山陰道 旧蒲生峠(兵庫鳥取県境)

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国道9号線蒲生峠は蒲生トンネルで通過するが、一度旧道を通ってみたかった。山陰道は、鳥取から京都を結ぶ要路として、江戸時代には鳥取藩が主要街道として峠を整備した。調べるとその当時の峠道は「山陰道・蒲生峠越」として国の史跡に指定され、現在では今でも残る石畳や石碑などに当時の思いを馳せながら散策できるハイキングコースとして、多くの人々に親しまれている。

現在は国道9号が、1978年開通の蒲生トンネル(延長1745メートル)で抜ける。トンネルを含めた蒲生バイパス開通前は鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線(全線)と鳥取県道31号鳥取国府岩美線(鳥取県岩美郡岩美町洗井~岩美町蒲生国道9号交点)が国道9号として峠を越えていた。

国道9号蒲生トンネル鳥取県側から鳥取・兵庫県道119号千谷蕪島線を行き、鳥取県道31号鳥取国府岩美線(国道9号旧道)

国指定史跡の山陰道は、蒲生峠越(がもうとうげごえ・鳥取県岩美郡岩美町)

徳城峠越(とくじょうとうげごえ)

野坂峠越(のさかとうげごえ・島根県鹿足郡津和野町)

の3か所のみである。

同じ岩美町には鳥取市との境の駟馳山峠の傾斜地に残されている美しい石畳道がある。

 


旧蒲生峠 鳥取県側から兵庫県側を見る

  

  

峠から旧山陰道へはNTT電波送信塔までの私道と重なり、NTT電波塔までの私道は進入禁止の表示がある。

山陰から京都に通じる道で人はもとより人力車、荷馬車など往来で賑わい、豊臣秀吉軍が鳥取城攻めに向かった時に利用されたなど歴史的ないわれも多く、幕末の戊辰戦争では西園寺公望らが山陰道鎮撫総督、奥羽征討越後口大参謀として各地を転戦する際に村岡からこの峠を越えて鳥取に入っただろうことなど思いにふせる。

峠から案内板を少し歩くと、新しい蒲生峠の案内票石が立てられている。

また、平成8年には文化庁によって「歴史の道百選」に選定されています。


現在でも一部石畳が残っているらしいが、捜すうちに夕方が近づいていたので一人では薄気味悪くなってきた。
指定年月日:20050302

管理団体名:

史跡名勝天然記念物

近世の山陰道は、京都から山陰地方へ通じる主要街道で、鳥取県側では但馬往来、但馬街道とも呼ばれた。鳥取藩の参勤交代道は志戸坂峠(八頭郡智頭町)を越えて姫路に出る智頭往来であったが、鳥取藩は山陰道を京都への重要な交通路として整備し、鳥取を起点に一里塚を築き、宿駅を置いた。享保11年(1726)の『因幡国大道筋里数』によれば、鳥取から蒲生峠までの里程は6里12町であった。山陰道は岩美町浦富で海沿いに進むルートと蒲生峠へ向かうルートに分岐するが、蒲生峠越が本道とされていた。 天正8年(1580)の因幡攻めの際に羽柴秀吉が、慶応4年(1868)の明治維新の際には山陰道鎮撫使が、蒲生峠を越えて鳥取に向かったと伝えられている。

山陰道蒲生峠越は、岩美町塩谷で国道9号線から分かれて山道に入り、蒲生峠で県道千谷蕪島線に合流する。合流点付近には、明治25年(1892)9月に往来人の安全を祈願して建立された「延命地蔵大菩薩」の台座が残されている。この間の約2km程の峠道が明治時代中期までの街道である。このルートは、明治時代になっても一般国道に選定されて整備が進められ、人力車や荷馬車の往来で賑わった。明治25年に山陰道が現在の県道ルートに変更されると次第に寂れていったが、現在も地域住民の林業や生活用の道路として利用維持されているために、遺存状態は比較的良好である。

平成2年度に鳥取県教育委員会によって文化庁補助事業「歴史の道調査」が行われ、平成10から12年度にかけて岩美町教育委員会により「歴史の道整備事業」が実施された。

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因幡山名氏と布勢天神山城(鳥取県鳥取市)

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布勢天神山城の歴史

山名氏宗家但馬山名氏(出石町)のお膝元豊岡市の住民としては、鳥取にたびたび行く機会があれば因幡山名氏について辿ってみたい思ってた。2月19日にかねてから一度目指したかった久松山(鳥取山城)を登るとどうしても布勢天神山城を訪ねてみたかった。


城山(天神山と卯山)を南東から眺める

『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、布勢天神山城は因幡国高草郡(現在の鳥取県鳥取市湖山町南、布勢)にあった丘城で、戦国期の因幡国守護所とされる。当時は布勢ではなく布施と表記された。つまり布施という地名は全国に多いが、政治の中心が置かれていた場所という意味であろう。

湖山の県立緑風高校のそばだと地図で確認し国道53号から県道181号へ進む。橋を渡ると同じような小山が乱立していてそばまで来ているのだが、近道をしようと脇道に入ってしまうと新興住宅地が多くて袋小路でなかなか分かりにくい。最初から国道9号バイパスか県道181号など主道路を通った方が良かったと後から思う。

『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう書かれている。

『因幡民談記』に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。1466年(文正元)因幡国第5代守護・山名勝豊によって二上山城(岩美町)より守護所が移転されたと伝わるが、勝豊は1459年(長禄3年)に没しており、この年代には疑義がもたれている。確実な史料による初見は1513年(永正10年)である。一説に『応仁記』にみえる布施左衛門佐は山名豊氏を指すのはないか考えられており、豊氏の築城との指摘もある。(平凡社『日本歴史地名大系32 鳥取県の地名』)

第13代守護・山名誠通はこの城にあって、同族である隣国但馬守護の山名祐豊と対立、敗れて敗死した。誠豊の死後、守護職は豊定、棟豊と但馬山名家から送り込まれた人物が継承した。棟豊が若くして死去した後に家督を継いだ守護・山名豊数の時、重臣・武田高信が鳥取城を本拠として離反する。1563年末(永禄6年)に山名豊数は武田高信の猛攻を受けて布勢天神山城を退去し、鹿野城に退いた。1573年(天正元年)尼子氏の援助を受けた豊数の弟・山名豊国が武田高信を鳥取城から追い、守護所を鳥取城に移転させ、天神山城は廃城になったとされる。この時、天神山城に聳えていた3層の天守櫓も鳥取城に移築されたという。ただし、山名豊数が武田高信の攻撃によって鹿野城に退いた1563年以後は確実な史料に天神山城の名前が出てくることはない。廃城時期については今後の検証が必要である。

1617年(元和3年)に備前岡山の池田光政が鳥取に転封された際、手狭な鳥取城に替わる新城候補地として、城地の要害と城下町を作る利便性から布勢天神山城が新城として検討されたことがあった。しかし半世紀近く前に廃城となっているため整備に時間がかかることから、布勢天神山城が再び因幡の首府になることはなかった。


公園内に建てられた見取り図

『因幡民談記』に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。

守護館は天神山麓に築かれていたようで、古地図や伝承によると3層の天守櫓も存在していたとされる。天神山周辺には湖山池の湖水を引き込んだ内堀が巡り、卯山周辺にも水堀が設けられていた。


公園から湖山池を望む。

卯山の丘陵北側には布勢1号墳がある。古代の古墳を城域に取り込んで砦として利用した例として興味深い。

布勢1号墳(前方後円墳、国指定史跡)

日吉神社(布勢の山王さん)

因幡国初代守護・山名時氏が近江から日吉神社を勧請したとある。比叡山麓坂本の日吉神社だろう。

広い道路脇にそびえる鳥居から一直線に天神山城跡のある卯山まで参道が通っている。まだ補修されたのが新しく立派な社です。瓦などの家紋は因幡池田家の家紋揚羽蝶である。天神山城と因幡山名氏亡きあとも池田家や布勢村の人びとによって大切に護られてきたことが伝わります。

「布勢の山王さん」と親しまれているらしいが、但馬山名氏の豊岡城のある神武山近くにも山王山に山王神社があり但馬山名氏から一族共通のものであることは興味深かい。

拝殿と本殿

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鳥取城久松山と仁風閣(鳥取県鳥取市)

[catlist categorypage=”yes”] 鳥取県鳥取市東町

鳥取城(久松公園)

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市にある山城跡で、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、近世城郭に整備されました。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残しています。

この城は但馬山名氏ともゆかりがあり、戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきました。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。

ということで、久松山頂に築城したのは、山名氏か武田高信かははっきり分かっていないらしい。

高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ、永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護・山名豊弘を擁立し、下剋上を果たした。高信はその後も主筋の山名豊国(豊数の弟)としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。


久松山と仁風閣

正面

古代出雲6/6 西谷古墳群

[catlist categorypage=”yes”]島根県出雲市大津町字西谷

出雲市街南東部の標高40メートル程度の丘陵に存在する。弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀に築造されたと考えられている。1953年(昭和28年)に確認され、現在は27号までと番外5号までの32基の墳墓、古墳と横穴墓が確認されている。このうち、1~4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。四隅突出型墳丘墓は出雲地方を中心とした特徴的な形をした弥生時代の墳丘墓で、この西谷墳墓群や安来市の荒島墳墓群に巨大なものが見られる。

1983年(昭和58年)より1992年(平成4年)までの10年にわたり島根大学考古学研究室を主体に3号墓を中心に発掘調査が行われ、水銀朱や弥生式土器が出土し祭祀の跡も確認された。これらの様子からこの時代の出雲地方に「王」が存在したことがうかがえる。2000年(平成12年)に国の史跡に指定された。現在、1号墓~6号墓の並ぶ丘陵は「西谷墳墓群史跡公園・出雲弥生の森」として整備が進められている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)

四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期から吉備・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態です。四隅突出型弥生憤丘墓とも呼称します。


西谷古墳3号墳

方形部は東西40メートル×南北30メートル、高さ4.5メートル、突出部の付け根の幅7~8メートル、長さ6~7メートルの幅広大形で、中期後葉にはささやかな突出部であったが、後期後葉になると大きく幅広い突出部に発達している。この突出部上面が墳頂への墓道と考えられている。斜面は貼石で覆われ、突出部から墳頂にかけての稜線部分は石を敷き詰めた道のようになっており、墳丘頂上には、八つの埋葬施設があり、首長とその家族のためのいくつかの墓壙が掘られていた。そのうちの最大の墓壙の上には4つの柱穴が検出されており、何らかの施設があったものと考えられている。その墓壙から他地域からの搬入されたものも多数含まれている。 方形周溝型弥生墳丘墓の周溝の堀残し部分が渡り土堤で出入り口になっており、それが四隅突出型弥生墳丘墓の突出部と関するのではないかとの考えも出されている。9号墓に次ぐ規模の四隅突出型弥生墳丘墓。

1983年より詳細な調査が行われ、上部に首長が埋葬された第1主体があり、脇にその家族が被葬された第4主体がある。第1主体には深さ1メートルで二重の構造の土壙が掘られ、木棺の外側に木槨をもつものである。木棺内は水銀朱が敷きつめられており、大型22個、小型25個程の碧玉製管玉の他に、ガラス小玉100個以上とコバルトブルーのガラス製勾玉2個、玉、鉄剣が発掘された。埋土上から二百数十個の土器が検出されている。この土器のなかには吉備の特殊器台・特殊壺や北陸地方の土器に似ているものが多い。 墓穴の周囲に4箇所の柱穴が検出された。この柱穴は首長の葬送の際に建てられた葬祭用四阿(あずまや)で、次期首長候補を中心に葬儀が執り行われたと推定されている。 現在、斜面に葺き石が施されるなど築造当時の姿に復元作業が行われている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


4号墓

方形部は東西32メートル×南北26メートル。この墳墓群の中で最初に確認された墳墓で、1953年の造成工事の際に墳墓であることが確認された。この墳墓にも斜面に葺き石が施されている。地元産の壺などの大量の土器、吉備産の特殊土器が発掘された。2世紀末に築造されたと推定される。

出雲市の南東にある西谷墳墓群は山陰地域独特の形をした四隅突出型墳丘墓が集中しています。発掘調査の行われた3号墓では墓の上で祭祀が行われた様子がわかっており、出土品からは葬られた王が吉備や北陸地方とも交流をもっていたと考えられています。ここからは斐伊川や出雲平野を一望することができます。
また、神戸川の東には日本最大級の家形石棺を持つ今市大念寺古墳、精美な石室を持つことで知られる上塩冶築山古墳など、この地に君臨した王を葬った古墳を見ることができます。

山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されていますが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考える人もあり、出雲国造家とのつながりを指摘されています。

2009/02/15

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