西日本屈指の長さ 蘇武トンネルと但馬のトンネルの長さ比べ


蘇武トンネルを通ると、もういいだろうと思う長さをはるかに越えて長く感じる。トンネル好きならたまらないwww
一直線で途中照明が暗い部分がありちと注意すべし。最近気がついたが村岡出入り口はかすかにカーブして一直線ではないような気がする錯覚だろうか。
1km以上の但馬のトンネル

名称路線名延長区間竣工年
1蘇武トンネル国道482号3,693豊岡市日高町稲葉 – 香美町村岡区村岡2003
2遠阪トンネル(有料)国道483号(近畿豊岡自動車道)2,585丹波市遠阪-朝来市柴1976
3香住トンネル国道178号(鳥取豊岡宮津自動車道:香住道路)2,041美方郡香美町香住区丹生地-一日市2005
4七坂トンネル国道178号1,821美方郡新温泉町(浜坂町)居組-鳥取県岩美郡岩美町陸上2008
5蒲生トンネル国道9号1,745美方郡新温泉町千谷-鳥取県岩美町蒲生1978
6春来トンネル国道9号1,696美方郡香美町村岡区柤岡-新温泉町歌長1975
7但馬トンネル国道9号1,256養父市(関宮町)八木谷-美方郡香美町村岡区八井谷1965
8生野トンネル国道312号(播但連絡道路)1,234朝来市(生野町)真弓-口銀谷1991
南但馬トンネル国道9号1,224養父市(養父町)上筒-養父市八鹿町朝倉1992
9朝来第二トンネル国道312号(播但連絡道路)1,132朝来市(朝来町)元津-岩津1999
10土生トンネル国道178号1,087豊岡市竹野町河内-美方郡香美町香住区土生1993

国道482号 酷道小代行き止まりを辿る

このブログタイトルである祢布(にょう)交差点は、当店が位置する場所に近く、国道312号と482号の交差するクロスロード。その東西に通るのが国道482号です。

実は但馬に生まれ旧美方町に行くのはよく憶えてないのですが初めてではないだろうか。
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国道9号鳥取方面 村岡区和田交差点

県道4号分岐交差点

(帰りに撮ったので日が暮れかけている)

国道9号小代口交差点(482号分岐点)

香美町小代地区(旧美方町)へ
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小代区石寺

 

この先通行止めの標識現る

中心部を抜ければいよいよ国道から酷道へすすむ

小代区秋岡

さらに道が急に細くなった

さらにこの先通行止めの標識

長く進むと工事休工中との看板

香美町の大川 矢田川源流部の渓谷を酷道が併走する

若桜方面→

90度近い急斜面と渓谷が続く。心細くなりそうなほどの酷道を3kmほどでようやく行き止まり

小代渓谷へここから約4kmで鳥取県境を越えて氷ノ山・若桜町春米

台風23号まではまだだいぶ先の小代渓谷まで行けたようだが、工事も休工中のまま。

いつになったら鳥取若桜まで通行できるだろう。

かつて大正時代に藤本日高村長が夢見た但馬鉄道計画(丹後宮津(加悦鉄道)から鳥取(若桜鉄道経由)までつなげた)を、国道482号昇格につなげた今年他界された故清水豊前日高町長・豊岡市長のことを偲びつつ引き返した。

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JR山陰本線最大の難所に開通したトンネル

桃観とうかんトンネル

JR山陰線最大の難所に開通したトンネル

  
桃観トンネル(浜坂久谷側)

山陰線久谷・余部間には、山陰線で最も長い桃観トンネル (全長1,991m) があります。余部鉄橋と並ぶ最大の難工事で、

後藤新平の筆による石額

そのトンネルの東西の坑口上部に山陰線建設当時の逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平の筆による石額が掲げられています。
久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」
余部側は「惟徳岡小(この徳は少なくない)」
と刻されています。
初期の鉄道工事には、記念すべきトンネルの両端を煉瓦や石で装飾し、石額を掲げていました。桃観トンネルも明治43年に完成し、山陰線の記念すべきトンネルとしてトンネルの両端に石額が掲げられています。山陰線の歴史を語る文化的遺産です。
・建立年月日 明治43年
・碑文 碑面 久谷側「萬方惟慶」
余部側は「惟徳岡小」
・揮毫 逓信大臣兼鉄道院総裁 後藤新平
・建立者 鉄道院 米子建設事務所

山陰線の中で最大の難所だった香美町香住区余部~新温泉町久谷を結ぶトンネルで、1911年(明治44)に完成しました。山陰線のトンネルの中で1番長く(全長1,991m)、約4年間の年月をかけ、当時としては巨費の61万円が投じられました。

この工事にあたった多くは朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)で、難所工事であったため殉職者や病死した人もいました。その人々の名は桃観トンネル西口近くにある久谷八幡神社の中に『鉄道工事中 職斃病没者 招魂碑』と刻まれた石碑に刻まれています。

工事は西より東に向って上り勾配を利用して、掘削は久谷側の西口から始まりました。空気圧搾機や削岩機で掘削を進め、新鮮な空気を供給して作業を行うという、当時の技術の中でも最も近代的な工法が採用され、山陰西線(鳥取~香住)において、機械掘削の初めての試みとなりました。

煉瓦で造られたトンネルの出入り口には、山陰線の開通記念として、当時の逓信(ていしん)大臣兼鉄道院総裁だった後藤新平の筆による石額が掲げられています。久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」、余部側は「惟徳罔小(この徳は少なくない)」と刻されています。実際このような石額を掲げたトンネルは全国においても数例しかありません。

=但馬の百科事典より=

工事にあたった多くは朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)ということで、強制連行され不当な待遇であったかのように叫ぶ人たちがいた。しかし、考えていただきたいのは、工事期間の1906(明治39)から1911年(明治44)ころは朝鮮併合で貧富の差が激しかった併合前の朝鮮から、日本国民として一旗揚げようと日本に渡ってきた朝鮮労働者も多くいたのである。アメリカのゴールドラッシュのように学歴も素性も分からない外地の朝鮮人にとって必然的に鉱山や土木工事など肉体労働者が多かった。

従って戦時中には国家総動員法によって、日本国民は日本人・朝鮮人・台湾人の区別なく徴兵・徴用はあったが、終戦から多くは日本政府の補助で帰国している。

朝日新聞

戦時中の徴用令によって日本に渡航し、昭和34年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だったことが外務省が証明されている。朝鮮総連などが使う強制労働などという言葉すら造語である。明治に強制労働など行われなかったし、朝鮮半島と台湾は日本であり、むしろ朝鮮人としてではなく同じ日本人殉職者として差別なく石碑に刻まれていたことがそれを示していると思う。

桃観トンネル(余部側)

三大杜氏 但馬杜氏(たじまとうじ)

酒のメッカ、灘五郷をかかえる兵庫県は、全国的に有名な最高級酒米「山田錦」をはじめとする酒米どころです。また丹波杜氏、但馬杜氏という酒の二大技能集団があります。

丹波杜氏は灘に近いので灘では丹波杜氏がほとんどです。
南部杜氏、新潟の越後杜氏、丹波杜氏と並んで「日本四大杜氏」(人数的には丹波杜氏の代わりに能登杜氏で四大杜氏とも呼ばれる)といわれる但馬杜氏は、南部、越後両杜氏組合に次いで全国で3番目の規模を誇ります。主に伏見などの近畿一円、中国、四国、東海地方で活躍しています。但馬人気質であるねばり強さ、山廃、吟醸等あらゆる製法を器用にこなし、毎年新酒鑑評会において優秀な成績を上げています。但馬杜氏は但馬牛と夢千代日記で知られ、日本一の湯村温泉がある雪深い美方郡が中心で、その半数は温泉町が占めています。

県内の杜氏組合は、丹波、但馬、南但の3団体。丹波ではメーカーに籍を置く「社員杜氏」が増え、40人中12人を占める。一方、但馬は93人全員が季節限定。2004年、城崎郡の組合は但馬杜氏組合の傘下に入り、出石郡の組合は解散した。(神戸新聞)残りは村岡町、美方町、浜坂町の順になると思います。(温泉町以外は正確なデータがないので、検索してわかる範囲を下記の杜氏一覧表にしてみました)

春から秋までは農家に従事して、毎年米の刈り入れが終わる10月に蔵入りし、翌年の3月まで約6~7ヶ月の間蔵元で寝泊まりして行われます。毎年但馬杜氏組合などで相互に研鑽を高め合いながら、良い酒を造ろうとする心意気が日本酒の伝統文化を支えています。しかしながら全国的に高齢化が進み、30年前には300名以上いた杜氏(親父、おやっさんと呼ばれる)の数も200名を切るまでに減ってしまいました。

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池田古墳現地説明会


主催:兵庫県立考古博物館 池田古墳現地説明会に行って来ました。 H21/3/1

寒模様ですが大勢のファンが集まっておられました。 長らくアーチ型の橋が架けられていましたが、橋を撤去し盛土の道路にこのたび橋をつけかえるため、発掘調査が行われました。
築造時期は古墳時代中期前半(5世紀前半)とされており、若水古墳(朝来市山東町)、城ノ山古墳(朝来市和田山町)に続き、茶すり山古墳(朝来市和田山町)に先行する但馬の王墓である。 三段築成で楯形の周濠を従えている。但馬で発見された古墳では珍しく、大量の埴輪や葺石が装飾に使われています。

【概要】

全長約141mと但馬最大、兵庫県内では4番目の規模を誇る前方後円墳。方形部分が北東、後円部が南西を向いて海抜100mのなだらかな斜面に円山川を見下ろすように設けられている。但馬国王の墳墓ではないかと見られる。

兵庫県立考古博物館(播磨町)によると、鳥形埴輪は高さ三十五-四十五センチ、幅三十-三十五センチ。損傷が少ない良好な状態で、ほぼ完全に復元できる見通し。これは極めて珍しいという。 七体のうち一体がひなのいる子持ち鳥形埴輪。親鳥部分が高さ四十五センチ、幅三十センチ。親鳥部分の台座にひさしのような部分があり、近くから出土した四体の幼鳥(幅約十センチ)が置かれていたらしい。

2月20日新聞発表によると、今回の調査では、大きく2つの成果がありました。ひとつは、「渡土堤(わたりどて)」の全容が明らかになったこと。もうひとつは、「水鳥形埴輪(はにわ)」が8体出土し、その置かれていた状態を明らかにすることができたことです。水鳥をかたどった「鳥形埴輪(はにわ)」の今回の発見は、古代人の死生観解明につながると考える専門家もいます。風土記などにはヤマトタケルが白鳥になったとの伝説が記されており、祭事に使われたとみられる埴輪は死者の霊を運ぶ象徴だったとも考えられています。
-産経新聞-

下段と上段の間にテラスと呼ばれる幅約1.8mの平坦部があり、円筒埴輪がずらりと並べられています。
前方部の西側と東側に葺き石が2段に置かれたままの状態で見つかっています。
鳥形埴輪は、墳丘を囲む堀「周濠(しゅうごう)」から七体(さらに計1個)の八体が出土。渡土堤から墳丘の裾にかけてほぼ等間隔に並べられていたが、長い間に周濠に転落し埋没したとみられる。

渡土堤は河原石と砕いた山石がブロックではっきりと別れています。これは各村毎に分担が分けられていたのだろうということです。古墳築造に但馬の人々が駆り出されていたことが伝わります。

城ノ山古墳 (朝来市和田山町)

兵庫県朝来市和田山町東谷

 4世紀末に築造された円墳で、南北径30m、東西径36m、高さ5mの円墳。長さ6.4mという長大な木棺を埋葬しており、人骨のほか、銅鏡6面、石製腕輪、玉類、鉄製品などが出土しています。城ノ山古墳の築造は、南但馬における王墓の成立として重視されています。墳丘は地山を加工・修飾して円形に整え、墳頂部に薄く盛土を行っています。さらに部分的に河原石と角ばった岩石をまじえた葺き石状の遺構が墳丘裾部に見られます。

 昭和46(1971)年、和田山バイパスの建設工事に伴い全面発掘調査が行われました。埋葬部分(主体部)は8.9m×2.9mで地山を彫り込んで作られていました。中には6.43m×0.6mの木棺が安置され、遺骸は頭部を東に向けて埋葬されていました。人骨(頭骨)が残存しており、その頭部東側から銅鏡3面、石釧(いしくしろ)4個、石製合子(ごうす)1個(身のみ)、琴柱形(ことじがた)石製品1個が出土、頸部付近に点々と勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)が80個以上検出され、やや離れて棺東部に刀剣・工具類が13点余り出土しました。和田山バイパスの池田古墳をまたぐためにつくられたアーチ橋に続く古墳を守るためにつくられた短いトンネルが古墳の下を通っています。

 三角縁獣文帯三神三獣鏡は国の重要文化財は畿内の大和政権が配付したものといわれています。これら築造形態および主体部・木棺規模・出土品などからみて4世紀末の古墳と推定され、この地方における首長層の墳墓であると考えられています。  道の駅「但馬のまほろば」 古代あさご館/朝来市埋蔵文化財センターで出土した埋蔵品が展示されています。

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