韓国神社の古名は物部神社

人皇15代神功皇后二年5月21日、気多の大県主・物部連大売布命が亡くなった。その子・物部多遅麻連公武が多遅麻国造となった。


式内 氣比神社(豊岡市気比)

豊岡市気比。『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、同じ気比の松原で知られる福井県敦賀市にある気比神宮「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。なお、「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えるが、西郷信綱は、この「魚(な)」と「名(な)」を交換したという説話全体が、「けひ(këfi)」という語の発生を、交換を意味する「かへ(kafë)」という語に求める1つの起源説話であろうとする。
『ウィキペディア(Wikipedia)』

気比銅鐸

(写真 東京国立博物館)

福井県敦賀市の越前國一宮気比神宮と美しい気比の松原。豊岡市気比にも同じ気比神社(五十狹沙別命・豊岡市気比)と海水浴場で知られる気比ノ浜があってよく似ている。気比の南から、1912年(大正元年)、但馬では唯一の完形の銅鐸4個が発見された。

1996年(平成8年)、加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町岩倉)で日本最多の39口ものおびただしい銅鐸が見つかった。出土品の一部(外縁付1式銅鐸)には近畿地方で製作されたと推定されるものもあり、気比銅鐸と同じ鋳型で作ったと思われる兄弟銅鐸が含まれていたのである。出土した銅鐸にはその他にも同笵関係(同じ鋳型で製作された銅鐸)も各地で確認されていることから、各朝廷と出雲、あるいは朝廷と但馬とのつながりが濃いもので、出土地との関連を含めた今後の研究が待たれる。

この地域はかつては田結(たい)荘という村で、田結は気比から北の円山川河口にある日本海の漁村。話が逸れるので触れないが、山名四天王の一人田結庄氏の出生地でもある。舞鶴にも宮津にも田井という地名があり、いずれも同じように日本海に面した漁村で、渡来人が上陸した雰囲気がある。

気比から南に気比川に沿って丹後久美浜へ抜ける三原峠に向かう県道11号をさらに南に行くと畑上という集落がある。この区の氏神様は物部韓國連神津主命を祭神とする重浪神社が、また飯谷峠という峠を越えた反対側に円山川に近い飯谷(はんだに)という集落がある。この区には物部韓国連真鳥、物部韓国連渚鳥を祭神とする物部韓国神社がある。「震旦国明神」と呼ばれていたという。

韓国神社は韓国人にゆかりがあるのではない

飯谷(ハンダニ)という地名と韓国神社から、朝鮮からの渡来人ゆかりがあるのではないかと想像する人もいるのではないかと思う。私もその一人だったからである。

実はその逆で、社伝によると、武烈天皇の命を受けて韓國からくに(朝鮮)へ派遣された物部眞鳥(まとり)が但馬の水戸(楽々浦)に着き、都へ報告に上った。その功績によって、韓國連を賜わり、以後、物部韓國連眞鳥と称した。

眞鳥の子・渚鳥(すとり)は欽明天皇の頃、城崎郡司(郡の最高者)となり飯谷付近を開墾した。
渚鳥は、名を墾麿(はりまろ)と改め、地名を墾谷(はりだに)とし、墾谷が針谷となり訛って現在の飯谷となったという。

墾麿(渚鳥)は、墾谷の丘に父・眞鳥を祀り、韓國神社と称したという。

まったく同じ記述が、『国司文書 但馬故事記』第四巻・城崎郡故事記にある。

第29代欽明天皇の25年(564) オオメフ(物部連大売布命)の末裔、物部韓国連榛麿を城崎郡司とする。
物部韓国連は、武烈天皇の勅を奉じて韓国に遣わされ、天皇にご報告申し上げた日、姓、物部韓国連をいただく。榛麿はその子なり。
韓国連榛麿は針谷を開き、住処と為す。故に榛谷と云う。物部神社という。

第33代推古天皇の35年(627)冬12月 物部韓国連榛麿の子、神津主を城崎郡司と為す。神津主は物部韓国連榛麿を榛谷丘に葬る。

第39代天武天皇白凰3年(674)夏6月 物部韓国連神津主の子、久々比命を城崎郡司と為す。久々比命は神津主命を敷浪丘に葬る。(式内重浪神社:豊岡市畑上)

しかし低い峠を越えると畑上集落があることから、秦谷(はただに)が訛ったのではないかという推察もしたが、針谷、榛谷、墾谷が気多・城崎県主オオメフ(大売布命)の末裔、物部韓国連榛麿が開墾したので物部韓国神社である。

さて、平成の合併前には、氣比神社のある港地区は豊岡市で、重浪神社のある飯谷は旧城崎町であったが、『但馬郷名記抄』に、余部郷 墾谷・機紙(今の畑上)・御原(今の三原)とあるので、田結郷である北の気比、南の赤石以南とは異なる郷だった。余部郷とは50に満たない集落をいう。江戸時代までは、豊岡市市街地北部の円山川と両岸一帯、江野からの大浜川流域、田鶴野小学校区から城崎温泉・津居山・気比までは、同じ城崎郡田結(たい)郷だった。

震旦とは

韓国神社の石碑に「震旦国明神」とある。「震旦国明神」の震旦国とはどこなのだろう。

震旦国とは支那の当て字である。インドから仏教が隋に伝来した当時、経典の中にある梵語「チーナ・スターナ”China staana”」を当時の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによって彼の地に伝来した。この時の当て字として、「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。そのため、「支那」はこの地域の当時の公用語からすれば外来語であり、当初は外国人からの呼称であったと言える。付近のケゴヤ古墳から金箔が検出された。渡来人にかかわる古墳であろうといわれている。韓国とは当時「からのくに」のことで外国である中国大陸の一部を意味する。今の韓国(Korea)のようなものではない。あるいは朝鮮半島まで秦国の一部としてそこに渡った。

「記紀」が編纂されたのは、そうした天日槍の伝承以降の奈良時代(712年・720年)のことだ。少なくとも古墳時代が3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までとされるから、天日槍や崇神・応神天皇などの記載については400年から100年前の伝承の記憶である。倭人が半島から北部九州にかけて文化圏を築いていた馬韓・弁韓・辰韓・対馬・壱岐・北部九州は、すでにない。弥生時代には国家もないし、南西部の百済の元となる馬韓は朝鮮民族の濃い所だそうだがそれ以外の、弁韓(伽耶)・辰韓(新羅)は朝鮮民族が多くは暮らしていない土地だったと思われる。馬韓に渡った秦から逃れた人びと(中国人)を東へ住めといって追い出している記述がある。中国から移住した人びとの村を、韓国人だと言う意味もない。伽耶が鉄資源に恵まれていることを知ったのはそうした秦・漢人だ。だから最初に日本に渡来したのは朝鮮半島だとする意味はないと思う。そこにあったのは、秦・漢の文化だからだ。

日本でも邪馬台国が、そういう意味で倭人のクニの連合体であり、天日槍は新羅国の王子ではないばかりか倭人であり、今の韓国人ではないことは確かだ。また、天日槍は個人ではなく、新羅から倭国へ里帰りしたテクノクラート(技術集団)である。

日本は最初に朝鮮半島から文化の影響を受けたというよりも、秦(中国)から逃れた人びとが日本列島や半島南部に渡来・漂流して倭人圏をつくったと思う方が理解できる。それは元々朝鮮人ではないのだ。徐福伝承が佐賀や丹後などに残って浦島太郎伝説になったように、兵主は秦の信仰であるように、天日槍は元々江南から朝鮮半島南部に移住した中国人の子孫である。そして同じ北部九州などの倭人であろう。

要するに、「韓国神社」という社号から、韓国朝鮮にゆかりがある神社で、渡来人の神社だと思われがちだが、韓の国へ使いとして功績のあった物部連眞鳥が韓国連という姓を賜ったかれであって、むしろ倭(日本)から韓国に使者である。逆である。

物部氏の謎2.鬼と童子の関係とは?

天皇で“神”の名がついた天皇と皇后が4人存在する。神武・神功・崇神・応神。そのことはすでに触れたので割愛するが、いずれも平安期に記紀の内容から名付けられた名前であり、当時には深い意味はないと思う。
消された王権・物部氏の謎: オニの系譜から解く古代史 著者: 関裕二

鬼(天皇)が神(出雲)を征伐し、神(天皇)が鬼(出雲)を祀る。まったく矛盾するかに見えるこのような現象が顕著なかたちで表されるているのが、昔話に現れる“鬼退治”説話である。
英雄による鬼退治、これが昔話の主題と思われがちだが、裏側には、鬼による鬼退治という秘密が隠されていたのである。

たとえば、桃太郎、一寸法師、酒呑童子(しゅてんどうじ)といった有名な説話のなかで、鬼を退治する英雄か、あるいはその家来のなかに、必ず童子(子ども、または子どもの身なりをした人)が含まれていることに気づかされるはずだ。
一寸法師は身丈が一寸(約3.3cm)の子ども、桃太郎は巨大な桃から生まれた小さな子、酒呑童子は討たれる側の鬼だが、征伐軍のなかにはまさかりをかついだ金太郎が入っていた。
是等の話がおとぎ話であるため、子どもに面白おかしく聞かせるために主人公たちを子どもにしたと考えるのは間違いで、じつは“童子”といえば、鬼そのものをさす場合が少なくないのである。
(中略)

出雲神には、荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)という両面性があって、前者が天皇家に祟りをもたらす神であるのに対し、後者は天皇家を守る神とされている。
この神の両面性は、神と鬼の両面性でもあるが、人間にもこの両面性があって、童子が若く生命力の溢れた荒魂であるのに対し、翁(おきな)は穏やかな和魂と考えられていた。
たとえば、ヤマトタケルはクマソ退治、東国征伐と縦横無尽の働きをするが、そのきっかけは父・景行天皇にとって手に負えぬ乱暴者であったために、宮中から外に出されたといういきさつがあった。ヤマトタケルも童子で鬼だったのである。『古事記』には、クマソを討つに際して女装してだまし討ちをしたことはよく知られてるが、童女となったとあるのは、ヤマトタケルがクマソという鬼を退治するために鬼と化したことを証明している。

■天皇と鬼

鬼退治の英雄が鬼であったことがわかり、また、この鬼を差し向けた天皇も、やはり鬼であったことになる。つまり、権力側にいようと、またその逆の立場にいようと、一般の人々から見て人を越える力を発揮するものは鬼と見なされたということなのだ。

大和岩雄氏は、『鬼と天皇』(白水社)のなかで、天皇と鬼の関係について三つの例を引いて述べている。
一、天皇に対する存在、『まつろわぬもの』としての蝦夷(えみし)や酒呑童子のような鬼
二、鬼を討つ側の天皇権力としての鬼
三、天皇権力の側にいたものが権力から追放されてなる鬼

一は権力に対立する鬼で、周辺、辺境の存在である。二は権力としての見える鬼である。この権力から追放され、周辺、辺境の存在になった者が、死後、見えない鬼(怨霊)となって二の鬼に祟るのが、三の鬼である。
このように天皇と鬼は、一見、対立関係にあるようにみえるが、一つの実体の表と裏の関係にある」
じつは大和氏が指摘するように、鬼と天皇が表裏一体の関係にあったことこそ、天皇家が今日に続いた最大の理由であったのではないかとするのが、近年いわれている説である。
(中略)
権力者がいかに天皇家を煙たく思っても、この神の一族の背後には、“無縁”の人々というとらえどころのない鬼、闇の世界が控えていたのである。したがって、天皇を倒すにはまず裏社会を壊滅させる必要があり、となれば、目に見えぬ敵を相手に戦をするような事態に陥り、収拾のつかない羽目に陥るのは必定であった(ちなみに、この闇の社会をつぶしにかかった人物は、歴史上、織田信長一人と考えられる)。
逆に被支配者“無縁”の人々から見れば、みずからの自由な活動が、“天皇”という権威を根拠にしているのだから、彼らにとって“天皇”は、かけがえのない存在なのであった。

したがって、彼らがすすんで天皇をつぶそうなどと考えるはずがなく、日本に市民革命という一神教的で独裁的な“正義”がなかったのは、あるいはこのような経緯が背景にあったからかも知れない。
いわば、“天皇”というシステムは、鏡に映した三権であり、また支配のベクトル(方向性)が天皇から始まり、一巡して天皇に戻ってくるという循環する王権システムでもあったといえよう。
つまり、日本の不思議さが“天皇”という現象に凝縮されているのは、日本の支配者がいったい誰であったのか、探れば探るほどわからなくなってくるためであった。それは天皇なのか、時の権力者なのか、あるいは無縁の人々、鬼であったのか-。

そして、このような図式はいったい、いつごろからはじまったのであろうか。
その答えの鍵を握る者こそ、八世紀に鬼のレッテルを貼られた“モノ”の一族物部氏なのだが、

【出雲神政国家連合】 物部氏の謎1.幻の神政国家“出雲”

物部氏の謎

神武東征の謎: 「出雲神話」の裏に隠された真相 著者: 関裕二

幻の神政国家“出雲”三百九十九社の三つの時期
399社のうちの184社が、神祇官の神社台帳に登録された政府公認の神社であったことを意味する。そのような政府公認の神社は、「式内社」とよばれる。それは、延長五(927)年に完成された『延喜式』の中の、神祇官に関する規定に盛り込まれた「神名帳(じんみょうちょう)」に登録されたことに基づく名称である。

出雲国の式内社の数は、大和国の286座、伊勢国の253座についで多い。しかし、大和朝廷の本拠である大和や伊勢神宮のある伊勢では、大部分の神社が官社とされていた。

そのことからみて、官社以外のものを含めた神社の数では、出雲国が日本一であったと考えられる。さらに、出雲では『出雲国風土記』にみえない山川海野の神々が祀られていた。天武ニ(673)年に語猪麿の娘がサメに殺された話がある。このとき猪麿は、

「天神(あまつかみ)千五百万はしら、地祀(くにつかみ)千五百万はしら、ならびに当国に鎮まります三百九十九社、また海若(わたつみ)たち」

に娘の仇を討ってくれるように祈ったとある。前に掲げた出雲の399社の神社のほかに、海に関する出来事について、人々を守る多くの海の神ワタツミがいるとされたのだ。

399社という神社の数は重要である。それは荒神谷で発見された銅剣の数358と同じ意味をもつもので、ある時期の出雲の首長の総数を示すものだ。それらの神社の数は多彩である。出雲神話に出てくる神、そうでない土着的神々、大和朝廷がつくった高天原神話に登場する神などがいる。さらに、渡来系の韓神(からかみ)もみられる。
そして、そのような神々のあり方を整理すると、それらが三つの段階を経て展開していることが明らかになる。

鶴丸英雄氏は、
1.国津神の大物主命
2.天津神のオオナムチ(大己貴)
3.天津神の少彦名(天皇家)

1番目の大物主
増す名前から原始宗教の「物には神が宿る」思想に基づき、「物」の前後に「大」と「主」をつけていることから、明らかに国津神を想像します。そして天津神の崇神天皇に祟ったことからも、明らかに国津神です。では大物主の正体は誰でしょうか。単純に考えれば、この地で不幸な死に方をした人になり、それは神話からいえばニギハヤヒに殺されたナガスネビコになります。

2番目のオオナムチ(大己貴)
この神はオオクニヌシ(大国主)と同一神といわれています。
『消された王権・物部氏の謎: オニの系譜から解く古代史』 著者: 関裕二
大和最大の聖地・三輪山の大神神社の祭神は大物主神である。大和朝廷の最大の聖地が出雲神なのだ。
出雲神が鬼であったことは、いくつかの例から割り出すことができる。
たとえば、出雲を代表する神の一人、大物主神は葦原醜男(あしはらしこお)ともよばれ、この二つの名の中に、“鬼”を示す言葉が隠されている。

鬼が“オニ”と訓じられるようになったのは平安朝以降で、それまでは鬼は“モノ”“シコ”“カミ”と訓じられていた。したがって、大物主神の“モノ”、葦原醜男の醜“シコ”は、鬼そのものであった可能性が高いのである。西郷信綱氏はこの「しこを」について、彼を鬼類・魔性のものと見なしていたためで、たんに醜い男ということではない。(『古事記注釈』)と述べている。
大和最大の聖地・三輪山の神は、蛇とも雷ともいわれ、大物主神と同体とされるが、雷といえば虎のパンツをはいて太鼓を打ち鳴らす典型的な鬼の姿を思い浮かべるように、古代、雷は祟りをもたらす鬼として恐れられていた。

したがって、三輪の雷神・大国主神は、鬼であったことになる。
さらに、『日本書紀』も、出雲神が鬼であったことを認めている。
出雲神話は、高天原から追放されたスサノオが国津神と同化し出雲を建国した話や、この出雲を天照大神ら天津神が譲り渡しを強要した話から成り立っているが、ここで『日本書紀』は、天津神の言葉として、地上界には“邪(あ)しき神”がいて、この神々は同時に“邪しき鬼”であったとしている。

このとき地上にいた神は出雲神であり、彼らが鬼と見なされていたことは間違いない。鬼はまつろわず(祭らず)征服される者。だから天津神に征服された出雲神が鬼であったことは、まったく矛盾しない。問題は、その後の天皇家の生き様である。

悪の代名詞“鬼”を懲らしめたあとに、なぜ天皇家は過剰ともいえるほどの畏敬の念を、この鬼どもに持つ続けたのであろうか。しかも、この鬼を建国の記念に祀っているのは何故だろう。
一つの推理として、出雲の怨霊を恐れ、これを祀ったのではないかと考えることができる。
“出雲”は実在しないと一般にいわれるが、たとえそうであっても、天皇家が大和に王朝を開くに当たっては、少なからず手を汚し、まつろわぬ者どもを退治したはずだ。

権力を握った者が、その過程で滅びた者たちの遺恨を恐れ、これを祀るのは世の常であろう。とするならば、天皇家の出雲重視は、滅び去った者の名を正史にとどめることができず、“出雲”という架空の存在に見立てて祀ったと推理することも可能なのである。

大和岩雄氏は、「大国主神の名前の変化に注目している。大国主は記・紀では大穴牟遅(おほなむぢ)神とも名乗るが、「根の国」(中略)に行ったとたん、この大穴牟遅の名は葦原色許男に変わっている。根の国には黄泉の国のイメージがあり、(中略)この国から逃げて黄泉比良坂(よもつひらさか)を抜け出ると、大国主に名を変えている。

大国主神は、黄泉国にいるときにのみ「しこを」を名乗っており、「しこめ」は「黄泉(よも)」がつくように、黄泉国にいる「しこめ」である。いずれも「しこ」は死の国にかかわっている。
「しこ」の漢字表記に「鬼」を用いたのは「しこ」が死の国とかかわる言葉だったからであろう。」と推論している。

祟りにおののく神・天皇家

“怨霊”という言葉を不用意に出せば、そのような概念は『日本書紀』の記されたこの当時、まだ日本には伝わっていなかったという反論が出てくるであろう。

しかし、“出雲”が天皇家に祟ったことは、『日本書紀』そのものが認めていることであった。
崇神天皇六年の条には、国内に疫病がはやり多くの人々が死んだこと、農民らが土地を離れ、背く者まで現れ、困り果てた天皇は、翌七年、占いによって神託を得ようとしたことが記され、さらにこのとき大物主神が現れ、自分を祀ることを崇神天皇に命令したとある。

天皇はさっそくこの神を祀るが、験(しるし)がない。そこでもう一度大物主神にお伺いを立てると、国が治まらないのは大物主神の意志であること、もし子の大田田根子なる人物をもって祀らせれば、おのずから世は平らぐ、ということなので、天下に告げて大田田根子を探し出させ大物主神を祀らせたところ、神託通り世は平静を取り戻したという。

ここでは出雲神・大物主神が明らかに祟っており、また『古事記』は、崇神天皇の子・垂仁天皇の時代の別の話の中で、「その祟りは出雲の大神の御心なりき」と、出雲神が祟り神であることを明示している。
天皇家の異常ともいえる出雲偏重は、“出雲神の祟り”のおびえていたからであることは間違いないだろう。天皇家は“鬼”の出雲を退治し征服したのち、逆に“鬼”の毒気、祟りを恐れるあまり、皇祖神そっちのけで、鬼の怒りを鎮めることに躍起になったのであった。

神と鬼を結ぶ“モノ”の意味

神の末裔であり、神そのものでもある天皇が、神ではなく鬼を最も重視し、祀っていた不可解さ。しかも、天皇という王権には、さらに不思議な謎が横たわる。
神と鬼という正反対の存在が、なぜ同一なのか。そしてなぜ、神が鬼を祀らねばならなかったのか。
じつはこの奇妙な現象のなかに、天皇家の不可侵性をめぐる謎が隠されていたといっても過言ではない。そして、この現象を理解するためには、“鬼”とはそもそも何であったかを知っておく必要がある。
そこで注目されるのが、鬼の本来の呼び名“モノ”なのである。
“モノ”は“物”であるが、なぜ“物(物質)”が“鬼”なのかは、現代的な感覚では非常に分かりづらい。ただ“モノノケ(物怪)”といえば妖怪、霊などを意味するところから、“モノ”は物質であると同時に、“非物質”的な要素を兼ね備えていたのではないだろうか。

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但馬に集中する兵主神の謎

兵主(ひょうず)とは?

兵主神社(ひょうずじんじゃ)ってご存じですか?

兵主とは、「つわものぬし=武士」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。矛は武力の象徴で、武神としての性格を表しています。

大国主は天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。
大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。

葦原色許男神(あしはらしこのを) も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表します。大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト) 、大物主神(オオモノヌシ)、大國魂大神(オホクニタマ)。

但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社です。田道間守や天日槍関係の神社を数える方が圧倒的に少ないのです。

兵主神社は、関西以西のしかも但馬国に集中しています。しかし、かつては但馬と同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみなのですが、不思議と但馬には式内社7社、式外社7社、計14社と但馬国に集中しているのです。

兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。宇佐八幡や全国的には最多の八幡神社で知られる八幡神も武神ですが、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。

大国主

『古事記』『日本書紀』では八千矛神とは大国主の別名である。須佐之男(スサノオ)の別名が八千矛神(多くの矛を持った神の意)である。葦原色許男神(あしはらしこのを) も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す。矛(ほこ)は武力の象徴で、武神としての性格を表している。これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を統合したためともされている。大国主とは出雲や但馬、越など各国の王の総称であり、個人名ではないと思う。但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社だし、全国的に天皇家よりも物部・大国主系の神社が圧倒している。

大国主は国津神の総称で多くの別名を持っています。

出雲の大国主神でも触れましたが、大国主(オオクニヌシ・オオナムヂ)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神です。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。また、大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。

・大国主神(オオクニヌシノカミ)=大國主 – 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。すなわち意宇(オウ=・旧出雲国東部の地名)の国の主という説もあります。

・大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト) -大国主の若い頃の名前
・大汝命(オオナムチノミコト)-『播磨国風土記』での呼称
・大名持神(オオナムチノミコト)
・八千矛神(ヤチホコノカミ) – 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
・葦原醜男・葦原色許男神(アシハラシコノヲ) – 「シコノヲ」は強い男の意で、武神としての性格を表す
・大物主神(オオモノヌシ)
・大國魂大神(オホクニタマ)
・顕国玉神・宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ)
・国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト)・伊和大神(イワオホカミ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
・所造天下大神(アメノシタツクラシシオホカミ) - 出雲国風土記における尊称

国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰され、また「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透しています。子の事代主がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになりました。

二つある天孫降臨

記紀神話をみると、天孫降臨と東遷という神話を持つ氏族が二つあります。大王家(おおきみけ)と物部氏(もののべうじ)である。大王家の神話では、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に降臨し、それから四代後(その間に1,792,470余年が経過したという)磐余彦(いわれひこ)が大和へ東遷した。「神武紀」に明記されている物部氏の祖先伝承では、「祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと)が河内の河上の哮峯(いかるがのたけ)に降臨し、その後まもなく大和の鳥見の白庭山へ移った。」と記しています。哮は音読みで「コウ(カウ)」、訓読みで「たける、ほえる」。兵主は哮神とも。

式内小田井懸神社(豊岡市小田井町)の祭神国作大己貴命(くにつくりおほなむち)ですが、『播磨国風土記』では、その子が饒速日命(にぎはやひのみこと)とあります。兵主神は、もとは日本の神様ではなく、中国大陸の山東省の神様(鉄の神=蚩尤)だそうだ。秦氏ゆかりの神である。

延喜式神名帳で認められた式内社に現れる古社で、兵主神については色々と説があるそうですが、八千矛神(ヤチホコノカミ)だという説が有力です。延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内神社が18社記載されており、但馬各地に祀られた重要な神であったようです。但馬国は、奈良時代までは丹波国(丹後王国)といわれる北近畿一円のクニで、九州北部・出雲や若狭・越国(越前から越後)同様に太古から日本海を介して朝鮮半島南部との交易があった国です。

兵主神は秦氏によって日本に持ち込まれたともいわれ、山東半島の近くの琅邪(ろうや)に八神が祀られているといいます。八神とは、天主(天の神)、地主(地の神)、兵主(武器の神)、陰主(陰を知る神)、陽主(陽を知る神)、月主(月の神)、日主(太陽の神)、四時主(四季の神)です。

貝塚茂樹氏の『中国神話の起源』に「風を支配してきた蚩尤は、またふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物であった」とあり、兵主は蚩尤(しゆう)という名を持つ。山東半島は朝鮮半島との関係が深く、120県の民を引き連れて応神朝に渡来してきた弓月君(秦氏の祖)の先祖も、山東半島に居住していたのかも知れないです。徐福(じょふく)伝説とも関わりがあるように思えます。伊福部神社(豊岡市出石町)など伊福部という青銅器鋳造をおこなった部民で山陰各所に伊福部にちなむ神社があります。大変多い八幡神社も、八神の秦氏が八幡となったと勝手に想像します。

滋賀県野洲市の兵主大社のように、八千軍(やちぐさ)という呼称からきたと思われる「八千矛神」は、「矛」を介在して、ヒボコ(天日槍)の伝承が近江に残っていることとから関わりがあるように思いますが、八千矛の名称そのものが、オオナモチ(大己貴命)の別称であることは『日本書紀』に記されているので、葦原色許男神(葦原醜男)と称せられた大国主神であろう。天日槍がオオクニヌシと同一神でない限り、ヒボコと兵主神は同一神ではないように思います。但馬国を開拓した伝説は天日槍以外の他の大己貴命を祀る但馬の神社と共通しています。

それはまた、丹後の浦島太郎伝承や佐賀など全国に伝わる徐福の伝説、秦の始皇帝の命で、常世の国(日本列島)に不死の薬を採りにきた徐福の伝説に共通する。

ここで、伽耶=韓神は、もともとそのルーツは秦氏が半島南部の鉄の産地・伽耶に住み着き、また出雲にたたら製鉄を伝えて同化した?スサノオが但馬に稲作をもたらし切り開いた渡来系人と縄文人が融合したのが弥生人だったと思えるのです。

「延喜式神名帳」記載の式内社兵主神社一覧

(壱岐→山陰→兵庫→近江→三河→畿内→大和への移動か?)

大和國城上郡奈良県桜井市穴師1065穴師坐兵主神社兵主神(御食津神)、大兵主神、若御魂神(稲田姫命)
和泉國和泉郡大阪府岸和田市西之内町蛇淵兵主神社八千鉾大神
参河國賀茂郡愛知県豊田市荒井町松嶋兵主神社大物主命、三穗津姫命
近江國野洲郡滋賀県野洲市五条兵主大社八千矛神
伊香郡滋賀県長浜市高月町横山兵主神社素盞嗚尊
丹波國氷上郡兵庫県丹波市春日町黒井兵主神社大己貴大神、少名彦大神、天香山神
但馬國朝來郡兵庫県朝来市山東町柿坪兵主神社大己貴命
養父郡兵庫県朝来市和田山町寺内更杵村大兵主神社素盞嗚尊
兵庫県豊岡市日高町浅倉兵主神社大己貴命
氣多郡兵庫県豊岡市日高町久斗久刀寸兵主神社素盞嗚尊、大己貴命
出石郡兵庫県豊岡市奥野大生部兵主神社大己貴命
兵庫県豊岡市但東町薬王寺大生部兵主神社武速素盞嗚命
城崎郡兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城兵主神社速須佐男神
兵庫県豊岡市赤石兵主神社二座速須佐之男命
因幡國巨濃郡鳥取県岩美郡岩美町河崎佐弥乃兵主神社
鳥取県岩美郡岩美町浦富許野乃兵主神社大國主神、素盞嗚尊
播磨國餝磨郡兵庫県姫路市本町射楯兵主神社二座射楯大神(五十猛尊)
兵主大神(伊和大神、大国主命)
多可郡兵庫県西脇市黒田庄町岡兵主神社大己貴命、八千戈命、葦原醜男、大物主命、清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠命
壹岐嶋壹岐郡長崎県壱岐市芦辺町深江兵主神社素盞嗚尊 大己貴神 事代主神

式外兵主神社一覧 平成祭礼CDから

青森県むつ市大湊上町337 兵主神社「伊弉諾命」
千葉県東葛飾郡沼南町手賀1418 兵主八幡両神社「經津主命、譽田別命」
福井県丹生郡清水町山内 兵主神
滋賀県野洲郡中主町下提 下提神社
京都市伏見区中島鳥羽離宮町 城南宮摂社兵主神社「大國主命」
奈良市春日野町 春日大社摂社若宮社末社兵主社

播磨
兵庫県姫路市辻井4-4-3  行矢射楯兵主神社「射楯大神、兵主大神」
兵庫県姫路市飾磨区阿成 早川神社「兵主神」
兵庫県姫路市夢前町山之内戊549 兵主神社「大國主命」
兵庫県西脇市黒田庄町岡字二ノ門 兵主神社「大穴貴命」
兵庫県佐用郡佐用町奧海 奧海神社摂社兵主神社「大名持命」
兵庫県姫路市安富町三森平谷 安志姫神社「安志姫命」
兵庫県佐用郡佐用町奥海1281 奥海神社の兵主神社「大名持命」

但馬
兵庫県豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」
兵庫県美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
兵庫県美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
兵庫県美方郡浜坂町田井字村中448 兵主神社「?」
兵庫県美方郡浜坂町指杭字御城338 兵主神社「?」
兵庫県美方郡温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊」
兵庫県美方郡浜坂町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」

島根県簸川郡斐川町大字学頭2830 兵主神社「大國玉命」
岡山県岡山市阿津2783 兵主神社「素盞嗚命」
鹿児島県揖宿郡頴娃町別府6827 射楯兵主神社「素盞嗚命、宇氣母知命」
鹿児島県姶良郡姶良町脇元1818 兵主神社「素戔嗚尊」
奈良市春日野町160 春日大社の兵主神社「大己貴命、奇稻田姫命」
香川県大川郡大川町富田中114 富田神社の兵主神社「大己貴命」
福岡県筑後市大字津島1117 村上社の兵主神社「毘沙門天」
福岡県大川市大字北古賀字神前28 天満宮の兵主社「大己貴命」

■但馬国式内社

但馬國朝來郡 朝来市山東町柿坪 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國養父郡 朝来市和田山町寺内 更杵村大兵主神社 素盞嗚尊
但馬國養父郡 豊岡市日高町浅倉 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國氣多郡 豊岡市日高町久斗 久刀寸兵主神社 素盞嗚尊、大己貴命 旧村社
但馬國出石郡 豊岡市奥野 大生部兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國城崎郡 豊岡市山本字鶴ヶ城 兵主神社 速須佐男神 旧村社 天平18年(746)
但馬國城崎郡 豊岡市赤石 兵主神社二座 速須佐之男命 旧村社 年代不詳

■式外社

但馬國美含郡 豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」
但馬國美含郡 美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
但馬國美含郡 美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町田井字村中448 兵主神社「?」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町指杭字御城338 兵主神社「?」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊」
但馬國二方郡 美方郡新温泉町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」

兵主神は秦氏によって日本に持ち込まれたともいわれ、山東半島の近くの琅邪(ろうや)に八神が祀られているといいます。八神とは、天主(天の神)、地主(地の神)、兵主(武器の神)、陰主(陰を知る神)、陽主(陽を知る神)、月主(月の神)、日主(太陽の神)、四時主(四季の神)である。

貝塚茂樹氏の『中国神話の起源』に「風を支配してきた蚩尤は、またふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物であった」とあり、兵主は蚩尤(しゆう)という名を持つ。山東半島は朝鮮半島との関係が深く、120県の民を引き連れて応神朝に渡来してきた弓月君(秦氏の祖)の先祖も、山東半島に居住していたのかも知れないです。徐福(じょふく)伝説とも関わりがあるように思えます。新羅に対する防衛線として、但馬に兵主神を配したという説もあります。天日槍を祀る出石神社を取り囲むようにして重要路に祀られているように見えますが、郡境に土地の守り神として配祀されたのではないでしょうか。

ちなみに同じく武神である八幡神は、日本独自で信仰される神です。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも言います。八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位です。一方、岡田荘司氏らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるといいます。

概 要

但馬国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が存在していて、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社やその子孫の神社が出石郡近辺に集中しており、そのまわりを兵主神社が取り囲むように建っている。全国でも関西以西のしかも但馬国に集中している。

但馬国はかつて同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみで、近江国と但馬国に集中して多いのです。八幡社の式内社は皆無。関西で見ても岩清水八幡宮、近江國高嶋郡の八幡神社(祭神:譽田別命)のみです。

また、神功皇后は天日槍の子孫であるとされているので、ずっとヤマト朝廷が但馬を平定するために出石神社を置いたのではないかと考えてきた。古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされている。ただし、古い記録には養父水谷神社と表示されているから元々ひとつであり、現在の奥米冶にある水谷神社はのちに遷されたのかもしれない。

但馬に圧倒的に多い兵主神社の謎

兵主神は、『史記封禅書』に見られる、「天主・地主・兵主・陽主・陰主・月主・日主・四時主」の一とされている武神。新羅に対する防衛線として、但馬に兵主神を配したという説もあります。

大己貴命を祭神とする神社は、出石神社をはじめとする天日槍ゆかりの神社を除くと、粟鹿、養父、小田井、絹巻の五社を筆頭に他にもたくさんあります。でな何故但馬では好んで兵主と名づけたのでしょう。

■但馬の式内古社で大己貴命を祭神とする主な神社

養父神社:創祀年代は不詳だが、社伝によると崇神天皇三十年(紀元前118年)の鎮座。
祭神:倉稻魂命 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命
和奈美神社 大己貴命 天湯河板挙命 兵庫県養父市八鹿町下網場156
小田井縣神社:創祀年代は不詳だが、第十代崇神天皇の御代(紀元前148年~紀元前29年1月9日)谿羽(丹波)道主命が国作大己貴命及び天火明命を祀った。久刀寸兵主神社と同じ祭神。
などと比較しても久刀寸兵主神社は、古い神社ということになります。
石部神社 大己貴命 兵庫県朝来市山東町滝田字マリ559  創祀年代は不詳
気多神社 大己貴命 但馬國総社 兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
石部神社 天日方奇日方命
大山積神 大己貴神 大物主神 事代主命 健御名方命 高彦根命 瀧津彦命
兵庫県豊岡市出石町下谷62
桑原神社 稻倉魂神 大己貴命 兵庫県豊岡市竹野町森本字苗原463-1

徐福(鉄の神=蚩尤)→半島・伽耶(韓神)→出雲・但馬(大国主)→ヤマト朝廷成立(武神)

ということで、物部氏の大国主(別名:大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命・葦原色許男神など)の治める出雲連合の・小国但馬に、あとから天日槍が現れたのではないかと想像していた。しかし、兵主神社もまた、速須佐男や大己貴命を祀る神社だった。

アメノヒボコが日本に携えてきた神宝にも、「出石の小刀」「出石の鉾(木偏)」「日鏡」と、やはり「金属器」が含まれている。どこから見ても「ホコ」を名に持ち、鉄の産地からやってきたアメノヒボコが「鉄の男」であることは、はっきりしている。

この属性は、ツヌガアラシトのそれでもある。「鉄の神=蚩尤(しゆう」ではないかと疑われるツヌガアラシトが、本来同一だった可能性は、やはりヒボコの将来した神宝の名前からもうかがい知ることができる。

それは「イササ(イザサ)」で、ヒボコがヤマト朝廷に献上した八つの宝物のなかに「胆狭浅太刀」がある。その「イザサ」が、ツヌガアラシトの祀られる角鹿の気比神宮の現在の主祭神の名と重なってくる。それが「イザサワケ(伊奢沙和気命)」にほかならない。

もっとも、門脇禎二氏のように、八世紀の『日本書紀』の編者が「新羅」と「加羅」両者の王子を混同するはずがないという理由から、説話が似ていて共通の要素があるからといって二つの話を同一視することはできないとする説もある。

しかしこれは、伽耶(任那)は鉄の産地で交易商人だったらしいが、伽耶滅亡直前の欽明天皇二年(541)、任那と新羅が謀略をめぐらし、百済がこれを深く責め罵ったという記事が載り、欽明天皇四年には、天皇から出された詔勅、「任那日本府とともに任那を復興せよ」を楯に、百済は任那に対し、任那復興会議への出席を呼びかけるが、任那はこれを三度断り続けたという。

それでも翌年11月、任那復興会議がようやく開かれ、新羅と阿羅(伽耶の小国)の国境に城を築き、任那に兵を集めて新羅を駆逐するための策が練られたが、結局、任那は、この決定を無視するのである。

さらに、欽明天皇九年四月には、高句麗の百済への攻撃に対し、任那と阿羅は結託して救援に向かわなかった。任那日本府は、なぜか天皇家に逆らい、命令を無視し続け、とてもヤマト朝廷の出先機関とは思えないのだ。
また、文書作成のころは、半島南部は562年、伽耶は新羅に滅ぼされ、新羅・百済になっているが、崇神天皇・垂仁天皇の物語の頃はまだ新羅は存在していない。「記紀・風土記」完成は704年から712年ころで、伽耶滅亡は150年近い昔のことだ。伽耶は忘れられたか、または故意に新羅と記した可能性もあるからだ。作者が、朝廷にのヒボコは、伽耶の人であるのに新羅と記しているからであって、同一であろうと信じている。

-出典: 「神奈備へようこそ」
-出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信

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【出雲神政国家連合】 神話に隠された謎

『古代史 秘められた謎と真相』関 裕二氏によると、

神話に隠された謎

「因幡の白ウサギ」「ヤマタノオロチ」はどれもこれも、牧歌的な昔話のようにみえる。
ところが、ここに大きな落とし穴があった。

権力者が歴史書を記す、ということは、実に政治的な行動で、その目的はただ一つ。自らが権力の座を射止めるまでに汚してきた手を洗い流すことにある。そのためには、詭弁、曲解、矮小化、改ざん、捏造と、ありとあらゆる手段を駆使して、政敵を避難し、自らの正義を主張した。
つまり、歴史書とは、権力者の「弁明の書」であり、「正当性(正統性)の証明」の書に他ならなかった。また「神話」は、彼らの「原罪」を振り払うに格好の材料となったわけである。それは神の世界にまでさかのぼり、権力者は正当性の証明にチャレンジしたのだ。
『日本書紀』編纂に政治的圧力を加えた人物は、具体的に特定できる。それが藤原不比等だった。

この人物は、女帝持統に大抜擢され、めきめきと頭角を現した。やがて、誰も逆らえないほどの体制を確立し、また藤原千年の繁栄の基礎を築いたことで知られている。藤原氏がもっと早く没落していれば、本当の歴史は復元されていたかも知れないが、千年はちょっと長すぎた。
伊勢神宮の祭神アマテラス(天照大神)は日本で最も尊い神と信じられているが、ネタばらしをすれば、これは、藤原不比等を重用した女帝持統をそのまま皇祖神に仕立て上げ、祭り上げたものに他ならない。

神話のなかでアマテラスは、子ではなく、孫を地上界に降ろして王にしようと企てたとあるが(天孫降臨)、これは、そっくりそのまま持統の生涯に当てはまってしまう。このアマテラスの天孫降臨を手助けしたのがタカムスヒという神だが、この神の行動も、藤原不比等そっくりで、なんのことはない、神話には、七世紀から八世紀にかけての、持統天皇と藤原不比等が新体制を確立したその様子と、これを正当化するための物語がちりばめられているわけである。
そう考えると、何ともアホらしくなってくるのだが、歴史なんて、所詮そんなものだ。

神話に秘められた二重構造

伊勢神宮の祭神アマテラスが持統天皇そのものとしても、この話にはもう一つ裏がある。
伊勢神宮には内宮と外宮があって、それぞれの祭神が、アマテラスとトヨウケ(豊受大神)という。伝承によれば、はじめアマテラスが祀られていたが、「独り身で寂しい」という神託が降って、それならばと、丹後半島からもう一柱の女神トヨウケが連れてこられた、というのだ。
どうにも不審なのは、出来すぎた話ながら、伊勢神宮の二柱の女神は、邪馬台国の二人の女王とそっくりなことなのだ。

なぜそうといえるのかというと、まず重要なのは、アマテラスの別名がヒミコに通じていることだ。『日本書紀』には、大日霎貴(おおひるめのむち)と記されていて、この「日霎」を分解すると「日巫女(ひのみこ)」となり、「ヒノミコ」は「ヒミコ」そのものとなる。一方、外宮のトヨウケも、邪馬台国のヒミコの宗女で、やはり女王として君臨したトヨ(台与)の名を冠していたことになる。こんな偶然、ありうるだろうか。
ヤマト建国と邪馬台国の時代は重なっている。日本を代表する神社に、ヤマト建国前後の女傑が祀られていたとしても、何ら不思議ではない。
逆に不思議なのは、『日本書紀』のほうだ。

アマテラス(ヒミコ)とトヨウケ(トヨ)が伊勢神宮で祀られているほどの古代の有名人だったのであるならば、なぜ「歴史」に二人を登場させなかったのだろう。少なくとも、正式に魏から「倭国王」のお墨付きをもらった二人であるならば、ヤマトの王家の正統性を証明するのにうってつけの人物だったはずなのだ。

ところが『日本書紀』は、ヒミコを神格化してアマテラスとし、かたやトヨ(トヨウケ)にいたっては、まったく無視してしまった。さらに『日本書紀』は、アマテラスに持統天皇の姿もだぶらせ、神話のなかに二重構造をつくり出してしまっている。邪馬台国のヒミコを丁重に祀らねばならないが、その正体を後世に伝えられない、というジレンマが『日本書紀』にはあるかのようだ。

出雲は祟る?

つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。

出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。
ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。

「実在したのに神話の世界に封印されてしまったのなら、出雲は『日本書紀』を編纂した八世紀の朝廷にとって邪魔だったのではないか?…そうであるなら、なぜ出雲に関する神話が多く取り上げられているんだろう?」
出雲は三世紀のヤマト朝廷建国に一肌脱いでいて、『日本書紀』もこの辺りの事情をしぶしぶ認めている経緯が感じられます。
たとえば、実在した初代天皇とされる崇神(すじん)天皇の時代、ヤマト最大の聖地、三輪山に祀られる出雲神・大物主神を、「倭(ヤマト)を造成した神」と讃えています。

『日本書紀』のなかで、これ以降も出雲神はたびたび登場し、しかもよく祟っています。朝廷はそのたびに、出雲神を丁寧に祀っていました。
いったい、出雲のどこに、秘密が隠されているのでしょう。

「神」と「鬼」の二面性

日本では八百万(やおよろず)の神といい、それはキリスト教世界ではありえないのです。神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのです。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものです。これに対し、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準がありません。

日本人はなんの抵抗もなく、葬式を仏式で、お盆を日本の土着の風習(先祖の霊を招くというのは仏教ではない)で過ごし、クリスマスはキリスト教と、まったく節操なく数々の宗教行事を行っています。この様子をキリスト教やイスラム教徒からみれば、目を丸くするに違いありません。
しかし、多神教的風土にどっぷり浸かっている日本人にとって、仏陀もキリストも、どれもその他大勢の神々の中の一つに過ぎません。日本人の新し物好きの根源も、このあたりに原因がありそうです。

多神教の神には二つの顔があります。人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神です。これは、良い神と悪い神の二種類いるというわけではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるのです。
つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身します。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しています。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけです。おそらくこの辺にも、「日本は異質だ」、といわれる原因があるのでしょうか。

しかし、多神教にも長所はあるのです。物事を善悪という単純な物差しで測るのではなく、すべてには二つの側面があるという発想は、自分たちの主張だけが正しい、という一神教的発想とは隔絶しています。また、神が世界を創造し、その神の教えに従う人間がこの世界を支配できるという発想が一神教なのです。これに対し多神教は、宇宙、大自然との共存を考えます。

このようにみてくれば、多神教は野蛮なのではなく、むしろ、これからの世界に必要な考えなのではないかと思えてきます。

神話に隠された嘘と本当

神話の多くは荒唐無稽で取るに足らない話ですが、だからといって、すべての話に意味がないというわけではないようです。それどころか、多くの謎かけとカラクリが隠されています。天皇家の祖神が高天原から地上界に舞い降りたという「天孫降臨」がそのいい例です。
だいたい、ヤマトに直接飛び降りてくればいいのに、わざわざ南部九州に舞い降りたこと自体がどうにもうさん臭いのです。皇祖神は日向の地でしばらく過ごし、そしてニニギの末裔の神武天皇がここからヤマトに向かった話が、「神武東征」です。一般に、これら天孫降臨から神武東征にいたるストーリーは、まったくでたらめだ、と考えられています。天皇家の歴史を古く偉大に見せかけたものに過ぎない、というのです。

どうにも腑に落ちないのが、『日本書紀』が天皇家の歴史を誇示しようとしたのなら、なぜ天孫降臨の地を南部九州に決めたのか、ということです。ヤマト朝廷が誕生する以前、日本列島でもっとも繁栄していたのは、なんといっても北部九州でした。朝鮮半島に近いという地の利を生かし、交易によって富を蓄えていました。このため、ヤマト朝廷は北部九州の勢力が東に移って完成したのだろうという考えが強いです。だから、皇祖神が天孫降臨したという話なら、むしろ北部九州や出雲の方がふさわしいのです。

しかも、『日本書紀』は、南部九州に「熊蘇(くまそ)の盤踞する未開の地」というレッテルを貼っています。熊蘇(隼人)はたびたび朝廷に逆らい、討伐される者どもとして描かれ、皇祖神は敵のまっただ中に降臨していたことになります。天皇家は隼人を身辺においていたし、南部九州には、かなり早い段階で、ヤマト朝廷のシンボル・前方後円墳が伝わっています。天皇家と隼人は、同族としても描かれています。「先祖は北部九州・出雲系ではないうよ」という史実だからこそ、あえて南部九州が舞台になったのではないでしょうか。そしてスサノオ・オオナムチなど出雲系の御神体には、敬意と福の「神」と祟る「鬼」の二面性から、神域と現世を隔てる結界の意味で注連縄を張って封じ込めたのでしょう。

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01.破壊されたミステリー

謎だらけの日本古代史にあって、とびきりミステリアスな歴史区分として、「銅鐸(どうたく)」を取り上げたいと思います。

砕かれた銅鐸見つかる!

わが町日高町は、全国でも稀な打撃により粉々に破壊されて出土した「久田谷銅鐸」があります。

歴史研究家 谷川健一氏は、

謎だらけの日本古代史にあって、とびきりミステリアスな出土品、それが銅鐸だ。
まず、出土の状態からしてわからない。専門家によれば、銅鐸はそのほとんどが人目につかない山の中腹などで発見される。

まるで、誰かの手で意図的に隠されたかのように。
なかには、兵庫県豊岡市日高町久田谷の銅鐸破片など、故意の加熱や打撃により破壊されて出土する例さえあり、それらの時期は弥生時代中期から末期に集中しているという。
一方で「古事記」「日本書紀」の記述---。

記紀には、銅剣や銅鉾が姿を見せるにもかかわらず、銅鐸に関してはただの1文字すら記されていない点も大きな疑問だ。こうした事実はいずれも、古く畿内を中心に存在した銅鐸の文化と4世紀以降の古墳文化(ヤマト王権)の間に、大いなる断絶、戦争などの破局的事態があったことを物語はしないだろうか?歴史の記憶から抹消された銅鐸のミステリー、その背後には、「日本(ヒノモト)」という国名の誕生にまつわる、壮大な「アナザー・ヒストリー」が浮かび上がってくる。

何々・・・?破壊された銅鐸がみつかったってそんなに珍しいものなんか?!

ここから「気多(けた)とは何か?日高町の先住者、気多人はどこから来たのか?」という、以前から知ってはいたけど。興味のあったテーマにようやくとりかかることになってしまいました。

久田谷(クタダニ)銅鐸

銅鐸発見場所の付近(豊岡市日高町久田谷)

出土地は、神鍋に通じる旧道沿いと思われる付近で、昭和53年(1977)5月、県営ほ場整備の工事中、発見された。
当時発見された銅鐸破片についてくわしく調査された結果が日高町史(資料編)に記載されています。

久田谷遺跡で発見された銅鐸は、すべて5~10センチ前後に砕かれ、復元が困難であるため高さ、幅、重量については明確にすることは困難である。しかし、銅鐸の破片が117片あり、

—これらの割口は古く、工事中に壊されたものではなく、壊された状態で廃棄、あるいは埋められた

—-形式は弥生終末期—–遺跡の確認調査で出土した土器は、弥生後期から古墳時代であり、最近工事中に出土した土器は、弥生前期から古墳時代前期に至ることがわかった。

また、銅鐸片の出土が発掘調査により、遺構内から出土したものではない—–


但馬国府国分寺館銅鐸展示展(ピンぼけしていてすいません。)
破壊銅鐸
銅鐸は現在470口あまり確認され、その分布は北部九州から東海地方に及びます。なかでも、粉々に破壊された事例が見られます。破壊銅鐸は、この久田谷銅鐸を含め、兵庫県内4例をはじめ、大阪・岡山・鳥取・香川・奈良・滋賀・愛知・静岡・長野など30例あまり確認されています。
兵庫県内4例
久田谷銅鐸(豊岡市日高町久田谷)突線紐5式鐸身3分の1程度117片
女代銅鐸(豊岡市九日市上町女代)とっせん紐2式片側鰭(ひれ)部下端断片
岩野辺銅鐸(宍粟市岩野辺)
姫路市大井川第6地点
日高町久田谷遺跡で見つかった粉々に破壊された銅鐸片は、気比銅鐸よりも後の弥生後期のものとされ、組み立てれば120cmにもなる巨大な銅鐸だそうです。
ではなぜ、久田谷銅鐸はバラバラだったのでしょうか。その理由には、
・砕いて別の銅製品の原料にした
・砕くことで銅鐸を祀る「カミ」が否定された
などの説があります。
但馬国府・国分寺が置かれていた兵庫・日高町…
但馬でも発掘される古墳の数や遺跡の多さ、
社寺の数等では、但馬古代史の宝庫といわれています。
そこでずっと興味があったこと…改めて「気多(ケタ)」という地名及びエリアの誕生にまで遡って考えてみることにしました。ここでは地元の豊富な遺跡や遺構をもとに、日高町という名称以前の地名であった「気多(ケタ)」という郡名、そしてこの土地をそう名付けた愛すべき我々の祖、古代人を、「気多人(ケタジン)」と呼ばせてさせていただき、史料を紐解き、素人だからこそ、独断と偏見?!で大胆かつ自由な仮説が展開できるのかも知れないと思います。
但馬地方ではこの他に2か所で発見されています。

<table class=” aligncenter” style=”width: 500px;”>
<tbody>
<tr>
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</tr>
</tbody>
</table>

11.実験『銅鐸を壊す』

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実験『銅鐸を壊す』

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兵庫県加古郡播磨町大中
銅鐸破壊実験見学のため、かねてから一度訪ねてみたいと思っていた兵庫県立考古博物館に行って来ました。
豊岡市から播磨町へは兵庫県(本州)の北端から南端です。播但連絡道から加古川バイパスで行くのが正統ですが、節減のため時間的に余裕もあったので豊岡自動車道の氷上までの無料区間から国道175号線で行きました。
加古川バイパスがすでに無料になっているのを忘れていたのですが・・・。
いつ行っても加古川平野は周囲が平坦な丘陵で道路がゆっくりとカーブし方向がつかめません。
兵庫県の考古学の拠点として2007年10月13日に開設され、兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所も 神戸市兵庫区荒田町から兵庫県立考古博物館へ移転しました。


下に伸びる手をイメージしたシンボルマークがいいです。

県指定重要文化財の深田遺跡出土品(豊岡市日高町)の木簡や「但馬」と記された墨書土器が保存してあり、実物を見たかったのですが、訪ねてみると定期的に常設展示ではないようで特別公開があるそうです。
国指定史跡大中遺跡の隣接地にあり、この史跡を整備して「播磨大中古代の村」として公開・管理する役割を担うとともに、従来の展示物を観てもらうという展示物主体の博物館ではなく、来館者に参加し体験してもらう新しいスタイルの参加体験型博物館として設置運営されており、常時体験学習を実施してされています。

昨日何げに兵庫県立考古博物館のHPを見ていたところ、2月8日(日)にこの実験が行われるというので、兵庫県立考古博物館(兵庫県加古郡播磨町大中500)に行って来ました。豊岡市久田谷遺跡は当住処からすぐのところで、全国でも珍しい破壊銅鐸片が見つかった場所です。どのようにして上手に正方形に切り刻んだのかは謎です。
-体験-『銅鐸を壊す』
弥生時代のナゾ、壊された銅鐸に迫る!
講演と破壊実験:
兵庫県立考古博物館 館長 石野博信先生
銅鐸(どうたく)はナゾに包まれた弥生時代の祭器です。兵庫県の豊岡市の久田谷遺跡では粉々に破壊された銅鐸が出土しました。このような祭器の破壊行為は銅鐸を祀る“宗教的な行為”が否定されたと考えられます。しかし、どうやって破壊したのか実態がよくわかっていません。今回は復元した銅鐸をつかって破壊方法を検証してみます。
破壊実験に用いるレプリカ銅鐸
1 朝日銅鐸(愛知県:弥生時代中期末から後期初期)
レプリカ成分:神於(こうの)銅鐸(大阪岸和田 弥生時代中期)
(銅68.96% 錫15.45% 鉛5.63%)
4つのパターンでレプリカ銅鐸を破壊する。
Ⅰ:カケヤで叩く
Ⅱ:焚き火で加熱(10分)後、水をかける
Ⅲ::焚き火で加熱(10分)後、カケヤで叩く
以下パターンⅢを繰り返す

  

  

現在470点あまり確認され、その分布は北部九州から東海地方に及ぶ。弥生時代前期から後期にかけて出現。
破壊銅鐸:兵庫の豊岡市久田谷遺跡(県内4例:宍粟市岩野辺・豊岡市九日市・姫路市大井川第6地点)をはじめ大阪・岡山・鳥取・香川・奈良・滋賀・愛知・静岡・長野など30例あまり確認されている。

 

いろいろ試した結果、Ⅱ:焚き火で加熱(10分)後、水をかける
Ⅲ::焚き火で加熱(10分)後、カケヤで叩く、
でついに割れました。しかし、久田谷銅鐸のようにきれいに細かくは砕けませんでした。
ますます謎です。

2009/02/08
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09.銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでの空白

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銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでの空白

[/wc_box] 銅鐸はなぜ消えたのか?
森浩一先生の資料(新しい発見数などは修正しています)と石野博信館長(兵庫県立考古博物館)のお話しをまとめますと、

「銅鐸は現在470あまり確認されています。その分布は北部九州から東海地方に及びます。弥生時代前期から後期にかけてつくられています。銅鐸が出土している国単位では、加茂岩倉遺跡の発見により今のところ一番多いのは出雲です。二番目に多いところは阿波の国(徳島県)です。兵庫県のように播磨や但馬や淡路などたくさん国があるところは別です。だから一国一県単位で言うと、出雲の次は阿波の国です。その次が紀伊・近江です。それに対して、大和の国は19個でわずかとしか言いようがないです。

前方後円墳がつくられる時代は、銅鐸というものが地上から姿を消して、少なくとも50年は経っており、銅鐸がなくなってすぐ前方後円墳ではないのです。奈良県がものすごい富と権力の中心になるのは、箸墓古墳とか、西殿塚古墳とか、そういう2百メートル級の大きな前方後円墳が造られた後なのです。それは、3世紀の終わりと言ってもいいです。それ以後に大和が強大になるのです。それ以前は並の土地です。大和にあるぐらいの弥生遺跡ならばどこにでもあります。そういう古墳から銅の鏡が20枚も30枚も出ていますが、しかし、弥生時代の奈良県には銅の鏡があったという証拠はほとんどありません。また銅鐸が古墳から発見された例はありません。それを謎だという人がいますが、いずれにしても、銅鐸は他の遺物と違って、弥生時代の中で生まれて完全に消えていきました。そして宗教改革ともいえる飛鳥時代の仏教伝来です。飛鳥時代になって、崇仏派の推古天皇・聖徳太子や蘇我氏が「もう、こんな神様はいらん!」ということで、仏教が注目されました。仏教を嫌ったとされる物部氏こそ、銅鐸を祀る祭祀氏族であると思えるのです。物部氏の信頼とシンボルの銅鐸が久田谷(兵庫県豊岡市)では叩き割られたり、埋め殺されたりしたんじゃないかという可能性が高いと思います。

銅鐸を拒否した新王権

しかし、銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでには50年以上の空白があります。ヤマト王権が統一する過程で銅鐸はすでに用をなさず自然に忘れられてしまったのかも知れません。いえ、そんなはずはありません。高価なものを再利用もせずに生めてしまうには大きな政治的力が起きたのです。
銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでには50年以上の空白があります。

つまり、古墳を造る際には銅鐸は忘れ去られていたことになります。ヤマト王権が中央集権化をすすめる過程で銅鐸文化を担った地方豪族を組み入れるために、銅鐸を埋設あるいは破壊していったわけではない[*2]のです。

ヤマトを地盤にした新王権は、明らかに銅鐸を拒否したのです。弥生末期、ヤマト及びその周辺で巨大銅鐸が作られていますが、出雲と吉備は青銅器祭祀を止めています。一方、分布から北部九州は銅鉾が主流で、銅鉾圏と銅鐸圏が対立していたとされます。これは祭祀のうえでヤマト王権が起こる直前の時期です。
銅剣と銅鐸が消えた三世紀初め頃の出雲には、四隅突出型方墳という、倭人のものとは思えない奇怪なヒトデみたいな墳墓が安来地方や荒神谷近辺に出現しました。鳥取大山の妻木晩田遺跡から、最も古い形式らしい四隅突出型方墳が発掘されました。この日本最大の妻木晩田遺跡の人々が安来地方などに移動したとも考えられます。

一方、瀬戸内海の吉備(岡山県)では、銅剣時代を経て古墳時代前夜へと入り、墳墓群が出きつつありました。ほぼ同時期、出雲と吉備にそれぞれ王と呼んでもいい首長が現れ、銅剣や銅鐸の祭祀を村落共同体から排除してしまうのです。ということは、その頃さかんに巨大銅鐸を作っていた近畿の文化圏からの離脱を意味します。銅鐸を作らなくなった時点で、出雲は近畿の敵になりました。出雲大社では、スサノオを祀る素鵞社を覆い隠すように巨大な出雲大社本殿が建てられています。スサノオが「すさぶる王=荒ぶる神」として憎しみを込めて追放されているのは、この間の事情を繁栄しているのかも知れません。

また弥生時代の鏡は佐賀県とか福岡県からたくさん出ています。特に福岡県では2百枚は十分出ています。だから、大和(奈良県)は弥生時代は並の土地で、前方後円墳が出来る頃から急にすごさがわいてきます。ただし、それが永久に続くかというとそうではないです。奈良の都の途中からガタガタになって、もう奈良には都を置ける土地ではありませんと言って京都に行ってしまうのです。大和が、交通とか経済とかで本当にすごい所であれば何も平安遷都する必要はありません。だから長い目で見たら、
大和が、勢力の中心であったのは、西暦4世紀から8世紀の終わりまでの、(長い歴史のわずか)4百年間の出来事です。
ヒトデみたいな奇怪な墳墓(四隅突出墓)を造っている祭祀王国-そんな出雲への認識や記憶が近畿人に定着し、祟(たた)る神として恐れられ、『古事記』で多くを「出雲神話」にあてているのも、大和の天皇家をなんとか正統化したいという苦心の原型になったとも考えられます。

銅鐸から考える

キリスタンの踏み絵ではありませんが、荒神谷や加茂岩倉遺跡のように、銅剣や銅鉾、銅鐸をなぜ人目のつかない場所に隠すように埋めたのでしょうか。

蘇我氏=ヤマト朝廷によって埋めさせられたのか。のちの6世紀半ばの欽明天皇期には仏教が伝わり、物部守屋と蘇我馬子が対立。後の仏教推進派の聖徳太子は蘇我氏側につき、神道派の物部氏を滅ぼしました。以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として仏教を権力に政治を握り、記紀の編纂では、藤原不比等によって歴史の解釈がややこしくなってしまいました。

しかし物部氏は、そのあと飛鳥時代までのおおよそ600年間も、武力と祭祀を司る重要な氏族として存続していました。なぜ、神の祭器である銅鐸や銅剣を破棄することを条件にその後も政治や神事に関与することが許されたのでしょうか。物部氏こそ、銅鐸を祀る祭祀氏族であるとするならば、物部氏自らが宝物といえる大切な神具を二度と使えないようになるまで、粉々に砕くことができたでしょうか?それは祖神=ニギハヤヒやウマジマシへの神への冒涜であり、氏族の尊厳を捨てることを意味することだと思えるのです。

ヤマト政権が天皇をいだいて日本を統一していく時代。『播磨風土記』で天日槍(アメノヒボコ)が但馬の養父と気多に葛を落としたという記載と、気多郡で見つかった全国でも珍しい粉々の銅鐸片は、単なる偶然なのか?私なりに想像しますと、それは、養父郡と気多郡の王が最後までヤマト政権に抵抗したのだという史実を語っているのではないかと思います。

[*1]…大和の国は銅鐸出土が19個でわずかとしか言いようがない。
[*2]…前方後円墳の時代は、銅鐸というものが地上から姿を消して、少なくとも50年は経っておりヤマト朝廷の関与は考えにくいこと。大和朝廷が勢力の中心であったのは、400年間。
[*3]…中国・朝鮮半島の小銅鐸小銅鐸と日本の一番古い銅鐸には日本列島人のアイディアというか独創力がものすごく入っている。
[*4]…北部九州起源論
[*5]…銅鐸文化圏と銅剣・銅矛文化圏は古い説
[*6]…原料は全部大陸からのスクラップ説というのは無理がある。銅製品の原料国産説。
[*7]…加茂岩倉の兄弟銅鐸の分布から、銅鐸が山陰地方や近畿地方に配布されたのならば、出雲特有の四隅方形墓が因幡・但馬に出現しない事は、銅鐸を使用した祭祀集団と、四隅方形墓の集団は別の時代の別のルーツを持った集団である。
[*8]…弥生時代の住居から土器とは一緒に見つからないこと。弥生時代末期に集中して山裾などに埋められているか、意図的に破壊されている。

出典: 兵庫県立考古博物館石野館長の公開講座

2009/08/28
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07.銅鐸はどのように埋められたのか

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銅鐸はどのように埋められたのか

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埋納状況

埋納状況については、村を外れた丘陵の麓、或いは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえた物が多いのです(逆さまに埋められた物も二例ある)。一、二個出土する場合が多く、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡(最多の39個)のような十数個同時に出土した例も五、六あります。あまり注目される事がありませんが、頂上からの出土が無いことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられています。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんど無く、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされています。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中しています。 銅鐸を埋納したことの理由については以下のように諸説あります。

調査を経て記録された銅鐸の多くは、銅鐸よりもわずかに大きな穴を掘り、そこに鰭を上下として銅鐸を横たえて埋納しています。この方法は最古段階の菱環鈕式銅鐸から新段階の突線鈕式銅鐸まで一貫しており、銅鐸埋納には一定の法則があったことがわかります。しかし、少数ながら天地を逆転して埋めたものなどもあります。

銅鐸は単独で埋められるほかに、多数の銅鐸を一度に埋める場合、一定の範囲に分散して埋める場合があります。島根県の加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が、神戸市桜ヶ丘では銅鐸14個と銅戈7本がともに埋納され、野洲市大岩山からは、14個と9個と1個の銅鐸が近接する3つの地点からみつかっています。また、静岡県浜松市(旧引佐郡細江町)の都田川流域・浜名湖北岸の三方原台地ではこれまで14地点から16個もの銅鐸がみつかっています。

多数が一度に埋納される際には、大小を「入れ子」としたり、鈕を向かいあわせとするなど小さく埋納しようとする意図がみられます。なぜ銅鐸を埋納したかについては、土中保管説、隠匿(いんとく)説、廃棄説などの諸説がありますが、複数出土した銅鐸をみると型式的に相前後する銅鐸で構成されており、それらは突線鈕1式までのものと、突線鈕2式以降のものに分離できることができます。このことから銅鐸埋納は、大きく弥生時代中期後半と後期後半の2回の埋納時期があったと考えられます。

埋納した理由の推測

米や穀物の豊穣を祈って拝んだのではないかと言う説
しかし、これには反論があり「祭るための宝物ならそれなりの扱いを受けるはずで、そのような施しは見受けられない」ということであります。だが、この場合の「施し」というものが具体的にどのような痕跡を指すのかが問題であります。
平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られたとする説(松本清張等)

特に「聞く銅鐸」の紋様の不鮮明さは埋納時から発掘までの土中での経年劣化ではなく、磨く等の行為によるものとされており(佐原真)、祭りの度に繰り返し掘り出し磨かれたためといいます。かつての東南アジア方面(ベトナム等、しかし現在は不明)の銅鼓も日ごろ地中に埋めてあり、祭りの時や葬儀の時取り出して使用していたといいます。

大変事にあたり神に奉納したのではないかという説

十数個同時に出土する例は「大変事」の規模にあわせたために大量に埋納したのか、全国各地で出土するのは全国規模で弥生時代を通して「大変事」が頻発したのか、等を埋納状況などを踏まえた上で考える必要があります。

地霊を鎮めるために銅器を埋納した風習という説

古代華南にそのような風習が見られた。

文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説

そもそも鏡を任命書として与えるような権力者、集団が当時日本列島に存在したかがまず問題である(古墳時代には銅剣、銅鏡のように、同盟集団に配布したと思しき例が少なからずあるようである)。

銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化を持った外敵が攻めて来た等の社会的な変動が起きた時に、銅鐸の所有者が土中に隠匿して退散したという説(古田武彦等)です。

この「外敵」を後世の有力集団の祖先に擬する説もあります。
しかし、全国的に似たような埋納のされ方なので、慌てて隠したのであればいろいろな埋め方があるはず、という反論があります。また、その外敵が銅鐸祭祀を否定する集団で、支配下に置いた地域の住民に銅鐸祭祀を放棄させたと考えれば、銅鐸が壊れた状態で出土することや、三世紀に急速に銅鐸祭祀が廃れたこと、銅鐸の用途が全く伝わっていないことなどに説明がつくという説もある。
政治的な社会変動により、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説(三品影映・小林行雄等)
つまり、弥生時代の個々の村落を統合する新しい支配者が現れるとして、人々がより大きな集団を構成する際に、それまでのそれぞれの共同体の祭儀から専制的権力者の祭儀への変化が起き、各々の村落で使われていた銅鐸を埋納したというものであります。その際、集落によっては銅鐸を壊す等の行為もあったと思われ、一部の破壊銅鐸の出土はこのような理由によるとします。また、この社会・祭儀の変化とは次の古墳時代への変化のことと関連付けられる事が多い。

しかし、遺跡ごとに用途・保管方法や埋納の事情は異なっていたと考えられるため、すべての銅鐸を一律に論じる事は危険であります。[catlist id=96]