なぜ但馬に兵主神社が多いのか?

但馬には兵主神社がなぜ多いのか?式内って何?ご祭神はだれ?天日槍と関係ある?その素朴な疑問を解き明かすことをこのテーマとしています。
その謎を解き明かす貴重な史料に『国司文書 但馬故事記』『国司文書 但馬神社系譜伝』があります。

概 要

兵主神社は兵主神(ひょうず)を祀る神社である。武運の神(武神)で、すなわち大巳貴命(オオナムチ)または素戔嗚尊(スサノオ)などを祀る。

同じく武神を祀る代表的な神社が八幡神を祀る八幡神社。八幡信仰は中世以降におこり、大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社として全国に約44,000社ある。清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた 。八幡神はホムダワケ(誉田別命=応神天皇)と同一とされる。 八幡宮、八幡社 、八幡神社などと表記・呼称される。

同じく武士が崇敬したものに、比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた山王信仰(さんのうしんこう) があり 、大山咋神と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日吉神社、または日枝神社、山王社、山王神社などと表記・呼称される。 日本全国に約3,800社ある。 それらは全国的な神社だが、兵主神社(ひょうずじんじゃ)そのものが数が限られていて、他地方では極めて特異な例である。

よく誤解されるものに、兵主神社は天日槍と関係しているのではないかというもので、『豊岡市史』には、次のように書かれている。

この社名をもつ神社は式内社に限られ、しかも式内社中、その数が最も多く十八社ある。但馬では五社六座あり、1全国の兵主神社の三割を占め、そのすべてが円山川水系に沿って鎮座している。2
豊岡市域は兵主神社の数では全国一である。兵主とは、中国の天主・地主など八神中の武神のことで、兵器を造った神であった。3
この中国大陸の神が日本で祀られているのは、漢人が奉じてきたものと考えられていて、但馬では漢人が、かつて渡来して円山川水系を遡って、ここかしこに集落を構え、祖先の国から持ち伝えた神を祀り、異域の地で精神的なよりどころとしたのであろう。
4
ところが、兵主神社のある地方には漢人関係の伝説や史跡はほとんどなく、祭神は兵主神社であるよりも須佐之男命や大国主命が多いことから、荒ぶる神のことではないかともいわれている。しかし、但馬の場合は天日槍(あめのひぼこ)の帰来伝説地帯の近くに、兵主神社が分布5しているので、やはり大陸との深い関わりを示すものといえるだろう。4
兵主神社図
1.兵主神社の数

※「兵主神社一覧」を参照

「豊岡市史」の*1
「兵主神社」は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内社が19社記載されている。
大和国2、和泉国1、三河国1、近江国2、丹波国1、但馬国7、因幡国2、播磨国2、壱岐島1、計19座分布しており、但馬国7と因幡国2で、合わせると9社となり山陰地方に集中している。

まず*1の式内社に限られであるが、但馬内の兵主神社は、式内社だけではない。五社六座ではなく、式内社だけで7社、その他に式外社は5社、もとは兵主神社であったと思われる新温泉町湯と久谷の八幡神社摂社兵主神社2社を合わせるともっと多く、その他小社も合わせると計14社ある。(兵庫県神社庁記載の神社参考)

「豊岡市史」に五社とあるのは、大生部兵主神社の論社が奥野と薬王寺に2箇所あり、赤石・山本の兵主神社を同一のものとしてそれぞれ1社と計上したのではないか。

しかし、「延喜式神名帳」(えんぎしきじんみょうちょう・平安時代後期(927) 但馬国の項に、兵主神社はそれぞれ記載され7社となっているので正確ではないといえる。
さらに、但馬に隣接する鳥取県東端の岩美町にも式内社で佐弥乃兵主神社(さみのひょうす )、許野乃兵主神社(こののひょうす )の式内兵主神社が2社があるので、但馬及び因幡東部とすべきで山陰東部とすべきであろう。いずれにせよ兵主神社そのものが全国的には稀な社名で但馬と因幡東部のエリアで集中しており、こうした例は他地域では皆無である。

*1式内社

「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。 延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。
式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定の背景には政治色が強くみえる。当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。

官幣社と国幣社の別があり、官社とは、毎年2月の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける神社のことで、その後、延暦17年(年)に、引き続き神祇官から幣帛を受ける官幣社と、国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられた。『延喜式』の祝詞の条に記される幣帛の品目としては、布帛、衣服、武具、神酒、神饌などがある。

全国で兵主神社とあるもの

その中で名神大社1は
・兵主大社 八千矛神(大国主神) 滋賀県野洲市五条566
・穴師坐兵主神社 兵主神(御食津神)・大兵主神
2
奈良県桜井市穴師町1065
・壱岐国兵主神社 素盞嗚尊 大己貴神 事代主神
長崎県壱岐市芦辺町深江本村触1616
のみである。

*1名神 ? 特に霊験著しい「名神」を祀る、臨時祭の名神祭が行われる神社。全てが大社であるため名神大社(名神大)という。
*2 大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある。

2.分布

「豊岡市史」の
*2 そのすべてが円山川水系に沿って鎮座している。
*5天日槍(あめのひぼこ)の帰来伝説地帯の近くに、兵主神社が分布している。

とするが、朝来市山東町柿坪、豊岡市但東町薬王寺、〃日高町久斗などは、円山川水系といってもその支流であり、山あいの裾野にあり、円山川水系にとくに関連付けられる場所ではない。
また、新温泉町(温泉町・浜坂町)や鳥取県岩美町のように円山川以外の岸田川や岩美町の蒲生川にも後述する軍団と兵主神社があり、円山川流域というより国・郡単位とみるべきだろう。

天日槍については『国司文書 但馬故事記第五巻・出石郡故事記』が記すのみで、他の郡故事記に天日槍に関する記載は一切登場しない。また、宿南 保 先生は、「天日槍伝承のある出石郡と養父郡糸井は更杵村のみ」*で、最初の兵主神社がつくられた朝来郡と城崎郡・気多郡など他の郡では一切登場しない。

*但馬史研究「糸井連と池田古墳長持型石棺の持ち主」宿南 保 第31号 平成20.3

3.祭 神

「豊岡市史」3.兵主とは、中国の天主・地主など八神中の武神のことで、兵器を造った神であった。
4.但馬では漢人が、かつて渡来して円山川水系を遡って、ここかしこに集落を構え、祖先の国から持ち伝えた神を祀り、異域の地で精神的なよりどころとしたのであろう。
について

兵主神

兵主神は、武神、軍神として、各地にある兵主神社に祭られる神。実際に祭られるのは大貴己神、素戔嗚尊などの神だが、兵主神の名は『古事記』『日本書紀』にまったく登場せず、『日本三代実録』(901年成立)にみえる例が最初であること、『史記』封禅書に載せる諸神の中に「兵主」という神がみえることなどから、これは日本固有の神ではなく中国の「兵主」蚩尤(しゆう)に由来する外来神ではないかとする説もある。また、『延喜式』神名帳には19の兵主神社が出ているが、但馬国(兵庫県北部)にある7社を中心にして、山陰地方に集中することが指摘されている。
朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版(佐佐木隆)

但馬の兵主神社は、兵主神・大兵主神はすなわち素盞嗚尊、大己貴命、その他祭神の総称であり、中国の天主・地主など八神中の武神のことで、兵器を造った神
ではない。
兵庫県北部以外でも、大国主すなわち大巳貴命(オオナムチ)か、素戔嗚尊(スサノオ)である。

・兵主大社(滋賀県野洲市・名神大) 八千矛神(やちほこのかみ)(大国主神)
・大兵主神社(奈良県桜井市穴師 )  大兵主神・兵主神・若御魂神
※式内社の穴師坐兵主神社(兵主神) 、穴師大兵主神社(大兵主神:大国主命か素盞嗚尊)、巻向坐若御魂神社(若御魂神) の三社を合祀したもの
・射楯兵主神社(姫路市総社本町) 射楯大神(国津神)
※飾磨郡因達里(現姫路市新在家本町)の神、兵主大神(大己貴命と伝えられる)

4.年 代

『国司文書 但馬故事記』(814-975)
『国司文書 但馬神社系譜伝』(973)
『国司文書 但馬郷名記抄』(975)

現存する風土記で『出雲国風土記』があるが、人皇52代陽成天皇の御代焼失した『但馬国風土記』の再現を意図したと但馬故事記や大観録に記されている。編纂者は但馬国府の国学者数名。

天日槍の推定年代

『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡、
第六代孝安天皇の五十三年(欠史八代の天皇で事蹟は定かではないが、推定紀元前339頃と思われる)、
新羅(しらぎ)(新羅、紀元356年- 935年)なので当時は存在しない国 )の王子・天日槍命(あめのひぼこのみこと)が帰化す。
天日槍命は、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の御子・稲飯命(いないのみこと)五世の孫なり。
(中略)

さて天皇は、ついに天日槍命に多遅摩(タチマ・タヂマ)を賜う。
61年春2月、天日槍命を以て、多遅麻国造(初代)と為す。

『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡
人皇15代神功皇后45年(245)、新羅は朝貢せず。将軍である荒田別命(あらたわけのみこと・豊城入彦命4世の孫)・鹿我別命(かがわけのみこと・大彦命の末裔)は、新羅に行き、これを征伐する。
比自[火本](ひしほ)・南加羅・啄国(とくのくに)・安羅(やすら)・多羅・卓淳(とくじゅ)・加羅の七国を平定す。なお兵を移して西に廻り、古奚津(こけつ)に至る。南蛮(ありひしのから)を倒し、百済(くだら)に行く。

49年、新羅朝貢せず。荒田別命の子・多奇波世君を責む。白鹿を獲って帰り、これを献上す。重ねて、その弟の田道公を遣わす。新羅はあなどり反(そむ)く。田道公はこれを撃破し、4邑の人民を捕虜にして帰る。(『国司文書 但馬故事記』気多郡)

人皇56代水尾天皇の貞観10年閏12月21日、但馬国正六位上・菅神に従五位下を授く。新羅征伐の功によるなり。

※豊岡市出石町袴狭遺跡から出土した16隻からなる大船団 を描いた線刻画のある木製品 (板材)

※新羅(しらぎ/しんら、紀元356年- 935年)

3 世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られている。

出石町安良、豊岡市加陽(かや)の地名が現存する。安羅・加羅
5.但馬国の軍団
軍団
軍団は、7世紀末か8世紀初めから11世紀までの日本に設けられた軍事組織。個々の軍団は、所在地の名前に「軍団」をつけて玉造軍団などと呼ばれたり、「団」を付けて「玉造団」などと呼ばれた。国家が人民から兵士を指名・徴兵し、民政機構である郡とは別立てで組織した。当初は全国に多数置かれたが、辺境・要地を除き一時的に停止されたこともあり、826年には東北辺境を除いて廃止された。

軍団は、一つの国に最低一つ、大きな国には複数置かれた。軍団の指揮系統は郡以下の地方組織に対応しており、指揮官の大毅と少毅は郡司層から選ばれた。軍団は数個郡に一つの割合で存在し、一個は国府所在郡の郡家近くに置かれ、残りの軍団も他の郡家の近くに駐屯して、訓練に従事した。

軍毅(ぐんき) 軍団の官職のことで、構成は
大毅- 少毅 ? 校尉 ? 旅帥 ? 隊正 ? 火長 ? (伍長)
軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。
(ウィキペディア)

但馬国の軍団

「日高町史」によれば、但馬に設置された地域軍団の名称が確実に判るのは「養父団」と「気多団」の二つだけで、気多広井という名前がある。

気多団 管轄…出石・気多・城崎・美含四郡
朝来団 管轄…朝来・夜夫・七美三郡

※ 養父団以前は朝来郡・養父郡の軍団は朝来にあったので「朝来団」と名付ける (山根)

天平18年(746 )、気多団から城崎郡・美含郡を管轄する城崎団(仮称)が分立
6.『但記』にみる軍団と兵主神社の建立年代順

『国司文書 但馬故事記』第一条・気多郡に、
人皇37代孝徳天皇の大化3年(647)、多遅麻国気多郡高田村において、兵庫(ヤグラ)を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以って軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管どらせる。 (高田村は今の久斗)
宇麻志摩遅命の六世孫・伊香色男命(いかしこお)の末裔、矢集連高負(やずめのむらじたかふ)を以って、大穀(だいき)と為し、
大売布命の末裔・楯石連大禰布を以って少穀(しょうき)と為す。
景行天皇の皇子・稲瀬入彦命の四世孫・阿良都命の末裔、佐伯直・猪熊および波佐麻を校尉(こうい)と為し、
道臣命の末裔、大伴宿禰神矢および的羽(いくは)の武矢・勇矢を以って旅師(ろそち)と為し、
伊多(井田・伊福、今の鶴岡)首の末裔貴志麻侶、葦田首の末裔千足、石作部の末裔石井、日置部の末裔多麻雄、楯縫部の末裔(今の鶴岡多田谷)鉾多知(ほこたち)、美努(三野・今の野々庄)連の末裔、嘉津男等を以って隊正(たいしょう)と為す。

凡そ軍行においては、即ち、
弓一張、征箭1(そや) 50隻、太刀一口、一火、
駄馬6頭、一隊の駄馬50頭、一旅の駄馬80頭、一軍団の駄馬600頭(5人を伍と為し、10人を火と為し、50人を隊と為し、100人を旅と為し、千人をいちぐんだんと為す)
1 征箭 戦場で使う矢。狩り矢・的矢などに対していう。)

革鼓2面 軍穀これを掌り、大角2口 校尉これを掌り、
小角4口 旅師これを掌り、努弓(いしゆみ)2張 隊正これを掌り、
兵庫は主帳これを掌る。

能登臣命の末裔、広麿を以って主帳に任じ、兵器の出納および調達を掌らせ、兵卒を招集し、非常を警備し、駅鈴(えきれい)2を鳴らす。
駅鈴は鈴蔵に蔵し、国司これを掌り、典鑰(てんやく)
3これを出納し、健児(こんでい)*4これを守衛する。

*2 駅鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴である。646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴発させた。駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をした。

*3 典鑰(てんやく)とは、律令制において中務省に属した品官(ほんかん)である。和訓は「かぎのつかさ」。

*4 健児 奈良時代から平安時代における地方軍事力として整備された軍団。)

美含の郡司、桑原臣多奇市の四世孫、吉井麿は鈴蔵の典鑰と為る。
葦田氏は、剣(つるぎ)・鉾(ほこ)・鏑(かぶらや)・鏃(やじり)を鍛え、
矢作(やはぎ)氏は、弓矢を作り、楯縫氏は、革楯・木楯を作る。
箭竹(やだけ)は竹貫氏これを調進し、矢羽は、鳥取部これを調進す。
矢作の檀(まゆみ)は、真弓氏これを調進し、鞘柄(さやつか)は、栗栖氏これを調進す。
石矛・石鎚は、石作氏これを調進す。すべて鋳物は、伊多氏これお調進す。

矢作連(やはぎのむらじ)は経津主命(ふつぬしのみこと)の末裔なり。大穀、矢集連高負これを大和国に召し、多田(太田)村に置く。
真弓氏は二方国造、真弓射早彦の子なり。檀(まゆみ)を二方国真弓岡に徴し、これを作る。檀岡は山公峯男の領行する所なり。
竹貫氏はいわゆる武貫彦命の末裔なり。篠竹を篠丘に徴し、これを作る。篠民部村これなり。(今の豊岡市日高町篠垣)
鳥取部氏はいわゆる美努連の末裔なり。
栗栖氏は宇麻志摩遅命の末裔なり。

(『国司文書 但馬故事記』第一条・気多郡)

『但馬故事記』にみる兵主神社の建立年次順

人皇37代孝徳天皇の大化3年(647)、多遅麻国朝来郡朝来村において、兵庫(やぐら)を造り、郡の甲弓矢を収集し、以って軍団を置き、朝来・夜夫(養父)・七美三郡を管どる。
主帳・朝来直智嘉麻呂は兵主の神を兵庫の側に祀り、兵庫守護の霊神と為し、かつ己の祖・天砺目命(あめのとちめ のみこと)をその下座に合わせ祀る。(式内兵主神社:大己貴命 朝来市山東町柿坪972)
(『国司文書 但馬故事記』第二巻・朝来郡)

人皇37代孝徳天皇二年5月、二方国造真弓射早彦命に勅して、当国の甲冑および弓矢を広い場所に収め、兵庫(やぐら)を作り、軍団を設けしめ給う。
物部連(もののべのむらじ)武田折命(武田背だろう)の末裔湯母竹田連面沼(めぬま)を以て、大穀と為し、(湯母は今の湯村)
(中略)・・・当国の大穀・竹田連面沼(めぬ・めぬま)は、これにおいて兵主神を祀り、軍団の守護神と為す。これを射所兵主神社*1と云う。またその祖・武田折命を兵頭丘に祀り、面沼神社と称え祀る。(式内 面沼神社:新温泉町竹田)
(『国司文書 但馬故事記』第八巻・二方郡)
*1射所兵主神社は今の新温泉町湯1560-2 の八幡神社摂社兵主神社と推定する。射所は湯処ともとれる。(山根)

人皇40代天武天皇の白凰12年(683)夏閏4月、 (城崎郡司)物部韓国連久々比(・からくにのむらじ くぐひ)は勅を奉じ、兵馬・器械を具え、陣法博士・大生部了(オホフベノサトル)を招き子弟豪族を集め、武事を講習す。かつ兵庫を赤石原(現豊岡市赤石)に設け、以て兵器を蔵(おさ)む。
楯縫連(たてぬいのむらじ)須賀雄を召し、奈佐村に置き、部属を率いて、楯・甲冑を作らせる。
葦田首(あしだのおびと)金児を召し、三江村に置き、矛および刀剣を作らしむ。
矢作連(やはぎのむらじ)諸鷹を召し、永井村に置き、弓矢を作らせ、これを兵庫に納む。(美方郡香美町香住区長井あり)
物部韓国連久々比は兵主神を赤石丘に祀り、兵庫の守護神と為す。祭神は武素戔嗚神なり。(式内兵主神社:豊岡市赤石1861-3 )
楯縫連須賀雄はその祖・彦狹知命(ひこさしり-)藤森に祀り、楯縫神社と称す。(また藤森神社と云う)
葦田首金児はその祖・天目一箇命(あめのまひとつ-)を金岡森に祀り、葦田神社と称す。(また金岡神社と云う)(豊岡市金剛寺)
矢作連諸鷹はその祖・経津主神(ふつぬし-)を鳥迷羅(トリミハリ)丘に祀り、矢作神社と称す。(また鳥迷羅神社と云う。今の豊岡市戸牧)
(『国司文書 但馬故事記』第四巻・城崎郡)

人皇40代天武天皇の4年秋7月朔、小錦上・大伴連国麿を以て大使と為し、小錦下・三宅吉士入石を以て副使と為し、新羅に差し遣わす。
人皇40代天武天皇12年冬10月、三宅吉士神床は姓(かばね)連を賜る。これより先夏閏4月、三宅吉士神床、勅を奉じ、子弟豪族を集め、兵馬器械を具え、陣法博士・大生部了(オホフベノサトル)を招き、武事を講習す。かつ兵庫を高橋邑に設け、兵器を蔵む。大生部了は大兵主神を兵庫の側に祀る。 (式内 大生部兵主神社*2:豊岡市但東町薬王寺)。
大兵主神は、素戔嗚尊(すさのお-)・甕槌命(かめづち-)・経津主命(ふつぬし-)・宇麻志摩遅命(うましまち-)・天忍日命(あめのおしひ-)である。
*1 高橋村 『国司文書 但馬郷名記抄』に、高槁郷大生部村。今の豊岡市但東町薬王寺。薬王寺の旧地名は大生部村、高槁村(今の高橋小学校区)

*2 式内 大生部兵主神社は、論社2社、穴見郷大生部兵主神社 や一説に伊福部神社も加える説もある。『国司文書 但馬故事記』に奥野に関する記述はない。三宅宿禰神床が陣法博士大生部了に武事を講習させた人で、薬王寺から三宅に近い奥野に遷したとすれば、陣法博士・大生部了を祀るものとして奥野に大生部兵主神社を建立したと考えられるが、脱稿した天暦五年(951)以降であろう。
後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。 穴見郷大生部兵主神社 豊岡市三宅字大森47 は、大生部了の子孫または、三宅連が三宅村に建立したのではないか。ちなみに穴見郷は「和名類聚抄」(和名抄)編纂時、安美郷(アミ)を間違えて穴見と記したものでそのまま伝わったものであろう。朝来郡伊由郷を伊田郷、建屋郷を遠屋郷と誤記もある。(山根)
(『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡)

人皇40代天武天皇の白凰12年(683)夏5月、
七美郡司黒野麿は、勅を奉じ、兵馬器械を具え、武事を講習す。兵庫を小代村に設け、兵器を納む。黒野麿は、兵主神を兵庫に祀り、兵庫守護神と為す。   (『国司文書 但馬故事記』第七巻・七美郡)

※兵主神社  美方郡香美町隼人字宮前195-1
〃     〃   九斗152-2

人皇41代持統天皇2年(688)秋7月、 三宅宿祢神床は、陣法博士・大生部了(オホフノサトル)を率い養父郡更杵(さらきね)村に至り、一国の壮丁の四分の一を招集し、武事を講習す。またその地に兵庫を設ける。また大兵主神を祀る。これを更杵村兵主神社と云う。(朝来市和田山町寺内字宮谷 )
※壮丁(そうてい)* 成年男子
(『国司文書 但馬故事記』第三巻・養父郡・第五巻・出石郡ほぼ共通)

人皇41代持統天皇の巳丑(つちのとうし、きちゅう)三年(689)秋7月、左右の京職および諸の国司に令して的場(いくはば)を築かしむ。
国司務広参*1、榛原公鹿我麿は、気多郡馬方原に的場(イクハバ)を設け、的臣羽知(いくはおみのはぢ)を以て令(長官)と為す。的臣羽知はその祖・葛城城襲津彦命(かつらぎ の そつひこ)を馬方原に祀り、的場神社と称す。(今の萬場神社:豊岡市日高町河畑、羽知が今の日高町羽尻)
巳丑三年(689)閏(うるう)8月、 進大弐 忍海部(オシヌミベ)の広足を以って多遅麻の大穀と為し、生民四分の一を点呼し、武事を講習させる。 広足は陣法にくわしく、兼ねて教典に通じ、神祗を崇敬し、礼典を始める。
*1 国司務広参 天武位階で、明大壱から進広肆まで48階ある。務広参は30番目。

兵主(ヘイズ)神を久刀村の兵庫の側(かたわら)に祀り、(式内 久刀寸兵主神社:兵庫県豊岡市日高町久斗字クルビ491 )
高負神を高田丘に祀り、(式内 高負神社:〃 夏栗)
大売布命を射楯丘に祀り、(式内 売布神社:〃 国分寺)
軍団の守護神となし、軍団守護の三神と称す。
(『国司文書 但馬故事記』第一条・気多郡)
(註 延喜式神名帳の久刀寸兵主神社については、久刀村(久斗村)の誤記だろう 山根)

人皇41代持統天皇の三年(689)秋7月、本郡の壮丁及び美含郡の壮丁(そうてい)*等は気多郡馬方原(三方)に至り、当国の大毅忍海部広足に就いて、兵士の調練を受け、帰りて楯野調練所に集まり練習す。
(『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡、第四巻・城崎郡 共通)

人皇42代文武天皇の庚子(こうし)四年春三月、二方国を廃し、但馬国に合わせ、二方郡と為す。
(『国司文書 但馬故事記』第八巻・二方郡)

人皇44代元正天皇養老3年(719)冬10月 機業の拡張をし、当郡の兵庫を浅間邑に遷し、健児所(こんでいどころ)を置く。
伊久刀首雄を、判官とし、大蔵宿祢散味を、主典と為す。
伊久刀首雄は、兵主神を浅倉に祀り(式内 兵主神社 兵庫県豊岡市日高町浅倉202)、その祖・雷大臣命を赤坂丘に祀る。
兵主神社・伊久刀神社はこれなり。(式内 伊久刀神社:兵庫県豊岡市日高町赤崎字家ノ上438)
(『国司文書 但馬故事記』第三巻・養父郡)

人皇45代聖武天皇の天平18年(746) 冬12月、本郡の兵庫を山本村に遷し、城崎・美含二郡の壮丁を召集し、兵士に充て、武事を調練す。佐伯直岸麿を以て判官と為し、佐伯直岸麿は兵主神(素戔嗚尊・武甕槌神)を山本村に祀り、主典火撫(ひなづ)直・浅茅はその祖・阿智王を火撫丘に祀る。(式内兵主神社:豊岡市山本字鶴ヶ城100-1 、火撫は今の豊岡市日撫)
(『国司文書 但馬故事記』第四巻・城崎郡)
※兵主神社 須佐之男命  豊岡市竹野町芦谷小155 はこの頃か?

人皇45代聖武天皇の天平19年(747) 冬十月、二方軍団を廃し、健児所(こんでい)とす。健児所を二方郷*に遷し、健児(ケゴ)5人を置き、兵庫および鈴蔵を守らせ、二方首大井麿をもって健児所判官と為す。(註:二方郷 浜坂町岸田川東岸)
二方首大井麿は、兵主神社を兵庫丘に祀る。兵主神社是なり。

(『国司文書 但馬故事記』第八巻・二方郡)

(新温泉町久谷の八幡神社摂社兵主神社と推定する。指杭・田井の兵主神社は分祀社か? 山根)

人皇46代(45代)聖武天皇の天平、
本国の大毅正八位上、忍海部の広足を因幡に遣わし、従七位下、川人部の広井を以て大毅と為す。

人皇50代桓武天皇の延暦三年(784)冬12月、本国従六位上、川人部広井 私物を集めて公用に供す。勅して外従五位下を賜う。
四年春2月、川人部広井 本姓を改め、高田臣を賜う。

人皇52代嵯峨天皇の大同五年(810)夏5月11日、兵士三百人を以て健児(こんでい)と為し、健児一人ごとに馬子二人を置く。
弘仁三年(812)春正月 従五位下、良峰朝臣安世を但馬介と為し、国学寮として但馬故事記を撰(えら)ましむ。これを国司文書と云う。
解状を郡司に下し、旧事を記録して進めしむ。国学の頭(かみ)文部吉士良道、国学の助(すけ)菅野資道(ともみち)充(じょう)真神田首尊良、国学の属(さかん)陽候史真佐伎これに参与す。

◎但馬に兵主神社が多いことについての考察

天日槍命と兵主神社は年代が約1000年異なるので直接に軍団・兵主神社設置とは無関係とする。
・新羅(しらぎ)の王子・天日槍命(あめのひぼこのみこと)が帰化したのは、第六代孝安天皇の五十三年は推定紀元前339。
・律令制導入の動きが本格化し軍団・兵主神社が設置されたのは、660年代に入ってから。
660年の百済滅亡と、663年の百済復興戦争(白村江の戦い)での敗北により、唐・新羅との対立関係が決定的に悪化し、倭朝廷は深刻な国際的危機に直面した。そこで朝廷は、まず国防力の増強を図ることとした。危機感を共有した支配階級は団結融和へと向かい、当時の天智天皇は豪族を再編成するとともに、官僚制を急速で整備するなど、挙国的な国制改革を精力的に進めていった。その結果、大王(天皇)へ権力が集中することになった。
その後の701年に、大宝律令が制定・施行され、日本という国号と最初の制度的元号(大宝)が正式に定められた。
したがって、風土記、記紀編纂時には律令制は取り入れてもそのまま中国の制度を用いたものではなく、但馬国にも軍団が置かれ、郡の兵庫に兵主神社を建て兵主神を祀ったようである。
中国の神を知っていたか否かは分からないが、神社そのものが日本古来の風習としてあったものだし、兵士(軍団)の神を兵主神とし、日本の武神、大己貴命(大国主)、素戔嗚尊にを祀った。

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