古代但馬の大転換期は三度あった

出雲・丹波からやってきた神々

すでに何度も書いているが、拙者は『国司文書 但馬故事記』は偽書だとする立場をとっていない。そのすべてが正しいかどうかは、但馬故事記編集者たちが但馬国府の役人であり、前書きに「おかしきことはたとえ記紀でさえも取り入れない」と明記している。『古事記』『日本書紀』でさえも腑に落ちない箇所はあるし、概ね時代の出来事や神社のいわれ等がこれほど詳細に記された史書は他に例がないからだ。「国司文書」については重複するのでここでは割愛し、詳細は「はじめに『但馬国司文書 但馬故事記』」を御覧ください。

『国司文書 但馬故事記』は、但馬の旧八郡を各郡ごとに気多郡から二方郡まで全八巻で構成されている。その中で「第五巻 出石郡故事記」だけは他の郡ではまったく記されていない天日槍(以下、アメノヒボコ)の出自や代々の多遅麻国造・出石県主となったその子孫らと、屯倉と中島神社、出石軍団に関する三宅氏についてなど、ヒボコ及びその子孫についての詳細な記述がかなりの部分を占めているのが特徴だ。

たとえば「第一巻・気多郡故事記」では、

但馬のクニ(集落国家)誕生は、国作大己貴命くにつくりおおなむちのみこと(大国主)の勅を受けて天照国照彦天火明命あまてるくにてるあめのほあかりのみことが西方し但馬にやって来て、両槻天物部命ナミツキノアマツモノノベノミコトの子、佐久津彦命さくつひこのみことが(気多の)佐々原を開くことからはじまる。

「第二巻・朝来郡故事記」でも、同じく国作大己貴命(大国主)の勅を受けて天照国照彦天火明命が丹波を開いてのち、アメノホアカリは養父郡に入り、比地県(朝来郡の古名)主を任命することから朝来郡がはじまる。

「第四巻・城崎郡故事記」と「第三巻・養父郡故事記」では、天照国照彦天火明命は、天照大神あまてらすおおみかみ

の勅を受けて田庭たにはの真名井原に降り、丹波を開いてのち西方して但馬に入り、豊岡原に降り、御田を開き、真名井を掘り真名井を名づけて御田井おだい(のちの小田井)という。そののち佐々前原ささのくまはら(佐々原と同じ)に至り、佐久津彦命に御田を開かせる。後世その地を真田稲飯原さなだいないはらという(今は佐田伊原という)。

天火明命はまた、天熊人命を夜父に遣わし、養蚕をおこなう。故にこの地を名づけて谿間屋岡原という。天火明命は、佐久津彦命の子、佐伎津彦命に浅間原を開かせる。

時に国作大己貴命・少彦名命・蒼稲魂命は、高志国(越国)より帰り、御出石県に入る。その地を開く。国作大己貴命は「蒼稲魂命と天熊人命と共に協力して国作りの御業を補佐せよ」と教え給う。二神は、天火明命に勧めて、比地の原(のち朝来)を開かせ、垂樋天物部命を比地に就かし真名井を掘り御田を開く。

天火明命は、
御子の稲年饒穂命を小田井県主(のち城崎郡)となし、
その子長饒穂命を美伊県主(のち美含郡)となし、
佐久津彦命を佐々前県主(のち気多郡)となし、
佐久津彦命の子、佐伎津彦命を屋岡県主(のち養父郡)となし、
伊佐布魂命の子、伊佐御魂命を比地県主(のち朝来郡)となす。

「第一巻・気多郡故事記」では、天照国照彦天火明命は国作大己貴命(大国主)の勅を受けて但馬に入るとあるのに対し、城崎郡故事記では、田庭の真名井原に降り、丹波を開いたのは、天照大神の勅を受けてであるが、まず小田井を開いてから佐々前原を開く。但馬にやって来たのが、同じく天照大神の勅を受けてなのか、自らの意思でそうしたかが書かれていないので分からない。

1.但馬国誕生 出石の特異性と最初の大転換期

「第五巻・出石郡故事記」は、

「国作大己貴命は、出雲国より伯耆・稲葉(因幡)・二県国を開き、多遅麻に入り、伊曾布・黄沼前・気多・津(佐津)・籔(養父)・水石(出石)の県を開く。

大己貴命と稲葉の八上姫との子である御出石櫛甕玉命みずしくしかめたまのみことが天火明命の娘、天香山刀売命を娶り、天国知彦命を生み、人皇一代神武天皇は、天国知彦命が御出石県主となす。」

二方郡を除く他の郡が、国作大己貴命は丹波から但馬へやってくるのに、出石郡だけはこの記載がなく、

さて、突如、出石に天日槍が住み着いて初代の多遅麻国造に就く。『日本書紀』では「垂仁3年3月、新羅王子の天日槍が渡来した」とあるが、『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記には人皇6代孝安天皇61年と記している。

2.但馬のクニと水稲耕作の黎明期

『国司文書 但馬故事記』の記述からみると、天照国照彦天火明命は国作大己貴命(大国主)の勅を受けて但馬に入ったのは、人皇一代神武天皇誕生直前である。神武天皇が実在したのか、またいつ頃のことなのかは諸説あって分からない。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす」』 長浜浩明氏は、神武天皇の在位は皇紀ではBC660~BC585の76年間となっているが、これは1年を2年とする春秋年が使われているためで、皇紀を実年に換算すると、BC70~BC33からとしている。

つまり、神武天皇即位のBC70年以前であれば、これは弥生時代中期にあたる。水稲耕作は、紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がったとされる。とすれば神武天皇と日本国成立はこの頃だろう。縄文時代の青森三内丸山で稲作の痕跡があることなどから、弥生以前から日本人はお米を食べていたことは事実だ。それを見れば稲作は中国や朝鮮半島から伝播したのではなく、日本列島にイネはすでに存在し、日本人はお米も食していたことになるのだ。むしろ半島南部を任那や倭国として稲作を伝えたのは日本である。

北部九州へ伝わった水稲耕作技術は約400年経って丹波・但馬へ伝播したことになる。ここで現在の豊岡市日高町である気多郡の最初の田が国府平野など広大な田園地帯があるのに、やや緯度の高い佐々前(今の佐田・道場)なのかだ。おそらくは円山川の豊岡以南から支流の出石川流域はまだ湖沼地帯で、度々氾濫し、人が居住したり耕作地として不適だったと想像できるのである。豊岡市日高町と出石町に水上という地名が今も区として存在しているが、円山川などの水位が今よりも数メートル高かったとも推測する。

条里制によって国府平野から国分寺辺りの円山川流域に水稲耕作が本格的に始まったのは、律令が整備された飛鳥時代後期から奈良時代中期だろう。

以上の通り、アメノヒボコが出石にやってきて、初代多遅麻国造たぢまのくにのみやつことなる前とその後では、出石郡の治世に最初の大変化が起きたことが分かるのと同時に、他の七郡では、ヒボコについては一行たりとも記述がないのだ。

これは、ヒボコ及びその子孫の影響力が出石郡内に限られ、他の郡でははじまりから故事記の記述が終わる人皇49代光仁天皇朝まで国作大己貴命から脈々とその子孫が治め、のち人皇12代景行天皇32年、多遅麻の気多に下った物部大売布命の子や子孫が、多遅麻国造・県主(のち郡司)となっている。

2.三県の大県主 日子坐王(彦坐王)

『国司文書 但馬故事記』第二巻・朝来郡故事記によると、

第十代崇神天皇十年秋九月、丹波国と若狭の国境青葉山の賊、陸耳の御笠らが群盗を集め民物を略奪した。天皇は、四道将軍のひとりで、彦坐王(第9代開化天皇の第三皇子で、第12代景行天皇の曾祖父である)と、子の丹波道主命とともに丹波に派遣させ、これを討たせる。陸耳は南に向かい蟻道川(由良川の古名と思われる)に至り土蜘蛛匹女を殺す。陸耳は与佐の大山(大江山)にいたが、彦坐王等の追跡に遭い竹野に逃げた。陸耳は大敗して多遅麻黄沼前海に走る。この時、狂の土蜘蛛が陸耳に加わり、再び勢いを増す。ついに御碕の海で賊を滅ぼした。

天皇はその功を賞し、彦坐王に、丹波・多遅麻・二方の三国を賜う。彦坐王は諸将を率いて多遅麻粟鹿県あわがのあがたに下り、刀我禾鹿とがのあわが宮(*1)に居した。姓を日下部足尼くさかべのすくね(宿祢)と賜い、諸国に日下部を定める。

これによって彦坐王は、国造より上の大国主となった。彦坐王が亡くなると船穂足尼命が多遅麻国造となる。大夜父宮に遷る(出石のヒボコの子孫が世襲してきた多遅麻国造が養父郡に遷る)。

陸耳は玖賀耳とも書き、陸(くが)というのは今の北陸地方の名前である。したがって陸耳御笠は陸国くがのくにの王である。この陸(玖賀)国こそ『魏志倭人伝』が伝える、邪馬台国と激しく争っていた狗奴国くなこくに他ならないとする説がある。

以上は、崇神天皇の初期に、四道将軍として、北陸へ大彦命、東海へ武渟川別、西海へ吉備津彦、丹波へ彦坐王(丹波道主命)の4将軍を派遣諸国を平定し、畿内にしか力の及ばなかった大和朝廷が全国規模に拡大した。崇神天皇はまた、戸口を調査し、課役を科し、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に遷し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。

*1 刀我禾鹿宮 禾は本来イネと読むが、禾鹿を粟鹿と同一に記す条が多いことにより、ここではアワと読む。刀我は今の東河であるから、粟鹿(郷)も最初は刀我郷に含まれていたのかも知れない。

3.日本武尊の東夷と大売布命

第12代景行天皇32年(313年)夏6月、伊香色男命の子、物部大売布命は、日本武尊の東夷に従い征伐を賞し、摂津の川奈辺・多遅麻の気多・黄沼前の三県を賜う。大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮(今の豊岡市日高町国分寺石立)に在り。多遅麻物部氏の祖なり。

神功皇后二年、気多の大県主物部連大売布命の子、物部多遅麻連公武を、多遅麻国造と為し、府を気多県高田邑に置く。(これ以降、律令制により国司が任命され、但馬国府は気多郡に固定する)

第42代文武天皇庚子4年(701年)春3月、二方国を廃し、但馬国に合わし、八郡となす。朝来・養父・出石・気多・城崎・美含・七美・二方これなり。府を国府邑に置き、これを管る。従五位下、櫟井臣春日麿を但馬守となす。

新羅の基礎は倭種が造った

『日韓がタブーにする半島の歴史』室屋克実氏に、

「第一章 新羅の基礎は倭種が造った」

朝鮮半島には新羅(滅亡は935年)、高句麗(同668年)、百済(同660年)の3つの国があった時期を「三国時代」と呼ぶ。やがて新羅が半島を統一して「統一新羅時代」に入る。しかし、新羅の腐敗による統治能力の低下に伴い、半島内では2つの勢力(後百済、後高句麗)が台頭して抗争が激化する。「後三国時代」と呼ぶ。

その中から“山賊が建てた国だった後高句麗”を受け継いだ高麗(918~1392年)が、新羅国を挙げての帰伏により半島を再統一する。そこまでが『三国史記』の記述対象だ。(中略)高麗で最高の功臣かつ実力者であり、儒家としても名高かった金富軾キムプシクが現役を退いた後に、17代王である仁宗インジョン(在位1123~46年)の命令を受けて1143年頃に編纂を開始し、1145年に完成した。

(中略)

『三国史記』とは書き下ろしの史書ではない。当時あった多数の古史書を点検し、かつ中国史書を参考にして、“半島史に関する高麗王国の統一見解”としてまとめられた正史だ。そうした経緯からして、日本でいえば『日本書紀』に相当する。

「日本海側の地から来た賢者」

『三国史記』の第一巻(新羅本紀)に、列島から流れてきた賢者が、二代王の長女を娶り、義理の兄弟に当たる三代目の王の死後、四代目の王に即く話が載っている。その賢者の姓は「昔(ソク)」、名は「脱解だっかい・タレ」だ。

三国史記の記す脱解と瓠公のルート 『韓国人は何処から来たか』長浜浩明

「新羅本紀」は脱解だっかい・タレ王初年(57年)の条で述べている。

脱解本多婆那国所生也。其国在倭国東北一千里

(脱解はそもそも多婆那タバナ国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある。)

その生誕説話も載せている。そこには、新羅の初代王である朴赫居世パクヒョッコセの生誕説話の倍以上の文字数が費やされている。

(中略)

「新羅本紀」を要約すると、

女国(『三国遺事』では積女国)から嫁いできた多婆那国の王妃は、妊娠して七年経って大きな卵を生んだ。王は「人が卵を生むというのは不祥である」として捨てるように命じた。そのため、王妃は宝物とともに櫃に入れて海に流した。

櫃は最初、金官国(金海市)では、誰も怪しんで取り上げようとせず、次に辰韓(慶尚道)の海岸に流れ着いた。
海辺に住んでいた老婆が櫃を開けてみると少年がいた。一人の少年が出てきた。
その時、櫃に従うようにカササギが飛んでいた(鵲は、半島では吉鳥とされる)。そこで「鵲」の字の一部を採って、「昔」姓とした。櫃を開けて取り出したので名を「脱解」とした。

「『三国史記』で用いられている「里」は、隋里( 一里=約四百五十)か、 朝鮮里( 一里=約四百)か、あるいは両者を混同して使っているとも考えられる。概ね、一里 = 四百強と見てよい。

としている。それに従うと一千里=400kmとする。

当時の倭国の首都が博多湾周辺にあったのか、近畿地方にあったのか-日本史研究者に見解は2つに割れているが、博多湾から東北400~450キロ、近畿王朝論者は、大阪湾あたりから東北に400~450キロの地点を見ればいい。
鳥取県東部から但馬地方あたりか、あるいは新潟県あたりになる。

(中略)
脱解は一応、紀元1世紀の人物として記されている。これに対して『三国志』は3世紀後半に成立した。その間に、女国も多婆那国も滅亡して倭国の一部に吸収されていたと想像する人もいよう。
しかし、私は2つの国は、滅亡していたかどうかは解らないが、そもそも倭国の支配権の外にあったのだと考える。(実際に1世紀ごろはまだヤマト政権化に入っていない)

『新羅本紀』の記述からは、多婆那国 が「 ここにあった」とは特定できない。しかし、日本列島の日本海側、 因幡地方から新潟県あたりまでの海沿いの地にあったことは 確実に読み取れるのだ。

(中略)

『三国遺事』では、漂着した場所は慶尚道の同じ海岸(阿珍浦)だが、櫃そのものではなく「船に載せられた櫃」になっている。しかも、それを見つけたのは、ただの老女ではなく、新羅王のために魚介類を獲る役にあった海女だった。
この海女も倭種(『三国志』は、倭国の支配圏外の倭人を「倭種」と表現している)だったに違いない。この時代は「海女」という職種そのものが、倭人・倭種ならではの独特の技であり、倭人・倭種であることを示したのではないのか。

『新羅本紀』は、脱解は漂着後しばらくの間、魚を釣って、自分を見つけてくれた老婆を養ったとしている。半島は三方を海に囲まれているのに、新羅の「朴」「昔」「金」の三王室、高句麗王室、百済王室の始祖建国神話の中で、海が舞台になっているのは「昔」王室=脱解だけだ。

二代王の前半から倭種が実権

『新羅本紀』によれば、辰韓(新羅の古名)の二代王である南解は、長女を賢者である脱解に嫁がせ、その二年後には脱解を大輔(に任じる。南解王七年(西暦10年)のことだ。大輔とは当時の最高官職で、脱解の場合は総理大臣兼軍司令官に該当した。

二代目の南解王が没すると、二代目の長男であった儒理は、脱解に王位を譲ろうとする。脱解は儒理の妹を娶っていたから、二人は義理の兄弟だ。しかし、いくら義理の兄弟にあたるとはいえ、列島から流れてきた異民族の男に譲位を申し出るとは尋常ではない。脱解は固辞し、儒理を説得する。それにより儒理が三代目の王に即く。

しかし譲位の申し出をした「徳のある人物」に、逆に説得されて王位に即いた三代目とは“飾り物”以上の存在ではあり得ただろうか。

二代目の南解王、三代目の儒理王の治績として記されていることー当時の小さな村連合のような国での基礎づくりの大部分は、「南解王」「儒理王」の名の下で、実は倭種の「脱解政権」により実行されたのだ。

新羅最初の外交団の首席代表は倭人だった

三代目の王には息子が二人いた。しかし、脱解を四代王に即けるよう遺言して没する(57年)。脱解は王位に即くと翌年には瓠公ホゴンを大輔に任命する。

この瓠公は倭人だ。瓠公は辰韓の全権大使を務め、それなりの権力を有していたはずです。「瓠公はその出身の氏族名を明らかにしていない。彼はもともと倭人で、むかしひさごを腰に下げて海を渡って新羅に来た。そこで瓠公と称したのである」(『三国史記』)

脱解による瓠公の大輔起用の結果、出来上がった体制は、王は倭種、ナンバー2は倭人となった。新羅に《倭・倭体制》が出来上がったのだ。

瓠公が海を渡ってきたのは、辰韓(新羅)の初代王である朴赫居世の治世のことで、彼は王室で重用されていた。

何故なら、瓠公は前20年、辰韓(新羅)の使者として馬韓に赴き、馬韓王と交渉する。馬韓は地域名・民族名であり、「馬韓国」は存在しなかった。ここに出てくる馬韓王とは、中国や楽浪郡から逃亡して半島東部に住み着いた住民から年貢を取り立てていた月支国王を指すと思われる。

『新羅本紀』には、「馬韓王は、新羅の朝貢が途絶えていることを起こって質した」とある。東アジアの古代国家(集落かいくつかの村落連合程度のクニ)にとって、朝貢は絶対的な重大事だった。朝貢するかしないかで戦争になる。これが『新羅本紀』が記す最初の外交であり、新興国家の命運を左右する重大な外交交渉だったことは明らかだ。その首席代表が、何と正真正銘の倭人だったのだ。

新羅は「辰韓と弁韓を合わせて24カ国」の一つとして、「斯廬サロ」の名前が出てくる(中国史書の中で、国号「新羅」の初出は『太平御覧』に引用された『秦書』377年の記事とされる)。馬韓50数カ国を列挙する中に、百済も「伯済ペクチェ」として出てくる。卑弥呼が君臨したのと、ほぼ同じ時代であるが、どちらの国も『倭人伝』のような詳細な説明はない。

地域としての馬韓と辰韓・弁韓の構成国を列挙する中に名前だけ載っている。三韓には、それぞれの地域を統括するような大国がなかったからだ。

多婆那国と倭国

ここで多くの研究者が、多婆那国とは但馬ではないかとされる点について、その但馬の住人である拙者の推察を述べたい。と大層にいうほど立派な歴史研究家ではない一素人なのだが…。

「新羅本紀」脱解だっかい・タレ王初年(57年)の条「脱解はそもそも多婆那タバナ国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある。」

西暦57年というと、日本は弥生時代後期にあたる。弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では従来縄文時代晩期後半とされてきた段階にすでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出され、近年では縄文時代晩期後半を弥生時代早期と呼ぶようになりつつあり、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。早期は紀元前5世紀半ば頃から、前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。したがって、西暦57年はその後期の最初の頃であるが、

倭国の東北一千里の多婆那タバナ国は、当時はまだヤマト政権に発展する倭国に統一されない別の国家があったことを意味している」という。

室谷氏はまた、「中国史書に出てくる「倭奴」国は倭人の自称に対する表音(当て字)だろう」という。倭人が「ワナクニ」あるいは「ワノクニ」と発音しているのを奴と字を当てたのである。同様に、多婆那国の多婆那に似た国名・地名が思い浮かばないので、多婆「那」国も那は表音(当て字)で倭人の発音に忠実に那という表音を加えたものとすれば、多婆那ではなく、多婆(那=ノ)国とも読める。または、多婆を但馬・丹後を含めた古タニハ(丹波)であると考えてそのうちの那国というクニ(集落国家)があり、それが但馬のことかとも考えられる。

ただし、上図のように日本海を丸木舟で直接、金官伽耶(釜山)付近まで漕ぐなんてまして日本海を東北へ流れる対馬海流に逆らうことになるので不可能だし、あり得ない。おそらく日本海の海岸つたいに何日もかけてたどり着いたのだろう。

『日韓がタブーにする半島の歴史』

新羅の四代目の王は、列島から流れていった人間だー実は、これは日本で近代的な朝鮮史研究が始まるや、すぐに唱えられた説だ。(中略)しかし、どの研究者も、多婆那国を熊本県玉名市、但馬国、あるいは丹波国に比定した程度で深入りしなかった。脱解以降の倭種王については、考察された形跡が殆ど無い(ただし、岩本義文は、「多婆那国とは但馬国の訛音」であり、「脱解は天日槍の子供」として、独自の推理を展開した)。

倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

これをみると、天日槍が出石にやって来たのはそのような背景だったかもしれないので、長浜浩明氏が算定した実際の在位年代の西暦60~110年よりももっと後かも知れないが、安羅・加羅というクニはすでにあったのかもしれない。欠史八代の次、10代崇神天皇は3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王とされ、6代孝安天皇は4代前なので、少なく見ても2世紀頃かその前後であろう。

新羅の王、天日槍とした「記紀」が編纂されたのは、古事記が712年、日本書紀が720年であるということである。したがって、当時の国号として新羅としたのもわかるが、その伝承の時代は朝鮮半島南部にあった三韓の一つ「辰韓」であった。縄文時代から半島南部から対馬・壱岐・北部九州を含む国々で、倭人が定住し始め、三韓ともに倭国の属国であった。その子孫が王になっているので、日本海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった南の弁韓を後に新羅が滅ぼす。加羅もすでに新羅であり、辰韓の王は倭人で、すでに加羅(伽倻)は消滅しており、天日槍=新羅の王としても時代的には合っていることになる。

まして韓国最古の国史である『三国史記』は、1145年である。その頃の日本は平安末期、千年以上も後世の書でそれまでの歴史書は現存していないのであるから信ぴょう性に欠ける。(日本書紀は百済の百済記・百済新撰・百済本紀を援用している)


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第1章 3.ヒボコ出現により塗り替えられた出石のビフォーアフター

ヒボコ出現により塗り替えられた出石のビフォーアフター

『国司文書 但馬故事記』第五巻 出石郡故事記によると、

アメノヒボコが出石にやってきて、初代多遅麻国造となる前とその後では、出石及び但馬に大きな変化が起きたことが分かる。

第五巻 出石郡故事記は、以下からはじまる。

オオナムチ(国作大己貴命)は、出雲国より伯耆・稲葉(因幡)・二県(二方)国を開き、多遅麻タヂマ(但馬)に入り、伊曾布イソフ(のちの七美郡)・黄沼前キノサキ(のちの城崎郡)・気多ケタ(気多郡、今の豊岡市上佐野、中筋地区・浅倉・赤崎を除く旧日高町・竹野町床瀬・椒)・津(狭津→佐津、のちの美含郡)・藪(養父)・水石(ミズシ、御出石とも記す。のちの出石郡)の県を開く。

(比地、のちの朝来が漏れているが、朝来は当初多遅麻国主の在住地であったので県名を省いたものであろう)

オオナムチと八上姫の間に、ミヅシクシカメタマ(御出石櫛甕玉命)を生まれる。
御出石櫛甕玉命は、アメノホアカリ(天火明命)の娘、アメノカグヤマトメ(天香山刀売命)を妻にし、アメノクニトモヒコ(天国知彦命)を生む。

第1代神武天皇は、御出石櫛甕玉命の子、天国知彦命を(初代)御出石県主とする。
6年(前655年)春3月、天国知彦命は、国作大巳貴命・御出石櫛甕玉命を水石丘に斎き祀り、御出石神社と称しまつる。

式内御出石神社(名神大):豊岡市出石町桐野986
水石神社:豊岡市但東町水石 447
(元々は御出石県の中心は、豊岡市但東町水石であったと思われる。)

(初代)御出石県主となった天国知彦命は、小田井県主・イキシニギホ(生石饒穂命)(または稲年饒穂命、城崎郡故事記には瞻杵磯丹穂命、美含郡〃には胆杵磯丹杵穂命と記す)の娘、ニギシミミ(饒石耳命)を妻にし、アメノタダチ(天多他知命)を生む。
第2代綏靖スイゼイ天皇6年(実年西暦前32-15年)夏4月、天国知彦命の子、天多他知命を御出石県主とする。
天多他知命は、美伊県主の武饒穂命の娘、福井毘売命を妻にし、アメノハガマ(天波賀麻命)を生む。
第4代懿徳イトク天皇7年(実年西暦1-17)3月春2月 天多他知命の子、天波賀麻命を御出石県主とする。
天波賀麻命は、丹波国造の祖、真太玉命の娘、ユキヨヒメ(幸世毘売命、あるいはサチヨヒメ)を妻にし、アメノフトミミ(天太耳命)を生む。
第5代孝昭天皇40年(実年西暦18-59年)秋7月 天波賀麻命の子、天太耳命を御出石県主とする。
天太耳命は、小田井県主の佐努命の娘、サイビメ(佐依毘売命)を妻にし、マタオ(麻多烏命)を生む。

タニハから分国して多遅麻はヤマト政権下へ

ヒボコが登場するまでの出雲・伯耆・稲葉・二県と多遅麻のすべての県主は同様に出雲のオオナムチ(国作大己貴命)から世襲であった。

ところが、『国司文書 但馬故事記』第五巻 出石郡故事記突如、ヒボコが現れる。「6代孝安天皇53年、新羅王子天日槍帰化す」とはじまり、61年、多遅麻国造として出石県に府が置かれる。ヒボコは御出石県主天太耳命の娘、マタオ(麻多烏命)を妻とする。ヤマト政権であるヒボコと地元の県主の娘との婚姻は、まさに政略結婚である。

6代孝安天皇のころ、ヤマト政権が日本海のタニハ・タヂマをヤマト政権下に組み入れたと考察できる。

これは、播磨風土記にあるアメノヒボコと葦原志許乎命(伊和大神)との国争いが連想される。葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)→御形」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。

この説話の背景は、それまでの出雲系が支配していた中国地方から播磨・但馬・タニハのうち、日本海側をヤマト政権が戦わず倭(ヤマト)という大きな国に組み入れたことを語っているようにみえる。奇しくも、出石のヒボコから続いた多遅麻国造は、一度夜夫郡(養父郡)へ遷り、のちに気多郡へ遷ったあと但馬国府まで続く。

第6代孝安天皇53年*1 新羅の王子、天日槍命が帰化する。
天日槍命はウガヤフクアエズ(鵜草葺不合命)の御子、イナイ(稲飯命)の5世孫である。
アメノヒボコ(『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」)は、八種ヤクサ神宝カンダカラを携え、御船に乗り、秋津州アキツシマ(本州の古名)に来る。筑紫ツクシ(九州北部)より穴門アナト(下関の古名)の瀬戸を過ぎ、針間ハリマ国(播磨)に至り、宍粟シソウ邑(今の宍粟市一宮町)に泊まる。人々は、この事を孝安天皇にお知らせする。
天皇は、すぐに三輪君の祖・オオトモヌシ(大友主命)と、倭直やまとのあたえの祖・ナガオチ(長尾市命)を針間国に遣わし、来日した理由を問うようにいわれた。
ヒボコは、謹んで二人に向かって話した。
「わたしは、新羅王の子で、我が祖は、秋津州の王子・イナイ(稲飯命)。そしてわたしに至り、五世におよぶ。
ただいま、秋津州に帰りたくなり、わが国(新羅)を弟の知古に譲り、この国に来ました。願わくば、一ウネの田を賜り、御国の民となりたい」と。
二人は帰りてこの由を天皇に奏す。

天皇はミコトノリ(天皇のおおせ、命令)して、針間国宍粟しさわ・しそう邑と淡路国出浅いでさ邑とをヒボコに与える。
しかし天日槍は、再び奏してう。
「もし、天皇の恩をいただけるのであれば、自ら諸国を視察し、意にかなうところを選ばせてください」と。
天皇はそれを許された。

ヒボコは、菟道川(宇治川)をさかのぼり、北に入り、しばらく近江国の吾名あな邑に留まる。さらに道を変えて、若狭を経て、西の多遅摩国(但馬)に入り、出島いずしま(*2)に止まり、住処スミカを定める。

ところで、近江国の鏡谷陶人かがみだにのすえとは、天日槍の従者で、よく新羅風の陶器を作る。
さて天皇は、ついに天日槍命に多遅摩を賜る。(但馬を与える)
61年(前332年)春2月、ヒボコを多遅摩国造とする。

ヒボコは、御出石県主ミズシアガタヌシ・アメノフトミミ(天太耳命)の娘・マタオ(麻多鳥命)を妻にし、アメノモロスク(天諸杉命)を生む。

実は「天日槍」(または日矛神)を祭神としている神社は出石神社だけではなく、同じ旧出石郡の桐野にある御出石神社も現在は「日矛神」のみを御祭神とする。また出石郡では2社のみが名神大社(名神大)である。しかし御出石神社は出石神社よりも古く、元々の祭神は日矛神ではない。

『国司文書 但馬神社系譜伝』第五巻 出石郡神社系譜伝によると、

埴野郷 御出石ミズシ神社 出石郡御出石村鎮座
祭神 大己貴命・御出石櫛甕玉命
創建は人皇一代神武天皇6年春3月、御出石丘に鎮座す。この故に御出石県となす。

水石神社
但馬国一宮 出石神社

出石郷 伊豆志坐神社(出石神社) 出石郡出石丘鎮座
祭神 天日槍命・天太耳命・麻多烏命・稲飯命・御出石櫛甕玉命・天国知彦命・天多他知命
人皇七代孝霊天皇40年秋9月、(2代多遅麻国造)天諸杉命は天日槍を出石丘に斎き祀り、且つ八種神宝を納む。

(国史文書編纂者のひとりである)文部経道は、
謹んで案ずるに、古事記は八種神宝をもって『出石八前大神宝』となす。これ児戯じぎに似る見解なり。故に採らず。然りといえども、この日鏡は、天日槍の御霊代となすべく、熊神籬は、稲飯命の御霊代となすべし。その他は、稲飯命の瑞宝なるか。あるいは、また播磨風土記に帰化時代のものと説くをもって疑いあり。故に採らず。この一文は、新良貴氏(朝来主帳)の家伝により記すものなり。

今の出石神社御祭神は

  • 伊豆志八前大神(いづしやまえのおおかみ、出石八前大神)
  • 天日槍命(あめのひぼこのみこと)

となっている。

『国司文書 但馬故事記』第五巻 出石郡故事記は、「天諸杉命は天日槍を出石丘に斎き祀り、且つ八種神宝を納む」天日槍命と同等に神宝が祀られているが、『国司文書 但馬神社系譜伝』第五巻 出石郡神社系譜伝に記されている祭神は、天日槍命・天太耳命・麻多烏命・稲飯命・御出石櫛甕玉命・天国知彦命・天多他知命で、2代多遅麻国造となった天日槍命の子、天諸杉命が、「人皇7代孝霊天皇40年、伊豆志八座神を出石丘に斎き祀り、八種神宝を納む」となっている。

伊豆志八座神が祭神であり、八種神宝は納められた神宝である。伊豆志八座神は八種神宝のことではない。数が合わないが、天日槍命・天太耳命・麻多烏命・稲飯命・御出石櫛甕玉命・天国知彦命・天多他知命をさすのだろうか?

『国司文書 但馬故事記』第五巻 出石郡故事記は、御出石櫛甕玉命は但馬の各県を開いた国作大己貴命の子で、出石の祖である。その子孫が御出石県主として天国知彦命(初代)・天多他知命(2代)・天波賀麻命(3代)・天太耳命(4代)と天太耳命の娘でヒボコの妻となる麻多烏命、ヒボコは稲飯命の5世孫とある。

また、御出石神社の今の御祭神は日矛神であるが、実は、御出石神社の元々の御祭神はヒボコではなかったようだ。現在地は豊岡市出石町桐野986であるが、当初は御出石村で、今の豊岡市但東町水石であると思われる。古社地かどうかは分からないが、水石区内には水石神社がある。(そのことを示すように社号標は式内御出石神社)これは度々の洪水によって流失した社を、氏子中である周辺の村々によって現在地に再建したものである。


  • *1 孝安天皇6年 孝安天皇の在位は、実年で西暦60-110年と推察すれば、孝安天皇6年は1年を春と秋に分ける春秋年で今の1年が2年となるから、西暦63年ではないか?!
  • *2 出島 出石の誤記ではないかとも思われるが、今の伊豆・嶋を合わせたものではないだろうか?

はじめに 天日槍(あめのひぼこ)の謎

但馬国一宮出石神社本殿鰹木

 はじめに

但馬の国はどのように誕生し、我々祖先はどのように暮らしてきたのか?

キーマンとしてまずあげられるのがアメノヒボコだろう。

但馬に暮らす人々にとって、アメノヒボコを知らない人はまずいないであろう。

アメノヒボコは、『古事記』では「天之日矛」、『日本書紀』では「天日槍」と記される。
『記紀』には新羅しらぎの王子で、日本にやって来て、但馬・出石に留まり、日本に帰化して初代多遅麻国造たぢまのくにのみやつことなるとされている。

歴史にあまり関心がない人なら、この伝承をそのまま受け止めて、アメノヒボコは新羅の王子で、帰化して、初代多遅麻国造たぢまのくにのみやつことなることに、何の疑問も持たないかも知れない。

しかし年齢を重ね神社や郷土史に興味を持ち調べていくと、とんでもない矛盾と降って湧いたような登場の仕方が極めて不自然で作為的な記述であることに疑問を感じていた。アメノヒオコは、考察すればするほど謎めいた疑問が多いと気づくのである。

まだ始まったばかりの本格的な研究

『アメノヒボコ-古代但馬の交流人』(瀬戸谷晧・石原由美子・宮本範熙共著 神戸新聞総合出版センター 1997.7.10 第一刷)には、「江戸時代にも中央の学者はいうにおよばず、いままでみてきたように但馬の知識層にあってもヒボコに言及し、神社の祭神として創作してきた人たちがいた。しかし、何といっても本格的な研究は、昭和も後半期になってからはじまったといっても過言ではないだろう」と記述されている。
(中略)
この書のなかで、

ここで本格的な研究というのは、石田松蔵氏の名著『但馬史』1(1972)のなかの「天日槍」においてである。氏は、40ページをあててヒボコ問題を整理し、説明した。それは、但馬に残る伝承や説話の類を拾えるだけ拾いあげて分析・検討し、解釈し、また最新の研究成果を分かりやすく説明したものであった。単に当時の研究成果を手がたくまとめたのみではなく、いくつかの斬新な見解も提起している。

彼はまず、ヒボコと一族の活躍は古代の各史書には華々しくみえるが、その後には続かず、所縁の出石やその周辺はもちろん、但馬や日本の歴史のなかに再び現れないという事実に注目する。そして、ヒボコ関連の伝承や神社の分布が、出石川上流域から円山川流域に集中し、但馬の他の地域に広がらないという重要な指摘を続ける。

(中略)

第二の重要な指摘は、三宅吉士石床という人物とヒボコ伝承の関係である。彼は、壬申の乱に大勝し支配を確立した天武天皇に味方して活躍し、その功によって吉士から“連”に位を進めた人物である。吉士がもともと渡来系の人たちに付される姓であることからも知られるように渡来氏族である。したがって、三宅氏が古代天皇制国家で活躍していくためには、天皇の徳を慕い忠誠を尽くす渡来者集団のトップでなくてはならない必然があった。三宅氏はタヂマモリ(田道間守)をその祖と伝え、ヒボコにつなげる伝承を作為提出し、『日本書紀』編纂のなかに乱の論功行賞として収録されたのではないかとする考えである。」

しかし、ヒボコが大きくクローズアップされるきっかけとなったのは、平成6年(1994)におこなわれた「但馬・理想の都の祭典」のなかでヒボコに関わる「但馬古代文化のルーツを探る-古代但馬と日本海-」や「大但馬展」開催中に実施した黒岩重吾氏による講演会「作家のみた天日槍とタジマモリ」、いずし但馬・理想の都の祭典実行委員会が開催した環日本海歴史シンポジウム「渡来の神 天日槍」などは、きっちりと記録を残す事業となった。史発行日は1997年、いまからまだ20数年前である。ヒボコを但馬の人間が本格的に研究しようという機運が生まれた。」

また、同書は『Ⅱ 古代但馬人の交流人』第一章 文字の資料から探る 一、文字資料の限界
で「基本的立場」として、

「まず、その検討素材そのものが信頼するにたるかどうかという問題がある。新しい時代に捏造されたことが多くの研究者に指摘された『但馬故事記』という本があるが、たとえばこれに載せられた人名の扱いについてである。書かれた時代の知識人の研究は欠かせないが、古代の渡来人を探るためにはむしろ害になる資料だ。文献そのものの資料批判が大切である。」

また『校補但馬考』について、『アメノヒボコ-古代但馬の交流人』はこう記している。

『校補但馬考』

出石藩主仙石実相の名を受けて、桜井舟山がまとめた著書が『但馬考』。時に宝歴元年(1751)のことだ。但馬の歴史は言うに及ばず、制度・年代・地理・人物の四分野にわたって、文献資料を丹念に考証して述べたものであった。
その後、出石藩には弘道館という藩学が設けられ、桜井一族がこの分野で活躍を続ける。子の石門が但馬関係史料を「但州叢書」としてまとめ、さらにその子の勉が祖父の業績に大幅な増補を加えて刊行(大正十年.1921)したものが大著『校補但馬考』であった。現在においても、その引用文献の豊富さや徹底した質・資料批判という点において、但馬史研究の出発点の地位を失っていない。

優れた批判精神

桜井の優れた研究姿勢は、『校補但馬考』に明確に認められる。本論の前に629点もの引用書目を一覧して示し、わざわざ次のような断り書きを入れている。「以上の外、但馬地誌に、但馬記、但馬発言記、但州一覧集の類ありといえども、その書には誤りが極めて多し。国司文書なるものあり、分けて故事記八巻、古事大観録三巻、神社系譜伝八巻となす。しかしてその書まことに杜撰妄作に属す、ゆえにこれを引用せず」と明記してその立場を明らかにした。いかがわしい文献は信じられないし、論評することすらしないというわけである。このことは、梅谷光信氏は、出石藩以外の藩学や私学では「但馬史の系統的な研究がなされなかったから」できたことであろうが、その背景に但馬の雄を競う出石藩と豊岡藩の学問的闘争の継続といった側面があったかもしれない。

出石藩学の流れをくみ、集大成したものに桜井勉の『校補但馬考』があり、他方、『国司文書(但馬故事記など)』を信じる派の流れを受け継ぐのが、昭和13年(1937)に刊行された『兵庫県神社誌』の仕事である、としても過言ではあるまい。

つまり、桜井勉氏らが『国司文書(但馬故事記など)は捏造であると述べているから捏造なのだと述べているだけであって、新しい時代に捏造されたとする具体的な根拠といえる立証は行わず、考古学会や偉い歴史学者が述べていることは間違いないとする閉鎖的な慣習であって、それこそ弊害ではなかろうか?!

こうした始まったばかりのヒボコの研究も、ヒボコは新羅国王子である、渡来人でなければならないとする固定観念が出発点にあり、本当なのか記紀の批判検証はあまり行わず、そこからスタートしている。その頃は半島最南端は倭国の一部で倭人が多く住んでいたのであり、新羅も百済も国自体もないのに渡来人であるはないだろうに…。

しかし、2017年、20年が経過して、新しい発見や、近年そうした歴史学者とは異なり、その『国司文書 但馬故事記』を何度も精読しているが、その詳細な記述がとても創作であるとは思えないばかりか、前半は神話によるものであるが理路整然と記されている。固定観念にとらわれない歴史書、韓国朝鮮の歴史の真実を紹介する異分野の方の著作が多く出版されるようになった。

 

『アメノヒボコ、謎の真相』(関裕二)は次のように書いている。

『日本書紀』を読み進め、最新の考古学情報を照らし合わせると、あるひとつの事実が浮かび上がってくる。それは、アメノヒボコに関わりの地域のことごとくが無視され、「なかった」ことにされてしまっていることだ。ヤマト建国で最も活躍した地域(但馬を含むタニワ・大丹波国や若狭・近江などヒボコの関わる地域)が、『日本書紀』の記事からすっぽり抜け落ちているのである。アメノヒボコは歴史解明の最重要人物だからこそ、実像を消し去られた可能性はないだろうか。

(中略)『日本書紀』が歴史を書き換えていた可能性は高い。『紀』はヤマト建国の歴史を熟知していて、だからこそ真相を抹殺し、歴史を改竄してしまったのだ。(中略)『紀』よりもあとに書かれた文書の中に、『紀』と異なる記述がある場合、『紀』の記事を信じるのが「当然だ」と、史学者は考える。「事件現場に最も近くにいたお役人の証言は信頼できる」という論理だ。

 

あめのひぼこの疑問点

  1. その1 記の日矛と紀の日槍の違いは?
  2. その2 日槍、日矛というので鉄・武器に関わる神なのか?
  3. その3 神号の天日槍命の「天」は天津神(皇統)ではないのか?渡来人に天を与えるなどあり得ない!?
  4. その4 『記紀』では、天日槍命は新羅国の王子だとしているが本当に新羅(朝鮮)の人なのか?
  5. その5 なぜ新羅からやって来て、帰化すると初代国造になれたのか?
  6. その6 ヒボコの伝承はなぜ出石周辺に限られるのか?
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第1章 1.アメノヒボコの日槍と日矛

アメノヒボコの日槍と日矛の字の違いは?

アメノヒボコは、日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」。漢字が違う点は、上「記紀」の頃にも矛・槍の区別は必ずしも当時明確ではなかったようで、ヒボコが日槍・日矛であっても、すべて「ほこ」と読まれているように、まだ「字」が存在しなかった頃の「アメノヒボコ」という名は先にあって、その口伝を後に伝来してきた漢字で表記するようになった時代である。記紀は初めての国史として、伝来してまだ間もない漢字に当てはめて書いたのだから、記紀においてでさえ、人名や神名に用いられている漢字は様々で、漢字自体にこだわりすぎる意味は薄いように思える。ヒボコの漢字に「記紀」でその区別はなく、違いに深い意味はなさそうだ。

『古事記』では「天之日矛」、『日本書紀』では「天日槍」、他文献では「日桙」と記されている場合もあるが、どれも読み方は「アメノヒボコ」である。共に7世紀に天武天皇の命令によって編纂された書物である。記紀の違いについては、その後、天武天皇が突然亡くなってしまったため、古事記の編纂は中断。およそ30年経った711年に再開され、和銅5年(712年)に稗田阿礼が語り、太安万侶が筆記、編纂して完成した。全3巻からなっている。元明天皇に献上された天皇家の歴史を中心として物語風に国内向けに書かれており、日本人に読みやすいように漢文体を組み替えた「日本漢文体」というのが使われている。

『日本書紀』は国外向けに国家としての日本のアピールとしての公式な史書として、皇族、官人らが中心となって編纂。舎人親王により養老4年(720年)に完成した。天地開闢から持統天皇までを年代を追って出来事を記す編年体で漢文で記されている。全30巻+系図1巻。また、古事記の参考文献は「帝紀」と「旧辞」だけですが、日本書紀では豪族の墓記、政府の公的記録、個人の覚書、手記、百済の文献など多くの資料を参考として編纂されたようです。

『古事記』は槍(ヤリ)を日槍(ヒボコ)と読ませているのに意味があるのか。

古代の人名地名や特に神様の名前(神号)などは、漢字で書くと記紀等でも様々な異なる漢字表記がある。カタカナやひらがなが作られるまでは漢字と万葉仮名といって漢字をカナとして併用していたので、天日槍と天日鉾記紀や他文献でヒボコにどの漢字が用いられていたとしてもこだわるべき意味はなく、どれが正解というものでもない。また記紀完成の頃、奈良時代初期の和銅6年(713年)には「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称を佳い漢字2字で表記せよ)という勅令が発せられている(「好字二字令」または「好字令」という)。それまで旧国名、郡名や、郷名表記の多くは、大和言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないことが多かったので、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいう)を用いることになった。適用範囲は郡・郷だけではなく、小地名や山川湖沼にも及んだとされる。

国名の例 倭→大倭(大和)、田庭・旦波→丹波、多遅麻→但馬、稲葉→因幡、針間→播磨、津→摂津、近淡海→近江、遠淡海→遠江

郡名の例 小田井県→黄沼前県→城崎郡、氣立県→気多郡、籔県→養父郡、比地県→朝来郡、水石・御出石県→出石郡、美伊県→美含郡、伊曾布県→七美郡、布多県国→二県国→二方国→(但馬国へ併合)二方郡

本題に入る前に、まず初歩的なほこやりの違いを知っておこう

アメノヒボコ」についても同様で、漢字の解釈に固執するのはあまり重要ではないと思う。また読みづらいので現在では教科書などでは人名はカタカナで表記される事が多い。これも良し悪しでカタカナやひらがな表記は、かえって意味がわかりにくくもあるのだが、ここでも以下は通常「アメノヒボコ」「略してヒボコ」とする。

といいつつ、あえて脱線するかもしれないが、せっかくの機会なので、拙者も勉強のために矛(ホコ)と槍(ヤリ)の違いを知っておきたい。

1.青銅製武器の種類 矛(ほこ)と槍(やり)の違い

日本と中国において矛と槍の区別が見られ、他の地域では槍の一形態として扱われる。考古学的には、矛(ホコ)・槍(ヤリ)・戈(クヮ)に区別される。

弥生時代の遺物としては、矛が多数出土しているが、槍はほとんど出土していない。福岡県前原市三雲から弥生後期とみられる石棺から出土した鉄の槍がみられる程度だ。

左が槍、中央は銅鐸、右が矛(荒神谷博物館 島根県出雲市斐川町 にて拙者撮影)

2.矛と槍の形状の違い

矛と槍は、槍や薙刀なぎなたの前身となった両刃の剣形の穂に、長い柄を付けた武器で、敵を突き刺すのに用いる。矛は先端が丸みを帯び鈍角の物が多いのに対し、槍は刃が直線的で先端が鋭角である。矛は日本では「鉾」や「桙」の字も使用されるが、ここでは矛の字で統一して記述する。

矛は金属の穂の下部に中空の袋部があり、そこに枝の木を差し込むもの。それに対し、槍は金属の羽の部分に木に差し込む部分(なかご)がついており、それを枝の木に差し込んで装着するものをさす。

余談だが、かまぼこ(蒲鉾)は板の上に白身魚のすり身にでんぷんなど副原料を加えて練ったものを盛り付けたものだなのに、なんで鉾なんだとと疑問に思う。これは古くは材料を竹の棒に筒状に巻いて作っていたからである。のちに板の上に成形した「板蒲鉾」が登場し、区別のために「竹輪蒲鉾」と呼び分けていたが、竹を抜き去った竹輪が一般的になる。今でも棒付きのままで売られる竹輪こそ蒲鉾の原型である。

3.装着方法

つまり、矛と槍は装着方法に違いがある。枝を金属の方に差し込むのが矛、金属を枝の方に差し込むのが槍である。
また、戈(クヮ)は、鳶口とびぐちの形のように、穂と直角に近い形で枝をつけるものをいう。農機具として平たい刃になったものが現在でも利用される鍬である。戈は槍と同じく、茎を枝の木に差し込んで装着する。

4.剣と刀の違い

つるぎかたなの違いは、剣が両刃、刀が片刃であること。長い刀を大刀、短刀を刀子(長さ30cm以下)として使い分けている。奈良時代の頃までの刀は直刀で、湾曲した日本刀になるのは平安時代以降のことである。

 

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第1章 2.出石神社 八種ものご神宝の謎

出石神社のご祭神の不思議 「なぜ8種ものご神宝が、天日槍より先に祀られているのか?」

神社(神道)はもともと自然信仰からはじまっている。山や岩、水、雷、火など自然の神を擬人化したものから始まり、やがて皇統に由来する天津神、皇統以外の豪族や偉大な人物を国津神として祀った。ところが、ヒボコよりも先に出石神社では神宝をヒボコと同等に祭神に祀っている。このような例はあまりなく、人物神ではなく神宝を神とする。しかも八種もの神宝は多すぎる。出石神社には、なぜ八種ものご神宝が祭神として祀られているのか?

出石神社の「伊豆志八前大神」

出石神社御祭神

  • 伊豆志八前大神(いづしやまえのおおかみ、出石八前大神)
  • 天日槍命(あめのひぼこのみこと)

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳における社号は、名神大 伊豆志坐神社八座とし、座は祭神の数を意味し8座。

但馬国一宮出石神社の主祭神は、「伊豆志八前大神」・「天日槍」となっていて、「天日槍」よりも「伊豆志八前大神」が先にあげられている。

「伊豆志八前大神」とは八種の神宝のことであるが、

『日本書紀』別伝 八種の神宝

  1. 葉細の珠(はほそのたま)
  2. 足高の珠(あしたかのたま)
  3. 鵜鹿鹿の赤石の珠(うかかのあかしのたま)
  4. 出石の刀子(いづしのかたな)
  5. 出石の槍(いづしのほこ)
  6. 日鏡(ひのかがみ)
  7. 熊の神籬(くまのひもろき)
  8. 胆狭浅の大刀(いささのたち)

と八種が記されているのに、本記『日本書紀』垂仁天皇3年3月条は七種の神宝である。

  1. 羽太の玉(はふとのたま) 1箇
  2. 足高の玉(あしたかのたま) 1箇
  3. 鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇
  4. 出石の小刀(いづしのかたな) 1口
  5. 出石の桙(いづしのほこ) 1枝
  6. 日鏡(ひのかがみ) 1面
  7. 熊の神籬(くまのひもろき) 1具

『日本書紀』別伝には胆狭浅の太刀はあるが、垂仁天皇3年3月条では7物で、槍や太刀は含まれていないのである。これをどう理解すればいいのであろう。

『古事記』(応神天皇記)でも次の7種で、矛または刀などの武器類はない。

  1. 珠 2貫(たま2個)
  2. 浪振る比礼(なみふるひれ)
  3. 浪切る比礼(なみきるひれ)
  4. 風振る比礼(かぜふるひれ)
  5. 風切る比礼(かぜきるひれ)
  6. 奥津鏡(おきつかがみ)
  7. 辺津鏡(へつかがみ)

つまり八種の神宝としているのは、『日本書紀』別伝のみで、はじめて武器らしい「胆狭浅の大刀(いささのたち)」が加わることで「八種の神宝」。となる。

天日槍の槍・矛=“武器”を表しているとするなら、『日本書紀』垂仁条や『古事記』(応神天皇記)には槍や矛・刀類は持参していないことになるのをどう説明できるのであろうか。

日槍は八種の神宝に由来しているとするならば、『日本書紀』はなぜ七種しか記述がないのか?

『日本書紀』別伝にようやく、胆狭浅イササ太刀タチを加えた八種を記述している。垂仁天皇3年3月条では7物で、太刀は含まれていないではないか。と思うだろう。私も最初はそう思った。

出石の小刀(垂仁3月条)、出石の刀子(別伝)とあるが、脇差のような短刀というより、これは武器ではなく削る工具だと考えるという。武具ではないので日槍というから槍や矛から勇ましい武神を連想させられるがそうではない。

『国史文書 但馬故事記(第五巻・出石郡故事記)は天日槍について詳細に記している貴重な史料であるので引用する。これは『日本書紀』垂仁天皇88年条を引用したものであろうか。

 

4.天日槍を鉄の神・武神とイメージを持っていないか?

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、

真弓氏は「三世紀代よりの、天日槍の名で象徴される帰化系技術者(韓鍛冶)の渡来によって技術革新がなされ、されに大量の鉄挺(金偏に廷・鉄の素材)も輸入される…」

だが、彼(アメノヒボコ)は技術者ではなく、日本に憧れ、玉、小刀、鉾、鏡、神籬を持って来た王子だった。『三国史記』と照らし合わせると、天日槍は但馬出身の新羅王(=倭人)の子孫だからこそ、彼は日本語を話し、神籬を持って故郷へやって来た可能性も否定できない。

としている。

字の意味にこだわって本質を見誤ってはしないか?「天日槍」または「天之日矛」から戦いのイメージを抱くことだろう。そこから鉄や武神と思い込み、但馬に何故か多い兵主神社が多いことを、鉄や武神のイメージからアメノヒボコと関わりある神社だと錯覚している人達が歴史家の中にもいる。兵主神社はヒボコの出石神社とは創建時期も祭神も全く別であることは、他所に書いているのでご参考に。


 

『国史文書 但馬故事記 註解』の吾郷清彦氏は、出石郡故事記の巻末に「天日槍の出自と倭韓一国説」を取り上げている。

本郡記(出石郡故事記)は、まことに神功皇后すなわち息長帯比売命の母系先祖との関係、および稲飯命の子孫と称せられる新羅王の系譜についても相当詳しい叙述を行っている。

(中略)稲飯命の子孫と伝える記録を事実とすれば、これは血族の里帰りというべきであろう。

なぜ、崇神・垂仁、神功皇后の条になると、但馬がにわかに記紀に登場してくるのだろうか。また、出石はそれまで出雲系の県主が出石を治めていたのに、天日槍が突如登場し、しかも初代多遅麻国造になって丹波から分立して但馬国が出来る。脈略がつながらず人為的である。


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第2章 3.天日槍ゆかりの神社にみる足取り

天日槍(以下、ヒボコ)は但馬出石に安住の地を決めるまで、どういう足取りを辿ったのか。

『日本書紀』、『播磨国風土記』にその足取りが記されている。

『日本書紀』ではまとめると次のルートである。
新羅-伊都国-播磨国宍粟邑-宇治川-近江国吾名邑-若狭国-但馬国

近江国と天日槍

足取りを残すようにゆかりの神社がある。

1.播磨国 宍粟 式内御形神社

中殿 葦原志許男神(アシハラノオ)
左殿 高皇産靈神(タカミムスビ) 素戔嗚神(スサノオ)
右殿 月夜見神(ツクヨミ) 天日槍神(アメノヒボコ)」 兵庫県宍粟市一宮町森添280

1.近江国 蒲生 鏡神社 「天日槍命」 滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289
2.近江国 栗太 安羅神社 「天日槍命」 滋賀県草津市穴村町
3.近江国 伊香 
式内鉛練日古神社 「大山咋大神オオヤマクイノオオカミ 天日桙命アメノヒボコノミコト 滋賀県長浜市余呉町中之郷108

4.越前国 敦賀   式内気比神宮摂社角鹿神社「都怒我阿羅斯等命つぬがあらしとのみこと」(=天日槍命とする説) 敦賀市曙町11-68
5.若狭国 若狭大飯 式内静志神社「天日槍命 今は少彦名命」 福井県大飯郡大飯町父 子46静志1
6.但馬国 但馬出石 但馬国一宮 名神大 出石神社(伊豆志坐神社)「出石八前大神、天日槍命 兵庫県豊岡市出石町宮内字芝池

神社由緒には、 「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とある。この辺りを「吾名邑」とし、「鏡邑の谷の陶人」の地とする条件はかなり揃っている。

息長氏おきながうじは古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。 『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。天皇家との関わりを語る説話が多い。姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公・坂田公・酒人公などがある。

息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

1.竜王町説

苗村神社

滋賀県竜王町には「苗村ナムラ神社」(式内長寸神社)が鎮座する。鏡山の東麓にある。吾名邑(アナムラ)という地名が苗村になったという。(景山春樹氏)鏡山の麓にあり、鏡邑に隣接していることからも、ここが吾名邑という。

鏡山神社
滋賀県竜王町鏡
御祭神 「天日槍」 神社由緒には、 「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とある。この辺りを「吾名邑」とし、「鏡邑の谷の陶人」の地とする条件はかなり揃っている。

2.草津市穴村説

滋賀県草津市には穴村町という地名が残り、「安羅神社」がある。
安羅(ヤスラ)神社
滋賀県草津市穴村町
御祭神 「天日槍」

神社由緒記には、「日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する」とあり、祭神は「天日槍命」とする。「近江国の吾名邑」は、ここ「穴村」に比定する。天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類を留め、後それらの人々が彼を祖神としてその恩徳を慕うて神として社を創建した。この安羅神社である。「安羅」という社名は、韓国慶尚南道の地名に同種の安羅・阿羅があり、天日槍を尊崇するとともに、故郷の地名に執着して社名にしたものと思われる。

(*兵庫県豊岡市出石いずし町袴狭はかざの近くに安羅に似た安良(ヤスラ)、伊豆志に通じる伊豆・嶋という地名がある。古くは合わせて出島いずしまと書く。天日槍垂跡の地『但馬故事記』)

3.米原市(旧近江町)説

米原市の旧近江町は旧坂田郡にあり、この辺りは「坂田郡阿那郷アナゴウ」と呼ばれていた。阿那郷が後に息長オキナガ郷になった。(息長郷は神功皇后の関連地名である。) この阿那郷が「吾名邑」であるという。(金達寿「日本の中の朝鮮文化」からの引用。坂田郡史に書かれてあるらしい)。米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立つ。

伊弉諾神社  米原市菅江(旧山東町)   この神社にはつぎのような口伝がある。
古老の伝に、村の南西大谷山の中腹に、百人窟という洞穴があり、息長族系の人々が住んでいた。阿那郷と呼ばれる渡来人の遺跡と思われる。これらの人々は須恵器を作って、集団生活が始まったという。この地は古代の窯業跡とも云われる。

息長氏おきながうじは古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。 『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。天皇家との関わりを語る説話が多い。かばねは公(または君、きみ)。同族に三国公・坂田公・酒人公などがある。

息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

息長宿禰王おきながのすくねのみこ(生没年不詳)は、2世紀頃の日本の皇族。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王かにめいかずちのみこの王子。母は丹波之遠津臣の女・高材比売たかきひめ。神功皇后の父王として知られる。気長宿禰王とも。 王は河俣稲依毘売かわまたのいなよりびめとの間に大多牟坂王おおたむさかのみこ、天之日矛の後裔・葛城之高額比売かつらぎのたかぬきびめとの間に息長帯比売命おきながたらしひめのみこと虚空津比売命そらつひめのみこと息長日子王おきながひこのみこを儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡される。

王は少毘古名命・応神天皇と並び滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。
天日槍は近江国の吾名邑あなのむら(滋賀県草津市)にいたとされるので、息長宿禰王とひ孫の葛城之高額比売も同族は親戚かもしれない。
西野凡夫氏『新説日本古代史』の中で、通説では息長氏の本貫地が北近江であると考えられているが、それは間違っている。本貫地は大阪である。継体天皇を息長氏と切り離したのは、天皇家を大和豪族とは超越した存在として位置づけるための造作である、としている。

2009/08/28


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第6章 3.ヒボコは日本人だった。天皇の皇胤

終章、まとめとしてこのタイトルの結論に。

縄文時代からヒボこの頃まで、今の韓国に当たる半島の南部湾岸部はワ・やまと国の一部である

『古事記』応神天皇記(712年)では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来したとし、『日本書紀』(720年)では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記されている。

当時の新羅は、金海市周辺の任那伽耶諸国であって、記紀のころ(712・720)の「新羅国」と「倭国」の関係では、新羅国は存在したが、ヒボコの時代には、半島南部には百済・新羅もまだ存在していないし、その前の馬韓・弁韓・辰韓三国より倭国統一がずっと古い。そして新羅としてまとめていった母体の王は倭人によるものであって、その子孫がヒボコなのだ。その証拠に日本列島の前方後円墳よりも後に当たる前方後円墳が、そうした半島の西南端から5世紀後半から6世紀前半14基は確認されているのだ。それは、縄文から当時まで、朝鮮半島はまったく未開地に等しく、対馬に近い半島南部は倭国の一部であった。いない最盛期に都を置いた半島東部の慶尚南道の慶州とは無縁である。その後の南端中央部が弁韓となるのが、任那伽耶諸国である。

天日槍(ヒボコ)は、天皇の皇統である=倭(大和)の天皇の血統

『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記には、「人皇六代孝安天皇53年、新羅王子天日槍命帰化す。」とあるが、さらに「天日槍命は(神武天皇の父にあたる)鵜草葺不合ウガヤフキアエズ命の御子、稲飯命五世の孫なり。鵜草葺不合命は海神豊玉命の娘、玉依姫命を娶り、五瀬命・稲飯命・豊御食沼命・狭野命を生み給う。」

そして稲飯命と豊御食沼命は海路を紀の国へ出ようとしたところ強く激しい風に遭い、漂流して稲飯命は新羅に上がり国王となりとどまられたと記している。このように新羅の皇子が帰化、または渡来したとされるが、当時の百済、新羅は倭国の属国であり、国王稲飯命は神武天皇の父にあたる鵜草葺不合命の二番目の子であり、天日槍命はその五世孫であるから神武天皇とは同じ系統である。

『三国史記(新羅本紀)』(1145年)には、

57年 4代王「脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。」(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)この多婆那国は但馬あるいは丹波ではないかとする説がかなりある。

しかし、私はこの「但馬あるいは丹波」の分類が時代的に間違っているように思う。この時代には但馬も丹波(丹後)もまだなく、丹波の中心は今の丹後で、のちに丹波は丹波と丹後・但馬三国に分国されたのだから、今の但馬だとか丹波・丹後だというのはあまり意味はない。多婆那国は但馬も丹波・丹後も含まれるからである。

多婆那国の那は奴とも書き、隋書東夷伝には「倭奴国」とあり、倭も奴も中国や朝鮮における派生的な蔑称であるので多婆国とした方が正しいと思う。多婆と丹波は発音が似ている。

当時日本の文献では田庭とも記され、但馬は元は多遅麻や谿間と記された。それらの漢字に意味はなく、タニワ、タンバ、タニマ、タヂマ等同じことを指すように思える。

伽倻・新羅建国の王は倭人

(斜線部分は伽耶諸国)

なお、アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。また、秦(中国)の秦氏ではないかという説もある。新羅王族であった昔氏は、日本(倭)の多婆那国から新羅に渡り王となったとする。金という姓が最大だが、金氏も地方に異なるようだ。その中でも金海金氏が韓国では最も高貴で由緒があるとされるらしい。

しかし、金海とは任那伽耶である。その金氏のルーツは日本人であると知れば、益々何もかもデタラメな朝鮮半島の歴史は、崩壊しかねない。

(新羅王族の王子であるヒボコは、但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている)。

日本書紀の意富加羅国とは、朝鮮半島南西部の伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)であり、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。

任那は伽耶諸国の中の大伽耶・安羅・多羅など(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多い。これは大駕洛という国の名前が伝わる際にその音を取って、新羅では伽耶・加耶、百済や中国では伽耶カヤ、あるいは加羅カラと表記されていたためだと言われ、日本(倭)では任那(みまな)とも表記され、南部の金官郡(金官伽耶)だけは任那は日本府の領域として一線を画していたが、562年に新羅の圧力により滅亡した。

 

朝鮮半島から伝わったのではなく、日本人の祖先は二度朝鮮の基盤をつくった

今日の研究では未開地だった半島に弥生土器や稲作も北部九州から半島南部へ伝わったようで、モンゴル系統の高句麗、南は縄文人から倭人によって土器や稲作が伝わり、やがて村に近いクニを形成していった。中央部にはワイ族という先住民がいた。

イギリスのかつて大英帝国として植民地があったように、百済・新羅は外国というより倭国の属国あるいは朝貢国であった。但馬国の国と新羅の小国の加羅・安羅・任那などの国は同じ倭国の中の小国(くに)といった方が正しいだろう。同じ大英帝国であったインド領や今でも英連邦のオーストラリア、ニュージーランド、カナダなどから本国イギリスに戻ったからといって国籍は違っても帰化したとは言わないだろう。

紀元前150年頃は、中国の『漢書』に記された前漢代、日本の弥生時代中期にあたる。『漢書地理志』によ倭、倭人が登場する。1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国家というよりクニすなわち囲まれたムラの規模)の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。

倭人は北部九州をはじめ壱岐、朝鮮半島南部やに当たる。の百済の前進である馬韓、や任那日本府、加羅、安羅などのクニがあった弁韓、東部の新羅の元となる辰韓はその倭国107年の文献に名を残す日本史上最古の人物である帥升は、史料上、倭国王を称した最初の人物でもある。さらに「倭国」という語もこの時初めて現れている。これらのことから、この時期に、対外的に倭・倭人を代表する倭国と呼ばれる政治勢力が形成されたと考えられる。

 天日槍の出自と倭韓一国説

最後に、『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記の巻末に以下の文が注解として著者、吾郷清彦氏も、天日槍の出自で倭韓一国説として付記しています。

天日槍来朝の叙述や、その子孫の記録は、他書を抜いて最も詳しく、まことに貴重な資料である。ことに、神功皇后すなわちお息長帯姫命の母系先祖との関係、および稲飯命の子孫と称せられる新羅王の系譜についても、相当詳しい叙述を行なっている。

依って今、ここに天日槍命の帰化と新羅王が稲飯命の子孫であるか否かについていささか触れてみよう。

天日槍は、勅使(三輪君の祖大友主命、倭直の祖長尾市命)の問いに対し、

「僕は新羅王の子、我が祖は秋津州(日本列島)の王子稲飯命。しかして僕に至り五世におよぶ。只今秋津州に帰らんと欲して、吾国を弟の知古に譲りこの国に来る。願わくば一畝の田を賜りて御国の民と為らん」(本郡記・孝安天皇五十三年の条)

いま『日本古代史』(久米邦武)を見るに、天日槍命の帰化を孝元朝と考定し、この命が但馬および伊[者見]の主となった事由を次のごとく述べる。

「孝元帝の時は倭国大乱の最中なるに、天日槍命の但馬および伊[者見]の主となりたるは、伊[者見]県は儺県に近接し、伊[者見]津は女王卑弥呼の時に漢韓より亭館を設けて、交通の要衝となしたれば、その接近の地を占領せしたるは、伊[者見]県に去りがたき縁由のありての帰化なるべし」

(中略)

この命が但馬に定住するに至った左の一文は、記紀・ホツマおよび本巻によって肯定することができる。
「丹波主家は、息長宿祢に至って、但馬日高の娘・高貫姫を娶り、息長帯姫皇后(神功)の新羅遠征など、但馬氏・息長氏と丹波主家とは浅からぬ縁故のありて、新羅と気脈を相通するに似たり。また日本書紀に天日槍は但馬出島人太耳の娘・麻多鳥を娶り、但馬諸助を生むとある。太耳は以前よりの県主にて、天日槍を迎えたるものにあるべし」

息長帯姫(神功皇后)は天日槍の七世孫・高貫姫を御母とするので、新羅王の血が混じっていることになる。けれども、この新羅王が新羅国の祖、朴赫居世干ザツキョセカンすなわち稲飯命いないのみことの子孫と伝える記録を事実とすれば、神功皇后の血統は本来皇胤こういんであることとなる。

従って、これは血族の里帰りと云うべきだろう。

(*1 長尾氏は代々出石神社の宮司(神官)家)

久米邦武は自著『国史八面歓』で、
「元来新羅は神代より出雲の兼領地で、周漢寄りの半島をカラと称し、筑紫(いまの北部九州)・中国・四国等の連島を倭と称したが、その頃においては、倭・韓は一国であって云々」と論じ、韓史に基づき倭韓一国説を主張する。


[註] 新羅(しらぎ/しんら、紀元356年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となった。天日槍が任那・加羅の王子であったことは充分考えられるが、新羅(半島東部)は新しい国家で、倭や古墳時代には縁がない事。
記紀を編纂した当時にはすでに新羅あったが、天日槍の伝承の頃には半島に国家はないのだ。ずっと以前にあった事を聞きながらまとめあげたのだから、(いまの)新羅の皇子と記したとも考えられる。

以上、『国司文書 但馬故事記』解説 吾郷清彦
、他から拙者が加筆した。

新羅王族は日本語を話していた

『韓国人は何処から来たか』長浜浩明氏

最初に朝鮮半島へ移り住んだのが縄文人ですから、最初に話された言葉は縄文語であることは容易に想像できます。そして三国時代から任那滅亡までは半島南部は倭人の地であり、当然日本語が話されていました。

その北は韓人が住んでいましたが、彼らは倭人との交渉もあり、日本語と相通ずる言語が話されていた状況証拠はいくらでもあります。

記紀には天日槍は新羅の王子とあるが、「今の新羅にあたる半島南端部は、かつては伽倻・任那といって倭国の分国であったが…」この補足が欠けているのである。天日槍がいたクニとは、九州北部と同じく倭人の国・加羅・任那であると考える。

その理由として、

  • 日本には1万ともいわれる旧石器遺跡が発見されているが、朝鮮半島はわずか50ヶ所程度で無人地帯に近かった。
  • 前5,000年から紀元前後まで、5千年の長きに渡り、縄文人(日本人)が半島へ進出していた
  • 新羅王族は日本語を話していた
  • 辰韓人と弁辰人(伽倻)は習俗が、風俗や言語は似通っていたが、辰韓(のちの新羅)は異なっていたこと。
  • 加羅国、安羅国は紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一つ弁韓の少国であること。
  • 倭の前方後円墳は北はソウルから西は栄三江流域から釜山までつくられている。

天日槍がいたクニとは、おそらく馬韓(のちの百済)の東、辰韓(のちの新羅)の南で、日本海に接し、後の任那・駕洛(伽耶)と重なる場所にあった地域である。

九州北部・対馬・壱岐・済州島などの島々・半島南部は縄文人から倭人が開発した地域であった。

『日本人ルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、

当時の九州の人たちは、縄文時代から半島南部に根を張り、日本と半島、場合によっては大陸を含む交易に従事していた。(中略)

今まで「大勢の渡来人が日本へやって来た」とされた時代、逆にかなりの日本人が半島へ進出していた。半島南部から発見された多くの遺跡や縄文土器、弥生土器がこのことを証明している。(中略)平成十年(1998)、青森県の太平山遺跡から1万6千年前の土器が出土した。それまで世界最古の土器は約8千年前というから、エジプトやメソポタミアは勿論、「偉大なる中国民族」より何千年も前から、日本列島の人々は土器を作っていた。世界四大文明より数千年も早い9千6百年前の九州の上野原遺跡からは、弥生土器と見間違う約7千5百年前の土器も発掘されている。つまり縄文時代の人たちは世界最先端であり、世界最古の文明は日本列島だったのだ。縄文晩期の水田稲作や尺で図った精巧な木組みの高床式建築の遺構が多く見つかり、技術力はその頃から巧みであったのだ。

天日槍は神功皇后の血統、本来皇胤こういんである

かつて学校で、「弥生時代に大量に渡来人がやって来て弥生土器と水田稲作を伝えた」と習った人もいるであろう。縄文人はお酒(山葡萄酒)もたしなんでいた痕跡も見つかり、コメ以外に麦・粟・稗・豆の五穀も栽培し栗の木を植え栃の実からもちを作り食べていた。また野山の果実や山菜、海の幸はアサリ、ハマグリ、サザエから魚介類は取り放題。そういう意味では現代人よりグルメだった。

弥生人は渡来人だとの固定観念に縛られた考古学者などの執筆者の固定概念が新しい発見により違っていたことが分かってきたのだ。日本は半島や中国からやって来た人が稲作や文化を教えられたなどでは自虐的な教科書がなら日本史が楽しいはずがない。

また、弥生時代の稲作は朝鮮半島ではなく、中国大陸の江南(長江以南)から日本列島及び半島南部にもたらされたとされたという説も根強い。しかし、大陸からわたって来た人は年に2、3家族程度だったようである。今の日本の方が中国永住者は圧倒的な数だ。

半島南部に稲作が伝播したのはおそらく縄文人・弥生人であり、また日韓併合により全土に稲作を広めたのは植林・農地改革によるものである。

倭(日本)人と朝鮮半島の人とくに女性のDNAに同じD系統を持つ人がいるのは、元々倭人の子孫だからであり、日本人のルーツが半島にあるのではなく、逆で半島が倭人のDNAが混在しているからなのである。


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第3章 1.天日槍と伊和大神の国争い

播磨国一宮 伊和神社

奈良時代に編集された播磨国の地誌『播磨国風土記』(国宝)の成立は715年以前とされている。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。ちなみに『風土記』とは奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書。写本として現存するのは、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。その中で『但馬国風土記』の焼失を惜しんで、のちに但馬国府の役人が編纂した『国司文書 但馬故事記』は貴重な史料である。

『播磨国風土記』には伊和大神いわのおおかみ天日槍あめのひぼことの争いが語られている。結果としては住み分けをしたことになり、ヒボコは但馬の伊都志(出石)の地に落ち着いたことが語られている。

ヒボコと伊和大神の国争い

(中略)ヒボコは宇頭ウズの川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命アシハラシノミコトに土地を求めたが、海上しか許されなかった。

ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘イイボノオカに上がった。

葦原志挙乎命とヒボコが志爾蒿シニダケ(=藤無山)[*1]に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。

その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条ミカタと云う。

ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を占領した。

神前郡多駝里粳岡は伊和大神[*2]とヒボコ命の二柱の神が各々軍を組織して、たがいに戦った。その時大神の軍は集まって稲をついた。その粳が集まって丘とな った。

[現代語訳]

アメノヒボコは、とおいとおい昔、新羅(しらぎ)という国からわたって来ました。
日本に着いたアメノヒボコは、難波なにわ(=現在の大阪)に入ろうとしましたが、そこにいた神々が、どうしても許してくれません。
そこでアメノヒボコは、住むところをさがして播磨国はりまのくににやって来たのです。

播磨国へやって来たアメノヒボコは、住む場所をさがしましたが、そのころ播磨国にいた伊和大神という神様は、とつぜん異国の人がやって来たものですから、
「ここはわたしの国ですから、よそへいってください」
と断りました。

ところがアメノヒボコは、剣で海の水をかき回して大きなうずをつくり、そこへ船をならべて一夜を過ごし、立ち去る気配がありません。その勢いに、伊和大神はおどろきました。

「これはぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。はやく土地をおさえてしまおう。」
大神は、大急ぎで川をさかのぼって行きました。そのとちゅう、ある丘の上で食事をしたのですが、あわてていたので、ごはん粒をたくさんこぼしてしまいました。そこで、その丘を粒丘(いいぼのおか)と呼ぶようになったのが、現在の揖保(いぼ)という地名のはじまりです。

一方のアメノヒボコも、大神と同じように川をさかのぼって行きました。
二人は、現在の宍粟市(しそうし)あたりで山や谷を取り合ったので、このあたりの谷は、ずいぶん曲がってしまったそうです。さらに二人は神前郡多駝里粳岡(福崎町)のあたりでも、軍勢を出して戦ったといいます。
二人の争いは、なかなか勝負がつきませんでした。
「このままではまわりの者が困るだけだ。」
そこで二人は、こんなふうに話し合いました。

「高い山の上から三本ずつ黒葛(くろかずら)を投げて、落ちた場所をそれぞれがおさめる国にしようじゃないか。」
二人はさっそく、但馬国(たじまのくに)と播磨国の境にある藤無山(ふじなしやま)[*1]という山のてっぺんにのぼりました。そこでおたがいに、三本ずつ黒葛を取りました。それを足に乗せて飛ばすのです。
二人は、黒葛を足の上に乗せると、えいっとばかりに足をふりました。

「さて、黒葛はどこまで飛んだか。」と確かめてみると、
「おう、私のは三本とも出石(いずし)に落ちている。」とアメノヒボコがさけびました。
「わしの黒葛は、ひとつは気多郡(けたぐん)、ひとつは夜夫郡(やぶぐん)に落ちているが、あとのひとつは宍粟郡に落ちた。」
伊和大神がさがしていると、「やあ、あんな所に落ちている。」とアメノヒボコが指さしました。  黒葛は反対側、播磨国の宍粟郡(しそうぐん)に落ちていたのです。

アメノヒボコの黒葛がたくさん但馬に落ちていたので、アメノヒボコは但馬国を、伊和大神は播磨国をおさめることにして、二人は別れてゆきました。

ある本では、二人とも本当は藤のつるがほしかったのですが、一本も見つからなかったので、この山が藤無山と呼ばれるようになったと伝えられています。

その後アメノヒボコは但馬国で、伊和大神は播磨国で、それぞれに国造りをしました。アメノヒボコは、亡くなると神様として祭られました。それが現在の出石神社のはじまりだということです。

「兵庫県立歴史博物館ネットミュージアム ひょうご歴史ステーション」より

『播磨国風土記』にあるヒボコの足取りをまとめると、

播磨国揖保川河口-粒丘(揖保郡)-神前(神崎)郡多駝里粳岡(福崎町)-志爾蒿(シニダケ=藤無山)-御方里(宍粟郡三方)御形神社━

┳━(天日槍は但馬国)  出石 但馬国一宮 出石神社
┗━(伊和大神は播磨国) 宍粟 播磨国一宮 伊和神社

『播磨国風土記』

御形神社

式内 御形神社

兵庫県宍粟市一宮町森添280
中殿 葦原志許男神(アシハラノオ)
左殿 高皇産靈神(タカミムスビ) 素戔嗚神(スサノオ)
右殿 月夜見神(ツクヨミ) 天日槍神(アメノヒボコ)

ご祭神葦原志許男神の又の御名を大国主神。社名「御形」は、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植え形見代・御形代より。
この神様は、今の高峰山(タカミネサン)に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生(アヲヒトグサ)をも定められて、今日の基礎を築いて下さいました。  しかし、その途中に天日槍神(アメノヒボコノカミ)が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛(ツヅラ)を三條(ミカタ)づつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條(ヒトカタ)は但馬の気多郡に、一 條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。「御形神社HP」

 

[註] *1 志爾蒿(シニダケ=藤無山・ふじなしやま)
宍粟市と養父市の播・但国境にあるある山。標高は1139.2m。若杉峠の東にある、大屋スキー場から尾根筋に登るルートが比較的平易だが、ルートによっては難路も多い、熟達者向きの山であります。尾根筋付近は植林地となっています。
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