謎の巨大豪族「物部氏」

謎の巨大豪族「物部氏」

一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきました。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきたのです。

しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのです。

饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本(ひのもと)」の本当の名付け親であるといえるのではないか?<

1.『古事記』の神武東征

天皇家の初代カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうかと相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

神武が九州から東征してヤマトに入った時、浪速国の白肩津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、生駒山麓の孔舎衛坂(くさかえのさか)で長髄彦(ながすねびこ、以下ナガスネビコ)の抵抗に遭います。

ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。
また、高木神の命令で八咫烏が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。
その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。

2.『日本書紀』の神武東征

『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。

ナガスネビコは、天磐船(あまのいわふね)に乗ってヤマトに降った櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、以下ニギハヤヒ)に仕え、しかも妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)はニギハヤヒと結ばれ、可美真手命(うましまでのみこと、以下ウマシマデ)を生んでいます。そこでナガスネビコは、神武に「天神の子はニギハヤヒ一人だと思っていたのに、そう何人もいるのだろうか」と疑問を呈すと、ニギハヤヒが天神の子である証拠として、天の羽羽矢(蛇の呪力をもった矢)と、歩靱(カチユキ・徒歩で弓を射る時に使うヤナグイか)を持ち出してナガスネビコに見せます。

神武はその証拠を天神の子とのものであると認めるのと、ナガスネビコは、恐れ畏まったのですが、改心することはありませんでした。そのため、間を取り持つことが無理だと知ったニギハヤヒはナガスネビコを殺して神武に帰順します。
『日本書紀』は、このニギハヤヒが物部氏の遠祖であると書かれているのです。
記紀は、九州にいた天皇が大和を制圧するという点で、後の神功皇后・応神天皇母子との類似性が指摘される事がある。

3.長髄彦(ながすねひこ)

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。不思議に思えるのは、
『日本書紀』では、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)あるいはミカシキヤヒメ(三炊屋媛)、をの妻とし、仕えるようになる。トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・物部氏の祖)をもうけました。宇摩志麻遅尊は、物部の兵を率いて、天之香山尊と共に、尾張・美濃・越を平定し、天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、更に播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県大田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。
長髄彦は、日本神話に登場する人物。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。その後、八十梟帥(ヤソタケル:『古事記』では八十建と表記)や兄、磯城(シギ)を討った皇軍と再び戦うことになります。このとき、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼がくらみ、戦うことができなくなりました。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。私の妹の三炊屋媛(ミトヤヒメ)を娶(めあ)わせて、可美真手(ウマシマデ)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べました。

4.もう一つの天孫降臨

古代氏族のルーツを探る場合、伝承で探るしか手段がありません。さいわい、物部氏は家記といわれる
『先代旧事本紀』というのが後世に出、これと各地に残っている伝承をあわせて探っていくと、物部氏が最初は九州にいたことが判明してくるといいます。

一番大切なのは、物部氏が神武より先に大和に来ていることです。

黒岩重吾氏は、邪馬台国は、九州からヤマトに東遷したと考えています。それは、弥生時代の近畿地方には鏡と剣と玉を祀る風習はなかったのに、九州にはそれがあった点です。鏡を副葬品として使う氏族は畿内にはなく、九州独特のものです。

九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ北九州の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされています。

物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によれば、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内国の河上の地に天降りたとあります。どのあたりかというと古来諸説ありますが、おそらく石切劔箭(いしきりつるぎや)神社(東大阪市)のあたり、生駒山の西側にある「日下(クサカ)」の地でなないか、他にも天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社があります。どちらにしろ生駒山系です。なお、天磐船といっても飛行物体ではなく、これは海の船です。
古代氏族の一つとして、また蘇我氏との神仏戦争でよく知られる物部氏は、皇祖神を除いて、天孫降臨と国見の逸話をもつ唯一の氏族です。
これらは、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に降りたニニギ(瓊瓊杵尊や瓊々杵尊)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられます。

ニギハヤヒは、神武東征(じんむとうせい)に先立ち、河内国の河上の地に天降りているのです。
ニギハヤヒが、32の神と25の物部氏の一族を連れて大空を駆けめぐり、河内国の哮ケ峰(タケルガミネ)に天降った。
とされています。
この哮ケ峰は、どこなのか定かではありません。
また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑(とみのしらにわのむら)に埋葬したといいます。

この登美の白庭の邑も、いったいどこなのでしょう。

ところが、日本神話において、天照大神の孫のニニギが葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
とされながら、高天原神話にはこの、大和への天孫降臨神話が見当たりません。

5.東征ルート

物部氏の足取りを先に系統づけてみたいと思います。まったくの想像です。

饒速日命を祖とする物部族の一族は、東征からすると、

    中国江南地方(越あるいは秦)脱出
      	  ↓
  	  北九州遠賀川流域
 	┏━━━━━┻━━━━┓
  (瀬戸内海)	 (山陰沿岸)
	↓		   ↓
   伊予国		出雲国・丹波国(但馬国・丹後国含む)
	↓		   ↓
   河内国		   ┣ 越国
    ↓		   ↓
紀伊国 ┫		近江国・山城国 → 尾張国
	↓		   ↓
     河内・日下の草香江
       ↓   
   大和で日本(ひのもと)を建国
     饒速日命 長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚
		  ↓
  日向 神武東征 × 長髄彦との戦い
	   ↓

伝説上神武天皇が納めると物部氏神武天皇に帰順 →宇摩志麻遅命 石見国に御降臨
さらに円山川沿いに20キロメートル離れた円山川河口付近の豊岡市気比(旧城崎郡気比)の地で、但馬で初めて銅鐸が発見されたが、最近、出雲加茂岩倉遺跡の銅鐸と兄弟銅鐸であることがわかりました。

粉々に破壊された久田谷銅鐸片が見つかった気多郡(日高町)の地

神武東征は、天皇家の初代神武天皇(かむやまといわれびこ)が日向(ひむか)国を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話。

この神話の解釈としては、全くの創作であるという説と、九州にあった勢力が大和に移ってきてヤマト王権を築いたという史実を神話化して伝えたものであるという説があるそうですが、信用すべき同時代の文字資料が現れない限り、神武東征を学問的に立証するのは困難であろうとされています。

弥生末期に南九州は熊襲・隼人として北部九州の倭国連合に習合されていない。

いずれにせよ、ニギハヤヒ大和へ向かう。船を使って河内まで四国の北岸を通っていったのは、どうやらすでに地域国家を形成していた吉備の勢力を避けて海運ルートで行ったからではないかと思われています。
記・紀においては、「天磐船」(アマノイワフネ)に乗り、天上から下ったとされながら、高天原神話には天孫降臨神話が見当たらないのです。

6.出雲と但馬の類似点

  • スサノヲ、オオナムチの神社が多い
  • 因幡宇部神社(武内宿禰)の伊福部氏:出石伊福部神社(出石町鍛冶屋)天香久山命を祀る。
  • 出雲意宇(おう)郡。意宇(おう):気多郡伊福(ゆう)村多々谷(たたのや)・楯縫神社、朝来市伊由(いう)の類似。付近に物部や多々良木(たたらぎ)集落。:出雲たたら製鉄
  • 物部神社(石見):物部韓国神社(城崎郡飯谷)
  • 久々比(ククヒ)神社・中嶋神社の祭神:田島守、摂社:天湯河板拳命:鳥取部=天湯河板拳命(あまのゆかわたな)
  • 楯縫郡(現在の旧平田市の大半及び旧簸川郡大社町(現・出雲市)) 出雲国風土記によれば、郡名はこの地で杵築大社(出雲大社)の神事道具として楯を造り始めたことに因むとしている。一方、古代日本語で「段丘上の平地」や「高地の端にある崖」を指すという説もある。:楯縫神社(但馬気多郡)円山川の段丘上の平地に鎮座。円山川対岸に多々谷(タタノヤ)=たたら? 井田神社 大己貴命の但馬総社「気多神社」
  • 平成12年4月、出石町袴狭遺跡から出土した木製品の船団の線刻画のある木製品(板材)が浮かび上がります。
  • 「太加王」(たかおう)→高生平野(気多郡たこうへいや)、和田山町高生田(たこうだ)

もう一つの日本(やまと) 1

もう一つの日本(やまと)

1.饒速日命(ニギハヤヒノミコト)

ニギハヤヒは、それぞれの駐留地点を中心に、水稲の栽培を始め、麦・黍・栗などの栽培を拡めたといいます。

とするとよく似た話が徐福伝説です。つまり秦の始皇帝の圧政に耐えかね、日本列島に活路を求めた人々こそが縄文人と融合して弥生人となった渡来人ではないかというのです。

さて、オオナムチ(大己貴命)は、オオクニヌシ(大国主)という別名があります。一般的には、こちらの方がよく知られているのですが、但馬郷土史研究の基礎『校補但馬考』の著者であり、日本の天気予報の創始者でも知られる桜井勉氏が偽書としている『但馬故事記』には、「彦坐王」(ひこいますおう)が、「丹波」・「但馬」の二国を賜り「大国主」の称号を得たとの記述があります。従って、オオクニヌシとは、今で言えば県知事のような職制上の称号であったのでしょう。オオナムチはスサノオから、オオクニヌシの称号をもって、「出雲」の自治権を許されたということです。同様に他の地方には、その地方のオオクニヌシ(国造のようなもの)がいたのであり、『記紀』に記される、オオクニヌシの別名が、異常に多いのもこれで説明がつきます。

『記紀』では、スクナヒコナ(少彦名)は、タカミムスビ(高御産巣日神・高皇産霊尊)の子であると言いますが、タカミムスビの別名に「高木の神」があります。
『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。

『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といい、アメノオシホミミ[*2]の子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。

『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照の系)とし両者を別とする。
『播磨国風土記』では、国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神=大汝命(大国主命(オオクニヌシノミコト))の子とする。

ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)[*3]は、日本の祖であり、神武はその養子だといいます。この事実を抹殺し、出雲王朝とヤマト王朝の関係を抹殺するために、『日本書紀』は、イザナギとイザナミによって創造されたのであるとしています。その証拠に、「石上神宮」(いそのかみじんぐう)と「大神神社」の古文書と十六家の系図を没収し、抹殺したという資料をつかんだとも述べています。それは、691年のことであるらしいのです。

ニギハヤヒも、父・スサノオ同様、さまざまな別名を与えられています。

フルネームは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」ですが、「天照国照彦命(あまてるくにてるひこんもみこと)」・「天火明命(ほあかりのみこと)」・「彦火明命(ほあかりのみこと)」は、フルネームの一部であり、ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)のことです。
別名としては、

  • 櫛玉命(くしたまのみこと)
  • 「大物主大神」(おおものぬしのおおかみ)
  • 「布留御魂大神」(ふるのみたまおおかみ)
  • 「日本大国魂大神」(やまとおおくにたまおおかみ)
  • 「別雷命」(わけいかずつのみこと)→上賀茂神社
  • 「大歳御祖大神」(おおとしみおやおおかみ)などです。
    古代、韓国の人々は、天上界の神々は、山岳にそびえ立つ高木から降臨すると信じていました。「高木の神」とは、きわめて朝鮮的な神です。スクナヒコナとタカミムスビの関係は、どうでしょうか。『富士宮下文書』は、スクナヒコナは、タカミムスビの曽孫(ただし養子である)であるとし、「祖佐之男命、朝鮮新羅国王の四男・太加王」

    と具体的に記しています。

    この「太加王」(たかおう)説の真偽のほどは、諸説あり定かではありませんが、スクナヒコナとタカミムスビとの関係の深さはわかります。タカミムスビは、実在した人物ではなく、観念的な神でしょうが、スクナヒコナに代表される「昔(ソク)」族とスサノオの親密ぶりを、伺い知ることができます。

    スサノオが、「出雲」に侵攻して以来、「統一奴国」の本拠地は「出雲」であったはずです。従って、「統一奴国」の国土経営は、「出雲」に政庁をおいて繰り広げられていました。「出雲」のオオクニヌシであったオオナムチは、「統一奴国」の総理大臣的な存在であったのでしょう。その上に君臨していた人物、「牛頭天王」ことスサノオであり、文字通り、天皇です。

    しかし、スポンサーであったスクナヒコナの死により、この法則は崩れ始めました。朝鮮半島での基盤を失ったのです。さらに、オオナムチに、追い打ちをかける衝撃の事件が起こりました。スサノオの死です。

    『記紀』には、去っていったスクナヒコナのことを、オオナムチが嘆いていると、海を照らして神がやって来たと記しています。この神は、「大和」の三諸山に住みたいと言い、三輪山の神だといいますが、この物語こそ、スサノオ尊の死を暗示していると思われます。

    『日本書紀』は、この神は次のように述べたとしています。

    「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を治めることができたろうか。私があるからこそ、お前は大きな国を造る手柄を立てることができたのだ。」

    これはスサノオが死に際して、オオナムチに述べた最後の言葉です。そして、スサノオは、自らを三諸山に祀るように、オオナムチに依頼したのでしょう。もちろん、「大和」の三諸山ではなく、オオナムチが国土経営を成功させたのは、「出雲」です。そこに、おおよそ関係がないと思われる、三輪山の神が、どうして入り込んでくるのでしょうか。つじつまを合わせるために他ならないのです。

    確かに、「ヤマト」は勢力範囲であったかもしれありませんが、三輪山の神に比定するにはかなり無理があります。

    三諸山は三諸山でも、「出雲」の三室山すなわち、八雲山ではないでしょうか。そこは、スサノオが住居を定めていた場所であり、出雲発祥の地であるからです。

    2.日本の名付け親

    2世紀後半の北九州で起きた「倭国大乱」の頃には、すでに河内・大和を中心とした地域に勢力が確立していきました。生駒山周辺には、天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社など、物部氏ゆかりの神社が数多く、それ以上に谷川健一氏が注目するのは、この河内平野一体から多数の銅鐸が出土し、石切劔箭神社に近い鬼虎川(キトラ)遺跡から、弥生中期のものと見られる銅鐸製作の跡が見つかっている点です。

    さて、手がかりになるのが、神武東征で軍勢が日向から大阪湾の白肩之津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった)に上陸して生駒山の西側にある孔舎衛坂(くさえさか)[*1]の戦いで、ニギハヤヒに使えた土地の豪族である長髄彦(ナガスネヒコ)に負かされたという。孔舎衛坂は河内国草香邑(大阪府東大阪市日下町))の地だろうとされています。この場所は、ニギハヤヒが神武東征に先立ち、河内国の河上の地に天降りた場所です。「日下」「ヒノシタ」と書いてなぜ「クサカ」と読むのでしょう?

    それは、枕詞の転化であるとしています。
    たとえば、明日香の枕詞は飛鳥であり、「トブトリ ノ アスカ」と呼び慣わしていたのが、時代が下るに従って、枕詞の飛鳥だけでアスカと読むようになったのと同様に、草香の枕詞は日下であり、元々「ヒノモト ノ クサカ」と呼んでいたものが日下だけでクサカと呼ぶようになったということです。
    しだいに日本(ひのもと)という字が当てられ、倭国から日本という国名に変わったというのです。

    『記紀』の天孫降臨コースは、アマテラスオオミカミという一番えらい神様が、(自分の孫の)ニニギノミコトという神様に、
    「この稲の穂と、神の三つの宝の鏡・曲玉・剣をもって地上に降りていきなさい。そして、日本の国(葦原中国)がもっといい国になるように頑張ってきなさい。」
    といい、それでニニギノミコトは神様の国を離れて、筑紫の日向の高千穂という場所に降り立つのですが、『先代旧事本紀』の降臨コースは全然違っています。

    ところが物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によると同じような内容が記されています。

    谷川健一氏によると、

    「新唐書」にかかれている「日本(ヒノモト)」とは、まさにこの物部氏の王国であり、4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト政権」によって征服された過程こそが、神話にある神武東征だったのではないかと推理しています。

    「日本書紀」に書かれている「神武東征(じんむとうせい)」の物語に登場する東の美地とは、ニギハヤヒが建てて消えた銅鐸文化の国、すなわち物部氏の「日本(ひのもと)」に他ならない。
    としています。
    4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト王権」である神武が再び日本を襲い、物部氏の小国「日本」を征服した際に、王国のシンボルであったおびただしい銅鐸は、土中に隠され、あるいは破壊された、というのが氏の結論です(石野博信館長は時代的に50年のタイムラグがあることを指摘)

    その後、物部氏の主流はヤマトに屈服してヤマト王朝に重用されますが、なかには長髄彦蝦夷(エニシ)と呼ばれる同盟異族とともに、北へ東へ奔った者もいました。それについては何故か正史「日本書紀」には残されていません。ヤマト朝廷の誕生は、敗者を再び日の当たる場所=日本(ヒノモト)に登場させることはありませんでした。
    饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本」の本当の名付け親であるといえるのではないか?

    という想像が浮かび上がるのです。

    3.二つの日ノ本

    ニギハヤヒ亡き後、末娘・伊須氣余理姫命は、日向から従兄弟の狭野(伊波礼昆古)命を婿養子に迎え、大和国王を継いだ。初代・神武天皇でスサノオ尊の孫にあたります。

    また、ニギハヤヒが子のウマシマジノミコトを有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれています。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

    神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

    [*1]草香江 当時の大阪湾は、旧淀川からずいぶん上流までが大きな入江でした。河内湾は河内湖、河内潟へと変化し、すなわち草香江(くさかえ)呼ばれていた。草香江は淀川・大和川の2つの大河川が流入してくる反面、排水口は上町台地北方の1箇所のみであり、しばしば洪水を起こしていた。4世紀後期もしくは5世紀初期のオオササギ王(仁徳天皇)は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、草香江の水害を解消するため難波の堀江という排水路を築いて現在の大阪平野の姿ができた。その後、河内湖の干拓・開発が急速に進んでいき、湖から湿地へと変わったが、完全に陸域化したのは、豊臣秀吉が大坂城築城の際に、淀川を大改修し、江戸時代の大和川付け替え工事以降のことである。

    [*2]…古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。

    [*3]…『日本書紀で』は饒速日命、『古事記』では邇藝速日命

北近畿鉄道物語-福知山線

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

JR福知山線・舞鶴線

JR福知山線

福知山線の発祥は、1891年(明治24年)に川辺馬車鉄道が開業させた尼崎(のちの尼崎港)~伊丹間の馬車鉄道である。のちに摂津鉄道と改称して馬車鉄道を蒸気動力の軽便鉄道に改築し尼ヶ崎~池田(現在の川西池田)間を開業させた。当時の池田駅は呉服橋西詰付近にありましました。

摂津鉄道は、大阪から舞鶴までの鉄道を計画していた阪鶴鉄道に合併され、改軌(レール幅を広げる)した上で宝塚駅まで開業。以後順次延伸されて、1899年(明治32年)には福知山南口駅(堀内田町付近)まで開通しました。

1904年(明治37年)、軍部からの要請で対ロシア戦略の軍用鉄道として舞鶴鎮守府までの開通を急がされた福知山~綾部~新舞鶴(現在の東舞鶴)間が官設で開通。阪鶴鉄道も現在の福知山駅(天田)まで延伸し、福知山~新舞鶴間の貸与を受けて、大阪~舞鶴間を結ぶ鉄道が完成しました。
1907年に国有化され、官設区間とあわせて阪鶴線と呼ばれていましたが、山陰本線の京都~出雲今市(現在の出雲市)間が1912年に開通したのを機に、神崎(かんざき:現在の尼崎)~福知山間、塚口~尼崎間が福知山線となりました。

1986年(昭和61年)11月1日、全線電化完了と伴いL特急「北近畿」運転開始。東海道本線の大阪~尼崎間を含む大阪 ~篠山口間にJR宝塚線(ジェイアールたからづかせん)の愛称がある。阪急電鉄にも宝塚線があるため、混同を避けるために愛称に「JR」と付けています。また尼崎~谷川間が大阪近郊区間に含まれ、JR宝塚線の区間はアーバンネットワークの路線の一つとなって、大阪と北近畿を結ぶ路線であると同時に、兵庫県東部の各都市から大阪への通勤・通学路線となっています。

武庫川、由良川など川沿いを進むため、生瀬 – 道場付近では武庫川の渓流の眺めを楽しめたりするなど、のどかなローカル路線の体であったが、宝塚~新三田間の複線電化を機に路線短縮化と客車普通列車らは姿を消し、沿線住宅開発の進展とJR東西線の開業などにより新型電車が行き交う通勤路線(アーバンネットワーク)となっています。太平洋と日本海を分ける本州で最も低い分水嶺の氷上(石上駅)を通るため、高低差やトンネルは少ないが、106.5kmながら直線区間がなくカーブが多い。
北近畿ビッグXネットワークの一角として以下の優等列車が運行されています。2004年10月16日に急行「だいせん」が廃止されてからは、夜行列車の運転は無くなり、昼行列車のみの運転となっています。

  • エル特急「北近畿」(新大阪 – 福知山・豊岡・城崎温泉:10.5往復)
  • 特急「文殊」(新大阪 – 北近畿タンゴ鉄道 – 天橋立:1往復)
  • 特急「タンゴエクスプローラー」(新大阪 – 北近畿タンゴ鉄道 – 宮津・豊岡:2往復)

路線データ

管轄(事業種別)西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)
路線距離(営業キロ)106.5km
駅数30駅(起終点駅含む。JR宝塚線としては23駅)
複線区間尼崎 – 篠山口間電化区間全線電化(直流1500V)
最高速度120km/h

※尼崎 – 新三田間はJR西日本大阪支社の直轄、新三田 – 福知山間は両端の駅を除き同・福知山支社篠山口鉄道部の管轄である。

東海道本線の大阪 – 尼崎間を含む大阪 – 篠山口間にJR宝塚線(ジェイアールたからづかせん)の愛称を持っています。また尼崎 – 谷川間は大阪近郊区間に含まれ、JR宝塚線の区間はアーバンネットワークの路線の一つとなっています。路線の起点は尼崎であるが、全ての列車が東海道本線経由で大阪駅、またはJR東西線と直通しています。

北近畿(きたきんき)とは、西日本旅客鉄道が新大阪駅~福知山駅・豊岡駅・城崎温泉駅間を福知山線(JR宝塚線)・山陰本線経由で運行するエル特急の名称である。北近畿ビッグXネットワークを形成する列車の1つである。

イメージカラーは黄色。走行路線の一つであるJR宝塚線のラインカラーにちなんでいる。

2015年10月31日より特急
北近畿」は廃止され、特急「こうのとり」を運用開始。

こうのとり 287系

写真:JR西日本

停車駅
新大阪駅 – 大阪駅 – 尼崎駅 – 宝塚駅 – 三田駅 – (新三田駅 – 相野駅) – 篠山口駅 – (谷川駅) – 柏原駅 – (石生駅 – 黒井駅 – 市島駅) – 福知山駅 – 和田山駅 – 八鹿駅 – 江原駅 – 豊岡駅 – 城崎温泉駅
括弧内の駅は一部列車が停車。

JR舞鶴線

舞鶴線(まいづるせん)は、京都府綾部市の綾部駅から京都府舞鶴市の東舞鶴駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)。
日本海軍の舞鶴鎮守府が置かれ、軍港として発展した舞鶴への鉄道として建設された。かつて出征者や引揚者の輸送で賑わった路線も現在は舞鶴市などへのビジネス利用や丹後・若狭地方への観光路線となっています。

路線データ
管轄(事業種別)西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)
路線距離(営業キロ)26.4km
駅数6駅(起終点駅含む)
複線区間なし(全線単線)
電化区間全線(直流1500V)

歩み

全区間JR西日本福知山支社の直轄である(1991年4月から2006年6月までは、同支社舞鶴鉄道部の管轄であった)。
京都 – 東舞鶴間に特急「まいづる」と「タンゴディスカバリー」が合わせて上り7本、下り8本運転されています。なお、土曜・休日・夏季には「まいづる」のうち1往復が小浜線の小浜駅まで乗り入れ、観光需要に応えています。
他の北近畿方面特急と異なり、大阪方面の列車は設定されていない(過去には「エーデル北近畿」として東舞鶴駅まで乗り入れていた時期もあった)。ちなみに東舞鶴 – 大阪間の距離は福知山経由 (152.9km) よりも京都経由 (145.4km) のほうが若干短い。

元は阪鶴鉄道・京都鉄道が計画していた路線だが、日露戦争を控え着工を急ぐ必要性から1904年に官設で福知山 – 綾部 – 新舞鶴(現在の東舞鶴)間と支線が開通、阪鶴鉄道に貸与されて開業した。支線として舞鶴港線(西舞鶴 – 舞鶴港間)や、出征者や戦場からの引揚者を運んだ中舞鶴線(東舞鶴 – 中舞鶴間)などを有していましたが、1985年までにすべて廃止。

摂津鉄道

川辺馬車鉄道会社が1891年(明治24年)に開業した尼崎~伊丹間の馬車鉄道を、軽便鉄道化したもの。当時の法律の制限があるため、川辺馬車鉄道の解散、新会社の設立の手順を踏んでいます。1893年(明治26年)12月に開業。伊丹~池田(川西池田)間に新線路を追加し、尼崎~池田を1日13便(尼崎始発:6:05 最終発:23:02)で運行しました。ただし、川辺馬車鉄道では許されていた平面交差が認められず、汽車が官線をまたぐことは許可されなかったため、長洲駅を官線(東海道本線)の北側と南側の2か所に分けて、乗客には歩いて乗り替えを行うこととなりました。興味深いことに貨物のみの通過は認められていた。馬車鉄道で尼崎~伊丹間が1時間を超えていたものが、わずか18分で交通できるようになりました。

1897年(明治30年)2月に阪鶴鉄道会社に合併されることとなる。

摂丹鉄道

1889年(明治22年)に設立された。兵庫県尼崎市(神崎)から京都府舞鶴市への鉄道建設をめざしたが免許は却下された。川西馬車鉄道(後の摂津鉄道)を設立した小西壮二郎(白雪/小西酒造)ら30名が発起人となり、1889年(明治22年)4月29日に設立された。川西馬車鉄道の計画を延伸する形で、当時、京都府第二の都市で、軍港として発展が見込める舞鶴へ至る鉄道敷設を目的としました。摂丹鉄道のほかにも、京鶴鉄道(京都~舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪~綾部~舞鶴)、南北鉄道(加古川~舞鶴)、播丹鉄道(姫路~生野~舞鶴)の4つの民営鉄道が舞鶴への鉄道敷設に名乗りをあげており、積極的な免許許可運動が展開された。

しかし、いずれの計画も採算困難であると予想され、また複数路線の並立で共倒れになると考えられたためいずれの路線も却下された。なお、摂丹鉄道が却下されると、小西らは再び川西馬車鉄道を推進しており、摂丹鉄道の基本構想は後の阪鶴鉄道に引き継がれています。

阪鶴鉄道

阪鶴鉄道(はんかくてつどう)は、大阪から福知山を経て舞鶴を結ぶ鉄道を運行していた鉄道会社。尼崎(のちの尼崎港)~池田(現在の川西池田駅)間で営業していた摂津鉄道に出資していた小西新右衛門らが大阪と、軍港を擁し日本海側の主要都市の1つであった舞鶴を結ぶ鉄道を計画。1895年(明治28年)に設立。

1897年(明治30年)に摂津鉄道を合併し、池田~宝塚間が開業。1899年(明治32年)には三田、篠山(現在の篠山口駅)、柏原と順次延伸され福知山南口(のちに廃止)まで開通。

しかし京都鉄道に京都~綾部~舞鶴間の認可が下ったため、福知山~舞鶴間の鉄道敷設は出来なかった。

1904年(明治37年)には、現在の福知山駅まで開通。その際に官製の線路であった福知山~舞鶴間を借りて大阪~舞鶴間の運行が可能となりました。舞鶴からは丹波・若狭地方との連絡のため宮津、境、小浜などへの連絡船も運営しました。

また、神崎(現JR尼崎駅)~大阪間も、官鉄線と並行しているという理由で認可が下りなかっため、塚口から官鉄線の神崎に接続し大阪までのルートを確保しました。なお、将来の輸送量の増加を考え、支線として池田~大阪間の鉄道敷設免許を受けた。

1907年(明治40年)8月1日に、鉄道国有法により帝国鉄道庁に尼ヶ崎~福知山間の営業を譲渡し国有となりJR福知山線の原型となりました。また、池田~大阪間の鉄道敷設免許は阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道に継承され、阪急宝塚本線の原型となりました。

北近畿鉄道物語-播但線

銀の馬車道~播但鉄道~JR播但線

播但線(ばんたんせん)は、兵庫県の中央部を流れる市川・円山川に沿って山陽本線と山陰本線を結ぶ、その名の通り陰陽連絡路線。日本の鉄道開業は、日本初の鉄道路線である新橋駅~横浜駅間が、1872年(明治5年)9月12日である。

1.日本最初の高速産業道路 「生野鉱山寮馬車道」

「銀の馬車道」は、日本最初の高速産業道路というべき馬車専用道路が、当時日本三大鉱山としての生野銀山と飾磨港の間、約49kmに1876年(明治9年)開通した。官設の馬車道で、生野鉱山道とも言う。正式には「生野鉱山寮馬車道」。
1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コアニエが選んだ技師レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事が始まった。道路を水田より60cm高くし、 あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がスムーズに走行できる工事が3年がかりで行われた。この馬車道により、物資を非常に早く輸送でき、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1まで低減したと言われている。
完成から約130年がたった今では、播但鉄道(現在のJR播但線)開通により物資輸送が鉄道にかわり、馬車道としては1921年(大正9年)に廃止となったが、その後も道路として利用された。現在でも国道312号などの一部に当時の面影を残している。一部は新幹線姫路駅になっている。

2.播但鉄道

1887年(明治20年)内藤利八、浅田貞次郎ら地元の数名が馬車鉄道で結ぶ計画を兵庫県知事に提出、将来は蒸気鉄道にする計画だった。この頃、舞鶴を目指す鉄道計画が、播丹鉄道(飾磨~生野~福知山~舞鶴。播但線の前身である播但鉄道とは別))をはじめ、京鶴鉄道(後に京都鉄道となる、京都~園部~舞鶴)、摂丹鉄道(尼崎~福知山~舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪~池田~園部~山家~舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪~池田~綾部~舞鶴)、南北鉄道(加古川~氷上~舞鶴)と6社の出願するところとなったが、乱立および計画不十分によりいずれも却下された。(ここに見える播丹鉄道と地元資本による馬車鉄道の関係は資料によって異なる。)
播但鉄道の設立は1893年(明治26年)で資本金は当初100万円、のち180万円。本社は、初め東京市京橋区(現中央区の一部)日吉町に設置されたが、その後さらに飾磨郡国衙村に移転している。和田山への敷設の仮免許は1894(明治27年)7月、本免許が1896年(明治29年)5月に下付された。そしてさらに1894年(明治27年)7月には、兵庫県津居山(現在の豊岡市、円山川の河口付近)への延長を出願した。この延長も京都鉄道、但馬鉄道との競願になったが、1896年(明治29年)5月に仮免許、翌年8月に本免許が下付された。
しかしこの後の経営は免許前の井上勝の具申書で予想されたように苦しく、生野~新井間の工事に着工したが、この区間は途中難工事が多く、そのため、1901年(明治34年)8月に新井まで開通したところで建設を終了した。1902年(明治35年)には、和田山-津居山間の敷設免許を返納。そして、翌年3月には山陽鉄道と売却の仮契約を結び、播但鉄道は解散することとなった。払込資本金113万円、社債86万円に対して山陽鉄道の年利6%の社債140万円が交付。
1903年(明治36年)5月30日に引き継がれた線路設備は路線35M57C、機関車6両、客車26両、貨車82両だった。開業駅は、飾磨-天神-亀山駅-豆腐町-姫路-京口-野里-仁豊野-香呂-溝口-福崎-甘地-鶴居-寺前-長谷-生野-新井。その後、新井~和田山間は山陽鉄道によって建設、1906年(明治39年)開業した。

3.国鉄播但線


旧和田山機関庫1912年(明治45年)3月に建築されたもので、旧豊岡機関区和田山支区のレンガ造りの車庫と給水塔が現在も残されている。車庫は1991年(平成3年)3月に支区が廃止されてからは倉庫として利用されている。屋根に「ふれあい リゾ-ト 北近畿」と書かれいる。たしかこの看板で「北近畿」というフレーズをはじめて知ったと思う。
1906年(明治39年)12月1日、鉄道国有法により山陽鉄道は国有化、飾磨~和田山間は官設鉄道の一部となり、後に播但線と名称が定められた。播但線を延伸する形で敷設された山陰本線の東部分、当時の山陰東線と合わせて陰陽連絡路線の一つが完成した。 播但線でも貨物扱いがあったが、線路規格が弱く、生野の峠を越えるため1000分の25の急勾配で、補機を設けていた他、C57の回送運用を兼ねて3重連牽引(私もさようならSL三十連に中学の時、カメラとカセット録音で乗車した。)もしばしば見られた。
生野峠での補機には、1960年(昭和35年)よりDF50型ディーゼル機関車が、また1969年(昭和44年)からはDD54型ディーゼル機関車が用いられた。1972年(昭和47年)の無煙化後は、山陰本線より転属してきたDD54型が旧型客車を牽引していたが、故障が多発していたため1979年(昭和54年)までに順次DD51型ディーゼル機関車やDE10型ディーゼル機関車に置き換えられた。

4.JR播但線


寺前 – 和田山間の非電化区間で使用されているキハ41形(キハ40系気動車の両運転台改造車)気動車
 姫路駅を除きJR西日本福知山支社の管轄である(うち、同支社直轄の和田山駅以外は福知山支社管轄の福崎鉄道部が管轄する。なお姫路駅は神戸支社の直轄)。

221系電車
 1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災の時には、東海道・山陽本線が寸断され、朝早いこともあり、車両が姫路方面の車両基地にあったため、加古川線(当時は非電化)と共に、迂回路線として使われていた。
古いトンネルが多く、開口面積が小さかったので、パンタグラフを外して、ディーゼル機関車で牽引して福知山運転所まで回送し、そこでパンタグラフを取り付けて福知山線方面へ自力回送した。なお、生野駅 – 新井駅間の生野トンネルは、特に開口面積が小さく、超低速で、かつトンネルの壁などに当たらない様に監視しながら通り抜けたようである。

2006年11月2日まで朝の通勤ラッシュ時間帯に使用されていた103系0番台R10編成103系電車

電化以前は基本的に姫新線と共通の運用であり、車両についても同じ運用であった。 また、姫路駅で山陽本線(JR神戸線)に接続しているが、機関車等は福知山機関区の所属機を運用していたため、いずれも寒冷地仕様であった。
姫路 – 寺前間の電化区間で主に使用される103系3500番台電車 智頭急行智頭線が開通して以降、この路線を走る優等列車は特急「はまかぜ」のみとなり、それ以外では地域輸送が主体となっている。普通列車については電化区間である姫路 – 寺前間と非電化区間である寺前 – 和田山間に運転系統が分かれており、全線を通して運転される列車はない。また姫路 – 福崎間の区間運転もある。
電化後、普通列車は主に103系3500番台が使用されており、うちH6編成は2008年(平成20年)3月から「銀の馬車道」のラッピングを施して運転されている。

5.急行 但 馬


キハ58
 まだ蒸気機関車が主力で走っていた1960(昭和35)年頃、但馬地方と姫路・京阪神を結ぶ急行「但馬(たじま)」号が生まれた。昭和35年10月にDC準急として生まれ、昭和41年3月5日に急行に昇格した。
最初はキハ28、キハ26などの3両編成で準急「たじま」上下1本で、昭和36年10月1日に漢字表記の「但馬」に変更となり、昭和37年3月1日ダイヤ改正で、播但線経由大阪~鳥取(下り1号、上り1号)と姫路~浜坂(下り2号、上り2号)の計4本運行となった。
昭和38年10月1日からは、準急「但馬・みまさか(上下但馬1号・上下みまさか1号)」として、大阪→鳥取・新見(下り但馬1号・下りみまさか1号)となり(みまさか3両、たじま9両、計12両連結車)、しかもM1号車は大阪~津山、M2、3号車は大阪~新見、T1~3号車は姫路~豊岡(但馬)、T4~9号車は大阪~鳥取(但馬)と、準急「きのさき・但馬・丹後」京都・姫路←城崎・天橋立・浜坂(上りきのさき・上り但馬2号・上り丹後4号)が誕生。3~1号車は姫路~浜坂(但馬)、A1~A3号車は京都~城崎(きのさき)、1~6号車は京都~天橋立(丹後4号)を12両連結(和田山駅連結)した列車だった。

昭和39年10月1日の改正で、準急「但馬・城崎」姫路・京都←浜坂・城崎(上り但馬2号・上りきのさき)7両編成A3~A1号車は京都~城崎(きのさき)、1~5号車は姫路~城崎(但馬)、準急「但馬・みまさか」10両大阪→鳥取・新見(下り但馬4号・下りみまさか1号)、*印の付いた1号車は大阪~津山(みまさか)、*印の付いた2、3号車は大阪~新見(みまさか)、6~12号車は大阪~鳥取(但馬)、1~5号車は姫路駅から「みまさか」を切り離した後、5両連結し12両編成姫路~豊岡(但馬)となります。大阪~鳥取・新見(上り但馬1号・上りみまさか1号)13両(3両みまさか、10両但馬)。昭和41年3月5日改正で「急行」に昇格となります。

昭和43年10月1日改正から、急行「但馬・伯耆・みまさか」大阪~米子・中国勝山・城崎(上り伯耆2号・上りみまさか3号・上り但馬3号)が誕生。1~6号車は大阪~城崎(但馬)、5両は大阪~米子(伯耆)、2両は大阪~中国勝山(みまさか) が誕生しますが、昭和45年10月1日に消滅。急行「但馬・みまさか」のみまさかは6両編成に変更。上り「但馬1号・上りみまさか1号」の姫路~豊岡(但馬)は2両に変更。
1996(平成8年)3月に廃止された。2004(平成16年)5月2日、1961年にデビューし、全国の急行列車として活躍したキハ28・58系の車両が2日、懐かしい国鉄時代の塗色で復活、急行「但馬」として大阪-豊岡(兵庫県)間を走った。

6.特急はまかぜ

 はまかぜは、西日本旅客鉄道(JR西日本)が大阪駅~香住駅・浜坂駅・鳥取駅間を東海道本線・山陽本線・播但線・山陰本線経由で運行する特急列車。兵庫県の但馬地方と県西部の中心都市・姫路市や県都・神戸市を結ぶ役割を持つ。
「まつかぜ」が廃止され、大阪・神戸対但馬・鳥取県東部直通列車が唯一となった。1986(昭和61)年より1994(平成6)年までの「スーパーはくと」運行まではその存在理由がはっきりとしていたが、智頭急行線開業以降同線を経由し、大阪・神戸対鳥取県東部直通では速達列車となった特急「スーパーはくと(153分)運行以降は、京阪神方面から鳥取駅へ行く場合は、1往復運転されているこの列車(267分)を使用するより智頭急行線の「スーパーはくと」(7往復)を利用する方が圧倒的に速く、運賃・料金も若干安価である。また、尼崎(大阪)~和田山駅間では、同じような時間帯に福知山線経由のエル特急「北近畿」が運行されており、先発の「はまかぜ」より後発の「北近畿」または、福知山駅乗換で「きのさき」か「タンゴエクスプローラー」・「文殊」の方が先着する事例もある。
2006年(平成18年)3月の寝台特急(ブルートレイン)「出雲」廃止後、余部鉄橋を通過する鳥取までの優等列車はこの「はまかぜ」のみとなっている。鳥取駅発着の06:05発「はまかぜ2号」は後発の06:39発「スーパーはくと2号」(智頭急行)に先着されている。また、08:53発「スーパーはくと4号」は、「はまかぜ5号」の約2時間後に大阪駅を発車するが、鳥取駅到着は5号のわずか55分後である。
しかし、2・5号は運行上鳥取発着であるが、他は香住駅・浜坂駅発着となっており、非電化区間の城崎温泉以西の但馬北西部の利用が主目的であるため。
2010年11月7日から京都総合運転所(2012年6月に吹田総合車両所京都支所に改組)に所属するキハ189系気動車が使用されている。

余部橋梁
京都総合運転所所属のキハ181系を使用する唯一のJRの定期列車。同系列は車両の老朽化が目立つため、新型車両への置き換え計画が挙がってもおかしくない状況であるが、現在の所、具体的な計画はまだない。そのため、 JRの気動車特急の中では最も古い車両を使用していることとなるが、逆に人気は高く、大阪駅や姫路駅などでは「はまかぜ」を撮影する鉄道ファンが日々増加している。現在国鉄時代に気動車優等列車に利用されていた「アルプスの牧場」の車内チャイムが今でも聴けるのも臨時列車を除けばこの列車だけである。

新大阪から大阪・神戸、姫路までは複々線の東海道本線・山陽本線を並行して走る快速電車をディーゼル気動車ながら特急のメンツたりと懸命に走る(大阪駅~姫路駅間 時速120km/h)姿は可愛いい。神戸港や瀬戸内海・明石海峡大橋が眺められ、姫路駅で進行方向が反対になる。播但線からは姫路城、難所の生野峠越え、城崎温泉、そして日本海とリアス式山陰海岸、桃観トンネル(山陰本線一長い)や余部鉄橋(高さ日本一)を通過する車窓は実に多彩で楽しい列車だ。「夢千代日記」(NHKドラマ人間模様・浜坂駅)「ふたりっ子」(1996年度下半期にNHK連続テレビ小説。香住町・城崎町)「砂の器」(TBS・鎧駅・鎧海岸)のロケ地の雰囲気が楽しめる(冬季余部鉄橋が強風で香住~浜坂間が運行停止することがある)。

掛け替え工事夏休みなどの長期休暇や冬季のいわゆる「カニ食い(ツアー)列車」などの多客時や臨時列車として、車両の貸し出しや臨時列車の運転(増発)、車両が1~4両増結される機会が多い。ただし「かにカニはまかぜ」については、最近は増発ではなく定期列車の増結で対応するようになっている。
運転本数・列車番号大阪駅~香住駅間 1往復(3・6号 多客時は浜坂駅まで延長)
大阪駅~浜坂駅間 1往復(1・4号 1・4号の姫路駅~浜坂駅間では、車内販売も行われている)
大阪駅~鳥取駅間 1往復(2・5号)
大阪駅~浜坂駅間 1往復(88・89号 ※多客臨時列車)
大阪駅~香住駅間 1往復(「かにカニはまかぜ」※冬期臨時列車)
特急はまかぜ(画像:JR西日本)

餘部鉄橋を通過するはまかぜ(画像:JR西日本)

停車駅()内の駅は一部列車が臨時停車。姫路駅では構内配線の関係で走行する方向が変わる(スイッチバック)。

大阪駅 – 三ノ宮駅 – 神戸駅 – 明石駅 -(加古川駅) – 姫路駅 – 福崎駅 – 寺前駅 – 生野駅 – 和田山駅 – 八鹿駅 – 江原駅 – 豊岡駅 – 城崎温泉駅 – 竹野駅 – (佐津駅) – 香住駅- (餘部駅) – 浜坂駅 – 岩美駅 – 鳥取駅

1971年(昭和46年)、キハ80系を使用し、臨時特別急行列車「ゆあみ」が秋季、「はくぎん」が冬季のそれぞれ週末に運転され、臨時ながら初めて播但線で特別急行列車を運転した。「はまかぜ」登場前の慣らし運転的意味あいも兼ねていたとされる。

同年3月15日、同区間特急「はまかぜ」新大阪~倉吉(下り1号、上り2号)、大阪~鳥取(下り2号、上り1号)が誕生。車両は気動車にキハ82が前後ろ各1両ずつとキロ80が1両、キハ80が3両の計6両編成。

桃観トンネル

1972年(昭和47年) 福知山線経由の特急「まつかぜ」の補完列車として、キハ80系を使用し、新大阪駅・大阪駅~鳥取駅・倉吉駅間を播但線経由となる特別急行列車「はまかぜ」の運転を開始。

「はまかぜ」は播但線内を無停車で運転されたため、急行である「但馬」との差別化は計られていた。1973年(昭和48年)10月1日、新大阪~倉吉(下り1号、上り2号)が7両に増設、昭和50年3月10日に下り1号、上り2号が、6両になり新大阪~米子なで延長されましたが、昭和51年10月1日には再び新大阪~倉吉となる。1982年(昭和57年7月1日から1984年(昭和59年)1月31日まで大阪~倉吉(1、4号)が8両編成になり、1985年(昭和60年3月14日から新大阪・大阪~鳥取に変更、1986年(昭和61年)11月1日から上下合わせて計6本に、1、6号は新大阪~倉吉に。3・4号は米子までとなる。1988年(昭和63年3月13日から5両編成になる。

1994年(平成6年)12月3日から大阪~浜坂(1、4号)、大阪~鳥取(3、2号)の計4本となる。1996年(平成8年)3月16日から大阪~浜坂(1、4号)、大阪~城崎(3、6号)、大阪~鳥取(5、2号)で全4両編成に、1997年(平成9年)3月8日、3、6号は大阪~香住までに延びた。

7.播但線沿革

播但線沿革
1876年(明治9年)現在の姫路市飾磨(しかま)~生野(いくの)銀山間には日本初の高速道路というべき「生野鉱山寮馬車道」が整備
1887年(明治20年)11月5日内藤利八、浅田貞次郎ら生野飾磨間馬車鉄道敷設願を知事に提出
1888年(明治21年)5月31日馬車鉄道認可
1889年(明治22年)10月18日飾磨~生野間の蒸気鉄道敷設を出願
1893年(明治26年)3月8日鉄道敷設の仮免許
 〃 5月30日測量が完了し、鉄道敷設の免許出願
 〃 6月30日鉄道敷設の本免許
〃 7月播但鉄道会社設立
1894年(明治27年)2月飾磨~生野敷設工事開始
 〃 7月生野~和田山間の仮免許
 〃 7月26日姫路~寺前間開業
1895年(明治28年)4月17日長谷~生野間、姫路~飾磨(後の飾磨港)3M31C開業
1896年(明治29)年5月23日生野~和田山の敷設本免許
1897年(明治30年)8月25日和田山~津居山間の本免許
 〃 10月30日生野~和田山間の本免許
1901年(明治34年)8月29日生野~新井間開業
1902年(明治35年)3月10日和田山~津居山間の工事竣工期間経過により免許返納
1903年(明治36年)5月31日播但鉄道解散
1903年(明治36年)6月1日山陽鉄道による営業開始
1906年(明治39年)4月1日新井~和田山間開業、播但線全線開通
 〃 12月1日山陽鉄道国有化
1952年(昭和27年)大阪駅~城崎駅(現:城崎温泉駅)間を播但線経由で運転する臨時快速列車「たじま」が設定される。
1953年(昭和28年)大阪駅~城崎駅間を播但線経由とする臨時快速列車「ゆあみ」の運転を開始する。
週末運転で下りは金曜日、上りは日曜日運転であった。
1955年(昭和30年)「たじま」定期列車化。
1956年(昭和31年)「たじま」上り始発駅を香住駅に変更。
1958年(昭和33年)「たじま」浜坂駅まで運転区間を延長。また、臨時列車「ゆあみ」を準急列車化。
1959年(昭和34年)4月6日生野 – 長谷間で蒸気機関車牽引の回送列車が脱線転覆。播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故。
1960(昭和35)10月但馬地方と姫路・京阪神を結ぶDC準急「但馬(たじま)」号が生まれた。同時に運転区間も大阪駅~鳥取駅間に変更。
1960年(昭和35年)「たじま」準急列車に昇格。
1961年(昭和36年)「たじま」名称を漢字書きの「但馬」に変更。
1962年(昭和37年)「但馬」に姫路駅発着列車が設定される。
1965年(昭和40年)「ゆあみ」の名称を「但馬」に変更。また、1往復増発され、「但馬」4往復での運転となる。
但し、大阪駅発着は2往復のままで、運転区間も従来の「たじま」・「ゆあみ」を踏襲する形で運転。
1966年(昭和41年)準急列車制度の変更により「但馬」 急行列車に昇格。
1971年(昭和46年)キハ80系を使用し、臨時特別急行列車「ゆあみ」が秋季、「はくぎん」が冬季のそれぞれ週末に運転され、臨時ながら初めて播但線で特別急行列車運転。「はまかぜ」登場前の慣らし運転的意味あいも兼ねていたとされる。
1972年(昭和47年)福知山線経由の特急「まつかぜ」の補完列車として、キハ80系を使用し無煙化(ディーゼル車)、新大阪駅・大阪駅~鳥取駅・倉吉駅間を播但線経由となる特別急行列車「はまかぜ」の運転を開始。「はまかぜ」は播但線内を無停車で運転されたため、急行である「但馬」との差別化は計られていた。
1975年(昭和50年)「はまかぜ」倉吉行を米子駅行きに変更し、鳥取・米子~小郡間に新設された特急「おき」との共通運用を開始。
1976年(昭和51年)「おき」の使用車両がキハ181系に変更された為、米子行きを倉吉行きに再変更。
1982年(昭和57年)「やくも」電車化に伴う余剰車両を割当てる形でキハ181系に車両変更。
1984年(昭和59年)2月1日飾磨港 – 飾磨間の貨物営業廃止。
1985年(昭和60年)「はまかぜ」全列車鳥取駅発着となる。
1986年(昭和61年)福知山線電化に伴い特急「まつかぜ」の運転が終了。これをカバーする目的で倉吉駅・米子駅発着列車を運転開始。また、「但馬」については大阪駅~豊岡駅間運行の列車と姫路駅~浜坂駅間の2往復に減少する。
1986年(昭和61年)11月1日飾磨港 – 姫路間 (5.6km) が廃止。
1987年(昭和62年4月1日国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道が承継。姫路 – 和田山間の貨物営業廃止。
1989年(平成元年)「但馬」 大阪駅乗り入れを臨時列車に格下げ。定期列車は全列車姫路駅発着となる。
1991年(平成3年)11月1日ワンマン運転開始。
1992年(平成4年)客車列車全廃。北陸地区より転属したキハ58系初期型を改造したキハ58系5500番台車(オールロングシート改造車)投入。
1993年(平成5年)全列車大阪駅発着となる。
1994年(平成6年)智頭急行智頭線開業。特急「スーパーはくと」運転開始により、運転区間を大阪駅~浜坂駅・鳥取駅間と短縮。3往復から2往復へ減便し、大阪駅~浜坂駅間、大阪駅~鳥取駅間各1往復とする。
1995年(平成7年)阪神大震災の影響により1月17日より3月31日まで全便全区間運休。
1996年(平成8年)姫路駅発着で同区間を運転していた急行「但馬」2往復のうち1往復を大阪駅まで延長の上、「はまかぜ」に格上げして城崎駅(多客期に限り香住駅)発着とし、残りの1往復は廃止とする。これによって「但馬」は定期列車としての運行を終了することとなり、大阪駅乗り入れの臨時「但馬81・82号」も「はまかぜ81・82号」として特急に格上げ。
それまで播但線内無停車であったが、この時より播但線内の福崎駅及び寺前駅に停車、特急料金も大阪駅~浜坂駅に関しては急行廃止の救済も兼ねて割安なB特急料金が新たに導入されることとなった。また、このころより「はまかぜ」の性格も兵庫県内移動が主体となる。
1998年(平成10年)姫路~寺前間電化。「はまかぜ」播但線内の停車駅に生野駅を追加。
2006年(平成18年)山陰本線余部鉄橋架け替えに伴う記念事業「鉄橋サミット」開催に伴う輸送列車として姫路駅~浜坂駅間を運行する急行列車「あまるべ」が運行。
使用車両は、キハ58・キハ282両一組の4両編成。金沢総合車両所・越前大野鉄道部所属車の国鉄色を用い、全車座席指定席で運行された。
2006年(平成18年)4月1日姫路 – 和田山間の全通100周年記念セレモニーが和田山駅で行われ、特製ヘッドマーク掲出運転や様々な記念関連イベント開催。
2008年(平成20年)12月22日姫路駅付近(約1.3km)が高架に切換予定。

100年の夢、氷ノ山越え3

●蘇武トンネルまもなく完成

時代は鉄道から自動車時代となって久しい。京都を起点として山口県まで結ぶ日本で3番目に長い国道9号が完成した。そして京都府宮津市から鳥取県米子市までを、日高町の清水豊町長が音頭を取って宮津市から米子市までの関係市町が国道482号昇格期成同盟を結成。そして国道に昇格し、難所として行き止まりだった下記の3ケ所が繋がるのである。このルートこそ、大正時代に故藤本俊郎が夢見た壮大なロマン、但馬鉄道計画そのものであり、完成するとかつて旧山陰道の最短ルートであった氷ノ山越えが百年の時を越えて復活することになる。冬季除雪もほとんどなく、国道9号の関宮町から若桜町を抜けるルートとしても期待が大きい。また、若桜、美方、関宮3町ともスキー場があり、トンネルを利用すれば30分単位での移動が可能となるし、蘇武トンネル開通によって神鍋高原も結ばれ、全く違うルートを利用してきた関西の主なスキー場の移動が、短時間でできるようになるのだ。

100年の夢、氷ノ山越え2

●氷ノ山越えと山陰本線計画

明治後期に鉄道敷設がさかんになると、舞鶴の軍港と大阪を結ぶ計画の阪鶴鉄道(現JR福知山線)が福知山まで完成。また、山陽鉄道(現JR山陽本線)、さらに姫路から和田山までを結ぶ播但鉄道(現JR播但線)が完成した。さらに京都から福知山そして福知山から舞鶴まで鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきたのだ。豊岡駅から国鉄宮津線(現北近畿丹後鉄道)、鳥取までは、内陸部の八鹿駅から若桜へ抜けるルートである。鳥取県郡家町こおげ駅を起点として若桜町までは敷設でき(旧国鉄若桜線、現若桜鉄道)ていたが、氷ノ山を貫く大トンネル工事は、当時のトンネル技術では困難なことから、明治42年頃には和田山から城崎まで北進していた鉄道から、余部鉄橋も難工事ではあったが海岸ルートに決まったのが、現在のJR山陰本線である。

100年の夢、氷ノ山越え1

●旧山陰道の最短ルート

氷ノ山トンネル 神戸新聞連載「100年の夢」の記事に、「戦国時代末期の天正三(一五七五)年、薩摩藩主島津家久の叔父中書家久は京や伊勢の神社仏閣にもうで、帰路山陰路をとった。六月十五日の日記の記述に「やなせ(山東町梁瀬)」「たかた(和田山町高田)」を通り「八木殿の町(八鹿町八木)に着」とある。翌日は「ひほの山(氷ノ山)」を越えて「つくよね(若桜町舂米)」に至っている。」とあり、氷ノ山越えは山陰道の最短ルートであり、兵庫県では関宮町大久保から現在の国道9号線の旧道とほぼ同じである。

若桜町舂米は、氷ノ山1,510Mの麓で、因幡・但馬・播磨・美作の四ケ国で最も標高の高い集落ながら、かなりの大きな戸数であることが、かつて峠の宿場町として栄えていたことを物語っている。