たじまる 奈良6

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

日本最古の歴史書.1

1.日本の思想~他者によって描かれた日本

日本の思想とは、日本列島の上に日本語で展開されてきた思想です。原初的な意識を含め思想というなら、その意識のはじまりがどのような様子だったかを探ることは容易なことではありません。無文字文化をさぐる方法はないのです。五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。
わたしたちは史書として、『古事記』をもって最古の思想作品としています。原始の日本のようすは、ようやく八世紀にあらわれた『古事記』『日本書紀』あるいは『万葉集』といったテキストによるしかありません。その成立にはさまざまの説がありますが、日本という自己意識の最古のものの名残という点は異論の余地はないようです。

2.『古事記』と『日本書紀』


『古事記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵『古事記』と『日本書紀』(以下、『記紀』)は、七世紀後半、天武天皇の命によって編纂されました。『古事記』成立の背景は、漢文体で書かれた序文から知ることができます。それによれば、当時、天皇の系譜・事蹟そして神話などを記した『帝紀』(帝皇日継(すめらみことのひつぎ))と『旧辞』(先代旧辞(さきつよのふること))という書物があり、諸氏族の伝承に誤りが多いので正し、これらを稗田阿礼(ひえだのあれ)に二十九年間かけて、誦習(しょうしゅう)(古典などを繰り返して勉強すること)を命じ、たのが『古事記』全三巻です。
その後元明天皇の711年(和銅四年)、太安万侶(おおのやすまろ)が四ヶ月かけて阿礼の誦習していたものを筆録させ、これを完成し、翌712年に献上したことを伝えます。
一方、皇族をはじめ多くの編纂者が、『帝紀』『旧辞』以外にも中国・朝鮮の書なども使い、三十九年かけて編纂したのが、前三十巻と系図一巻から成る大著『日本書紀』です。『古事記』が献上された八年後の720年(養老四年)には『日本書紀』が作られました。『日本書紀』は「一曰く」として、本文のほかに多くの別伝が併記されています。神代は二巻にまとめられ、以降は編年ごとに記事が並べられ、時代が下るほど詳しく書かれています。
大化の改新後のあらたな国家建設と大和朝廷の集権化のなかで、国の歴史を残そうとする試みが繰り返されてきました。その一端として、『日本書紀』620年の推古紀の箇所では、聖徳太子と蘇我馬子が「共に議(はか)りて」天皇記および国記、また臣下の豪族の「本記」を記録したと伝えます。『記紀』はそうした自己認識への継続した努力のなかから生まれたものでした。ではどうして、同じ時代に『記紀』という二つの異なった歴史書が編纂されたのでしょうか。

それは二つの書物の違いから想像できます。『記紀』が編纂された七世紀、天平文化が華開く直前です。すでに日本は外国との交流が盛んで、外交に通用する正史をもつ必要がありました。当時の東アジアにおける共通言語は漢語(中国語)であり、正史たる『日本書紀』は漢語によって綴られました。また『日本書紀』は中国の正史の編纂方法を採用し、公式の記録としての性格が強いことからも、広く海外に向けて書かれたものだと考えられます。
それに対し、日本語の要素を生かして音訓混合の独特な文章で天皇家の歴史を綴ったのが『古事記』です。編纂当時、まだ仮名は成立していなかったため、漢語だけでは日本語の音を伝えることはできませんでした。そのため『古事記』の本文は非常に難解なものになり、後世に『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者・本居宣長ですら、『古事記』を読み解くのに実に三十五年の歳月を費やします。
ところで本居は全四十四巻から成る古事記研究書の『古事記伝』を著し、『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないことを述べ、『古事記』を最上の書と評価しました。

歴史物語の形式をとり、文学的要素の強い『古事記』は、天皇家による統治の由来を周知させ伝承するために記したテキストで、氏族の系譜について『日本書紀』よりも詳しく記されています。当時の日本人の世界観・価値観・宗教観を物語る貴重な資料であり、これがおよそ千三百年前間伝承されてきたことには大きな意義があります。

3.『古事記』

『記紀』はその叙述の仕方に大きな差が見られます。『古事記』は本分が一つの主題で貫かれていますが、『日本書紀』の神代の部分は、筋を持った本文を掲げてはいますが、それにつづき複数の異なる伝承を「一書曰(あるふみにいはく)」として並列して掲げています。そのなかには『古事記』に一致するものもあれば、そうでないものもあります。『記紀』の神話は、その叙述態度・叙述の様相をかなり異にしていることは確かです。

『古事記』は「序」と「上巻」「中巻」「下巻」の三巻からなります。

「序」には古事記編纂の意図とその経緯が上表文の形をとって説明されています。(日本書紀には序は無い)。序の末尾の日付と署名によって和銅5年(712)正月28日に太安万侶が撰進したことがわかりますが、この事は「続日本紀」には記録されていません。(日本書紀は記録されている)。
「上巻」は神代の時代から神武天皇の誕生まで、「中巻」は神武天皇から応神天皇まで、「下巻」は仁徳天皇から推古天皇までの事績が描かれています。この中で、古事記の成立について記録している部分は「序」です。言い換えれば、古事記の成立について書かれたものはこの序文しかありません。

冒頭の「序」は、漢文体で書かれ、変体漢文を屈指した本文とはやや異なった体裁ですが、
「この世のはじめはくらくてはっきりしないが、この教えによって国と島の生成を知り、神が生まれ人をたてた時代を知ることができる」と、神代は遠くなったが、神代になった国土が「大八洲(おほやしまぐに)」として時間的に展開していく様を描いたという次第が述べられます。

「上巻」の神代では、高天原の「天地のはじめ(天地開闢(てんちかいびゃく))」、イザナキ・イザナミ男女二神の神生み国生み、黄泉の国、天の岩戸と天照大御神(あまてらすおおみかみ)、出雲を舞台に追放されたスサノヲと大蛇退治、大国主の国づくり・国譲り・海幸山幸」、それにつづき日向を中心とする天孫の天降り等と続き、さらに神武天皇までの出来事や系譜が描かれています。中巻以降の人代は、神武天皇から推古天皇に至るまでの神話的伝説・歴史あるいは歌謡の大系であり、多層にわたる要素がこめられています。

ここでは天皇の国土統治の始源・由来が語られており、漢文体で書かれ歌謡は一音一字の仮名で記され、古語の表記・発音をあますところなく伝えています。

3.神話は「真実」を語る

世界中にはさまざまな神話があります。キリスト教を例にすると、『旧約聖書』は神が六日間で世界をつくったという「天地創造神話」から書き始められています。これも記紀神話の国生み同様、科学的にはあり得ません。同書の大洪水にまつわる「ノアの箱舟伝説」や、また『新約聖書』の「福音書」には、マリアが処女懐胎してキリストを身ごもるという逸話が紹介されていますが、科学的には人が単独で受胎するはずはありません。
聖書学では『聖書』は史実を記した歴史書ではなく、当時の信仰が記された信仰書であると理解されていますが、「聖書の記述は史実ではない」という主張は欧米社会には存在しないのです。『聖書』の史実性を議論することはまったく無意味であり、読み方としては誤っているのです。記紀神話についても同じで、たとえば「天孫降臨は非科学的であり史実ではない」との主張は、「マリアの処女懐胎は非科学的であり史実ではない」というのと同じだけ愚かな主張なのです。と竹田恒泰氏は『旧皇族が語る天皇の日本史』で述べています。
しかし、一見事実ではないと思われる神話の記述には、事実でなくとも真実が含まれている場合があります。欧米社会では、天地創造神話にもとづき、神が六日で天地を想像し、七日目に休息を取ったとの神話にもとづいて、七日目を日曜日として休日とし、教会でミサが行われます。アメリカでは大統領が就任するときに『聖書』に手を当てて誓いを立てます。『聖書』に書かれたことはすべて、事実性はともかく、「真実」であると見なされます。

4.『日本書紀』と祝日

そして日本も、『古事記』『日本書紀』に書かれたことが「真実」であることを前提に国が形成され、運用されています。記紀と日常の生活のつながりは実感することはありませんが、記紀は現在のわが国のあり方、そして国民生活に絶大なる影響を与えています。
たとえば祝日が挙げられます。いかなる国も建国を祝う日は祝日とされ、国を挙げて盛大な祝賀を行います。わが国の「建国記念日」は2月11日で、戦前まで「紀元節」と呼ばれていました。この日は初代の神武天皇が即位した日であり、記紀の記述を根拠としています。ほかには、11月23日の「勤労感謝の日」は、宮中祭祀のなかでも最も重要な祭祀の一つ、新嘗祭が行われる日です。新嘗祭の起源は『日本書紀』の、天照大御神が天孫に稲穂を授けて降臨させ、その後、稲穂を用いて祭儀を行ったことに由来します。その他にも「天皇誕生日」がそうです。。

4.天地のはじまりの神話

『古事記』は、天智の開闢をもってはじまります。
天地(あめつち)初めて発(ひら)けし(発(おこ)りし)時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき。この冒頭部分を、一神教の聖典『旧約聖書』の冒頭部分におかれた創世記とくらべるだけでも、この多神教的な世界の形成が明らかになります。神は複数性をはらんで生まれること、またこの神たちは、創世記のようにこの宇宙ないし世界を創造したのではなく、世界の生成とともに、「成った」存在として描かれていること、しかも姿をかき消すことで、世界と一体化し、その後の世界の奥に潜む生成力ないし力動性の根源というかたちで描かれていることです。そのことは人の生成にも関わります。人は、『古事記』では、「青人草(あをひとぐさ)」と表現されますが、その起源は必ずしも明確ではなく力動性を秘めた世界の一構成員としてあります。このことは天つ神のいる「高天原」という領域が、ひとつの完結した世界として描かれるのではなく、物語の展開のなかで、あくまでも神と人とが生き織りなす「葦原中国(あしはらなかつくに)」という領域の生成と展開へと物語が収斂していくことと関わっているのでしょう。神世七代の神々の最後に一対の男女神、イザナキ(伊耶那岐命)、イザナミ(伊耶那美命)が生まれる。「葦原中国」は、天つ神による、いまだ不定形の国土を「修理固成(おさめつくりかためなせ)」との命を受けた、この二神聖婚・性的交わりによってできる。命を受け、潮を「かきなし」たとき滴った塩が固まってできたオノゴロシマ(淡路島)に降り立った、この男女二柱の神は、国土・自然は神そのものであると描く。国土の生成の描写は、本州の西の島々、瀬戸内海にその記述は厚く、後の記述でも本州は今日の糸魚川あたりまでであることなどに、当時の地理感覚があらわれています。
この冒頭に展開するイザナキ・イザナミ神話は、人間の生活に資する文化的生の起源話であるとともに、人間の生と死の起源の神話ともなっています。『古事記』にみる限り、国生み・神生み神話の「生む」型と、開闢(かいびゃく)の「成る」型の二重性の解釈は単純ではなく、津田左右吉のいう政治的作為があるとみなすこともできます。

5.高天原の神の降臨

「葦原中国(あしはらなかつくに)」の呼称は、高天原からの命名でした。国生み神話に続く、天つ神の領域の物語は、イザナキの黄泉の国からの帰還を期に生まれた、三柱の尊い御子(三貴子)[*2]のうちアマテラスとスサノヲをめぐって展開します。海原を支配せよとの父イザナキの命に背いたスサノヲは高天原にのぼり、乱暴をはたらく。弟に最初は理解を示した妹もついに怒り、岩屋戸に隠れ世界は闇に支配されす。神々の機知でふたたび世は光が戻りますが、スサノヲは追放されます。追放されたスサノヲは、出雲で大蛇を退治するなどの功績を残し、根の堅州国の支配者となります。

「中巻」は初代神武天皇から15代応神天皇までを扱っています。ここにみる神武東征は「天神御子」の「天降り」とされ、古事記においても史実としてより神話として書かれたもののようにも思えます。上巻の延長のような気もするのだ。古代豪族は、殆どがその祖を天皇家にあるとしたものが多いが、その多くがこの中巻に記された応神天皇までに祖を求めています。仁徳天皇以後のいわゆる皇別氏族は数えるほどです。これはこの時代が、神と人との混じり合った曖昧模糊とした時代だった事を豪族達も看破していた事を物語っています。

自家版帝紀に都合のいい系図を書き入れ、太安万侶へ持参した者もいたかもしれない。古事記は古代豪族の研究にとってもかかせない資料としての価値が高いが、原資料として採用された旧辞は混合玉石だったことを忘れてはなりません。

下巻は16代仁徳天皇から33代推古天皇までを扱っています。仁徳天皇以下、履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻の各天皇、そして33代推古迄の天皇紀です。
それぞれの天皇の事績については、「天皇陵めぐり」のコーナーを参照していただきたいが、その内容はご存じのよ
うに波瀾万丈の恋物語と皇位をめぐる争いの歴史です。大雑把に言えば、下巻時代の始まりが弥生時代を抜けて古
墳時代へ移っていく時代のように思える。倭の五王の時代もここです。

古事記は日本書紀に比べれば、顕宗・仁賢天皇以降の各記には事績が殆ど記されていない。継体天皇記は特にその差が顕著です。それ故、24代仁賢から33代推古天皇までの十代を「欠史十代」と呼ぶ見方もあります

これは古事記編纂者の隠蔽工作なのかそれとも、古墳時代の皇位継承の争いに明け暮れる中で、記録など皆無だった時代背景をそのまま反映しているのでしょうか。或いは、仁徳以後の皇別氏族が少ないことは、時代が新しいので虚史を主張しがたいのかもしれません。中巻が、いわば神人未分化の時代だとすれば、下巻は人代の時代と言えるでしょう。

古事記が推古天皇までで終わっていることについてもさまざまな見解があります。推古の次の舒明天皇は天智・天武の父です。あまりにも身近なため、天武としては稿を改めて詳述する必要を感じ、とりあえず推古で止めたのだろうと言われています。その別稿は日本書紀に結実しているわけです


[*2]…三貴子(みはしらのうずのみこ)とは記紀神話で黄泉の国から帰ってきたイザナギが黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちた三柱の神々のことである。三貴神(さんきし・さんきしん)とも呼ばれる。

  • アマテラス – イザナギの左目から生まれたとされる女神。太陽神。
  • ツクヨミ – イザナギの右目から生まれたとされる男神(女神とする説もある)。夜を統べる月神。
  • スサノオ – イザナギの鼻から生まれたとされる男神。海原の神。
    引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之▲ページTOPへ

たじまる 奈良5

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

但馬国分寺

但馬国分寺

国分寺(こくぶんじ)は、天平13年(西暦741年)、聖武天皇の国分寺建立の詔(みことのり)を受けて、国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ)とともに建立を命じた寺院です。正式名称は

  • 国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
  • 国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)です。
    前者には護国の教典『金光明経』十部が置かれ、封五十戸・僧二十人が配されました。後者には滅罪の教典『法華経』十部が置かれ、水田十町・尼十人が配されたといわれています。まさに仏教の力によって国家の安泰と発展を実現することが祈願されたのです。
    各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれました。多くの場合、国府(国庁)とともにその国の最大の建築物でした。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられました。さらに天皇は二年後の天平十五年、『華厳経』の教主である廬舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像(大仏)を造立することを宣言する詔を発しました。天皇は自らが天下の富を注いでこの事業を完遂するという決意を述べるとともに、多くの人々が結縁のために、たとい「一枝の草、一把の土」でも協力してくれるよう、呼びかけました。大仏が大仏殿と共に一応完成したのは、天平勝宝元年(749)です。それは諸国の資源と民衆の労力と、そして主に渡来人の人々の技術を総動員して遂行された国家的大事業でした。『続日本紀』が記す「人民苦辛」の程度も相当なものだったと推測されます。四年、来日していたインド僧のボーディセーナ(菩提せん那)を導師として、盛大な大仏開眼の法会が行われました。参列した僧侶は一万人に及び、諸外国の舞楽が奉納されたといわれます。それは文字通り国際的な大イベントでした。


礎石

律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れました。ただし、中世以後もかなりの数の国分寺は、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、あるいは後世において再興されるなどして、現在まで維持しているところもあるそうです。また、かつての国分寺近くの寺で国分寺の遺品を保存していることもあります。国分尼寺も同様ですが、寺院が国家的事業から国司、守護など実質統治に代わると、かつての国分寺は復興を受けなかったところが多くなりました。ここ但馬でも国司が中心となって建設が進められました。全国でも伽藍が残っている数少ない国分寺跡として、注目を集めています。


塔跡(画像:但馬国府国分寺館)

昭和48年(1973年)から始まった発掘調査の結果、七重塔、金堂、門、回廊などの建物が見つかり、お寺の範囲がおよそ160m四方もあったことがわかりました。また、全国の国分寺ではじめて、「木簡」(木の板に書かれた文書)が見つかるなど、貴重な発見が相次いでいます。


金堂と回廊がつながる部分(画像:但馬国府国分寺館)

風鐸(ふうたく)屋根の軒に垂らし、風で音を奏でる。

金堂(こんどう)
寺の中心的な建物で、本尊を安置する。東大寺でいうと「大仏殿」にあたる建物です。

回廊(かいろう)
門と金堂をつなぐ廊下。

基壇(きだん)
建物が建つ土壇。壇の周囲に化粧石を積んだり、壇上に石などを敷いたりする。

礎石(そせき)
地盤に据えて柱を立てるための石。


釈迦(仏教の創始者)の舎利(遺骨)を納める。寺のシンボル的な建物。

但馬尼寺


但馬尼寺 豊岡市日高町水上、山本

現在も日高東中学校の前に二個の礎石が残っています。150年位前には、26個の礎石が一定間隔を置いて残っていたといいます。(国分寺から約1km弱北へ。)
▲ページTOPへ

気多郡分寺

日本に仏教が伝来してから百年も経つと、仏教の普及はめざましく、日本のあちこちで造寺が行われ、その時の元号から「白鳳寺院」と呼ばれています。但馬の白鳳寺院は、現在のところ豊岡市三宅の薬琳廃寺のみが知られています。


鹿島神社境内 日高町府中新

鹿島神社境内には、大きな礎石が安置されています。但馬の郡ごとに設置された「郡分寺」ではないかと想定されています。薬琳廃寺の建立に続く時期のものだそうです。郡分寺とはいえ巨額の費用がかかるので、気多郡の在地有力者が、個人的に独力で建立したものではなく、但馬国司の側から、積極的に造営費の援助、助成が行われていたのでしょう。さらに各郷には「郷寺」がつくられはじめます。寺は鎮護国家の道場であると同時に、教育の場として、律令制度を全面的に実施するために、但馬国衙から郡司や郷司に指令が発せられます。

但馬の国司(守)

都が794年に奈良から京都へ遷され、時代は平安時代になります。平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していきました。しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。

国衙(こくが)は、もとは奈良時代に日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画を指す用語でしたが、平安時代頃までに、国司の役所(建物)そのもの(国庁という)を国衙と呼んだり、国司の行政・司法機構を国衙と呼ぶことが一般的となりましました。また、国衙に勤務する官人・役人を「国衙」と呼んだ例も見られます。国衙を中心として営まれた都市域を国府(こくふ)といいましました。古代では「こう」といい、地名として全国に残っているものもあります。
但馬国の国司(但馬守)の記録として残るものは、以下の通りです。

  • 源経基(みなもとの つねもと、在任:930頃)平安時代中期の皇族・武将。清和源氏経基流の祖。位階は贈正一位。神号は六孫王大権現。弟に経生、子に満仲・満政・満季・満実・満快・満生・満重・満頼ら。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めましました。
  • 源頼光(1010年頃 天暦2年(948年)~治安元年7月19日(1021年8月29日)がいます。平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘。清和源氏の三代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれます。但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任しましました。左馬権頭となって正四位下になります。頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にあります。頼光寺
    一方で、後世に成立した『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。日高町上郷に頼光寺があります。但馬にいる時の居館だったといわれれています。
  • 平正盛 在任:1110年頃、正盛が家督を継いだ頃は平家も勢力が小さく、河内源氏に臣従し源義家に仕えていましました。従四位上、検非違使、因幡権守、伊予権守、備前守、右馬権頭、讃岐守、但馬守、丹後守を歴任。平経正は、平安時代末期の武将、歌人。平経盛の長男で、弟に経俊、敦盛があります。平清盛の甥にあたる。官位は正四位下に昇叙し、但馬守、皇太后宮亮、左馬権頭を歴任しましました。
    一門の中の俊才として知られ、歌人、また琵琶の名手として名を挙げた。藤原俊成や仁和寺五世門跡覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けましました。
  • 平忠盛 在任:1130年頃 平安時代末期の武将。伊勢平氏庶流。平清盛の父。大治2年(1127年)従四位下に叙され、備前守となり左馬権頭も兼ねた。さらに、牛や馬の管理を行う院の御厩司となりましました。内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇でしました。美作守-、尾張守-久安2年(1146年)播磨守。諸国の受領を歴任したことに加えて、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄え、平氏政権の礎を築いましました。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』があります。
  • 平重衡 1182年(権守) 平安時代末期の武将。平清盛の五男。母は平時子。位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称されましました。南都焼討を行って東大寺大仏を焼亡させましました。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送されましました。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首されましました。
    応保2年(1162年)6歳で従五位下、長寛元年(1163年)7歳:尾張守(頼盛の後任)、永万2年のち改元して仁安元年(1166年)(10歳):従五位上(中宮・藤原育子御給)、12月30日:左馬頭(宗盛の後任)、仁安3年(1168年)(12歳):正五位下(女御・平滋子御給)、承安元年(1171年)(15歳):従四位上(建春門院御給)、承安2年(1172年)(16歳):中宮亮(中宮・平徳子)、2月17日:正四位下、治承2年(1178年)(22歳):春宮亮(東宮・言仁親王)。左馬頭如元。中宮亮を辞任、治承3年(1179年)(23歳):左近衛権中将、12月14日:左中将を辞任。春宮亮如元、治承4年(1180年)(24歳):蔵人頭、2月21日:新帝(安徳天皇)蔵人頭。春宮亮を辞任、治承5年のち改元して養和元年(1181年)(25歳):左中将に還任。従三位、養和2年のち改元して寿永元年(1182年)(26歳):但馬権守兼任、寿永2年(1183年)(27歳):正三位(建礼門院御給)、8月6日:解官寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦いで維盛の平氏軍が源義仲に大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされましました。重衡も妻の輔子とともに都落ちしましました。重衡は勢力の回復を図る中心武将として活躍。同年10月の備中国・水島の合戦で足利義清・海野幸広を、同年11月の室山の戦いで再び行家をそれぞれ撃破して義仲に打撃を与えた。翌寿永3年(1184年)正月、源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した範頼と義経によって滅ぼされましました。この間に平氏は摂津国・福原まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していましました。しかし、同年2月の一ノ谷の戦いで平氏は範頼・義経に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて梶原景季に捕らえられてしまう。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女たちは入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっています。木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首されましました。享年29。参考:「仏教の思想」国際仏教学大学院大学教授 木村 清孝フリー百科事典 「ウィキペディア」

たじまる 奈良4

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

但馬国(たじま)

1.但馬国(たじま)

但馬国(たじま)とは旧国名で、兵庫県北部に位置し、西は因幡国(鳥取県東部)、東は丹後国、東南部は丹波国(共に京都府)、南部は播磨国(兵庫県)に接しています。兵庫県が日本海と瀬戸内海の両方に面しているというと意外に思われる方がいます。

但馬は最初は丹波国の一部でした。7世紀、「続日本紀」によると天武天皇十三年(六八五)に丹波国より西部の8郡を分割して成立したとありますが確証はありません。さらに、和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれました。但馬国は、延喜式での律令制における地方行政区分の一つで、格は「上国」、「近国」に位置づけられています。『古事記』は「多遅麻」、「多遅摩」、『日本書紀』はすべて「但馬」と記し、『和名抄』は「太知万」と訓じています。この「たちま」は、谷間が訛ったとも、「タチ(台地)・マ(間)」と解する説(後述)があります。実際に低い山間に細い谷が広がる地域だ。もとは丹波(たんば)の一部でした。丹波は古くは但波・田庭・谷端・旦波とも記されていますが、「たんば」とよく似ていることからたんばが訛ったのではないかとも思えます。日本神話に登場する人物で、天日槍(あめのひぼこ)を祭神とする出石神社田道間守(タヂマモリノミコト)を祀るお菓子の神様、中嶋神社には、コウノトリをつかまえた天湯河棚神(天湯河板挙命)も祀られています。タヂマモリは、全国のお菓子の神。古事記では多遅麻毛理、日本書紀では田道間守と表記され、新羅から渡ってきた天日槍(あめのひぼこ)の曾孫であるとされます。また、多遅摩比多詞の娘が神功皇后です。

但馬で育ちつつあった指導者たちは、大和の大王と手を結び、力をつけ、ここに但馬の国を総括する規模の但馬王が誕生しました。但馬王は、大和の王との関係を強めながら次第に力を伸ばしていきました。

2.国府の施設と配置

国府(こくふ)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設が置かれた場所や都市を指し、国衙(こくが)ともいいます。律令制において、国司が政務を執った施設を国庁といい、国庁の周囲は塀などによって方形に区画されていました。国、郡、城柵で政務の中心となる建物をまとめて政庁といい、国庁もしばしば政庁と呼ばれます。国庁とその周りの役所群、都市域を総称して国衙(こくが)、国府といいます。現在は役所群のほうを国衙、都市のほうを国府と分けて用いることもありますが、同時代的には区別はなかったようです。歴史的には国府の方が先行し、8世紀にはもっぱら国府という言葉が用いられ、平安時代後期以降に国衙が一般的になりました。

各国の国庁の規模の差は小さく、方形の区画の中に中庭を囲んで正殿、東脇殿、西脇殿を冂字形に配置し、南に正門を持ちます。外形上もっとも整備された形では、南門から出る南北道と、これと交差する東西道が中心街路をなし、その他の官衙、国司館、その他施設が区画割りして配置されます。しかし多くの場合国庁をとりまく建物群の配置の規律は緩い。国府の内と外を区分する外郭線は、国府が城柵に置かれたような例外を除きありません。

国府に限らず、律令制時代の日本では役所の建物を曹司といい、これらがまとまった一区画を院と呼びました。国司館は、守館、介館など、国司のために用意された公邸です。もともと国司は国庁で政務をとっていましたが、平安時代中期以降、国司館が政務の中心になりました。国府には正倉が付属しますが、奈良時代には徴税実務上郡の重要性が大きく、地方の正倉は大部分郡家にありました。また工房があって、国府勤務の官人の需要に応じ、都に送る調庸物を生産しました。役所や工房で働く人には、国厨(国府厨)から給食が出されました。工房で働いたり様々な雑務を行う労働者が住む竪穴住居群があり、さらに市場もありました。国府の陸上交通のためには駅家が置かれました。水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多かくありました。
741年(天平13年)以降、国ごとに国分寺と国分尼寺が建てられることになりましたが、それ以前から国府機能と密着した付属寺院を持つ国もありました。平安時代にはさらに総社が建てられました。

これらの施設が一箇所に集中して建てられると都市的な景観になりますが、距離を置いて分散する例も多くありました。国府には国司の他、史生、国博士、国医師、徭丁などの職員が勤務しており、小国で数十人、大国では数百人の人数規模でした。全体としての人口は、陸奥国や武蔵国のような多いところで2、3千人に達したと推定されています。
国府は室町時代に完全に消滅し、ほとんどが所在不明となりました。和名類聚抄が国府があった郡を伝えていますが、それ以上に絞り込むのは難しくなっていました。1960年代までの研究では、「国府(こう)」、「国分寺」、「総社」、あるいはそれと似た地名が探索され、他の状況証拠とあわせて様々に位置が推理されました。
1964年に近江国府が発掘されてから、国府跡の遺跡が次々と発掘されるようになって、状況は劇的に変わりました。あわせて郡衙、寺院の遺跡も見つかり、これらと照らし合わせて国府に共通する特徴が浮かび上がってきました。奈良時代から平安時代前半の国府では、方形区画と正殿・脇殿などで構成される政庁が他の施設にはない特徴で、これが国府の中心施設でもあることから、政庁を発見した時点で国府位置確定とみなされます。


但馬国府国分寺館

大きな地図で見る

但馬国府は、但馬のどこに設置されていたのでしょうか。国府と密接な関係を有していた国分寺。その寺地選定の要件は、「衆の帰集を労するを欲せず」とされているように、交通至便の地が望まれました。国庁内にあった仏舎の発展延長でもあるので、国府から飛び離れた地点に建立されることはまずありませんでした。実際、国府から五町乃至二町位隔たって建設されたものが多いようです。

古くから日高町国分寺区は、但馬国分寺跡だとの伝承を持つ位置が存在し、但馬の他所から移ってきたような大変化も伝承もなく、遺跡も存在しているのは、但馬では他にはありません。

つまり、国分寺と国府は、まず距離的に密着しているのが通例ですし、この国分寺の近くに国府が最初から建設されたと見るのが妥当です。

次ぎに、国分寺という地名は、和妙抄には存在せず、江戸時代には国保村と書かれています。
国府が国保に訛ったとも考えられ、国府を保つ村だから国保村、国分寺があるから後に国分寺になったのだろうか?『兵庫県史』は、「但馬に気多郡団が知られるが、出石軍団は知られないこと、天平九年の『但馬国正税帳』によると、但馬国府から因幡へ伝達するのに気多郡の主帳を使っています。ふつう国府のある郡には軍団が置かれるし、また文書の逓送には、国府に近い郡の役人を使うのが自然」と述べています。したがって、但馬国府は、出石神社が古くから出石郡に鎮座することから、はじめ出石郡に置かれていたのではないかする見解が一部にありますが、上述の発見からも否定する意見が濃いようです。

『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記されています。別の場所から高田郷へ移されたと記しています。移転月日まで判明している資料的な裏付けがある希有な例だといわれています。
では何故、せっかく好地を選定し、多くの農民を駆り立てて建設した古代の政治都市が、惜しげもなく放棄され、新しい地点を求めて移転したのでしょうか?
総じて移転原因と見られるのは洪水のようです。都市計画に当たって広大な平野が選定されても、高水位対策の配慮が足りないとその機能が発揮できません。
第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もありました。

  • 但馬史説
  • 国府村誌説
  • 日置郷説
  • 八丁路説
  • 八丁路南説
  • 国司館移設説

伊智神社なかでも国府説では、明治中期に設定された国府村という行政体の名前から、国府はこの地にあったに違いないとするものです。国府には船所が設置されていたので、おそらくその河流沿いではあるというものです。国府の市場は「こうの市」と記載されています。国府は「こう」ともいいました。また近くに伊智神社が鎮座しており、伊智は市のことで、市場に関係する神社です。また、中世末期、「府中」と呼ばれていた域内には律令制に所縁ありそうな「堀」「土居」などの地名があります。

日置郷説は、かつて上郷は日置郷にあり、惣社の近くに国府があったというものです。ところが、鎌倉時代には惣社気多神社は、下郷に鎮座していることになっているのでつじつまが合いません。
八丁路説は、伊福(鶴岡)に「八丁」という小字があり、太平洋戦争末期まで鶴岡橋の下流左岸に渡し船がありました。八丁とは区間の長さを示す言葉ではなく八条の転化であり、条里地割りの呼称ではないかといいます。

また、『日本後記』は、上記の通り明瞭に第一次国府の移転を宣言してありますが、果たして国府全体が本当に移転したかです。「国衙」「国庁」あるいは「国府」とも言わず、「国治」を移すと表現していることは、やはりそれなりの意味があって、行政機関のあるものを移転したことを示すものではないだろうか、という考察です。いくつかの新庁舎が建設された類のものではないか、だからこそ、旧国府村でも、円山川沿いに、国府と関係するらしい小字名が伝承されてきたのではないかというものです。
いずれにしても第一次国府は、国分寺の近くにあったこと、人々が行き来しやすい至便の地に建設されたことは確かです。参考:『日高町史』

4.祢布ケ森(にょうがもり)の三時代の遺跡

 縄文後期や晩期前半・後半の凸型文土器が出土し、昭和48年、祢布ヶ森東方部を発掘したところ、幅一メートル深さ60センチの溝や土器とともに石器が発見され、この溝を境にして遺跡の性格が実にはっきりと相変わっていることが判明した。また、西側一帯は、
奈良時代から平安初期にわたる遺物が出土しています。この祢布ヶ森三つの文化層の差異が見られる。(中略)

このように、高原の神鍋山麓だけでなく、低平部の稲葉川と円山川との合流点付近の扇状地帯に縄文時代の新しい生活が展開してきています。
-日高町史- 縄文人たちが但馬の地にはじめてやってきた頃、水面は現在よりも高かったとされています。また狩猟や採集生活をおこなっていたことから、最初は高原地帯に居住していて、だんだん平地にも移住していったのではないでしょうか。


門のある塀と大きな建物(画像:但馬国府国分寺館)

祢布ヶ森遺跡

但馬国府は『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。遷された原因やどこから遷したのかについては記述がないため分からありませんが、移転後の所在地については、近年の発掘調査で博物館に隣接する祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡であると考えられるようになりました。

それではなぜ祢布ヶ森遺跡が但馬国府であると考えられるようになったのだろうか?


大きな建物の柱(画像:但馬国府国分寺館)

役所跡と判断する理由

  • 塀で囲まれた中に大きな建物群が規則性を持って配置されていたこと
  • 庶民は使わない高級な食器である青磁や白磁、三彩などが見つかったこと
  • 但馬各郡の役所で作成されたと思われる戸籍や税に関する木簡が見つかったことなどがあげられる。 水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多く、平安時代にはさらに総社気多神社が建てられた。国府という地名は、全国にあるが、国府跡の所在地が判明しているところは数少なく、その意味でも但馬国府・国分寺跡は貴重です。

    国府の規模は大国以外は六町域をとるものが多くありました。上国とされていますが、貢租の額を詳しく分析してみると、中国の実態しかない国だったようです。

    2008年6月21日、中国最古の詩集「詩経(しきょう)」に触れた木簡が国内で初めて出土しました。同時に二百二点の木簡が見つかり、一つの遺跡では県内最多、全国でも二、三番目の数だそうで。810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されています。川岸遺跡(官衙跡)兵庫県豊岡市日高町松岡第1次但馬国府か?(昭和59年)都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

    5.県内最多の木簡(もっかん)出土

    祢布ケ森遺跡では、1986年から16点の木簡がすでに見つかっていました。木簡では、紀年銘をもつものが多く、但馬国府が高田郷に遷された時期に近いものから10世紀末までにもおよび、この遺跡が機能した時期がわかるものです。また、墨書土器でも「但馬」や「国当」は硯(すずり)の存在と合わせて、この遺跡が国府に関係することを示すものと考えられます。

    また、豊岡市教育委員会(出土文化財管理センター、但馬国府・国分寺館)では、2008年6月4月30日から5月13日まで、日高町祢布にある但馬国府・国分寺館のすぐの祢布ヶ森遺跡の発掘調査で中国最古の詩集「詩経(しきょう)」の注釈書の一節が書かれた9世紀前半(平安時代)の木簡が全国で初めて見つかりました。当時、都の学問・教育機関だった「大学寮」の教科書として使われたとされ、しかし、都でも見つかっていない『詩経』の内容を書いた木簡が見つかったことは、あまり普及していなかった『詩経』の注釈書が但馬にあり、それを使って役人が漢詩の勉強をしていたことを物語っています。

    堀状の遺構から木簡203点が見つかりました。203点という木簡の出土数は、県内で最多です。詩経が書かれた木簡は長さ39・5センチ、幅10・9センチ、厚さ0・7センチ。「淒寒風也谷風曰東風」(淒(せい)は寒風なり。谷風は東風という)などと墨書され、詩経にある「淒」や「谷風」の意味を説明する内容で、注釈書「毛詩正義」にあるのとほぼ同文でした。下に「健児長」とあり、国府を警備していた兵士「健児(こんでい)」が字の練習のために書いた可能性があるそうです。

    また、別の木簡には桓武天皇の姪(めい)にあたる「従三位五百井女王(じゅさんみい おいのじょおう)」の名前が記されていました。五百井女王が「従三位」の位だったのは808~812年で、木簡の時期が特定できました。「城埼郡(きのさきぐん・原文のまま)」から茜(あかね)を送った際に付けた付札、「弘仁四年」(西暦813年)の年号を書いたものなどがありました。

    ほぼ同時期の810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されます。

    木簡の書かれた西暦810年ごろは、国内で天皇の勅(ちょく)による漢詩集が編集されていたときで、地方における漢詩の普及を示す資料と言えます。また、若い?官人が九九を間違えている跡、同じ文字を繰り返し練習したものなど、さまざまな内容のものがありました。

    祢布ヶ森遺跡は、今までの発掘調査で延暦23年(804年)に移転をした但馬国府の跡と考えられていました。今回の木簡はそれをさらに裏付けるとともに、国府における役人たちの姿をほうふつさせる大きな発見となりました。
    祢布ヶ森遺跡では、これまでに16点の木簡が出土しているので、今回のものと合わせて219点の木簡が出土したことになります。県内で見つかっている木簡は約870点ありますが、そのうち、豊岡市内で見つかった木簡は、袴狭遺跡(出はかざ石)の76点、但馬国分寺跡(日高)の42点など、約440点。県内の木簡の約半数が、豊岡で出土していることになります。

    しかも、一つの遺跡で出土した木簡数では、下野(しもつけ)国府(栃木県)の約5千5百点に次ぎ、阿波国府(徳島県)の二百五点に並ぶそうです。これらの遺物は当遺跡の性格を明らかにするだけでなく、但馬国の平安時代を考える上で大変貴重な資料です。

    深田遺跡(官衙跡)

    兵庫県豊岡市水上字深田他(兵庫県指定重要有形文化財 平成6年度指定 兵庫県立考古博物館所蔵)は、周辺に国分僧寺、国分尼寺などがあり、延暦23年(804)に気多郡高田郷に移したと『日本書紀』に記されている但馬国府跡推定地の一つと考えられています。

    6.木簡(もっかん)

    木簡(もっかん)とは、古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、細長い木の板です。紙の普及により廃れましたが、荷札には長く用いられていました。

    中国と日本では一行または数行の文を書いた細長い板が多数出土しており、典型的な、狭義の木簡はこれです。これらは当時も木簡と呼ばれていましたが、用途や状況に応じて様々に呼ばれていました。漢代まで木簡と竹簡には冊書を作る用途があり、一、二行しか書けないような細長い規格で作られました。後に長い文書が紙で作られるようになり、木簡の形に対する制約がなくなっても、細長い形はなかなか変わりませんでした。

    木簡の特徴の一つは、削って書き直したり再利用したりすることができるという点にあります。そのため当時の文具には筆、墨、硯に加えて小刀が含まれていました。削り屑に習字した例もあり、それらも上述の広義の木簡に含まれます。遺跡からの木簡出土の始まりは、1901年にハンガリー出身のイギリス人オーレル・スタインが中国の尼雅で50枚、スウェーデンのスウェン・ヘディンが同じく楼蘭で120枚余の晋代の木簡を発見したことです。スタインは、1907年、1913年-16年の、第2次・第3次探検でも、約900枚の漢代の木簡を発見しています(敦煌漢簡)。その後1930年にはエチナ川流域から一挙に1万点以上の大量の木簡が発見されました(居延漢簡)。20世紀前半には西北辺境からの発見が多かりましたが、後半には中国全国で多数見つかるようになりました。中国では竹に文字を書いた竹簡が主流で、単に簡や簡牘といえば竹簡を指します。しかし黄河流域以北では木簡も広く用いられました。紙が普及しない漢代まで、木簡・竹簡は文書の材料として広く用いられていました。木簡と竹簡の相違は、その用途の相違によるものとも考えられています。つまり、各種の証明書や検・檄・符などの単独簡として用いられる簡には木簡が用いられ、それに対して、書物や簿籍などの編綴簡には竹簡が用いられている、という出土状況から、そのように考えられています。日本の木簡としては、正倉院の宝物に付けられていたものが伝わるほか、1928年に柚井遺跡、1930年に払田柵跡で3点ずつが見つかっていました。大量出土は1961年の平城京跡での40点に始まり、以後続々と各地で見つかるようになりました。数的に多いのは1996年の平城京東南隅から1万3千点、1988~1989年の長屋王家木簡・二条大路木簡計11万点、長岡京など都からのものですが、国・郡の地方官衙や寺院など全国から出ています。2002年度末までに総数約31万点が見つかり、数だけなら中国より多いです。

    7.高田郷

    但馬考

    高田(タカダ)郷…和妙抄は「多加多」。夏栗、久斗、祢布、石立、国保(国分寺)、水上

    日置(ヒオキ)郷…和妙抄は「比於岐」。日置、多田谷、伊福(鶴岡)、上郷、中郷

    高生(タコウ)郷…和妙抄は「多加布」。地下、岩中、宵田、江原

    なお、山本、松岡、土居、手辺、府市場、府中新、堀、野々庄、池上、芝、上石(あげし)の十一村が所属不明。

    『日本後記』延暦二十三年(804)に、但馬国府は「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。これが公式に残る最古の記録です。移転後の高田郷は、江戸時代には東組(旗本小出領)と西組(出石藩領)に分けられています。西は久斗(くと)村、東は石立(いしだち)村、国保(国分寺)村までの、かなり広い地域です。祢布(ネフ・にょう)は、古くからの住居跡が発見されている祢布ヶ森遺跡などがあり、第二次但馬国府跡とされます。縄文後期から晩期前半及び後半の土器、さらに町役場移転に伴う発掘調査で、多数の国名を記した木簡などが発見され、さらには、平成20年、詩経が書かれた木簡が多数見つかりました。

    さて、『和妙抄』では但馬八郡の中で、七郡までが、郡名と同名の郷名が記されていますが、気多郡に気多郷はありません。国府の所在地には、行政上の特別処置として郷を設置しなかったものか、あえて気多郡であるから郷名が忘れられてしまったものなのでしょうか。

    ところが、鎌倉時代になると突如として気多郷の名前が出てきます。その気多郷の下郷に惣社の所領が記載してあります。江戸時代の資料によると、総社気多神社は日置荘上郷に鎮座となっています。平安時代中頃の歌集『金葉和歌集』の中には、気多川が出てきます。現在には気多川という名前はありませんから気多神社そばの円山川(まるやまがわ)を指しているのでしょう。

    『但馬国太田文』によると、気多郷域内に常荒流失地が約一割強の十三町歩(1町歩 = 9 917.35537 m2)もあります。気多下郷は、現在の府市場、府中新、堀、野々庄、池上、芝、上石、納屋、上佐野の地域が該当するのではないかといわれています。いずれにしても山陰道から円山川を下って国府に通ったので、国府が円山川に近い地域に設置されたことは間違いありませんが、高田郷に移す以前の第一次国府は、移転した原因が円山川の水害にあったとすれば、わざわざ、さらに低い場所に移すことは考えにくいでしょう。『和妙抄』には以下の地名が記されていませんので、気多郷内は山本、松岡、土居、手辺(府中新?)、国府市場、堀、野々庄、池上、芝、上石とすると、このどこかと考えることはできないでしょうか。しかし、かつては入り江だった地域ですし、円山川の氾濫から影響されにくい場所とすれば限られてきます。手辺が今のどこなのか分からありませんが、堀、野々庄、池上、芝、上石は現在でも海抜0メートル地帯で水害に遭いやすい場所であり、国分寺や尼寺から遠すぎることからまず外したいと思います。とすると、「高田郷に移す」と書かれてあるので高田郷以外の郷のいずれかであることは確かです。となれば隣接する日置郷か高生郷、もしくは気多郷内と想定します。やはり松岡、土居の、深田遺跡か川岸遺跡か、またその包括的領域当たりでしょうか。

    高生(たこう)

    地下、岩中、宵田、江原となっていますが所在地不明。国府平野を高生平野と言っていますが、岩中、宵田あたりから上石あたりまでの広範囲をさすようです。
    国府駅以西は海抜0メートル地帯でかつて円山川に八代川が注ぐ沼地でした。

    「タ・カウイ」、「編んだレースのような(川の流れが縦横に入り組んでいる九頭竜川の河口付近一帯の)土地を・(九頭竜川の洪水が)襲う(地域)」
    竹貫(たかぬき)
    「タクヌイ」、TAKUNUI(wide)、「広い(浦)」
    鷹貫神社[タカヌキ] 鷹野姫命
    兵庫県豊岡市日高町竹貫字梅谷429
    御由緒
    創立年月不詳ですが、天日槍ゆかりの古社。

    祭神「鷹野姫命」は、天日槍ゆかりの神功皇后の御生母。

    延喜式の鷹貫神社と記して小社に列し明治六年十月村社に列せられる。

    祢布(にょう)は丹生・女布か?

    祢布は、ネフと呼ばれやすいですが、ニョウと読みます。日高町の中心部で、役場(日高町総合支所)が移転する際に大規模な遺跡が発見されました。そもそも祢布集落は祢布川が流れる深い谷の裾にあります。下記のように、賣布(メフ)神社、祢布区や但馬国分寺に近い石立に売布(メフ)神社があります。

    • 賣布神社 式内神名小兵庫県豊岡市日高町国分寺字山ノ脇797
    • 賣布神社古社地兵庫県豊岡市日高町祢布(禰布ヶ森遺跡)
    • 賣布神社古社地兵庫県豊岡市日高町国分寺(天神山に小祠)丹生(にゅう)と似た発音の地名です。したがって、古くは朱を生産したり水銀が見つかったのかも知れません。
      すでに丹土(たんと)と丹生(にゅう)で書いていますのでそちらをご覧ください。京丹後市網野町木津女布谷(にょうだに)にも賣布神社(ひめふじんじゃ)があります。
      式内社神名小御祭神:「豐宇賀能咩命(とようかのめのみこと)、素盞嗚命(すさのおのみこと)」御由緒:『竹野郡誌』に次の様に記載されています。垂仁天皇九十年春、田道間守勅を奉じて常世国に渡航し、不老不死の香菓たる橘を得、景行天皇元年無事帰国し、田神山(屋船山)に神籬を設けて礼典を挙げられしより、此の地に奉祀せしを以て創始とする。田道間守を祀る中嶋神社と関係有りです。賣布神社は他にも、京丹後市久美浜町女布初岡にある賣布神社 祭神豐受姫命、大屋媛命、抓津媛命。しかも神社の読みは島根県松江市和多見町に鎮座する式内社と同名です。深い谷。似た地名に丹生、舞鶴市女布(ニョウ)があり、日本の水銀鉱床は中央構造線沿い、当地に関係深いところなら特に紀ノ川・吉野川流域にある。そのずっと北側にも、当地の女布あたりを中心に大きな楕円を描いて但馬から近江・越前を含む範囲、若狭湾岸地域とも呼ばれていますが、そこにも集中分布しているのが以前から知られています。兵庫県宝塚市の売布神社「大布命口羊布命、現在は高比賣神」も有名です。

      大伴家持(オオトモノヤカモチ)

      直接関係ないですが、気多神社がある国に国司として三カ所も大伴家持が赴任しています。単なる偶然だろうかなんて思うが、気になる人物として取り上げました。

      養老2年(718年)頃 – 延暦4年8月28日

たじまる 奈良3

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

丹波(たんば)の始まり


画像:北近畿開発促進協議会に神社を加筆しました

丹波(たんば)の始まり


元伊勢籠神社(宮津市大垣)

一の宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ、こもりじんじゃ)

延喜式神名帳には大社7座6社・小社58座58社の計65座64社が記載されています。大社6社は以下の通りで、竹野神社以外は名神大社に列しています。

4.丹後国府移転の理由は?

この時代の国府移転理由として考えられるのは、やはり桓武天皇の即位でしょうか。天応元年(781年)、桓武天皇は即位すると、新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきます。遷都は前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高める目的があったと考えられており、形骸化した律令官職に代わって令外官などが置かれました。また、桓武は王威の発揚のため、当時日本の支配外にあった東北地方(越後国(後の出羽国を含む))の蝦夷征服に傾注し、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征服に活躍しています。そのことから国府が宮津湾の与謝郡から舞鶴湾の加佐郡に移された理由として考えられるのは、平安京からわざわざ遠いながらも、湾が入り組んでおり、防衛上より適している舞鶴湾を蝦夷攻撃や朝鮮半島との最重要軍事基地として重要視したためとも考えられます。軍事上舞鶴湾は朝廷に最短距離かつ日本海側で最も適した湾であることが、すでに認識されていたのでしょう。

丹波とは、延喜式で定めた山陰道の国の一つで、格は上国、近国。

古代丹国は、北ッ海(日本海)を前に朝鮮半島からの日本の表玄関として、古代は奴国(北九州)・文身国(出雲・伯耆・因幡)の出雲から東に水行5千余里(約260km~300km)の地点に大漢国(但馬・丹後・丹波・若狭・越国・近江)の王都があります。おそらく約260km~300kmから推定すると、福井県・滋賀県のいずれかに王都があったと推定されます。具体的に利便性や気比神宮から敦賀近辺と比定するとします。
丹国(にのくに)は、近畿地方北部を治めた、古代日本の勢力圏の一つです。丹州(たんしゅう)とも呼ばれていました。 5世紀ころ四道将軍の遠征により大和朝廷に服属したとされます。

7世紀に丹波国が定められたときの領域は、初期の中心地は、現在の元伊勢籠神社(宮津市大垣)の付近を地盤として、国分寺が置かれていました。現在の丹波(京都府の中部と兵庫県中東部、京都府北部(丹後)、兵庫県北部(但馬)に及んでいました。丹波と但馬の読みが似ていることもこの背景と関係があるのかも知れません。

しかし、律令制度下でヤマト王権の支配下に入れられると、丹国は丹波国・丹後国・但馬国に3分割されました。天武天皇13(684)年?に丹国北西部の朝来(あさこ)、養父、出石、気多、城崎、美含(みぐみ)、二方、七美(しつみ)の8郡を分けて但馬国(たじまこく)を分割、さらに和銅6(713)年に北部の加佐、与謝、丹波、竹野、熊野の5郡を分けて丹後国を分割し、桑田、船井、多紀、氷上、天田、何鹿(いかるが)の6郡を丹波国としました。大和朝廷の弱体化政策により、古代出雲が出雲と伯耆に分断されたと見ると、同様に古丹波国を三分割されたと考える

現在では丹波と丹後をあわせて両丹(りょうたん)、丹波と但馬をあわせて但丹(たんたん)または丹但、丹波・丹後・但馬を三丹と総称することもあります。最近ではJR西日本の特急「北近畿」という名前のようにも呼ばれています。

現在の丹波は大まかに言って三つの盆地、亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う盆地があり、互いの間を低い山地が隔てている地勢です。このため、丹波国は一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化しました。

年号が不明ですが、律令制が布かれ、北西部を『但馬国』、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を『丹後国』として分離し、後世まで長く続く地域が定まりました。但馬を但州、丹波を丹州と書くこともあります。


天橋立 宮津市

地域性として、

  • 亀岡・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津
  • 氷上・福知山・綾部の中丹(奥丹波)は丹後・但馬
  • 篠山・丹波(西丹波)は但馬・摂津・播磨に密接に係わっています。

そのことからも明治の廃藩置県では数回の変更の末、兵庫県と京都府に分割されることになった。方言的には但馬・丹後は山陰のアクセントに似ており、中丹・南丹は関西弁に近いように思う。もちろん明確に分かれているのではなくて地域の距離的によってより濃厚になってくるようです。(私見)

丹波南東部の亀岡盆地は太古は大きな湖であり、風が吹くと美しい丹色の波が立ったところから、このあたりを丹のうみ・丹波と呼ぶようになったとされており、出雲神話で有名な大国主命(オオクニヌシノミコト)が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地を干拓し、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」(ミホツヒメノミコト)の名前にちなみ「保津川・保津峡」と名付けたという伝説が残っています。出雲大神宮(亀岡市千歳町)の祭神となっており、事実、湖だったことを示す地層も明らかになっています。この伝説は、出雲神話をはじめ、但馬の沼地を切り開いたという伝説や網野入り江を切り開いた伝説などとよく似ている(後述)。

これとは異なり、次の説もあります。6世紀ころには「丹波」の名のつく女性が天皇の后となっていることから、古代より丹波の名称はあったようです。

出雲大神宮


京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地
丹波國一宮 旧國幣中社

御祭神 大國主尊 三穗津姫尊 少那姫尊

出雲大神宮(丹波国一之宮)は、島根県の出雲大社に祀られる大国主命が最初に鎮座したのがこの宮であり、奈良時代の和銅年間(708年~714年)に出雲国へ遷座したという。従ってこの宮を元出雲と呼ぶようです。出雲大社の源なら神宮号を自称するのもうなずけます。
祭神は、その大国主命(オオクニヌシノミコト)と后神三穂津姫(ミホツヒメノミコト)ですが、不思議なことに三殿あるうちの左右は、その二柱の夫婦神なのですが、中央に祀られる神が不明なのです。背後の御影山がそもそものご神体とされ、国常立神だという説もありますが、とにかく中央神が明確に伝わっていません。

いずれにしても一之宮を出雲神としていることは、この地に出雲からの移住民が数多く住み着いた証拠であるといえましょう。丹波国は出雲と大和両勢力の接点にあり、ここに国譲りの所以として祀られたのが当宮です。
現在の本殿は足利尊氏造営による三間流造で、国の重要文化財です。

大宝律令で亀山(亀岡市)の地域が丹波国の中心となり、国府・国分寺・国分尼寺・一宮などがすべて亀岡盆地にありました。亀岡盆地北西部の船井郡八木(やぎ)町屋賀(やが)には、国府、国府垣内などの地名が残っています。

丹波国府はまだ発掘されていません。亀岡市千代川町拝田に比定する説と、船井郡八木町屋賀に比定する説があります。木下良氏(元國學院大教授)は拝田にあった国府が、のちに屋賀へ移転したと考え、これが現在の通説になっています。

丹波国分寺は、浄土宗の護国山国分寺として法灯を伝えるが、その山門の前に礎石群が残されています。昭和三年(1928)国指定史跡とされ、金堂跡基壇をはじめ、中門、塔、講堂などの跡が確認されています。

宗神社は、屋賀という集落にある小さな神社です。国府が屋賀へ移転したとされることからも古代の丹波国総社だという説があります。

丹後国(たんご)誕生

和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれました。

古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある(丹後王国論を参照)。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説もある。

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられています。南部の桑田郡(亀岡市)は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

勘注系図[註1]のなかに見える、「丹後風土記残欠」いわゆる「残欠風土記」の問題がある。同書に見える「丹波」という名の由来では、天道日女命らがイサナゴ嶽に降臨した豊宇気大神に五穀と蚕などの種をお願いしたところ、嶽に真名井を堀って水田陸田に潅漑させたので、秋には垂穂が豊かな豊饒の土地となったということで、大神は大いに喜んでこの地を「田庭」といい、天に帰ったという伝承を載せる。これが丹波の語源となったといい、この記事が勘注系図にも同じく見える。「諸国名義考」にも丹波は「田庭なるべし」とあり、古代の丹波郡あたりは実際にも豊かな土地であって、丹波は宮廷の大嘗祭の主基国にしばしば当てられた。しかし、これら「田庭」起源説は、当地の国造一族が豊受大神を奉斎したことからくる説話にすぎない。

また、丹波方面で彦坐王が討ったと崇神記に見える「玖賀耳之御笠(陸耳御笠)」についても、「残欠風土記」に見える。同書の記事では、玖賀耳之御笠の拠った地が丹後の青葉山(舞鶴市と福井県大飯郡高浜町の境界にある山で、若狭富士、標高は六九九M)とされるが、これも疑問が大きい。すなわち、仁徳天皇の宮人「桑田玖賀媛」などから丹波国桑田郡(亀岡市)という説(太田亮博士)があり、この点や山城国乙訓郡には久我の地からいって、丹波路の入口にあたる乙訓郡あたりから丹波国東南部にあたる桑田郡にかけての地域を、大和王権の先兵としての彦坐王の勢力がまず押さえて丹波道主命と称せられたと考えるのが妥当であろう。この地域に居て抵抗した土着勢力が玖賀耳だと畑井弘氏もみている(『天皇と鍛冶王の伝承』など)。

中世には足利氏の一族である一色氏が入封、一時期を除いて室町時代を通じて丹後一国を支配した。ただ、その支配体系は不明です。恐らく、九州探題も務めたことのある一色氏自体は在京し、地元豪族を守護代として支配をしたのであろう。戦国時代が始まる1498年には守護の一色義秀が地元豪族に攻められて自殺していることから、強力な施政はできなかったようにも思われる。それでも一色氏の命脈は戦国期を通じて永らえたが、1579年7月に一色氏が細川幽斎に滅ぼされて以来、細川氏が丹後を支配した。関ヶ原の戦い後、京極高知に、丹後守の称号と丹後一国、十二万三千石の領地が与えられ、国持ち大名京極家の領地となりました。
国府は、和名類聚抄および拾芥抄では、加佐郡。現在の舞鶴市内と思われる。

ただし、易林本の節用集では、与謝郡とある。現在の宮津市府中と推定される。
国分寺は宮津市府中(国指定史跡)とされ、一の宮 元伊勢 籠神社も近いので、二次国府は宮津市府中が有力である。

[註1]「勘注系図」は、江戸期の作成ないし書写ではないかとする見解を先に紹介したが、海部氏系図を天孫本紀の尾張氏系図などの知識を加えて大補充したものであって、平安前期より前の部分は、まったく意味をもたない。それどころか、様々な意味で有害である。それ以降の系図は田雄の孫世代まで及んでいるので、平安前期の範囲に記述はとどまる(全体の系図の詳細も刊本として公開されているが、実物の写真全ては入手しがたい事情にある)。
そもそも、天孫本紀の尾張氏系図の記事には様々な混乱があるのをそのまま引き写し、そこにすら見えない人物をいい加減に多数書き加え、その記事を付けた偽撰系図そのものであり、このような系図まで「附」として国宝指定をするのは、関係者の学究としての見識が疑われる。

だいたい記載内容が支離滅裂のかぎりで、本来の海部氏系図に尾張氏、和珥氏、倭国造氏の系図を勝手に混合させている。倭宿禰(椎根津彦と同人という解釈がなされている)と尾張連の祖・高倉下命(椎根津彦と同じく神武朝の人)との関係さえ、混乱している状況である。同書奥書には、「豊御食炊屋姫(註:推古)天皇御宇に国造海部直止羅宿祢等が丹波国造本記を撰した」という記事があると報告されるが(刊本では確認できない)、この表現には多くの誤りがある。
海部直氏は丹波国造ではないというのが史実なのに、何度も繰り返される重大な誤りが一連の史料の根底にある(これは、籠神社祠官家の主張にすぎない)。いま勘注系図の別名が「丹波国造本記」とされるが、この推古朝までの系図がその当時撰せられたとしたら、現在に伝わる内容のはずではありえないほど杜撰な記事内容なのである。「海部直止羅宿祢」という表記形式そのものがおかしいほか、止羅宿祢なる者は系図のどこに現れるのだろうか。

参考:舞鶴市HP
▲ページTOPへ

たじまる 奈良2

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。


古代山陰道の国と駅
古代山陰道と但馬・丹波

1.古代山陰道と但馬・丹波

律令制の時代、わが国は五畿七道(ごきしちどう)という地域区分をもち、現在の近畿地方を中心とした国づくりが行われていました。

ここでいう「道」とは、中国で用いられていた行政区分「道」に倣った物であり、朝廷の支配が及ぶ全国を、都(平城京・平安京)周辺を畿内、それ以外の地域をそれぞれ七道に区分していました。

五畿七道には、律令で定められた国(令制国)があり、それぞれの国府は、七道と同じ名前の幹線道路で結ばれていました。幹線道路は大路、中路、小路に区分され、大路は都と大宰府を結ぶ路線、中路は東海道・東山道の本線、小路はそれ以外の道路とされています。

この時代の記録を残す物の一つとして知られているのが、平安時代中期に編纂されほぼ完全な形で伝わっている「延喜式」(えんぎしき:律令の施行細則的位置づけ)で、細かな事柄まで規定され、古代史の研究で重要な文献となっています。そして「延喜式」は、幹線道路の沿道に置かれ、使者に馬や食事、宿泊などを提供した「駅家(うまや)」の一覧が載っている最古の記録なのです。

古代山陰道の国と駅

延喜式によれば、山陰道のルートは畿内の山城国(現在の京都府南?部)から丹波国、但馬国、丹後国、伯耆国、因幡国、出雲国、石見国、隠岐国を通るとされます。現代の道との比較をしてみると、古代の山陰道は、おおよそ国道372号線、国道176号線、国道483号線、国道9号線などのルートを通ったものと考えられています。
古代山陰道の駅は、当然のことながら実在したものではありますが、それが実際にどこにあったのかということについては、地名などをもとに、比定地について研究が進められており、駅によって、諸説がほぼ一致しているものもあれば、説が分かれている場合もありますが、おおよその地域については研究の結果明らかになってきています。

【延喜式による古代山陰道の国と駅】

駅名
丹波国大枝野口小野長柄星角佐治日出花浪
丹後国勾金
但馬国粟鹿郡部養耆山前面治射添春野
因幡国山崎佐尉敷見柏尾
伯耆国笏賀松原清水奈和相見
出雲国野城黒田宍道狭結多杖千酌
石見国波弥託農樟道江東江西伊甘

吉川弘文書刊「完全踏査 古代の道」(木下良監修/武部健一著)を参考に作成

これらのことからもわかるように、古代の道は江戸時代の道とは違い、未だ解明されていない部分も多いとされますが、一方でその研究結果から、古代の道は直線的道路が多く、かつ道幅も広くとられていたと考えられており、非常に計画的に整備された交通路であったといわれています。

■古代の山陰道と近畿豊岡自動車道との関係

古代の山陰道は平成18年7月に供用を開始した近畿豊岡自動車道の一部である春日和田山道路のルートと一致する部分も多く、この道路のパーキングエリアとなっている、山東、青垣などは古代山陰道の駅の比定地などとほぼ一致しているなど、高規格道路と古代道路との連関性は、全国的にも事例が多いとされています。

古代の遺物という観点では、古墳や遺跡などわかりやすい形でみることのできるものがある一方で、実は今私たちの目の前に当たり前のように存在する「みち」は他の古代の遺物と同じように歴史や文化の宝庫でありながら、今もなお長い歴史の現在進行形の中で私たちが利用しその恩恵を受けている地域社会の生きた古代遺産ということを実感します。

 

「みち」がまちをつくり、そして「みち」や「まち」の出来事の蓄積が地域の歴史や文化をつくってきました。現代においても、北近畿豊岡自動車道が春日・和田山間に供用されたことで京阪神からの丹波・但馬地域への観光客も増加しており、新たな「みち」による北近畿文化圏の新たな1ページが開かれるのかも知れません。

古代山陰道の時代の丹波国とは、現在の京都府の亀岡市・園部町、兵庫県篠山市・丹波市にわたるエリアということができます。古代山陰道は京都の羅城門から始まり、この丹波を入り口に本路は但馬へ、支路は丹後を通り再び但馬で本路に合流し、日本海岸にむけて道がつづきます。延喜式による山陰道本路における丹波国の駅は「大枝」「野口」「小野」「長柄」「星角」「佐治」の6つが示されており、その比定地等について見ていきます。

■古代山陰道:丹波国の駅家

畿内の山城国から老の坂峠を越えて丹波国に入り、出発点の羅城門から約13.4キロの距離に最初の駅「大枝駅」(おおえ)があります。現在の京都府亀岡市篠町王子あたりと考えられています。同名の地名が京都府西京区にも残っていることから、もともとは(奈良時代には)山城国にあった駅家が平安時代に丹波国に移されたものと考えられています。

山陰道本路は、亀岡市の東西道路から先は、大筋では近世の篠山街道あるいはそれを踏襲する国道372号のルートに乗るものになりますが、より直線的な篠山街道のルートが近いと考えられています。また、丹波国府を経由するルートが本来の山陰道であるという考え方もあります。

そのルートの先にあるその次の駅家が「野口駅」(のぐち)です。現在の京都府園部町南大谷あたりに存在したと考えられています。十世紀に成立した百科事典「和名抄」に船井郡野口郷の記述があり、現在の薗部町南大谷に旧字名の野口があることから、比定地として有力視されているのです。ここには、地元の郷土史家の方々が立てられた「野口駅跡」の石碑が存在しています。

ここから「天引峠」といわれる峠を越えると同じ丹波でありながら、京都府から兵庫県に入ります。現在の篠山街道(デカンショ街道ともいわれています)に沿って、丹波第3番目の駅「小野駅」(おの)があります。これは現在の兵庫県篠山市小野奥谷あたりと考えられています。近隣には、「史跡延喜式小野駅跡」と記された碑と祠、その横に篠山市による板が立てられています。

「小野駅」から篠山街道を進み、次の駅「長柄駅」(ながら)に向かいます。「長柄駅」の比定地については諸説ありますが、西濱谷遺跡などの発掘などから、篠山市西濱谷にあった可能性が高いとされています。小野駅から篠山市街地の北側の山麓沿いを通ってきたと考えられ、小野駅からは12キロ程度となります。「長柄駅」から先の古代山陰道は本路と支路に分かれます。本路は現在の丹波市を通って但馬地方へ抜ける道であり、支路は篠山から丹後地方に向かい、但馬の出石地方を通って香美町村岡区で本路と合流します。

延喜式山陰道の本路は、「長柄駅」から国道176号線を北に向かいます。直線的な道路が多くなり、古代の道の面影を感じさせる風景がつづきます。

「長柄駅」の比定地から約16.4キロ、丹波市氷上町石生のあたりが「星角駅」(ほしずみ)の比定地とされています。このあたりは旧道の国道 175号線と国道176号線が合流する地点で、標高100メートル未満の太平洋と日本海の分水嶺としても有名で、「水分れ」と呼ばれる地区です。このあたりから延喜式山陰道は、昨年供用が開始された国道483号線(北近畿豊岡自動車道)と平行して走るようになり、駅家もインターチェンジの場所とほぼ同じ配置となってきます。ちなみに星角駅は北近畿豊岡道氷上ICの近くになります。

丹波地区最後の駅は「佐治駅」(さじ)です。北近畿豊岡道の青垣ICの近くであり、丹波市青垣町佐治という地名から比定地には問題がないとされています。北近畿豊岡道の「遠阪トンネル」を抜けると、もうそこは兵庫県朝来市にはいり、「丹波国」から「但馬国」に入ることとなります。

■古代山陰道における丹後・但馬路の分岐について

山陰道丹後支路最初の駅は「日出駅」(ひづ)駅です。その比定地は兵庫県丹波市市島町上竹田段宿とされ、由良川支流の竹田川右岸を北上し、市島町に入ってからは左岸に移って比定地に達します。現在は国道175号線が近くを通っています。

その次は福知山市にあると考えられる「花浪駅」(はななみ)です。日出駅から由良川筋を避け、西回りでいくルートと考えられます。福知山市中心部から西の西明寺・今安付近を通過して府道109号線を北上し、福知山市野花から府道528号線を沿って北上すると「花浪駅」にいたります。具体的な比定地としては京都府福知山市瘤ノ木周辺とされています。

この周辺には「花浪駅跡」とされた地元が建立した石碑もあり、和泉式部の歌にも「はななみ」の言葉が用いられたものがあります。ここから小さな峠を越え、国道426号を通り、丹後支路は丹後国に入ります。
国道426号を加悦町を経て、野田川町に達すると、ここが丹後国唯一の駅家「勾金駅」(まがりかね)の比定地となります。支路と丹後国府への道がクロスするポイントに置かれたと考えられています。この駅家から丹後国府へは10キロ程度で、国府は宮津市中野府中あたりとされ、宮津湾が天の橋立にふさがれた風光明媚な阿蘇海に面しています。
再び「勾金駅」に戻り、支路を進むことにしましょう。府道2号線宮津八鹿線を西に進み、岩屋峠を越えるとそこは但馬国です。ここに山前駅を置く説もありますが、山前駅については諸説あって分からないことが多いので、今回の特集ではふれないこととします。

さらに西に進み、豊岡市出石町中心部まで支路は峠を越えながら直線的に進むと考えられています。出石市街からは、国道482号線を通り、豊岡市日高町に向かいます。豊岡市日高町には但馬国府があったとされ、この周辺の弥布ヶ森遺跡がそれではないかと有力視されています。正倉院文書の中に「高田」駅家という記述があり、延喜式以前、このあたりに「高田」という駅家があったと考えられています。延喜式の時代には、但馬国府がその代替施設として役割を果たした可能性があります。)

丹後・但馬路の最後の駅家は「春野駅」(かすがの)1です。この駅の比定地については諸説あり、特定は難しいとされています。ある説では、国道 482号線の蘇部トンネルを抜けて、香美町村岡に通じるルートにその駅家があったのではないかと考えられています。古代道路のルートを新しい自動車道やバイパスが通る例がよく見られることなどを考えると、可能性のある説とはいえ、近くの道の駅「神鍋高原」があるあたりが好適地とも思われます。
ここをまっすぐ進み、古代山陰道の支路である丹後・但馬路は香美町村岡区で本路と再び合流すると考えられます。
(丹後と但馬を結ぶ支路で山前はどこなのか。射添と春野間は蘇武岳越えという難所ではありますが直線距離が近すぎるので、山前は勾金と春野の間であれば高田あたりであれば勾と春野の中間、出石神社あたりではないか。)

この支路は丹後国府へ行くだけでなく、それから但馬国府を経て山陰道本路へ戻ります。分岐点の考え方にはいくつかあり、比較される路線は、「佐仲峠越え」「瓶割り峠越え」「水分れ街道」の3つが考えられています。
「佐仲峠越え」は「長柄駅」より本路を進み、現在の舞鶴若狭自動車道とクロスするポイントから分かれるルートで、佐仲峠を越えて、丹波市春日町国領に出る道です。

「瓶割り峠越え」のルートは、鐘ヶ坂峠の手前で分岐し、北上して瓶割峠を越え、「佐仲峠越え」と同じく丹波市春日町国領に出ます。福知山市史などはこのルートを採用しています。

「水分れ街道」のルートは丹波国の駅家「星角」から、現在の国道175号線やJR福知山線に沿って進む黒井川沿いのルートです。
それぞれのルートの違いは「佐仲峠越え」がもっとも標高が高いところを通り丹後・但馬路の最初の駅に最も近く、「水分れ街道」は峠を越えない平坦な道路であるが最初の駅までは最も遠くなっています。古代道路は最短のルートをとる場合が多いこと、江戸時代の道しるべも「佐仲峠越え」のルートを丹後への道としていること、高速道路に沿ったみちであることなどを考えると「瓶割り峠越え」のルートの蓋然性が高いと考えられます。

丹波市春日町国領から北上すると舞鶴若狭自動車道の春日ICに到達しますが、この付近に位置する七日市遺跡で南北方向に走る幅約11mの道路遺構が見つかり、位置や方位、幅員などから山陰道丹後支路の可能性が高いとされています。この遺跡では、多数の建物や、木製品・硯・石帯、および「春マ郷長」「大家」「門殿」などと記された墨書土器が出土し、木簡・墨書土器が多数出土した付近の山垣遺跡とともに、この地域を治めた役所の跡と考えられています。

■古代山陰道:但馬国の駅家

但馬国は現在の兵庫県但馬地方とほぼ同じ地域をさします。第2回の中で、とりあげた丹波市青垣町から北近畿豊岡道にある全長4キロ近くある遠坂トンネルを抜けると兵庫県朝来市、但馬地域の入り口となります。

延喜式による山陰道本路における但馬国の駅は「粟鹿」「郡部」「養耆」「射添」「面治」とつづき、その後但馬国から因幡国に入ります。
但馬国の一番最初の駅は、「粟鹿駅」(あわが)です。北近畿豊岡道に沿って進み、次のIC(山東)の近くと考えられています。遺跡地名の粟鹿がありますが、近くの朝来市山東町柴で「駅子」と書かれた木簡が出土し、このあたりが駅家の場所ではなかったかと考えられています。(柴遺跡として知られています。)この近くにある粟鹿神社は延喜式時代のものといわれ、古代の情緒を残した神社として知られています。

ここからのルートは学説がいくつかに分れます。一つは近世山陰道や国道9号の道筋である円山川沿いを進むルート、今ひとつは朝来市和田山町牧田から峠越しに同市同町岡、岡から養父市畑を経て広谷あたりに出たと考えるルートです。古代道路の多くはその経路として、氾濫などの多い河谷沿いを避ける傾向があり、円山川がたびたび氾濫を繰り返したことから後者の川沿いを避けたルートという考え方に基づいて話をすすめていきます。

次の「郡部駅」(こうりべ)は円山川沿いを避けたルートとすると、養父市広谷または岡田辺りがその比定地と考えられます。ただし、このあたりには明確な遺跡等が確認されていません。現在北近畿豊岡自動車の和田山八鹿間の工事が行われ、養父ICの設置が予定されている近くであり、古代山陰道と北近畿豊岡自動車道との関係性をここでも見ることができます。また、丹波の星角駅よりつかずはなれずつづいてきた古代山陰道と北近畿豊岡道の関係はここでおわり、ここから駅路は国道9号に沿って進むことになります。

次の駅は「養耆駅」(やぎ)です。この駅についてはいくつかの説がありますが、養父市八鹿町八木に遺称地名があり、この近くにある中世八木城遺跡の発掘調査で、奈良時代の須恵器や役人の存在を物語る石帯が出土しており、この地を有力な比定地とする考え方が主流といえます。なお、延喜式では「養耆駅」の次に「山前」(やまさき)とよばれる駅が記されていますが、この山前駅は丹後-但馬間の支路に位置する駅である可能性が高いので、今回は本路の駅としてとりあげることは避けることとします。

さて、国道9号をさらに北上すると、途中の香美町村岡区村岡で、丹後・但馬を通った支路と合流し、さらに進むと次の駅「射添駅」(いそう)にいたります。遺跡などは見受けられませんが、香美町村岡区和田のあたりと比定され、湯船川と矢田川の合流地点付近とされています。

但馬最後の駅家は「面治駅」(めじ)です。新温泉町出合付近に比定されており、近くに「面沼神社」があり、「米持」(めじ)の小字名もあることから、この付近を比定地することに大きな異論はないところです。この周辺は湯村温泉の温泉街のすぐ近くです。

三丹地域の古代山陰道の特徴の一つとして、丹波・丹後・但馬をトライアングル状につなぐ支路の存在があります。この支路が本路のどのあたりから出たかということについては、いくつかの説があります。いずれにしても丹波のある地点から分岐し、丹後をとおり、その後但馬国府を通って、但馬の美香町村岡区付近で本路に合流する経路です。
延喜式によれば、この経路における駅は、「日出」「花浪」「勾金」「山前」「春野」とつづき、本路に合流します。

参考:国土交通省近畿地方整備局 近畿幹線道路調査事務所 「みちまち歴史・文化探訪」

5.律令制における地方行政

701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成されました。日本では奈良時代、律令制における地方行政の最下位の単位として、県は郡に改められ、郡の下に(り、さと)が設置されていました。里は五十戸(世帯)で構成されました。その統率者が里長(さとおさ)で郡司の管轄下にあり、末端行政を担いました(現在の区長、自治会長です)。税の取り立て・出挙の管理などを主な職務としており、当地の有力農民から選ばれ、庸・雑徭を免除されました。715年に郡が(ごう、さと)と改められ、郷の下に新たに2~3の里が設定されました。しかしこの里はすぐに廃止されたため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになりました。奈良時代初期に里が郷と改名されたのに伴い、里長は郷長と改称されました。
平安時代中期の辞書である和名抄は、律令制の国・郡・郷の名称を網羅しています。中世・近世には、郷の下には更に小さな単位である村(惣村)が発生して郷村制が形成されていきました。中国において郷(鄕)は秦・漢の時代から存在しており、現在も中国では行政区画として存続しています。
例:但馬国気多郡高田郷

6.律令制における租庸調

租庸調(そようちょう)は、中国及び日本の律令制下での租税制度です。中国の制度を元としているが、日本の国情に合わせて導入されたものです。

律令制を整え発展した唐と連合し,その律令制を受容することで強大化した新羅が,百済・高句麗を滅ぼし,ついには唐をも朝鮮半島から排除して,朝鮮半島の統一的支配を確立するという7世紀の東アジアの激動を背景として,倭(天武天皇による国号制定以後日本)では中央集権的律令国家建設の必要性が生じた。

日本の税体系は,10世紀頃の籍帳支配崩壊に伴う公地公民制の崩壊をうけて,課税が個別的人身賦課方式から土地賦課方式へ転換されるまで,人頭税を財源の中心とするものであった。土地税の租は,課税対象確保のための農民の最低生活の保障の意味で,低率に抑えられていたが,庸調などの人頭税は,財源の中心と位置づけられており,民衆にとっては極めて負担過重なものであったため,税回避のための浮浪や逃亡,偽籍などが頻発した。このことは,口分田の荒廃をもたらし,班田制動揺の一因となりました。

租は、田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%に当たった。原則として9月中旬から11月30日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。しかし、歳入としては極めて不安定であったため、律令施行よりまもなく、これを種籾として百姓に貸し付けた(出挙)利子を主要財源とするようになりました。一部は舂米(臼で搗いて脱穀した米)として、1月から8月30日までの間に、京へ運上された。(年料舂米)

律令以前の初穂儀礼に由来するのではないか、とする説もある。

正丁(21~60歳の男性)・次丁(正丁の障害者と老丁(61歳以上の男性))へ賦課された。元来は、京へ上って労役が課せられるとされていたが(歳役)、その代納物として布・綿・米・塩などを京へ納入したものを庸といった。京や畿内・飛騨国(別項参照)へは賦課されなかった。現代の租税制度になぞらえれば、人頭税の一種といえる。

庸は、衛士や采女の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となりました。

調

正丁・次丁・中男(17~20歳の男性)へ賦課された。繊維製品の納入が基本であり(正調)代わりに地方特産品34品目または貨幣による納入も認められていた。(調雑物)これは中国の制度との大きな違いです。京へ納入され中央政府の主要財源として、官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。京や畿内では軽減、飛騨では免除された。

正調

調の本体であり、繊維製品をもって納入した。正調は大きく分けて絹で納入する調絹(ちょうきぬ)と布で納入する調布(ちょうふ)に分けることが出来る。当時において、絹は天皇などの高貴な身分の人々が用いる最高級品であり、その製品は「布」とは別の物とされていた。従って当時の調布とは、麻をはじめ苧・葛などの絹以外の繊維製品を指していた。

時代によって違うものの、大宝律令・養老律令の規定に基づけば、

  • 調絹は長さ5丈1尺・広さ2尺2寸で1疋(1反)となし、正丁6名分の調とする。
  • 調布は長さ5丈2尺・広さ2尺4寸で1端(1反)となし、正丁2名分の調とする。とされていたが、実際の運用においては、養老年間に改訂が行われ、
  • 調絹は長さ6丈・広さ1尺9寸で1疋(1反)となし、正丁6名分の調とする。
  • 調布は長さ4丈2尺・広さ2尺4寸で1端(1反)となし、正丁1名分の調とする。とする規定が定められて、これを元に徴収が行われていました。▲ページTOPへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山名氏家臣

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

山名氏家臣

越中次郎兵衛盛嗣

ここでは四天王として名高い垣屋、日下部氏系以外の主な家臣について記しています。
[但馬の城跡]

田結庄氏概要

大きな地図で見る
鶴城 豊岡市六地蔵と山本の両地区

戦国時代(1467~1568)の但馬地方の守護大名である山名氏の家臣のうち、四天王といわれた武将に、垣屋、太田垣、八木、田結庄の四氏があり、それぞれ但馬の各地に城を構えていました。

その四天王の一人、田結庄是義(たいのしょうこれよし)は鶴城を守っていました。豊岡市六地蔵と山本の両地区にまたがる「愛宕山」がその昔の鶴城です。この田結庄ともう一人の武将、垣屋隠岐守隆充(続成(みつなり)=光重・楽々前城主=日高町佐田)[*1]との間に、天正年間、大きな戦いが行われ、その結果、田結庄氏が滅ぶことになったのですが、その下りは後ほどお伝えします。田結庄氏は、但馬国城崎郡田結郷田結庄(豊岡市田結)を本貫とする中世豪族でした。田結(たい)は、円山川が日本海の注ぐ河口で、海水浴で知られる気比ノ浜の東に位置する漁村です。わかめ漁などがさかんです。

田結庄は「たいのしょう」と読み、出自は桓武平氏であったといわれますが、その世系については詳らかではないようです。

越中次郎兵衛盛嗣


気比ノ浜

『田結庄系図』によれば、桓武天皇の子で桓武平氏の祖、皇子葛原親王(かずらわらしんのう)の後裔とみえ、七代後の平 盛嗣(盛継 たいら の もりつぐ 生年不詳 – 建久5年(1194年))、通称は越中次郎兵衛盛嗣がいました。平安時代末期の平家方の武将です。父・平盛俊(たいらのもりとし)同様平家の郎党として勇名を馳せました。

『平家物語』では「越中次郎兵衛盛嗣」の通称で呼ばれ、平家においてその豪勇を称えられる名将でした。源氏との数々の戦に参戦し、屋島の戦いでは源義経の郎党である伊勢三郎義盛(さぶろうよしもり)との詞戦(簡単に言えば嘲笑合戦)の逸話を残しています。

能登守教経(のとのかみのりつね)が、越中次郎兵衛盛嗣を引き連れて小船に乗り込み、焼き払った総門前の渚に陣取りました。侍大将である盛嗣が、船の上に立って大声で言うには、「さきほどお名乗りになったのは耳にしたが、遠く離れた海の上であったのではっきりと分からなかった。今日の源氏の大将はどなたでおはしますか」。そこで、伊勢三郎義盛さまが馬を歩ませ、「言わずと知れた清和天皇(せいわてんのう)(平安前期の天皇、源氏の先祖)十代の御子孫、鎌倉殿(かまくらどの=源頼朝)の御弟、九郎太夫判官殿(源義経)であるぞ」とおっしゃいました。

すると敵が
「そう言えば思い出した。平治の合戦で父を討たれて孤児になったが、鞍馬(くらま:京都)の稚児(ちご)になって、その後はこがね商人の家来になり、食べ物を背負って奥州へ落ちぶれ去ったという若ぞうのことか」

と失礼なことを申します。そこで義盛さまが「軽口をたたいて、わが君のことをあれこれ申すな。そういうお前らは、砥波山(となみやま)の戦いに追い落とされ、あやうい命を助かって北陸道をさまよい、乞食をして泣く泣く京へ上がった者か」。

すると敵が重ねて言うには、「そういうお前たちこそ、伊勢の鈴鹿山で山賊をして妻子を養い、暮らしてきたと聞いておるぞ」と。

そこで、金子十郎家忠(いえただ)さまが、「お互いに悪口を言い合っても勝負はつかぬ。去年の春、一の谷での戦いぶりは見たであろう」と、おっしゃる横から、弟の親範(ちかのり)さまが敵に向かって矢を放ちました。その矢は、盛嗣の鎧(よろい)の胸板に、裏まで通すほどに突き刺さったのでした。寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、残党狩りの結果、平家の子孫は絶えたと思われましたが、彼は自害を快く思わず、平盛久らと共に京の都に落ち延びます。都では平家の残党狩りが厳しく行われていたため、但馬の国に落ち延びます。その後但馬国で潜伏生活へ入りました。盛嗣は城崎郡田結郷気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われています。その後盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っていました。道弘は婿が越中次郎だとは知らなかった。けれども、錐(キリ)を袋の中に隠してもその先が自然と外へ突き出てしまうように、夜になると舅の馬を引き出して、馬を走らせながら弓を引いたり、海の中を十四、五町から二十町(1町=約109メートル)も馬で泳ぎ渡ったりしているので、地頭・守護は怪しんでいました。そのうちどこからかこの事が漏れたのだろう、鎌倉殿から文書が下されました。源氏側は盛嗣の行方を厳しく追及しており、源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦め(縛る)ても誅して(殺して)もまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したとされる記述が『平家物語』(延慶本)にもあります。諸説あるものの、そのころ盛嗣は、忍んで度々京に上り、旧知の女の許へ通っていました。やがて女に気を許した盛嗣は、女に自分の居所を教えてしまいます。ところが、この女には他にも情夫がおり、女は情夫が「盛嗣を捕らえて勧賞をもらいたいものだ」と言ったのを聞き、「わらわこそ知りたれ」と洩らしてしまったのです。

「但馬国の住人、朝倉太郎大夫高清、平家の侍である越中次郎兵衛盛次が但馬国に居住していると聞く。捕らえて身柄を引き渡せ」との命を受けました。気比四郎は朝倉太郎の婿であったので、朝倉は気比四郎を呼び寄せて、どのようにして捕まえるかと相談した結果、「浴室で捕まえよう」という事になりました。

越中次郎を湯に入れて、ぬかりのない者五、六人を一度に突入させて捕まえようとしたところが、取り付けば投げ倒され、起き上がれば蹴倒される。互いに体は濡れているし、取り押さえる事もできない。けれども、大人数の力にはどれほどの力持ちでも敵わないものなので、二、三十人がばっと寄って、太刀の背や長刀の柄で打ちのめして捕まえ、すぐに関東へ連れて行きました。鎌倉殿は越中次郎を前に引き据えて、事の子細を尋ねました。

「どうしてお前は同じ平家の侍であるだけではなく、古くから親しくしていた者であるというのに、死ななかったのか」

「それは、余りに平家があっという間に滅びてしまいましたので、もしや鎌倉殿を討ち取る事ができるかもしれないと、狙っていたのでございます。切れ味のいい太刀も、良質の鉄で作られた矢も、鎌倉殿を討つためにと思って用意したのでございますが、これ程までに運命が尽き果てています上は、あれこれ言っても仕方ありません」

「その気構えの程は立派なものだ。頼朝を主人として頼むのならば、命を助けてやるがどうか」

「勇士というものは、二人の主人に仕える事はありません。この盛嗣ほどの者にお心を許されては、必ず後で後悔なされるでしょう。慈悲をかけてくださるのなら、さっさと首をお取りください」

と言ったので、
「それならば切れ」と、

由井ヶ浜(神奈川県鎌倉市)に引き出して首を切ってしまいました。越中次郎の忠義の振る舞いを誉めない者はいなかったといいます。赤間神宮(山口県下関市)にある壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓七盛塚は、江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていました。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、「耳なし芳一」の舞台でもあります。墓は、左近衛少将有盛、左近衛中将清経、右近衛中将資盛、副将能登守教経、参議修理大夫経盛、大将中納言知盛、参議中納言教盛、伊賀平内左衛門家長、上総五郎兵衛忠光、飛騨三郎左衛門景経、飛騨四郎兵衛景俊、越中次郎兵衛盛継、丹後守侍従忠房、従二位尼時子の一門が並んでいます。

平家落人伝説は、但馬でも約40ヶ所に残されていますが、唯一確かといえるのが、この越中次郎兵衛盛嗣にまつわる話です。豊岡市気比と城崎町湯島に残る2基の宝篋(ほうきょう)印塔がその供養塔と伝わっています。

さて、竹野町には宇日(ウヒ)があり、香美町香住区御崎地区は余部(あまるべ)鉄橋で知られる余部からさらに岬にあり、日本一高い所にある灯台で知られ、1185年の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の武将門脇宰相教盛(清盛の弟)らがこの地に逃れてきたと伝えられる平家落人伝説の地です。鎧(よろい)、丹後半島には平などもゆかりがありそうな地名です。いずれも田結同様に陸の孤島というべき魚村です

田結庄是義(たいのしょう これよし)


鶴城趾/豊岡市山本

違い鷹の羽*
(桓武平氏後裔?)

戦国時代の田結庄氏のものではないが、後裔の方が再興された田結庄氏が用いられている家紋とのこと。武家家伝さんより

参考略系図

称田結庄氏 越中次郎兵衛   宮井太郎兵衛尉 桓武天皇━葛原親王・・・平 盛嗣(盛継)━━盛長━━━━━盛重━━盛行━┓     ┃    ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛    ┃  鶴城主    ┃      左近将監  左近将監  1642没      ┗━盛親━━盛敏━国盛━━重嗣・・・是義━━━━盛延
さて、盛嗣の子の盛長は一命をとりとめて田結庄に住み田結庄氏を称したといいます。盛長はその後、橋爪郷宮井(豊岡市宮井)に移り住み、宮井太郎兵衛尉盛長と称し『但馬国太田文』にも、同郷公文職、大庭庄下司職を有していたことが知られます。その後、盛長の子盛行が田結庄に帰り、ふたたび田結庄氏を称したといいます。
戦国末期には、左近将監国盛は但馬守護山名時熙に仕え、山名四天王の一人に数えられる重臣となりました。子重嗣は山名持豊に従って赤松満祐の「嘉吉の乱(1441)」に際して播磨国に出陣したと伝えられますが、それを裏付ける史料はないようです。

「応仁の乱(1467)」以前の但馬で守護山名氏に従う諸将としては、垣屋・太田垣・八木・田結庄の四天王に加えて、塩冶(えんや)・篠部・長(ちょう)、奈佐、上山・下津屋・西村・赤木・三方・三宅・藤井・橋本・家木・朝倉・宿南・田公などの諸氏が数えられています。

田結庄氏で明確な裏付けを得るのは、戦国末期の左近将監是義(これよし)です。子は田結庄盛延。是義は愛宕山((宝城山)豊岡市六地蔵・山本)に鶴城を築いて居城とし城崎郡を領し、太田垣輝延(朝来郡)、八木豊信(養父郡)、垣屋光成(気多郡)らと但馬を四分して勢力を広げました。神武山の亀城に対して鶴城と呼びます。山名氏の有子山(出石)城下に田結庄という町名が残っているのは田結庄氏の屋敷があったのが由来とされています。
平安時代に成立した「和名抄」に城崎郡内に新田、城崎、三江、奈佐、田結の5郷が記されており、田結郷は 気比庄(湯島、桃島、気比、田結、瀬戸、津居山、小島)、灘庄(今津、来日、上山、ひのそ)、下鶴井庄(三原、畑上、結、楽々浦、戸島、飯谷、赤石、下鶴井)、大浜庄(江野、伊賀谷、新堂、滝、森津)からなっています。下鶴井庄の南端であり、山名氏の本拠地である九日市守護所や此隅山城に最も近い愛宕山に城を築いたのも、納得できます。
やがて、但馬に伯耆・出雲の尼子氏[*2]が勢力を伸ばしてくると是義は尼子氏に味方しました。是義は、垣屋氏との仲が悪かったのです。それは、是義が垣屋氏勢力範囲である美含郡(竹野・香住)の併合を狙っていたからです。

永禄12年(1569年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の侵攻(第一次但馬征伐)を受けます。この侵攻を受けて祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡しました。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地に復帰しています。その後は同じく信長と手を結んでいた尼子勝久や山中鹿介らと協力して毛利輝元と戦いました。元亀3年(1572年)には宿敵である武田高信を山中鹿介と共に討ち取っています。

その後、織田信長の天下統一の過程で但馬は、織田党(山名祐豊・田結庄)と毛利党(垣屋・八木・太田垣)に分かれました。田結庄是義は織田党色を鮮明にし、竹野轟城主垣屋豊続との対立が熾烈化しました。元亀元年(1570年)毛利党色を示していた楽々前城主 垣屋続成(つぐなり)を奇襲により殺害することになります。
しかしその後、山名祐豊は天正三年(1575)春、突如として毛利氏と和睦を結んで織田氏を裏切ってしまう。これに怒った信長は、秀吉に再度の侵攻を命じました。

野田合戦と田結庄氏の没落

織田方=田結庄氏と毛利方=垣屋氏との間で、代理戦争ともいわれる野田合戦が起きます。

天正三年(1575)六月十三日、長谷村(豊岡市長谷)で、カキツバタ見物の宴会が行われている時、楽々前城主(日高町佐田)、垣屋続成(みつなり=光重・隆充)の家来が鉄砲で鳥を撃っておりますと、その弾が酒盛りをしていた田結庄是義の幕の中に落ちました。是義は大そう怒って、その垣屋の家来を召し捕らえて殺してしまいました。このことがあって、光成は是義を征伐しようと時期を狙っていました。その年の秋、10月15日、垣屋播磨守続成(光重・隆充)は、同族(親類)の垣屋駿河守豊続(亀城主、後の豊岡城)の応援を受けて、田結庄是義の出城である海老手城(豊岡市新堂、栃江、宮井境界標高215mの山上)を垣屋続成・長(ちょう)越前守らに略取します。是義の属将・海老手城主、栗坂主水は養寿院(豊岡市岩井、後の養源寺)に、お参りして留守でした。したがって城はわけなく落とされてしまいました。垣屋勢は勢いに乗って、養寿院を焼き払い、田結庄方の宮井城(豊岡市宮井)にも攻め寄せてきました。

危ないところで逃げ延びた栗坂主水は、すぐに鶴城に行き、是義に事の次第を話すと、是義は大いに驚き、「ただちに、海老手城を取り返せ」と、一門の将兵五百人を集めて、海老手城に向かいましたが、垣屋勢の援軍五百人に阻止されて、野田(豊岡市宮島付近)の沼田での大野戦となりました。この戦いを「野田合戦」といっています。野田は湿地帯のため、足中(小さなわらじ)をつけた垣屋勢に分があっただけでなかったのですが、置いた小田井神社は焼き払われました。また宮井城主の篠部伊賀守は、田結庄の旗色が悪いとみて、垣屋駿河守の軍に降参してしまいました。繰り出した垣屋の別働隊の追撃もあって、田結庄軍のうち鶴城下に帰着した者はわずか十六名であったといいます。

このようにして追いつめられた田結庄是義は、「今はこれまで」と家来とともに、ひそかに菩提寺正福寺(豊岡市日撫)にて自害し、没落していったといわれています。このとき、天正三年(1575)十月十七日と書かれています。

いま、愛宕山の南側の麓に静かに建っている宝篋(ほうきょう)印塔が是義の墓と伝えられています。
また、海老手城主、栗坂主水は、お坊さんとなり、諸国を修行した後、海老手城下の村(滝・森津・新堂あたり)で余生を送り、自分の死が近づいたことが分かると、墓の穴の正座して、鐘を打ちつつ死んでいったと伝えられています。新堂の氏神さんの境内に、立派な宝篋(ほうきょう)印塔が建っています。また、海老手城落城の時に、垣屋勢に捕らえられた十六人の武士は、打ち首にされた後、城下の森津畷にさらし首にされました。後々までこの畷を「十六畷」といったそうです。野田合戦の様子は軍記物に記されているばかりですが、1575年 (天正3年)、八木城主、八木豊信が但馬の情勢を吉川元春に報告している中で、「田結庄において、垣駿(垣屋駿河守豊続)一戦に及ばれ、勝利を得られ候間、海老手の城今に異儀無くこれをもたれ候、御気遣い有るべからず候」と記されており、その事実は裏付けられています。この合戦によって垣屋豊続は但馬を完全に毛利党に統一し、毛利氏の対織田防御ライン(竹野~竹田城)を構成する繋ぎの城として、鶴城・海老手城の両城を確保しました。そして天正8年(1580年)5月21日、山名祐豊は秀吉の因州征伐による第二次但馬征伐によって居城である有子山城を包囲される中で死去しました。ここに二百数十年続いた但馬山名氏も滅亡しました。
【資料:兵庫県大辞典など】

こうしてみると、家臣団の対抗が起きた中、田結庄氏は唯一人、主君山名氏に最後まで忠臣をとげた忠義の重臣のように見えます。しかし、下克上の時代であり、山名氏に不満を募らせた他の重鎮とは違い、それがかえって仇となったともいえます。他の戦国時代では多く見られるように、垣屋・太田垣・八木氏などが姻戚関係を深めるのとは異なり、系図からも全く姻戚関係が見当たりません。

[脚注]
*1…「郷土の城ものがたり-但馬編」には隆充または光重とありますが、「但州発元記」では垣屋隠岐守隆充となっています。宿南保氏が考証された系図では隆充という名は記されておらず、豊岡市史所蔵『垣屋系図』にしたがい続成としております。
*2…尼子氏…宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の支流。南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響を持った佐々木高氏(道誉)の孫、京極高秀次男、高久が近江国甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。高久の次男、持久は宗家京極氏が守護を務める出雲と隠岐の守護代を務めて雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。孫の尼子晴久の時代には山陰・山陽八ヶ国約200万石を領する大大名にまでなった。

塩冶(えんや)氏

塩冶(えんや)周防守 但馬山名氏家臣。但馬美方郡(浜坂町)芦屋城主。
播磨屋さんの武家家伝によりますと、
近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉・南北朝時代の守護大名。宇多源氏の成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に住み、子孫は佐々木氏を称しました。成頼の玄孫秀義は源頼朝を援けて活躍。長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となり、四男?氏信は京極氏の祖となりました。秀義の五男が義清で、出雲・隠岐の守護に補せられて、子孫は同地方に繁栄しました。

義清の孫出雲守護頼泰は、惣領として塩冶郡を根拠とし、塩冶左衛門尉と称しました。これが塩冶氏の祖であるとされています。貞清を経て、南北朝初期に名をあらわしたのが塩冶判官高貞です。高貞は、父のあとを継いで出雲守護となり、元弘三年(1333)閏二月、後醍醐天皇が隠岐を逃れて伯耆国船上山に挙兵すると、その召しに応じて千余騎の兵を率いて馳せ参じ、六月には供奉して入京。建武政権成立ののち、高貞は千里の天馬を献上し、その吉凶について洞院公賢・万里小路藤房らが議論したといいます。建武二年十一月、足利尊氏が鎌倉に叛すると、高貞は新田義貞軍に属して足利軍と箱根竹ノ下に戦いましたが、敗れて尊氏に降り、やがて出雲・隠岐守護に補任されました。暦応四年(1341)三月、高貞は京都を出奔、幕府は高貞に陰謀ありとして、山名時氏・桃井直常らに命じて追跡させ、数日後高貞は播磨国影山において自害しました。一説には、出雲国宍道郷において自害したともいわれています。高貞の妻は後醍醐天皇より賜った女官で、美人の聞こえが高かったため、尊氏の執事高師直が想いを寄せ、叶わず尊氏、直義に高貞の謀叛を告げ口したので、高貞は本国の出雲に帰って挙兵しようとしたのであるといわれています。

高貞没後、弟時綱の子孫から室町幕府近習衆が出ています。また京極・山名氏の被官人となったものもあるらしいです。この一族が塩冶周防守ではないかと思われます。尼子時代に尼子経久の三男興久が塩冶氏を継ぎましたが、父に背いて自刃しました。

但馬国の塩冶氏は高貞の甥・塩冶通清の四男・周防守の子・某を祖とします。但馬塩冶氏は山名氏に仕え、各文献・古文書にも「塩冶周防守」「塩冶左衛門尉」「塩冶肥前守」「塩冶前野州太守」「塩冶彦五郎」などの名が散見します。戦国時代に登場する芦屋城主・塩冶高清はその末裔であるとされます。高清は、もと出雲発祥の塩冶氏の一族で、のち但馬に移り芦屋城(新温泉町)を本拠地とし、山陰の複雑な山岳の地形を熟知し神出鬼没に兵を動かしたため、海賊の将と呼ばれた奈佐日本之介に対比して「山賊衆」と羽柴秀吉に言わしめましたが、もちろん山賊ではありません。

永禄12年(1569年)、但馬に侵攻した尼子党と織田氏の前に帰順の意を示します。 同年8月、山名豊国と通じたことに激怒した武田高信らの軍勢によって攻撃されるもこれを撃退、その後は毛利氏の傘下に入ります。

天正2年(1574年)~4年(1576年)にかけてはかつて自身を攻撃した武田高信を保護し、高信の復権と助命を毛利氏に嘆願していました。しかし、高清らの願いもむなしく武田高信は山名豊国によって謀殺されます。 後には高清自身も織田氏の侵攻には抗すべくもなく芦屋城を追われ、ついに天正9年(1581年)に吉川経家率いる毛利勢と結んで、因幡国鳥取城において織田氏の中国攻めを担当していた羽柴秀吉と対峙することになります。高清は鳥取城の北方に位置する雁金山に雁金山城を築き、奈佐日本之介の守る丸山城とともに鳥取城の兵站線を担当しました。鳥取城に対する兵糧攻めを行っていた羽柴秀吉は、鳥取城-雁金山城-丸山城のラインを遮断することが鳥取城の落城を早めることに気づき、宮部継潤に命じて雁金山城を攻撃させました。塩冶高清は宮部の手勢をよく防ぎましたが、兵糧の欠乏による兵の消耗はいかんともし難く、雁金山城は織田方の手に落ち、高清は奈佐の守る丸山城に逃れました。天正9年(1581年)10月、鳥取城中の飢餓地獄を見かねた吉川経家は、自らの命と引き替えに城兵の命を救うことを条件として、秀吉に降伏を申し出ます。これに対し秀吉は、経家の武勇を惜しんで助命しようとする一方、高清および奈佐の海賊行為を責め、二人の切腹を主張して譲りませんでした。結局、経家の自刃に先立つ天正9年10月24日、高清は奈佐とともに陣所で切腹して果てました。法名は節叟廣忠居士。

丸山城の西麓に、塩冶高清と奈佐日本之介それに佐々木三郎左衛門の3名の供養塔があります。

高清の子の塩冶安芸守やその弟の塩冶高久は、吉川氏の家臣となり防州岩国の地に移りました。

芦屋城

北は日本海、東に浜坂の平野、西は諸寄(もろよせ)の港、南から幾重にも重なって迫る山脈の端、海抜200mのこんもりとした山の頂に築かれたのが芦屋城です。

築城年代はわかりませんが、南北朝のころ、因幡(鳥取県)の守護職として布施城にいた山名勝豊(宗全の第三子)から、塩冶周防守が二方郡をもらい受けたと伝えられています。城は、本丸と二の丸からなり、典型的な山城でした。

いつ果てるとも知れぬ争乱に明け暮れていた元亀三年八月(1572)、鳥取城にいた山名の家来、武田又五郎高信が、布施城の山名豊国を攻めようとしました。それを知った豊国は、井土城主・河越大和守、温泉(ゆの)城主・奈良左近、七釜城主・田公氏、芦屋城主・塩冶周防守らに早馬を出し、戦いにそなえました。兵八百騎をもってまず芦屋城に攻め込んだ武田又五郎高信は、急を知ってかけつけた付近の大名、豪族のことごとくを敵に回す結果となり、庭中(ばんなか)での戦いで戦死、因幡武田氏の滅びる原因となりました。

天正八年(1580)、羽柴秀吉(実働隊は秀長)が但馬を平定しようとしたとき、宮部善祥房を大将として芦屋城攻めがあり、大軍を持って押し寄せましたが、塩冶周防守の守りはかたく城はなかなか落ちませんでした。その話を、芦屋の方が話してくださいました。
芦屋の城はむかし亀が城といって、とても立派な城だったそうだ。

元亀年間に因幡の武田が攻めてきた時は、近くの大名もいっしょになって戦い、武田の軍勢を破ったそうだ。
塩冶の殿さんに近くの大名が味方したのは、よい大名だったからでしょう。
天正年間、秀吉の部下によって攻め落とされたが、秀吉の軍も芦屋攻めには苦労したそうだ。
大勢で城を取り囲み、いろいろの方法で攻めたが、城の中の何本もの旗が浜風になびき、それに夏だったそうで、日の光は強いし、秀吉軍は木の影や、民家の軒先に攻めるのをあきらめて、三人、四人集まり長期戦の構えをし出す有様、何回となく作戦も考えてみたがどうにもならない。本当に困り果てたそうだ。
そういう日が続いたある日のこと、何人かのお侍が坂の茶屋で相談していると、奥で聞いていたおばあさんが、「おさむらいさん、この城は亀が城といって亀が主だから、何年かかっても、どうしてもこの城を落とすことは無理ですよ。」それを聞いた何人かの侍は、この茶屋のおばあさんが城を落とす急所を知っているな、と感ずきました。それから毎日、おばあさんに聞きに来ますが話してくれません。そんな日が続いたある日、あまりにも気の毒に思ったのでしょうか、「おさむらいさん、この城を落とすのに急所が一つだけあるのですよ。」
と、話してくれましたが、それ以上どうしても話してくれない。また何日もおばあさんにお願いして、侍の熱心さに負けたのでしょう。
「この話はしてよいものか、悪いことか、わからなくなりました。その急所は、『亀の首を刀で切らなければ落ちない』」
と話してくれました。その亀の首は『坂の上』とも教えてくれました。そのおばあさんの話で秀吉の軍は、芦屋城を落とすことができたそうだ。
そのたたりでか、それ以後その茶店には男の子が生まれなくなり、そしてとうとう家も絶えてしもうたそうな。
たぶん、おばあさんが亀の首といった坂の上を通って、今でいうサイホンのようにして南の山から水を取っており、その水源を切られて水攻めにあったのでしょう。
そして宮部善祥房の手に落ちてしまいました。城主塩冶は城を捨てて因幡に逃れました。あくる天正九年、秀吉が鳥取城を攻めたとき、芦屋城主塩冶は丸山の出城で自害して果てました。
宮部善祥房が鳥取城主となってからは、芦屋城には但州(但馬)奉行がおかれましたが、関ヶ原で宮部氏が自害し、山崎家盛が摂津三田から因幡若狭に入り、弟の宮城右京進頼久に二方郡六千石を分け、芦屋城に住まわせました。それから二十年あまり宮城氏による支配が行われました。寛永四年、三代宮城主膳正豊嗣のとき、陣屋を清富に移しています。そのため芦屋城は廃城となってしまいました。
現在城下には、殿町・やかた・馬場などの小字名が残っており、芦屋の松原には塩冶周防守の碑も建っています。

篠部氏

昭和42年五月二十日の各新聞の但馬地方版は「香住町月岡公園で、有馬(有間)皇子の墓が発見された。」と報じています。

有馬皇子とは、日本書紀に、斉明天皇の四年十一月五日に謀反が発覚し、捕らえられて、同年十五日には紀伊国藤白坂(和歌山県)で処刑されたと書かれておりますが、孝徳天皇第一の宮、有馬皇子のことです。

この事件は、有馬皇子が十九才のとき、大化改新の立て役者であった中大兄皇子ら改新派によって、天皇の位につけられた孝徳天皇のたた一人の遺児、有間皇子が、父天皇と同じように改新派の計略にもてあそばれ、非業の最期をとげられたことに同情してか、香住町には有間皇子の変の後日談を、次のように伝えているのです。

日本書紀では、このとき討たれたことになっているのですが、実は皇子の家来が身代わりとなって処刑され、皇子は追討に向かった者の好意によって、ひそかに丹波まで逃げのびたのです。ところが、皇子の弟宮である表米王[*1]が但馬の国に住んでいるのを聞き、ふたたび舟で但馬をめざしました。

香住に浜に上陸した皇子は、志馬比山(しまひやま:香住駅の裏山)のあたりに隠れ住み、海部の比佐を妻にして、平和な日々を過ごしていたのです。その後も表米王と会う機会もなくこの地で亡くなり、入江大向こうの岡の上(月岡)に手厚く葬られました。

ところで、二人の間に男の子が生まれ、志乃武王と名づけました。やがて成人した志乃武王は、出石小坂の美しい娘を妻にし、天武天皇七年(678)志馬比山の山頂を切り開いて城塞を造りました。
やがて、幾年かの時が流れ、志乃武王の子孫、志乃武有徳が領主のとき、有徳は姓を篠部と改め、山頂にあった屋敷を山のふもと東方の台地に移したのです。そして、対岸の矢谷に川港を開いて、物資交易の設備を整え、中心地としたのです。

そればかりか、篠部氏の菩提寺として長見寺を建立し、要害の地としましたが、交通の便はともかくいろいろと不便なことが多かったので、当時としては前代未聞の大事業である、河川改修や耕地拡張の大工事を計画しました。

二十九年という長い年月を経て、ようやく完成しました。
この大工事によって、一日市の柳池をはじめ湿地は全部埋め立てられ、約70㌶という新しい耕地ができたのです。

このようにして、有間皇子在住以来、約五百年という長い間徳政を施し、領地内の人々から尊敬されてきた篠部氏ですが、延元元年(1336)に、篠部有信公が、祖先の法要のために長見寺に参詣されていたところを、かねてから領地のことで不和であった長井庄の釣鐘尾城主・野石源太が、この時とばかりにあらかじめ示し合わせてあった一日市の塔の尾城に合図し、一手は長見寺に、他の一手は留守で手勢の少ない館へと攻め寄せました。

この不意打ちに驚いた篠部方は、必死になって防いだのですが、何分にも敵は多勢の上に充分な戦備を整えて攻めてきたのですから、そのうち寺に火を放たれたのを見て、もはやこれまでと、有信公をはじめ主従ことごとく火の中に身を投じ、悲痛な最期をとげたのです。
留守館でも寺に火がかかったのを見て、形勢は味方に不利であることを知り、一族の北村七郎は若君を、そして日下部新九郎は姫を連れて兵火の中を脱出したのですが、姫は逃亡の途中、姫路山のふもとで敵の矢に当たって倒れ、若君もまた、乱戦の内に行方不明となり、さすが名門を誇った篠部氏もついにその力を失いました。その後、行方不明であった若君は首尾良く落ちのび、奈佐(豊岡市)宮井城主・篠部伊賀守のところに身を寄せていたのですが、お家再興の望みもうまくいかず、のちに京都に移り住んだと伝えられています。
[*1] 表米王…但馬国の古豪族、日下部氏の祖とされている。

丹生氏(にゅうし)

「上計(あげ)のお殿さんは、四十二の祝いの餅をのどにつめて死んだのだそうな。」
この話は、柴山地区の人ならみんな物心がついたころから聞かされる話です。日本海有数の避難港であり、カニ漁港としても知られる柴山港を、朝に夕に見下ろしている上計の城山にはこんな話が残されています。

丹生美作守長近は、養山城の城主でした。養山城は上計・浦上の二つの村を望み、北には柴山港から日本海を望む景色の美しい土地です。城主長近は、出石城山名誠豊の家老の一人であり、慈悲深い人でもありました。領地は、丹生地・浦上・上計・沖の浦・境の五つの村で、村民たちも長近の人徳になびき、戦国争乱の時代にもかかわらず、平和な明け暮れを楽しんでいました。

ところが、隣の無南垣の館山城主・塩冶左衛門尉秀国は、同じ山名家の家老の一人でしたが、野心満々たる人物であり、恵まれた漁獲と、避難する大小の舟で賑わう柴山を、なんとかして領地にしたいと考え、主君山名公に養山城主長近は避難にことよせて入港する他国の船と密輸して、私腹を肥やしているばかりか、ひそかに武器弾薬を蓄えつつあると報告し、みずから長近討伐の大将を引き受けました。
享禄二年(1529)十一月二十三日は、長近初老祝賀の日でありました。養山城内は、めでたい延寿を祝う声に満ちあふれていました。ところが、この機会を狙っていた塩冶左衛門尉は、日もとっぷり暮れたころ、数十人の手勢を引き連れて、沖の浦から山伝いに攻め込んできました。

これより少し前に、丹生地の大江田五郎兵衛という人が、たまたま用事があって無南垣に出たところ、塩冶勢が養山城を攻める準備をしている最中と聞いて、用事はそっちのけで取るものも取らず、大急ぎで養山城のこのことを知らせてきました。
急を聞いた養山城では、祝賀の席は一瞬にして上を下への大騒ぎとなり、油断して不意を付かれた酔いどれ兵士どもは物の役に立たず、城は火を吹き、美作守もついに自刃して果てました。

 そうこうしているうちに、天下は織田氏から豊臣氏へと移り、秀吉の但馬征伐によって、山名氏の勢力も次第に衰えていきました。

 鳥取城攻撃に勝ち誇った軍勢が、引き上げていく中で、海岸づたいに帰っていく軍の一隊が、無南垣の塩冶秀国の城をめざして、ときの声を上げつつ攻撃し始めました。いまは丹生三左衛門長宗と名を改めて旗頭となった熊之丞が、主君秀吉の許しを得て父の仇を討ったのです。戦いに慣れきった熊之丞にとっては、塩冶勢など物の数ではなく、一時間も経たない間に塩冶の城を攻め落とし、見事に父の敵を討ったのでした。

 このときから、柴山地区では、かつての城主・丹生美作守長近の仁徳を慕い、四十二の歳を厄年として、初老を祝うことをやめ、八月二十四日の地蔵盆には、かつての城跡に建てられたお堂に集まって、供養回向をしているということです。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

但馬守護

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
伝説先史縄文弥生出雲銅鐸日槍古墳飛鳥奈良平安鎌倉室町戦国近世近代現代地方鉄道写真SITEMAP

[catlist categorypage=”yes”]

山名氏 但馬守護

  1. 山名義範
  2. 山名重国
  3. 山名重村
  4. 山名義長
  5. 山名義俊
  6. 山名政氏
  7. 山名時氏
  8. 山名師義
  9. 山名満幸
  10. 山名義理
  11. 山名氏冬
  12. 山名氏清
  13. 山名時義
  14. 山名時熙
  15. 山名宗全(持豊)
  16. 山名教豊
  17. 山名政豊
  18. 山名致豊
  19. 山名誠豊
  20. 山名祐豊

山名系図

	  (源氏)			征夷大将軍
八幡太郎義家━┳義親━━為義━━義朝━━源頼朝
	   ┃
	   ┃	新田太郎 新田太郎
	   ┗義国━┳義重━━┳義俊
		   ┃   	┃
		   ┃足利陸奥┃山名三郎 新田太郎 三郎蔵人
		   ┗義康  ┣義範━━━義節━━┳重家━━氏家
 				┃		  ┃
				┃新田次郎	  ┃山名太郎 小太郎
				┣義兼・・・・義貞 ┗重国━┳━朝家
				┃徳川(得川)四郎	  ┃ 次郎   孫次郎 彦次郎
				┗得家			  ┣━重村━┳━義長━━義俊━政氏┓
 							  ┃ 三郎 ┃		  ┃ 
                 			  ┗━國長 ┗━義政       ┃
足利尊氏に従う										  ┃
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
   ┃左京大夫  右衛門佐 民部小輔
   ┗時氏━━┳━師義━┳━義幸
   丹波・丹後┃丹後・ ┃ 相模守			   伯耆守護伯耆守護伯耆守護
  ・若狭・因幡┃伯耆	 ┣━氏幸━━熈氏━━教之━━豊之━━政之━━尚之━━澄之
  ・伯耆・出雲┃	 ┃ 
  ・隠岐守護 ┃	 ┃ 伊豆守
		┃    ┣━義熈
		┃	 ┃
     	┃	 ┃ 播磨守
		┃    ┗━満幸
		┃
	 	┃弾正少弼  中務大輔 修理大夫	  因幡守護
		┣━義理━┳━義清━━━教清━━━政清━━━豊治 
		┃紀伊  ┃
		┃	 ┣━氏親
		┃    ┃
		┃	 ┗━時理
		┃    		中務大輔
		┃中務大輔  中務大輔 ・左衛門佐  治部少輔 治部少輔
		┣━氏冬━━━氏家━━━煕貴=勝豊━━豊時━┳━豊重━━豊治
		┃因幡					  ┃
		┃					  ┃ 左馬助 因幡守護
		┃民部少輔				  ┗━豊頼━━誠通
		┣━氏清━┳━時清
		┃丹波・ ┃
		┃山城守護┣━満氏			   
		┃明徳の乱┃				   ┏━常豊
		┃戦死	 ┗━氏利			   ┃
		┃					   ┣━俊豊	   (村岡山名氏)
		┃左京大夫  宮内少輔 弾正少弼	   ┃		 中務大輔
		┣━時義━┳━時熙━━━持豊(宗全)━┳━教豊━╋━致豊━┳豊定━━豊国━━┓
		┃美作・但馬 但馬守護 山城・但馬 ┃但馬・播磨	・  1.秀吉御伽衆┃
		┃・備後守護      備後・安芸 ┃	   ┗━誠豊━・祐豊━┳棟豊  ┃
		┃山名氏総領		・播磨守護 ┣━是豊	     致豊	┃右衛門督┃
		┃    ┣━氏幸	応仁の乱  ┃	備後		の子養子┗堯熙  ┃
		┃	 ┃ 伯耆		  ┣━勝豊			 馬廻衆 ┃
		┃宮内少輔┃			  ┃					 ┃
		┣━義数 ┗━時長		  ┣━政豊				 ┃
		┃信濃守			  ┃	 				 ┃
		┣━義継 			  ┣━時豊				 ┃
		┃右馬助			  ┃					 ┃
		┣━氏重			  ┗━女子				 ┃
		┃				   細川勝元室			 ┃
		┃修理亮 上総介							 ┃
		┣━高義━━熈高━┳━時長					     ┃
		┃上総介 因幡守護┃	  						 ┃
		┗━義治	 ┣━熈成━━政実					 ┃
				 ┃	  因幡守護					 ┃
				 ┗━熈幸						 ┃
				  因幡守護						 ┃
  		┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
		┃交代寄合  交代寄合 交代寄合 交代寄合 交代寄合 交代寄合 交代寄合
		┃	   伊豆守  弾正忠  因幡守  中務少輔 衛門尉  中務少輔
		┃		   	     大番頭
		┃	  	         寺社奉行 
		┣━2.豊政━┳3.矩豊━━4.隆豊━━5.豊就━━6.豊暄━━7.義徳━━8.義方━━┓
		┃ 	  ┃書院番	  	  光豊の三男 	婿養子(貞俊)	 ┃
		┃ 	  ┗義豊	  					     ┃
		┃	     	  						 ┃
		┣━豊義━━豊守━━光豊  						 ┃
		┃下総葛飾郡		  						 ┃
 		┃		  	  						 ┃
 		┗━豊晴		  						 ┃
				         					 ┃
		┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
		┗━娘・整
		  ∥主膳正  養子     因幡守             
		 9.義蕃━┳10.義問━━11.義済━━12.義路━━13.義鶴
		越前国鯖江┃      村岡県知事  村岡県知事	貴族院議員
	  	藩主間部 ┣━眞龍            貴族院議員
	    詮茂の四男┃了源寺(船橋市)住職
	    婿養子  ┗━秀量
			   誠照寺(鯖江市)住職
			     

  • 山名 義範(やまな よしのり)山名氏の祖。父は新田義重。子に山名重国。平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。通称は三郎(または太郎とも)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男 源義国の長男 新田義重に始まる新田氏の庶子。
    新田義重の庶子・三郎義範(または太郎三郎とも)が上野国多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)に住して山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称した。
    1175年-1177年ごろには豊前国の宇佐八幡宮を勧請し、山名八幡宮を建立している。他の兄弟と比べて新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続しなかったことから、新田氏の中でかなり冷遇されていたと見られる。父とされる義重は治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げた源頼朝の命になかなか従おうとしなかったために、頼朝から不興を買って鎌倉幕府成立後に冷遇されたが、義範はすぐさま頼朝の元に馳せ参じたため「父に似ず殊勝」と褒められ、御家人として優遇され活躍した。
  • 山名 重国(やまな しげくに)
    生没年未詳。鎌倉時代初期の上野国山名郷の武将。清和源氏新田氏の流れを汲む山名義範の子。通称は小太郎。鎌倉幕府の御家人。承明門院蔵人。
    文治元年(1185年)10月、源頼朝が父の源義朝を弔うために建立した勝長寿院の落慶供養に随兵として七列の内の六列目に列している。
  • 山名 政氏(やまな まさうじ)
    鎌倉時代末期~南北朝時代の武士。山名義俊の子。政氏の妻は、足利尊氏の母親の実家、上杉氏の娘。子に山名時氏。
    新田義貞が足利尊氏に対し挙兵すると、総領家である新田氏方にはつかず、妻の親戚の足利氏方についた。
    室町幕府成立後もそのまま尊氏に従っている。
  • 山名時氏(やまな ときうじ)、嘉元元年(1303年) – 建徳2年/応安4年3月28日(1371年4月14日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将である。父は山名政氏、母は上杉重房の娘。子に山名師義、山名氏清、山名義理、山名時義、山名氏冬など。2代将軍足利義詮時代に南朝方から室町幕府に帰服して守護国を安堵された。
  • 山名師義(やまな もろよし)
    1328~1376(嘉暦3~永和2)
    時氏の長子。観応の擾乱では父時氏とともに直義方で戦い南朝に降る。山名氏の勢力拡大に貢献。
    貞和2年(1363年)に時氏が北朝に帰順すると、将軍義詮の政策もあって山名氏が優遇され、師義も丹後・伯耆の守護に任じられた。
    時氏死後は家督を継いだが、わずか5年で師義も死去する。49歳の若さであった。
  • 山名満幸(やまな みつゆき)
    ?~1395(?~応永2)
    師義の四男で末子といわれる。父師義が永和2年(1376年)に死去すると、兄義幸が病弱のために家督を継ぎ丹後・出雲の守護となる。しかし惣領家は師義から、その弟の時義に移ったために不満を持ち、やがて叔父氏清ととも時義と対立。
    山名氏の強大化を警戒した三代将軍義満は、この対立を利用して山名氏の分裂を図り、時義死後家督となった時義の嫡子時煕と満幸の兄氏幸を氏清・満幸に討伐させた。
    この功によって伯耆・隠岐の守護を得たが、満幸はこれに驕って後円融上皇の所領である出雲国横田荘を押領し、義満はこれを口実に満幸を丹後に蟄居させた。
    その後義満は時煕・氏幸を赦免し、逆に氏清と満幸を叛臣とした。これに起こった満幸は氏清とともに兵を挙げ明徳の乱を起こすが、幕府軍に敗れ敗走し、やがて九州で捕らえられ応永2年に処刑された。
  • 山名義理(やまな よしただ)
    生没年不詳
    時氏の二男。永和4年(1378年)に紀伊で楠木一族の橋本正督が反乱を起こして、紀伊守護の細川業秀が敗走し、幕府はその鎮定のために紀伊守護に山名義理、和泉守護に山名氏清を補任した。
    義理は、氏清とともに橋本正督を滅ぼし紀伊守護を安堵される。
    明徳の乱では氏清、満幸とともに幕府に叛いた。しかし義理は出兵はせず、そのために命は助けられたが、紀伊は没収され出家したという。
  • 山名氏冬(やまな うじふゆ)
    ?~1370(?~応安3)
    時氏の三男。観応の擾乱では父時氏や兄師義らとともに直義方で戦い南朝に降る。山名氏の勢力拡大に貢献。
    貞和2年(1363年)に時氏が北朝に帰順すると、将軍義詮の政策もあって山名氏が優遇され、氏冬は因幡守護となった。
  • 山名氏清(やまな うじきよ)1344~1392(康永3~明徳2)山名時氏の四男。応安4年(1371年)に山名氏を大大名にした時氏が死去、さらに永和2年(1376年)に時氏の跡を継いだ師義が没すると山名の家督を継いだのは時氏五男で氏清の弟の時義であった。
    氏清は丹波・和泉と畿内の二ヶ国の守護であったが、惣領となれなかったことに不満を持ち、同様の不満を持つ師義の末子満幸とともに時義と対立する。山名氏清のとき、一族で全国66ヶ国中11ヶ国の守護職を占め、「六分の一殿」と称されて権勢を誇った。しかしその結果、山名氏の強大化を警戒した三代将軍義満は、この対立を利用して山名氏の分裂を図り、時義死後家督となった時義の嫡子時煕と満幸の兄氏幸を氏清・満幸に討伐させた。そして元中8年・明徳2年(1391年)、氏清は義満の挑発に乗って一族の山名満幸・山名義理とともに挙兵(明徳の乱)、ところが、同年12月には京都へ攻め入るも、幕府軍の反攻にあって、その後義満は時煕・氏幸を赦免し、逆に氏清と満幸を叛臣とした。これに起こった氏清は満幸を語らい兵を挙げ明徳の乱を起こすが、幕府軍に敗れ戦死した。

戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、時義の子・山名時熙の但馬守護職、同じく時義の子・氏幸の伯耆守護職のみとなり、一族は大幅にその勢力を減ずるに至った。

  • 山名時義(やまな ときよし)1346~1389(貞和2~康応元)時氏の五男。応安4年(1371年)に山名氏を大大名にした時氏が死去、さらに永和2年(1376年)に時氏の跡を継いだ師義が没すると山名の家督を継いだ。
    美作・備前・伯耆・但馬・隠岐の守護でもあったが、時義の家督継承には兄の氏清、師義の子の満幸などが不満を持ち、山名氏の強大化を警戒した三代将軍義満は、この対立を利用して山名氏の分裂を図り、時義死後家督となった嫡子時煕と満幸の兄氏幸を氏清・満幸に討伐させ、やがて明徳の乱に発展する。
  • 山名 時煕(やまな ときひろ)
    、1367年(正平22年/貞治6年) – 1435年7月29日(永享7年7月4日))は、南北朝時代から室町時代の武将である。父は山名時義で長男。養子として入った兄弟に山名氏幸。正室は山名氏清の娘。子に山名満時、山名持煕、山名持豊(宗全)。「常熈」とも表記する。1389年に父の時義が死去し、家督を相続。山名氏の惣領権を巡る争いから90年3月には山名氏幸とともに3代将軍の足利義満から討伐を受け、一族の山名氏清らに攻められ、但馬から備後へ逃れる。翌91年には義満に赦免され、氏清らが挙兵した明徳の乱では義満の馬廻勢に加わり戦う。戦後には分国の但馬を拝領する。99年に堺で大内義弘が蜂起した応永の乱でも戦い、備後の守護となる。相伴衆として幕政にも参加し、4代将軍の足利義持から6代足利義教時代まで仕える。1414年、32年には侍所頭人を務め、畠山満家とともに宿老となる。16年に鎌倉府で起こった上杉禅秀の乱では、同時期に京都から奔しようとした足利義嗣とともに内通疑惑をもたれる。27年の赤松満祐出奔事件では、討伐軍に加わる。1433年に家督を持豊に譲り、日明貿易に関する横領疑惑で失脚。69歳で死去。 山名氏は91年の明徳の乱で没落したが、時熙の家系が存続した。
  • 山名 宗全/山名 持豊(やまな そうぜん/やまな もちとよ)
    、応永11年5月29日(1404年7月6日) – 文明5年3月18日(1473年4月15日))は、室町時代の守護大名。室町幕府の四職のひとつ山名家の出身。山名家は清和源氏新田氏族。山名時熙の三男で、母は山名師義の娘。子に山名教豊、山名是豊、山名勝豊、山名政豊、山名時豊、細川勝元室、斯波義廉室、六角高頼室。諱は持豊で、宗全は出家名。通称は小次郎(こじろう)。
  • 山名 教豊(やまな のりとよ)
    室町時代後期の但馬の守護大名。山名宗全(山名持豊)の嫡男。応永31年(1424年)、山名持豊(山名宗全)の嫡男として生まれる。宝徳2年(1450年)、父の宗全が隠居したため、家督を譲られて山名氏当主となる。享徳3年(1454年)には但馬・播磨・備後・安芸4ヶ国の守護となる。
    応仁元年(1467年)9月9日、父に先立って陣没する。享年44。家督は嫡男の山名政豊が継いだ。
  • 山名 政豊(やまな まさとよ)
    室町時代後期の守護大名。応仁の乱で知られる山名宗全の後継者である。
  • 山名致豊(やまな おきとよ)
    生年不詳 – 天文5年(1536年)。但馬山名氏一族。山名政豊の子。子に山名祐豊・山名豊定。1512年に「山名四天王」と呼ばれる太田垣氏・八木氏・田公氏・田結庄氏ら有力国人衆に離反を起こされてしまう。山名四天王は致豊の弟山名誠豊を擁し、但馬国において強い影響力を及ぼすようになりました。
  • 山名 誠豊(やまな のぶとよ)
    ? – 享禄元年2月14日(1528年3月4日))は戦国時代の武将。但馬山名氏一族。
    父は山名政豊。兄に山名致豊。養子に山名祐豊。1512年山名四天王と呼ばれる但馬国人たちに担ぎ上げられ但馬守護に就任。
    1522年に播磨国の浦上氏の内紛に乗じて、誠豊は播磨へ侵攻し領土拡大を狙うが、1523年11月には敗れて引き上げる。
  • 山名 祐豊(やまな すけとよ)
    但馬の守護大名・戦国大名。永正8年(1511年)、山名致豊の次男として生まれる。父・致豊の弟で但馬の守護を務めていた山名誠豊の養子となり、大永8年(1528年)の誠豊の死去によって家督を継いだ。この頃の山名氏は但馬守護と因幡守護の両家に分裂していたため、祐豊は山名氏の統一を目指して天文17年(1548年)に因幡守護である山名誠通を討ち取り、新たな因幡守護として弟の山名豊定を置き、領国の安定に努めた。天文11年(1542年)に生野で生野銀山が発見された。これにより、祐豊は銀山経営のために生野城を築いたが、この銀山の存在は織田信長や毛利氏らの周辺勢力から目をつけられることとなり、山名氏の領国はたびたび敵の侵攻を受けることとなりました。永禄12年(1569年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の侵攻を受ける。この侵攻を受けて祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡した。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地に復帰している。その後は同じく信長と手を結んでいた尼子勝久や山中鹿介らと協力して毛利輝元と戦りました。元亀3年(1572年)には宿敵である武田高信を山中鹿介と共に討ち取っている。
    黒井城の戦いしかし天正3年(1575年)に、突如として毛利氏と和睦を結んで織田氏を裏切ってしまう。これに怒った信長は、秀吉に再度の侵攻を命じた。そして祐豊は天正8年(1580年)5月21日、秀吉の軍勢が居城である出石城を包囲する中で死去した。享年70。

山名家臣団

室町-7 応仁の乱

応仁の乱

概 要

戦国時代(1493年(1467年)頃-1573年頃)は、1493年の明応の政変頃あるいは1467年の応仁の乱頃をそのはじまりとし、1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって追放されて室町幕府が事実上消滅するまでの約百年におよぶ全国的規模の争乱の時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。室町時代の一部、あるいは信長上洛以後を織豊時代(安土桃山時代)と区分することもあります。

幕府権力は著しく低下し、全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現し、ほぼ恒常的に相互間の戦闘を繰り返すとともに、領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めていきました。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制といいます。織田信長は、尾張統一を果たし、また徳川家康が独立して戦国大名となります。織田軍団が全国制覇に動き出します。

とくに応仁の乱以降の百年ばかりの間というものは、日本の歴史において最も大きな転換期とされています。日本を大きく、新しく、改造してしまうことになりました。それ以前の古代では律令国家への権力統合、中世にはそれがゆるやかになり、中央では寺社や権門[*1]が独自の組織を形成して分立しました。戦国時代はそうした特権階級以外の人々には直接関わりのない歴史とは異なり、下克上という「日本全体の入れ替わり」つまり支配階層の全面的な交替が起きたという直接我々に触れる歴史です。
[*1]…権門(けんもん)とは、古代末期から中世の日本において、社会的な特権を有した権勢のある門閥・家柄・集団をさす

1.応仁の乱の原因


山名宗全邸址 2009/1/28 上京区堀川通上立売下る一筋目北西角

応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代の8代将軍・足利義政のときに起こった内乱です。室町幕府管領の細川勝元と四職・山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し戦国時代に突入するきっかけとなりました。応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれます。もともとは、守護大名・畠山氏内部の家督争いへの将軍家の調停失敗に端を発しています。

ただし、実際には文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあり、両氏が対立関係となるのは寛正6年から両氏が和睦する文明6年(1474年)までであり、ことさらに勝元と宗全の対立を乱の要因とする理解は、『応仁記』の叙述によるものであるとの見解が提起されています。

室町幕府は、南北朝時代の混乱や有力守護大名による反乱が収束した将軍足利義満・足利義持の代に将軍(室町殿)を推戴する有力守護の連合体として宿老政治が確立していました。籤(くじ)引きによって選ばれた6代将軍の足利義教が専制政治をしいて、嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に誘殺されると(嘉吉の乱)、政権にほころびが見え始めます。7代将軍は義教の嫡子・足利義勝が9歳で継いだが1年足らずのうちに急逝し、義勝の次弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され8歳で将軍職を継承しました。

義政は母・日野重子や愛妾・今参局らに囲まれ、家宰の伊勢貞親や季瓊真蘂等の側近の強い影響を受けて気まぐれな文化人に成長しました。義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていました。

打続く土一揆や政治的混乱に倦んだ義政は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、それは長禄・寛正の飢饉にも対策を施さない程になっていました。義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に、将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立ちました。禅譲を持ちかけられた義尋は、まだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けました。しかし、義政が「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない」と起請文まで認めて、再三将軍職就任を説得したことから、寛正5年11月26日(1464年12月24日)、義尋は意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移りました。

文正の政変は、文正元年(1466年)7月、突然義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波武衛家の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えました。義廉と縁戚関係にあった山名宗全は一色義直や土岐成頼らとともに義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放を図ったことから、義視の後見人である勝元は宗全と協力して貞親を近江に追放、このとき政変に巻き込まれた季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われました(文正の政変)。

2.勝元と宗全の対立


山名宗全屋旧跡(2009/1/28)上京区堀川通五辻西入ル

嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に誘殺されると(嘉吉の乱)、政権にほころびが見え始めました。7代将軍は義教の嫡子・足利義勝が9歳で継ぎましたが1年足らずのうちに急逝し、義勝の次弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され8歳で将軍職を継承しました。義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていました。将軍足利義政は政治に疲れ、男子にも恵まれなかったことから僧籍にあった弟の義視を還俗させて後継者に立てていました。

嘉吉の乱鎮圧に功労のあった宗全は、主謀者赤松氏の再興に反対していましたが長禄2年(1458年)、勝元が宗全の勢力削減を図って自分の娘婿である赤松政則を加賀国守護職に取立てたことから両者は激しく対立するようになっていました。文正の政変で協力した2人でしたが、それぞれ守護大名の家督争いに深く関わっていたため、強烈に対立する2人でもありました。

ところが、寛正6年11月23日(1465年12月11日)、正妻の日野富子が懐妊、やがて男子(足利義尚(のち義煕))が誕生すると、にわかに後嗣問題は波乱含みとなったのです。実子・義尚の将軍職擁立を切望する富子は宗全に接近し、義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍しました。これに、管領斯波氏、畠山氏の家督問題が絡み、時代は動乱前夜の様相を呈していました。
一方、赤松氏で唯一残っていた次郎法師丸が、遺臣らの神璽奪還の功により再興が許されたのです。赤松氏再興の背後には管領細川勝元がおり、将軍継嗣問題、管領家の家督騒動、そして赤松氏の再興とが相まって宗全と細川勝元の対立は決定的となってしまいました。義視の後見人である勝元と義尚を押す宗全の対立は激化し将軍家の家督争いは、全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、衝突は避け難いものになっていきました。

3.応仁の乱

かくして、応仁元年(1467)1月、管領畠山政長の解任を契機として対立は発火点に達し、京都御霊社に陣取った勝元方の畠山政長を宗全方の畠山義就が攻撃したことで、応仁の乱の火ぶたが切られたのです。

応仁元年(1467)史上に類を見ない応仁・文明の乱が起こります。それは三度目の赤松氏再興の問題をめぐって山名持豊と細川勝元が対立し、管領の畠山氏と斯波氏の間での将軍の後継ぎ問題がからんで戦いが起こりました。両陣営とも地方から続々と兵力を上洛させました。幕府は争いを調停せず(できず)、両陣営の大兵力は京の東西に布陣する。前哨戦とも言える小競り合いを経て、5月26日に本格的な合戦が始まりました。乱が起こると応仁二年、宗全は但馬でも山名の四天王垣屋・太田垣・八木・田結庄(たいのしょう)を中心に、因幡・備後の勢力も軍備を整えて但馬に入り、総勢二万六千あまり此隅山城(このすみやまじょう)下の出石(いずし)付近に勢揃いしました。六月八日には西軍を率いて挙兵し、十五日には丹波口(京都)にさっそうと入りました。

細川勝元は京に軍勢を集結した山名方の留守を突いて、丹波守護代内藤孫四郎、長九郎左衛門らを但馬に侵攻させました。これを迎え撃ったのは、京に出陣中の父や兄の留守を守っていた太田垣新兵衛でした。竹田城から出撃した新兵衛は、但馬・丹波の国境の夜久野高原に布陣する細川勢に突入、内藤備前守孫四郎、長九郎左衛門らを打ち取る勝利しました。山名一族の大方は宗全に属しましたが、二男で備後守護の是豊(これとよ)は勝元方について宗全と対しました。その原因は、宗全には嫡男の教豊があり、幕府の横槍があったとはいえ家督も譲っていました。ところが、寛正元年(1460)宗全は教豊を放逐しました。これによって、是豊は自分が山名氏の家督を継げると期待したのですが、ほどなく教豊(のりとよ)が嫡男に復したことで野望はあっけなく潰れました。この家督をめぐる不満と、勝元の娘婿であったことなどが相俟って、是豊は勝元方につき石見・山城の守護職に補任されたのです。東軍にあって気を吐いたのは、播磨奪還を目指す赤松政則と山名是豊でした。さしもの権勢を誇った宗全でしたが、山名氏一族の統制は鉄壁とはいえないものがあったのです。

一方、播磨の回復を狙う赤松氏では、一族の赤松下野守が播磨に下り、旧臣を糾合すると播磨はもとより美作・備前の両国も回復してしまいました。これに対して山名方は、太田垣宗朝が但馬に帰り、夜久野合戦勝利の余勢をかって丹波へ侵攻、氷上郡の全域と多紀郡の大山荘あたりまでを制圧する勢いを示しました。


西陣織会館 上京区堀川通今出川南入(2009/1/28)

「西陣」の名は応仁の乱で西軍総大将である山名宗全が堀川よりも西に陣をおいたとされたことが由来です。 今出川通の大宮通と堀川通の間に西陣の史跡があます。西陣(にしじん)とは京都府京都市上京区から北区にわたる地域の名称。上京区内の東の堀川通から西の七本松通、北の鞍馬口通から南の中立売通あたりまでの範囲の中を指しますが、住所としては存在せず、どこからどこまでかは正確に定められているわけではありません。 一般に鎌倉時代前半に綾織りの織り手がすでに集住していたことが知られており、西陣織など織物産業が集中する地域です。 また、日本で初めて映画館ができた場所です。

4.戦火の拡大

応仁の乱は京都が主戦場でしたが、後半になると地方へ戦線が拡大していきました。これは勝元による西軍諸大名(大内氏・土岐氏など)に対する後方撹乱策が主な原因であり、その範囲は奥羽・関東・越後・甲斐を除くほぼ全国に広がっていきました。ここでは東西両軍に参加した守護大名や豪族を列挙しますが、時期によっては去就が異なる場合があります。主に応仁4年(1470年)頃の状況に照らした去就を記す(参考資料:『鎌倉・室町人名辞典』・『戦国人名辞典』)。

■東軍

  • 守護大名
  • 細川勝元および細川氏一門:摂津・和泉・丹波・淡路・讃岐・阿波・土佐
  • 畠山政長:越中・(河内)
  • 斯波義敏・斯波持種:(尾張・越前・遠江)
  • 京極持清:飛騨・近江半国・出雲・隠岐
  • 赤松政則:播磨・加賀半国(備前・美作)
  • 山名是豊:山城・備後
  • 武田信賢・武田国信:若狭 安芸半国
  • 今川義忠:駿河
  • 富樫政親:加賀半国
  • 北畠教具:伊勢半国
  • 大友親繁:豊後・筑後
  • 少弐頼忠:肥前・対馬(筑前)
  • 菊池重朝:肥後
  • 島津立久:薩摩・大隅・日向(ただし、実戦には参加していない)
  • 豪族
    • 小笠原家長、木曽家豊、松平信光、吉良義真、筒井順尊、吉川経基、吉見信頼、益田兼堯、大内教幸、小早川熈平、河野教通、相良長続など

■西軍

  • 守護大名
  • 山名持豊(宗全)および山名氏一門:但馬・因幡・伯耆・美作・播磨・備前・備中(ただし、山名是豊を除く)
  • 畠山義就:河内(紀伊・大和)
  • 畠山義統:能登
  • 斯波義廉:越前・尾張・遠江
  • 一色義直:丹後・伊勢半国
  • 小笠原清宗:信濃
  • 土岐成頼:美濃
  • 六角高頼:近江半国
  • 河野通春:伊予
  • 大内政弘:長門・周防・豊前・筑前
  • 豪族
    • 吉良義藤、飛騨姉小路家、富樫幸千代、毛利豊元、武田元綱、竹原小早川氏、渋川尹繁・島津季久、一色時家など

京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半でした。「東軍」は皇室と将軍義政を確保し義政の支持を受けて「官軍」と号したことに加え、地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加え、その近隣地域にも自派の守護を配置していたため、「東軍」が優位を占めていました。「西軍」は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める地方の勢力が参加していました。このため西軍には、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や六角高頼・土岐成頼のように成り行きで参加したものも多く、その統率には不安が残されていました。

一方、関東地方や東北、九州南部などの地域は既に中央の統制から離れて各地域で有力武家間の大規模な紛争が発生しており、中央の大乱とは別に戦乱状態に突入していました。
しかし、細川領の丹波国を制圧した山名軍8万が上洛し、8月には周防から大内政弘が四国の河野通春ら7ヶ国の軍勢と水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復しました。激戦となった相国寺の戦いは両軍に多くの死傷者を出しましたが、勝敗を決するには至りませんでした。

長引く戦乱と盗賊の頻発によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃しました。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなっていました。かつて大義名分に掲げられていたはずの、守護大名たちが獲得を目指していた幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや獲得するものは何もなかったのです。

この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたにも関わらず主だった将が戦死することもなく、惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま和睦成立と言う形でしか決着はつきませんでした。義政が義尚に将軍職を譲ったことは、将軍自らがその職務を放棄した事を意味しました。大内政弘が撤退したのも、領土の安堵を約束させるために日野冨子に政弘が賄賂を贈ったからこそできたことでした。西軍の解体はわずか1日で終わったと伝えられています。

5.応仁の乱の影響

文明九年(1477年)、西軍の中心的存在であった畠山義就、大内政弘らが相継いで領国に撤収したことで、さしもの応仁の乱も終熄を迎えました。しかし、乱はすでに全国に拡散しており、世の中は下剋上が横行する戦国乱世へと推移していました。応仁の乱の長期化は、将軍義政の気紛れと優柔不断さが最も大きな原因となったことは言うまでもありません。さらに、応仁の乱は室町幕府の形骸化を引き起こし、終結から100年足らずにして室町幕府を滅亡へと追いやりました。

応仁の乱は、将軍や守護大名の没落を促進し、守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように真の実力者の身分上昇をもたらしました。社会は下克上は全国に拡散され、戦国の世の幕開けとなったのです。

残存していた荘園制度等の旧制度が急速に崩壊し始めると、新しい価値観を身につけた勢力が登場した。応仁の乱終了後も政長と義就は山城国で戦い続けていたが、度重なる戦乱に民衆は国人を中心にして団結し勝元の後継者であった政元の後ろ盾も得て、山城国一揆を起して両派を国外に退去させた。加賀国においては、本願寺門徒が富樫政親を追った(加賀一向一揆)。これは、旧体制に属さない新勢力が歴史の表舞台に現れた瞬間であった。


清明神社

京都市上京区堀川通一条上ル806一条天皇は平安期の陰陽師・阿部清明の遺業は非常に尊いものであったこと、そして晴明公は稲荷大神の生まれ変わりであるということで寛弘4年(西暦1007年)、そのみたまを鎮めるために晴明公を祀る晴明神社を創建されました。境内の「清明井」は悪疫難病を平癒するという霊泉。

星形の清明桔梗印呪符や陰陽道、天文学に通じた神主の祈祷、人生相談が人気です。応仁の乱の後豊臣秀吉の都造り、度々の戦火によってその規模は縮少。そして、古書、宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続きました。そこで、地元の氏子が中心となり嘉永6年、明治11年、明治36年、昭和3年に整備改修が行われました。また昭和25年には多年の宿望であった堀川通に面する境内地を拡張するなど御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が進められました。近年は陰陽師が一大ブームが巻き起こり、文芸、漫画、映画などを通じて晴明公の存在は広く知られ、全国にその崇敬者を集めるようになりました。

持豊(宗全)が亡くなったあと、孫の政豊(まさとよ)が後を継いで惣領となり(子の教豊は応仁の乱の起こった応仁元年陣中で亡くなった)、文明6年4月3日(4月19日)、宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立し、終結しました。

11年間という長引く戦乱と盗賊の暴挙によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃しまいました。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなってしまいました。かつて大義名分に掲げられていたはずの、守護大名たちが獲得を目指していた幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや獲得するものは何もなかったのです。

この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたにも関わらず主だった将が戦死することもなく、惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま和睦成立と言う形でしか決着はつきませんでした。義政が義尚に将軍職を譲ったことは、将軍自らがその職務を放棄した事を意味しました。応仁の乱の長期化は、将軍義政の気紛れと優柔不断さが最も大きな原因となったことは言うまでもないことです。さらに、応仁の乱は室町幕府の形骸化を引き起こし、100年足らずにして室町幕府を滅亡へと追いやってしまいました。また、越前(福井県)の守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように真の実力者の身分上昇をもたらしました。社会は下克上の風潮が大勢を占め、戦国の世の幕開けとなったのです。

一方で、町衆主導によって行われたと評価されてきた明応9年(1500年)の祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りであったことを考えると、逆に当時の社会不安の反映が祇園祭再興を促したという側面も考えられるています。本当の意味での町衆による祇園祭開催が可能になったのは、天文2年(1533年)の幕府の延期命令に対する町衆の反対運動以後と考えられています。また、当時町衆における法華宗受容も社会不安からくる信仰心の高まりと関連づけられています。
また、応仁の乱以後を「戦国時代」とするのが従来の説でしたが、応仁の乱以降、室町幕府が衰退しつつも影響力が一応維持されていたと考えられるため、明応の政変(明応2年(1493年))以後を戦国時代とするのが現在では有力な説の一つとなっています。

6.九日市城(ここのかいちじょう)と当辺羅山(とべらやま)の合戦

南北朝末期から15世紀まで、但馬守護・山名氏は、守護所を豊岡市九日市に置きました。東側の円山川を外濠に見立て、西側の当辺羅山の嶺々に城を築き、中心(九日市上町)の自然堤防台地をお屋敷が占める防御態勢でした。1454年(享徳3年)から4年間、山名宗全は将軍足利義教の怒りに触れて、京から当地に退去しました。この間に備後国被官・山名泰通に安堵状を発しています。

御屋敷内には一族の日真上人の産湯井が残り、山名大明神祠もあります。外縁部には山名氏菩提寺の系譜を引き、日真上人が改名した法華宗妙経寺が現存しています。

応仁元年(1467)足利幕府や諸大名の勢力争いから始まった有名な応仁の乱は、京都を焼け野原とし、続いて地方に広がって、戦いは十一年も続けられましたが、その西軍の総大将、但馬国守護大名山名宗全(持豊)ですが、宗全の子・是豊は、父の宗全と領地問題で仲が悪くなり、東軍の細川方につくこととなりました。文明三年(1471)、是豊の子の山名七郎頼忠をして、父宗全の本拠地である九日市城に攻め入るように指示しました。これに味方したのが、奈佐谷の奈佐太郎高春でした。奈佐太郎は当辺羅(とべら=戸牧)山に陣を張りました。

宗全の家来で九日市城を守っていた垣屋平右衛門は、これらに対して積極的に戦いをいどんで、頼忠を追っ払い、高春を討ち取りました。
歴史家の石田松蔵氏(豊岡市)は、この合戦の九日市城が、後の豊岡城であり、当辺羅山(戸牧山)というのが、今の文教府付近と思われるとのことです。

7.戦国時代の国内社会

戦国時代はとても貧しい時代でした。天災による被害で飢饉もあちらこちらで見られました。当然、合戦(乱取り)による飢餓と餓死、それによる疫病も蔓延していました。そのため領主が領主でいるためには、自国領内の庶民をある程度満足(満腹といってもいいかも)させる必要があったのです。それが出来ないと一揆が起きたり、または隣国の比較的条件のいい領主に鞍替え(離散)をされてしまうからです。

それを防ぐ手立ての一つが”戦”だったのです。戦に勝てる強い領主は庶民の信頼得ることができたのです。
戦国期、ほとんどの兵隊は専属ではなく、合戦のとき以外は田畑を耕す農民が多かったのです。税として兵役を課したのですが、戦国後期は現代のアルバイトのような感じで兵隊を雇用するようになったようです。 しかし、信長の場合、おそらくは京、堺などを手中にして、お金をがっぽり巻き上げてからだと思われますが、武器を貸し与え、鉄砲組や足軽組などを組織したようです。また、専属の兵隊も組織したようです(兵農分離)。京も堺も商人の町で当時の大都会ですから、そうしないと兵隊が集まらなかったという実態もあったのでしょう。

出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
「ヨーロッパの歴史」-放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他▲ページTOPへ

室町-6 但馬の鉱山と守護

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

[catlist categorypage=”yes”]

但馬の鉱山

概要

平安時代初期から、但馬では金銀鉱山の採掘が行われていました。とくに生野銀山は山名氏支配の時代から四天王の太田垣氏が、阿瀬金山などは山名、垣屋氏が経営し、山名氏の衰退と下克上に大きく寄与する財源になっていたのではないかと考察します。養父郡北部を領していた八木氏は、中瀬鉱山・日畑金山などがその領地内にありました。そして各鉱山は豊臣・徳川時代まで最盛期が続き、重要な鉱山として幕府直轄領になりました。

生野銀山

生野銀山(いくのぎんざん)は兵庫県朝来市(旧生野町)に開かれていた、戦国時代から昭和にかけての日本有数の銀山。

歴史

生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられていますが、詳細は不明です。天文11年(1542年)、但馬国守護大名・山名祐豊が銀鉱脈を発見、石見銀山から灰吹法といわれる採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まりました。

このようにして山名氏の時代が約十五年続き、その後弘治二年(1556)家臣である竹田城酒太田垣朝延の反逆によって約二十年経営され、天正五年(1577)から慶長三年(1598)までの約十六・七年間、織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、江戸時代にはただちに徳川家康が間宮新左衛門を代官として「銀山奉行」を設置。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び徳川幕府の財源的な存在でした。徳川幕府が滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出しました。宝永2年(1705年)には、「御所務山(ごしょむやま)」という最上級の鉱山に指定されています。

慶安年間(1648年~1652年)頃より銀産出が衰退し、享保元年(1716年)には生野奉行は生野代官と改称しました。江戸中期には銀に換わり、銅や錫の産出が激増しました。

明治元年(1868年)から政府直轄運営となり、鉱山長・朝倉盛明を筆頭として、お雇いフランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエらの助力を得て、先進技術を導入し近代化が進められました。

明治22年(1889年)から皇室財産となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となりました。

昭和48年(1973年)3月22日、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから、閉山し、1200年の歴史に幕を閉じた。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しています。

2007年、日本の地質百選に選定されました。
その間掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しており採掘した鉱石の種類は黄銅鉱・閃亜鉛鉱など70種にも及んでいます。

鉱山資料館

現在は、史跡・生野銀山(三菱マテリアル関連会社の株式会社シルバー生野が管理・運営)となっており、のみの跡も生々しい坑道巡りのほか、鉱山資料館は、「和田コレクション」、「石亭標本」、「藤原寅勝コレクション」など常時2,000余点を展示しております。国内産出鉱石標本としては世界的にも貴重な国内最大級の鉱物博物館として知られております。「和田コレクション」は、和田維四郎博士が明治8年から30年間にわたって収集したもので、明治年間に我が国で産出した鉱物の大半を網羅し、最初の完全な日本産鉱物標本として国宝的評価と名声を博しています。和田維四郎の標本の散逸を惜しんだ三菱合資会社の岩崎小彌太社長が、同コレクションを一括して譲り受けました。その後当地に移管され、現在の三菱ミネラルコレクションの主体を成しています。 「和田コレクション(和田維四郎)」、「石亭標本」は、木内石亭が苦労の末に日本全国から集めた2千余点の奇石や鉱物類の標本で、我が国最古の岩石・鉱物コレクションです。

銀の馬車道

「銀の馬車道」は、明治の初め生野と飾磨港の間、約49kmを結ぶ道として新しく作られ、正式には
「生野鉱山寮馬車道」と呼ばれた、当時の高速道路というべき馬車専用道路です。
完成から約130年がたった今では、道の大部分は車が走る国道や県道に変わり、
一部は新幹線姫路駅になっています。
しかしながら、「銀の馬車道」のルートをたどれば、あちらこちらに記念碑などがあり、
往時のおもかげを残しています。
1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コアニエが選んだ技師レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事が始まりました。
道路を水田より60cm高くし、 あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がスムーズに走行できる工事が3年がかりで行われました。
この馬車道により、物資を非常に早く輸送でき、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1まで低減したと言われています。
▲ページTOPへ

お雇い外国人

幕末以降明治初期に、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された欧米人のことである。江戸幕府や各藩、明治以降は新政府や各府県、または民間によって招聘された。幕末に各藩が競って外国人を抱えて雇用したために、お抱え外国人ともよばれることもあります。ジュール・レスカス(JulS. Lescasse)

明治初期に活躍した在日フランス人建築家。明治4(1871)年に来日。官営生野鉱山に勤めたのち、横浜に建築事務所を開設、かたわらパリの建築金物店ブリカール兄弟社の代理店も営んだ。代表作にニコライ邸(1875頃)や西郷従道邸(1885頃)などがある。
ジャン・フランシスク・コワニエ(Jean Francisque Coignet)

(1835年 – 1902年6月18日)は、フランスより招聘された御雇(おやとい)外国人技師のひとりである。兵庫県・生野銀山(生野鉱山)の近代化に尽力した。
コワニエは、フランス・サンテチェンヌの鉱山学校を卒業したのち、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州など世界各地の鉱山を視察し、1867年(慶應3年)より鉱業資源調査のために薩摩藩によって招聘されていた。

明治新政府は官営鉱山体制を確立すべく、1868年(慶應4年)、江戸幕府から受け継いだ産業資産のひとつである但馬国の生野鉱山(現・兵庫県朝来市生野町)の鉱山経営を近代化するため、コワニエは帝国主任鉱山技師として現地に派遣された。鉱山長・朝倉盛明の元、政府直轄となったこの鉱山を再興するため、鉱山学校(鉱山学伝習学校)を開設し新政府の技術者らを鉱山士として指導、近代的鉱山学の手法により当時の欧米先進技術を施し成果を挙げる。

坑口の補強にフランス式組石技術を採用し、鑿(のみ)と鏨(たがね)だけの人力のみに頼っていた採掘作業に火薬発破を導入、運搬作業の効率化を図り機械化を推進、軌道や巻揚機を新設した。また、より金品位の高い鉱石脈に眼をつけ、採掘の対象をそれまでの銅中心から金銀に変更するよう進言した。さらに、製錬した鉱石その他の物資輸送のための搬路整備を提案し、生野~飾磨間に幅員6m・全長50kmの、当時としては最新鋭のマカダム式舗装道路「生野鉱山寮馬車道」として1878年(明治11年)結実する。大阪の造幣寮(現・造幣局)への積出し港である飾磨港(現・姫路港)の改修なども指導し、発掘から積み出しまでの工程を整備した。

着任当初の鉱山の混乱(播但一揆に伴う鉱山支庁焼打ち事件:明治4年)もあり一時離日するが、その後再任し上記事業に本格的に取り組んだ。大蔵卿・大隈重信の官営鉱山抜本的改革についての諮問により、日本滞在中に各地の鉱山調査もあわせて行い、1874年(明治7年)『日本鉱物資源に関する覚書』(Note sur la richesse minerale du Japon)を著した。1877年(明治10年)1月に任を解かれ帰国、1902年、郷里のサンテチェンヌにて67歳で死去。

銀山現地にはコワニエの業績を称え、彼のブロンズ胸像が建つ。当時、生野の鉱山にはフランスから地質家・鉱山技師・冶金技師・坑夫・医師らが呼ばれ、その総数は24名に達したという。
▲ページTOPへ

関連人物

中江種造(なかえ・たねぞう、1846ー1931)

豊岡藩出身の鉱業家。幕府貨幣司から新政府の鉱山司役人に転じ、コワニエとともに銀山開発に尽力した。のちに古河家の顧問役をつとめ「古河鉱業」を大きく成長させ、独立したあと、各地の鉱山を手中にし「鉱山王」とも呼ばれた。山林事業にも意欲的で成功し、郷里・豊岡の事業や後進の育成を推進した。豊岡藩の下級武士の子として生まれ(父・河本筑右衛門元則、母・松子)、1858年(安政5年)、豊岡藩士・中江晨吉の養子となり、藩警護役のかたわら火砲技術や数学・測量を学ぶ。1868年(慶応4年)、戊辰戦争において京・桂御所の警備につき、砲術家・久世治作に従い理化学を学んだ。明治新政府より「貨幣司」(造幣局の前身)勤務の命を受け、そこで身につけた金属分析技術をもって、貨幣司から鉱山司に転任となり、但馬国(現・兵庫県朝来市)の生野銀山の再興の職に就く。ここでフランスより来ていた外国人技師ジャン・フランシスク・コワニエらと協同し、最新の鉱山技術や製錬・冶金技術を学ぶ。その後、裸一貫で上京、1875年(明治8年)から1884年(同17年)まで、古河市兵衛の顧問技師として、栃木県・足尾銅山や新潟県・草倉銅山の経営に当たり、「古河鉱業」ひいては「古河財閥」(現在の古河グループ)を大きく成長させた。1884年(明治17年)、顧問役をつとめた古河家を辞し、鉱業家として独立自営する。岡山県・国盛鉱山など各地の鉱山を買収、巨万の富を成し「鉱山王」とも呼ばれるようになる。鉱業のみならず山林業にも手を染め、500万本もの植林を行い「山林王」の名も欲しいままにしたという。郷里・豊岡での産業振興や人材育成にも力を入れ、銀行・製糸工場・煉瓦工場などの経営にも関わり、1906年(明治39年)育英基金「中江済学会」を創設し、学者・弁護士・医師など多くの人材を育成した。

広瀬宰平

(ひろせ・さいへい、1828ー1914):別子銅山支配人(1865ー)。鉱山司付属試補として住友家より出仕、生野鉱山にて黒色火薬を用いた近代的採鉱法や冶金技術を視察し、銅山の再生に西洋技術および近代的経営法の不可欠を確信、1872年(明治5年)コワニエの別子視察を要請し、 1874年L・ラロックを雇用した。1876年別子近代化起業方針を打ち出し、改革に着手する。1877年(明治10年)、住友家の指名を受けて初代「住友」総理事となり、明治15年(1882)1月、住友家では、伝統的家業経営から近代企業経営へと大きく転換していく中で、当時住友家総理人であった広瀬宰平は、第十二代家長住友友親の命を受けて、「住友家法」を制定した。以降明治期関西財界の実力者となる。

高島北海

(たかしま・ほっかい、1850-1931):萩・明倫館の出身で明治政府工部省の技術官僚にして画家。1872年(明治5年)から4年間、生野鉱山に勤務する。コワニエからフランス語を学び、治水や山林・地質・植物に関する学問を元に政府の命により渡欧、フランス・ナンシーに渡り3年間滞在する。元来絵画を好んだ彼は、当時アール・ヌーボーの旗手であったエミール・ガレらと交友、日本文化や植物に関する知識を紹介し、その新興芸術に多大な影響をあたえた。

明延鉱山

明延鉱山(あけのべこうざん)とは、兵庫県養父市大屋町で世界的に有名な多金属鉱脈鉱床です。日本最大の錫鉱山で日本の産出量の90%をしめていました。かつて操業していたスズ、銅、亜鉛、タングステンなどの多品種の非鉄金属鉱脈をもつ鉱山。特にスズは日本一の鉱量を誇っていました。

歴史

明延鉱山は平安時代初期の大同年間に採掘開始といわれる。明治初年(1868年)、生野銀山とともに官営となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払い下げられました。

昭和48年(1973年)に三菱金属株式会社(現三菱マテリアル株式会社)となり、昭和47年(1972年)のオイルショックをきっかけに、昭和51年(1976年)に三菱金属の子会社として分離・独立し明延鉱業株式会社となる。最盛期には、鉱山関係の人口が4,123人(963世帯)おり、娯楽施設の協和会館では、最新の映画が上演され、多くの芸能人(島倉千代子、村田英雄、フランク永井など)が歌いました。

大正元年(1912年)に明延鉱山の鉱石を神子畑(みこばた)選鉱所に運ぶためにつくられた5.75kmの鉱山列車「明神電車」は、昭和27年(1952年)以来、乗車賃「一円」で乗客を運んだことから、「一円電車」として有名になったこともあります。

粗鉱生産量は、ピーク時の戦時中から昭和26年(1951年)頃には月産35,000トン、閉山前頃には、銅、亜鉛、スズの粗鉱生産量が月産25,500トンであったが、プラザ合意後の急激な円高に伴う銅、亜鉛、スズの市況の下落により、大幅な赤字を計上することとなり、まだ採掘可能な鉱脈を残して、昭和62年(1987年)1月31日午後11時20分の発破を最後に、同年3月をもって閉山しました。

平成19年(2007年)11月30日公表の近代化産業遺産認定遺産リスト(経済産業省)において、「25.我が国鉱業近代化のモデルとなった生野鉱山などにおける鉱業の歩みを物語る近代化産業遺産群」の中で、明延鉱山関係では、「明神電車と蓄電池機関車」、「明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞坑)」、「明盛共同浴場『第一浴場』建屋」の3点が選定されました。

神子畑鉱山・選鉱所


すでに撤去されています

朝来市佐嚢。1878年(明治11年)の鉱脈再発見により、加盛山と呼ばれ、生野鉱山の支山として稼働していましたが、1896年(明治29年)の生野鉱山の三菱合資会社への払い下げ後、1917年(大正6年)採鉱の不況により閉山しました。明延鉱山で採鉱された鉱石の選鉱場となり、1919年(大正8年)に竣工。昭和に入ってから数度の拡張工事を経て、最盛期には東洋一と謳われた選鉱施設となりました。

最初の建設が1919年(大正8年)の選鉱場跡は、2003年(平成15年)の調査で、内部の階層延べ22階、幅110m、斜距離165m、高低差75mという規模が確認されました。木造部分と鉄骨部分があり(木造部分が初期の建設と考えられる)、一部鉱石などを入れる容器としての鉄筋コンクリート造の部分がある。
2004年(平成16年)に取り壊され、現在はコンクリートの基部やシックナー(液体中に混じる固体粒子を泥状物として分離する装置)の一部等が残るのみとなりました。

神子畑鋳鉄橋

兵庫県朝来市の神子畑川に架かる鋳鉄一連アーチ橋。明延(あけのべ)鉱山から採掘されたものを神子畑選鉱所(最盛期には東洋一と謳われた選鉱施設)や生野精錬所まで輸送するための鉱石運搬道路として手引車や牛車(後に鉄道馬車等のトロッコ用の線路が引かれる)などのためにかけられた鉄橋群の一つである。鋳物で作られたものとしては日本では最古のもので横須賀製鉄所で作られ飾磨まで海輸し運ばれたとされ、生野鉱山の開発などで呼ばれたフランス人技師たちの指導のもと作られました。

他に5箇所架けられていたが現在は他に羽淵鋳鉄橋を含めて2つだけが現存するものとなっています。 1977年6月27日に重要文化財に指定されています。老朽化のため1982年には一年かけて修繕が行われました。2007年に近代化産業遺産に認定されました。

諸元

  • 施工年 明治16(1883)年4月-1885年3月
  • 橋長 15.975m
  • 最大支間 14.2m
  • 幅員 3.6m
  • 高さ 3.81m

明神電車(めいしんでんしゃ)

明神電車は、かつて兵庫県大屋町(現・養父市)・朝来町(現・朝来市)の明延鉱山にあった鉱山用軌道。明延(あけのべ)と神子畑(みこばた)を結ぶことからその名がついた。延長:5.75km
鉱石列車のほかに、鉱山関係者の便宜を図って人車も1945年から運行されました。この時、当初は運賃無料であったのが、1949年から50銭、1952年から1円を徴収するようになった。その運賃はその後、1985年11月の廃線まで変わらなかった。「1円電車」と呼ばれる所以はここにある。

なお、登山客へも10円の料金を徴収して開放していた事があり、その後は関係者かどうかに関係なく運賃を1円に統一した。しかし、1960年代にマスコミで「運賃が1円」ということが取り上げられた結果、興味本位の部外者の乗車が増え、その中には運行を妨害するような者も少なからずいたことから、業務に支障が出るという本末転倒の事態になり、部外者の乗車を禁止せざるを得なくなった。(小学生の時に乗った時は11円でした。)
円高の進行で錫鉱山としての国際競争力が低下し、明延鉱山が1987年に閉山となったことに伴い、明神電車も廃線となりました。
▲ページTOPへ

阿瀬鉱山

兵庫県豊岡市日高町阿瀬

日高町史によると、
気多郡三方荘阿瀬谷(豊岡市日高町河畑)から金や銀が発見された時期については、異説があって一定していません。永禄五年(1562)、阿瀬谷のクワザコから銀が産出したといい、金の発見は文禄四年(1595)、川底に光る砂金の輝きを見つけたのが機となったとも伝えていますが、それより約二百年前の応永五年(1398)に既に発見されていたとも言われています。この応永五年説が本当だとすると、これは垣屋にとって重大で幸運な事件であった。この地域を領有することになったということは、幸運にも銀山を支配下に治めたということで、計り知れない財源を提供することとなりました。但馬守護の山名や、家臣太田垣が、生野銀山の経営に手を染めるのは、公式的には、天文十一年(1542)というから、それに先立つ百三十年前に、垣屋は銀山経営に乗り出していたことになります。何はともあれ、この鉱山資源を背景にして、垣屋は山名の最高家臣の地位を得るし、金山の地に、布金山隆国寺を移建することができました。
時代によって、阿瀬銀山、河畑銀山あるいは阿瀬河畑銀山とも呼ばれたようです。
天正5(1577)年、豊臣秀吉の但馬征伐後、別所豊後守の給地になったが、天正10(1682)年からは生野銀山の支山となり、銀山奉行・伊藤石見守が支配した。それ以来、「木戸岩」、「八十枚山」、「与太郎」など多くの間歩(坑道)が次々と発見され隆盛を誇った。阿瀬金銀山は広い範囲にわたり、その繁栄を物語るように「阿瀬千軒」、「金山千軒」、などの言い伝えが今も残されています。
江戸時代、元文3(1738)年ごろ、気多郡にあった金山として「阿瀬奥金山」の名があります。安政6(1855)年8月、八々山人赤木勝之が著述した「但馬国新図」には、但馬における名産として、『阿瀬の銀』は、生野の銀と並び称されています。阿瀬には、阿瀬金山(阿瀬之奥金山)もあったので、併せて阿瀬金銀山とも称されました。

現在は阿瀬渓谷のハイキングコースになっています。(中学生の時に阿瀬渓谷から金山峠まで歩いています。分校跡らしい小屋には少女マンガが置きざらしになっていました。)

和田維四郎と日本鉱物学

和田鉱物標本は、東京大学理学部鉱物学教室の基盤を築いた日本人の初代教授である和田維四郎の収集した日本最大の鉱物標本コレクションである。和田維四郎が開成学校助教から東京大学助教授・教授、地質調査所長、鉱山局長、官営製鉄所長官と職を転ずることがあっても、終生変えなかったのが鉱物収集であった。和田維四郎の逝去後、標本は全て岩崎家に買い取られ、現在三菱マテリアルの所有になっています。

和田維四郎は、若狭小浜藩から14才の若さで貢進生というエリート集団に選ばれたことは、彼が藩内で際立った存在だったではあろうが、明治時代という激動の時代の中で、かくも光り輝くとは予想されなかったに違いない。
明治3年7月27日、大政官より各藩に人材を大学南校に貢進せよとの通達があった。各藩より優秀で壮健な16歳以上20歳までの男子が15万石以上の藩からは3名、5万石以上の藩からは2名、5万石未満の藩からは1名が貢進生として選出され、藩は一人当り学費として一ヵ月10両を下らない資金を援助し、書籍代として年50両を大学南校に納入しなければならなかった。この年の10月に各藩から選出された貢進生は合計319人おり、その中には小浜藩から和田維四郎が選ばれています。貢進生の多くが明治・大正の各界で活躍していることからみても、貢進生は、いわばエリート養成集団であったことは明らかです。

明治11年、内部省地理局に地質課が設けられ、和田維四郎はナウマンと共に、地質課に移動した。地理局は明治7年に創設された地理寮に起源を持ち、明治10年に地理局となった。その後、ナウマンと和田維四郎の建議により明治15年に地質課を分割して地質調査所が設立され、和田維四郎は所長となりました。地質調査所の調査研究は直接間接に日本産鉱物の研究に大きく貢献し、特に鉱物の分析には最も力を入れていました。この間、和田維四郎は明治14年に東京大学助教授を兼任する。また、明治17年から18年に和田維四郎はベルリン大学のウェブスキー教授の下で鉱物学を学び、帰国後の明治18年10月に東京大学教授に昇進し、日本人として最初の鉱物学の教授となりました。これ以降、鉱物学の研究教育は日本人の手で行われる。和田維四郎の東京大学教授兼務は明治24年まで続いた。

彼は64年間の人生の中で、東京大学教授として日本の鉱物学の基礎を築き、優秀な後継者を育てました。同時に地質調査所を創設し、所長として日本の鉱山開発やその後の地質事業の基盤を確立しました。更に、鉱山局長として最初の近代的鉱業法制を整備し、官営八幡製鉄所長官として製鉄所を建設し稼働させた。そして晩年、古書収集に没頭し書誌学者として大家をなした。しかも、これらの仕事を同時並行でこなしています。能力は勿論、その努力は超人的であったと思われます。

鉱物学が科学として日本に導入されたのは、明治6年に東京に開成学校が開かれ、ドイツ人鉱山技師カール・シェンク(Karl Schenk)が鉱物学を講義したことに始まる。しかし当時の設備は極めて不完全で、和田の後継者として東京大学教授になった神保小虎によれば、外国から購入した約150点の鉱物標本と教科書としてドイツのヨハンネス・ロイニース著「博物学」(Leunis’ Naturgeschichte, 1870)が一冊しか備え付けられていなかったという。日本産鉱物にいたっては、一つとしてなく、鉱物研究の設備は皆無で、結晶の形態は、学生が書籍を参照しながら板紙を用いて作成し、初めて見ることができた有り様であったといいます。

明治6年オーストリアのウィーンで開催される万国博覧会に日本の物品を出品することになりました。この時、政府は各府県に命じて各地の鉱物を集め、これをウィーンに送った。同時に、出品した鉱物標本の一部を内務省博物局に収蔵した。これが日本で鉱物を収集した最初です。

また博物局に収蔵されたかを知る唯一つの手掛りが「博物館列品目録」に残されています。また、明治7・8年に文部省は日本産鉱物調査の目的で、各府県から鉱物を徴収し、金石取調所を設け、ドイツ人ナウマンと和田維四郎に担当させた。この時集めた鉱物標本の鑑定の結果は明治8・9年にわたって「各府県金石試験記」として文部省から刊行されています。さらに、明治10年に第1回内国勧業博覧会が東京で開催されました。各府県は競って管内の物産を出品したが、その中には鉱物も数多く含まれていました。博覧会の出品物の多くは博物局に寄贈されたか購入されたが、その記録は「博物館列品目録」に残されています。東京大学の助教であり博覧会の審査委員でもあった和田維四郎は、出品された標本の大部分を東京大学に収めて研究を行い、その成果を「本邦金石略誌」として世に問うています。
和田維四郎の逝去後、標本は全て岩崎家に買い取られ、現在三菱マテリアルの所有になっています。しかし、明治初期に開成学校助教から東京大学助教授・教授時代に勧業博覧会などの機会に日本全国から集まった標本を東京大学に収めて研究に用いたものが基礎になっています。その点で、和田鉱物標本は東大コレクションの名を付しても不思議ではない。平成11~12年に和田標本画像データベースを作成するべく、三菱マテリアル中央研究所、シルバー生野、ゴールデン佐渡、鴬沢町立標本館、土肥黄金館を調査し、全標本の写真撮影を行った。

-東京大学総合研究博物館

但馬の鉱山

東京大学総合研究博物館が所蔵する鉱物学関係の書籍の中に、明治13年発行の「博物館列品目録 天産部第三 鉱物類」があります。

  • センアエンコウ 閃亜鉛鉱 (Sphalerite) 但馬朝来郡生野
  • キギンコウ 輝銀鉱 (Argentite) 但馬朝来郡生野銀山
  • キエンコウ 輝鉛鉱 (Galenite) 但馬朝来郡生野
  • キエンコウ 輝鉛鉱 (Galenite) 但馬朝来郡生野銀山(気多郡)阿瀬銀山、但馬気多郡羽尻村
  • オウリュウテッコウ 黄硫鉄鉱 (Pyrite) 但馬出石郡中山村、但馬出石郡奥矢根村、但馬養父郡竹ノ内村
  • オウリュウドウコウ 黄硫銅鉱 (Chalcopyrite) 但馬朝来郡生野村
  • テツシャ 鉄砂 (Magnetite-Sand) 但馬二方郡伊角村
  • メクラズイショウ 珪石 (Quartz) 但馬朝来郡生野
    明治7年オーストリアのウィーンで万国博覧会が開かれた、政府は、参加に際して各府県に産する鉱物を集めてウィーンに送る一方、同様のものを東京に残して内務省博物局に収蔵しました。その万国博覧会に出品した鉱物の研究はオーストリアの研究者に研究を依頼する一方、博物局に収蔵した標本については和田維四郎に命じて研究を行わせました。明治13年に博物局で作成された列品目録から、ウィーンにどのような鉱物標本が送られたのか、また、明治10年内国勧業博覧会場に各地からどのような鉱物が出品されたかを垣間見ることができる。
  • 兵庫県朝来郡 糸井金山(衣谷鉱山)
    大同年間(806-810)発見。金・銀産出
  • 但馬国(兵庫県)養父郡 中瀬鉱山天正元年(1573)発見? 金・銀産出
  • 但馬国(兵庫県)養父郡 日畑金山
    慶長八年(1603)発見?
  • 但馬国(兵庫県)城崎郡 竹野金山(金原鉱山)8世紀発見。江戸期に開発
  • 但馬国(兵庫県)城崎郡 椒の段金山?慶長十九年(1614)発見?
  • 但馬国(兵庫県)七美郡 山田鉱山?江戸期に山名氏が開発。金・銀産出
  • 但馬国(兵庫県)七美郡 射添鉱山慶長年間(1596-1615)村岡但馬守が開発? 金を産出
  • 但馬国(兵庫県)七美郡 久須部鉱山(峯山鉱山)

    外部リンク

    金原鉱山遺跡 豊岡市竹野町金原字金山
    銅山鉱山遺跡 豊岡市竹野町銅山字金谷
    大山鉱山遺跡群 豊岡市竹野町三原字大山
    水山タタラ場口遺跡 豊岡市竹野町三原字水山口

  • 生野銀山
  • 銀の馬車道

▲ページTOPへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
-「和田鉱物標本」-東京大学総合研究博物館 他