韓国神社の古名は物部神社

人皇15代神功皇后二年5月21日、気多の大県主・物部連大売布命が亡くなった。その子・物部多遅麻連公武が多遅麻国造となった。


式内 氣比神社(豊岡市気比)

豊岡市気比。『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、同じ気比の松原で知られる福井県敦賀市にある気比神宮「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。なお、「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えるが、西郷信綱は、この「魚(な)」と「名(な)」を交換したという説話全体が、「けひ(këfi)」という語の発生を、交換を意味する「かへ(kafë)」という語に求める1つの起源説話であろうとする。
『ウィキペディア(Wikipedia)』

気比銅鐸

(写真 東京国立博物館)

福井県敦賀市の越前國一宮気比神宮と美しい気比の松原。豊岡市気比にも同じ気比神社(五十狹沙別命・豊岡市気比)と海水浴場で知られる気比ノ浜があってよく似ている。気比の南から、1912年(大正元年)、但馬では唯一の完形の銅鐸4個が発見された。

1996年(平成8年)、加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町岩倉)で日本最多の39口ものおびただしい銅鐸が見つかった。出土品の一部(外縁付1式銅鐸)には近畿地方で製作されたと推定されるものもあり、気比銅鐸と同じ鋳型で作ったと思われる兄弟銅鐸が含まれていたのである。出土した銅鐸にはその他にも同笵関係(同じ鋳型で製作された銅鐸)も各地で確認されていることから、各朝廷と出雲、あるいは朝廷と但馬とのつながりが濃いもので、出土地との関連を含めた今後の研究が待たれる。

この地域はかつては田結(たい)荘という村で、田結は気比から北の円山川河口にある日本海の漁村。話が逸れるので触れないが、山名四天王の一人田結庄氏の出生地でもある。舞鶴にも宮津にも田井という地名があり、いずれも同じように日本海に面した漁村で、渡来人が上陸した雰囲気がある。

気比から南に気比川に沿って丹後久美浜へ抜ける三原峠に向かう県道11号をさらに南に行くと畑上という集落がある。この区の氏神様は物部韓國連神津主命を祭神とする重浪神社が、また飯谷峠という峠を越えた反対側に円山川に近い飯谷(はんだに)という集落がある。この区には物部韓国連真鳥、物部韓国連渚鳥を祭神とする物部韓国神社がある。「震旦国明神」と呼ばれていたという。

韓国神社は韓国人にゆかりがあるのではない

飯谷(ハンダニ)という地名と韓国神社から、朝鮮からの渡来人ゆかりがあるのではないかと想像する人もいるのではないかと思う。私もその一人だったからである。

実はその逆で、社伝によると、武烈天皇の命を受けて韓國からくに(朝鮮)へ派遣された物部眞鳥(まとり)が但馬の水戸(楽々浦)に着き、都へ報告に上った。その功績によって、韓國連を賜わり、以後、物部韓國連眞鳥と称した。

眞鳥の子・渚鳥(すとり)は欽明天皇の頃、城崎郡司(郡の最高者)となり飯谷付近を開墾した。
渚鳥は、名を墾麿(はりまろ)と改め、地名を墾谷(はりだに)とし、墾谷が針谷となり訛って現在の飯谷となったという。

墾麿(渚鳥)は、墾谷の丘に父・眞鳥を祀り、韓國神社と称したという。

まったく同じ記述が、『国司文書 但馬故事記』第四巻・城崎郡故事記にある。

第29代欽明天皇の25年(564) オオメフ(物部連大売布命)の末裔、物部韓国連榛麿を城崎郡司とする。
物部韓国連は、武烈天皇の勅を奉じて韓国に遣わされ、天皇にご報告申し上げた日、姓、物部韓国連をいただく。榛麿はその子なり。
韓国連榛麿は針谷を開き、住処と為す。故に榛谷と云う。物部神社という。

第33代推古天皇の35年(627)冬12月 物部韓国連榛麿の子、神津主を城崎郡司と為す。神津主は物部韓国連榛麿を榛谷丘に葬る。

第39代天武天皇白凰3年(674)夏6月 物部韓国連神津主の子、久々比命を城崎郡司と為す。久々比命は神津主命を敷浪丘に葬る。(式内重浪神社:豊岡市畑上)

しかし低い峠を越えると畑上集落があることから、秦谷(はただに)が訛ったのではないかという推察もしたが、針谷、榛谷、墾谷が気多・城崎県主オオメフ(大売布命)の末裔、物部韓国連榛麿が開墾したので物部韓国神社である。

さて、平成の合併前には、氣比神社のある港地区は豊岡市で、重浪神社のある飯谷は旧城崎町であったが、『但馬郷名記抄』に、余部郷 墾谷・機紙(今の畑上)・御原(今の三原)とあるので、田結郷である北の気比、南の赤石以南とは異なる郷だった。余部郷とは50に満たない集落をいう。江戸時代までは、豊岡市市街地北部の円山川と両岸一帯、江野からの大浜川流域、田鶴野小学校区から城崎温泉・津居山・気比までは、同じ城崎郡田結(たい)郷だった。

震旦とは

韓国神社の石碑に「震旦国明神」とある。「震旦国明神」の震旦国とはどこなのだろう。

震旦国とは支那の当て字である。インドから仏教が隋に伝来した当時、経典の中にある梵語「チーナ・スターナ”China staana”」を当時の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによって彼の地に伝来した。この時の当て字として、「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。そのため、「支那」はこの地域の当時の公用語からすれば外来語であり、当初は外国人からの呼称であったと言える。付近のケゴヤ古墳から金箔が検出された。渡来人にかかわる古墳であろうといわれている。韓国とは当時「からのくに」のことで外国である中国大陸の一部を意味する。今の韓国(Korea)のようなものではない。あるいは朝鮮半島まで秦国の一部としてそこに渡った。

「記紀」が編纂されたのは、そうした天日槍の伝承以降の奈良時代(712年・720年)のことだ。少なくとも古墳時代が3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までとされるから、天日槍や崇神・応神天皇などの記載については400年から100年前の伝承の記憶である。倭人が半島から北部九州にかけて文化圏を築いていた馬韓・弁韓・辰韓・対馬・壱岐・北部九州は、すでにない。弥生時代には国家もないし、南西部の百済の元となる馬韓は朝鮮民族の濃い所だそうだがそれ以外の、弁韓(伽耶)・辰韓(新羅)は朝鮮民族が多くは暮らしていない土地だったと思われる。馬韓に渡った秦から逃れた人びと(中国人)を東へ住めといって追い出している記述がある。中国から移住した人びとの村を、韓国人だと言う意味もない。伽耶が鉄資源に恵まれていることを知ったのはそうした秦・漢人だ。だから最初に日本に渡来したのは朝鮮半島だとする意味はないと思う。そこにあったのは、秦・漢の文化だからだ。

日本でも邪馬台国が、そういう意味で倭人のクニの連合体であり、天日槍は新羅国の王子ではないばかりか倭人であり、今の韓国人ではないことは確かだ。また、天日槍は個人ではなく、新羅から倭国へ里帰りしたテクノクラート(技術集団)である。

日本は最初に朝鮮半島から文化の影響を受けたというよりも、秦(中国)から逃れた人びとが日本列島や半島南部に渡来・漂流して倭人圏をつくったと思う方が理解できる。それは元々朝鮮人ではないのだ。徐福伝承が佐賀や丹後などに残って浦島太郎伝説になったように、兵主は秦の信仰であるように、天日槍は元々江南から朝鮮半島南部に移住した中国人の子孫である。そして同じ北部九州などの倭人であろう。

要するに、「韓国神社」という社号から、韓国朝鮮にゆかりがある神社で、渡来人の神社だと思われがちだが、韓の国へ使いとして功績のあった物部連眞鳥が韓国連という姓を賜ったかれであって、むしろ倭(日本)から韓国に使者である。逆である。

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