山陰・北陸に多い気多神社

山陰・北陸に多い気多神社

越中国一宮 射水神社

能登国が越中国の一部であった時代、越中国の一宮は現在の気多大社であったが、能登国を分立する際に二宮であった射水神社が越中国一宮とされた。物部氏→変更したい?

劔神社

越前国 福井県丹生郡越前町
越前国二宮
御祭神 素盞鳴尊

総社大神宮

越前国 福井県越前市(武生市)京町1-4-35
越前國総社 旧県社
御祭神 大己貴命

能登生国玉比古神社(気多本宮) 加賀国 石川県七尾市所口町ハ48
御祭神 大己貴命

能登国の式内社の能登生国玉比古神社の論社の一。  社伝では、大己貴命は始め出雲国より此の所口へ着き給ひしが、当国鹿島路の湖水に毒蛇棲み人民為に苦しめりと聞き給ひ往きてこれを退治し、遂に羽咋郡竹津浦に垂迹し給ふ。  孝元天皇の創建と伝わる古社。崇神天皇が当社の祭神の分霊を羽咋郡竹津浦に勧請し、当社を気多本宮と称した。前田利家、当社を字明神野へ遷し、社殿を造営し、神封として更に二十俵の地を寄進した。

氣多御子神社

加賀国 石川県小松市額見町サ-58
御祭神 「大己貴神(気多大神) 菊理媛神(白山大神) 天照皇大神(神明大神)」
この境内には、雑草が生えないという伝承がある。 延宝年間、社守の六兵衛が淵に入って禊をしていると、 淵に住む大亀が出現し、襲ってきたので捕えて殺そうとすると、 大亀は、末代まで境内の草を取り除く事を約束したので放免にした。

高瀬神社

越中国 富山県東砺波郡井波町高瀬291
御祭神 大己貴命 天活玉命 五十猛命
大己貴命が北陸平定を終え、出雲へ戻る時に、自らの御魂を国魂神として鎮め置いたのがはじめ。 故に、能登の気多大社と同神であると考えられている。

気多神社

越中国 富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063
御祭神 大己貴命と奴奈加波比売命
高岡市伏木は越中国国府や国分寺のあった地で、越中の中心地であった。当社は越中国一宮とされ、所在地の地名も「一ノ宮」であるが、越中国内には一宮を称する神社がほかに3社ある。旧県社。境内には越中国総社跡の伝承地がある。大伴神社が造られています。
天平宝字元年(757年)に越中国から能登国を分立する際、それまで越中の一宮とされていた気多大社から越中国府の近くに勧請を受けて創建された。それより前の養老2年(718年)に行基により創建されたとする伝承もある。

気多若宮神社

飛騨国 岐阜県飛騨市古川町上気多1297(旧吉城郡古川町)
御祭神 大巳貴神とその子の御井神

秋葉山本宮秋葉神社

遠江国 静岡県浜松市天竜区春野町領家(旧周智郡気多村)841
式内社 旧県社
御祭神 火之迦具土大神
春野町と龍山町の境界、赤石山脈の南端、 標高868mの秋葉山山頂に鎮座している。

出雲神社はどこにあったのか

先月3月に2度、消費税値上げもあり、今月4月に入って6日に出雲へ3度出かけた。

『延喜式神名帳』記載の出雲国式内社は、大社(名神大社)2座2社・小社185座の計187座と全国的にみても、奈良時代に都のあった大和国286、神宮のある伊勢253に次いで3番目に多い。式内社めぐりをするようになってあらかじめまわる順番の計画を練るのだが、東西に細長い地形に所在する出雲国の式内社は宍道湖を挟み、大半が島根半島ルートと国道9号線ルートに数珠つなぎに集中しており道順もわりと容易である。

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なぜ但馬に兵主神社が多いのか?

但馬には兵主神社がなぜ多いのか?式内って何?ご祭神はだれ?天日槍と関係ある?その素朴な疑問を解き明かすことをこのテーマとしています。
その謎を解き明かす貴重な史料に『国司文書 但馬故事記』『国司文書 但馬神社系譜伝』があります。

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兵主神社とは何か?!

1.概要

但馬内には式内社の兵主神社だけで7社.式外社5社、八幡神社摂社兵主神社2社、計14社。
但馬に隣接する鳥取県最東端の岩美町に佐弥乃兵主神社、許野乃兵主神社の式内兵主神社2社がある。同じく武神を祀る八幡神社、日吉(日枝)神社などは全国的な神社だが、他地方では兵主神社そのものが数が限られていて、極めて特異な例である。

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名神大 水谷神社の元の位置をさぐる

筑紫紀行は、尾張の商人、菱屋平七(別名吉田重房)が、伯父の商家「菱屋」を継ぎ40歳で楽隠居となり江戸から九州まで広く旅を楽しんだ。この紀行は享和2年(1802)3月名古屋を出て京・大坂を経由して九州長崎を旅したときの記録である。当時の旅行記として出版され、明治にも多く読まれていたようである。但馬の江戸享和期のようすが克明に記されているので興味深い。

筑紫紀行巻之九

「大川の岸を通りて二十軒計(ほど)行けば養父の宿。(高田より是まで二十五丁)人家二百軒ほど。商家大きなる造酒屋茶屋宿屋おほし。宿もよき宿多し。町の中通に溝川有り。町をはなれるは。道の両側松の並木のあるべき所に。桑をひとし植え並べたり一丁ばかり行けば左の方に水谷大明神の宮あり。これは神名帳に但馬国養父郡水谷神社とある御社か。坂を登りて随身門のあるより入りて拝す。

門は草葺き(かやぶき)、拝殿本社は檜皮葺き(ひはだぶき)なり。左の方にお猫さまの社とて小さき宮あり。宮の下なる小石をとり帰りて家に置く時は鼠を僻といふ。又しばし行きて五社明神の御社なり。是は神名帳に但馬国養父郡夜父座神社五座とある神社なるべし。

今は藪崎大明神と申すなり。また一丁ほど奥の方に。山の口の社といふあり。是は狼を神に祭る御社なりといへり。

「玄松子の記憶」さんによれば、「昔は禰高山山頂に上社、中腹に中社、麓の現在地に下社があったらしい。禰高山は、一名、水谷山とも称し、当社も、養父水谷大明神とも、水谷大社とも呼ばれていた。ただし、当地の式内社に水谷神社という名神大社が存在しており、当社との混同も考えられる。」

江戸の当時、一町(丁)は約109.09mであるから、養父の町を離れて松並木を通り、桑畑を一丁(約109.09m)ばかり行けば、左手に水谷神社の宮あり(神名帳にある当社か)。

またしばらく歩いて五社明神、これは神名帳の夜父座神社五座である。今は藪崎大明神という。また109mほど奥に山の口社あり、とある。今も養父神社の奥に山之口神社があるから、夜父座神社五座(養父神社)は移動していない。とすれば、養父市場から水谷神社まで約109.09m、さらに水谷神社から約109.09mに養父神社があることになるから、養父市場と養父神社のちょうど真ん中に水谷神社が存在していたことになるのだ。とすれば、江戸時代のこの水谷神社は、奥米地の同名の式内社水谷神社ではなく奥米地に遷座されたのではないだろうか。時代によって神社が遷った例は多い。

この時代には養父市場から109mほど歩いて左手に水谷神社の宮があったのは間違いない。が、筆者も養父神社は断定しているのにこの水谷大明神の宮が神名帳にあるその神社かわからないがとしている。

この水谷大明神の宮の坂を登りて随身門、門は草葺き、拝殿本社は檜皮葺きなり。左の方にお猫さまの小さき社。この神社が奥米地の水谷神社の分社であれば、奥米地の同名社よりご立派な社を建てるとは考えにくい。もちろん現在のまた養父神社後方の禰高山は、一名、水谷山とも称し、養父神社も、養父水谷大明神とも、水谷大社とも呼ばれていたという。

実際に養父市場の町はずれを今の大藪口バス停とすると、養父神社がある地点までは約500m。右手は大川の円山川、左手は山の斜面が続き、坂を登るとあるが、とてもそこそこの境内をもつ神社が建てられるべき余地も痕跡もないのだ。養父市場内には三柱神社があるが、町を離れて109mほど歩いて左手に水谷神社の宮と書いてあるし、この社は式内社ではないので違う。

養父郡は「和妙抄」では、糸井、石禾(いさわ)、養父、軽部、建屋、三方、大屋、遠佐(おさ)、浅間、養耆(やぎ)の10をあげる。

ちなみに養父を知らない人でやぶと読める人はいない。『播磨国風土記』は万葉仮名で夜父(ヤフ)と書いてある。大事なのは音だ。ヤフは、今風に発音すれば「よう」なのだ。太古はヤフと発音していたから夜父をかなとして充てていた。平安にかなが使われるようになり、漢字本来の意味を充てるようになって養を充てたのであろう。遠佐郷八鹿村もヤオカと発音し、屋岡神社(八鹿町八鹿)。現代かな使いまでは「やうか」と書いてようかと発音していた。養父の岡ならヤオカで意味が通じる。養耆(八木)は養父の端の意味ではないかという気がしてくる。

養父郡は日下部系図によれば、孝徳天皇第二の皇子表米王が、異族退治の勲功により養父郡の大領をさずかったとある。江戸期までは養父(市場)は二百軒あったというから、養父郡内はもとより、大名領の豊岡、出石の城下を除けば但馬一の町だ。

延喜式神名帳では、養父郡三十座 大 三座 小二十七座。
式内社・夜夫坐神社五座のうち二座が名神大、三座が小社。
(あとの大社は水谷神社)

今の御祭神は倉稻魂命 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命
五柱の神々を祀っているが、

『但馬考』では、
上社大己貴尊、中社倉稲魂尊・少彦名命、下社谿羽道主命・船帆足尼命
『養父郡誌』では、
上社保食神・五十猛命、中社少彦名命、下社谿羽道主命・船帆足尼命。
『特撰神名蝶』では、
大己貴命、四座不詳とあり、
『兵庫県神社誌』には、
倉稻魂命、五十猛命、少彦名命、谿羽道主命、船帆足尼命。

大己貴命(葦原志許乎命)が祭神であるとする理由は、『播磨国風土記』宍禾郡の記載にある、御方(御形)のの地名の由来の以下の記述。

天日槍命と葦原志許乎命が、黒土の志爾嵩に至り
おのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。
天日槍命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。
葦原志許乎命の投げた黒葛は、
一条が但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、
そして、最後の一条が御方に落ちたため、
三条(みかた:御方・御形)という地名となった。

天日槍命の投げた黒葛が出石に落ち、天日槍命を祭神とする出石神社があるように、また、気多郡に葦原志許乎命を祀る気多神社が鎮座するように
御方にも葦原志許乎命を祀る御方神社が鎮座するように養父郡にも、大己貴命を祀る当社・養父神社が存在するという。

禰高山山頂は一名、水谷山とも称したから、上社大己貴尊が水谷神社で別の道が手前にあった、下社がさらに109mほど街道を藪崎方面に行った養父神社の位置と考える。

江戸享和2年(1802)の旅行記だから、少なくとも水谷神社は禰高山山頂近くにあった。とすれば、なにも礎石や柱後など痕跡が残らないはずはない。養父神社がある谷はこの近辺ではここだけが随分と奥深いようだ。今後とも発掘調査に期待したい。

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因幡國八上郡の式内社

延喜式神名帳には、現在の鳥取県東部である因幡國には50座が記されており、そのうち大社1、小社49である。座というのは御祭神のことで1つの神社に主祭神が2座3座祀られている社もあり神社数ではない。但馬一宮出石神社など、伊豆志坐神社8座(並名神大)(出石神社)、夜夫坐神社5座(名神大2座、小3座)養父神社)と記されている例もある。

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた律令や格の細則『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた平安京が定めた日本最古の社格でそれを与えられた全国の神社一覧である。

「式内社 ○○神社」と書かれているのは、延喜式神名帳の小社を表す。式内大社はとくに「名神大」と記される。

山陰道神 560座 大 37座(就中一座月次新嘗。)小 523座で、式内社の数では、出雲187座、但馬131座、丹波:71座、丹後:65座、因幡:50座、石見:34座、隠岐:16座、伯耆:6座となっている。

因幡國:50座 大1小49。その郡別は、

・巨濃郡[コノ]:9座並小 (今の岩美郡)
・法美郡[ハフミ]:9座大1小8 (今の鳥取市千代川東岸部)
八上郡[ヤカム]:19座並小 (今の八頭郡)
・邑美郡[オフミ]:1座小  (今の鳥取市南部)
・高草郡[タカクサ]:7座並小 氣多郡に併合して消滅し気高郡になった。(今の鳥取市千代川西部)
・氣多郡[ケタミ]:5座並小 高草郡と合併して気高郡になった。(旧気高郡青谷町・鹿野町・気高町今の鳥取市西部)

因幡國のうち、八上(ヤカム)郡は今の八頭郡で鳥取県南東部にあたり、19座並小となっており、因幡国式内社50座の約4割弱にあたる19座が旧八上郡にある。

八上郡とは律令制度の古代因幡國の郡名で、『和名抄』には若桜、丹比(たじひ)、刑部(おさかべ)、亘理(わたり)、日部(くさかべ)、私部(きさいべ・きさいちべ)、土師(はじ)、大江(おえ)、散岐(さぬき)、佐井、石田、曳田(ひけた)の12が記されており、因幡国内で最大規模の郡であった。

以上のように、八上郡は群を抜いて式内社が多い。

また日本海よりも内陸部の八上郡が式内社が多いと言うことは、都(朝廷)からみてそのころの勢力図がどうだったのかといえば、大国主を祀る神社の代表は出雲大社(島根県出雲市)で、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる能登国一宮気多大社(大己貴神)や、国作大己貴神が円山川を切り開いて沼を開墾したと祀られる小田井神社(豊岡市)など、沿岸部は出雲を筆頭に石見、伯耆、因幡北部、但馬、丹後、若狭、越前、能登、越中の日本海沿岸部は出雲系のスサノオ(素戔男尊)、オオナムチ(大己貴神・大国主の若い頃の名前、『日本書紀』本文によるとスサノオの息子)、オオクニヌシ(大国主)や別称の葦原色許男神をそのまま祭神とする神社が多い。

そうした日本海沿岸一帯は出雲国家連合のような勢力圏が成立していてヤマト朝廷に併合されていったようである。

神社の特性として、勧請システム(他地域に引っ張ってくる)により、信仰エリアの拡大を図っていることから、オリジナルの神社が強いエリアというのは、逆に、他の信仰が入りにくいのではと考えることもできます。それは、神社が多い地域にも同様の事が伺え、新潟県、兵庫県、愛知県、福岡県といった米所として有名な産業地域若しくは、交易の中心地といった文化よりも産業発展が著しい地域の方がその数が多いという傾向を強めております。それは、こうした土地が、人と情報の流動性が激しいことの表れとみることも可能ではないかと考えられるのです。

ただ、これもあくまで指標のひとつに過ぎないので、先ずは、皆さんのご協力の元、神社人でも、こうした神社情報の体系化を進め、究極の日本の文化・歴史マップの完成に臨みたいと思っております。(神社人より)

八上郡といえば売沼神社の八上比売(八上姫)だ。式内社ではないが八頭郡には各所に八上比売の神社が大変多い。

オオクニヌシ(大国主)が因幡のヤガミヒメ(八上比売)を娶る、新羅の王子アメノヒボコ(天日槍)が但馬でアカルヒメ(阿加流比売神)を娶り但馬に住む、日本書紀においてはアカルヒメ(阿加流比売神)が結婚したのはアメノヒボコでなく、意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とされている若狭・越前一宮気比神宮と似た神話や日本書紀に記されているのも偶然ではないだろう。全く作り話なら同じような伝承が偶然にしても残るはずはないからだ。

大江神社三座「大己貴命、天穗日命、三穗津姫命」(八頭郡八頭町橋本)
都波只知上神社二座「素盞嗚尊、櫛名田比賣命」(鳥取市河原町佐貫)
塩野上神社二座「彦火火出見命、鹽土老翁」(八頭郡八頭町塩上)
都波奈弥神社二座「素盞嗚尊、櫛名田比賣命」(鳥取市河原町和奈見)
伊蘇乃佐只神社二座「神直毘神、大直毘神」(八頭郡八頭町安井宿)
多加牟久神社二座「大己貴神、事代主神」(鳥取市河原町本鹿)
意非神社「天饒日尊」(八頭郡若桜町屋堂羅)
売沼神社「八上比賣神」(鳥取市河原町曳田)
和多理神社「左留陀比古神」(八頭郡八頭町郡家殿)
久多美神社「伊弉諾尊、伊弉册尊 配 鹽土老翁」(鳥取市河原町谷一木)
布留多知神社「素盞嗚尊」(八頭郡八頭町重枝)
美幣沼神社「太玉命 合 瀬織津姫神、保食神」(八頭郡八頭町篠波)

平安時代末期に同郡東部が八東郡として分離し、『和名抄』にみえる土師、大江、散岐、佐井、石田、曳田の6が中世以降の八上郡を構成した。

各神社の内容はこちら
神社拾遺

神社の格式と但馬国の神社数

「神社人データベース」によると、神社の数は、全国およそ8万8,000社以上に上ると言われ、仏教系寺院よりも数が多く、日本で最も多い文化建造物のひとつとなります。その内、有人神社(神職者が常駐している社)は、2万社程度とも言われておりますが、実態は定かではありません。

文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」に掲載されている各都道府県別の神社の数になり、その数、8万8,585社となりますが、摂社末社を含めれば、20~30万社に上るとも言われ、神社人DBでも、ほぼ登録を終えた東京都(2,309社)や沖縄県(59社)が、それ以上の数に達していることから、約1.3~1.5倍程度のボリュームが実際には見込まれるのではないかと考えています。

ただ、非常に興味深いのが、神社の数の少ない都道府県は、

・和歌山県:熊野神社
・香川県:金刀比羅宮
・三重県:伊勢神宮
・宮崎県:高千穂
・島根県:出雲大社

といった有名な神社が存在する地域に集中しているというのがあります。これは、神社の特性として、勧請システム(他地域に引っ張ってくる)により、信仰エリアの拡大を図っていることから、オリジナルの神社が強いエリアというのは、逆に、他の信仰が入りにくいのではと考えることもできます。それは、神社が多い地域にも同様の事が伺え、新潟県、兵庫県、愛知県、福岡県といった米所として有名な産業地域若しくは、交易の中心地といった文化よりも産業発展が著しい地域の方がその数が多いという傾向を強めております。それは、こうした土地が、人と情報の流動性が激しいことの表れとみることも可能ではないかと考えられるのです。

兵庫県は全国でも神社が多い地域で、新潟県に次いで第二位。
神社数(文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」より)

三千社以上は

新潟県 4,933
兵庫県 4,243
愛知県 3,885
福岡県 3,806
岐阜県 3,440
千葉県 3,391
福島県 3,170
静岡県 3,070

の順です。

ただし、神社の数の少ない都道府県として島根県をあげていますが、日本最古の社格と呼ばれる「延喜式神名帳」(延喜年間(901~923)に編纂されたため延喜式と称され、平安期は延喜式神明帳)の式内社では、
大和國:286座 大128小158
出雲国:187座 大2小185
となりますから、やはり島根県は格式の高い神社が多いことになります。

神名帳は、単なる当時の神社総数目録を意味するのではなく、当時、律令制における一機関である神祇官(じんぎかん)が、神社を統括するようになり、彼らが、由緒正しき霊威ある神社を認定するとの趣向で編纂されたものとなります。そのため、ここに掲載されるということは、当時として、非常に格式が高い神社と認められたことになります(この制度を官社制度と言います)。具体的には、この式内社は、大枠2種、官幣(かんぺい)社、国幣(くにべつ)社に分類され、更に、それぞれ大小に区分される計4種の神社に選別されます。

官幣社:朝廷管理(現在で言うところの中央政府管理)
=官幣大社:198社304座/官幣小社 :375社433座
国幣社:各国国司管理(現在で言うところの各都道府県庁管理)
=国幣大社:155社188座/国幣小社:2133社2207座

この場合の大小は、当時の社勢の違いによるものとされておりました。また、官幣社が、中央直轄系となるため、京都を中心とした畿内に集中し、国幣社は、逆に、全て畿外(地方)に指定されています。更には、これら式内社の中から、特にその霊験が著しく高いという意味を込めて、「名神」のタイトルを賜る神社もあり、その全てが大社であったことから、「名神大社」と呼ばれる神社もありました。因に、この時に、「神宮」の称号を付されていたのが、伊勢神宮と鹿島神宮、香取神宮の三社のみであり、こちらもかなり別格扱いされていたということが分かります。ただ、そんな官社制度も律令制が崩壊後、中央の基準から外れることとなり、明治時代に改めて、官幣社/国幣社を用いた社格制度が復活するようになります。しかし、そのタイトルは同じでも、意味は、相当異なるため、こちらの場合には、やはり「式内社」と表記された上で、実際の社格が表示されるなどの違いがあるため、十分な注意が必要です。

「延喜式神名帳」には、全国で大492座、小2640座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、多い順に大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。

新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社(官幣大社)304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

かつての「延喜式神名帳」の旧国別でも、但馬国の式内社数の多さに驚きます。

但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

大小合わせて131座というのは、例えば

大和國:286座 大128 小158
伊勢國:253座 大14 小235
出雲国:187座 大2 小185
近江国:155座 大13 小142
※但馬国:131座 大18 小113
越前國:126座 大8 小118

近隣で比べると、

丹波国:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭国:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨国:50座 大7 小43

となっているので遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。

桜井勉 校補但馬考

朝来(あさご)郡

此地ニ朝來山トイウフ名所アリ、取リテ郡ノ名トセリ、俗ニハ、此郡ニイマス栗鹿ノ神、國中ノ一宮ユヘ、諸ノ神タチ、朝コトニ来タリマミエ玉フ、故に、朝來郡ト名ツケシト云ハ、憶説ナラン、スヘテ、郡郷ノ名ハ、其地名ヲ取テ名ツクルヤ、古(故)実ナリ、

倭名類聚抄 郷八
山口 桑市 伊田 賀都(かつ) 東河(とが) 朝来 栗賀(あわが) 磯部
村数七十九
延喜式神名帳曰九座 大一座、小八座
栗賀神社(名神大) 朝来石部(あさごのいそべ) 刀我石部(とがのいそべ) 兵主神社 赤渕 伊由 倭文(しとり) 足鹿 佐嚢(さな)

養父(やぶ)郡

倭名類聚抄 郷十
糸井 石禾(いさわ) 養父 軽部 大屋 三方 遠屋 養耆(やぎ) 浅間 遠佐(おさ)
延喜式神名帳曰三十座 大三座、小二十七座
夜夫坐(やぶにいます)五座(名神大二座、小三座) 宇留波 水谷(名神大) 浅間 屋岡 伊久刀 楯縫 兵主神社 男坂 伊伎都比古阿流知命神社二座 井上(いのへ)二座 手谷 坂盖(さかき) 保奈麻 葛(たづ) 大輿比 桐原 盈岡(みつおか) 更杵村大兵主神社 御井 名草 杜内 和奈美 夜伎村坐山(やきむらにすの)

出石(いずし)郡

倭名類聚抄 郷七
小坂 安美(あみ) 出石 室野 埴野 高橋 資母
村数七十八

延喜式神名帳曰二十三座 大九座、小十四座
伊豆志座神社八座(並名神大) 御出石神社(名神大) 桐野神社 諸杉神社 須流神社 佐々伎神社 日出神社 須義神社 小野神社 手谷神社 中島神社 大生部兵主神社 阿牟加神社 比遅神社 石部神社 小坂神社

気多(けた)郡

倭名類聚抄 郷八
太多 三方 楽前(ささのくま) 高田 日置 高生(たかふ) 狭沼(さの) 賀陽(かや)
村数七十四(佐野含む)

延喜式神名帳曰二十一座 大四座、小十七座
多麻良伎神社 気多神社 葦田神社 三野神社 売布神社 鷹貫神社 久斗寸兵主神社 日置神社 楯縫神社 井田神社 思徃(おもひやり)神社 御井神社 高負神社 佐久神社 神門(かんと)神社 伊智神社 須谷(藤井)神社 山神社(名神大) 戸(と)神社(名神大) 雷(いかづち)神社(名神大) [木蜀]椒(ほそき)神社(名神大)

城崎郡

倭名類聚抄 郷六
新田10 城崎14(佐野含む) 三江 奈佐 田結 餘部

延喜式神名帳曰二十一座、大一座、小二十座
物部神社 久麻神社 穴目杵(あなめき)神社 女代神社 輿佐伎神社 布久比神社 耳井神社 桃島神社 兵主神社 深坂(ふかさか)神社 兵主神社二座 気比神社 久流比神社 重浪(しぎなみ)神社 縣神社 酒垂神社 西刀(にしと)神社 海神社(名神大)

美含(みぐみ)郡

風土記(古老伝)
郷十三、神社五所
倭名類聚抄 郷六

佐須 竹野(たかの) 香住 美含(みぐみ) 長井 餘部
村数 佐須二十 竹野二十九 香住八 長井十一 餘部二

延喜式神名帳曰十二座 井小
佐受神社 鷹野神社 伊伎佐神社三座
法庭(のりば)神社 美伊神社 椋橋(たらはし)神社
阿故谷神社 桑原神社 色来(いろく)神社 丹生(にふ)神社

二方(ふたがた)郡

倭名類聚抄 郷九 村数五十四
久斗7 二方5 田公(たきみ)7 大庭7 八太(はだ)11 陽口? 刀岐? 熊野? 温泉(ゆ)16

延喜式神名帳曰五座井小
二方神社 大家神社 大歳神社 面沼(めぬ)神社 須加(すか)神社

七美(しつみ)郡

倭名類聚抄 郷五 村数七十三
兎束(うつか)14 七美14 小代20 射添(いそふ)13 駅家12
延喜式神名帳曰十座 井小
多他神社 小代神社二座 志都美神社二座 伊曾布神社 等余(とよ)神社 高坂神社 黒野神社 春木神社