古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は

古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は


※この地図は地図作成ソフトを元に古墳を方向を調べて私が作成したものです。上の地図は、前方後円墳は、それぞれのクニのどこに、どの方向に向いているのかを分かる範囲で地図上に記してみたものである。方向はGoogleマップにも組み込まれているので、現在の地図上で古墳の位置を確認することができる。

前方後円墳の方向は朝廷のある大和に関係しているのか、それぞれのクニに自主性を持って決められたのか、分からないが関心があるテーマである。

『前方後円墳』というサイトによくまとめられているので引用させていただくと、

弥生時代は、魏志倭人伝が伝えるように日本列島各地で多くの勢力が「国」として、たがいに対峙していた。卑弥呼の時代(3世紀前半頃)には,邪馬台国を含めておよそ30「国」の存在が魏側で知られていたようである。

前方後円墳の出現の背景には、統合への流れが進行して他とは比肩できないほどの大きな勢力の出現があったと考えられる。この勢力とは大和を本拠とする大和政権(大和朝廷)である.巨大な前方後円墳の築造は、大和朝廷の権威を他の地域へ誇示するねらいがあったとみてよいだろう。奈良県や大阪府に多数遺存する4世紀末以降の巨大前方後円墳が天皇や皇后など皇統に属する人々、もしくは朝廷において有力な地位にあった人々の墳墓であることを考えると、時代をぐんとさかのぼる古い箸墓古墳(奈良県桜井市)も巨大前方後円墳である以上、当然大和朝廷に属する高貴な人の墳墓でなければならない。

邪馬台国が北部九州にあったのか、畿内かはさておき、少なくとも崇神天皇(第10代天皇)以降の大和朝廷が奈良を本拠としてきたことは歴史上明白である。

前方後円墳の各部位の呼称は決まっている.丸い部分を「後円部」、矩形部分を「前方部」,後円部と前方部の接続部を「くびれ部」とよぶ.被葬者が葬られている場所は後円部であって、前期古墳にあっては、前方部上で葬送の祭祀が執り行われたと考えられている。前方後円墳の築造企画は、前期から中期へ、さらに後期へと時間が進行するにしたがって変化するが、とくに前方部が大きく発達していくという明瞭な変化が認められる。くびれ部付近に「造出(つくりだし)」とよばれる小さな突起部をもつ古墳が中期頃から現れる。左右両側,または片側だけにつくられる.造出は祭祀用の施設とみられるが、前方部の巨大化にともなって、前方部上でくり返される祭祀の執行に不便をきたすようになったことが造出出現の理由とも考えられる。

丹後・但馬は大宝律令以前に分国するまでは丹波内であったが、律令以後に3つの国に分国された。中央集権化が強固になるにつれて、大和から遠い丹後にあった丹波の政治の中心は大和に近い現在の亀岡市に移り、丹波・但馬・丹後と3つに分けられる。

これは地形的に比較的に高い山で遮られる丹波・但馬・丹後の特性もあったかも知れない。しかしそれだけで、3つに分けた理由にはならない。分けるにはそれぞれ国府建設や国司など莫大な費用が生じるからである。

何かの理由が生じたと考えるのが普通だろう。

朝鮮半島への最短ルートとしてこの地が大和政権にとって重要だったことで、大和政権に組み入れる必然性があったからだと考えるのである。

日本海側最大の前方後円墳は、丹後の網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)で、墳丘長は201m。それに次ぐ規模が神明山古墳(京都府京丹後市丹後町宮、墳丘長190m)、蛭子山えびすやま1号古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦、墳丘長145m)の3つの前方後円墳が、日本海側および京都府では最大規模の古墳で、「日本海三大古墳」と総称される。

「日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中している

なぜ丹後に日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中しているかである。

それでは、大和政権に組み入れられた時代はいつ頃だろうか?少なくとも崇神天皇が四道将軍を派遣し本州を平定していった時期からだろうと思われる。

丹後三大古墳は4世紀末-5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。網野銚子山古墳は、墳丘3段築成、築造された順番は、蛭子山1号墳が4世紀中葉、網野銚子山古墳がそれに次いで古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭、神明山古墳が4世紀末-5世紀初頭とされる。

網野銚子山古墳と神明山古墳は、日本海に突き出た丹後半島の北、網野銚子山古墳は浅茂川の河口にできた浅茂川湖、神明山古墳は竹野川の河口の竹野湖という古代の潟湖(ラグーン)に対して墳丘の横面を見せる形式をとっており、前方部を北北東に向けている。当時の丹後地方がこれら潟湖を港として日本海交易を展開した様子が指摘される。それに対して蛭子山古墳は、丹後半島反対側の付け根で、日本三景天橋立を形成した野田川に北北西に開けた加悦谷の東縁部にあり、前方部を北西に向ける。

但馬地方では最大、兵庫県では第4位の規模の前方後円墳は池田古墳(兵庫県朝来市和田山町平野)で、5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。

ヤマト王権の宮が置かれた大和と大和川が注ぎ込む大阪湾の摂津・河内・和泉の機内には、大王(天皇)墓である大型の前方後円墳がいくつも造営されている。前方後円墳の最古とされる箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)は、3世紀後半以降とされている。

大和政権と大丹波(今の丹後。但馬。丹波)との結びつきが記紀に登場するのは、第11代垂仁天皇の最初の皇后、狭穂姫命である。父は四道将軍のひとりである彦坐王(日子坐王)ひこいますのみこ、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王たにはのみちぬしのみこの女であり、狭穂姫命の姪に当たる。第12代景行天皇を生む。日本海三大古墳と総称される蛭子山1号墳、網野銚子山古墳、神明山古墳と、それ以降の池田古墳、船宮古墳が築造された年代は垂仁天皇期であると思われる。


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最初の但馬人

 

最初の但馬人(たじまじん)

但馬で最も古くから人がいたのはどこだろう。
現時点では、兵庫県と鳥取県境で氷ノ山の北、扇の山の東、兵庫県美方郡新温泉町畑ヶ平旧石器遺跡である。旧石器時代後期、同じく新温泉町海上東尾の上山旧石器遺跡と家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの集落跡複合遺跡)である。

2カ所は同じ中国山脈の山岳地帯で尾根でつながっている。人類は最初、山岳地帯から住み着いていたといえる。畑ヶ平(はたがなる)遺跡では、火山灰の下から約2万5,000年前の旧石器時代のナイフ形石器が発見された。見つかった石器や石材の種類はさまざまなので、人々が継続的に活動していた証だといわれる。ただし、ここは標高1,000mの高地であり、当時の気候は分からないが、季節を選んだ一時的な居住場所であったのではともいわれている。

家野遺跡(養父市別宮字家野 海抜6~700m)は、旧石器~縄文までの複合遺跡で、約8千年前の縄文時代早期の平地式住居跡・屋外炉跡・貯蔵穴・焼土抗・配石遺構が見つかっている。

兵庫県立考古博物館の遺跡データベースを調べてきた。その後、但馬の旧石器時代の遺跡の発見は増えている。

杉ケ沢遺跡第13地点 養父市関宮出合甲字轟野
西谷遺跡 養父市三宅字西谷
円光寺林遺跡 〃 古井字奥山
八木西宮遺跡 養父市八鹿町八木字西宮
大山田遺跡 〃

養父町と但東町で尖頭器が発見されている。、大屋町の上山高原で採集された一片の土器破片と、日高町神鍋ミダレオ遺跡(神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で見つかった爪型文土器、訓原古墳群、家野遺跡(旧石器/縄文集落跡)養父市別宮字家野(海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡)の2カ所です。

また、養父市関宮(せきのみや)町や豊岡市但東(たんとう)町で尖頭器が発見されています。また、上山高原遺跡(養父市大屋町上山字峯山、標高773mの御祓山から北東にのびる尾根の、標高480~520mの緩やかな斜面にで、一片の土器破片(縄文時代早期)が採集され、神鍋(かんなべ)遺跡(豊岡市日高町神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)で爪型文土器が発見され、
鉢伏高原遺跡(養父市関宮町丹戸(たんど))で縄文時代前期前半の竪穴式住居跡、土坑、集積遺跡を検出した。尖頭器なども出土しました。

高柳ナベ遺跡(養父市八鹿町高柳)で発掘された遺跡は、縄文時代早期に土を掘った穴が1か所、古墳時代の竪穴住居跡が8棟、奈良時代の掘立柱建物跡が21棟、古墳時代から平安時代にかけて粘土を掘った採掘坑等で、早い時期から連続した遺跡です。

兵庫県神戸市や瀬戸内側では旧石器時代の遺跡がかなり発見されいる。これは道路工事や開発により偶然見つかるケースからで、但馬に人が住み着くようになったのが比較的に遅いということにはならない。山岳地帯の多い但馬には、手付かずの旧石器人の足跡がまだまだ眠っているだろう。

但馬人のルーツと思われる旧石器人は、まだ日本列島が大陸と陸続きだった頃、獲物を求めて北からやってきたのか?地形的には兵庫県西部まで続く中国山地を、氷ノ山、鉢伏や神鍋を尾根づたいに西の方から獲物を追って移住してきたとも考えられる。

豊岡市で考古学の先駆者として知られている但馬考古学研究会の故瀬戸谷晧氏は、HP「但馬最古の遺物を求めて」で、

「ひと昔前は但馬には本格的な旧石器時代の遺物はないと考えられていた。旧石器時代、すなわち土器製作を未だ知らない一万数千年以上も前のことを本格的に調査・研究しようとする人は但馬にはほとんどいなかった。

そんな実態を、たとえば一九七四年に刊行された『兵庫県史』本編のなかに探ってみよう。その一巻によると、県下の遺跡分布図に三八箇所に点が落とされているなかで、わずかに二点が記されていたのみである。それも、もっとも新しい時期の「尖頭器」出土地として、但東と養父の二町の遺跡が紹介されているだけである。」

しかしここに疑問が湧いていた。なぜ最初に住み着いた原始人は山深い但馬にあってもさらに標高が高い豪雪地帯ばかりなのか?

たしかに、縄文時代以前は、今より気候は亜熱帯に近く、雪が積もる状態ではなかったのかも知れない。だから冬場でも住みやすかっただろうか。獲物や木の実、果実などを採集するのには、平地より山岳地帯の方が豊富だ。また平地は敵から狙われやすい。

それにしろ、こうした奥深い山岳地帯からのみ旧石器時代の遺跡がみつかるからといって、未開発だったから残っていただけではないかと。もっと住みやすい低地に人はいなかったのだろうか?低地になるほど後世に人が手を加え、棲家や耕作地にし、縄文以前の遺跡遺物を破壊してしまい、痕跡が残っていないだけかも知れない。山岳地帯からしか旧石器時代の遺跡が発掘されないからといって、原始人はかならず山岳地帯のみに暮らし、これを但馬人のルーツと断言することは無理だ。

縄文人は海洋民族

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縄文人は海洋民族

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『日本人のルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、

 文字のない時代、日本に天文学があったかは不明だが、約8千年前の三宅島や本土の縄文遺跡から、伊豆諸島の神津島産黒曜石が発見されている。約6千年前の八丈島の縄文遺跡からもこの黒曜石が発掘されているから、この時代の人たちは見えない島を目指して黒潮を乗り切る航海術を持っていたことになる。星や太陽の運行を理解していなければ外洋を乗り切り、見えない目的地に到達することは不可能だから、当時の人々は天文学の知識を持ち、使いこなしていたに違いない。また太陽進行を意識して造られたストーン・サークルや日時計を思わせる遺跡も、各地で発掘されている。縄文人は農業も行っていたから何らかの暦を使っていたに違いない。

日本各地から出土する異物は、太平洋諸島、沖縄列島、日本列島周辺で活躍する海洋民族の存在を示し、それが1万数千年といわれる縄文文化の一翼を担ってきた。
この時代の船は、縄文時代前期(6千年前)の千葉県加茂遺跡や福井県の鳥浜遺跡を始め、多くの遺跡から出土しており、その殆どが長さ6m以上、直径80cm以上の丸太をくり抜いた丸木船である。そして彼らの行動範囲が予想以上に広いことも分かってきた。

その証拠として近年、朝鮮半島南部から縄文遺跡が相次いで発見され、縄文時代の人たちはこの地まで進出していたことが明らかになった。

3千年前頃から縄文人たちは、九州あたりを出て朝鮮半島南部までの海を越えていたことがわかってきた。(中略)対馬からほど近い慶尚南道や釜山広域市で、最近相次いで日本列島から縄文時代の人々が渡っていたことを示す痕跡が見つかっている。
東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。朝鮮半島には独自の土器があり、縄文土器は縄文人がやって来た確かな証拠品といえる。朝鮮半島で特に貴重であった黒曜石を携え、縄文人たちは交易にやって来たのではないかと考えられる。(はるかな旅4)

だが、あの重い縄文土器を小さな丸木船に大量の乗せたうえでの渡航は考えられない。長期にわたり縄文時代の人たちが半島南部で生活し、土器を作っていたからこそ大量の土器が発見されたのであろう。さらに九州産の黒曜石が発見されたことから、彼らは消耗品である黒曜石を供給するため、定期的に往来していたに違いない。

今まで「大勢の渡来人が日本へとやって来た」とされた時代があった。逆に、かなりの日本人が半島へと進出していたのだ。半島南部から発見された多くの遺跡や縄文土器、弥生土器がこのことを証明している。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』 長浜浩明氏で、「倭人は朝鮮半島にも住んでいた」で、このあと、新羅・百済、加羅のち任那日本府も、縄文時代から続く倭がつくった小国家であったことにつながっていく。韓国人が聞くと発狂しそうだが、朝鮮から日本へもたらされた独産物や文化はない。

三国志・韓の条「韓は帯方郡の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。三種あり、一に馬韓といい、ニに辰韓といい、三に弁韓という。

実は縄文時代から多くの人々が日本から半島南部に移り住み往来していた。かなりの韓国人のDNAが縄文・弥生時代の日本人と相同であり、半島から出土する多くの縄文土器・弥生土器がこのことを裏付けている。

「韓国」とはシナの植民地名であり、朝鮮が南北に分断され北朝鮮と大韓民国「韓国」となった。朝鮮半島ではなく韓半島というべきとして迫り、一部のノー天気な歴史学者やメディアは「韓半島」と云うが、それはかつてシナが蔑視して周辺を蔑んで倭や韓と呼んでいたのに朝鮮から韓国に戻して喜んでいることを知っているのだろうか?要するにシナの属国だと宣言しているのであるから。まあそうなりつつあるのは皮肉だ。

弥生文化圏の成立

『倭の古王国と邪馬台国問題上』 著者: 中島一憲から。

三千年前からはじまって二千五百年前に「真冬」となる大気候の寒冷期は、紀元後八世紀(1300年前)まで続き、ちょうどこの時期に「製鉄」が世界に普及するので「鉄器時代初期の寒気」と呼ばれている。

二千五百年前といえば列島では縄文晩期の「葉畑・曲り田段階」である。列島の平均気温は現代より二度低く、11度ほどであったという。
早期稲作が瀬戸内海地方や東北地方に始まったことを考えると、この時期に西北九州地方に稲作が普及するのは、「渡来人」が新たに優れた(水)稲作技術を朝鮮半島からもたらしたからではなく列島の大気候の寒冷化と関係があるのではないだろうか。

だが「鉄器時代初期の寒気」には、世界的にも紀元前後を通じて例外的に温暖な時期があった。

中国大陸では戦国時代のはじめ(紀元前403年・2400年前)から、後漢時代のはじめ(紀元25年・2000年前)までのおよそ400年間が寒冷期の谷間の温暖期となった。日本では尾瀬ヶ原の泥炭層の花粉分析の結果、紀元前約400年から紀元20年にかけて「弥生暖期」の名がつけられている。

しかし、つかの間の温暖期も大陸の内陸部から崩れはじめる。中国の文献には、すでに紀元前1世紀から内陸部に寒冷化と乾燥化が同時進行し、旱害とと鍠害と飢饉と疫病がきょう奴の社会文化を壊滅させたことが記録されており、紀元48年の南北分裂後、南きょう奴は後漢に帰順したが、北きょう奴は91年の後漢の攻略によって西方へ逃散し、古代中国史から姿を消している。

黄河流域の中原(ちゅうげん)でも後漢の桓帝(147~167年)の時代の184年には数十万人の飢餓農民の反乱である「黄巾の乱」が勃発する。
ちょうどこの時期が『後漢書』「倭伝」や『太平御覧』にのる『魏志』逸文に記録された「倭国大乱」という列島の内乱時代と重なっているのは、列島の大気候が寒冷化したためか、大陸の動乱の直接・間接の影響によるもの寡欲検討する必要がある。列島の本格的な「冬」はもう少し遅れて240年ころに始まったとされているからである。
大陸内陸部の冷涼寒冷化は黄河中原の冷害はまだ予兆的なもので、魏王朝(220~264年)時代の225年には黄河と長江(揚子江)の間を流れる准河(ワイガ)が凍結し、227年には「連年穀麦不収」という記事がある。
弥生時代600年間の列島の大気候は、前半暖かく後半はやや寒かったと要約できるだろう。

豊葦原の瑞穂の国

佐原真氏は、福岡県遠賀郡水巻町立屋敷遺跡は福岡県中央部を北流して響灘に注ぐ遠賀川の川底にある。1931年、この遺跡から豊富な文様をもつ弥生土器が発掘され、遠賀川式土器と命名された。

その後の発掘調査で、この土器は弥生前期(紀元前300~同200年)に太平洋側では愛知県西部の名古屋、日本海側では京都府丹後半島を東限とする西日本一帯に分布していることがわかった。
この土器が出土する遺跡にはコメや稲もみ、農具類が伴出するので、この土器は農民の生活道具であり、遺跡の性格は農村集落であるとされている。

ところが1982年ごろ、青森県八戸市松石橋遺跡で「遠賀川式と見まごうばかりの完全な壺が発見されて以来、八戸市是川、山形県酒田市地蔵田B、秋田市生石2、福島県会津盆地の三島町荒屋敷などの遺跡でも、続々と遠賀川式そっくりの土器が出土した。
なかにもみ跡がついているものがあり、東北でのこの時期の水田遺跡の発掘が期待されていたが、1187年に弘前市砂沢遺跡でその水田が発掘された。

このようにして日本列島では弥生前期には、すでに北は青森県から南は鹿児島県にいたる稲作と土器を共有する文化圏が成立していた。北海道と南西諸島、沖縄を除く本州、四国、九州がきわめて均質な稲作文化圏を形成しているのである。(佐原2000)

記紀の神話で、天照大神が孫のニニギノミコト(邇邇芸命)を降臨させた、豊葦原のチアキナガイホアキ(千秋長五百秋)の水穂國(瑞穂国)、アシハラノナカツクニ(葦原中国)というのは、おそらくこのように水稲耕作が普及した時代の日本列島主部のことだろう。(中略)

主な縄文前期の遺跡

■縄文草創期~早期(1万2千年前~6千年前)
紀元前8000年頃
静岡県富士宮市若宮遺跡(最古の集落)
福井県三方郡鳥浜遺跡(海港・農耕遺跡)
島根県隠岐諸島島後宮尾・中村湊遺跡(黒曜石コンビナート・海港)
京都府京丹後市丹後町平遺跡(海港)
同 6000年頃
函館市函館空港遺跡(大規模定住集落)

■縄文前期(6千年前~5千年前)
紀元前3800年
山形県米沢市一の板遺跡(石器のコンビナート的集落)
東京都伊豆諸島八丈島樫立(海港)
長崎県多良見町伊木力遺跡(海港・丸木船出土)

京都府京丹後市峰山町は、丹後半島を流れて日本海に注ぐ竹野川の中流域に位置する。そこの扇谷遺跡は深さ4m、最大幅6mの濠が直径270m、短径250mの範囲をめぐる弥生時代の前期後半から中期初頭にかけての丘陵上の環濠遺跡である。

濠の底から土器、碧玉やメノウなどの玉造りの遺物とともに鉄斧と鉄滓が出てきた。鉄斧は鋳鉄で原料は砂鉄ではないかと考えられている。
「チタン、バナジウムの量が多く、砂鉄系の原料を使った可能性が強い。鉄滓も砂鉄系の鍛冶滓の感じがする」ということであるから、私は弥生前期後半にはすでに列島内で砂鉄原料による精錬製鉄が行われていたと考えている。

この峰山町を含む丹後半島一帯は「記紀」伝承に登場する「丹波の県(あがた)」の地であり、古くからひとつの政治文化圏を形成していた特別な地域である。ここには今に残る「丹波」という小字があるし、隣の弥栄町との町境にまたがる4世紀後半の大田南五号墳からは、1994年に紀年銘鏡としては最古の「青龍三年」(235年)という魏の紀年銘のある青銅鏡が出土している。また弥栄町の遠所遺跡では1987年に、いまのところ列島最古とされる五世紀末のタタラ・コンビナート遺跡が発見されている。

森浩一氏、門脇氏は、
さらに峰山町には、扇谷遺跡とほぼ同時期の途中ヶ丘遺跡という高地性集落がある。扇谷遺跡から2km程しか離れていない。「これほど接近して二つの大きな高地性集落があるところなんて、全国的にもまれ」である。

そしてこれも同時期に、弥栄町には奈具岡遺跡という「弥生中期の玉造り遺跡があって、緑色の凝灰岩に加えて、そんなに古くから水晶が使われていたのかと思うほど、たくさんの水晶の玉を造っている。

竹野川上流にある「大宮町には弥生時代の小さな古墓がたくさんある。ガラスの玉がたくさん(7~8千)出て、それがブルー系のきれいなガラス玉なんです。弥生時代に限れば、ガラス玉があんなにたくさん墓から出るところは珍しい」(森浩一氏、門脇氏)。

こうしてみてくると、古代タニハ国は、弥生中期から砂鉄製鉄を行ってきた伝統的な「工業国」で、八世紀の『古事記』に「大県主」として記録されたユゴリの名は、門脇氏が指摘されるように「湯凝」すなわち、哲也青銅などの金属素材を熱で溶かして精錬した四世紀代の技術集団の指導者の名ではなかったか。

またヒコ・ユムスビのユブスビも「湯結」すなわち製鉄王の孫にふさわしい命名だと思われる。このようにして弥生中期以来、製鉄とガラス工芸の一大コンビナート地帯であったことがうかがえる仮称「タニハ国」は、三世紀末には畿内の大王と緊密な関係を結ぶようになる。

もちろん「記紀」に基づく系図は後世的なものでとりわけ婚姻関係や血縁関係をそのまますべて史実とするわけにはいかないが、伝統的な政治関係がそこに投影されていると考えることはできるだろう。

私はそのことからさかのぼって、弥生中期の仮称「タニハ国」は、日本海と近畿の中心を関係づける重要な軍事的・経済的戦略拠点として栄えたのではないかと想像している。

これも後世のことになるが、「大和へ結ぶ道も、丹後(タニハ)には、現在のように京都市から出ていく道と、丹後の加悦谷から福知山の方へ出て、山越えで神戸の垂水に出る。系図で見たタケトヨ・ハズラワケの母のワシッヒメは葛城垂見宿禰の娘とされているが、垂見は垂水でしょう。そして大阪湾をわたって堺から上陸し、葛城に出る。このルートの意味をもっている。

「そういう点で、丹後(タニハ)というのは、古くは、大和からいえば、西の瀬戸内へ出ていくルートに加え、近江を経て敦賀へ出るルートとは別に、かなり重視されていたと思っているわけです」(門脇氏)。
門脇氏はそれを古墳時代のこととして述べておられるが、弥生中期の近畿中心部の発展状況と、仮称「タニハ国」の発展状況に技術的な格差が見られないことや、仮称「タニハ国」の地政学的条件から考えると、私は両者の緊密な関係はすでにこの時期からはじまっているのではないかと思うのである。

丹後町竹野遺跡で、弥生前期の地層から外洋とつながる直径1kmほどの潟湖が見つかった。同じ地層から大陸製と思われる磁器も出土し、個々に古くから開かれた港市国家が成立していたことが裏付けられた。
拙者はこの野田川から元伊勢神宮を通り天田郡(福知山)から由良川上流、石生(水分かれ)という日本一低い分水嶺からそして加古川へというルートが信憑性があると思う。またこのルートと前後してまた別のルートでより近い但馬・出石の沖の気比から朝鮮半島に出向いていたとも考えられる。天日槍や神号皇后のルートにほぼ一致していることが、記紀が単なる神話ではなく、当時のヤマト政権の勢力範囲を示していると考えられるからだ。

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近代1 近衛文麿と東亜新秩序

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近衛文麿と昭和の戦争
『日本近現代史』 小風秀雅

近衛文麿に鳩山総理との類似点を感じる。

プリンス近衛の登場

近衛文麿は、昭和戦前期を代表する政治家であり、日本の近代を象徴する政治家といってもよいであろう。その出自は五摂家筆頭で、皇族以外では天皇に最も近い人間であった。彼の父近衛篤麿も学習院院長・貴族院議長を務め、特に対外硬運動の指導者として有名な政治家であった。

近衛文麿は篤麿の長男として生まれ、12歳の若さで侯爵を継ぎ「殿様」「閣下」と呼ばれるようになった。しかし、父が政治活動のために使った借財の取り立てが厳しくて家は貧しくなり、そのため彼は取り立てをした富豪に対する不信感と、政治に対する失望を強めたという。その結果、青年近衛は哲学を志望して東京帝国大学哲学科に進学したが、次第に社会科学に対する興味を増し、特に社会主義的傾向を帯びるようになった河上肇に惹かれて京都帝国大学法科大学に転学した。

日本で最も恵まれている青年が、それゆえに社会の矛盾を感じ、正義感から反体制的な思想を持つのはある意味自然であり、当時の青年貴族にも共通してみられるものであった。(省略)

1916(大正5)年満二五歳で貴族院議員となった。貴族院内での彼の権威は高まる一方で、1931(昭和6)年に副議長、1933年には議長に就任した。

このような青年の正義感は、また国際社会にも向けられた。1918(大正7)年12月の雑誌『日本及日本人』に、近衛が執筆した「英米本意の平和主義を排す」が掲載された。第一次世界大戦は民主主義・平和主義を掲げた英米が軍国主義ドイツに勝利し、世界は英米の平和主義を賞賛したが、その平和とは領土などを持てる国が現状維持を主張したまでのことであり、ドイツや日本のような持たざる国が発展しようとすれば、どうしても現状打破的にならざるを得ない、その方法として積極的外交によって「正義人道」に基づき、植民地解放・人種平等を実現することによってのみ日本の活路が見出せる、というものであった。この論文も一つの契機になって、日本国内では人種平等論がにわかに高まった。特にインテリ青年層にその傾向が強かった。近衛はその先頭に立っていたといえよう。

近衛の時代感覚

「正義人道」のうえにたつ近衛は、それを軍国主義化によって達成するのではなく、英米以上に進歩的、革新的に「現状打破」を行うことを目指した。その実行には「現状維持」的な既成政党や特権階級の貴族院ではなく、新しい主体的積極的政治組織を考えていたのであろう。

しかし他方で、受け身の意識も強くなっていった。1910年代の社会主義革命に対する危機意識とは異なり、1930年代には右翼テロに対する危機感に変わった。近衛はしばしば軍部の先手を打って革新的政策を実行すべきであると主張していた。つまり、部分的に軍部の革新的主張を取り込み、それによって革新的政策を実行すると同時に、彼らをある程度満足させることで全面的軍国主義化を抑制しようとしたのである。この結果、近衛は軍部など「現状打破」勢力から首相候補に推されるようになった。また、西園寺公望を頂点とする英米派の「現状維持」勢力も、プリンス近衛に正面から反対しなかった。西園寺個人は、近衛が「現状打破」勢力に取り込まれることを強く懸念していた。彼は、主体的積極的な反面、受動的で敏感な近衛の言動に不安定さを感じていたのであろう

近衛と日中戦争

1937(昭和12)年、近衛が初めて内閣を組織した。

現内閣は各方面に於ける相剋対立を緩和するを使命とす。是等対立の内最も深刻なるものは「持てるもの」と「持たざるもの」との対立なり。国際間にありては、所謂「持てる国」と「持たざる国」との対立あり。今日の世界不安は之に基づく。国内にありては「持てる者」と「持たざる者」との対立あり。社会不安多く之に因す。

是等の対立を緩和するには、国際間にありては国際正義、国内にありては社会主義を、指導精神とすべし。正義とは何か。結局分配の公平に帰す

多くの国民から歓迎されて誕生した近衛内閣を待ち受けていたものは、日中戦争の勃発であった。北京郊外で日中両軍が衝突して盧溝橋事件が起こり、戦果は上海から内陸へと広がり、ついに日本軍は首都南京を占領した。中国側では第二次国共合作が成立し、国民政府は強い民族意識や米英ソの援助に支えられて徹底抗戦し、日中戦争は次第に長期化の様相をほどこしていった。1938(昭和13)年1月16日近衛内閣は「爾後国民政府を相手とせず」という有名な言葉を発して、交渉打ち切りを通交した。

「東亜新秩序」声明

この過程で、近衛は陸軍を抑制することができなかったことへの反省として、1938(昭和13)年、陸軍に影響力を持つと思われる陸軍出身の有力者たちを入閣させた。しかし、ここでも近衛は指導力を発揮することができなかった。近衛は自らを陸軍のロボットと表現し、会議でも沈黙することが多くなり無気力になったといわれる。「各方面に於ける相剋対立を緩和するを使命」として有力者を網羅したはずの近衛内閣であったが、実際の内閣は群雄割拠的状況となり、近衛の人気と政治力のギャップが目立った。そんな近衛を支えたのも陸軍だったのである。

近衛内閣は1938年末、いわゆる「東亜新秩序」声明を発した。これは王兆銘らに親日政権を作らせ、日・満・中三国連携による東アジアの新国際秩序を樹立しようというものであったが、結果的には日中間をますます引き離すことになった。そして、1939年1月第一次近衛内閣は総辞職した。

昭和14年(1939年)1月に発足した平沼内閣は、第1次近衛内閣の後継内閣としての性格がつよく、政策・人事の大部分を引き継ぐとともに、枢密院に転じた近衛文麿自身も班列 (無任所大臣) として残留してこれに協力した。最大の懸案である対中問題では、「自今国民党(蒋介石政権)を相手とせず」という近衛声名にもとづいて、汪兆銘政権を成立させてこれと外交的解決を図ることで日中戦争の幕引きを狙ったが、意図したような中国国民党内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。
一方内政問題としては、戦争にともなう経済圧迫に対応するために第1次近衛内閣以来の国民総動員体制を実務的に推進し、警防団の設置など、米穀配給統制法・国民徴用令などの制定とともに、国民精神総動員委員会などを設置して挙国一致体制を整えてゆくものの、天津の親日派海関監督がイギリス租界で抗日派に暗殺される事件がおこり、事件調査をめぐってイギリスと対立した陸軍が同租界封鎖するという問題に発展してゆく。

平沼は外交交渉によってこの問題の解決を図り、有田・クレーギー協定で英国の譲歩を勝ち取るものの、これがアメリカの反発を呼び、また閣内の英米派とドイツ派との対立を深める結果となり、政権は混迷する。さらに8月20日にノモンハンで日本軍が記録的大敗を喫し(ノモンハン事件)、また8月23日に独ソ相互不可侵条約が締結されるに至って、防共を標榜しドイツとともに反ソ連勢力の結集を政治課題としていた平沼は衝撃を受け、8月28日「欧州の天地は複雑怪奇」という珍声明とともに総辞職した。

近衛新体制

ところで、近衛内閣の「無気力」に反し、政界では近衛新党論が多方面から起こった。特に1940(昭和15)年5月ドイツ軍が電撃作戦に成功してフランスなどを占領したことが契機となって、日本国内でもドイツナチスをモデルにした一党体制を目指す動きが現れた。

ただし、そこにはさまざまな思惑が含まれていた。陸軍、あるいは親軍的でドイツ的な体制を目指す「革新派」と呼ばれるグループ以外にも、解党のうえで近衛新党に合流し、32年以来遠ざかっていた政権に復帰しようという既成政党グループもいた。また、平沼騏一郎(平沼赳夫衆議院議員・たちあがれ日本代表の義祖父)などの観念右翼や陸軍皇動派も、一国一党には警戒しつつも近衛内閣は支持した。同年6月に新体制運動に乗り出すことを声明した。この近衛の声明を契機に陸軍は米内光政内閣の倒閣に動き出し、各政党は解党へ動き出した。そして実際に7月22日第二次近衛内閣が成立した。

近衛の基本的発想は、地方名望家中心の既成政党とは異なり、国民をより深く取り込んだ国民組織(新体制)を背景に、陸軍を抑え込み日中戦争を解決しようというものであった。しかし、観念右翼や自由主義的政党人(民政党町田忠治、政友会鳩山一郎)、皇動派軍人らの、大政翼賛会はあたかも幕府のようなものであり、天皇の統治権を侵すものであるという批判によって、10月12日に発足した大政翼賛会では、公事結社として「臣道実践」のみを綱領とすることが宣言された。ここにおいても、近衛の構想は他権力の干渉によって大きく変質してしまうのであった

近衛と大東亜戦争(太平洋戦争)

欧米に対抗するため、外相松岡洋右は1940(昭和15)年9月に日独伊三国同盟を締結。西欧諸国の植民地であった東南アジアに進出して「大東亜共栄圏」を建設し資源の確保を図ると共に、アメリカから中国への援蒋ルートの遮断を狙った。こうして日米関係は危機的なものとなったのである。松岡だけを閣外に追い出す形で第三次内閣を組織し、日米交渉をやり直すことにしたが、独ソ開戦を契機に南部仏印進駐を望んでいた軍部が主導して7月末に実行された。アメリカは在米日本資産凍結、対日石油輸出禁止で対抗した。ここについに総辞職することになった。

終戦工作

自らの行動が、結果的にはことごとく意に反して戦争への拡大に向かっていったことに気づき、近衛および近衛周辺は拡大派である陸軍の背後には共産主義者の陰謀があるのではないか、という見方を強めていった(皇動派史観)。大政翼賛会=「幕府」論批判によって、自らが共産主義者ではないかと非難された近衛であったが、これらからも近衛やこの時代がいかに不安定であったかが分かろう。特に太平洋戦争の戦局が悪化し東条英機内閣が弾圧を強めるに従って、このままでは天皇制は崩壊し共産主義国になるだろうという強い危機感を持つようになった。

彼らは東条内閣打倒を目指した。この結果、戦局の悪化も手伝って1944年7月に東条内閣を倒すことには成功した。

1943(昭和18)年頃から近衛あるいは海軍の小林せい造を首相とし、皇動派将軍を陸相として終戦内閣を作ろうというのである。多くの重臣(平沼騏一郎・岡田啓介・近衛文麿・若槻禮次郎ら)や陸軍の宇垣一成らも関与したといわれる。この結果、戦局の悪化も手伝って1944年7月に東条内閣を倒すことには成功した。

しかし、次の小磯国昭内閣も積極的に和平工作を行おうという気配はなかった。そこで、近衛たちは昭和天皇に状況を直訴しようと試みた。細川護貞(旧肥後熊本藩主細川家の第17代当主。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。初婚は近衛文麿の二女・温子とで、二人の間には護熙(元熊本県知事・元日本新党代表・元内閣総理大臣)を通じて高松宮宣仁親王と接触を深めたり、東久邇宮稔彦親王・賀陽宮恒憲親王と連絡を持ちつつ天皇への拝謁の機会を窺った。そして1945年2月14日にそれが実現した。しかし、天皇自身が政府要路者以外の政治関与を嫌ったため、この拝謁で状況が大きく変わることはなく、逆にこの後に吉田茂(孫に麻生太郎)らが拘束されたことによって近衛たちの動きは封じられてしまった。その後7月に天皇から、社会主義国家ソ連を訪問し和平工作の準備に当たるように命じられたが、訪ソの機会を得られないまま敗戦を迎えることになった。近衛はポツダム宣言受諾が決まり、A級戦犯容疑者として逮捕されることを知ると、その寸前に自殺した。
登場人物や時代背景に似た箇所があると思うのは私だけだろうか。

[youtube=http://www.youtube.com/watch?v=fvejDtRIrHQ&h=344] 心のこり 細川たかし
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戦国-11 イエズス会と宣教活動

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概 要

目次

  1. イエズス会と宣教活動
  2. フランシスコ・ザビエル
    1. 東洋への出発
    2. 日本へ
    3. 京都から山口へ
    4. ザビエルの最期
    5. ザビエルと日本人
  3. ルイス・フロイス
  4. オルガンティノ
  5. キリシタン大名
    1. 高山右近
    2. 京極高吉
    3. 朱印船
    4. 亀井 茲矩

1.イエズス会と宣教活動

 イエズス会(ラテン語:Societas Iesu)はキリスト教、カトリック教会の男子修道会。宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれました。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。現代では六大陸の112カ国で活動する2万人の会員がいます。これはカトリック教会の男子修道会としては最大のものである。イエズス会員の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっています。

イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「路傍の聖母」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長はアドルフォ・ニコラス師である。会の総本部はローマにあり、かつて本部がおかれていたジェズ教会(Chiesa del Gesu`)は歴史的建築物となっています。略称はS.J. 中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶?であることから耶?会(やそかい)とも呼ばれました。
イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣した。もっとも有名な宣教師はフランシスコ・ザビエルである。彼は西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王の要請にしたがって1541年にインドのゴアへ赴いた(ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。二年滞在して困難な宣教活動に従事した。彼は日本人へ精神的影響を与えるために中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去しました。

日本でのイエズス会事業はその後、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展しました。日本人初のイエズス会士は鹿児島出身のベルナルドで、彼は日本人初のヨーロッパ留学生としてポルトガルに渡り、1553年にリスボンで入会して修道士となりました。1561年には琵琶法師であったロレンソ了斎が入会。有名な天正遣欧少年使節を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノでした。

1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす利益を独占しようとした大村純忠と、とにかく戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものでしたが、スペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目をむけた豊臣秀吉は1587年にこれを取り上げて直轄領としました。日本における宣教活動は大きな成果を得たが、最終的に徳川幕府による迫害によって宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、イエズス会は日本からの撤退を余儀なくされました。

琉球国でのキリスト教の伝来は、尚豊王の治世の1622年、八重山に南蛮船が渡航して布教を行ったのが始まりです。日本ではキリスト教はすでに禁止されていましたが、ジャワやルソンから往来する南蛮船が琉球諸島にたびたび寄港していた関係から、布教活動が行われました。しかし、この頃から琉球でもキリスト教は公には禁止されており、また薩摩藩からも度々禁令が発せられて琉球側に伝達されていたので、キリシタンは摘発されると罰せられました。

1846年、イギリスのバーナード・ジャン・ベッテルハイムが来琉して、王府の手配した波之上の護国寺に住みながら布教活動を行いました。しかし来琉時に、王府からの丁重な退去要請を無視しての強引な上陸であったため、布教活動は様々妨害を受け困難を極めました。ベッテルハイムは滞在中琉球語を修得し、新約聖書の福音書のいくつかを翻訳して「琉球聖書」を作成し、後に香港で出版しました。
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2.フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifier または Francisco de Gassu y Jahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifier)は、カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名です。また、日本だけでなくインドなどでも宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれています。
彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)と共に1541年にリスボンを出発しました。ザビエルはアフリカのモザンビークで秋と冬を過して1542年5月6日ゴアに到着。同地に3年滞在し、そこを拠点にインド各地やマラッカなどに赴いて宣教活動を行い、多くの人々をキリスト教に改宗させました。
東洋への出発当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになりました。ザビエルはインドからマラッカに渡り、同地で宣教を行いながら、信徒たちの世話を行っていた。ここで1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)という日本人でした。ヤジロウの話を聞いたザビエルの心の中で、まだキリスト教の伝わっていない日本に赴いて宣教したいという気持ちが強くなりました。
日本へ

ザビエルは1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指しました。

中国のジャンク船に乗った一行は上川島を経て1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日にあたる)に鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸しました。1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得た。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と宗教論争を行う事を好んだ。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。1568年、尾張国の織田信長が足利義昭を奉じて上洛し室町時代の終焉を迎える20年前ころでしました。

1550年になると、かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、島津貴久のはからいで平戸へ向かうことができた。そこでも宣教活動を行っていたが、ザビエルは平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に都を目指しました。
山口から京都へ

1550年11月、山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになりました。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。了珪の助けによって1551年1月、一行は念願の京に到着しました。京都では了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。日本国内での活動は了珪の邸宅の一部を借りて行われました。その場所が現在では「ザビエル公園」(大阪府堺市)として市民に開放されており、彼の宣教活動を顕彰する碑が建てられています。なお、ザビエル公園より南側に位置する大小路筋は、堺が自治都市として栄えた時代のメインストリートで、近くには小西隆佐・小西行長の生家跡、千利休の屋敷跡、武野紹鴎の邸宅跡と伝えられる場所が存在する(石碑のみ)。

ザビエルは京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得れば全国での布教が自由になると考えていたが、京は戦乱で荒れ果て、足利幕府の権威は失墜しており、後奈良天皇が居住する御所も荒れ放題でした。ザビエルは比叡山で僧侶たちと論戦をしてみたかったが、比叡山から拒絶されました。天皇への拝謁も献上品がなければかなわないことを知ってあきらめたザビエルは、滞在わずか11日で失意のうちに京都を去ることになりました。

1551年3 月に平戸に戻ると、残していた贈り物用の品々を持って山口へ向かい、再び大内義隆に拝謁しました。それまでの経験で、貴人と会見する時はどこでも外見が重視されることを知っていたザビエルは一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上しました。義隆は喜んで布教の許可を与え、ザビエルたちのために住居まで用意しました。山口で布教していますとき、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く目の不自由な琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動し、ザビエルに従った。彼が後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎です。

ザビエルの最期

1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞いて、ザビエルは豊後に向かいました。同地で22歳の青年領主大友義鎮(後の大友宗麟)に謁見している。日本滞在も2年になり、ザビエルはインドからの情報がないのが気になっていたため、ここで一度インドに戻ることを決意し、トーレスらを残して出発、中国の上川島を経てインドに向かいました。このとき、ザビエルは日本人青年4人を選んで同行させた。それが鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオの4人です。

1552年2月 インドのゴアに到着。司祭の養成学校である聖パウロ学院にベルナルドとマテオを入学させました。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となりました。

1552年4月、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えていたザビエルは、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣し、自分自身は中国入国を目指して8月に上川島に到着しました(ここはポルトガル船の停泊地であった)。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰えていたザビエルは精神的にも消耗し、病を得て12月2日(12月3日説あり)に上川島でこの世を去りました。46歳でした。

遺骸は石灰をつめて納棺し海岸に埋葬した。その後、マラッカに移送され棺を開いたところ、死後4ヶ月近くを経てなお、腐敗した様子がなかったといいます。さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許されました。そのとき参観者の1人の貴婦人が右足の指2個を噛み切って逃走しました。2個の足の指は、彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移されました。遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されていますが、右腕は1614年ローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断され、ローマ・ジェズ教会に移されています。なお、この右腕は1949年ザビエル来朝400年記念のおり、腕型の箱に入れられたまま、日本で展示されました。

ザビエルは1619年10月25日教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日盟友イグナチオ・ロヨラと共に教皇グレゴリウス15世によって列聖されました。ザビエルはカトリック教会によってオーストラリア、ボルネオ、中国、東インド諸島、ゴア、日本、ニュージーランドの守護聖人とされています。

ザビエルと日本人

ザビエルは日本人を、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であるとみた。特に名誉心、貧困を恥としないことをほめ、優れたキリスト教徒になりうる資質が十分ある人々であるとみていた。これは当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価です。同時にザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた男色(同性愛)が日本において公然と行われていたことでした。

布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともありました。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになりました。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになります。
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3.ルイス・フロイス

ルイス・フロイス(Luis Frois, 1532年 – 1597年7月8日)は、リスボン生まれのポルトガル人。イエズス会員でカトリック教会の司祭、宣教師。『日本史』を執筆。
1548年、16歳でイエズス会に入会しました。同年、当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。このことがその後の彼の人生を運命付けることになります。1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事に従事しました。1563年、31歳で横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して念願だった日本での布教活動を開始。日本語を学んだ後、1564年に平戸から京都に向かいました。1565年1月31日に京都入りを果たしたが、保護者と頼んだ将軍足利義輝と幕府権力の脆弱性に失望。三好党らによる戦乱などで困難を窮めながらも京都地区の布教責任者として奮闘しました。

1569年、入京した新しい中原の覇者織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得ました。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれています(フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、日本史における重要な資料の一つになっています)。

その後は九州において活躍していましたが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁しています。1583年、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられます。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めました。この記録が後に『日本史』とよばれることになります。

当初、豊臣秀吉は信長の対イエズス会政策を継承していたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587年6月19日には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち長崎に落ち着きました。

1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見しました。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年に長崎に戻り、1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日没しました。65歳。フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになりました。
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4.オルガンティノ

グネッキ・ソルディ・オルガンティノ。(Gnecchi‐Soldo Organtino, 1533年 – 1609年4月22日)は戦国時代末期の日本で宣教活動を行ったイタリア人宣教師。カトリック司祭。イエズス会員。人柄が良く、日本人が好きだった彼は「うるがんばてれん」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となりました。
1533年北イタリアのカストで生まれたオルガンティノは22歳でイエズス会に入会した。ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後で日本に派遣されました。来日は1570年6月18日で、天草志岐にその第一歩をしるした。オルガンティノははじめから京都地区での宣教を担当し、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事した。1577年から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめた。持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気がありました。
オルガンティノは1576年に京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成。1578年、荒木村重の叛乱時には家臣と村重の間で板ばさみになった高山右近から去就について相談を受けた。1580年には安土で直接織田信長に願って与えられた土地にセミナリヨ(初等教育機関(小神学校))を建てた。オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働いた。最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちでした。第一期生の中には後に殉教するパウロ三木もいた。しかしこのセミナリヨは信長が本能寺の変で横死した後で安土城が焼かれた時に放棄されました。1583年には豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、結局、右近の支配する高槻に設置されました。1587年に最初の禁教令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てた。オルガンティノは右近とともに表向き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信徒を指導した。翌年、右近が加賀に招かれると、オルガンティノは九州に向かいました。

1591年、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされました。1597年には日本二十六聖人の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取っています。オルガンティノは涙を流してそれらを押し頂いたといいます。

半生を日本宣教に捧げたオルガンティノは最晩年、長崎で病床につき、1609年、76歳で没した。
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5.キリシタン大名

フランシスコ・ザビエルは戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行った。後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行っています。その際、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器の援助などを提示した者もおり、大名側もこうした宣教師から得られる利益をより多く得ようと、入信して歓心を買った者もいた。入信した大名の領地では、特に顕著にキリスト教が広がることになった。しかしキリスト教が広まると、キリスト教の教義や、キリシタン大名の人徳や活躍ぶり(特に高山右近)に感化され、自ら入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていった。キリスト教に入信した大名とその配下達の中には、宣教師たちの意見を聞き入れ領地内の寺や神社を破壊したり焼き払うなどの行動を取った者もいた。仏教や神道を奉ずる大名の中にも、僧侶たちの意見を聞き入れ外来の宗教であるキリスト教を『邪教』として弾圧する者もおり、キリスト教徒と日本の旧来の宗教の信者達との間に憎悪と対立を深めていくことになった。また、豊臣秀吉によりバテレン追放令(伴天連追放令)が出され、キリシタン大名に対する政治的な圧力が強まり、多くの大名が改易、もしくは仏教か神道への改宗を余儀なくされ(強制改宗)、キリスト教の禁教と迫害の時代に入っていった。
江戸時代に入り、1613年(慶長18年)には禁教令も出されたため、最後まで棄教を拒んだ高山右近はマニラに追放され、有馬晴信は刑死し、以後キリシタン大名は存在しませんでした。

彼らの領内にいた多数のキリシタンは、仏教に改宗するか、隠れキリシタンとなるか、劇的な例では旧有馬晴信領で起こった島原の乱という大規模な一揆の際に殺害され、表から消えていった。

高山右近
洗礼名はユスト。茶道を究めた右近は「南坊」と号し、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られます。この項目での呼称は右近で統一します。

高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照(飛騨守を自称)が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、長慶の重臣松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原区)を居城としました。
高山右近は、そうした中、天文21年に右近は友照の嫡男として生まれました。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けています。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためでした。父の洗礼名はダリヨ、右近はポルトガル語で「正義の人」を意味するユスト(ジュストとも)。
しかし、三好氏は当主長慶が永禄7年に没すると内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めつつありました。そうした中、永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下足利義昭が将軍となると状況は一変します。義昭は土着の領主の一つである入江氏を滅ぼすと直臣である和田惟政を高槻城に置き、さらに彼に伊丹親興・池田勝正を加えた三人を摂津の守護に任命した。高山親子は和田惟政に仕えることとなったが、領域の狭い摂津をさらに分割統治する体制がうまくいくわけもなく、摂津は大きく混乱します。まず元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重の軍に敗れて討死(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏そのものを乗っとります。荒木村重は織田信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、荒木村重の領有となりました。

こうした状況下で、高山親子はうまく立ち回る。和田惟政の死後、高槻城はその子惟長が城主となっていたが、まだ幼かいました。そこで高山親子は元亀4年(1573年)4月、高槻城を乗っ取り、自ら城主となりました。惟長が暗愚であったためともいわれるが、高山親子が荒木村重と示し合わせた上での下剋上ともいわれ、荒木の重臣であった中川清秀が高山氏にごく近い親族であったことからも、後者の可能性は高い。高山親子は荒木村重の支配下に入り、村重がすでに信長から摂津一円の支配権を得ていたことからこの事件は黙認され、高山親子は晴れて高槻城主となることができた。まもなく高槻城の修築工事を行い、石垣が塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れました。右近は高槻城を乗っ取る際、惟長と切り合って瀕死の重傷を負うが、奇跡とも言える回復を遂げた。右近はこの機を境にキリスト教へ傾倒するようになった。このときまでは、父・友照ほど熱心ではなかったというが、生死の境を彷徨ったことで何か悟るものがあったのだろう。
この天正11年から13年頃に、御着城主・姫路城代黒田孝高は高山右近らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。しかし、天正15年(1587年)7月に秀吉がバテレン追放令を出すと高山右近らがこれに反抗して追放される中、孝高は率先して令に従った。

ただし、こうした戦国乱世を地でいくようなことをしつつも、高山親子はいっそうキリシタンに傾倒していく。特に父友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を息子の右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は当然息子の右近に大きな影響を与えました。
京極高吉
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戦国-10 大航海時代と世界経済

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

 

概 要

目次

  1. 大航海時代の開幕
  2. 帝国を求めて
  3. ポルトガルとスペイン
  4. オランダの役割
 近世ヨーロッパは、その内部に新しい政治・社会の秩序を造り出すとともに、外の世界に向かっても大きく飛躍していきました。とくに16世紀は「地理上の発見」とか「大航海」の時代と呼ばれ、ヨーロッパ人がアジアと新大陸に進出した時期にあたっています。
問題は、これを契機にヨーロッパが徐々に他の文明世界を圧迫し、政治的にも経済的にも支配するようになったことで、そうした状況を個々の事情の認識ではなく、グローバルな視点から総合的に捉えることが重要な課題となっています。とかく日本史では国内の政治・社会を中心に、そうしたヨーロッパの動きを軽視して捉えがちです。江戸時代の閉鎖的な鎖国時代を除けば、古代より東アジアと絶えず人々や文明が交流しながら発達してきたのであり、16世紀以降、その規模は地球規模に広がることになります。
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大航海時代と世界経済


1.大航海時代の開幕

ポルトガルは、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出しました。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功しました。

オランダも17世紀から18世紀にかけて植民地主義大国として活躍してオランダ海上帝国と呼ばれました。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカに植民地(スリナム)を保持していました。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長した大英帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は低迷して行みました。20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われましたが、現在でもカリブ海にオランダ領アンティル、アルバの二つの海外領土を持っています。

ロシア帝国は15世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げました。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと開拓をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ制圧しました。シベリアには殖民都市を多数建設し、都市同士を結ぶことで勢力を広げました。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国(モンゴル帝国)を侵略、植民地化しました。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めましたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件のどさくさにまぎれ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化しました。

東方の併合が一段落すると、続いて全中央アジアを征服、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突しました(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどとぶつかり合い、その戦費の捻出によって経済は破綻、共産主義者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅びましだ。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となりました。1941年にはバルト三国を、武力併合しました。また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義諸国も、名目上独立国とはいえ、ソ連の植民地同然でした。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国はCIS(独立国家共同体)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われています。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになりました。

ドイツ帝国の前身であるプロイセン公国は1683年に西アフリカに遠征し、ゴールド・コーストに植民(1720年に放棄)。更にギニアにグロース=フリードリヒスベルク市を建設し、奴隷貿易にも携わりました。ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を持っていましたが第一次世界大戦敗北により喪失しました(ドイツ植民地帝国)。

イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持しましたが、第二次世界大戦の優柔不断な国政によって戦後にすべて喪失しました。。
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2.帝国を求めて

 近世ヨーロッパの政治史の流れは、大きく三つに区分できます。第一期は、フランスとドイツがヨーロッパの派遣を競った時期で、イタリア戦争(1521年から1544年または1494~1559年)の時期に相当します。イタリア戦争は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争です。ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執がありましたが、1519年にカール5世が神聖ローマ皇帝に即位し、またスペイン王を兼ねていたため、重大な脅威を受けることになったフランスは、戦略上イタリアを確保することが必要になりました。16世紀のイタリアはルネサンス文化の最盛期でもありますが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになります。
第二期は、新大陸の富を背景にスペインが派遣を握った時期。第三期は、スペインの衰退のあと、フランスとイギリスが大陸の派遣と海外植民地をセットで争い、初期的な世界戦争に突入した時期です。
第一期のイタリア戦争は、イタリアの領有権を主張するフランス国王シャルル八世がイタリアに出兵したことから始まりますが、16世紀前半では、ハプスブルク家の膨大な家産を相続したドイツ皇帝カール五世(在位1519~6年)と、中世のシャルルマーニュ大帝がつくりあげたカロリング帝国の再現を目論むフランス国王フランソワ一世(在位1515~47年)が、何度も戦争を交えました。しかし、戦争は決着がつかず、ドイツの内乱に疲れたカール五世は、ドイツヲを弟のフェルディナント一世に、スペインとネーデルランドを息子のフェリペ二世に譲って、スペインの修道院に隠棲しました。ハプスブルク家の東西分裂です。フランス側でも、フランソワ一世を継承したアンリ二世は、1557年にサン=カンタンの戦いで大敗を喫し、帝国の野望を達成できませんでしました。1559年、イタリア戦争はカトー=カンブレジの和約で終結しました。
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3.ポルトガルとスペイン

覇権争いの常連だったフランスとドイツが後退したあと、地位を受け継いだのはスペインです。コロンブスの新大陸への到達以後、次々と植民地化し、大西洋貿易を独占的に支配したスペインは、フェリペ二世の時に黄金期を迎えました。新しい通商路の成立はヨーロッパに大きな影響を及ぼしました。第一に、ヨーロッパ人の海外進出です。ただし、アジアではインドのムガール帝国、中国の明・清帝国、日本の織豊政権などがあって、ポルトガル人の活動は限定され、中継貿易に留まりました。アジアとヨーロッパを往復するには約二年かかり、商館と寄港地を維持するコストの高さが最大のネックとなったのです。この点では、17世紀にアジア貿易の主役を担ったオランダも同様で、東インド会社は、アジア間の中継貿易に力点を置き、しばしば本国と対立しました。
第二に、ヨーロッパの諸地域の役割変化です。アジアや新大陸の物産が北辺にあるオランダに直接運び込まれるようになると、ヨーロッパの重心がオランダに傾き、地中海のイタリアと内陸部の意味が大幅に後退せざるを得なくなりました。「地理上の発見」は、ヨーロッパの人や物の流れを変えただけでなく、伝統的な地理観それ自体に大きな変化をもたらしたのです。ヨーロッパが世界に進出するきっかけをつくったのは、イベリア半島のポルトガルとスペインという「国土回復運動」を終えたばかりの新興国でしました。
15世紀中葉以降、ポルトガルはインドへの通商路を求めてアフリカ大陸を南下していましたが、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが率いる船隊は、アフリカ南端の喜望峰を通過し、インドの西海岸カルカッタに到着し、大量の香辛料を買い付けてリスボンに戻りました。このあと、インドのゴア、マラッカ、マカオ、平戸(長崎)に商館を作り、アジアの商業ネットワークを築き上げました。1500年インドに向かったカブラルの船隊は、途中で嵐にあってブラジルに漂着し、この地の領有を宣言しました。ポルトガルから近いブラジルでは、蘇芳(紅色染料)、タバコ、砂糖の生産が始まりました。
一方、スペイン国王の後援を受けて西方からインドをめざしたコロンブスは、1492年、アメリカに第一歩を記しました。翌年、再びこの地にやってきたコロンブスは、早くも千人ほどの移民を伴っていました。これが植民地化の始まりです。次いで、マゼランはポルトガルが支配するマラッカ海峡に西回りで到達しようと1519年に船出し、初めて世界周航を果たしました。このあと、新大陸では貴金属を求めた「征服者」が暗躍し、1520年代にはコルテスがメキシコのアステカ王国を、1530年代にはピサロがペルーのインカ帝国を滅ぼしました。ほどなくペルーのポトシで産出された銀がセヴィリア経由でイタリアのジェノヴァやネーデルランドのアントウェルベンにもたらされ、ヨーロッパ通過の基礎となっています。1580年にはポルトガルの王家断絶を利用してポルトガル国王を兼ね、まさに「太陽の沈まない王国」を実現しました。新大陸では国王直轄のもとに、採掘から輸送に至るルートが整備されました。ヨーロッパ各地にもたらされた銀は、通貨量を増大させ、価格革命をもたらしたといわれますが、16世紀ヨーロッパの経済発展を根底で支えました。しかし、フェリペ二世の没後、スペインは衰退に向かい、スペインが持っていた権益をイギリスとオランダが分け合うようになりました。イギリスは、フランスとドイツが争いに熱中しています隙に乗じてスコットランドやアイルランドに遠征し、スペインの無敵艦隊を撃破し、新大陸にも進出しました。ヨーロッパ大陸の問題に深入りしないで、島国としての立地を生かし、海洋国家に転身したところからイギリスの未来が開けたのです。オランダは、もともと北海・バルト海と大西洋をつなぐ商取引の結節点に位置し、自由主義的な貿易立国をめざしました。オランダは王権が弱体であり、貴族や商人の勢力を背景に、アムステルダムやロッテルダムなどの都市が主力となって「連邦共和国」を成立させます。
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4.アジアの通商

 一方、アジアにおいては、16世紀は活発な通商がおこなわれ、東アジアからインド洋にかけてさかんに人びとが交流していました。特に琉球王国は、日本、朝鮮、中国、東南アジアを結ぶ中継貿易で繁栄の時代をむかえ、日本の堺や博多は自治都市として栄えました。そうしたなか、ヨーロッパからはるばるインド洋に達したポルトガル人は、東南アジアや東アジアの通商に参入し、戦国時代の日本や琉球にも渡来しました。

ポルトガル人はインドのゴア、マレー半島のマラッカ、中国のマカオ、広州、日本の平戸などの港に商館をおいて通商し、またイエズス会などカトリックの修道会が中国や日本で布教をはじめました。少し遅れてスペイン人やオランダ人も通商に加わった。しかし、この時期のヨーロッパ人は、アジアにおける政治秩序や文化を侵すことはできなかいました。すでにアジア人相互の通商がさかんで、それぞれの国では統治制度もきわめて高度に整備されていたからでした。

豊かなアジアの国々は、鉄砲に強い関心をもった日本をのぞくと、ヨーロッパ産品を特に必要としませんでした。なお、鉄砲は、1543年に種子島に漂着したポルトガル人が伝えたとされています。しかし、軍事史家の宇田川武久は、それが倭寇が用いたアジア製の模造品である可能性が高いことを指摘しています。

明やオスマン帝国などのアジアの大国の軍隊では大砲を中心に火器もかなり普及していましたが、火薬の原料として必要な硝石は日本と異なり家畜の飼育が盛んだったため、十分自給できていました。逆に、ヨーロッパの人びとは香辛料、陶磁器、絹織物、茶などアジアの物産を大いに求めました。結果的に、これら産品を購入するための対価としては、メキシコやペルー、ボリビアなどで産出された銀が充当されました。アメリカ大陸や日本の石見銀山・生野銀山からの銀が大量にアジアに流れることによって、16世紀後半のアジア経済はさらに活況を呈することとなりました。
そして、明王朝では1565年に銀を用いた納税方法である一条鞭法が採用され、1570年代以降には全国に波及して税制が簡素化されていきました。
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5.オランダの役割

ヨーロッパ世界経済が勃興したのは、16世紀のヴェネティア(イタリア)でした。しかし、その時点で、地中海世界はすでに反映のピークは過ぎていたとみられています。16世紀後半から17世紀前半にかけて、ヨーロッパ各地が凶作、伝染病の流行、人口減少などの深刻な危機に見舞われるなか、唯一明るい兆しが見られたのは大西洋や北海に面した海港都市、そしてネーデルランドでしました。ネーデルランド北部(オランダ)の独立派は、宗主国スペイン側にあった海港都市アントウェルベンの機能を16世紀末に破壊し、アムステルダムに新たな経済活動の拠点を築きました。
人口150万人と小さな国家に過ぎないオランダが、17世紀後半まで主導権を堅持できたのです。それは、オランダは工芸技術に優れ、毛織物業、製糖業、製紙業、醸造業などが興隆しました。ニシン・タラの遠洋漁業や、集約型の農業もよく知られています。金融の面では、1609年にアムステルダム銀行が設立され、為替手形による国際的な決済、資本の外国投資が可能となりました。最も注目すべきことは、オランダが培った海洋的な側面です。
そのひとつは、オランダがバルト海方面の貿易と密接に結びついていたことです。輸入された商品は、エルベ川以東のプロイセン、ポーランド、ロシアなど東ヨーロッパで生産された穀物(小麦とライ麦)、スカンジナヴィア参の銅、鉄、硝石、船材、タール、ピッチなどでしました。前者は工業国に転じたオランダの食生活を賄う必需品でしました。東ヨーロッパでは領主制が強化され、「再販農奴制」と呼ばれる農民の隷属化が広がりました。後者は船舶や武器の製造用で、海洋に乗り出すには不可欠な物資です。
もうひとつは、オランダの植民地経営の手法です。第一に、オランダは会社制度を導入し、喜望峰を境に東インド会社(1602年設立)と西インド会社(1621年設立)に分け、外交権、自衛権、貨幣鋳造権などを含む当事者能力を与えました。第二に、オランダはポルトガルのアジア戦略の方法を取り入れました。ポルトガルが始めたアフリカの奴隷貿易に参加し、スペインとエージェント契約を交わしたことや、ブラジルに侵入し、タバコ、砂糖、コーヒーなどの大規模農園の技術をカリブ海方面に伝えたことは、のちに「三角貿易」の原点となりました。また、インドネシアで香辛料貿易が低迷すると、コーヒー栽培への転換を試みるなど、オランダは植民地の有効利用に熱心で、本格的な植民地の領有化を促進しました。
最もオランダが世界の物産の集散地として成功した最大の秘密は、造船業と海運業の発展であり、何よりも優秀な船員の養成にありました。新鋭のフライト船は、容積が大きく、操船が簡単で、少人数で大量の積荷を輸送する能力を持ち、中継貿易には最適でしました。人口の少ないオランダは、その弱点を船舶の保有数と操船の技術力でカバーし
、ヴェネティアを上回る規模の世界システムを機動させたのです。
相前後して1600年にはイングランドがイギリス東インド会社を設立しました。これはエリザベス女王より貿易独占権を付与された会社でしたが、ここでは、17世紀半ばまでは一航海ごとに出資者に利益を分配するしくみをとっっていました。
江戸幕府は、当初は朱印船貿易によって東南アジアに進出して各地に「日本町」を建設しましたが、1630年代には鎖国政策に転じ、オランダ船と中国船による貿易だけに制限して国内発展をめざしました。
中国大陸では、1616年にヌルハチによって統一された女真族が満州の地に後金王朝(後の清朝)を建国、つづくホンタイジが内モンゴルを併合して、順治帝の1644年には李自成を追って呉三桂を先導に北京に入城し、明にかわって中国支配を開始しました。続く康煕帝は中国史上最高の名君とされています。彼は文化の振興を図り、三藩の乱を鎮め、鄭氏政権を滅ぼし台湾を支配し、漢民族を支配下におきました。また康熙帝は1697年にジュンガルのガルダン・ハーンを滅ぼし、モンゴル高原を支配下に治め、さらにロシアとの間に中国史上初めての対等条約であるネルチンスク条約(1689年)を結ぶなどの対外活動も充実させて、安定した治世を実現しました。ロシアとの交渉はイエズス会宣教師が行い、交渉用語にはラテン語が用いられました。清朝は、公式条文中の「両国は―」ではじまる文言をことごとく「中国は―」とする一方的な命令口調に改竄し、対内的には朝貢関係としてこれを理解させました。朝鮮王国は、1636年に清に攻撃されてその服属国となり、その後厳しい鎖国政策を採用しました。琉球王国も1609年に薩摩藩に服属しましたが、中国との朝貢貿易は続きました。ロシアでは、内乱や農民反乱、ポーランド王国の侵入などの動乱を経て、ミハイル・ロマノフが1613年にロマノフ王朝を建て、正教を奉じる北方の専制国家として領主制支配を強めて、シベリアに領土を広げていきました。当初は西欧と深いかかわりを持たなかったロシアでしたが、17世紀末ころにピョートル1世があらわれると、西欧化政策を推進する一方、康煕帝治下の清朝との間に上述のネルチンスク条約を結んで国境を画定しました。
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『ヨーロッパの歴史』 放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温

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たじまる 戦国9 明智光秀と細川ガラシャ

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

明智光秀と細川ガラシャ

1.丹後平定と細川藤孝(幽斎)

田辺城城門

丹後国は元々一色氏が守護を務める国でしたが、天正7年(1579年)、細川藤孝(幽斎)は明智光秀とともに反信長連合の一角だった一色氏らを滅ぼし、丹後国・丹波国を制圧し功績を挙げました。藤孝は恩賞とし丹後一国を与えられ田辺城を築き、田辺(舞鶴)を拠点に丹後一国を治めました。

その後、天正10年(1582年)6月2日に、嫡男の忠興が明智光秀の娘玉(のちガラシャ)を迎え親戚関係にあった明智光秀が本能寺の変を起こし、光秀から藤孝(幽斎)自身も加担するよう誘われますが、反光秀の立場を貫き、羽柴秀吉から丹後の本領を安堵されています。しかし藤孝(幽斎)は、光秀の裏切りの責任をとる形で嫡男の忠興に家督を譲って隠居しました。その際、隠居城として宮津城を築き、丹後舞鶴から移りました。


天守閣跡

慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こりました。細川忠興は家康に従っており、幽斎は僅かな兵とともに田辺城の留守を守っていました。そこへ、大坂方の大軍が攻め寄せたが、幽斎は屈することなく六十日間にわたって城を死守しました。藤孝は『古今和歌集』の秘伝を三条西実条から、『源氏物語』の秘伝を近衛稙通より伝授されていました。藤孝の死によって歌道秘訣の絶えるのを恐れた後陽成天皇によって、包囲軍は田辺城から撤退となったのです。その筋書きは、藤孝が京の公卿衆を動かして書いたものだと伝えられています。

しかし、関ヶ原の戦い時には、ふたたび舞鶴城に戻り、留守中の息子の代理を務めました。
戦後、細川忠興は関ヶ原の合戦の功により、慶長5年(1600年)、細川氏は豊前国中津藩(福岡県東部)へ転封されました。かわって信濃国飯田より、京極高知(きょうごくたかとも)が田辺城に入城しました。

一躍、豊前一国と豊後の内速水・国東両郡併せて三十九万九千石を拝領しました。幽斎も田辺城における功を賞され、別に隠居料として六千石を与えられました。こうして、細川幽斎は、慶長十五年、七十七歳を一期として世を去りました。文字通り、激動の時代を生き抜いた幽斎は、人生の達人といえる人物であったといえるでしょうか。幽斎のあとを継ぎ、豊前の大大名となった忠興は三斎と号し、『細川三斎茶書』といった著書もあり、利久七哲の一人に数えられるほどの文化人でもありました。忠興も逸話の多い人物だが、ガラシャとの関係は世に有名なところです。忠興のあとはガラシャとの間に生まれた忠利が継ぎ、寛永九年(1632)、加藤氏が改易されたのちの肥後国(熊本県)に転封されました。以後、細川氏は肥後一国を領して明治維新に至りました。

細川幽斎(藤孝)

細川幽斎は、天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員の次男として京都東山に生まれる。天文9年(1540年)、7歳で伯父である和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄)の養子となりました。初め幕臣として13代将軍将軍義輝に仕えますが、永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺されると、幽閉された義輝の弟・一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)を兄・三淵藤英らとともに救出し、近江の六角義賢、若狭の武田義統、越前の朝倉義景らを頼って義昭の将軍擁立に尽力しますが、その後、朝倉氏に仕えていた明智光秀を通じて尾張の織田信長に従うこととなります。天正6年(1578年)、信長のすすめによって嫡男・細川忠興と光秀の娘・玉(細川ガラシャ)を娶ります。

天正8年(1580年)に単独で丹後に進攻するも守護一色氏に反撃され失敗、光秀の加勢によってようやく平定に成功し、信長から丹後11万石を与えられ宮津城を居城とし丹後宮津11万石の大名となります。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は織田の山陰道平定軍の上司であり親戚でもある明智光秀の再三の要請を断り、剃髪し幽斎玄旨と号して隠居、細川忠興に領土を譲りました。

後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世細川氏の祖となりました。また、幽斎は千利休らとともに秀吉側近の文化人として寵遇され、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け近世歌学を大成させた文化人としても知られています。
嫡男の忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。一方、徳川家康とも親交があり、
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近しました。
細川忠興は、天正10年(1582年)6月、義父・明智光秀が本能寺の変を起こし藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、織田信澄とは異なり父子は誘いを拒否したうえ、玉子を丹後の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建っている。細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれている。忠興はこのとき、父が隠居したので領国を譲られて丹後宮津城主となりました。

慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津(上杉景勝)征伐に軍勢を引きつれて参加し、7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興夫人・ガラシャは包囲された屋敷に火を放って家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて亡くなりました。
幽斎は500に満たない手勢で丹後田辺(舞鶴)城を守りました。田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されましたが、幽斎が指揮する籠城軍の抵抗は激しく、また攻囲軍の中に幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲が乏しかったこともあり長期戦となりました。ようやく、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入りました。

関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の有力大名であるうえ、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われていわれています。

前線で石田三成の軍と戦い、戦後の慶長7年(1602年)、家康から豊前中津藩39万9000石に加増移封し、その後豊前40万石の小倉藩に移り、小倉城を築城しました。かわりに京極高知が丹後一国12万3千石を与えられ仮に田辺城に入城したが、宮津城を再築し宮津城へ本拠地を移しました。

幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれています。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、徳川方として参戦する。ただし、大坂冬の陣には参戦していない。元和6年(1620年)、三男の細川忠利に家督を譲って隠居する。この頃、出家して三斎宗立と号した。
寛永9年(1632年)、忠利が肥後熊本藩54万石の領主として熊本城に移封されると熊本の南の八代城に入り北の丸を隠居所としました。

細川ガラシャ夫人隠棲地

細川ガラシャ(俄羅奢)、永禄6年(1563年) – 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、明智光秀の三女で織田信澄室、細川忠興の正室。諱は「たま」(珠、玉)または玉子(たまこ)。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。子に、於長(おちょう:1579年生、前野景定室)、忠隆(1580年生)、興秋(1584年生)、忠利(1586年生)、多羅(たら:1588年生稲葉一通室)などがいます。明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも「細川ガラシャ」と呼ばれる場合が多いですが、前近代の日本は夫婦別姓であり、北条政子・赤橋登子・日野富子などの例に照らせば、本名は「明智 珠」が正しいようです。 永禄6年(1563年)、明智光秀と妻煕子(ひろこ)の間に三女(四女説もあります。ただしこの場合、長女と次女は養女であり、実質は次女となる)として越前国で生まれましました。

天正6年(1578年)、15歳の時に父の主君、織田信長のすすめによって坂本城より、勝(青)龍寺(京都府長岡京市)城主細川藤孝(幽斎)の息子忠興に嫁ぎました。珠(たま)は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆後の長岡休無)が二人の間に生まれましました。

しかし天正10年(1582年)、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となります。忠興は珠を愛していたがために離縁する気になれず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉します。この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(公家清原枝賢の娘)らの侍女達でしました。

珠の幽閉先とされる場所ですが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実です。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」があります。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられます。

細い山道を苦労して標高400mの地にたどりつくと、すっかり日が暮れて記念碑は見ることができませんでした。女城跡に建てられている弥栄町の案内板によると、「味土野は、御殿と書かれていた時期もあり、現在の記念碑が建立してある平坦面にガラシャの居城があったといわれています。谷の周囲には、現在でも矢に使う矢竹が確認でき、また樹の下にある観音堂の台石はガラシャが信仰した場所と伝えられています。この他にも古井戸、蓮池跡などガラシャの足跡を現在に伝える伝承や遺跡が多く残っています。

山深い味土野の里にある細川ガラシャ夫人の隠棲地(女城跡)(いんせいち)は、ガラシャ夫人の父・明智光秀が本能寺の変を起こした天正十年から十二年(1582~1584)までの二年間、ガラシャ夫人が幽閉されていた場所である。また、谷を挟んだ向かいの丘陵は「男城跡」(おじろあと)で、ガラシャ夫人に付き従った家来達の居城の跡と言われている。

調査者 上智大学文学部教授 ヘルマン・ホイヴェルス東京女子高等師範学校長 下村 壽一女城跡 御殿屋敷ともいわれ、細川ガラシャ夫人の城跡男城跡 女城と谷を隔てた向かい側の尾根にあり、当時細川ガラシャを警護するために作られた城」

キリスト教徒へ

天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻しました。この年に興秋が生まれています。これらの人生の変転の中で、珠はカトリックの話を聞き、その教えに心を魅かれていきましました。天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれましましたが、病弱のため、珠は日頃から心配していましました。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣し、彼女は意を決してカトリックの教えを聞きに行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は修道士にいろいろな質問をしました。そのコスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べています。

教会から戻った珠は大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けましました。しかし、後に秀吉はバテレン追放令を出し、大名が許可無くキリスト教を信仰することを禁じた。忠興は家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒し、改宗した侍女の鼻を削ぎ、追い出しましました。

幸いにもガラシャは発覚を免れましましたが、拠り所を失ったガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説いた。それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったといいます。

壮絶な最期

関ヶ原の戦いが勃発する直前の慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、石田三成は、徳川家康が上杉討伐に兵を起こした際に、これに従った細川忠興を始めとする大坂城下に屋敷を構える家康方の大名から、人質を取ることを企て、まず細川家屋敷に軍勢を差し向け、大坂玉造の細川屋敷にいた彼女を人質に取ろうとしましましたが、ガラシャはそれを拒絶しましました。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて死んだ(偕成社刊『偉人の話』では“首を打たせた”の記述あり。キリスト教では自殺は大罪であり、天国へは行けないため)。38歳。辞世の句として、「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠みましました。こののち、小笠原はガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃しましました。ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬りましました。細川忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬しました。他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがあります。

なお細川屋敷を三成の兵に囲まれた際に、ガラシャは世子細川忠隆の正室で前田利家娘の千世に逃げるように勧め、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れましました。しかし、これに激怒した忠興は忠隆に千世との離婚を命じ、反発した忠隆を勘当廃嫡してした(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。
細川ガラシャ夫人は、日本の歴史の大きなうねりの中に、その名を残す数少ない女性の一人で、大変な美人であったと言われています。苦難の生活を送りながらも自己の尊厳と人間愛を貫き通し、女性であることの誇りを守り、常に世の中の平和を祈り続け、波乱に富んだ生涯を送った人でありました。

戯曲「気丈な貴婦人」

ガラシャをモデルにした戯曲「気丈な貴婦人」(グラーシャ)の初演は神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーナ皇后の聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にイエスズ会の劇場でオペラとして発表されましました。ガラシャの死はヨーロッパでは殉教死と考えられました(「武士道」と言う観念、武家社会の礼法が理解されない為)。その戯曲の中でのガラシャは、夫である野蛮な君主の非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心さるという解釈になっています。この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君達に特に好まれたとされ、彼女達は政治的な理由で他国に嫁がされるガラシャを自分達の身の上に重ね、それでも自らの信仰を貫いた気高さに感銘を受けたと言う。エレオノーレ・マグダレーナ、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリーザベトなどの生き方にも尊敬と感銘を受け深く影響を与えたと言われています。

カトリック宮津教会


洗者聖ヨハネ天主堂ともいわれ、フランス人のルイ・ルラーブ神父が1896(明治29)年に造った木造の教会で、毎週ミサの捧げられる現役の聖堂としては、日本で最も古いものとされています。

内部の床は畳敷きという和洋折衷のロマネスク風様式の教会、堂内を明るく照らすステンドグラスはフランスから輸入したもので、1280枚あります。 この教会は観光施設ではなく多くの方が礼拝に訪れる宗教施設です。。
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戦国8 丹波・播磨平定

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

丹波・播磨平定

丹波国(たんばのくに)は、大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てています。このため、丹波国は甲斐や尾張、土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化しました。地域性として亀岡・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津、福知山・綾部の中丹は丹後・但馬、篠山・氷上の兵庫丹波は但馬・摂津・播磨に密接に係わっています。

丹波や畿内では国人の独立志向が非常に高く、山城や丹波などでは、守護(細川氏)が数十年をかけても国人層の被官化を達成できない事例も見られました。丹波国は古くより山陰道からの京都の出入口に当たる地理的条件から、各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司代などの支配を受けました。ただそれだけにひとたび都で戦乱が起こった時は戦乱にすぐ巻き込まれました。そして篠村(亀岡市篠町)では、鎌倉時代末期には足利尊氏が挙兵し、安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀が本能寺の変へと向う際にそれに倣ったとされるなど、時代変革の舞台ともなりました。

明智光秀(あけち みつひで)

明智光秀は、戦国時代、安土桃山時代の武将。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。正室は妻木勘解由左衛門範煕(のりひろ)の娘煕子(ひろこ)。間には、織田信澄室、細川忠興室珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男光慶(十五郎)がいます。

明智氏は『明智系図』によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族。美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市)より発祥。

源頼光-源頼国-源国房-(6代略)-土岐頼貞-土岐頼基-明智頼重-(7代略)-明智光継-明智光綱-明智光秀-明智光慶

(生年日は不明()、岐阜・可児(かに)市出身、明智城主の子とされるが不明(美濃国説が有力)。明智氏は美濃守護・土岐(とき)氏の分家。はじめ斎藤道三に仕えた。1556年、道三と子・義竜の争いが勃発した際に道三側につき、明智城を義竜に攻撃されて一族の多くが討死しました。光秀は明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたといいます。

※煕子は婚約時代に皮膚の病(疱瘡)にかかり体中に痕が残ったことから、煕子の父は姉とソックリな妹を嫁がせようとしました。しかし、光秀はこれを見抜き、煕子を妻に迎えたといいます。当時の武将は側室を複数持つのが普通だった時代に(、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。

やがて光秀は鉄砲の射撃技術をかわれて越前の朝倉義景に召抱えられ10年間仕えたとも言われる。156http://kojiyama.net/history/?p=119525年(http://kojiyama.net/history/?p=1195255歳)、100名の鉄砲隊が部下になる。射撃演習の模範として通常の倍近い距離の的に100発撃って全弾命中させ、しかも68発が中心の星を撃ち抜くスゴ腕を見せた。1566年(http://kojiyama.net/history/?p=1195258歳)、1http://kojiyama.net/history/?p=119525代将軍足利義輝が暗殺され、京を脱出した弟・足利義昭(http://kojiyama.net/history/?p=1195259歳)が朝倉氏を頼ってくると、光秀は義昭の側近・細川藤孝(※要記憶)と意気投合し、藤孝を通して義昭も光秀を知ることとなります。
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謎の多い明智光秀

『勧善懲悪』、時代劇や多くのハリウッド映画、ヒーロー戦隊番組に於けるシナリオにおける典型的パターンです。これは善玉(正義若しくは善人)と、悪玉(悪役・悪党・搾取する権力者など)が明確に分かれており、最後には悪玉が善玉に打ち倒され、滅ぼされたり悔恨するという形で終結します。一般にはハッピーエンドとされる形で物語は終幕を迎えるパターンです。
信長、秀吉、家康などは英雄視され、光秀については、歴史物では、本能寺の変で主君信長を討った「主殺し」、「謀反者」、「三日天下」など悪いイメージで知られています。しかし、本当にそうであったのかという素朴な疑問がありましました。光秀ほど謎に満ち、歴史的興味をかりたててくれる人物も、そう多くはありません。

怨恨説は元になったエピソードが主として江戸時代中期以降に書かれた書物が出典であること(すなわち、後世の憶測による後付である。例えば、波多野秀治の件は現在では城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされている)、織田信長・豊臣秀吉を英雄とした明治以来の政治動向に配慮し、学問的な論理展開を放棄してきたことが挙げられる(ただし、ルイス・フロイスの足蹴の記述など、明らかに同時代の資料も存在する)。

ひょうきん者の藤吉郎(秀吉)、カリスマ的な信長。光秀は生真面目な努力の人であり秀才型といえます。『勧善懲悪』な時代劇にするには、なんとも光秀は面白くはないでしょう。戦国期の武将の中で光秀が特異な存在で一人浮いて見えてしまうのはどうしてなのでしょうか。私の感覚ではありますが、信長・秀吉・家康に代表される戦国武将は歴史上の勝者敗者を問わず、現実世界からかけ離れた人物であるのに対し、光秀については、その栄光も苦悩も挫折も現代に通じるドキュメンタリーとしてとらえることができる人間らしい人物としても興味があるところです。

「勤勉で、学問好きで、まじめに生きようとしています。むろん武士として名誉欲も、政治的野心もありますが、歌人であり、ものの哀れを知る男だ。」(明智光秀 物語と史蹟をたずねて 早乙女貢著より抜粋)という現代人的感覚に近い人間だからだ英雄的ではないと思われます。

逆に言えば戦国期においては、生きていけない人間ということになってしまうのかもしれませんが、明智一族の結束の強さに光秀の人情に厚い人間らしさを感じるのです。光秀の才能や人間性が、どのようにして培われたものか大変興味がありますが、残念ながら光秀が歴史の表舞台に登場してくるのは朝倉義景に仕官した時からで、その前半生を語る信憑性のある資料はほとんどなく、謎に包まれています。
しかしながら、歴史を大きく転回させたキーマンであることは疑うべくもありません。

1571年7月、光秀は信長から近江国滋賀郡を与えられ、琵琶湖の湖畔に居城となる坂本城の築城を開始します(信長は築城費に黄金千両を与える)。これは織田家にとって大事件でした。光秀は初めて自分の城を持っただけではありません。織田に来て僅か4年の彼が、家臣団の中で初めて一国一城の武将となったのです。

天正5年(1575年)の叙任の際に姓と官職を両方賜ったのは、光秀・簗田広正・塙直政の三人だけである。このことから、この時点で既に官職を賜っていた柴田勝家・佐久間信盛は別としても、丹羽長秀・木下秀吉などより地位が高かったと見てよいと思われます。当時織田家中で5本の指に入る人物であったことは疑いなく、簗田・塙は譜代家臣であることから考えても信長の信頼の厚さが窺えます。

天正10年(158http://kojiyama.net/history/?p=119525年)6月http://kojiyama.net/history/?p=119525日(西暦6月http://kojiyama.net/history/?p=1195251日)早朝、光秀が羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上、亀山城から桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる「本能寺の変」が起こります(しかし、光秀は丹波亀山城には事件前にも後にも死ぬまで立ち寄っておらず、坂本城よりhttp://kojiyama.net/history/?p=119525000の兵で本能寺に向かい、到着したのは本能寺が焼け落ちた午前7時半より数時間後の9時頃だったとする説もある)。光秀は、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼしたために、謀反人として歴史に名を残すことになってしましましました。一方で光秀の心情を斟酌する人間も少なくなく、変の背景が未だに曖昧なこともあって、良くも悪くも光秀に焦点をあてた作品が後に数多く作られることとなりましました。

本能寺の変

天正10年6月。ここで本能寺の変について、おさらいしてみましょう。

5月15日&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
光秀は、武田攻めから帰還したのち、長年武田氏と戦って労あった徳川家康の接待役をより務めた。
15日羽柴秀吉から応援の要請が届く。
17日光秀は接待役を途中解任されて居城坂本城に帰され、中国攻めの秀吉援護の出陣を命ぜられた。
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
http://kojiyama.net/history/?p=1195256日
いまひとつの居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕大権現に参篭。
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
http://kojiyama.net/history/?p=1195258日・http://kojiyama.net/history/?p=1195259日
「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催しました。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが、句の解釈は種々ある。
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
http://kojiyama.net/history/?p=1195259日
信長は秀吉の応援に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った[*1]。同時に、信長の嫡男・信忠は妙覚寺に入った。
翌6月1日信長は本能寺で茶会を開いています。
6月1日夕光秀は1万http://kojiyama.net/history/?p=119525000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった(光秀は丹波亀山城には事件前にも後にも死ぬまで立ち寄っておらず、坂本城よりhttp://kojiyama.net/history/?p=119525000の兵で本能寺に向かい、到着したのは本能寺が焼け落ちた午前7時半より数時間後の9時頃だったとする説もある)。
http://kojiyama.net/history/?p=119525日未明桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言[*http://kojiyama.net/history/?p=119525]して、襲撃を明らかにしました。
6月http://kojiyama.net/history/?p=119525日『本能寺の変』。&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
光秀は権力地盤を固める為に諸将へ向け、ただちに「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と、共闘を求める書状を送る。堺にいた家康は動乱の時代が来ることを察し、速攻で自国へ帰った。
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
6月http://kojiyama.net/history/?p=119525日
、遠方の武将達は信長の死を知らず、柴田勝家はこの日も上杉方の魚津城(富山)を落としています。夜になって、毛利・小早川の元へ向かった使者が秀吉軍に捕まり密書を奪われ、「本能寺の変」を秀吉が知ることになる。翌日、秀吉は信長の死を隠して毛利と和睦。勝家もこれを知り上杉との戦いを停止して京を目指す。5日、光秀の次女と結婚していた信長の甥・信澄は自害に追い込まれた。後継者争いの最初の被害者だ。午後2時、俗に言う「秀吉の中国大返し」が始まる(秀吉は“変”から10日で全軍を京都に戻した)。
6月9日信長に反感を抱く諸将は多いはずなのに、一向に援軍が現れず光秀は焦り始める。どの武将も秀吉や勝家と戦いたくなかったし、信長が魔王でも「主君殺し」を認めれば、自分も部下に討たれることを容認するようなものだからだ。光秀が最もショックだったのは細川父子の離反。旧知の細川藤孝とガラシアの夫・忠興は、当然自分に味方すると思っていたのが、なんと藤孝は自分の髪を切って送ってきた。細川家存続を選んで親友光秀を裏切った自分に「武士の資格はない」と、頭を剃って出家したのだ(以後、幽斎を名乗る)。忠興はガラシアを辺境に幽閉しました。&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
光秀は最後にもう一度細川父子に手紙を書いた「貴殿が髪を切ったことは理解できる…。この上はせめて家臣だけでも協力してほしい。50日から100日で近国を平定し、その後に私は引退するつもりだ」。引退。光秀は人々の上に君臨する野望や征服欲の為に信長を討ったのではありません。ガラシアが後に隠れキリシタンとなった背景には、このように夫と舅が実父を見捨てたことへの、癒されぬ深い悲しみがあった。
6月10日光秀が大和の守護に推した筒井順慶も恩に応えず、彼は完全に孤立しました。11日、京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、小規模な戦闘が起きる。1http://kojiyama.net/history/?p=119525日、秀吉の大軍の接近を察した光秀は、京都・山崎の天王山[*http://kojiyama.net/history/?p=119525]に防衛線を張ろうとするが、既に秀吉方に占領されていた。
6月1http://kojiyama.net/history/?p=119525日『山崎の戦い』。秀吉の軍勢は四国討伐に向かっていた信孝の軍も加わり、4万に膨れ上がった。一方、光秀は手勢の部隊に僅かに3千が増えただけの 1万6千。光秀は長岡京・勝竜寺城から出撃し、午後4時に両軍が全面衝突。明智軍の将兵は中央に陣する斎藤利三から足軽に至るまで「光秀公の為なら死ねる」と強い結束力で結ばれており、圧倒的な差にもかかわらず一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げた。戦闘開始から3時間後の午後7時。圧倒的な戦力差が徐々に明智軍を追い詰め、最後は三方から包囲され壊滅しました。「我が隊は本当によくやってくれた」光秀は撤退命令を出し、再起を図るべく坂本城、そして安土城を目指す。堅牢な安土城にさえたどり着ければ、勝機は残されていた。“あの城で籠城戦に持ち込み戦が長期化すれば、犬猿の仲の秀吉と勝家が抗争を始めて自滅し、さらには上杉や毛利の援軍もやって来るだろう…大丈夫!まだまだ戦える!”。
同日深夜大雨。しかし、天は光秀を見放しました。小栗栖(おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹やぶを1http://kojiyama.net/history/?p=119525騎で敗走中だった光秀は、落武者狩りをしていた土民(百姓)・中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて落馬。長兵衛はそのまま逃げた。光秀は致命傷を負っており、家臣に介錯を頼んで自害しました。その場で2名が後を追って殉死。&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
14日朝、村人が3人の遺骸を発見。一体は明智の家紋(桔梗、ききょう)入りの豪華な鎧で、頭部がないため付近を捜索、土中に埋まった首級を発見したといいます。安土城を預かっていた明智左馬助(http://kojiyama.net/history/?p=1195255歳、光秀の長女倫子の再婚相手、明智姓に改姓)は、山崎合戦の敗戦を知って坂本城に移動する。秀吉は三井寺に陣形。
6月15日坂本城は秀吉の大軍に包囲されます。「我らもここまでか」左馬助や重臣は腹をくくり、城に火をかける決心をする。左馬助は“国行の名刀”“吉光の脇差”“虚堂の名筆(墨跡)”等を蒲団に包むと秀吉軍に大声で呼びかけた。「この道具は私の物ではなく天下の道具である!燃やすわけにはいかぬ故、渡したく思う!」と送り届けさせた。「それでは、光秀公の下へ行きますぞ」左馬助は光秀の妻煕子、娘倫子を先に逝かせ、城に火を放ち自刃しました。&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
光秀の首はこの翌々日(17日)に本能寺に晒され、明智の謀反はここに終わった。
[脚注]

[*1]…本能寺は無防備な寺ではなく、天正8年(1580年)年http://kojiyama.net/history/?p=119525月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど、防御面にも優れた信長宿舎としての改造を施されていた。http://kojiyama.net/history/?p=119525007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっています。

[*http://kojiyama.net/history/?p=119525]…「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、江戸時代初期の『川角太閤記』が初出-『検証本能寺の変』谷口克広著。江戸時代の頼山陽の『日本外史』では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には、ごく一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもうひとつの山道・明智越を使ったと言う説もある。またルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』によれば、当時、重職以外の足軽や統率の下級武士は京都本能寺にいる徳川家康を討つものと信じていた、とされています。

天王山は軍事拠点となったことから、以降、決戦の勝敗を決める分岐点を「天王山」と呼ぶようになった。

本能寺の変の原因

中国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられたこと。など諸説あげられています。信憑性はともかく、信長の革新的な様々な政策は、光秀の家臣団に受け入れがたい点もあったと考えられています。信長の軍団・柴田勝家の北陸統治に見られるように、武士団にとって簡単に国替えを行うことは大きな負担と不安を与える事が考えられます。しかし、この国替えは信長自身も数度行っており、信長はそれらを解決するために家族そのものの移住等を行い、その度にその国を発展させてきましたが、信長にとっては大したことでなくとも家臣にとっては難しい問題であって摩擦の原因となった可能性はあります。明智氏やその家臣、従者に関わる口伝などはいくつか伝わっており、資料の少ない考証については、従来日の目をみることがなかったこうした信憑性を確定できない資料の分析を行っていく必要があるようです。

光秀は信長から浪人とは思えないほど取り立てられただけではなく、石山合戦では1万5千の兵に光秀が取り囲まれていたところを、信長はわずかhttp://kojiyama.net/history/?p=119525千ほどの兵で自ら前線に立って傷を負いながら救出しています。このことからも光秀は信長からかなり眼をかけられていたようです。本能寺の変当時の光秀の領地は、信長の本拠安土と京都の周辺でhttp://kojiyama.net/history/?p=1195250万石とも50万石とも言われていますが、史上権力者が本拠地周辺にこれだけの領土を与えた事例は秀吉が弟秀長に大阪の隣地である大和に100万石を与えたくらいしかありません。この配置を見ても、信長が相当の信頼を置いていたことが窺えます(結果として、これが裏目に出てしまった)。また、『明智家法』には「自分は石ころ同然の身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という文も残っています。このことを根拠に「光秀は恩を仇で返した愚か者」と酷評する歴史研究家も存在します。

ルイス・フロイスの『日本史』に、「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評があります。秀吉については好色・女好きで知られ、多くの側室をおいていた(ルイス・フロイスは「日本史」において「http://kojiyama.net/history/?p=11952500名の側室を抱えていた」と記録している)。

高柳光寿は、著書『明智光秀』の中で、合理主義者同士、光秀と信長は気が合っただろうと述べています。光秀が信長とウマがあったのは事実で、光秀が信長を信奉していたという史料上の記述も多いようです。また、信長の方も、例えば天正七年の丹波国平定について、「感状」の筆頭に「日向守、こたびの働き天下に面目を施し候…」と讃えています。『信長公記』には他にも似たような記述が少なくありません。

光秀は努力の人であり秀才型といえます。明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたといいます。戦国武将の多くが側室を持つ中で、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。何度も主君を変わり、領国では税を低く抑えるなど善政を敷いて民衆から慕われ、歌を詠み茶の湯を愛する風流人であり、また生涯の大半の戦で勝利し自身も射撃の天才という、文武両道の名将だった。側室もなく妻一人を愛し、敗将の命を救う為に奔走する、心優しき男。織田家だけでなく、朝廷からも、幕府からも必要とされた大人物だった。物静かで教養人の光秀は、エネルギッシュで破天荒な性格の信長にとって、退屈で面白くない男であったハズ。それでも家臣団のトップとして重用するほど、才覚に優れた英傑だったのです。

一方、秀吉は、ドラマなどでは人を殺すことを嫌う人物のように描写されることの多い秀吉であるが、実際には元亀5年に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』や『信長公記』より)、天正5年に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、女・子供500人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑する(同年1月 5日の羽柴秀吉書状より)等、晩年だけでなく信長の家臣時代でも、少なくとも他の武将並みの残酷な一面があったようです。

母親の大政所への忠孝で知られています。小牧・長久手の戦いの後、必要に迫られて一時徳川方に母と妹を人質に差し出しましたが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させています。天下人としての多忙な日々の中でも、妻の北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出しており、そのうちの幾つかは現存しています。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京しましたが、結局臨終には間に合わなかった。秀吉が親孝行であったことは明治時代の国定教科書でも好意的に記述されました。

江戸時代を通じて、信長からの度重なるイジメが原因とする「怨恨説」が根拠のない創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、「怨恨説」の域を出ることはありませんでした。

こうした理解は、映画やドラマなどでも多く取り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していました。しかし、戦後は実証史学に基づく研究がすすんできました。その先鞭をつけたのが高柳光寿(野望説)と桑田忠親(怨恨説)であり、両氏はこれまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論を戦わせました。

現在ではさまざまな学説が唱えられており、光秀の挙兵の動機として怨恨(江戸時代までの怨恨説とは異なる根拠に基づく)、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていありません。また、クーデターや、信長による古くからの日本社会を変革させる急進的な動き(仏教弾圧など)への反動(反革命)とする説も多いのです。

本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば、『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、これによれば信長に対しては尊崇の念を抱いていることが伺える。また変三ヶ月前の茶会で宝をおく床の間に信長の書を架けるなど心服している様子がある。このため怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われています。しかし、それらの黒幕に関する主張は、光秀とその敵対者の双方においてなされたことはありません。

ルイス・フロイスの『日本史』には「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。従来はドラマや旧領丹波など一部の地域では遺徳を偲んでいる事などの影響か誠実なイメージがある。しかし、教養の高い文化人で線が細いといわれる光秀像と別に、フロイスの人物評や信長が「佐久間信盛折檻状」で功績抜群として光秀を上げたように、したたかな戦国武将としての姿が見えます。

織田方面軍団

  • 北陸方面:柴田勝家を方面軍総司令官として、与力に前田利家や佐々成政らを配属。
  • 中国方面:羽柴秀吉を方面軍総司令官として、与力に黒田官兵衛や蜂須賀正勝らを配属。
  • 畿内方面:明智光秀を方面軍総司令官として、与力に細川藤孝・忠興父子や筒井順慶を配属。
  • 関東方面:滝川一益を方面軍総司令官として、与力に森長可や川尻秀隆を配属。
  • 四国方面:信長の三男・信孝を方面軍総司令官として、与力に丹羽長秀や蜂屋頼隆らを配属。一方、織田政権崩壊の原因は、政権の構造的な問題より、むしろ織田信忠の自害(享年http://kojiyama.net/history/?p=1195256)が大きいとする意見もあります。すなわち、信長は本能寺の変以前に、大名としての織田家の家督は信忠に譲っており、自らは、織田・柴田・明智・羽柴・神戸(信孝)・北畠(信雄)などの「大名(信長の取立による大名)」の上に君臨する存在となっていた。そのため、配下の柴田や明智などの大名が、毛利や上杉などの信長に臣従していない大名より大きな兵力をもっていても組織としては問題がなく、むしろ合理的であったと言える。つまり織田家はすでに信長の直接指揮から外れているため、信長自らが巨大な兵力をもつことは組織としての弊害が大きいといえる(信忠が大兵力をもつのであれば問題ない)。そのため、仮に信長配下の大名の謀反により信長が倒されても、信長傘下でもっとも大勢力をもつ織田家の当主が生き残っていれば、政権が維持できる構造になっていた。従って政権崩壊の主要因は後継者の死亡との説である。いずれにせよこの時信忠が脱出できていれば、織田政権は存続した可能性が高かったという意見もあり、少なくとも個人の武名としてはともかく、織田政権の後継者としては重大な判断ミスであった。ただ、信忠が生き残れば政権が存続することを理解できたならば、信忠が脱出すれば光秀の謀反が失敗になることも同時に理解できたはずである。そのため、光秀が見逃すはずがないとの判断に至ることはむしろ自然なことといえる。結局、信忠の行動を読んで謀反を起こした光秀が上手だったのでありこの判断ミスをもって信忠の能力を判断することは難しい。鳴かないホトトギスを三人の天下人がどうするのかで性格を後世の人が言い表している(それぞれ本人が実際に詠んだ句ではない)。これらの川柳は江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』に見える。
    • 織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
    • 豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」
    • 徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」

    光秀ならこう詠んだかも・・・。

    • 明智光秀「鳴かぬなら 私が鳴こう ホトトギス」
    • 石田三成「鳴かぬなら 死なせてくれよ ホトトギス」

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    明智光秀と北近畿の足取り

    明智光秀は、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を秀吉とともに領地として与えられたことからも、但馬・丹後・丹波に関わりがあります。

    • 信頼できる史料によると、永禄12年(1569年)頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務に当たったとされます。
    • 但馬は山名氏、丹波は細川氏、丹後は一色氏。
    • 朝倉義景は但馬養父郡、古族日下部氏の出自。朝倉義景の母は若狭武田氏の出、光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられています。光秀は最初、斎藤道三に仕えるも、のち越前国の朝倉氏に仕えた。
    • 足利義昭が姉婿の武田義統を頼り若狭国に、さらに越前国の朝倉氏に逃れる。
      義昭は朝倉に上洛を期待していたが義景は動かなかった。そこで義昭は光秀を通して織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるように要請しました。
    • 最初に光秀が但馬と関わりのあるとされる事件は、永禄二年(1559)、丹波福知山城主の光秀が、出石の此隅山(このすみやま)城が虚城であることを聞いて、有子山(出石)城を攻撃しようと考え、陣代として大野内膳統康・伊藤七之助次織・伊藤加助の三名をあて、進美寺(しんめいじ)に「掻上の城」を築いて、水生城(みずのうじょう)を攻撃しましたが落とせませんでしました。
    • 丹波は明智光秀によって治められ、丹後の細川氏には光秀の娘・細川忠興の室珠(洗礼名:ガラシャ)がいましました。
    • 但馬国主でのちに隠居した山名祐豊と城主となった氏政が出石城(有子山城)が築城間もない天正三年(1575)十月、となりの丹波国黒井城主荻野直正が軍を率いて但馬に侵入し、朝来の竹田城と出石の有子城を攻めたとき、信長に助けを求めて部下の光秀を派遣して、奪われていた竹田城を取り戻し黒井城に入った直正を攻めています。
    • 天正7年(1579年)、光秀は近畿各地を転戦しつつ、4年越しで丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担当し、ついに波多野秀治を下して畿内を平定しました。
    • この功績によって近江滋賀郡および丹波一国を与えられ、丹波亀山城・横山城・周山城を築城しました。京に繋がる街道の内、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられたことからも、光秀が織田家にあって最重要ポストにあったことが伺えます。
    • 丹波一国拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられた。近年の歴史家には、この地位を関東管領になぞらえて「山陰・畿内管領」と呼ぶ者もいます。天正9年(1581年)には、京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃え」の運営を任された。
    • 現代に至る亀岡市、福知山市の市街は、光秀が築城を行い城下町を整理したことに始まる。亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われています。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっています。
      そして、秀吉の但馬征伐が二回(1577、1580)にわたって行われます。
    • 秀吉→山陽方面・山陰方面
    • 光秀→丹波・山陰方面

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    丹波平定と黒井城の戦い

    さほど有名ではありませんが、戦国時代に八上城の波多野氏は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて山城など周辺諸国に進出したこともあります。

    丹波国では、元亀元年(1570年)、上洛していた織田信長に赤井直正(荻野直正)と赤井忠家は拝謁し織田方につくことを約束しました。織田信長はこれに対して氷上郡(ひかみぐん・兵庫県丹波市)、天田郡(あまたぐん・福知山市)、何鹿郡(いかるがぐん・福知山市/綾部市)の丹波奥三郡を安堵しました。
    これで丹波国は安定するかに思えたのですが、翌元亀(1571年)11月、此隅山城(出石町)城主・山名祐豊(すけとよ)が家来、夜久野城(山東町)城主・磯部豊直らと、氷上郡にあった足立氏の山垣城(青垣町)を攻めました。黒井城の赤井直正と赤井忠家はこの動きに即応し、山垣城に救援に向かい、山名祐豊、磯部豊直両軍を撃退しました。その後、勢いにのって、但馬国の竹田城を攻城し手中に収めると、次は山名祐豊の本拠地である此隅山城に迫りました。

    このような状況になり、山名祐豊は織田信長に援軍を要請しました。織田信長は当時信長包囲網にあい、援軍を出せる余裕はなかったのですが、越前一向一揆が一段落した天正年(1575年)、明智光秀を総大将に丹波国征討戦に乗り出すことになります。織田信長としてみれば、毛利元春を討つ前に京に近い丹波国を平定し、背後の憂いを削ぐのが目的だったと推察されています。
    明智光秀は越前国より坂本城に帰城し、戦の準備を整えて同年10月初旬に出陣したと思われています。この時赤井直正は竹田城にいましたが、明智光秀の動きを察知し黒井城(兵庫県丹波市春日町黒井)に帰城、戦闘態勢を整えました。織田信長は、同年10月1日、丹波国人衆に向けた朱印状を出し、その調略によって八上城の波多野秀治をはじめ、国人衆の大半を取り込んでいきました。

    明智光秀は圧倒的兵力で黒井城を包囲しました。この時の状況を『八木豊信書状』によると「城の兵糧は来春までは続かないで落城するであろう」と観測を述べ、スムーズに戦がすすんでいました。戦況は明智光秀に有利であり、攻城戦はhttp://kojiyama.net/history/?p=119525ヵ月以上となった翌天正4年(1576年)1月15日、波多野三兄弟による裏切で方向から攻め立て明智光秀軍は総退却してしまいました。

    『甲陽軍鑑』によると「名高キ武士」として、

    • 徳川家康&
    • 長宗我部元親
    • 赤井直正

    と並び紹介されているほどの武将でした。

    大敗した明智光秀軍は京に逃げ込み、その後坂本城に帰城しました。先の戦いから1ヶ月後、再び戦の準備を整え、同年http://kojiyama.net/history/?p=119525月18日に坂本城を出陣し丹波国に入国しましたが、この時はほとんど戦わず短期間で引き揚げてしまいました。その後、一方、この戦いで織田信長軍に土をつけたことで赤井直正は「丹波の赤鬼」という名を広め、全国の武将から一目おかれる存在となっていきます。

    再び明智光秀が黒井城を攻城するまで約1年半の月日が流れ、この間明智光秀は畿内を転戦します。石山本願寺攻め、加賀攻め、信貴山城の戦いなど明智光秀軍は「遊撃軍団」だったと思われます。
    その間、赤井直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていました。足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者、跡部大炊助や長坂長閑斎、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っています。

    天正5年(1577年)10月、第二次丹波国征討戦を開始します。まず明智光秀軍は、多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城 (丹波国)を落城させました。この二城を丹波国征討戦の本拠地としました。第一次丹波国征討戦と違い、明智光秀軍は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく個別撃破戦略をとりました。織田信長は細川藤孝、細川忠興親子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)に八上城と氷上城の包囲を完成させます。

    一旦は明智光秀を裏切った丹波国の国人衆は、二城が陥落し、赤井直正が死去、八上城を攻囲するのを見ると再び明智光秀に降っていきました。赤井家では赤井直正の弟の赤井幸家が後見となり統率することになります。
    さらに織田信長は同年4月に羽柴秀長軍と明智秀満軍の増援を送り込み、八上城、黒井城の支城を次々と落城していきました。明智光秀は攻囲中に、軍勢を八上城に置きながら別所長治や荒木村重の謀反にも対処しています。
    明智光秀、細川藤孝らは同年10月http://kojiyama.net/history/?p=1195254日安土城に凱旋し、織田信長に拝謁し丹波国が平定できたことを報告します。その翌天正7年(1579年)織田信長は丹波国を明智光秀に、丹後国を細川藤孝に与えることになりました。

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    3.波多野氏(はたのし)

    波多野氏は、波多野秀長の代に応仁の乱で細川勝元方に属し、その戦功により丹波多紀郡を与えられたのが丹波に勢力を扶植した始まりで、政元にも仕えて以後、波多野一族はこの地を中心に丹波一円へ勢力を伸ばしました。
    秀長の子で英君といわれる波多野稙通は永正1http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1515年)、朝治山に八上城[*1](兵庫県篠山市)を築城し、ここを本拠として守護代である内藤氏を討ち、さらに細川氏の勢力を駆逐して、戦国大名として独立を果たしました。

    稙通の孫で波多野秀治は三好氏の勢力が衰えると再び独立を果たし、永禄9年(1566年)には八上城を奪回しました。永禄11年(1568年)に織田信長の上洛の際、赤井直正とともに信長に1度は降伏します。天正http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1575年)からは反織田勢力である丹波の諸豪族を討伐するために信長が派遣してきた明智光秀の軍に加わって織田家のために働きますが、天正4年(1576年)1月に突如として足利義昭の信長包囲網に参加して光秀を攻撃し、撃退してしまいました。このため、秀治は信長と敵対します。

    一時は織田軍を撃退したものの、天正7年(1579年)、遂に秀治は降伏しました。その後、秀治は弟の波多野秀尚とともに信長によって処刑され、戦国大名としての波多野氏は滅び去りました。


    [*1]…この合戦で、明智光秀の母(伯母とも)が磔(はりつけ)になった城としても知られる(後世の創作という説もある)。
    4.赤松氏

    嘉吉元年(1441年)、赤松満祐・赤松教康父子が結城合戦の祝勝会で、第6代将軍・足利義教を謀殺するという嘉吉の乱が起こし、それにより赤松氏は山名持豊(山名宗全)を中心とした幕府軍の追討を受け、満祐と教康は殺され、赤松氏本流は没落しました。領地は功により山名氏に引き継がれました。しかし、赤松政則のときに再興を果たし、応仁の乱では細川勝元に与し、その功により播磨・備前・美作のhttp://kojiyama.net/history/?p=119525ヶ国を領する大大名にまで返り咲き、長享http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1488年)には山名氏の勢力を播磨から駆逐しました。

    戦国時代に入ると、政則の子・赤松義村が家臣の浦上村宗に殺され、さらにその子・赤松晴政は村宗に傀儡(かいらい)として擁立されるなどして赤松氏は内紛により衰退していきます。さらに一族であり家臣でもあった別所氏に独立されたり、尼子氏の侵攻を受けるなどして悪条件が重なってさらに衰退が促進されました。
    このため、本拠を置塩城(おきしおじょう)に移し、晴政の子・赤松義祐は当時の天下人である織田信長と同盟を結ぶなどして勢力回復を図りますが、浦上宗景との戦いに敗れて結局は没落しました。義祐の子・赤松則房の時代には豊臣秀吉の家臣となり、天正11年(158http://kojiyama.net/history/?p=119525年)にわずか1万石を安堵されるにすぎない小大名にまで没落してしまいました。

    秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで則房の子・則英は西軍に与したため、自害を余儀なくされてしまいました。同じく赤松一族で但馬竹田城城主・斎村政広も西軍から東軍に寝返ったものの、西軍に与した宮部長房の居城・鳥取城を攻めるときにあまりに手ひどく城下町を焼き払ったために、徳川家康から戦後、これを理由に自害(この件に関しては寝返りを促した亀井茲矩に責任転嫁された冤罪説が強い)を命じられてしまい、これにより大名としての赤松氏は滅亡したのです。
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    5.三木合戦と別所長治

    室町時代中期以降、嘉吉の乱により主家の赤松氏と共に別所氏も一時衰退しましたが、応仁の乱により赤松氏が勢力を回復すると別所則治は三木城を築き初代城主となりました。そのため則治は別所氏中興の祖と言われています。
    則治の孫・別所就治の時代に主家の赤松氏とその守護代である浦上氏が対立して赤松氏の勢力が衰退の一途をたどり始めると、就治は東播三郡を支配下に置いていたことを背景に赤松氏から独立し、戦国大名として名乗りを上げます。
    就治は武勇に秀でたことから、その後は三好氏や尼子氏の侵攻を次々と撃退して勢力を拡大し、東播八郡(美嚢郡、明石郡、加古郡、印南郡、加西郡、加東郡、多可郡 、神東郡)を支配する別所氏の最盛期を築き上げました。

    別所氏は早くから織田信長に従っており、家督を相続した長治も天正http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1575年)10月に信長に謁見、翌年も年頭の挨拶に訪れています。しかし、就治の孫・別所長治のときに信長が中国の毛利氏を制圧しようとすると、それに呼応して先鋒の役を務めようとしましたが、中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、妻の実家である丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆しました。多くの周辺勢力が同調、従わなかった勢力も攻め、東播磨一帯が反織田となります。

    長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、さらに荒木村重の謀反や毛利氏の援軍などの好条件も続いて、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の有名な「三木の干し殺し」戦法に遭い、この三木合戦の際には神吉城(かんきじょう・印南郡・加古川市)、志方城(印南郡)、淡河城(美嚢郡)、高砂城(加古郡)、端谷城(明石郡)など東播磨各地の城は支城として別所方に従いましたが、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから二年後の天正8年(1580年)、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害して果てたといいます。享年、。但し「信長公記」ではhttp://kojiyama.net/history/?p=1195256とされています。

    別所重宗(重棟)は、甥の別所長治に信長に降伏するように進言しましたが容れられなかったため、甥のもとから去って秀吉の家臣となった人物で、天正13年(1585年)8月に八木城主(養父市八鹿町八木)に任命されました。しかし後に長男の別所吉治(ただし長治の子という説がある)に家督を譲って隠居した重棟は、天正19年6月に死去しました。

    後を継いだ吉治は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては西軍に味方して細川幽斎が守る丹後田辺城(舞鶴市)を攻めたため、戦後に改易され、大坂を流浪しました。しかし吉治の伯母が徳川秀忠の乳母であったことから、後に罪を許されて藩主として再起することを許されたのです。

    吉治は大坂の陣で徳川方として武功を挙げたことから、丹波国内に5000石を加増されてhttp://kojiyama.net/history/?p=119525万石の大名となりました。しかし寛永5年(1628年)5月 日、吉治は病を理由に参勤交代を行なわず、その実は病ではなく狩猟して遊んでいたことが露見して、幕命により改易されてしまい、大名家としての別所氏は滅亡しました。

    慶安元年(1648年)、息子の別所守治は赦免され、のち1000俵を与えられ、子孫は700石の旗本として存続しました。吉治は息子の下で余生を過ごしました。
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    6.荒木村重

    明智光秀より4年前に織田信長に反逆を起こした武将として有名です。
    天文4年(15http://kojiyama.net/history/?p=1195255年)、摂津国池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕え池田長正の娘を娶り一族衆となります。しかし三好三人衆の調略にのり池田知正とともに三好家に寝返り知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握します。
    その後織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(157http://kojiyama.net/history/?p=119525年)、茨木城主となりました。同年、信長が足利義昭を攻めたとき、宇治填島城攻めで功を挙げました。天正http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1574年)、伊丹城主となり、摂津一国を任されました。その後も信長に従って、石山本願寺攻め、紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げました。

    天正6年(1578年)10月、村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻しました。一度は翻意し釈明のため安土に向かいましたが、途中寄った高槻城で家臣の高山右近から

    「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻りました。織田軍羽柴秀吉は、村重と旧知の仲でもある黒田孝高(官兵衛)を使者として有岡城に派遣し翻意を促しましたが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁してしまいました。その後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦しましたが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となりました。

    天正7年(1579年)9月http://kojiyama.net/history/?p=119525日、村重は単身で有岡城を脱出して尼崎城へ、次いで花隈城(神戸市)に移り(花熊城の戦い)最後は毛利氏に亡命します。

    落城した有岡城の女房衆1http://kojiyama.net/history/?p=119525http://kojiyama.net/history/?p=119525人が尼崎近くの七松において惨殺され、

    「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。」

    と記されるほどの残虐な様子だったといいます(信長公記)。

    1http://kojiyama.net/history/?p=119525月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族のhttp://kojiyama.net/history/?p=1195256人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。立入宗継はその様子を「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也」と記しています(立入左京亮宗継入道隆佐記)。その後も信長は、避難していた領民を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追求していきました。天正9年(1581年)8月17日には、村重の家臣を匿いそれを追求していた信長の家臣を殺害したとして、高野山金剛峯寺の僧数百人が虐殺されました。

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    天正10年(158http://kojiyama.net/history/?p=119525年)6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住します。そして豊臣秀吉が覇権を握ると、大坂で茶人・荒木道薫として復帰を果たし、千利休らと親交をもちました。はじめは妻子を見捨てて逃亡した自分を嘲って「道糞」と名乗っていましたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われています。銘器「荒木高麗」を所有していました。天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。享年5http://kojiyama.net/history/?p=119525。
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    7.黒田官兵衛

    天正八年(1580年)正月、三木城(兵庫県三木市)を落した秀吉が三木城に移ろうとした時、黒田孝高(官兵衛・如水)は姫路城を秀吉に譲り、代わり宍粟郡を与えられ篠の丸城に入りました。このころ、主家の小寺氏は没落しており、官兵衛は信長の命で小寺姓を棄て、黒田の名乗りに戻っています。

    以後、官兵衛は秀吉の幕下にあって、天正九年六月に因幡国鳥取城を包囲し、同年七月に淡路・阿波(徳島県)を攻略、十一月には淡路由良城主安宅河内守を攻略し、淡路を平定しました。翌天正十年(158http://kojiyama.net/history/?p=119525)、毛利氏と雌雄を決せんとする秀吉に従って備中国に出陣しました。四月、清水宗治が守る備中高松城を包囲しました。ここで、官兵衛が秀吉に水攻めの策を献じたことから、史上有名な「備中の水攻め」となりました。

    ところが水攻めも大詰めとなった六月、本能寺の変で信長が光秀に殺害されてしまいました。この知らせを聞いた秀吉は放心の体でしたが、官兵衛は秀吉にそっと「上手になされませ」と囁きました。それを聞いた秀吉は、何もいわず官兵衛を見返したといいます。そのとき官兵衛は、さかしらな(利口ぶった)失言をなしたことを思い知ったのでした。

    ともあれ、毛利氏との和議が進められ、城将清水宗治が切腹することで高松城の戦いは終わりました。かくして、史上に残る秀吉の大返しが行われ、山崎の合戦で光秀を討った秀吉が天下取りに躍り出たのでした。その後も孝高は秀吉の帷幕にあって、賤ケ岳(しずがだけ)の合戦、小牧の戦いなど、秀吉の天下取りの合戦において多くの軍功をがげました。そして、天正十五年(1587)九州征伐の先陣をつとめ、戦後の行賞において豊前国内(福岡県東部)のうち六郡十二万石を与えられました。有名な「黒田節」
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