二方郡から消えた三郷

[wc_skillbar title=”二方郡から消えた三郷” percentage=”100″ color=”#007bbb”] [catlist id=588] 延喜式神名帳に、二方郡は五座(小)で、温泉郷は二方郡(新温泉町)だが、元の浜坂町に二方神社(指杭)、大家神社(二日市)、大歳神社(居組)の三座で、旧温泉町(温泉郷)の式内社は竹田の面沼(めぬま・メヌ)神社・宮脇の須賀神社の二座であり鳥取県境に近い。七美郡式内社春木神社に列しているので、太古、春来は七美郡射添郷であったのだろうが中古に温泉郷となっている。

校補但馬考に、此の郡(二方郡)は、上古に一国なり。公事本紀曰く二方造(ふたかたのみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがのたかあなのみかど)ノ御世、出雲国造ノ同租 遷狛一奴命ノ孫 美尼布命(みちふのみこと)を国造に定め賜うとあり。その後一郡として、但馬に合わせられしは、何時にかありけん。古書に見えず。

倭名類聚抄に載る郷は、久斗、二方、田公、大庭、八太、陽口、刀岐、熊野、温泉(ゆ)、以上九村、村数五十四。

久斗郷 二方郷 田公郷 大庭郷 八太郷 熊野郷 温泉(ゆ)郷の七郷で、八太郷は荘園で八太庄、今は畑と一字に書いたとあるが固定している。八田小学校がある岸田側上流地区だ。宮脇に式内社の須賀神社がある。

熊野郷は不明だと記され、陽口、刀岐の二郷は、倭妙抄に和訓なし。その地も考えがたし。故に論せず。惣じて此の郡中諸郷の土地、その村入り交じりて正しからず。古代の境を失なえるに似たり、とある。

八太郷は今の十一村。井土、千原、鐘尾、千谷、宮脇、内山、越坂、海上、前村、石橋、岸田。

温泉(ゆ・ゆせん)郷は、今の十六村。湯村、熊谷、伊角、檜尾、春木、哥長、柤岡、細田、多子、塩山、中辻、丹土、切畑、飯野、相岡。と記す。

田公郷は中世期、八木氏から分かれた日下部一族田公氏の修理太夫家が地頭長井出羽入道祐収めた領地。今の村数七。栃谷、七釜、古市、新市、用土、今岡、金屋。

久斗郷、二方郷、田公郷、大庭郷は旧浜坂町内と分かる。その次に八太、陽口、刀岐、熊野、温泉と記されているから、八太郷は旧温泉町の西端、温泉(ゆ)郷は東端だから、倭名類聚抄では八太に続いて陽口、刀岐、熊野で温泉で終わるから、故意に順番を間違えたとは考えにくく、他の旧浜坂町内は余地がないから、八太郷と温泉(ゆ)郷の中間でなければおかしいことになる。

湯村のすぐ北の細田までが温泉郷。八太郷の井土は岸田川が北へ流れを変える今の竹田のすぐ北で、井土、千原、鐘尾と順に記され、現在もその地名が残る。井土のすぐ隣は田公郷金屋である。この狭い領域に消えた熊野郷や、しかも陽口、刀岐、熊野の三郷の余地はない。陽口、刀岐、熊野の三郷はどこに消えてしまったのだろう。

他にないかと捜してみた。二方、七美郡の郷は久斗7、二方7、田公、大庭が各7、村数が多いのは、二方郡温泉郷16、春木峠を越えて七美郡西部の郷では、射添郷13、小代郷20だが、倭名類聚抄には、陽口、刀岐、熊野の三郷は二方郡となっているので、山陰道の難所の一つである春来峠を越えた七美郡ではまずないだろう。

春来峠から湯村温泉の式内社


式内社 面沼神社 新温泉町竹田
旧八太郷社
二方郡総社だった古社
面沼は「めぬま神社」だが延喜式神名帳には「面沼メヌ」とふってある。

御祭神 倉稻魂命 美尼布命 天穗日命
配祀 保食命 稚産靈命
合祀 天神地祇 伊弉諾命 伊弉册命 素盞嗚

国道9号と岸田川を浜坂へ行く県道47号線交差点北。車で行くには旧道へ。

玄松子さんによれば、
鎮座地の字は、米持(めじ)といい、
当社の鎮座する山麓の丘は面治山と呼ばれており、米持大明神とも、面治(めじ)大明神とも称していた。
しかしながら、延喜式に「面沼」と誤記された結果明治三年六月に、面沼神社と改称したらしい。

  
雪深い温泉町の拝殿・本殿は老朽化が激しいこともあるのだろう。覆屋で包まれているのが特徴。


八幡神社 新温泉町湯

全但バス湯村営業所の道を挟んだ反対側。井筒屋さんの前といった方が分かりやすいかも。


拝殿

国道9号を鳥取方面へゆく。大きな峠が数カ所あるが、なかでも春来峠は最大の難所のひとつで、昭和50年12月にバイパストンネル(春来トンネル:全長1,696m)ができるまでは、村岡町和田から丸味・春来峠を越えて湯村温泉に通じる山陰と山陰と山陽・京阪神をつなぐ国道9号の峠として、日に4000台の車が越えたと言われる兵庫県を代表する峠の一つだった。子ども時代にバスに乗ってこの峠を越え標高さのあるくねくねとカーブの続く坂道を通った記憶があるが、何十年ぶりに今回は新温泉町歌長(湯谷)から春来の神社を訪ねるために通ってみた。国道だった二車線道路は現在は兵庫県道561号湯谷和田線となっている。

柤岡へつながる道が県道上にほぼ平行に走る。車ではそば屋さん「てっぺん」のあるところから入る。県道入口から「てっぺん」という案内板があちこちにあるので目印になる。


町営春来バス停と春来集落の中心部


五社大明神(春木神社)

春来小学校脇に参道があった。春来小学校は平成22年閉校。
さて、春木神社という名称はなくなり、「五社大明神」と呼ばれていてる。ここではないかと思ったが、年の為に畑仕事から帰りのような通りかかった地元のご老人に聞いたところ、春来の神社はここだけで、子どもの頃から五社大明神と呼んでいたといわれた。
五社とは祭神 天照皇大神、伊弉諾命、伊弉册命、大己貴命、少彦名命のことである。一説に「波比岐命、天穂日命」との説がある。


参道

五社大明神は、春来地区の柤岡へつながる道から石段が続く最高部に鎮座する。


社殿 日中は明るいが境内は木々に囲まれてうす暗い。でどうしても逆光になってしまう。

湯村温泉の中心部を流れ岸田川に合流する春来川は、この春来字湯谷を発する。春来から尾根伝いに柤岡(けびおか)へ、また村岡側の隣の丸味から柤岡へ道(県道265)がつながる。照来(てらぎ)は照来小学校や郵便局などがあり高原地帯で集落も多く、太古は山陰道ではなかったかと思われる。春来神社以外に式内社はないので照来地区の信仰も集めていたのであろう。


春来峠頂上付近 標高:431m

子ども時代に観光バスに乗ってこの峠を越えた記憶はこの辺りだと思う。くねくねと狭いカーブを幾重にも登っていくのが、すごく印象に残っている。


丸味集落の下から村岡方面

和田線は右にカーブしているが、長楽寺・但馬大仏への新しい立派な橋がかかっている方から帰る。ここから先は大仏が完成した時に来たことがある。


長楽寺 但馬大仏

神社の詳細は、「丹国拾遺集」にまとめることにする。

【地名地誌】 幻の地名 気多郡手邊(テナベ・タナベ・テヘン)

気多郡手邊(辺・てなべ・たなべ)

兵庫県豊岡市日高町の府市場・府中新の辺りは、府市場の人に聞くと、昭和30年代までは手辺(てへん)と言っていたそうだ。手辺は現在のどこに当たるのか?

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七美郡(旧村岡、美方町)の式内神社

[catlist categorypage=”yes”] 式内社を訪ねることはかつての村々の歴史を知る貴重な手がかりだ。

黒野神社 (式内社 志都美神社)と伊曽布神社を訪ねた。(神社についてはライブラリーhttps://jinja.kojiyama.net/

どちらも旧郷名神社である。志都美は七美郷、伊曽布は射添郷。万葉仮名であり、志都美、伊曽布の漢字自体に意味はないものである。

美方郡(七美郡、二方郡)は中国山地の東端に当たり山陰道最大の山岳地帯で難所だ。また但馬牛の産地で但馬杜氏のメッカである。現在は国道9号が改修され長いトンネルが貫きスピードアップされたが、八鹿を過ぎると鳥取県までに八木谷峠(但馬トンネル)、春来峠(春来トンネル)、蒲生峠(蒲生トンネル)なそ難所多い。但馬に生まれ暮らしていてもあまり知らないだが鳥取へ一週間に一度は行く用事があるので、むしろいま興味が沸いている。

美方郡は現在でも豊岡市や養父市、朝来市よりも学校、医療、仕事や買い物は鳥取市内が多い。

桜井勉著「校補但馬考」によれば、

七美郡

兎束 七美 小代 射添 駅家 以上五郷
延喜式神名帳 七美郡十座、弁小
多他神社 小代神社二座 志都美神社二座
伊曽布神社 等余神社 高坂神社 葛野神社 春木神社
今延喜式を考えるに、八座のみあり。
と書いてあるのであとの二社は明治にはすでに不明。

七美郡も現在の小学校区が旧村ごとに名前を残している。七美郡と二方郡が合併し美方郡に、駅家郷は、養父市関宮町の中心部と中瀬地区の旧郷名。兎束は福岡地区。七美郷は村岡地区。小代は香美町合併で旧美方町が小代区として復活した。

延喜式神名帳 但馬の神社

[catlist categorypage=”yes”] 神社の数は、全国およそ8万8,000社以上に上ると言われ、仏教系寺院よりも数が多く、日本で最も多い文化建造物のひとつとなります。その内、有人神社(神職者が常駐している社)は、2万社程度とも言われておりますが、実態は定かではありません。

文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」に掲載されている各都道府県別の神社の数になり、その数、8万8,585社となりますが、摂社末社を含めれば、20~30万社に上るとも言われ、神社人DBでも、ほぼ登録を終えた東京都(2,309社)や沖縄県(59社)が、それ以上の数に達していることから、約1.3~1.5倍程度のボリュームが実際には見込まれるのではないかと考えています。

ただ、非常に興味深いのが、神社の数の少ない都道府県は、

・和歌山県:熊野神社
・香川県:金刀比羅宮
・三重県:伊勢神宮
・宮崎県:高千穂
・島根県:出雲大社

といった有名な神社が存在する地域に集中しているというのがあります。これは、神社の特性として、勧請システム(他地域に引っ張ってくる)により、信仰エリアの拡大を図っていることから、オリジナルの神社が強いエリアというのは、逆に、他の信仰が入りにくいのではと考えることもできます。それは、神社が多い地域にも同様の事が伺え、新潟県、兵庫県、愛知県、福岡県といった米所として有名な産業地域若しくは、交易の中心地といった文化よりも産業発展が著しい地域の方がその数が多いという傾向を強めております。それは、こうした土地が、人と情報の流動性が激しいことの表れとみることも可能ではないかと考えられるのです。

ただ、これもあくまで指標のひとつに過ぎないので、先ずは、皆さんのご協力の元、神社人でも、こうした神社情報の体系化を進め、究極の日本の文化・歴史マップの完成に臨みたいと思っております。

-「神社人」-

兵庫県は全国でも神社が多い地域で、新潟県に次いで第二位。

神社数(文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」より)

三千社以上は

新潟県 4,933
兵庫県 4,243
愛知県 3,885
福岡県 3,806
岐阜県 3,440
千葉県 3,391
福島県 3,170
静岡県 3,070

の順です。

かつての「延喜式神名帳」の旧国別で、但馬国の式内社数の多さに驚く。

全国には大492座、小2604座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。

 新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

 但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

 大小合わせて131座というのは、例えば

 大和國:286座 大128 小158
 伊勢國:253座 大14 小235
 出雲国:187座 大2 小185
 近江国:155座 大13 小142
※但馬国:131座 大18 小113
 越前國:126座 大8 小118

近隣で比べると、

 丹波国:71座 大5 小66
 丹後國:65座 大7 小58
 若狭国:42座 大3 小14
 因幡國:50座 大1 小49
 播磨国:50座 大7 小43

となっているので遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。

桜井勉 校補但馬考

朝来(あさご)郡

此地ニ朝來山トイウフ名所アリ、取リテ郡ノ名トセリ、俗ニハ、此郡ニイマス栗鹿ノ神、國中ノ一宮ユヘ、諸ノ神タチ、朝コトニ来タリマミエ玉フ、故に、朝來郡ト名ツケシト云ハ、憶説ナラン、スヘテ、郡郷ノ名ハ、其地名ヲ取テ名ツクルヤ、古(故)実ナリ、

倭名類聚抄 郷八
山口 桑市 伊田 賀都(かつ) 東河(とが) 朝来 栗賀(あわが) 磯部
村数七十九
延喜式神名帳曰九座 大一座、小八座
栗賀神社(名神大) 朝来石部(あさごのいそべ) 刀我石部(とがのいそべ) 兵主神社 赤渕 伊由 倭文(しとり) 足鹿 佐嚢(さな)

養父(やぶ)郡

倭名類聚抄 郷十
糸井 石禾(いさわ) 養父 軽部 大屋 三方 遠屋 養耆(やぎ) 浅間 遠佐(おさ)
延喜式神名帳曰三十座 大三座、小二十七座
夜夫坐(やぶにいます)五座(名神大二座、小三座) 宇留波 水谷(名神大) 浅間 屋岡 伊久刀 楯縫 兵主神社 男坂 伊伎都比古阿流知命神社二座 井上(いのへ)二座 手谷 坂盖(さかき) 保奈麻 葛(たづ) 大輿比 桐原 盈岡(みつおか) 更杵村大兵主神社 御井 名草 杜内 和奈美 夜伎村坐山(やきむらにすの)

出石(いずし)郡

倭名類聚抄 郷七
小坂 安美(あみ) 出石 室野 埴野 高橋 資母
村数七十八

延喜式神名帳曰二十三座 大九座、小十四座
伊豆志座神社八座(並名神大) 御出石神社(名神大) 桐野神社 諸杉神社 須流神社 佐々伎神社 日出神社 須義神社 小野神社 手谷神社 中島神社 大生部兵主神社 阿牟加神社 比遅神社 石部神社 小坂神社

気多(けた)郡

倭名類聚抄 郷八
太多 三方 楽前(ささのくま) 高田 日置 高生(たかふ) 狭沼(さの) 賀陽(かや)
村数七十四(佐野含む)

延喜式神名帳曰二十一座 大四座、小十七座
多麻良伎神社 気多神社 葦田神社 三野神社 売布神社 鷹貫神社 久斗寸兵主神社 日置神社 楯縫神社 井田神社 思徃(おもひやり)神社 御井神社 高負神社 佐久神社 神門(かんと)神社 伊智神社 須谷(藤井)神社 山神社(名神大) 戸(と)神社(名神大) 雷(いかづち)神社(名神大) [木蜀]椒(ほそき)神社(名神大)

城崎郡

倭名類聚抄 郷六
新田10 城崎14(佐野含む) 三江 奈佐 田結 餘部

延喜式神名帳曰二十一座、大一座、小二十座
物部神社 久麻神社 穴目杵(あなめき)神社 女代神社 輿佐伎神社 布久比神社 耳井神社 桃島神社 兵主神社 深坂(ふかさか)神社 兵主神社二座 気比神社 久流比神社 重浪(しぎなみ)神社 縣神社 酒垂神社 西刀(にしと)神社 海神社(名神大)

美含(みぐみ)郡

風土記(古老伝)
郷十三、神社五所
倭名類聚抄 郷六 

佐須 竹野(たかの) 香住 美含(みぐみ) 長井 餘部
村数 佐須二十 竹野二十九 香住八 長井十一 餘部二

延喜式神名帳曰十二座 井小
佐受神社 鷹野神社 伊伎佐神社三座
法庭(のりば)神社 美伊神社 椋橋(たらはし)神社
阿故谷神社 桑原神社 色来(いろく)神社 丹生(にふ)神社

二方(ふたがた)郡

倭名類聚抄 郷九 村数五十四
久斗7 二方5 田公(たきみ)7 大庭7 八太(はだ)11 陽口? 刀岐? 熊野? 温泉(ゆ)16

延喜式神名帳曰五座井小
二方神社 大家神社 大歳神社 面沼(めぬ)神社 須加(すか)神社

七美(しつみ)郡

倭名類聚抄 郷五 村数七十三
兎束(うつか)14 七美14 小代20 射添(いそふ)13 駅家12
延喜式神名帳曰十座 井小
多他神社 小代神社二座 志都美神社二座 伊曾布神社 等余(とよ)神社 高坂神社 黒野神社 春木神社

気多郷の行政区画の変遷

室埴村を調べに国府国分寺館に行き、気多郡地名についても資料をコピー(一部10円)してもらったのでかつてのブログを書き直してみた。

気多郡地図(日高町史より)

気多郡とは、但馬国(兵庫県北部(日本海側))にかつて存在した郡です。
古文漢文得意ではないのでおかしいところはご指摘下さい。

『諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学文学部国語学国文学研究室/編

但馬國氣多郡

郷名万葉仮名読み記述郷社・村社
氣多(ケタ)山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府(コフノ)市場、堀、野野荘、池(ノ)上、芝 (上郷・下郷)原無、今補、按渉郡名及太多ノ郷、致脱簡(1)也、古者國府、此に在り。後徒治高田郷云、延暦三年紀、但馬國氣多團が此処に在り。神明式、氣多神社。天平十九年紀、氣多(ノ)君十千代、弘安大田文、氣多ノ上郷(ノ)田百十一町、氣多ノ下郷(ノ)田百七十三町、但馬考 今(ノ)府中組領、山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府市場、堀、野野荘、池ノ上、芝 (ノ)九邑、是此域也祀典所 伝、伊智神社(國府市場村)、御井神社(土居村)、三野神社(野野荘村)
太多タダ十戸・此垣(コロガキ)・漆垣・山(ノ)宮・石井・太多・栃本・東河内・水口・稲葉・萬却・山田・萬場・名色(ナシキ)・栗栖野・荘境・久田谷・田(ノ)口・羽尻 (ノ)十九邑訓が見当たらないので多陀と云う読みを当てる。出雲に多太郷在り、弘安大田文 伊勢大神宮領太多荘田八十町、地頭楽ノ前 藤内兵衛が神領目録を作る。…但馬考に郡西に太多荘在り。此垣村ノ気多郡比曾寺ノ田十一町。祀典所 山(ノ)神社(山ノ宮村)、戸(ノ)神社(十戸村)< /br>此垣
三方美加太ミカタ但馬考に今(ノ)、芝・安良川・猪(ノ)子垣・廣井・殿・栗山・觀音寺・知見・三所 (ノ)十邑(一か所足らない?数え間違いか?)横川ノ中堂領三方荘 五十九町、熊野山觀音寺領ノ田九町、寛仁紀に建寺された觀音寺が有り、寺の後ろに鶴峰城趾が有り。弘安三年始め、安良川(荒川?)村山名(ノ)老臣垣屋氏菩提寺隆國寺有り。但馬國の巨刹と為った。祀典所 謂 神門(カント)神社、山王社と稱(たと)えられるのは此である。
楽前佐佐乃久萬(ササノクマ)伊府・篠垣・佐田・野村、伊原萬葉集には佐左那美と按じる、神楽馨波ノ字ヲ用イル、…篠ハ小竹ナリ、…本居(宣長?)氏曰く、天祖が天窟ニ隠れられた際に天鈿女(あまのうずめ)(2)の命が香山の小竹葉を採って舞った故事に因むとする(天岩戸の舞)。その音が佐佐と聞こえたので小竹の故名を佐佐(笹)と為す。楽前は即ち篠ノ隅(クマ)の段を借りる。

…弘安大田文 國分寺領氣多郡楽前ノ南荘田四十八町、楽前ノ北荘田二十四町 地頭楽前入道(垣屋隆国だろう)、一つ、但馬考 楽前ノ荘と云う、今は二つに分ける。曰く、北荘は伊府・篠垣・佐田 三邑、曰く、東方の野村、伊原(ノ)二邑…

備後考には祀典所 佐久神社(佐田村)
高田多加多タカタ但馬考には今の高田郷は、夏栗・久斗・禰布・石立ち・國分寺・水上(みのかみ)(ノ)六邑。安芸、石見、播磨、美作にも高田郷在り。…弘安大田文 高田郷田六十七町、地頭高田忠貞、國分寺領三十四町。祀典所 久刀村ノ兵主神社
日置比於岐ヒオキ但馬考は今の日置郷は、日置・多田ノ谷・伊福(ゆう)・上(ノ)郷・中(ノ)郷(ノ)五邑大和・伊勢・丹波・丹後・因幡・出雲にも日置郷有り。姓氏録に日置部氏の出自は天櫛玉命男、天櫛耳命、今(ノ)日置神社(日置村)。弘安大田文 田百四十六町、地頭越生長経、伊福別宮領田五町、祀典所 謂われには氣多神社(上郷村)、総社明神と称える。葦田神社(中郷村)、井田神社(伊福村)、楯縫神社(多田(ノ)谷村)
高生多加布タコフ・たこう但馬考は地下・岩井・宵田・江原(ノ)四邑。武蔵にも高生郷有り。多介布とも訓じる。姓氏録に武生宿禰、祖王仁の孫 河浪古の首。天平神護元年紀、河内国の人馬益人等が登って武生の連の姓を賜る。…但馬考は今の宵田村に高生の代の地が有り。是を持って(高生の)の名とする。高負神社
狭沼左乃サノ但馬考には今の佐野の荘の佐野・上石(アゲシ)・竹貫の三邑。八代谷の藤井・奈佐路・谷・八代・猪ノ爪・奥八代・河江・椒(ハジカミ)・三原・段(ノ)十邑。丹後にも佐濃ノ郷有り。弘安大田文 田三十四町、公文八木高貫に歓喜光院領八代荘田五十三町祀典所 鷹貫神社(竹貫村)、天日槍五世ノ孫 葛城ノ高額比売命、即ち神宮皇后の妣(ヒ)也。雷神社(佐野村)は曰く佐野天神、[木蜀]椒ノ神社(椒村)、は八幡宮とも称える。…多麻良伎(ノ)神社(猪爪村)、須谷(ノ)神社(藤井村)、また段村に氣多軍団の遺趾有り、八代(ノ)薬師堂、大岡寺の号により白山権現を祀る。大岡神に従五位下授かる。
賀陽加也カヤ但馬考は今(ノ)引野・土淵・加陽・八社宮(ハサミ)・伏村・清冷寺(ノ)六邑。備中に賀夜郡、伯耆に蚊屋郷、大田文 上賀陽ノ荘田十七町六段、南方、地頭、小林三郎、北方(ノ)地頭、小林眞重、下賀陽(ノ)荘田五十九町、上村(ノ)地頭河越修理亮、下村(ノ)地頭野元孫三郎

(2)鈿=音:テン、デン、婦人のかんざし。青貝細工。「花鈿」は、唐人の婦人がひたいに貼った装身具

気多郡は、奈良時代に律令制が行われた後の時代に記された「和名抄」によると、九つの郷で構成されていました。西から太多(タダ)、三方(美加太ミカタ)、楽前(佐佐乃久萬ササノクマ)、高田(多加多タカダ)、日置(比於岐ヒオキ)、高生(多加布タコフ・たこう)、狭沼(左乃サノ)、賀陽(カヤ)、(気多郷)ですが、これはずっと後になって律令制度が整備された郷なので、縄文時代は違ったかも知れませんが、これが邑(ムラ:自然村:今の概ね区単位)を集合させた小国の単位であると思います。ちなみに山間部が多い太多(タダ・太田)と狭沼(サノ)、三方(ミカタ)の3郷は広大で、気多郡の平野部を除いた比較的山間部に位置し、約3/4を占めます。

弥生時代までに、こうした国境(邑境)は、地理的条件で、ある程度自然に分けられたのでしょうが、これらが後に郡・郷として気多氏の支配下にある郷名であり首長名になったのでしょう。最も大きな太多郷は兵庫県でも鉢伏と並んで最も古くから人が住み着いた遺構が発見された土地であり、稲葉(いなんば)から久田谷(くただに)までの円山川の支流稲葉川水系であり、気多氏にとって重要な中心部でした。狭沼郷も円山川の支流八代川水系と現在の竹野町椒、三原から八代川下流の円山川に注ぐ地点です。

■気多郡の沿革

平安時代中期に作られた日本語辞書である「倭名類聚抄」などを江戸期のものまで集成した『諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学文学部国語学国文学研究室/編に、 「気多郡」…因幡にも気多郡有り、遠江に気多郷有り、本郡には大己貴神(オオナムヂ)を祀る気多神社…、高田、日置、高生、気多、狭沼の五郷、多太、三方、楽前、八代、賀陽、伊福の六荘、今の八十村を領し、出石郡出石町に在し気多郡を治める。…

と記し、 「気多(郷)」が四角い枠で囲まれて気多郡のトップに記されています。

「気多」…「原無、今補、按渉郡名及太多ノ郷、致脱簡(1)也、古者國府在此、後徒治高田郷云、弘安大田文には、気多ノ上郷、気多ノ下郷、但馬考、今府中組、領山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府市場、堀、野野荘、池ノ上、ノ九邑、是此域也、…」としつつ、気多の後に、太多(タダ)、三方(美加太ミカタ)、楽前(佐佐乃久萬ササノクマ)、高田(多加多タカダ)、日置(比於岐ヒオキ)、高生(多加布タコフ・たこう)、狭沼(左乃サノ)、賀陽(カヤ)を記しています。

「気多(郷)」…「郷名は現存せず。弘安大田文には、気多ノ上郷、気多ノ下郷、但馬考には今の府中組で、山本、松ノ岡(松岡)、土居、手邊(辺)、國府市場(府市場)、堀、野野荘(野々庄)、池ノ上(池上)、芝の九村がその域である。」と記されている。

手邊(辺)は現存しないが、和名抄は記載順が所在地に忠実に記載されているので土居と府市場の間に記されていることからその中間にあったと考えられる。それ以外の村はそのまま区名として現存している。

※脱簡(1)書物の中の一部が抜けていること。章・編の脱落や落丁のあること。

しかし、大田文に伝える日置郷は、日置、多田ノ谷、伊福、上ノ郷、中ノ郷の五邑、とされていてまた、弘安大田文には気多上郷、下郷とあり中郷がなく、日置郷には上ノ郷、中ノ郷があり下郷が抜けてしまっている。上ノ郷、中ノ郷は現存するから、下郷はのちに中郷と呼ばれるようになったのではないか。この時代に円山川をはさんだ対岸の気多上ノ郷、中ノ郷は日置郷に加わったことがわかるから気多郷名は消滅したのだろうか。あるいは気多の上ノ郷とは気多郷でないと、気多郷には上下の二郷しかなく、今の府中組が気多郷なら上下二郷では分けられないから、今の府中組は気多郷ではないはずだ。しかし、その後、他の郷にも上ノ郷、中ノ郷を除いたその他の(今の)府中組九村が記載されていない。

また出石郡の項では、同様に神戸郷が四角い枠で囲まれてトップに記され、「現存せず…但馬考は宮内、坪井二邑(村)と伝える。」としている。宮内、坪井二村は出石郷に編入され神戸郷は現存しないことが分かる。ところが、気多郷はすっかり消えてしまっているのだ。これは気多郡だから気多郡気多郷ではダブルので省略しているのだとする考えもある。但馬考は(気多郷は)今の府中組だとしてある。

「気多(郷)」に続いて、太多郷、三方郷、楽前郷、高田郷、高生郷、日置郷、賀陽郷が記されている。

明治以降の気多郡(旧日高町)の変遷

1889年(明治22年)4月1日町村制施行(7村)
気多郡中筋村(賀陽郷)・日高村(日置の日と高田・或いは高生の高から日高)・国府村・八代村・三方村・西気村・狭沼郷三椒村
1894年(明治27年)12月15日清滝村が西気村より分立
1896年(明治29年)4月1日気多郡が美含郡とともに城崎郡へ編入され消滅
1925年(大正14年)11月1日町制を施行し城崎郡日高町となる
1950年(昭和25年)4月1日城崎郡豊岡町、五荘村、新田村、気多郡中筋村が新設合併し、豊岡市発足
1955年(昭和30年)2月1日養父郡宿南村の一部(浅倉、赤崎)を日高町へ編入
1955年(昭和30年)3月3日竹野村、中竹野村、奥竹野村、三椒村が合併し、新たに竹野村となる
1955年(昭和30年)3月25日日高町、国府村、八代村、三方村、西気村、清滝村が合併し、新しい日高町が発足
1958年(昭和33年)1月1日城崎郡日高町上佐野地区を豊岡市へ編入
1976年(昭和51年)9月1日城崎郡日高町西芝字大向野の一部と豊岡市の間で境界変更
2005年(平成17年)4月1日豊岡市、出石町、但東町、城崎町、竹野町と合併して新たな豊岡市が発足し、日高町消滅

但馬の国司(守)

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都が794年に奈良から京都へ遷され、時代は平安時代になります。平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していきました。しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。

国衙(こくが)は、もとは奈良時代に日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画を指す用語でしたが、平安時代頃までに、国司の役所(建物)そのもの(国庁という)を国衙と呼んだり、国司の行政・司法機構を国衙と呼ぶことが一般的となりましました。また、国衙に勤務する官人・役人を「国衙」と呼んだ例も見られます。国衙を中心として営まれた都市域を国府(こくふ)といいましました。古代では「こう」といい、地名として全国に残っているものもあります。

但馬国の国司(但馬守)の記録として残るものは、以下の通りです。

・源経基(みなもとの つねもと、在任:930頃)
平安時代中期の皇族・武将。清和源氏経基流の祖。位階は贈正一位。神号は六孫王大権現。弟に経生、子に満仲・満政・満季・満実・満快・満生・満重・満頼ら。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めましました。

・源頼光(1010年頃 天暦2年(948年)~治安元年7月19日(1021年8月29日)がいます。平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘。清和源氏の三代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれます。但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任しましました。左馬権頭となって正四位下になります。頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にあります。頼光寺

一方で、後世に成立した『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。日高町上郷に頼光寺があります。但馬にいる時の居館だったといわれれています。

・平正盛 在任:1110年頃、正盛が家督を継いだ頃は平家も勢力が小さく、河内源氏に臣従し源義家に仕えていましました。従四位上、検非違使、因幡権守、伊予権守、備前守、右馬権頭、讃岐守、但馬守、丹後守を歴任。平経正は、平安時代末期の武将、歌人。平経盛の長男で、弟に経俊、敦盛があります。平清盛の甥にあたる。官位は正四位下に昇叙し、但馬守、皇太后宮亮、左馬権頭を歴任しましました。

一門の中の俊才として知られ、歌人、また琵琶の名手として名を挙げた。藤原俊成や仁和寺五世門跡覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けましました。
・平忠盛 在任:1130年頃 平安時代末期の武将。伊勢平氏庶流。平清盛の父。大治2年(1127年)従四位下に叙され、備前守となり左馬権頭も兼ねた。さらに、牛や馬の管理を行う院の御厩司となりましました。内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇でしました。美作守-、尾張守-久安2年(1146年)播磨守。諸国の受領を歴任したことに加えて、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄え、平氏政権の礎を築いましました。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』があります。

・平重衡 1182年(権守) 平安時代末期の武将。平清盛の五男。母は平時子。位階は従三位次いで正三位に昇り三位中将と称されましました。南都焼討を行って東大寺大仏を焼亡させましました。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送されましました。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首されましました。

応保2年(1162年)6歳で従五位下、長寛元年(1163年)7歳:尾張守(頼盛の後任)、永万2年のち改元して仁安元年(1166年)(10歳):従五位上(中宮・藤原育子御給)、12月30日:左馬頭(宗盛の後任)、仁安3年(1168年)(12歳):正五位下(女御・平滋子御給)、承安元年(1171年)(15歳):従四位上(建春門院御給)、承安2年(1172年)(16歳):中宮亮(中宮・平徳子)、2月17日:正四位下、治承2年(1178年)(22歳):春宮亮(東宮・言仁親王)。左馬頭如元。中宮亮を辞任、治承3年(1179年)(23歳):左近衛権中将、12月14日:左中将を辞任。春宮亮如元、治承4年(1180年)(24歳):蔵人頭、2月21日:新帝(安徳天皇)蔵人頭。春宮亮を辞任、治承5年のち改元して養和元年(1181年)(25歳):左中将に還任。従三位、養和2年のち改元して寿永元年(1182年)(26歳):但馬権守兼任、寿永2年(1183年)(27歳):正三位(建礼門院御給)、8月6日:解官

寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦いで維盛の平氏軍が源義仲に大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされましました。重衡も妻の輔子とともに都落ちしましました。

重衡は勢力の回復を図る中心武将として活躍。同年10月の備中国・水島の合戦で足利義清・海野幸広を、同年11月の室山の戦いで再び行家をそれぞれ撃破して義仲に打撃を与えた。翌寿永3年(1184年)正月、源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した範頼と義経によって滅ぼされましました。この間に平氏は摂津国・福原まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していましました。

しかし、同年2月の一ノ谷の戦いで平氏は範頼・義経に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて梶原景季に捕らえられてしまう。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女たちは入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっています。木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首されましました。享年29。

西日本屈指の長さ 蘇武トンネルと但馬のトンネルの長さ比べ


蘇武トンネルを通ると、もういいだろうと思う長さをはるかに越えて長く感じる。トンネル好きならたまらないwww
一直線で途中照明が暗い部分がありちと注意すべし。最近気がついたが村岡出入り口はかすかにカーブして一直線ではないような気がする錯覚だろうか。
1km以上の但馬のトンネル

名称路線名延長区間竣工年
1蘇武トンネル国道482号3,693豊岡市日高町稲葉 – 香美町村岡区村岡2003
2遠阪トンネル(有料)国道483号(近畿豊岡自動車道)2,585丹波市遠阪-朝来市柴1976
3香住トンネル国道178号(鳥取豊岡宮津自動車道:香住道路)2,041美方郡香美町香住区丹生地-一日市2005
4七坂トンネル国道178号1,821美方郡新温泉町(浜坂町)居組-鳥取県岩美郡岩美町陸上2008
5蒲生トンネル国道9号1,745美方郡新温泉町千谷-鳥取県岩美町蒲生1978
6春来トンネル国道9号1,696美方郡香美町村岡区柤岡-新温泉町歌長1975
7但馬トンネル国道9号1,256養父市(関宮町)八木谷-美方郡香美町村岡区八井谷1965
8生野トンネル国道312号(播但連絡道路)1,234朝来市(生野町)真弓-口銀谷1991
南但馬トンネル国道9号1,224養父市(養父町)上筒-養父市八鹿町朝倉1992
9朝来第二トンネル国道312号(播但連絡道路)1,132朝来市(朝来町)元津-岩津1999
10土生トンネル国道178号1,087豊岡市竹野町河内-美方郡香美町香住区土生1993

国道482号 酷道小代行き止まりを辿る

このブログタイトルである祢布(にょう)交差点は、当店が位置する場所に近く、国道312号と482号の交差するクロスロード。その東西に通るのが国道482号です。

実は但馬に生まれ旧美方町に行くのはよく憶えてないのですが初めてではないだろうか。
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国道9号鳥取方面 村岡区和田交差点

県道4号分岐交差点

(帰りに撮ったので日が暮れかけている)

国道9号小代口交差点(482号分岐点)

香美町小代地区(旧美方町)へ
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小代区石寺

 

この先通行止めの標識現る

中心部を抜ければいよいよ国道から酷道へすすむ

小代区秋岡

さらに道が急に細くなった

さらにこの先通行止めの標識

長く進むと工事休工中との看板

香美町の大川 矢田川源流部の渓谷を酷道が併走する

若桜方面→

90度近い急斜面と渓谷が続く。心細くなりそうなほどの酷道を3kmほどでようやく行き止まり

小代渓谷へここから約4kmで鳥取県境を越えて氷ノ山・若桜町春米

台風23号まではまだだいぶ先の小代渓谷まで行けたようだが、工事も休工中のまま。

いつになったら鳥取若桜まで通行できるだろう。

かつて大正時代に藤本日高村長が夢見た但馬鉄道計画(丹後宮津(加悦鉄道)から鳥取(若桜鉄道経由)までつなげた)を、国道482号昇格につなげた今年他界された故清水豊前日高町長・豊岡市長のことを偲びつつ引き返した。

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