06.銅鐸は何に使われたか

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銅鐸は何に使われたか

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現在のところ用途は未だ定かではありませんが、第一に、銅鐸は日常の物ではないのです。つまり家庭用品ではありません。銅鐸は特殊なものであるということがまず大前提です。2番目は、銅鐸を鏡のように副葬品として故人の墓には入れません。銅鐸の中で現在確実に墓に入った例は小銅鐸以外ありません。

初期の小型の物は鈕(チュウ=つまみ)の内側に紐(ひも)などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられています。

本来、中国の銅鈴が起源とされているので家畜牛の首に付けられていたカウベルではないかとも言われていますが、日本では祭祀に用いられる小国の威厳を誇示する特別な神楽器となったのではという説では、1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的な物への変化が見られることから、(後述のように異論はありますが、)音を出して「聞く銅鐸」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる銅鐸」目的へと変化したのではないかと言われています。
しかし、森 浩一氏はこう書いています。

「古い小型の銅鐸ほどいい音がします。ただし1メートルくらいの銅鐸が全くいい音がしないというのではありません。実は1メートルくらいの大きい銅鐸ほど実験をすると釣鐘で言うと余韻が残るのです。だから古い小型の銅鐸はいい音がするけれども、ボワンと消えてしまいます。1メートルくらいの銅鐸は叩くと釣鐘の余韻のようにウーウーと残っています。橿原考古学研究所の紀要にその実験データが載っています。だから大きい銅鐸は見るだけだと強弁している学者がいますが、それは違うと思います。銅鐸には最初から最後まで見る要素と聞く要素の両方あるのです。

音の要素についていえば、単に鳴るだけではなくて、大きくなって余韻が響くようになったのです。考古学者榧本亀次郎さんの解釈では、銅鐸というのは毎日ぶら下げているのではなくて、お祭りの時だけとかあるいは10年に1回の重要な時とかに、しかも粗紐ではなくておそらく柔らかい幅のある布のような物でV字型にそっとぶら下げたのではないかと思われます。だから、そんなにひどい擦り目というのは出ないと言うわけです(森 浩一)。」

銅鐸は、銅鐸そのものがもつ意味もさることながら、銅鐸にかかわる祈りが存在していたと考えられます。弥生時代の最大関心事は、米づくりに代表される生産基盤の安定とムラの存続と維持発展にあったと考えられます。耕地の確保といった土木事業を展開するためには人々が心をひとつにする必要があり、ここに共同体の祭器として銅鐸のまつりが最もふさわしいと考えられるのです。ベルは古くから神々を招き、願いを聞き届けるために重要な役割を果たす儀器であり、シャーマン(司祭者)が銅鐸を用いて豊穣と祖霊を崇め、ムラムラの発展を祈願する祭祀がとり行われたのでしょう。

弥生の社会が必要としたのは、王のリーダーシップだけではなく、むしろ重要視されたのが、人間の及ばない自然をコントロールすることです。

どれだけ優れたリーダーのもと、完璧な計画を立てて灌漑や作付けを行っても、収穫前に来る台風ひとつですべてが台無しになりかねない。彼らが自然を神に見立てて祈りに力を入れたのは、その自然だったのです。

展示されている青銅器は青っぽく錆びていますが、当時は黄金に輝いていました。金や銀はまだ使われていなかったため、初めて見る金属の輝きは現代人にとってのダイヤモンド以上にまぶしかったはずです。

三品彰英氏は佐原氏の地中保管説を受けて、銅鐸は地霊や穀霊の依代(よりしろ)であり、大地に納めておくことが大切なことであり、銅鐸を掘り出すことは地霊・穀霊を地上に迎えまつること(地的宗儀)で、まつりが終わると再び大地へ埋め戻すもので、やがて古墳時代を迎えると鏡に代表される天の神、日の神のまつり(天的宗儀)にかわり、銅鐸は土中に放置されたと説明されています。
扁平鈕式古段階までの銅鐸は、近畿地方の中でも摂津北部、大和、河内、山城といった畿内を中心に製作され、その分布地から主に近畿以西の西日本に広がっています。弥生時代中期の段階は、畿内の勢力がより西の地域との連合を意図して銅鐸祭祀を普及させたと考えられます。これが扁平鈕式

そして突線鈕式銅鐸の段階になると銅鐸は「近畿式銅鐸」と「三遠式銅鐸」という二つの大形銅鐸にまとまり、分布は畿内周辺部と東海地方へ移っていきます。弥生時代後期、畿内勢力は新しく大きな近畿式銅鐸によって、周辺地域と東海地方への連携施策を講じたものと推定されます。

実際に荒神谷や兵庫県立考古博物館のレプリカをたたいてきました。「コ~~ン」と響くいい音でした。

銅の特長

青銅(せいどう、bronze)は、銅Cu を主成分とし錫(スズ)Sn を含む合金のことで、銅と錫の鉱石は混在することから、メソポタミアでは紀元前3500年頃から銅に錫が混ざった青銅で道具を作るようになりました。青銅器はエジプト、中国(殷王朝)などでも使われるようになり、世界各地で青銅器文明が花ひらきました。加工しやすく表面にできる保護被膜が腐食の進行を防ぎ耐食性の高さなどから 古来貨幣の材料としても利用されてきました。

本来の青銅は黄金色や白銀色の金属光沢を持ち、その見た目から古代において金銀に準じる金属として利用された面があると考えられています。添加する錫の量が少なければ日本の十円硬貨にみられるように純銅に近い赤銅色に、多くなると次第に黄色味を増して黄金色となり、ある一定量以上の添加では白銀色となります。しかし、青銅は大気中で徐々に酸化されて表面に炭酸塩を生じ緑青となります。そのため、年月を経た青銅器はくすんだ青緑色、つまり前述の青銅色になるので、青銅器といいます。青銅には、適度な展延性と、鋳造に適した融点の低さや流動性があり、鉄が、銅よりも安価かつ大量に供給されて普及する以前には、もっとも広く利用されていた金属でした(青銅器時代)。

かつて緑青は、教科書や百科事典にも有毒や有害と記載され、間違って教育されてきた経緯があります。東京大学医学部衛生学教室の元教授・豊川行平氏は、「緑青のグリーンが毒々しく見えたから、いつのまにか毒だと信じ込んでしまったのではないでしょうか」と語っています。その長い歴史のなかで、緑青によって生命がおびやかされたことはありません。いたずらに恐れたり、心配する必要はないのです。人と銅との長い歴史がそれを証明しています。しかし、銅は生物の代謝が正常に行われるうえで必須の元素でヒト一人当たり100から150 mgの銅が含まれ主に骨や肝臓に存在しますが、同時に過剰供給されると、足尾銅山鉱毒事件に見られるように毒性を示します。

銅は他の金属に比べ抜群の導電率を持ちます。この特性からコードや電子機器に欠かせない部品として活躍しています。また熱伝導性にすぐれています。この特性は鍋などの調理道具やマグカップなどに生かされています。
銅管は、すぐれた抗菌力を発揮するので給水、給湯をはじめとして水道管にも利用されています。
たとえば、神於(こうの)銅鐸(大阪府岸和田市 弥生中期)を分析すると、銅68.96% 錫15.45% 鉛5.63%です。
これは合金を人為的に行ったのではなく、前出の通り自然界に銅と錫の鉱石は混在することから、そのまま鋳造したのでしょう。
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05.銅鐸の形状と紋様

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銅鐸の形状と紋様

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銅鐸のかたち

野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館) によりますと、銅鐸は、つり手「鈕」(ちゅう)とバケツをひっくり返したような「身」(み)、つり手から身にかけて張り出した「鰭」(ひれ)から成り立っています。

銅鐸は本来、内面に振り子「舌」を下げたベルです。銅鐸内面の末端付近には、断面形が台形や蒲鉾形(かまぼこがた)の突帯(とったい)がめぐっています。内面に舌を取り付け、つり手を揺することで舌がこの突帯部分に触れあい共鳴します。古い銅鐸には、青銅製や石製の舌を伴って出土したものがあり、内面上部に舌を下げるため「環」(かん)を取り付けた銅鐸(有環銅鐸)もあります。また、内面突帯(ないめんとったい)が舌との摩擦によって磨り減った銅鐸も認められます。

鈕(ちゅう)は、銅鐸をつり下げる部分で、本来は断面形が菱形をした半環状のものでしたが、後に装飾が加わり兜形(かぶとがた)から小判形(こぱんがた)に変化します。古い銅鐸には鈕と結んだ紐とが摩擦した痕跡をとどめるものがあり、木の枝などに銅鐸を紐(ひも)でつり下げて使用していたと考えられます。

身(み)は、扁平(へんぺい)な筒形を呈しています。身の上面と上半・末端の左右には各々両面に孔があります。この孔は銅鐸を鋳造する際に、二枚の外型と内型を固定するために生じるもので「型持孔」(かたもちあな)と呼んでいます。銅鐸が大形化すると身も裾(すそ)開きの円筒形のものへと変化します。  鰭(ひれ)は、鈕から身の末端付近まで連なる板状の装飾部分で、銅鐸を鋳造する際、二枚の鋳型からはみ出した甲張(こうばり)が装飾化したものと考えられます。

佐原真氏の型式分類(佐原編年)によると、現在主として鈕の形態の変化により編年され、全部で4形式に分類されています。
菱環鈕式(最古式、I式)、外縁付鈕式(古式、II式)、扁平鈕式(中式、III式)、突線鈕式(新式、IV式)です。この他に福田型銅鐸と呼ばれる銅鐸があります。

紋様の種類

・横帯紋銅鐸
・袈裟襷紋銅鐸(6区以外)
・6区袈裟襷紋銅鐸
・流水紋銅鐸

に分けられます。加茂岩倉銅鐸を紋様の種類によって分類すると、石の鋳型で造られた古い段階の銅鐸群は、四区袈裟襷紋と二区及び三区流水紋のグループに分けられます。これに対して、土の鋳型で造られた新しい段階の銅鐸群は、四区袈裟襷紋と六区袈裟襷紋のグループに分かれます。さらにこの四区袈裟襷紋銅鐸には、区画内に絵画を持つものと持たないものがあります。

古い段階の銅鐸群のうち、流水紋銅鐸は全て横型流水紋と呼ばれるものに属します。この横型流水紋は、畿内南部(河内南部・大和・和泉)の弥生時代中期初頭の土器に施紋されていた横型流水紋様の影響を受けたものと見られ、この時期の銅鐸群のほとんどは畿内南部の工房で製作されたと考えられています。ただ、四区袈裟襷紋の加茂岩倉12号鐸には、畿内南部で造られた銅鐸には見られないいくつかの特徴があります。こうした特徴を持つ銅鐸の鋳型が大阪府東大阪市の鬼虎川遺跡から出土していることから、この段階の銅鐸群の中には、河内北部の工房で造られた銅鐸もあることがわかってきましました。

新しい段階の銅鐸群で特に注目されるのは、袈裟襷紋の上の区画内にトンボ・シカ・イノシシなどの絵画を配し、下区に四頭渦紋が鋳出された18号鐸・23号鐸・35号鐸です。描かれた図像に違いはありますが、鈕や鐸身の紋様構成は極めて似通っています。例えば、一般的な袈裟襷紋銅鐸は縦帯に対し横帯が優先して施紋されますが、これらの銅鐸は袈裟襷紋の縦・横帯が切り合っており、袈裟襷紋の中に施紋された斜格子紋様の充填方法を見ても横帯優先となっていません。また、縦帯の幅が身の上部では狭く、下部へ向かうほど広くなっており、これに対応するように、充填された斜格子紋が上部ほど密で下部ほど粗となっています。こうした特徴は、同じ時期の畿内系銅鐸にはあまり見られないもので、これらの銅鐸が出雲で造られたとされる理由のひとつに挙げられています。

これらの銅鐸に描かれた絵画にも、これまで各地で出土した絵画銅鐸にはない特徴が見られます。そのひとつは、18号鐸・35号鐸に鋳出されたトンボが、複線で写実的に描かれていることです。これまで知られている絵画銅鐸のトンボは単線で描かれており、抽象的な表現に留まっていますが、これらの銅鐸の場合は、頭部・胸部・腹部の境がくびれ、各部位が明瞭に区別されています。翅は4本線で描かれ、前翅・後翅の縁が表現されています。さらに18号鐸B面上右区のトンボには、眼を表現したと見られる小さな点も2つ認められ、工人の細かな観察力と表現力が感じられます。

このほかにも鈕にカメを描いた10号鐸、同じく鈕の頂部に人面を描いた29号鐸など、特色のある絵画を持つ銅鐸があります。これらはいずれも六区袈裟襷紋銅鐸で、袈裟襷紋の区画内・鈕や鰭の鋸歯紋帯の無紋部分に研磨の痕跡が認められます。8号鐸・20号鐸も六区袈裟襷紋銅鐸ですが、10号鐸・29号鐸と同様の研磨が施されており、こうした研磨は、いわゆる「見る銅鐸」としての効果を狙った技法と考えられます。また10号鐸には表面に水銀朱が塗布されていることも確認されています。これらの銅鐸からは「見る銅鐸」に込めた弥生びとの想いが伝わってくるようです。
2009/08/28
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04.銅鐸とはいったいなんだろうか

銅鐸(どうたく)とはいったいなんだろうか

気比銅鐸

銅鐸は神を招くカネといわれていますが、本来は楽器ではないかといわれ、上からぶら下げ、内部に吊した舌(ゼツ)と呼ばれる青銅製の棒で鳴らします。

銅鐸の起源は3500年前の中国・殷(イン)の時代。世界に先駆けて使われたベルです。当時もカウベルのように牛の区部に小型のものがつけられていたのではないかといわれています。次第に五穀豊穣を祈る農耕祭祀に用いられた祭器となって装飾が施されるようになった。大きさは10センチ前後のものから、日本最大のものでは約130センチを超える大形のものまで見つかっています。
中国の銅鈴が起源とされていますが、日本で出土する形状に類似するものはまだ見つかっていません。また、朝鮮半島には、朝鮮銅鐸と言われる文字も絵もない小型のものが出土します。それらの影響は考えられるが、その後日本の銅鐸は日本で独自に発達しました。

青銅器から鉄器へと移行するのですが、日本へは、紀元前4世紀頃、青銅器は鉄とともにほぼ同時期に九州に伝わりました。青銅も鉄も最初は輸入されていた。

紀元前1世紀頃、国内での生産が始まったといわれています。ちなみに鉄の国内での生産(製鉄)は紀元後5世紀頃だと思われています。  2世紀には大型銅鐸が作られ、技術は東アジアでもかなり高い水準に達していた。

気比銅鐸(レプリカ)銅鐸展 但馬国府・国分寺館

1世紀末ごろを境にして急に大型化します。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種があります。大きな違いは、近畿式は双頭渦紋と呼ばれる飾り耳を鈕の部分に持つことぐらいです。いずれも些細なことで、実際にはよく似た銅鐸です。近畿式は摂津・河内で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されています。近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地域に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布します。

それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られました。2世紀末葉になると近畿式のみとなります。銅鐸はさらに大型化しますが、3世紀になると突然造られなくなります。しかし、それらは混在しており、明確に位置を区別できるようでもありません。分布的には三遠式と近畿式が対峙しているというような事実はなく、近畿式のみの地域と近畿式+三遠式の地域があるというのが現状です。

弥生時代初期とされる青銅器の鉛同位体を測定すると、殷(商)・周(西周)時代の青銅器と鉛同位体の比率などがほぼ一致しており、この鉛は他の地域時代にて青銅器として見られることがないため、中国大陸や朝鮮半島から流入した青銅器等を鋳直して作成されたとする説があります。なお、日本での銅の史料上の記述は和銅元年(708年)が初見とされます。銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうといいます。ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていません。『続日本紀』には、和銅6年、大和宇波郷のひとが長岡野において発見した記事があり、『日本記略』には、弘仁12年、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとあります。

銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたります。出土品の一部には近畿地方で製作されたと推定されるものもありますが、絵画表現の独自性や荒神谷遺跡出土銅剣の線刻との類似から、大半は出雲地方で製作されたと考えられており、一部は他地域との同はん関係(兄弟銅鐸)も認められています。なお、埋納された時期については、現在のところ荒神谷遺跡同様特定できていません。

注:三遠式…濃尾平野(三河・遠江)で生産されたものであろうと推定。

青銅器の種類

弥生時代の青銅器には、銅剣(どうけん)、銅鐸(どうたく)、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)があります。

「荒神谷博物館」レプリカ 左から銅剣、銅鐸、銅矛

銅鐸(どうたく)とは、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器のこと。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作り用いられた祭器。これまでに出土した銅鐸は約470個で、主に近畿地方の遺跡から出土しています。

大きさについては12センチから1メートルを越すものまであります。1世紀頃には高さが60センチに達し、さらに大型化が進み、2世紀には1メートルを超え、最終的には134センチに達します。しかし、その直後鋳造が止まります。現存する最大は、144センチ、45キログラムに達します(滋賀県野洲市野洲町大岩山1881年出土1号銅鐸)。

近畿地方で生産されたものは表面に必ず文様がつけられています。文様で一番多いのが、袈裟襷文(けさだすきもん)で、縦の文様帯と横の文様帯とを交差させています。その前は流水文でした。最古級の銅鐸は、縦文様帯と横文様帯を持つ四区袈裟襷文で飾っています。 また、吊り下げる鈕の断面形が菱形となっています(菱環鈕式[りょうかんちゅうしき])。しかし、大阪府東奈良遺跡から出土した小銅鐸の鈕の断面形が円形である。その後、外縁付鈕式、扁平鈕式、突線鈕式と変遷する。その後鐸自身が大型化し、表面に飾りが加わります。

紀元前2世紀後半頃40センチを超す大型銅鐸が現れ、流水文が採用されています。この文様は紀元前1世紀頃に衰退します。 当時の家屋など弥生時代の習俗の様子を描いた原始的な絵画が鋳出されているものもあります。

銅矛(どうほこ)は銅剣、銅鐸とともにマツリのための道具として使われました。
銅剣(どうけん)は、実用の武器として弥生時代のはじめ頃に大陸から伝わり、日本で作られるようになってから、祭器へと変わりました。

銅鐸が神を呼ぶカネであったのに対し、銅剣や銅矛は悪霊をはらうものであったと考えられています。銅矛もまた銅剣と同じように、弥生時代前期には、根元の袋部分に柄をつきさす「細形」の武器でしたが、しかし中期以降は大型化して実用的でない「中細形」「中広形」「広形」へと変化していきます。荒神谷で発見された全ての銅矛の袋部には鋳型の土が残されたままでした。このことは、銅矛を武器として使用するより、祭器として使用する目的があったと考えられます。

銅戈は、「ほこ」の和訓を与えられている字には同じ「矛」もあるが、「矛」では金属製の穂先を槍と同様に柄と水平に取り付けるのに対し、「戈」では穂先を柄の先端に垂直に横向きに取り付け、前後に刃を備える。日本語文献史料で「ほこ」とある場合、通常は「戈」ではなく「矛」。そのため、歴史学用語としては訓読みするより音読みの「カ」で読まれることが多い。
しかし銅鐸は、まず、銅鏡、銅剣、銅矛に比べ出土の状態からしてまず謎です。銅鐸の時期は3世紀から4世紀にかけての弥生時代末期に集中しているといいます。

専門家によれば、銅鐸はそのほとんどが人目につかない山の中腹などで発見されるといいます。まるで、誰かの手で意図的に隠されたかのように。なかには、兵庫県豊岡市日高町久田谷(地元)の全国でも稀な粉々にされた銅鐸破片など、故意の加熱や打撃により破壊されて出土する例さえあります。古墳時代になるとなぜか銅鐸は急速に廃れてしまします。

2009/08/28

03.常識を覆す日本最多の銅鐸 加茂岩倉遺跡

日本最多の銅鐸 加茂岩倉遺跡


2009年2月15日、出雲大社、島根県立出雲歴史博物館、西谷古墳群、荒神谷遺跡などとともに加茂岩倉遺跡を訪ねた。

平成8(1996)年10月14日、加茂町(現雲南市)岩倉で農道の法面工事のためパワーショベルで山の斜面を削っていたところ、大量の銅鐸の出土により加茂岩倉遺跡は発見された。突然、異様な音がしたため、運転者は直ちに重機を止め、「どこの誰がポリバケツをこんなところに埋めたのか」と考えつつそばに行くと、ポリバケツならぬ「銅鐸」だったのである。

当時、加茂町長であった速水雄一氏(後に雲南市長となる)が学問と教育の里というテーマで町おこしを行っていたことから、町役場にはただちに遺跡発見の連絡が入り、1996年より1997年の2年間にわたり、加茂町教育委員会と島根県教育委員会により発掘調査が行われた。

遺跡は狭くて細長い谷の最奥部手前の丘陵に位置し、南向きの丘陵斜面中腹にあたる標高138m、谷底から18mと見上げるような高い場所に39個の銅鐸が埋納されていた。一カ所から出土した銅鐸の数は日本最多で、大変注目を集めたのである。

出土品は国(文化庁)が所有し、島根県立古代出雲歴史博物館に保管されている。1999年に遺跡は国の史跡に指定され、出土した銅鐸は国の重要文化財に指定された。2008年7月には、出土した39口の銅鐸は国宝に指定。

 

銅鐸は南向きの丘陵斜面中腹から出土[/caption]

発見当初に建設重機を停止したことが幸いし、埋納の痕跡も良く残っており、どのように配置されたのかといった詳細な学術情報が研究者にもたらされた。また、1997年度の調査では、銅鐸が埋められていた坑から3メートル離れた場所に別の坑も発見されたが、こちらからは遺物が全く出土していない。

そのうち13組26口は中型鐸の中に小型鐸が納められた「入れ子」状態で出土したことが確認されている。銅鐸がこのような入れ子状態で出土した例は極めて少なく、内部は中空であった可能性も考えられているが、CTスキャンによる内部調査に拠れば、埋納坑埋内と内部を塞いでいる土砂が異なることが指摘されている。表面からは朱が検出され、線刻で文様が表現され、袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸が30口、流水文銅鐸が9口ある。絵画の描かれた銅鐸は7口あり、シカやカメ(ウミガメ)、トンボや四足獣などの動物が描かれている。そのうちの数点が豊岡市気比銅鐸(流水文)と兄弟銅鐸とされている。

尾根の左が荒神谷、光っている場所が加茂岩倉

遺跡は先に発見され大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡と山を隔てて南東に僅か3.4kmしか離れておらず、両遺跡から出土の銅鐸に「×」印の刻印があることから、両遺跡は関係あることが分かり、古代出雲を研究する上で大きな手がかりとなっている。これらの二つの発見から、またさらに後に発見された「出雲大社境内遺跡」との関連から、古代イズモには王国、あるいは文化圏が存在した、とする研究者が増えてきている。

『倭の古王国と邪馬台国問題 上』 著者: 中島一憲

空前絶後の青銅器大量埋納は、荒神谷、加茂岩倉ともに一世紀半ば、つまり第一次倭国大乱が一段落し、倭奴国が後漢に朝貢したころに、時期を合わせたように行われていることが分かった。鴨居湧くの銅鐸の中に紀元前三~同二世紀前半に製造された「最古段階」の銅鐸が含まれていることが加茂町教育委員会の分析でわかった。「最古段階」の銅鐸は、加茂岩倉遺跡から直線距離で北西約4kmの荒神谷遺跡からも1個が出土。加茂岩倉の最古段階のものと同じく菱環紐式で、加茂岩倉のその銅鐸は高さ21.7cmの小型だった。

同笵銅鐸(兄弟銅鐸)

加茂岩倉遺跡の同笵銅鐸(兄弟銅鐸)は、越前(伝)(大石)銅鐸が気比4・伝陶器山、但馬気比銅鐸2個、岩美郡岩美町新井上屋敷と1個が加茂岩倉銅鐸と兄弟銅鐸であることが分かった。銅鐸の同一性からのみで判断することはできないものの、少なくとも丹後・若狭地方からは出土していない。弥生時代中期頃に丹後・若狭を避けたのは、すでに違う勢力が存在していたのかも知れない。弥生時代後期(200年ごろ)にはガラス製の釧(くしろ:腕輪)が見つかり、コバルトブルーに輝く全国で初めての完成品です。西谷3号墓(島根県出雲市)でも同じ材質の巴型勾玉がみつかり、出雲と丹後の交易が有力視される。

『倭の古王国と邪馬台国問題 上』 著者: 中島一憲

海上交通のネットワークが古くから発達している日本列島では、産業・技術・文化にほとんど地域格差がみられず、広範にかつ均質に発達していると考えている私は、青銅原料の産地がどこであるかに関心をもっている。

まさに驚嘆の大発見となった加茂倉遺跡の銅鐸発掘は、一か所で39個という全国一のその圧倒的な量と特異な埋納状況、一部の銅鐸に刻まれた特殊な「×」サインや絵画の意味、そして何よりも荒神谷と関連する埋納時期や出雲という地域性から、この遺跡の評価をめぐって多くの学者・専門家が多様な説を展開しはじめている。

私もこの遺跡が荒神谷とともにヤマトの古代国家成立上きわめて重要な意義をもつことを予感しているが、以下に新聞が特集したシンポジウムや座談会に紹介された学者たちの見解を若干紹介したい。

森浩一氏は、「(加茂岩倉の)4、7、19,22号銅鐸は兄弟で和歌山市の太田黒田銅鐸と一緒。この兄弟のうち4つが出雲から見つかった。近畿から出雲をみるのか。それとも出雲から近畿を見るのか。私は多い場所から見ようと思う」と出雲説を展開。
佐原真氏は、古い段階(紀元前三世紀~同一世紀頃)の銅鐸の石の鋳型が10近くも近畿や香川県などで出土していることをあげ「現状ではいくら兄弟が出雲でたくさん出ていても(この段階のものは)近畿でつくったものをもってきたと考えるべきではないか」と主張。ただ、加茂岩倉の18,23同銅鐸などは近畿の銅鐸と違う特徴をもつことから「土の鋳型で銅鐸をつくりだした段階では、出雲に『銅鐸の会社』があった可能性がある」(としている)。

上田正昭氏は、各地で一つ、二つと出土したものと、40個近くが出土したものと「同列に論じてよいものか」
門脇禎二氏は、「私は加茂の岩倉が神が宿る磐座(いわくら)に通じ、一帯が神原(かんばら)、荒神谷が神庭(かんば)と呼ばれるのが気になります。…『旧辞本紀』の中の『国造本紀』から、七世紀の国造の祖先伝承などが伺えますが、そこから祖先を同じくする「同祖関係」を拾い出すことができます。それでたとえば出雲を見ると、隣り合った国ではなく、但馬のような日本海側のほかに、伊勢や美濃といった大きく離れた地域が出てきます。このあたりに加茂岩倉の兄弟銅鐸が存在する可能性が十分あるわけです(実際に但馬気比銅鐸は兄弟銅鐸であることが判明)。

気比銅鐸 但馬国府・国分寺館 銅鐸展

難波洋三氏は、『扁平紐式新段階』の時代になって出雲、あるいはその周辺でも銅鐸が製作されるようになった可能性があります。加茂岩倉の38個は、各形式とも比較的限られた工房の製品で構成されているようです。たとえば外縁付き紐二式の流水紋銅鐸8個は、すべて大和か河内の工人の製品。『扁平紐式新段階』のものも飾りなどに共通の特徴があり、多くの工人集団の製品がランダムに集められたとは考えにくいと思います」。

同遺跡の兄弟銅鐸は、計13組、22個、「兄弟」の出土地は西日本の8府県にまたがっていることが明らかとなり、広範な地域間交流が想定される。また36号銅鐸から「×」印が見つかった(荒神谷の銅鐸は「×」印が付けられていた)。

【国宝】考古資料の部

弥生時代の指定は次の6件(2008年(平成20年)まで)。
金印(漢倭奴国王印) (福岡市博物館)
桜ヶ丘町出土銅鐸・銅戈 (神戸市立博物館)
福岡県平原方形周溝墓出土品 (文化庁、伊都国歴史博物館保管 弥生時代~古墳時代)
袈裟襷文銅鐸〈伝讃岐国出土〉(東京国立博物館)
島根県荒神谷遺跡出土品 (文化庁、島根県立古代出雲歴史博物館保管)
島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸 39口 (文化庁、島根県立古代出雲歴史博物館保管)

全国の銅鐸出土数
国別出土数
菱環鈕式
Ⅱ外縁付鈕式Ⅲ偏平鈕式[聞く銅鐸] Ⅰ+Ⅱ+Ⅲ[見る銅鐸] Ⅳ突線鈕式
出雲501371048
近江3632522
摂津(東)1257
摂津(西)21714
摂津(計)331221267
阿波42322258
紀伊383131614
遠江291127
三河2811211
河内18111124
大和1976135
讃岐2047111
淡路1515281
尾張15246
伊勢1512257
和泉123473
備前151674
播磨111564
土佐11337
伯耆9246
備中8332
因幡84153
丹後7113
丹波3123
山城64151
但馬6442
越前51341
若狭51231
美濃42131
石見41231
信濃32
伊賀32
美作31122
備後2112
その他135232387243

・国別で出土数の多い地域(≧3)のみを示した。うち型式の判明分をⅠ~Ⅳ式に分類。
・Ⅰ~Ⅲ式およびⅣ-1式:「聞く銅鐸」、Ⅳ-2~Ⅳ-5:「見る銅鐸」
[佐古和枝氏作成の分布図よりまとめた]

銅鐸出土数箇所
1位兵庫県56点40
2位島根県54点9
3位静岡県46点26
4位徳島県42点29
5位滋賀県41点14
6位和歌山県38点38
7位愛知県33点36
全国約500点

2009/02/15

02.世紀の大発見!! 荒神谷遺跡

世紀の大発見!! 荒神谷遺跡

  
島根県出雲市斐川町神庭

昭和58(1983)年、広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろった事がきっかけとなり発見されました。遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られている事から荒神谷遺跡と命名され、翌昭和59年谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣(どうけん)が出土しました。

  

銅剣は昭和60(1985)年、銅鐸・銅矛は1987年に国の重要文化財に指定されていましたが、1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されています。出土品は現在、文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館などに保管されています。遺跡自体は1987年に国の史跡に指定されました。斐川町が中心となり1995年に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備されました。2005年には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示などが行われています。

銅剣は、実用の武器として弥生時代のはじめ頃に大陸から伝わり、日本で作られるようになってから、祭器へと変わりました。出土した358本の銅剣は、いずれも50cm前後の中細形といわれる型式で、「出雲型銅剣」といわれるようになりました。
358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。

テレビ「ケンミンショー」を観ていると、仏教大学民俗学教授が、神社にお宮参りに行く時に京都では「昔は赤ちゃんの額に朱の墨で「×」は魔よけとして書いたいたものが、×は縁起が悪いから平安時代から男の子は「大」、女の子は「小」と書くようになった」と言っていた。(2010.3.7)

現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえます。 当時の大和朝廷が「イズモ」を特別な地域であると認識していた事が、記紀の記述にもあり、また神話のなかの三分の一を出雲神話で占める、といったことからも証明される形となっています。更に、時代が下って編纂された「式内宮」として認められた神社の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致があげられます。 当初は、農道を造るために、神庭と呼ばれる場所であることから、とりあえず調査発掘をすることになり、最初に掘ったトレンチから銅剣が土中から出てきました。次々に出土し、最終的に358本という数に達しました。それまでに全国で発掘された銅剣の総数を超える数の銅剣が発掘された事は当時のマスコミを興奮のるつぼに放り込んだ形となりました。


県立古代出雲歴史博物館展示品(HPより)

銅剣、銅鐸、銅矛の複製展示

銅矛は銅剣、銅鐸とともにマツリのための道具として使われました。
銅鐸が神を呼ぶカネであったのに対し、銅剣や銅矛は悪霊をはらうものであったと考えられています。銅矛もまた銅剣と同じように、弥生時代前期には、根元の袋部分に柄をつきさす「細形」の武器でしたが。しかし中期以降は大型化して実用的でない「中細形」「中広形」「広形」へと変化していきます。荒神谷で発見された全ての銅矛の袋部には鋳型の土が残されたままでした。このことは、銅矛を武器として使用するより、祭器として使用する目的があったと考えられます。
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物部氏4/4 物部氏ゆかりの神社と日本統一へ

注連縄(しめなわ)


出雲大社 拝殿

神社の拝殿の軒や御神体には注連縄が張ってあります。神代の時代、天照大神が天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにした。この縄は「尻久米縄」と云われたと古事記に記され、しめなわの始まりとされている。

「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を意味する。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓う結界の意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿っているという印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印ともなっている。

しかしこれは、朝廷が出雲系の物部氏などの神社を封じ込めるためにあるという説があります。神楽殿のしめ縄は長さ13m、太さ8メートルで、重量は5トンで、もちろん日本一日本では向かって右側が上位であり尊いとされてきました。

しめ縄を正面から見た場合には、しめ始めは右からということ一般の神社でも同様にこの慣わしが存在しています。
しかし、唯一この慣わしに逆行している神社はここ出雲大社です。向かって左側から綯い始め右側で終わっているのです。

その理由について

”出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である”といった説もありますが定かではありません。

大神(おおみわ)神社

奈良県桜井市三輪1422
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大
大和國一宮 旧官幣大社
御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)

由緒

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。

大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。

石上神宮(いそのかみじんぐう)

【国宝】
石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社
奈良県天理市布留町384
御祭神 「布都御魂大神」
配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命

西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得ました。同氏は守屋の兄の子孫であると称しています。

雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。

石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。

元々は20年ほど前に誰かが捨てて行ったものだったそうですが 、次第にその数が増え現在に至り、神の使いとして飼われているようです。さて楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えます。さらにこの後ろに本殿があるのですが、禁足地であり一般に立ち入ることはできません。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。

大神山神社(おおがみやまじんじ ゃ)

式内社 伯耆國會見郡 大神山神社
旧國幣小社
本社 鳥取県米子市尾高1025 祭神 大穴牟遅神(おおなむぢのみこと)
奥宮 鳥取県西伯郡大山町大山 祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
いずれも大国主命の別名
奥宮末社・下山神社(しもやまじんじゃ) 渡辺昭政(わたなべてるまさ)命

自然石を敷きつめた七百mの参道の長さ、国内最大の権現造りの社殿、幣殿の白檀の漆塗りの荘麗さと、大神山神社奥宮には三つの「日本一」があり、西日本最大級の神輿がある。

大山(だいせん)は古より神おわす山として、よって大神岳とも称され、中国地方一の霊峰とも言われ修験道を始め多くの人々の信仰を集めてきた。神体山としての大山には主神として「大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命の別名)」が鎮座し給うとされたが、仏教の隆盛による神仏習合思想の広まりとともに、大己貴命に地蔵菩薩を祀り「大智明権現」の称号を当てて神仏混淆の神社として奉仕されるようになり、平安鎌倉期には三院百八十坊僧兵三千名とまで数えられるようになった。一方この地は冬期積雪が多く、祭事の遂行が困難なため麓に冬宮を設けて冬期にはこの冬宮で奉仕を行うようになった。明治時代になると神仏分離令により尾高の冬宮を本社とし、大山の宮から地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮とし、現在のような形となった。

物部神社(もののべじんじゃ)

島根県大田市川合町川合
式内社 石見国一宮  旧社格は国幣小社
御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代)
相殿右座 饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照大神

物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。 宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮、弥彦神社と共に有名である。なぜか、11月22日でなく、11月24日に行われる。

石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。

その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。
この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。

この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
当地の海辺には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命らが半島から帰国の上陸の地との伝えがある。

須佐之男命は韓神新羅神社、五十猛命は五十猛神社に鎮座し、神別れ坂で大屋津姫命、抓津姫命と親子は別れたと云う。 大屋都比売命は大田市大屋町の大屋姫命神社に鎮座、抓津姫命が見あたらないと思っていたら、物部神社の客神としておさまっていたようです。

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。

物部神社門前から、三瓶山は、よく見える。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引神話」に登場する。 国引神話では、「佐比売山(さひめやま)」(三瓶山)は鳥取県の「火神岳」(ほのかみだけ)大山)とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされています。

新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼
延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。かつての社家の金子氏は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。 宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。

但馬国総社気多神社:「大己貴命」(豊岡市日高町上郷)
越前国総社大神宮:「大己貴命」  福井県越前市(武生市)京町1-4-35
越中国総社気多神社:「大己貴命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063
能登国一宮 気多大社:「大己貴命」石川県羽咋市寺家町ク1
越中国総社跡 気多神社:「大己貴命と奴奈加波比売命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063

天照御魂神(あまてるみたまのかみ)

ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。

女神・アマテラス(天照大御神)は、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのでしょう。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからなのです。
たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。

同社の説明によると、主祭神は彦火明命(ホアカリノミコト)、亦名(またの名は)天火明命(ホアカリノミコト)・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られています。伊勢神宮の内宮・外宮の祭神です。

同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神(上賀茂神社)と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い・・・。」と(ほんとはね…と遠慮ぎみに)あります。
元伊勢籠神社については後ほどくわしく説明します。

出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。明治までは杵築(キヅキ)大社と呼ばれていました。

大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノオやニギハヤヒをはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。

記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。

日本統一へ

出雲大社・物部神社(石見)・但馬(古丹波)気多神社・丹後(古丹波)元伊勢籠神社・越前気比神宮・越中気多神社など…わかるだけでも日本海沿岸を治めていた物部海洋王国は、大和政権によって平定され日本は統一されていきます。四道将軍や各地に残る桃太郎・大江山鬼退治伝説など。銅鐸は消え去り、朝廷から与えられた銅鏡と前方後円墳。しかし、神社は残りました。注連縄を張られ封じ込める形で。時代は神道に変わり聖徳太子は蘇我氏と仏教によって国をまとめようとしてのです。

物部氏ゆかりの神社が多い旧國

【筑前国】19
【筑後国】11【石見国】20【但馬国】12
【丹後国】11【丹波国】9【越後国】68
【伊予国】27【河内国】41【紀伊国】26
【摂津国】22【和泉国】11【伊勢国】35
【山城国】12【近江国】23【尾張国】28
【大和国】36

2009/08/28
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【もう一つの日本】 物部氏4/4 物部氏ゆかりの神社と日本統一へ

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注連縄(しめなわ)

出雲大社 拝殿

神社の拝殿の軒や御神体には注連縄が張ってあります。神代の時代、天照大神が天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにした。この縄は「尻久米縄」と云われたと古事記に記され、しめなわの始まりとされている。

「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を意味する。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓う結界の意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿っているという印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印ともなっている。

しかしこれは、朝廷が出雲系の物部氏などの神社を封じ込めるためにあるという説があります。神楽殿のしめ縄は長さ13m、太さ8メートルで、重量は5トンで、もちろん日本一日本では向かって右側が上位であり尊いとされてきました。

しめ縄を正面から見た場合には、しめ始めは右からということ一般の神社でも同様にこの慣わしが存在しています。

しかし、唯一この慣わしに逆行している神社はここ出雲大社です。向かって左側から綯い始め右側で終わっているのです。

その理由について

”出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である”といった説もありますが定かではありません。

大神(おおみわ)神社

奈良県桜井市三輪1422
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大
大和國一宮 旧官幣大社
御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)

由緒

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。

大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。

石上神宮(いそのかみじんぐう)

【国宝】
石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社
奈良県天理市布留町384
御祭神 「布都御魂大神」
配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命

西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得ました。同氏は守屋の兄の子孫であると称しています。

雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。

石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。

元々は20年ほど前に誰かが捨てて行ったものだったそうですが 、次第にその数が増え現在に至り、神の使いとして飼われているようです。さて楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えます。さらにこの後ろに本殿があるのですが、禁足地であり一般に立ち入ることはできません。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。

大神山神社(おおがみやまじんじ ゃ)

式内社 伯耆國會見郡 大神山神社
旧國幣小社
本社 鳥取県米子市尾高1025 祭神 大穴牟遅神(おおなむぢのみこと)
奥宮 鳥取県西伯郡大山町大山 祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
いずれも大国主命の別名
奥宮末社・下山神社(しもやまじんじゃ) 渡辺昭政(わたなべてるまさ)命

自然石を敷きつめた七百mの参道の長さ、国内最大の権現造りの社殿、幣殿の白檀の漆塗りの荘麗さと、大神山神社奥宮には三つの「日本一」があり、西日本最大級の神輿がある。

大山(だいせん)は古より神おわす山として、よって大神岳とも称され、中国地方一の霊峰とも言われ修験道を始め多くの人々の信仰を集めてきた。神体山としての大山には主神として「大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命の別名)」が鎮座し給うとされたが、仏教の隆盛による神仏習合思想の広まりとともに、大己貴命に地蔵菩薩を祀り「大智明権現」の称号を当てて神仏混淆の神社として奉仕されるようになり、平安鎌倉期には三院百八十坊僧兵三千名とまで数えられるようになった。一方この地は冬期積雪が多く、祭事の遂行が困難なため麓に冬宮を設けて冬期にはこの冬宮で奉仕を行うようになった。明治時代になると神仏分離令により尾高の冬宮を本社とし、大山の宮から地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮とし、現在のような形となった。

物部神社(もののべじんじゃ)

島根県大田市川合町川合
式内社 石見国一宮  旧社格は国幣小社
御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代)
相殿右座 饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照大神

物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。 宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮、弥彦神社と共に有名である。なぜか、11月22日でなく、11月24日に行われる。

石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。

その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。
この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。

この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
当地の海辺には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命らが半島から帰国の上陸の地との伝えがある。

須佐之男命は韓神新羅神社、五十猛命は五十猛神社に鎮座し、神別れ坂で大屋津姫命、抓津姫命と親子は別れたと云う。 大屋都比売命は大田市大屋町の大屋姫命神社に鎮座、抓津姫命が見あたらないと思っていたら、物部神社の客神としておさまっていたようです。

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。

物部神社門前から、三瓶山は、よく見える。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引神話」に登場する。 国引神話では、「佐比売山(さひめやま)」(三瓶山)は鳥取県の「火神岳」(ほのかみだけ)大山)とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされています。

新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼

延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。かつての社家の金子氏は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。 宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。

但馬国総社気多神社:「大己貴命」(豊岡市日高町上郷)
越前国総社大神宮:「大己貴命」  福井県越前市(武生市)京町1-4-35
越中国総社気多神社:「大己貴命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063
能登国一宮 気多大社:「大己貴命」石川県羽咋市寺家町ク1
越中国総社跡 気多神社:「大己貴命と奴奈加波比売命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063

天照御魂神(あまてるみたまのかみ)

ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。

女神・アマテラス(天照大御神)は、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのでしょう。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからなのです。

たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。

同社の説明によると、主祭神は彦火明命(ホアカリノミコト)、亦名(またの名は)天火明命(ホアカリノミコト)・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られています。伊勢神宮の内宮・外宮の祭神です。

同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神(上賀茂神社)と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い・・・。」と(ほんとはね…と遠慮ぎみに)あります。
元伊勢籠神社については後ほどくわしく説明します。

出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。明治までは杵築(キヅキ)大社と呼ばれていました。

大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノオやニギハヤヒをはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。

記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。

日本統一へ

出雲大社・物部神社(石見)・但馬(古丹波)気多神社・丹後(古丹波)元伊勢籠神社・越前気比神宮・越中気多神社など…わかるだけでも日本海沿岸を治めていた物部海洋王国は、大和政権によって平定され日本は統一されていきます。四道将軍や各地に残る桃太郎・大江山鬼退治伝説など。銅鐸は消え去り、朝廷から与えられた銅鏡と前方後円墳。しかし、神社は残りました。注連縄を張られ封じ込める形で。時代は各地方の祖先神かた天皇家を軸とする天つ神の神道に変わり、聖徳太子から仏教によって神社信仰を仏教を広めることで国をまとめようとしたのです。そのあとには聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に国分寺と国分尼寺建立を命じ、神仏はともに共存していきます。

物部氏ゆかりの神社が多い旧國

【筑前国】19
【筑後国】11【石見国】20【但馬国】12
【丹後国】11【丹波国】9【越後国】68
【伊予国】27【河内国】41【紀伊国】26
【摂津国】22【和泉国】11【伊勢国】35
【山城国】12【近江国】23【尾張国】28
【大和国】36

2009/08/28

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【もう一つの日本】物部氏3/4 もう一つの日本(ひのもと)

倭国大乱

2世紀後半の北九州で起きた「倭国大乱」の頃には、すでに河内・大和を中心とした地域に勢力が確立していきました。生駒山周辺には、天磐船(あまのいわふね)の伝説が残る河南町や交野市の磐船(いわふね)神社、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社など、物部氏ゆかりの神社が数多く、それ以上に谷川健一氏が注目するのは、この河内平野一体から多数の銅鐸が出土し、石切劔箭神社に近い鬼虎川(キトラ)遺跡から、弥生中期のものと見られる銅鐸製作の跡が見つかっている点です。

神武東征

さて、手がかりになるのが、神武東征で軍勢が日向から大阪湾の白肩之津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった)に上陸して生駒山の西側にある孔舎衛坂(くさえさか)[*1]の戦いで、ニギハヤヒに使えた土地の豪族である長髄彦(ナガスネヒコ)に負かされたという。孔舎衛坂は河内国草香邑(クサカムラ・大阪府東大阪市日下町))の地だろうとされています。この場所は、ニギハヤヒが神武東征に先立ち、河内国の河上の地に天降りた場所です。

二つの日ノ本

ニギハヤヒ亡き後、末娘・伊須氣余理姫命は、日向から従兄弟の狭野(伊波礼昆古)命を婿養子に迎え、大和国王を継いだ。初代・神武天皇でスサノオ尊の孫にあたります。

また、ニギハヤヒが子のウマシマジノミコトを有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれています。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもあります。

「日下」「ヒノシタ」と書いてなぜ「クサカ」と読むのか?

それは、枕詞の転化であるとしています。
たとえば、明日香の枕詞は飛鳥であり、「トブトリ ノ アスカ」と呼び慣わしていたのが、時代が下るに従って、枕詞の飛鳥だけでアスカと読むようになったのと同様に、
草香(クサカ)の枕詞は日下(ヒノモト)であり、元々「ヒノモト ノ クサカ」と呼んでいたものが、日下だけでクサカと呼ぶようになったということです。日下部(クサカベ)氏もそうです。

しだいに日下が日本(ひのもと)という字が当てられ、倭(ヤマト)国から日本という国名に変わったというのです。
『記紀』の天孫降臨コースは、アマテラスオオミカミという一番えらい神様が、(自分の孫の)ニニギノミコトという神様に、
「この稲の穂と、神の三つの宝の鏡・曲玉・剣をもって地上に降りていきなさい。そして、日本の国(葦原中国)がもっといい国になるように頑張ってきなさい。」
といい、それでニニギノミコトは神様の国を離れて、日向の高千穂という場所に降り立つのですが、『先代旧事本紀』の降臨コースは全然違っています。
ところが物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によると同じような内容が記されています。

谷川健一氏によると、
「新唐書」にかかれている「日本(ヒノモト)」とは、まさにこの物部氏の王国であり、4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト政権」によって征服された過程こそが、神話にある神武東征だったのではないか」と推理しています。

「日本書紀」に書かれている「神武東征(じんむとうせい)」の物語に登場する東の美地とは、ニギハヤヒが建てて消えた銅鐸文化の国、すなわち物部氏の「日本(ひのもと)」に他ならない。
としています。

4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト王権」である神武が再び日本を襲い、物部氏の小国「日本」を征服した際に、王国のシンボルであったおびただしい銅鐸は、土中に隠され、あるいは破壊された、というのが氏の結論です(石野博信館長は時代的に50年のタイムラグがあることを指摘)。

その後、物部氏の主流はヤマトに屈服してヤマト王朝に重用されますが、なかには長髄彦ら蝦夷(エニシ)と呼ばれる同盟異族とともに、北へ東へ奔った者もいました。それについては何故か正史「日本書紀」には残されていません。ヤマト朝廷の誕生は、敗者を再び日の当たる場所=日本(ヒノモト)に登場させることはありませんでした。

饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本」の本当の名付け親であるといえるのではないか?
という想像が浮かび上がるのです。

[*1]草香江 当時の大阪湾は、旧淀川からずいぶん上流までが大きな入江でした。河内湾は河内湖、河内潟へと変化し、すなわち草香江(くさかえ)呼ばれていた。草香江は淀川・大和川の2つの大河川が流入してくる反面、排水口は上町台地北方の1箇所のみであり、しばしば洪水を起こしていた。4世紀後期もしくは5世紀初期のオオササギ王(仁徳天皇)は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、草香江の水害を解消するため難波の堀江という排水路を築いて現在の大阪平野の姿ができた。その後、河内湖の干拓・開発が急速に進んでいき、湖から湿地へと変わったが、完全に陸域化したのは、豊臣秀吉が大坂城築城の際に、淀川を大改修し、江戸時代の大和川付け替え工事以降のことである。

[*2]…古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。
[*3]…『日本書紀で』は饒速日命、『古事記』では邇藝速日命
2009/08/28

【もう一つの日本】物部氏2/4 もう一つの東征 

『古事記』の神武東征

天皇家の初代カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向(ヒムカ)を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で「どこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうか」と相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

神武が九州から東征してヤマトに入った時、浪速国の白肩津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、生駒山麓の孔舎衛坂(くさかえのさか)で長髄彦(ながすねびこ、以下ナガスネビコ)の抵抗に遭います。
ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。

カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で八咫烏(やたがらす)が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。 その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。 このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。

『日本書紀』の神武東征

『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。

ナガスネビコは、天磐船(あまのいわふね)に乗ってヤマトに降った櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、以下ニギハヤヒ)に仕え、しかも妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)はニギハヤヒと結ばれ、可美真手命(うましまでのみこと、以下ウマシマデ)を生んでいます。

そこでナガスネビコは、神武に「天神の子はニギハヤヒ一人だと思っていたのに、そう何人もいるのだろうか」と疑問を呈すと、ニギハヤヒが天神の子である証拠として、天の羽羽矢(蛇の呪力をもった矢)と、歩靱(カチユキ・徒歩で弓を射る時に使うヤナグイか)を持ち出してナガスネビコに見せます。
神武はその証拠を天神の子とのものであると認めるのと、ナガスネビコは、恐れ畏まったのですが、改心することはありませんでした。そのため、間を取り持つことが無理だと知ったニギハヤヒはナガスネビコを殺して神武に帰順します。

「記紀」は、九州にいた天皇が大和を制圧するという点で、後の神功皇后・応神天皇母子との類似性が指摘される事がある。高句麗の建国神話も似ています。

もう一つの東征

一般には、物部氏(もののべうじ)の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきました。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきたのです。
しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのです。

2世紀後半の北九州で起きた「倭国大乱」の頃には、すでに河内・大和を中心とした地域に勢力が確立していきました。生駒山周辺には、天磐船(あまのいわふね)の伝説が残る河南町や交野市の磐船(いわふね)神社、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社など、物部氏ゆかりの神社が数多く、それ以上に谷川健一氏が注目するのは、この河内平野一体から多数の銅鐸が出土し、石切劔箭神社に近い鬼虎川(キトラ)遺跡から、弥生中期のものと見られる銅鐸製作の跡が見つかっている点です。

さて、手がかりになるのが、神武東征で軍勢が日向から大阪湾の白肩之津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった)に上陸して生駒山の西側にある孔舎衛坂(くさえさか)[*1]の戦いで、ニギハヤヒ(饒速日命)に使えた土地の豪族である長髄彦(ナガスネヒコ)に負かされたという。孔舎衛坂は河内国草香邑(大阪府東大阪市日下町))の地だろうとされています。この場所は、ニギハヤヒが神武東征に先立ち、河内国の河上の地に天降りた場所です。

谷川健一氏は、
饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本(ひのもと)」の本当の名付け親であるといえるのではないか?
と見ています。

関裕二氏は、考古学の進展によって明らかにされた三世紀のヤマト建国の様子と、『日本書紀』に記された「ヤマト建国」の記事は、恐ろしいほど見事に重なってくるのである。

今日、ヤマト建国は三世紀半ばから後半の段階であったと考えられている。それは、古代ヤマトの中心・三輪山山麓に、三世紀の巨大な政治と宗教の都市・纏向(まきむく)遺跡が発見され、ほぼ同時に、ヤマトに前方後円墳が出現していたからである。

日本全国を見渡しても、同時代の纏向をしのぐ遺跡はない。しかも、纏向周辺で誕生した前方後円墳が、四世紀にかけて西日本はおろか、東北南部まで広がっていったところに大きな意味が隠されている。これが、考古学の明らかにしたヤマト建国の歴史なのだが、これに対し、『日本書紀』にはいくつもの符合が見出される。

『日本書紀』は、初代神武天皇を指して、ハツクニシラス天皇(スメラミコト)と称賛している。これは「はじめて国を治めた天皇」を意味しているのだが、不可解なことに、第十代崇神天皇にも、同様の称号を与えている。ひとつの王家に二人の初代王がいたことになり、話は矛盾する。

一般に、神武東征は、実際の歴史ではなく、ヤマト建国を神話かしたものにほかならないとされている。そして第九代までの天皇をひとくくりにし、「欠史八代」と呼んでいるのは、ヤマトの本当の初代天皇は崇神で、それ以前は歴史ではない、という考えからである。

ところが、神武東征説話には、神話として捨て置くことのできない信憑性が垣間見える。そして、神武天皇と崇神天皇という二人の「ハツクニシラス天皇」を重ねると、考古学の明かしたヤマト建国とそっくりになることに気づかされるはずである。

『日本書紀』は、神武がヤマトに君臨するはるか以前、出雲神・大物主神は、大和に住みたいといいだし、遷し祀られたといい、またヤマトを造成した神だという。また、その後、神武天皇がまだ九州にいたころ、ヤマトの地にはすでにいずこからともなくニギハヤヒなる人物が舞い降りて、土着の首長ナガスネヒコの恭順を得て、この地域を統治していたとする。神武天皇はこの話を聞き、「ヤマトこそ都にふさわしい」と確信し、東征を決意する。このニギハヤヒがヤマト最大の名門豪族物部氏の遠祖であると書かれている。

神武天皇は長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗にてこずるも、ニギハヤヒの子のウマシマシの王権禅譲によって、ヤマトの王位を獲得するに至るのである。

と書いている。とすればニギハヤヒこそヤマト建国の祖であり、崇神天皇以前の歴史を出雲神話と神武天皇に置き換えた可能性が高いともいえるのである。

物部氏(もののべうじ)

物部氏は、河内国の哮峰(タケルガミネ・現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒ・ウマシマジを祖先と伝えられる氏族とされます。邪馬台国が九州か大和、どちらにあっても、その主催者と言われる程、日本の古代を席巻していた氏族とされいます。

物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられます。また、物部連となった氏族は時代によって幾度も交代しながら続いているからです。さらに無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがないのです。石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東北地方などに物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録があります。各地に多数祀られているスサノオ・ニギハヤヒ・饒速日尊の一族の物部氏、石上氏、尾張氏、海部氏等代々神官を務める式内社は国の一宮、総社、物部系神社や磐船神社は、各地にたくさんあります。

『古事記』では、ウマシマジノミコト(可美真手命)は、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。ナガスネヒコの妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)・トミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・可美真手命)をもうけました。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としています。

『日本書紀』にはこの人物について多くを語りませんが、物部系の文書『先代旧事本紀』によれば、神武天皇が即位した直後、ウマシマジノミコトは、大切な祀り事(神事)である朝廷の儀礼など、諸事を定めたといい、ヤマトの基礎を築いた人物として描かれています。

長髄彦(ながすねひこ)

ナガスネヒコは、『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族で東征に抵抗した豪族の長として登場します。。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。

不思議に思えるのは、『日本書紀』では、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)あるいはミカシキヤヒメ(三炊屋媛)、を妻とし、仕えるようになる。トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・物部氏の祖)をもうけました。宇摩志麻遅尊は、物部の兵を率いて、天之香山尊と共に、尾張・美濃・越を平定し、天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、更に播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県大田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

その後、八十梟帥(ヤソタケル:『古事記』では八十建と表記)や兄、磯城(シギ)を討った皇軍と再び戦うことになります。このとき、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼がくらみ、戦うことができなくなりました。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。私の妹の三炊屋媛(ミトヤヒメ)を娶(めあ)わせて、可美真手(ウマシマデ)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べました。

通説は、物部氏を五世紀に勃興した一族と見なします。しかしそれでは、このようなヤマト建国の立て役者である物部氏の活躍を、ほとんど無視してしまいます。しかしそれなら、なぜ『日本書紀』は、「物部氏の祖は神武天皇よりも先にヤマトに君臨していた」という話をわざわざ掲げたのでしょう。それは、「祟る神」として、本当のことを隠したら祟られるであろうと信じていたからではないでしょうか。

たとえば、天皇家の儀礼や宗教観には、物部の強い影響が残されているという指摘があります。
スサノオノミコトの遺命を受けた御子・大歳尊(以下、オオトシ)は、父の死後、北九州の筑紫から讃岐・播磨を経て河内から大和に東遷し、三輪山麓に戦闘なく日ノ本王朝・大和国を建国、饒速日(以下、ニギハヤヒ)と改名しました。大歳尊は、東海・関東から東北の飽田(秋田)辺りまで遠征、日本(ひのもと)国を拡大し、大和に帰還して没しました。とくに播磨から摂津にかけて大歳神社がたくさん建てられ、三輪山はニギハヤヒの御陵で、死して天照御魂神として各地の天照神社に祀られました。
ニギハヤヒの死後、末娘・御歳(伊須気依)姫は日向から婿養子として磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)を迎え、磐余彦尊は初代・神武天皇として即位しました。

神武のヤマト入りを助けたことも謎めきますが、その後のウマシマジノミコトの動きも、また不可解なのです。

島根の物部神社

島根県大田市にはそのものずばりの物部神社があって、ここにはおおよそ次のような伝承が残されています。

「神武天皇のヤマト建国を助けた後、ウマシマジノミコトは尾張氏の祖の天香具山命と共に、尾張、美濃、越国を平定した。ウマシマジノミコトはさらに西に向かい、播磨、丹波を経て石見に入ると、鶴に乗って舞い降り、この地に留まった」といいます。

なぜ、石見なのかというと、近くの三瓶(さんべ)山が、ニゴハヤヒノミコトの出身地だったからといい、また、出雲を監視するためだという。物部神社のある大田市は、元々出雲国と石見国の境目に位置します。

よくわからないのは、ヤマト建国の功労者であるはずのウマシマジノミコトが、なぜ政権の中枢に留まらず、石見に向かったのか、ということです。

神武と同一人物とされる崇神天皇と垂仁天皇の時代、ヤマト朝廷がさかんに出雲いじめをしていたと 『日本書紀』が記録していることです。考古学的にも、ヤマト建国の直後、吉備や丹後・但馬・因幡などには前方後円墳がつくられているのに、出雲には巨大な前方後円墳が見当たらず、出雲が実際に衰弱していることが確かめられています。そして、出雲いじめの主役が、物部系の人物だったと記されているのだから、ウマシマジノミコトの石見入りも、信憑性を帯びてきます。

問題は、なぜヤマト建国の功労者が、出雲いじめに走ったのかということで、神話の出雲の国譲りも、単なる神話と無視できなくなってくるのです。

物部氏は、兵器や銅剣・銅鉾・銅鐸などの神具の製造・管理を主に管掌していましたが、しだいに大伴氏(おおともうじ)とならぶ有力軍事氏族へと成長していきました。連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣(あそみ・あそん)姓を賜ります。五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになりました。

しかし果たして物部氏は単一氏族だったのでしょうか。祭祀に従事する氏族のことを概ね物部氏と呼ばれたのではなかろうかと思わせる程、この氏族は歴史の中心に立ち現れるのです。物部には八十氏とされる諸集団がおり、戦闘、兵器生産、軍神祭祀に従事し、物部連という組織によって統率されていたのではないでしょうか。

継体天皇の時代に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのも物部氏でした。また、後述の蘇我馬子(ソガノウマコ)と物部守屋(モノノベノモリヤ)の戦いで大きく登場します。

2009/09/08

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