JR山陰本線最大の難所に開通したトンネル

桃観とうかんトンネル

JR山陰線最大の難所に開通したトンネル

  
桃観トンネル(浜坂久谷側)

山陰線久谷・余部間には、山陰線で最も長い桃観トンネル (全長1,991m) があります。余部鉄橋と並ぶ最大の難工事で、

後藤新平の筆による石額

そのトンネルの東西の坑口上部に山陰線建設当時の逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平の筆による石額が掲げられています。
久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」
余部側は「惟徳岡小(この徳は少なくない)」
と刻されています。
初期の鉄道工事には、記念すべきトンネルの両端を煉瓦や石で装飾し、石額を掲げていました。桃観トンネルも明治43年に完成し、山陰線の記念すべきトンネルとしてトンネルの両端に石額が掲げられています。山陰線の歴史を語る文化的遺産です。
・建立年月日 明治43年
・碑文 碑面 久谷側「萬方惟慶」
余部側は「惟徳岡小」
・揮毫 逓信大臣兼鉄道院総裁 後藤新平
・建立者 鉄道院 米子建設事務所

山陰線の中で最大の難所だった香美町香住区余部~新温泉町久谷を結ぶトンネルで、1911年(明治44)に完成しました。山陰線のトンネルの中で1番長く(全長1,991m)、約4年間の年月をかけ、当時としては巨費の61万円が投じられました。

この工事にあたった多くは朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)で、難所工事であったため殉職者や病死した人もいました。その人々の名は桃観トンネル西口近くにある久谷八幡神社の中に『鉄道工事中 職斃病没者 招魂碑』と刻まれた石碑に刻まれています。

工事は西より東に向って上り勾配を利用して、掘削は久谷側の西口から始まりました。空気圧搾機や削岩機で掘削を進め、新鮮な空気を供給して作業を行うという、当時の技術の中でも最も近代的な工法が採用され、山陰西線(鳥取~香住)において、機械掘削の初めての試みとなりました。

煉瓦で造られたトンネルの出入り口には、山陰線の開通記念として、当時の逓信(ていしん)大臣兼鉄道院総裁だった後藤新平の筆による石額が掲げられています。久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」、余部側は「惟徳罔小(この徳は少なくない)」と刻されています。実際このような石額を掲げたトンネルは全国においても数例しかありません。

=但馬の百科事典より=

工事にあたった多くは朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)ということで、強制連行され不当な待遇であったかのように叫ぶ人たちがいた。しかし、考えていただきたいのは、工事期間の1906(明治39)から1911年(明治44)ころは朝鮮併合で貧富の差が激しかった併合前の朝鮮から、日本国民として一旗揚げようと日本に渡ってきた朝鮮労働者も多くいたのである。アメリカのゴールドラッシュのように学歴も素性も分からない外地の朝鮮人にとって必然的に鉱山や土木工事など肉体労働者が多かった。

従って戦時中には国家総動員法によって、日本国民は日本人・朝鮮人・台湾人の区別なく徴兵・徴用はあったが、終戦から多くは日本政府の補助で帰国している。

朝日新聞

戦時中の徴用令によって日本に渡航し、昭和34年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だったことが外務省が証明されている。朝鮮総連などが使う強制労働などという言葉すら造語である。明治に強制労働など行われなかったし、朝鮮半島と台湾は日本であり、むしろ朝鮮人としてではなく同じ日本人殉職者として差別なく石碑に刻まれていたことがそれを示していると思う。

桃観トンネル(余部側)

気多郡高生郷とは

高生郷とは

高生郷(タカフ、たこう)とは、かつて但馬國氣多郡(現在の豊岡市日高町及び豊岡市中筋地区、佐野地区、竹野町椒地区)にあった郷名で私が生まれ住んでいる場所です。太田文には、村数は地下(じげ)、岩中、宵田、江原の4村とあります。

諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学には、読みは多加布。神名式(延喜式)、気多郡高負神社。姓氏録に高生宿祢の出自。宿祢の文には同祖の王仁の孫、河浪古の首、天平神護元年紀、河内国の人馬を伴い、武生の辺に居す。弘安太田文には気多郡高生郷田百七町、公文矢部の尼。

但馬考では、

宵田 河合道記曰く豊岡より三里、馬駅なり。先ずは豊岡の馬を大方ここにて そうじて、姫路までの街道、馬は多し。自由なり。
今この辺の田地を高生代と云う。俗に(北の)日置郷と合わす謂われなり。太田文には、村数は地下(じげ)、岩中、宵田、江原の4村とあります。

「日高町史」には、その日置村と高田村が合併して日高町になったと記しています。

高田郷はその高生郷の西に隣接し、『日本後紀』延暦23(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」と書かれていることから、少なくとも2ヶ所の但馬国府の存在が考えられます。
移転後の所在地については、近年の発掘調査により、但馬国府国分寺館に隣接する祢布(にょう)ヶ森遺跡(豊岡市役所日高総合支所(旧日高町役場)の付近)であると考えられるようになりました。

7世紀に丹波国が成立したときの領域は、現在の京都府の中部と北部(現在の丹後)、兵庫県の北部(但馬)および中部の東辺(兵庫県丹波地域)に及んでいました。年号は不明ですが北西部を但馬国、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を丹後国として分離して成立したとする説もありますが確証はありません。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されています。後世まで長く続く領域が定まりました。

古丹波王國とは

丹波・丹後・但馬は、大古は同じ丹波に属し、総称して三丹、丹但、北近畿などという呼び方もありますが、これまでは勝手に「丹国」と名づけていました。

このブログは、「丹国ものがたり」のホームページからブログへ移転更新するためのブログです。

鳥取城久松山と仁風閣(鳥取県鳥取市)

[catlist categorypage=”yes”] 鳥取県鳥取市東町

鳥取城(久松公園)

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市にある山城跡で、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、近世城郭に整備されました。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残しています。

この城は但馬山名氏ともゆかりがあり、戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきました。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。

ということで、久松山頂に築城したのは、山名氏か武田高信かははっきり分かっていないらしい。

高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ、永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護・山名豊弘を擁立し、下剋上を果たした。高信はその後も主筋の山名豊国(豊数の弟)としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。


久松山と仁風閣

正面

日本三大義挙 生野義挙

[wc_button type=”primary” url=”http://webplantmedia.com” title=”Visit Site” target=”self” position=”float”]生野義挙(生野の変)[/wc_button]

江戸時代後期の文久3年(1863年)10月、但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件が起きた。「生野の乱」、「生野義挙」とも言う。
この静かな農村地帯であった但馬で、幕末にそのような大事件があったことは、くわしくは知らなかったので、調べてみることにした。


生野代官所跡

《概 要》

生野義挙(生野の変)は、平野国臣、長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、公卿沢宣嘉を主将に迎える生野での挙兵を計画した。あっけなく失敗したが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されている。幕末の文久3年(1863年)8月17日に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である大和義挙(天誅組の変)、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター回天義挙(功山寺挙兵)とともに日本三大義挙といわれる。

城崎(きのさき)という地名の由来

城崎(きのさき)の由来

『城崎町史』(1988年)は、豊岡市で出土した木簡に「絹前…」または「縄前…」とも読める文字があることから、「絹前」=キヌサキ説の可能性に触れている。

また一節では、太古、海の入江だった豊岡盆地が紀元前二万年ごろから隆起と海の後退によって次第に陸化、当時円山川河口から日高町水上(ミノカミ)あたりまで沼地状になった一帯を「黄沼前の海(きぬさきのうみ)」と呼んだ。同様に出石町出石川流域にも水上(ムナガエ)という地名がある。

太古はこの付近までが黄沼前(キノサキ)という入江だった。

しかし、いずれも現在の城崎温泉が城崎というようになった事実をどこにも記してはいない。江戸までは湯嶋と呼ばれていてのである。つまり今の豊岡市街地が城崎郷であって、城崎であった。

昭和になってどこの市町村もこぞって「市町村史」を編纂した。しかし本当なのかという部分は在り得るのだ。

戦後それどころではなかった当時は、誰もそんなゆとりはなかったし、日の目を見なかった地域の歴史研究。ブームによって急遽、郷土の史料を編纂するにあたり、数少ない郷土歴史研究家の存在は貴重だった。そのなかでそうした方々の苦労と叡智に敬意を抱くし、それを批判するのではなく、新たな発見や歴史認識等を踏まえて、検証していくことこそ、後の時代の我々の恩義につなぐものであると思うのである。

ではさっそく。城崎は城崎温泉そのものではない。

かつて「城崎」という地名は、旧城崎郡と城崎郷(豊岡市街地中心部)の呼び名だった。温泉地帯は城崎郡湯島と呼ばれていた。

奈良時代から平安時代にかけて、古代の日本国家は、地方行政の単位として国-郡-里(郷)を設けたが、但馬国は八郡に分けられた。当時の但馬国城崎郡は、今日の豊岡市市街地(旧豊岡町)と城崎町を合わせた地域とほぼ重なっている。

城崎の名が現われる最古の記録は奈良・平城京跡から出土した木簡(古代、紙と同じように木片に文字を墨書したもの)で、奈良時代の神護景雲三年(769)の年号が入っており「城崎郡」と書かれている。このほか古代には、「木前」「木埼」「木崎」などと表現されていた。

平安時代の承平年間(931~37)に成立した、わが国初の百科事典『和名抄』は、それぞれの地名に万葉仮名で和訓を付けており、城崎を「岐乃佐木」または「木乃佐木」と万葉仮名で読ませている。城崎郡内の新田(にった)、城崎、三江(みえ)、奈佐(なさ)、田結(たい)の五郷と余戸(あまるべ)が記されている。余戸は現在の香住町余部とは無関係で、所在地は不明。他の五郷は、現在にも生きているおなじみの地名だ。

城崎温泉は、湯嶋、湯島と云われ、古くは城崎郡田結郷湯島と云われていた。とくに田結郷は広範囲で近世には、田結郷をさらに大濱庄、下鶴井庄、灘、気比庄に分れていた。
気比庄は気比、田結、湯嶋、桃島、小島、瀬戸、津居山の七村。

「但馬考」に、湯嶋 この湯の名、古書にあらわれるのは、古今集を始めとす。順の「倭妙抄」には、他の二方の温泉(ユノ)郷を載せしたしは、但馬の湯とのみ云うには、まぎらわしき方もあれど…考えるに、此の地の名、上古は大渓(オオタニ)と云しを、温泉あるゆえ、俗に湯嶋と唱えて、終わりに古名を失えり。

「但馬考」に、「城崎温泉」という呼び名が現れるのは、

温泉

(香川修徳の)一本堂薬選籍編曰く、但州城崎温泉、三敷座(座敷)ありて、…此邦諸州(日本全国)、温泉極めて多し。而して但州城崎新湯を最第一とす。(香川修徳は)新湯を一の湯、二の湯と分けて、二つありとした。

新湯に続いて、中湯、上湯、御所湯、曼陀羅湯、他一か所を記している。

引用:校補「但馬考」、豊岡市教育委員会、与謝野町

たじまる 奈良7

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

『日本書紀』

『日本書紀』は国史で、「六国史」の最初に記されました。続日本紀に「日本紀を修す」とあり、「書」の文字はない。「日本紀」が正式名だったと言うのが通説です。

  • 『日本書紀』     720   神代~持統
  • 続日本紀     797   文武~桓武
  • 日本後紀     840   桓武~淳和
  • 続日本後紀    869   仁明
  • 日本文徳天皇実録 879   文徳
  • 日本三代実録   901   清和~光孝書紀の内容は、神代から40代(41代:後述)持統天皇までを30巻にわけ、それぞれの天皇記は『古事記』に比べてかなり多く記述されているのが特徴です。第3巻以降は編年体で記録され、うち9巻を推古から持統天皇までにあてているのも特徴です。これは『古事記』が天皇統治の正当性を主張しているのに対し、『日本書紀』は律令制の必然性を説明していると直木孝次郎氏は指摘しています。確かに『古事記』に比べれば、『日本書紀』の方がその編纂ポリシーに、律令国家の成立史を述べたような政治的な意図が見え隠れしているような気がしないでもありません。『日本書紀』自体には、『古事記』の序のような、その成立に関する説明はありません。『続日本記』養老4年(720)5月21日の記事によると、舎人(とねり)親王が天皇の命令をうけて編纂してきたことが見えるだけです。大がかりな「国史編纂局」が設けられ、大勢が携わって完成したと推測できますが、実際の編纂担当者としては「紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂」の名が同じく続日本紀に見えるだけです。編纂者として名前が確実なのは舎人親王だけと前述したが、藤原不比等が中心的な役割を担っていたとする説や、太安万侶も加わっていたとする見解もあり、いずれにしても多数のスタッフを抱え、長い年月をかけて完成されたことは疑いがありません。しか、ある部分は『古事記』と同歩調で編纂された可能性もあるのではないでしょうか。『古事記』同様、「帝紀」「旧辞」がその根本資料となっていますが、各国造に命じた『風土記』など多くの資料を収集し、その原文を尊重しているのが『日本書紀』における特徴です。諸氏や地方に散逸していた物語や伝承、朝廷の記録、個人の手記や覚え書き、寺院の由緒書き、百済関係の記録、中国の史書など、実に多くの資料が編纂されていますが、たぶんに中国(唐)や新羅の国書を意識した(或いはまねた)ような印象もあり、半島・大陸に対しての優位性を示すのも、編纂目的の一つだったのかもしれません。

    そしてそれは、日本国内の臣下達に対する大和朝廷の権威付けにも使用されたような気がするのです。『古事記』がいわば天武天皇の編纂ポリシーに沿った形でほぼ一つの説で貫かれているのに対して、『日本書紀』は巻数が多く、多くの原資料が付記され、「一書に曰く」と諸説を併記しています。国内資料のみならず、朝鮮資料や漢籍を用い、当時の対外関係記事を掲載しているのも『古事記』にはない特徴です。特に、漢籍が当時の日本に渡ってきて『日本書紀』の編集に使われたので、書紀の編纂者達は、半島・大陸の宮廷人が読めるように、『古事記』のように平易な文字・漢語・表現を使わず、もっぱら漢文調の文体で『日本書紀』を仕上げたのだとされています。『日本書紀』では、天照大神の子孫が葦原中国(地上の国)を治めるべきだと主張し、何人かの神々を送り、出雲国の王、大国主命に国譲りを迫り、遂に大国主命は大きな宮殿(出雲大社)を建てる事を条件に、天照大神の子孫に国を譲ったとされています。しかし現実には、ヤマトの王であった天皇家の祖先が、近隣の諸国を滅ぼすか併呑しながら日本を統一したと思われるのですが、『日本書紀』の編者は、その事実を隠蔽し、大国主命が天照大神の子孫にこの国を託したからこそ、天皇家のみがこの国を治めるという正当性があるということを、事実として後世に残そうとしたようです。そして、天皇家に滅ぼされた国王たちをすべて大国主命と呼び、彼らの逸話をまとめたのが出雲神話ではないかと言われています。
    このように『記紀』は、どちらも天皇の命令をうけて7世紀末から8世紀の初期に作られた歴史書であるとともに、内容はともに神代から始められているために、推古天皇までが重複しているのです。

    『日本書紀』

    2.『日本書紀』の意図は独立国家『日本』宣言

    では、なぜわずか8年の間隔で、同じ時代をとりあげる歴史書を2種類も編纂したのでしょう。また同じ時代をとりあげつつ内容には違いがあるのはなぜでしょうか。『古事記』が「記」で『日本書紀』が「紀」であることの字の持つ意味の違い、『古事記』の文体が「音訓交用」と「訓録」で『日本書紀』が漢文であるという文体の違い。2種類の歴史書がわずかの間に作られた背景はいったい何なのでしょう。
    なぜ、『日本書紀』が中心になっていったのでしょうか。

    この時代は、国号を倭国から日本国へ、君主号を大王から天皇へと変更し、中国をモデルにした律令制定も行われて、中央集権的国家体制を急ピッチで整備していました。歴史書編纂が活発に行われた背景には、このような社会の情勢が大きく変化しつつある時代に歴史書に期待されていた機能があり、『古事記』は、天皇や関係者に見せるためのいわば内部的な本で、『日本書紀』は外国、特に中国を意識して作られた国史(正史)です。こうして見ると『古事記』は『日本書紀』を作るための雛型本であったと思われています。『古事記』は成立直後からほぼ歴史の表面から姿を隠し、一方『日本書紀』は成立直後から官人に読まれ、平安時代に入っても官人の教養として重要な意味を持ったことは注目すべきです。
    対して、『日本書紀』を作った最大の目的は、対中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立なのです。

    古来権力者が残した記録には自らの正当性を主張している点が多く、都合の悪いことは覆い隠す、というのは常套手段です。ストーリーに一貫性がなく、書記に書かれている事を全て真実だと思いこむのも問題ですが、まるっきり嘘八百を書き連ねている訳でもありません。

    まるっきり天皇が都合良く創作して書かせたのであれば、わざわざ恥になるような記録まで詳細に書かせる意図が分かりませんし、『日本書紀』は「一曰く」として諸説も併記され、客観的に書かれています。したがって、少なくともその頃には中国王朝・朝鮮王朝のような、独裁的な絶対君主の王権ではなくて、すでに合議的(連合的)な政権を形成していたのではないでしょうか。
    記紀が史実に基づかないとしても国家のあり方の真実を伝えようとしたものであるならば、そのすべてを記紀編纂者の作為として片づけるには、それなりの根拠がなくてはなりません。

    大和に本拠を構える大和朝廷が、正史を編纂するにあたり、なぜわざわざ国家を統一する力が、九州に天孫が降臨した物語や出雲の伝説を記録したのだろう。それは単に編纂者の作為ではなく、ヤマト王権の起源が九州にあり、国家統一の動きが九州から起こったという伝説が史実として語り継がれていたからだと考えるのが自然でしょう。九州から大和へ民族移動があり、ヤマト王権の基礎が固まったという伝承は、記紀が編纂された七世紀までに、史実としてすでに伝承されていたと考える方が自然です。記紀には歴代天皇の埋葬に関する記事がありますが、編纂時にはすでに陵墓が存在していたと思われます。もし記紀に虚偽の天皇が記載されていたなら、陵墓も後世に造作されたことになり、わざわざ記紀のためにそんなことをするとは考えられないからです。

    何が真実で何が虚構か、また書紀に書かている裏側に思いをめぐらし、それらを新たな発掘資料に照らし合わせて、体系的に組み上げていく作業を通して、独立国家『日本』を周辺国に宣言した編纂の意図が見えてくるのだろうと思います。
    紫式部は、その漢字の教養のゆえに「日本紀の御局(みつぼね)」と人からいわれたと『紫式部日記』に書いています。『日本書紀』はその成立直後から、官僚の教養・学習の対象となりました(官学)。それに対して『古事記』は、一部の神道家を除いて一般の目には余り触れることがありませんでした。

    『風土記』


    『出雲国風土記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵

    『風土記』は、『日本書紀』が編纂される7年前の713年に、元明天皇が各国の国司に命じて、各国の土壌の良し悪しや特産品、地名の由来となった神話などを報告させたもので、おそらくは『日本書紀』編纂の資料とされた日本初の国勢調査というべきものと思われます。国が定めた正式名称ではなく一般的にそう呼ばれています。
    『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、

    1. 郡郷の名(好字を用いて)
    2. 産物
    3. 土地の肥沃の状態
    4. 地名の起源
    5. 伝えられている旧聞異事

    が挙げられています。

    完全に現存するものはありませんが、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残っています。現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみです。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在します。

    引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之

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たじまる 奈良6

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

日本最古の歴史書.1

1.日本の思想~他者によって描かれた日本

日本の思想とは、日本列島の上に日本語で展開されてきた思想です。原初的な意識を含め思想というなら、その意識のはじまりがどのような様子だったかを探ることは容易なことではありません。無文字文化をさぐる方法はないのです。五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。
わたしたちは史書として、『古事記』をもって最古の思想作品としています。原始の日本のようすは、ようやく八世紀にあらわれた『古事記』『日本書紀』あるいは『万葉集』といったテキストによるしかありません。その成立にはさまざまの説がありますが、日本という自己意識の最古のものの名残という点は異論の余地はないようです。

2.『古事記』と『日本書紀』


『古事記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵『古事記』と『日本書紀』(以下、『記紀』)は、七世紀後半、天武天皇の命によって編纂されました。『古事記』成立の背景は、漢文体で書かれた序文から知ることができます。それによれば、当時、天皇の系譜・事蹟そして神話などを記した『帝紀』(帝皇日継(すめらみことのひつぎ))と『旧辞』(先代旧辞(さきつよのふること))という書物があり、諸氏族の伝承に誤りが多いので正し、これらを稗田阿礼(ひえだのあれ)に二十九年間かけて、誦習(しょうしゅう)(古典などを繰り返して勉強すること)を命じ、たのが『古事記』全三巻です。
その後元明天皇の711年(和銅四年)、太安万侶(おおのやすまろ)が四ヶ月かけて阿礼の誦習していたものを筆録させ、これを完成し、翌712年に献上したことを伝えます。
一方、皇族をはじめ多くの編纂者が、『帝紀』『旧辞』以外にも中国・朝鮮の書なども使い、三十九年かけて編纂したのが、前三十巻と系図一巻から成る大著『日本書紀』です。『古事記』が献上された八年後の720年(養老四年)には『日本書紀』が作られました。『日本書紀』は「一曰く」として、本文のほかに多くの別伝が併記されています。神代は二巻にまとめられ、以降は編年ごとに記事が並べられ、時代が下るほど詳しく書かれています。
大化の改新後のあらたな国家建設と大和朝廷の集権化のなかで、国の歴史を残そうとする試みが繰り返されてきました。その一端として、『日本書紀』620年の推古紀の箇所では、聖徳太子と蘇我馬子が「共に議(はか)りて」天皇記および国記、また臣下の豪族の「本記」を記録したと伝えます。『記紀』はそうした自己認識への継続した努力のなかから生まれたものでした。ではどうして、同じ時代に『記紀』という二つの異なった歴史書が編纂されたのでしょうか。

それは二つの書物の違いから想像できます。『記紀』が編纂された七世紀、天平文化が華開く直前です。すでに日本は外国との交流が盛んで、外交に通用する正史をもつ必要がありました。当時の東アジアにおける共通言語は漢語(中国語)であり、正史たる『日本書紀』は漢語によって綴られました。また『日本書紀』は中国の正史の編纂方法を採用し、公式の記録としての性格が強いことからも、広く海外に向けて書かれたものだと考えられます。
それに対し、日本語の要素を生かして音訓混合の独特な文章で天皇家の歴史を綴ったのが『古事記』です。編纂当時、まだ仮名は成立していなかったため、漢語だけでは日本語の音を伝えることはできませんでした。そのため『古事記』の本文は非常に難解なものになり、後世に『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者・本居宣長ですら、『古事記』を読み解くのに実に三十五年の歳月を費やします。
ところで本居は全四十四巻から成る古事記研究書の『古事記伝』を著し、『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないことを述べ、『古事記』を最上の書と評価しました。

歴史物語の形式をとり、文学的要素の強い『古事記』は、天皇家による統治の由来を周知させ伝承するために記したテキストで、氏族の系譜について『日本書紀』よりも詳しく記されています。当時の日本人の世界観・価値観・宗教観を物語る貴重な資料であり、これがおよそ千三百年前間伝承されてきたことには大きな意義があります。

3.『古事記』

『記紀』はその叙述の仕方に大きな差が見られます。『古事記』は本分が一つの主題で貫かれていますが、『日本書紀』の神代の部分は、筋を持った本文を掲げてはいますが、それにつづき複数の異なる伝承を「一書曰(あるふみにいはく)」として並列して掲げています。そのなかには『古事記』に一致するものもあれば、そうでないものもあります。『記紀』の神話は、その叙述態度・叙述の様相をかなり異にしていることは確かです。

『古事記』は「序」と「上巻」「中巻」「下巻」の三巻からなります。

「序」には古事記編纂の意図とその経緯が上表文の形をとって説明されています。(日本書紀には序は無い)。序の末尾の日付と署名によって和銅5年(712)正月28日に太安万侶が撰進したことがわかりますが、この事は「続日本紀」には記録されていません。(日本書紀は記録されている)。
「上巻」は神代の時代から神武天皇の誕生まで、「中巻」は神武天皇から応神天皇まで、「下巻」は仁徳天皇から推古天皇までの事績が描かれています。この中で、古事記の成立について記録している部分は「序」です。言い換えれば、古事記の成立について書かれたものはこの序文しかありません。

冒頭の「序」は、漢文体で書かれ、変体漢文を屈指した本文とはやや異なった体裁ですが、
「この世のはじめはくらくてはっきりしないが、この教えによって国と島の生成を知り、神が生まれ人をたてた時代を知ることができる」と、神代は遠くなったが、神代になった国土が「大八洲(おほやしまぐに)」として時間的に展開していく様を描いたという次第が述べられます。

「上巻」の神代では、高天原の「天地のはじめ(天地開闢(てんちかいびゃく))」、イザナキ・イザナミ男女二神の神生み国生み、黄泉の国、天の岩戸と天照大御神(あまてらすおおみかみ)、出雲を舞台に追放されたスサノヲと大蛇退治、大国主の国づくり・国譲り・海幸山幸」、それにつづき日向を中心とする天孫の天降り等と続き、さらに神武天皇までの出来事や系譜が描かれています。中巻以降の人代は、神武天皇から推古天皇に至るまでの神話的伝説・歴史あるいは歌謡の大系であり、多層にわたる要素がこめられています。

ここでは天皇の国土統治の始源・由来が語られており、漢文体で書かれ歌謡は一音一字の仮名で記され、古語の表記・発音をあますところなく伝えています。

3.神話は「真実」を語る

世界中にはさまざまな神話があります。キリスト教を例にすると、『旧約聖書』は神が六日間で世界をつくったという「天地創造神話」から書き始められています。これも記紀神話の国生み同様、科学的にはあり得ません。同書の大洪水にまつわる「ノアの箱舟伝説」や、また『新約聖書』の「福音書」には、マリアが処女懐胎してキリストを身ごもるという逸話が紹介されていますが、科学的には人が単独で受胎するはずはありません。
聖書学では『聖書』は史実を記した歴史書ではなく、当時の信仰が記された信仰書であると理解されていますが、「聖書の記述は史実ではない」という主張は欧米社会には存在しないのです。『聖書』の史実性を議論することはまったく無意味であり、読み方としては誤っているのです。記紀神話についても同じで、たとえば「天孫降臨は非科学的であり史実ではない」との主張は、「マリアの処女懐胎は非科学的であり史実ではない」というのと同じだけ愚かな主張なのです。と竹田恒泰氏は『旧皇族が語る天皇の日本史』で述べています。
しかし、一見事実ではないと思われる神話の記述には、事実でなくとも真実が含まれている場合があります。欧米社会では、天地創造神話にもとづき、神が六日で天地を想像し、七日目に休息を取ったとの神話にもとづいて、七日目を日曜日として休日とし、教会でミサが行われます。アメリカでは大統領が就任するときに『聖書』に手を当てて誓いを立てます。『聖書』に書かれたことはすべて、事実性はともかく、「真実」であると見なされます。

4.『日本書紀』と祝日

そして日本も、『古事記』『日本書紀』に書かれたことが「真実」であることを前提に国が形成され、運用されています。記紀と日常の生活のつながりは実感することはありませんが、記紀は現在のわが国のあり方、そして国民生活に絶大なる影響を与えています。
たとえば祝日が挙げられます。いかなる国も建国を祝う日は祝日とされ、国を挙げて盛大な祝賀を行います。わが国の「建国記念日」は2月11日で、戦前まで「紀元節」と呼ばれていました。この日は初代の神武天皇が即位した日であり、記紀の記述を根拠としています。ほかには、11月23日の「勤労感謝の日」は、宮中祭祀のなかでも最も重要な祭祀の一つ、新嘗祭が行われる日です。新嘗祭の起源は『日本書紀』の、天照大御神が天孫に稲穂を授けて降臨させ、その後、稲穂を用いて祭儀を行ったことに由来します。その他にも「天皇誕生日」がそうです。。

4.天地のはじまりの神話

『古事記』は、天智の開闢をもってはじまります。
天地(あめつち)初めて発(ひら)けし(発(おこ)りし)時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき。この冒頭部分を、一神教の聖典『旧約聖書』の冒頭部分におかれた創世記とくらべるだけでも、この多神教的な世界の形成が明らかになります。神は複数性をはらんで生まれること、またこの神たちは、創世記のようにこの宇宙ないし世界を創造したのではなく、世界の生成とともに、「成った」存在として描かれていること、しかも姿をかき消すことで、世界と一体化し、その後の世界の奥に潜む生成力ないし力動性の根源というかたちで描かれていることです。そのことは人の生成にも関わります。人は、『古事記』では、「青人草(あをひとぐさ)」と表現されますが、その起源は必ずしも明確ではなく力動性を秘めた世界の一構成員としてあります。このことは天つ神のいる「高天原」という領域が、ひとつの完結した世界として描かれるのではなく、物語の展開のなかで、あくまでも神と人とが生き織りなす「葦原中国(あしはらなかつくに)」という領域の生成と展開へと物語が収斂していくことと関わっているのでしょう。神世七代の神々の最後に一対の男女神、イザナキ(伊耶那岐命)、イザナミ(伊耶那美命)が生まれる。「葦原中国」は、天つ神による、いまだ不定形の国土を「修理固成(おさめつくりかためなせ)」との命を受けた、この二神聖婚・性的交わりによってできる。命を受け、潮を「かきなし」たとき滴った塩が固まってできたオノゴロシマ(淡路島)に降り立った、この男女二柱の神は、国土・自然は神そのものであると描く。国土の生成の描写は、本州の西の島々、瀬戸内海にその記述は厚く、後の記述でも本州は今日の糸魚川あたりまでであることなどに、当時の地理感覚があらわれています。
この冒頭に展開するイザナキ・イザナミ神話は、人間の生活に資する文化的生の起源話であるとともに、人間の生と死の起源の神話ともなっています。『古事記』にみる限り、国生み・神生み神話の「生む」型と、開闢(かいびゃく)の「成る」型の二重性の解釈は単純ではなく、津田左右吉のいう政治的作為があるとみなすこともできます。

5.高天原の神の降臨

「葦原中国(あしはらなかつくに)」の呼称は、高天原からの命名でした。国生み神話に続く、天つ神の領域の物語は、イザナキの黄泉の国からの帰還を期に生まれた、三柱の尊い御子(三貴子)[*2]のうちアマテラスとスサノヲをめぐって展開します。海原を支配せよとの父イザナキの命に背いたスサノヲは高天原にのぼり、乱暴をはたらく。弟に最初は理解を示した妹もついに怒り、岩屋戸に隠れ世界は闇に支配されす。神々の機知でふたたび世は光が戻りますが、スサノヲは追放されます。追放されたスサノヲは、出雲で大蛇を退治するなどの功績を残し、根の堅州国の支配者となります。

「中巻」は初代神武天皇から15代応神天皇までを扱っています。ここにみる神武東征は「天神御子」の「天降り」とされ、古事記においても史実としてより神話として書かれたもののようにも思えます。上巻の延長のような気もするのだ。古代豪族は、殆どがその祖を天皇家にあるとしたものが多いが、その多くがこの中巻に記された応神天皇までに祖を求めています。仁徳天皇以後のいわゆる皇別氏族は数えるほどです。これはこの時代が、神と人との混じり合った曖昧模糊とした時代だった事を豪族達も看破していた事を物語っています。

自家版帝紀に都合のいい系図を書き入れ、太安万侶へ持参した者もいたかもしれない。古事記は古代豪族の研究にとってもかかせない資料としての価値が高いが、原資料として採用された旧辞は混合玉石だったことを忘れてはなりません。

下巻は16代仁徳天皇から33代推古天皇までを扱っています。仁徳天皇以下、履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻の各天皇、そして33代推古迄の天皇紀です。
それぞれの天皇の事績については、「天皇陵めぐり」のコーナーを参照していただきたいが、その内容はご存じのよ
うに波瀾万丈の恋物語と皇位をめぐる争いの歴史です。大雑把に言えば、下巻時代の始まりが弥生時代を抜けて古
墳時代へ移っていく時代のように思える。倭の五王の時代もここです。

古事記は日本書紀に比べれば、顕宗・仁賢天皇以降の各記には事績が殆ど記されていない。継体天皇記は特にその差が顕著です。それ故、24代仁賢から33代推古天皇までの十代を「欠史十代」と呼ぶ見方もあります

これは古事記編纂者の隠蔽工作なのかそれとも、古墳時代の皇位継承の争いに明け暮れる中で、記録など皆無だった時代背景をそのまま反映しているのでしょうか。或いは、仁徳以後の皇別氏族が少ないことは、時代が新しいので虚史を主張しがたいのかもしれません。中巻が、いわば神人未分化の時代だとすれば、下巻は人代の時代と言えるでしょう。

古事記が推古天皇までで終わっていることについてもさまざまな見解があります。推古の次の舒明天皇は天智・天武の父です。あまりにも身近なため、天武としては稿を改めて詳述する必要を感じ、とりあえず推古で止めたのだろうと言われています。その別稿は日本書紀に結実しているわけです


[*2]…三貴子(みはしらのうずのみこ)とは記紀神話で黄泉の国から帰ってきたイザナギが黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちた三柱の神々のことである。三貴神(さんきし・さんきしん)とも呼ばれる。

  • アマテラス – イザナギの左目から生まれたとされる女神。太陽神。
  • ツクヨミ – イザナギの右目から生まれたとされる男神(女神とする説もある)。夜を統べる月神。
  • スサノオ – イザナギの鼻から生まれたとされる男神。海原の神。
    引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之▲ページTOPへ

たじまる 奈良5

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

但馬国分寺

但馬国分寺

国分寺(こくぶんじ)は、天平13年(西暦741年)、聖武天皇の国分寺建立の詔(みことのり)を受けて、国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ)とともに建立を命じた寺院です。正式名称は

  • 国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
  • 国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)です。
    前者には護国の教典『金光明経』十部が置かれ、封五十戸・僧二十人が配されました。後者には滅罪の教典『法華経』十部が置かれ、水田十町・尼十人が配されたといわれています。まさに仏教の力によって国家の安泰と発展を実現することが祈願されたのです。
    各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれました。多くの場合、国府(国庁)とともにその国の最大の建築物でした。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられました。さらに天皇は二年後の天平十五年、『華厳経』の教主である廬舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像(大仏)を造立することを宣言する詔を発しました。天皇は自らが天下の富を注いでこの事業を完遂するという決意を述べるとともに、多くの人々が結縁のために、たとい「一枝の草、一把の土」でも協力してくれるよう、呼びかけました。大仏が大仏殿と共に一応完成したのは、天平勝宝元年(749)です。それは諸国の資源と民衆の労力と、そして主に渡来人の人々の技術を総動員して遂行された国家的大事業でした。『続日本紀』が記す「人民苦辛」の程度も相当なものだったと推測されます。四年、来日していたインド僧のボーディセーナ(菩提せん那)を導師として、盛大な大仏開眼の法会が行われました。参列した僧侶は一万人に及び、諸外国の舞楽が奉納されたといわれます。それは文字通り国際的な大イベントでした。


礎石

律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れました。ただし、中世以後もかなりの数の国分寺は、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、あるいは後世において再興されるなどして、現在まで維持しているところもあるそうです。また、かつての国分寺近くの寺で国分寺の遺品を保存していることもあります。国分尼寺も同様ですが、寺院が国家的事業から国司、守護など実質統治に代わると、かつての国分寺は復興を受けなかったところが多くなりました。ここ但馬でも国司が中心となって建設が進められました。全国でも伽藍が残っている数少ない国分寺跡として、注目を集めています。


塔跡(画像:但馬国府国分寺館)

昭和48年(1973年)から始まった発掘調査の結果、七重塔、金堂、門、回廊などの建物が見つかり、お寺の範囲がおよそ160m四方もあったことがわかりました。また、全国の国分寺ではじめて、「木簡」(木の板に書かれた文書)が見つかるなど、貴重な発見が相次いでいます。


金堂と回廊がつながる部分(画像:但馬国府国分寺館)

風鐸(ふうたく)屋根の軒に垂らし、風で音を奏でる。

金堂(こんどう)
寺の中心的な建物で、本尊を安置する。東大寺でいうと「大仏殿」にあたる建物です。

回廊(かいろう)
門と金堂をつなぐ廊下。

基壇(きだん)
建物が建つ土壇。壇の周囲に化粧石を積んだり、壇上に石などを敷いたりする。

礎石(そせき)
地盤に据えて柱を立てるための石。


釈迦(仏教の創始者)の舎利(遺骨)を納める。寺のシンボル的な建物。

但馬尼寺


但馬尼寺 豊岡市日高町水上、山本

現在も日高東中学校の前に二個の礎石が残っています。150年位前には、26個の礎石が一定間隔を置いて残っていたといいます。(国分寺から約1km弱北へ。)
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気多郡分寺

日本に仏教が伝来してから百年も経つと、仏教の普及はめざましく、日本のあちこちで造寺が行われ、その時の元号から「白鳳寺院」と呼ばれています。但馬の白鳳寺院は、現在のところ豊岡市三宅の薬琳廃寺のみが知られています。


鹿島神社境内 日高町府中新

鹿島神社境内には、大きな礎石が安置されています。但馬の郡ごとに設置された「郡分寺」ではないかと想定されています。薬琳廃寺の建立に続く時期のものだそうです。郡分寺とはいえ巨額の費用がかかるので、気多郡の在地有力者が、個人的に独力で建立したものではなく、但馬国司の側から、積極的に造営費の援助、助成が行われていたのでしょう。さらに各郷には「郷寺」がつくられはじめます。寺は鎮護国家の道場であると同時に、教育の場として、律令制度を全面的に実施するために、但馬国衙から郡司や郷司に指令が発せられます。

但馬の国司(守)

都が794年に奈良から京都へ遷され、時代は平安時代になります。平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していきました。しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。

国衙(こくが)は、もとは奈良時代に日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画を指す用語でしたが、平安時代頃までに、国司の役所(建物)そのもの(国庁という)を国衙と呼んだり、国司の行政・司法機構を国衙と呼ぶことが一般的となりましました。また、国衙に勤務する官人・役人を「国衙」と呼んだ例も見られます。国衙を中心として営まれた都市域を国府(こくふ)といいましました。古代では「こう」といい、地名として全国に残っているものもあります。
但馬国の国司(但馬守)の記録として残るものは、以下の通りです。

  • 源経基(みなもとの つねもと、在任:930頃)平安時代中期の皇族・武将。清和源氏経基流の祖。位階は贈正一位。神号は六孫王大権現。弟に経生、子に満仲・満政・満季・満実・満快・満生・満重・満頼ら。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めましました。
  • 源頼光(1010年頃 天暦2年(948年)~治安元年7月19日(1021年8月29日)がいます。平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘。清和源氏の三代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれます。但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任しましました。左馬権頭となって正四位下になります。頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にあります。頼光寺
    一方で、後世に成立した『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。日高町上郷に頼光寺があります。但馬にいる時の居館だったといわれれています。
  • 平正盛 在任:1110年頃、正盛が家督を継いだ頃は平家も勢力が小さく、河内源氏に臣従し源義家に仕えていましました。従四位上、検非違使、因幡権守、伊予権守、備前守、右馬権頭、讃岐守、但馬守、丹後守を歴任。平経正は、平安時代末期の武将、歌人。平経盛の長男で、弟に経俊、敦盛があります。平清盛の甥にあたる。官位は正四位下に昇叙し、但馬守、皇太后宮亮、左馬権頭を歴任しましました。
    一門の中の俊才として知られ、歌人、また琵琶の名手として名を挙げた。藤原俊成や仁和寺五世門跡覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けましました。
  • 平忠盛 在任:1130年頃 平安時代末期の武将。伊勢平氏庶流。平清盛の父。大治2年(1127年)従四位下に叙され、備前守となり左馬権頭も兼ねた。さらに、牛や馬の管理を行う院の御厩司となりましました。内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇でしました。美作守-、尾張守-久安2年(1146年)播磨守。諸国の受領を歴任したことに加えて、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄え、平氏政権の礎を築いましました。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』があります。
  • 平重衡 1182年(権守) 平安時代末期の武将。平清盛の五男。母は平時子。位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称されましました。南都焼討を行って東大寺大仏を焼亡させましました。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送されましました。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首されましました。
    応保2年(1162年)6歳で従五位下、長寛元年(1163年)7歳:尾張守(頼盛の後任)、永万2年のち改元して仁安元年(1166年)(10歳):従五位上(中宮・藤原育子御給)、12月30日:左馬頭(宗盛の後任)、仁安3年(1168年)(12歳):正五位下(女御・平滋子御給)、承安元年(1171年)(15歳):従四位上(建春門院御給)、承安2年(1172年)(16歳):中宮亮(中宮・平徳子)、2月17日:正四位下、治承2年(1178年)(22歳):春宮亮(東宮・言仁親王)。左馬頭如元。中宮亮を辞任、治承3年(1179年)(23歳):左近衛権中将、12月14日:左中将を辞任。春宮亮如元、治承4年(1180年)(24歳):蔵人頭、2月21日:新帝(安徳天皇)蔵人頭。春宮亮を辞任、治承5年のち改元して養和元年(1181年)(25歳):左中将に還任。従三位、養和2年のち改元して寿永元年(1182年)(26歳):但馬権守兼任、寿永2年(1183年)(27歳):正三位(建礼門院御給)、8月6日:解官寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦いで維盛の平氏軍が源義仲に大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされましました。重衡も妻の輔子とともに都落ちしましました。重衡は勢力の回復を図る中心武将として活躍。同年10月の備中国・水島の合戦で足利義清・海野幸広を、同年11月の室山の戦いで再び行家をそれぞれ撃破して義仲に打撃を与えた。翌寿永3年(1184年)正月、源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した範頼と義経によって滅ぼされましました。この間に平氏は摂津国・福原まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していましました。しかし、同年2月の一ノ谷の戦いで平氏は範頼・義経に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて梶原景季に捕らえられてしまう。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女たちは入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっています。木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首されましました。享年29。参考:「仏教の思想」国際仏教学大学院大学教授 木村 清孝フリー百科事典 「ウィキペディア」

たじまる 奈良4

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

但馬国(たじま)

1.但馬国(たじま)

但馬国(たじま)とは旧国名で、兵庫県北部に位置し、西は因幡国(鳥取県東部)、東は丹後国、東南部は丹波国(共に京都府)、南部は播磨国(兵庫県)に接しています。兵庫県が日本海と瀬戸内海の両方に面しているというと意外に思われる方がいます。

但馬は最初は丹波国の一部でした。7世紀、「続日本紀」によると天武天皇十三年(六八五)に丹波国より西部の8郡を分割して成立したとありますが確証はありません。さらに、和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれました。但馬国は、延喜式での律令制における地方行政区分の一つで、格は「上国」、「近国」に位置づけられています。『古事記』は「多遅麻」、「多遅摩」、『日本書紀』はすべて「但馬」と記し、『和名抄』は「太知万」と訓じています。この「たちま」は、谷間が訛ったとも、「タチ(台地)・マ(間)」と解する説(後述)があります。実際に低い山間に細い谷が広がる地域だ。もとは丹波(たんば)の一部でした。丹波は古くは但波・田庭・谷端・旦波とも記されていますが、「たんば」とよく似ていることからたんばが訛ったのではないかとも思えます。日本神話に登場する人物で、天日槍(あめのひぼこ)を祭神とする出石神社田道間守(タヂマモリノミコト)を祀るお菓子の神様、中嶋神社には、コウノトリをつかまえた天湯河棚神(天湯河板挙命)も祀られています。タヂマモリは、全国のお菓子の神。古事記では多遅麻毛理、日本書紀では田道間守と表記され、新羅から渡ってきた天日槍(あめのひぼこ)の曾孫であるとされます。また、多遅摩比多詞の娘が神功皇后です。

但馬で育ちつつあった指導者たちは、大和の大王と手を結び、力をつけ、ここに但馬の国を総括する規模の但馬王が誕生しました。但馬王は、大和の王との関係を強めながら次第に力を伸ばしていきました。

2.国府の施設と配置

国府(こくふ)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設が置かれた場所や都市を指し、国衙(こくが)ともいいます。律令制において、国司が政務を執った施設を国庁といい、国庁の周囲は塀などによって方形に区画されていました。国、郡、城柵で政務の中心となる建物をまとめて政庁といい、国庁もしばしば政庁と呼ばれます。国庁とその周りの役所群、都市域を総称して国衙(こくが)、国府といいます。現在は役所群のほうを国衙、都市のほうを国府と分けて用いることもありますが、同時代的には区別はなかったようです。歴史的には国府の方が先行し、8世紀にはもっぱら国府という言葉が用いられ、平安時代後期以降に国衙が一般的になりました。

各国の国庁の規模の差は小さく、方形の区画の中に中庭を囲んで正殿、東脇殿、西脇殿を冂字形に配置し、南に正門を持ちます。外形上もっとも整備された形では、南門から出る南北道と、これと交差する東西道が中心街路をなし、その他の官衙、国司館、その他施設が区画割りして配置されます。しかし多くの場合国庁をとりまく建物群の配置の規律は緩い。国府の内と外を区分する外郭線は、国府が城柵に置かれたような例外を除きありません。

国府に限らず、律令制時代の日本では役所の建物を曹司といい、これらがまとまった一区画を院と呼びました。国司館は、守館、介館など、国司のために用意された公邸です。もともと国司は国庁で政務をとっていましたが、平安時代中期以降、国司館が政務の中心になりました。国府には正倉が付属しますが、奈良時代には徴税実務上郡の重要性が大きく、地方の正倉は大部分郡家にありました。また工房があって、国府勤務の官人の需要に応じ、都に送る調庸物を生産しました。役所や工房で働く人には、国厨(国府厨)から給食が出されました。工房で働いたり様々な雑務を行う労働者が住む竪穴住居群があり、さらに市場もありました。国府の陸上交通のためには駅家が置かれました。水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多かくありました。
741年(天平13年)以降、国ごとに国分寺と国分尼寺が建てられることになりましたが、それ以前から国府機能と密着した付属寺院を持つ国もありました。平安時代にはさらに総社が建てられました。

これらの施設が一箇所に集中して建てられると都市的な景観になりますが、距離を置いて分散する例も多くありました。国府には国司の他、史生、国博士、国医師、徭丁などの職員が勤務しており、小国で数十人、大国では数百人の人数規模でした。全体としての人口は、陸奥国や武蔵国のような多いところで2、3千人に達したと推定されています。
国府は室町時代に完全に消滅し、ほとんどが所在不明となりました。和名類聚抄が国府があった郡を伝えていますが、それ以上に絞り込むのは難しくなっていました。1960年代までの研究では、「国府(こう)」、「国分寺」、「総社」、あるいはそれと似た地名が探索され、他の状況証拠とあわせて様々に位置が推理されました。
1964年に近江国府が発掘されてから、国府跡の遺跡が次々と発掘されるようになって、状況は劇的に変わりました。あわせて郡衙、寺院の遺跡も見つかり、これらと照らし合わせて国府に共通する特徴が浮かび上がってきました。奈良時代から平安時代前半の国府では、方形区画と正殿・脇殿などで構成される政庁が他の施設にはない特徴で、これが国府の中心施設でもあることから、政庁を発見した時点で国府位置確定とみなされます。


但馬国府国分寺館

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但馬国府は、但馬のどこに設置されていたのでしょうか。国府と密接な関係を有していた国分寺。その寺地選定の要件は、「衆の帰集を労するを欲せず」とされているように、交通至便の地が望まれました。国庁内にあった仏舎の発展延長でもあるので、国府から飛び離れた地点に建立されることはまずありませんでした。実際、国府から五町乃至二町位隔たって建設されたものが多いようです。

古くから日高町国分寺区は、但馬国分寺跡だとの伝承を持つ位置が存在し、但馬の他所から移ってきたような大変化も伝承もなく、遺跡も存在しているのは、但馬では他にはありません。

つまり、国分寺と国府は、まず距離的に密着しているのが通例ですし、この国分寺の近くに国府が最初から建設されたと見るのが妥当です。

次ぎに、国分寺という地名は、和妙抄には存在せず、江戸時代には国保村と書かれています。
国府が国保に訛ったとも考えられ、国府を保つ村だから国保村、国分寺があるから後に国分寺になったのだろうか?『兵庫県史』は、「但馬に気多郡団が知られるが、出石軍団は知られないこと、天平九年の『但馬国正税帳』によると、但馬国府から因幡へ伝達するのに気多郡の主帳を使っています。ふつう国府のある郡には軍団が置かれるし、また文書の逓送には、国府に近い郡の役人を使うのが自然」と述べています。したがって、但馬国府は、出石神社が古くから出石郡に鎮座することから、はじめ出石郡に置かれていたのではないかする見解が一部にありますが、上述の発見からも否定する意見が濃いようです。

『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記されています。別の場所から高田郷へ移されたと記しています。移転月日まで判明している資料的な裏付けがある希有な例だといわれています。
では何故、せっかく好地を選定し、多くの農民を駆り立てて建設した古代の政治都市が、惜しげもなく放棄され、新しい地点を求めて移転したのでしょうか?
総じて移転原因と見られるのは洪水のようです。都市計画に当たって広大な平野が選定されても、高水位対策の配慮が足りないとその機能が発揮できません。
第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もありました。

  • 但馬史説
  • 国府村誌説
  • 日置郷説
  • 八丁路説
  • 八丁路南説
  • 国司館移設説

伊智神社なかでも国府説では、明治中期に設定された国府村という行政体の名前から、国府はこの地にあったに違いないとするものです。国府には船所が設置されていたので、おそらくその河流沿いではあるというものです。国府の市場は「こうの市」と記載されています。国府は「こう」ともいいました。また近くに伊智神社が鎮座しており、伊智は市のことで、市場に関係する神社です。また、中世末期、「府中」と呼ばれていた域内には律令制に所縁ありそうな「堀」「土居」などの地名があります。

日置郷説は、かつて上郷は日置郷にあり、惣社の近くに国府があったというものです。ところが、鎌倉時代には惣社気多神社は、下郷に鎮座していることになっているのでつじつまが合いません。
八丁路説は、伊福(鶴岡)に「八丁」という小字があり、太平洋戦争末期まで鶴岡橋の下流左岸に渡し船がありました。八丁とは区間の長さを示す言葉ではなく八条の転化であり、条里地割りの呼称ではないかといいます。

また、『日本後記』は、上記の通り明瞭に第一次国府の移転を宣言してありますが、果たして国府全体が本当に移転したかです。「国衙」「国庁」あるいは「国府」とも言わず、「国治」を移すと表現していることは、やはりそれなりの意味があって、行政機関のあるものを移転したことを示すものではないだろうか、という考察です。いくつかの新庁舎が建設された類のものではないか、だからこそ、旧国府村でも、円山川沿いに、国府と関係するらしい小字名が伝承されてきたのではないかというものです。
いずれにしても第一次国府は、国分寺の近くにあったこと、人々が行き来しやすい至便の地に建設されたことは確かです。参考:『日高町史』

4.祢布ケ森(にょうがもり)の三時代の遺跡

 縄文後期や晩期前半・後半の凸型文土器が出土し、昭和48年、祢布ヶ森東方部を発掘したところ、幅一メートル深さ60センチの溝や土器とともに石器が発見され、この溝を境にして遺跡の性格が実にはっきりと相変わっていることが判明した。また、西側一帯は、
奈良時代から平安初期にわたる遺物が出土しています。この祢布ヶ森三つの文化層の差異が見られる。(中略)

このように、高原の神鍋山麓だけでなく、低平部の稲葉川と円山川との合流点付近の扇状地帯に縄文時代の新しい生活が展開してきています。
-日高町史- 縄文人たちが但馬の地にはじめてやってきた頃、水面は現在よりも高かったとされています。また狩猟や採集生活をおこなっていたことから、最初は高原地帯に居住していて、だんだん平地にも移住していったのではないでしょうか。


門のある塀と大きな建物(画像:但馬国府国分寺館)

祢布ヶ森遺跡

但馬国府は『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。遷された原因やどこから遷したのかについては記述がないため分からありませんが、移転後の所在地については、近年の発掘調査で博物館に隣接する祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡であると考えられるようになりました。

それではなぜ祢布ヶ森遺跡が但馬国府であると考えられるようになったのだろうか?


大きな建物の柱(画像:但馬国府国分寺館)

役所跡と判断する理由

  • 塀で囲まれた中に大きな建物群が規則性を持って配置されていたこと
  • 庶民は使わない高級な食器である青磁や白磁、三彩などが見つかったこと
  • 但馬各郡の役所で作成されたと思われる戸籍や税に関する木簡が見つかったことなどがあげられる。 水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多く、平安時代にはさらに総社気多神社が建てられた。国府という地名は、全国にあるが、国府跡の所在地が判明しているところは数少なく、その意味でも但馬国府・国分寺跡は貴重です。

    国府の規模は大国以外は六町域をとるものが多くありました。上国とされていますが、貢租の額を詳しく分析してみると、中国の実態しかない国だったようです。

    2008年6月21日、中国最古の詩集「詩経(しきょう)」に触れた木簡が国内で初めて出土しました。同時に二百二点の木簡が見つかり、一つの遺跡では県内最多、全国でも二、三番目の数だそうで。810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されています。川岸遺跡(官衙跡)兵庫県豊岡市日高町松岡第1次但馬国府か?(昭和59年)都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

    5.県内最多の木簡(もっかん)出土

    祢布ケ森遺跡では、1986年から16点の木簡がすでに見つかっていました。木簡では、紀年銘をもつものが多く、但馬国府が高田郷に遷された時期に近いものから10世紀末までにもおよび、この遺跡が機能した時期がわかるものです。また、墨書土器でも「但馬」や「国当」は硯(すずり)の存在と合わせて、この遺跡が国府に関係することを示すものと考えられます。

    また、豊岡市教育委員会(出土文化財管理センター、但馬国府・国分寺館)では、2008年6月4月30日から5月13日まで、日高町祢布にある但馬国府・国分寺館のすぐの祢布ヶ森遺跡の発掘調査で中国最古の詩集「詩経(しきょう)」の注釈書の一節が書かれた9世紀前半(平安時代)の木簡が全国で初めて見つかりました。当時、都の学問・教育機関だった「大学寮」の教科書として使われたとされ、しかし、都でも見つかっていない『詩経』の内容を書いた木簡が見つかったことは、あまり普及していなかった『詩経』の注釈書が但馬にあり、それを使って役人が漢詩の勉強をしていたことを物語っています。

    堀状の遺構から木簡203点が見つかりました。203点という木簡の出土数は、県内で最多です。詩経が書かれた木簡は長さ39・5センチ、幅10・9センチ、厚さ0・7センチ。「淒寒風也谷風曰東風」(淒(せい)は寒風なり。谷風は東風という)などと墨書され、詩経にある「淒」や「谷風」の意味を説明する内容で、注釈書「毛詩正義」にあるのとほぼ同文でした。下に「健児長」とあり、国府を警備していた兵士「健児(こんでい)」が字の練習のために書いた可能性があるそうです。

    また、別の木簡には桓武天皇の姪(めい)にあたる「従三位五百井女王(じゅさんみい おいのじょおう)」の名前が記されていました。五百井女王が「従三位」の位だったのは808~812年で、木簡の時期が特定できました。「城埼郡(きのさきぐん・原文のまま)」から茜(あかね)を送った際に付けた付札、「弘仁四年」(西暦813年)の年号を書いたものなどがありました。

    ほぼ同時期の810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されます。

    木簡の書かれた西暦810年ごろは、国内で天皇の勅(ちょく)による漢詩集が編集されていたときで、地方における漢詩の普及を示す資料と言えます。また、若い?官人が九九を間違えている跡、同じ文字を繰り返し練習したものなど、さまざまな内容のものがありました。

    祢布ヶ森遺跡は、今までの発掘調査で延暦23年(804年)に移転をした但馬国府の跡と考えられていました。今回の木簡はそれをさらに裏付けるとともに、国府における役人たちの姿をほうふつさせる大きな発見となりました。
    祢布ヶ森遺跡では、これまでに16点の木簡が出土しているので、今回のものと合わせて219点の木簡が出土したことになります。県内で見つかっている木簡は約870点ありますが、そのうち、豊岡市内で見つかった木簡は、袴狭遺跡(出はかざ石)の76点、但馬国分寺跡(日高)の42点など、約440点。県内の木簡の約半数が、豊岡で出土していることになります。

    しかも、一つの遺跡で出土した木簡数では、下野(しもつけ)国府(栃木県)の約5千5百点に次ぎ、阿波国府(徳島県)の二百五点に並ぶそうです。これらの遺物は当遺跡の性格を明らかにするだけでなく、但馬国の平安時代を考える上で大変貴重な資料です。

    深田遺跡(官衙跡)

    兵庫県豊岡市水上字深田他(兵庫県指定重要有形文化財 平成6年度指定 兵庫県立考古博物館所蔵)は、周辺に国分僧寺、国分尼寺などがあり、延暦23年(804)に気多郡高田郷に移したと『日本書紀』に記されている但馬国府跡推定地の一つと考えられています。

    6.木簡(もっかん)

    木簡(もっかん)とは、古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、細長い木の板です。紙の普及により廃れましたが、荷札には長く用いられていました。

    中国と日本では一行または数行の文を書いた細長い板が多数出土しており、典型的な、狭義の木簡はこれです。これらは当時も木簡と呼ばれていましたが、用途や状況に応じて様々に呼ばれていました。漢代まで木簡と竹簡には冊書を作る用途があり、一、二行しか書けないような細長い規格で作られました。後に長い文書が紙で作られるようになり、木簡の形に対する制約がなくなっても、細長い形はなかなか変わりませんでした。

    木簡の特徴の一つは、削って書き直したり再利用したりすることができるという点にあります。そのため当時の文具には筆、墨、硯に加えて小刀が含まれていました。削り屑に習字した例もあり、それらも上述の広義の木簡に含まれます。遺跡からの木簡出土の始まりは、1901年にハンガリー出身のイギリス人オーレル・スタインが中国の尼雅で50枚、スウェーデンのスウェン・ヘディンが同じく楼蘭で120枚余の晋代の木簡を発見したことです。スタインは、1907年、1913年-16年の、第2次・第3次探検でも、約900枚の漢代の木簡を発見しています(敦煌漢簡)。その後1930年にはエチナ川流域から一挙に1万点以上の大量の木簡が発見されました(居延漢簡)。20世紀前半には西北辺境からの発見が多かりましたが、後半には中国全国で多数見つかるようになりました。中国では竹に文字を書いた竹簡が主流で、単に簡や簡牘といえば竹簡を指します。しかし黄河流域以北では木簡も広く用いられました。紙が普及しない漢代まで、木簡・竹簡は文書の材料として広く用いられていました。木簡と竹簡の相違は、その用途の相違によるものとも考えられています。つまり、各種の証明書や検・檄・符などの単独簡として用いられる簡には木簡が用いられ、それに対して、書物や簿籍などの編綴簡には竹簡が用いられている、という出土状況から、そのように考えられています。日本の木簡としては、正倉院の宝物に付けられていたものが伝わるほか、1928年に柚井遺跡、1930年に払田柵跡で3点ずつが見つかっていました。大量出土は1961年の平城京跡での40点に始まり、以後続々と各地で見つかるようになりました。数的に多いのは1996年の平城京東南隅から1万3千点、1988~1989年の長屋王家木簡・二条大路木簡計11万点、長岡京など都からのものですが、国・郡の地方官衙や寺院など全国から出ています。2002年度末までに総数約31万点が見つかり、数だけなら中国より多いです。

    7.高田郷

    但馬考

    高田(タカダ)郷…和妙抄は「多加多」。夏栗、久斗、祢布、石立、国保(国分寺)、水上

    日置(ヒオキ)郷…和妙抄は「比於岐」。日置、多田谷、伊福(鶴岡)、上郷、中郷

    高生(タコウ)郷…和妙抄は「多加布」。地下、岩中、宵田、江原

    なお、山本、松岡、土居、手辺、府市場、府中新、堀、野々庄、池上、芝、上石(あげし)の十一村が所属不明。

    『日本後記』延暦二十三年(804)に、但馬国府は「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。これが公式に残る最古の記録です。移転後の高田郷は、江戸時代には東組(旗本小出領)と西組(出石藩領)に分けられています。西は久斗(くと)村、東は石立(いしだち)村、国保(国分寺)村までの、かなり広い地域です。祢布(ネフ・にょう)は、古くからの住居跡が発見されている祢布ヶ森遺跡などがあり、第二次但馬国府跡とされます。縄文後期から晩期前半及び後半の土器、さらに町役場移転に伴う発掘調査で、多数の国名を記した木簡などが発見され、さらには、平成20年、詩経が書かれた木簡が多数見つかりました。

    さて、『和妙抄』では但馬八郡の中で、七郡までが、郡名と同名の郷名が記されていますが、気多郡に気多郷はありません。国府の所在地には、行政上の特別処置として郷を設置しなかったものか、あえて気多郡であるから郷名が忘れられてしまったものなのでしょうか。

    ところが、鎌倉時代になると突如として気多郷の名前が出てきます。その気多郷の下郷に惣社の所領が記載してあります。江戸時代の資料によると、総社気多神社は日置荘上郷に鎮座となっています。平安時代中頃の歌集『金葉和歌集』の中には、気多川が出てきます。現在には気多川という名前はありませんから気多神社そばの円山川(まるやまがわ)を指しているのでしょう。

    『但馬国太田文』によると、気多郷域内に常荒流失地が約一割強の十三町歩(1町歩 = 9 917.35537 m2)もあります。気多下郷は、現在の府市場、府中新、堀、野々庄、池上、芝、上石、納屋、上佐野の地域が該当するのではないかといわれています。いずれにしても山陰道から円山川を下って国府に通ったので、国府が円山川に近い地域に設置されたことは間違いありませんが、高田郷に移す以前の第一次国府は、移転した原因が円山川の水害にあったとすれば、わざわざ、さらに低い場所に移すことは考えにくいでしょう。『和妙抄』には以下の地名が記されていませんので、気多郷内は山本、松岡、土居、手辺(府中新?)、国府市場、堀、野々庄、池上、芝、上石とすると、このどこかと考えることはできないでしょうか。しかし、かつては入り江だった地域ですし、円山川の氾濫から影響されにくい場所とすれば限られてきます。手辺が今のどこなのか分からありませんが、堀、野々庄、池上、芝、上石は現在でも海抜0メートル地帯で水害に遭いやすい場所であり、国分寺や尼寺から遠すぎることからまず外したいと思います。とすると、「高田郷に移す」と書かれてあるので高田郷以外の郷のいずれかであることは確かです。となれば隣接する日置郷か高生郷、もしくは気多郷内と想定します。やはり松岡、土居の、深田遺跡か川岸遺跡か、またその包括的領域当たりでしょうか。

    高生(たこう)

    地下、岩中、宵田、江原となっていますが所在地不明。国府平野を高生平野と言っていますが、岩中、宵田あたりから上石あたりまでの広範囲をさすようです。
    国府駅以西は海抜0メートル地帯でかつて円山川に八代川が注ぐ沼地でした。

    「タ・カウイ」、「編んだレースのような(川の流れが縦横に入り組んでいる九頭竜川の河口付近一帯の)土地を・(九頭竜川の洪水が)襲う(地域)」
    竹貫(たかぬき)
    「タクヌイ」、TAKUNUI(wide)、「広い(浦)」
    鷹貫神社[タカヌキ] 鷹野姫命
    兵庫県豊岡市日高町竹貫字梅谷429
    御由緒
    創立年月不詳ですが、天日槍ゆかりの古社。

    祭神「鷹野姫命」は、天日槍ゆかりの神功皇后の御生母。

    延喜式の鷹貫神社と記して小社に列し明治六年十月村社に列せられる。

    祢布(にょう)は丹生・女布か?

    祢布は、ネフと呼ばれやすいですが、ニョウと読みます。日高町の中心部で、役場(日高町総合支所)が移転する際に大規模な遺跡が発見されました。そもそも祢布集落は祢布川が流れる深い谷の裾にあります。下記のように、賣布(メフ)神社、祢布区や但馬国分寺に近い石立に売布(メフ)神社があります。

    • 賣布神社 式内神名小兵庫県豊岡市日高町国分寺字山ノ脇797
    • 賣布神社古社地兵庫県豊岡市日高町祢布(禰布ヶ森遺跡)
    • 賣布神社古社地兵庫県豊岡市日高町国分寺(天神山に小祠)丹生(にゅう)と似た発音の地名です。したがって、古くは朱を生産したり水銀が見つかったのかも知れません。
      すでに丹土(たんと)と丹生(にゅう)で書いていますのでそちらをご覧ください。京丹後市網野町木津女布谷(にょうだに)にも賣布神社(ひめふじんじゃ)があります。
      式内社神名小御祭神:「豐宇賀能咩命(とようかのめのみこと)、素盞嗚命(すさのおのみこと)」御由緒:『竹野郡誌』に次の様に記載されています。垂仁天皇九十年春、田道間守勅を奉じて常世国に渡航し、不老不死の香菓たる橘を得、景行天皇元年無事帰国し、田神山(屋船山)に神籬を設けて礼典を挙げられしより、此の地に奉祀せしを以て創始とする。田道間守を祀る中嶋神社と関係有りです。賣布神社は他にも、京丹後市久美浜町女布初岡にある賣布神社 祭神豐受姫命、大屋媛命、抓津媛命。しかも神社の読みは島根県松江市和多見町に鎮座する式内社と同名です。深い谷。似た地名に丹生、舞鶴市女布(ニョウ)があり、日本の水銀鉱床は中央構造線沿い、当地に関係深いところなら特に紀ノ川・吉野川流域にある。そのずっと北側にも、当地の女布あたりを中心に大きな楕円を描いて但馬から近江・越前を含む範囲、若狭湾岸地域とも呼ばれていますが、そこにも集中分布しているのが以前から知られています。兵庫県宝塚市の売布神社「大布命口羊布命、現在は高比賣神」も有名です。

      大伴家持(オオトモノヤカモチ)

      直接関係ないですが、気多神社がある国に国司として三カ所も大伴家持が赴任しています。単なる偶然だろうかなんて思うが、気になる人物として取り上げました。

      養老2年(718年)頃 – 延暦4年8月28日