大したと考えられている。

約5万年前 クロマニョン人。

最古の洞窟壁画

現在知られている古いものでは、南フランスのショーヴェ洞窟壁画 (約3万年前?)がある。また、ラスコー (約1万8千年~1万6千年前)、アルタミラ(約1万4千年~1万3千年前)など多くの洞窟壁画がある。

約3万年前~2万年以前 – モンゴロイドがアメリカ大陸に渡る。

氷河期の時代にベーリング海峡は地続きになっていた。この頃、ユーラシア大陸から無人のアメリカ大陸に人類が移り住んだと考えられている。約1万年前頃までには、南アメリカ大陸の南端地域まで到達した。

約2万年前 – ウルム氷期 (最終氷期)のピーク。気温は年平均で摂氏7度から8度も下がった。そのため地球上で氷河が発達し、海水面が現在よりも 100メートル から最大で 130メートル ほど低かったと考えられている。その後、温暖化と寒冷化の小さな波をうちながら、長期では徐々に温暖化に向かった。

約1万6千年前 東南アジアにあったとされるスンダランドが、海面上昇により徐々に後退。

約1万2千年前 こと座 (七夕の織り姫星付近) が北極星だった。
紀元前4万年頃 アボリジニーがオーストラリアに渡来する。

「柳江人」(中国広西省出土;約4万年前の化石人骨)。

約3万年前 – ネアンデルタール人がこの頃絶滅。

25万年前から40万年前に住んだと思われる「北京原人」の骨と遺物(1921~)

ジャワ原人(1891)

約7万3千年前 – スマトラ島のトバ火山の大噴火。スマトラ島のトバ湖はこの時の噴火によって形成されたカルデラ湖。ここ10万年ほどでは最大級の噴火とされ、地球の気温が数年間3~3.5度低下した。

ヒトのDNAの解析によれば、7万年ほど前に人類の人口が一万人以下に激減し、遺伝的な多様性の多くが失われ現在の人類につながる種族のみが残った「ボトルネック効果(遺伝子多様性減少)」があったと考えられるが、これがトバ火山の大噴火に関連すると考えられている。

約1万4千年前~約1万年前 この頃までにイヌを飼い慣らしたと考えられている。

約1万3千年前~1万年前 温暖化が進行しつつあったが寒冷気候に戻った時期である。2万5千年前頃 鹿児島県にある姶良(あいら)火山が大爆発を起こす。

この頃を境にナウマンゾウが日本列島から姿を消す。
約1万8千年前 日本海に津軽海峡を通って寒流である親潮が流入し、この影響で朝鮮海峡あるいは対馬海峡から表層水が流出した。

青森で発見の土器が世界最古(1万6千年前)と判明

静岡県浜松市で発掘された浜北人(約1万4,000年前)

「港川人骨」(沖縄県具志頭村港川)1万数千年前の化石人骨数体分が採集
約1万3千年前 – 日本列島が大陸から完全に離れ、ほぼ今の形を整えたと考えられている。マイナス約60メートルの宗谷海峡が海水面下に没した。

対馬暖流は一進一退を繰り返しながら日本海に流入していき、約1万から8千年前の間に、現在と同じような海洋環境になったと考えられている。海抜5m以上の盆地周辺からは貝塚や縄文遺跡などが数多く発見されており、旧石器時代に人々が住み着いていたことが推測されます。

鳥取県・上淀廃寺跡
但馬守が来任するころには、郷・村・保等も整い、鎌倉期になって荘園が置かれ、荘司が政治をとるようになり、ことに承久3年(1221年)但馬守護太田昌明の本拠地となったころ管理はようやくゆきとどくようになり、文化も次第に向上する機運に乗ったといわれています。

朝来町 立脇廃寺

 

時代期別西 暦地 球西 洋東 洋国 内但馬国

*1

約38億年前地球誕生44億年前 地球は、太陽の周囲を廻る軌道にあった天体、すなわちミニ惑星が合体して形成されたとされる。小さな塵などが合体して火星ほどの大きさになり、それがさらに10個ほど衝突して現在の地球となった。最後の衝突(ジャイアント・インパクト)

海の形成。

40億年~38億年前 この頃、現在、知られている最古の堆積岩が現れる。原始生命が誕生したと考えられている。
始  生  代約38億年前から約25億年前この時大陸がはじめて安定した。そして光合成によりエネルギーと酸素を作り出す微生物、シアノバクテリア
が誕生。
嫌気性微生物細胞呼吸は酸素を必要としなかった。生き残った嫌気性微生物たちは酸素に耐性を持つようになったか、酸素のない環境で暮らすようになった。
原  生  代前期25億~16億年前24億年前~22億年前 現在分かっている最古の氷期。? ヒューロニアン氷期>

20数億年前? 大気中の酸素の増加。>

約10億~7億年前 ロディニア超大陸の形成。約6億年前に分裂したと考えられている。
真核生物の誕生。中期の終盤には有性生殖への進化が起きた。
後期9億年前から5億4,200万年前オゾン層ができて紫外線が地表に届かなくなった。地理的に、新原生代には超大陸ロディニアが少なくとも8つの地塊に分裂したことによる複雑な大陸移動が引き起こったと考えられる。この大陸移動の結果、「スノーボールアース」として知られる赤道まで氷床に覆われるかつてない厳しさのスターティアン氷期・マリノア氷期といった大規模な世界的氷河期が起こった。生殖への進化が起きた。
8億年前~6億年前 大規模氷河時代。雪球地球 (スノーボールアース)仮説。
藻類によって大気中に酸素の放出が始まり、また、古細菌がユリアーキオータ、クレンアーキオータ、原始真核生物の三系統に分岐し、さらに原始真核生物にαプロテオバクテリア(後のミトコンドリア)が共生することで現在の真核生物が成立した。後期には多細胞生物も出現6億年前~ -約5億3000万年前 カンブリア爆発と呼ばれる生物の多様化が起こる。今日見られる動物の「門(生物の体制)」が出そろった現象であるとされる。生物種の爆発的増加。(バージェス動物群)三葉虫など無脊椎動物の繁栄。

*2

約5億4,500万年前~約5億500万年前概して温暖で、極地方には氷河がなかったと考えられている。
オル

約5億900万年前から約4億4,600万年前オゾン層の形成。オゾン層は、太陽からの有害な紫外線の多くを吸収し、地上の生態系を保護する役割を果たしている。オウムガイの全盛期で三葉虫のような節足動物や筆石のような原索動物が栄えた。甲冑魚のような魚類が登場したのもこの時代である。4億3千年前頃 生物の大量絶滅(オルドヴィス紀末)
シル

約4億4000万 – 4億1000万年前地球温暖期3つの大陸は徐々に接近し、約4億2,000万年前に衝突した。このためイアペトゥス海は消滅し、ユーラメリカ大陸(ローラシア大陸とも)という大陸が形成された。4億年前 陸上植物が出現。アンモナイトが現れる。* あごやうろこを持つ魚類の登場。サンゴ類の繁栄。植物の陸上進出。昆虫の誕生。脊椎動物の登場、無顎類動物が一般的に。

約4億1,600万年前から約3億6,700万年前「魚の時代」と呼ばれる。古生代の中ごろ。魚類が繁栄し、シーラカンスや肺魚、アンモナイトもこの時代に出現。

陸上では、最古の森林が発達し、巨大な節足動物が出現。また両生類が出現したのもこの時代。

3億6千万年前 生物の大量絶滅(デヴォン紀後期)。

3億6,700万年前から2億8,900万年前氷河の消滅。年間を通して季節の変化はあまりなく、1年中湿潤な熱帯気候であったといわれる。大森林が各地に形成され、石炭の元になったとされる。地質時代では石炭紀という名称がついている

シダ植物が発達し、種子植物の出現。巨大昆虫類の繁栄。昆虫が拡大。両生類の地上上陸。爬虫類の出現。動物の陸上進出。
ゴキブリもこの頃に出現。身近な生きている化石とされる。
* 硬骨魚類の繁栄。
オウムガイ、アンモナイトの繁栄。ハイギョの出現。

中生

ペル

約2億8000万~2億5000万年前巨大大陸パンゲアの出現。大陸移動説において、現在の諸大陸が分裂する前にひとつであったときの超大陸のことである。
地球史上最大の大量絶滅があった。



約1億9500万年前~約1億3500万年前恐竜が繁栄、原始的な鳥類の出現、被子植物の出現。
白  亜

約1億4550万年前~約7060万年前約7000万年前 インド亜大陸とユーラシア大陸の衝突。プレートテクトニクス説によれば、インド亜大陸の北上でユーラシア大陸と衝突したことにより、約2500万年前頃からヒマラヤ山脈の形成がはじまったと考えられている。



約6,550万年前~約2,500万年前約2500万年前 アルプス・ヒマラヤ地帯などで山脈の形成がはじまる。テチス海が消滅し、造山運動により隆起。6500万年前 生物の大量絶滅 (白亜紀末)。この頃、恐竜が絶滅。隕石の落下による環境の激変を原因とする説が有力と考えられている。
霊長類(有胎盤類)の出現約4000万年前 南極大陸で氷河の形成がはじまり、徐々に寒冷化。これ以前は非常に温暖な時期だった。→海水準変動現代の動物相につながるものがほぼ出現している。ヒトの祖先はこの時代に誕生した。
九州中西部、常磐、石狩、釧路などの炭田地帯で、石炭層を含む陸成層と浅海成層が厚く分布する。



中新

約2,300万年前~約500万年前約2000万年前 現存する最古の湖の形成。バイカル湖、タンガニーカ湖。→ 古代湖約1500万年前 ヨーロッパに隕石が落下、クレーターを形成する。

現在のドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州にあるリース隕石孔、シュタインハイム・クレーター。

ベーリング海に存在した陸橋ベーリンジアが温暖化の海進により水没し、北米大陸はユーラシア大陸から分離した。
1000万年前~500万年前 アフリカでグレート・リフト・バレーの形成が始まる。

2500万年前 最古の類人猿と思われる化石?アフリカのケニヤで発見された。

1300万年前 この頃からヨーロッパ、南アジア、東アジアなどユーラシア各地にも類人猿の化石が現れる。

1600万年前頃 大和三山の内の畝傍山や耳成山が、二上山もこの頃火山活動していた。推定約600万~400万年前 琵琶湖の形成。琵琶湖は世界に現存する湖の中では3番目に古い湖と考えられている。豊岡盆地は、人類の歴史が始まったころに干陸化し平地になったと推定。
鮮新

約500万年前~約160万年前シベリアに大隕石が激突し、それが引き起こした気候変動により、新哺乳類に最初の危機が訪れた。人類誕生に大きな影響を与えたとする説がある。アウストラロピテクス・アファレンシスは約390万~約290万年前に存在した化石人類(1924)約600万~500万年前 この頃、ヒトとチンパンジーが分化したとされる。

直立二足歩行の開始

旧石

前期250万年前~12万年前石器の使用がはじまった。オルドヴァイ文化、オルドワン石器日本列島形成?
約170万年前 伊豆半島が本州に衝突。
70万年前~6000年前 兵庫のもっとも新しい火山活動「神鍋山火山群」が活動

30万年前~3万年前温暖期のピーク。現在よりも温暖であったと考えられている。海面の上昇により、他にも、アラスカとロシアの間にあるベーリング海峡 (氷期には陸続きだった) の海没や、大陸と地続きだった日本も徐々に島化が進んだ。剥片石器が出現した時代。約23万年前 ネアンデルタール人が広がった。後期約1万3千年前~約1万年前約1万年前 最後の氷期 (最終氷期) が終わったとされる。ヨーロッパ中部の火山活動が終息へ

アイフェル高地(ドイツ・ベルギー)や中央高地(フランス)の火山活動がおおむね終息。ピュイ=ド=ドームは約8,000年前まで活動を続けた。

農耕革命 (農耕の開始)。人類史上、重大な事件の1つとされる。石器が急速に高度化、多様化した時代。このような技術革新の原動力を言語に求める説もある。

クロマニヨン人(ホモ・サピエンス)が主流となり、他の化石人類は急速に姿を消した。

この期の初め頃 日本列島が大陸から離れる直前であったと推測されている。晩氷期の気候は、短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であった。

環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になった。狩猟の獲物は、ゾウや野牛の大型哺乳動物からシカやイノシシの中・小哺乳動物に変わっていった。竪穴住居址からサケの顎骨発見。小型の骨製U字型釣針。

約1万3000年前から1万2000年前頃 日本列島が大陸から離れ、現在の姿ができあがった。

立川ローム基底部(X層)。日本の旧石器文化発見。

日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認

大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡で竪穴住居が見つかる。

温泉町畑ヶ平遺跡 台形様石器、養父町・但東町 尖頭器発見
家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野、山東町比叡截頭段丘



約13000年前~約10000年紀元前12,000年頃 イヌの家畜化長江文明 玉蟾岩遺跡 稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できない。日本列島が完全に大陸から離れて島国となっていた。暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入してきた。「海進」という。石器・弓矢、狩猟・漁労・採集
関宮町別宮 鉢伏高原遺跡(海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡)爪型文土器
大屋町の上山高原で採集された一片の土器破片日高町神鍋遺跡 (神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡) 爪型文土器’69豊岡市城崎町 スクモ塚遺跡(縄文式土器)、「黄沼前海(きぬさきうみ)」の誕生
早期紀元前1000年頃完新世の気候最温暖期この頃、海面は現在よりも数メートル(4mから10mまで諸説あり)程度高かったと考えられている。紀元前9000年頃 牛乳が人間の食糧として飲まれはじめる。紀元前9000年頃 メソポタミア 都市国家ウルの創建

紀元前8300年~前7300年 エリコで周囲を石壁で囲った集落が現れる。

メソポタミア文明 最初の陶器が作られる。金や銅が使われ始める。

紀元前6500年頃 ブリテン島がヨーロッパ大陸から分離、島となる。

紀元前5600年頃 北アフリカで砂漠化が始まる。この結果サハラ砂漠が生じた。砂漠化の結果、エジプトへの移住と人口集中がおき、文明化を促進した。

紀元前5100年頃 南メソポタミアで神殿が建築される。

ナイル川の渓谷で農業が行われる。
車輪と鋤の発明。
前5000年頃~前3000年頃

アジアでイネの耕作紀元前7000年頃 南アジアのメヘルガル遺跡で定住農耕生活。北西ヨーロッパには森林が広がり、狩人達が新たな狩猟具を手にして獲物を追い始めていた。投げやりに替わって、弓矢が普及した時代で、中石器時代と呼ばれる。北アメリカでは、気候が温暖化し、マンモスが姿を消す。遊牧インディアンは定住・農耕生活へと向かう。
紀元前7000年? – 紀元前5000年? 「彭頭山文化」中国に於ける最古の水稲とされる。「長江文明」河姆渡遺跡 紀元前6000年 – 紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見。狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われた。住居は高床式裴李崗文化…紀元前7000?~紀元前5000?。一般的な「新石器時代」のはじまり。定住し農業も行われていた。河南省(黄河中流)。土器は赤褐色
紀元前6000年頃 — 朝鮮が新石器時代に入る。中国:河南省舞陽県の賈湖遺跡。
紀元前7500年頃 千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚が作られる。そこから出た土器を手懸かりにおおよその年代を割り出すと、現在まで発見された貝塚の中で最も古い時期の貝塚ということができる。紀元前7000年~紀元前6700年頃の神奈川県夏島貝塚で最古の犬の化石。

数個の竪穴住居で一集落を構成する。
圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。

鹿児島で旧石器時代(縄文早期)の住居跡見つかる

青森三内丸山遺跡 今から約5500年前から4000年前まで(縄文時代前期から中期まで)の1500年間にわたって継続して営まれた巨大な集落群が見つかる’93 青森県

前5300年頃  鹿児島南方の鬼界カルデラで大噴火。

日高町 神鍋遺跡・ミダレオ古墳群’69 押型文土器・住居跡・貯蔵穴・配石遺構美方町広井の上ノ山遺跡(住居跡)、山東町 茶堂散布地
前期<span style=”font-size: small紀元前800年頃前3000年頃 初期の文明が現れる。
古代エジプト文明、メソポタミア文明など。人為による環境破壊がそろそろ表面化-
塩害、塩類集積、森林破壊、レバノン杉など参照。紀元前36世紀 – シュメール文明、都市国家分立
黄河文明 仰韶文化中国で水牛の家畜化

稲の栽培がインド北東部のアッサム地方から中国雲南の雲貴高原にかけての山岳地帯でも始まった。

温暖な気候が続き、日本では縄文時代人が各地に拡がった時期竪穴住居が広場を囲んで集落をつくる。
犬を人と一緒に埋葬。屈葬。木器・土器・櫛などに漆を塗ることが始まる。耳飾り・勾玉・管玉などの装身具がつくられる。
日高町 神鍋遺跡(竪穴住居跡) 少量の縄文土器船元式、黒木Ⅱ式出土
中期<span style=”font-size: small前400年頃紀元前3000年頃 – 新石器時代が終わった。
クレタ文明が始まった。「エジプト文明」紀元前3000年前後に中央集権的な統一国家となる。紀元前2600年から紀元前1800年「インダス文明」アメリカ大陸で最も古い都市カラルの建設が始まった。
表意文字 – 中国海岸線ほぼ現在に近くなる。石棒・土偶などの呪物が盛んにつくられる。石柱祭壇。抜歯の風習が始まる。気温低下始める。立体的文様のある大型土器が流行する。

集落の規模が大きくなる。植林農法の種類もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化する。

人口26万1300人。

中谷貝塚、荒原貝塚、長谷貝塚 豊岡市後期紀元50年頃四川文明 三星堆遺跡 大量の青銅器大湯環状列石(ストーンサークル)、東北地方に集中。ウッドサークル(巨大木柱遺跡)。敷石住居址。人口16万300人。山東町 柿坪遺跡、粟鹿遺跡石ヶ堂遺跡 養父市森字石ヶ堂 縄文/弥生/古墳
ナベ遺跡(集落跡)養父市八鹿町高柳 縄文時代~平安時代
日高町 祢布ヶ森遺跡、日高町伊府遺跡(石器)
晩期約3000年~2300年前古代ギリシアで「古代オリンピック」始まる気温2度前後低下。海面も低下。漁労活動壊滅的打撃受ける。大湯環状列石(ストーンサークル)、東北地方に集中。福岡板付遺跡 菜畑遺跡 北九州・近畿でも縄文水田。京都府夜久野町 菖蒲池遺跡
弥生早期紀元

13

中国における稲作は長江中流域起源説が有力である。また、古代の銅鐸の絵には、狩猟文化と稲作文化がはっきりと描かれている。中国が春秋時代を迎え、中国国内の騒乱から逃れれた人々が、稲作文化と一緒に移住して来たと考える。ムラからクニへ水稲耕作・大陸系石器・支石墓(しせきぼ)の伝来。

日本最古の水田(板付遺跡)

北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。

前期前800~前400中期前400~100年紀元前後 古代ローマ、漢などの古代帝国が出現。
* 8年 – 王莽により前漢滅亡。新が建てられる。
* 9年 – トイトブルクの戦いでローマがゲルマニア人に敗れる。
* 14年 – アウグストゥス死去。* 30年頃 – イエス、パレスティナで刑死。この頃、キリスト教が成立。
* 37年 – パルティアとローマが和睦する。
* 62年 – エルサレムでキリスト教エルサレム教会の初代主教ヤコブが殉教
* 64年 – ローマ大火。ネロがキリスト教を迫害。
* 68年 – ネロ自殺。以降、4皇帝が乱立し内戦状態となる。フラウィウス朝の確立。
* 70年 – ユダヤ戦争でエルサレムが陥落する。
* 73年 – ローマ軍が包囲したマサダ要塞が陥落。
* 79年 – ベスビオ火山の噴火によりポンペイが埋没。
* 80年 – ローマにコロッセウムが完成。
* 96年 – 古代ローマで五賢帝時代始まる(- 180年)。
* 97年 – 甘英が班超により大秦国(ローマ帝国)へ派遣される。
「秦」紀元前221年には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦の始皇帝が「漢字」の字体統一、万里の長城建設に着手。秦滅亡後、前漢成立。「シルクロード」、中国と地中海世界の間の交易路、特にローマ帝国と秦漢帝国を結ぶルート

* 18年 – 赤眉の乱(- 27年)
* 23年 – 王莽が死亡し、新が滅亡。
* 25年 – 劉秀(光武帝)が皇帝に即位する。後漢王朝の成立(- 220年)。
* 36年 – 後漢の光武帝、中国を統一する。

* 40年 – ベトナムで徴姉妹が後漢に対して反乱を起こす(- 43年)。ローマのブリタンニア支配が始まる。

紀元前後 – 倭は百余国に分かれており、その一部は前漢の楽浪郡に朝献をする。(『漢書』地理志)

* 57年 – 倭の奴国王が後漢に朝献して、倭奴国王印(金印紫綬)を授けられる。(後漢・建武中元2、丁巳;後漢書光武帝紀、同東夷伝)

* 85年ごろ – 鮮卑が北匈奴を破る。

* 94年 – 後漢の班超が西域諸国を制圧。

吉野ヶ里遺跡のはじまり57年 委奴国王(倭の奴と読む説有り)が後漢に朝貢し、光武帝から印綬を授けられる(『後漢書』光武帝紀、同東夷伝)。筑前国志賀島(福岡市)出土の金印「漢委奴国王」にあたる。

近畿地方を中心に銅鐸がつくられる。

西日本から関東にかけて集落の周りに濠や土塁を巡らした環濠集落が増える。佐賀県神埼郡吉野ヶ里遺跡、大阪府池上・曽根遺跡。

瀬戸内海沿岸各地に高地性集落が集中的に営まれる。畿内と瀬戸内地域に軍事的緊張。集落相互間の支配・従属的秩序化が進む。関東や北陸にも普及する。

中期後半(1世紀代)以降は、畿内と瀬戸内地域に人的交流があり、平和的関係になっている。

銅鐸が急に大型化する。近畿式と三遠(さんえん)式がある。三遠とは、旧国名の三河・遠江で、現愛知県東南部部と静岡県西南部を指す。
倭国内乱が続く

鳥取青谷上寺地遺跡戦いの痕跡を残した人骨が、全国各地の弥生遺跡から出土
1世紀末 – 弥生文化が東北地方に波及する。

この頃、倭人は百余国に分かれて、その中の何国かは前漢の楽浪郡に朝献するという(『漢書』地理志)

大阪府和泉市の池上・曽根遺跡(弥生Ⅳ期・中期後半)の大型建物のヒノキの伐採年が紀元前52年と年輪年代法で判定された。

和田山町 筒江片引遺跡山東町 柿坪遺跡、仲田遺跡
大盛山遺跡 和田山町岡田字更杵他(集落跡)
豊岡市出石町袴狭 砂入遺跡 豊岡市出石町宮内 入佐川遺跡 弥生/古墳/奈良/平安
後期100年~400年石器が消滅し、鉄器が普及する。後漢成立。司馬遷『史記』編纂弥生式土器が現れる107年倭国王(倭面土国王)帥升ら後漢の安帝に生口160人を献ずる(『後漢書』光武帝紀、同東夷伝 永初1丁未)。この頃、倭国乱れ、互いに攻伐し(倭国大乱)、長い間盟主なし。

この後、卑弥呼が共立されて王となる。(『魏志』倭人伝)。

「倭国乱」は、北部九州が主要な戦場ではなかったと考えられている。大量の人骨(約90体以上)が散乱した状態で発見される
畿内勢力と吉備・瀬戸内勢力の間に戦いはなかった。

180年代の「中平□年」(中平は後漢霊帝治世の年号、184~189年間)の金象嵌紀年名の大刀(奈良県天理市東大寺山古墳から出土)。「倭国乱」収束後に「倭国王」が後漢に遣使した時に「下賜」されたものと考えられている。

西日本に青銅製の武器型祭器が使われる

祭祀が行われていた
2
卑弥呼の墓と目される箸墓古墳が築造されている。
300 北九州で支石墓・甕棺墓が現れる。多数の前漢鏡を副葬する甕棺墓が少数見つかっている。

近畿地方で方形周溝墓がつくられた

山東町 森向山遺跡(古墳) 弥生/古墳/奈良/平安
加都遺跡(宮ヶ田地区)和田山町加都字宮ヶ田他
集落遺跡(ナベ遺跡) 養父市八鹿町高柳’07祢布ヶ森遺跡、久田谷古墳遺跡 銅鐸破片117片豊岡市日高町久田谷和田山町 大盛山遺跡(環壕集落)山東町 柿坪中山墳墓群(環壕集落)豊岡市 気比遺跡 銅鐸4個
出石町 袴狭遺跡 船団の線刻画のある木製品(板材) 弥生~平安(官衙跡) 
古墳前期4世紀後半238年 呉の「赤烏元年」の紀年銘を持つ画文帯神獣鏡(山梨県市川三郷町の鳥居原狐塚古墳から出土)。500 春秋戦国時代。春秋時代の中国の思想家。儒家の始祖「孔子」「景初三年」の紀年名を持つ三角縁神獣鏡が大阪府黄金塚と島根県大原郡の神原古墳から出土。
大和政権
「□始元年」の紀年名を持つ三角縁神獣鏡が群馬県高崎市の芝崎古墳と兵庫県豊岡市森尾古墳から出土。倭の五王  巨大古墳391 倭国朝鮮進出、高句麗と戦う538 百済から仏像・教典伝来奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡、弥生時代終末期の畿内勢力の中心的位置を占める宗教的・政治的勢力の本拠の一つ。前方後円墳の祖型とみなされる墳丘が集中して見られる。
邪馬台国畿内説の最有力候補地。266年(西晋の泰始2)11月、倭の女王(壱与か)遣使し、西晋に朝献する(『日本書紀』神功66年条に引く晋起居注、晋書武帝紀)。この後、413年まで中国の史書には倭の関係記事見えず。
前方後円墳出現
山際古墳 養父市八鹿’08 水上遺跡(縄文後期~平安)日高町水上 日本最古の高床倉庫跡
中期5世紀607 法隆寺建立 石舞台古墳(奈良県)645 大化の改新。難波宮に遷都

『丹波国』成立

豊岡市 森尾古墳(現在わかっている但馬最古の古墳のひとつ)
日高町水上 羽根山古墳 箱式二重石棺日高町上郷 満仲谷古墳日高町鶴岡 馬場ヶ崎古墳日高町神鍋 訓原古墳稲作が一般的に行われるようになった弥生時代には遺跡が平地部に分布するようになり、久田谷遺跡からは小さく壊された銅鐸が発見されています
後期6世紀ローマ帝国 紀元前27年(帝政の開始) から 1453年(東ローマ帝国滅亡)和田山町 茶すり山古墳・城の山古墳・池田古墳(県下第二位の規模)

山東町  柿坪遺跡(豪族居館) 全国第二位の規模

和田山町 加都遺跡(集落)

山東町  大同寺山古墳群(陶棺)


6世紀終わり~8世紀初頭592「隋」中国を統一聖徳太子遣隋使・遣唐使

大化改新

白鳳文化

律令

676 全国を大・上・中・下の四等級に分類した国が制定され国府が置かれる
840 『日本後紀』

奈良710年~794年 隋は滅亡し唐が統一710 平城京遷都741 国分寺・国分尼寺建立の詔、官道の整備、古事記・日本書紀、風土記粟鹿大明神元記北西部を分離し 『但馬国』成立

713年 北部5郡を分離し『丹後国』成立

日高町 但馬国分寺跡 寺域確認調査’73~75
但東町は古くは各地の土豪が分割領有しており、各地に存する古墳はそれらの土豪を葬祭したものと推定できる。垂仁天皇3年、出石神社の祭神天日槍が来朝し、円山川と竹野川流域の但馬が統一されたのに従い、その領有に帰したものと思われます。

但馬地方の谷あいに営まれた律令期の窯跡(小河江窯跡)’07 豊岡市日高町小河江

和田山町 加都遺跡(但馬道)


794年~1185年頃十字軍遠征960年、宋を建国794年(延暦13年)平安京に遷都905年(延喜5年)「延喜式」編纂を始め、927年(延長5年)に一応完成。

奥州藤原氏1087-1189

807年(大同2年)生野銀山開坑(伝承)804年(延暦23年)深田遺跡(日高町水上) 県指定有形文化財 深田遺跡(昭和60年)、沼地から人形を含む多量 の木簡や役所で使ったと思われる遺物が見つかる。
川岸遺跡(官衙跡) 気多郡高田郷(現在の日高町水上付近)に遷す。第1次但馬国府?(昭和59年)都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近に。祢布ヶ森遺跡の発掘調査(昭和61年) 祢布ヶ森遺跡は、第2次但馬国府である可能性が高い。
鎌倉1185年~1333年1206年、「モンゴル帝国」、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが創設「インカ帝国」16世紀まで

マルコ・ポーロ『東方見聞録』

1192年 鎌倉幕府成立、守護地頭設置但馬国守護 1185年~? – 小野時広1197年~1221年 – 安達親長

1221年~1223年 – 常陸坊昌明

1285年~1321年 – 太田政頼

?~1333年 – 太田氏


町・南北朝時代
14世紀半ば~19世紀半ば – 小氷期とされる。14世紀半ば ヨーロッパでペストの猛威。一説では人口の3割近くを失ったとされる。ルネサンス1368年 – 1644年、「明」1336年、足利尊氏が後醍醐天皇の南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開く。明徳2年(1391年)、(明徳の乱)

1392年(元中9年(北朝:明徳3年)南北朝合一(明徳の和約)

山名時氏 但馬国を掌握し、出石(豊岡市出石町)に拠点を置く。此隅山城跡 出石町宮内・袴狭
此隅山城の出城として、標高48mの神武山に木崎城(城崎城)が建築。山名氏のもとでは、山名四天王の垣屋氏が配された。別名・亀城→豊岡城守護大名として山陰地方に大勢力を張り、また赤松氏や京極氏、一色氏と並んで四職家の一つにまで数えられるに至った。氏清は戦死、時熙の家系が存続し、山名四天王(やまなしてんのう)は室町時代から戦国時代にかけて山名氏で重きをなした垣屋氏、田結庄氏、八木氏、大田垣氏の当主の総称
戦国

1441年(嘉吉元年) 赤松満祐 嘉吉の乱1429 琉球統一

将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺(嘉吉の乱)されると、同年、赤松氏討伐の総大将として大功を挙げる。この功績によって山名氏は、備後・安芸・石見・備前・美作・播磨などの守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げた。

1467年(応仁元年)- 1477年(文明9年)応仁の乱

室町幕府管領の細川勝元と、四職家山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争う。

1431年(永享3年) 山名氏竹田城構築に着手山名氏清のとき、一族で全国66ヶ国中11ヶ国の守護職を占め、「六分の一殿」と称されて権勢を誇った。
安土

1568年(永禄11年) 織田信長、足利義昭を奉じて入京する。
1549年(天文18年)フランシスコ・ザビエル、薩摩国鹿児島に上陸し、キリスト教を伝える。
1582年(天正10年) 本能寺の変1590年(天正18年) 小田原の役(豊臣秀吉の全国統一)
1542年(天文11年)、生野銀山の本格採掘始まる山名豊定の子・山名豊国が秀吉を通じて信長に降伏したため、秀吉の家臣となった。その後、豊国は秀吉から因幡にわずかの所領を与えられ、御伽衆として迎えられた。
羽柴秀吉による1569年の但馬の山名勢攻略後、1580年に秀吉の武将宮部善祥房が神武山に城を築き、城下町の形成に着手したのが豊岡のまちの始まりであるといわれています。宮部継潤が城崎荘を豊岡と改名め、豊岡城を築く。竹田城秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代になる。但馬平定 出石城落城

1600-1868(慶応4年)「清」、1636年に満州に建国、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝1769年8月15日-1821年5月5日 革命期フランスの軍人・政治家で、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世

1776年にアメリカ合衆国独立

1603年(慶長8年)徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。近代明治20世紀 – 科学技術の発達、人口の爆発的増加、世界大戦、環境破壊、地球温暖化や資源枯渇の懸念。安政元年(1854年)正月に再来したペリー艦隊は、重ねて開国を要求安政の大獄 1858年(安政5年)。
万円元年3月3日(1860根) 桜田門外の変慶応2年(1866年) 薩長同盟締結
日米和親条約が締結1867年(慶応3年)。鎖国体制が終焉。
1867年 大政奉還、王政復古
1868年10月23日(旧9月8日)明治改元1868年 戊辰戦争
1871年廃藩置県
文久3年(1863年) 生野の変
木戸孝允但馬出石に潜伏1868年(慶応4年) 久美浜県(くみはまけん)設置丹後、丹波、但馬、播磨、美作5ヶ国の久美浜代官所、生野代官所支配地および但馬、丹波の旗本領の926ヶ村23万石を管轄した。

*1…先カンブリア時代は地質学的証拠に乏しい時代であるため、先カンブリア時代に属する地質年代に関しての用語はまだ定まっていない。一般には、冥王代、始生代(太古代)、原生代に区分されることが多い。20世紀に入ってから、古生代、中生代、新生代の地史区分にならって、先カンブリア時代は冥王代と始生代と原生代に三分された。さらに細かい時代に分けられる事もある。化石などといった地質学的証拠があまりない時代であり、陰性代と呼ぶこともある。

*2…古生代 先カンブリア時代の後に相当する。地質学的には、古生代以前の地質年代をはっきりと確定することはできない。

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■参考資料
週刊「ビジュアル日本の歴史」110号 日本人の誕生10 (株)デアゴスティーニ・ジャパン

日本の酒の歴史 坂口謹一郎 監修/加藤べん三郎 編 研成社

兵庫県教育委員会ページ
ウイキペディア
神奈備へようこそ
<a href=”http://www.genbu.net/cgi-bin/mapindex.cgi?index=1&amp玄松子ページ

井上夢間さんの「夢間草廬(むけんのこや)-ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」(引用許可済)

日高町史

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たじまる 古墳-9

tajimaru_b歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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ヤマト政権の地方官制

1.地方官制のはじまり

姓(カバネ)とは、古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号です。その発祥の経緯は明確ではないようです。ヤマト王権が成熟し、大王家を中心として有力氏族の職掌や立場が次第に確定していく中で、各有力者の職掌や地位を明示するために付与されたと考えられています。

  • 職掌を示す姓(カバネ)としては、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)など
  • 地位・格式・立場を示す姓(カバネ)としては、公(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などがあります。
    その他の姓(カバネ)としては、百済滅亡後に亡命してきた百済王族に与えられた王(こにきし)などがありました。
    姓(カバネ)の中では、臣、連が一番格式が高いとされ、最も有力な者には更に大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓(カバネ)が与えられていました。姓(カバネ)の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置づけられ、その地位は、実質上、無意味化していきました。代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)の姓(カバネ)が与えられました。

    2.地方支配体制の進展

    律令制以前において、体系的な官制は整備されていません。地方の行政組織が全国的規模で動き出したのは、飛鳥時代、第四十代天武朝(673年~686年)においてであったと推定されています。国造は、畿内及びその周辺のヤマト政権の支配が直接及んでいた地域では、六世紀を通じて本格的に整備されました。それまで分国していた地方のクニ(小地域)をまとめて、「国」という行政区域を設定し、それぞれの地方の最も優勢な豪族を国造に拝命し、国造国の支配に当たらせ、ヤマト政権への奉仕を行わせるというものでした。
    一方、同じ頃からヤマト政権は、地方支配の直接的な拠点として、直轄領であるミヤケ(屯倉)を設定していきました。ミヤケの初見は、磐井の乱の後に設定された糟屋屯倉(福岡県)ですが、その後、六世紀前半には北部九州から瀬戸内海沿岸に、そして七世紀初頭にかけて、東国にまで拡大されました。
    ミヤケの基本構成は、宅(ヤケ)すなわち政庁、倉すなわち正倉、田すなわち水田の三つであるとされていますが、その他に、山林、採鉄地、鉱山、塩山、港湾、軍事基地、漁場、牧場、猟場など、一定の地域を占有する多様なものが存在しました。
    但馬にある豊岡市三宅、関宮町三宅、京丹後市丹後町三宅、舞鶴市三宅、亀岡市三宅町という地名もそうしたものであったと思われます。ということは但馬はこの頃、すでにヤマト政権の支配が直接及んでいた地域であったということを示しています。

    3.国造(くにのみやつこ・コクゾウ)

    国造は、律令制が導入される以前のヤマト王権の地方支配形態の一つ(古くは国と県を同列に扱っていたとする説もある)です。訓読みの「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされます。この国がしめす範囲は、律令国が整備される前の行政区分であるためはっきりと判明していません。元来、その地域の豪族が支配していた領域がそのまま国として扱われていたと考えられている。また国造の定員も1人とは限らず、一つの国に複数の国造がいる場合もあったようです。

    ヤマト王権への忠誠度が高い県主とは違い、元々、国主(くにぬし)と言われていた有力な地方の豪族がヤマト王権に服したときに、そのまま国造に任命され、臣・連・君・公・直などの姓が贈られ、かなりの自主性の下にその地方の支配を任されていました。そのため軍事権、裁判権を持つなどその職権の範囲はかなり広かったようです。

    国造には、東国の国造のように部民やミヤケ(屯倉)の管理なども行っていたり、出雲の国造のように神祇を祀り、祭祀により領内を統治することなども行っていたり、紀伊の国造などのように外交に従事したりしたことなどが分かっています。また、筑紫の国造のように北九州を勢力下に入れ、ヤマト政権に反抗する者もいました。しかし、国造の下に県(あがた)があり、かなり整備された国県制があったとする見解もありますが、国造制の実態や中小豪族との関係で不明な点が多く、律令制以前の地方支配の実態は明確になっていません。

    大化の改新以降は世襲制の名誉職、主に祭祀を司るものになり、従来の国造の職務は郡司に置き換えられた。また、国造が治めていた国は整理・統合、あるいは分割されていき、律令国に置き換えられていきました。

    3.県(アガタ)と県(コホリ・コオリ)

    県(アガタ)

    4世紀~6世紀頃?に県を定めたのではないかとされています。

    『古事記』成務段に、「大国小国の国造(くにのみやつこ)を定めたまい、また国々の堺、及び大県(おおあがた)小県(おあがた)の県主(あがたぬし)を定めたまう。」とあり、成務紀4年、『日本書紀』成務紀4年「今より以降国郡に長を立て、県邑(あがた・むら)に首を置かむ。即ち当国の幹了しき者を取りて、其の国郡の首長に任ぜよ。」、5年「国郡に造長を立て、県邑に稲置(いなぎ)[*2]を置く。」「則ち山河を隔(さか)いて国郡を分ち、阡陌(せんぱく)[*3]に随ひて、邑里を定む。」
    つまり、成務紀4年に、「国>郡>県>邑」というはじめての地方行政区分ができました。翌5年に「邑」をさらに里をつくり「国>郡>県>邑>里>稲置」と細分化しました。

    成務天皇は13代の天皇(大王)で、応神(15代)、仁徳(16代)や倭の五王よりも遡る4世紀のことで、時代でいうと古墳時代の前期にあたります。この時代に全国的に国造・県主を配置したとは考えがたく、記事そのものは『日本書紀』の脚色であると考えられています。また成務天皇自体の実在性が疑われています。しかし、この記事が、初期ヤマト政権において、服属させた周辺の豪族を県主として把握し、県主によって支配される領域を県(アガタ)と呼んでいたことを伝えていると考えることはできます。

    [*2] 稲置(いなぎ)…律令制や大化の改新以前の古代の日本にあったとされる地方行政単位、県 (こおり) を治める首長
    [*3] 阡陌(せんぱく)…阡…田の間を南北に通る小道。陌…東西に通ずるあぜ道。

    県(コホリ・コオリ)

    6世紀後半~7世紀中?に、在地首長の支配力に依存した県(アガタ)から、王権が統治する屯倉(みやけ)を拠点として直接的に地方の把握・支配の体系をめざす県(コホリ)を設置しました。

    『日本書紀』安閑天皇二年(535)5月に屯倉の大量設置の記事がみられますが、これらの屯倉の名前の多くが、現存する地名と一致し、その実在を確認できます。また、同年八月の条に、犬養部の設置記事がみられますが、現存する屯倉の地名と犬養という地名との近接例も多いことから、屯倉の守衛に番犬が用いられた(番犬を飼養していたのが犬養氏)ということが明らかになっており、屯倉や犬養部の設置時期も安閑天皇の頃(6世紀前半頃)に始まったと推察されます。

    この屯倉がある程度発達・広域展開した段階で、屯倉を拠点として、直接的に地方を把握・管轄した単位が県(コホリ)であり、のちに律令制における郡(コホリ)へと発展していったと考えられています。
    県(アガタ)と県(コホリ)との違いは、前者が在地首長の支配力に依存し、間接的に地方を把握するものであったのに対し、後者は直接的に地方の把握・支配の体系を作り出そうとしていたところにあるでしょう。

    ※律令制での行政区分:「国>県>郡>邑>里>稲置」

    県主(あがたのぬし)は、律令制が導入される以前のヤマト王権の職種・姓(かばね)の一つです。

    ヤマト王権が直轄する行政区分の一つに県(あがた)があり、県(あがた)は、国の下部に有った行政区分と言われています。ただし、古くは国と県を同列に扱っていたとする説もあり、その地方の豪族が治めていた小国家の範囲であったと考えられています。しかし、その詳細は律令国が整備される前の行政区分であるためはっきりとはしていない部分が多いのです。地方の豪族がそのまま任じられたと言われている国造(くにのみやっこ)とは違い、県主はヤマト王権への忠誠度が高く、ヤマト王権の代権者としてその地方を治めたと考えられています。県主は、西日本に集中し、東日本には少ないものでした。ヤマト王権の支配が確立する時期が遅かった東日本では、ヤマト王権に帰属した豪族達にその支配地域をそのまま治めさせ、ほぼ全権を委任する国造(くにのみやつこ・コクゾウ)としてとらえ、設置されたのに対し、王権の確立が早かった西日本では豪族の支配地域の地域をヤマト王権が掌握する支配体制の整備が早くから行われた為と考えられています。

    天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した八色の姓(やくさのかばね)[*6]の導入や律令制度が導入された後も、姓(かばね)自体は存続していました。ずっと後の近代でも県主が使われている例があり、主要な例に賀茂神社の鴨県主家などがあります。
    -出典: 『日本の古代』放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

たじまる 古墳-8

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古代国家の成立

概 要

6世紀前期に、近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド王(継体天皇)が現れヤマト王統を統一しました。男大迹(オホド)王の治世には北九州の有力豪族である筑紫君磐井が新羅と連携してヤマト王権との軍事衝突を起こした(磐井の乱)がすぐに鎮圧された。しかし、この事件を契機としてヤマト王権による朝鮮半島南部への進出活動が急速に衰えることとなりました。またオホド王の登場以降、東北から南九州に及ぶ地域の統合が急速に進み、政治的な統一がなされたとする見解があります。

1.古代国家の成立

雄略天皇が死んで以来、継体の即位を経てもなお、列島全体は動揺していましたが、その動揺は六世紀後半に、蘇我氏の勢力を背景にした欽明の即位によって、ひとまず収束しました。欽明大王と蘇我稲目の下に結集したヤマト王権の支配者層は、国内における対朝鮮関係の破綻という「非常時」のなかで結集し、新たな段階の権力集中を行います。

2.大漢国

継体天皇の時代は、北陸王権とヤマト王権が融合した時代であると捉えることができます。『梁書』東夷伝には北陸王権の領域を示す大漢国のことが記されています。

その頃、山陰地方は「文身国」により統治され、南部の山陽地方は「吉備国」により統治されていました。文身国の中心王都は出雲です。その出雲から東に水行5千余里(約260km~300km)の地点に「大漢国」の王都があります。おそらく約260km~300kmから推定すると、福井県・滋賀県のいずれかに王都があったと推定されます。具体的に利便性や気比神宮から敦賀近辺と比定するとします。ツヌガアラシトを祀る北陸一の気比神宮のある敦賀は、律令制では越前国ですが、他の越前地域と交通遮断されていること、江戸時代に若狭藩(小浜藩)領であったことから福井県内の地域区分で言う嶺南と一致する。敦賀以北の越前よりも風俗が若狭あるいは近江に近いことが理由とされています。

大漢国の国域は但馬・丹後地方から越後地方にかけての日本海沿岸の大国でした。この頃、丹後地方はヤマト王権の勢力下にありました。継体天皇の出自を辿ると垂仁天皇や応神天皇に至るとされています。これはヤマト王権が近隣の王権と婚姻関係を結んだ結果でもあります。

3.古代日本史上最大の謎 継体天皇

継体天皇は、オホド王と呼ばれていますが、別名として『古事記』に袁本杼命(おおどのみこと)、『日本書紀』に男大迹王(おおどのおおきみ)、彦太尊(ひこふとのみこと)と記しています。継体天皇は、古代日本史上最大の謎といってもいいくらいで、なぜ応神天皇の五世の孫という、皇族としてはぎりぎりの人物が即位できたのかということです。都から遠い北陸の地方貴族です。それに継体の方から望んで王位に就いたわけではないのです。ヤマト側が、ぜひにと頭を下げたのです。ただし、『日本書紀』の言い分は、先帝武烈天皇に子がなかったため、やむを得ない処置だったとしています。

誉田天皇(ほむだのすめらみこと・応神天皇)の五世の孫で、彦主人王の子で、彦主人王が近江国高島郡三尾(滋賀県安曇川町)の振媛の美貌の噂を聞きつけ、使いを遣わし、越前国三国の坂中居に迎え入れて妃にしました。そして継体が生まれましたが、父はすぐになくなってしまいます。振媛は嘆き悲しみ、「こうして故郷から遠く離れて暮らしている。どうして父母に孝養を尽くすことができようか。高向(福井県丸岡町)に帰り、この子をお育てしようと思う」

天皇はこうして高向の地ですくすくと育ち、成人しました。人をこよなく愛し、賢者を敬い、寛容な心を持っていたといいます。
なぜ、継体天皇が大和に連れて行かれることになったのか。『日本書紀』は説明が続きます。

継体五十七歳、もうすでに初老といっていい。平均寿命が今よりも短かったであろうこの時代ならば、もはや正真正銘の老人といってもいいくらいではないでしょうか。この時、ヤマトでは武烈天皇が崩御されていました。武烈には子どもがなかったから、武烈の王統は絶たれてしまったのです。

「継体王をおいて他には、相応しい方はいらっしゃらないでしょう」と同意しました。そこで、正式な使いを三国に差し向けてみました。すると継体は胡床にどかりと座り、陪審を侍らせ、その落ち着いた様は、まるですでに「帝」の様であったといいます。
遣わされた使者は、その様子にいよいよかしこまり、心から忠誠を誓いたいと願いました。しかし、継体は疑いの念を抱き、なかなか首を縦に振りませんでした。

河内馬飼首荒籠(馬の飼育に従事していた一族)が密かに継体に使者を出し、ヤマト朝廷の申し出が本気であることを伝えました。こうして、使者が現れて三夜にして、ようやく継体は腰を上げたのでした。
継体という意味ですが、もちろん後世になって付けられた名前です。

「国体」とは、古代日本でも『出雲国造神賀詞』に「国体」と書いて「クニカタ」と読む言葉があり「国の様子」を意味しています。「神の御子孫たる皇孫が、天地が果てることの無きが如く、統べ治め給う。」という、わが国固有の御神勅に基づく国のあり方を中心的観念としています。明治になって制定された大日本帝国憲法は、主に伊藤博文が海外視察によって影響を受けたドイツ諸邦の憲法を参照して構成されたものです。「国制」即ち、国を治める形、国家意思決定過程の定めを意味する“http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.giferfassung”の語を、当初「国憲」と訳してたことからも明らかなように、自然国家としての連続性を意味する国体の表出が、不文成文の憲法であるという相関関係にあるそうです。
継体という言葉から、国の存亡の危機を遠い血筋から王位に就いたことで、国体を継いだ(救った)天皇という意味であるといえないでしょうか。

4.なぜ継体天皇が求められたのか

『日本書紀』に対し、『古事記』は、第二十四代仁賢天皇から三十三代推古天皇までは天皇の系譜を記しているだけなので、継体についても、「武烈天皇の崩御後、皇位を継承する者がいなかった。そこで品太天皇の五世の孫、近江国から上っていただき、手白髪命(たしらがのみこと・手白香皇女)を娶らせ、天下をお授け申し上げた」、といたって簡潔に記しています。

記紀の違いは、継体天皇の出身地の差にあります。『日本書紀』は北陸といい、『古事記』は、近江としています。大漢国は但馬から北陸、近江にかけての国だったので、北陸、近江が継体のテリトリーであったことは間違いないでしょう。水野祐氏は、「三王朝交替説」を唱えました。水野氏は、記紀の天皇が亡くなられた干支、諡号などにより、万世一系の天皇家というものは幻想に他ならないとし、大化改新以前に、少なくとも三つの王家が入れ替わっていると推理しました。しかもその王家それぞれに、血縁関係はなかったというのです。

その節を受けて、直木孝次郎氏は、三~四世紀、大和盆地にヤマト政権が樹立されたが、これは「王朝」や「朝廷」と呼ぶにふさわしいものではなく、これを「先応神朝」と名づけました。その後難波に応神天皇が都をつくった時点で、ようやく王朝が誕生した、とする考えです。
崇神天皇と垂仁天皇には「イリ」の名があります。景行天皇や仲哀天皇からつづく王の名には、「オオタラシ」のように「タラシ」の名が、さらに応神天皇からつづく王の名には、「ホムダワケ」のように、「ワケ」の名が付いています。

つまり、応神天皇は、「タラシ」の王家の次の「ワケ」の王家に他ならない、といいます。応神が新王朝の始祖にふさわしいのは、継体同様、誕生そのものに謎があり、仲哀天皇の子どもかどうか、あるいは神の子どもであるのか、判然としないことも理由の一つとなっています。これは、応神天皇の周囲に神秘的な話が隠されていることです。こうした神秘性、神話的な伝承を持つ人物こそ始祖王にふさわしい、とするのです。

応神の子の仁徳天皇は「聖天子」であったと記紀は伝えています。即位後「国見」をしてみると、家々から立ち上る煙が少ない様子を見て、国は貧しいのだと実感し、三年間課役を免除したといいます。この善政に感謝し、民衆が「聖帝」と称賛していたといいます。したがって、仁徳天皇も始祖王の資格があるとする直木氏は、応神と仁徳は、実際には同一人物なのではないかします。応神も仁徳も「名前を交換した」という記述が『日本書紀』にあって、それは親子ともども名を交換したということではなく、天皇家の系譜を長く見せかけるために、同一人物を二人に分けたために似たような話が続いたのだ、としています。

直木氏は、水野氏の指摘を継承し、『日本書紀』のいうヤマト朝廷の初代の天皇・神武の伝説は、継体天皇をモデルにして製作されたものと推理しました。

神武は地方(九州)出身であり、継体もまた同様であり、どちらも何度かの遷都を繰り返したのちにヤマトに入ることができましたし、双方とも、崩御ののち、後継者争いが勃発している、などの共通点が存在すると指摘したのです。さらに継体天皇は皇族ではなく、越前や近江周辺の地方豪族にほかならないとして、応神天皇五世の孫というのは「自称」にすぎなかったとします。そして武烈天皇崩御の後にヤマトの混乱につけ込み、河内・山城に進出し、在地勢力とつながり、また、大伴氏らと手を組み、結果、二十年近くにわたるヤマトの動乱期を統一し、新王朝を創始した英雄に他ならない、とするのです。

井上光貞氏も同じような考えで、『日本書紀』の記述のうち、信頼できる記事は五世紀の応神天皇以降のものとし、応神を新王朝の始祖と捉えたのです。応神天皇は『日本書紀』にあるような仲哀天皇と神功皇后の間の子などではなく、九州からヤマト入りし、ヤマトの前王朝に入り婿する形で新王朝を樹立したとすりのです。また、応神から継体に続く系譜が『日本書紀』のなかで欠如していることも、応神と継体の本当の間柄を暗示している、というのです。

-出典: 『日本の古代』放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信

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たじまる 古墳-7

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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丹後国 与謝郡(よさぐん)・加佐郡(かさぐん)

与謝郡(よさぐん)

与謝郡式内大社

籠神社 京都府宮津市
大虫神社 京都府与謝郡与謝野町
小虫神社 京都府与謝郡与謝野町

加佐郡
大川神社 舞鶴市大川

7世紀に丹波国の与射評として設置され、701年の大宝律令(たいほうりつりょう)では評が郡になり、713年に丹後国が設置されると加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡となります。与謝郡には、宮津郷、日置郷、拝師郷、物部郷、山田郷、謁叡郷、神戸郷によって構成されました。地元では「よざ」と発音されることが多いようです。与謝郡は、京都府最北端にある経ヶ岬から舟屋で有名な伊根町、日本三景天橋立、丹後一宮籠(この)神社や国府・国分寺が置かれ、宮津湾に野田川流域に古墳が多く築かれた加悦(かや)までの南北に続く、古くから丹後地方の中心的な地域です

1.野田川の古墳

大きな地図で見る

加悦谷(かやだに)平野の南部、野田川上流のこの地域は、全長145mを測る丹後三大前方後円墳【国指定史跡】「蛭子山(えびすやま)古墳群」と【国指定史跡】「作山(つくりやま)古墳」、を復元整備した「古墳公園・はにわ資料館」をはじめ、「明石大師山古墳群」や旧加悦町内に存在する古墳数は630基といわれ、8つの古墳グル-プに分けられていますが、そのうちの6グル-プ80%が野田川東岸に位置しています。


蛭子山古墳

蛭子山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長145mの大型前方後円墳で、丹後地方最大の大首長墓です。その蛭子山古墳と谷一つ隔てた作山古墳は5基の中型古墳で構成され、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀から5世紀前半)にかけて築造されたものです。5基の古墳は、その墳形が、円墳、方墳、前方後円墳というように、古墳の代表的な形がそろっています。銚子山古墳、神明山古墳は古墳時代中期(5世紀)。一番大きいのは網野町の銚子山、次が丹後町の神明山。蛭子山は三番めの大きさですが、時期はこれが一番古く4世紀の後半です。

「中国の古墳文化は圧倒的に方形墳が多い。ただし、円墳もある。高句麗の古墳は圧倒的に方墳が多い。円墳は非常に少ない。百済の場合は円墳が非常に多い。方墳は少ない。」-京都大学名誉教授  上田 正昭氏

蛭子山古墳のすぐ隣りに円墳の作山古墳が数基造られているので、本家はそのまま加耶明石を拠点としていたのでしょうが、漢民族である秦の集団のあと、加耶諸国からの渡来人が代わっていった?あるいは同化していき丹後王国といった巨大な勢力をもつ国が誕生したようです。稲作が得意な江南人にとって加悦谷平野はうってつけで手放せないでしょう。太田南古墳と黒部銚子山古墳は前期~中期とされます。網野銚子山と神明山古墳は古墳時代中期であり、ほぼ同時期に造られたのは、加悦谷から竹野川に移り、さらにより大陸や日本海沿岸諸国との交易に便利な丹後半島の海沿いに拠点を移し、丹後国各郡を同族で統治していたのではないでしょうか。戦国時代には、同族や家臣に領地を分け与えるのは普通ですので、江戸時代には京極家が丹後を三藩に分けて統治していた例もあります。

この古墳が集中している背後の山が大江山であり、山麓から稜線を登って行けば「鬼の岩屋」と伝えられる岩窟があります。ここから見下ろせば、それぞれの古墳群が一望のもとにあり、「オニ」退治の伝承を考え、大きな力を持った豪族の存在と重ね合わせると、ヤマト王朝と対峙した!?この地の古代の勢力の大きさが彷彿として浮かんでくるようです。

作山古墳1号墳 2000年10月

蛭子山古墳の北側で「日吉ケ丘・明石墳墓群」が発見されました。国史跡に指定され同町にある墳墓・古墳の指定は4件目で、府内では京都市と並び最多です。弥生中期(紀元前1世紀)に造られた同時期の墳墓としては吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次ぎ2番目に大きい方形貼石墓(はりいしぼ)で、670個以上の管玉が出土しました。しかしこの墳墓は出雲・吉備から北陸にかけて見つかっている特有の四隅突出貼石墓ではなく四隅が突出せず、丹後特有の墓の形であることも独立国家が栄えていたとも考えられています。
明石墳墓群は、弥生後期-古墳前期(2-3世紀)の築造で、同王国を支えた地元の有力者が被葬者とされる丹後特有の台上墓として貴重な遺跡です。


作山古墳2号墳

加悦町教育委員会では「この時代に、すでに強大な権力を持つ王が丹後地方にいた証」と話していました。弥生時代後期後半の岩滝町にある大風呂南墳墓、峰山町の赤坂今井墳墓、古墳時代前期後半の蛭子山古墳などの大型墳墓や古墳に代表される古代丹後王国の首長権力の出現が、弥生時代中期後半までさかのぼり、約500年間の長期にわたる繁栄が見えてきました。日吉ケ丘遺跡は古代丹後王国の謎を紐解く鍵が秘められているともいえます。

加悦町日吉ケ丘墳墓跡の墳墓は、この地域の支配者の墓とみられ、新聞紙には「弥生中期最大級の墳墓、丹後王国のルーツ見えた」という活字の見出しが踊りました。(のちの)丹波地方などにも影響力を持った独立王権「丹後王国」の可能性を示す重要な遺跡とされ、専門家も注目しています。組み合わせ式木棺の跡から我が国最多の真っ赤な朱と緑色凝灰岩製管玉677個以上が出土しています。

付近には弥生時代後期末頃から古墳時代前期中頃(2~4世紀)に造られた総数40基の墳墓群があります。加悦町古墳公園(所在:京都府与謝郡与謝野町明石(あけし)として整備されています。

加悦町古墳公園にほど近い与謝野町温江には、日本海側最古の大型前方後円墳として国の史跡に指定されている白米山(しらげやま)古墳があります。出土した土器から古墳時代前期中葉(4世紀中頃)のころ築造された墓であるとされています。丹後地域独自の王権と支配体制を兼ね備えた丹後王国が野田川を中心に存在したとする説すらあります。

野田川下流域にある与謝郡岩滝町大風呂南墳墓(国重要文化財)は、弥生時代後期(200年ごろ)に丘陵の中腹に築造されたとみられる2基の台状墓からなり、その1号墓からはガラス製の釧(くしろ:腕輪)が見つかり、コバルトブルーに輝く全国で初めての完成品です。西谷3号墓(島根県出雲市)でも同じ材質の巴型勾玉がみつかり、出雲と丹後の交易が有力視されます。また、同時に鉄剣11本(同時代の一つの墓からの出土例としては全国最多)銅釧13個などの副葬品も多数出土し、弥生時代の大型武器の副葬として最大の量であり、当時、手に入れにくいものとされていた鉄製武器を大量に保持していた大きな力を持った権力者、軍事的統率者が埋葬された墓と推定されます。

弥生時代前期の出土品の中に面白い遺物があります。竹野川の河口右岸の砂丘上にある竹野(たかの)遺跡から出土した土笛(陶けん)です。6つの穴が開いた楽器で、尺八あるいはオカリナのような音がするという。この遺物は渡来系集団が弥生文化を島根、鳥取を経て日本海ルートで伝えた証だそうです。野田川が注ぐ天橋立の内海を阿蘇海というが、古代にはもっと加悦谷の奥まで入り込んいて、この付近は港に陸揚げされた西国(中国地方の)や越の国(越前から越後)、あるいは朝鮮半島からの物資を丹波を抜けて畿内へ輸送する交易ルートの要衝ではなかったでしょうか。日本海から大和に通じる最短ルートだからだ。さらに言うならば、カヤ(加悦):伽耶とかシラゲヤマ(白米山):新羅という地名自体が、当時の朝鮮半島との関係を示唆しているようにも思えます。

弥生人はウルトラマン?


与謝野・温江遺跡で人面付き土器京都新聞 2月26日/2009

弥生人の顔を模した人面付き土器(京都府与謝野町)京都府埋蔵文化財調査研究センターは26日、与謝野町温江の温江遺跡で弥生時代前期(紀元前4世紀)の「人面付き土器」が出土したと発表した。人の顔を写実的にかたどり、とさかのような頭は一見、ウルトラマンのよう。同センターは「弥生人の顔や当時の習俗を示す貴重な資料」としている。
土器は、弥生前期の集落を囲む溝跡(幅約2メートル、深さ1・2メートル)から、つぼやかめの破片とともに出土した。顔の長さ、幅ともに7・6センチ。切れ長の目や筋の通った鼻が特徴的で、見る角度によって表情が変わる。後頭部にくしで結ったまげがあり、その上にかんざしのようなものを刺していたと見られる穴もあった。両耳にも耳飾りを通していたような穴が開いており、同センターは「土器には農耕祭祀で使う特別な道具を入れた可能性が高い」と推測している。

土器は3月15日まで、同町立古墳公園はにわ資料館で公開する。(3月13日偶然に公開中で見てきました。)

設楽博己・駒澤大教授(日本考古学)の話

髪型は、先祖の住む世界から米を運び、豊作をもたらす使いの鳥の「とさか」を表現していると思われ、儀式で鳥にふんして踊る人の顔を表しているのではないか。

7.加佐郡(かさぐん)

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1.加佐郡(かさぐん)

旧丹後國加佐郡は、おおむね現在の京都府舞鶴市と京都府福知山市大江町、宮津市由良の範囲です。この地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われています。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれました。古代に国造が分立した時代には、加佐郡は丹国の領土に入っていました。7世紀に丹波国に属する加佐評として建てられ、713年に丹後国が分けられるとこれに属しました。平安時代と室町時代には加佐郡に丹後の国府が置かれていました。古代丹後地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。火(日)の神、「天火明(あめのほあかり)」を先祖神とするこの人びとを、「海部(あまべ)」といい、大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのは、5~6世紀、さらに凡海連(おおしあまのむらじ)として、海に面する古代丹後の郷を統治しはじめたのは、6~7世紀ではないかと考えられます。

この若狭から丹後にかけての古代海部と舞鶴の関係は、『丹後風土記』や、地元の伝説に色濃いことはわかっていたのですが、昭和50年代に入って、古代製塩を中心とする考古学的事実があきらかにされたことと、近年、古代学に脚光をあびて登場した、宮津籠(この)神社の国宝「海部氏系図」が、にわかに、この開係をうかびあがらせました。

丹後、若狭の古代海人(かいじん)たちの国『アマベ王国』発祥の地は、青葉山を中心とする東地域である可能性がつよくなってきたのです。

幻の大地「凡海郷(おおしあま)」

「昔、大穴持(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神がこの地にこられ、小さい島を寄せ集めて、大地をこしらえられた。これを凡海郷という。ところが大宝元年(701)3月、大地震が三日つづき、この郷は、一夜のうちに青い海にもどってしまった。高い山の二つの峯が海上にのこり、常世島(とこよじま)となる。俗には、男島女島(おしまめしま)といい、この島に、天火明(あめのほあかり)神、目子郎女(めこいらつめ)神を祭る。海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)の祖神である。」(『 丹後風土記』より)
この消え去った大地、凡海郷は、10世紀の百科辞典『和名抄(わみょうしょう)』の中に、加佐郡内に実在した郷として名があり、「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年の項に「丹波国大地震三日続く」と記しています。
海部系図は、何をかたるのか

海部系図のはじめの方に記される神々を祀る社として、勘注系図は、倉梯山の天蔵社(あまくらのやしろ)、祖母谷山口社(そぼたにやまぐちのやしろ)、朝来田口社(あせくたのくちやしろ)、その他、多くは東地域の社をあげ、実在した人物の初出である16世大倉岐命(おおくらきのみこと)は小倉の布留神社にまつり、長谷山大墓に葬ると記し、祖神「天火明神」は別名、大弥加宣志楽別(おおみかげしらくわけ)といったと記し、海部の発祥が、古代志楽郷(大浦の内側を含む)と深くかかわることがわかります。また、海部直の弟、凡海連(おおしあまのむらじ)のくだりに、「小橋」「磯嶋」の名があり、小橋の葛島(かつらじま)神社の故地、磯葛島から、昭和60年に、祭祀遺跡としての製塩土器も発見され、凡海連と、小橋、あるいは三浜丸山古墳との関係が、さらに浮びあがってきました。

3.若狭湾(わかさわん)

若狭湾は、福井県から京都府にかけての海岸地形を形成する、日本海に深く入り込んでできた湾です。福井県北部西端の越前岬と京都府北端の経ヶ岬(きょうがみさき)を直線、及び本州の海岸線によって囲んだ海域を指し、2,657 km2の面積を有します。日本海側では珍しい大規模なリアス式海岸が特徴です。

湾内には敦賀湾や美浜湾、小浜湾、舞鶴湾、宮津湾などの支湾があり、観光名所として日本三景の一つ天橋立、日本三大松原の一つ気比の松原があります。その風光明媚な地形は1955年に笙の川以西の全湾岸周辺が若狭湾国定公園の大部分に、また1968年には東岸周辺の一部が越前加賀海岸国定公園の一部に指定されていましたが、2007年8月3日に若狭湾国定公園のうち由良川以西が分離独立し、大江山などを加えて新たに丹後天橋立大江山国定公園となり、3つの国定公園を有することになりました。


経ヶ岬

若狭湾に点在する港は古来より良港でしかも京都にも近いため、鯖(サバ)などの魚介類の水揚げ地(いわゆる鯖街道)とされてきました。日露戦争当時、日本海軍はロシア海軍が本土に上陸する地点は若狭湾であると想定し、京都への侵攻を防ぐため舞鶴に鎮守府を、また舞鶴から高浜町にかけての海岸沿いには砲台を備えた要塞を設置しました。現在の舞鶴

4.舞鶴の古墳

舞鶴の古墳は分布調査の中間発表で、すでに300基をこえますが、この多くの古墳の中で、最大の石室(内璧の長さ9m、玄室巾は2.4m)は、白杉神社境内の、「鬼のやぐら」古墳で、丹後全体でも十指の中には入ると思われます。後背地のない海辺に近いこの古墳は、海部とのかかわりが考えられます。このような海岸部に展開される古墳は、他にも、田井に現存し、土器その他から存在を追認できる所として、瀬崎、佐波賀、野原などがあり、群集墳である三浜丸山古墳とともに海部にかかわるものであると思われ、古代舞鶴の海辺が、海人達の集う場所として賑ったようすがしのばれます。▲ページTOPへ

大川神社(おおかわじんじゃ)

京都府舞鶴市大川神社は、京都府舞鶴市大川にある神社である。社格は式内社(名神大)、府社。
主神 保食神(うけもちのかみ)相殿 句句廼馳神(木神)、軻遇突智神(火神)、埴山姫神(土神)、金山彦神(金神)、罔象水神(水神)大川神社は名神祭に朝廷からあしぎぬ(絹の布)や綿、木綿などを贈られた加佐郡唯一の神社で、老人嶋神社から祭神を移したという伝承をもっています。社伝によれば、「顕宗天皇乙丑年(485年)に宮柱を立て鎮祭、神位は貞観元年(859年)に従五位、同13年(861年)には正五位下に昇進した」とある。延喜式神名帳においては名神大社に列せられ、また六国史所載の神社である。近世に至り、田辺藩主細川氏の保護を受けた。
1872年(明治5年)に郷社、1919年(大正8年)に府社に列せられた。
五穀豊穣、養蚕および病除、安産の守護神として近隣に知られ、北陸や関西地方からの参拝者も多い。

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たじまる 古墳-6

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丹後国旧中郡(京丹後市大宮町、峰山町)竹野川流域の古墳群

 

概 要

丹後半島最北端の経ヶ岬から西へ、丹後半島の背骨を流れきる丹後最長の竹野(たかの)流域は、丹後四町(大宮町、峰山町、弥栄町、丹後町)を経て、日本海に流れ込む全長28kmにも及ぶ丹後一の長流です。縄文から弥生へ、さらに古墳時代へと数多くの遺跡・古墳を今に残しています。「タニハのクニ」、古丹波(丹後)の文化を生み出した中心であったと考えられています。峰山町丹波は、古代の丹波国(のち丹後国)丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。周辺地域は丹後地方有数の古墳・遺跡の密集地となっています。

竹野川流域の古墳群

丹後町平海岸にある平遺跡(へいいせき)は、縄文時代前期から中期・後期・晩期にわたるものと判明し、深さ約4mにもおよぶ砂丘の包含層から多量の土器や石器が出土しました。 一説では丹波という国名の由来ではないかいわれている峰山町丹波の湧田山(わきたやま)古墳群は、丹波と矢田の字界の丘陵上に立地し、大型前方後円墳を盟主とし、大小の円墳を主体として構成される総数約42基からなる丹後地方屈指の古墳群です。当古墳群は、発掘調査が実施されないため、内容については不明ですが、同志社大学考古学研究会の行った地形測量調査によると、一号墳は、全長100メートルに及ぶ帆立貝式の前方後円墳であることがわかりました。

竹野川流域では、弥栄町の黒部銚子山古墳とともに、丹後町神明山(しんめいやま)古墳に次ぐものであり、丹後の古代豪族の勢力等を知る上で重要です。5世紀の初めころに築造された古墳とされ、ただし、墳形からもう少し古い古墳ではないかという説もあるようです。 むしろ日本海側竹野川流域の地域で栄えていたのが丹波の中心地であったのかも知れません。丹後半島の最東北部に位置する丹後町では、神明山古墳(丹後町宮小字家の上)、産土山古墳、横穴式石室を内部主体とする片山古墳大成古墳群金銅装双龍環頭太刀柄頭が出土した高山古墳群などがあります。大宮町は、丹後大宮のひとつ大宮売(おおみやめ)神社と周辺からは古代弥生時代の頃からの遺跡が多数見つかり、女王墓と確認された大谷古墳、丹後では最大規模の石棚を持つ横穴式石室の新戸古墳、弥生時代からの方形台状墓を持つ小池・帯城の古墳群などが残されています。丹後最大級の円墳であるカジヤ古墳(峰山町大字杉谷小字カジヤ)は、長径約73メートル、短径約55メートル、高さ約9メートルの楕円形の墳丘を持つ円墳でした。昭和47年2月に土木工事に伴って峰山町教育委員会によって発掘調査が行われた結果、竪穴式石室一、木棺直葬三の合計四つの主体部と多くの副葬品が発見されました。副葬品は第一、三、四主体部から検出され、特に第一主体部の副葬品は質量ともに群を抜いており、この古墳を築く上での中心的人物と思われています。副葬品は銅鏡・鉄器類・玉類・石製腕飾類等からなりますが、特に注目されるのは鍬形 石、車輪石、石釧等の石製腕飾類が一括して出土したことは、丹後地方では初めての例です。畿内との交流を深めつつあった古墳時代前期における当地方の有力者の遺品としてその資料的価値はきわめて高い。また京丹後市峰山町赤坂の赤坂今井墳丘墓は、弥生時代後期としては国内最大級の墳墓であり、世界で2例目となる中国の顔料「漢青」(ハンブルー)が含まれたガラス管玉が出土するなど古代中国との交流をうかがわせる内容で、鉄(銅)製武器や工具類、玉類が同時期の他地域の墳墓に比べ非常に多く副葬されていることも注目されます。赤坂今井墳丘墓は、ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計211個を使った豪華な「頭飾り」や垂下式の豪華な「耳飾り」が発見されました。玉類はつながった状態で三連になっており、葬られた人物の頭を取り巻くように並んでうことから、頭を飾る宝冠のようなものと推測されています。このような玉類を使った頭飾りの出土は、国内や中国・朝鮮半島でも例がありません。また、この古墳の被葬者が埋葬された時期は、邪馬台国の卑弥呼の時代と重なります。他にも、両袖式横穴式石室の桃谷古墳(峰山町)、弥栄町では、府内では例をみなかった装飾付水さしと角杯形土器が出土した大耳尾古墳群ニゴレ古墳、さらに1994年、日本最古の魏鏡と一躍全国に名をはせた弥栄町と峰山町にまたがる太田南古墳など、有名・無名を問わず数え切れない多くの古墳が存在しています。

神明山古墳(しんめいやまこふん)

【国指定史跡】 京都府京丹後市丹後町大字宮

古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で墳丘長190メートル。丹後半島を貫く竹野川の河口付近に位置する、網野銚子山古墳に次いで日本海側最大級の丹後三代古墳です。葺き石と丹後型円筒埴輪列をもつ三段築成。丹後一帯を支配した豪族の墓と推測されています。

かつて古墳の北西にあった潟湖・竹野湖のほとりにあり、砂丘で海と隔たっていることが指摘されていました。船と船を漕ぐ人物の埴輪が出土しており、古代の海岸線と平行に築造されていて、葺石を貼っているから海上から眺めると白色に輝いてよく目立ち、港の位置を示す標識にもなっていました。同様に4世紀の後半以降、港との関係で大規模な前方後円墳が現れ、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、その地域最大の古墳も港との関係で出現したといわれています。このようなことから、丹後王国(丹後政権)論が提出されています。

竹野神社(たかのじんじゃ)

京都府京丹後市丹後町宮小字宮谷245

丹後国竹野郡 式内大社。

主 祭 神  天照皇大神

相  殿  竹野媛命 日子坐王命 建豊波豆良和気命

国道178号線から府道75号線を南に下ると、史跡神明山古墳の傍らに鎮座しています。「延喜式」神名帳に記される式内大社に比定される立派な神社です。通称「斎宮(いつきのみや)」。社殿はあったが、
末社斎宮神社本殿は、本殿とは対照的な小振りな一間社流造であるが賑やかな装飾をもつ。中門は神社の門としては珍らしい向唐門(むかいからもん)で、左右に桟敷舎(さじきしゃ)と神輿庫(みこしこ)付属しています。

中門は神社の門としては珍しい向唐門の派手な印象を与える建物で、いずれも京都府登録文化財として指定されています。左右に桟敷舎(さじきしゃ)と神輿庫(みこしこ)を配しています。

鳥居の横には小さな池があり小さな社が建っています。隠野とは、黄泉に通じる国という意味。
竹野媛命は、竹野の里を国府としたとの伝承を持つ丹波の大県主由碁理の娘で、開化天皇の妃となり、比古由牟須美命を生んだと『古事記』に記載されている。竹野神社は竹野媛は年老いて郷里に帰り、天照大神を奉祀したのが創建とされる。斎宮の創祀もその頃と言う。
当社一体の地域は早くから開けた所であった。弥生前期の竹野遺跡をはじめ、神明山古墳、産土山古墳などが知られている。

現在の社殿は享禄一年(1528)の火災で焼けたあと仮普請のままでしたが、文政十三年(1830年)に再建されたものです。
本殿は規模の大きな一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で装飾が抑えられた荘厳な建物であり、斎宮神社本殿は対照的な小振りな一間社流造で賑やかな装飾を有しています。現在の社殿は文政十三年(1830年)に再建されたものです。
本殿は規模の大きな一間社流造で装飾が抑えられた荘厳な建物であり、

摂社斎宮(いつきのみや)神社

斎宮神社には、第三十一代用明天皇の皇子である、麻呂子親王も祀られ、鬼賊退治と丹後七仏薬師の伝承があります。斎宮神社本殿は対照的な小振りな一間社流造で賑やかな装飾を有しています。これらの建物は、間人(たいざ)村や当村の大工により建立されたそうです。

黒部銚子山古墳


京丹後市弥栄町黒部、竹野川右岸の丘陵端部に立地する大型前方後円墳。葺石・円筒埴輪の存在が知られている。規模は全長105m、後円部径70m、高15m、前方部幅50m、高さ11m。二段構成 前方部は東南を向く。墳丘は丘尾を切断して構築され、墳丘斜面にテラスを設ける二段築成で、円筒形の埴輪片が採取されていることから、テラスには円筒埴輪が据えられていたと推定されています。また、斜面には葺き石が施されていたことが伺えます。

墳丘の依存状態はきわめて良好で、非常に整った墳形を呈しています。発掘調査が実施されていないため、内部施設、副葬品については不明ですが、埴輪片から推定すると、築造時期は古墳時代前期末~中期前半と考えられます。大型前方後円墳の典型的な姿をとどめ、塙の特長が畿内で見られるものと酷似しているため、丹後地方の古代豪族の勢力や畿内との関わりを考える上でも貴重な古墳です。

太田南古墳

大田南古墳群は、弥栄町字和田野に所在し、丹後半島を北流する竹野川の中流域左岸、竹野郡弥栄町と中郡峰山町との町境の丘陵上にあります。古墳群は、2号墳とその南側に位置する4号墳、さらにその南に5号墳が位置し、2号墳の東側丘陵裾部に位置する6号墳の計三基の前期古墳を含んでいます。5号墳は、平成6年(1994年)3月に「青龍三年鏡」が出土し、当時は日本最古の魏鏡「卑称呼の鏡」が出土と騒がれました。この鏡は三角縁神獣鏡ではなく、中国にも多く存在する方格規矩四神鏡でした。しかも、青龍三年は西暦235年に当たり、卑弥呼が中国の魏に使者を遣わした西暦239年(238年説も有り)の4年前の年号です。この鏡が丹後に出土したことで、邪馬台国以前に丹波にも強力な支配権を持った豪族が存在し、日本海をはさんで大陸・朝鮮半島と直接に交流していた可能性が十分に考えられるようになりました。また1997年に青龍三年鏡と大きさ、重さのものが大阪府高槻市の安満宮山(あまみややま)古墳で見つかりました。

2号墳は、墳頂部に18メートル×14メートルの平坦面をもつ22メートル×18メートルの方墳と考えられています。主体部は、2.3メートル×0.6メートルの舟底形の木棺で古墳時代前期の古墳です。本出土品のなかで最も注目される遺物は、画文帯環状乳神獣鏡であり、鈕に龍文様を施しています。銅鏡は、白銅質の画文帯環状乳神獣鏡であり、磨滅のため、「吾□□明」「日月□□」「□幽商三」「宜孫口口」など数文字が判読できるのみでした。中国四川省の官営工房で作成された可能性が高いもので、二世紀後半の早い頃に製作されたものと推定されています。
また、近くの弥栄町溝谷には溝谷神社(みぞたに)があります。祭神は「須佐之男命」ですが、別名「新羅大明神」というのが朝鮮半島と交流をほのめましています。

丹後國中郡(丹波郡) 京都府京丹後市大宮町周枳1020式内大社・二座 旧府社 丹後国二宮

主祭神 大宮売神 若宮売神
天照大神に仕え天皇を守護する八神の一柱であり、織物と酒造を司る大宮売神(おおみやめのかみ)、食物・穀物を司る女神である若宮売神(わかみやめのかみ、豊受大神)の二神を祀る。大宮売神は天鈿女命であるともされる。

当宮の創立年代は詳らかではありませんが、境内から出土する多数の遺物により、古代弥生時代の頃、すでに人々の生活があり、稲作民による祭祀、呪術的な力をもつ国の中心の地であったといわれます。

「新抄格勅符抄」によると大同元年(806年)に神封七戸を得たとされ、貞観元年(859年)には従五位上の神階を賜わっている。大宮売神を祀る最も古い神社である。六世紀の頃、大和王朝に統一された大宮売神は、宮中八神の一柱で、造酒司(みきつかさ)にも奉斎されこの神を祀るもっとも古い社で、境内全域は、京都府の古代祭祀史跡に指定されています。

木彫りの御神像(二体、平安初期)や重要文化財指定の春日型石燈籠(二基。鎌倉時代)があります。また、大宮町の名は、社名に由来します。

境内そのものも祭祀遺跡であり、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての土器や勾玉が出土しており府の指定文化財となっている(大宮売神社遺跡)。本殿の裏手は「禁足の杜」となっている。

忠霊社旧本殿は元禄8年(1695年)に建てられたとされ、丹後半島では珍しい隅木入春日造。昭和2年(1927年)の丹後大震災で損壊し、現在は忠霊社としている。
当社から500mほどのところに石明神遺跡(古墳時代後期の横穴式石室跡)がある。境内には石燈籠2基があり、うち1基には「徳治2年3月7日」と刻まれている。鎌倉時代の石造美術品として貴重で国の重要文化財に指定されている。また境内そのものも祭祀遺跡であり、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての土器や勾玉が出土しており府の指定文化財となっている(大宮売神社遺跡)。本殿の裏手は「禁足の杜」となっている。

たじまる 古墳-5

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丹後国旧竹野郡(福田川・離湖流域)

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1.概 要

京丹後市網野町は、旧竹野郡(たかのぐん)で、日本海に注ぐ福田川と鳴き砂の浜で有名な琴引浜などの海水浴場、京都府下で一番広い湖である離湖(はなれこ)があり、古くは離湖と西の池があって福田川が流れ込んで日本海に注いでいたといわれています。丹後ちりめんの生産で知られています。木津温泉は京都府内でももっとも古い温泉で、別名「しらさぎ温泉」とも呼ばれています。奈良時代の僧侶行基が、しらさぎが傷を癒しているのを見て発見したという伝承も残っています。城崎(きのさき)温泉もコウノトリが癒していたのを見て発見された伝承があります。また、日本の文献で最初に柑橘が登場する記紀では、田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされ持ち帰った非時香菓(ときじくのかぐのみ)は、その後田道間花といわれ省略されて「たちばな」となり、橘と書くようになりました。その後橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」になったともいわれています。

2.網野銚子山古墳

写真:京丹後市

日本海沿岸部では最大規模の前方後円墳 網野銚子山古墳

網野町では、網野銚子山古墳があります。日本海に注ぐ二級河川福田川の下流右岸の丘陵にも連なる台地上に築かれています。築造時期は、古墳時代前期末~中期初頭(4世紀末~5世紀初)と推定され、日本海沿岸部の前方後円墳で最大の規模を誇ります。隣りの弥栄町にも黒部銚子山古墳(全長100m) という古墳があり、これと区別するために網野銚子山古墳と呼ばれることが多いです。

この古墳は、崇神天皇の時代、四道将軍の一人としてこの地に遣わされた丹波道主命の墓ともいわれています。しかし、丹波道主命の墓は、弥栄(やさか)町の黒部銚子山古墳にも伝承が残っています。▲ページTOPへ

3.網野神社(あみのじんじゃ)


式内社 旧府社
京都府京丹後市(網野町)網野789
祭神:日子坐王(ひこいますおう・水江日子坐王)、住吉大神、浦嶋子神創建は10世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座されていたものを享徳(きょうとく)元年(1452)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。
現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正11年(1922)に建てられたものです。拝殿は入母屋造(いりもやづくり)の正面千鳥破風(しょうめんちどりはふ)と軒唐破風(のきからはふ)付きで、こちらも大正11年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和2年の丹後大震災の被災により、昭和4年(1929)に再建されました。平成19年(2007年)~平成20年(2008年)、摂内社の蠶織神社(こおりじんじゃ)ともども「平成の大改修」が行われました。


拝殿

国道178号線を網野町に入ると右手(東)になだらかな丘が目に入ってきます。これが日本海側で最大の前方後円墳銚子山古墳です。大きな神社なのに、案内標識が見当たらずしかも町中は道が狭いので一通が多く場所がわかりにくくて苦労した。日吉神社や静神社、嶋子神社の方がわかりやすく、先に訪れる。


社殿は最近改宗されたようで綺麗で立派

(以下境内の説明) 日子坐王は、第九代開化天皇の皇子とされており『古事記』の中つ巻、第十代垂仁天皇の御代に日子坐王は勅命により丹波國(古くは丹後も丹波に含まれていました)に派遣されて土蜘蛛の首領「玖賀耳之御笠」を誅されたとあり、また別の記録にはその後、日子坐王は丹波に留まり、國造りをなされたをなされたとあります。さらに日子坐王は網野神社の他、丹後町の竹野(たかの)神社などに祀られ、網野銚子山古墳の主ではないかと伝えられています。


拝殿と本殿


本殿 千木の先が鋭角なのは男神を表すという。

浦嶋太郎伝説

 

水江浦嶋子神 銚子山古墳の地続きに日下部氏の屋敷がありました。日下部曽却善次(くさかべそきゃくぜんじ)夫婦には子供がなく、子宝に恵まれたいと百日祈願をしていました。満願の夜、夫婦は不思議に同じ夢を見ました。
神から「二人の願いを聞き届けよう。明朝、福島へ来い」とのお告げです。翌朝、出かけると赤子が置かれており、夫婦は「嶋子(しまこ)」と名付け大切に育てました。
釣り好きの若者に成長した嶋子は、澄の江での漁の時は釣った魚を一旦磯の「釣溜(つんだめ)」にビクのまま漬けておいたといいます。

ある日、嶋子は福島で大変美しい娘に出会いました。乙姫様でした。二人は、夫婦の約束をし、小船で竜宮城へ行きました。手厚いもてなしを受け三年の月日が経ちました。
嶋子は故郷が恋しくなり、帰ることになりました。乙姫様が「お別れに手箱を差し上げます。再びお出でくださる気持ちがあるなら、決して中をお開けなさいますな」と美しい玉くしげ(玉手箱)を手渡しました。
嶋子は懐かしい万畳浜へ帰ってきました。ところが、屋敷に着いてみると、雑草が茂って一面の荒野原に……。竜宮城での一年は、人間界の何十年にもなっていたのです。嶋子は悲しみ、途方に暮れました。その時、玉くしげのことを思い出し、これで数百年の昔に戻れるのではと箱の蓋を開けました。すると中から白い煙が立ち上り、嶋子はしわだらけのおじいさんに。驚いた嶋子は思わず自分の頬のしわをちぎって榎に投げつけました。その後、嶋子がどうなったかはわかりません。今日まで伝わる説話や童話で有名な「浦嶋太郎さん」は、この水江浦嶋子神が、そのモデルとなっています。網野には他にも浦嶋子をお祀りした嶋児神社(網野町朝茂川)や六神社(網野町下岡)、嶋子が玉手箱を開けた際にできた顔のしわを悲しみのあまりちぎって投げつけたとされる「しわ榎」(網野銚子山古墳)など、水江浦嶋子神に関わる史蹟や伝承が今日までたくさん残っております。


摂内社の蠶織神社(こおりじんじゃ)境内には摂内社がたくさんあります。

コウノトリ伝説

由緒

『竹野郡誌』では、天湯河板挙命が但馬国から当地の水江に来て白鳥を捕ろうとし、松原村の遠津神に祈誓して水江に網を張ったので、この付近を水江網野と称するようになったという。

現在の網野神社付近はかって墨江(離湖)とよばれ、西に広がっていた浅茂川湖の水が日本海に入る河口でした。

当地には全長200m弱の日本海岸最大の前方後円墳・銚子山古墳があり、旧社地の後方にあたる。網野神社はこの地に居住した者の祀る神社でした。現社地の東南800m。

当町内では網野神社をはじめ、浅茂川・小浜・郷・島・掛津の各区で天湯河板挙を「早尾(はやお)神社」神として祀っています。

網野地名の起源が語られています。「天湯河板挙命(アマノユカワタナノミコト)」(他にも異なる表記法あり)が登場し、網野地名の起源が語られている。その意味でもこの神(人物)は当地にとって重要なキャラクターであり、その名は次のように『日本書紀』に登場する。(但し『古事記』では“山辺(やまのへ)の大(おおたか)”という名で現れる)

「垂仁帝の子誉津別王(ホムツワケノオウ)は物が言えなかったが、ある日大空をとぶ白鳥をみた時『あれは何か』と口を動かした。垂仁帝は鳥取造(トトリノミヤッコ)の先祖である天湯河板挙に白鳥を捕えるよう命じたので、かれは遠く但馬(一説には出雲)まで白鳥を追ってこれを捕えた。」(原文の大意を口語になおした)
但馬・丹波(のち丹後)の伝承では天湯河板挙が白鳥を迫った道筋は、但馬八鹿(ようか)町の網場(なんば)和那美(わなみ)神社、豊岡市森尾 阿牟加(あむか)神社、同下宮(しものみや) 久々比(くぐい)神社を経て網野(松原村)に到り、鳥取(現弥栄町)でこれを捕えたというものです。

4.嶋児神社

京丹後市網野町八丁浜(京都府京丹後市網野町浅茂川明神山382)

浦島太郎は、後世につたえられた名前で、風土記では水江浦嶋子(みずのえのうらしまのこ)となっており、この嶋子を祀る神社が浅茂川の海岸に鎮座する嶋児神社です。近くに鳥居は大変大きく立派なものです。網野町浅茂川の海岸に鎮座します。祠(ほこら)が祀られています。

嶋児神社から左遠方に見える福島は、浦島太郎と乙姫がはじめて出会った場所といわれ、ここには乙姫をまつった福島神社があります。

画像:京丹後市

銚子山古墳の前方部付近にある榎の大木。竜宮から帰った浦島太郎(浦嶋子)が、ここで玉くしげ(玉手箱)を開けて顔じゅうしわだらけになり、悲しみのあまりしわをちぎって投げつけると、樹皮がしわで凹凸になったと伝えられています。【浦嶋神社】

5.静神社

京丹後市網野町磯当地で禅師の娘として生まれたとされる静御前は、父の死後、母とともに京都へ上り白拍子となりました。その後、舞を源義経に見そめられ、側室となりました。しかし義経は兄・頼朝に追われ、子どもも殺されてしまいます。

悲しみにくれ故郷の磯に戻った静御前は、二十余歳の若さでこの世を去りました。義経への愛を貫いた静の気丈さ。それをはぐくんだ故郷・磯には、静御前をまつる静神社が悲恋の面影を残すかのようにひっそりとたたずんでいます。また、周辺には静の庵跡に建つ静御前生誕の地の碑、義経が船を着けたといわれている入艘の浜と沖の飛び岩があります。

磯の善次の娘として生まれた静は6歳で父を亡くし、思い出多い故郷に別れを告げ、母と京都に上りました。巧みな舞と美しさで静は指折りの白拍子に成長。寿永元年(1182年)7月、後白河上皇が京の神泉苑で雨乞いの神事を行った時、召されて舞った直後に大雨となり「日本一」のお誉めにあずかりました。  また堺の住吉神社の舞会で平家追討に来ていた源義経に見初められて側室に。静18歳、義経27歳でした。義経は平家滅亡後、兄頼朝と不仲になり静を連れて吉野山に逃げましたが、途中雪の中で別れ別れとなり、身重の静は捕らわれて鎌倉に送られました。文治2年(1186年)4月8日、鶴岡八幡宮で頼朝をはじめ並みいる武士たちの前であざやかに舞ったのは有名です。“吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな”と義経を慕って歌ったのが頼朝の怒りにふれ、幽閉されました。静は7月に男児を生みましたが子は由比ヶ浜に棄てられました。後に許され、禅尼となった母と懐かしい故郷の磯に帰った静は、生家跡に小さな庵をつくり、義経の無事と愛児の冥福を祈りました。20余歳の秋の暮れ、静は鳴き弱った虫が消えるように夫と愛児の後を追いました。 悲劇の英雄、源義経が愛した静御前を祀る神社で磯地区のはずれにあります。かって義経が磯の惣太という船持ちの豪族にあてた手紙が残っていたという記録もあります。この手紙や多くの遺品は、天明(てんめい)2年(1782年)の大火で神社とともに全て焼失してしまいました。現在の社(やしろ)は、元のところから西へ200m離れた位置に、静御前の木像とともに祀られています。
静御前を訪ねて源義経(みなもとよしつね)が磯にやってきたとき、船を着けた所が入艘の浜だという伝説が残り、500m沖合の海上に点々と浮かぶ黒岩・赤岩・日照岩(ひでりいわ)などが、凪の日は浮島のように、荒天の時には波を切って泳ぐ水鳥のように見え、まちの景勝地として知られています。

子午線塔日本標準時 最北端の塔
静神社に向かう途中、最北に子午線塔が建てられています。東経135度 北緯35度41分
参考:京丹後市観光協会
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6.丹池伝説

昔、大阪の鴻池(こうのいけ)に美しい娘がおりましたが、嫁に行かぬと両親を困らせていました。ある日、丹後に稼ぎたいと言い出したので、娘を立派なかごに乗せてお供をつけ、はるばる丹後まで送らせました。桜尾峠でかごを降ろして一休みしていると、不思議なことに娘は蛇になり「かつた池」と呼ばれる池に入って再び上がって来ませんでした。以後、人々は「蛇の池」と恐れて近づきませんでした。  池の主となった大蛇は時々里に出て農作物を荒らし、村人を悩ませました。ある時、有田集落(網野町加茂川)の三五郎という剛の者が、氏神加茂神社に祈願してこれを退治することになりました。三五郎は裸になると剣をくわえ、池深くに潜って大蛇を探しましたが池の底にヘダラ(ヒサカキ)の大株が沈んでいるだけでした。もしや大蛇の化身ではと斬りつけると、池の水が真っ赤に染まりました。その後、大蛇はあらわれなくなりましたが、池の水がいつまでも赤かったので「あか池」と呼ばれるようになりました。後にこのあか池が丹波の国名の起源となったと伝えられ、丹波を二分して北の一端を丹後と名付けたそうです。

俵野(たわらの)地内の西方、桜尾(さくらお)峠の北麓にあり、三面を山に囲まれた広さ約2haの池。この池は、背面の山地と峠の谷間から流れてきた水が砂丘によって堰き止められてできたものです。昔、難波の長者鴻池(こうのいけ)の娘が、この池に身を投じて大蛇になり、毎日人を困らせるので退治されたが、その時、水が赤くなったので「丹池(あかいけ)」といわれたという伝説も残っています。バス釣りもできますよ。

参考:京丹後市観光協会