戦国-11 イエズス会と宣教活動

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概 要

目次

  1. イエズス会と宣教活動
  2. フランシスコ・ザビエル
    1. 東洋への出発
    2. 日本へ
    3. 京都から山口へ
    4. ザビエルの最期
    5. ザビエルと日本人
  3. ルイス・フロイス
  4. オルガンティノ
  5. キリシタン大名
    1. 高山右近
    2. 京極高吉
    3. 朱印船
    4. 亀井 茲矩

1.イエズス会と宣教活動

 イエズス会(ラテン語:Societas Iesu)はキリスト教、カトリック教会の男子修道会。宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれました。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。現代では六大陸の112カ国で活動する2万人の会員がいます。これはカトリック教会の男子修道会としては最大のものである。イエズス会員の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっています。

イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「路傍の聖母」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長はアドルフォ・ニコラス師である。会の総本部はローマにあり、かつて本部がおかれていたジェズ教会(Chiesa del Gesu`)は歴史的建築物となっています。略称はS.J. 中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶?であることから耶?会(やそかい)とも呼ばれました。
イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣した。もっとも有名な宣教師はフランシスコ・ザビエルである。彼は西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王の要請にしたがって1541年にインドのゴアへ赴いた(ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。二年滞在して困難な宣教活動に従事した。彼は日本人へ精神的影響を与えるために中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去しました。

日本でのイエズス会事業はその後、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展しました。日本人初のイエズス会士は鹿児島出身のベルナルドで、彼は日本人初のヨーロッパ留学生としてポルトガルに渡り、1553年にリスボンで入会して修道士となりました。1561年には琵琶法師であったロレンソ了斎が入会。有名な天正遣欧少年使節を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノでした。

1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす利益を独占しようとした大村純忠と、とにかく戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものでしたが、スペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目をむけた豊臣秀吉は1587年にこれを取り上げて直轄領としました。日本における宣教活動は大きな成果を得たが、最終的に徳川幕府による迫害によって宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、イエズス会は日本からの撤退を余儀なくされました。

琉球国でのキリスト教の伝来は、尚豊王の治世の1622年、八重山に南蛮船が渡航して布教を行ったのが始まりです。日本ではキリスト教はすでに禁止されていましたが、ジャワやルソンから往来する南蛮船が琉球諸島にたびたび寄港していた関係から、布教活動が行われました。しかし、この頃から琉球でもキリスト教は公には禁止されており、また薩摩藩からも度々禁令が発せられて琉球側に伝達されていたので、キリシタンは摘発されると罰せられました。

1846年、イギリスのバーナード・ジャン・ベッテルハイムが来琉して、王府の手配した波之上の護国寺に住みながら布教活動を行いました。しかし来琉時に、王府からの丁重な退去要請を無視しての強引な上陸であったため、布教活動は様々妨害を受け困難を極めました。ベッテルハイムは滞在中琉球語を修得し、新約聖書の福音書のいくつかを翻訳して「琉球聖書」を作成し、後に香港で出版しました。
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2.フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifier または Francisco de Gassu y Jahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifier)は、カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名です。また、日本だけでなくインドなどでも宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれています。
彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)と共に1541年にリスボンを出発しました。ザビエルはアフリカのモザンビークで秋と冬を過して1542年5月6日ゴアに到着。同地に3年滞在し、そこを拠点にインド各地やマラッカなどに赴いて宣教活動を行い、多くの人々をキリスト教に改宗させました。
東洋への出発当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになりました。ザビエルはインドからマラッカに渡り、同地で宣教を行いながら、信徒たちの世話を行っていた。ここで1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)という日本人でした。ヤジロウの話を聞いたザビエルの心の中で、まだキリスト教の伝わっていない日本に赴いて宣教したいという気持ちが強くなりました。
日本へ

ザビエルは1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指しました。

中国のジャンク船に乗った一行は上川島を経て1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日にあたる)に鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸しました。1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得た。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と宗教論争を行う事を好んだ。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。1568年、尾張国の織田信長が足利義昭を奉じて上洛し室町時代の終焉を迎える20年前ころでしました。

1550年になると、かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、島津貴久のはからいで平戸へ向かうことができた。そこでも宣教活動を行っていたが、ザビエルは平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に都を目指しました。
山口から京都へ

1550年11月、山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになりました。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。了珪の助けによって1551年1月、一行は念願の京に到着しました。京都では了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。日本国内での活動は了珪の邸宅の一部を借りて行われました。その場所が現在では「ザビエル公園」(大阪府堺市)として市民に開放されており、彼の宣教活動を顕彰する碑が建てられています。なお、ザビエル公園より南側に位置する大小路筋は、堺が自治都市として栄えた時代のメインストリートで、近くには小西隆佐・小西行長の生家跡、千利休の屋敷跡、武野紹鴎の邸宅跡と伝えられる場所が存在する(石碑のみ)。

ザビエルは京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得れば全国での布教が自由になると考えていたが、京は戦乱で荒れ果て、足利幕府の権威は失墜しており、後奈良天皇が居住する御所も荒れ放題でした。ザビエルは比叡山で僧侶たちと論戦をしてみたかったが、比叡山から拒絶されました。天皇への拝謁も献上品がなければかなわないことを知ってあきらめたザビエルは、滞在わずか11日で失意のうちに京都を去ることになりました。

1551年3 月に平戸に戻ると、残していた贈り物用の品々を持って山口へ向かい、再び大内義隆に拝謁しました。それまでの経験で、貴人と会見する時はどこでも外見が重視されることを知っていたザビエルは一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上しました。義隆は喜んで布教の許可を与え、ザビエルたちのために住居まで用意しました。山口で布教していますとき、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く目の不自由な琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動し、ザビエルに従った。彼が後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎です。

ザビエルの最期

1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞いて、ザビエルは豊後に向かいました。同地で22歳の青年領主大友義鎮(後の大友宗麟)に謁見している。日本滞在も2年になり、ザビエルはインドからの情報がないのが気になっていたため、ここで一度インドに戻ることを決意し、トーレスらを残して出発、中国の上川島を経てインドに向かいました。このとき、ザビエルは日本人青年4人を選んで同行させた。それが鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオの4人です。

1552年2月 インドのゴアに到着。司祭の養成学校である聖パウロ学院にベルナルドとマテオを入学させました。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となりました。

1552年4月、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えていたザビエルは、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣し、自分自身は中国入国を目指して8月に上川島に到着しました(ここはポルトガル船の停泊地であった)。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰えていたザビエルは精神的にも消耗し、病を得て12月2日(12月3日説あり)に上川島でこの世を去りました。46歳でした。

遺骸は石灰をつめて納棺し海岸に埋葬した。その後、マラッカに移送され棺を開いたところ、死後4ヶ月近くを経てなお、腐敗した様子がなかったといいます。さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許されました。そのとき参観者の1人の貴婦人が右足の指2個を噛み切って逃走しました。2個の足の指は、彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移されました。遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されていますが、右腕は1614年ローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断され、ローマ・ジェズ教会に移されています。なお、この右腕は1949年ザビエル来朝400年記念のおり、腕型の箱に入れられたまま、日本で展示されました。

ザビエルは1619年10月25日教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日盟友イグナチオ・ロヨラと共に教皇グレゴリウス15世によって列聖されました。ザビエルはカトリック教会によってオーストラリア、ボルネオ、中国、東インド諸島、ゴア、日本、ニュージーランドの守護聖人とされています。

ザビエルと日本人

ザビエルは日本人を、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であるとみた。特に名誉心、貧困を恥としないことをほめ、優れたキリスト教徒になりうる資質が十分ある人々であるとみていた。これは当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価です。同時にザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた男色(同性愛)が日本において公然と行われていたことでした。

布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともありました。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになりました。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになります。
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3.ルイス・フロイス

ルイス・フロイス(Luis Frois, 1532年 – 1597年7月8日)は、リスボン生まれのポルトガル人。イエズス会員でカトリック教会の司祭、宣教師。『日本史』を執筆。
1548年、16歳でイエズス会に入会しました。同年、当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。このことがその後の彼の人生を運命付けることになります。1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事に従事しました。1563年、31歳で横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して念願だった日本での布教活動を開始。日本語を学んだ後、1564年に平戸から京都に向かいました。1565年1月31日に京都入りを果たしたが、保護者と頼んだ将軍足利義輝と幕府権力の脆弱性に失望。三好党らによる戦乱などで困難を窮めながらも京都地区の布教責任者として奮闘しました。

1569年、入京した新しい中原の覇者織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得ました。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれています(フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、日本史における重要な資料の一つになっています)。

その後は九州において活躍していましたが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁しています。1583年、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられます。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めました。この記録が後に『日本史』とよばれることになります。

当初、豊臣秀吉は信長の対イエズス会政策を継承していたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587年6月19日には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち長崎に落ち着きました。

1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見しました。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年に長崎に戻り、1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日没しました。65歳。フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになりました。
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4.オルガンティノ

グネッキ・ソルディ・オルガンティノ。(Gnecchi‐Soldo Organtino, 1533年 – 1609年4月22日)は戦国時代末期の日本で宣教活動を行ったイタリア人宣教師。カトリック司祭。イエズス会員。人柄が良く、日本人が好きだった彼は「うるがんばてれん」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となりました。
1533年北イタリアのカストで生まれたオルガンティノは22歳でイエズス会に入会した。ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後で日本に派遣されました。来日は1570年6月18日で、天草志岐にその第一歩をしるした。オルガンティノははじめから京都地区での宣教を担当し、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事した。1577年から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめた。持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気がありました。
オルガンティノは1576年に京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成。1578年、荒木村重の叛乱時には家臣と村重の間で板ばさみになった高山右近から去就について相談を受けた。1580年には安土で直接織田信長に願って与えられた土地にセミナリヨ(初等教育機関(小神学校))を建てた。オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働いた。最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちでした。第一期生の中には後に殉教するパウロ三木もいた。しかしこのセミナリヨは信長が本能寺の変で横死した後で安土城が焼かれた時に放棄されました。1583年には豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、結局、右近の支配する高槻に設置されました。1587年に最初の禁教令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てた。オルガンティノは右近とともに表向き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信徒を指導した。翌年、右近が加賀に招かれると、オルガンティノは九州に向かいました。

1591年、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされました。1597年には日本二十六聖人の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取っています。オルガンティノは涙を流してそれらを押し頂いたといいます。

半生を日本宣教に捧げたオルガンティノは最晩年、長崎で病床につき、1609年、76歳で没した。
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5.キリシタン大名

フランシスコ・ザビエルは戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行った。後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行っています。その際、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器の援助などを提示した者もおり、大名側もこうした宣教師から得られる利益をより多く得ようと、入信して歓心を買った者もいた。入信した大名の領地では、特に顕著にキリスト教が広がることになった。しかしキリスト教が広まると、キリスト教の教義や、キリシタン大名の人徳や活躍ぶり(特に高山右近)に感化され、自ら入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていった。キリスト教に入信した大名とその配下達の中には、宣教師たちの意見を聞き入れ領地内の寺や神社を破壊したり焼き払うなどの行動を取った者もいた。仏教や神道を奉ずる大名の中にも、僧侶たちの意見を聞き入れ外来の宗教であるキリスト教を『邪教』として弾圧する者もおり、キリスト教徒と日本の旧来の宗教の信者達との間に憎悪と対立を深めていくことになった。また、豊臣秀吉によりバテレン追放令(伴天連追放令)が出され、キリシタン大名に対する政治的な圧力が強まり、多くの大名が改易、もしくは仏教か神道への改宗を余儀なくされ(強制改宗)、キリスト教の禁教と迫害の時代に入っていった。
江戸時代に入り、1613年(慶長18年)には禁教令も出されたため、最後まで棄教を拒んだ高山右近はマニラに追放され、有馬晴信は刑死し、以後キリシタン大名は存在しませんでした。

彼らの領内にいた多数のキリシタンは、仏教に改宗するか、隠れキリシタンとなるか、劇的な例では旧有馬晴信領で起こった島原の乱という大規模な一揆の際に殺害され、表から消えていった。

高山右近
洗礼名はユスト。茶道を究めた右近は「南坊」と号し、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られます。この項目での呼称は右近で統一します。

高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照(飛騨守を自称)が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、長慶の重臣松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原区)を居城としました。
高山右近は、そうした中、天文21年に右近は友照の嫡男として生まれました。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けています。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためでした。父の洗礼名はダリヨ、右近はポルトガル語で「正義の人」を意味するユスト(ジュストとも)。
しかし、三好氏は当主長慶が永禄7年に没すると内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めつつありました。そうした中、永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下足利義昭が将軍となると状況は一変します。義昭は土着の領主の一つである入江氏を滅ぼすと直臣である和田惟政を高槻城に置き、さらに彼に伊丹親興・池田勝正を加えた三人を摂津の守護に任命した。高山親子は和田惟政に仕えることとなったが、領域の狭い摂津をさらに分割統治する体制がうまくいくわけもなく、摂津は大きく混乱します。まず元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重の軍に敗れて討死(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏そのものを乗っとります。荒木村重は織田信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、荒木村重の領有となりました。

こうした状況下で、高山親子はうまく立ち回る。和田惟政の死後、高槻城はその子惟長が城主となっていたが、まだ幼かいました。そこで高山親子は元亀4年(1573年)4月、高槻城を乗っ取り、自ら城主となりました。惟長が暗愚であったためともいわれるが、高山親子が荒木村重と示し合わせた上での下剋上ともいわれ、荒木の重臣であった中川清秀が高山氏にごく近い親族であったことからも、後者の可能性は高い。高山親子は荒木村重の支配下に入り、村重がすでに信長から摂津一円の支配権を得ていたことからこの事件は黙認され、高山親子は晴れて高槻城主となることができた。まもなく高槻城の修築工事を行い、石垣が塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れました。右近は高槻城を乗っ取る際、惟長と切り合って瀕死の重傷を負うが、奇跡とも言える回復を遂げた。右近はこの機を境にキリスト教へ傾倒するようになった。このときまでは、父・友照ほど熱心ではなかったというが、生死の境を彷徨ったことで何か悟るものがあったのだろう。
この天正11年から13年頃に、御着城主・姫路城代黒田孝高は高山右近らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。しかし、天正15年(1587年)7月に秀吉がバテレン追放令を出すと高山右近らがこれに反抗して追放される中、孝高は率先して令に従った。

ただし、こうした戦国乱世を地でいくようなことをしつつも、高山親子はいっそうキリシタンに傾倒していく。特に父友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を息子の右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は当然息子の右近に大きな影響を与えました。
京極高吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

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